2017年11月13日月曜日

我非必不常求以解中文法解漢文者也。

(01)
① 孔子聖人 =孔子は聖人なり(文語)。
② 孟子亜聖也=孟子は亜聖なり(文語)。
然るに、
(02)
① AB =AはBなり(文語)。
に対して、
②   也 を加へても、
② AB也=AはBなり(文語)
である。
(01)(02)により、
(03)
① AB =AはBなり(文語)。
② AB也=AはBなり(文語)。
に於いて、
②「也」は、「置き字(読まない字)」である。
然るに、
(04)
③ AB =AはBである  (口語)。
④ AB也=AはBであるのだ(口語)。
然るに、
(05)
ヤ也 なり たり や か
[助動詞]1なり《文の末尾について、文意を強調する語気を表す》
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、329頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
③ AB =AはBである  (口語)。
④ AB也=AはBであるのだ(口語)。
に於いて、
④「也」は、「のだ」といふ、「強調の語気」を表してゐる。
然るに、
(07)
⑤ A非B =AはBにあらず(文語)。
⑤ A非B =AはBではない(口語)。
⑥ A非B也=AはBにあらざるなり(文語)。
⑥ A非B也=AはBではない のだ(口語)。
従って、
(02)(07)により、
(08)
⑤ A非B =AはBにあらず(文語)。
⑤ A非B =AはBではない(口語)。
⑥ A非B也=AはBにあらざるなり(文語)。
⑥ A非B也=AはBではない のだ(口語)。
に於いて、
⑥「也(なり)」は、「置き字」ではなく、尚且つ、
⑥「也(なり)」は、「のだ」のやうな、「強調の語気」を表してゐる。
従って、
(08)により、
(09)
⑤ A非B。
⑥ A非B也。
に於いて、
⑤ と、
⑥ の「違ひ」は、
⑤ AはBではない(口語)。  と、
⑥ AはBではないのだ(口語)。くらひの、「違ひ」に相当する。
従って、
(09)により、
(10)
⑤ 我非必不常求以解中文法解漢文者。
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
の「違ひ」は、敢へて言へば、
⑤ AはBではない(口語)。  と、
⑥ AはBではないのだ(口語)。くらひの、「違ひ」に相当する。
然るに、
(11)
⑥ 我非生而知之者=
⑥ 我非〔生而知(之)者〕⇒
⑥ 我〔生而(之)知者〕非=
⑥ 我は〔生れながらにし而(之を)知る者に〕非ず(論語・述而)。
従って、
(11)により、
(12)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非            者
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(13)
⑥ 非必怪奇偉麗者也=
⑥ 非(必怪奇偉麗者)也⇒
⑥ (必怪奇偉麗者)非也=
⑥ (必ずしも怪奇偉麗なる者に)非ざる也(蘇武・超然台記)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非必           者也
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(15)
⑥ 求以解英文法解漢文=
⑥ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]⇒
⑥ [〔(英文)解法〕以(漢文)解]求=
⑥ [〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求む(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(14)(15)により、
(16)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非必  求以解英文法解漢文者也。
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(17)
⑥ 必不仁=
⑥ 必不(仁)⇒
⑥ 必(仁)不=
⑥ 必らずしも(仁なら)不(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(16)(17)により、
(18)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「作例」に於いて、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
従って、
(10)(18)により、
(19)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也=
⑥ 我は必ずしも、常には、中文を解する法を以って、   漢文を解せんことを求め不る者に非ざるなり=
⑥ 私は必ずしも、常には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、しない者ではないのだ=
⑥ 私は、    時には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、 する者なのだ。
といふ「漢文訓読」は、「正しい」。

cf.
然るに、
(20)
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也。
から、
⑥ 我  必  常      中文 法   漢文   者 也
⑥ 我 必 常   中文  法   漢文      者  也
といふ「漢字」を「取り除く」と、
⑥ ( )〕( )]}〉
⑥ 〈{[〔( )( )
である。
従って、
(20)により、
(21)
⑥ ( )〕( )]}〉
⑥ 〈{[〔( )( )
を「合はせる」と、
( )解( )
従って、
(21)により、
(22)
〈 〉
{ }
[ ]
〔 〕
( )
( )
である。
従って、
(19)~(22)により、
(23)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我〈必{常(中文)法〕(漢文)]}者〉也⇒
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)する法を〕て(漢文を)せんことを]め}る者に〉ざる也。
に於いて、
⑥ 〈 〉
⑥ { }
⑥ [ ]
⑥ 〔 〕
⑥ ( )
⑥ ( )
である。
然るに、
(24)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(23)(24)により、
(25)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於ける、
⑥   〈  {  [ 〔 (  ) 〕 (  )]} 〉
といふ「括弧」は、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造」を、表してゐる。
従って、
(23)(25)により、
(26)
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文」を、
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
といふ風に、「訓読」したとしても、
⑥ 私は〈必ずしも{常には[〔(中国語を)理解する方法を〕用ゐて(漢文を)理解]しようと}しない者では〉ないのだ。
といふ風に、「直訳」したとしても、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造」は、「保存」される。
然るに、
(27)

然るに、
(28)
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」は、「中国語」であるため、私には「全く読めない」し、
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
との、ことである。
従って、
(25)~(28)により、
(29)
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
⑥ 私は〈必ずしも{常には[〔(中国語を)理解する方法を〕用いて(漢文を)理解]しようと}しない者では〉ないのだ。
であれば、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文の補足構造」を「保存」してゐる一方で、
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」は、さうではない。はずである(?)。
従って、
(29)により、
(30)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「(自分で書いた)漢文」が「正しいか、否か」を知りたい際に、
⑥ 私は必ずしも、常には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、しない者ではないのだ。
といふ「日本語」に対する「知識」より以上に、
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」に対する「知識」が、「訳に立つ」とは、思はない。
(31)

然るに、
(32)
⑥ 我非生而知之者=
⑥ 我非〔生而知(之)者〕⇒
⑥ 我〔生而(之)知者〕非=
⑥ 我は〔生れながらにし而(之を)知る者に〕非ず(論語・述而)。
に於ける、
⑥ 我非〔生而知(之)者〕。
といふ「漢文の補足構造」と、
⑥ 任何知道這一點的人我都不是天生的(グーグル翻訳)。
といふ「中国語の、構造」が、「同じ」であるとは、思へない。
然るに、
(33)
その一方で、
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
(34)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
(35)
大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。
然るに、
(36)
ともかく筆者が言いたいのは、大学でも漢文の授業の方はしっかりと訓読だけを教えればよいということである。以前このようなことをある講演の際に述べたら、他の大学に勤めている先輩から、自分のところでは音読も取り入れて学生もみな読めるようになっていると力まれて困った。それならばその大学出身の若手が中国学会をリードしているはずである(土田健次郎、大学における訓読教育の必要性)。
との、ことである。
平成29年11月13日、毛利太。

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