(01)
① 3{2(1)}。
に於いて、
① 2( )⇒( )2
② 3{ }⇒{ }3
といふ「移動」を行ふと、
① 3{2(1)}⇒
① {(1)2}3=
① 1 2 3。
といふ「並び換へ(ソート)」が成立する。
(02)
② 2(3{1)}。
に於いて、
② 2( )⇒( )2
② 3{ }⇒{ }3
といふ「移動」を行ふと、
② 2(3{1)}⇒
② ({1)2}3=
② 1 2 3。
といふ「並び換へ(ソート)」が成立する。
然るに、
(03)
① {( )}
② ({ )}
に於いて、
① は、「括弧」であるが、
② は、「括弧」ではない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
「括弧」は、例へば、
② 2<3>1
④ 4 2<3>1
といふ「順番」を、
② 1 2 3
④ 1 2 3 4
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
従って、
(04)により、
(05)
「括弧」は、例へば、
② 二<三>一
④ 下 二<上>一
といふ「順番」を、
② 一 二 三
④ 一 二 上 下
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
然るに、
(06)
「返り点」とは、
「縦書き」であれば、「下から上へ返る、点」であって、
「横書き」であれば、「右から左へ返る、点」である。
然るに、
(07)
② 二 三 一
であれば、
② 二→三
に於いて、
②「右から左へ」ではなく、
②「左から右へ」返ってゐる。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 三 二 一
に対して、
② 二 三 一
といふ「それ」は、「返り点」ではなく、言はば、「返り点モドキ」である。
然るに、
(09)
(3)上中下点(上・下、上・中・下)
レ点・一二点だけで示しきれない場合。必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、43頁)
従って、
(09)により、
(10)
③ 下 二 一 上
に対して、
④ 下 二 上 一
といふ「それ」は、「返り点」ではなく、言はば、「返り点モドキ」である。
従って、
(05)(08)(10)により、
(11)
「括弧」は、
② 2<3>1
④ 4 2<3>1
といふ「順番」である所の、
② 二<三>一
④ 下 二<上>一
といふ「返り点モドキ」を、
② 一 二 三
④ 一 二 上 下
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
従って、
(11)により、
(12)
「括弧」は、例へば、
② 躬二耕三於南陽一=在南陽親自耕田種地(Zài nányáng qīnzì gēng tián zhòng dì)。
④ 只‐管要下纏二擾上我一=ひたすら我がやっかいになる(唐話纂要)。
といふ「返り点モドキ」を、
② 於南陽一躬二耕三。
④ 只‐管我一纏二擾上要下。
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
然るに、
(13)
(14)
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
② 躬二耕三於南陽一=在南陽親自耕田種地(Zài nányáng qīnzì gēng tián zhòng)。
④ 只‐管要下纏二擾上我一=ひたすら我がやっかいになる。
に於いて、
②「返り点」ではなく、「返り点モドキ」が用ゐられ、
④「返り点」ではなく、「返り点モドキ」が用ゐられる。
が故に、
② 躬耕於南陽(漢文)。
④ 只管要纏擾我(白話)。
に於いて、
②「括弧」を用ゐて、「訓読(中国語訳)」することは、出来ないし、、
④「括弧」を用ゐて、「訓読(日本語訳)」することは、出来ない。
然るに、
(16)
② 躬耕於南陽(漢文)。
④ 只管要纏擾我(白話)。
に於いて、
②「括弧」を用ゐて、「中国語訳(訓読)」することは、出来ないし、
④「括弧」を用ゐて、「日本語訳(訓読)」することは、出来ない。
といふことは、
④ 只管要纏擾我(白話)。
といふ「中国語の構造」と、
④ ひたすら我がやっかいになる。
といふ「日本語の構造」が「異なってゐる」やうに、
② 躬耕於南陽(漢文)。
といふ「中国語の構造」と、
④ 在南陽親自耕田種地。
といふ「中国語の構造」も「異なってゐる」といふことに、他ならない。
然るに、
(17)
特に口頭言語において、中国に侵入、定住した遊牧民の大多数は、トルコ系の突厥、ウイグル人、モンゴル系の契丹、モンゴル人、ツングース系の女真、満州人など、みなアルタイ語系の言語を話す人々であった。彼らは中国に来て、なるほど固有の言語を喪失し、みな中国語を話すようになったであろう。しかし元来が中国語とは系統を異にする言語をもっていた彼らが話した中国語は、古代中国のままではなく、ふたつの言語が接触、融和した一種のブロークンチャイニーズだったのである。その結果、もともと口語とは乖離したところで成立した文言文としての漢文と口語の距離は、時代とともにますます広がり、のちに口語にもとづく白話文が生まれると、同じ中国語に二種類の構造の異なる文体が存在することとなった。古代語の語法は、広東語など南方の方言に残っているが、しかし近代になって標準語とされたのは、遊牧民の影響をもっとも顕著な首都、北京の言葉であり、その北京語にもとづく口語文が正式の文体とされた。
(金文京、漢文と東アジア、2010年、168・169頁)
然るに、
(18)
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
長城(GREAT WALL)を越え、中国に侵入し、定住した「遊牧民の言葉(アルタイ語系言語)」の影響を受けた「古代中国語」が、「ブロークンチャイニーズ」に変ってしまった「結果」として、もし強いて「白話文(中国語)」を、「返り点」を用ゐて「訓読」すると「たいへん奇妙な日本語」になるため、「白話文(中国語)」は、「訓読の対象」にならないものの、その一方で、「漢文(文言文)」は、「固より、口語とは別の約束事によって書かれるもの」であったがために、「漢文(文言文)」は、日本に於いて、常に、「訓読の対象」であった。
といふ、ことになる。
従って、
(20)
「変ってしまったのは中国語(口語)」であって、「変らなかったのは漢文(文語)」である。
然るに、
(21)
ゲルマン語派(ゲルマンごは、英: Germanic languages, 独: Germanische Sprachen, 瑞: Germanska språk)はインド・ヨーロッパ語族のうちの一語派。ドイツ語、オランダ語、英語などが含まれる。共通のゲルマン祖語から分化したとされる(ウィキペディア)。
然るに、
(22)
渡部昇一・ピーター・ミルワード『物語英文学史』(大修館書店、1993年、pp.12-3)において、渡部先生も次のように証言なさっておられます。
わたしは最初古英語をやろうと思ったときにとても遠く感じました。いわゆる現代英語をやってから中英語(Middle English)に入り、そのかなたに古英語があるという感じだったんです。ところが、たまたまわたしはドイツへ留学させられて、OE(古英語)の権威の先生につけられた。ところが、そこのセミナーの学生たちにはOEがいちばん易しいんですね。本当にドイツの一方言という実感を持って読んでいる。― 中略 ―、本当に実感としてOEがわかる。例えば、セミナーでディスカッションしていて、ある単語が出てきます。そうするといろんな学生が、うちのほうの田舎ではこれはこういう意味ですと、それと同根(cognate)の関連ある単語を出すんですね(Webサイト:アーリーバードの収穫)。
従って、
(21)(22)により、
(23)
「大きく変ったのは、英語」であって、「比較的、変らなかったのは、独語」である。
従って、
(24)
「古英語」とは、寧ろ「古ドイツ語」であって、「英語」ではない。といふ風に、言ふことが出来る。
従って、
(20)(23)(24)により、
(25)
「古英語」が「英語」ではないやうに、「漢文(古代中国語)」も、「中国語」ではない。といふ風に、言ふことが出来る。
然るに、
(26)
「支那の言語や文字を研究するのに、漢文と支那語の様な区別を設けてゐるのは、世界中、日本だけで、支那はもとより、ヨーロッパやアメリカで支那学を研究するにも、そんな意味のない区別など夢にも考へてゐない。西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。アメリカの大学で支那のことを研究する学生は、最初の年に現代語学現代文学を学び、次の年に歴史の書物を読み経書を習ふさうである。
(勉誠出版、「訓読」論、2008年、57頁)
従って、
(25)(26)により、
(27)
「支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。」といふ風に、倉石先生(1897‐1975)は言ふものの、「古英語」が、「英語」ではなく「古独語」である。といふことからすれば、「漢文」であっても、「中国語」ではない。といふ風に、言へることになる。
加へて、
(28)
漢詩が特別なのは、そのもとになる中国語を知らなくとも作り、理解することができる点にある。英語のわからない人が、英語の詩を書いたり読んだりすると言っても誰も信じないであろう。しかし李舜臣や夏目漱石は中国語を知らなかった(金文京、漢文と東アジア、2010年、179頁)。これは漢詩の話であるが、漢文についても同じようなことが言へる。漢文は実際の中国語の変化に関係なく、時空を超越した約束事によって書かれたものであった。だからこそ東アジアの共通語と成りえたのである(金文京、漢文と東アジア、2010年、181頁)。
従って、
(27)(28)により、
(29)
「英語と日本語の関係」と、「漢文と日本語の関係」を、「同列に論じるべきではなく」、それ故、「西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読む。」からと言って、我々日本人も、そのやうにする「必要」が有るとは、想はない。
平成29年11月23日、毛利太。
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