2018年6月28日木曜日

対偶、等値、排他的命題、「は(∈)」と「が(=)」。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
(01)
1  (1)  A→ B  仮定
 2 (2)  A&~B  仮定
 2 (3)  A     2&E
 2 (4)    ~B  2&E
12 (5)     B  12前件肯定
12 (6) ~B& B  45&導入
1  (7)~(A&~B) 26背理法
(02)
1  (1)~(A&~B) 仮定
 2 (2)  A     仮定
  3(3)    ~B  仮定
 23(4)  A&~B  23&導入
123(5)~(A&~B)&
       (A&~B) 14&導入
12 (6)   ~~B  35背理法
12 (7)     B  6二重否定
1  (8)  A→ B  27条件法
従って、
(01)(02)により、
(03)
① AであるならばBである。
② AであってBでない。といふことはない。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(04)
② AであってBでない。
③ BでなくてAである。
に於いて、
②=③ である。
cf.
交換法則(Commutative property)
従って、
(03)(04)により、
(05)
② AであってBでない。といふことはない。
③ BでなくてAである。といふことはない。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(06)
1  (1)~(~B& A) 仮定
 2 (2)  ~B     仮定
  3(3)      A  仮定
 23(4)  ~B& A)&
       (~B& A) 14&導入
12 (6)     ~A  35背理法
1  (7)  ~B→~A  26条件法
(07)
1  (1)  ~B→~A  仮定
 2 (2)  ~B& A  仮定
 2 (3)  ~B     2&除去
 2 (4)      A  2&除去
12 (5)     ~A  13前件肯定
12 (6)   A&~A  45&導入
1  (7)~(~B& A) 26背理法
従って、
(06)(07)により、
(08)
③ BでなくてAである。といふことはない。
④ BでないならばAでない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(03)(08)により、
(09)
① AであるならばBである。
② AであってBでない。といふことはない。
③ BでなくてAである。といふことはない。
④ BでないならばAでない。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(09)により、
(10)
① AであるならばBである。
④ BでないならばAでない。
に於いて、
①=④ である。
従って、
(10)により、
(11)
対偶(Contraposition)」は「等しい」。
cf.
1  (1) A→ B 仮定
 2 (2)   ~B 仮定
  3(3) A    仮定
1 3(4)    B 13前件肯定
123(5)~B& B 24&導入
12 (6)~A    35背理法
1  (7)~B→~A 26条件法
然るに、
(12)
⑤      ( B→ A)
⑥      (~A→~B)
は、「対偶」である。
従って、
(11)(12)により、
(13)
⑤(A→B)&( B→ A)
⑥(A→B)&(~A→~B)
に於いて、
⑤=⑥ である。
従って、
(13)により、
(14)
⑤ AならばBであって、BならばAである。
⑥ AならばBであって、AでないならばBでない。
に於いて、
⑤=⑥ である。
然るに、
(15)
⑤ AならばBであって、BならばAである。
⑥ AならばBであって、AでないならばBでない。
であるならば、そのときに限って、
⑤ A=B
⑥ B=A
である。
従って、
(16)
⑤ AはBであって、BはAである。
⑥ AはBであって、A以外はBでない
であるならば、そのときに限って、
⑤ A=B
⑥ B=A
である。
従って、
(16)により、
(17)
⑤ 東京都は日本の首都であって、日本の首都は東京都である。
⑥ 東京都は日本の首都であって、東京都以外は日本の首都でない。
であるならば、そのときに限って、
⑤ 東京都=日本の首都
⑥ 日本の首都=東京都
然るに、
(18)
⑥ 東京都は日本の首都であって、東京以外は日本の首都でない
といふことは、
⑦ 東京都日本の首都である。
といふことである。
然るに、
(19)
⑤ 東京都は日本の首都であって、日本の首都は東京である。
⑥ 東京都は日本の首都であって、東京以外は日本の首都でない。
⑦ 東京都が日本の首都である。
といふのであれば、
⑧ 東京都は日本の首都である。
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
(1)東京都=日本の首都      は「真(本当)」である。
(2)東京都は日本の首都である。  は「真(本当)」である。
(3)東京都日本の首都である。  は「真(本当)」である。
(4)日本の首都は東京都である。  は「真(本当)」である。
(5)東京都以外は日本の首都でない。は「真(本当)」である。
然るに、
(21)
(6)小笠原=東京都      は「偽(ウソ)」である。
(7)小笠原は東京都である。  は「真(本当)」である。
(8)小笠原東京都である。  は「偽(ウソ)」である。
(9)東京都は小笠原である。  は「偽(ウソ)」である。
(A)小笠原以外は東京都でない。は「偽(ウソ)」である。
然るに、
(22)
(2)東京都は日本の首都である。
といふ「日本語」は、
(2)東京都は「唯一の日本の首都」である。
といふ「意味」である。
(23)
(7)小笠原は東京都である。
といふ「日本語」は、
(7)小笠原村は「東京都の、区市町村の一つ」である。
といふ「意味」である。
然るに、
(24)
新宿区、足立区、荒川区、板橋区、江戸川区、大田区、葛飾区、北区、江東区、品川区、渋谷区、杉並区、墨田区、世田谷区、台東区、中央区、千代田区、豊島区、中野区、練馬区、文京区、港区、目黒区、昭島市、あきる野市、稲城市、青梅市、清瀬市、国立市、小金井市、国分寺市、小平市、狛江市、立川市、多摩市、調布市、西東京市、八王子市、羽村市、東久留米市、東村山市、東大和市、日野市、府中市、福生市、町田市、三鷹市、武蔵野市、武蔵村山市、西多摩郡奥多摩町、西多摩郡日の出町、西多摩郡瑞穂町、大島町、八丈町、西多摩郡檜原村、利島村、新島村、神津島村、三宅村、御蔵島村、青ヶ島村、小笠原村。
従って、
(24)により、
(25)
「東京都の区市町村」は、「集合」である。
然るに、
(26)
ここで多少、記号についてのべますと、集合をいちいち{x│P(x)}のような形で表さないで、A={x│P(x)}と置いて、単に集合Aと表現します。
a∈A のとき「aはAの元である」とか「aはAの要素である」といいます。元もしくは要素は、elementの訳です。さらに「aはAに属する」と表現します。
(竹内外文、集合とは何か、2001年、22頁)
従って、
(20)~(27)により、
(26)
(2)東京都は日本の首都である。
(7)小笠原は東京都である。
といふ「日本語」は、
(2)東京都=日本の首都である。
(7)小笠原∈東京都である。
といふ風に、書くことが出来る。
然るに、
(27)
① 理事長は、一人であって、
② 理事 は、数人である。
従って、
(26)(27)により、
(28)
① 私は理事長です。
② 私は理事です。
といふ「日本語」は、
① 私=理事長。
② 私∈理事(集合)。
といふ風に、書くことが出来る。
然るに、
(29)
② 私∈理事(集合)。
ではなく、
① 私=理事長。
であるならば、必然的に、
① 理事長=私。
といふ風に、「逆も真」である。
である。
然るに、
(30)
① 私=理事長。
① 理事長=私。
といふ風に、「逆も真」である以上、
① 私は理事長です。
① 理事長は私です。
といふ風に、「逆も真」である。
然るに、
(31)
よく知られているように、「私理事長です」は語順を変え、
 理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。また、かりに大倉氏が、
 タゴール記念館は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念館」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
従って、
(29)(30)(31)により、
(32)
② 私∈理事(集合)。
ではなく、
① 私=理事長。
であるならば、
① 私が理事長です。
であって、
① 私が理事長です。
であるならば、
① 理事長は私です。
といふ、ことになる。
従って、
(32)により、
(33)
② 私∈理事(集合)。
ではなく、
① 私=理事長。
である。といふことを、「確認」したい「気持ち」がある場合には、
② 私は理事長です。
とは、言はずに、
① 私が理事長です。
① 理事長は私です。
といふ風に、言ふことになる。
然るに、
(31)~(33)により、
(34)
三上章先生は、
① 私は理事長です。
といふ「日本語」が、
② 私∈理事長。
ではなく、
① 私=理事長。
であるといふことに、気付いてはゐない。
(35)
① 私は理事長です=
① ∃x{私x&理事長x&∀y[理事長y→(y=x)]}=
① ∃x{私x&理事長x&∀y[~(y=x)→~(理事長y)]}=
① 或るxは私であって、そのxは理事長であって、いかなるyであっても、yがxと同一人物でないならば、yは理事長ではない。
に於いて、
① いかなるyであっても、yがxと同一人物でないならば、yは理事長ではない。
といふことを、「強調」したい場合には、
① 私は理事長です。
とは言はずに、
① 私理事長です。
といふ風に言ふ、ことになる。
(36)
③ 象は鼻は長い=
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(長z→鼻zx)}=
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
③ 全てのxについて、xが象であるならば、あるyはxの鼻であって、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
に於いて、
③ 全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふことを、「確認」したい場合には、
③ 象は鼻は長い。
とは言はずに、
③ 象は鼻長い。
といふ風に言ふ、ことになる。
平成30年06月28日、毛利太。

「∈(は)」と「=(は・が)」について。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
(01)
① Aは(∈)Bである。
② Aは(=)Bである。
に於いて、
① であれば、Aは、Bの「一部」であって、
② であれば、Aと、Bは「同一」である。とする。
従って、
(01)により、
(02)
① Aは(∈)Bである。
② Aは(=)Bである。
であれば、
③ Bは(∈)Aである。
④ Bは(=)Aである。
に於いて、
③ は「偽(ウソ)」であって、
④ は「真(本当)」である。
従って、
(02)により、
(03)
① 小笠原は(∈)東京都である。
② 東京都は(=)日本の首都である。
であれば、
③ 東京都は(∈)小笠原である。
④ 日本の首都は(=)東京である。
に於いて、
③ は「偽(ウソ)」であって、
④ は「真(本当)」である。
然るに、
(04)
② Aは(=)Bである。
といふのであれば、すなはち、
② AとBが「同一」であるならば、そのときに限って、
② A以外はBでなく、
② B以外はAでない。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 小笠原は(∈)東京都である。
② 東京都は(=)日本の首都である。
といふのであれば、
① 小笠原以外東京都であって、
② 東京都以外は日本の首都ではない
然るに、
(06)
② 東京都以外は日本の首都ではない。
といふのであれば、その場合は、
② 東京が日本の首都である。
と言ふのが「普通」である。
従って、
(01)~(06)により、
(07)
① 小笠原∈東京都である。として、
① 小笠原は東京都である。    は「真(本当)」である。
① 小笠原東京都である。    は「偽(ウソ)」である。
① 東京都は小笠原である。    は「偽(ウソ)」である。
① 小笠原以外は東京都でない。  は「偽(ウソ)」である。
② 東京都日本の首都である。として、
② 東京都は日本の首都である。  は「真(本当)」である。
② 東京都日本の首都である。  も「真(本当)」である。
② 日本の首都は東京都である。  も「真(本当)」である。
② 東京都以外は日本の首都でない。も「真(本当)」である。
従って、
(07)により、
(08)
「∈」は「は」であって、「=」は「は・が」である。
平成30年06月28日、毛利太。

2018年6月25日月曜日

「逆」が「真」である場合について。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
(01)
① 全ての人間は動物である。が、
② 全ての動物が人間である。といふわけではない。
といふことは、「本当(真)」である。
然るに、
(02)
① 全ての人間は動物である。が、
② 全ての動物が人間である。といふわけではない。
といふことは、
③ 或る動物は人間であり、或る動物は人間でない。
といふことである。
cf.
(a)
1  (1) ∀x(動x→人x) A
1  (2)    動a→人a  1UE
 3 (3) ∃x(動x)    A
  4(4)    動a     A
1 4(5)       人a  24MPP
1 4(6)    動a&人a  45&I
1 4(7) ∃x(動x&人x) 6EI
13 (8) ∃x(動x&人x) 347EE
13 (9)或る動物は人間である。
(b)
 1 (1)~∀x(動x→ 人x) A
 1 (2)∃x~(動x→ 人x) 1矛盾関係
  3(3)  ~(動a→ 人a) A
  3(4) ~(~動a∨ 人a) 3含意の定義
  3(5)  ~~動a&~人a  4ド・モルガンの法則
  3(6)    動a&~人a  5DN
 1 (7) ∃x(動x&~人x) 6EI
 1 (8)或る動物は人間ではない。
(c)
1  (1) ∃x(動x&~人x) A
 2 (2)    動a&~人a  A
 2 (3)    動a      2&E
 2 (4)       ~人a  2&E
  5(5) ∀x(動x→ 人x) A
  5(6)    動a→ 人a  5UE
 25(7)        人a  36MPP
 25(8)   ~人a& 人a  47&I
 2 (9)~∀x(動x→ 人x) 58RAA
1  (ア)~∀x(動x→ 人x) 129EE
1  (イ)全ての動物が人間である。といふわけではない。
従って、
(02)により、
(03)
① 全ての人間は動物である。が、
② 全ての動物が人間である。といふわけではない。
といふのであれば、
③ 或る動物は人間である。
といふ、ことになる。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 全ての人間は動物である。
② 全ての動物は人間である。
③  或る動物は人間である。
に於いて、
① は「真(本当)」であって、
② は「偽(ウソ)」であって、
③ は「真(本当)」である。
然るに、
(05)
実際には、
① 人間は動物である。
② 動物は人間である
といふ「言ひ方」自体が、
①(全ての)人間は動物である。
②(全ての)動物は人間である。
といふ「意味」である。
従って、
(05)により、
(06)
②(全ての)動物は人間である。
といふのではなく、
③( 或る )動物は人間である。
といふのであれば、
③          動物は人間である。
と言ふのではなく、
③    或る動物は人間である。
といふ風に、言はざるを得ない。
然るに、
(07)
③ 或る動物は人間である。
といふのであれば、その場合の
③ 或る動物
といふのは、
③ 人間といふ「特定の動物」である。
従って、
(07)により、
(08)
③ 或る動物は人間である。
といふのであれば、
③ 或る動物=人間である所の或る動物
でなければ、ならない。
従って、
(08)により、
(09)
③ 或る動物は人間である。
④ 或る人間はソクラテスである。
といふのであれば、
③ 或る動物=人間である所の或る動物
④ 或る人間=ソクラテスである所の或る人間
でなければ、ならない。
従って、
(10)
④ 或る人間はソクラテスである。
④ ソクラテスは或る人間である。
といふのであれば、
④ 或る人間=ソクラテス
④ ソクラテス=或る人間
でなければ、ならない。
然るに、
(11)
ここで多少、記号についてのべますと、集合をいちいち{x│P(x)}のような形で表さないで、A={x│P(x)}と置いて、単に集合Aと表現します。
a∈A のとき「aはAの元である」とか「aはAの要素である」といいます。元もしくは要素は、elementの訳です。さらに「aはAに属する」と表現します。
(竹内外文、集合とは何か、2001年、22頁)
従って、
(11)により、
(12)
⑤ ソクラテスは人間である。
といふ「言ひ方」は、
⑤ ソクラテス∈人間
といふ風に、書くこと出来る。
然るに、
(11)により、
(13)
⑤ ソクラテス∈人間
ではなく、
⑤ 人間∈ソクラテス
であるならば、
⑤ 要素∈集合 ではなく、
集合∈要素
であるため、
⑤ 人間はソクラテスである。
といふ「偽(ウソ)」は、
⑤ 人間∈ソクラテス
といふ風に書いたとしても、「偽(ウソ)」である。
従って、
(10)~(13)により、
(14)
(ⅰ)或る人間はソクラテス。
(ⅱ)ソクラテスは或る人間。
(ⅲ)ソクラテスは人間。
(ⅳ)人間はソクラテス。
に於いて、
(ⅳ)だけが、「ウソ(偽)」である。
従って、
(10)~(14)により、
(15)
(ⅰ)或る人間=ソクラテス
(ⅱ)ソクラテス=或る人間
(ⅲ)ソクラテス∈人間
(ⅳ)人間∈ソクラテス
に於いて、
(ⅳ)だけが、「ウソ(偽)」である。
従って、
(14)(15)により、
(16)
(ⅰ)或る人間はソクラテス。
(ⅱ)ソクラテスは或る人間。
(ⅲ)ソクラテスは人間。
(ⅳ)人間はソクラテス。
に於いて、
(α)「は」は、「=」と「∈」に、「分類」出来る。
(β)「は」が、「=」であるとき、「主語」と「述語」を、「入れ換へreverseす)る」ことが出来る。
然るに、
(17)
「は(=)」を、同一性の「は」とし、
「は(∈)」を、述語性の「は」とする。
(18)
同一性の「は」を、同一性の「である」とし、
述語性の「は」を、述語性の「である」とする。
(19)
同一性の「である」を、「'is' of identity」   とし、
述語性の「である」を、「'is' of predication」とする。
然るに、
(20)
非数学的な文脈では、同一性は「である(be動詞)」によって表現されるのが普通である。しかし「ある(be動詞)」という動詞は多くの意味をもっている故、「である(be動詞)」が同一性を表現するのはどのような意味においてであるかを、われわれはまず指摘しなければならない。
つぎの6つのに日本語の文を考えてみよう。
(1)ソクラテスは哲学者である。
(2)パリは都市である。
(3)勇気は美徳である。
(4)ソクラテスはプラトンを教えた哲学者である。
(5)パリはフランスの首都である。
(6)勇気は私が最も賛美する徳である。
(E.J.レモン 著、竹尾治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、204頁改)
In non-mathematical contexts, identity is expressed usually by 'is' ; but since the verb 'to be' has many sense, we must indicate first in which sense 'is' expresses identity
Consider the six English sentences below
(1)Socrates is a philosopher.
(2)Paris is a city.
(3)Courage is a virtue.
(4)Socrates is the philosopher who taught Plato.
(5)Paris is the capital of France.
(6)Courage is the virtue I admire most.
(E.J.レモン 著, Begining Logic, 1971, p160)
然るに、
(21)
同一性の「である(is)」を識別するための助けとなることがらはつぎの通りである。(a)「である」を「同じ対象である」によって置き換えることができるか。もしできるならば、その「である(is)」は同一性の「である(is)」である。もしできなけれが、そうでない。(b)「である」の両側にならぶ語句は、近似的に同じ意味を持ちつつ入れ換えることができるか。もしできるならば、その「である」は同一性の「である(is)」である。そうでなければ、そうでない。
(E.J.レモン 著、竹尾治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、1973年、205頁改)
Aids towards recognizing the 'is' of identity are: (a) can 'is' be replaced by 'the same object as'?―if so,'is' means identity,if not,not;(b)can the phrases flanking 'is' on both sides be reversed preserving approximately the same sense?―if so 'is' is 'is' of identity, if not, not.
(E.J.レモン 著, Begining Logic, 1971, p160)
従って、
(16)~(21)により、
(22)
「は(=)」を、確かに、「'is' of identity」   に相当し、
「は(∈)」は、確かに、「'is' of predication」に相当する。
平成30年06月25日、毛利太。

2018年6月24日日曜日

人方引嬰兒而欲投之江中嬰兒啼。

(01)
① 見人方引嬰兒而欲投之江中嬰兒啼(呂氏春秋)。
に於いて、
① 見(saw) の「補語」は、「嬰児啼(the infant cryig)」を含むところの、「人方引嬰兒而欲投之江中嬰兒啼」であるとする。
然るに、
(02)
①「人方引嬰兒而欲投之江中嬰兒啼。」
に於いて、
① 人   は「引」の「主語」である。
① 方   は「副詞」である。
① 嬰児 は「引」の「補語」である。
① 而   は「接続詞」である。
① 欲   は「助動詞」である。
① 之   は「投」の「補語」である。
① 江中 は「投」の「補語」である。
① 嬰児 は「啼」の「主語」である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 見人方引嬰兒而欲投之江中嬰兒啼。
といふ「漢文の補足構造」は、
① 見[人方引(嬰兒)而欲〔投(之江中)〕嬰兒啼]。
である。
然るに、
(04)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中文と漢文、1975年、296頁)
従って、
(03)(04)により、
(09)
① 見人方引嬰兒而欲投之江中嬰兒啼=
① 見[人方引(嬰兒)而欲〔投(之江中)〕嬰兒啼]。
に於いて、
① 見[ ]⇒[ ]見
① 引( )⇒( )引
① 欲〔 〕⇒〔 〕欲
① 投( )⇒( )投
といふ「移動」を行ふと、
① 見[人方引(嬰兒)而欲〔投(之江中)〕嬰兒啼]⇒
① [人方(嬰兒)引而〔(之江中)投〕欲嬰兒啼]見=
① [人の方に(嬰兒を)引きて〔(之を江中に)投ぜんと〕欲し嬰兒の啼くを]見る=
① ある人が、幼児を引っぱって、まさに、その幼児を河の中に投げ込まうとしてゐて、幼児が、声を上げて泣いてゐる情景が見えた。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(10)
國一國文下第二次題庫
上一題 下ㄧ題
13. 「有過於江上者,見人方引嬰兒而欲投之江中。嬰兒啼。人問其故,曰:『此其父善游。』其父雖善游,其子豈遽 善游哉?此任物,亦必悖矣!」下列哪一個選項可以說明上文的主旨?
(A) 有其父必有其子
(B) 真偽不辨,是非不分
(C) 天生我才必有用
(D) 觀念守舊,不知變通
編輯私有筆記及自訂標籤
國一國文下第二次- 104 年 - 2015臺南市市立崇明國中七年級104 下學期國文第二次段考(期中考)南一#56737
答案:D
難度:非常困難
従って、
(10)により、
(11)
「台湾の中学の、漢文の教科書(?)」の場合は、何故か、
② 見人方引嬰兒而欲投之江中。
であって、
人方引嬰兒而欲投之江中嬰兒啼
ではない。
cf.
① I saw the infant crying.
従って、
(09)(11)により、
(12)
「台湾の中学の教科書(?)」がさうなってゐるやうに、
人方引嬰兒而欲投之江中嬰兒啼
ではなく、
② 見人方引嬰兒而欲投之江中。
が「正しい」のであれば、
① ある人が、幼児を引っぱって、まさに、その幼児を河の中に投げ込まうとしてゐて、幼児が、声を上げて泣いてゐる情景が見えた。
といふ「翻訳」は、「誤訳」である。
平成30年06月24日、毛利太。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。

2018年6月20日水曜日

ヒルベルトの公理:Pならば(QならばPである)。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
(01)
ヒルベルトの演繹システムは、公理が多く、推論規則が少ないものです。そして、公理も、わけのわからない論理式となっています。例えば、
     P→(Q→P)(Pならば(QならばP))
という論理式が公理として設定されています。つまり、この論理式を出発点として演繹を行って良い。ということです。多くの人は、この論理式の意味を飲みこめないでしょう。
(小島寛之、証明と論理に強くなる、2017年、136頁)
然るに、
(02)
次に、命題論理の自然演繹の「公理」です。面白いことに「公理」は一つもありません。ここに自然演繹の大きな特徴があります。「出発点とする公理が何もないのに、いったいどうやって演繹するんだ」という疑問が湧いてくるでしょう。
(小島寛之、証明と論理に強くなる、2017年、140頁)
(03)
自然演繹には「仮定の解消」(最初に仮定しておいて、あとでなかったことにする)という手続きがあり、それがなかなか理解しづらいことです。自然演繹は「仮定の解消」のおかげで公理なしに演繹システムとなり得ており、その意味で「仮定の解消」は自然演繹の本質だと言っても過言ではありません。
(小島寛之、証明と論理に強くなる、2017年、144頁)
然るに、
(04)
     P→(Q→P)(Pならば(QならばP))
といふ「ヒルベルトの公理」に対する、「自然演繹」による「証明」は、次のやうになる。
(05)
(5)├ P→(Q→P) 
1       (1)  P      仮定
1       (2)  P∨~Q   1∨導入
 3      (3)  P      A
 3      (4) ~Q∨ P   3∨導入
  5     (5) ~Q      A
  5     (6) ~Q∨ P   5∨導入
1       (7) ~Q∨ P   23456∨除去
   8    (8)  Q&~P   仮定
    9   (9) ~Q      A
   8    (ア)  Q      &除去
   89   (イ) ~Q& Q   9ア&導入
    9   (ウ)~(Q&~P)  8イ背理法
     エ  (エ)     P   仮定
    8   (オ)    ~P   8&除去
    8エ  (カ)  P&~P   エオ&導入
     エ  (キ)~(Q&~P)  8カ背理法
1       (ク)~(Q&~P)  79ウエキ∨除去
      ケ (ケ)  Q      仮定
       コ(コ)    ~P   仮定
      ケコ(サ)  Q&~P   ケコ&導入
1     ケコ(シ)~(Q&~P)&
            (Q&~P)  クサ&導入
1     ケ (ス)   ~~P   コシ背理法
1     ケ (セ)     P   ス二重否定 
1       (ソ)   Q→P   ケセ条件法(仮定の解消)
        (タ)P→(Q→P)  1ソ条件法(仮定の解消)
然るに、
(06)
① P├ P
② P→ P
といふ「式」は、それぞれ、
① Pだから、Pである。
② Pならば、Pである。
といふ、「意味」である。
cf.
同一律(law of identity)
然るに、
(07)
① Pだから、Pである。
② Pならば、Pである。
に於いて、
① であれば、 Pである。が、
② であっても、Pである。とは、限らない。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① Pだから、Pである。
② Pならば、Pである。
に於いて、
①≠② であって、
①=② ではない。
然るに、
(09)
① P├ P
② P→ P
に於いて、
① を、
② に、「書き換へ」ることを、「仮定の解消」といふ。
cf.
1(1)P   仮定
 (2)P→P 11条件法
従って、
(10)
① P├(Q→P)
② P→(Q→P)
に於いて、
① を、
② に、「書き換へ」ることも、「仮定の解消」である。
然るに、
(05)により、
(11)
1       (1)P        仮定
1       (ソ)   Q→P   ケセ条件法(仮定の解消)
        (タ)P→(Q→P)  1ソ条件法(仮定の解消)
であるものの、このことは、
① P├(Q→P):Pだから(QならばPである。)
② P→(Q→P):Pならば(QならばPである。)
に於いて、
① を、
② に、「書き換へ」ることに、相当する。
従って、
(01)(11)により、
(12)
① P├(Q→P):Pだから、QならばPである。
といふ「式」の、「仮定を解消」した「結果」が、
② P→(Q→P):Pならば、QならばPである。
といふ「ヒルベルトの公理」である。
然るに、
(13)
(a)
1  (1)  Q→ P   仮定
 2 (2)  Q&~P   仮定
 2 (3)  Q      2&E
12 (4)     P   13前件肯定
 2 (5)    ~P   2&除去
12 (6)  P&~P   45&導入
1  (7)~(Q&~P)  26背理法
(b)
1  (1)~(Q&~P)  仮定
 2 (2)  Q      仮定
  3(3)    ~P   仮定
 23(4)  Q&~P   23&導入
123(5)~(Q&~P)&
       (Q&~P)  14&導入
12 (6)   ~~P   35背理法
12 (7)     P   6二重否定
1  (8)  Q→ P   27条件法
従って、
(13)により、
(14)
①     Q→  P =QならばPである。
② ~(Q&~P)=QであってPでない。といふことはない。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(15)
② QであってPでない。といふことはない。
といふのであれば、
② Qでない。
といふ場合については、何も、言ってゐない。
従って、
(14)(15)により、
(16)
① QならばPである。
といふのであれば、すなはち、
② QであってPでない。といふことはない。
といふのであれば、
② Qでない。
といふ場合については、
② Pである。
といふことを、「否定」しない。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
① QならばPである。
といふ場合に、
① Qでない。
としても、
① Pでない。
といふことには、ならない。
従って、
(12)(17)により、
(18)
① P├ Q→P(Pだから、QならばPである。)
といふ「式」は、
① P├ Q→P(Pだから、Qであっても、Qでなくとも、Pである。)
といふ風に、「読むこと」が出来る。
従って、
(01)(18)により、
(19)
② Pならば、QならばPである。
といふ、「ヒルベルトの公理」は、
① Pだから、Qであっても、Qでなくとも、Pである。
としたら、
② Pならば、QならばPである。
といふ「意味」に、解することが出来る。
(20)
自然演繹論理のあるバージョンには、公理が存在しない。ジョン・レモンが開発した体系 L は、証明の構文規則に関する次のような9つの基本的規則だけを持つ。
1.仮定の規則         "The Rule of Assumption"       (A)
2.モーダスポネンス   "Modus Ponendo Ponens"         (MPP)
3.二重否定の規則   "The Rule of Double Negation"  (DN)
4.条件付き証明の規則 "The Rule of Conditional Proof"(CP)
5.&-導入の規則    "The Rule of &-introduction"  (&I)
6.&-除去の規則      "The Rule of &-elimination"   (&E)
7.∨-導入の規則      "The Rule of ∨-introduction"  (∨I)
8.∨-除去の規則      "The Rule of ∨-elimination"   (∨E)
9.背理法             "Reductio Ad Absurdum"      (RAA)
(ウィキペディア)
然るに、
(21)
ジョン・レモンが開発した体系 L には、
3.否定否定式(MTT)
も、含まれてゐるため、実際には、「9つの基本的規則」ではなく、「10個の基本規則(The 10 primitive rules)」とするのが、正しい。
然るに、
(21)
(a)
1  (1) P→ Q A
 2 (2)   ~Q A
  3(3) P    A
1 3(4)    Q 13MPP
123(5)~Q& Q 23&I
12 (6)~P    35RAA
1  (7)~Q→~P 26CP
(b)
1  (1) ~Q→~P A
 2 (2)     P A
  3(3) ~Q    A
1 3(4)    ~P 13MPP
123(5)  P&~P 24&I
12 (6)~~Q    35RAA
12 (7)  Q    67DN
1  (8)  P→ Q 27CP
(22)
(a)
1  (1) P→ Q A
 2 (2)   ~Q A
  3(3) P    A
12 (4)~P    12MTT
123(5)~P& P 34&I
12 (6)~P    35RAA
1  (7)~Q→~P 26CP
(b)
1  (1) ~Q→~P A
 2 (2)     P A
 2 (3)   ~~P 2DN
  4(4) ~Q    A
12 (5)~~Q    13MTT
12 (6)  Q    5DN
124(7)  Q&~Q 46&I
12 (8)~~Q    47RAA
12 (9)  Q    8DN
1  (ア)  P→ Q 29CP
従って、
(21)(22)により、
(23)
MPPは、MTTに、「置き換へ」ることが出来、
MTTは、MPPに、「置き換へ」ることが出来る。
従って、
(23)により、
(24)
MTTは原始的規則と解される必要はなく、他の規則から導出される規則としてえられる(E.J.レモン著、竹尾治一郎・浅野楢英 訳、論理学初歩、78頁)し、MPPも、さうである。
然るに、
(25)
① 今日は水曜である。
② 今日は水曜であるか、明日は雨でない。
に於いて、
① が「本当(真)」ならば、
② も「本当(真)」である。
然るに、
(26)
① 今日は水曜である。従って、
② 今日は水曜であるか、明日は雨でない。
といふ「推論」を、「∨-導入の規則」といふ。
然るに、
(27)
「今日は水曜日である。従って、今日は水曜であるか、明日は雨でない。」
といふ「推論」を、「日常に於いて行ふ」ことは、「普通は、無い」。
然るに、
(05)により、
(28)
(5)├ P→(Q→P) 
1       (1)  P      仮定
1       (2)  P∨~Q   1∨導入
 3      (3)  P      A
 3      (4) ~Q∨ P   3∨導入
  5     (5) ~Q      A
  5     (6) ~Q∨ P   5∨導入
1       (7) ~Q∨ P   23456∨除去
   8    (8)  Q&~P   仮定
    9   (9) ~Q      A
   8    (ア)  Q      &除去
   89   (イ) ~Q& Q   9ア&導入
    9   (ウ)~(Q&~P)  8イ背理法
     エ  (エ)     P   仮定
    8   (オ)    ~P   8&除去
    8エ  (カ)  P&~P   エオ&導入
     エ  (キ)~(Q&~P)  8カ背理法
1       (ク)~(Q&~P)  79ウエキ∨除去
      ケ (ケ)  Q      仮定
       コ(コ)    ~P   仮定
      ケコ(サ)  Q&~P   ケコ&導入
1     ケコ(シ)~(Q&~P)&
            (Q&~P)  クサ&導入
1     ケ (ス)   ~~P   コシ背理法
1     ケ (セ)     P   ス二重否定 
1       (ソ)   Q→P   ケセ条件法(仮定の解消)
        (タ)P→(Q→P)  1ソ条件法(仮定の解消)
であれば、
1       (2)  P∨~Q   1∨導入
 3      (4) ~Q∨ P   3∨導入
  5     (6) ~Q∨ P   5∨導入
といふ「三つ」が、「∨-導入の規則」に、他ならない。
従って、
(01)(26)(28)により、
(29)
① 今日は水曜である。従って、
② 今日は水曜であるか、明日は雨でない。
といふやうな、「∨-導入の規則」を、認めないのであれば、
        (タ)P→(Q→P)  1ソ条件法(仮定の解消)
といふ「結論」、すなはち、
     P→(Q→P)(Pならば(QならばP))
といふ「ヒルベルトの公理」を、「自然演繹」では、「証明」出来ない。
従って、
(27)(28)(29)により、
(30)
「今日は水曜日である。従って、今日は水曜であるか、明日は雨でない。」
といふ「推論」は、「ナンセンス(無意味)」であるやうでゐて、それを認めない限り、
     P→(Q→P)(Pならば(QならばP))
といふ「ヒルベルトの公理」を、「自然演繹」では、「証明」出来ない。
平成30年06月21日、毛利太。

2018年6月16日土曜日

三上先生に、改めて、指摘したいこと。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
(01)
① A is B.
に於いて、
① A
を、「強調(強く発音)」する場合は、
④ A以外はBでない
④ ∀x(~Ax→~Bx)
④ Aを除くいかなるものもBではない(Nothing except A is B)。
といふ、「意味」になる。
従って、
(02)
① A_Bである。
に於いて、
① A
を、「強調(強く発音)」する場合は、
④ A以外はBでない
といふ、「意味」になる。
然るに、
(03)
(04)(05)(06)に「引用」する通り、
① Aは(清音)
② A音)
に於いて、
① の「心理的な音量」よりも、
② の「心理的な音量」の方が、「大きい」。
(04)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(05)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2115年、13頁)。
(06)
 私理事長です(理事長は私です)
のように、ガの文がいわばハを内蔵しているから、その説明が必要である。このような「私が」を強声的になっていると言うことにする。そこに発音上のストレスを与えたのと似た効果をもっているからである。
従って、
(03)~(06)により、
(07)
① 私は(清音)
② 私音)
に於いて、
① の「心理的な音量」よりも、
② の「心理的な音量」の方が、「大きい」。
従って、
(02)(07)により、
(08)
① A_Bである。
に於いて、
① A
を、「強調(強く発音)」する場合は、
② A以外はBでない
といふ、「意味」になり、尚且つ、
① 私は(清音)
② 私音)
に於いて、
① の「心理的な音量」よりも、
② の「心理的な音量」の方が、「大きい」。
従って、
(08)により、
(09)
① 私は理事長です。
といふ「日本語」に対する、
② 私理事長です。
といふ「日本語」は、
④ 私以外は理事長ではない
といふ「意味」になる。
然るに、
(10)
(11)~(14)で「証明」する通り、
③ 理事長は私です。
といふ「日本語」は、
④ 私以外は理事長ではない
といふ「日本語」に「等しい」。
(11)
(a)
1  (1) ∀x(Bx→ Ax) 仮定
1  (2)    Bc→ Ac  1普遍除去
 3 (3)       ~Ac  仮定
  4(4)    Bc      仮定
1 4(5)        Ac  24前件肯定
134(6)   ~Ac& Ac  35&導入
13 (7)   ~Bc      46背理法
1  (8)   ~Ac→~Bc  37条件法
1  (9)∀x(~Ax→~Bx) 8普遍導入
1  (9)すべてのxについて、xがAでないならば、xはBでない。
(b)
1  (1)∀x(~Ax→~Bx) 仮定
1  (2)   ~Ac→~Bc  1普遍除去
 3 (3)        Bc  仮定
  4(4)   ~Ac      仮定
1 4(5)       ~Bc  24前件肯定
134(6)   ~Bc& Bc  35&導入
13 (7)   ~~Ac            46背理法
13 (8)     Ac      7二重否定
1  (9)     Bc→ Ac  38条件法
1  (ア)  ∀x(Bx→ Ax) 9普遍導入
1  (ア)すべてのxについて、xがBであるならば、xはAである。
といふ「計算」は、「正しい」。
従って、
(12)
(a)
1  (1)理事長ならば私である。    仮定
 2 (2)      私でない。    仮定
  3(3)理事長である。        仮定
1 3(4)      私である。    13前件肯定
123(5)私であり私でない。      42&導入
12 (6)理事長でない。        35背理法
1  (7)私でないならば理事長でない。 26条件法
(b)
1  (1)私でないならば理事長でない。 仮定
 2 (2)       理事長である。 仮定
  3(3)私でない。          仮定
1 3(4)       理事長でない。 13前件肯定
123(5)理事長であり理事長でない。  24&導入
12 (6)私でない。でない。      35背理法
12 (7)私である。          6二重否定
1  (8)理事長ならば私である。    27条件法
といふ「計算」も、「正しい」。
従って、
(12)により、
(13)
③ 理事長ならば私である。
④ 私でないならば理事長でない
といふ「対偶(contrapositon)」に於いて、
③=④ である。
従って、
(13)により、
(14)
③ 理事長は私です。
④ 私以外は理事長でない
といふ「対偶(contrapositon)」に於いて、
③=④ である。
cf.
③ ∀x( 理事長x→ 私x)。
④ ∀x(~私x→~理事長x)。
従って、
(09)(13)により、
(15)
① 私は理事長です。
といふ「日本語」に対する、
② 私理事長です。
といふ「日本語」は、
④ 私以外は理事長ではない。
といふ「意味」になり、尚且つ、
③ 理事長は私です。
④ 私以外は理事長でない
といふ「対偶(contrapositon)」に於いて、
③=④ である。
従って、
(15)により、
(16)
① 私は理事長です。
② 私理事長です。
③ 理事長は私です。
④ 私以外は理事長でない
に於いて、
②=③=④ である。
然るに、
(17)
「逆」には、
(1)真でないときと、
(2)真であるときがあります。
そこで(1)と(2)をひっくるめて、「逆は必ずしも真ならず」といいます(山下正男、論理的に考えること、1985年、13・14頁)。
従って、
(18)
① AはBである。
③ BはAである。
に於いて、
①=③ である。
とは、限らない。
従って、
(16)(18)により、
(19)
「結論」として、
① AはBである。
② ABである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない
に於いて、必ず、
  ②=③=④
であるが、必ずしも、
①=②=③=④
であるとは、限らない。
従って、
(16)(19)により、
(20)
いづれにせよ、
② 私理事長です。
③ 理事長は私です。
④ 私以外は理事長でない
に於いて、
②=③=④ である。
従って、
(20)により、
(21)
② 私が理事長です。
③ 理事長は私です。
に於いて、
②=③ である。
といふことを、論じる一方で、
② 私理事長です
④ 私以外は理事長でない
に於いて、
②=④ である。
といふことを、論じないのであれば、「十分な説明」であるとは、言へない。
然るに、
(22)
(23)(24)に「引用」する通り、
三上章先生は、
② 私理事長です。
③ 理事長は私です。
④ 私以外は理事長でない
に於いて、
②=④ である。
といふことを、論じようとは、しない。
(23)
Xハ(Xガを兼務の場合)は題目である主格、Xが題目でないただの主格、と言えばハとガの大切な区別はいちおうついたことになるが、なお一つ、どうしてもつけ加えなければならないことがある。それは、
 私理事長です(理事長は私です)
のように、ガの文がいわばハを内蔵しているから、その説明が必要である。このような「私」を強声的になっていると言うことにする。そこに発音上のストレスを与えたのと似た効果をもっているからである。
 Xニツイテ言エバXは、何を指しているか明らかなもの、すなはち相手とって既知のものでなければならない。疑問詞は全然いけないことは明らかだろう。「これは何だ?」は普通であるが、「何はあるか?」は無意味である。次に不特定なものも不適当である。「花は」と言ったら、場面や文脈で特定の花を指していることがわかっている場合か、または花の一般論を始める場合かである(三上章、日本語の論理、1963年、105・6頁)。
(24)
題目は既知であるから情報的でなく、弱声的である。相手に情報を与えるのは、題目以外の部分である。既知と未知の組み合わせは、二々が四通りあるはずであるが、既知+既知は、相手に何の情報も与えないむだ口になるから、それを除いて、有効な組み合わせは次の三通りである。既知を「太字」、未知を「細字」で示す。
(a)私は 理事長です。 既知+未知
(b)私が 理事長です。 未知+既知
(a)花は 散りました。 既知+未知
(c)花が 散りました。 未知+未知
未知+既知は順序としては逆であるから、(b)はひっくり返して(d)に変えることができる。
(d)理事長は 私です。 既知+未知
こうして内臓のハが文面に出てくる。この文は(b)と同値である(三上章、日本語の論理、1963年、107頁改)。
従って、
(25)
三上章先生は、
② 私理事長です。
③ 理事長は私です。
④ 私以外は理事長でない
に於いて、
②=③ であるとするものの、何故、
②=③ であるのかを、「説明」はせず、
②=④ であることについては、「一言」も、述べてはゐない。
然るに、
(23)(25)により、
(26)
三上章先生は、
(a)私は(清音)
(b)私(濁音)
に於いて、
(a)を、「弱声的」と、表現し、
(b)を、「声的」と、表現してゐる。
従って、
(04)~(07)(26)により、
(27)
三上章先生もまた、
① 私は(清音)
② 私音)
に於いて、
① の「心理的な音量」よりも、
② の「心理的な音量」の方が、「大きい」。
といふことに、気付いてゐた。
といふ、ことなる。
平成30年06月16日、毛利太。

2018年6月14日木曜日

象は鼻は(が)長い。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
(01)    
1     (1)   ∀x{象x→∃y(鼻yx& 長y)} A
1     (2)      象a→∃y(鼻ya& 長y)} 1UE
 3    (3)      象a              A
13    (4)         ∃y(鼻ya& 長y)  23MPP
  5   (5)            鼻ba& 長b   A
  5   (6)                 長b   5&E
   7  (7) ∃x∃y(動x&鼻yx&~長y)     A
    8 (8)   ∃y(動a&鼻ya&~長y)     A
     9(9)      動a&鼻ba&~長b      A
     9(ア)             ~長b      9&E
    8 (イ)             ~長b      89アEE
   7  (ウ)             ~長b      78イEE
  57  (エ)             ~長b&長b   6ウ&I
13 7  (オ)             ~長b&長b   45エEE
1  7  (カ)     ~象a              3オRAA
1  7 9(キ)     ~象a&動a&鼻ba&~長b   9カ&I
1  78 (ク)     ~象a&動a&鼻ba&~長b   89キEE
1  7  (ケ)     ~象a&動a&鼻ba&~長b   78クEE
1  7  (コ)  ∃y(~象a&動a&鼻ya&~長y)  ケEI
1  7  (サ)∃x∃y(~象x&動x&鼻yx&~長y)  コEI
従って、
(01)により、
(02)
(1)全てのxについて、xが象ならば、或るyはxの鼻であって、尚且つ、yは長い。
(7)或るxは動物であって、或るyはxの鼻であって、尚且つ、 yは長くない。
(サ)或るxは象ではない動物であって、或るyはxの鼻であって、yは長くない。
従って、
(02)により、
(03)
(1)象は鼻は長い。
(7)或る動物の鼻は長くない。
(サ)象ではない、鼻が長くない動物が存在する。
然るに、
(04)
(1)象は鼻は長い。然るに、
(2)或る動物の鼻は長くない。従って、
(3)象ではない、鼻が長くない動物が存在する。
といふ「推論」は、「正しい」。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① 象は鼻は長い。
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}
③ 全てのxについて、xが象ならば、或るyはxの鼻であって、尚且つ、yは長い。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(06)
「象は」といふ「語」は「象x」に「対応」し、
「鼻は」といふ「語」は「鼻y」に「対応」する。
然るに、
(07)
「述語論理」といふ「観点」からすると、
「象x」に於ける「象」は「述語」であって、「x」が「主語」であって、
「鼻y」に於ける「鼻」も「述語」であって、「y」が「主語」である。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
「述語論理」といふ「観点」からすると、
① 象は鼻は長い。
といふ「日本語」に、「主語」があるとするならば、
① 象は鼻は長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
といふ「日本語」には、
① 象x(xは象である)
① 鼻y(yは鼻である)
といふ、「二つの主語」がある。
といふ、ことになる。
然るに、
(09)
日本語などの東アジアの言語には必要のない「主語」は、明治維新以降は「脱亜入欧」の掛け声のもと、英文法を真似て導入されたものだった。大野晋も『日本語の世界』付録の丸谷才一との対談、その事情をあっさり認めてゐる。 明治以降、要するに英文法をもとにして、大槻博士が日本語の文法を組み立てた。その時に、ヨーロッパでは文を作る時に必ず主語を立てる。そこで『文には主語が必要』と決めた。そこで日本語では主語を示すのに『は』を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくては具合が悪いというわけで、無理にいろんなものを当てはめた。 ここまで言い切る大野なら、なぜ「日本語に主語はない」と文部科学省に断固抗議し、学校文法改正の音頭を取らないのだろう。言語学的に何ら根拠のない「ハとガの違い」の説明に拘泥し、三上章の「主語廃止論」を一蹴した国語学会の大御所である大野晋も、学問的に正しく批判さる日がやがて来るだろう。
(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、11頁)
従って、
(08)(09)により、
(10)
「金谷先生・三上先生の説」に従ふならば、
① 象は鼻は長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
といふ「日本語」に、「主語」は無い。
然るに、
(11)
私には、「よくは分からない」ものの、
ところで論理学文法の探求は、一方では分析哲学を論理学 ―― 数学的手法を駆使して論理を体系化していく学問 ―― に近づけ、他方では分析哲学を言語学に近づけると言えます(青山拓央、分析哲学講義、2012年、22頁)。
との、ことである。
従って、
(12)
① 象は鼻は長い。
② 象は鼻が長い。
といふ「日本語」を、
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「述語論理」に、「置き換へて」みることは、それなりに、「正しい、探究の仕方」であると、思はれる。
平成30年06月14日、毛利太。

2018年6月8日金曜日

「二項述語における量記号」の読み方。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
(01)
ある人αが、すべての人に愛される。のであれば、
すべての人は、ある人αを愛す。ことになる。
従って、
(01)により、
(02)
① ∃x∀y愛(yx):ある人はすべての人に愛される
② ∀y∃x愛(yx):すべての人はある人を愛す。
に於いて、
① ならば、② である。
然るに、
(03)
1 (1)∃x∀y愛(yx) A
 2(2)  ∀y愛(ya) A
 2(3)    愛(ba) 2UE
 2(4)  ∃x愛(bx) 3EI
1 (5)  ∃x愛(bx) 124EE
1 (6)∀y∃x愛(yx) 5UI
従って、
(02)(03)により、
(04)
確かに、
① ∃x∀y愛(yx):ある人はすべての人に愛される
② ∀y∃x愛(yx):すべての人はある人を愛す。
に於いて、
① ならば、② である。
cf.
(沢田 允茂、現代論理学入門、1962年、146頁、第11図:二項述語における量記号の変換規則)
然るに、
(05)
すべての人が、それぞれに、αや、βや、γと言った、異なる、ある人を愛す。のであれば、
ある人αが、すべての人に愛される。といふことには、ならない。
従って、
(05)により、
(06)
② ∀y∃x愛(yx):すべての人はある人を愛す。
① ∃x∀y愛(yx):ある人はすべての人に愛される
に於いて、
② ならば、① である。
といふことには、ならない。
然るに、
(07)
1 (1)∀y∃x愛(yx) A
1 (2)  ∃x愛(bx) 1UE
 3(3)    愛(ba) A
 3(4)  ∀y愛(ya) 3UI
 3(5)∃x∀y愛(yx) 4EI
1 (6)∃x∀y愛(yx) 235EE
然るに、
(08)
 3()    愛(a) A
であるため、
 3(4)  ∀y愛(a) UI
は、「マチガイ」である。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
確かに、
② ∀y∃x愛(yx):すべての人はある人を愛す。
① ∃x∀y愛(yx):ある人はすべての人に愛される
に於いて、
② ならば、① である。
といふことには、ならない。
cf.
(沢田 允茂、現代論理学入門、1962年、146頁、第11図:二項述語における量記号の変換規則)
従って、
(01)~(09)により、
(10)
① ∃x∀y愛(yx)
② ∀y∃x愛(yx)
といふ「述語論理」に対する、
① ある人はすべての人に愛される
② すべての人はある人を愛す。
といふ「日本語訳」は、「正確」である。
従って、
(10)により、
(11)
① ∃x∀y愛(yx)
② ∀y∃x愛(yx)
といふ「述語論理」に対する、
① あるxが存在し、すべてのyについて、yはxを愛す。
② すべてのyに対し、あるxが存在し、 yはxを愛す。
といふ「読み方」や、
① yはxを愛する、ということがすべてのyについて成立するようなxが存在する。
② xはyに愛される、というxが存在することが、すべてのyに対して成り立つ。
といふ「読み方」は、要するに、
① ある人はすべての人に愛される。
② すべての人はある人を愛す。
といふ「意味」に、他ならない。
従って、
(12)
① ∀x∃y親(xy)
② ∃y∀x親(xy)
③ ∀x∃y親(yx)
④ ∃y∀x親(yx)
といふ「それ」であれば、
① すべての人はある人の親である。
② ある人はすべての人の子である。
③ すべての人はある人の子である。
④ ある人はすべての人の親である。
といふ「意味」になる。
従って、
(13)
② There is a y such that y is child of all x(すべてのxの、子であるところの、yが存在する).
③ Take any x: then there is a y such that y is parent of x(任意のxを選ぶにせよ、するとxの親であるところのyが存在する).
といふのであれば、
② ∃y∀x(xy)=ある人はすべての人のである。
③ ∀x∃y(yx)=すべての人はある人のである。
といふ風に、「翻訳」することになる。
平成30年06月08日、毛利太。

2018年6月6日水曜日

「∀x∃y愛(xy)」等の、3通りの、読み方。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
(01)
① ∀x[∃y〔愛(xy)〕]
に於いて、
① ∀x[ ]⇒[ ]∀x
① ∃y〔 〕⇒〔 〕∃y
①  愛( )⇒( )愛
といふ「移動」を行ふと、
① ∀x[∃y〔愛(xy)〕]⇒
① [〔(xy)愛〕∃y]∀x=
① [〔(xはyを)愛している〕といふyが存在することが]すべてxに対して成り立つ。
といふ風に、読むことなる。
(02)
② ∃y[∀x〔愛(xy)〕]
に於いて、
② ∃x[ ]⇒[ ]∃x
② ∃y〔 〕⇒〔 〕∃y
②  愛( )⇒( )愛
といふ「移動」を行ふと、
② ∃y[∀x〔愛(xy)〕]⇒
② [〔(xy)愛〕∀x]∃y=
② [〔(xはyを)愛している〕ということがすべてのxについて成立する]ようなyが存在する。
といふ風に、読むことなる。
然るに、
(03)
① ∀x[∃y〔愛(xy)〕]
に於いて、
① ∀x[         ]の「内部」は、
①    ∃y〔愛(xy)〕 であって、
①    ∃y〔     〕 の「内部」は、
①       愛(xy)  であって、
①               (  )  の「内部
は、        xy   である。
(04)
② ∃y[∀x〔愛(xy)〕]
に於いて、
② ∃x[         ]の「内部」は、
②    ∀y〔愛(xy)〕 であって、
②    ∀y〔     〕 の「内部」は、
②       愛(xy)  であって、
②               (  )  の「内部」は、
は、        xy   である。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① ∀x[∃y〔愛(xy)〕]
② ∃y[∀x〔愛(xy)〕]
といふ「論理式」を、
① [〔(xはyを)愛している〕といふyが存在することが]すべてxに対して成り立つ。
② [〔(xはyを)愛している〕ということがすべてのxについて成立する]ようなyが存在する。
といふ風に、「読む」といふことは、
① ∀x[∃y〔愛(xy)〕]
② ∃y[∀x〔愛(xy)〕]
といふ「論理式」の、「内部のほうから読んでいく」ということに、他ならない。
然るに、
(06)
① ∀x∃y愛(xy)
といふ「論理式」と、
② ∃y∀x愛(xy)
といふ「論理式」は、全く違う意味になります。大事なのは、「内部のほうから読んでいく」ということです。
① は、「xはyを愛している、というyが存在することが、すべてのxに対して成り立つ」ということになり、
② は、「xはyを愛している、ということがすべてのxについて成立するようなyが存在する」ということになります。
(小島寛之、証明と論理に強くなる、2017年、205・206頁改)
従って、
(05)(06)により、
(07)
大事なのは、「内部のほうから読んでいく」ということです。
といふのであれば、
① ∀x∃y愛(xy)
② ∃y∀x愛(xy)
といふ「論理式」には、
① ∀x[∃y〔愛(xy)〕]
② ∃y[∀x〔愛(xy)〕]
といふ「括弧」が、なければ、ならない。
然るに、
(08)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(08)により、
(09)
① ∀x[∃y〔愛(xy)〕]
であるならば、
① ∀x の「意味」は、
①    ∃y〔愛(xy)〕
に及んでゐて、
①    ∃y の「意味」は、
①      愛(xy)
に及んでゐる。
然るに、
(10)
① ∀x[∃y〔愛(xy)〕]
といふ「述語論理」に於いて、
①       愛
は、「述語」である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① ∀x[∃y〔愛(xy)〕]
に於いて、
① ∀x は、「主語S」であって、
①    ∃y は、「補語O」であって、
①       愛 は、「述語V」である。
従って、
(11)により、
(12)
① ∀x[∃y〔愛(xy)〕]
といふ「述語論理」は、「日本語」と同じく、「左から右へ」、
① すべての人はある人を愛す。
といふ風に、「読む」ことが出来る。
従って、
(12)により、
(13)
(xとy)が人であるならば、
② ∃y[∀x〔愛(xy)〕]
といふ「述語論理」は、
② ある人はすべての人に愛される。
といふ風に、「読む」ことになる。
(12)(13)により、
(14)
(xとy)が人であるならば、
③ ∀x[∃y〔愛(yx)〕]
④ ∃y[∀x〔愛(yx)〕]
といふ「述語論理」は、
③ すべての人はある人に愛される。
④ ある人はすべての人に愛す。
といふ風に、「読む」ことになる。
従って、
(01)(02)(12)(13)(14)により、
(15)
① ∀x[∃y〔愛(xy)〕]
② ∃y[∀x〔愛(xy)〕]
③ ∀x[∃y〔愛(yx)〕]
④ ∃y[∀x〔愛(yx)〕]
といふ「述語論理」には、それぞれ、
① すべての人はある人を愛す。
② ある人はすべての人に愛される
③ すべての人はある人に愛される
④ ある人はすべての人を愛す。
といふ「読み方」と、
① xはyを愛している、というyが存在することが、すべてのxに対して成り立つ。
② xはyを愛している、ということがすべてのxについて成立するようなyが存在する。
③ yはxを愛している、というyが存在することが、すべてのxに対して成り立つ。
④ yはxを愛している、ということがすべてのxについて成立するようなyが存在する。
といふ「読み方」が、あることになる。
然るに、
(16)
① ∀x[∃y〔愛(xy)〕]
② ∃y[∀x〔愛(xy)〕]
③ ∀x[∃y〔愛(yx)〕]
④ ∃y[∀x〔愛(yx)〕]
といふ「述語論理」は、
① すべてのxに対し、あるyが存在し、 xはyを愛す。
② あるyが存在し、すべてのxについて、xはyを愛す。
③ すべてのxに対し、あるyが存在し、 yはxを愛す。
④ あるyが存在し、すべてのxについて、yはxを愛す。
という風にも、「読むこと」が、出来る。
従って、
(15)(16)により、
(17)
例へば、
① ∀x[∃y〔愛(xy)〕]
といふ「述語論理」は、
① すべての人はある人を愛す。
① すべてのxに対し、あるyが存在し、xはyを愛す。
① xはyを愛している、というyが存在することが、すべてのxに対して成り立つ。
といふ「三通り」に、「読むこと」ができる。
然るに、
(18)
言ふまでもなく、
① すべてのxに対し、あるyが存在し、xはyを愛す。
① xはyを愛している、というyが存在することが、すべてのxに対して成り立つ。
といふ「日本語」よりも、
① すべての人はある人を愛す。
といふ「普通の、日本語」の方が、「分りやすい」。
平成30年06月06日、毛利太。

2018年6月5日火曜日

「述語論理」の「括弧」と「返り点」。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
(01)
1 (1)∀x〔∃y(xy=1)〕 A
1 (2)   ∃y(ay=1)  1UE
 3(3)      ab=1   A
 3(4)   ∃x(xb=1)  3EI
 3(5)∃y〔∃x(xy=1)  4EI
1 (6)∃y〔∃x(xy=1)  235EE
従って、
(01)により、
(02)
xとyは、「有理数」であるとして、
① ∀x〔∃y(xy=1)〕:すべての数は、ある数の「逆数」である。
② ∃y〔∃x(xy=1)〕:  ある数は、ある数の「逆数」である。
に於いて、
① は、「本当」であって、
② も、「本当」である。
然るに、
(03)
1 (1)∀x〔∃y(xy=1)〕 A
1 (2)   ∃y(ay=1)  1UE
 3()      b=1   A
 3(4)   ∀x(b=1)  UI
 3(5)∃y〔∀x(xy=1)〕 4EI
1 (6)∃y〔∀x(xy=1)〕 235EE
 に於いて、4行目の、
 3(4)   ∀x(b=1)  UI
は、「マチガイ」である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
xとyは、「有理数」であるとして、
① ∀x〔∃y(xy=1)〕:すべての数は、ある数の「逆数」である。
② ∃y〔∀x(xy=1)〕:ある数は、すべての数の「逆数」である。
に於いて、
① は、「本当」であって、
② は、「ウソ」である。
然るに、
(05)
① すべての数は、ある数の「逆数」である。
② ある数は、すべての数の「逆数」である。
といふことは、「敷衍」すると、
① xにyを掛けると、1になる数yが存在することは、すべてのxに対して、成り立つ。
② xにyを掛けると、1になるといふことが、すべてのxについて成り立つところの数yが存在する。
といふことになる。
従って、
(04)(05)により、
(06)
xとyは、「有理数」であるとして、
① ∀x〔∃y(xy=1)〕:xにyを掛けると、1になる数yが存在することは、すべてのxに対して、成り立つ。
② ∃y〔∀x(xy=1)〕:xにyを掛けると、1になるといふことが、すべてのxについて成り立つところの数yが存在する。
に於いて、
① は、「本当」であって、
② は、「ウソ」である。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① ∀x〔∃y(xy=1)〕
といふ「論理式」には、
① すべての数は、ある数の「逆数」である。
① xにyを掛けると、1になる数yが存在することは、すべてのxに対して、成り立つ。
といふ「二通りの読み方」があって、
(08)
② ∃y〔∀x(xy=1)〕
といふ「論理式」にも、
② ある数は、すべての数の「逆数」である。
② xにyを掛けると、1になるといふことが、すべてのxについて成り立つところの数yが存在する。
といふ「二通りの読み方」がある。
然るに、
(09)
① ∀x〔∃y(xy=1)〕
に於いて、
① ∀x〔 〕⇒〔 〕∀x
① ∃y( )⇒( )∃y
といふ「移動」を行ふと、
① ∀x〔∃y(xy=1)〕⇒
① 〔(xy=1)∃y〕∀x=
① 〔(xにyを掛けると1になる)数yが存在することは〕すべてのxに対して、成り立つ。
といふ「訓読」が成立し、
(10)
② ∃y〔∀x(xy=1)〕
に於いて、
② ∃y〔 〕⇒〔 〕∃y
② ∀x( )⇒( )∀x
といふ「移動」を行ふと、
② ∃y〔∀x(xy=1)〕⇒
② 〔(xy=1)∀x〕∃y=
① 〔(xにyを掛けると1になる)といふことが、すべてのxについて成り立つところ〕数yが存在する。
といふ「訓読」が成立する。
然るに、
(11)
① ∀x ∃y xy=1
① xy=1 ∃y ∀x
① xにyを掛けると、1になる数yが存在することは、すべてのxに対して、成り立つ。
(12)
② ∃y ∀x xy=1
② xy=1 ∀x ∃y
② xにyを掛けると、1になるといふことが、すべてのxについて成り立つところの数yが存在する。
従って、
(09)~(12)により、
(13)
① ∀x〔∃y(xy=1)〕
② ∃y〔∀x(xy=1)〕
に於ける、
①   〔  (    )〕
②   〔  (    )〕
といふ「括弧」は、
① ∀x ∃y xy=1
② ∃y ∀x xy=1
に於ける、
①   三  二   一
②   三  二   一
といふ「返り点」に、相当する。
平成30年06月05日、毛利太。