2014年10月22日水曜日

「一 三 二」等について。

(01)
① 読漢文=漢文を読む。
の「返り点」、すなはち、
① 二 一。
を、
二=読=3
#=漢=1
一=文=2
のやうに、書くことにする。
従って、
(02)
② 文読漢=漢文を読む。
の「点」、すなはち、
② 二 三 一。
を、
二=文=2
三=読=3
一=漢=1
のやうに、書くことにする。
然るに、
(03)
「返り点」は、「下から、上へ返へる点」であるため、
二=文=2
三=読=3
のやうに、「上から、下へ行く点」は、「返り点」ではない。
従って、
(02)(03)により、
(04)
② 文読漢=漢文を読む。
の「点」、すなはち、
② 二 三
を含む、
② 二 三 一。
は、「返り点」ではない。
然るに、
(05)
二=文=2
三=読=3
一=漢=1
を、
二=文
#=読
一=漢
にすると、
二=文=3
#=読=1
一=漢=2
となるため、
② 漢文を読む。
ではなく、
② 読漢を文する。
としか、読めない。
従って、
(04)(05)により、
(05)
① 読漢文=漢文を読む。
に対して、
② 文読漢=漢文を読む。
の場合は、「返り点」を付けることが、出来ない。
(06)
③ 不読漢文=漢文を読まず。
の「返り点」、すなはち、
③ レ 二 一。
を、
レ=不=4
二=読=3
#=漢=1
一=文=2
のやうに、書くことにする。
従って、
(07)
④ 文不漢読=漢文を読まず。
の「返り点」、すなはち、
④ 一 三 二。
を、
一=文=2
三=不=4
#=漢=1
二=読=3
のやうに、書くことにする。
然るに、
(08)
一=文=2
二=読=3
のやうに、「上から、下へ行く点」は、「返り点」ではない。
従って、
(07)(08)により、
(09)
④ 文不漢読=漢文を読まず。
の「点」、すなはち、
④ 一 二
を含む、
④ 一 三 二。
は、「返り点」ではない。
然るに、
(10)
一=文=2
三=不=4
#=漢=1
二=読=3
を、
二=文=2
下=不=4
一=漢=1
上=読=3
に変へた場合は、「上下点は、必ず一二点をまたいで返る場合に用ゐる(原田種成、私の文法講義、1995年、43頁)。」といふ「規則」に、抵触する。
すなはち、
(11)
二=文=2
下=不=4
一=漢=1
の場合は、却って、「一二点が、上点を挟んでゐる。」ため、このやうな「返り点」は、存在しない。
従って、
(09)(11)により、
(12)
いづれにせよ、
③ 不読漢文=漢文を読まず。
に対して、
④ 文不漢読=漢文を読まず。
の場合は、「返り点」を付けることが、出来ない。
従って、
(05)(12)により、
(13)
①   読漢文=漢文を読む。
③ 不読漢文=漢文を読まず。
対して、
②   文読漢=漢文を読む。
④ 文不漢読=漢文を読まず。
の場合は、「返り点」を付けることが、出来ない。
加へて、
(14)
⑤ 不文読漢=漢文を読まず。
の場合も、
四=不=4
二=文=2
三=読=3
一=漢=1
のやうに、
二=文=2
三=読=3
を含んでゐる上に、尚且つ、
レ=不=4
二=文=3
#=読=1
一=漢=2
であれば、
⑤ 不文読漢=読む漢文をず。
であるため、
②   文読漢=漢文を読む。
④ 文不漢読=漢文を読まず。
に加へて、
⑤ 不文読漢=漢文を読まず。
の場合も、「返り点」を付けることが、出来ない。
然るに、
(15)
1.『主述関係』 
2.『修飾関係』 
3.『補足構造』 
4.『並列関係』
右の四つの文法関係は、漢語文法の基礎となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、284頁改)。
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(16)
①   読漢文=漢文を読む。
③ 不読漢文=漢文を読まず。
は、
3.『補足構造』 
が、「逆」である所の、「漢文」であるが、固より、
②  文読漢。
④ 文不漢読。
⑤ 不文読漢。
は、「デタラメ」であって、「漢文」ではない。
然るに、
(17)
「勉誠出版、続「訓読論」、2010年、312頁:川島優子」によると、
⑥ 只管要纏擾我=ヒタスラ 我ガ ヤッカイニナル。
の場合は、
#=只=1
#=管=2
下=要=6
二=纏=4
上=擾=5
一=我=3
である。との、ことである。
然るに、
(18)
⑥ 只管要纏擾我=ヒタスラ 我ガ ヤッカイニナル。
下=要=6
二=纏=4
上=擾=5
一=我=3
は、
⑤ 不文読漢=漢文を読まず。
四=不=4
二=文=2
三=読=3
一=漢=1
と「同様」であるため、このやうな「返り点」は、存在しない。
従って、
(14)~(18)により、
(19)
例へば、
⑥ 只管要纏擾我=ヒタスラ 我ガ ヤッカイニナル。
といふ「白話」は、「デタラメ」であるとは、言へないにしても、少なくとも、「漢文」ではない。
従って、
(20)
⑥ 只管要纏擾我=ヒタスラ 我ガ ヤッカイニナル。
のやうな「白話」が読めるやうになったとしても、「漢文」が読めるやうに、なるわけではない。
平成26年10月22日、毛利太。

2014年10月19日日曜日

返り点(ハイフン有り)と括弧と番号。

(01)
レ=2=読
_=1=書
∵ 書を読む。
(02)
レ=3=不
レ=2=読
_=1=書
∵ 書を読まず。
(03)
二=3=読
#=1=漢
一=2=文
∵ 漢文を読む。
(04)
レ=4=不
二=3=読
#=1=漢
一=2=文
∵ 漢文を読まず。
(05)
三=5=不
#=1=常
二=4=読
#=2=漢
一=3=文
∵ 常には漢文を読ま不。
然るに、
(06)
①読(書)⇒
(書を)読む。
②不〔読(書)〕⇒
〔(書を)読ま〕不。
③読(漢文)⇒
(漢文を)読む。
④不〔読(漢文)〕⇒
〔(漢文を)読ま〕不。
⑤不〔常読(漢文)〕⇒
〔常には(漢文を)読ま〕不。
従って、
(01)~(06)により、
(07)
① 読書=書を読む。
② 不読書=書を読ま不。
③ 読漢文=漢文を読む。
④ 不読漢文=漢文を読ま不。
⑤ 不常読漢文=常には漢文を読ま不。
の「返り点」は、
① レ 。
② レ レ 。
③ 二 一。
④ レ 二 一。
⑤ 三 二 一。
であって、「括弧」は、
①  ( )。
②〔( )〕。
③  ( )。
④〔( )〕。
⑤〔( )〕。
であって、「番号」は、
① 2 1。
② 3 2 1。
③ 3 1 2。
④ 4 3 1 2。
⑤ 5 1 4 2 3。
である。
然るに、
(08)
② 3 2 1。
を、
⑥ 2 3 1。
に変へるならば、
② 不読書=書を読ま不。
は、
⑥ 読不書。
となるものの、
② 不読書=書を読ま不。
に対して、
⑥ 読不書=書を読ま不。
⑥ 231=1を2ま3。
といふ「漢文訓読」は、固より、有り得ない。
従って、
(09)
二=2=読
三=3=不
一=1=書
といふ「返り点」は、有り得ない。
加へて、
(10)
⑥ 2(3〔1)〕。
といふ「括弧」も、有り得ない。
従って、
(08)~(10)により、
(11)
① レ 。
② レ レ 。
③ 二 一。
④ レ 二 一。
⑤ 三 二 一。
①  ( )。
②〔( )〕。
③  ( )。
④〔( )〕。
⑤〔( )〕。
といふ「返り点」と「括弧」に対して、
⑥ 二 三 一。
⑥ 2(3〔1)〕。
といふ「返り点」と「返り点」は、有り得ない。
然るに、
(12)
⑦ 訓‐読 書=書を 訓‐読す。
⑦ 2‐3 1=1を 2‐3す。
であれば、
⑦ 訓‐読(書)=(書を)訓‐読す。
⑦ 2‐3(1)=(1を)2‐3す。
であるため、結局は、
① 読(書)=(書を)読む。
① 2(1)=(1を)2む。
と、変はらない。
然るに、
(13)
⑦ 訓‐読 書=書を 訓‐読す。
⑦ 2‐3 1=1を 2‐3す。
の「返り点」は、
#=訓=2
二=‐
#=読=3
一=書=1
といふ風に、書くことが、出来る。
従って、
(14)
⑧ 不 嘆‐息‐痛‐恨 於桓霊。
⑧ 7 3‐4‐5‐6 #12=
⑧ 7〔3‐4‐5‐6(#12)〕⇒
⑧ 〔(#12)3‐4‐5‐6〕7。
の「返り点」は、
レ=不=7
_=嘆=3
二=‐
#=息=4
#=‐
#=痛=5
#=‐
#=恨=6
#=於
#=桓=1
一=霊=2
といふ風に、書くことが、出来る。
従って、
(14)により、
(15)
⑧ 不〔嘆‐息‐痛‐恨(於桓霊)〕⇒
⑧ 〔(桓霊に)嘆‐息‐痛‐恨せ〕不。
の「返り点」は、
⑧ レ 二 一。
である。
従って、
(07)(15)により、
(16)
⑧ 不〔嘆‐息‐痛‐恨(於桓霊)〕⇒
⑧ 〔(桓霊に)嘆‐息‐痛‐恨せ〕不。
の「返り点」は、
④不〔読(漢文)〕⇒
〔(漢文を)読ま〕不。
の「返り点」と同じく、
⑧ レ 二 一。
であるべきであるが、「学校」等で習ふ、「返り点」としては、
⑧ レ 二 一。
は、「正しく」はない。
(17)
「文部省」が決めた「返り点」としては、
四=不=7
#=嘆=3
二=‐
#=息=4
#=痛=5
三=‐
#=恨=6
#=於
#=桓=1
一=霊=2
が「正しい」。
従って、
(18)
「文部省」が決めた、
⑧ 未[嘗不〔嘆‐息‐痛‐恨(於桓霊)〕]⇒
⑧ 未[嘗〔(於桓霊)嘆‐息‐痛‐恨〕不]不=
⑧ 未だ[嘗て〔(桓霊に)嘆‐息‐痛‐恨せ〕不んばあら]不。
の「返り点」は、
⑧ 五 四 二 三 一。
が、「正しい」。
平成26年10月19日、毛利太。

2014年10月14日火曜日

「返り点」と「括弧」と「番号」。

(01)
次に示す、「縦書き(02)」により、、
① レ 二 レ 一レ 。
といふ「返り点」は、
② レ 下 二 一 中 上。
③ 六 五 二 一 四 三。
④[〔( )( )〕]。
といふ、「三通り」に、「置き換へ」られる。
(02)
二レ一レ
(03)
次に示す、「縦書き(04)」により、
何 不 令 人 謂 韓 叔 曰 秦 之 敢 絶 周 而 伐 韓 者 信 東 周
也 公 何 不 与 周 地 発 質 使 之 楚 秦 必 疑 楚 不 信 周 是
韓 不 伐 也 又 謂 秦 曰 韓 彊 与 周 地 将 以 疑 周 於 秦 也
周 不 敢 不 受。
といふ、「65字からなる漢文」に付く「返り点」は、
レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ 。
といふ、「28個」である。
(04)
甲天逆転
然るに、
(05)
① レ 二 レ 一レ 。
といふ「返り点」が、
② レ 下 二 一 中 上。
③ 6 5 2 1 4 3。
④[〔( )( )〕]。
といふ、「三通り」に、「置き換へ」られるやうに、
何 不 令 人 謂 韓 叔 曰 秦 之 敢 絶 周 而 伐 韓 者 信 東 周
也 公 何 不 与 周 地 発 質 使 之 楚 秦 必 疑 楚 不 信 周 是
韓 不 伐 也 又 謂 秦 曰 韓 彊 与 周 地 将 以 疑 周 於 秦 也
周 不 敢 不 受。
に於ける、
レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ 。
といふ、

「①28個の返り点」は、
己 戊 二 一 人 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 地 天 二 一 丁 二 一 三 二 一 丙 乙 甲。

といふ、
「②レ点を含まない、36個の返り点」と、
36 35 2 1 23 4 3 6 5 8 7 15 10 9 12 11 14 13 17 16 20 19 18 22 21 25 24 34 27 26 30 29 28 33 32 31。
といふ、
「③36個の番号」と、
36〈35{2(1)23[4(3)6(5)8(7)15〔10(9)12(11)14(13)〕17(16)20〔19(18)〕22(21)]25(24)34[27(26)30〔29(28)〕33〔32(31)〕]}〉⇒
〈{(1)223[(3)4(5)6(7)8〔(9)10(11)12(13)14〕15(16)17〔(18)19〕20(21)22](24)25[(26)27〔(28)29〕30〔(31)32〕33]34}35〉36=
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36。
といふ、

「④括弧」に、「置き換へ」ることが出来る。
然るに、
(06)
己 戊 二 一 人 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 地 天 二 一 丁 二 一 三 二 一 丙 乙 甲。
といふ、「②レ点を含まない、36個の返り点」を「観察」すると、
① 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・。
② 上 中 下。
③ 天 地 人。
④ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸。
に於いて、
① の間には、0個以上の①が有り、
② の間には、1個以上の①が有り
③ の間には、1個以上の②が有り、
④ の間には、1個以上の③が有る。
といふことが、分る。
(07)
0個以上の①が有る。
といふのは、
三 二 一=
三 # 一。
ならば、
#=二 
であるが、
二 一=
二 一
の場合には、
#が、0個である。
といふ、「意味」である。
(08)
〈{( )[( )( )( )〔( ) ( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〉。
「④括弧」を、「観察」すると、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
に於いて、
② の中には、一つ以上の①が有り、
③ の中には、一つ以上の②が有り、
④ の中には、一つ以上の③が有り、
⑤ の中には、一つ以上の④が有る。
といふことが、分る。
従って、
(06)(08)により、
(09)
① 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・。
② 上 中 下。
③ 天 地 人。
④ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸。
に於いて、
① の間には、0個以上の①が有り、
② の間には、1個以上の①が有り
③ の間には、1個以上の②が有り、
④ の間には、1個以上の③が有る。
といふことが、分かり、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
に於いて、
② の中には、一つ以上の①が有り、
③ の中には、一つ以上の②が有り、
④ の中には、一つ以上の③が有り、
⑤ の中には、一つ以上の④が有る。
といふことが、分る。
従って、
(05)(09)により、
(10)
36 35 2 1 23 4 3 6 5 8 7 15 10 9 12 11 14 13 17 16 20 19 18 22 21 25 24 34 27 26 30 29 28 33 32 31=
36〈35{2(1)23[4(3)6(5)8(7)15〔10(9)12(11)14(13)〕17(16)20〔19(18)〕22(21)]25(24)34[27(26)30〔29(28)〕33〔32(31)〕]}〉⇒
〈{(1)223[(3)4(5)6(7)8〔(9)10(11)12(13)14〕15(16)17〔(18)19〕20(21)22](24)25[(26)27〔(28)29〕30〔(31)32〕33]34}35〉36=
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36。
といふ「③番号」も、そのやうな「規則性」を持った「番号」である。
といふ、ことになる。
然るに、
(11)
〔ドリル〕
次の数字の順序で読めるように返り点をつけよ。
55 49 3 1 2 33 5 4 8 6 7 10 9 11 12 23 15 13 14 17 16 18 19 20 22 21 25 24 29 28 26 27 32 30 31 36 34 35 48 40 37 38 39 43 42 41 47 46 44 45 54 53 50 51 52。
といふ「問題」の場合も、そのやうな「規則性」を持った「番号」であって、「答へ」は、
亨 人 二 一 丙 レ 二 一 レ 下 二 一 レ 上レ レ レ 二 一 乙 甲 二 一 地 二 一 レ レ 天レ 二 一 元レ 二 一。
である。が、この場合は、
① 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・。
② 上 中 下。
③ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸。
④ 天 地 人。
⑤ 元 亨 利 貞。
の「順番」に、なってゐる。
cf.
元亨(利貞)点 もしくは 乾坤点 天地人点の範囲をまたぐときに用いる。「元亨利貞」は易の言葉である。
然るに、
(12)
55 49 3 1 2 33 5 4 8 6 7 10 9 11 12 23 15 13 14 17 16 18 19 20 22 21 25 24 29 28 26 27 32 30 31 36 34 35 48 40 37 38 39 43 42 41 47 46 44 45 54 53 50 51 52=

39 35 2 # 1 23 4 3 6 # 5 8 7 # # 15 10 # 09 12 11 # # # 14 13 17 16 20 19 # 18 22 # 21 25 # 24 34 27 # # 26 30 29 28 33 32 # 31 38 37 # # 36
の「括弧」は、
〈{( )[( )( )( )〔( ) ( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〔( )〕〉。
である。

然るに、
(13)
ついでに説明しておくと、「一・二・三・ ・・・・・」「上・中・下」「甲・乙・丙・ 
・・・・・」「天・地・人」と、いろいろ上級の返り点があり、それをつけることがあるが、「天・地・人」を使わなければならないような文は、実際にはほとんどない。そんな複雑な長い文は悪文である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、83頁)。
従って、
(14)
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
といふ「括弧」で、「不足」することは、事実上、有り得ない。が、ただし、
六〈五{四[三〔二(一)〕]}〉⇒
〈{[〔(一)二〕三]四}五〉六。
であるため、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
では、「括弧の種類」が不足し、
七 六 五 四 三 二 一。
レ レ レ レ レ レ 。
等を、表すことが、出来ない。
平成26年10月14日、毛利太。

2014年10月6日月曜日

『補足構造(括弧)は有ります!』

(01)
① 悪(寒)⇔(寒きを)悪む。
② 好(暖)⇔(暖きを)好む。
然るに、
(02)
補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 悪(寒)は、(補足構造)であって、
② 好(暖)も、(補足構造)である。
然るに、
(04)
③ 不〔悪(寒)好(暖)〕⇔
③ 〔(寒きを)悪み(暖きを)好ま〕不。
従って、
(01)(04)により、
(05)
③ 不〔悪(寒)好(暖)〕は、
③〔(補足構造)と(捕捉構造)の、補足構造〕である。
cf.
③ ~〔悪(寒)∧好(暖)〕=
③ ~  悪(寒)∨~好(暖)=
③ 寒きを悪むならば、暖きを好まない。
然るに、
(06)
④ 非[不〔悪(寒)好(暖)〕]⇔
④ [〔(寒きを)悪み(暖きを)好ま〕不んば]非ず。
従って、
(01)(06)により、
(07)
④ 非[不〔悪(寒)好(暖)〕]は、
④[〔(補足構造)と(捕捉構造)の補足構造〕の補足構造]である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
④ 非不悪寒好暖 ⇔
④ 寒きを悪み暖きを好ま不んば非ず。
といふ「漢文訓読」は、
④「補足構造と補足構造の、補足構造の、補足構造」に、即してゐる。
然るに、
(09)
否定呼応を用いる言語では、二重に否定語を用いても単純にひとつの否定表現を作るだけであり、論理学的に見た場合は単なる否定である。しかし、否定呼応を用いない言語では、二重に否定語を用いることは論理学的に見るところの「否定」の否定であり、肯定である(ウィキペディア:二重否定)。
従って、
(10)
④ 非不悪寒好暖。
といふ「漢文」の「構造(シンタックス)」が、
④ 非[不〔悪(寒)好(暖)〕]=
④ ~[~〔悪(寒)好(暖)〕]。
といふ形の「二重否定」であるか否かといふことは、「漢文」といふ「言語自体」の「問題」であって、「漢文と訓読」の「問題」ではない。
従って、
(11)
訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だ(洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)といふ風に、「漢文訓読」を否定される、先生であっても、
④ 非不悪寒好暖=
④ 非[不〔悪(寒)好(暖)〕]=
④ ~[~〔悪(寒)好(暖)〕]。
であることに関しては、認めてもらへるものと、思はれる。
従って、
(12)
少なくとも、
④ 非不悪寒好暖 ⇔
④ 寒きを悪み暖きを好ま不んば非ず。
といふ「漢文訓読」に関して、
「漢文訓読とは、漢文(原文)の補足構造に即した、定型的な訳読である。」
といふことを、「否定」される方は、ゐないものと、思はれる。
平成26年10月06日、毛利太。

2014年10月5日日曜日

白話(現代中国)と返り点。

(01)
(1)レ点 下の一字から上の一字に返る場合に用いる。
(2)一二点(一・二・三・・・・・・) 二字以上を隔てて返る場合。
(3)上中下点(上・下、上・中・下) レ点・一二点だけで示しきれない場合。かならず一二点をまたいで返る場合に用いる(数式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えると分かりやすい)。
(4)甲乙丙点(甲・乙・丙・丁) レ点・一二点・上中下点で示しきれない場合。
〔原田種成、私の漢文講義、1995年、40~43頁〕
従って、
(01)により、
(02)
① 下 二 一 中 上。
② 下 中 二 一 上。
に対して、
③ 二 下 上 一 中。
といふ「返り点」、すなはち、
③ 一二点 の間に、上下点 が在る「返り点」は、有り得ない。
然るに、
(03)
① 〔( )( )〕。
② [ 〔( )〕]。
に対して、
③ ([〔 )〕]。
といふ「括弧」、すなはち、
③ ( ) の間に、[〔 が在る「括弧」は、有り得ない。
cf.
① 下〔二(一)中(上)〕⇒
① 〔(一)二(上)中〕下= ① 一 二 上 中 下。
② 下[中〔二(一)上〕]⇒
② [〔(一)二上〕中]下= ② 一 二 上 中 下。
③ 二(下[上〔一)〕中]⇒
③ ([〔一)二〕上中]下= ③ 一 二 上 中 下。
然るに、
(04)
白話文訓読するとどうなるか、玉里本の中から、白和文特有の構造を持つ訓読例を見てみよう。
第二回 二十三葉ウラ
端的看2不5出3這婆-子的本事1来4。(端的に這の婆子の本書を看出し来たらず)
〔勉誠出版、続「訓読」論、2010年、330頁:川島優子〕
従って、
(03)(04)により、
(05)
「白話」の場合は、
③ 二 五 三 一 四=
③ 二 下 上 一 中=
③ ([〔 )〕]。
のやうに、「返り点」や、「括弧」では、表せない「語順」が有る。
従って、
(05)により、
(06)
「漢文訓読」といふ「観点」からすると、「白話」と「漢文」は、完全に、「異なる、言語」であって、
それ故、例へば、
一般做乳母的人對事故從小撫養帶大的總是有一種偏愛、總是覺得與眾不同的:何況這位乳母所撫養帶大的是源氏之君這様稀世的人物呢!(林訳『源氏物語』一 六三頁)
(京都大学大学院・文学研究科編、世界の中の『源氏物語』、149)。
といふ「現代中国(白話)」は、「漢文の知識」では、「全く、読めない」。
(07)
「源氏物語」の冒頭である。といふことから、
從=より、
何況=まして、
であらうことは、「想像」出来ても、それ以外は、「文字通り、全く、読めない」。
平成26年10月05日、毛利太。

2014年10月4日土曜日

「括弧(捕捉構造)は有ります!(2.5)」。

(01)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(01)により、
(02)
「横書きの、漢文」に於いて、
「管到」とは、「左の語が、右のことばのどこまで係るか」ということである。
然るに、
(03)
A(B)CD。
に於いて、
A は Bの「一字」に 係ってゐる。
(04)
A(BC)D。
に於いて、
A は BCの「二字」に 係ってゐる。
(05)
A(BCD)。
に於いて、
A は BCDの「三字」に 係ってゐる。
従って、
(02)~(05)により、
(06)
「管到」は、「括弧」で、表すことが出来る。
従って、
(07)
AB(CD)E。
に於いて、
A が、
B(CD)
に係ってゐるとき、
A〔B(CD)〕E。
といふ「管到」は、〔( )〕で表すことが、出来る。
同様に、
(08)
AB(CD)E。
に於いて、
A が、
B(CD)E
に係ってゐるとき、
A〔B(CD)E〕。
といふ「管到」は、〔( )〕で表すことが、出来る。
然るに、
(09)
読漢文=漢文を読む。
に於いて、
読(漢文)=漢文を読む。
といふ「管到」は、有り得ても、
読(漢)文=漢文を読む。
といふ「管到」は、有り得ない。
従って、
(09)により、
(10)
読漢文=漢文を読む。
の「管到」は、
読(漢文)=漢文を読む。
以外に、有り得ない。
然るに、
(11)
読(漢文)=漢文を読む。
の「否定」は、
読(漢文)=漢文を読む。
といふ「文全体」の、「否定」であるため、
不読(漢文)=漢文を読まず。
の「管到」は、
不〔読(漢文)〕=漢文を読まず。
である。
然るに、
(12)
漢文を読まざる者=漢文を読まず(の連体形)+者(体言)。
であるため、
不〔読(漢文)〕者=漢文を読まざる者。
である。
然るに、
(13)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’といふ空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)。
とあるため、
不〔読(漢文)〕者=漢文を読まざる者。
といふ表術(ステートメント)の「否定」は、
~(不〔読(漢文)〕者)=漢文を読まざる者で~。
である。
然るに、
(14)
この場合は、「漢文」であるため、
不〔読(漢文)〕者=漢文を読まざる者。
の「否定」は、
非〔不〔読(漢文)〕者〕=漢文を読まざる者に非ず。
である。
従って、
(15)
非不読漢文者=漢文を読まざる者に非ず。
の「管到」は、
非[不〔読(漢文)〕者]。
である。
然るに、
(16)
① 非[不〔読(漢文)〕者]⇒
① [不〔読(漢文)〕者]非。
② [不〔読(漢文)〕者]非⇒
② [〔読(漢文)〕不者]非。
③ [〔(漢文)読〕不者]非=
③ [〔(漢文を)読ま〕不る者に]非ず。
に於いて、
① 非[不〔読(漢文)〕者]⇔
③ [〔(漢文を)読ま〕不る者に]非ず。
の「語順」は、「括弧」を介して、「反対」である。
然るに、
(17)
1.『主述関係』 
2.『修飾関係』 
3.『補足構造』 
4.『並列関係』
右の四つの文法関係は、漢語文法の基礎となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、284頁改)。
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(15)(16)(17)により、
(18)
非[不〔読(漢文)〕者]=漢文を読まざる者に非ず。
に於ける「括弧」は、「管到」を表してゐて、尚且つ、『補足構造』を、表してゐる。
従って、
(19)
非不読漢文者=
漢文を読まざる者に非ず。
といふ「漢文訓読」に、『管到(補足構造)』が在る以上、
非不読漢文者=
漢文を読まざる者に非ず。
といふ「漢文訓読」に、「括弧」は有ります!
平成26年10月04日、毛利太。

2014年9月29日月曜日

「括弧(補足構造)は有ります!」

(01)
(一)主述関係 主語   ― 述語。
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語。
(三)補足構造 叙述語 ― 補足語。
(四)並列関係 並列語 ― 並列語。
右の四つの文法関係は、漢語文法の基礎となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、284頁改)。
然るに、
(02)
例へば、
人之悪=人の悪。
の場合は、
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語。
であるが、
称人之悪=人の悪を称す。
は、全体としては、
(三)補足構造 叙述語 ― 補足語。
である。
然るに、
(03)
彼称人之悪=彼人の悪を称す。
は、
SVO=主語+動詞+目的語。
である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
彼称人之悪=彼人の悪を称す。
といふ「漢文訓読」は、
(三)補足構造 叙述語 ― 補足語。
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語。
(一)主述関係 主語     ― 述語。
の、「組み合はせ」で、出来てゐる。
然るに、

(05)
F ⅹ に於いて、
F ⅹ が、『補足関係』に在る時、そのやうな、
F ⅹ を、
F(ⅹ) と、記すことにする。
従って、
(06)
G(ⅹ)
といふ、『補足関係』に於いて、
ⅹ=F(ⅹ) ならば、
G(ⅹ)=G〔F(ⅹ)〕。
従って、
(07)
H(ⅹ)
といふ、『補足関係』に於いて、
ⅹ=G〔F(ⅹ)〕 ならば、
H(ⅹ)=H[G〔F(ⅹ)〕]。
従って、
(08)
H =非
G =不
F =悪
ⅹ=寒
ならば、
H[G〔F(ⅹ)〕]=
非[不〔悪(寒)〕]。
は、『補足構造』を、表してゐる。
従って、
(09)
非不悪寒=寒きを悪ま不るに非ず。
といふ「漢文訓読」は、
(三)補足構造 叙述語 ― 補足語。
だけの、「組み合はせ(合成)」で、出来てゐる。
然るに、
(10)
非[不〔悪(ⅹ)者〕]也。
に於いて、
ⅹ=称(人之悪)而道(己之長)。
といふ、「代入」を行ふ。
従って、
(08)(10)により、
(11)
非{不[悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也。
は、
非不悪称人之悪而道己之長者也。
といふ「漢文」の、『補足構造』を、表してゐる。
然るに、
(12)
非不悪称人之悪而道己之長者也。
といふ「漢文」の、『補足構造』が、
非{不[悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也。
といふ「括弧」で表せることは、純粋に、「漢文の文法」に属してゐるのであって、直接には、「訓読」の問題ではない。
然るに、
(13)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。 管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳案主人、漢文法基礎、1984年、339頁)。

従って、
(12)(13)により、
(14)
非{不[悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也 ⇔{[〔(人の悪を)称して(己の長を)道ふ者を〕悪ま]不るに}非ざるなり。
に於いて、
左辺=『漢文の、補足構造』。
右辺=『国語の、補足構造』。
であるが、「左(右)の語が、右(左)のことばのどこまでかかるか」といふ、「管到」の立場からすれば、
非{不[悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也 ={[〔(人の悪を)称して(己の長を)道ふ者を〕悪ま]不るに}非ざるなり。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(12)(14)により、
(15)
非不悪称人之悪而道己之長者也。
といふ「漢文」を、
人の悪を称して己の長を道ふ者を悪ま不るに非ざるなり。
といふ風に、「訓読」することは、
非不悪称人之悪而道己之長者也。
といふ『漢文の、捕捉構造』を、
非{[不〔悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也。
といふ風に、捉へてゐることに、他ならない。
然るに、
(16)
例へば、
非不悪 ・ ・ ・ ・ ・ 也。 は、
悪(にく)まないのではないのである。
とは、決して、読まないため、
悪ま不るに非ざるなり。
といふ「言ひ方」は、実質的に、他には、「読みやう」が無い。
従って、
(12)(15)(16) により、
(17)
「訓読」は、「原文(漢文)」の「捕捉構造(管到)」に即した、「定型的な訳読」である。
然るに、
(18)
非不悪称人之悪而道己之長者也=
人の悪を称して己の長を道ふ者を悪ま不るに非ざるなり。
に対する、「返り点」は、
レ レ 下 二 一 二 一 上。
従って、
(18)により、
(19)
非不悪称人之悪而道己之長者也 ⇒
非{[不〔悪〔称(人之悪)而道(己之長)者〕]}也。
に於ける、
{[〔( )( )〕]}。
といふ「括弧」は、
レ レ 下 二 一 二 一 上。
といふ「返り点」に、「対応」する。
cf.
倉石先生2
従って、
(17)(19)により、
(20)
「返り点」が有るからこそ、例へば、
「新釈漢文大系 全120巻(別巻1) - 明治書院」は、
「原文(漢文)」の「補足構造(管到)」に即した、「定型的な訳読」である。といふ、ことになる。
然るに、
(21)
満洲人の努力は無駄ではなかった。「世界の言語ガイドブック」⑯という本によれば、現代に満洲語を習得するメリットは支那の古典を満洲語に翻訳されたものから理解できることであ
る、というのだ。つまり漢文は誰にとっても難しいが、通常の言語体系である満洲語によって古典を習得できるというのだ。満洲語により支那の古典を理解することは、ルネッサンスの時代にヨーロッパ人がアラビア語からラテン語の古典を理解したのに似ている(Webサイト:漢民族滅亡論2)。
然るに、
(20)により、
(22)
日本語を習得すれば、「原文(漢文)」の「捕捉構造(管到)」が分かるだけでなく、「通釈」により、支那の古典を「現代日本語」に翻訳されたものから理解できることになる。
加へて、
(23)
北京語は満洲語がルーツである(Webサイト:漢民族滅亡論2)。
満州語は類型論的に膠着語に分類され、語順は日本語と同じく「主語―補語―述語 (SOV)」の順である。修飾語は被修飾語の前に置かれる。
また、関係代名詞がなく代わりに動詞が連体形を取って名詞を修飾するのも日本語と同様である。
さらに、日本語同様、動詞を活用する(動詞語幹に接尾辞を付ける)ことで、日本語で言う過去形や連用形と同じ働きを、動詞に持たせることができる(ウィキペディア)。
従って、
(22)(23)により、
(24)
例へば、
学而時習之。
を、北京語(≒満州語)で読んで、北京語(≒満州語)で理解しなければ、支那の古典が、理解できない。とは、私には、思へない。
平成26年09月29日、毛利太。

2014年9月27日土曜日

「括弧(管到)は有ります!!」(Ⅳ)。

(01)
「直読」か「訓読」かは、日本の中国研究者にとって長年の課題であり、たえず蒸し返された問題であった(勉誠出版、「訓読論」、2008年、2頁:中村春作)。大学に入っても、一般
に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。専門家と称する人たちの大部分、99.9パーセントは(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである。これは厳たる事実である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、62頁)。
従って、
(01)により、
(02)
① 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求むる者  ={直読派}。
② 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者=〈訓読派〉。
然るに、
(03)
漢文よみを止めて中国語(その当時は支那語でしたが)でもってよまなければならない。 それは徳川時代にも荻生徂徠がいっぺんやったことだが、今はもっとやりよい時代だから大いに
やらなければならない。
(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、21頁)
従って、
(02)(03)により、
(04)
③ 倉石先生非〈訓読派〉=
③ 倉石先生は〈訓読派〉に非ず=
③ 倉石先生は〈訓読派〉ではない。
といふ「命題」は、「真(本当)」である。
然るに、
(05)
② 不求以解中国語法解漢文者=
② 不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者⇒
② {[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者=
② {[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者=
② 中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者=〈訓読派〉。
従って、
(04)(05)により、
(06)
② を、
③ に、「代入」すると、
③ 倉石先生非〈訓読派〉=
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
③ 倉石先生〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非=
③ 倉石先生は〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ず=
③ 倉石先生は、中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ず=
③ 倉石先生は、〈訓読派〉ではない。
といふ「命題」は、「真(本当)」である。
然るに、
(07)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。 管到とい
うのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
③ 倉石先生 が、
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「命題」を、「真(本当)」であるとするならば、
③ 倉石先生 は、
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「漢文」に対して、
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇒
③ 倉石先生〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非=
③ 倉石先生〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ず。
といふ「管到(捕捉構造)」を、認めざるを、得ない。
然るに、
(09)
③ 倉石先生 が、
③ 倉石先生は〈訓読派〉ではない=
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「命題」を、「偽(ウソ)」であるとすることは、有り得ない。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ 倉石先生 は、
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者=
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
といふ「管到(補足構造)」を、認めざるを、得ない。
加へて、
(11)
とっくに結論が出ている。清朝における北京官話とは満洲語である。そして英和辞典のmandarinとは北京官話と同時に北京語ともある。北京語は満洲語であるという結論が論理的に導か
れる。北京語は満洲語がルーツである(Webサイト:漢民族滅亡論2)。
従って、
(12)
もっとも手近に考へれば、日本人が日本のことを研究する方法だって、つまり、この順序を踏んでゐるので、小学校で現代の日本語を学び、今の文章を読み、次第に、古い書物を研究し
て行くのである。支那のことだけが例外でなければならないと云ふ筈はない(勉誠出版、「訓読論」、2008年、58頁:陶徳民)。
といふ「(倉石先生の)主張」は、この場合には、成立しない。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
といふ「漢字の列」を、「日本漢字音」や「北京語(満州語)の音」で、「音読」したからと言って、それだけでは、
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
といふ「管到(補足構造)」を、「把握」した上で、読んでゐることには、ならない。
然るに、
(14)
③ 倉石先生非不求以解中国語法解漢文者。
に対する、
③ 〈{[〔( )( )〕]}〉。
といふ「括弧」は、
③ 地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天。
といふ「返り点」に、「対応」する。

cf.
倉石先生
従って、
(14)により、
(15)
③ 地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天。
といふ「返り点」に頼って、それを読んでゐる場合であっても、
③ 倉石先生は、中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ず。
といふ「訓読」は、
③ 倉石先生非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
といふ「管到(補足構造)」に即した「形」で、読んでゐる。ことになる。
従って、
(15)により、
(16)
「訓読」は、「原文(漢文)」の「補足構造(管到)」に即した、「定型的な訳読」である。
従って、
(13)(16)により、
(17)
私自身は、「訓読」が、「(北京語による)直読」よりも劣った「読み方」である。とする意見には、与しない。
平成26年09月27・28日、毛利太。

(18)
ドイツ語は、欧州の言葉である。といふ意味で、ドイツ語は、欧州語である。
ラテン語も、欧州の言葉である。といふ意味で、ラテン語は、欧州語である。
然るに、
(19)
「ラテン語」を学ぶ際に、「欧州語(ドイツ語)」の学習は、不要であって、それ故、
「漢文」   を学ぶ際に、「中国語(北京語)」 の学習が、不要であっても、オカシクは、ない。
(20)
日本の支那学者は、今日にいたるまで、支那の書物を読むのに、わざわざ発表の順序を顚倒して、日本語の約束になほして見ないと気が済まず、さういう順序に考へなほさないと、頭へ入らない習慣にとらはれてゐる(勉誠出版、「訓読論」、2008年、59頁:陶徳民)。
然るに、
(21)
① 非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉⇔
② 〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非。
に於いて、「語順」は異なってゐても、「補足構造(管到)」は、変はらない。
従って、
(22)
その「意味」で、
① 非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
と、
② 〈{[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非。
は、
① 〈{[〔( )( )〕]}〉。
を介して、「同じ語順」であると、見做すことが、出来る。
従って、
(23)
① 非〈不{求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}者〉。
② 〈{[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ず。
といふ二つは、「論理的」には、「同じ語順」であると、見なすことが、出来る。
平成26年09月28日、毛利太。