2017年4月24日月曜日

「三段論法」の「は・が」(Ⅱ)。

(01)
① 東京は日本の首都である。は、本当である。
① 日本の首都は東京である。は、本当である。
① 東京以外は日本の首都ではない。は、本当である。
然るに、
(02)
② 東京は日本である。は、本当である。
② 日本は東京である。は、ウソである。
② 東京以外は日本ではない。は、ウソである。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① A以外はBでない。
であるならば、その時に限って、
① BはAである。
従って、
(03)により、
(04)
① AはBであり(、A以外はBでない)。
ならば、その時に限って、
① AはBであり(、BはAである)。
然るに、
(05)
問題 真理表を使って以下の推論の妥当性を判定しなさい。妥当でない推論については、そのときの要素命題の真理値を明記すること。
① 次郎か三郎が犯人だ。
  次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。 (選言三段論法)
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、58頁)
答へ:
~(~P&~Q)=P∨Q=~(~P)∨Q=~P→Q
~(~P&~Q)=Q∨P=~(~Q)∨P=~Q→P
であるため、「推論」は「妥当」である。
然るに、
(06)
① 次郎か三郎が犯人だ。
  次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。
といふことは、
① 三郎以外(次郎)は犯人でない。
① 犯人は三郎である。
といふことに、他ならない。
然るに、
(07)
① 犯人は三郎である。
① 三郎以外は犯人でない。
と言ふのであれば、
① 三郎が犯人だ。
と言ふのであって、
② 三郎は犯人だ。
とは、言はない。
従って、
(05)(07)により、
(08)
① 次郎か三郎が犯人だ。
  次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。 (選言三段論法)
といふ「推論」からも、分るやうに、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AはBであり(、A以外はBでない)。
といふ、「意味」である。
然るに、
(09)
② AはBである。
といふ「日本語」は、
② AはBである。
といふ、「意味」である。
従って、
(04)(08)(09)により、
(10)
① AがBである=AはBであり(、A以外はBでない)。
① AがBである=AはBであり(、BはAである)。
② AはBである=AはBである。
然るに、
(11)
Definition of exclusive proposition
: a proposition in logic whose predicate is asserted to apply to its subject and no other “none but the brave deserves the fair” is a simple exclusive proposition.
(www.merriam-webster.com)
従って、
(10)(11)により、
(12)
① AがBである=AはBであり(、A以外はBでない)。
といふ「日本語」は、「排他的命題(exclusive proposition)」である。
然るに、
(13)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
    b.Ton SENT Mary flowers.
    c.Tom sent MARY flowers.
    d.Tom sent Mary FLOWERS.
”Tom sent Mary flowers.”(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を
強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
従って、
(13)により、
(14)
a.TOM sent Mary flowers.
に於いて、
a.TOM を、「強調」して言ふと、
a.TOM以外はメアリーに花を送っていない。
といふ、ことになる。
従って、
(12)(14)により、
(15)
a.TOM sent Mary flowers.
がさうであるやうに、「強調形」は、「排他的命題」を、主張する。
然るに、
(16)
「Aが」の「が」は、「濁音」であって、
「Aは」の「は」は、「清音」である。
然るに、
(17)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(12)(15)(16)(17)により、
(18)
① AがBである=AはBであり(、A以外はBでない)。
といふ「日本語」は、「排他的命題(exclusive proposition)」であって、
① Aが は、
② Aは に対する、「(濁音による)強調形」であり、「強調形」は、「排他的命題」を、主張する。
然るに、
(19)
wakwak1234123さん2008/2/1815:08:27
韓国語で「~は」は~ヌン、「~が」は~ガ と考えてよいのでしょうか?
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corea828さん 2008/2/1822:54:42
基本的にはそれでよいと思いますが、やはり外国語。日本語と100%互換性があるとは言えません。
然るに、
(20)
① 次郎か三郎が犯人だ。
  次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。
を、「グーグル」で英訳すると、
① Jiro or Saburo is the culprit.
  Jiro is not the culprit.
∴ Saburo is the culprit.
(21)
① Jiro or Saburo is the culprit.
  Jiro is not the culprit.
∴ Saburo is the culprit.
を、「グーグル」で韓国語にすると、
① 지로 또는 사부로가 범인이다.
  지로는 범인이 아닙니다.
∴ 사부로가 범인입니다.
従って、
(18)~(21)により、
(22)
① 三郎が犯人だ=三郎は犯人であり(、三郎以外は犯人ではない)。
といふ「日本語」がさうであるやうに、
① 사부로가 범인입니다.
といふ「韓国語」の場合も、「(濁音による)強調形」であり、「排他的命題」である。
といふ、「推測」が、可能である。
平成29年04月25日、毛利太。

2017年4月23日日曜日

「三段論法」の「は・が」。

(01)
「Aは」の「は」は、「清音」であって、
「Aが」の「が」は、「濁音」である。
然るに、
(02)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
「Aが」は、「Aは」に対する、「(濁音による)強調形」である。
然るに、
(04)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
    b.Ton SENT Mary flowers.
    c.Tom sent MARY flowers.
    d.Tom sent Mary FLOWERS.
”Tom sent Mary flowers.”(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
従って、
(03)(04)により、
(05)
「AはBである。」
に対する、
「AがBである。」
といふ「強調形」は、
「AはBであって、A以外はBでない。」
といふ「意味」に、なるものの、そのやうな「命題」を、
「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(05)により、
(06)
① 三郎が犯人である。
といふ「日本語」は、
① 三郎は犯人であって、三郎以外は犯人ではない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(07)
問題 真理表を使って以下の推論の妥当性を判定しなさい。妥当でない推論については、そのときの要素命題の真理値を明記すること。
① 次郎か三郎が犯人だ。
  次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。 (選言三段論法)
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、58頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 次郎か三郎が犯人だ。
  次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。 (選言三段論法)
といふ「推論」に於ける、
① 三郎が犯人である。
といふ「日本語」は、
① 三郎は犯人であって、三郎以外(次郎)は犯人ではない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(09)
① 次郎か三郎が犯人だ。
といふ、「日本語」は、
① 次郎が犯人である。か、三郎が犯人である。
といふ、「複合命題」である。
然るに、
(10)
① 次郎が犯人である。か、三郎が犯人である。
といふ、「複合命題」は、
② 次郎が犯人でないならば、三郎が犯人である。
といふ「仮言命題」と、その「対偶」である、
③ 三郎が犯人でないならば、次郎が犯人である。
といふ「仮言命題」に等しい。
cf.
~(~P&~Q)=P∨Q=~(~P)∨Q=~P→Q
~(~P&~Q)=Q∨P=~(~Q)∨P=~Q→P
∴
PでないならばQである。⇔
QでないならばPである。⇔
PでなくてQでない。といふことはない。⇔
QでなくてPでない。といふことはない。
然るに、
(08)(10)により、
(11)
① 次郎か三郎が犯人だ。
といふ「日本語」は、
② 次郎が犯人ではなく(、次郎以外が犯人である)ならば、三郎が犯人である。
③ 三郎が犯人ではなく(、三郎以外が犯人である)ならば、次郎が犯人である。
といふ、「意味」になる。
従って、
(05)(11)により、
(12)
③ 三郎が犯人ではないならば、次郎が犯人である。
といふ「仮言命題」に於いて、
③ 三郎が犯人ではない。
といふ「前件」は、
③ 三郎は犯人はなく(、三郎以外が犯人である)。
といふ、「排他的命題」である。
従って、
(05)(12)により、
(13)
③ 三郎が犯人ではないならば、
③ 三郎が犯人ならば、
に対して、
④ 三郎は犯人ではないならば、
④ 三郎は犯人ならば、
といふ風に、言はないことは、「理に適ってゐて、自然である」。
然るに、
(14)
④ 明日が晴れならば、
に対して、
④ 明日は晴れならば、
とも、言はない。
然るに、
(15)
例へば、
④ 明日が晴れならば、釣りに行く。
と言ふのであれば、
④(明日以外ではなく、)明日が晴れならば、釣りに行く。
といふことに、他ならない。
従って、
(05)(15)により、
(16)
④(明日以外ではなく、)明日_晴れならば、釣りに行く。
といふのであれば、
④ 明日は晴れならば、釣りに行く。
とは言はずに、
④ 明日が晴れならば、釣りに行く。
と言ふことは、「理に適ってゐて、不自然ではない」。
従って、
(13)(16)により、
(17)
③ 三郎が犯人ならば、次郎は犯人ではない。
④ 明日が晴れならば、釣りに行く。
と言ふことは、「理に適ってゐて、自然である」。
従って、
(17)により、
(18)
③ AがBならば、Cである。
④ AはBならば、Cである。
に於いて、
③ が「正しく」、
④ は「間違ひ」である。
然るに、
(19)
④ 太郎は日本人ならば、東洋人である。
  太郎は日本人ではない。
∴ 太郎は東洋人ではない。
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、58頁) 
従って、
(18)(19)により、
(20) 
④ 太郎は日本人ならば、東洋人である。
といふ「例文」は、
③ 太郎が日本人ならば、東洋人である。
といふ風に、書き直すべきである。
然るに、
(21)
④ 太郎は日本人ならば、太郎は東洋人である。
⑤ 太郎は日本人なので、太郎は東洋人である。
に於いて、
④ は、ともかく、
⑤ は、「日本語として、完全に、正しい」。
(22)
⑥ 太郎は日本人である。ならば、太郎は日本人である。
といふ「トートロジー」であれば、
⑥ は、「論理的に、完全に、正しい」。
然るに、
(23)
④ 太郎は日本人ならば、東洋人である。
⑤ 太郎は日本人なので、太郎は東洋人である。
⑥ 太郎は日本人である。ならば、太郎は日本人である。
といふ「例文」を、「繰り返し読んでゐる」と、「次第に、混乱し」、
④ 太郎は日本人ならば、東洋人である。
といふ「日本語」も、「間違ひ」ではない(?)のではと、思へて来る。
然るに、
(24)
それでも尚、
③ AがBならば、Cである。
④ AはBならば、Cである。
であれば、明らかに、
③ が「正しく」、
④ は「間違ひ」である。
(25)
「私は(僕は)」を韓国語では?
韓国語で「私は(僕は)」を「나는(ナヌン)」と言います。
丁寧な言い方では「저는(チョヌン)」と言われます。
「私が(僕が)」を韓国語では?
韓国語で「私が(僕が)」を「내가(ネガ)」と言います。
丁寧な言い方では「제가(チェガ)」と言われます。
(coneru-web.com › 韓国語)
然るに、
(26)
내가(ネガ)の「가(ガ)」は、「日本語」と同く、「が」である。
然るに、
(27)
③ AがBならば、Cである(A ga Bnaraba, Cdearu)。
を、「グーグル翻訳」に掛けたところ、
③ A가 B이면 C이다(Aga Bimyeon Cida).
とのことである。
然るに、
(28)
残念なことに、私自身は、「韓国語(朝鮮語)」を、全く知らない。
従って、
(09)
「日本語」の「は・が」と、「韓国語(朝鮮語)」の「ヌン・ガ」を「比較」することは、私には、出来ない。
平成29年04月23日、毛利太。

2017年4月21日金曜日

初めに「括弧」ありき。

(01)
「聞鳥啼」を「鳥の啼くを聞く」と訓読することを示すためには、「啼」の文字から「聞」の文字に返って読むので「レ」の符号では間に合わない。このようなときには「一・二」の符号をもちい、「一」のつけられた文字から「二」のつけられた文字に返って読むことを示す。この符号を「一二点」とよぶ。
 聞二鳥啼一。
「聞鳥啼樹」を「鳥の樹に啼くを聞く」と訓読するときには、前記の「レ」と「一・二」を合わせてもちいることになり、「啼樹」の部分には「レ」を、「聞・・・・・啼」には「一・二」の符号をつけて示す。
 聞二鳥啼一レ樹。
(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、19・20頁改)
然るに、
(02)
① 我聞鳥啼樹。
② I hear birds singing in the trees.
といふ「命題」に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
② I hear birds singing in the trees.
であるならば、
Q:What do you hear?
A:I hear birds singing.
Q:Where are they singing?
A:In the trees.
である。
従って、
(03)により、
(04)
② I hear birds singing in the trees.
であるならば、
② I hear の「意味」は、
② birds singing in the trees.
に及んでゐて、
② birds singing の「意味」は、
② in the trees.
に及んでゐる。
従って、
(02)(04)により、
(05)
① 我聞鳥啼樹。
であるならば、
① 我聞 の「意味」は、
① 鳥啼樹。
に及んでゐて、
① 鳥啼 の「意味」は、
① 樹
に及んでゐる。
然るに、
(06)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(06)により、
(07)
括弧は、① 我聞 の「意味」が及ぶ範囲を明示する働きを持ち、
括弧は、① 鳥啼 の「意味」が及ぶ範囲を明示する働きを持つ。
従って、
(05)(07)により、
(08)
① 我聞鳥啼樹=
① 我聞〔鳥啼(樹)〕。
である。
然るに、
(09)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。目的語と補語とはそれほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と呼んだり、単に補語と呼んだりしている(江連隆、基礎からの漢文、1993年、26頁)。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 我聞鳥啼樹。
といふ「漢文」に、
① 我聞〔鳥啼(樹)〕。
といふ「補足構造」が、有るならば、
① 我、鳥の樹に啼くを聞く。
といふ「国語」には、
① 我〔鳥の(樹に)啼くを〕聞く。
といふ「補足構造」が、有ることになる。
従って、
(01)(10)により、
(11)
① 我聞鳥啼樹。
といふ「漢文」に、
① 我聞二鳥啼一レ樹。
といふ「返り点」が付く「所以」は、
① 我聞鳥啼樹。
といふ「漢文」に、
① 我聞〔鳥啼(樹)〕。
といふ「補足構造」が有って、尚且つ、
漢文の「補足構造」に於ける語順は、国語とは全く反対である。からである。
然るに、
(12)

(13)
① 我〔鳥の(樹に)啼くを〕聞く。
② 鳥獣は吾[〔(之と)与に(群れを)同じくす〕可から]ず。
③ [〔(外人に)為に道ふに〕足ら]ざるなり。
④ 耕す者[〔以て(益々急なら)ざる〕可から]ず。
⑤ {[〔(己に)如か〕ざる者]友とする}無かれ。
⑥ 当世の士大夫{[〔(劉老人)有るを〕知ら]ざる者}無し。
⑦ 聖人の〔(知ら)ざる〕所、未だ{必ずしも[〔愚人の(知る)所と〕為さ]ずんばあら}ざるなり。
⑧ 曽子の母〈{[子の〔(人を)殺さ〕ざるを]知ら}ざるに〉非ざるなり。
従って、
(11)~(13)により、
(14)
① 我聞鳥啼樹。
② 鳥獣吾不可与之同群。
③ 不足為外人道也。
④ 耕者不可以不益急矣。
⑤ 無友不如己者。
⑥ 当世士大夫無不知有劉老人者。
⑦ 聖人所不知、未必不為愚人所知也。
⑧ 曽子之母非不知子不殺人也。
といふ「漢文」に、
① 我聞〔鳥啼(樹)〕。
② 鳥獣吾不[可〔与(之)同(群)〕]。
③ 不[足〔為(外人)道〕]也。<br><br>
④ 耕者不[可〔以不(益急)〕]矣。
⑤ 無{友[不〔如(己)〕者]}。
⑥ 当世士大夫無{不[知〔有(劉老人)〕]者}。
⑦ 聖人所〔不(知)〕、未{必不[為〔愚人所(知)〕]}也。
⑧ 曽子之母非〈不{知[子不〔殺(人)〕]}〉也。
といふ「補足構造」が有るからこそ、それらに対して、
① 二 一レ
② レ 二 レ 一レ
③ レ 下 二 一 上
④ レ 三 二 一
⑤ レ 二 レ レ 一
⑥ 下 レ レ 二 一 上
⑦ レ レ 二 一レ 二 一レ 
⑧ レ レ 二 一レ レ
といふ「返り点」が、付くことになるのであって、「逆」ではない。
従って、
(14)により、
(15)
① 我、鳥の樹に啼くを聞く。
② 鳥獣は、吾、之と与に群れを同じくす可からず。
③ 外人に為に道ふに足らざるなり。
④ 耕す者以て益々急ならざる可からず。
⑤ 己に如かざる者友とする無かれ。
⑥ 当世の士大夫劉老人有るを知らざる者無し。
⑦ 聖人の知らざる所、未だ必ずしも愚人の知る所と為さずんばあらざるなり。
⑧ 曽子の母、子の人を殺さざるを知らざるに非ざるなり。
といふ風に、読まうと、読むまいとに拘はらず、
① 我聞鳥啼樹。
② 鳥獣吾不可与之同群。
③ 不足為外人道也。
④ 耕者不可以不益急矣。
⑤ 無友不如己者。
⑥ 当世士大夫無不知有劉老人者。
⑦ 聖人所不知、未必不為愚人所知也。
⑧ 曽子之母非不知子不殺人也。
といふ「漢文」には、
① 〔( )〕
② [〔( )( )〕]
③ [〔( )〕]
④ [〔( )〕]
⑤ {[〔( )〕]}
⑥ {[〔( )〕]}
⑦ 〔( )〕{[〔( )〕]}
⑧ 〈{[〔( )〕]}〉
といふ「括弧(補足構造)」が、有ることになる。
従って、
(16)
初めに「括弧」ありき。「括弧」は漢文とともにありき。
漢文に「括弧」ありて、然る後に「返り点」あり。
である。
従って、
(17)
例へば、
① 我聞鳥啼樹。
といふ「漢文」を、
① ガブンテウテイジュ。
① 我、鳥の樹に啼くを聞く。
① I hear birds singing in the trees.
① Mi aŭdas birdoj kantante en la arboj.
① Wǒ tīngdào niǎo er zài shù shàng chànggē.
① J'entends les oiseaux chanter dans les arbres.
といふ風に、読まうと、読むまいとに拘はらず、
① 我聞鳥啼樹。
といふ「漢文」の、
① 我聞〔鳥啼(樹)〕。
といふ「括弧(補足構造)」を、「無視」することは、出来ない。
平成29年04月21日、毛利太。

2017年4月20日木曜日

「古文」にも「括弧」は有ります。

(01)
また、「聞鳥啼」を「鳥の啼くを聞く」と訓読することを示すためには、「啼」の文字から「聞」の文字に返って読むので「レ」の符号では間に合わない。このようなときには「一・二」の符号をもちい、「一」のつけられた文字から「二」のつけられた文字に返って読むことを示す。この符号を「一二点」とよぶ。
  聞二鳥啼一。
(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、19・20頁)
従って、
(02)
① 聞鳥啼=
① 聞二鳥啼一=
① 聞(鳥啼)⇒
① (鳥啼)聞=
① (鳥の啼くを)聞く。
である。
然るに、
(03)
言ふまでもなく、「書き下し文」であれば、
① 鳥の啼くを聞く。
であって、
①(鳥の啼くを)聞く。
のやうに、
①(     )
が付くことはない。
然るに、
(04)
① 鳥の啼くを聞く。
といふ「古文」に、その実、
①(鳥の啼くを)聞く。
といふ「括弧」が有るのであれば、
② 雪の降るを詠む。
といふ「古文」にも、
②(雪の降るを)詠む。
といふ「括弧」が有る。
然るに、
(05)
② 雪の降るを詠む。
といふ「古文」に、
②(雪の降るを)詠む。
といふ「括弧」が有るのであれば、
③ 雪の降りけるを詠める。
といふ「古文」にも、
③(雪の降りけるを)詠める。
といふ「括弧」が有る。
cf.
② 雪の(格助詞)降る(連体形)を(格助詞)詠む(終止形)。
③ 雪の(格助詞)降り(連用形)ける(助動詞・連体形)を(格助詞)詠め(已然形)る(助動詞・準体法)。
然るに、
(06)
 雪の降りけるをよめる。
という文は、「雪の降りける」という文節に対して、もうひとつ「よめる」という文節が関係しているわけで、全体として「・・・・・を・・・・・する」という形の文節関係になっている。
そのなかの「雪の降りける」において、「雪」が「降りける」の主語であることを、格助詞の「の」で示したのである。こんな場合、
 雪降りけるをよめる。
とは言わない。数学の式のようにしてあらわすなら、
 (aのb)をc。
となるわけわけであるが、もっと文節関係が加わって、
 〔(aのb)がc〕がd。
といった形になることもある。
(小西仁一、古文研究法、1955年初版、2015年、280頁)
従って、
(05)(06)により、
(07)
少なくとも、
① 鳥の啼くを聞く。
② 雪の降るを詠む。
といふ「日本語」には、
①(鳥の啼くを)聞く。
②(雪の降るを)詠む。
といふ「括弧」が有る。
といふ風に、小西先生は、述べてゐる。
平成29年04月20日、毛利太。

2017年4月18日火曜日

「大日本帝國は」の「は」。

(01)
① 大日本帝國者万世一系天皇之所統治國也。
① 大日本帝國は万世一系の天皇の統治する所の國なり。
であれば、
①「大日本帝國は」は、「主語」である。
然るに、
(02)
② 大日本帝國者万世一系天皇之所統治國也。
② 大日本帝國が万世一系の天皇の統治する所の國である。
であっても、
②「大日本帝國が」は、「主語」である。
然るに、
(03)
③ 大日本帝國万世一系天皇統治之。
③ 大日本帝國は万世一系の天皇、之を統治す。
であれば、
③ 之を=大日本帝國を
である。
従って、
(03)により、
(04)
③ 大日本帝國は万世一系の天皇、之を統治す。
であれば、
③「大日本帝國は」 は、「目的語」であって、
③「万世一系の天皇」が、「 主語 」である。
cf.
現代語訳
第1条 大日本帝國は、万世一系の天皇が、これを統治する。
(中学校社会 公民/大日本帝國憲法 - Wikibooks)
然るに、
(05)
④ 大日本帝國万世一系天皇統治之。
④ 大日本帝國が万世一系の天皇、之を統治す。
であれば、
④「大日本帝國が」が、「主語」である。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
① 大日本帝國は万世一系の天皇の統治する所の國なり。
② 大日本帝國が万世一系の天皇の統治する所の國である。
③ 大日本帝國は万世一系の天皇、之を統治す。
④ 大日本帝國が万世一系の天皇、之を統治す。
に於いて、
①「大日本帝國は」は、「 主語 」である。
②「大日本帝國が」は、「 主語 」である。
③「大日本帝國は」は、「目的語」である。
④「大日本帝國が」は、「 主語 」である。
然るに、
(07)
⑤ 太陽は地球の周りを廻ってゐる。
⑥ 地球は太陽の周りを廻ってゐる。
に於いて、
⑤ は、「間違ひ」であって、
⑥ が、「正しい」。
然るに、
(08)
⑤ The sun goes aroud the earth.
⑥ The earth goes aroud the sun.
に於いて、
⑤ は、「間違ひ」であって、
⑥ が、「正しい」といふことを、「主張」する場合は、
⑥ The earth を、「強く、発音」するはずである。
然るに、
(09)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中國語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(09)により、
(10)
日本語の場合は、
⑥「地球は(清音)」よりも、
⑥「地球が(濁音)」の方が、「心理的な音量」が「大きい」。
従って、
(08)(10)により、
(11)
⑤ The sun goes aroud the earth.
⑥ The earth goes aroud the sun.
に於いて、
⑥ が、「正しい」といふことを、「主張」する場合は、
⑥ 地球は太陽の周りを廻ってゐる。
とは言はずに、
⑥ 地球が太陽の周りを廻ってゐる。
といふ風に、言ふことになる。
然るに、
(12)
⑤ The sun goes aroud the earth.
⑥ The earth goes aroud the sun.
に於いて、
⑥ The earth を、「強く、発音」する。
といふことは、
⑥ goes   の「主語」が、
⑤ The sun   ではなく、
⑥ The earth であるといふことを、「確認する」ことに、他ならない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
⑥ 地球は太陽の周りを廻ってゐる。
とは言はずに、敢へて、
⑥ 地球が太陽の周りを廻ってゐる。
といふ風に、言ふのであれば、
⑥「廻ってゐる」の「主語」が、
⑤「太陽」ではなく、
⑥「地球」である。といふことを、「確認する」ことになる。
従って、
(06)(13)により、
(14)
③ 大日本帝國は万世一系の天皇、之を統治す。
とは、言はずに、
④ 大日本帝國が万世一系の天皇、之を統治す。
と言ふのであれば、「結果」として、
④「統治す」の「主語」が、
④「大日本帝國」である。といふことを、「確認する」ことになる。
然るに、
(15)
大正期においては、国家法人学説を前提に、主権は天皇にではなく国家にあり(国家主権説)、天皇は法人である国家の最高機関としてその意をうけて権能を振るうとする天皇機関説が憲法学会の通説であった(ウィキペディア)としても、いづれにせよ、
④ 大日本帝國が、万世一系の天皇を統治す。
では、ヲカシイ、ことになる。
従って、
(16)
④ 大日本帝國が万世一系の天皇、之を統治す。
ではなく、
③ 大日本帝國は万世一系の天皇、之を統治す。
でなければ、ならない。
平成29年04月18日、毛利太。

2017年4月16日日曜日

「対偶(transposition)」について(Ⅲ)。

(01)
①「Aである」と「Bである」は、「同時には」成り立たない。
といふことは、すなはち、
②「Bである」と「Aである」が、「同時には」成り立たない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(02)
①「Aである」と「Bである」が、「同時には」成り立たない。
のであれば、
①「Aである」ならば「Bでない」。
(03)
②「Bである」と「Aである」が、「同時には」成り立たない。
のであれば、
②「Bである」ならば「Aでない」。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
①「Aである」と「Bである」は、「同時には」成り立たない。
②「Bである」と「Aである」は、「同時には」成り立たない。
に於いて、
①=② であるが故に、
①「Aである」ならば「Bでない」。
②「Bである」ならば「Aでない」。
に於いて、
①=② である。
(05)
③「Aである」と「Bでない」は、「同時には」成り立たない。
といふことは、すなはち、
④「Bでない」と「Aである」が、「同時には」成り立たない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(06)
③「Aである」と「Bでない」が、「同時には」成り立たない。
のであれば、
③「Aである」ならば、「Bでない」ではなく、「Bである」。
(07)
④「Bでない」と「Aである」が、「同時には」成り立たない。
のであれば、
④「Bでない」ならば、「Aである」ではなく、「Aでない」。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
③「Aである」と「Bでない」は、「同時には」成り立たない。
④「Bでない」と「Aである」は、「同時には」成り立たない。
に於いて、
③=④ であるが故に、
③「Aである」ならば、「Bである」。
④「Bでない」ならば、「Aでない」。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(08)により、
(09)
③「Aである」ならば、「Bである」。
といふ「仮言命題」は、その「対偶」である所の、
④「Bでない」ならば、「Aでない」。
といふ「仮言命題」に、「等しい」。
然るに、
(10)
⑤「Aでない」と「Bである」は、「同時には」成り立たない。 
⑥「Bである」と「Aでない」は、「同時には」成り立たない。 
に於いて、
⑤=⑥ であるが故に、
⑤「Aでない」ならば、「Bである」ではなく、「Bでない」。
⑥「Bである」ならば、「Aでない」ではなく、「Aである」。
に於いて、
⑤=⑥ である。
従って、
(10)により、
(11)
⑤「Aでない」ならば、「Bでない」。
といふ「仮言命題」は、その「対偶」である所の、
⑥「Bである」ならば、「Aである」。
といふ「仮言命題」に、「等しい」。
然るに、
(12)
③「Aである」と「Bでない」。
⑤「Aでない」と「Bである」。 
に於いて、
③=⑤ ではないし、
④「Bでない」と「Aである」。
⑥「Bである」と「Aでない」。 
に於いて、
④=⑥ ではない。
従って、
(08)~(12)により、
(13)
③「Aである」ならば、「Bである」。
④「Bでない」ならば、「Aでない」。
⑤「Aでない」ならば、「Bでない」。
⑥「Bである」ならば、「Aである」。
に於いて、
{③=④}≠{⑤=⑥}
であって、
{③=④}={⑤=⑥}
ではない。
従って、
(13)により、
(14)
③「Aである」ならば、「Bである」。
であるからと言って、
⑤「Aでない」ならば、「Bでない」。
であるとは、限らず、
④「Bでない」ならば、「Aでない」。
であるからと言って、
⑥「Bである」ならば、「Aである」。
であるとは、限らない。
(15)
論理は「日常会話」でいつも使っているものだから改めて(国語ではなく)数学で教える必要はない、という考え方もあるだろう。しかし、日常の論理と数学の論理には微妙な用法の違いがあり、日常の論理の経験に期待するのはとても危険である(小島寛之、数学でつまづくのはなぜか、2008年、91頁)。
(16)
「数学の論理」といふのは、「論理学の論理」であるものの、「論理学の教科書」が教へる所の、
「AならばBである。:A→B」は、「AであってBでない。といふことはない。:~(A&~B)」といふ「意味」である。
従って、
(17)
日常で言ふ「AならばBである。」が、数学で言ふ「AならばBである。」と、「微妙に異なる」のであれば、
日常で言ふ「AならばBである。」は、必ずしも、「AであってBでない。といふことはない。」といふ「意味」ではない。
といふ、ことになる。
平成29年04月16日、毛利太。

2017年4月15日土曜日

It is not he case that=~( )

(01)
① Pであって、Qである。といふことはない。
② Pならば、 Qでない。
に於いて、
①=② である。
(02)
③ Qであって、Pである。といふことはない。
④ Qならば、 Pでない。
に於いて、
②=④ である。
然るに、
(03)
① Pであって、Qである。といふことはない。
③ Qであって、Pである。といふことはない。
に於いて、
①=③ である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① Pであって、Qである。といふことはない。
② Pならば、 Qでない。
③ Qであって、Pである。といふことはない。
④ Qならば、 Pでない。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(05)
「記号」で書くならば、
① ~(P&Q)
②   P→~Q
③ ~(Q&P)
④   Q→~P
に於いて、
①=②=③=④ である。
然るに、
(06)
P=ジョーンズは病気である。
&=そして
Q=スミスは不在である。
とする。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① ~(P&Q)=ジョーンズは病気でありそしてスミスは不在である、ということはない。
②   P→~Q=ジョーンズが病気であるならばスミスは不在ではなく(在宅である)。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(08)
(3)ジョーンズは病気でありそしてスミスは不在である、ということはない(It is not the case that Jones is ill and Smith is away.)
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、16頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
P=Jones is ill.
&=and
Q=Smith is away.
である。
従って、
(07)(09)により、
(10)
① ~(P&Q)= It is not the case that Jones is ill and Smith is away.
②   P→~Q= If Jones is ill then Smith is not away.
に於いて、
①=② である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① ~(   )= It is not the case that
①     P&Q = Jones is ill and Smith is away.
である。
然るに、
(12)
接頭辞‘~’を一定不変の否定記号として採用することにより、かなりの単純化が行われる。この接頭辞は、(3)の場合のように、‘・・・であるということはない’(It is not the case that)という句に対応するものであると、説明することができよう;この句を頭につければ、規則的に表術を否定する効果をもつからである。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、16頁)
従って、
(12)により、
(13)
ここでの、W.O.クワインは、
① ~ = It is not the case that
であると、してゐる。
然るに、
(14)
① ~(P&Q)= It is not the case that Jones is ill and Smith is away.
の「両辺」から、
① ~ = It is not the case that
を除くならば、
①  (P&Q)=             Jones is ill and Smith is away.
でなければ、ならない。
然るに、
(11)により、
(15)
①     P&Q = Jones is ill and Smith is away.
であって、
①  (P&Q)= Jones is ill and Smith is away.
ではない。
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
① ~     = It is not the case that
ではなく、
① ~(   )= It is not the case that
でなければ、ならない。
平成29年04月15日、毛利太。

2017年4月13日木曜日

「連体形準体法」について。

(01)
一般に、訓読で主語に「が」を付けることはありません(古田島洋介、これならわかる漢文の送り仮名、2012年、94頁)。
近代語では「が」で主格、「を」で対格を表すが、古い時代はこういった助詞を使わない言い方が普通であった(佐伯哲夫・山内洋一郎、国語概説、1983年、89頁改)。
従って、
(01)により、
(02)
① 孔子は聖人なり。
② 孔子が聖人なり。
に於いて、
① は、「古文」であって、
② は、「古文」ではない。
然るに、
(03)
② 孔子が聖人なり(終止形)。
③ 孔子が聖人なる(連体形)。
である。
cf.
なら なり・に なり なる なれ なれ
未然 連用   終止 連体 已然 命令
は、「体言(名詞)と連体形」に付く、「断定の助動詞」。
然るに、
(04)
11.連体形準体法
連体形は、もともと名詞と同等の資格を有していて、連体形単独で「こと」・「もの」・「の」・「ところ」・「ひと」などの形式的な名詞の意味を含むという性質がある。
(浅川哲也・竹部歩美、歴史的変化から理解する現代日本語文法、2014年、146頁)
従って、
(03)(04)により、
(05)
② 孔子が聖人なり(終止形)。
に対して、
③ 孔子が聖人なる(連体形)。
であれば、
③ 孔子が聖人である(連体形)こと。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(06)
連体形準体法は「連体形+形式名詞」と併存しながら、江戸時代末期まで会話文でも用いられていたが、現代語においては、連体形準体法は全く衰え、連体形には必ず準体助詞「の」や他の名詞・形式名詞が介入するように接続する。
(浅川哲也・竹部歩美、歴史的変化から理解する現代日本語文法、2014年、147頁)
従って、
(05)(06)により、
(07)
③ 孔子が聖人である(連体形)こと。
から、
③ こと(形式名詞)
を除くことは、出来ない。
従って、
(08)
③ 孔子が聖人である(連体形)こと。
に対して、
③ 孔子が聖人である(連体形)。
といふ「日本語」は、本来であれば、「非文」である。
然るに、
(09)
③ 孔子_聖人である(連体形)。
④ 孔子_聖人である(終止形)。
に於いて、
③ は、「非文」であるが、
④ は、「非文」ではない。
然るに、
(10)
古代語の文法を根本的に変化させた大きな内的原因は次の二点である。
(a)活用語の連体形が文を終止させるはたらきを有するようになり、それまでの終止形の語形を駆逐して、終止形が連体形と同じ語形となったこと。
(b)活用語の連用形の語形の影響で、終止形・連体形の語形が変わったこと。
(浅川哲也・竹部歩美、歴史的変化から理解する現代日本語文法、2014年、141頁)
従って、
(09)(10)により、
(11)
(a)終止形が連体形と同じ語形となった。
がために、
③ 孔子が聖人である(連体形)。
ではなく、
④ 孔子が聖人である(終止形)。
である。といふことになり、それ故、
④ 孔子が聖人である(終止形)。
といふ「現代語」は、「非文」ではない。
然るに、
(05)(06)(11)により、
(12)
④ 孔子が聖人である(終止形)。
といふ「言ひ方」は、
③ 孔子が聖人である(連体形)こと。
から、
③ こと(形式名詞)
を除いた「形」である。
然るに、
(13)
【1】[が][の]
(a)主語を示す。    日の暮るるとき。 汝が去りし日。
(b)連体修飾語を作る。 夏草や兵どもが夢のあと。
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、154頁改)
【26】[は]
他と区別して述べる意を表す。〈・・・・・ハ〉
草の花はなでしこ(徒然草)
[訳]草花はなでしこがよい。
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、191頁)
従って、
(13)により、
(14)
③ 孔子が(格助詞)説く(連体形)道(名詞)。
③ 孔子が(格助詞)聖人である(連体形)こと(形式名詞)。
に対して、
⑤ 孔子は(係助詞)説く(連体形)道(名詞)。
⑤ 孔子は(係助詞)聖人である(連体形)こと(形式名詞)。
といふ「日本語」は、固より、存在しない。
従って、
(14)により、
(15)
⑤ 孔子は(係助詞)聖人である。
に対して、
⑤ こと(形式名詞)
を加へる場合は、
⑤ 孔子は(係助詞)
といふ「それ」を、
③ 孔子が(格助詞)
といふ「それ」に、変へなければ、ならない。
然るに、
(16)
⑤ 孔子は聖人である。といふこと。
であれば、
⑤ 孔子は聖人である。
の「引用」である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
⑤ 孔子は聖人であること。
といふ「日本語」は、「間違ひ」であるが、
⑤ 孔子は聖人である。といふこと。
といふ「日本語」は、「正しい」。
平成29年04月13日、毛利太。