(01)
① I meet 先生。
② I become 先生。
に於いて、
① 先生 は、「目的語(object)」であって、
② 先生 は、「補語(complement)」である。
然るに、
(02)
英語とは異なり、漢文の場合は、
目的語と補語とは、それほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と呼んだり、単に補語と呼んだりしている(数研出版、基礎からの漢文、1995年、26頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 読書 =書を読む。
② 読論語 =論語を読む。
③ 読韓非子=韓非子を読む。
に於いて、
① 読 の「補足語」は、書。
② 読 の「補足語」は、論語。
③ 読 の「補足語」は、韓非子。
である。
従って、
(03)により、
(04)
② 読 の「補足語」は、論。
③ 読 の「補足語」は、韓非。
とすれば、マチガイであって、
③ 読韓非子=韓非子を読む。
に於ける、
③ 読 の「補足語」は、飽くまでも、「韓非子」である。
従って、
(04)により、
(05)
③ 読韓非子=韓非子を読む。
に於いて、
③ 読 といふ「一つの漢字」は、
③ 韓非子 といふ「三つの漢字」に、かかってゐる。
然るに、
(06)
③ 読韓非子=韓非子を読む。
といふ「命題」の「否定」は、
④ 不読韓非子=韓非子を読まず。
である。
従って、
(06)により、
(07)
④ 不読韓非子=韓非子を読まず。
といふ「命題」に於いて、
④ 不 といふ「一つの漢字」は、
④ 読韓非子 といふ「四つの漢字」に、かかってゐる。
然るに、
(08)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
④ 不(読韓非子)=韓非子を読まず。
④ ~(読韓非子)=韓非子を読まず。
といふ「命題」に於いて、
④ 不 といふ「一つの漢字」、並びに、
④ ~ といふ「一つの記号」は、
④ 読韓非子 といふ「四つの漢字」に、かかってゐて、そのことは、
④ ( )が、「明示」してゐる。
然るに、
(10)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁改:命題論理、今仁生美)。
従って、
(09)(10)により、
(11)
④ 不(読韓非子)=韓非子を読まず。
④ ~(読韓非子)=韓非子を読まず。
といふ「命題」に於いて、
④ ( )は、
④ 不=~
といふ「一字」が「かかる範囲(スコープ)」を、「明示」してゐる。
然るに、
(05)(11)により、
(12)
④ 不読韓非子=
④ 不〔読(韓非子)〕。
といふ「命題」に於いて、
④ 〔 〕は、
④ 不
が「かかる範囲(スコープ)」を、「明示」し、
④ ( )は、
④ 読
が「かかる範囲(スコープ)」を、「明示」してゐる。
然るに、
(13)
管到というのは、「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)
といふことは、「横書き」であれば、
管到というのは、「左の語が、右のことばのどこまでかかるか」ということである。
従って、
(10)(13)により、
(14)
「スコープ(scope)」とは、漢文でいふ、「管到」に、他ならない。
従って、
(12)(14)により、
(15)
④ 不〔読(韓非子)〕。
に於ける、
④ 〔( )〕。
は、
④ 不読韓非子。
に於ける、
④「管到(スコープ)」を「明示」してゐる。
従って、
(15)により、
(16)
④ 不読韓非子。
といふ「漢文」には、固より、「管到(スコープ)」が有って、その「管到(スコープ)」を「明示」した「結果」が、
④ 不〔読(韓非子)〕。
である。といふ、ことになる。
然るに、
(04)により、
(17)
④ 不〔読(韓非子)〕。
に於いて、
④ (韓非子)は、
④ 読 の、「補足語」である。
従って、
(17)により、
(18)
④ 不〔読(韓非子)〕。
に於いて、
④ 〔読(韓非子)〕は、
④ 不 の、「補足語」である。
従って、
(17)(18)により、
従って、
(19)
④ 不〔読(韓非子)〕。
に於ける、
④ 〔( )〕。
は、
④ 不読韓非子。
に於ける、
④ 「補足構造」を、「明示」してゐる。
従って、
(16)(19)により、
(20)
④ 不〔読(韓非子)〕。
に於ける、
④ 〔( )〕。
は、
④ 不読韓非子。
に於ける、
④ 「補足構造」=「管到(スコープ)」
を「明示」してゐる。
従って、
(20)により、
(21)
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
に於ける、
⑤ {[〔( )〕( )]}。
といふ「括弧」は、
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
に於ける、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」
を「明示」してゐる。
然るに、
(22)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(21)(22)により、
(23)
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ「漢文の補足構造」は、「国語」では、
⑤ 我{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ、「語順」になる。
従って、
(24)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
に対して、
⑤ {[〔( )〕( )]}。
といふ、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」
が、「認められる」からこそ、
⑤ の「補足構造における語順」は、「国語」とは全く反対である。
といふ「事実」に基づいて、
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文=
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
⑤ 我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不=
⑤ 我{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ、「漢文訓読」が、「可能」になる。
従って、
(25)
A:「補足構造」=「管到(スコープ)」=「括弧」
B:「漢文」の「補足構造における語順」は、「国語」とは全く反対である。
といふ「二点(必要十分条件)」が有るが故に、
『返り点に対する「括弧」の用法』は、「可能」になる。
然るに、
(26)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」に、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」=「括弧」
が、有ることと、
B: 「漢文」の「補足構造における語順」は、「国語」とは全く反対である。
といふことは、「直接には、関係が無い」。
従って、
(25)(26)により、
(27)
「漢文訓読」とは、「関係なく」、
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文=
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」=「括弧」
が有って、「偶然」にも、
B:「漢文」の「補足構造における語順」は、「国語」とは全く反対である。
といふことから、
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
⑤ 我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不=
⑤ 我{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ、『返り点に対する「括弧」の用法』は、「可能」になる。
従って、
(28)
「漢文訓読」の、「是非」に拘わらず、すなはち、
中国語を自習され、私に中国語についてするどい質問をされたこともある丸山真男さんは、徂徠が、「自分は一生懸命本来の古典漢文を読んでいるつもりでも、日本式に返り点でひっくり返して読んでいるから、どうしても日本的な考え方を対象に無意識に投影し、それだけ中国の古典本来の意味からずれてしまう」(『「文明之概略を」読む』上、岩波新書、一九八六年)と力説していた、と書いている(安藤彦太郎、中国語と近代日本、1988年、63頁)。
といふこととは、「関係なく」、
⑤ 我不必求以解論理学法解漢文.
といふ「漢文」には、
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ「括弧」が、存在する。
いづれにせよ、
(29)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
に於いて、少なくとも、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」
は、存在する。
然るに、
(10)により、
(30)
⑤ 「括弧」は、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」
を「明示」する働きを持つ。
従って、
(29)(30)により、
(31)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」に、
⑤「補足構造」=「管到(スコープ)」
といふ、「抽象的な構造」が、有るならば、その「抽象的な構造」は、「具体的」には、
⑤ 我不{必求[以〔解(論理学)法〕解(漢文)]}。
といふ「構造」をしてゐる。と、せざるを得ない。
従って、
(31)により、
(32)
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」=「括弧」
は、有ります。
平成26年12月28日、毛利太。
2014年12月28日日曜日
2014年12月26日金曜日
「括弧(scope)」は有ります。
(01)
スコープは、論理演算の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁:命題論理、今仁生美)。
従って、
(02)
スコープは、「論理演算子が、右の記号のどこまでかかるか」ということである。
然るに、
(03)
管到というのは、「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(04)
「横書き」の場合は、
管到というのは、「左の語が、右のことばのどこまでかかるか」ということである。
従って、
(02)(04)により、
(05)
スコープは、「論理演算子が、右の記号のどこまでかかるか」ということであって、
管到というのは、「左の語が、右のことばのどこまでかかるか」ということである。
従って、
(06)
左の語が、「論理演算子」等、である時、「管到」とは、すなはち、「スコープ」である。
然るに、
(07)
ここで括弧について述べておこう。括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁:命題論理、今仁生美)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
「管到(スコープ)」自体は、「目に見えない」が、
「括弧」は、「管到(スコープ)」を明示する働きを持つ。が故に、
「括弧」は、「目に見える、管到(スコープ)」 である。
然るに、
(09)
(1)¬(L(x,y))=
(1)¬(love(mary,john))=
(1)ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)).
に於いて、
(1)ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))⇒
(1)((ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)ΦΙΛΕΕΙ)ΟΥ=
(1)((マリアは、ジョンを)愛さ)ない。
は、「ギリシャ語訓読」である。
(10)
(2)瑪利亞不(愛(約翰))⇒
(2)瑪利亞((約翰)愛)不=
(2)マリアは((ジョンを)愛さ)ない。
は、「漢文訓読」である。
然るに、
(11)
(1)ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))⇒
(1)((ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)ΦΙΛΕΕΙ)ΟΥ=
(1)((マリアは、ジョンを)愛さ)ない。
といふ「ギリシャ語訓読」を、行おうと、行うまいと、
(1)¬(L(x,y))=
(1)¬(love(mary,john))=
(1)ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)).
といふ「スコープ(括弧)」は、固より、「存在」する。
従って、
(10)(11)により、
(12)
(2)瑪利亞不(愛(約翰))⇒
(2)瑪利亞((約翰)愛)不=
(2)マリアは((ジョンを)愛さ)ない。
といふ「漢文語訓読」を、行おうと、行うまいと、
(2)瑪利亞 不(愛(約翰))。
といふ「管到(括弧)」は、固より、「存在」する。
従って、
(13)
(3)文必求我理不論以解解漢法学。
のやうな、「デタラメ」ではないので、
(3)我不必求以解論理学法解漢文。
には、
(3)我不{必求[以〔解(論理学)法〕解(漢文)]}。
といふ「管到(括弧)」が、「存在」する。
然るに、
(14)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置き換えて読むことが、その大きな原則となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
①「管到」=「括弧」=「補足構造」。
②「漢語」と「国語」に於ける「補足構造の語順」は、「対称的(シンメトリー)」である。
といふ、「二点(必要十分条件)」が、有るが故に、
(3)我不必求以解論理学法解漢文=
(3)我不{必求[以〔解(論理学)法〕解(漢文)]}⇒
(3)我{必[〔(論理学)解法〕以(漢文)解]求}不=
(3)我{必ずしも[〔(論理学を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ、『返り点に対する「括弧」の用法』は、「可能」になる。
従って、
(15)により、
(16)
(3)我不必求以解論理学法解漢文=
(3)我不{必求[以〔解(論理学)法〕解(漢文)]}⇒
(3)我{必[〔(論理学)解法〕以(漢文)解]求}不=
(3)我{必ずしも[〔(論理学を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ「漢文訓読」に於ける、
(3){[〔( )〕( )]}⇒
(3){[〔( )〕( )]}。
といふ「括弧」は、「管到(スコープ)」を表してゐる。
と同時に、「シンタックス(補足構造)」を、表してゐる。
従って、
(16)により、
(17)
(3)我不必求以解論理学法解漢文。
といふ「漢文(原文)」に付く、
(3)丁 丙 下 二 一 上 乙 甲。
といふ「返り点」は、その実、
(3){[〔( )〕( )]}。
といふ「括弧」に対して、付けられてゐる。
従って、
(18)
『返り点に対する「括弧」の用法』は、『「返り点」の「代用」』ではなく、
「返り点」こそが、『「括弧」の、不完全な「代用」』である。
平成26年12月26日、毛利太。
スコープは、論理演算の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁:命題論理、今仁生美)。
従って、
(02)
スコープは、「論理演算子が、右の記号のどこまでかかるか」ということである。
然るに、
(03)
管到というのは、「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(04)
「横書き」の場合は、
管到というのは、「左の語が、右のことばのどこまでかかるか」ということである。
従って、
(02)(04)により、
(05)
スコープは、「論理演算子が、右の記号のどこまでかかるか」ということであって、
管到というのは、「左の語が、右のことばのどこまでかかるか」ということである。
従って、
(06)
左の語が、「論理演算子」等、である時、「管到」とは、すなはち、「スコープ」である。
然るに、
(07)
ここで括弧について述べておこう。括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁:命題論理、今仁生美)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
「管到(スコープ)」自体は、「目に見えない」が、
「括弧」は、「管到(スコープ)」を明示する働きを持つ。が故に、
「括弧」は、「目に見える、管到(スコープ)」 である。
然るに、
(09)
(1)¬(L(x,y))=
(1)¬(love(mary,john))=
(1)ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)).
に於いて、
(1)ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))⇒
(1)((ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)ΦΙΛΕΕΙ)ΟΥ=
(1)((マリアは、ジョンを)愛さ)ない。
は、「ギリシャ語訓読」である。
(10)
(2)瑪利亞不(愛(約翰))⇒
(2)瑪利亞((約翰)愛)不=
(2)マリアは((ジョンを)愛さ)ない。
は、「漢文訓読」である。
然るに、
(11)
(1)ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))⇒
(1)((ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)ΦΙΛΕΕΙ)ΟΥ=
(1)((マリアは、ジョンを)愛さ)ない。
といふ「ギリシャ語訓読」を、行おうと、行うまいと、
(1)¬(L(x,y))=
(1)¬(love(mary,john))=
(1)ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)).
といふ「スコープ(括弧)」は、固より、「存在」する。
従って、
(10)(11)により、
(12)
(2)瑪利亞不(愛(約翰))⇒
(2)瑪利亞((約翰)愛)不=
(2)マリアは((ジョンを)愛さ)ない。
といふ「漢文語訓読」を、行おうと、行うまいと、
(2)瑪利亞 不(愛(約翰))。
といふ「管到(括弧)」は、固より、「存在」する。
従って、
(13)
(3)文必求我理不論以解解漢法学。
のやうな、「デタラメ」ではないので、
(3)我不必求以解論理学法解漢文。
には、
(3)我不{必求[以〔解(論理学)法〕解(漢文)]}。
といふ「管到(括弧)」が、「存在」する。
然るに、
(14)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置き換えて読むことが、その大きな原則となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
①「管到」=「括弧」=「補足構造」。
②「漢語」と「国語」に於ける「補足構造の語順」は、「対称的(シンメトリー)」である。
といふ、「二点(必要十分条件)」が、有るが故に、
(3)我不必求以解論理学法解漢文=
(3)我不{必求[以〔解(論理学)法〕解(漢文)]}⇒
(3)我{必[〔(論理学)解法〕以(漢文)解]求}不=
(3)我{必ずしも[〔(論理学を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ、『返り点に対する「括弧」の用法』は、「可能」になる。
従って、
(15)により、
(16)
(3)我不必求以解論理学法解漢文=
(3)我不{必求[以〔解(論理学)法〕解(漢文)]}⇒
(3)我{必[〔(論理学)解法〕以(漢文)解]求}不=
(3)我{必ずしも[〔(論理学を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ「漢文訓読」に於ける、
(3){[〔( )〕( )]}⇒
(3){[〔( )〕( )]}。
といふ「括弧」は、「管到(スコープ)」を表してゐる。
と同時に、「シンタックス(補足構造)」を、表してゐる。
従って、
(16)により、
(17)
(3)我不必求以解論理学法解漢文。
といふ「漢文(原文)」に付く、
(3)丁 丙 下 二 一 上 乙 甲。
といふ「返り点」は、その実、
(3){[〔( )〕( )]}。
といふ「括弧」に対して、付けられてゐる。
従って、
(18)
『返り点に対する「括弧」の用法』は、『「返り点」の「代用」』ではなく、
「返り点」こそが、『「括弧」の、不完全な「代用」』である。
平成26年12月26日、毛利太。
2014年12月25日木曜日
「括弧は有るべし(述語論理)」。
(01)
命題論理では、命題が個々の対象として扱われ、それに基づいて論理式や真理条件が定義された。述語論理では、この命題の内部構造までに立ち入って、より複雑な論理式を扱う。具体的には、例えば(1)―(3)のような論理式を対象とする。
(1) run(john)
(2) love(john,mary)∧ ¬love(mary,john)
(3) ∃ⅹlove(john,x)
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、56頁:述語論理、今仁生美)
然るに、
(02)
P=love(mary,john) に於いて、
P の「否定」が、
¬P ならば、
¬P=¬(love(mary,john))
でない。といふことは、有り得ないし、
(03)
省略できるものはすべて省略するというのではなく、省略するかしないかは「わかりやすい表現かどうか」を基準に判断してください。表現が複雑にならない限り、省略せずに丁寧に書くことをお勧めします(内中伸光、論理の練習帳、2002年、71頁)。との、ことである。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
(2) love(john,mary)∧ ¬love(mary,john)
(3) ∃ⅹlove(john,x)
といふ「述語論理」も、「括弧は省略せず」に、
(2) love(john,mary)∧ ¬(love(mary,john))
(3) ∃ⅹ(love(john,x))
といふ風に、書くべきである。
従って、
(04)により、
(05)
(2) ¬(love(mary,john))=
(2) Mary does not love john.
然るに、
(06)
¬=ΟΥ
love=ΦΙΛΕΕΙ
mary=ΜΑΡΙΑ
john=ΙΩΑΝΝΗΝ
従って、
(05)(06)により、
(07)
(2) ¬(love(mary,john))=
(2) ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)).
然るに、
(08)
ない=ΟΥ
愛さ=ΦΙΛΕΕΙ
マリアは=ΜΑΡΙΑ
ヨハネを=ΙΩΑΝΝΗΝ
従って、
(07)(08)により、
(09)
(2) ¬(love(mary,john))=
(2) ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))=
(2)ない(愛さ(マリアはヨハネを))。
従って、
(05)(09)により、
(10)
(2) ¬(love(mary,john))=
(2) ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))⇒
(2) ((ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)ΦΙΛΕΕΙ)ΟΥ=
(2) ((マリアはヨハネを)愛さ)ない。
然るに、
(11)
例 2.1.3 次はすべて命題関数である.
(a) p(x):xは女である.
(b) q(x):x+2=1.
(c) r(x,y):x と y は友人である。
(d) s(x,y):2x+y=√3.
(内中伸光、論理の練習帳、2002年、71頁)。
従って、
(11)より、
(12)
(2) ¬(L(x,y)):x は y を愛さない。
は、「命題関数」である。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
(2) ¬(L(x,y))=
(2) ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))⇒
(2) ((マリアはヨハネを)愛さ)ない。
といふ「ギリシャ語訓読」は、「述語論理(命題関数)」である。
然るに、
(14)
信長をa、秀吉をb、「・・・は・・・の主君である」をFとすると、
「信長は秀吉の主君である」⇒ Fab
それぞれの多項述語は個体を置く順序が決まっている。
Fba とすると、「秀吉は信長の主君である」と読まれる。
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、161頁)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
(2) ¬(L(x,y)) は、
(2) ¬Lxy と書いても、かまわない。
加へて、
(16)
「自然言語」であれば、例へば、
「天下の英雄は、唯君と我のみ」といふ場合に
「∃x∃y(Fx&Fy&(x≠y)&∀z(Fz→((z=x)∨(z=y))))」=
「或るxと或るyについて、xは英雄であり、yも英雄であり、xとyは同一ではなく、全てのzについて、そのzが英雄ならば、zは、xであるか、yである。」
といった、「持って回った言ひ方」はしない。
従って、
(17)
その意味では、「日本語や漢文やギリシャ語」と、「述語論理」は、同列には、論じられない。
しかしながら、
(18)
(2) ¬(L(x,y))=
(2) ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))⇒
(2) ((マリアはヨハネを)愛さ)ない。
といふ「ギリシャ語訓読」が可能であって、尚且つ、
(2) ¬Lxy
といふ「述語論理」が、「正確」には、
(2) ¬(L(x,y))
である以上、
(2) ΟΥ ΦΙΛΕΕΙ ΜΑΡΙΑ ΙΩΑΝΝΗΝ.
(2) マリアは ヨハネを 愛さ ない。
といふ「ギリシャ語と日本語」が、
(2)ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ ΙΩΑΝΝΗΝ))⇔
(2)((マリアはヨハネを)愛さ)ない。
といふ「形」を、してゐない。はずがない。
従って、
(19)
「括弧」は、有るべし。
平成26年12月25日、毛利太。
命題論理では、命題が個々の対象として扱われ、それに基づいて論理式や真理条件が定義された。述語論理では、この命題の内部構造までに立ち入って、より複雑な論理式を扱う。具体的には、例えば(1)―(3)のような論理式を対象とする。
(1) run(john)
(2) love(john,mary)∧ ¬love(mary,john)
(3) ∃ⅹlove(john,x)
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、56頁:述語論理、今仁生美)
然るに、
(02)
P=love(mary,john) に於いて、
P の「否定」が、
¬P ならば、
¬P=¬(love(mary,john))
でない。といふことは、有り得ないし、
(03)
省略できるものはすべて省略するというのではなく、省略するかしないかは「わかりやすい表現かどうか」を基準に判断してください。表現が複雑にならない限り、省略せずに丁寧に書くことをお勧めします(内中伸光、論理の練習帳、2002年、71頁)。との、ことである。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
(2) love(john,mary)∧ ¬love(mary,john)
(3) ∃ⅹlove(john,x)
といふ「述語論理」も、「括弧は省略せず」に、
(2) love(john,mary)∧ ¬(love(mary,john))
(3) ∃ⅹ(love(john,x))
といふ風に、書くべきである。
従って、
(04)により、
(05)
(2) ¬(love(mary,john))=
(2) Mary does not love john.
然るに、
(06)
¬=ΟΥ
love=ΦΙΛΕΕΙ
mary=ΜΑΡΙΑ
john=ΙΩΑΝΝΗΝ
従って、
(05)(06)により、
(07)
(2) ¬(love(mary,john))=
(2) ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)).
然るに、
(08)
ない=ΟΥ
愛さ=ΦΙΛΕΕΙ
マリアは=ΜΑΡΙΑ
ヨハネを=ΙΩΑΝΝΗΝ
従って、
(07)(08)により、
(09)
(2) ¬(love(mary,john))=
(2) ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))=
(2)ない(愛さ(マリアはヨハネを))。
従って、
(05)(09)により、
(10)
(2) ¬(love(mary,john))=
(2) ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))⇒
(2) ((ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)ΦΙΛΕΕΙ)ΟΥ=
(2) ((マリアはヨハネを)愛さ)ない。
然るに、
(11)
例 2.1.3 次はすべて命題関数である.
(a) p(x):xは女である.
(b) q(x):x+2=1.
(c) r(x,y):x と y は友人である。
(d) s(x,y):2x+y=√3.
(内中伸光、論理の練習帳、2002年、71頁)。
従って、
(11)より、
(12)
(2) ¬(L(x,y)):x は y を愛さない。
は、「命題関数」である。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
(2) ¬(L(x,y))=
(2) ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))⇒
(2) ((マリアはヨハネを)愛さ)ない。
といふ「ギリシャ語訓読」は、「述語論理(命題関数)」である。
然るに、
(14)
信長をa、秀吉をb、「・・・は・・・の主君である」をFとすると、
「信長は秀吉の主君である」⇒ Fab
それぞれの多項述語は個体を置く順序が決まっている。
Fba とすると、「秀吉は信長の主君である」と読まれる。
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、161頁)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
(2) ¬(L(x,y)) は、
(2) ¬Lxy と書いても、かまわない。
加へて、
(16)
「自然言語」であれば、例へば、
「天下の英雄は、唯君と我のみ」といふ場合に
「∃x∃y(Fx&Fy&(x≠y)&∀z(Fz→((z=x)∨(z=y))))」=
「或るxと或るyについて、xは英雄であり、yも英雄であり、xとyは同一ではなく、全てのzについて、そのzが英雄ならば、zは、xであるか、yである。」
といった、「持って回った言ひ方」はしない。
従って、
(17)
その意味では、「日本語や漢文やギリシャ語」と、「述語論理」は、同列には、論じられない。
しかしながら、
(18)
(2) ¬(L(x,y))=
(2) ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))⇒
(2) ((マリアはヨハネを)愛さ)ない。
といふ「ギリシャ語訓読」が可能であって、尚且つ、
(2) ¬Lxy
といふ「述語論理」が、「正確」には、
(2) ¬(L(x,y))
である以上、
(2) ΟΥ ΦΙΛΕΕΙ ΜΑΡΙΑ ΙΩΑΝΝΗΝ.
(2) マリアは ヨハネを 愛さ ない。
といふ「ギリシャ語と日本語」が、
(2)ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ ΙΩΑΝΝΗΝ))⇔
(2)((マリアはヨハネを)愛さ)ない。
といふ「形」を、してゐない。はずがない。
従って、
(19)
「括弧」は、有るべし。
平成26年12月25日、毛利太。
2014年12月24日水曜日
「命題関数(ギリシャ語訓読)」。
昨日(12/23)の記事を、同じ内容で、書き直します。
(01)
目的語と補語とは、それほど区別する必要がないので、両方併せて、補足語と呼んだり、単に補語と呼んだりしている(数研出版、基礎からの漢文、1993年、26頁)。
従って、
(02)
目的語を含めて、「補語」とする。
(03)
前置詞+名詞
に於いて、「名詞」は「前置詞の補語」とする。
(04)
否定詞+命題
に於いて、「命題」は「否定詞の補語」とする。
(05)
不(_観花於野)=(_花を野に観)ず。
に対する、
我不(観花於野)=我(花を野に観)ず。
といふ「語順」は、「意味」の上では、
不(我観花於野)=(我花を野に観)ず。
とする。
然るに、
(06)
ところでこのレーマは現在の論理学のことばでいえば明らかに命題関数である。つまりf(ⅹ)、f(ⅹ,y),f(ⅹ,y,z)といったものである(山下正男、論理学史、1983年、
96・97頁)。
然るに、
(07)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
f(x,y) を、
F(x,y) と書くならば、
F(x,y) は「レーマ(命題関数)」であって、
F(x,y) の「否定」は、
~(F(x,y)) である。
然るに、
(10)
「レーマ(ΡΗΜΑ)」は、「動詞(Verb)」といふ「意味」であって、それ故、
~(F(x,y)) の F は、「動詞(レーマ)」である。
従って、
(11)
F は、「名詞(オノマ)」ではないものの、この点に於いて、
~(F(x,y)) は、いはゆる、「命題関数」、そのものではない。
e.g.
F(x)=xはフランス人。
F(x,y)=xはyの兄弟。
F(x,y,z)=xはyとzの息子。
に於いて、F は、「名詞(オノマ)」であって、「動詞(レーマ)」ではない。
然るに、
(12)
否定詞の ΟΥは、それが否定する語の前に来る。そして、殆んどの場合に於いて、動詞を否定するので、ΟΥの基準的な位置は、動詞の直前である(J.グレシャム・メイチェン、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、71頁)。
従って、
(10)(12)により、
(13)
~(F(x,y)) といふ「レーマ(命題関数)」を、
ΟΥ(F(x,y)) とする。
然るに、
(14)
例えば「使徒が言葉を言う」(an apostle says a word)という文は、ギリシャ語では通常 ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΕΓΕΙ ΛΟΓΟΝ である。だが ΛΕΓΕΙ ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ も、ΛΟΓΟΝ ΛΕΓΕΙ ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ も共に全く可能である。だから和訳、英訳は、共に順序でなく、語尾を観察することによって決定しなければならない(J.グレシャム・メイチェン、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、29頁)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
~(F(x,y))=ΟΥ(ΛΕΓΕΙ(ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ)).
に於いて、「左辺」は、「レーマ(命題関数)」であって、「右辺」は、「命題」である。
然るに、
(16)
~(F(x,y))=ΟΥ(ΛΕΓΕΙ(ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ)).
では、Greek が、分りにくいため、
~(F(x,y))=NOT(SAY(APOSTLE WORD)).
とする。
従って、
(03)(16)により、
(17)
~(F(x,y,g(z)))=NOT(SAY(APOSTLE WORD IN(CHURCH))).
であるが、以下では、((( )))を、[〔( )〕]に換へて、
~[F〔x,y,g(z)〕]=NOT[SAY〔APOSTLE WORD IN(CHURCH)〕].
とする。
然るに、
(18)
ない=NOT
言ふ=SAY
使徒=APOSTLE
言葉=WORD
にて=IN
教会=CHURCH
従って、
(18)により、
(19)
① ない [言ふ 〔使徒 言葉 にて(教会) 〕]=
① NOT[SAY〔APOSTLE WORD IN(CHURCH)〕].
然るに、
(20)
① ない[言ふ〔使徒は 言葉 にて(教会)〕]⇒
① [〔使徒は 言葉を(教会)にて〕言は]ない。
従って、
(19)(20)により、
(21)
① NOT[SAY〔APOSTLE WORD IN(CHURCH)〕]⇒
① [〔APOSTLE WORD(CHURCH)IN〕SAYS]NOT=
① [〔使徒は 言葉を(教会)にて〕言は]ない。
従って、
(17)(21)により、
(22)
① NOT[SAY〔APOSTLE WORD IN(CHURCH)〕]=
① ΟΥ[ΛΕΓΕΙ〔ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ ΕΝ(ΕΚΚΛΗΣΙΑ)〕].
といふ「ギリシャ語」は、
① ~[F〔x,y,g(z)〕]
といふ、「シンタックス」をしてゐて、
① [〔使徒は 言葉を(教会)にて〕言は]ない。
といふ「日本語」は、
① [〔x,y,(z)g〕F]~
といふ、「シンタックス」をしてゐる。
然るに、
(23)
例えば、「3 と 4 を加算する」という演算を、一般的に数式の表記に用いられる中置記法で記述すると、以下のようになる。
3 + 4
一方、逆ポーランド記法では、加算を表す演算子 + を、被演算子である 3 と 4 の後(右)に置いて、以下のよう記述する。
3 4 +
逆ポーランド記法による表現は日本語などSOV型の言語の文法とよく似ており、上式であれば「3 と 4 を加算する」とそのままの順序で読み下せる。逆ポーランド記法を使うForthの影響を受けているプログラミング言語Mindでは、上式を「3 と 4 とを 足す」と記述する(ウィキペディア:逆ポーランド記法)。
従って、
(23)により、
(24)
① ~[F〔x,y,g(z)〕]
① [〔x,y,(z)g〕F]~
に於いて、後者は、「逆ポーランド記法」に、相当する。
然るに、
(25)
① ~[F〔x,y,g(z)〕] に対して、
② [F~〔x,y,g(z)〕] の場合は、
「命題関数(レーマ)」とは言へず、この「順番」は、「ギリシャ語」としては、
② SAY NOT APOSTLE WORD IN CHURCH.
といふ「語順」に、相当する。
然るに、
(26)
② SAYS〔NOT[APOSTLE WORD IN(CHURCH)〕]⇒
② 〔[APOSTLE WORD (CHURCH)IN〕SAYS]NOT=
② 〔[使徒は 言葉を(教会)にて〕言は]ない。
然るに、
(27)
② 〔[( )〕]
の場合は、〔 〕の中に、[ が有るため、『括弧』ではない。
(28)
① ~[F〔x,y,g(z)〕] に対して、
③ ~[〔x,y,g(Fz)〕] の場合は、
「命題関数(レーマ)」とは、言へず、この「順番」は、「ギリシャ語」としては、
③ NOT APOSTLE WORD IN SAY CHURCH.
といふ「語順」に、相当する。
然るに、
(29)
① NOT SAY APOSTLE WORD IN CHURCH.
の「語順」を、
③ NOT APOSTLE WORD IN SAY CHURCH.
といふ風に、変へるならば、
③ NOT[APOSTLE WORD IN(SAY〔CHURCH)〕]⇒
③ [APOSTLE WORD (〔CHURCH)IN〕SAYS]NOT=
③ [使徒は 言葉を(〔教会)の中で〕言は]ない。
然るに、
(30)
③ [(〔 )〕]
の場合も、( )の中に、〔 が有るため、『括弧』ではない。
従って、
(22)~(30)により、
(31)
① ~[F〔x,y,g(z)〕]=
① NOT SAY APOSTLE WORD IN CHURCH.
② [f~〔x,y,g(z)〕]=
② SAY NOT APOSTLE WORD IN CHURCH.
③ ~[〔x,y,g(Fz)〕]=
③ NOT APOSTLE WORD IN SAY CHURCH.
に於いて、
① であるならば、その時に限って、『「括弧」を用ゐた「ギリシャ語訓読」』は「可能」である。といふ、ことになる。
然るに、
(01)~(08)により、
(32)
① ~[F〔x,y,g(z)〕]⇔
① [〔x,y,(z)g〕f]~.
に於いて、
① ~ の「補語」は、[ ]のコンテンツ であって、
① F の「補語」は、〔 〕のコンテンツ であって、
① g の「補語」は、( )のコンテンツ である。
従って、
(31)(32)により、
(33)
① ~ の「補語」は、F〔x,y,g(z)〕 であるが、
② ~ の「補語」は、 〔x,y,g(z)〕 であって、①とは、一致せず、
③ ~ の「補語」は、〔x,y,g(Fz)〕 であって、①とは、一致しない。
(34)
① F の「補語」は、x,y,g(z) であるが、
② に、Fの「補語」は無く、
③ も、Fの「補語」が無い。
(35)
① g の「補語」は、z であるが、
③ g の「補語」は、Fz であって、Fは、「前置詞の補語」であるにも拘わらず、「名詞(オノマ)」ではない。
然るに、
(36)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置き換えて読むことが、その大きな原則となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
然るに、
(37)
① ~[F〔x,y,g(z)〕]⇔
①[〔x,y,(z)g〕F] ~.
に於いて、
~=ない=NOT
F=言ふ=SAY
x=使徒=APOSTLE
y=言葉=WORD
g=にて=IN
z=教会=CHURCH
を、「除く」と、
①[〔 , ,( )〕]⇔
①[〔 , ,( )〕].
従って、
(37)により、
(38)
① ~[F〔x,y,g(z)〕]⇔
①[〔x,y,(z)g〕F] ~.
の「補足構造」は、
①[〔 , ,( )〕]⇔
①[〔 , ,( )〕].
といふ「形」で共通であって、「補足の順番」が、「反対」である。と、すべきである。
従って、
(39)
① ΟΥ[ΛΕΓΕΙ〔ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ ΕΝ(ΕΚΚΛΗΣΙΑ)〕].
① [〔使徒は 言葉を(教会)にて〕言は]ない。
に於いて、両者は、「シンタックス(構造)」が、「同じ」である。
然るに、
(40)
Kretheus1 ekhei2 onaton3 paro4 morokwroi5 poimeinei6.
クレーテウスは1 羊飼い6 モログロス5 から4 借地権を3 受け取る2.
Kokalos1 apedoke2 elaiwon3 tosson4 Eumedei5.
コーカロスは1 エウメーデスに5 これだけの4 オリーブを3 支払った2.
ここに見る配列型は日本語のそれと正反対、つまり完全にSVO型のそれである。このような統語型が紀元前2千年のギリシャ語に現れたことは注目すべきである(ピュロス文書の年代はB.C.1200頃)この点で、ギリシャ語はエーゲ海を挟んで東方小アジアのヒッタイト語とは著しい対照をなしている(松本克己、世界言語への視座、2006年、143頁)。
従って、
(40)により、
(41)
② Kretheus1 ekhei2{onaton3[paro4〔morokwroi5(poimeinei6)〕]}⇒
② Kretheus1 {[〔(poimeinei6)morokwroi5〕paro4]onaton3}ekhei2=
② クレーテウスは1{[〔(羊飼い6)モログロス5〕から4]借地権を3}受け取る2.
③ Kokalos1 apedoke2[elaiwon3〔tosson4(Eumedei5)〕]⇒
③ Kokalos1 [〔(Eumedei5)tosson4〕elaiwon3]apedoke2=
③ コーカロスは1 [〔(エウメーデスに5)これだけの4〕オリーブを3]支払った2.
のやうな、「4千年前のギリシャ語」であっても、これらの場合であれば、「日本語」と、「シンタックス(構造)」が、「同じ」である。
平成26年12月23・24日、毛利太。
(01)
目的語と補語とは、それほど区別する必要がないので、両方併せて、補足語と呼んだり、単に補語と呼んだりしている(数研出版、基礎からの漢文、1993年、26頁)。
従って、
(02)
目的語を含めて、「補語」とする。
(03)
前置詞+名詞
に於いて、「名詞」は「前置詞の補語」とする。
(04)
否定詞+命題
に於いて、「命題」は「否定詞の補語」とする。
(05)
不(_観花於野)=(_花を野に観)ず。
に対する、
我不(観花於野)=我(花を野に観)ず。
といふ「語順」は、「意味」の上では、
不(我観花於野)=(我花を野に観)ず。
とする。
然るに、
(06)
ところでこのレーマは現在の論理学のことばでいえば明らかに命題関数である。つまりf(ⅹ)、f(ⅹ,y),f(ⅹ,y,z)といったものである(山下正男、論理学史、1983年、
96・97頁)。
然るに、
(07)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
f(x,y) を、
F(x,y) と書くならば、
F(x,y) は「レーマ(命題関数)」であって、
F(x,y) の「否定」は、
~(F(x,y)) である。
然るに、
(10)
「レーマ(ΡΗΜΑ)」は、「動詞(Verb)」といふ「意味」であって、それ故、
~(F(x,y)) の F は、「動詞(レーマ)」である。
従って、
(11)
F は、「名詞(オノマ)」ではないものの、この点に於いて、
~(F(x,y)) は、いはゆる、「命題関数」、そのものではない。
e.g.
F(x)=xはフランス人。
F(x,y)=xはyの兄弟。
F(x,y,z)=xはyとzの息子。
に於いて、F は、「名詞(オノマ)」であって、「動詞(レーマ)」ではない。
然るに、
(12)
否定詞の ΟΥは、それが否定する語の前に来る。そして、殆んどの場合に於いて、動詞を否定するので、ΟΥの基準的な位置は、動詞の直前である(J.グレシャム・メイチェン、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、71頁)。
従って、
(10)(12)により、
(13)
~(F(x,y)) といふ「レーマ(命題関数)」を、
ΟΥ(F(x,y)) とする。
然るに、
(14)
例えば「使徒が言葉を言う」(an apostle says a word)という文は、ギリシャ語では通常 ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΕΓΕΙ ΛΟΓΟΝ である。だが ΛΕΓΕΙ ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ も、ΛΟΓΟΝ ΛΕΓΕΙ ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ も共に全く可能である。だから和訳、英訳は、共に順序でなく、語尾を観察することによって決定しなければならない(J.グレシャム・メイチェン、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、29頁)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
~(F(x,y))=ΟΥ(ΛΕΓΕΙ(ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ)).
に於いて、「左辺」は、「レーマ(命題関数)」であって、「右辺」は、「命題」である。
然るに、
(16)
~(F(x,y))=ΟΥ(ΛΕΓΕΙ(ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ)).
では、Greek が、分りにくいため、
~(F(x,y))=NOT(SAY(APOSTLE WORD)).
とする。
従って、
(03)(16)により、
(17)
~(F(x,y,g(z)))=NOT(SAY(APOSTLE WORD IN(CHURCH))).
であるが、以下では、((( )))を、[〔( )〕]に換へて、
~[F〔x,y,g(z)〕]=NOT[SAY〔APOSTLE WORD IN(CHURCH)〕].
とする。
然るに、
(18)
ない=NOT
言ふ=SAY
使徒=APOSTLE
言葉=WORD
にて=IN
教会=CHURCH
従って、
(18)により、
(19)
① ない [言ふ 〔使徒 言葉 にて(教会) 〕]=
① NOT[SAY〔APOSTLE WORD IN(CHURCH)〕].
然るに、
(20)
① ない[言ふ〔使徒は 言葉 にて(教会)〕]⇒
① [〔使徒は 言葉を(教会)にて〕言は]ない。
従って、
(19)(20)により、
(21)
① NOT[SAY〔APOSTLE WORD IN(CHURCH)〕]⇒
① [〔APOSTLE WORD(CHURCH)IN〕SAYS]NOT=
① [〔使徒は 言葉を(教会)にて〕言は]ない。
従って、
(17)(21)により、
(22)
① NOT[SAY〔APOSTLE WORD IN(CHURCH)〕]=
① ΟΥ[ΛΕΓΕΙ〔ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ ΕΝ(ΕΚΚΛΗΣΙΑ)〕].
といふ「ギリシャ語」は、
① ~[F〔x,y,g(z)〕]
といふ、「シンタックス」をしてゐて、
① [〔使徒は 言葉を(教会)にて〕言は]ない。
といふ「日本語」は、
① [〔x,y,(z)g〕F]~
といふ、「シンタックス」をしてゐる。
然るに、
(23)
例えば、「3 と 4 を加算する」という演算を、一般的に数式の表記に用いられる中置記法で記述すると、以下のようになる。
3 + 4
一方、逆ポーランド記法では、加算を表す演算子 + を、被演算子である 3 と 4 の後(右)に置いて、以下のよう記述する。
3 4 +
逆ポーランド記法による表現は日本語などSOV型の言語の文法とよく似ており、上式であれば「3 と 4 を加算する」とそのままの順序で読み下せる。逆ポーランド記法を使うForthの影響を受けているプログラミング言語Mindでは、上式を「3 と 4 とを 足す」と記述する(ウィキペディア:逆ポーランド記法)。
従って、
(23)により、
(24)
① ~[F〔x,y,g(z)〕]
① [〔x,y,(z)g〕F]~
に於いて、後者は、「逆ポーランド記法」に、相当する。
然るに、
(25)
① ~[F〔x,y,g(z)〕] に対して、
② [F~〔x,y,g(z)〕] の場合は、
「命題関数(レーマ)」とは言へず、この「順番」は、「ギリシャ語」としては、
② SAY NOT APOSTLE WORD IN CHURCH.
といふ「語順」に、相当する。
然るに、
(26)
② SAYS〔NOT[APOSTLE WORD IN(CHURCH)〕]⇒
② 〔[APOSTLE WORD (CHURCH)IN〕SAYS]NOT=
② 〔[使徒は 言葉を(教会)にて〕言は]ない。
然るに、
(27)
② 〔[( )〕]
の場合は、〔 〕の中に、[ が有るため、『括弧』ではない。
(28)
① ~[F〔x,y,g(z)〕] に対して、
③ ~[〔x,y,g(Fz)〕] の場合は、
「命題関数(レーマ)」とは、言へず、この「順番」は、「ギリシャ語」としては、
③ NOT APOSTLE WORD IN SAY CHURCH.
といふ「語順」に、相当する。
然るに、
(29)
① NOT SAY APOSTLE WORD IN CHURCH.
の「語順」を、
③ NOT APOSTLE WORD IN SAY CHURCH.
といふ風に、変へるならば、
③ NOT[APOSTLE WORD IN(SAY〔CHURCH)〕]⇒
③ [APOSTLE WORD (〔CHURCH)IN〕SAYS]NOT=
③ [使徒は 言葉を(〔教会)の中で〕言は]ない。
然るに、
(30)
③ [(〔 )〕]
の場合も、( )の中に、〔 が有るため、『括弧』ではない。
従って、
(22)~(30)により、
(31)
① ~[F〔x,y,g(z)〕]=
① NOT SAY APOSTLE WORD IN CHURCH.
② [f~〔x,y,g(z)〕]=
② SAY NOT APOSTLE WORD IN CHURCH.
③ ~[〔x,y,g(Fz)〕]=
③ NOT APOSTLE WORD IN SAY CHURCH.
に於いて、
① であるならば、その時に限って、『「括弧」を用ゐた「ギリシャ語訓読」』は「可能」である。といふ、ことになる。
然るに、
(01)~(08)により、
(32)
① ~[F〔x,y,g(z)〕]⇔
① [〔x,y,(z)g〕f]~.
に於いて、
① ~ の「補語」は、[ ]のコンテンツ であって、
① F の「補語」は、〔 〕のコンテンツ であって、
① g の「補語」は、( )のコンテンツ である。
従って、
(31)(32)により、
(33)
① ~ の「補語」は、F〔x,y,g(z)〕 であるが、
② ~ の「補語」は、 〔x,y,g(z)〕 であって、①とは、一致せず、
③ ~ の「補語」は、〔x,y,g(Fz)〕 であって、①とは、一致しない。
(34)
① F の「補語」は、x,y,g(z) であるが、
② に、Fの「補語」は無く、
③ も、Fの「補語」が無い。
(35)
① g の「補語」は、z であるが、
③ g の「補語」は、Fz であって、Fは、「前置詞の補語」であるにも拘わらず、「名詞(オノマ)」ではない。
然るに、
(36)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置き換えて読むことが、その大きな原則となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
然るに、
(37)
① ~[F〔x,y,g(z)〕]⇔
①[〔x,y,(z)g〕F] ~.
に於いて、
~=ない=NOT
F=言ふ=SAY
x=使徒=APOSTLE
y=言葉=WORD
g=にて=IN
z=教会=CHURCH
を、「除く」と、
①[〔 , ,( )〕]⇔
①[〔 , ,( )〕].
従って、
(37)により、
(38)
① ~[F〔x,y,g(z)〕]⇔
①[〔x,y,(z)g〕F] ~.
の「補足構造」は、
①[〔 , ,( )〕]⇔
①[〔 , ,( )〕].
といふ「形」で共通であって、「補足の順番」が、「反対」である。と、すべきである。
従って、
(39)
① ΟΥ[ΛΕΓΕΙ〔ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ ΕΝ(ΕΚΚΛΗΣΙΑ)〕].
① [〔使徒は 言葉を(教会)にて〕言は]ない。
に於いて、両者は、「シンタックス(構造)」が、「同じ」である。
然るに、
(40)
Kretheus1 ekhei2 onaton3 paro4 morokwroi5 poimeinei6.
クレーテウスは1 羊飼い6 モログロス5 から4 借地権を3 受け取る2.
Kokalos1 apedoke2 elaiwon3 tosson4 Eumedei5.
コーカロスは1 エウメーデスに5 これだけの4 オリーブを3 支払った2.
ここに見る配列型は日本語のそれと正反対、つまり完全にSVO型のそれである。このような統語型が紀元前2千年のギリシャ語に現れたことは注目すべきである(ピュロス文書の年代はB.C.1200頃)この点で、ギリシャ語はエーゲ海を挟んで東方小アジアのヒッタイト語とは著しい対照をなしている(松本克己、世界言語への視座、2006年、143頁)。
従って、
(40)により、
(41)
② Kretheus1 ekhei2{onaton3[paro4〔morokwroi5(poimeinei6)〕]}⇒
② Kretheus1 {[〔(poimeinei6)morokwroi5〕paro4]onaton3}ekhei2=
② クレーテウスは1{[〔(羊飼い6)モログロス5〕から4]借地権を3}受け取る2.
③ Kokalos1 apedoke2[elaiwon3〔tosson4(Eumedei5)〕]⇒
③ Kokalos1 [〔(Eumedei5)tosson4〕elaiwon3]apedoke2=
③ コーカロスは1 [〔(エウメーデスに5)これだけの4〕オリーブを3]支払った2.
のやうな、「4千年前のギリシャ語」であっても、これらの場合であれば、「日本語」と、「シンタックス(構造)」が、「同じ」である。
平成26年12月23・24日、毛利太。
2014年12月21日日曜日
ギリシャ語訓読(其の弐)
(01)
(ΑΥΤΟΥ)=(彼の)
〔ΛΟΓΟΝ(ΑΥΤΟΥ)〕=〔(彼の)言葉を〕
ΛΕΓΕΙ〔ΛΟΓΟΝ(ΑΥΤΟΥ)〕=〔(彼の)言葉を〕言ふ。
ΟΥ[ΛΕΓΕΙ〔ΛΟΓΟΝ(ΑΥΤΟΥ)〕]=[〔(彼の)言葉を〕言は]ない。
に於いて、
(彼の)
〔(彼の)言葉を〕
〔(彼の)言葉を〕言ふ
[〔(彼の)言葉を〕言は]ない。
は、「右側に伸びてゐる」が故に、「前進的(支配)」であると言ひ、
(アウトゥ)
〔ロゴン(アウトゥ)〕
レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)〕
ウー[レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)〕]
は、「左側に伸びてゐる」が故に、「後進的(支配)」であると言ふ。
加へて、
(02)
ウー[レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)〕]:[〔(彼の)言葉を〕言は]ない。
は、「左右対称(シンメトリー)」であるが故に、「鏡像(mirror image)的な関係」であると言ふ。
然るに、
(03)
例えば「使徒が言葉を言う」(an apostle says a word)という文は、ギリシャ語では通常 ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΕΓΕΙ ΛΟΓΟΝ である。だが ΛΕΓΕΙ ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ も、ΛΟΓΟΝ ΛΕΓΕΙ ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ も共に全く可能である。だから和訳、英訳は、共に順序でなく、語尾を観察することによって決定しなければならない(J.グレシャム・メイチェン、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、29頁)。
従って、
(03)により、
(04)
① APOSTLE ウー[レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)〕].
② ウー[レゲイ〔APOSTLE ロゴン(アウトゥ)〕].
に於いて、
① は、「SVO(主語+動詞+目的語)」であり、
② は、「VSO(動詞+主語+目的語)」である。
従って、
(05)
① APOSTLE ウー[レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)エン(テー エックレーシア)〕].
② ウー[レゲイ〔APOSTLE ロゴン(アウトゥ)エン(テー エックレーシア)〕].
に於いて、
① は、「SVO型」であり、
② は、「VSO型」である。
従って、
(06)
① APOSTLE NOT[SAY〔WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
② NOT[SAY〔APOSTLE WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
に於いて、
① は、「SVO型」であり、
② は、「VSO型」である。
然るに、
(07)
動詞が文頭に立つVSO型と動詞が常に文末尾に置かれる「厳格な」SOV型は、その統語型が正に鏡像(mirror image)的な関係に立つと見られる。ちなみに、日本語は前進的支配が驚くほど首尾一貫した「厳格な」(S)OV型の言語である。この意味で日本語はもろもろの言語の統語型の特性を判別するための尺度として最適の言語であると言ってよかろう。たとえば、英語は、基本的に配列型はS‐V‐Oで日本語とは逆になるが、Jhon’s book「ジョンの本」、an interesting book「面白い本」などのように、日本語と語順が一致する場合もある。ということは、英語の統語型がそれだけ不整合(inconsistency)を内臓していることを意味している(松本克己、世界言語への視座、2006年、132・133頁)。
従って、
(01)~(07)により、
(08)
① APOSTLE NOT[SAY〔WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
② NOT[SAY〔APOSTLE WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
③ 使徒は、彼の言葉を、その教会の中で、言はない。
に於いて、
① の「語順」は、「SVO型」であって、
② の「語順」は、「VSO型」であって、
③ の「語順」は、「SOV型」である。
然るに、
(09)
① APOSTLE NOT[SAY〔WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕]⇒
① APOSTLE [〔(HIS)WORD(THE CHURCH)IN〕SAY]NOT=
① 使徒は [〔(彼の)言葉を(その教会)の中で〕言は]ない=
③ 使徒は、彼の言葉を、その教会の中で、言はない。
であって、尚且つ、
② NOT[SAY〔APOSTLE WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕]⇒
② [〔APOSTLE (HIS)WORD(THE CHURCH)IN〕SAY]NOT=
② [〔使徒は(彼の)言葉を(その教会)の中で〕言は]ない=
③ 使徒は、彼の言葉を、その教会の中で、言はない。
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
①「或る言語A」と、
②「或る言語B」が、
① APOSTLE NOT[SAY〔WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
② NOT[SAY〔APOSTLE WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
のやうな、
①「典型的な、SVO型言語」であるか、
②「典型的な、VSO型言語」であるならば、
それらの「言語」に対しては、『「括弧」を用いた「訓読」』が「可能」である。といふことになる。
然るに、
(11)
Dryer (2011a) は世界1377の言語を調べ、可能な語順が複数ある場合には使用頻度によって基本語順を決めた。この調査によれば、SOV型が一番多く565言語、次いでSVO型が488言語であった。他の4つのタイプはいずれも100言語以下で、VSO型が95言語、VOS型が25、OVS型が11、OSV型が4であった。同じくらいよく使われる語順が二つ以上ある言語は189あり、これらは頻度によって基本語順を決定できないため分類からは除かれている。
SOV型 - 日本語、琉球語、アイヌ語、アルタイ諸語、インド・イラン語派、ドラヴィダ語族、チベット・ミャンマー語派、ニヴフ語、ウィルタ語、ブルーシャスキー語、パーリ語、朝鮮語、アムハラ語、エスキモー語、チュクチ語、テュルク諸語、アイマラ語、ケチュア語、ナバホ語、ホピ語、バスク語、シュメール語、アッカド語、ヒッタイト語、エラム語など。
SVO型 - 英語、フランス語、中国語(広東語などの諸方言や漢文を含む)、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、ルーマニア語、ブルガリア語、現代ギリシア語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、タイ語、ラーオ語(ラオス語)、ベトナム語、ジャワ語、インドネシア語、マレー語(マレーシア語)、クメール語(カンボジア語)、スワヒリ語、現代アラビア語諸方言、ハウサ語、ヨルバ語、グアラニー語、ナワトル語など。
VSO型 - 古典アラビア語、ヘブライ語、アラム語、フェニキア語、古代エジプト語、ゲエズ語、ゲール語、古典マヤ語、タガログ語、セブアノ語、イロカノ語、マオリ語など。
VOS型 - フィジー語など。
OVS型 - ヒシカリヤナ語など。
OSV型 - シャバンテ語など。
(ウィキペディア:語順)
従って、
(07)(10)(11)により、
(12)
SVO型 - 英語、フランス語、中国語(広東語などの諸方言や漢文を含む)、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、ルーマニア語、ブルガリア語、現代ギリシア語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、タイ語、ラーオ語(ラオス語)、ベトナム語、ジャワ語、インドネシア語、マレー語(マレーシア語)、クメール語(カンボジア語)、スワヒリ語、現代アラビア語諸方言、ハウサ語、ヨルバ語、グアラニー語、ナワトル語など。
VSO型 - 古典アラビア語、ヘブライ語、アラム語、フェニキア語、古代エジプト語、ゲエズ語、ゲール語、古典マヤ語、タガログ語、セブアノ語、イロカノ語、マオリ語など。
にあって、「その言語」が、
①「典型的な、SVO型言語」であるか、
②「典型的な、VSO型言語」であるならば、
それらの「言語」に対しては、『「括弧」を用いた「訓読」』が「可能」である。といふことになる。
然るに、
(13)
④ V(SO).
⑤ O(V〔S)〕.
⑥ O(S)V.
に於いて、
⑤ (〔 )〕.
は、『括弧』ではない。
従って、
(14)
⑤ OVS型 - ヒシカリヤナ語など。
は、『「括弧」を用いた「訓読」』が「可能」ではない。
従って、
(15)
だからこそ、なおのこと、
⑤ OVS型 - ヒシカリヤナ語など。
は、絶対に、滅びてはならない。ものの、
その前に、このままでは、「漢文訓読」も、確実に、死に絶へむ。
平成26年12月21日、毛利太。
(16)
(15)
(05)於いて、
① アポストル ウー[レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)エン(テー エックレーシア)〕].
② ウー[レゲイ〔アポストル ロゴン(アウトゥ)エン(テー エックレーシア)〕].
に於いて、
① は、「SVO型」であり、
② は、「VSO型」である。
としたのは、「ギリシャ語」では、両方が、可能である。といふことである。
然るに、
(16)
Kretheus1 ekhei2 onaton3 paro4 morokwroi5 poimeinei6.
クレーテウスは1 羊飼い6 モログロス5 から4 借地権を3 受け取る2.
Kokalos1 apedoke2 elaiwon3 tosson4 Eumedei5.
コーカロスは1 エウメーデスに5 これだけの4 オリーブを3 支払った2.
ここに見る配列型は日本語のそれと正反対、つまり完全に SVO型のそれである。このような統語型が紀元前
2千年のギリシャ語に現れたことは注目すべきである(ピュロス文書の年代はB.C.1200頃)この点で、ギリシ
ャ語はエーゲ海を挟んで東方小アジアのヒッタイト語とは著しい対照をなしている(松本克己、世界言語への視座、2006年、143頁)。
従って、
(16)により、
(17)
ギリシャ語は、4千年前から、基本的に、「漢文」と同じく、「SVO型」であることになり、だとすれば、
Kretheus1 ekhei2{onaton3[paro4〔morokwroi5(poimeinei6)〕]}⇒
Kretheus1 {[〔(poimeinei6)morokwroi5〕paro4]onaton3}ekhei2=
クレーテウスは1 {[〔(羊飼い6)モログロス5〕から4]借地権を3}受け取る2.
といふ具合に、『「括弧」を用いた「訓読」』が、「ギリシャ語」に対して「可能」であることは、当然である。
平成26年12月21日、毛利太。
(ΑΥΤΟΥ)=(彼の)
〔ΛΟΓΟΝ(ΑΥΤΟΥ)〕=〔(彼の)言葉を〕
ΛΕΓΕΙ〔ΛΟΓΟΝ(ΑΥΤΟΥ)〕=〔(彼の)言葉を〕言ふ。
ΟΥ[ΛΕΓΕΙ〔ΛΟΓΟΝ(ΑΥΤΟΥ)〕]=[〔(彼の)言葉を〕言は]ない。
に於いて、
(彼の)
〔(彼の)言葉を〕
〔(彼の)言葉を〕言ふ
[〔(彼の)言葉を〕言は]ない。
は、「右側に伸びてゐる」が故に、「前進的(支配)」であると言ひ、
(アウトゥ)
〔ロゴン(アウトゥ)〕
レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)〕
ウー[レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)〕]
は、「左側に伸びてゐる」が故に、「後進的(支配)」であると言ふ。
加へて、
(02)
ウー[レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)〕]:[〔(彼の)言葉を〕言は]ない。
は、「左右対称(シンメトリー)」であるが故に、「鏡像(mirror image)的な関係」であると言ふ。
然るに、
(03)
例えば「使徒が言葉を言う」(an apostle says a word)という文は、ギリシャ語では通常 ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΕΓΕΙ ΛΟΓΟΝ である。だが ΛΕΓΕΙ ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ も、ΛΟΓΟΝ ΛΕΓΕΙ ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ も共に全く可能である。だから和訳、英訳は、共に順序でなく、語尾を観察することによって決定しなければならない(J.グレシャム・メイチェン、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、29頁)。
従って、
(03)により、
(04)
① APOSTLE ウー[レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)〕].
② ウー[レゲイ〔APOSTLE ロゴン(アウトゥ)〕].
に於いて、
① は、「SVO(主語+動詞+目的語)」であり、
② は、「VSO(動詞+主語+目的語)」である。
従って、
(05)
① APOSTLE ウー[レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)エン(テー エックレーシア)〕].
② ウー[レゲイ〔APOSTLE ロゴン(アウトゥ)エン(テー エックレーシア)〕].
に於いて、
① は、「SVO型」であり、
② は、「VSO型」である。
従って、
(06)
① APOSTLE NOT[SAY〔WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
② NOT[SAY〔APOSTLE WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
に於いて、
① は、「SVO型」であり、
② は、「VSO型」である。
然るに、
(07)
動詞が文頭に立つVSO型と動詞が常に文末尾に置かれる「厳格な」SOV型は、その統語型が正に鏡像(mirror image)的な関係に立つと見られる。ちなみに、日本語は前進的支配が驚くほど首尾一貫した「厳格な」(S)OV型の言語である。この意味で日本語はもろもろの言語の統語型の特性を判別するための尺度として最適の言語であると言ってよかろう。たとえば、英語は、基本的に配列型はS‐V‐Oで日本語とは逆になるが、Jhon’s book「ジョンの本」、an interesting book「面白い本」などのように、日本語と語順が一致する場合もある。ということは、英語の統語型がそれだけ不整合(inconsistency)を内臓していることを意味している(松本克己、世界言語への視座、2006年、132・133頁)。
従って、
(01)~(07)により、
(08)
① APOSTLE NOT[SAY〔WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
② NOT[SAY〔APOSTLE WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
③ 使徒は、彼の言葉を、その教会の中で、言はない。
に於いて、
① の「語順」は、「SVO型」であって、
② の「語順」は、「VSO型」であって、
③ の「語順」は、「SOV型」である。
然るに、
(09)
① APOSTLE NOT[SAY〔WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕]⇒
① APOSTLE [〔(HIS)WORD(THE CHURCH)IN〕SAY]NOT=
① 使徒は [〔(彼の)言葉を(その教会)の中で〕言は]ない=
③ 使徒は、彼の言葉を、その教会の中で、言はない。
であって、尚且つ、
② NOT[SAY〔APOSTLE WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕]⇒
② [〔APOSTLE (HIS)WORD(THE CHURCH)IN〕SAY]NOT=
② [〔使徒は(彼の)言葉を(その教会)の中で〕言は]ない=
③ 使徒は、彼の言葉を、その教会の中で、言はない。
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
①「或る言語A」と、
②「或る言語B」が、
① APOSTLE NOT[SAY〔WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
② NOT[SAY〔APOSTLE WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
のやうな、
①「典型的な、SVO型言語」であるか、
②「典型的な、VSO型言語」であるならば、
それらの「言語」に対しては、『「括弧」を用いた「訓読」』が「可能」である。といふことになる。
然るに、
(11)
Dryer (2011a) は世界1377の言語を調べ、可能な語順が複数ある場合には使用頻度によって基本語順を決めた。この調査によれば、SOV型が一番多く565言語、次いでSVO型が488言語であった。他の4つのタイプはいずれも100言語以下で、VSO型が95言語、VOS型が25、OVS型が11、OSV型が4であった。同じくらいよく使われる語順が二つ以上ある言語は189あり、これらは頻度によって基本語順を決定できないため分類からは除かれている。
SOV型 - 日本語、琉球語、アイヌ語、アルタイ諸語、インド・イラン語派、ドラヴィダ語族、チベット・ミャンマー語派、ニヴフ語、ウィルタ語、ブルーシャスキー語、パーリ語、朝鮮語、アムハラ語、エスキモー語、チュクチ語、テュルク諸語、アイマラ語、ケチュア語、ナバホ語、ホピ語、バスク語、シュメール語、アッカド語、ヒッタイト語、エラム語など。
SVO型 - 英語、フランス語、中国語(広東語などの諸方言や漢文を含む)、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、ルーマニア語、ブルガリア語、現代ギリシア語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、タイ語、ラーオ語(ラオス語)、ベトナム語、ジャワ語、インドネシア語、マレー語(マレーシア語)、クメール語(カンボジア語)、スワヒリ語、現代アラビア語諸方言、ハウサ語、ヨルバ語、グアラニー語、ナワトル語など。
VSO型 - 古典アラビア語、ヘブライ語、アラム語、フェニキア語、古代エジプト語、ゲエズ語、ゲール語、古典マヤ語、タガログ語、セブアノ語、イロカノ語、マオリ語など。
VOS型 - フィジー語など。
OVS型 - ヒシカリヤナ語など。
OSV型 - シャバンテ語など。
(ウィキペディア:語順)
従って、
(07)(10)(11)により、
(12)
SVO型 - 英語、フランス語、中国語(広東語などの諸方言や漢文を含む)、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、ルーマニア語、ブルガリア語、現代ギリシア語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、タイ語、ラーオ語(ラオス語)、ベトナム語、ジャワ語、インドネシア語、マレー語(マレーシア語)、クメール語(カンボジア語)、スワヒリ語、現代アラビア語諸方言、ハウサ語、ヨルバ語、グアラニー語、ナワトル語など。
VSO型 - 古典アラビア語、ヘブライ語、アラム語、フェニキア語、古代エジプト語、ゲエズ語、ゲール語、古典マヤ語、タガログ語、セブアノ語、イロカノ語、マオリ語など。
にあって、「その言語」が、
①「典型的な、SVO型言語」であるか、
②「典型的な、VSO型言語」であるならば、
それらの「言語」に対しては、『「括弧」を用いた「訓読」』が「可能」である。といふことになる。
然るに、
(13)
④ V(SO).
⑤ O(V〔S)〕.
⑥ O(S)V.
に於いて、
⑤ (〔 )〕.
は、『括弧』ではない。
従って、
(14)
⑤ OVS型 - ヒシカリヤナ語など。
は、『「括弧」を用いた「訓読」』が「可能」ではない。
従って、
(15)
だからこそ、なおのこと、
⑤ OVS型 - ヒシカリヤナ語など。
は、絶対に、滅びてはならない。ものの、
その前に、このままでは、「漢文訓読」も、確実に、死に絶へむ。
平成26年12月21日、毛利太。
(16)
(15)
(05)於いて、
① アポストル ウー[レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)エン(テー エックレーシア)〕].
② ウー[レゲイ〔アポストル ロゴン(アウトゥ)エン(テー エックレーシア)〕].
に於いて、
① は、「SVO型」であり、
② は、「VSO型」である。
としたのは、「ギリシャ語」では、両方が、可能である。といふことである。
然るに、
(16)
Kretheus1 ekhei2 onaton3 paro4 morokwroi5 poimeinei6.
クレーテウスは1 羊飼い6 モログロス5 から4 借地権を3 受け取る2.
Kokalos1 apedoke2 elaiwon3 tosson4 Eumedei5.
コーカロスは1 エウメーデスに5 これだけの4 オリーブを3 支払った2.
ここに見る配列型は日本語のそれと正反対、つまり完全に SVO型のそれである。このような統語型が紀元前
2千年のギリシャ語に現れたことは注目すべきである(ピュロス文書の年代はB.C.1200頃)この点で、ギリシ
ャ語はエーゲ海を挟んで東方小アジアのヒッタイト語とは著しい対照をなしている(松本克己、世界言語への視座、2006年、143頁)。
従って、
(16)により、
(17)
ギリシャ語は、4千年前から、基本的に、「漢文」と同じく、「SVO型」であることになり、だとすれば、
Kretheus1 ekhei2{onaton3[paro4〔morokwroi5(poimeinei6)〕]}⇒
Kretheus1 {[〔(poimeinei6)morokwroi5〕paro4]onaton3}ekhei2=
クレーテウスは1 {[〔(羊飼い6)モログロス5〕から4]借地権を3}受け取る2.
といふ具合に、『「括弧」を用いた「訓読」』が、「ギリシャ語」に対して「可能」であることは、当然である。
平成26年12月21日、毛利太。
2014年12月17日水曜日
ギリシャ語訓読。
(01)
ΕΝ(ΑΡΧΗ)ΗΝ(Ο ΛΟΓΟΣ) ΚΑΙ(Ο ΛΟΓΟΣ)ΗΝ〔ΠΡΟΣ(ΤΟΝ ΘΕΟΝ)〕ΚΑΙ ΘΕΟΣ ΗΝ(Ο ΛΟΓΟΣ)⇒
(ΑΡΧΗ)ΕΝ(Ο ΛΟΓΟΣ)ΗΝ ΚΑΙ(Ο ΛΟΓΟΣ)〔(ΤΟΝ ΘΕΟΝ)ΠΡΟΣ〕ΗΝ ΚΑΙ ΘΕΟΣ(Ο ΛΟΓΟΣ)ΗΝ=(はじめ)に(言葉が)あった、そして(言葉は)〔(神と)ともに〕あった、そして、神は(言葉)であった。
cf.
於(初)有(言葉)而(言葉)有〔与(神)〕而神為(言葉)⇒
(初)於(言葉)有而(言葉)〔(神)与〕有而神(言葉)為=
(初め)に(言葉が)有った而(言葉は)〔(神と)与に〕有った而神は(言葉)為り。
(02)
フートス エーン〔エン(アルケー)プロス(トン テオン)〕⇒
フートス 〔(アルケー)エン(トン テオン)プロス〕エーン=
これは〔(はじめ)に(神と)とともに〕あった。
(03)
パンタ ディ(アウトゥ)エゲネト カイ コーリス(アウトゥ)ウーデ[エン〔ホ(ゲゴネン)〕]⇒
パンタ(アウトゥ)ディ エゲネト カイ (アウトゥ)コーリス[〔(ゲゴネン)ホ〕エン]ウーデ=
全てのものは(彼に)よって出来た、 そして (彼に)によらず[〔(出来た)ものは〕一つも]なかった。
(04)
エン(アウトー) ゾーエー エーン カイ へー ゾーエー エーン〔ト‐ホース(トーン アントローポン)〕⇒
(アウトー)エン ゾーエー エーン カイ へー ゾーエー 〔(トーン アントローポン)ト‐ホース〕エーン=
(彼に)あって 命 であった、 そして 命は〔(人々の)光〕であった。
(05)
カイ ト ホース エン(テー スコティア)ファイネイ カイ へー スコティア アウト ウー(カテラベン)⇒
カイ ト ホース(テー スコティア)エン ファイネイ カイ へー スコティア アウト (カテラベン)ウー=
そして 光は(暗黒の)中で 輝いてゐる、そして 暗黒は それを(理解し)なかった。
(06)
エゲネト[アントローポス アペスタルメノス〔パラ(テウー)〕]オノマ(アウトー)イオーアンネース⇒
[アントローポス〔(テウー)パラ〕アペスタルメノス]エゲネト(アウトー)オノマ イオーアンネース=
[ある人が〔(神)から〕遣わされて]現れた、(その)名前は ヨハネ。 『ヨハネ第一章、一節から六節』
(07)
このように、これらの諸要素の配列の間に高い相関性が見い出されるのはなぜかと言えば、それは中世の文法家がrectio(支配”rection”)と呼んだ原理によって説明できるであろう。すなわち、A類の諸形式とB類の諸形式との関係は、それぞれ前者が”rectum(支配されるもの)”、後者が”regens”(支配するもの)と見なすことができるからである(松本克己、世界言語への視座、2006年、130頁)。
(08)
この場合、「中世の文法家がrectio(支配”rection”)と呼んだ原理」は、「漢文」で言ふ所の、「補足構造」に相当する。
平成26年12月17・18日、毛利太。
ΕΝ(ΑΡΧΗ)ΗΝ(Ο ΛΟΓΟΣ) ΚΑΙ(Ο ΛΟΓΟΣ)ΗΝ〔ΠΡΟΣ(ΤΟΝ ΘΕΟΝ)〕ΚΑΙ ΘΕΟΣ ΗΝ(Ο ΛΟΓΟΣ)⇒
(ΑΡΧΗ)ΕΝ(Ο ΛΟΓΟΣ)ΗΝ ΚΑΙ(Ο ΛΟΓΟΣ)〔(ΤΟΝ ΘΕΟΝ)ΠΡΟΣ〕ΗΝ ΚΑΙ ΘΕΟΣ(Ο ΛΟΓΟΣ)ΗΝ=(はじめ)に(言葉が)あった、そして(言葉は)〔(神と)ともに〕あった、そして、神は(言葉)であった。
cf.
於(初)有(言葉)而(言葉)有〔与(神)〕而神為(言葉)⇒
(初)於(言葉)有而(言葉)〔(神)与〕有而神(言葉)為=
(初め)に(言葉が)有った而(言葉は)〔(神と)与に〕有った而神は(言葉)為り。
(02)
フートス エーン〔エン(アルケー)プロス(トン テオン)〕⇒
フートス 〔(アルケー)エン(トン テオン)プロス〕エーン=
これは〔(はじめ)に(神と)とともに〕あった。
(03)
パンタ ディ(アウトゥ)エゲネト カイ コーリス(アウトゥ)ウーデ[エン〔ホ(ゲゴネン)〕]⇒
パンタ(アウトゥ)ディ エゲネト カイ (アウトゥ)コーリス[〔(ゲゴネン)ホ〕エン]ウーデ=
全てのものは(彼に)よって出来た、 そして (彼に)によらず[〔(出来た)ものは〕一つも]なかった。
(04)
エン(アウトー) ゾーエー エーン カイ へー ゾーエー エーン〔ト‐ホース(トーン アントローポン)〕⇒
(アウトー)エン ゾーエー エーン カイ へー ゾーエー 〔(トーン アントローポン)ト‐ホース〕エーン=
(彼に)あって 命 であった、 そして 命は〔(人々の)光〕であった。
(05)
カイ ト ホース エン(テー スコティア)ファイネイ カイ へー スコティア アウト ウー(カテラベン)⇒
カイ ト ホース(テー スコティア)エン ファイネイ カイ へー スコティア アウト (カテラベン)ウー=
そして 光は(暗黒の)中で 輝いてゐる、そして 暗黒は それを(理解し)なかった。
(06)
エゲネト[アントローポス アペスタルメノス〔パラ(テウー)〕]オノマ(アウトー)イオーアンネース⇒
[アントローポス〔(テウー)パラ〕アペスタルメノス]エゲネト(アウトー)オノマ イオーアンネース=
[ある人が〔(神)から〕遣わされて]現れた、(その)名前は ヨハネ。 『ヨハネ第一章、一節から六節』
(07)
このように、これらの諸要素の配列の間に高い相関性が見い出されるのはなぜかと言えば、それは中世の文法家がrectio(支配”rection”)と呼んだ原理によって説明できるであろう。すなわち、A類の諸形式とB類の諸形式との関係は、それぞれ前者が”rectum(支配されるもの)”、後者が”regens”(支配するもの)と見なすことができるからである(松本克己、世界言語への視座、2006年、130頁)。
(08)
この場合、「中世の文法家がrectio(支配”rection”)と呼んだ原理」は、「漢文」で言ふ所の、「補足構造」に相当する。
平成26年12月17・18日、毛利太。
2014年12月12日金曜日
〔 〕は有るのだ(Ⅱ)。
(01)
① AB&〔(AB)~〕~=
① AはBである。AはBでない、といふ「こと」はない。
に於いて、「こと」は、「形式名詞」である。
然るに、
(02)
(四)形式名詞 本来の名詞の意味を失って、形式的に用いられたもの。形式名詞は、それだけで主語となることはなく、必ずその前に連体修飾語が付く。(代々木ゼミ方式 受験国文法、1980年、11頁)。
従って、
(02)により、
(03)
①「こと」自体に、「意味」は無いため、
①「こと」の中身は、「空っぽ」である。
然るに、
(04)
① AはBでない「といふこと」。
に於ける、
①「といふこと」
とは何かと、問ふならば、
①「といふこと」=「AはBでない。」
と、せざるを、得ない。
従って、
(04)により、
(05)
① AはBでない「といふこと」。
の、「といふこと」には、
①「AはBでない。」が、「代入」されてゐる。
従って、
(05)により、
(06)
①「といふこと」の中には、
①「AはBでない」といふ「命題」が有る。ことになる。
然るに、
(07)
① AB&〔(AB)~〕~=
① AはBである。AはBでない、といふことはない。
に於いて、
①〔(AB)~〕=〔(AはBで)ない〕
従って、
(06)(07)により、
(08)
①「といふこと」の中には、
①「AはBでない」といふ「命題」が有り、尚且つ、
①〔(AはBで)ない〕の、
①〔 〕の中には、
①「AはBでない」といふ「命題」が有る。
従って、
(08)により、
(09)
① AB&〔(AB)~〕~=
① AはBである。AはBでない、といふことはない。
に於いて、
①〔 〕=
①「といふこと」
と、せざるを得ない。
従って、
(09)により、
(10)
① AB&〔(AB)~〕~=
① AはBである。AはBでない、といふことはない。
②〔AB&(AB)~〕~=
② AはBであって、AはBでない、ということはない。
に於いて、
①「といふこと」=①〔 〕
②「といふこと」=②〔 〕
である。
従って、
(10)により、
(11)
① AはBであって、AはBでない、ということはない。
② AはBである。 AはBでない、といふことはない。
といふ二つに、あっても、
①〔 〕=といふこと
②〔 〕=といふこと
は、有ります。
平成26年12月12日、毛利太。
① AB&〔(AB)~〕~=
① AはBである。AはBでない、といふ「こと」はない。
に於いて、「こと」は、「形式名詞」である。
然るに、
(02)
(四)形式名詞 本来の名詞の意味を失って、形式的に用いられたもの。形式名詞は、それだけで主語となることはなく、必ずその前に連体修飾語が付く。(代々木ゼミ方式 受験国文法、1980年、11頁)。
従って、
(02)により、
(03)
①「こと」自体に、「意味」は無いため、
①「こと」の中身は、「空っぽ」である。
然るに、
(04)
① AはBでない「といふこと」。
に於ける、
①「といふこと」
とは何かと、問ふならば、
①「といふこと」=「AはBでない。」
と、せざるを、得ない。
従って、
(04)により、
(05)
① AはBでない「といふこと」。
の、「といふこと」には、
①「AはBでない。」が、「代入」されてゐる。
従って、
(05)により、
(06)
①「といふこと」の中には、
①「AはBでない」といふ「命題」が有る。ことになる。
然るに、
(07)
① AB&〔(AB)~〕~=
① AはBである。AはBでない、といふことはない。
に於いて、
①〔(AB)~〕=〔(AはBで)ない〕
従って、
(06)(07)により、
(08)
①「といふこと」の中には、
①「AはBでない」といふ「命題」が有り、尚且つ、
①〔(AはBで)ない〕の、
①〔 〕の中には、
①「AはBでない」といふ「命題」が有る。
従って、
(08)により、
(09)
① AB&〔(AB)~〕~=
① AはBである。AはBでない、といふことはない。
に於いて、
①〔 〕=
①「といふこと」
と、せざるを得ない。
従って、
(09)により、
(10)
① AB&〔(AB)~〕~=
① AはBである。AはBでない、といふことはない。
②〔AB&(AB)~〕~=
② AはBであって、AはBでない、ということはない。
に於いて、
①「といふこと」=①〔 〕
②「といふこと」=②〔 〕
である。
従って、
(10)により、
(11)
① AはBであって、AはBでない、ということはない。
② AはBである。 AはBでない、といふことはない。
といふ二つに、あっても、
①〔 〕=といふこと
②〔 〕=といふこと
は、有ります。
平成26年12月12日、毛利太。
2014年12月11日木曜日
〔 〕は有るのだ。
(01)
矛盾律:~((AはBである)∧~(AはBである))
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、29頁)
然るに、
(02)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
矛盾律:~((AはBである)∧~(AはBである))
から、( )を、一つ除き、
矛盾律:~(AはBである∧~(AはBである))
とする。
(04)
∧ は、馴染みがないので、& とする。
従って、
(03)(04)により、
(05)
矛盾律:~(AはBである&~(AはBである))
(06)
(( ))は、〔( )〕とする。
従って、
(05)(06)により、
(07)
矛盾律:~〔AはBである&~(AはBである)〕
(08)
~=否定 は、「日本語の語順」に合わせて、文末に置く。
従って、
(07)(08)により、
(09)
矛盾律:〔AはBである&(AはBである)~〕~
(10)
孔子聖人=孔子は聖人なり。
にならって、
AB=AはBである。 とする。
従って、
(09)(10)により、
(11)
矛盾律:〔AB&(AB)~〕~
然るに、
(12)
矛盾律:AがBであってBでない、ということはない。
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、29頁)
然るに、
(13)
AがBであってBでない、ということはない=
AはBであって、AはBでない、ということない。
cf.
安倍晋三は総理大臣であって、安倍晋三は総理大臣でない。といふことはない。
従って、
(11)(13)により、
(14)
矛盾律:〔AB&(AB)~〕~
矛盾律:AはBであって、AはBでない、ということはない。
然るに、
(15)
AB&〔(AB)~〕~
の場合は、
AB&〔(AB)~〕~=
AはBであって、〔(AはBで)ない〕ではない=
AはBであって、AはBである。
となって、「矛盾律」には、ならない。
cf.
安倍晋三は総理大臣であって、安倍晋三は総理大臣である。
従って、
(16)
AB&〔(AB)~〕~=
AはBであって、AはBである。
を、仮に、「肯定律」とする。
然るに、
(17)
AはBである。AはBでない、といふことはない=
AはBであって、AはBである。
従って、
(16)(17)により、
(18)
肯定律:AB&〔(AB)~〕~=
肯定律:AはBである。AはBでない、といふことはない。
従って、
(14)(18)により、
(19)
矛盾律:〔AB&(AB)~〕~=
矛盾律:AはBであって、AはBでない、ということはない。
肯定律:AB&〔(AB)~〕~=
肯定律:AはBである。AはBでない、といふことはない。
従って、
(19)により、
(20)
〔(AB)~〕~=
AはBでない、といふことはない。
然るに、
(21)
(AB)~=AはBでない
従って、
(20)(21)により、
(22)
〔 〕~=といふことはない。
従って、
(22)により、
(23)
〔 〕=といふこと
従って、
(19)(23)により、
(24)
矛盾律:AはBであって、AはBでない、ということはない。
肯定律:AはBである。 AはBでない、といふことはない。
といふ二つに、あって、
〔 〕=といふこと
〔 〕=といふこと
は、有ります。
平成26年12月11日、毛利太。
矛盾律:~((AはBである)∧~(AはBである))
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、29頁)
然るに、
(02)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
矛盾律:~((AはBである)∧~(AはBである))
から、( )を、一つ除き、
矛盾律:~(AはBである∧~(AはBである))
とする。
(04)
∧ は、馴染みがないので、& とする。
従って、
(03)(04)により、
(05)
矛盾律:~(AはBである&~(AはBである))
(06)
(( ))は、〔( )〕とする。
従って、
(05)(06)により、
(07)
矛盾律:~〔AはBである&~(AはBである)〕
(08)
~=否定 は、「日本語の語順」に合わせて、文末に置く。
従って、
(07)(08)により、
(09)
矛盾律:〔AはBである&(AはBである)~〕~
(10)
孔子聖人=孔子は聖人なり。
にならって、
AB=AはBである。 とする。
従って、
(09)(10)により、
(11)
矛盾律:〔AB&(AB)~〕~
然るに、
(12)
矛盾律:AがBであってBでない、ということはない。
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、29頁)
然るに、
(13)
AがBであってBでない、ということはない=
AはBであって、AはBでない、ということない。
cf.
安倍晋三は総理大臣であって、安倍晋三は総理大臣でない。といふことはない。
従って、
(11)(13)により、
(14)
矛盾律:〔AB&(AB)~〕~
矛盾律:AはBであって、AはBでない、ということはない。
然るに、
(15)
AB&〔(AB)~〕~
の場合は、
AB&〔(AB)~〕~=
AはBであって、〔(AはBで)ない〕ではない=
AはBであって、AはBである。
となって、「矛盾律」には、ならない。
cf.
安倍晋三は総理大臣であって、安倍晋三は総理大臣である。
従って、
(16)
AB&〔(AB)~〕~=
AはBであって、AはBである。
を、仮に、「肯定律」とする。
然るに、
(17)
AはBである。AはBでない、といふことはない=
AはBであって、AはBである。
従って、
(16)(17)により、
(18)
肯定律:AB&〔(AB)~〕~=
肯定律:AはBである。AはBでない、といふことはない。
従って、
(14)(18)により、
(19)
矛盾律:〔AB&(AB)~〕~=
矛盾律:AはBであって、AはBでない、ということはない。
肯定律:AB&〔(AB)~〕~=
肯定律:AはBである。AはBでない、といふことはない。
従って、
(19)により、
(20)
〔(AB)~〕~=
AはBでない、といふことはない。
然るに、
(21)
(AB)~=AはBでない
従って、
(20)(21)により、
(22)
〔 〕~=といふことはない。
従って、
(22)により、
(23)
〔 〕=といふこと
従って、
(19)(23)により、
(24)
矛盾律:AはBであって、AはBでない、ということはない。
肯定律:AはBである。 AはBでない、といふことはない。
といふ二つに、あって、
〔 〕=といふこと
〔 〕=といふこと
は、有ります。
平成26年12月11日、毛利太。
2014年12月7日日曜日
「返り点」の確認。
(01)
従って、
(01)により、
(02)
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
⑥ レ 下 二 レ 一レ 上レ 。
⑦ 乙 下 二 一レ 上レ 甲レ 。
といふ、「レ点を、含む返り点」は、
⑧ 四 三 二 一。
⑨ 四 三 二 一。
⑩ 四 三 二 一。
⑪ 四 三 二 一。
⑫ 四 三 二 一。
⑬ 丁 丙 下 二 一 中 上 乙 甲。
⑭ 丙 下 三 二 一 中 上 乙 甲。
といふ、「レ点を、含まない返り点」と、「同じこと」である。
然るに、
(03)
⑧ 四[三〔二(一)〕]⇒
⑧ [〔(一)二〕三]四。
⑬ 丁{丙[下〔二(一)中(上)〕乙(甲)]}⇒
⑬ {[〔(一)二(上)中〕下(甲)乙]丙}丁。
⑭ 丙{下[三〔二(一)〕中(上)]乙(甲)}⇒
⑭ {[〔(一)二〕三(上)中]下(甲)乙}丙。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
⑥ レ 下 二 レ 一レ 上レ 。
⑦ 乙 下 二 一レ 上レ 甲レ。
といふ「返り点」は、
⑧ 四 三 二 一。
⑨ 四 三 二 一。
⑩ 四 三 二 一。
⑪ 四 三 二 一。
⑫ 四 三 二 一。
⑬ 丁 丙 下 二 一 中 上 乙 甲。
⑭ 丙 下 三 二 一 中 上 乙 甲。
に、「等しく」、
⑧ 四 三 二 一。
⑨ 四 三 二 一。
⑩ 四 三 二 一。
⑪ 四 三 二 一。
⑫ 四 三 二 一。
⑬ 丁 丙 下 二 一 中 上 乙 甲。
⑭ 丙 下 三 二 一 中 上 乙 甲。
といふ「返り点」は、
⑧[〔( )〕]。
⑨[〔( )〕]。
⑩[〔( )〕]。
⑪[〔( )〕]。
⑫[〔( )〕]。
⑬{[〔( )( )〕( )]}。
⑭{[〔( )〕( )]( )}。
といふ「括弧」に、等しい。
加へて、
(05)
⑮ 人 乙 下 二 一レ 上レ 甲レ 天レ。
であれば、
⑮ 人 丙 下 三 二 一 中 上 乙 甲 地 天 =
⑮ 人〈丙{下[三〔二(一)〕中(上)]乙(甲)}地(天)〉⇒
⑮ 〈{[〔(一)二〕三(上)中]下(甲)乙}丙(天)地〉人=
⑮〈{[〔( )〕( )]( )}( )〉。
に、等しい。
いづれにせよ、
(06)
レ点が一個戻るのに使われたのに対して、一二三点は二文字以上の文字を戻るときに使います(Webサイト:マナペディア)。
といふ「規則」が無ければ、
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
といふ「返り点」は、
① 四 三 二 一。
② 四 三 二 一。
③ 四 三 二 一。
④ 四 三 二 一。
⑤ 四 三 二 一。
に、「等しい」。
然るに、
(07)
① 四 三 二 一。
② 四 三 二 一。
③ 四 三 二 一。
④ 四 三 二 一。
⑤ 四 三 二 一。
といふ「返り点」は、少しも、「難しくはない」。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
といふ「返り点」は、「結果」として、
① 四 三 二 一。
② 四 三 二 一。
③ 四 三 二 一。
④ 四 三 二 一。
⑤ 四 三 二 一。
に、「等しい。」といふことが、「理解」出来れば、
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
といふ「返り点」は、「難しくはない」。
然るに、
(09)
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
が、「理解」出来れば、
レ
一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
レ
を、「理解」したことになり、
レ
一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
レ
が「理解」出来れば、
レ
上 中 下
レ
甲 乙 丙 丁 戊 ・ ・ ・ ・ ・
レ
天 地 人
レ
を「理解」することは、
⑮ 人 丙 下 三 二 一 中 上 乙 甲 地 天 ⇒
⑮ 一 二 三 上 中 下 甲 乙 丙 天 地 人。
を「理解」することに、ほぼ、「等しい」。
(10)
もうすぐ、「受験」が始まります。風邪など引かず、悔いの無いやうに、頑張って下さい。
平成26年12月07日、毛利太。
従って、
(01)により、
(02)
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
⑥ レ 下 二 レ 一レ 上レ 。
⑦ 乙 下 二 一レ 上レ 甲レ 。
といふ、「レ点を、含む返り点」は、
⑧ 四 三 二 一。
⑨ 四 三 二 一。
⑩ 四 三 二 一。
⑪ 四 三 二 一。
⑫ 四 三 二 一。
⑬ 丁 丙 下 二 一 中 上 乙 甲。
⑭ 丙 下 三 二 一 中 上 乙 甲。
といふ、「レ点を、含まない返り点」と、「同じこと」である。
然るに、
(03)
⑧ 四[三〔二(一)〕]⇒
⑧ [〔(一)二〕三]四。
⑬ 丁{丙[下〔二(一)中(上)〕乙(甲)]}⇒
⑬ {[〔(一)二(上)中〕下(甲)乙]丙}丁。
⑭ 丙{下[三〔二(一)〕中(上)]乙(甲)}⇒
⑭ {[〔(一)二〕三(上)中]下(甲)乙}丙。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
⑥ レ 下 二 レ 一レ 上レ 。
⑦ 乙 下 二 一レ 上レ 甲レ。
といふ「返り点」は、
⑧ 四 三 二 一。
⑨ 四 三 二 一。
⑩ 四 三 二 一。
⑪ 四 三 二 一。
⑫ 四 三 二 一。
⑬ 丁 丙 下 二 一 中 上 乙 甲。
⑭ 丙 下 三 二 一 中 上 乙 甲。
に、「等しく」、
⑧ 四 三 二 一。
⑨ 四 三 二 一。
⑩ 四 三 二 一。
⑪ 四 三 二 一。
⑫ 四 三 二 一。
⑬ 丁 丙 下 二 一 中 上 乙 甲。
⑭ 丙 下 三 二 一 中 上 乙 甲。
といふ「返り点」は、
⑧[〔( )〕]。
⑨[〔( )〕]。
⑩[〔( )〕]。
⑪[〔( )〕]。
⑫[〔( )〕]。
⑬{[〔( )( )〕( )]}。
⑭{[〔( )〕( )]( )}。
といふ「括弧」に、等しい。
加へて、
(05)
⑮ 人 乙 下 二 一レ 上レ 甲レ 天レ。
であれば、
⑮ 人 丙 下 三 二 一 中 上 乙 甲 地 天 =
⑮ 人〈丙{下[三〔二(一)〕中(上)]乙(甲)}地(天)〉⇒
⑮ 〈{[〔(一)二〕三(上)中]下(甲)乙}丙(天)地〉人=
⑮〈{[〔( )〕( )]( )}( )〉。
に、等しい。
いづれにせよ、
(06)
レ点が一個戻るのに使われたのに対して、一二三点は二文字以上の文字を戻るときに使います(Webサイト:マナペディア)。
といふ「規則」が無ければ、
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
といふ「返り点」は、
① 四 三 二 一。
② 四 三 二 一。
③ 四 三 二 一。
④ 四 三 二 一。
⑤ 四 三 二 一。
に、「等しい」。
然るに、
(07)
① 四 三 二 一。
② 四 三 二 一。
③ 四 三 二 一。
④ 四 三 二 一。
⑤ 四 三 二 一。
といふ「返り点」は、少しも、「難しくはない」。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
といふ「返り点」は、「結果」として、
① 四 三 二 一。
② 四 三 二 一。
③ 四 三 二 一。
④ 四 三 二 一。
⑤ 四 三 二 一。
に、「等しい。」といふことが、「理解」出来れば、
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
といふ「返り点」は、「難しくはない」。
然るに、
(09)
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
が、「理解」出来れば、
レ
一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
レ
を、「理解」したことになり、
レ
一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
レ
が「理解」出来れば、
レ
上 中 下
レ
甲 乙 丙 丁 戊 ・ ・ ・ ・ ・
レ
天 地 人
レ
を「理解」することは、
⑮ 人 丙 下 三 二 一 中 上 乙 甲 地 天 ⇒
⑮ 一 二 三 上 中 下 甲 乙 丙 天 地 人。
を「理解」することに、ほぼ、「等しい」。
(10)
もうすぐ、「受験」が始まります。風邪など引かず、悔いの無いやうに、頑張って下さい。
平成26年12月07日、毛利太。
2014年12月4日木曜日
「逆である(仮題)」。
(01)
「読む」のであれば、「何かを」、「読む」のであって、その場合の、
「何かを」が、「読む」の「目的語」である。
(02)
「居る」のであれば、「何処かに」、「居る」のであって、その場合の、
「何処かに」が、「居る」の「補語」である。
然るに、
(03)
目的語と補語とは、それほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と読んだり、単に補語と読んだりしている(数研出版、基礎からの漢文、1993年、26頁)。
加へて、
(04)
なお「於」字は置いたり置かなかったりして一定していないし、いつどういうときに置くという規則もない。そこで、「於」と同じ働きをする「于」などとあわせて、そういう文字がきているときは、「を」や「に」がつくというふうに、まず考えておくことだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、40頁)。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① 馴於己=己に馴れる。
に於いて、「於(を・に)」が有るが故に、
①(於己)は、「馴れる」の「補足語」である。
(06)
不=~
は、「何か」を「否定」するため、「否定する語句」を必要とし、それ故、
任意の表述の否定は、その表述を’~〔 〕’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁改)。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① 不〔馴(於己)〕=己に馴れる。
に於いて、
①〔馴(於己)〕は、「不」の「補足語」である。
(08)
② I fear〈that{they will[not〔obey(me)〕]}〉⇒
② I 〈{they [〔(me)obey〕not]will}that〉fear=
② 私は〈{彼らが[〔(私に)従は〕ない]であらう}といふことを〉心配する。
に於いて、
② fear の、「補足語」は、
② that=they will not obey me.
である。
然るに、
(09)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]⇒
① [衆狙之〔(於己)馴〕不]恐=
① [衆狙の〔(己に)馴れ〕不るを]恐る=
① [猿たちが〔(自分に)馴れ従は〕なくなるであろうことを]心配する。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]。
に於いて、
①[衆狙之不〔馴(於己)〕]=
②{they will[not〔obey(me)〕]}
は、「恐(fear)」の「補足語」である。
然るに、
(11)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]。
ではなく、
① 四[衆狙之三〔二(於一)〕]。
であるとして、
① 四[衆狙之三〔二(於一)〕]⇒
① [衆狙之〔(於一)二〕三]四=
① [衆狙に〔(一に)二れ〕三るを]四る。
然るに、
(12)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]。
① 四[衆狙之三〔二(於一)〕]。
であれば、
四=恐
三=不
二=馴
一=己
である。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]。
に付く「返り点」は、
① 四 三 二 一。
である。
然るに、
(14)
「教科書」等に於ける、「朝三暮四の、返り点」は、
① 二 一レ 二 一。
である。
従って、
(01)~(14)により、
(15)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]。
といふ、「補足構造」に付く「返り点」は、
① 四 三 二 一。
① 二 一レ 二 一。
である。
従って、
(15)により、
(16)
① 恐衆狙之不馴於己。
といふ「漢文」に於ける、
①[〔( )〕]。
といふ「補足構造」を、「返り点」に、「置き換へた結果」が、
① 四 三 二 一。
① 二 一レ 二 一。
といふ「返り点」であって、
① 四 三 二 一。
① 二 一レ 二 一。
といふ「返り点」を、「括弧」に、「置き換へた結果」が、
①[〔( )〕]。
といふ「括弧」である。わけではない。
従って、
(17)
「任意の漢文」に於ける『補足構造(括弧)』を、
レ
一 二 三 四 五 ・・・・・
レ
上 中 下 # # ・・・・・
レ
甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
レ
天 地 人 # # ・・・・・
レ
等で置き換へた「結果」が、「或る、返り点」で、あるならば、
「その、返り点」は、必然的に、『括弧』で、「置き換へられる」。
従って、
(18)
③ 何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」に付く、
③ レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ 。
といふ「返り点」であっても、その実、
③ 何不〈令{人謂(韓公叔)曰[秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)、不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰、[韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉⇒
③ 何〈{人(韓公叔)謂[秦之敢(周)絶而(韓)伐者、(東周)信也、公何〔(周地)与(質使)発(楚)之〕不、秦必(楚)疑、〔(周)信〕不、是韓(伐)不也]曰、又(秦)謂、[韓彊(周地)与、将〔以(周於秦)疑〕也、周〔敢(受)不〕不]曰}令〉不=
③ 何ぞ〈{人をして(韓の公叔に)謂ひて[秦之敢へて(周を)絶つ而(韓を)伐んとする者、(東周を)信ずれば也、公何ぞ〔(周に地を)与へ(質使を)発して(楚に)之かしめ〕不る、秦必ず(楚を)疑ひ、〔(周を)信ぜ〕不らん、是れ韓(伐たれ)不らん也と]曰ひ、又(秦に)謂ひて、[韓彊ひて(周に地を)与ふるは、将に〔以て(周を於秦に)疑はしめんとする〕也、周〔敢へて(受け)不んば〕不ずと]曰は}令め〉不る。
といふ『括弧(捕捉構造)』に、付けられてゐる。といふ、ことになる。
cf.
通常の包含関係に従って甲乙点を打った後、その外側で四つの返り点が必要になったらどうするのでしょうか。その場合もやはり甲乙点と天地人を逆転させるしかないのです。そのような例を一つ示しましょう。根気のよい方は訓読に従って字を逐ってみてください。あまりの複雑ゆえに嫌気がさす方は、読み飛ばしても結構です(これならわかる返り点―入門から応用まで―古田島洋介、91頁)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
古田島先生は、
③ 何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」に於ける、
③ 〈{( )[( )( )( )〔( )( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〉。
といふ『括弧(捕捉構造)』を、
③ レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ 。
といふ「返り点」に「置き換へ」、私は、「逆」に、
③ レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ 。
といふ「返り点」を、
③ 〈{( )[( )( )( )〔( )( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〉。
といふ『括弧(捕捉構造)』に、「戻した」。ことになる。
従って、
(18)(19)により、
(20)
古田島先生の言ふ、『包含関係』といふ「言ひ方」は、『補足構造(括弧)』に、「読み換へる」ことが、出来る。
平成26年12月04日、毛利太。
「読む」のであれば、「何かを」、「読む」のであって、その場合の、
「何かを」が、「読む」の「目的語」である。
(02)
「居る」のであれば、「何処かに」、「居る」のであって、その場合の、
「何処かに」が、「居る」の「補語」である。
然るに、
(03)
目的語と補語とは、それほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と読んだり、単に補語と読んだりしている(数研出版、基礎からの漢文、1993年、26頁)。
加へて、
(04)
なお「於」字は置いたり置かなかったりして一定していないし、いつどういうときに置くという規則もない。そこで、「於」と同じ働きをする「于」などとあわせて、そういう文字がきているときは、「を」や「に」がつくというふうに、まず考えておくことだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、40頁)。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① 馴於己=己に馴れる。
に於いて、「於(を・に)」が有るが故に、
①(於己)は、「馴れる」の「補足語」である。
(06)
不=~
は、「何か」を「否定」するため、「否定する語句」を必要とし、それ故、
任意の表述の否定は、その表述を’~〔 〕’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁改)。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① 不〔馴(於己)〕=己に馴れる。
に於いて、
①〔馴(於己)〕は、「不」の「補足語」である。
(08)
② I fear〈that{they will[not〔obey(me)〕]}〉⇒
② I 〈{they [〔(me)obey〕not]will}that〉fear=
② 私は〈{彼らが[〔(私に)従は〕ない]であらう}といふことを〉心配する。
に於いて、
② fear の、「補足語」は、
② that=they will not obey me.
である。
然るに、
(09)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]⇒
① [衆狙之〔(於己)馴〕不]恐=
① [衆狙の〔(己に)馴れ〕不るを]恐る=
① [猿たちが〔(自分に)馴れ従は〕なくなるであろうことを]心配する。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]。
に於いて、
①[衆狙之不〔馴(於己)〕]=
②{they will[not〔obey(me)〕]}
は、「恐(fear)」の「補足語」である。
然るに、
(11)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]。
ではなく、
① 四[衆狙之三〔二(於一)〕]。
であるとして、
① 四[衆狙之三〔二(於一)〕]⇒
① [衆狙之〔(於一)二〕三]四=
① [衆狙に〔(一に)二れ〕三るを]四る。
然るに、
(12)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]。
① 四[衆狙之三〔二(於一)〕]。
であれば、
四=恐
三=不
二=馴
一=己
である。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]。
に付く「返り点」は、
① 四 三 二 一。
である。
然るに、
(14)
「教科書」等に於ける、「朝三暮四の、返り点」は、
① 二 一レ 二 一。
である。
従って、
(01)~(14)により、
(15)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]。
といふ、「補足構造」に付く「返り点」は、
① 四 三 二 一。
① 二 一レ 二 一。
である。
従って、
(15)により、
(16)
① 恐衆狙之不馴於己。
といふ「漢文」に於ける、
①[〔( )〕]。
といふ「補足構造」を、「返り点」に、「置き換へた結果」が、
① 四 三 二 一。
① 二 一レ 二 一。
といふ「返り点」であって、
① 四 三 二 一。
① 二 一レ 二 一。
といふ「返り点」を、「括弧」に、「置き換へた結果」が、
①[〔( )〕]。
といふ「括弧」である。わけではない。
従って、
(17)
「任意の漢文」に於ける『補足構造(括弧)』を、
レ
一 二 三 四 五 ・・・・・
レ
上 中 下 # # ・・・・・
レ
甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
レ
天 地 人 # # ・・・・・
レ
等で置き換へた「結果」が、「或る、返り点」で、あるならば、
「その、返り点」は、必然的に、『括弧』で、「置き換へられる」。
従って、
(18)
③ 何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」に付く、
③ レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ 。
といふ「返り点」であっても、その実、
③ 何不〈令{人謂(韓公叔)曰[秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)、不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰、[韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉⇒
③ 何〈{人(韓公叔)謂[秦之敢(周)絶而(韓)伐者、(東周)信也、公何〔(周地)与(質使)発(楚)之〕不、秦必(楚)疑、〔(周)信〕不、是韓(伐)不也]曰、又(秦)謂、[韓彊(周地)与、将〔以(周於秦)疑〕也、周〔敢(受)不〕不]曰}令〉不=
③ 何ぞ〈{人をして(韓の公叔に)謂ひて[秦之敢へて(周を)絶つ而(韓を)伐んとする者、(東周を)信ずれば也、公何ぞ〔(周に地を)与へ(質使を)発して(楚に)之かしめ〕不る、秦必ず(楚を)疑ひ、〔(周を)信ぜ〕不らん、是れ韓(伐たれ)不らん也と]曰ひ、又(秦に)謂ひて、[韓彊ひて(周に地を)与ふるは、将に〔以て(周を於秦に)疑はしめんとする〕也、周〔敢へて(受け)不んば〕不ずと]曰は}令め〉不る。
といふ『括弧(捕捉構造)』に、付けられてゐる。といふ、ことになる。
cf.
通常の包含関係に従って甲乙点を打った後、その外側で四つの返り点が必要になったらどうするのでしょうか。その場合もやはり甲乙点と天地人を逆転させるしかないのです。そのような例を一つ示しましょう。根気のよい方は訓読に従って字を逐ってみてください。あまりの複雑ゆえに嫌気がさす方は、読み飛ばしても結構です(これならわかる返り点―入門から応用まで―古田島洋介、91頁)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
古田島先生は、
③ 何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」に於ける、
③ 〈{( )[( )( )( )〔( )( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〉。
といふ『括弧(捕捉構造)』を、
③ レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ 。
といふ「返り点」に「置き換へ」、私は、「逆」に、
③ レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ 。
といふ「返り点」を、
③ 〈{( )[( )( )( )〔( )( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〉。
といふ『括弧(捕捉構造)』に、「戻した」。ことになる。
従って、
(18)(19)により、
(20)
古田島先生の言ふ、『包含関係』といふ「言ひ方」は、『補足構造(括弧)』に、「読み換へる」ことが、出来る。
平成26年12月04日、毛利太。
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