―「01月30日の記事の内の、二番目の方」を補足します。―
従って、
(25)により、
(26)
⑤ 我不敢告彼女真実=
⑤ 我不[敢〔告(彼女真実)〕]=
⑤ 我[〔(彼女真実)告〕敢]不
⑤ 我[〔(彼女に真実を)告ぐること〕敢へてせ]ず=
⑤ 私は(勇気がなくて、)彼女に真実を告げることが出来ない。
である。
然るに、
(27)
―[助](過去 ~ed)あえて[思い切って]・・・する。・・・する勇気がある。
I daren't tell her the truth. 彼女に本当ことを告げる勇気がない。
(東京書籍、フェイバリット英和辞典 第2版、2001年、377頁)
従って、
(26)(27)により、
(28)
⑤ 我不敢告彼女真実。
⑥ I dare not tell her the truth.
に於いて、
⑤=⑥ である。
従って、
(28)により、
(29)
⑤ 敢 (助動詞)
⑥ dare(助動詞)
に於いて、
⑤=⑥ である。
従って、
(27)(29)により、
(30)
「敢」は、
「・・・ことを(思い切って)する」。
「・・・ことを(意を)決してする」。
といふ「意味」である所の、「助動詞」である。
従って、
(31)
「・・・ことを(意を)決してする」。
に於いて、
「・・・」は「連体形」である。
従って、
(32)
⑦ 敢 逃。
⑧ 敢不逃。
⑨ 不敢 逃。
⑩ 不敢不逃。
であれば、
⑦ 敢 (逃)。
⑧ 敢〔不(逃)〕。
⑨ 不〔敢 (逃)〕。
⑩ 不[敢〔不(逃)〕]。
であって、
⑦ 逃る ことを(意を)決してする。
⑧ 逃げないことを(意を)決してする。
⑨ 逃る ことを(意を)決してしない(出来ない)。
⑩ 逃げないことを(意を)決してしない(出来ない)。
といふ、「意味」になる。
従って、
(32)により、
(33)
「訓読」は、
⑦ 逃ぐること 敢へてす。
⑧ 逃げざること敢へてす。
⑨ 逃ぐること 敢へてせず。
⑩ 逃げざること敢へてせず。
である。
然るに、
(34)
カン 敢 あヘテ[副詞]あヘテ《「思い切って・・・する」という強い意志を示す》
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、68頁)
従って、
(35)
漢文としては助動詞であると思われるけれども、訓読ではアヘテと読み、動詞から変化した副詞のように使われる。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
従って、
(34)(35)により、
(36)
「学校」で習ふ所の、「敢」は、「助動詞」ではなく、「副詞」であるため、
⑦ 敢 逃。
⑧ 敢不逃。
⑨ 不敢 逃。
⑩ 不敢不逃。
に対する「訓読」は、
⑦ 敢へて逃ぐ。
⑧ 敢へて逃げず。
⑨ 敢へて逃げず。
⑩ 敢へて逃げずんばあらず。
である。
従って、
(32)(36)により、
(37)
実際には、
⑧ 逃ないことを(意を)決してする。
⑨ 逃る ことを(意を)決してしない(出来ない)。
といふ「意味の違ひ」が有るにもかかはらず。
⑧ 敢へて逃げず。
⑨ 敢へて逃げず。
といふ風に、「同じ、訓読」が行はれる。
従って、
(38)
当然、
⑧ 敢不逃。
⑨ 不敢逃。
⑧ 敢へて逃げず。
⑨ 敢へて逃げず。
といふ「漢文訓読」は、分りにくい。
(39)
⑧ 敢へて逃げず。
⑨ 敢へて逃げず。
ではなく、
⑧ 逃げざること敢へてす。
⑨ 逃ぐること 敢へてせず。
であるならば、例へば、次のやうな場合が、それに当る。
(40)
⑧ 一頭の、腹を空かしたトラが、一匹のキツネに向って、歩いて来るとして、
⑧ それでも、そのキツネは、勇気を出して、逃げださなかった。
とするならば、
⑧ 敢不逃。
⑧ 逃げざること敢へてす。
⑧ 逃ないことを(意を)決してする。
である。
(41)
⑨ 三階か四階か五階の、あなたの部屋が火事になり、ベランダから、地面に飛び降りなければ、あなたは助からない、可能性がある。として、
⑨ それでも、飛び降りるのが恐くて、飛び降りれない。
とするならば、
⑨ 不敢逃。
⑨ 逃ぐること 敢へてせず。
⑨ 逃ることを(意を)決してしない(出来ない)。
である。
(42)
⑧ 敢不逃。
⑧ 敢へて逃げず。
を「反語」にすると、
⑧ 敢不逃乎。
⑧ 逃げざること、敢へてせんや。
⑧ 逃ないことを(意を)決してするだらうか(。そのやうなことは無い)。
であるものの、その場合は、
⑧ 一頭の、腹を空かしたトラが、一匹のキツネに向って、歩いて来るとして、
⑧ それでも、そのキツネは、勇気を出して、逃げださない。などといふことがあるだろうか(そのやうなことは有り得ない)。
といふ、「意味」である。
平成29年01月31日、毛利太。
―「関連記事」―
「不敢仰視」と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_37.html)。
「不敢視、不敢不告」&「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_30.html)。
「不敢視、敢不走乎」&「括弧は、絶対に有ります」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_29.html)。
「部分否定・全部否定」と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_27.html)。
「復(副詞)の位置」 と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_25.html)。
「括弧」の付け方:「係り・及び・並び」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_6.html)。
2017年1月31日火曜日
2017年1月30日月曜日
「不敢仰視」と「括弧は有ります!」
―「01月30日の記事」の、「括弧は有ります!」の部分だけを「補足」します。―
(01)
10 蘇秦之昆弟妻嫂、側レ目不二敢仰視一。(史記、蘇秦列伝)蘇秦の兄弟や妻や兄嫁は、目をそらして、顔を上げてはっきり見るだけの勇気がなかった。
蘇秦の昆弟妻嫂の場合、蘇秦を仰視することは勇気がいることだから「敢仰視」は「勇気を出して仰視」することで、「不敢仰視」はそれを否定している。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、321・326頁)
従って、
(01)により、
(02)
「敢仰視」=「勇気を出して仰視」=「それ」
である。
従って、
(02)により、
(03)
「不敢仰視」は 「それ」 を「否定」している。
といふことは、
「不敢仰視」は「敢仰視」を「否定」している。
といふ、「意味」である。
然るに、
(04)
「不敢仰視」から「不」を除くと、
「 敢仰視」である。
然るに、
(05)
「 敢仰視」は、「敢仰視」を、「否定」はせずに、「肯定」する。
従って、
(03)(05)により、
(06)
「不敢仰視」は「敢仰視」を「否定」している。
といふことは、
「不」が「敢仰視」を「否定」している。
といふことに、他ならない。
然るに、
(07)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
然るに、
(08)
この場合、「漢文」の「不」は、「論理学」の「~」である。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
不(敢仰視)=~(敢仰視)。
である。
従って、
(01)~(09)により、
(10)
西田先生に従ひ、尚且つ、クワイン先生に従ふ限り、
① 不敢仰視。
といふ「漢文」は、
① 不(敢仰視)。
といふ風に、書かなければならない。
然るに、
(11)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(09)(11)により、
(12)
① 不(敢仰視)=~(敢仰視)。
に於いて、
① 不=~ の「意味」は、(敢仰視)に及んでゐる。
然るに、
(13)
さてたとえば10の「不敢仰視」についていうと、漢文の原則として上の字は下の字のみ影響するから、「敢」は、「仰視」の字にのみ影響する。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
然るに、
(14)
「敢」は、「仰視」の字にのみ「影響」する。
といふことは、
② 敢(仰視)。
① 敢 の「意味」が、(仰視)に及んでゐる。
といふことに、他ならない。
従って、
(11)(12)(14)により、
(15)
① 不(敢仰視)
② 敢(仰視)。
である。
従って、
(15)により、
(16)
①+②=
③ 不〔敢(仰視)〕。
である。
従って、
(10)~(16)により、
(17)
西田先生に従ひ、クワイン先生に従ひ、今仁先生に従ふ限り、
① 不敢仰視。
といふ「漢文」は、
③ 不〔敢(仰視)〕。
といふ風に、書くことになる。
従って、
(17)により、
(18)
③ 不〔敢(仰視)〕。
である以上、少なくとも、
① 不敢仰視。
といふ「漢文」に、「括弧」は有ります!
然るに、
(19)
フ 不 ず いなヤ[助動詞]ず《動作や状態を否定する》
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、293頁)
(20)
カ 可 べシ きク かナリ ばかり[助動詞]べシ
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、293頁)
従って、
(19)(20)により、
(21)
④ 不〔可(仰視)〕。
に於いて、
④ 不 は「助動詞」。
④ 可 も「助動詞」。
である。
然るに、
(22)
漢文としては助動詞であると思われるけれども、訓読ではアヘテと読み、動詞から変化した副詞のように使われる。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
従って、
(21)(22)により、
(23)
③ 不〔敢(仰視)〕。
に於いて、
③ 不 は「助動詞」。
③ 敢 も「助動詞」。
である。
然るに、
(24)
④ 不可仰視=
④ 不〔可(仰視)〕⇒
④ 〔(仰視)可〕不=
④ 〔(仰視す)べから〕ず=
④ 仰視することが出来ない。
である。
従って、
(01)(23)(24)により、
(25)
③ 不敢仰視=
③ 不〔敢(仰視)〕⇒
③ 〔(仰視)敢〕不=
③ 〔(仰視すること)敢へてせ〕ず=
③ (勇気がなくて、)仰視することが出来ない。
といふ「訓読」が、成立する。
平成29年01月30日、毛利太。
―「関連記事」―
「不敢視、不敢不告」&「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_30.html)。
「不敢視、敢不走乎」&「括弧は、絶対に有ります」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_29.html)。
「部分否定・全部否定」と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_27.html)。
「復(副詞)の位置」 と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_25.html)。
「括弧」の付け方:「係り・及び・並び」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_6.html)。
(01)
10 蘇秦之昆弟妻嫂、側レ目不二敢仰視一。(史記、蘇秦列伝)蘇秦の兄弟や妻や兄嫁は、目をそらして、顔を上げてはっきり見るだけの勇気がなかった。
蘇秦の昆弟妻嫂の場合、蘇秦を仰視することは勇気がいることだから「敢仰視」は「勇気を出して仰視」することで、「不敢仰視」はそれを否定している。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、321・326頁)
従って、
(01)により、
(02)
「敢仰視」=「勇気を出して仰視」=「それ」
である。
従って、
(02)により、
(03)
「不敢仰視」は 「それ」 を「否定」している。
といふことは、
「不敢仰視」は「敢仰視」を「否定」している。
といふ、「意味」である。
然るに、
(04)
「不敢仰視」から「不」を除くと、
「 敢仰視」である。
然るに、
(05)
「 敢仰視」は、「敢仰視」を、「否定」はせずに、「肯定」する。
従って、
(03)(05)により、
(06)
「不敢仰視」は「敢仰視」を「否定」している。
といふことは、
「不」が「敢仰視」を「否定」している。
といふことに、他ならない。
然るに、
(07)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
然るに、
(08)
この場合、「漢文」の「不」は、「論理学」の「~」である。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
不(敢仰視)=~(敢仰視)。
である。
従って、
(01)~(09)により、
(10)
西田先生に従ひ、尚且つ、クワイン先生に従ふ限り、
① 不敢仰視。
といふ「漢文」は、
① 不(敢仰視)。
といふ風に、書かなければならない。
然るに、
(11)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(09)(11)により、
(12)
① 不(敢仰視)=~(敢仰視)。
に於いて、
① 不=~ の「意味」は、(敢仰視)に及んでゐる。
然るに、
(13)
さてたとえば10の「不敢仰視」についていうと、漢文の原則として上の字は下の字のみ影響するから、「敢」は、「仰視」の字にのみ影響する。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
然るに、
(14)
「敢」は、「仰視」の字にのみ「影響」する。
といふことは、
② 敢(仰視)。
① 敢 の「意味」が、(仰視)に及んでゐる。
といふことに、他ならない。
従って、
(11)(12)(14)により、
(15)
① 不(敢仰視)
② 敢(仰視)。
である。
従って、
(15)により、
(16)
①+②=
③ 不〔敢(仰視)〕。
である。
従って、
(10)~(16)により、
(17)
西田先生に従ひ、クワイン先生に従ひ、今仁先生に従ふ限り、
① 不敢仰視。
といふ「漢文」は、
③ 不〔敢(仰視)〕。
といふ風に、書くことになる。
従って、
(17)により、
(18)
③ 不〔敢(仰視)〕。
である以上、少なくとも、
① 不敢仰視。
といふ「漢文」に、「括弧」は有ります!
然るに、
(19)
フ 不 ず いなヤ[助動詞]ず《動作や状態を否定する》
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、293頁)
(20)
カ 可 べシ きク かナリ ばかり[助動詞]べシ
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、293頁)
従って、
(19)(20)により、
(21)
④ 不〔可(仰視)〕。
に於いて、
④ 不 は「助動詞」。
④ 可 も「助動詞」。
である。
然るに、
(22)
漢文としては助動詞であると思われるけれども、訓読ではアヘテと読み、動詞から変化した副詞のように使われる。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
従って、
(21)(22)により、
(23)
③ 不〔敢(仰視)〕。
に於いて、
③ 不 は「助動詞」。
③ 敢 も「助動詞」。
である。
然るに、
(24)
④ 不可仰視=
④ 不〔可(仰視)〕⇒
④ 〔(仰視)可〕不=
④ 〔(仰視す)べから〕ず=
④ 仰視することが出来ない。
である。
従って、
(01)(23)(24)により、
(25)
③ 不敢仰視=
③ 不〔敢(仰視)〕⇒
③ 〔(仰視)敢〕不=
③ 〔(仰視すること)敢へてせ〕ず=
③ (勇気がなくて、)仰視することが出来ない。
といふ「訓読」が、成立する。
平成29年01月30日、毛利太。
―「関連記事」―
「不敢視、不敢不告」&「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_30.html)。
「不敢視、敢不走乎」&「括弧は、絶対に有ります」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_29.html)。
「部分否定・全部否定」と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_27.html)。
「復(副詞)の位置」 と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_25.html)。
「括弧」の付け方:「係り・及び・並び」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_6.html)。
「不敢視、不敢不告」&「括弧は有ります!」
―「01月29日の記事」を、「約半分」にした上で、「補足」を加へます。―
(01)
漢文としては助動詞であると思われるけれども、訓読ではアヘテと読み、動詞から変化した副詞のように使われる。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
然るに、
(02)
① 敢
② 敢
③ 敢
④ 敢
を、「副詞」ではなく、「助動詞」とするならば、
① 不敢視。
② 敢不視。
③ 敢不視乎。
④ 不敢不走。
といふ「漢文の補足構造」は、
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
③ 敢〔不(視)〕乎。
④ 不[敢〔不(視)〕]。
でなければ、ならない。
然るに、
(03)
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
③ 敢〔不(視)〕乎。
④ 不[敢〔不(視)〕]。
に対する「訓読」は、それぞれ、
① 〔(視ること)敢へてせ〕ず。
② 〔(視)ざること〕敢へてす。
③ 〔(視)ざること〕敢へてせんや。
④ [〔(視)ざること〕敢へてせ]ず。
である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 不敢視。
② 敢不視。
③ 敢不視乎。
④ 不敢不走。
といふ「漢文」は、
① 視ることを、 (意を)決してしない(出来ない)。
② 視ないことを、(意を)決してする。
③ 視ないことを、(意を)決してするだらうか(。そのやうなことはない)。
④ 視ないことを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふ、「意味」である。
(05)
① 視ることを、 (意を)決してしない(出来ない)。
② 視ないことを、(意を)決してする。
であるならば、「結果」としては、
① 視ない。
② 視ない。
である。
然るに、
(06)
① 視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふことは、
①(本当は視たいのに、勇気がなくて、)視ることが出来ない。
といふ「意味」である。
(07)
② 視ないことを、(意を)決してする。
といふことは、
②(本当は視たいものの、勇気を出して、)視ない。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
に於いて、
① であれば、「勇気が足りないので、視れない」。
② であれば、「勇気は足りてゐて、 視 ない」。
といふ、ことになる。
然るに、
(01)により、
(09)
「訓読」では、「敢」を「アヘテ」と読み、動詞から変化した「副詞」のように使い、それ故、
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
とはせずに、
① 不(敢視)。
② 敢不(視)。
といふ風に、「理解」する。
然るに、
(10)
① 不(敢視)。
② 敢不(視)。
に対する「訓読」は、両方とも、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
である。
従って、
(02)(03)(10)により、
(11)
① 不敢視。
② 敢不視。
といふ「漢文」は、
① 視ること敢へてせず。
② 視ざること敢へてす。
といふ風には「訓読」せず、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
といふ風に、「訓読」するのが、「習慣」になってゐる。
従って、
(08)(11)により、
(12)
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
といふ「訓読」からは、
①「勇気が足りないので、視れない」であるのか。
②「勇気は足りてゐて、 視 ない」であるのか。
といふことが、分からない。
然るに、
(13)
【視】みる[意味]①みる(ア)気を付けて見る。「注視」
(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、690頁)
從って、
(12)(13)により、
(14)
①「勇気が足りない」ので「注視出来ない」であるのか。
②「勇気は足りてゐる」が「注視し ない」であるのか。
といふことが、分からない。
然るに、
(15)
蘇秦は鬼谷先生を師とし学んだ。初め故郷の洛陽を出て諸国に遊説したが、志を得ず困窮して帰って来た。その時妻は秦を軽蔑して機織台から下りても来ず。兄嫁も秦のために飯をたいてもくれなかった。ところが今度は六国同盟の長となり、六国の宰相を兼務する身となった。そして道すがら故郷の洛陽に立ち寄った。護衛の車馬、荷車は、王者のそれにまごうべきであった。それを見た兄弟や妻や兄嫁は、恐れ入ってそっと横目でみてまともに見ず、うつむいて側に侍ってお給仕をした。秦はおかしくなって、「どうして以前にはあんなに傲慢にして、今度はこんなに鄭重なのですか。」とたずねた。
(林秀一、十八史略、82頁)
従って、
(15)により、
(16)
①(六国同盟の長となり、六国の宰相を兼務する身となって、王者と見まごうばかりの、立派な身なりをしてゐる蘇秦の顔を)まじまじと見てみたいのに、(以前には、傲慢な態度をとってしまった手前もあって、蘇秦をガン見する、勇気を持つことが出来なくて、蘇秦を)まじまじと見ることが出来ない。
といふ、ことになる。
従って、
(11)~(16)により、
(17)
②「勇気は足りてゐる」が「注視し ない」。
ではなく、
①「勇気が足りない」ので「注視出来ない」。
である。といふことから、
② 敢不視。
ではなく、明らかに、
① 不敢視。
である。といふ、ことになる。
然るに、
(18)
従って、
(17)(18)により、
(19)
果たして、
② 敢不視。
②「勇気は足りてゐる」が「注視し ない」。
ではなく、
① 不敢視。
①「勇気が足りない」ので「注視出来ない」。
である。といふことが、分った。
然るに、
(20)
① 不敢視。
は、「十八史略」であるが、「史記」の場合は、
① 不敢仰視。
となってゐる。
然るに、
(21)
① 不〔敢(視)〕⇒
① 〔(視)敢〕不=
① 〔(視ること)敢へてせ〕ず=
① 視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
であって、尚且つ、
① 不〔敢(仰視)〕⇒
① 〔(仰視)敢〕不=
① 〔(仰ぎ視ること)敢へてせ〕ず=
① 仰ぎ視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
である。
従って、
(21)により、
(22)
① 不〔敢(視)〕。
であっても、
① 不〔敢(仰視)〕。
であっても、「同じ」である。
然るに、
(23)
10 蘇秦之昆弟妻嫂、側レ目不二敢仰視一。(史記、蘇秦列伝)蘇秦の兄弟や妻や兄嫁は、目をそらして、顔を上げてはっきり見るだけの勇気がなかった(西田太一郎、漢文の語法、1980年、321頁)。
蘇秦の昆弟妻嫂の場合、蘇秦を仰視することは勇気がいることだから「敢仰視」は「勇気を出して仰視」することで、「不敢仰視」はそれを否定している(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)。
然るに、
(23)により、
(24)
「不敢仰視」はそれを否定している。
といふのは、
「不敢仰視」は「敢仰視」を否定している。
といふ、「意味」である。
然るに、
(25)
「不敢仰視」に於ける「否定詞」は、「不」だけである。
従って、
(24)(25)により、
(26)
「不敢仰視」はそれを否定している。
といふことは、
「不敢仰視」に於ける「不」は、「敢仰視」を「否定」している。
といふ、「意味」である。
然るに、
(27)
この場合、「論理学」の「~」は、「漢文」の「不」である。
然るに、
(28)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(26)(27)(28)により、
(29)
西田先生と、クワイン先生に、従ふ限り、
① 不敢仰視。
といふ「漢文」には、
① 不(敢仰視)。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
然るに、
(30)
さてたとえば10の「不敢仰視」についていうと、漢文の原則として上の字は下の字のみ影響するから、「敢」は、「仰視」の字にのみ影響する(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)。
然るに、
(31)
「不敢仰視」に於いて、「敢」は、「仰視」の字にのみ「影響」する。
といふことは、
「不敢仰視」に於いて、「敢」の「意味」が、「仰視」に及んでゐる。
といふことである。
然るに、
(32)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(31)(32)により、
(33)
「不敢仰視」に於いて、「敢」の「意味」は、「仰視」に及んでゐる。
といふことを、「括弧」を用ゐて、「表す」のであれば、
① 敢(仰視)。
といふ、ことになる。
従って、
(29)(32)(33)により、
(34)
西田先生と、クワイン先生と、今仁先生に、従ふ限り、
① 不敢仰視。
といふ「漢文」には、
① 不〔敢(仰視)〕。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
従って、
(34)により、
(35)
「スタップ細胞」はともかく、「括弧」は有ります!
然るに、
(36)
⑤ 沛公敢へて項王に背かず(史記、項羽本記)。
に対する「原文(白文)」は、
⑤ 沛公不敢背項王。
である。
従って、
(21)(36)により、
(37)
⑤ 沛公不敢背項王=
⑤ 沛公不[敢〔背(項王)〕]⇒
⑤ 沛公[〔(項王)背〕敢]不=
⑤ 沛公[〔(項王に)背くことを〕敢へてせ]ず=
⑤ 沛公は、項王に背くことを(意を)決してしない(出来ない)=
⑤ 沛公は、(恐れ多くて、)項王に背くことを、決してしない。
である。
然るに、
(38)
⑤ 沛公は、(恐れ多くて、)項王に背くことを、決してしない。
ではなく、
⑤ 沛公は、項王に背くことを、決してしない。
ではなく、
⑤ 沛公は、決して、項王に背かない。
であったとしても、「読解」の上では、「左程、支障はない」。
然るに、
(39)
1.市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。
(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、81頁)。
従って、
(38)(39)により、
(40)
「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。としても、「左程、支障はない」。
然るに、
(41)
⑥ 沛公不敢不背項王=
⑥ 沛公不{敢[不〔背(項王)〕]}⇒
⑥ 沛公{[〔(項王)背〕不]敢}不=
⑥ 沛公{[〔(項王に)背か〕ざること]敢へてせ}ず=
⑥ 沛公は、項王に背かないことを、決してしない。
である。
然るに、
(42)
⑤ 項王に背くことを、決してしない。
に於いて、
⑤ 背くこと
といふ「部分」を、
⑥ 背かないこと
に「置き換へ」ると、
⑥ 項王に背かないことを決してしない=
⑥ 必ず、項王に背く。
である。
然るに、
(43)
⑤ 決して項王に背かない。
に於いて、
⑤ 背かない。
といふ「部分」を、
⑥ 背かないことをしない。
に「置き換へ」ると、、
⑥ 決して項王に背かないことをしない=
⑥ 必ず、項王に背く。
である。
然るに、
(44)
⑥ 項王に背かないことを、決してしない。
といふ「日本語」の方が、
⑥ 決して、項王に背かないことをしない。
といふ「日本語」よりも、私には、分りやすいやうに、思へる。
従って、
(39)(40)(44)により、
(45)
私自身は、
「不敢」を「決して・・・ない」
とは訳さずに、
「不敢」を「・・・ことを決してしない」
といふ風に、訳してゐる。
従って、
(46)
「論語・憲問」にある、
⑦ 不[敢〔不(告)〕]。
であれば、
⑦ [〔(告)不〕敢]不。
⑦ [〔(告げ)ないことを〕決してし]ない。
⑦ 必ず、(どうしても)告げる。
といふ、「意味」である。
平成29年01月30日、毛利太。
―「関連記事」―
「不敢視、敢不走乎」&「括弧は、絶対に有ります」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_29.html)。
「部分否定・全部否定」と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_27.html)。
「復(副詞)の位置」 と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_25.html)。
「括弧」の付け方:「係り・及び・並び」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_6.html)
(01)
漢文としては助動詞であると思われるけれども、訓読ではアヘテと読み、動詞から変化した副詞のように使われる。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
然るに、
(02)
① 敢
② 敢
③ 敢
④ 敢
を、「副詞」ではなく、「助動詞」とするならば、
① 不敢視。
② 敢不視。
③ 敢不視乎。
④ 不敢不走。
といふ「漢文の補足構造」は、
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
③ 敢〔不(視)〕乎。
④ 不[敢〔不(視)〕]。
でなければ、ならない。
然るに、
(03)
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
③ 敢〔不(視)〕乎。
④ 不[敢〔不(視)〕]。
に対する「訓読」は、それぞれ、
① 〔(視ること)敢へてせ〕ず。
② 〔(視)ざること〕敢へてす。
③ 〔(視)ざること〕敢へてせんや。
④ [〔(視)ざること〕敢へてせ]ず。
である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 不敢視。
② 敢不視。
③ 敢不視乎。
④ 不敢不走。
といふ「漢文」は、
① 視ることを、 (意を)決してしない(出来ない)。
② 視ないことを、(意を)決してする。
③ 視ないことを、(意を)決してするだらうか(。そのやうなことはない)。
④ 視ないことを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふ、「意味」である。
(05)
① 視ることを、 (意を)決してしない(出来ない)。
② 視ないことを、(意を)決してする。
であるならば、「結果」としては、
① 視ない。
② 視ない。
である。
然るに、
(06)
① 視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふことは、
①(本当は視たいのに、勇気がなくて、)視ることが出来ない。
といふ「意味」である。
(07)
② 視ないことを、(意を)決してする。
といふことは、
②(本当は視たいものの、勇気を出して、)視ない。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
に於いて、
① であれば、「勇気が足りないので、視れない」。
② であれば、「勇気は足りてゐて、 視 ない」。
といふ、ことになる。
然るに、
(01)により、
(09)
「訓読」では、「敢」を「アヘテ」と読み、動詞から変化した「副詞」のように使い、それ故、
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
とはせずに、
① 不(敢視)。
② 敢不(視)。
といふ風に、「理解」する。
然るに、
(10)
① 不(敢視)。
② 敢不(視)。
に対する「訓読」は、両方とも、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
である。
従って、
(02)(03)(10)により、
(11)
① 不敢視。
② 敢不視。
といふ「漢文」は、
① 視ること敢へてせず。
② 視ざること敢へてす。
といふ風には「訓読」せず、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
といふ風に、「訓読」するのが、「習慣」になってゐる。
従って、
(08)(11)により、
(12)
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
といふ「訓読」からは、
①「勇気が足りないので、視れない」であるのか。
②「勇気は足りてゐて、 視 ない」であるのか。
といふことが、分からない。
然るに、
(13)
【視】みる[意味]①みる(ア)気を付けて見る。「注視」
(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、690頁)
從って、
(12)(13)により、
(14)
①「勇気が足りない」ので「注視出来ない」であるのか。
②「勇気は足りてゐる」が「注視し ない」であるのか。
といふことが、分からない。
然るに、
(15)
蘇秦は鬼谷先生を師とし学んだ。初め故郷の洛陽を出て諸国に遊説したが、志を得ず困窮して帰って来た。その時妻は秦を軽蔑して機織台から下りても来ず。兄嫁も秦のために飯をたいてもくれなかった。ところが今度は六国同盟の長となり、六国の宰相を兼務する身となった。そして道すがら故郷の洛陽に立ち寄った。護衛の車馬、荷車は、王者のそれにまごうべきであった。それを見た兄弟や妻や兄嫁は、恐れ入ってそっと横目でみてまともに見ず、うつむいて側に侍ってお給仕をした。秦はおかしくなって、「どうして以前にはあんなに傲慢にして、今度はこんなに鄭重なのですか。」とたずねた。
(林秀一、十八史略、82頁)
従って、
(15)により、
(16)
①(六国同盟の長となり、六国の宰相を兼務する身となって、王者と見まごうばかりの、立派な身なりをしてゐる蘇秦の顔を)まじまじと見てみたいのに、(以前には、傲慢な態度をとってしまった手前もあって、蘇秦をガン見する、勇気を持つことが出来なくて、蘇秦を)まじまじと見ることが出来ない。
といふ、ことになる。
従って、
(11)~(16)により、
(17)
②「勇気は足りてゐる」が「注視し ない」。
ではなく、
①「勇気が足りない」ので「注視出来ない」。
である。といふことから、
② 敢不視。
ではなく、明らかに、
① 不敢視。
である。といふ、ことになる。
然るに、
(18)
従って、
(17)(18)により、
(19)
果たして、
② 敢不視。
②「勇気は足りてゐる」が「注視し ない」。
ではなく、
① 不敢視。
①「勇気が足りない」ので「注視出来ない」。
である。といふことが、分った。
然るに、
(20)
① 不敢視。
は、「十八史略」であるが、「史記」の場合は、
① 不敢仰視。
となってゐる。
然るに、
(21)
① 不〔敢(視)〕⇒
① 〔(視)敢〕不=
① 〔(視ること)敢へてせ〕ず=
① 視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
であって、尚且つ、
① 不〔敢(仰視)〕⇒
① 〔(仰視)敢〕不=
① 〔(仰ぎ視ること)敢へてせ〕ず=
① 仰ぎ視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
である。
従って、
(21)により、
(22)
① 不〔敢(視)〕。
であっても、
① 不〔敢(仰視)〕。
であっても、「同じ」である。
然るに、
(23)
10 蘇秦之昆弟妻嫂、側レ目不二敢仰視一。(史記、蘇秦列伝)蘇秦の兄弟や妻や兄嫁は、目をそらして、顔を上げてはっきり見るだけの勇気がなかった(西田太一郎、漢文の語法、1980年、321頁)。
蘇秦の昆弟妻嫂の場合、蘇秦を仰視することは勇気がいることだから「敢仰視」は「勇気を出して仰視」することで、「不敢仰視」はそれを否定している(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)。
然るに、
(23)により、
(24)
「不敢仰視」はそれを否定している。
といふのは、
「不敢仰視」は「敢仰視」を否定している。
といふ、「意味」である。
然るに、
(25)
「不敢仰視」に於ける「否定詞」は、「不」だけである。
従って、
(24)(25)により、
(26)
「不敢仰視」はそれを否定している。
といふことは、
「不敢仰視」に於ける「不」は、「敢仰視」を「否定」している。
といふ、「意味」である。
然るに、
(27)
この場合、「論理学」の「~」は、「漢文」の「不」である。
然るに、
(28)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(26)(27)(28)により、
(29)
西田先生と、クワイン先生に、従ふ限り、
① 不敢仰視。
といふ「漢文」には、
① 不(敢仰視)。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
然るに、
(30)
さてたとえば10の「不敢仰視」についていうと、漢文の原則として上の字は下の字のみ影響するから、「敢」は、「仰視」の字にのみ影響する(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)。
然るに、
(31)
「不敢仰視」に於いて、「敢」は、「仰視」の字にのみ「影響」する。
といふことは、
「不敢仰視」に於いて、「敢」の「意味」が、「仰視」に及んでゐる。
といふことである。
然るに、
(32)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(31)(32)により、
(33)
「不敢仰視」に於いて、「敢」の「意味」は、「仰視」に及んでゐる。
といふことを、「括弧」を用ゐて、「表す」のであれば、
① 敢(仰視)。
といふ、ことになる。
従って、
(29)(32)(33)により、
(34)
西田先生と、クワイン先生と、今仁先生に、従ふ限り、
① 不敢仰視。
といふ「漢文」には、
① 不〔敢(仰視)〕。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
従って、
(34)により、
(35)
「スタップ細胞」はともかく、「括弧」は有ります!
然るに、
(36)
⑤ 沛公敢へて項王に背かず(史記、項羽本記)。
に対する「原文(白文)」は、
⑤ 沛公不敢背項王。
である。
従って、
(21)(36)により、
(37)
⑤ 沛公不敢背項王=
⑤ 沛公不[敢〔背(項王)〕]⇒
⑤ 沛公[〔(項王)背〕敢]不=
⑤ 沛公[〔(項王に)背くことを〕敢へてせ]ず=
⑤ 沛公は、項王に背くことを(意を)決してしない(出来ない)=
⑤ 沛公は、(恐れ多くて、)項王に背くことを、決してしない。
である。
然るに、
(38)
⑤ 沛公は、(恐れ多くて、)項王に背くことを、決してしない。
ではなく、
⑤ 沛公は、項王に背くことを、決してしない。
ではなく、
⑤ 沛公は、決して、項王に背かない。
であったとしても、「読解」の上では、「左程、支障はない」。
然るに、
(39)
1.市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。
(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、81頁)。
従って、
(38)(39)により、
(40)
「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。としても、「左程、支障はない」。
然るに、
(41)
⑥ 沛公不敢不背項王=
⑥ 沛公不{敢[不〔背(項王)〕]}⇒
⑥ 沛公{[〔(項王)背〕不]敢}不=
⑥ 沛公{[〔(項王に)背か〕ざること]敢へてせ}ず=
⑥ 沛公は、項王に背かないことを、決してしない。
である。
然るに、
(42)
⑤ 項王に背くことを、決してしない。
に於いて、
⑤ 背くこと
といふ「部分」を、
⑥ 背かないこと
に「置き換へ」ると、
⑥ 項王に背かないことを決してしない=
⑥ 必ず、項王に背く。
である。
然るに、
(43)
⑤ 決して項王に背かない。
に於いて、
⑤ 背かない。
といふ「部分」を、
⑥ 背かないことをしない。
に「置き換へ」ると、、
⑥ 決して項王に背かないことをしない=
⑥ 必ず、項王に背く。
である。
然るに、
(44)
⑥ 項王に背かないことを、決してしない。
といふ「日本語」の方が、
⑥ 決して、項王に背かないことをしない。
といふ「日本語」よりも、私には、分りやすいやうに、思へる。
従って、
(39)(40)(44)により、
(45)
私自身は、
「不敢」を「決して・・・ない」
とは訳さずに、
「不敢」を「・・・ことを決してしない」
といふ風に、訳してゐる。
従って、
(46)
「論語・憲問」にある、
⑦ 不[敢〔不(告)〕]。
であれば、
⑦ [〔(告)不〕敢]不。
⑦ [〔(告げ)ないことを〕決してし]ない。
⑦ 必ず、(どうしても)告げる。
といふ、「意味」である。
平成29年01月30日、毛利太。
―「関連記事」―
「不敢視、敢不走乎」&「括弧は、絶対に有ります」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_29.html)。
「部分否定・全部否定」と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_27.html)。
「復(副詞)の位置」 と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_25.html)。
「括弧」の付け方:「係り・及び・並び」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_6.html)
2017年1月29日日曜日
「不敢視、敢不走乎」&「括弧は、絶対に有ります」。
―「01月28日の記事」は「下書き」に戻します。―
(01)
① 不敢視。
② 敢不視。
③ 敢不走乎。
④ 不敢不走。
の「書き下し文」は、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
③ 敢へて走らざらんや。
④ 敢へて走らずんばあらず。
である。
従って、
(02)
「返り点」と「括弧」は、
である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 敢
② 敢
③ 敢
④ 敢
といふ「副詞」に対しては、「返り点」と「括弧」が、付かない。
然るに、
(04)
漢文としては助動詞であると思われるけれども、訓読ではアヘテと読み、動詞から変化した副詞のように使われる。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
然るに、
(05)
「敢」が「漢文としては助動詞である」ならば、「書き下し文」は、
① 視ること敢へてせず。
② 視ざること敢へてす。
③ 走らざること敢へてせんや。
④ 走らざること敢へてせず。
である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 敢
② 敢
③ 敢
④ 敢
が「副詞」でない場合の、「返り点」と「括弧」は、
従って、
(05)(06)により、
(07)
に於ける「常(副詞)」がさうであるやうに、「敢(副詞)」に対しても、「返り点・括弧」を付けることにする。
然るに、
(08)
あへて【敢へて】(副)①押し切って。むりに。強いて。
(旺文社、高校基礎古語辞典、1987年、39頁)
(09)
デジタル大辞泉の解説
意(い)を決・する
思いきって決心する。覚悟を決める。「―・して直訴をする」
従って、
(08)(09)により、
(10)
敢へて・直訴する=(意を)決して・直訴する。
敢へて・直訴せず=(意を)決して・直訴しない(出来ない)。
とする。
然るに、
(11)
1.市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。
(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、81頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
「不敢・・・」=「決して・・・ない」
ではなく、
「不敢・・・」=「(意を)決して・・・しない(出来ない)」
とする。
従って、
(12)により、
(13)
「敢・・・・」=「(意を)決して・・・・する」
である。
従って、
(12)により、
(14)
① 不〔敢(視)〕⇒
① 〔(視)敢〕不=
① 〔(視ること)敢へてせ〕ず=
① 視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふ、「意味」である。
従って、
(13)(14)により、
(15)
② 敢〔不(視)〕⇒
② 〔(視)不〕敢=
② 〔(視)ざること〕敢へてす=
② 視ないことを、(意を)決してする。
といふ、「意味」である。
然るに、
(16)
◆ 敢不レ走乎 「敢不二~一乎」は「あえテ~ざランや」と読む反語形。「どうして~しないことがあろうか、いや必ず~する」「~せずにいられない」の意をあらわす。「不敢二~一」の場合は「あへテ~ず」と読む否定形であることに注意。
(赤塚忠 遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、40頁)
従って、
(15)(16)により、
(17)
③ 敢不走乎。
の場合は、
① 敢不走。
の「反語」であるため、
③ 敢〔不(走)〕乎⇒
③ 〔(走)不〕敢乎=
③ 〔(走ら)ざること〕敢へてせんや=
③ (意を決して、)逃げないでゐられるだろうか(。いや、そのやうなことはなく、必ず逃げるに違ひない)。
といふ、「意味」である。
cf.
(18)
④ 不[敢〔不(視)〕]⇒
④ [〔(視)不〕敢]不=
④ [〔(視)ざること〕敢へてせ]ず=
④ 視ないことを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふ、「意味」である。
従って、
(14)(15)(17)(18)により、
(19)
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
③ 敢〔不(視)〕乎。
④ 不[敢〔不(視)〕]。
といふ「漢文」は、それぞれ、
① 視ることを、 (意を)決してしない(出来ない)。
② 視ないことを、(意を)決してする。
③ (意を決して、)視ないでゐられるだろうか(。そのやうなことはない)。
④ 視ないことを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふ、「意味」である。
然るに、
(20)
① 視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふことは、つまりは、
① 視ない。
といふ、ことである。
(21)
② 視ないことを、(意を)決してする。
といふことは、つまりは、
② 視ない。
といふ、ことである。
(22)
③ (意を決して、)視ないでゐられるだろうか(。そのやうなことはない)。
といふことは、つまりは、
③ 視る。
といふ、ことである。
(23)
④ 視ないことを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふことは、つまりは、
④ 視る。
といふ、ことである。
従って、
(20)(21)(22)(23)により、
(24)
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
③ 敢〔不(視)〕乎。
④ 不[敢〔不(視)〕]。
といふ「漢文」は、「結果」だけを見れば、
①=② であって、
③=④ である。
然るに、
(25)
① 視ることを、 (意を)決してしない(出来ない)。
② 視ないことを、(意を)決してする。
である以上、「結果」としては「同じ」であっても、「内容」としては「同じ」ではない。
然るに、
(26)
【視】みる[意味]①みる(ア)気を付けて見る。「注視」
(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、690頁)
従って、
(25)(26)により、
(27)
①(意を)決して注視することを、 しない(出来ない)。
②(意を)決して注視しないことを、する。
に於ける「結果」は、「視ない」であっても、「内容」は「同じ」ではない。
(28)
①(意を)決して注視することを、しない(出来ない)。
といふことは、
① まじまじと見てみたい(ガン見したい)のに、(勇気が無くて)それが出来ない。
といふ、ことである。
然るに、
(02)(03)(06)により、
(29)
① 敢 を「副詞」とし、
② 敢 を「副詞」とする。
ならば、
① 不(敢視)。
② 敢不(視)。
の「訓読」は、二つとも、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
である。
従って、
(28)(29)により、
(30)
① 敢 を「副詞」とし、
② 敢 を「副詞」とする。
ならば、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
といふ「訓読」からは、
① まじまじと見てみたい(ガン見したい)のに、(勇気が無くて)それが出来ない。
といふ「意味」であるのか、否かが、分らない。
然るに、
(31)
蘇秦は鬼谷先生を師とし学んだ。初め故郷の洛陽を出て諸国に遊説したが、志を得ず困窮して帰って来た。その時妻は秦を軽蔑して機織台から下りても来ず。兄嫁も秦のために飯をたいてもくれなかった。ところが今度は六国同盟の長となり、六国の宰相を兼務する身となった。そして道すがら故郷の洛陽に立ち寄った。護衛の車馬、荷車は、王者のそれにまごうべきであった。それを見た兄弟や妻や兄嫁は、恐れ入ってそっと横目でみてまともに見ず<、うつむいて側に侍ってお給仕をした。秦はおかしくなって、「どうして以前にはあんなに傲慢にして、今度はこんなに鄭重なのですか。」とたずねた。
(林秀一、十八史略、82頁)
従って、
(30)(31)により、
(32)
①(六国同盟の長となり、六国の宰相を兼務する身となって、王者と見まごうばかりの、立派な身なりをしてゐる蘇秦の顔を)まじまじと見てみたいのに、(以前には、傲慢な態度をとってしまった手前もあって、蘇秦をガン見する、勇気を持つことが出来なくて、蘇秦を)まじまじと見ることが出来ない。
といふ、ことになる。
従って、
(30)(32)により、
(33)
この場合の、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
は、明らかに、
① まじまじと見てみたい(ガン見したい)のに、(勇気が無くて)それが出来ない。
といふ、「意味」である。
従って、
(29)(33)により、
(34)
② 敢不(視)。
ではなく、
① 不(敢視)。
でなければ、ならないものの、次に示す通り、果たして、その通りである。
cf.
然るに、
(35)
10 蘇秦之昆弟妻嫂、側レ目不二敢仰視一。(史記、蘇秦列伝)蘇秦の兄弟や妻や兄嫁は、目をそらして、顔を上げてはっきり見るだけの勇気がなかった。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、321頁)
然るに、
(36)
① 不〔敢(視)〕⇒
① 〔(視)敢〕不=
① 〔(視ること)敢へてせ〕ず=
① 視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
であって、尚且つ、
① 不〔敢(仰視)〕⇒
① 〔(仰視)敢〕不=
① 〔(仰ぎ視ること)敢へてせ〕ず=
① 仰ぎ視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
である。
従って、
(36)により、
(37)
① 不〔敢(視)〕。
であっても、
① 不〔敢(仰視)〕。
であっても、「同じ」である。
然るに、
(38)
さてたとえば10の「不敢仰視」についていうと、漢文の原則として上の字は下の字のみ影響するから、「敢」は、「仰視」の字にのみ影響する。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
然るに、
(39)
「不敢仰視」に於いて、「敢」は、「仰視」の字にのみ影響する。
といふことは、
「不敢仰視」に於いて、「敢」の「意味」は、「仰視」に及んでゐる。
といふ風に、「言ひ換へ」ることが、出来る。
然るに、
(40)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(39)(40)により、
(41)
「不敢仰視」に於いて、「敢」の「意味」は、「仰視」に及んでゐる。
といふことを、「括弧」を用ゐて、「表す」のであれば、
① 敢(仰視)。
といふことに、他ならない。
然るに、
(42)
蘇秦の昆弟妻嫂の場合、蘇秦を仰視することは勇気がいることだから「敢仰視」は「勇気を出して仰視」することで、「不敢仰視」はそれを否定している。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
従って、
(42)により、
(43)
「不敢仰視」は、「敢仰視」を「否定」している。
すなはち、
(44)
正確に言ふと、
「不敢仰視」の「不」は、「敢仰視」を「否定」している。
従って、
(41)(44)により、
(45)
① 不敢(仰視)。の「不」は、
① 敢(仰視)。を「否定」してゐる。
然るに、
(46)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
然るに、
(47)
「~」といふ「演算子」は、「不」である。
従って、
(45)(46)(47)により、
(48)
① 不敢(仰視)。の「不」が、
① 敢(仰視)。を「否定」してゐる。
のであれば、
① 不(敢(仰視))。
でなければ、ならない。
従って、
(48)により、
(49)
少なくとも、
① 不敢仰視。
といふ「漢文」には、
① 不〔敢(仰視)〕。
といふ「括弧」が、有ります!
従って、
(35)(38)(41)(49)により、
(50)
10 蘇秦之昆弟妻嫂、側レ目不二敢仰視一(史記、蘇秦列伝)蘇秦の兄弟や妻や兄嫁は、目をそらして、顔を上げてはっきり見るだけの勇気がなかった。
さてたとえば10の「不敢仰視」についていうと、漢文の原則として上の字は下の字のみ影響するから、「敢」は、「仰視」の字にのみ影響する。蘇秦の昆弟妻嫂の場合、蘇秦を仰視することは勇気がいることだから「敢仰視」は「勇気を出して仰視」することで、「不敢仰視」はそれを否定している。
といふ風に、西田先生が書いてゐる。といふことは、西田先生もまた、私と同様に、
① 不〔敢(仰視)〕⇒
① 〔(仰視)敢〕不=
① 〔(仰ぎ視ること)敢へてせ〕ず=
① 仰ぎ視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふ風に「理解」してゐる。
といふことを、意味してゐる。
従って、
(51)
「漢文」に於ける「括弧」は、「実在」するのであって、単なる、「返り点」の「代用」ではない。
といふ「意味」で、「括弧は有ります!」。
平成29年01月29日、毛利太。
―「関連記事」―
「部分否定・全部否定」と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_27.html)。
「復(副詞)の位置」 と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_25.html)。
「括弧」の付け方:「係り・及び・並び」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_6.html)。
(01)
① 不敢視。
② 敢不視。
③ 敢不走乎。
④ 不敢不走。
の「書き下し文」は、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
③ 敢へて走らざらんや。
④ 敢へて走らずんばあらず。
である。
従って、
(02)
「返り点」と「括弧」は、
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 敢
② 敢
③ 敢
④ 敢
といふ「副詞」に対しては、「返り点」と「括弧」が、付かない。
然るに、
(04)
漢文としては助動詞であると思われるけれども、訓読ではアヘテと読み、動詞から変化した副詞のように使われる。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
然るに、
(05)
「敢」が「漢文としては助動詞である」ならば、「書き下し文」は、
① 視ること敢へてせず。
② 視ざること敢へてす。
③ 走らざること敢へてせんや。
④ 走らざること敢へてせず。
である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 敢
② 敢
③ 敢
④ 敢
が「副詞」でない場合の、「返り点」と「括弧」は、
従って、
(05)(06)により、
(07)
に於ける「常(副詞)」がさうであるやうに、「敢(副詞)」に対しても、「返り点・括弧」を付けることにする。
然るに、
(08)
あへて【敢へて】(副)①押し切って。むりに。強いて。
(旺文社、高校基礎古語辞典、1987年、39頁)
(09)
デジタル大辞泉の解説
意(い)を決・する
思いきって決心する。覚悟を決める。「―・して直訴をする」
従って、
(08)(09)により、
(10)
敢へて・直訴する=(意を)決して・直訴する。
敢へて・直訴せず=(意を)決して・直訴しない(出来ない)。
とする。
然るに、
(11)
1.市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。
(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、81頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
「不敢・・・」=「決して・・・ない」
ではなく、
「不敢・・・」=「(意を)決して・・・しない(出来ない)」
とする。
従って、
(12)により、
(13)
「敢・・・・」=「(意を)決して・・・・する」
である。
従って、
(12)により、
(14)
① 不〔敢(視)〕⇒
① 〔(視)敢〕不=
① 〔(視ること)敢へてせ〕ず=
① 視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふ、「意味」である。
従って、
(13)(14)により、
(15)
② 敢〔不(視)〕⇒
② 〔(視)不〕敢=
② 〔(視)ざること〕敢へてす=
② 視ないことを、(意を)決してする。
といふ、「意味」である。
然るに、
(16)
◆ 敢不レ走乎 「敢不二~一乎」は「あえテ~ざランや」と読む反語形。「どうして~しないことがあろうか、いや必ず~する」「~せずにいられない」の意をあらわす。「不敢二~一」の場合は「あへテ~ず」と読む否定形であることに注意。
(赤塚忠 遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、40頁)
従って、
(15)(16)により、
(17)
③ 敢不走乎。
の場合は、
① 敢不走。
の「反語」であるため、
③ 敢〔不(走)〕乎⇒
③ 〔(走)不〕敢乎=
③ 〔(走ら)ざること〕敢へてせんや=
③ (意を決して、)逃げないでゐられるだろうか(。いや、そのやうなことはなく、必ず逃げるに違ひない)。
といふ、「意味」である。
cf.
(18)
④ 不[敢〔不(視)〕]⇒
④ [〔(視)不〕敢]不=
④ [〔(視)ざること〕敢へてせ]ず=
④ 視ないことを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふ、「意味」である。
従って、
(14)(15)(17)(18)により、
(19)
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
③ 敢〔不(視)〕乎。
④ 不[敢〔不(視)〕]。
といふ「漢文」は、それぞれ、
① 視ることを、 (意を)決してしない(出来ない)。
② 視ないことを、(意を)決してする。
③ (意を決して、)視ないでゐられるだろうか(。そのやうなことはない)。
④ 視ないことを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふ、「意味」である。
然るに、
(20)
① 視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふことは、つまりは、
① 視ない。
といふ、ことである。
(21)
② 視ないことを、(意を)決してする。
といふことは、つまりは、
② 視ない。
といふ、ことである。
(22)
③ (意を決して、)視ないでゐられるだろうか(。そのやうなことはない)。
といふことは、つまりは、
③ 視る。
といふ、ことである。
(23)
④ 視ないことを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふことは、つまりは、
④ 視る。
といふ、ことである。
従って、
(20)(21)(22)(23)により、
(24)
① 不〔敢(視)〕。
② 敢〔不(視)〕。
③ 敢〔不(視)〕乎。
④ 不[敢〔不(視)〕]。
といふ「漢文」は、「結果」だけを見れば、
①=② であって、
③=④ である。
然るに、
(25)
① 視ることを、 (意を)決してしない(出来ない)。
② 視ないことを、(意を)決してする。
である以上、「結果」としては「同じ」であっても、「内容」としては「同じ」ではない。
然るに、
(26)
【視】みる[意味]①みる(ア)気を付けて見る。「注視」
(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、690頁)
従って、
(25)(26)により、
(27)
①(意を)決して注視することを、 しない(出来ない)。
②(意を)決して注視しないことを、する。
に於ける「結果」は、「視ない」であっても、「内容」は「同じ」ではない。
(28)
①(意を)決して注視することを、しない(出来ない)。
といふことは、
① まじまじと見てみたい(ガン見したい)のに、(勇気が無くて)それが出来ない。
といふ、ことである。
然るに、
(02)(03)(06)により、
(29)
① 敢 を「副詞」とし、
② 敢 を「副詞」とする。
ならば、
① 不(敢視)。
② 敢不(視)。
の「訓読」は、二つとも、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
である。
従って、
(28)(29)により、
(30)
① 敢 を「副詞」とし、
② 敢 を「副詞」とする。
ならば、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
といふ「訓読」からは、
① まじまじと見てみたい(ガン見したい)のに、(勇気が無くて)それが出来ない。
といふ「意味」であるのか、否かが、分らない。
然るに、
(31)
蘇秦は鬼谷先生を師とし学んだ。初め故郷の洛陽を出て諸国に遊説したが、志を得ず困窮して帰って来た。その時妻は秦を軽蔑して機織台から下りても来ず。兄嫁も秦のために飯をたいてもくれなかった。ところが今度は六国同盟の長となり、六国の宰相を兼務する身となった。そして道すがら故郷の洛陽に立ち寄った。護衛の車馬、荷車は、王者のそれにまごうべきであった。それを見た兄弟や妻や兄嫁は、恐れ入ってそっと横目でみてまともに見ず<、うつむいて側に侍ってお給仕をした。秦はおかしくなって、「どうして以前にはあんなに傲慢にして、今度はこんなに鄭重なのですか。」とたずねた。
(林秀一、十八史略、82頁)
従って、
(30)(31)により、
(32)
①(六国同盟の長となり、六国の宰相を兼務する身となって、王者と見まごうばかりの、立派な身なりをしてゐる蘇秦の顔を)まじまじと見てみたいのに、(以前には、傲慢な態度をとってしまった手前もあって、蘇秦をガン見する、勇気を持つことが出来なくて、蘇秦を)まじまじと見ることが出来ない。
といふ、ことになる。
従って、
(30)(32)により、
(33)
この場合の、
① 敢へて視ず。
② 敢へて視ず。
は、明らかに、
① まじまじと見てみたい(ガン見したい)のに、(勇気が無くて)それが出来ない。
といふ、「意味」である。
従って、
(29)(33)により、
(34)
② 敢不(視)。
ではなく、
① 不(敢視)。
でなければ、ならないものの、次に示す通り、果たして、その通りである。
cf.
然るに、
(35)
10 蘇秦之昆弟妻嫂、側レ目不二敢仰視一。(史記、蘇秦列伝)蘇秦の兄弟や妻や兄嫁は、目をそらして、顔を上げてはっきり見るだけの勇気がなかった。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、321頁)
然るに、
(36)
① 不〔敢(視)〕⇒
① 〔(視)敢〕不=
① 〔(視ること)敢へてせ〕ず=
① 視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
であって、尚且つ、
① 不〔敢(仰視)〕⇒
① 〔(仰視)敢〕不=
① 〔(仰ぎ視ること)敢へてせ〕ず=
① 仰ぎ視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
である。
従って、
(36)により、
(37)
① 不〔敢(視)〕。
であっても、
① 不〔敢(仰視)〕。
であっても、「同じ」である。
然るに、
(38)
さてたとえば10の「不敢仰視」についていうと、漢文の原則として上の字は下の字のみ影響するから、「敢」は、「仰視」の字にのみ影響する。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
然るに、
(39)
「不敢仰視」に於いて、「敢」は、「仰視」の字にのみ影響する。
といふことは、
「不敢仰視」に於いて、「敢」の「意味」は、「仰視」に及んでゐる。
といふ風に、「言ひ換へ」ることが、出来る。
然るに、
(40)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(39)(40)により、
(41)
「不敢仰視」に於いて、「敢」の「意味」は、「仰視」に及んでゐる。
といふことを、「括弧」を用ゐて、「表す」のであれば、
① 敢(仰視)。
といふことに、他ならない。
然るに、
(42)
蘇秦の昆弟妻嫂の場合、蘇秦を仰視することは勇気がいることだから「敢仰視」は「勇気を出して仰視」することで、「不敢仰視」はそれを否定している。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、326頁)
従って、
(42)により、
(43)
「不敢仰視」は、「敢仰視」を「否定」している。
すなはち、
(44)
正確に言ふと、
「不敢仰視」の「不」は、「敢仰視」を「否定」している。
従って、
(41)(44)により、
(45)
① 不敢(仰視)。の「不」は、
① 敢(仰視)。を「否定」してゐる。
然るに、
(46)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
然るに、
(47)
「~」といふ「演算子」は、「不」である。
従って、
(45)(46)(47)により、
(48)
① 不敢(仰視)。の「不」が、
① 敢(仰視)。を「否定」してゐる。
のであれば、
① 不(敢(仰視))。
でなければ、ならない。
従って、
(48)により、
(49)
少なくとも、
① 不敢仰視。
といふ「漢文」には、
① 不〔敢(仰視)〕。
といふ「括弧」が、有ります!
従って、
(35)(38)(41)(49)により、
(50)
10 蘇秦之昆弟妻嫂、側レ目不二敢仰視一(史記、蘇秦列伝)蘇秦の兄弟や妻や兄嫁は、目をそらして、顔を上げてはっきり見るだけの勇気がなかった。
さてたとえば10の「不敢仰視」についていうと、漢文の原則として上の字は下の字のみ影響するから、「敢」は、「仰視」の字にのみ影響する。蘇秦の昆弟妻嫂の場合、蘇秦を仰視することは勇気がいることだから「敢仰視」は「勇気を出して仰視」することで、「不敢仰視」はそれを否定している。
といふ風に、西田先生が書いてゐる。といふことは、西田先生もまた、私と同様に、
① 不〔敢(仰視)〕⇒
① 〔(仰視)敢〕不=
① 〔(仰ぎ視ること)敢へてせ〕ず=
① 仰ぎ視ることを、(意を)決してしない(出来ない)。
といふ風に「理解」してゐる。
といふことを、意味してゐる。
従って、
(51)
「漢文」に於ける「括弧」は、「実在」するのであって、単なる、「返り点」の「代用」ではない。
といふ「意味」で、「括弧は有ります!」。
平成29年01月29日、毛利太。
―「関連記事」―
「部分否定・全部否定」と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_27.html)。
「復(副詞)の位置」 と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_25.html)。
「括弧」の付け方:「係り・及び・並び」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_6.html)。
2017年1月27日金曜日
「部分否定・全部否定」と「括弧は有ります!」
(01)
① 伯楽不常有=
① 伯楽不(常有)⇒
① 伯楽(常有)不=
① 伯楽は(常には有ら)ず。
(02)
② 伯楽常不有=
② 伯楽常不(有)⇒
② 伯楽常(有)不=
② 伯楽常に(有ら)ず。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 伯楽不常有=伯楽は常には有らず。
② 伯楽常不有=伯楽は常に、有らず。
であるものの、
① は、所謂「部分否定」であって、
② は、所謂「全部否定」である。
然るに、
(04)
従って、
(04)により、
(05)
③ 伯楽不常有=
③ 伯楽不〔常(有)〕⇒
③ 伯楽〔(有)常〕不=
③ 伯楽は〔(有ること)常なら〕ず。
であって、
④ 伯楽常不有=
④ 伯楽常〔不(有)〕⇒
④ 伯楽〔(有)不〕常=
④ 伯楽は〔(有ら)ざること〕常なり。
である。
然るに、
(06)
① 伯楽不常有=伯楽は常には有らず。
③ 伯楽不常有=伯楽は有ること常ならず。
の場合は、二つとも、
① ず。
③ ず。
で終はってゐる。
従って、
(06)により、
(07)
① 伯楽不常有=伯楽は常には有らず。
③ 伯楽不常有=伯楽は有ること常ならず。
の場合は、二つとも、
①「否定文」であって、
③「否定文」である。
然るに、
(08)
④ 〔(有ら)ざること〕常なり。
といふことは、
④ 〔(ゐ)ないこと〕が常である。
といふ、「意味」である。
然るに、
(09)
④ 「・・・・・・・が常」でない。
であれば
④「否定文」
であるが、
④ 「・・・・・・・が常」である。
であれば、
④「肯定文」
である。
従って、
(04)(05)(08)(09)により、
(10)
② 伯楽常不(有) =伯楽は常に、有らず。
といふ、
②「全部否定」は、
その一方で、
④ 伯楽常〔不(有)〕=伯楽は有らざること常なり。
といふ、
④「肯定文」である。
然るに、
(11)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
然るに、
(12)
不 といふ「漢字」は、「否定」であり、「否定」は、「論理演算子」そのものである。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① 伯楽不(常 有) =伯楽は常には有らず。
③ 伯楽不〔常(有)〕=伯楽は伯楽は有ること常ならず。
に於いて、
① 不 の「働き」は、(常有)に及んでゐて、
③ 不 の「働き」は、〔常有〕に及んでゐる。
然るに、
(14)
① 不 の「働き」は、(常有)に及んでゐて、
③ 不 の「働き」は、〔常有〕に及んでゐる。
といふことは、
① 伯楽不(常 有) =伯楽は常には有らず。
③ 伯楽不〔常(有)〕=伯楽は伯楽は有ること常ならず。
に於いて、
① 不 は、(常)といふ「副詞」を含めて、「否定」してゐて、
③ 不 は、〔常〕といふ「副詞」を含めて、「否定」してゐる。
といふことに、他ならない。
然るに、
(13)により、
(15)
② 伯楽常 不(有) =伯楽は常に、有らず。
④ 伯楽常〔不(有)〕=伯楽は有らざること常なり。
に於いて、
② 不 の「働き」は、(有)だけに及んでゐて、
④ 不 の「働き」は、(有)だけに及んでゐる。
然るに、
(16)
② 不 の「働き」は、(有)だけに及んでゐて、
④ 不 の「働き」は、(有)だけに及んでゐる。
といふことは、
② 伯楽常 不(有) =伯楽は常に、有らず。
④ 伯楽常〔不(有)〕=伯楽は有らざること常なり。
に於いて、
① 不 は、(常)といふ「副詞」を「否定」してゐないし、
③ 不 は、〔常〕といふ「副詞」を「否定」してゐない。
といふことに、他ならない。
従って、
(14)(16)により、
(17)
① 伯楽不(常 有) =伯楽は常には有らず。
③ 伯楽不〔常(有)〕=伯楽は伯楽は有ること常ならず。
に於いて、
① 不 は、(常)といふ「副詞」を含めて、「否定」してゐて、
③ 不 は、〔常〕といふ「副詞」を含めて、「否定」してゐる。
ものの、その一方で、
② 伯楽常 不(有) =伯楽は常に、有らず。
④ 伯楽常〔不(有)〕=伯楽は有らざること常なり。
に於いて、
① 不 は、(常)といふ「副詞」を「否定」してゐないし、
③ 不 は、〔常〕といふ「副詞」を「否定」してゐるない。
従って、
(17)により、
(18)
① 伯楽不常有。
③ 伯楽不常有。
といふ「漢文」は、いづれにせよ、
①「常」といふ「副詞」を「否定」してゐて、
③「常」といふ「副詞」を「否定」してゐる。
ものの、
② 伯楽常不有。
④ 伯楽常不有。
といふ「漢文」は、いづれにせよ、
②「常」といふ「副詞」を「否定」してゐないし、
④「常」といふ「副詞」を「否定」してゐない。
然るに、
(19)
_ 否定形(二)(部分否定と全部否定)
「冀二復得一レ兎」の句でふれたように、否定語と副詞の位置が入れかわることによって意味のうえで相違が生ずる。つまり「否定語+副詞」のときはその副詞をふくめた内容が否定されるので、否定されることがらが副詞によって修飾されて部分的に限定されることになる。逆に「副詞+否定語」のときは、副詞が否定語を修飾することになるので、否定されことがらは否定語の下におかれた全般にわたることになる。
(赤塚忠 遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、37頁)
然るに、
(20)
「否定語+副詞」のときはその副詞をふくめた内容が否定される。
といふことは、
① 伯楽不(常 有) =伯楽は常には有らず。
③ 伯楽不〔常(有)〕=伯楽は伯楽は有ること常ならず。
に於いて、
① 不 の「働き」は、(常有)に及んでゐる。
③ 不 の「働き」は、〔常有〕に及んでゐる。
といふことに、他ならない。
(21)
逆に「副詞+不定語」のときは、副詞が否定語を修飾することになるので、否定されことがらは否定語の下におかれた全般にわたることになる。
といふことは、
② 伯楽常 不(有) =伯楽は常に、有らず。
④ 伯楽常〔不(有)〕=伯楽は有らざること常なり。
に於いて、
② 不 の「働き」は、(有)だけに及んでゐる。
④ 不 の「働き」は、(有)だけに及んでゐる。
といふことに、他ならない。
然るに、
(11)(12)により、
(22)
括弧は、論理演算子の働きが及ぶ範囲を明示する働きを持ち、
不 といふ「漢字」は、「否定」であり、「否定」は、「論理演算子」そのものである。
従って、
(19)~(22)により、
(23)
「旺文社、漢文の基礎」を書かれた、赤塚忠先生、遠藤哲夫先生も、少なくとも、
① 伯楽不常有。
② 伯楽常不有。
といふ「漢文」には、
① 伯楽不(常 有)=伯楽は常には有らず。
② 伯楽常 不(有)=伯楽は常に、有らず。
といふ「括弧」があることを、認められる、はずである。
(24)
「私の漢文講義、1995年」を書かれた、原田種成先生であれば、
③ 伯楽不〔常(有)〕=伯楽は伯楽は有ること常ならず。
④ 伯楽常〔不(有)〕=伯楽は有らざること常なり。
といふ「括弧」があることを、認められる、はずである。
(25)
◆ 冀二復得一レ兎 この句は「復た兎を得んことを冀ふ」と読むが、いまかりに原文の「冀」と「復」とを入れかえて「復冀レ得レ兎」としても
読み方はかわらない。しかし意味内容のうえでは大きな違いがあるので注意を要する。「冀二復得一レ兎」の場合は「冀ふ」の内容が下の「復得レ兎」となる形であるから、「ふたたび兎を手に入れる」ということを「ねがう」の意で、まえにも兎を入れたが、さらにもう一度兎を手に入れ
たいと望むことになる。ところが「復冀レ得レ兎」の場合は「復」が「冀」の上にあるので、「復」が「冀」を修飾する形であり、「冀ふ」の内容は「得レ兎」だけになる。つまり「兎を手に入れること」を「もう一度ねがう」の意である。
このことは下文の「不レ可二復得一」についても同様なことが考えられるわけで、「不レ可二復得一」は「二度手に入れる」ということが「できない」という意であり、これが「復不レ可レ得」と書かれてあれば訓読は変わらないが、意味は「(まえも手に入れられなかったが)こんどもまた手に入れられなかった」となる。
_ 否定形(二)(部分否定と全部否定)
「冀二復得一レ兎」の句でふれたように、否定語と副詞の位置が入れかわることによって意味のうえで相違が生ずる。つまり「否定語+副詞」のときはその副詞をふくめた内容が否定されるので、否定されることがらが副詞によって修飾されて部分的に限定されることになる。逆に「副詞+否定語」のときは、副詞が否定語を修飾することになるので、否定されことがらは否定語の下におかれた全般にわたることになる。
(赤塚忠 遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、36・37頁)
(26)
「重要」なのは、
「復冀レ得レ兎」の場合は「復」が「冀」の上にあるので、「復」が「冀」を修飾する形であり、「冀ふ」の内容は「得レ兎」だけになる。
「副詞+否定語」のときは、副詞が否定語を修飾することになるので、否定されことがらは否定語の下におかれた全般にわたることになる。
といふ、ことである。
平成29年01月27日、毛利太。
―「関連記事」―
「復(副詞)の位置」と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_25.html)。
「括弧」の付け方:「係り・及び・並び」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_6.html)。
① 伯楽不常有=
① 伯楽不(常有)⇒
① 伯楽(常有)不=
① 伯楽は(常には有ら)ず。
(02)
② 伯楽常不有=
② 伯楽常不(有)⇒
② 伯楽常(有)不=
② 伯楽常に(有ら)ず。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 伯楽不常有=伯楽は常には有らず。
② 伯楽常不有=伯楽は常に、有らず。
であるものの、
① は、所謂「部分否定」であって、
② は、所謂「全部否定」である。
然るに、
(04)
従って、
(04)により、
(05)
③ 伯楽不常有=
③ 伯楽不〔常(有)〕⇒
③ 伯楽〔(有)常〕不=
③ 伯楽は〔(有ること)常なら〕ず。
であって、
④ 伯楽常不有=
④ 伯楽常〔不(有)〕⇒
④ 伯楽〔(有)不〕常=
④ 伯楽は〔(有ら)ざること〕常なり。
である。
然るに、
(06)
① 伯楽不常有=伯楽は常には有らず。
③ 伯楽不常有=伯楽は有ること常ならず。
の場合は、二つとも、
① ず。
③ ず。
で終はってゐる。
従って、
(06)により、
(07)
① 伯楽不常有=伯楽は常には有らず。
③ 伯楽不常有=伯楽は有ること常ならず。
の場合は、二つとも、
①「否定文」であって、
③「否定文」である。
然るに、
(08)
④ 〔(有ら)ざること〕常なり。
といふことは、
④ 〔(ゐ)ないこと〕が常である。
といふ、「意味」である。
然るに、
(09)
④ 「・・・・・・・が常」でない。
であれば
④「否定文」
であるが、
④ 「・・・・・・・が常」である。
であれば、
④「肯定文」
である。
従って、
(04)(05)(08)(09)により、
(10)
② 伯楽常不(有) =伯楽は常に、有らず。
といふ、
②「全部否定」は、
その一方で、
④ 伯楽常〔不(有)〕=伯楽は有らざること常なり。
といふ、
④「肯定文」である。
然るに、
(11)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
然るに、
(12)
不 といふ「漢字」は、「否定」であり、「否定」は、「論理演算子」そのものである。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① 伯楽不(常 有) =伯楽は常には有らず。
③ 伯楽不〔常(有)〕=伯楽は伯楽は有ること常ならず。
に於いて、
① 不 の「働き」は、(常有)に及んでゐて、
③ 不 の「働き」は、〔常有〕に及んでゐる。
然るに、
(14)
① 不 の「働き」は、(常有)に及んでゐて、
③ 不 の「働き」は、〔常有〕に及んでゐる。
といふことは、
① 伯楽不(常 有) =伯楽は常には有らず。
③ 伯楽不〔常(有)〕=伯楽は伯楽は有ること常ならず。
に於いて、
① 不 は、(常)といふ「副詞」を含めて、「否定」してゐて、
③ 不 は、〔常〕といふ「副詞」を含めて、「否定」してゐる。
といふことに、他ならない。
然るに、
(13)により、
(15)
② 伯楽常 不(有) =伯楽は常に、有らず。
④ 伯楽常〔不(有)〕=伯楽は有らざること常なり。
に於いて、
② 不 の「働き」は、(有)だけに及んでゐて、
④ 不 の「働き」は、(有)だけに及んでゐる。
然るに、
(16)
② 不 の「働き」は、(有)だけに及んでゐて、
④ 不 の「働き」は、(有)だけに及んでゐる。
といふことは、
② 伯楽常 不(有) =伯楽は常に、有らず。
④ 伯楽常〔不(有)〕=伯楽は有らざること常なり。
に於いて、
① 不 は、(常)といふ「副詞」を「否定」してゐないし、
③ 不 は、〔常〕といふ「副詞」を「否定」してゐない。
といふことに、他ならない。
従って、
(14)(16)により、
(17)
① 伯楽不(常 有) =伯楽は常には有らず。
③ 伯楽不〔常(有)〕=伯楽は伯楽は有ること常ならず。
に於いて、
① 不 は、(常)といふ「副詞」を含めて、「否定」してゐて、
③ 不 は、〔常〕といふ「副詞」を含めて、「否定」してゐる。
ものの、その一方で、
② 伯楽常 不(有) =伯楽は常に、有らず。
④ 伯楽常〔不(有)〕=伯楽は有らざること常なり。
に於いて、
① 不 は、(常)といふ「副詞」を「否定」してゐないし、
③ 不 は、〔常〕といふ「副詞」を「否定」してゐるない。
従って、
(17)により、
(18)
① 伯楽不常有。
③ 伯楽不常有。
といふ「漢文」は、いづれにせよ、
①「常」といふ「副詞」を「否定」してゐて、
③「常」といふ「副詞」を「否定」してゐる。
ものの、
② 伯楽常不有。
④ 伯楽常不有。
といふ「漢文」は、いづれにせよ、
②「常」といふ「副詞」を「否定」してゐないし、
④「常」といふ「副詞」を「否定」してゐない。
然るに、
(19)
_ 否定形(二)(部分否定と全部否定)
「冀二復得一レ兎」の句でふれたように、否定語と副詞の位置が入れかわることによって意味のうえで相違が生ずる。つまり「否定語+副詞」のときはその副詞をふくめた内容が否定されるので、否定されることがらが副詞によって修飾されて部分的に限定されることになる。逆に「副詞+否定語」のときは、副詞が否定語を修飾することになるので、否定されことがらは否定語の下におかれた全般にわたることになる。
(赤塚忠 遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、37頁)
然るに、
(20)
「否定語+副詞」のときはその副詞をふくめた内容が否定される。
といふことは、
① 伯楽不(常 有) =伯楽は常には有らず。
③ 伯楽不〔常(有)〕=伯楽は伯楽は有ること常ならず。
に於いて、
① 不 の「働き」は、(常有)に及んでゐる。
③ 不 の「働き」は、〔常有〕に及んでゐる。
といふことに、他ならない。
(21)
逆に「副詞+不定語」のときは、副詞が否定語を修飾することになるので、否定されことがらは否定語の下におかれた全般にわたることになる。
といふことは、
② 伯楽常 不(有) =伯楽は常に、有らず。
④ 伯楽常〔不(有)〕=伯楽は有らざること常なり。
に於いて、
② 不 の「働き」は、(有)だけに及んでゐる。
④ 不 の「働き」は、(有)だけに及んでゐる。
といふことに、他ならない。
然るに、
(11)(12)により、
(22)
括弧は、論理演算子の働きが及ぶ範囲を明示する働きを持ち、
不 といふ「漢字」は、「否定」であり、「否定」は、「論理演算子」そのものである。
従って、
(19)~(22)により、
(23)
「旺文社、漢文の基礎」を書かれた、赤塚忠先生、遠藤哲夫先生も、少なくとも、
① 伯楽不常有。
② 伯楽常不有。
といふ「漢文」には、
① 伯楽不(常 有)=伯楽は常には有らず。
② 伯楽常 不(有)=伯楽は常に、有らず。
といふ「括弧」があることを、認められる、はずである。
(24)
「私の漢文講義、1995年」を書かれた、原田種成先生であれば、
③ 伯楽不〔常(有)〕=伯楽は伯楽は有ること常ならず。
④ 伯楽常〔不(有)〕=伯楽は有らざること常なり。
といふ「括弧」があることを、認められる、はずである。
(25)
◆ 冀二復得一レ兎 この句は「復た兎を得んことを冀ふ」と読むが、いまかりに原文の「冀」と「復」とを入れかえて「復冀レ得レ兎」としても
読み方はかわらない。しかし意味内容のうえでは大きな違いがあるので注意を要する。「冀二復得一レ兎」の場合は「冀ふ」の内容が下の「復得レ兎」となる形であるから、「ふたたび兎を手に入れる」ということを「ねがう」の意で、まえにも兎を入れたが、さらにもう一度兎を手に入れ
たいと望むことになる。ところが「復冀レ得レ兎」の場合は「復」が「冀」の上にあるので、「復」が「冀」を修飾する形であり、「冀ふ」の内容は「得レ兎」だけになる。つまり「兎を手に入れること」を「もう一度ねがう」の意である。
このことは下文の「不レ可二復得一」についても同様なことが考えられるわけで、「不レ可二復得一」は「二度手に入れる」ということが「できない」という意であり、これが「復不レ可レ得」と書かれてあれば訓読は変わらないが、意味は「(まえも手に入れられなかったが)こんどもまた手に入れられなかった」となる。
_ 否定形(二)(部分否定と全部否定)
「冀二復得一レ兎」の句でふれたように、否定語と副詞の位置が入れかわることによって意味のうえで相違が生ずる。つまり「否定語+副詞」のときはその副詞をふくめた内容が否定されるので、否定されることがらが副詞によって修飾されて部分的に限定されることになる。逆に「副詞+否定語」のときは、副詞が否定語を修飾することになるので、否定されことがらは否定語の下におかれた全般にわたることになる。
(赤塚忠 遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、36・37頁)
(26)
「重要」なのは、
「復冀レ得レ兎」の場合は「復」が「冀」の上にあるので、「復」が「冀」を修飾する形であり、「冀ふ」の内容は「得レ兎」だけになる。
「副詞+否定語」のときは、副詞が否定語を修飾することになるので、否定されことがらは否定語の下におかれた全般にわたることになる。
といふ、ことである。
平成29年01月27日、毛利太。
―「関連記事」―
「復(副詞)の位置」と「括弧は有ります!」(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_25.html)。
「括弧」の付け方:「係り・及び・並び」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_6.html)。
2017年1月25日水曜日
「復(副詞)の位置」と「括弧は有ります!」
(01)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(02)
括弧は、「動詞」等の「意味」が及ぶ「範囲(スコープ)」を明示する。
従って、
(02)により、
(03)
① 得(うさぎ)。
に於いて、
① 得 の「意味」は、(う)ではなく、(うさ)ではなく、(うさぎ)に及んでゐる。
従って、
(03)により、
(04)
① 得(兎)。
に於いて、
① 得 の「意味」は、(兎)に及んでゐる。
然るに、
(05)
① 動詞+補語
① 補語+動詞
に於いて、
① 前者は、「漢文の語順」であり、
① 後者は、「訓読の語順」である。
である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 得(兎)⇒
① (兎)得=
① (兎を)得。
である。
cf.
「得 得 得 得る 得れ 得よ」は、すなはち、
「え え う うる うれ えよ」は、「下二段活用」。
然るに、
(07)
② 副詞+動詞
② 副詞+動詞
に於いて、
② 前者は、「漢文の語順」であり、
② 後者も、「訓読の語順」である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
② 復得(兎)⇒
② 復(兎)得=
② 復た(兎を)得。
である。
然るに、
(09)
③ 助動詞+ 動詞
③ 動詞 +助動詞
に於いて、
③ 前者は、「漢文の語順」であり、
③ 後者は、「訓読の語順」である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ 可〔復得(兎)〕⇒
③ 〔復(兎)得〕可=
③ 〔復た(兎を)得〕可し。
である。
然るに、
(11)
④「漢文の否定」は、「否定する文」の「最初」に付き、
④「訓読の否定」は、「否定する文」の「最後」に付く。
従って、
(10)(11)により、
(12)
④ 不[可〔復得(兎)〕]⇒
④ [〔復(兎)得〕可]不=
④ [〔復た(兎を)得〕可から]ず。
である。
然るに、
(13)
例へば、
④ 瓜田不納履 =瓜田に履を入れず。
④ 先生不知何許人=先生は何許の人かを知らず。
の場合は、
④ 不納瓜田履 =瓜田に履を入れず。
④ 不知先生何許人=先生は何許の人かを知らず。
といふ「語順」が「正しいのでは」といふ風に、以前は、思ってゐた。
然るに、
(14)
④ 瓜田不納履 =瓜田に は履を入れない。
④ 先生不知何許人=先生については何許の人かを知らない。
等に於いて、
④ 瓜田(補語)
④ 先生(補語)
が「倒置」されて、
④ 主語(瓜田)
④ 主語(先生)
の「位置」に置かれてゐる。といふ「説明」を、今迄に、読んだことが無い。
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
④ 不[可〔復得(兎)〕]⇒
④ [〔復(兎)得〕可]不=
④ [〔復た(兎を)得〕可から]ず。
といふ「漢文訓読」は、
⑤ 兎不〔可(復得)〕⇒
⑤ 兎〔(復得)可〕不=
⑤ 兎〔(復た得)可から〕ず=
⑤ 兎を、もう一度手に入れることが出来ない。
といふ「漢文訓読」に、「略、等しい」。
然るに、
(16)
(17)
宋の国の人で、畑を耕作している者があった。
(その)畑の中に木の切り株があった。(ちょうどそこへ)兎が走ってきてその切り株にぶつかり、首の骨を折って死んでしまった。
(これをしめたと彼は)そこで手にしていたすきを捨てて(耕作の仕事をやめ、いつまでも)切り株の番をして見まもり、もう一度兎を手に入れたいものだと願った。
(しかし)兎は二度と手に入らず、彼自身は宋の国の笑い者となった。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、35頁)
従って、
(15)(16)(17)により、
(18)
⑤ 不〔可(復得)〕⇒
⑤ 〔(復た得)可から〕ず。
といふ「漢文訓読」は、
⑤ 一度は、得たが、二度とは、得なかった。
といふ「意味」である。
然るに、
(19)
⑥ 不〔可(得)〕⇒
⑥ 〔(得)可〕不=
⑥ 〔(得)可から〕ず=
⑥ 得ることが出来ない。
といふ、ことは、
⑥ 得ることに失敗する。
といふ、ことである。
従って、
(19)により、
(20)
⑥ 昨日は、兎を得ようとしたが、失敗した。
といふのであれば、
⑥ 不〔可(得)〕。
である。
従って、
(21)
⑥ 昨日は、兎を得ようとしたが、失敗した。
⑦ 今日も、兎を得ようとしたが、失敗した。
とするならば、
⑥ 不〔可(得)〕。
⑦ 不〔可(得)〕。
である。
然るに、
(22)
⑥ 不〔可(得)〕。
⑦ 不〔可(得)〕。
であるならば、
⑥ 不〔可(得)〕が「二回」である。
然るに、
(23)
⑥ 不〔可(得)〕が「二回」である。
といふことを、「漢文」では、
⑦ 復不〔可(得)〕。
といふ風に、書く。
従って、
(21)(23)により、
(24)
⑥ 昨日は、兎を得ようとしたが、失敗した。
⑦ 今日も、兎を得ようとしたが、失敗した。
とするならば、
⑥ 不〔可(得)〕。
⑦ 不〔可(得)〕。
であるため、その場合は、
⑦ 復不〔可(得)〕。
である。
従って、
(24)により、
(25)
⑦ 復不〔可(得)〕。
といふ「漢文」は、
⑦ 一度目は、得なかったし、二度目も、得なかった。
といふ、「意味」である。
従って、
(25)により、
(26)
⑦ 復不〔可(得)〕⇒
⑦ 復〔(得)可〕不=
⑦ 復た〔(得)可から〕不。
といふ「漢文訓読」は、
⑦ 一度目も、二度目も、二回とも、得なかった。
といふ、「意味」である。
従って、
(18)(26)により、
(27)
⑤ 〔(復た得)可から〕ず。
⑦ 復た〔(得)可から〕ず。
といふ「訓読」に於いて、
⑤ 一度は、得たが、二度とは、得なかった。
⑦ 一度目も、二度目も、二回とも、得なかった。
である。
従って、
(27)により、
(28)
⑤ 復た得可からず。
⑦ 復た得可からず。
といふ「一つの訓読」に対して、
⑤ 一度は、得たが、二度とは、得なかった。
⑦ 一度目も、二度目も、二回とも、得なかった。
といふ、「二つの意味」が、対応する。
然るに、
(29)
⑤ 復たとは得可からず。
⑦ 復たもや得可からず。
とうするならば、「二つの訓読」に対して、
⑤ 一度は、得たが、二度とは、得なかった。
⑦ 一度目も、二度目も、二回とも、得なかった。
といふ、「二つの意味」が、対応する。
従って、
(30)
⑤ 不〔可(復得)〕。
⑦ 復不〔可(得)〕。
といふ「補足構造」に対して、
⑤ 復たとは得可からず。
⑦ 復たもや得可からず。
といふ風に「異なる、訓読」を与へるのであれば、「不都合」は、生じない。
然るに、
(31)
実際には、さうはなってゐないのであって、「以下の(32)」は、そのことを、述べてゐる。
(32)
このことは下文の「不レ可二復得一」についても同様なことが考えられるわけで、「不レ可二復得一」は「二度手に入れる」ということが「できない」という意であり、これが「復不レ可レ得」と書かれてあれば訓読は変わらないが、意味は「(まえも手に入れられなかったが)こんどもまた手に入れられなかった」となる。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、36・37頁)
従って、
(30)(32)により、
(33)
漢文の先生は、
⑤ 不可復得。
⑦ 復不可得。
といふ「漢文」を、
⑤ 復た得可からず。
⑦ 復た得可からず。
といふ風に、「訓読」をしたとしても、
⑤ 不可復得。
⑦ 復不可得。
といふ「漢文」の、
⑤ 不〔可(復得)〕。
⑦ 復不〔可(得)〕。
といふ「補足構造」を、「読み取ってゐる。」といふ、ことになる。
従って、
(34)
⑤ 不可復得。
⑦ 復不可得。
といふ「漢文」には、
⑤ 不〔可(復得)〕。
⑦ 復不〔可(得)〕。
といふ「補足構造」が有る。
従って、
(35)
少なくとも、
⑤ 不可復得。
⑦ 復不可得。
といふ「漢文」に、「括弧」は有ります!
従って、
(36)
⑤ 不〔可(復得)〕。
⑦ 復不〔可(得)〕。
といふ「漢文」に於ける、「 括弧 」は、
⑤ 不レ可二復得一。
⑦ 復不レ可レ得。
といふ「漢文」に於ける、「返り点」の「代用」ではない。
(37)
◆ 冀二復得一レ兎 この句は「復た兎を得んことを冀ふ」と読むが、いまかりに原文の「冀」と「復」とを入れかえて「復冀レ得レ兎」としても
読み方はかわらない。しかし意味内容のうえでは大きな違いがあるので注意を要する。「冀二復得一レ兎」の場合は「冀ふ」の内容が下の「復得レ兎」となる形であるから、「ふたたび兎を手に入れる」ということを「ねがう」の意で、まえにも兎を入れたが、さらにもう一度兎を手に入れ
たいと望むことになる。ところが「復冀レ得レ兎」の場合は「復」が「冀」の上にあるので、「復」が「冀」を修飾する形であり、「冀ふ」の内容は「得レ兎」だけになる。つまり「兎を手に入れること」を「もう一度ねがう」の意である。
このことは下文の「不レ可二復得一」についても同様なことが考えられるわけで、「不レ可二復得一」は「二度手に入れる」ということが「できない」という意であり、これが「復不レ可レ得」と書かれてあれば訓読は変わらないが、意味は「(まえも手に入れられなかったが)こんどもまた手に入れられなかった」となる。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、36・37頁)
平成29年01月25日、毛利太。
―「関連記事」―
「括弧」の付け方:「係り・及び・並び」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_6.html)。
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(02)
括弧は、「動詞」等の「意味」が及ぶ「範囲(スコープ)」を明示する。
従って、
(02)により、
(03)
① 得(うさぎ)。
に於いて、
① 得 の「意味」は、(う)ではなく、(うさ)ではなく、(うさぎ)に及んでゐる。
従って、
(03)により、
(04)
① 得(兎)。
に於いて、
① 得 の「意味」は、(兎)に及んでゐる。
然るに、
(05)
① 動詞+補語
① 補語+動詞
に於いて、
① 前者は、「漢文の語順」であり、
① 後者は、「訓読の語順」である。
である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 得(兎)⇒
① (兎)得=
① (兎を)得。
である。
cf.
「得 得 得 得る 得れ 得よ」は、すなはち、
「え え う うる うれ えよ」は、「下二段活用」。
然るに、
(07)
② 副詞+動詞
② 副詞+動詞
に於いて、
② 前者は、「漢文の語順」であり、
② 後者も、「訓読の語順」である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
② 復得(兎)⇒
② 復(兎)得=
② 復た(兎を)得。
である。
然るに、
(09)
③ 助動詞+ 動詞
③ 動詞 +助動詞
に於いて、
③ 前者は、「漢文の語順」であり、
③ 後者は、「訓読の語順」である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ 可〔復得(兎)〕⇒
③ 〔復(兎)得〕可=
③ 〔復た(兎を)得〕可し。
である。
然るに、
(11)
④「漢文の否定」は、「否定する文」の「最初」に付き、
④「訓読の否定」は、「否定する文」の「最後」に付く。
従って、
(10)(11)により、
(12)
④ 不[可〔復得(兎)〕]⇒
④ [〔復(兎)得〕可]不=
④ [〔復た(兎を)得〕可から]ず。
である。
然るに、
(13)
例へば、
④ 瓜田不納履 =瓜田に履を入れず。
④ 先生不知何許人=先生は何許の人かを知らず。
の場合は、
④ 不納瓜田履 =瓜田に履を入れず。
④ 不知先生何許人=先生は何許の人かを知らず。
といふ「語順」が「正しいのでは」といふ風に、以前は、思ってゐた。
然るに、
(14)
④ 瓜田不納履 =瓜田に は履を入れない。
④ 先生不知何許人=先生については何許の人かを知らない。
等に於いて、
④ 瓜田(補語)
④ 先生(補語)
が「倒置」されて、
④ 主語(瓜田)
④ 主語(先生)
の「位置」に置かれてゐる。といふ「説明」を、今迄に、読んだことが無い。
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
④ 不[可〔復得(兎)〕]⇒
④ [〔復(兎)得〕可]不=
④ [〔復た(兎を)得〕可から]ず。
といふ「漢文訓読」は、
⑤ 兎不〔可(復得)〕⇒
⑤ 兎〔(復得)可〕不=
⑤ 兎〔(復た得)可から〕ず=
⑤ 兎を、もう一度手に入れることが出来ない。
といふ「漢文訓読」に、「略、等しい」。
然るに、
(16)
(17)
宋の国の人で、畑を耕作している者があった。
(その)畑の中に木の切り株があった。(ちょうどそこへ)兎が走ってきてその切り株にぶつかり、首の骨を折って死んでしまった。
(これをしめたと彼は)そこで手にしていたすきを捨てて(耕作の仕事をやめ、いつまでも)切り株の番をして見まもり、もう一度兎を手に入れたいものだと願った。
(しかし)兎は二度と手に入らず、彼自身は宋の国の笑い者となった。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、35頁)
従って、
(15)(16)(17)により、
(18)
⑤ 不〔可(復得)〕⇒
⑤ 〔(復た得)可から〕ず。
といふ「漢文訓読」は、
⑤ 一度は、得たが、二度とは、得なかった。
といふ「意味」である。
然るに、
(19)
⑥ 不〔可(得)〕⇒
⑥ 〔(得)可〕不=
⑥ 〔(得)可から〕ず=
⑥ 得ることが出来ない。
といふ、ことは、
⑥ 得ることに失敗する。
といふ、ことである。
従って、
(19)により、
(20)
⑥ 昨日は、兎を得ようとしたが、失敗した。
といふのであれば、
⑥ 不〔可(得)〕。
である。
従って、
(21)
⑥ 昨日は、兎を得ようとしたが、失敗した。
⑦ 今日も、兎を得ようとしたが、失敗した。
とするならば、
⑥ 不〔可(得)〕。
⑦ 不〔可(得)〕。
である。
然るに、
(22)
⑥ 不〔可(得)〕。
⑦ 不〔可(得)〕。
であるならば、
⑥ 不〔可(得)〕が「二回」である。
然るに、
(23)
⑥ 不〔可(得)〕が「二回」である。
といふことを、「漢文」では、
⑦ 復不〔可(得)〕。
といふ風に、書く。
従って、
(21)(23)により、
(24)
⑥ 昨日は、兎を得ようとしたが、失敗した。
⑦ 今日も、兎を得ようとしたが、失敗した。
とするならば、
⑥ 不〔可(得)〕。
⑦ 不〔可(得)〕。
であるため、その場合は、
⑦ 復不〔可(得)〕。
である。
従って、
(24)により、
(25)
⑦ 復不〔可(得)〕。
といふ「漢文」は、
⑦ 一度目は、得なかったし、二度目も、得なかった。
といふ、「意味」である。
従って、
(25)により、
(26)
⑦ 復不〔可(得)〕⇒
⑦ 復〔(得)可〕不=
⑦ 復た〔(得)可から〕不。
といふ「漢文訓読」は、
⑦ 一度目も、二度目も、二回とも、得なかった。
といふ、「意味」である。
従って、
(18)(26)により、
(27)
⑤ 〔(復た得)可から〕ず。
⑦ 復た〔(得)可から〕ず。
といふ「訓読」に於いて、
⑤ 一度は、得たが、二度とは、得なかった。
⑦ 一度目も、二度目も、二回とも、得なかった。
である。
従って、
(27)により、
(28)
⑤ 復た得可からず。
⑦ 復た得可からず。
といふ「一つの訓読」に対して、
⑤ 一度は、得たが、二度とは、得なかった。
⑦ 一度目も、二度目も、二回とも、得なかった。
といふ、「二つの意味」が、対応する。
然るに、
(29)
⑤ 復たとは得可からず。
⑦ 復たもや得可からず。
とうするならば、「二つの訓読」に対して、
⑤ 一度は、得たが、二度とは、得なかった。
⑦ 一度目も、二度目も、二回とも、得なかった。
といふ、「二つの意味」が、対応する。
従って、
(30)
⑤ 不〔可(復得)〕。
⑦ 復不〔可(得)〕。
といふ「補足構造」に対して、
⑤ 復たとは得可からず。
⑦ 復たもや得可からず。
といふ風に「異なる、訓読」を与へるのであれば、「不都合」は、生じない。
然るに、
(31)
実際には、さうはなってゐないのであって、「以下の(32)」は、そのことを、述べてゐる。
(32)
このことは下文の「不レ可二復得一」についても同様なことが考えられるわけで、「不レ可二復得一」は「二度手に入れる」ということが「できない」という意であり、これが「復不レ可レ得」と書かれてあれば訓読は変わらないが、意味は「(まえも手に入れられなかったが)こんどもまた手に入れられなかった」となる。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、36・37頁)
従って、
(30)(32)により、
(33)
漢文の先生は、
⑤ 不可復得。
⑦ 復不可得。
といふ「漢文」を、
⑤ 復た得可からず。
⑦ 復た得可からず。
といふ風に、「訓読」をしたとしても、
⑤ 不可復得。
⑦ 復不可得。
といふ「漢文」の、
⑤ 不〔可(復得)〕。
⑦ 復不〔可(得)〕。
といふ「補足構造」を、「読み取ってゐる。」といふ、ことになる。
従って、
(34)
⑤ 不可復得。
⑦ 復不可得。
といふ「漢文」には、
⑤ 不〔可(復得)〕。
⑦ 復不〔可(得)〕。
といふ「補足構造」が有る。
従って、
(35)
少なくとも、
⑤ 不可復得。
⑦ 復不可得。
といふ「漢文」に、「括弧」は有ります!
従って、
(36)
⑤ 不〔可(復得)〕。
⑦ 復不〔可(得)〕。
といふ「漢文」に於ける、「 括弧 」は、
⑤ 不レ可二復得一。
⑦ 復不レ可レ得。
といふ「漢文」に於ける、「返り点」の「代用」ではない。
(37)
◆ 冀二復得一レ兎 この句は「復た兎を得んことを冀ふ」と読むが、いまかりに原文の「冀」と「復」とを入れかえて「復冀レ得レ兎」としても
読み方はかわらない。しかし意味内容のうえでは大きな違いがあるので注意を要する。「冀二復得一レ兎」の場合は「冀ふ」の内容が下の「復得レ兎」となる形であるから、「ふたたび兎を手に入れる」ということを「ねがう」の意で、まえにも兎を入れたが、さらにもう一度兎を手に入れ
たいと望むことになる。ところが「復冀レ得レ兎」の場合は「復」が「冀」の上にあるので、「復」が「冀」を修飾する形であり、「冀ふ」の内容は「得レ兎」だけになる。つまり「兎を手に入れること」を「もう一度ねがう」の意である。
このことは下文の「不レ可二復得一」についても同様なことが考えられるわけで、「不レ可二復得一」は「二度手に入れる」ということが「できない」という意であり、これが「復不レ可レ得」と書かれてあれば訓読は変わらないが、意味は「(まえも手に入れられなかったが)こんどもまた手に入れられなかった」となる。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、36・37頁)
平成29年01月25日、毛利太。
―「関連記事」―
「括弧」の付け方:「係り・及び・並び」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_6.html)。
2017年1月24日火曜日
日本人にとっては「論語や史記」の方が「源氏物語や枕草子」よりも簡単である。
(01)
① 冀〔復得(兎)〕。の場合は、
① 〔復得(兎)〕といふことを、「一度だけ、 願った。」のに対して、
② 復冀〔 得(兎)〕。の場合は、
② 〔 得(兎)〕といふことを、「一度ならず、二度、願った。」ことになる。
然るに、
(02)
①〔復得(兎)〕=〔もう一度、兎を手に入れること〕
②〔 得(兎)〕=〔 兎を手に入れること〕
である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 冀〔復得(兎)〕。
② 復冀〔 得(兎)〕。
といふ「漢文」は、
①〔もう一度、兎を手に入れること〕を「冀ふ」。
②〔兎を手に入れること〕を「もう一度、冀ふ」。
といふ「意味」である。
然るに、
(04)
① 冀復得兎=
① 冀〔復得(兎)〕⇒
① 〔復(兎)得〕冀=
① 復た兎を得んことを冀ふ。
(05)
② 復冀得兎=
② 復冀〔得(兎)〕⇒
② 復〔(兎)得〕冀=
② 復た兎を得んことを冀ふ。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 冀復得兎。
② 復冀得兎。
といふ「漢文」の「訓読」は、両方とも、
① 復た兎を得んことを冀ふ。
② 復た兎を得んことを冀ふ。
である。
従って、
(03)(06)により、
(07)
① 復た兎を得んことを冀ふ。
② 復た兎を得んことを冀ふ。
といふ「一つの訓読」に対して、
①〔もう一度、兎を手に入れること〕を「願ふ」。
②〔兎を手に入れること〕を「もう一度、願ふ」。
といふ、「二つの意味」が、対応する。
従って、
(08)
◆ 冀二復得一レ兎 この句は「復た兎を得んことを冀ふ」と読むが、いまかりに原文の「冀」と「復」とを入れかえて「復冀レ得レ兎」としても
読み方はかわらない。しかし意味内容のうえでは大きな違いがあるので注意を要する。「冀二復得一レ兎」の場合は「冀ふ」の内容が下の「復得レ兎」となる形であるから、「ふたたび兎を手に入れる」ということを「ねがう」の意で、まえにも兎を入れたが、さらにもう一度兎を手に入れ
たいと望むことになる。ところが「復冀レ得レ兎」の場合は「復」が「冀」の上にあるので、「復」が「冀」を修飾する形であり、「冀ふ」の内容は「得レ兎」だけになる。つまり「兎を手に入れること」を「もう一度ねがう」の意である(旺文社、漢文の基礎、1973年、36頁)。
といふ、ことになる。
(09)
【邪】同じく疑問を主として「乎」「与」に通じるが、〈かな〉という訓はない。「乎」のように単に問うのではなく、怪しみ疑う気持ちを強くこめて自問する場合に多く用いる。「耶」は「邪」と音義とも同じ(三省堂、新明解漢和辞典、第四版)。
従って、
(09)により、
(10)
③ 天下豈聞三死人可二復活一耶。
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かんや。
であれば、
③ 天下豈聞死人可復活。といふことは「怪しく、疑はしい」。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(11)
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かんや。
であれば、
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かん乎。
であるのか、
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かん与。
であるのか、
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かん耶。
であるのかが、「不明」である。
(12)
「也」と「矣」とは共に断定の終詞であるが、その用法にははっきりとした区別がある。「也」は断定をいっそう確言する口気を写すもので、国語では、「~は~である」と訳せばほぼ合致する。「也」の確言のしかたはこのように説明であり、平板である。しかるに「矣」は自ら信ずるところを特に強く表示したり、またこれを主張する必要がある場合の口気を写すものあり、その確言のしかたは直覚であり。感情的であり、強くかつ鋭い。国語では「~であることはいうまでもない「~にちがいない」といような気持ちを含めて訳せば、その意に近い。
(中澤希男・澁谷玲子、漢文訓読の基礎、昭和60年、86頁)
従って、
(12)により、
(13)
④ 慎レ終追レ遠、民徳帰厚矣。
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。
であれば、
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す(にちがいない)。
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す(ことはいうまでもない)。
といふ「意味」になる。
然るに、
(14)
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。
だけでは、
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す(にちがいない)。
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す(ことはいうまでもない)。
といふ「意味」なのか、さうでないのかが、分らない。
従って、
(07)(11)(14)により、
(15)
① 復た兎を得んことを冀ふ。
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かんや。
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。
といふ「書き下し文」は、
① 冀二復得一レ兎。
③ 天下豈聞三死人可二復活一耶。
④ 慎レ終追レ遠、民徳帰厚矣。
といふ「漢文」に及ばない。
従って、
(15)により、
(16)
① 復た兎を得んことを冀ふ。
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かんや。
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。
といふ「書き下し文」だけを読んでゐても、
① 冀〔復得(兎)〕。
③ 天下豈聞〔死人可(復活)〕耶。
④ 慎(終)追(遠)、民徳帰厚矣。
といふ「漢文(の補足構造とニュアンス)」を、「理解」することは、出来ない。
(17)
① 男もす なり(伝聞)=男もするそうだ。
② 男もするなり(断定)=男もするのである。
である。
然るに、
(18)
①「なり(伝聞・推定)」
といふ「助動詞」は、「漢文訓読」では、用ゐない。
(19)
③ 春きたるらし=春が+来る+らしい。
④ 春きたるらし=春が+来て+ゐる+らしい。
である。
然るに、
(20)
③ 来たる=きたる(四段動詞・連体形・終止形)
に対して、
④ 来たる=き(カ変動詞・連用形)+たる(完了の助動詞・連体形)
といふ「形」は、「漢文訓読」では、用ゐない。
(21)
⑤ 三笠の山にいでし月かも。
⑥ 倭建命その刀を抜かして、
⑦ 聞かでただ寝なましものを。
に於いて、
⑤ し=「過去」の助動詞「き」の連体形。
⑥ し=「尊敬」の助動詞「す」の連用形。
⑦ し=「反実仮想」の助動詞「まし」の一部。
である。
然るに、
(22)
⑤「き(過去)」
⑥「す(尊敬)」
⑦「まし(反実仮想)」
といふ「助動詞」は、「漢文訓読」では、用ゐない。
従って、
(17)~(22)により、
(23)
例へば、
① 男もすなり(伝聞)。
② 男もするなり(断定)。
③ 春きたる(四段動詞)らし。
④ 春き(カ変動詞)たるらし。
⑤ 三笠の山にいでし(過去)月かも。
⑥ 倭建命その刀を抜かし(尊敬)て、
⑦ 聞かでただ寝なまし(反実仮想)ものを。
のやうな「識別(分析)」は、「漢文訓読」に於いては、「不要」であるし、更に言へば、
⑧ 名に(格助詞)し(副助詞・強意)負はばこと問はむ。
のやうな「識別(分析)」も、「漢文訓読」では、「問題」にはならない。
(24)
「中村菊一、基礎からわかる古典文法」によると「古文」で用ゐる「助動詞」は、
「ふ、ゆ、らゆ、る、らる、す、さす、しむ、ず、む、むず、じ、まし、まほし、り、き、けり、つ、ぬ、たり、けむ、たし、らむ、らし、めり、べし、まじ、なり、なり、たり、ごとし」による「31種類」である。
然るに、
(25)
その内、「漢文訓読」で用ゐる「助動詞」は、「二畳庵主人、漢文法基礎」によると、
「る、らる、しむ、ず、む、り、べし、なり、たり、ごとし」による「10種類」である。
加へて、
(26)
これも、「かなりむつかしい」所の、
「あそばす、います、いますがり、うけたまはる、おはします、おはす、おぼしめす、おぼす、おほせらる、おほとのごもる、おもほす、きこえさす、きこしめす、きこゆ、けいす、ごらんず、さぶらふ、しろしめす、そうす、たうぶ、たてまつる、たぶ、たまはす、たまはる、たまふ、つかうまつる、(のたまふ)、のたまはす、はべり、もうす、まうず、まかず、まかる、まします、まゐらす、まゐる、みそなす、めす」
のやうな「敬語」は、「漢文訓読」では用ゐない。
従って、
(23)~(26)により、
(27)
以上のやうな「事情」等により、「漢文訓読の文法」は、「古文の文法」より、「はるかに、簡単」である。
従って、
(28)
論語や孟子を読むことは、少なくとも「源氏物語」や「枕草子」を読むほどには、むつかしくない。更にもう一つ少なくともを加へれば、少なくとも漢文の文法は、いわゆる日本の「古文」の文法よりも簡単である(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、31頁)。
といふことは、「本当」であって、「実感」である。
従って、
(29)
それを「訓読」する限り、日本人にとっては、約2500年前のシナの「古文」の方が、約1000年前の日本の「古文」よりも、「はるかに、簡単」である。
従って、
(30)
信じられない話だが日本人は学校で漢文を勉強するらしい……中国人オタクの疑問(百元)
といふことは、別段、「信じられない話」ではない。
(31)
それよりも、
『源氏物語』や『蜻蛉日記』を本気で読もうとする、ものすごくたいへんなのです。私が受験した頃は、『源氏物語』がよく出たので、当時かなり熱心に読んだのですが、かなり苦労した記憶があります(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、53頁)。
とあるやうに、40年程前には、高校生に対して、「源氏物語の読解」を期待してゐた。といふことの方が、信じられない。
従って、
(32)
日本人にとっては、「論語や孟子や史記」の方が「源氏物語や枕草子や蜻蛉日記」よりも、簡単である。
従って、
(33)
日本語を学ばれてゐる、外国の方にとっても、「漢文」の方が、「古文」よりも、簡単である。
然るに、
(34)
私の後輩に、中国語をずいぶん熱心に勉強している女性がいます。彼女は中国語の検定試験にもチャレンジしている達人ですが、この『論語』の文章を一目みて、
「これも中国語ですか? 私には全く分かりません!」
と言いました。彼女ほどの人が、本当に「全く分からない」のだろうか、と私はちょっと驚いたのですが、現代中国語と古文(漢文)では、かなり違いがあるのは事実です。現代中国語だけしか習っておらず、 古文(漢文)を読んだ経験がなければ、「全く分からない」ということも、ありうるかもしれません(Webサイト:日本漢文へのいざない)。
従って、
(35)
中国語をずいぶん熱心に勉強してゐるからといって、「漢文」が読めるように、なるわけではない。
平成29年01月24日、毛利太。
① 冀〔復得(兎)〕。の場合は、
① 〔復得(兎)〕といふことを、「一度だけ、 願った。」のに対して、
② 復冀〔 得(兎)〕。の場合は、
② 〔 得(兎)〕といふことを、「一度ならず、二度、願った。」ことになる。
然るに、
(02)
①〔復得(兎)〕=〔もう一度、兎を手に入れること〕
②〔 得(兎)〕=〔 兎を手に入れること〕
である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 冀〔復得(兎)〕。
② 復冀〔 得(兎)〕。
といふ「漢文」は、
①〔もう一度、兎を手に入れること〕を「冀ふ」。
②〔兎を手に入れること〕を「もう一度、冀ふ」。
といふ「意味」である。
然るに、
(04)
① 冀復得兎=
① 冀〔復得(兎)〕⇒
① 〔復(兎)得〕冀=
① 復た兎を得んことを冀ふ。
(05)
② 復冀得兎=
② 復冀〔得(兎)〕⇒
② 復〔(兎)得〕冀=
② 復た兎を得んことを冀ふ。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 冀復得兎。
② 復冀得兎。
といふ「漢文」の「訓読」は、両方とも、
① 復た兎を得んことを冀ふ。
② 復た兎を得んことを冀ふ。
である。
従って、
(03)(06)により、
(07)
① 復た兎を得んことを冀ふ。
② 復た兎を得んことを冀ふ。
といふ「一つの訓読」に対して、
①〔もう一度、兎を手に入れること〕を「願ふ」。
②〔兎を手に入れること〕を「もう一度、願ふ」。
といふ、「二つの意味」が、対応する。
従って、
(08)
◆ 冀二復得一レ兎 この句は「復た兎を得んことを冀ふ」と読むが、いまかりに原文の「冀」と「復」とを入れかえて「復冀レ得レ兎」としても
読み方はかわらない。しかし意味内容のうえでは大きな違いがあるので注意を要する。「冀二復得一レ兎」の場合は「冀ふ」の内容が下の「復得レ兎」となる形であるから、「ふたたび兎を手に入れる」ということを「ねがう」の意で、まえにも兎を入れたが、さらにもう一度兎を手に入れ
たいと望むことになる。ところが「復冀レ得レ兎」の場合は「復」が「冀」の上にあるので、「復」が「冀」を修飾する形であり、「冀ふ」の内容は「得レ兎」だけになる。つまり「兎を手に入れること」を「もう一度ねがう」の意である(旺文社、漢文の基礎、1973年、36頁)。
といふ、ことになる。
(09)
【邪】同じく疑問を主として「乎」「与」に通じるが、〈かな〉という訓はない。「乎」のように単に問うのではなく、怪しみ疑う気持ちを強くこめて自問する場合に多く用いる。「耶」は「邪」と音義とも同じ(三省堂、新明解漢和辞典、第四版)。
従って、
(09)により、
(10)
③ 天下豈聞三死人可二復活一耶。
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かんや。
であれば、
③ 天下豈聞死人可復活。といふことは「怪しく、疑はしい」。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(11)
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かんや。
であれば、
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かん乎。
であるのか、
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かん与。
であるのか、
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かん耶。
であるのかが、「不明」である。
(12)
「也」と「矣」とは共に断定の終詞であるが、その用法にははっきりとした区別がある。「也」は断定をいっそう確言する口気を写すもので、国語では、「~は~である」と訳せばほぼ合致する。「也」の確言のしかたはこのように説明であり、平板である。しかるに「矣」は自ら信ずるところを特に強く表示したり、またこれを主張する必要がある場合の口気を写すものあり、その確言のしかたは直覚であり。感情的であり、強くかつ鋭い。国語では「~であることはいうまでもない「~にちがいない」といような気持ちを含めて訳せば、その意に近い。
(中澤希男・澁谷玲子、漢文訓読の基礎、昭和60年、86頁)
従って、
(12)により、
(13)
④ 慎レ終追レ遠、民徳帰厚矣。
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。
であれば、
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す(にちがいない)。
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す(ことはいうまでもない)。
といふ「意味」になる。
然るに、
(14)
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。
だけでは、
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す(にちがいない)。
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す(ことはいうまでもない)。
といふ「意味」なのか、さうでないのかが、分らない。
従って、
(07)(11)(14)により、
(15)
① 復た兎を得んことを冀ふ。
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かんや。
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。
といふ「書き下し文」は、
① 冀二復得一レ兎。
③ 天下豈聞三死人可二復活一耶。
④ 慎レ終追レ遠、民徳帰厚矣。
といふ「漢文」に及ばない。
従って、
(15)により、
(16)
① 復た兎を得んことを冀ふ。
③ 天下豈死人の復た活くべきを聞かんや。
④ 終はりを慎しみ遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。
といふ「書き下し文」だけを読んでゐても、
① 冀〔復得(兎)〕。
③ 天下豈聞〔死人可(復活)〕耶。
④ 慎(終)追(遠)、民徳帰厚矣。
といふ「漢文(の補足構造とニュアンス)」を、「理解」することは、出来ない。
(17)
① 男もす なり(伝聞)=男もするそうだ。
② 男もするなり(断定)=男もするのである。
である。
然るに、
(18)
①「なり(伝聞・推定)」
といふ「助動詞」は、「漢文訓読」では、用ゐない。
(19)
③ 春きたるらし=春が+来る+らしい。
④ 春きたるらし=春が+来て+ゐる+らしい。
である。
然るに、
(20)
③ 来たる=きたる(四段動詞・連体形・終止形)
に対して、
④ 来たる=き(カ変動詞・連用形)+たる(完了の助動詞・連体形)
といふ「形」は、「漢文訓読」では、用ゐない。
(21)
⑤ 三笠の山にいでし月かも。
⑥ 倭建命その刀を抜かして、
⑦ 聞かでただ寝なましものを。
に於いて、
⑤ し=「過去」の助動詞「き」の連体形。
⑥ し=「尊敬」の助動詞「す」の連用形。
⑦ し=「反実仮想」の助動詞「まし」の一部。
である。
然るに、
(22)
⑤「き(過去)」
⑥「す(尊敬)」
⑦「まし(反実仮想)」
といふ「助動詞」は、「漢文訓読」では、用ゐない。
従って、
(17)~(22)により、
(23)
例へば、
① 男もすなり(伝聞)。
② 男もするなり(断定)。
③ 春きたる(四段動詞)らし。
④ 春き(カ変動詞)たるらし。
⑤ 三笠の山にいでし(過去)月かも。
⑥ 倭建命その刀を抜かし(尊敬)て、
⑦ 聞かでただ寝なまし(反実仮想)ものを。
のやうな「識別(分析)」は、「漢文訓読」に於いては、「不要」であるし、更に言へば、
⑧ 名に(格助詞)し(副助詞・強意)負はばこと問はむ。
のやうな「識別(分析)」も、「漢文訓読」では、「問題」にはならない。
(24)
「中村菊一、基礎からわかる古典文法」によると「古文」で用ゐる「助動詞」は、
「ふ、ゆ、らゆ、る、らる、す、さす、しむ、ず、む、むず、じ、まし、まほし、り、き、けり、つ、ぬ、たり、けむ、たし、らむ、らし、めり、べし、まじ、なり、なり、たり、ごとし」による「31種類」である。
然るに、
(25)
その内、「漢文訓読」で用ゐる「助動詞」は、「二畳庵主人、漢文法基礎」によると、
「る、らる、しむ、ず、む、り、べし、なり、たり、ごとし」による「10種類」である。
加へて、
(26)
これも、「かなりむつかしい」所の、
「あそばす、います、いますがり、うけたまはる、おはします、おはす、おぼしめす、おぼす、おほせらる、おほとのごもる、おもほす、きこえさす、きこしめす、きこゆ、けいす、ごらんず、さぶらふ、しろしめす、そうす、たうぶ、たてまつる、たぶ、たまはす、たまはる、たまふ、つかうまつる、(のたまふ)、のたまはす、はべり、もうす、まうず、まかず、まかる、まします、まゐらす、まゐる、みそなす、めす」
のやうな「敬語」は、「漢文訓読」では用ゐない。
従って、
(23)~(26)により、
(27)
以上のやうな「事情」等により、「漢文訓読の文法」は、「古文の文法」より、「はるかに、簡単」である。
従って、
(28)
論語や孟子を読むことは、少なくとも「源氏物語」や「枕草子」を読むほどには、むつかしくない。更にもう一つ少なくともを加へれば、少なくとも漢文の文法は、いわゆる日本の「古文」の文法よりも簡単である(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、31頁)。
といふことは、「本当」であって、「実感」である。
従って、
(29)
それを「訓読」する限り、日本人にとっては、約2500年前のシナの「古文」の方が、約1000年前の日本の「古文」よりも、「はるかに、簡単」である。
従って、
(30)
信じられない話だが日本人は学校で漢文を勉強するらしい……中国人オタクの疑問(百元)
といふことは、別段、「信じられない話」ではない。
(31)
それよりも、
『源氏物語』や『蜻蛉日記』を本気で読もうとする、ものすごくたいへんなのです。私が受験した頃は、『源氏物語』がよく出たので、当時かなり熱心に読んだのですが、かなり苦労した記憶があります(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、53頁)。
とあるやうに、40年程前には、高校生に対して、「源氏物語の読解」を期待してゐた。といふことの方が、信じられない。
従って、
(32)
日本人にとっては、「論語や孟子や史記」の方が「源氏物語や枕草子や蜻蛉日記」よりも、簡単である。
従って、
(33)
日本語を学ばれてゐる、外国の方にとっても、「漢文」の方が、「古文」よりも、簡単である。
然るに、
(34)
私の後輩に、中国語をずいぶん熱心に勉強している女性がいます。彼女は中国語の検定試験にもチャレンジしている達人ですが、この『論語』の文章を一目みて、
「これも中国語ですか? 私には全く分かりません!」
と言いました。彼女ほどの人が、本当に「全く分からない」のだろうか、と私はちょっと驚いたのですが、現代中国語と古文(漢文)では、かなり違いがあるのは事実です。現代中国語だけしか習っておらず、 古文(漢文)を読んだ経験がなければ、「全く分からない」ということも、ありうるかもしれません(Webサイト:日本漢文へのいざない)。
従って、
(35)
中国語をずいぶん熱心に勉強してゐるからといって、「漢文」が読めるように、なるわけではない。
平成29年01月24日、毛利太。
2017年1月21日土曜日
「(漢文を含む)日本語」に於ける「主語」等の「省略」。
(01)
従って、
(01)により、
(02)
① 子は魚に非ず、 安んぞ魚の楽しみを知らん。
② 子は魚に非ず、子安んぞ魚の楽しみを知らん。
③ 故を以て、漢 追いて之に及ぶ。
④ 故を以て、漢項王を追いて之に及ぶ。
⑤ 秦西巴忍ずして之に 与ふ。
⑥ 秦西巴忍ずして之に其の麑を与ふ。
⑦ 人一たびして之を能くすれば、己之を百たび す。
⑧ 人一たびして之を能くすれば、己之を百たびして能くす。
⑨ 生馬すら且つ之を買はず。況や死せる者を や。
⑩ 生馬すら且つ之を買はず。況や死せる者を買はんや。
従って、
(02)により、
(03)
① あなたは魚ではない、 どうして魚の楽しみを知るのか。
② あなたは魚ではない、あなたはどうして魚の楽しみを知るのか。
③ こういうわけで漢軍が 追いかけて来て追いついた。
④ こういうわけで漢軍が項王を追いかけて来て追いついた。
⑤ 秦西巴はいたましさに耐えられず母鹿に 返してやった。
⑥ 秦西巴はいたましさに耐えられず母鹿に子鹿を返してやった。
⑦ 他人が一度で出来るなら、自分は百度くりかえ す。
⑧ 他人が一度で出来るなら、自分は百度くりかえして出来るようにする。
⑨ 生きてゐる馬すら買はなかったのだから、まして死んだ馬ならなおさら だ。
⑩ 生きてゐる馬すら買はなかったのだから、まして死んだ馬ならなおさら買はないはずだ。
従って、
(04)
① あなたは魚ではない、どうして魚の楽しみを知るのか(荘氏)。
③ こういうわけで漢軍が追いかけて来て追いついた(十八史略)。
⑤ 秦西巴はいたましさに耐えられず母鹿に返してやった(韓非子)。
⑦ 他人が一度でできるなら、自分は百度くりかえす(中庸)。
⑨ 生きてゐる馬すら買はなかったのだから、まして死んだ馬ならなおさらだ(十八史略・改)。
といふ「日本語訳」に於いて、それぞれ、
①(あなたは)
③(項王を)
⑤(子鹿を)
⑦(して出来るように)
⑩(買はないはず)
が、「省略」されてゐる。
然るに、
(05)
①(あなたは)
は、「主語」であるが、
③(項王を)
⑤(子鹿を)
⑦(して出来るように)
⑩(買はないはず)
は、「主語」ではない。
加へて、
(06)
⑪ はじめよりわれはと思ひ上がりたまへる御かたがた、めざましきものにおとしめそねみたまふ。同じほど、それより下﨟の更衣たちは、まして安からず(源氏物語、桐壷)。
⑪(宮仕えの)初めから、自分こそは(帝の御寵愛を得るだろう)と自負していらっしゃる女御がたは、(このかたを)しゃくにさわるものとして、さげすんだりねたんだりなさる(三省堂、明解古典学習シリーズ4 源氏物語 上、1973年、2頁)。
に於いて、
⑪(このかたを)
は、「主語」ではない。
従って、
(05)(06)により、
(07)
「日本語」に於いて「省略が可能」なのは、「主語」だけではない。
然るに、
(08)
よく言われることは『主語の省略』である。日本語では、主語の省略というのは不適当で、実は『主語なしの表現』をするのである。
(1) お暖かくなりましたね。
(2) ほんとうですね。
こんな場合われわれは何か省かれたとは感じない。こういう表現を目指しているのである。(1988)
服部四朗(1960)の立場はすでに第1章で引用したが、同じ本の中で次のようにも言っている。
「私は、日本語に関しては、『主語が省略される』などとは言はずに、『主語』のない(述語)文型を正式な文型として認めるべきであると考える」
(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、77頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
『主語』のない文型を正式な文型として認めるべきである。とすならば、『主語』以外がない文型も正式な文型として認めるべきである。
(10)
⑪ 寧悔不撃、不可悔不止=
⑪ 寧悔〔不(撃)〕、不{可[悔〔不(止)〕]}⇒
⑪ 寧〔(撃)不〕悔、{[〔(止)不〕悔]可}不=
⑪ 寧ろ〔(撃た)不るを〕悔ゆるも、{[〔(止め)不るを〕悔ゆる]可から}ず。
といふ「訓読」は、分りにくいし、
⑪ 敵を追撃しなかったことを悔いる方がよく、(敵に不覚を取り)追撃を止めなかったことを後悔してしてはならない(教学社、風呂で覚える漢文)。
といふ「訳文」も分りにくい。
(11)
⑪(敵に不覚を取り)
といふ
⑪(省略)
が、特に、分りにくい。
然るに、
(12)
⑫ 寧悔不追撃、不可悔不止追撃=
⑫ 寧悔〔不(追撃)〕、不〈可{悔[不〔止(追撃)〕]}〉=
⑫ 寧〔(追撃)不〕悔、〈{[〔(追撃)止〕不]悔}可〉不=
⑫ 寧ろ〔(追撃せ)不るを〕悔ゆるも、〈{[〔(追撃を)止め〕不るを]悔ゆる}可から〉ず=
⑫ 寧ろ、追撃しないことを後悔するよりも、追撃を止めないことを後悔してはならない。
然るに、
(13)
⑪ 不撃 =追撃をしない。
⑫ 不止撃=追撃を止めない=追撃を続ける。
従って、
(12)(13)により、
(14)
⑫ 寧悔不追撃、不可悔不止追撃=
⑫ 追撃をしないことを後悔するよりも、追撃を続けることを後悔してはならない=
⑫ 追撃をしないことを後悔すべきであって、追撃を続けることを後悔してはならない。
然るに、
(15)
⑫ 追撃をしないことを後悔すべきであって、追撃を続けることを後悔してはならない。
といふ「訳文」であれば、「十分」に、「意味」が通じる。
(16)
古文を勉強していると出会うことですが、書いてあるはずの主語がよくわからなくなって、意味がとれなくなる、ということがあります。だれとか、何が、ということを主語がわからなくなったら、大あわてです、そんな古文は投げ出したくなります。よく探すと主語が書かれている場合もあるけれども、多く、古文がよくわからなくなるのは、主語が書かれていないからです。
(藤井貞和、古文の読み方、1984年、8頁)。
(17)
受験科目としての「古文」と「漢文」を比較すれば、「古文」の方が、「一段と難しかった」といふ、「記憶」がある。
(18)
『源氏物語』や『蜻蛉日記』を本気で読もうとする、ものすごくたいへんなのです。私が受験した頃は、『源氏物語』がよく出たので、当時かなり熱心に読んだのですが、かなり苦労した記憶があります。
(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、53頁)
(19)
kawabata1104_0817さん2014/9/2922:50:58
漢文と古文どちらを先に勉強するほうがいいですか?高校生です
hiro34791997さん 2014/9/2922:56:31
今からならもちろん古文です! なぜなら漢文ほど短期間で上がる科目はないからです!
漢文は後回しで古文あげてからでいいですよ
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
「日本語」を勉強されてゐる、外国の方が「源氏物語や、枕草子」を読めるようになることは、「相当、難しい」ものの、その一方で、『(返り点等付いてゐる)論語や、史記』を読めるようになることは、「比較的、難しくはない」と、思はれる。
平成29年01月22日、毛利太。
従って、
(01)により、
(02)
① 子は魚に非ず、 安んぞ魚の楽しみを知らん。
② 子は魚に非ず、子安んぞ魚の楽しみを知らん。
③ 故を以て、漢 追いて之に及ぶ。
④ 故を以て、漢項王を追いて之に及ぶ。
⑤ 秦西巴忍ずして之に 与ふ。
⑥ 秦西巴忍ずして之に其の麑を与ふ。
⑦ 人一たびして之を能くすれば、己之を百たび す。
⑧ 人一たびして之を能くすれば、己之を百たびして能くす。
⑨ 生馬すら且つ之を買はず。況や死せる者を や。
⑩ 生馬すら且つ之を買はず。況や死せる者を買はんや。
従って、
(02)により、
(03)
① あなたは魚ではない、 どうして魚の楽しみを知るのか。
② あなたは魚ではない、あなたはどうして魚の楽しみを知るのか。
③ こういうわけで漢軍が 追いかけて来て追いついた。
④ こういうわけで漢軍が項王を追いかけて来て追いついた。
⑤ 秦西巴はいたましさに耐えられず母鹿に 返してやった。
⑥ 秦西巴はいたましさに耐えられず母鹿に子鹿を返してやった。
⑦ 他人が一度で出来るなら、自分は百度くりかえ す。
⑧ 他人が一度で出来るなら、自分は百度くりかえして出来るようにする。
⑨ 生きてゐる馬すら買はなかったのだから、まして死んだ馬ならなおさら だ。
⑩ 生きてゐる馬すら買はなかったのだから、まして死んだ馬ならなおさら買はないはずだ。
従って、
(04)
① あなたは魚ではない、どうして魚の楽しみを知るのか(荘氏)。
③ こういうわけで漢軍が追いかけて来て追いついた(十八史略)。
⑤ 秦西巴はいたましさに耐えられず母鹿に返してやった(韓非子)。
⑦ 他人が一度でできるなら、自分は百度くりかえす(中庸)。
⑨ 生きてゐる馬すら買はなかったのだから、まして死んだ馬ならなおさらだ(十八史略・改)。
といふ「日本語訳」に於いて、それぞれ、
①(あなたは)
③(項王を)
⑤(子鹿を)
⑦(して出来るように)
⑩(買はないはず)
が、「省略」されてゐる。
然るに、
(05)
①(あなたは)
は、「主語」であるが、
③(項王を)
⑤(子鹿を)
⑦(して出来るように)
⑩(買はないはず)
は、「主語」ではない。
加へて、
(06)
⑪ はじめよりわれはと思ひ上がりたまへる御かたがた、めざましきものにおとしめそねみたまふ。同じほど、それより下﨟の更衣たちは、まして安からず(源氏物語、桐壷)。
⑪(宮仕えの)初めから、自分こそは(帝の御寵愛を得るだろう)と自負していらっしゃる女御がたは、(このかたを)しゃくにさわるものとして、さげすんだりねたんだりなさる(三省堂、明解古典学習シリーズ4 源氏物語 上、1973年、2頁)。
に於いて、
⑪(このかたを)
は、「主語」ではない。
従って、
(05)(06)により、
(07)
「日本語」に於いて「省略が可能」なのは、「主語」だけではない。
然るに、
(08)
よく言われることは『主語の省略』である。日本語では、主語の省略というのは不適当で、実は『主語なしの表現』をするのである。
(1) お暖かくなりましたね。
(2) ほんとうですね。
こんな場合われわれは何か省かれたとは感じない。こういう表現を目指しているのである。(1988)
服部四朗(1960)の立場はすでに第1章で引用したが、同じ本の中で次のようにも言っている。
「私は、日本語に関しては、『主語が省略される』などとは言はずに、『主語』のない(述語)文型を正式な文型として認めるべきであると考える」
(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、77頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
『主語』のない文型を正式な文型として認めるべきである。とすならば、『主語』以外がない文型も正式な文型として認めるべきである。
(10)
⑪ 寧悔不撃、不可悔不止=
⑪ 寧悔〔不(撃)〕、不{可[悔〔不(止)〕]}⇒
⑪ 寧〔(撃)不〕悔、{[〔(止)不〕悔]可}不=
⑪ 寧ろ〔(撃た)不るを〕悔ゆるも、{[〔(止め)不るを〕悔ゆる]可から}ず。
といふ「訓読」は、分りにくいし、
⑪ 敵を追撃しなかったことを悔いる方がよく、(敵に不覚を取り)追撃を止めなかったことを後悔してしてはならない(教学社、風呂で覚える漢文)。
といふ「訳文」も分りにくい。
(11)
⑪(敵に不覚を取り)
といふ
⑪(省略)
が、特に、分りにくい。
然るに、
(12)
⑫ 寧悔不追撃、不可悔不止追撃=
⑫ 寧悔〔不(追撃)〕、不〈可{悔[不〔止(追撃)〕]}〉=
⑫ 寧〔(追撃)不〕悔、〈{[〔(追撃)止〕不]悔}可〉不=
⑫ 寧ろ〔(追撃せ)不るを〕悔ゆるも、〈{[〔(追撃を)止め〕不るを]悔ゆる}可から〉ず=
⑫ 寧ろ、追撃しないことを後悔するよりも、追撃を止めないことを後悔してはならない。
然るに、
(13)
⑪ 不撃 =追撃をしない。
⑫ 不止撃=追撃を止めない=追撃を続ける。
従って、
(12)(13)により、
(14)
⑫ 寧悔不追撃、不可悔不止追撃=
⑫ 追撃をしないことを後悔するよりも、追撃を続けることを後悔してはならない=
⑫ 追撃をしないことを後悔すべきであって、追撃を続けることを後悔してはならない。
然るに、
(15)
⑫ 追撃をしないことを後悔すべきであって、追撃を続けることを後悔してはならない。
といふ「訳文」であれば、「十分」に、「意味」が通じる。
(16)
古文を勉強していると出会うことですが、書いてあるはずの主語がよくわからなくなって、意味がとれなくなる、ということがあります。だれとか、何が、ということを主語がわからなくなったら、大あわてです、そんな古文は投げ出したくなります。よく探すと主語が書かれている場合もあるけれども、多く、古文がよくわからなくなるのは、主語が書かれていないからです。
(藤井貞和、古文の読み方、1984年、8頁)。
(17)
受験科目としての「古文」と「漢文」を比較すれば、「古文」の方が、「一段と難しかった」といふ、「記憶」がある。
(18)
『源氏物語』や『蜻蛉日記』を本気で読もうとする、ものすごくたいへんなのです。私が受験した頃は、『源氏物語』がよく出たので、当時かなり熱心に読んだのですが、かなり苦労した記憶があります。
(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、53頁)
(19)
kawabata1104_0817さん2014/9/2922:50:58
漢文と古文どちらを先に勉強するほうがいいですか?高校生です
hiro34791997さん 2014/9/2922:56:31
今からならもちろん古文です! なぜなら漢文ほど短期間で上がる科目はないからです!
漢文は後回しで古文あげてからでいいですよ
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
「日本語」を勉強されてゐる、外国の方が「源氏物語や、枕草子」を読めるようになることは、「相当、難しい」ものの、その一方で、『(返り点等付いてゐる)論語や、史記』を読めるようになることは、「比較的、難しくはない」と、思はれる。
平成29年01月22日、毛利太。
2017年1月18日水曜日
「(少なくとも)Aは」の「は」。
(01)
① AはDである=
① AはDである。
(02)
② AがDである=
② AはDであって(、A以外はDでない)。
(03)
③ AもDである=
③ AはDであって(、A以外もDである)。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① AはDである。
② AがDである。
③ AもDである。
に於いて、
①と② は、「矛盾」せず、
①と③ も、「矛盾」せず、
②と③ は、「矛盾」する。
例へば、
(05)
「忠臣蔵」、
② 私が日野家用人垣見五郎兵衛である。
③ 私も日野家用人垣見五郎兵衛である。
に於いて、
②と③ は、「矛盾」する。
従って、
(04)により、
(06)
{Aさん、Bさん、Cさん}
に於いて、
① AはDであるが(、A以外については、分らない)。
といふことを、言おうとする場合は、
① AがDである。
② AもDである。
とは、言はずに、
③ AはDである。
といふ風に、言ふことになる。
然るに、
(07)
① AはDであるが(、A以外については、分らない)。
といふことは、
①(少なくとも)AはDである。
といふことに、他ならない。
従って、
(08)
{Aさん、Bさん、Cさん}がゐるとして、
B「それはさうとして、一体誰が、猫の首に鈴を付けに行くのか。」
A「私は行きます。」
であれば、
A「(少なくとも)私は行きます。」
といふ、「意味」である。
(09)
A「それはさうとして、一体誰が、猫の首に鈴を付けに行くのか。」
B「私が行きます。」
であれば、
B「私が行く(ので、私以外は行かなくてもよい)。」
といふ、「意味」である。
(10)
A「Bの他に誰か、猫の首に鈴を付けに行かないのか。」
C「私も行きます。」
であれば、
C「私は行くし(、私以外も行く)。」
といふ、「意味」である。
(11)
仮に、私が「日本語の教師」であれば、
「それはさうとして、一体誰が、猫の首に鈴を付けに行くのか。」
に対する「答へ」としての、
① 私は行きます。
② 私が行きます。
③ 私も行きます。
④ あなたが行くべきだ。
といふ「日本語」を、最初に、教へたい。
(12)
仮に、私が「日本語の勉強を始めたばかりの外国人」であれば、
「それはさうとして、一体誰が、猫の首に鈴を付けに行くのか。」
に対する「答へ」としての、
① 私は行きます。
② 私が行きます。
③ 私も行きます。
④ あなたが行くべきだ。
といふ「日本語」の「意味」を、「日本人」に対して、質問したい。
因みに、
(13)
今年91才になる男性(毎日本ばかり読んでゐる日本語の大ベテラン)に確認したところ、
① 私は行きます=(少なくとも)私は行きます。
② 私が行きます=私が行く(ので、私以外は行かなくてもよい)。
③ 私も行きます=私は行くし(、私以外も行く)。
④ あなたが行くべきだ=(他の人ではなく、)あなたが行くべきだ。
であることについて、「そんなことは、当たり前である。」
との、ことである。
従って、
(14)
① 私は行きます=(少なくとも)私は行きます。
② 私が行きます=私が行く(ので、私以外は行かなくてもよい)。
③ 私も行きます=私は行くし(、私以外も行く)。
④ あなたが行くべきだ=(他の人ではなく、)あなたが行くべきだ。
といふ風に、答へられない「日本語教師」がゐるとするならば、そのやうな「彼・彼女」は、「日本語教師」としては、「失格」である。
平成29年01月18日、毛利太。
―「関連記事」―
象鼻文:{主題(題目)}は(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_17.html)。
① AはDである=
① AはDである。
(02)
② AがDである=
② AはDであって(、A以外はDでない)。
(03)
③ AもDである=
③ AはDであって(、A以外もDである)。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① AはDである。
② AがDである。
③ AもDである。
に於いて、
①と② は、「矛盾」せず、
①と③ も、「矛盾」せず、
②と③ は、「矛盾」する。
例へば、
(05)
「忠臣蔵」、
② 私が日野家用人垣見五郎兵衛である。
③ 私も日野家用人垣見五郎兵衛である。
に於いて、
②と③ は、「矛盾」する。
従って、
(04)により、
(06)
{Aさん、Bさん、Cさん}
に於いて、
① AはDであるが(、A以外については、分らない)。
といふことを、言おうとする場合は、
① AがDである。
② AもDである。
とは、言はずに、
③ AはDである。
といふ風に、言ふことになる。
然るに、
(07)
① AはDであるが(、A以外については、分らない)。
といふことは、
①(少なくとも)AはDである。
といふことに、他ならない。
従って、
(08)
{Aさん、Bさん、Cさん}がゐるとして、
B「それはさうとして、一体誰が、猫の首に鈴を付けに行くのか。」
A「私は行きます。」
であれば、
A「(少なくとも)私は行きます。」
といふ、「意味」である。
(09)
A「それはさうとして、一体誰が、猫の首に鈴を付けに行くのか。」
B「私が行きます。」
であれば、
B「私が行く(ので、私以外は行かなくてもよい)。」
といふ、「意味」である。
(10)
A「Bの他に誰か、猫の首に鈴を付けに行かないのか。」
C「私も行きます。」
であれば、
C「私は行くし(、私以外も行く)。」
といふ、「意味」である。
(11)
仮に、私が「日本語の教師」であれば、
「それはさうとして、一体誰が、猫の首に鈴を付けに行くのか。」
に対する「答へ」としての、
① 私は行きます。
② 私が行きます。
③ 私も行きます。
④ あなたが行くべきだ。
といふ「日本語」を、最初に、教へたい。
(12)
仮に、私が「日本語の勉強を始めたばかりの外国人」であれば、
「それはさうとして、一体誰が、猫の首に鈴を付けに行くのか。」
に対する「答へ」としての、
① 私は行きます。
② 私が行きます。
③ 私も行きます。
④ あなたが行くべきだ。
といふ「日本語」の「意味」を、「日本人」に対して、質問したい。
因みに、
(13)
今年91才になる男性(毎日本ばかり読んでゐる日本語の大ベテラン)に確認したところ、
① 私は行きます=(少なくとも)私は行きます。
② 私が行きます=私が行く(ので、私以外は行かなくてもよい)。
③ 私も行きます=私は行くし(、私以外も行く)。
④ あなたが行くべきだ=(他の人ではなく、)あなたが行くべきだ。
であることについて、「そんなことは、当たり前である。」
との、ことである。
従って、
(14)
① 私は行きます=(少なくとも)私は行きます。
② 私が行きます=私が行く(ので、私以外は行かなくてもよい)。
③ 私も行きます=私は行くし(、私以外も行く)。
④ あなたが行くべきだ=(他の人ではなく、)あなたが行くべきだ。
といふ風に、答へられない「日本語教師」がゐるとするならば、そのやうな「彼・彼女」は、「日本語教師」としては、「失格」である。
平成29年01月18日、毛利太。
―「関連記事」―
象鼻文:{主題(題目)}は(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_17.html)。
2017年1月17日火曜日
象鼻文:{主題(題目)}は。
―「01月06日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_6.html)」の、「(33)以下」を書き換へます。―
(33)
①{ゾウ、キリン}
といふ「集合」を「念頭」に置くならば、
① 鼻は ゾウ が長く(、首はキリンが長い)。
① 首はキリンが長く(、鼻は ゾウ が長い)。
従って、
(34)
①{ゾウ、キリン}
といふ「集合」が「念頭」に有る場合は、
① ゾウ以外(キリン)の鼻は長くない。ため、
① 鼻が長いのはゾウである。
① ゾウが鼻が長い。
① ゾウが鼻は長い。
cf.
① 鼻が長いのは「の」は、「形式名詞」であって、それ故、
① 鼻は長いのは=名詞+係助詞+連体形+名詞 は、不可である。
然るに、
(35)
①{ゾウ、キリン}
といふ「集合」ではなく、
②{ゾウ}
といふ「集合」を「念頭」に置くならば、
① ゾウが鼻が長い。
ではなく、
② ゾウは鼻が長い。
であるか、もしくは、
② ゾウは鼻は長い。
である。
従って、
(33)(35)により、
(36)
①{ゾウ、キリン}であるならば、「ゾウが鼻が長い。」であるか、
①{ゾウ、キリン}であるならば、「ゾウが鼻は長い。」である。
②{ゾウ} であるならば、「ゾウは鼻が長い。」であるか、
②{ゾウ} であるならば、「ゾウは鼻は長い。」である。
然るに、
(37)
②{ゾウ}&
③{ゾウの鼻、ゾウの目、ゾウの口、ゾウの耳、ゾウの頭、ゾウの首、ゾウの胴、ゾウの脚、ゾウの尾、ゾウの体}
といふ「集合」を「念頭」に置くならば、
③ 鼻以外(目、口、耳、頭、首、胴、脚、尾、体)は長くない。ため、
③ ゾウは鼻が長い。
である。
(38)
②{ゾウ}&
④{ゾウの鼻、ゾウの牙、ゾウの目、ゾウの口、ゾウの耳}
といふ「集合」を「念頭」に置くならば、
④ ゾウは鼻が長い。
であるか、もしくは、
④ ゾウは鼻が長く、牙も長い。
である。
(39)
②{ゾウ}&
④{ゾウの鼻、ゾウの牙、ゾウの目、ゾウの口、ゾウの耳}
といふ「集合」ではなく、
②{ゾウ}&
⑤{ゾウの鼻}
といふ「集合」を「念頭」に置くならば、
⑤ ゾウの鼻は長い。
であるか、もしくは、
⑤ ゾウは鼻は長い。
である。
従って、
(35)~(39)により、
(40)
① ゾウが鼻が長い。
③ ゾウは鼻が長い。
⑤ ゾウは鼻は長い。
といふ「日本語」に於いて、それぞれ、
①{ゾウ、キリン}&{ゾウの鼻、ゾウの目、ゾウの口、ゾウの耳、ゾウの頭、ゾウの首、ゾウの胴、ゾウの脚、ゾウの尾、ゾウの体}
③{ゾウ} &{ゾウの鼻、ゾウの目、ゾウの口、ゾウの耳、ゾウの頭、ゾウの首、ゾウの胴、ゾウの脚、ゾウの尾、ゾウの体}
⑤{ゾウ} &{ゾウの鼻}
といふ「集合」を、「念頭」に置いてゐる。
従って、
(40)により、
(41)
③ ゾウは鼻が長い。
といふ「日本語」は、
③{ゾウ}以外に関しては、何も言ってゐない。
従って、
(41)により、
(42)
③ ゾウは鼻が長い。
といふ「日本語」は、
③{ゾウ}だけを、取り上げて、
③{ゾウ}は鼻が長い。
といふ風に、述べてゐる。
然るに、
(43)
三上に敬意を表して「象鼻文」つまり「象は鼻が長い」を例に取ろう。ただし、例文としてはコンマで「象は」を文から切り離ししておく。
(72j)象は,鼻が長い。
二重主語どころか、この文は主語が一つもない。日本語にそもそも主語など不要なのだから当然である、「象は」は主題(題目)であり、「こんにちは」のように文が切れている。「象について話しますよ」と聞き手の注意を引いておき、それに続く話してのコメントが「鼻が長い」。これは単に、主格補語「鼻が」を伴った基本形容詞文「長い」にすぎない。
(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、131頁)
従って、
(42)(43)により、
(44)
③{ゾウ}だけを、取り上げて、
③{ゾウ}は鼻が長い。
といふ風に、述べてゐる際の、
③{ゾウ}を、
③「主題(題目)」と呼ぶのであれば、
③ ゾウは鼻が長い。
に於いて、
③ ゾウは が、
③ 主語は ではなく、
③ 主題は である。
としても、構はない。
然るに、
(45)
③ ゾウは鼻が長い。
③ ゾウは動物である。
等に於ける、
③ ゾウは を、
③ 主語は ではなく、
③ 主題は であると、認めたとしても、
④{ゾウ、新幹線、三角定規}
といふ「それ」を「念頭」に置いてゐる場合には、
⑤ 動物はゾウである。
⑤ ゾウが動物である。
といふ「日本語」は、「本当」になり、
⑤{ゾウ、キリン、ライオン}
といふ「集合」を「念頭」に置いてゐる場合には、
⑤ 動物はゾウである。
⑤ ゾウが動物である。
といふ「日本語」が、「ウソ」になるといふ「理由」を、説明することは、出来ない。
従って、
(46)
③ ゾウは鼻が長い。
③ ゾウは動物である
等於ける、
③ ゾウは が、
③ 主語は であるか、
③ 主題は であるか、
といふことは、「敢へて言へば、どうでも良い」と、思はれる。
(47)
そこでたとえば「象は鼻がない」というような表現は、象が主語なのか鼻が主語なのはっきりしないから、このままではその論理的構造が明示されていない、いわば非論理的な文章である、という人もある。しかしこの文の論理的構造をはっきり文章に表して
「すべてのxについて、もしそのxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、このyは長い」
といえばいいかもしれない。
(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、29頁)
然るに、
(48)
⑥(x)[象x⊃∃y(鼻y・有xy・長y)]
⑦ すべてのxについて、もしそのxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、このyは長い。
に於いて、
⑥=⑦ である。
然るに、
(49)
そこで私たちは主語をしめす変項x、yを文字どおり解釈して、「或るもの」(英語で表現するならばsomething)とか、「他の或るもの」といふ不定代名詞にあたるものを最も基本的な主語とする。そこで「ソクラテスは人間である」といいう一つの文は
(xはソクラテスである)(xは人間である)
という、もっとも基本的な主語―述語からなる二つの文の特定の組み合わせと考えることができる。すなわち
SはPである。
という一般的な主語―述語文は
Fx Gx
という二つの文によって構成されていると考える。そしてこの場合 Fx はもとの文の主語に対応し、 Gx は述語に対応していることがわかる。
(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、118・119頁)
従って、
(48)(49)により、
(50)
⑥(x)[象x⊃∃y(鼻y・有xy・長y)]
といふ「論理式」の中には、
⑥ 象x といふ「主語」と、
⑥ 鼻y といふ「主語」による、
⑥「二つの主語」がある。
然るに、
(51)
「東京は面積が広い」、「象は鼻が長い」、「花子は頭がいい」などの文を、大槻文彦は二重主語文であると言い、それに反対した草野清民は、「は」が付いたものを「総主」、「が」付いたものを「主語」と呼んだ。橋本進吉は文を2段に分け、例えばここに挙げた最初の文をこう分析した。「東京は」が「面積の広い」の主語であり、下位レベルでは「面積が」が「広い」の主語である、と(第2章)。
(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、129頁)
従って、
(47)(50)(51)により、
(53)
③ ゾウは鼻が長い。
⑥(x)[象x⊃∃y(鼻y・有xy・長y)]
⑦ すべてのxについて、もしそのxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、このyは長い。
といふ、「それ」は、「二重主語文」である。
然るに、
(54)
③ ゾウは鼻が長い(原文)。
③ The elephant has a long nose(グーグル翻訳).
③ 象は長い鼻を持っています(グーグル、再翻訳)。
従って、
(53)(54)により、
(55)
③ ゾウは鼻が長い。
③ The elephant has a long nose(グーグル翻訳).
⑥(x)[象x⊃∃y(鼻y・有xy・長y)]
に於いて、
③ The elephant has a long nose(グーグル翻訳).
といふ「英語」もまた、「述語論理」に「翻訳」する限り、「二重主語文」である。
平成29年01月17日、毛利太。
(33)
①{ゾウ、キリン}
といふ「集合」を「念頭」に置くならば、
① 鼻は ゾウ が長く(、首はキリンが長い)。
① 首はキリンが長く(、鼻は ゾウ が長い)。
従って、
(34)
①{ゾウ、キリン}
といふ「集合」が「念頭」に有る場合は、
① ゾウ以外(キリン)の鼻は長くない。ため、
① 鼻が長いのはゾウである。
① ゾウが鼻が長い。
① ゾウが鼻は長い。
cf.
① 鼻が長いのは「の」は、「形式名詞」であって、それ故、
① 鼻は長いのは=名詞+係助詞+連体形+名詞 は、不可である。
然るに、
(35)
①{ゾウ、キリン}
といふ「集合」ではなく、
②{ゾウ}
といふ「集合」を「念頭」に置くならば、
① ゾウが鼻が長い。
ではなく、
② ゾウは鼻が長い。
であるか、もしくは、
② ゾウは鼻は長い。
である。
従って、
(33)(35)により、
(36)
①{ゾウ、キリン}であるならば、「ゾウが鼻が長い。」であるか、
①{ゾウ、キリン}であるならば、「ゾウが鼻は長い。」である。
②{ゾウ} であるならば、「ゾウは鼻が長い。」であるか、
②{ゾウ} であるならば、「ゾウは鼻は長い。」である。
然るに、
(37)
②{ゾウ}&
③{ゾウの鼻、ゾウの目、ゾウの口、ゾウの耳、ゾウの頭、ゾウの首、ゾウの胴、ゾウの脚、ゾウの尾、ゾウの体}
といふ「集合」を「念頭」に置くならば、
③ 鼻以外(目、口、耳、頭、首、胴、脚、尾、体)は長くない。ため、
③ ゾウは鼻が長い。
である。
(38)
②{ゾウ}&
④{ゾウの鼻、ゾウの牙、ゾウの目、ゾウの口、ゾウの耳}
といふ「集合」を「念頭」に置くならば、
④ ゾウは鼻が長い。
であるか、もしくは、
④ ゾウは鼻が長く、牙も長い。
である。
(39)
②{ゾウ}&
④{ゾウの鼻、ゾウの牙、ゾウの目、ゾウの口、ゾウの耳}
といふ「集合」ではなく、
②{ゾウ}&
⑤{ゾウの鼻}
といふ「集合」を「念頭」に置くならば、
⑤ ゾウの鼻は長い。
であるか、もしくは、
⑤ ゾウは鼻は長い。
である。
従って、
(35)~(39)により、
(40)
① ゾウが鼻が長い。
③ ゾウは鼻が長い。
⑤ ゾウは鼻は長い。
といふ「日本語」に於いて、それぞれ、
①{ゾウ、キリン}&{ゾウの鼻、ゾウの目、ゾウの口、ゾウの耳、ゾウの頭、ゾウの首、ゾウの胴、ゾウの脚、ゾウの尾、ゾウの体}
③{ゾウ} &{ゾウの鼻、ゾウの目、ゾウの口、ゾウの耳、ゾウの頭、ゾウの首、ゾウの胴、ゾウの脚、ゾウの尾、ゾウの体}
⑤{ゾウ} &{ゾウの鼻}
といふ「集合」を、「念頭」に置いてゐる。
従って、
(40)により、
(41)
③ ゾウは鼻が長い。
といふ「日本語」は、
③{ゾウ}以外に関しては、何も言ってゐない。
従って、
(41)により、
(42)
③ ゾウは鼻が長い。
といふ「日本語」は、
③{ゾウ}だけを、取り上げて、
③{ゾウ}は鼻が長い。
といふ風に、述べてゐる。
然るに、
(43)
三上に敬意を表して「象鼻文」つまり「象は鼻が長い」を例に取ろう。ただし、例文としてはコンマで「象は」を文から切り離ししておく。
(72j)象は,鼻が長い。
二重主語どころか、この文は主語が一つもない。日本語にそもそも主語など不要なのだから当然である、「象は」は主題(題目)であり、「こんにちは」のように文が切れている。「象について話しますよ」と聞き手の注意を引いておき、それに続く話してのコメントが「鼻が長い」。これは単に、主格補語「鼻が」を伴った基本形容詞文「長い」にすぎない。
(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、131頁)
従って、
(42)(43)により、
(44)
③{ゾウ}だけを、取り上げて、
③{ゾウ}は鼻が長い。
といふ風に、述べてゐる際の、
③{ゾウ}を、
③「主題(題目)」と呼ぶのであれば、
③ ゾウは鼻が長い。
に於いて、
③ ゾウは が、
③ 主語は ではなく、
③ 主題は である。
としても、構はない。
然るに、
(45)
③ ゾウは鼻が長い。
③ ゾウは動物である。
等に於ける、
③ ゾウは を、
③ 主語は ではなく、
③ 主題は であると、認めたとしても、
④{ゾウ、新幹線、三角定規}
といふ「それ」を「念頭」に置いてゐる場合には、
⑤ 動物はゾウである。
⑤ ゾウが動物である。
といふ「日本語」は、「本当」になり、
⑤{ゾウ、キリン、ライオン}
といふ「集合」を「念頭」に置いてゐる場合には、
⑤ 動物はゾウである。
⑤ ゾウが動物である。
といふ「日本語」が、「ウソ」になるといふ「理由」を、説明することは、出来ない。
従って、
(46)
③ ゾウは鼻が長い。
③ ゾウは動物である
等於ける、
③ ゾウは が、
③ 主語は であるか、
③ 主題は であるか、
といふことは、「敢へて言へば、どうでも良い」と、思はれる。
(47)
そこでたとえば「象は鼻がない」というような表現は、象が主語なのか鼻が主語なのはっきりしないから、このままではその論理的構造が明示されていない、いわば非論理的な文章である、という人もある。しかしこの文の論理的構造をはっきり文章に表して
「すべてのxについて、もしそのxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、このyは長い」
といえばいいかもしれない。
(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、29頁)
然るに、
(48)
⑥(x)[象x⊃∃y(鼻y・有xy・長y)]
⑦ すべてのxについて、もしそのxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、このyは長い。
に於いて、
⑥=⑦ である。
然るに、
(49)
そこで私たちは主語をしめす変項x、yを文字どおり解釈して、「或るもの」(英語で表現するならばsomething)とか、「他の或るもの」といふ不定代名詞にあたるものを最も基本的な主語とする。そこで「ソクラテスは人間である」といいう一つの文は
(xはソクラテスである)(xは人間である)
という、もっとも基本的な主語―述語からなる二つの文の特定の組み合わせと考えることができる。すなわち
SはPである。
という一般的な主語―述語文は
Fx Gx
という二つの文によって構成されていると考える。そしてこの場合 Fx はもとの文の主語に対応し、 Gx は述語に対応していることがわかる。
(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、118・119頁)
従って、
(48)(49)により、
(50)
⑥(x)[象x⊃∃y(鼻y・有xy・長y)]
といふ「論理式」の中には、
⑥ 象x といふ「主語」と、
⑥ 鼻y といふ「主語」による、
⑥「二つの主語」がある。
然るに、
(51)
「東京は面積が広い」、「象は鼻が長い」、「花子は頭がいい」などの文を、大槻文彦は二重主語文であると言い、それに反対した草野清民は、「は」が付いたものを「総主」、「が」付いたものを「主語」と呼んだ。橋本進吉は文を2段に分け、例えばここに挙げた最初の文をこう分析した。「東京は」が「面積の広い」の主語であり、下位レベルでは「面積が」が「広い」の主語である、と(第2章)。
(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、129頁)
従って、
(47)(50)(51)により、
(53)
③ ゾウは鼻が長い。
⑥(x)[象x⊃∃y(鼻y・有xy・長y)]
⑦ すべてのxについて、もしそのxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、このyは長い。
といふ、「それ」は、「二重主語文」である。
然るに、
(54)
③ ゾウは鼻が長い(原文)。
③ The elephant has a long nose(グーグル翻訳).
③ 象は長い鼻を持っています(グーグル、再翻訳)。
従って、
(53)(54)により、
(55)
③ ゾウは鼻が長い。
③ The elephant has a long nose(グーグル翻訳).
⑥(x)[象x⊃∃y(鼻y・有xy・長y)]
に於いて、
③ The elephant has a long nose(グーグル翻訳).
といふ「英語」もまた、「述語論理」に「翻訳」する限り、「二重主語文」である。
平成29年01月17日、毛利太。
2017年1月15日日曜日
天才たちが(の)
―「01月06日の記事(http://kannbunn.blogspot.com/2017/01/blog-post_6.html)」の補足です。―
(79)
従って、
(80)
① 博士が愛した数式
② 博士の愛した数式
③ 天才たちが愛した数式
④ 天才たちの愛した数式
に於いて、
①~④ は全て、「日本語」として「正しい」。
(81)
⑤ E=mc2 。これが、アインシュタインが愛した数式である。
⑥ E=mc2 。これは、アインシュタインの愛した数式である。
に於いて、
⑤と⑥ は二つとも、「日本語」として「正しい」。
然るに、
(82)
⑦ E=mc2 。(他ならぬ)これが、(あの)アインシュタインが愛した数式である。
⑧ E=mc2 。(他ならぬ)これは、(あの)アインシュタインの愛した数式である。
に於いて、
⑦ ではあるが、
⑧ ではない。
従って、
(82)により、
(83)
⑦ 「他ならぬ・あの」に「呼応」するのは、「_が」であって、
⑧ 「他ならぬ・あの」に「呼応」するのは、「_は」ではない。
(84)
のび太「でもさあ、どうしてあのパイロットだけ年をとらないの?」
スネ夫「物体の運動が光の速さに近づくほど、時間のたち方はおそくなるんだ。相対性理論ていうんだ」
きょとんとするのび太。
スネ夫「つまりだな、ロケットの中ではゆっくり時間が流れるんだ」
のび太「うそだあ・・・・・・」
スネ夫「うたぐり深いやつだなあ。アインシュタインというえらい学者がそういっているんだよ」
(『竜宮城の八日間』小学館てんとう虫コミック27巻所収)
(「天才たちが愛した美しい数式 単行本 – 2007/12/18 桜井 進 (著), 中村 義作 (監修)、119頁」)
然るに、
(84)により、
(85)
スネ夫が言ふ、
⑨ アインシュタインというえらい学者がそういっているんだよ。
といふ「日本語」は、
⑨ (スネ夫自身ではなく、他ならぬ)アインシュタインというえらい学者がそういっているんだよ。
といふ、「意味」である。
然るに、
(86)
⑨ (他ならぬ)アインシュタインというえらい学者がそういっているんだよ。
⑩ (他ならぬ)アインシュタインというえらい学者はそういっているんだよ。
に於いて、
⑨ は、「日本語」として「正しく」、
⑩ は、「日本語」として「正しく」ない。
(87)
⑪ A君がさう言ってゐるのであれば、ボクは信じます。
といふ「言ひ方」は、「仮言命題」である。
然るに、
(88)
⑪ A君がさう言ってゐるのであれば、ボクは信じます。
に対して、
⑫ A君はさう言ってゐるのであれば、ボクは信じます。
といふ「日本語」は、無い。
然るに、
(89)
⑪ A君がさう言ってゐるのであれば、ボクは信じます。
といふ「日本語」は、
⑪ (他ならぬ)A君がさう言ってゐるのであれば、ボクは信じます。
といふ、「意味」である。
平成29年01月15日、毛利太。
(79)
従って、
(80)
① 博士が愛した数式
② 博士の愛した数式
③ 天才たちが愛した数式
④ 天才たちの愛した数式
に於いて、
①~④ は全て、「日本語」として「正しい」。
(81)
⑤ E=mc2 。これが、アインシュタインが愛した数式である。
⑥ E=mc2 。これは、アインシュタインの愛した数式である。
に於いて、
⑤と⑥ は二つとも、「日本語」として「正しい」。
然るに、
(82)
⑦ E=mc2 。(他ならぬ)これが、(あの)アインシュタインが愛した数式である。
⑧ E=mc2 。(他ならぬ)これは、(あの)アインシュタインの愛した数式である。
に於いて、
⑦ ではあるが、
⑧ ではない。
従って、
(82)により、
(83)
⑦ 「他ならぬ・あの」に「呼応」するのは、「_が」であって、
⑧ 「他ならぬ・あの」に「呼応」するのは、「_は」ではない。
(84)
のび太「でもさあ、どうしてあのパイロットだけ年をとらないの?」
スネ夫「物体の運動が光の速さに近づくほど、時間のたち方はおそくなるんだ。相対性理論ていうんだ」
きょとんとするのび太。
スネ夫「つまりだな、ロケットの中ではゆっくり時間が流れるんだ」
のび太「うそだあ・・・・・・」
スネ夫「うたぐり深いやつだなあ。アインシュタインというえらい学者がそういっているんだよ」
(『竜宮城の八日間』小学館てんとう虫コミック27巻所収)
(「天才たちが愛した美しい数式 単行本 – 2007/12/18 桜井 進 (著), 中村 義作 (監修)、119頁」)
然るに、
(84)により、
(85)
スネ夫が言ふ、
⑨ アインシュタインというえらい学者がそういっているんだよ。
といふ「日本語」は、
⑨ (スネ夫自身ではなく、他ならぬ)アインシュタインというえらい学者がそういっているんだよ。
といふ、「意味」である。
然るに、
(86)
⑨ (他ならぬ)アインシュタインというえらい学者がそういっているんだよ。
⑩ (他ならぬ)アインシュタインというえらい学者はそういっているんだよ。
に於いて、
⑨ は、「日本語」として「正しく」、
⑩ は、「日本語」として「正しく」ない。
(87)
⑪ A君がさう言ってゐるのであれば、ボクは信じます。
といふ「言ひ方」は、「仮言命題」である。
然るに、
(88)
⑪ A君がさう言ってゐるのであれば、ボクは信じます。
に対して、
⑫ A君はさう言ってゐるのであれば、ボクは信じます。
といふ「日本語」は、無い。
然るに、
(89)
⑪ A君がさう言ってゐるのであれば、ボクは信じます。
といふ「日本語」は、
⑪ (他ならぬ)A君がさう言ってゐるのであれば、ボクは信じます。
といふ、「意味」である。
平成29年01月15日、毛利太。
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