(01)
「ラテン語のbe動詞」は、
① sum(私は、 ・・・である)。
② es(汝は、 ・・・である)。
③ est(彼は、 ・・・である)。
④ sumus(我らは、・・・である)。
⑤ estis(汝らは、・・・である)。
⑥ sunt(彼らは、・・・である)。
従って、
(01)により、
(02)
① sum 理事長(私は、 理事長である)。
② es 理事長(汝は、 理事長である)。
③ est 理事長(彼は、 理事長である)。
④ sumus 理事長(我らは、 理事長である)。
⑤ estis 理事長(汝らは、 理事長である)。
⑥ sunt 理事長(彼らは、 理事長である)。
然るに、
(03)
人称代名詞が主語としてつかわれることは、意を強める場合か、対照的の場合ほかはないといっていい。
これは普通主語は動詞の語尾で表せていて、すぐわかるからである。
Ego te laudo,tu me non laudas.
ここで ego(私が)といい、tu(お前が)というのは、特に「自分だ、と誉めるのは自分だ」と強調したからであり、また、一方 ego 一方 tu と対象させたからである。
(村松正俊、ラテン語四週間、1951年、182頁)
従って、
(02)(03)により、
(04)
① Sum(一人称・単数) 理事長。
と言はずに、わざわざ、
② Ego(一人称・単数) sum(一人称・単数) 理事長。
といふのであれば、
② 主語(一人称・単数)
が、「強調」され、その「結果」として、
② 私は理事長であり、私以外は理事長ではない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(05)
私が理事長です(理事長は私です)。
のように、ガの文はハを内蔵していることがあるから、その説明が必要である。
このような「私が」を強制的になっていると言うことにする。そこには発音上のストレスを与えたのと似た効果をもっているからである。
(三上章、日本語の論理、1963年、105頁)
然るに、
(06)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① 私は(清音)
よりも、
② 私が(濁音)
の方が、「心理的な音量」が「大きい」。
といふ「意味」に於いて、
① 私は(清音)
に対する、
② 私が(濁音)
は、「強調形」である。
従って、
(04)~(07)により、
(08)
① 私は(清音)理事長です。
と言はずに、敢へて、
② 私が(濁音)理事長です。
と言ふのであれば、その場合は、
② 私は理事長であり、私以外は理事長ではない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(09)
②「私」は、「私」だけであって、
②「私」以外に、「私」はゐない。
従って、
(09)により、
(10)
③ 理事長は私です。
といふのあれば、
② 私以外に理事長はゐない。
然るに、
(11)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。 と直して初めて主辞賓辞が適用されるのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念会は、私が理事長です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念会」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
従って、
(10)(11)により、
(12)
① 私が理事長です。
② 私以外に理事長はゐない。
③ 理事長は私です。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(13)
1 (1)∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]} A
1 (2) T会の会員a→∃y[私y&理事長ya&∀z(理事長za→y=z)] 1UE
3 (3) T会の会員a A
13 (4) ∃y[私y&理事長ya&∀z(理事長za→y=z)] 23MPP
5 (5) 私b&理事長ba&∀z(理事長za→b=z) A
5 (6) 私b&理事長ba 5&E
5 (7) ∀z(理事長za→b=z) 5&E
5 (8) 理事長ca→b=c 7UE
9 (9) ∃z(小倉z&~私z) A
ア (ア) 小倉c&~私c A
ア (イ) 小倉c ア&E
ア (ウ) ~私c ア&E
エ(エ) b=c A
アエ(オ) ~私b ウエ=E
5 (カ) 私b 6&E
5 アエ(キ) ~私b&私b オカ&I
5 ア (ク) b≠c エキRAA
5 ア (ケ) ~理事長ca 8クMTT
5 ア (コ) 小倉c&~理事長ca イケ&I
5 ア (サ) ∃z(小倉z&~理事長za) コEI
59 (シ) ∃z(小倉z&~理事長za) 9アサEE
13 9 (ス) ∃z(小倉z&~理事長za) 45シEE
1 9 (セ) T会の会員a→∃z(小倉z&~理事長za) 3スCP
1 9 (ソ)∀x{T会の会員x→∃z(小倉z&~理事長zx)} セUI
従って、
(13)により、
(14)
(ⅰ)∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}。然るに、
(ⅱ)∃z(小倉z&~私z)。従って、
(ⅲ)∀x{T会の会員x→∃z(小倉z&~理事長zx)}。
といふ「推論」、すなはち、
(ⅰ)すべてのxについて{xがタゴール記念会の会員であるならば、あるyは[私であって、理事長であって、すべてのzについて(zがxの理事長であるならば、y=zである)]}。然るに、
(ⅱ)あるzは(小倉であって、私ではない)。従って、
(ⅲ)すべてのxについて{xがタゴール記念会の会員であるならば、あるzは(小倉であって、小倉はxの理事長ではない)}。
といふ「推論」、すなはち、
(ⅰ)タゴール記念会は、私が理事長です。然るに、
(ⅱ)小倉氏は私ではない。従って、
(ⅲ)タゴール記念会は、小倉氏は理事長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」である。
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
① タゴール記念会は、私が理事長です。
② タゴール記念会は、私以外に理事長はゐない。
③ タゴール記念会は、理事長は私です。
④ ∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}。
に於いて、
①=②=③=④ である。
然るに、
(16)
① 象は動物である。
② 象といふ「集合」は、「動物」といふ「集合の(真)部分集合」である。
③ ∀x(象x→動物x)。
に於いて、
①=②=③ であって、尚且つ、
①「象は」は、「動物である」といふ「述語」の「主語」である。
然るに、
(17)
① タゴール記念会は、私が理事長です。
④ ∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}。
に於いて、
④ タゴール記念会の会員 といふ「集合」は、「私が理事長です」といふ「集合(?)の部分集合」である。
といふわけではない。
然るに、
(16)(17)により、
(18)
③ ∀x(象x→
④ ∀x{T会の会員x→
は、両方とも、
③ ∀x(Fx→
④ ∀x(Fx→
といふ「形」、
③ すべてのxについて、xがFならば、
④ すべてのxについて、xがFならば、
といふ「形」をしてゐる。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
③ ∀x(Fx→
④ ∀x(Fx→
といふ「意味」である所の、
③ Fは
④ Fは
は、「主語」である。
とするならば、
③ 象は
④ タゴール記念会は
は、両方とも、「主語」である。
因みに、
(20)
「Bing AI」に「質問」をしたところ、
「象は鼻が長い」の「主語」は、「象」であり、
「象は鼻が長い」の「述語」は、「鼻が長い」であり、
三上文法では、日本語の主語は「主格が或る特別なはたらきをする国語において、その主格に認められる資格」とされています。しかし、三上のような「主語」概念とは異なる、認識論的(或いは存在論的)な「主語」了解の仕方もあり得て、そうした「主語」了解に立てば、日本語にも主語はあるということになります1。
一般的な日本語の主語と三上文法の主格が異なる点は、三上文法では、主格が或る特別なはたらきをする国語において、その主格に認められる資格を持つものが「主語」とされている点です1。
との、ことである。
然るに、
(21)
「ラテン語」等でいふ、
「主格」といふのは、「文の中の、その名詞・形容詞が、述語に対する、主語であることを」を示すための「語形」であるため、
「主格が或る特別なはたらきをする国語において、」といふのであれば、
「日本語」では、「主語を示すための語形」が「或る特別なはたらきをする」といふことなる(?!?!?)。
然るに、
(22)
漢文におけるこのような表現のしかたは、単語の間の関係を文法的な形式によって示すことを重んじている(ラテン語のような)西欧の言語になれている人にとっては、まことに奇妙なことに思われるものと考えられる。カールグレン氏は、その著書《中国の言語》において、このような奇妙な孤立的な漢語の文法は、「非常に貧弱なものであり」、「漢語においては、文法的な分析は、あまり役に立たず、実際に役立つのは、広い読書を通じて習得した経験、つまり、中国人がどのようにして文をつくりあげているかということに対する感覚が、唯一のものである」と説き、更に、漢文の文の意味を理解するためには、「豊富な直観が、必要である」とも述べている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、293頁改)。
従って、
(22)により、
(23)
例へば、「漢文」の場合は、「主語」は有ったとしても、「主格(といふ語形)」は、無いことなるし、そのため、
けだし、「主格」の無い「言語」は有り得ても、「主語」の無い「言語」は、有り得ないはずである。
(24)
「ラテン語やギリシャ語の文法でいう、主格や属格というのは、語形のことですか。」
といふ風に、「Bing AI」に「質問」をしたところ、
「はい、主格や属格というのは、名詞や代名詞などの語形のことを指します。」
とのことである。
令和5年6月5日、毛利太。
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