2025年12月15日月曜日

「(久々に、)漢文訓読と括弧」について(其の二)。

        ―「昨日(12月14日)記事」を書き直します。―
(01)
京都大学の入試で漢文は出題されますか?
京都大学の入試では、漢文が単独で出題されることはありません。 文系では古文との融合問題として数年に一度出題される程度で、理系においては2011年以降、漢文を含む問題は出題されていません。 そのため、京大志望の受験生にとって漢文は大きな負担ではありませんが、最低限の対策は必要です。2024/12/19(駿台予備学校)。
(02)
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)。
然るに、
(03)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
然るに、
(04)
しかし、倉石の鋭さは、なによりもまず先にも触れた「漢文訓読塩鮭論」に余すところなく現われていると言える。それはすなわち次のような一節である。
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍国書であり、漢文国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
(ⅰ)「京都大学」は、
(ⅱ)「伝統的」に、
(ⅲ)「漢文訓読」といふ「方法」を、
(ⅳ)「良し」とせず、そのため、
(ⅴ)「京都大学の入試」に於いては、
(ⅵ)「数年に一度出題される程度で漢文が単独で出題されることはありません。」
という、ことになる。
然るに、
(06)
① 我非不必求以解中文法解漢文者也。⇔
② 我非〈不{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。⇒
③ 我〈{必[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也。⇒
④ 我は〈{必ずしも[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。⇒
⑤ 私は、必ずしも中国語を理解する方法を用いて、漢文を理解しようとしない者ではないのである。⇒
⑥ 私は、時には、中国語を理解する方法を用いて、漢文を理解しようとする者なのだ。cf.
⑦ I am not necessarily someone who would not try to understand Chinese using methods to understand English(グーグル翻訳).
従って、
(06)により、
(07)
② 我非〈不{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
② 非〈 〉⇒〈 〉非
② 不{ }⇒{ }不
② 求[ ]⇒[ ]求
② 以〔 〕⇒〔 〕以
② 解( )⇒( )解
② 解( )⇒( )解
といふ「(左から右への移動」を行ふと、
③ 我〈{必[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也。
といふ「語順」となって、
③ 我〈{必[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也。
という「語順」に対して、「平仮名を補ふ」と、
④ 我は〈{必ずしも[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
といふ「漢文訓読」が、「完成」する。
然るに、
(08)
④ 我は〈{必ずしも[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
といふ「漢文訓読」から、「平仮名を除く」と、
③ 我〈{必[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也。
といふ「語順」となって、
③ 我〈{必[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也。
に対して、
② 〈 〉非⇒非〈 〉
② { }不⇒不{ }
② [ ]求⇒求[ ]
② 〔 〕以⇒以〔 〕
② ( )解⇒解( )
② ( )解⇒解( )
といふ「(逆く向きの移動」を行ふと、
② 我非〈不{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文語順」となる。
然るに、
(09)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんのことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
然るに、
(10)
戦前は「右横書き」が主流でしたが、それは縦書きの延長線上にあり、決して左横書きがなかったわけではありません。戦後の合理化と国際化の流れの中で「左横書き」が標準化され、現在に至ります(生成AI)。
従って、
(09)(10)により、
(11)
管到というのは、「戦後の横書き」であれば、「左の語が、右のことばのどこまでかかるか」といふことである。
従って、
(07)(08)(11)により、
(12)
② 我非〈不{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
というふ「漢文」を、
④ 我は〈{必ずしも[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
といふ「語順」で読んだとしても、
② 我非〈不{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
③ 我〈{必[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也。
に於ける、
②〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
③〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
といふ「管到補足構造)」は、「不変」である。
然るに、
(13)
京都大学に於いて、その中国文化の研究について、大きな基礎を作られた狩野直喜氏(一八六六~一九四七)は、その教えを受けた倉石武四郎(一八九七~」に、かつて「自分たちが訓読するのは、そういう習慣になっていたから、いちおう訓読するだけで、実は、原文を直読しているのである」と語られたという(鈴木直治、中国語漢文、1975年、385頁)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
訓読するのは、そういう習慣になっていたから、いちおう訓読するだけで、実は、原文を直読しているのである」といふのであれば、その場合は、
「狩野直喜氏(一八六六~一九四七)」のやうな先生は、例へば、
① 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極(大學傳五章)。
といふ「漢文」の、
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「管到補足構造)」を、「目で見て、把握して」、その上で、
③ 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふに「訓読」をしてゐたといふ風に、思はれる。
然るに、
(15)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)。
従って、
(14)(15)により、
(16)
例へば、
① 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、「現代中国音(北京語?)」で読めたとしても、
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「管到補足構造)」を「把握出来ないとしたら、
③ 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ「意味」を「理解」することは、「不可能」である。
といふ、ことになるし、更に言へば、
(17)
漢文は古代中国の文語(書き言葉)で、現代中国語(白話文)とは文法や語彙が大きく異なりますが、現代中国語の多くの単語は日本で漢文知識を基に作られ、中国に逆輸入されて成立したという歴史的つながりがあります。現代中国語は話し言葉がベースの口語文(普通話など)で、「漢文」は現代では「文言文(文言)」と呼ばれ、漢文とは異なる文体系です(生成AI)し、加へて、
(18)
① 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を「音読」したいのであれば、
① ゼ イ ダイ ガク シ キョウ ヒツ シ ガク シャ ソク ハン テン カ シ ブツ バク フツ イン キイ チ シ リ ジ エキ キョク シ イ キュウ シ コ キ キョク。
といふ風に、「日本漢字音」でも、「可能」である。
従って、
(02)(17)(18)により、
(19)
京都大学文学部」は、
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)。
といふ風に、述べつつ、「入試に於いて、漢文出題しない」ものの、「そのことが、理に適ってゐる」といふ風には、私には思へない

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