(01)
訓読の際に下から必ず返って読む特別の文字がある。これを「返読文字」という。
・・・・・
易 やすし 易欺。 欺き易し。 だましやすい。
難 かたし。難登。 登り難し。 登ることがむずかしい。
・・・・・
(鳥羽田重直、漢文の基礎、1985年、22頁)。
従って、
(02)
易入難出=入り易く、出で難し。
然るに、
(03)
確認ドリル
・・・・・
(8) 入るは易く出づるは難し。 (8)入易出難。
・・・・・
(吹野安、基礎漢文問題精講、1995年、21頁)。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 易入難出=入り易く、出で難し。
② 入易出難=入るは易く、出づるは難し。
従って、
(04)により、
(05)
① 易入難出 ⇒ 易・難 は、「返読文字」である。
② 入易出難 ⇒ 易・難 は、「返読文字」ではない。
然るに、
(06)
to enter is easy.
to exit is hard.
を、Yahoo!で、「翻訳」すると、
入ることは簡単です。
出ることは難しいです。
従って、
(05)(06)により、
(07)
② 入易出難 ⇒ 易・難 は、「返読文字」ではない。
に於いて、
入 = to enter.
出 = to exit.
である。といふ、ことになる。
然るに、
(08)
動詞や形容詞が、そのままの形で、一種の抽象名詞のようにも用いられることは、現代漢語においても、その通常の用法であって、動詞・形容詞の「名物化」・「事物化」などと呼ばれている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、 289頁)。
(09)
不定詞にはtoのない動詞の原形だけのものもあり、これを原形不定詞(toなし不定詞)という(文英堂、シグマ総合英語、1998年、141頁)。
従って、
(05)~(09)により、
(10)
② 入易出難 ⇒ 易・難 は、「返読文字」ではない。
に於いて、
入 出 は、
動詞の「名物化」・「事物化」であって、「英語」で言へば、「原形不定詞(toなし不定詞)」である。
といふ、ことになる。
従って、
(10)により、
(11)
① 少年易(老)⇒
① 少年(老)易=
① 少年老い易し(朱子)。
に対して、
② 破(山中賊)易⇒
② (山中賊)破易=
② 山中賊は破り易し(王陽明)。
の、
② 破山中賊=山中の賊を破る
の、場合も、
動詞の「名物化」・「事物化」であって、「英語」で言へば、「原形不定詞(toなし不定詞)」である。
といふ、ことになる。
然るに、
(12)
「有」は「もつ」が原義だから「・・・・がある」にあたり「・・・・である」ではない。〔対〕無(中沢希男、同訓異字辞典、1980年、20頁)。
従って、
(13)
「有」は、「持つ(HAVE)」が、原義であって、
「無」は、「持たない(HAVE NO)」が、原義ある。
従って、
(14)
我有老母=我に老母有り(管鮑の交はり)。
の「直訳」は、
I HAVE 老母。
である。
従って、
(15)
_有老母=老母有り。
は、
我有老母=S+V+O(英語の第三文型)
の、
我(SUBJECT)
が、「省略」された「結果」である。
に、違いない。
従って、
(16)
_有老母。
が、
_老母有。
となることは、
I HAVE 老母。
の「語順」が、
I 老母 HAVE。
となるくらひに、「不自然」なことである。といふことに、なる。
従って、
(17)
千里馬+常有=千里の馬は+常に有り(韓愈)。
といふ「語順」は、
I HAVE 老母。
の「語順」が、
I 老母 HAVE。
となるくらひに、「不自然」なことである。といふことに、なる。
然るに、
(18)
◎漢文の基本構造
(1)[主語]-[述語]
孔子聖人〔孔子は聖人なり〕
(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、846頁)
従って、
(18)により、
(19)
漢文の場合は、
A=名詞
B=名詞
であるとき、
AB=A者B也。
AB=AはBである。
ということに、なる。
加へて、
(20)
名詞的用法[編集]
おもに主語、目的語、補語の役割を果たす。
To play (=Playing) baseball is fun.(野球することは楽しい)
I want to be a scholar.(私は学者になりたい)
My plan is to stay in New York.(ニューヨークに滞在する予定だ)
(不定詞:ウィキペディア)。
従って、
(17)~(20)により、
(21)
千里馬常有=千里の馬は常に有り(韓愈)。
は、
千里馬 is 常有(補語)。
であると、みなすことが、出来る。
従って、
(21)により、
(22)
千里馬常有=千里の馬は常に有り(韓愈)。
は、
千里馬 is 常有=千里馬は「常有」である。
といふ、「意味」である。はずである。
従って、
(23)
千里馬常有=千里の馬は常に有り(韓愈)。
の、「常有」は、「常在」と同様に、「名詞(不定詞)」である。
cf.
2.常在( 名 ) スル いつもそこにあること。いつもそこに居ること。〔大辞林 第三版〕
なほ、
(24)
千里馬常有=千里の馬は常に有り(韓愈)。
が、「倒置」であれば、
千里馬常有之。
千里馬是常有。
千里馬者常有矣。
のやうに、書くものと、思はれる。
cf.
【之】[副詞]こレ
倒置の明示《目的語を強調するために目的語を動詞の前に出す倒置の場合、倒置をしたことを明示するために目的語と動詞の間に副詞「之」を入れる。「こレ」と読むが、特定のものを指示しない》〔注〕倒置の明示には、「之」の代わりに「是」を用いることもある(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、142頁)。
2014年5月25日日曜日
2014年5月4日日曜日
レ点の位置について、
(01)
30201⇒
00123。
のやうに、「数字」を、「小さい順に、並び替え」ることを、「ソート(並び替え)」とする。
このとき、
(02)
3=不
0=常
2=読
0=漢
1=文
といふ風に、「数字(コード)」と、「漢字(キャラクタ)」を、対応させる。
従って、
(01)(02)により、
(03)
30201⇒
00123。
といふ「数字」としての、「ソート(並び替え)」は、
不常読漢文⇒
常漢文読不。
という「漢字」の「ソート(並び替え)」に、対応する。
従って、
(03)により、
(04)
30201⇒
00123。
であって、尚且つ、
不常読漢文⇒
常漢文読不。
であることから、 二つを合はせると、
不3常0読2漢0文1⇒
常0漢0文1読2不3=常0には、漢0文1を読ま2ず3。
である。
然るに、
(05)
① レ
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
⑤ 天 地 人
とある、「返り点」のうちの、
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
を、改め、
② 〇 一 二 三 四 ・・・・・
と、する。
従って、
(04)(05)により、
(06)
不3常0読2漢0文1⇒
常0漢0文1読2不3=常0には、漢0文1を読ま2ず3。
に於いて、
0=〇
1=一
2=二
3=三
であることから、
不3常0読2漢0文1⇒
常0漢0文1読2不3=常0には、漢0文1を読ま2ず3。
の場合は、、
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
といふ、「一二点」ならぬ、
② 〇 一 二 三 四 ・・・・・
といふ、「〇一点」が、付いてゐる、ことになる。
然るに、
(07)
実際の「返り点」は、
不3常0読2漢0文1⇒
常0漢0文1読2不3=常0には、漢0文1を読ま2ず3。
ではなく、
不3常読2漢文1⇒
常漢文1読2不3=常には、漢文1を読ま2ず3。
である。
従って、
(08)
不3常読2漢文1⇒
常漢文1読2不3=常には、漢文1を読ま2ず3。
の場合は、
不3常0読2漢0文1⇒
常0漢0文1読2不3=常0には、漢0文1を読ま2ず3。
にあって、
常0 の、0と、
漢0 の、0が、
「省略」されてゐる。と、見なすことが、出来る。
従って、
(01)~(08)により、
(09)
不3常読2漢文1⇒
常漢文1読2不3=常には、漢文1を読ま2ず3。
といふ「返り点」も、「ソート(並び替え)」である。と、することが、出来る。
従って、
(09)により、
(10)
不3常読2漢文1⇒
常漢文1読2不3=常には、漢文1を読ま2ず3。
は、
30201⇒
00123。
といふ「ソート(並び替え)」の、
0 を「省略」した「形」である。と、することが、出来る。
従って、
(11)
不3常読2漢文1⇒
常漢文1読2不3=常には、漢文1を読ま2ず3。
に於いて、
不3 は、三点が付いてゐるから、二点の付いた漢字の、「後で読む」。
常 は、何も付いてゐないから、「そのまま読む」。
読2 は、二点が付いてゐるから、一点の付いた漢字の、「後で読む」。
漢 は、何も付いてゐないから、「そのまま読む」。
文1 は、一点が付いてゐるから、読み、次は、
読2 を、読み、次は、
不3 を、読む。
といふ「説明」は、
30201⇒
00123。
といふ「ソート(並び替え)」として、「説明」出来る。
然るに、
(10)により、
(12)
30201⇒
00123。
といふ「ソート(並び替え)」に対して、
3201⇒
0123。
といふ「「ソート(並び替え)」は、
不3読2漢文1⇒
漢文1読2不3=漢文1を読ま2ず3。
といふ「訓読」に、相当する。
従って、
(12)により、
不3読2漢文1⇒
漢文1読2不3=漢文1を読ま2ず3。
に於いて、
不3 は、三点が付いてゐるから、二点の付いた漢字の、「後で読む」。
読2 は、二点が付いてゐるから、一点の付いた漢字の、「後で読む」。
漢 は、何も付いてゐないから、「そのまま読む」。
文1 は、一点が付いてゐるから、読み、次は、
読2 を、読み、次は、
不3 を、読む。
といふ「説明」は、
3201⇒
0123。
といふ「ソート(並び替え)」として、「説明」出来る。
然るに、
(13)
不3読2漢文1⇒
漢文1読2不3=漢文1を読ま2ず3。
の「返り点」は、
不3読2漢文1 :三 二 一。
ではなく、文科省的には、
不r 読2漢文1 :レ 二 一。
が、正しい。
従って、
(13)により、
(14)
不3読2漢文1⇒
漢文1読2不3=漢文1を読ま2ず3。
といふ「訓読(ソート)」と、
不r 読2漢文1⇒
漢文1読2不r=漢文1を読ま2ずr。
といふ「訓読(ソート)」は、等しい。
然るに、
(15)
不3読2漢文1=
不r 読2漢文1。
であるならば、その時に限って、
不3=
不r
である。
従って、
(14)(15)により、
(16)
不3 と、
不r は、等しい。
然るに、
(17)
例へば、「原田種成、私の漢文講義、1995年、210頁」の、「各行」は、
レ 衢 レ レ レ 天 都 其 帝
のやうに、「9行中、4つ」が、「レ点」で、始まってゐる。
然るに、
(18)
レ 衢 レ レ レ 天 都 其 帝
のやうに、「レ点」で、始まる行は有っても、
三 衢 三 三 三 天 都 其 帝
のやうに、「三点」で、始まる行は無い。
従って、
(19)
私にとっては、
不3=不r
であるが、
原田先生にとっては、
不3≠不r
であることに、なるものの、
原田先生は、
レ点は下の字に属して左肩につけ、その他の一二点などは字の左下につける(同書、41頁)。
と、されてゐる。
従って、
(20)
原田先生としては、
レ点は下の字に属して左肩につく。が故に、
レ 衢 レ レ レ 天 都 其 帝
のやうに、「レ点」で、始まる行は有っても、
レ点以外の、一二点などは字の左下につく。が故に、
三 衢 三 三 三 天 都 其 帝
のやうに、「三点」で、始まる行は有り得ない。ことになる。
従って、
(21)
不3読2漢文1=
不r 読2漢文1。
であるならば、
不3=
不r
である。とする私と、原田先生の見解は、相容れない。
然るに、
(22)
いづれにせよ、
匪 衢 知 己 治 天 都 其 帝
のように、
「漢字 で始まる行」の方が、
レ 衢 レ レ レ 天 都 其 帝
のやうに、
「レ点 で始まる行」よりも、好ましい。
といふ風に、私には、思へて、ならない。
そのため、
(23)
不3読2漢文1⇒
漢文1読2不3=漢文1を読ま2ず3。
といふ「訓読(ソート)」と、
不r読2漢文1⇒
漢文1読2不r=漢文1を読ま2ずr。
といふ「訓読(ソート)」は、等しい。
といふことを以て、
レ点は下の字に属して左肩につけ、その他の一二点などは字の左下につける。
と、されてゐることに対して、異議を、唱えたい。
平成26年05月04日、毛利太。
30201⇒
00123。
のやうに、「数字」を、「小さい順に、並び替え」ることを、「ソート(並び替え)」とする。
このとき、
(02)
3=不
0=常
2=読
0=漢
1=文
といふ風に、「数字(コード)」と、「漢字(キャラクタ)」を、対応させる。
従って、
(01)(02)により、
(03)
30201⇒
00123。
といふ「数字」としての、「ソート(並び替え)」は、
不常読漢文⇒
常漢文読不。
という「漢字」の「ソート(並び替え)」に、対応する。
従って、
(03)により、
(04)
30201⇒
00123。
であって、尚且つ、
不常読漢文⇒
常漢文読不。
であることから、 二つを合はせると、
不3常0読2漢0文1⇒
常0漢0文1読2不3=常0には、漢0文1を読ま2ず3。
である。
然るに、
(05)
① レ
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
⑤ 天 地 人
とある、「返り点」のうちの、
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
を、改め、
② 〇 一 二 三 四 ・・・・・
と、する。
従って、
(04)(05)により、
(06)
不3常0読2漢0文1⇒
常0漢0文1読2不3=常0には、漢0文1を読ま2ず3。
に於いて、
0=〇
1=一
2=二
3=三
であることから、
不3常0読2漢0文1⇒
常0漢0文1読2不3=常0には、漢0文1を読ま2ず3。
の場合は、、
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
といふ、「一二点」ならぬ、
② 〇 一 二 三 四 ・・・・・
といふ、「〇一点」が、付いてゐる、ことになる。
然るに、
(07)
実際の「返り点」は、
不3常0読2漢0文1⇒
常0漢0文1読2不3=常0には、漢0文1を読ま2ず3。
ではなく、
不3常読2漢文1⇒
常漢文1読2不3=常には、漢文1を読ま2ず3。
である。
従って、
(08)
不3常読2漢文1⇒
常漢文1読2不3=常には、漢文1を読ま2ず3。
の場合は、
不3常0読2漢0文1⇒
常0漢0文1読2不3=常0には、漢0文1を読ま2ず3。
にあって、
常0 の、0と、
漢0 の、0が、
「省略」されてゐる。と、見なすことが、出来る。
従って、
(01)~(08)により、
(09)
不3常読2漢文1⇒
常漢文1読2不3=常には、漢文1を読ま2ず3。
といふ「返り点」も、「ソート(並び替え)」である。と、することが、出来る。
従って、
(09)により、
(10)
不3常読2漢文1⇒
常漢文1読2不3=常には、漢文1を読ま2ず3。
は、
30201⇒
00123。
といふ「ソート(並び替え)」の、
0 を「省略」した「形」である。と、することが、出来る。
従って、
(11)
不3常読2漢文1⇒
常漢文1読2不3=常には、漢文1を読ま2ず3。
に於いて、
不3 は、三点が付いてゐるから、二点の付いた漢字の、「後で読む」。
常 は、何も付いてゐないから、「そのまま読む」。
読2 は、二点が付いてゐるから、一点の付いた漢字の、「後で読む」。
漢 は、何も付いてゐないから、「そのまま読む」。
文1 は、一点が付いてゐるから、読み、次は、
読2 を、読み、次は、
不3 を、読む。
といふ「説明」は、
30201⇒
00123。
といふ「ソート(並び替え)」として、「説明」出来る。
然るに、
(10)により、
(12)
30201⇒
00123。
といふ「ソート(並び替え)」に対して、
3201⇒
0123。
といふ「「ソート(並び替え)」は、
不3読2漢文1⇒
漢文1読2不3=漢文1を読ま2ず3。
といふ「訓読」に、相当する。
従って、
(12)により、
不3読2漢文1⇒
漢文1読2不3=漢文1を読ま2ず3。
に於いて、
不3 は、三点が付いてゐるから、二点の付いた漢字の、「後で読む」。
読2 は、二点が付いてゐるから、一点の付いた漢字の、「後で読む」。
漢 は、何も付いてゐないから、「そのまま読む」。
文1 は、一点が付いてゐるから、読み、次は、
読2 を、読み、次は、
不3 を、読む。
といふ「説明」は、
3201⇒
0123。
といふ「ソート(並び替え)」として、「説明」出来る。
然るに、
(13)
不3読2漢文1⇒
漢文1読2不3=漢文1を読ま2ず3。
の「返り点」は、
不3読2漢文1 :三 二 一。
ではなく、文科省的には、
不r 読2漢文1 :レ 二 一。
が、正しい。
従って、
(13)により、
(14)
不3読2漢文1⇒
漢文1読2不3=漢文1を読ま2ず3。
といふ「訓読(ソート)」と、
不r 読2漢文1⇒
漢文1読2不r=漢文1を読ま2ずr。
といふ「訓読(ソート)」は、等しい。
然るに、
(15)
不3読2漢文1=
不r 読2漢文1。
であるならば、その時に限って、
不3=
不r
である。
従って、
(14)(15)により、
(16)
不3 と、
不r は、等しい。
然るに、
(17)
例へば、「原田種成、私の漢文講義、1995年、210頁」の、「各行」は、
レ 衢 レ レ レ 天 都 其 帝
のやうに、「9行中、4つ」が、「レ点」で、始まってゐる。
然るに、
(18)
レ 衢 レ レ レ 天 都 其 帝
のやうに、「レ点」で、始まる行は有っても、
三 衢 三 三 三 天 都 其 帝
のやうに、「三点」で、始まる行は無い。
従って、
(19)
私にとっては、
不3=不r
であるが、
原田先生にとっては、
不3≠不r
であることに、なるものの、
原田先生は、
レ点は下の字に属して左肩につけ、その他の一二点などは字の左下につける(同書、41頁)。
と、されてゐる。
従って、
(20)
原田先生としては、
レ点は下の字に属して左肩につく。が故に、
レ 衢 レ レ レ 天 都 其 帝
のやうに、「レ点」で、始まる行は有っても、
レ点以外の、一二点などは字の左下につく。が故に、
三 衢 三 三 三 天 都 其 帝
のやうに、「三点」で、始まる行は有り得ない。ことになる。
従って、
(21)
不3読2漢文1=
不r 読2漢文1。
であるならば、
不3=
不r
である。とする私と、原田先生の見解は、相容れない。
然るに、
(22)
いづれにせよ、
匪 衢 知 己 治 天 都 其 帝
のように、
「漢字 で始まる行」の方が、
レ 衢 レ レ レ 天 都 其 帝
のやうに、
「レ点 で始まる行」よりも、好ましい。
といふ風に、私には、思へて、ならない。
そのため、
(23)
不3読2漢文1⇒
漢文1読2不3=漢文1を読ま2ず3。
といふ「訓読(ソート)」と、
不r読2漢文1⇒
漢文1読2不r=漢文1を読ま2ずr。
といふ「訓読(ソート)」は、等しい。
といふことを以て、
レ点は下の字に属して左肩につけ、その他の一二点などは字の左下につける。
と、されてゐることに対して、異議を、唱えたい。
平成26年05月04日、毛利太。
2014年3月15日土曜日
一番読んで欲しい「記事」。
(00)
『(「は」と「が」の問題は、)明治以来、大きな論争を読んできた問題である。』といふ「言い方」からも、分かってもらえるやうに、FC2ブログの中で、最も価値がある「記事」は、
「FC2ブログ、最近の記事(03/06)」=「は」と「が」と「Wh移動」です。
そのため、その「記事(03/06)」の中で、『「は」と「が」と「Wh移動」』が、どのやうな「形」で関わりを持つのか。といふことを、改めて、説明させてもらうことにします。
(01)
① 鈴木が社長である。
② 鈴木は社長である。
③ 社長は鈴木である。
④ 鈴木以外は社長でない。
に於いて、
③ ⇔ ④
は「対偶(contraposition)」である。
従って、
(01)により、
(02)
③ 社長は鈴木である。 ⇔
④ 鈴木以外は社長でない。
は、「論理的」に、「真」である。
然るに、
(03)
① 鈴木が社長である。として、
② 鈴木は社長でない。と言へば、ウソになる。
従って、
(03)により、
(04)
① 鈴木が社長である。ならば、
② 鈴木は社長である。は、本当である。
従って、
(04)により、
(05)
① 鈴木が社長である。ならば、
② 鈴木は社長である。
は、「論理的」に、「真」である。
従って、
(02)(05)により、
(06)
① ⇒ ②
③ ⇔ ④
は、「論理的」に、「真」である。
(07)
例へば、新幹線で移動中、
鈴木社長の隣に座ってゐる田中さんは、他の会社の社長である。
とし、この状態を、
社長={鈴木、田中}
とする。
然るに、
(08)
社長={鈴木、田中}
であるとき
① 鈴木さんが社長である。
とは、言へない。
然るに、
(09)
社長={鈴木}
である時、
① 鈴木が社長である。
といふ「言ひ方」は正しい。
然るに、
(10)
社長={鈴木}
であるとき、
④ 鈴木以外は社長でない。
といふ「言ひ方」は正しい。
従って、
(09)(10)により、
(11)
社長={鈴木}
である時、その時に限って、
① 鈴木が社長である。
④ 鈴木以外は社長でない。
といふ「言ひ方」は正しい。
従って、
(06)(11)により、
(12)
社長={鈴木}
である時、その時に限って、
① ⇒ ②
① ⇔ ③ ⇔ ④
は、「真」である。
従って、
(12)により、
(13)
社長={鈴木}
である時、その時に限って、
① 鈴木が社長である。
② 鈴木は社長である。
③ 社長は鈴木である。
④ 鈴木以外は社長でない。
は、四つとも「真」である。
然るに、
(14)
① ONLY SUZUKI IS THE 社長=
② 鈴木は社長であり(④ 鈴木以外は社長でない)。
は、「排他的命題(exclusive proposition)」である。
従って、
(02)(14)により、
(15)
② 鈴木は社長であり(③ 社長は鈴木である)。
も、「排他的命題(exclusive proposition)」である。
従って、
(13)~(15)により、
(16)
(イ)
① 鈴木が社長である。⇔
② 鈴木は社長であり(、③ 社長は鈴木である)。
(ロ)
① 鈴木が社長である。⇔
② 鈴木は社長であり(、④ 鈴木以外は社長でない)。
といふ、二つの「等式」が、成立する。
従って、
(17)
Q:誰が社長ですか。
A:鈴木が社長です。
といふ「受け答へ」は、
(イ)と(ロ)の、
① 鈴木が社長である。
に由来する。
加へて、
(18)
Q:誰が社長ですか。
A:社長は鈴木です。
といふ「受け答へ」は、
(イ)
① 鈴木が社長である。⇔
② 鈴木は社長であり(③ 社長は鈴木である)。
に於ける、
③ 社長は鈴木である。
に由来する。
然るに、
(19)
3 : 名無し象は鼻がウナギだ![]投稿日:2010/06/24(木) 10:03:37 0
私は大野です 「私」は既知、「大野」は未知
私が大野です 「私」は未知、「大野」は既知
従って、
(20)
③ 社長は鈴木である。 ⇔
④ 鈴木以外は社長でない。
といふ「対偶(contraposition)」は、「論理的」に、「真」である。
といふことに、「気づかない」場合は、
Q:誰(未知)が社長(既知)ですか。
A:社長(既知)は鈴木(未知)です。
といふ「説明」を、誘発する。
それはさて置き、
(24)
Q:誰が社長ですか。
A:社長は鈴木です。
を、
Q:WHOが社長ですか。
A:社長はSUZUKIです。
に、置き換へると、
WHO=SUZUKI
従って、
(24)により、
(25)
Q:WHOが社長。
A:社長はSUZUKI。
に於いて、
WHO=SUZUKI の、
WHOが、 文頭にあり、
SUZUKIが、文末にある。
然るに、
(26)
[1]wh移動
意味を導くための深層構造が必要だという説明の時に、一番最初に取り上げられたのは疑問詞が文頭にある疑問文でした。主語はともかく、目的語が動詞の直後ではなく、動詞の前しかも文の先頭にあるという事実を説明するためには、目的語である疑問詞がちゃんと動詞の直後にある深層構造を設定すればよいわけです(町田健、チョムスキー入門、2006年、117頁)。
従って、
(24)~(26)により、
(27)
Q:WHOが社長。
A:社長はSUZUKI。
は、『「が」と「は」』の問題である。と同時に、
Q:WHOが社長。
A:社長はSUZUKI。
は、『WH移動』の問題である。といふことになる。
然るに、
(28)
誰 =WHO
唯一=ONLY
であるものの、このことは、
WHO の音=隹
ONLYの音=隹
である。といふことを、意味してゐる。
従って、
(28)により、
(29)
「隹」といふ音を通して、
『WH移動』と、『ONLY』が、結び付きさうである。
然るに、
(30)
「唯一」の「唯」、すなはち、「ONLY ONE」の「ONLY」に相当する「漢字」 に関して、 それで、この「惟」や「唯」が用いられているものは、その動詞の目的語が、更に特に強調されていたものである(鈴木直治、中国語と漢文、341頁)。 との、ことである。
然るに、
(31)
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・5頁)。
従って、
(32)
「疑問詞」を「前置」をすることは、「疑問詞」を、特に「強調」することである。 とのことであるが、「疑問詞」を「前置」をすることは、『WH移動』に、他ならない。 従って、
(01)~(32)により、
(33)
(イ)「が」と「は」
(ロ)「排他的命題」
(ハ)「WH移動」
(二)「強調」
といふ「キーワード」が、確認出来たことに、なるものの、
最も価値がある「記事」である所の「最近の記事(03/06)」の中では、
(二)「強調」
(ロ)「排他的命題」
といふ「キーワード」を使って、
(イ)「が」と「は」
(ハ)「WH移動」
を、「説明」してゐます。
然るに、
(34)
(イ)「が」と「は」に関して言へば、
『明治以来、大きな論争を読んできた問題(淺山友貴、現代日本語における「が」と「は」の意味と機能、2004年、403頁)』といふ、事情があり、
(ハ)「WH移動」に関しても、 ヤフーやグーグルで「検索」すると、「今だに、大問題」である。やうです。
といふわけで、
(34)により、
(35)
FC2ブログの中で、最も価値がある「記事」は、
(二)「強調」
(ロ)「排他的命題」
といふ「キーワード」を使って、
(イ)「大問題」である、「が」と「は」と、
(ハ)「大問題」である、「WH移動」を、
「説明」してゐる所の、「FC2ブログ、最近の記事(03/06)」です。
平成26年03月15日、毛利太。
『(「は」と「が」の問題は、)明治以来、大きな論争を読んできた問題である。』といふ「言い方」からも、分かってもらえるやうに、FC2ブログの中で、最も価値がある「記事」は、
「FC2ブログ、最近の記事(03/06)」=「は」と「が」と「Wh移動」です。
そのため、その「記事(03/06)」の中で、『「は」と「が」と「Wh移動」』が、どのやうな「形」で関わりを持つのか。といふことを、改めて、説明させてもらうことにします。
(01)
① 鈴木が社長である。
② 鈴木は社長である。
③ 社長は鈴木である。
④ 鈴木以外は社長でない。
に於いて、
③ ⇔ ④
は「対偶(contraposition)」である。
従って、
(01)により、
(02)
③ 社長は鈴木である。 ⇔
④ 鈴木以外は社長でない。
は、「論理的」に、「真」である。
然るに、
(03)
① 鈴木が社長である。として、
② 鈴木は社長でない。と言へば、ウソになる。
従って、
(03)により、
(04)
① 鈴木が社長である。ならば、
② 鈴木は社長である。は、本当である。
従って、
(04)により、
(05)
① 鈴木が社長である。ならば、
② 鈴木は社長である。
は、「論理的」に、「真」である。
従って、
(02)(05)により、
(06)
① ⇒ ②
③ ⇔ ④
は、「論理的」に、「真」である。
(07)
例へば、新幹線で移動中、
鈴木社長の隣に座ってゐる田中さんは、他の会社の社長である。
とし、この状態を、
社長={鈴木、田中}
とする。
然るに、
(08)
社長={鈴木、田中}
であるとき
① 鈴木さんが社長である。
とは、言へない。
然るに、
(09)
社長={鈴木}
である時、
① 鈴木が社長である。
といふ「言ひ方」は正しい。
然るに、
(10)
社長={鈴木}
であるとき、
④ 鈴木以外は社長でない。
といふ「言ひ方」は正しい。
従って、
(09)(10)により、
(11)
社長={鈴木}
である時、その時に限って、
① 鈴木が社長である。
④ 鈴木以外は社長でない。
といふ「言ひ方」は正しい。
従って、
(06)(11)により、
(12)
社長={鈴木}
である時、その時に限って、
① ⇒ ②
① ⇔ ③ ⇔ ④
は、「真」である。
従って、
(12)により、
(13)
社長={鈴木}
である時、その時に限って、
① 鈴木が社長である。
② 鈴木は社長である。
③ 社長は鈴木である。
④ 鈴木以外は社長でない。
は、四つとも「真」である。
然るに、
(14)
① ONLY SUZUKI IS THE 社長=
② 鈴木は社長であり(④ 鈴木以外は社長でない)。
は、「排他的命題(exclusive proposition)」である。
従って、
(02)(14)により、
(15)
② 鈴木は社長であり(③ 社長は鈴木である)。
も、「排他的命題(exclusive proposition)」である。
従って、
(13)~(15)により、
(16)
(イ)
① 鈴木が社長である。⇔
② 鈴木は社長であり(、③ 社長は鈴木である)。
(ロ)
① 鈴木が社長である。⇔
② 鈴木は社長であり(、④ 鈴木以外は社長でない)。
といふ、二つの「等式」が、成立する。
従って、
(17)
Q:誰が社長ですか。
A:鈴木が社長です。
といふ「受け答へ」は、
(イ)と(ロ)の、
① 鈴木が社長である。
に由来する。
加へて、
(18)
Q:誰が社長ですか。
A:社長は鈴木です。
といふ「受け答へ」は、
(イ)
① 鈴木が社長である。⇔
② 鈴木は社長であり(③ 社長は鈴木である)。
に於ける、
③ 社長は鈴木である。
に由来する。
然るに、
(19)
3 : 名無し象は鼻がウナギだ![]投稿日:2010/06/24(木) 10:03:37 0
私は大野です 「私」は既知、「大野」は未知
私が大野です 「私」は未知、「大野」は既知
従って、
(20)
③ 社長は鈴木である。 ⇔
④ 鈴木以外は社長でない。
といふ「対偶(contraposition)」は、「論理的」に、「真」である。
といふことに、「気づかない」場合は、
Q:誰(未知)が社長(既知)ですか。
A:社長(既知)は鈴木(未知)です。
といふ「説明」を、誘発する。
それはさて置き、
(24)
Q:誰が社長ですか。
A:社長は鈴木です。
を、
Q:WHOが社長ですか。
A:社長はSUZUKIです。
に、置き換へると、
WHO=SUZUKI
従って、
(24)により、
(25)
Q:WHOが社長。
A:社長はSUZUKI。
に於いて、
WHO=SUZUKI の、
WHOが、 文頭にあり、
SUZUKIが、文末にある。
然るに、
(26)
[1]wh移動
意味を導くための深層構造が必要だという説明の時に、一番最初に取り上げられたのは疑問詞が文頭にある疑問文でした。主語はともかく、目的語が動詞の直後ではなく、動詞の前しかも文の先頭にあるという事実を説明するためには、目的語である疑問詞がちゃんと動詞の直後にある深層構造を設定すればよいわけです(町田健、チョムスキー入門、2006年、117頁)。
従って、
(24)~(26)により、
(27)
Q:WHOが社長。
A:社長はSUZUKI。
は、『「が」と「は」』の問題である。と同時に、
Q:WHOが社長。
A:社長はSUZUKI。
は、『WH移動』の問題である。といふことになる。
然るに、
(28)
誰 =WHO
唯一=ONLY
であるものの、このことは、
WHO の音=隹
ONLYの音=隹
である。といふことを、意味してゐる。
従って、
(28)により、
(29)
「隹」といふ音を通して、
『WH移動』と、『ONLY』が、結び付きさうである。
然るに、
(30)
「唯一」の「唯」、すなはち、「ONLY ONE」の「ONLY」に相当する「漢字」 に関して、 それで、この「惟」や「唯」が用いられているものは、その動詞の目的語が、更に特に強調されていたものである(鈴木直治、中国語と漢文、341頁)。 との、ことである。
然るに、
(31)
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・5頁)。
従って、
(32)
「疑問詞」を「前置」をすることは、「疑問詞」を、特に「強調」することである。 とのことであるが、「疑問詞」を「前置」をすることは、『WH移動』に、他ならない。 従って、
(01)~(32)により、
(33)
(イ)「が」と「は」
(ロ)「排他的命題」
(ハ)「WH移動」
(二)「強調」
といふ「キーワード」が、確認出来たことに、なるものの、
最も価値がある「記事」である所の「最近の記事(03/06)」の中では、
(二)「強調」
(ロ)「排他的命題」
といふ「キーワード」を使って、
(イ)「が」と「は」
(ハ)「WH移動」
を、「説明」してゐます。
然るに、
(34)
(イ)「が」と「は」に関して言へば、
『明治以来、大きな論争を読んできた問題(淺山友貴、現代日本語における「が」と「は」の意味と機能、2004年、403頁)』といふ、事情があり、
(ハ)「WH移動」に関しても、 ヤフーやグーグルで「検索」すると、「今だに、大問題」である。やうです。
といふわけで、
(34)により、
(35)
FC2ブログの中で、最も価値がある「記事」は、
(二)「強調」
(ロ)「排他的命題」
といふ「キーワード」を使って、
(イ)「大問題」である、「が」と「は」と、
(ハ)「大問題」である、「WH移動」を、
「説明」してゐる所の、「FC2ブログ、最近の記事(03/06)」です。
平成26年03月15日、毛利太。
2014年3月5日水曜日
「は」と「が」と「WH移動」(Ver.1.1)。
― 昨日(03月04日)の記事は、削除します。―
(00)
昨日、図書館から借りて来た、「学術書」によると、
疑問詞に「が」しか使用できないことは既に広く知られている。「誰が」「何が」ということはできても「誰は」「何は」ということはできないというものである。これについては、「が」は新情報や「焦点」を提示しうることから疑問詞を受けるというように説明されることがあるが、それは相互規定的に互いを規定しており、なぜ「が」が新情報や焦点を提示できるのかについては明らかにされていないようである(淺山友貴、現代日本語における「が」と「は」の意味と機能、2004年、154頁)。
(01)
約三十年前に書いた、「(雑誌への)没論文」によると、
① AはBである。
② AがBである。
に於いて、
②は、①に対する「心理的な音量差」に「強調形」であって、
② AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
といふ、「意味」である。
然るに、
(02)
② A以外は Bでない(排他的命題)=
② AでないならばBでない(~~A∨~B)。
であって、尚且つ、
② AでないならばBでない(A∨~B)。
の「対偶」は、
② BならばAである(~B∨A)=
② Bは Aである。
に等しい。
従って、
(01)(02)により、
(03)
② Aが Bである。⇒
② A以外は Bでない。⇒
② AでないならばBでない。⇒
② Bならば Aである。⇒
② Bは Aである。
といふ「五段論法」が、成立する。
従って、
(03)により、
(04)
② AがBである。⇒
② BはAである。
といふ「含意」が、成立する。
然るに、
(05)
② AがBである。と言っておきながら、
① AはBでない。と言ったら、ウソになる。
従って、
(05)により、
(06)
② AがBである。⇒
① AはBである。
といふ「含意」も、成立する。
従って、
(04)(06)により、
(07)
③ AがBである。⇒
① AはBである。& ② BはAである。
といふ「含意」が、成立する。
従って、
(07)により、
(08)
① AはBである(順)。
② BはAである(逆)。
③ AがBである(裏)。
である際に、この場合は、
③ ⇒ ①&②
といふ「含意」が成立する。
然るに、
(09)
③ ⇒ ①&②
の「対偶」は、
~(①& ②)⇒ ~③
~①∨~② ⇒ ~③ :「ド・モルガンの法則」
従って、
(08)~(09)により、
(10)
① AはBである(順)。
② BはAである(逆)。
③ AがBである(裏)。
である際に、
(イ)「 ③ ⇒ ① & ②」
(ロ)「~①∨~② ⇒~③」
といふ「含意」が成立する。
従って、
(11)
(イ)により、
③ 孔子が先生である。
といふ「命題」が「真」であれば、
① 孔子は先生である。
② 先生は孔子である。
といふ「命題」も、「真」になり、
(ロ)により、
① 孔子は先生である。
といふ「命題」が、「真」であっても、
② 先生は孔子である。
といふ「命題」が、「偽」であれば、
③ 孔子が先生である。
といふ「命題」は、「偽」になる。
然るに、
(12)
② 先生={孔子}
であるならば、
② 先生は孔子である。
は、「真」であるが、
② 先生={孔子、子思、孟子、荻生徂徠、山鹿素行、・ ・ ・ ・}
であるならば、
② 先生は孔子である。
は、「真」であるとは、言へない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① 孔子は先生である(順)。
② 先生は孔子である(逆)。
③ 孔子が先生である(裏)。
である際に、
(イ)「 ③ ⇒ ① & ②」
(ロ)「~①∨~② ⇒~③」
といふ「含意」が成立する。といふことは、
先生={孔子}
である。といふことに、他ならない。
然るに、
(14)
③ 先生={孔子}
といふことは、
③ ONLY 孔子 IS 先生。
といふことである。
然るに、
(15)
③ ONLY 孔子 IS 先生。
といふことは、
③ 孔子が先生である=孔子は先生であって(孔子以外は先生でない)。
といふことに、他ならない。
従って、
(01)~(15)により、
(16)
① AはBである。
③ AがBである。
に於いて、
③ AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
といふ「等式」が、成立する。
Q.E.D.
然るに、
(17)
弟子三千人。身通六芸者、七十有二人。
孔子の弟子は三千人あったが、その中、六芸に通じたものが七十二人あった(十八史略)。
に於いて、
③ 先生={孔子}
③ ONLY 孔子 IS 先生。
である。
従って、
(17)により、
(18)
「論語」といふ「世界」に於いて、
① 孔子は先生である。
② 先生は孔子である。
③ 孔子が先生である。
は、三つとも、「真」である。
従って、
(19)
④ 誰 が先生である。
③ 孔子が先生である。
は、「真」である。
従って、
(18)(19)により、
(20)
① 孔子は先生である。
② 先生は孔子である。
③ 誰 が先生である。
④ 孔子が先生である。
といふ、ことになる。
然るに、
(21)
「論語、微子第十八、六、七」と、「辞書」を参考にすると、
① あなたは誰か。
② 仲由です。
③ 誰 が先生である。
④ 孔子が先生である。
といふ「日本語」は、「漢文」では、
① 子為誰。
② 為仲由。
③ 誰 為先生。
④ 孔子為先生。
といふ、ことになる。
然るに、
(22)
④ 孔子為先生。
だけを見ると、
③ 孔子 IS 先生=SVC(英語第二文型)。
であるやうに、見えるものの、
「為」は、むしろ、「他動詞」である。
cf.
為(爲)イ
① する。行なう。
② でき上がる。・・・になる。
③ 統治する。
④ ・・・である。
⑤ こしらえる。
⑥ まねする。いつわる。
⑦ のために。
⑧ れる(られる)。
⑨ ・・・だと思う。
(小林信明監修、重要漢文単語 文例精解、6頁)。
従って、
(21)(22)により、
(23)
① 子為誰(あなたは誰か)。
に対する、
③ 誰為先生(誰が先生か)。
は、「誰(目的語)」の「前置」である。
然るに、
(24)
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・5頁)。
従って、
(23)(24)により、
(25)
① 子為誰(あなたは誰か)。
に対する、
③ 誰為先生(誰が先生か)。は、
「誰(目的語)」の「前置」による、「強調形」であって、
「誰(疑問詞)」の「移動」による、「強調形」である。
然るに、
(01)により、
(26)
① あなたは誰である。
② 誰が先生である。
に於いて、
②は、①に対する「心理的な音量差」に「強調形」であって、
② 誰が先生である=誰が先生であって(誰以外が先生でない)か。
といふ、「意味」である。
従って、
(16)(17)(25)(26)により、
(27)
③ 先生={孔子}
③ ONLY 孔子 IS 先生。
であって、尚且つ、
① 子為誰(あなたは誰か)。
に対する、
③ 誰為先生(誰が先生か)。は、
「誰(疑問詞)」の「移動」による「強調形」であって、
① あなたは誰か(子為誰)。
に対する、
③ 誰が先生か(誰為先生)。
は、「心理的な音量差」による「強調形」である。
従って、
然るに、
(28)
「唯一」の「唯」、すなはち、「ONLY ONE」の「ONLY」に相当する「漢字」
に関して、
それで、この「惟」や「唯」が用いられているものは、その動詞の目的語が、更に特に強調されていたものである(鈴木直治、中国語と漢文、341頁)。
との、ことである。
従って、
(28)により、
(29)
「強調」は、「ONLY」の「意味」に結びつくのであって、それ故、
① AはBである。
② AがBである。
に於いて、
① AはBである=A IS B。
② AがBである=ONLY A IS B。
といふ「意味」である。が故に、
②は、①に対する「心理的な音量差」に「強調形」であって、
① 子為誰(あなたは誰か)。
に対する、
③ 誰為先生(誰が先生か)。
は、「誰(目的語)」の「前置」による「強調形」である。
といふ、ことになる。
然るに、
(30)
[1]wh移動
意味を導くための深層構造が必要だという説明の時に、一番最初に取り上げられたのは疑問詞が文頭にある疑問文でした。主語はともかく、目的語が動詞の直後ではなく、動詞の前しかも文の先頭にあるという事実を説明するためには、目的語である疑問詞がちゃんと動詞の直後にある深層構造を設定すればよいわけです(町田健、チョムスキー入門、2006年、117頁)。
どの文についても、英語の文法は深層構造を生成するし、この深層構造と表層構造が結び付ける方法を示す規則を含んでいる(ノーム・チョムスキー、言語と精神、2011年、195頁)。
然るに、
(31)
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・5頁)。
に於いて、
漢語 ⇒ 英語。
疑問 ⇒ WH疑問。
前置 ⇒ WH移動。
とするならば、
英語としての「通常の語順」を変えて、「目的語のWH疑問詞」を「WH移動」することは、WH疑問文において、そのWH疑問の中心になっている「WH疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない。
といふ、ことになる。
従って、
(32)
「FC2ブログ(2011.05.03.TueCategory:論理学)」でも書いてゐるやうに、
その言語(漢語)を用ちいる集団の意識として、
「排他的命題」を主張する目的が、「強調」につながり、「強調」しようとする意識が、「疑問詞の前置(Wh移動)」をプロモート(促進・助長)する形で、「漢文に於ける、Wh移動」が、定着したという風に、私は、理解しています。
従って、
(33)
「漢文のWh移動」から見たとき、
この場合、深層構造から表層構造への変換過程で一番重要なのは、疑問詞を文頭に移動させる変形で、この変形規則を「Wh移動変形」と呼びます(町田健、チョムスキー入門、118頁)。
という言い方は、ただ単に、そう決めるのであると、述べているに過ぎず、そのため、私には、ずいぶんと、無理があるように、思えて、なりません。
(34)
鳥がゐる(今、目に前に)。
おじいさんとおばあさんがいた(昔、ある所に)。
のうちの、
鳥がゐる(今、目に前に)。
に関しては、
kannbunn.blog84.fc2.com/blog-entry-16.html を、クリックして下さい。
これも、前半は、約三十年前に読んだ、「没論文」に、書いた通りです。
平成26年03月05日、毛利太。
(00)
昨日、図書館から借りて来た、「学術書」によると、
疑問詞に「が」しか使用できないことは既に広く知られている。「誰が」「何が」ということはできても「誰は」「何は」ということはできないというものである。これについては、「が」は新情報や「焦点」を提示しうることから疑問詞を受けるというように説明されることがあるが、それは相互規定的に互いを規定しており、なぜ「が」が新情報や焦点を提示できるのかについては明らかにされていないようである(淺山友貴、現代日本語における「が」と「は」の意味と機能、2004年、154頁)。
(01)
約三十年前に書いた、「(雑誌への)没論文」によると、
① AはBである。
② AがBである。
に於いて、
②は、①に対する「心理的な音量差」に「強調形」であって、
② AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
といふ、「意味」である。
然るに、
(02)
② A以外は Bでない(排他的命題)=
② AでないならばBでない(~~A∨~B)。
であって、尚且つ、
② AでないならばBでない(A∨~B)。
の「対偶」は、
② BならばAである(~B∨A)=
② Bは Aである。
に等しい。
従って、
(01)(02)により、
(03)
② Aが Bである。⇒
② A以外は Bでない。⇒
② AでないならばBでない。⇒
② Bならば Aである。⇒
② Bは Aである。
といふ「五段論法」が、成立する。
従って、
(03)により、
(04)
② AがBである。⇒
② BはAである。
といふ「含意」が、成立する。
然るに、
(05)
② AがBである。と言っておきながら、
① AはBでない。と言ったら、ウソになる。
従って、
(05)により、
(06)
② AがBである。⇒
① AはBである。
といふ「含意」も、成立する。
従って、
(04)(06)により、
(07)
③ AがBである。⇒
① AはBである。& ② BはAである。
といふ「含意」が、成立する。
従って、
(07)により、
(08)
① AはBである(順)。
② BはAである(逆)。
③ AがBである(裏)。
である際に、この場合は、
③ ⇒ ①&②
といふ「含意」が成立する。
然るに、
(09)
③ ⇒ ①&②
の「対偶」は、
~(①& ②)⇒ ~③
~①∨~② ⇒ ~③ :「ド・モルガンの法則」
従って、
(08)~(09)により、
(10)
① AはBである(順)。
② BはAである(逆)。
③ AがBである(裏)。
である際に、
(イ)「 ③ ⇒ ① & ②」
(ロ)「~①∨~② ⇒~③」
といふ「含意」が成立する。
従って、
(11)
(イ)により、
③ 孔子が先生である。
といふ「命題」が「真」であれば、
① 孔子は先生である。
② 先生は孔子である。
といふ「命題」も、「真」になり、
(ロ)により、
① 孔子は先生である。
といふ「命題」が、「真」であっても、
② 先生は孔子である。
といふ「命題」が、「偽」であれば、
③ 孔子が先生である。
といふ「命題」は、「偽」になる。
然るに、
(12)
② 先生={孔子}
であるならば、
② 先生は孔子である。
は、「真」であるが、
② 先生={孔子、子思、孟子、荻生徂徠、山鹿素行、・ ・ ・ ・}
であるならば、
② 先生は孔子である。
は、「真」であるとは、言へない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① 孔子は先生である(順)。
② 先生は孔子である(逆)。
③ 孔子が先生である(裏)。
である際に、
(イ)「 ③ ⇒ ① & ②」
(ロ)「~①∨~② ⇒~③」
といふ「含意」が成立する。といふことは、
先生={孔子}
である。といふことに、他ならない。
然るに、
(14)
③ 先生={孔子}
といふことは、
③ ONLY 孔子 IS 先生。
といふことである。
然るに、
(15)
③ ONLY 孔子 IS 先生。
といふことは、
③ 孔子が先生である=孔子は先生であって(孔子以外は先生でない)。
といふことに、他ならない。
従って、
(01)~(15)により、
(16)
① AはBである。
③ AがBである。
に於いて、
③ AがBである=AはBであって(A以外はBでない)。
といふ「等式」が、成立する。
Q.E.D.
然るに、
(17)
弟子三千人。身通六芸者、七十有二人。
孔子の弟子は三千人あったが、その中、六芸に通じたものが七十二人あった(十八史略)。
に於いて、
③ 先生={孔子}
③ ONLY 孔子 IS 先生。
である。
従って、
(17)により、
(18)
「論語」といふ「世界」に於いて、
① 孔子は先生である。
② 先生は孔子である。
③ 孔子が先生である。
は、三つとも、「真」である。
従って、
(19)
④ 誰 が先生である。
③ 孔子が先生である。
は、「真」である。
従って、
(18)(19)により、
(20)
① 孔子は先生である。
② 先生は孔子である。
③ 誰 が先生である。
④ 孔子が先生である。
といふ、ことになる。
然るに、
(21)
「論語、微子第十八、六、七」と、「辞書」を参考にすると、
① あなたは誰か。
② 仲由です。
③ 誰 が先生である。
④ 孔子が先生である。
といふ「日本語」は、「漢文」では、
① 子為誰。
② 為仲由。
③ 誰 為先生。
④ 孔子為先生。
といふ、ことになる。
然るに、
(22)
④ 孔子為先生。
だけを見ると、
③ 孔子 IS 先生=SVC(英語第二文型)。
であるやうに、見えるものの、
「為」は、むしろ、「他動詞」である。
cf.
為(爲)イ
① する。行なう。
② でき上がる。・・・になる。
③ 統治する。
④ ・・・である。
⑤ こしらえる。
⑥ まねする。いつわる。
⑦ のために。
⑧ れる(られる)。
⑨ ・・・だと思う。
(小林信明監修、重要漢文単語 文例精解、6頁)。
従って、
(21)(22)により、
(23)
① 子為誰(あなたは誰か)。
に対する、
③ 誰為先生(誰が先生か)。
は、「誰(目的語)」の「前置」である。
然るに、
(24)
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・5頁)。
従って、
(23)(24)により、
(25)
① 子為誰(あなたは誰か)。
に対する、
③ 誰為先生(誰が先生か)。は、
「誰(目的語)」の「前置」による、「強調形」であって、
「誰(疑問詞)」の「移動」による、「強調形」である。
然るに、
(01)により、
(26)
① あなたは誰である。
② 誰が先生である。
に於いて、
②は、①に対する「心理的な音量差」に「強調形」であって、
② 誰が先生である=誰が先生であって(誰以外が先生でない)か。
といふ、「意味」である。
従って、
(16)(17)(25)(26)により、
(27)
③ 先生={孔子}
③ ONLY 孔子 IS 先生。
であって、尚且つ、
① 子為誰(あなたは誰か)。
に対する、
③ 誰為先生(誰が先生か)。は、
「誰(疑問詞)」の「移動」による「強調形」であって、
① あなたは誰か(子為誰)。
に対する、
③ 誰が先生か(誰為先生)。
は、「心理的な音量差」による「強調形」である。
従って、
然るに、
(28)
「唯一」の「唯」、すなはち、「ONLY ONE」の「ONLY」に相当する「漢字」
に関して、
それで、この「惟」や「唯」が用いられているものは、その動詞の目的語が、更に特に強調されていたものである(鈴木直治、中国語と漢文、341頁)。
との、ことである。
従って、
(28)により、
(29)
「強調」は、「ONLY」の「意味」に結びつくのであって、それ故、
① AはBである。
② AがBである。
に於いて、
① AはBである=A IS B。
② AがBである=ONLY A IS B。
といふ「意味」である。が故に、
②は、①に対する「心理的な音量差」に「強調形」であって、
① 子為誰(あなたは誰か)。
に対する、
③ 誰為先生(誰が先生か)。
は、「誰(目的語)」の「前置」による「強調形」である。
といふ、ことになる。
然るに、
(30)
[1]wh移動
意味を導くための深層構造が必要だという説明の時に、一番最初に取り上げられたのは疑問詞が文頭にある疑問文でした。主語はともかく、目的語が動詞の直後ではなく、動詞の前しかも文の先頭にあるという事実を説明するためには、目的語である疑問詞がちゃんと動詞の直後にある深層構造を設定すればよいわけです(町田健、チョムスキー入門、2006年、117頁)。
どの文についても、英語の文法は深層構造を生成するし、この深層構造と表層構造が結び付ける方法を示す規則を含んでいる(ノーム・チョムスキー、言語と精神、2011年、195頁)。
然るに、
(31)
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・5頁)。
に於いて、
漢語 ⇒ 英語。
疑問 ⇒ WH疑問。
前置 ⇒ WH移動。
とするならば、
英語としての「通常の語順」を変えて、「目的語のWH疑問詞」を「WH移動」することは、WH疑問文において、そのWH疑問の中心になっている「WH疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない。
といふ、ことになる。
従って、
(32)
「FC2ブログ(2011.05.03.TueCategory:論理学)」でも書いてゐるやうに、
その言語(漢語)を用ちいる集団の意識として、
「排他的命題」を主張する目的が、「強調」につながり、「強調」しようとする意識が、「疑問詞の前置(Wh移動)」をプロモート(促進・助長)する形で、「漢文に於ける、Wh移動」が、定着したという風に、私は、理解しています。
従って、
(33)
「漢文のWh移動」から見たとき、
この場合、深層構造から表層構造への変換過程で一番重要なのは、疑問詞を文頭に移動させる変形で、この変形規則を「Wh移動変形」と呼びます(町田健、チョムスキー入門、118頁)。
という言い方は、ただ単に、そう決めるのであると、述べているに過ぎず、そのため、私には、ずいぶんと、無理があるように、思えて、なりません。
(34)
鳥がゐる(今、目に前に)。
おじいさんとおばあさんがいた(昔、ある所に)。
のうちの、
鳥がゐる(今、目に前に)。
に関しては、
kannbunn.blog84.fc2.com/blog-entry-16.html を、クリックして下さい。
これも、前半は、約三十年前に読んだ、「没論文」に、書いた通りです。
平成26年03月05日、毛利太。
2014年2月22日土曜日
WH移動(wh-movement in archaic Chinese)。
ともあれ、
(01)
「① 死なない人間が存在しない」のであれば、
「② 全ての人間は死ぬ」。
といふ「命題」が「真」であることを、「証明」したい。
(02)
命題 ①と、
命題 ②が有って、
その「結果」として、「矛盾(A&非A)」が生じるであれば、
① と、
② の、
どちらか一方が、「偽」である。
従って、
(03)
① が「真」であれば、② が「偽」であり、
② が「偽」であれば、② の否定が「真」である。
従って、
(04)
① は「真」であり、尚且つ、
② も「真」であると「仮定」して、「矛盾(A&~A)」が生じる場合は、
① が「真」であれば(条件的証明)、
② の否定が「真」である(背理法)。
然るに、
(05)
① ~(ヨx)(Hx&~Mx)=死なない人間は存在しない。
② (x)(Hx→Mx) =全ての人間は死ぬ。
に於いて、
(06)
1 (01) ~(ヨx)(Hx&~Mx) A〔仮定①〕
2 (02) ~(x)(Hx→Mx) A〔仮定②〕
2 (03) ~(Ha→Ma) UE
2 (04) ~(~Ha∨Ma) (03)Df.→
2 (05) ~~Ha&~Ma (04)DML
2 (06) Ha&~Ma (05)DN
2 (07) (ヨx)(Hx&~Mx) (06)E I
1,2 (08) ~(ヨx)(Hx&~Mx)&(ヨx)(Hx&~Mx)(01)(07)&I
1 (09) ~~(x)(Ha→Ma) (02)(08)RAA〔背理法〕
1 (10) (x)(Ha→Ma) (09)U I〔仮定②の否定〕
(11) ~(ヨx)(Hx&~Mx)→(x)(Hx→Mx) (01)(11)CP
(12) 死なない人間が存在しないならば、全ての人間は死ぬ。(01)(11)CP
(13) ① 無〔人不(死)〕則 ② 人皆有(死)。(01)(11)CP
従って、
(05)(06)により、
(07)
~(ヨx)(Hx&~Mx)=死なない人間は存在しない。
に於ける、「記号」の意味は、
否定 =~
存在する =(ヨx)
xは人間である=Hx
接続詞 =&
xは死ぬ =Mx
然るに、
(08)
「論理記号」の「結合力」の強さは、「¬、&、∨、→、⇔」の順であり、括弧は曖昧さが無い場合には適当に省略される(赤間世紀、prologで学ぶAIプログラミング、平成20年、13頁)。に於いて、「¬(否定)」は、「~(否定)」に等しい。
従って、
(09)
むやみに括弧が多くなることは我慢できないのである(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、59頁)。とはせずに、「括弧」を、「省略」しない場合は、
~(ヨx)(Hx&~Mx)=
~((ヨx)(Hx&~(Mx)))
従って、
(10)
(( )(( )))を、
[( )〔( )〕]に替へると、
~(ヨx)(Hx&~Mx)=
~((ヨx)(Hx&~(Mx)))=
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]
従って、
(11)
『返り点に対する「括弧」の用法』にならって、
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]⇒
[〔Hx&(Mx)~〕(ヨx)]~。
従って、
(07)(11)により、
(12)
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]⇒
[〔Hx&(Mx)~〕(ヨx)]~=
[〔人間であって(死な)ないxは〕(存在し)]ない=
人間であって 死な ない者は 存在し) ない。
然るに、
(13)
無〔人不(死)〕⇒
〔人(死)不〕無=
〔人にして(死せ)不る〕は無し=
人にして 死せ 不る は無し。
従って、
(12)(13)により、
(14)
無〔人不(死)〕⇒
〔人(死)不〕無=
〔人にして(死せ)不る〕は無し=
人にして 死せ 不る は無し。
といふ『返り点に対する「括弧」の用法』は、
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]⇒
[〔Hx&(Mx)~〕(ヨx)]~=
[〔人間であって(死な)ないxは〕(存在し)]ない=
人間であって 死な ない者は 存在し ない。
といふ『述語論理に対する「括弧」の用法』に、等しい。
従って、
(14)により、
(15)
① 無人不死。
といふ「漢文」は、「表層的」には、
① 無人不死。
といふ「形」をしてゐる一方で、「論理的」には、
② 無〔人不(死)〕
といふ「形」をしてゐる。はずである。
そのため、
(16)
① 読漢文。
の場合も、「論理的」には、
② 読(漢文)。
といふ「形」をしてゐる。とする。
然るに、
(17)
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語)。
の場合は、
② (誰)毀(誰)誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ。
となってゐて、
① 毀誰誉誰=
② 毀(誰)誉(誰)⇒
③ (誰)毀(誰)誉 =
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ。
とはなってゐない。
すなはち、
(18)
② 誉(彼)=彼を誉む。
② 敬(汝)=汝を敬ふ。
② 先(我)=我を先にす。
といふ、「語順」からすれば、
② 誉(誰)=誰をか誉む。
② 敬(誰)=誰をか敬ふ。
② 先(誰)=誰をか先にせむ。
となるはずである。
にも拘わらず、実際には、さうはならず、
②(誰)誉=誰をか誉む。
②(誰)敬=誰をか敬ふ。
②(誰)先=誰をか先にせむ。
といふ風に、「誰(WHOM)」が、「文頭」に来てゐる。
cf.
『孟子』の原文と趙岐の注を比較すると上古の語順は後漢時代すでに変化して現代語式なっていたことがわかる。すなわち『孟子』では「誰敬」「誰先」と賓語の誰が動詞の前に来ている(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁)。
英語(や多くのヨーロッパ言語)のWH要素は文頭へ移動する。日本語( 中国語、韓国語など)ではWH要素は移動しない(日本語の疑問文について - 神戸松蔭女子学院大学Adobe PDF)。
従って、
(18)
FC2ブログ(2011.05.03.Tue).
でも述べた通り、
① 誰毀誰誉=
② (誰)毀(誰)誉=誰をか毀り、誰をか誉めむ。
は、「漢文」に於ける、「WH移動」である。
(A)
「これは私のものである。」の、「私」を「強調」して言うのであれば、その場合は、
「これは私のものであって(、私以外の者の、ものではない)。」⇒「排他的命題」。
という、意味になります。
然るに、
(B)
「ある部分」を「強調」するということは、何らかの形で、「その部分」が、「その他の部分」よりも、「目立つ」ように、工夫することである。という風に、考えられます。
従って、
(C)
「通常の語順」に従わないのであれば、「その部分」は、当然、「目立つ」わけですから、今行った議論 からすれば、「その部分」は、「強調」されることになり、その意味で、私は、次のような、説明を支持します。
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・頁)。
加えて、
(D)
誰毀誰誉(論語、巻第八、衛霊公第十五、二五)は、
誰かを誉め、その誰か以外を誉めないのであれば、その誰かとは、誰か。
という、「排他的命題」であると、考えます。
― 中略 ―
(E)
その言語(漢語)を用ちいる集団の意識として、
「排他的命題」を主張する目的が、「強調」につながり、「強調」しようとする意識が、「疑問詞の前置(Wh移動)」をプロモート(促進・助長)する形で、「漢文に於ける、Wh移動」が、定着したという風に、私は、理解しています。
然るに、
(19)
例へば、ラテン語の場合、
QUIS EST ILLE? =誰、彼である、そこの。
QUO VADIS DOMINE?=何処へあなたは行くのか。主よ。
QUID VIDERE VIS? =何を見ることを、あなたは望むか。
従って、
(20)
「疑問詞」だけを「英語」に置き換へると、
WHO EST ILLE? =あそこにいるのは誰ですか。
WHERE VADIS DOMINE?=何処へあなたは行くのか。主よ。
WHAT VIDERE VIS? =あなたは何が見たいですか。
然るに、
(21)
WHAT DO YOU WANT TO SEE?
I WANT TO SEE A(THE) MOVIE.
従って、
(20)(21)により、
(22)
英語の場合は、
ラテン語のやうな、「語形」が、「格(てにをは)」を表す「言語」から、
漢文のやうな、 「語順」が、「格(てにをは)」を表す「言語」に、
変はって行った過程で、
「疑問詞」だけは、「語頭」に「止まった」のかも、知れない。
すなはち、
(23)
「WH移動」ではなく、「WH停止」なのかも、知れない。
加へて、
(24)
たとえば、「私の女主人」と言いたいとき、普通は domina mea(domina,ae,f)ですが、mea domina と言っても構わないのです。散文などでは離れることさえよくあります。これがラテン語の柔軟さ、屈折語の強みです。このmea domina はキリスト教では「聖母マリア」といふ特別な意味で使われました。比喩的には「敬うべき女性、あこがれの女(ひと)」。伊語のmadonna の元の形です(大西英文、はじめてのラテン語、1997年、75頁)。
従って、
(24)により、
(25)
現代イタリア語としては、
② MADONNA=MEA DOMINA。
といふ「語順」だけしかなく(?)、
古代イタリア語(ラテン語)としては、
①「普通」は ⇒ DOMINA MEA。
②「前置」は ⇒ MEA DOMINA。
である。と、思はれる。
従って、
(25)
現代イタリア語としては、
一通りしか無く、
②「普通」は ⇒ MEUS LIBER(私の本)。
古代イタリア語(ラテン語)としては、
二通り有って、
①「普通」は ⇒ LIBER MEUS(私の本)。
②「前置」は ⇒ MEUS LIBER(私の本)。
である。と、思はれる。
従って、
(A)~(25)により、
(26)
ラテン語に於ける、
① LIBER MEUS(私の本)。
に対する、
② MEUS LIBER(私の本)。
といふ「言ひ方」は、「所有形容詞」の「前置」による「強調形」であって、
② MEUS LIBER=私の以外のものではない所の、私の本。
といふ「意味」である。と、思はれる。
然るに、
(27)
① LIBER MEUS。
に対する、
② MEUS LIBER.
といふラテン語に、
② 私の以外のものではない所の、私の本。
といふニュアンスが有るのか、どうかは、イタリア人でも、フランス人でもない、私には、全くわからない。
但し、
(28)
① 私の本。
① 私のです。
に於いて、「私の」を、強く言ふと、日本語では、
② 私の本 =(私以外のものではない所の、)私の本。
② 私のです=(私以外のものではなく)私のです。
といふ「意味」になることは、知ってゐる。
然るに、
(29)
① LIBER MEUS。
のやうな「普通の語順」を、
② MEUS LIBER。
のやうに「前置」した際に、
② MEUS LIBER=私の以外のものではない所の、私の本。
といふニュアンスになる言語が、3000とも5000ともいわれる世界の言語の中に、在るのかどうかは、わからない。
(30)
仮に、ある言語Aが、そのやうな言語であるとして、その言語Aの話者が、英語だけを使用し始めた結果として、その言語Aが、亡びようとしてゐるのかどうかも、分らない。
従って、
(31)
そのやうな、滅びつつある言語Aが有るのであれば、滅びてしまふ前に、せめて「記録」だけは、残って欲しい。
(32)
① WHAT DO YOU WANT TO SEE?
② DO YOU WANT TO SEE what?
③ I WANT TO SEE MOVIE.
の内の、
② DO YOU WANT TO SEE what?
が、消滅しつつ、あることによって、今現在、
① WHAT DO YOU WANT TO SEE?
③ I WANT TO SEE MOVIE.
といふ「WH移動」が、生じようとしてゐる「言語」が、実際に在るのであれば、滅びてしまふ前に、「記録」だけは、残って欲しい。
従って、
(33)
「現在」に於いても、そのやうな「言語」が在るかもしれないし、
「過去」には、そのやうな「言語」が在ったのかも知れないため、
私は、世界中の、「過去と現在の言語」を、全て知りたい。
然るに、
(34)
「世界中の、全ての、過去と現在の言語」を知ることは、不可能なので、なるべく、「互いにかけ離れた、様々な言語を、少しづづ」知りたい。
然るに、
(35)
ただし、言語学のあらゆる分野が世界中の言語を研究対象にしているわけではない。とくに最近の言語学は、人間が言語を生成するメカニズムを理論的に追い求めるのが主流である。心の中、いや、頭の中がどうなっているのかを追求するわけで、これでは心理学や生理学に近い。
(黒田龍之介、世界の言語入門、2008年、5頁)
然るに、
(36)
「ラテン語やギリシャ語」のやうな、「ありふれた言語の対極」にある「漢文」は、「世界中の様々な言語」から、かなりかけ離れてゐる(?)。と、思はれる。
加へて、
(37)
エヴェレットは、この言語に再帰(繰り返し、recursion)が無いことは、(もしそれが正しいとすれば)チョムスキー言語学の根底を崩すものとなると主張している。この説はしかし、「エヴェレット自身がピラハン語の中に再帰を認めているではないか」と、多くの言語学者から反論を受けている。これに対しエヴェレットは、表面的には再帰的であるように見えるとする当初の発言は、ピダハン語に対する知識不足による誤った解釈であったと言っている(ウィキペディア)。
従って、
(38)
「ラテン語や、ギリシャ語」のやうな、「ありふれた言語の対極」にある「言語」は、「漢文訓読」と、「ピダハン語」なのかも、知れない。
cf.
「どこに外国語を母国語の語順で読む国があろう」か(、そのやうな例は、世界中探してもどこにも無い)と嘆く著者(西洋文化研究者)は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するときだ」とするのである(訓読論、勉誠出版、2008年、1頁)。
然るに、
(39)
この案を簡単に言えば「漢字を禁止し、カタカナのみにする」といふことであります。この案を提案した海軍少佐によれば、カタカナのみにすればすべてが能率的にできるということです。さらに学校で漢字を禁止すると、GHQの検閲が容易になるということです。さらに学校で漢字を禁止すれば、「漢字で書かれた戦前の宣伝に感染しない、日本人の世代を生み出すことになろう。なぜなら、かれらはそれを読むことができないからである」予想していたのです(津田幸男、日本語防衛論、平成23年、150頁)。
(40)
「漢文」を、まともに習ったことがあれば、
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語)。
といふ「語順」が「倒置」であることは、誰にでも、分るはずであり、
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語、巻第八、衛霊公第十五、二五)。
が「反語」であることも、少し考へれば、分るはずである。
(41)
① 誰毀誰誉=
② (誰)毀(誰)誉 ⇒
③ (誰)毀(誰)誉 =
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)。
といふ「漢文」が、「倒置・反語」であることを、「強く意識」する時、
① (誰)毀(誰)誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)。
といふ「漢文」は、
⑤ 誰かを誉め、その誰か以外を誉めないのであれば、その誰かとは、誰か。
といった、「ニュアンス」に、ならないでせうか?
(42)
仮に、少しは、そのやうな「ニュアンス」になり、尚且つ、
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・頁)。
といふことを、読んだことがあるのであれば、私ならぬ、あなたの場合も、「排他的命題」を主張する目的が、「強調」につながり、「強調」しようとする意識が、「疑問詞の前置(Wh移動)」をプロモート(促進・助長)する形で、「漢文に於ける、Wh移動」が、定着した。
といふ風に、考へるやも、知れない。
それ故、
(43)
日本語を母語とする、その意味では普通の高校生であるにかかわらず、60年代のMITに直接論文を請求し、「それを知る由もないMITの言語学科では、いつもすぐに Dr.Harada あてに謄写版の論文をおくってくるのであった。」といふ、逸話が有る、原田信一のやうな人物が、受験勉強の際に、
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語)。
に接してゐたとしたら、その、天才である彼が、
① (誰)毀(誰)誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語)。
いふ「漢文」が、
① 誰毀誰誉=
② (誰)毀(誰)誉 ⇒
③ (誰)毀(誰)誉 =
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)=
⑤ 誰かを誉め、その誰か以外を誉めないのであれば、その誰かとは、誰か。
といふ「排他的命題」であるといふことに、気付いた。としても、不思議ではない。
従って、
(44)
1960年代の終わりに彗星の如く日本の言語学界に現われた、天才言語学者によって、MITの
チョムスキーにも、
① (誰)毀(誰)誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)。
といふ、「古代漢語に於けるWH移動(wh-movement in archaic Chinese)」が知られることになり、古代漢語の場合は、上古の語順は後漢時代すでに変化して現代語式なっていたことがわかる(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁)。
といふこととと、相俟って、
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)=
⑤ 誰かを誉め、その誰か以外を誉めないのであれば、その誰かとは、誰か。
といふ「排他的命題」は、あるいは、一躍有名になってゐた。かも、知れない。
然るに、
(45)
その頃から既に、
最近では倉石武四郎(くらいし・たけしろう)博士(1897-1975)が、中国語の音読を強硬に主張されました。昭和16年に出版された『支那語教育の理論と実際』(岩波書店)は、まさに信念の書です。― 中略、― 倉石博士の影響力はすさまじく、現在ではほとんどの大学において、漢文の講座で中国語(普通話)の音読を用いています(漢文の中国語音読の主張3(倉石武四郎博士) 日本漢文の世界 kambun.jp)。
といふことによって、「漢文訓読」は、アカデミズムとしては、人気の下降に歯止めが訊かず、それ故、
中国文学科に変身した新学科には、訓読を軽視し、否定する教授もいらっしゃる(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、38頁)。といふことに、なってゐる。次第である。
といふ風に、独学の徒は、思ってゐる。
平成26年02月22日、毛利太。
(01)
「① 死なない人間が存在しない」のであれば、
「② 全ての人間は死ぬ」。
といふ「命題」が「真」であることを、「証明」したい。
(02)
命題 ①と、
命題 ②が有って、
その「結果」として、「矛盾(A&非A)」が生じるであれば、
① と、
② の、
どちらか一方が、「偽」である。
従って、
(03)
① が「真」であれば、② が「偽」であり、
② が「偽」であれば、② の否定が「真」である。
従って、
(04)
① は「真」であり、尚且つ、
② も「真」であると「仮定」して、「矛盾(A&~A)」が生じる場合は、
① が「真」であれば(条件的証明)、
② の否定が「真」である(背理法)。
然るに、
(05)
① ~(ヨx)(Hx&~Mx)=死なない人間は存在しない。
② (x)(Hx→Mx) =全ての人間は死ぬ。
に於いて、
(06)
1 (01) ~(ヨx)(Hx&~Mx) A〔仮定①〕
2 (02) ~(x)(Hx→Mx) A〔仮定②〕
2 (03) ~(Ha→Ma) UE
2 (04) ~(~Ha∨Ma) (03)Df.→
2 (05) ~~Ha&~Ma (04)DML
2 (06) Ha&~Ma (05)DN
2 (07) (ヨx)(Hx&~Mx) (06)E I
1,2 (08) ~(ヨx)(Hx&~Mx)&(ヨx)(Hx&~Mx)(01)(07)&I
1 (09) ~~(x)(Ha→Ma) (02)(08)RAA〔背理法〕
1 (10) (x)(Ha→Ma) (09)U I〔仮定②の否定〕
(11) ~(ヨx)(Hx&~Mx)→(x)(Hx→Mx) (01)(11)CP
(12) 死なない人間が存在しないならば、全ての人間は死ぬ。(01)(11)CP
(13) ① 無〔人不(死)〕則 ② 人皆有(死)。(01)(11)CP
従って、
(05)(06)により、
(07)
~(ヨx)(Hx&~Mx)=死なない人間は存在しない。
に於ける、「記号」の意味は、
否定 =~
存在する =(ヨx)
xは人間である=Hx
接続詞 =&
xは死ぬ =Mx
然るに、
(08)
「論理記号」の「結合力」の強さは、「¬、&、∨、→、⇔」の順であり、括弧は曖昧さが無い場合には適当に省略される(赤間世紀、prologで学ぶAIプログラミング、平成20年、13頁)。に於いて、「¬(否定)」は、「~(否定)」に等しい。
従って、
(09)
むやみに括弧が多くなることは我慢できないのである(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、59頁)。とはせずに、「括弧」を、「省略」しない場合は、
~(ヨx)(Hx&~Mx)=
~((ヨx)(Hx&~(Mx)))
従って、
(10)
(( )(( )))を、
[( )〔( )〕]に替へると、
~(ヨx)(Hx&~Mx)=
~((ヨx)(Hx&~(Mx)))=
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]
従って、
(11)
『返り点に対する「括弧」の用法』にならって、
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]⇒
[〔Hx&(Mx)~〕(ヨx)]~。
従って、
(07)(11)により、
(12)
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]⇒
[〔Hx&(Mx)~〕(ヨx)]~=
[〔人間であって(死な)ないxは〕(存在し)]ない=
人間であって 死な ない者は 存在し) ない。
然るに、
(13)
無〔人不(死)〕⇒
〔人(死)不〕無=
〔人にして(死せ)不る〕は無し=
人にして 死せ 不る は無し。
従って、
(12)(13)により、
(14)
無〔人不(死)〕⇒
〔人(死)不〕無=
〔人にして(死せ)不る〕は無し=
人にして 死せ 不る は無し。
といふ『返り点に対する「括弧」の用法』は、
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]⇒
[〔Hx&(Mx)~〕(ヨx)]~=
[〔人間であって(死な)ないxは〕(存在し)]ない=
人間であって 死な ない者は 存在し ない。
といふ『述語論理に対する「括弧」の用法』に、等しい。
従って、
(14)により、
(15)
① 無人不死。
といふ「漢文」は、「表層的」には、
① 無人不死。
といふ「形」をしてゐる一方で、「論理的」には、
② 無〔人不(死)〕
といふ「形」をしてゐる。はずである。
そのため、
(16)
① 読漢文。
の場合も、「論理的」には、
② 読(漢文)。
といふ「形」をしてゐる。とする。
然るに、
(17)
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語)。
の場合は、
② (誰)毀(誰)誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ。
となってゐて、
① 毀誰誉誰=
② 毀(誰)誉(誰)⇒
③ (誰)毀(誰)誉 =
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ。
とはなってゐない。
すなはち、
(18)
② 誉(彼)=彼を誉む。
② 敬(汝)=汝を敬ふ。
② 先(我)=我を先にす。
といふ、「語順」からすれば、
② 誉(誰)=誰をか誉む。
② 敬(誰)=誰をか敬ふ。
② 先(誰)=誰をか先にせむ。
となるはずである。
にも拘わらず、実際には、さうはならず、
②(誰)誉=誰をか誉む。
②(誰)敬=誰をか敬ふ。
②(誰)先=誰をか先にせむ。
といふ風に、「誰(WHOM)」が、「文頭」に来てゐる。
cf.
『孟子』の原文と趙岐の注を比較すると上古の語順は後漢時代すでに変化して現代語式なっていたことがわかる。すなわち『孟子』では「誰敬」「誰先」と賓語の誰が動詞の前に来ている(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁)。
英語(や多くのヨーロッパ言語)のWH要素は文頭へ移動する。日本語( 中国語、韓国語など)ではWH要素は移動しない(日本語の疑問文について - 神戸松蔭女子学院大学Adobe PDF)。
従って、
(18)
FC2ブログ(2011.05.03.Tue).
でも述べた通り、
① 誰毀誰誉=
② (誰)毀(誰)誉=誰をか毀り、誰をか誉めむ。
は、「漢文」に於ける、「WH移動」である。
(A)
「これは私のものである。」の、「私」を「強調」して言うのであれば、その場合は、
「これは私のものであって(、私以外の者の、ものではない)。」⇒「排他的命題」。
という、意味になります。
然るに、
(B)
「ある部分」を「強調」するということは、何らかの形で、「その部分」が、「その他の部分」よりも、「目立つ」ように、工夫することである。という風に、考えられます。
従って、
(C)
「通常の語順」に従わないのであれば、「その部分」は、当然、「目立つ」わけですから、今行った議論 からすれば、「その部分」は、「強調」されることになり、その意味で、私は、次のような、説明を支持します。
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・頁)。
加えて、
(D)
誰毀誰誉(論語、巻第八、衛霊公第十五、二五)は、
誰かを誉め、その誰か以外を誉めないのであれば、その誰かとは、誰か。
という、「排他的命題」であると、考えます。
― 中略 ―
(E)
その言語(漢語)を用ちいる集団の意識として、
「排他的命題」を主張する目的が、「強調」につながり、「強調」しようとする意識が、「疑問詞の前置(Wh移動)」をプロモート(促進・助長)する形で、「漢文に於ける、Wh移動」が、定着したという風に、私は、理解しています。
然るに、
(19)
例へば、ラテン語の場合、
QUIS EST ILLE? =誰、彼である、そこの。
QUO VADIS DOMINE?=何処へあなたは行くのか。主よ。
QUID VIDERE VIS? =何を見ることを、あなたは望むか。
従って、
(20)
「疑問詞」だけを「英語」に置き換へると、
WHO EST ILLE? =あそこにいるのは誰ですか。
WHERE VADIS DOMINE?=何処へあなたは行くのか。主よ。
WHAT VIDERE VIS? =あなたは何が見たいですか。
然るに、
(21)
WHAT DO YOU WANT TO SEE?
I WANT TO SEE A(THE) MOVIE.
従って、
(20)(21)により、
(22)
英語の場合は、
ラテン語のやうな、「語形」が、「格(てにをは)」を表す「言語」から、
漢文のやうな、 「語順」が、「格(てにをは)」を表す「言語」に、
変はって行った過程で、
「疑問詞」だけは、「語頭」に「止まった」のかも、知れない。
すなはち、
(23)
「WH移動」ではなく、「WH停止」なのかも、知れない。
加へて、
(24)
たとえば、「私の女主人」と言いたいとき、普通は domina mea(domina,ae,f)ですが、mea domina と言っても構わないのです。散文などでは離れることさえよくあります。これがラテン語の柔軟さ、屈折語の強みです。このmea domina はキリスト教では「聖母マリア」といふ特別な意味で使われました。比喩的には「敬うべき女性、あこがれの女(ひと)」。伊語のmadonna の元の形です(大西英文、はじめてのラテン語、1997年、75頁)。
従って、
(24)により、
(25)
現代イタリア語としては、
② MADONNA=MEA DOMINA。
といふ「語順」だけしかなく(?)、
古代イタリア語(ラテン語)としては、
①「普通」は ⇒ DOMINA MEA。
②「前置」は ⇒ MEA DOMINA。
である。と、思はれる。
従って、
(25)
現代イタリア語としては、
一通りしか無く、
②「普通」は ⇒ MEUS LIBER(私の本)。
古代イタリア語(ラテン語)としては、
二通り有って、
①「普通」は ⇒ LIBER MEUS(私の本)。
②「前置」は ⇒ MEUS LIBER(私の本)。
である。と、思はれる。
従って、
(A)~(25)により、
(26)
ラテン語に於ける、
① LIBER MEUS(私の本)。
に対する、
② MEUS LIBER(私の本)。
といふ「言ひ方」は、「所有形容詞」の「前置」による「強調形」であって、
② MEUS LIBER=私の以外のものではない所の、私の本。
といふ「意味」である。と、思はれる。
然るに、
(27)
① LIBER MEUS。
に対する、
② MEUS LIBER.
といふラテン語に、
② 私の以外のものではない所の、私の本。
といふニュアンスが有るのか、どうかは、イタリア人でも、フランス人でもない、私には、全くわからない。
但し、
(28)
① 私の本。
① 私のです。
に於いて、「私の」を、強く言ふと、日本語では、
② 私の本 =(私以外のものではない所の、)私の本。
② 私のです=(私以外のものではなく)私のです。
といふ「意味」になることは、知ってゐる。
然るに、
(29)
① LIBER MEUS。
のやうな「普通の語順」を、
② MEUS LIBER。
のやうに「前置」した際に、
② MEUS LIBER=私の以外のものではない所の、私の本。
といふニュアンスになる言語が、3000とも5000ともいわれる世界の言語の中に、在るのかどうかは、わからない。
(30)
仮に、ある言語Aが、そのやうな言語であるとして、その言語Aの話者が、英語だけを使用し始めた結果として、その言語Aが、亡びようとしてゐるのかどうかも、分らない。
従って、
(31)
そのやうな、滅びつつある言語Aが有るのであれば、滅びてしまふ前に、せめて「記録」だけは、残って欲しい。
(32)
① WHAT DO YOU WANT TO SEE?
② DO YOU WANT TO SEE what?
③ I WANT TO SEE MOVIE.
の内の、
② DO YOU WANT TO SEE what?
が、消滅しつつ、あることによって、今現在、
① WHAT DO YOU WANT TO SEE?
③ I WANT TO SEE MOVIE.
といふ「WH移動」が、生じようとしてゐる「言語」が、実際に在るのであれば、滅びてしまふ前に、「記録」だけは、残って欲しい。
従って、
(33)
「現在」に於いても、そのやうな「言語」が在るかもしれないし、
「過去」には、そのやうな「言語」が在ったのかも知れないため、
私は、世界中の、「過去と現在の言語」を、全て知りたい。
然るに、
(34)
「世界中の、全ての、過去と現在の言語」を知ることは、不可能なので、なるべく、「互いにかけ離れた、様々な言語を、少しづづ」知りたい。
然るに、
(35)
ただし、言語学のあらゆる分野が世界中の言語を研究対象にしているわけではない。とくに最近の言語学は、人間が言語を生成するメカニズムを理論的に追い求めるのが主流である。心の中、いや、頭の中がどうなっているのかを追求するわけで、これでは心理学や生理学に近い。
(黒田龍之介、世界の言語入門、2008年、5頁)
然るに、
(36)
「ラテン語やギリシャ語」のやうな、「ありふれた言語の対極」にある「漢文」は、「世界中の様々な言語」から、かなりかけ離れてゐる(?)。と、思はれる。
加へて、
(37)
エヴェレットは、この言語に再帰(繰り返し、recursion)が無いことは、(もしそれが正しいとすれば)チョムスキー言語学の根底を崩すものとなると主張している。この説はしかし、「エヴェレット自身がピラハン語の中に再帰を認めているではないか」と、多くの言語学者から反論を受けている。これに対しエヴェレットは、表面的には再帰的であるように見えるとする当初の発言は、ピダハン語に対する知識不足による誤った解釈であったと言っている(ウィキペディア)。
従って、
(38)
「ラテン語や、ギリシャ語」のやうな、「ありふれた言語の対極」にある「言語」は、「漢文訓読」と、「ピダハン語」なのかも、知れない。
cf.
「どこに外国語を母国語の語順で読む国があろう」か(、そのやうな例は、世界中探してもどこにも無い)と嘆く著者(西洋文化研究者)は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するときだ」とするのである(訓読論、勉誠出版、2008年、1頁)。
然るに、
(39)
この案を簡単に言えば「漢字を禁止し、カタカナのみにする」といふことであります。この案を提案した海軍少佐によれば、カタカナのみにすればすべてが能率的にできるということです。さらに学校で漢字を禁止すると、GHQの検閲が容易になるということです。さらに学校で漢字を禁止すれば、「漢字で書かれた戦前の宣伝に感染しない、日本人の世代を生み出すことになろう。なぜなら、かれらはそれを読むことができないからである」予想していたのです(津田幸男、日本語防衛論、平成23年、150頁)。
(40)
「漢文」を、まともに習ったことがあれば、
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語)。
といふ「語順」が「倒置」であることは、誰にでも、分るはずであり、
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語、巻第八、衛霊公第十五、二五)。
が「反語」であることも、少し考へれば、分るはずである。
(41)
① 誰毀誰誉=
② (誰)毀(誰)誉 ⇒
③ (誰)毀(誰)誉 =
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)。
といふ「漢文」が、「倒置・反語」であることを、「強く意識」する時、
① (誰)毀(誰)誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)。
といふ「漢文」は、
⑤ 誰かを誉め、その誰か以外を誉めないのであれば、その誰かとは、誰か。
といった、「ニュアンス」に、ならないでせうか?
(42)
仮に、少しは、そのやうな「ニュアンス」になり、尚且つ、
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・頁)。
といふことを、読んだことがあるのであれば、私ならぬ、あなたの場合も、「排他的命題」を主張する目的が、「強調」につながり、「強調」しようとする意識が、「疑問詞の前置(Wh移動)」をプロモート(促進・助長)する形で、「漢文に於ける、Wh移動」が、定着した。
といふ風に、考へるやも、知れない。
それ故、
(43)
日本語を母語とする、その意味では普通の高校生であるにかかわらず、60年代のMITに直接論文を請求し、「それを知る由もないMITの言語学科では、いつもすぐに Dr.Harada あてに謄写版の論文をおくってくるのであった。」といふ、逸話が有る、原田信一のやうな人物が、受験勉強の際に、
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語)。
に接してゐたとしたら、その、天才である彼が、
① (誰)毀(誰)誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語)。
いふ「漢文」が、
① 誰毀誰誉=
② (誰)毀(誰)誉 ⇒
③ (誰)毀(誰)誉 =
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)=
⑤ 誰かを誉め、その誰か以外を誉めないのであれば、その誰かとは、誰か。
といふ「排他的命題」であるといふことに、気付いた。としても、不思議ではない。
従って、
(44)
1960年代の終わりに彗星の如く日本の言語学界に現われた、天才言語学者によって、MITの
チョムスキーにも、
① (誰)毀(誰)誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)。
といふ、「古代漢語に於けるWH移動(wh-movement in archaic Chinese)」が知られることになり、古代漢語の場合は、上古の語順は後漢時代すでに変化して現代語式なっていたことがわかる(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁)。
といふこととと、相俟って、
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)=
⑤ 誰かを誉め、その誰か以外を誉めないのであれば、その誰かとは、誰か。
といふ「排他的命題」は、あるいは、一躍有名になってゐた。かも、知れない。
然るに、
(45)
その頃から既に、
最近では倉石武四郎(くらいし・たけしろう)博士(1897-1975)が、中国語の音読を強硬に主張されました。昭和16年に出版された『支那語教育の理論と実際』(岩波書店)は、まさに信念の書です。― 中略、― 倉石博士の影響力はすさまじく、現在ではほとんどの大学において、漢文の講座で中国語(普通話)の音読を用いています(漢文の中国語音読の主張3(倉石武四郎博士) 日本漢文の世界 kambun.jp)。
といふことによって、「漢文訓読」は、アカデミズムとしては、人気の下降に歯止めが訊かず、それ故、
中国文学科に変身した新学科には、訓読を軽視し、否定する教授もいらっしゃる(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、38頁)。といふことに、なってゐる。次第である。
といふ風に、独学の徒は、思ってゐる。
平成26年02月22日、毛利太。
2014年2月11日火曜日
A&B⊂C=学而優則仕。
(01)
而=&(連言)
則=⊃(含意)
A=学
B=優
C=仕
従って、
(01)により、
(02)
① 学而優則仕=
② A&B⊃C。
従って、
(03)
① 学而優則仕。
といふ「論語」の一句は、
② A&B⊃C=AであってBならばC。
といふことである。
然るに、
(04)
② AであってBならばC。
といふ「構文(シンタックス)」は、「これ以上簡単なそれが無い」くらひ、「簡単」である。
従って、
(02)(04)により、
(05)
① 学而優則仕=
② 学&優⊃仕=学びて優なれば則ち仕ふ。。
といふ「漢文」は、「これ以上簡単なそれが無い」くらひ、「簡単」である。
然るに、
(06)
学部の2年生でこの学習会に参加していた者たち二三人が、あるとき連れ立ってわたしの所に来、「学而優則仕」と書いた紙切れを示して、これはどういう意味ですか、とたずねた(牛島徳治、中国古典の学び方、1977年、60頁)。
(07)
これは『論語』の中の句で、「学んでゆとりがあったら官吏になる」ということだ、と説明した。それから一週間か十日ぐらいたったある夜、わたしは何か所かわからない箇所があった。あとで、みんなで読み合わせ、突き合わせて解読して行くうち、わたしが「次の一句が全然わからなかった。」というと、そばにいた二三人の学生が一斉に笑い出して、いった。「先生、そこはこの間、先生がぼくたちに教えてくれた”xue er you ze shi”ですよ!」(同じく、60頁)。
従って、
(05)~(07)により、
(08)
① 学而優則仕=
② A&B⊃C=AであってBならばC。
といふ「漢文」は、「極めて簡単」であるにも拘わらず、「漢文訓読」の知識に依らない限り、「中国語の先生」にも読めなかった。
といふ、ことになる。
然るに、
(09)
ノルマン征服以来、イングランドを支配したのはフランス語話者たちで、イングランドの公用語もフランス語となった(唐澤一友、英語のルーツ、2011年、21頁)。
古英語を見て古い英語だと分かるかどうかも怪しい。英語はこの1000年間でそれだけ大きく性質を変化させてきたのである(唐澤一友、英語のルーツ、2011年、15頁)。
(10)
「フランス語で、古英語が読めない」のは当然であるが、「古英語を見て古い英語だと分かるかどうかも怪しい」のであれば、固より、古英語は、英語であるとさへ、言へない。
然るに、
(11)
オカダ 氏に依れば、北京語が徹底的なアルタイ語化を被ったために、中国語系統の中でも特殊な位置を占めるものとなった。アルタイ語化過程は一七世紀から満州族が中国を侵略して、首都の北京を中心に全国土を支配するようになった時から始まった。二百年以上を経て、アルタイ系統の中のツングース系に属している満州語が北京の話し言葉をはじめ北方中国の方言に非常に強い影響を及ぼした結果、北京語がもはや中国語系統に属せず、アルタイ語系統の一言語とみなさなければならないと強調する(webサイト、二十一世紀の漢文、ジャン-ノエル ロベール)。
従って、
(09)~(11)により、
(12)
「漢文(漢語)」が、「中華人民共和国語(アルタイ語)」で読めない。といふことは、
「古英語(ゲルマン語)」が、「フランス語(ロマンス語)」で読めないことに、相当する。
然るに、
(13)
今は昔、竹取の翁といふ者ありけり≒
今は昔、竹取の翁という者がいた。
といふことは、小学生にも、分るはずである。
従って、
(14)
「日本語の古文」と、「現代日本語」は、繋がってゐる一方で、
「漢文(漢語)」と、「中華人民共和国語(アルタイ語)」は、繋がってゐない。
従って、
(15)
現代中国語(中華人民共和国語)がしゃべれないような人は本当は漢文は読めないんです
...
といふ言ひ方は、
縁木求魚(木に縁りて魚を求む)。
といふことに、等しい。
(16)
じつは日本の、ご存じだと思いますが、荻生徂徠という、悪くいえばけったいなというか、よくいえば非常にすばらしい学者が江戸時代にいたんです。この人は江戸が鎖国時代であるにもかかわらず中国語ができた。
然るに、
(17)
荻生徂徠にしても、
「中国語(?)」⇒「漢文」
の「順番」ではなく、
「漢文」⇒「中国語(?)」
の「順番」で、学んだ。はずである。
そのため、
(18)
荻生徂徠にしても、「中国語(?)」が出来たが故に、その結果として、「漢文」も出来た。とは、思へない。
それ故、
(19)
中国文学科に変身した新学科には、訓読を軽視し、否定する教授もいらっしゃる(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、38頁)。
といふことは、出来れば、無くなって、もらいたい。
ものの、私の漢文は、受験の際のそれを除くと、全くの独学です。
それ故、
(20)
現代中国語(中華人民共和国語)がしゃべれないような人は本当は漢文は読めないんです
...
といふ言ひ方は、
縁木求魚(木に縁りて魚を求む)。
といふことに、等しい。
と、書くにあたって、気兼ねをしなければならない先生は、私にはゐません。
平成26年02月11日、毛利太。
而=&(連言)
則=⊃(含意)
A=学
B=優
C=仕
従って、
(01)により、
(02)
① 学而優則仕=
② A&B⊃C。
従って、
(03)
① 学而優則仕。
といふ「論語」の一句は、
② A&B⊃C=AであってBならばC。
といふことである。
然るに、
(04)
② AであってBならばC。
といふ「構文(シンタックス)」は、「これ以上簡単なそれが無い」くらひ、「簡単」である。
従って、
(02)(04)により、
(05)
① 学而優則仕=
② 学&優⊃仕=学びて優なれば則ち仕ふ。。
といふ「漢文」は、「これ以上簡単なそれが無い」くらひ、「簡単」である。
然るに、
(06)
学部の2年生でこの学習会に参加していた者たち二三人が、あるとき連れ立ってわたしの所に来、「学而優則仕」と書いた紙切れを示して、これはどういう意味ですか、とたずねた(牛島徳治、中国古典の学び方、1977年、60頁)。
(07)
これは『論語』の中の句で、「学んでゆとりがあったら官吏になる」ということだ、と説明した。それから一週間か十日ぐらいたったある夜、わたしは何か所かわからない箇所があった。あとで、みんなで読み合わせ、突き合わせて解読して行くうち、わたしが「次の一句が全然わからなかった。」というと、そばにいた二三人の学生が一斉に笑い出して、いった。「先生、そこはこの間、先生がぼくたちに教えてくれた”xue er you ze shi”ですよ!」(同じく、60頁)。
従って、
(05)~(07)により、
(08)
① 学而優則仕=
② A&B⊃C=AであってBならばC。
といふ「漢文」は、「極めて簡単」であるにも拘わらず、「漢文訓読」の知識に依らない限り、「中国語の先生」にも読めなかった。
といふ、ことになる。
然るに、
(09)
ノルマン征服以来、イングランドを支配したのはフランス語話者たちで、イングランドの公用語もフランス語となった(唐澤一友、英語のルーツ、2011年、21頁)。
古英語を見て古い英語だと分かるかどうかも怪しい。英語はこの1000年間でそれだけ大きく性質を変化させてきたのである(唐澤一友、英語のルーツ、2011年、15頁)。
(10)
「フランス語で、古英語が読めない」のは当然であるが、「古英語を見て古い英語だと分かるかどうかも怪しい」のであれば、固より、古英語は、英語であるとさへ、言へない。
然るに、
(11)
オカダ 氏に依れば、北京語が徹底的なアルタイ語化を被ったために、中国語系統の中でも特殊な位置を占めるものとなった。アルタイ語化過程は一七世紀から満州族が中国を侵略して、首都の北京を中心に全国土を支配するようになった時から始まった。二百年以上を経て、アルタイ系統の中のツングース系に属している満州語が北京の話し言葉をはじめ北方中国の方言に非常に強い影響を及ぼした結果、北京語がもはや中国語系統に属せず、アルタイ語系統の一言語とみなさなければならないと強調する(webサイト、二十一世紀の漢文、ジャン-ノエル ロベール)。
従って、
(09)~(11)により、
(12)
「漢文(漢語)」が、「中華人民共和国語(アルタイ語)」で読めない。といふことは、
「古英語(ゲルマン語)」が、「フランス語(ロマンス語)」で読めないことに、相当する。
然るに、
(13)
今は昔、竹取の翁といふ者ありけり≒
今は昔、竹取の翁という者がいた。
といふことは、小学生にも、分るはずである。
従って、
(14)
「日本語の古文」と、「現代日本語」は、繋がってゐる一方で、
「漢文(漢語)」と、「中華人民共和国語(アルタイ語)」は、繋がってゐない。
従って、
(15)
現代中国語(中華人民共和国語)がしゃべれないような人は本当は漢文は読めないんです
...
といふ言ひ方は、
縁木求魚(木に縁りて魚を求む)。
といふことに、等しい。
(16)
じつは日本の、ご存じだと思いますが、荻生徂徠という、悪くいえばけったいなというか、よくいえば非常にすばらしい学者が江戸時代にいたんです。この人は江戸が鎖国時代であるにもかかわらず中国語ができた。
然るに、
(17)
荻生徂徠にしても、
「中国語(?)」⇒「漢文」
の「順番」ではなく、
「漢文」⇒「中国語(?)」
の「順番」で、学んだ。はずである。
そのため、
(18)
荻生徂徠にしても、「中国語(?)」が出来たが故に、その結果として、「漢文」も出来た。とは、思へない。
それ故、
(19)
中国文学科に変身した新学科には、訓読を軽視し、否定する教授もいらっしゃる(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、38頁)。
といふことは、出来れば、無くなって、もらいたい。
ものの、私の漢文は、受験の際のそれを除くと、全くの独学です。
それ故、
(20)
現代中国語(中華人民共和国語)がしゃべれないような人は本当は漢文は読めないんです
...
といふ言ひ方は、
縁木求魚(木に縁りて魚を求む)。
といふことに、等しい。
と、書くにあたって、気兼ねをしなければならない先生は、私にはゐません。
平成26年02月11日、毛利太。
2014年2月4日火曜日
漢文・括弧・論理(其の参)。
「仮定」により、
(01)
PならばQである。
「仮定」により、
(02)
Pであって、Qでない。
従って、
「連言除去(02)」により、
(03)
Pである。
従って、
「連言導入(01)(03)」により、
(04)
PならばQであって、Pである。
従って、
「前件肯定(04)」により、
(05)
Qである。
然るに、
「連言除去(02)」により、
(06)
Qでない。
従って、
「連言導入(05)(06)」により、
(07)
Qである。のに、Qでない。
従って、
「背理法(02)(07)」により、
(08)
「Pであって、Qでない。」ではない。
従って、
「条件法(01)(08)」により、
(09)
「PならばQである。」ならば、
「Pであって、Qでない。」ではない。
「仮定」により、
(10)
「Pであって、Qでない。」ではない。
「仮定」により、
(11)
Pである。
「仮定」により、
(12)
Qでない。
従って、
「連言導入(11)(12)」により、
(13)
Pであって、Qでない。
従って、
「連言導入(10)(13)」により、
(14)
「Pであって、Qでない。」ではないのに、
「Pであって、Qでない。」。
従って、
「背理法(12)(14)」により、
(15)
「Qでない。」ではない。
従って、
「二重否定(15)」により、
(16)
Qである。
従って、
「条件法(11)(16)」により、
(17)
PならばQである。
従って、
「条件法(10)(17)」により、
(18)
『「Pであって、Qでない。」ではない。』ならば、
「PならばQである。」
従って、
「等値の定義(09)(18)」により、
(19)
『「Pであって、Qでない。」ではない。』と、
「PならばQである。」は、
「論理的」に、等しい。
従って、
(19)により、
(20)
『「Pであって、Qである。」ではない。』と、
「PならばQでない。」は、
「論理的」に、等しい。
従って、
(21)
日本語の順で、「記号」で書くと、
(P∧Q)¬=P⊃Q¬
従って、
(22)
論理学の順で、「記号」で書くと、
¬(P∧Q)=P⊃¬Q
従って、
(23)
漢文で書くと、
不(P而Q)=如P則不Q
であるものの、
如は、省略できるため、
不(P而Q)=P則不Q
然るに、
(23)
「論理」自体は、「普遍的」であるため、
¬(P∧Q)=P⊃¬Q
といふ「等式」と、
不(P而Q)=P則不Q
といふ「等式」とは、「完全に、等しい」。
従って、
(23)
P=捨(義)=義を捨てる。
Q=取(命)=命を取る。
を「代入」すると、
不〔捨(義)而取(命)〕=捨(義)則不〔取(命)〕。
といふ「等式」は、「論理的」に正しい。
然るに、
(25)
日本語と漢文に於いて、「語順」は異なってゐても、「論理」は、日本語であっても、漢文であっても、共通である。
従って、
(25)により、
(26)
『「返り点」に対する「括弧」の用法』により、
① 不〔捨(義)而取(命)〕⇒〔(義を)捨て(命を)取ら〕ず。
② 捨(義)則不〔取(命)〕⇒(義を)捨てなば則ち〔(命を)取ら〕ず。
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、「論理的」に正しい。
(27)
「義を捨てて命を取らず。」
では、分かりにくいのあれば、
『「義を捨てて命を取る」といふことは無い。』
で以て、考へて欲しい。
(28)
それでも分かりにくいのであれば、
『「義を捨てて迄、命を取る」といふことは無い。』
で以て、考へて欲しい。
(29)
『「義を捨てて迄、命を取る」といふことは無い。』
といふことは、
『「義を捨てる」くらいならば、「命を捨てる」。』
といふ、ことである。
然るに、
(30)
『「義を捨てて迄、命を取る」といふことは無い。』
といふことと、
『「義を捨てる」くらいならば、「命を捨てる」。』
といふことが等しい。といふことは、
① 不〔捨(義)而取(命)〕⇒〔(義を)捨て(命を)取ら〕ず。
② 捨(義)則不〔取(命)〕⇒(義を)捨てなば則ち〔(命を)取ら〕ず。
に於いて、
①=② である。
といふことに、他ならない。
従って、
(31)
① 不〔捨(義)而取(命)〕。
② 捨(義)則不〔取(命)〕。
に於いて、
①=② である。
といふことに、他ならない。
従って、
(30)(31)により、
(32)
① 不捨義而取命=義を捨て命を取らず。
② 捨義則不取命=義を捨てなば則ち命を取らず。
といふ「漢文訓読」に於いて、
①=② である。ならば、
① 不捨義而取命。
② 捨義則不取命。
といふ漢文は、その実、
① 不〔捨(義)而取(命)〕。
② 捨(義)則不〔取(命)〕。
といふ形をしてゐる。と、すべきである。
Q.E.D.
平成26年02月04日、毛利太。
(01)
PならばQである。
「仮定」により、
(02)
Pであって、Qでない。
従って、
「連言除去(02)」により、
(03)
Pである。
従って、
「連言導入(01)(03)」により、
(04)
PならばQであって、Pである。
従って、
「前件肯定(04)」により、
(05)
Qである。
然るに、
「連言除去(02)」により、
(06)
Qでない。
従って、
「連言導入(05)(06)」により、
(07)
Qである。のに、Qでない。
従って、
「背理法(02)(07)」により、
(08)
「Pであって、Qでない。」ではない。
従って、
「条件法(01)(08)」により、
(09)
「PならばQである。」ならば、
「Pであって、Qでない。」ではない。
「仮定」により、
(10)
「Pであって、Qでない。」ではない。
「仮定」により、
(11)
Pである。
「仮定」により、
(12)
Qでない。
従って、
「連言導入(11)(12)」により、
(13)
Pであって、Qでない。
従って、
「連言導入(10)(13)」により、
(14)
「Pであって、Qでない。」ではないのに、
「Pであって、Qでない。」。
従って、
「背理法(12)(14)」により、
(15)
「Qでない。」ではない。
従って、
「二重否定(15)」により、
(16)
Qである。
従って、
「条件法(11)(16)」により、
(17)
PならばQである。
従って、
「条件法(10)(17)」により、
(18)
『「Pであって、Qでない。」ではない。』ならば、
「PならばQである。」
従って、
「等値の定義(09)(18)」により、
(19)
『「Pであって、Qでない。」ではない。』と、
「PならばQである。」は、
「論理的」に、等しい。
従って、
(19)により、
(20)
『「Pであって、Qである。」ではない。』と、
「PならばQでない。」は、
「論理的」に、等しい。
従って、
(21)
日本語の順で、「記号」で書くと、
(P∧Q)¬=P⊃Q¬
従って、
(22)
論理学の順で、「記号」で書くと、
¬(P∧Q)=P⊃¬Q
従って、
(23)
漢文で書くと、
不(P而Q)=如P則不Q
であるものの、
如は、省略できるため、
不(P而Q)=P則不Q
然るに、
(23)
「論理」自体は、「普遍的」であるため、
¬(P∧Q)=P⊃¬Q
といふ「等式」と、
不(P而Q)=P則不Q
といふ「等式」とは、「完全に、等しい」。
従って、
(23)
P=捨(義)=義を捨てる。
Q=取(命)=命を取る。
を「代入」すると、
不〔捨(義)而取(命)〕=捨(義)則不〔取(命)〕。
といふ「等式」は、「論理的」に正しい。
然るに、
(25)
日本語と漢文に於いて、「語順」は異なってゐても、「論理」は、日本語であっても、漢文であっても、共通である。
従って、
(25)により、
(26)
『「返り点」に対する「括弧」の用法』により、
① 不〔捨(義)而取(命)〕⇒〔(義を)捨て(命を)取ら〕ず。
② 捨(義)則不〔取(命)〕⇒(義を)捨てなば則ち〔(命を)取ら〕ず。
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、「論理的」に正しい。
(27)
「義を捨てて命を取らず。」
では、分かりにくいのあれば、
『「義を捨てて命を取る」といふことは無い。』
で以て、考へて欲しい。
(28)
それでも分かりにくいのであれば、
『「義を捨てて迄、命を取る」といふことは無い。』
で以て、考へて欲しい。
(29)
『「義を捨てて迄、命を取る」といふことは無い。』
といふことは、
『「義を捨てる」くらいならば、「命を捨てる」。』
といふ、ことである。
然るに、
(30)
『「義を捨てて迄、命を取る」といふことは無い。』
といふことと、
『「義を捨てる」くらいならば、「命を捨てる」。』
といふことが等しい。といふことは、
① 不〔捨(義)而取(命)〕⇒〔(義を)捨て(命を)取ら〕ず。
② 捨(義)則不〔取(命)〕⇒(義を)捨てなば則ち〔(命を)取ら〕ず。
に於いて、
①=② である。
といふことに、他ならない。
従って、
(31)
① 不〔捨(義)而取(命)〕。
② 捨(義)則不〔取(命)〕。
に於いて、
①=② である。
といふことに、他ならない。
従って、
(30)(31)により、
(32)
① 不捨義而取命=義を捨て命を取らず。
② 捨義則不取命=義を捨てなば則ち命を取らず。
といふ「漢文訓読」に於いて、
①=② である。ならば、
① 不捨義而取命。
② 捨義則不取命。
といふ漢文は、その実、
① 不〔捨(義)而取(命)〕。
② 捨(義)則不〔取(命)〕。
といふ形をしてゐる。と、すべきである。
Q.E.D.
平成26年02月04日、毛利太。
2014年2月3日月曜日
漢文・括弧・論理(其の弐)。
「2013/05/12」の記事を、書き換へます。
(01)
① 捨義而取命。
② 義不捨而取命。
③ 不捨義而取命。
に於いて、
①と、②の「訓読」は、
① 義を捨てて命を取る。
② 義は捨てずして命を取る。
然るに、
(02)
これに対して、
③ 不捨義而取命。
の「訓読」は、
④ 不〔捨(義)〕而取(命)⇒
④ 〔(義)捨〕不而(命)取=
④ 義を捨てずして、命を取る。
だけでなく、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕⇒
⑤ 〔(義)捨而(命)取〕不。
⑤ 義を捨てて命を取らず。
といふ「訓読」も、可能である。
然るに、
(01)(02)により、
(03)
③ 不捨義而取命=
④ 義を捨てずして、命を取る。
の場合は、
② 義不捨而取命=
② 義は捨てずして、命を取る。
に等しい。
従って、
(04)
③ 不捨義而取命=
④ 義を捨てずして、命を取る。
であるならば、初めから、
② 義不捨而取命=
② 義は捨てずして、命を取る。
といふ風に、書けば良い。はずである。
従って、
(02)(04)により、
(05)
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」は、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕⇒
⑤ 〔(義)捨而(命)取〕不。
⑤ 義を捨てて命を取らず。
である。とする。
然るに、
(06)
⑤ 義を捨てて命を取らず。
といふ日本語は、普通は、
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない=
⑤ 義を捨てるくらいならば、命は要らない。
といふ、意味である。
従って、
(07)
余談であるが、
「永遠の0」の主人公は、最初は、
④ 義は捨てずして、命を取る。
であって、最後は、
⑤ 義を捨てて命を取らず。
であった。といふ風に、言へないことも、ない。
然るに、
(08)
不=¬(否定)
而=∧(連語)
∨=∨(選言)
⊃=⊃(含意)
P=義を捨てる。
Q=命を取る。
従って、
(08)により、
(09)
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕=
⑤ ¬(P∧Q)
然るに、
(10)
「ド・モルガンの法則」により、
⑤ ¬(P∧Q)=
⑤ ¬P∨¬Q
加へて、
(11)
「含意の定義」により、
⑤ P⊃¬Q
従って、
(08)(11)により、
(12)
⑤ P⊃¬Q=
⑤ 義を捨てる⊃¬命を取る=
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない。
然るに、
(13)
⑥ 如捨義則不取命=
⑥ 如し義を捨てなば則ち命を取ら不=
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない。
従って、
(05)(06)(08)~(13)により、
(14)
③ 不捨義而取命=
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕=
⑤ 義を捨てて命を取らず=
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない。
⑥ 如捨義則不取命=
⑥ 如し義を捨てなば則ち命を取ら不。
従って、
(14)により、
(15)
日本語に於いて、
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない(口語)=
⑥ もし義を捨てなば則ち命を取らず(文語)。
といふ「等式」が成り立つ以上、
③ 不捨義而取命=
⑥ 如捨義則不取命=
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「等式」が成り立つ。ことになる。
従って、
(08)~(15)により、
(16)
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」は、「論理学的」には、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」をしてゐる。ことになる。
従って、
(16)により、
(17)
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」を、
⑤ 義を捨てて命を取らず。
といふ風に「訓読」する。といふことは、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」である所の「漢文」を、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」の通りに、読んでゐる。といふことに、なる。
従って、
(17)により、
(18)
⑤ 二 レ 一レ
といふ「返り点」を加へる。ことによって、
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」を、
⑤ 義を捨てて命を取らず。
と「訓読」する。といふことは、
⑤ 不〔捨(正義)而取(我命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」に対して、
⑤ 二 レ 一レ
といふ「返り点」を加へてゐる。といふ、ことになる。
従って、
(19)
③ 不捨正義而取我命。
であれば、
⑤ 不〔捨(正義)而取(我命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」に対して、
⑤ 下 二 一 中 上
といふ「返り点」を加へてゐる。といふ、ことになる。
平成26年02月03日、毛利太。
(01)
① 捨義而取命。
② 義不捨而取命。
③ 不捨義而取命。
に於いて、
①と、②の「訓読」は、
① 義を捨てて命を取る。
② 義は捨てずして命を取る。
然るに、
(02)
これに対して、
③ 不捨義而取命。
の「訓読」は、
④ 不〔捨(義)〕而取(命)⇒
④ 〔(義)捨〕不而(命)取=
④ 義を捨てずして、命を取る。
だけでなく、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕⇒
⑤ 〔(義)捨而(命)取〕不。
⑤ 義を捨てて命を取らず。
といふ「訓読」も、可能である。
然るに、
(01)(02)により、
(03)
③ 不捨義而取命=
④ 義を捨てずして、命を取る。
の場合は、
② 義不捨而取命=
② 義は捨てずして、命を取る。
に等しい。
従って、
(04)
③ 不捨義而取命=
④ 義を捨てずして、命を取る。
であるならば、初めから、
② 義不捨而取命=
② 義は捨てずして、命を取る。
といふ風に、書けば良い。はずである。
従って、
(02)(04)により、
(05)
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」は、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕⇒
⑤ 〔(義)捨而(命)取〕不。
⑤ 義を捨てて命を取らず。
である。とする。
然るに、
(06)
⑤ 義を捨てて命を取らず。
といふ日本語は、普通は、
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない=
⑤ 義を捨てるくらいならば、命は要らない。
といふ、意味である。
従って、
(07)
余談であるが、
「永遠の0」の主人公は、最初は、
④ 義は捨てずして、命を取る。
であって、最後は、
⑤ 義を捨てて命を取らず。
であった。といふ風に、言へないことも、ない。
然るに、
(08)
不=¬(否定)
而=∧(連語)
∨=∨(選言)
⊃=⊃(含意)
P=義を捨てる。
Q=命を取る。
従って、
(08)により、
(09)
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕=
⑤ ¬(P∧Q)
然るに、
(10)
「ド・モルガンの法則」により、
⑤ ¬(P∧Q)=
⑤ ¬P∨¬Q
加へて、
(11)
「含意の定義」により、
⑤ P⊃¬Q
従って、
(08)(11)により、
(12)
⑤ P⊃¬Q=
⑤ 義を捨てる⊃¬命を取る=
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない。
然るに、
(13)
⑥ 如捨義則不取命=
⑥ 如し義を捨てなば則ち命を取ら不=
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない。
従って、
(05)(06)(08)~(13)により、
(14)
③ 不捨義而取命=
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕=
⑤ 義を捨てて命を取らず=
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない。
⑥ 如捨義則不取命=
⑥ 如し義を捨てなば則ち命を取ら不。
従って、
(14)により、
(15)
日本語に於いて、
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない(口語)=
⑥ もし義を捨てなば則ち命を取らず(文語)。
といふ「等式」が成り立つ以上、
③ 不捨義而取命=
⑥ 如捨義則不取命=
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「等式」が成り立つ。ことになる。
従って、
(08)~(15)により、
(16)
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」は、「論理学的」には、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」をしてゐる。ことになる。
従って、
(16)により、
(17)
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」を、
⑤ 義を捨てて命を取らず。
といふ風に「訓読」する。といふことは、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」である所の「漢文」を、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」の通りに、読んでゐる。といふことに、なる。
従って、
(17)により、
(18)
⑤ 二 レ 一レ
といふ「返り点」を加へる。ことによって、
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」を、
⑤ 義を捨てて命を取らず。
と「訓読」する。といふことは、
⑤ 不〔捨(正義)而取(我命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」に対して、
⑤ 二 レ 一レ
といふ「返り点」を加へてゐる。といふ、ことになる。
従って、
(19)
③ 不捨正義而取我命。
であれば、
⑤ 不〔捨(正義)而取(我命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」に対して、
⑤ 下 二 一 中 上
といふ「返り点」を加へてゐる。といふ、ことになる。
平成26年02月03日、毛利太。
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