(01)
① 生徒不〔如(教師)〕⇒
① 生徒〔(教師)如〕不=
① 生徒は〔(教師に)如か〕不=
① 生徒は、教師に及ばない。
といふことは、「普通」は、「正しい」。
然るに、
(02)
② 無[教師不〔如(生徒)〕]⇒
② [教師〔(生徒)如〕不]無=
② [教師として〔(生徒に)如か〕不るは]無し=
② 教師であるならば、全員が、生徒よりも劣ることはない。
とは、言へない。
然るに、
(03)
例へば、「日本の中学の英語教師の英語の発音」は、「帰国子女の英語の発音」に、及ばない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 生徒不〔如(教師)〕。
といふ「命題①」に対して、「必ず」を加へた、
③ 生徒必不〔如(教師)〕⇒
③ 生徒必〔(教師)如〕不=
③ 生徒は必ず〔(教師に)如か〕不=
③ 生徒は、必ず、教師に及ばない。
といふ「命題③」は、「偽(0)」である。
従って、
(04)により、
(05)
③ 生徒必不〔如(教師)〕。
といふ「命題③」の「否定」、すなはち、
④ 生徒不[必不〔如(教師)〕]⇒
④ 生徒[必〔(教師)如〕不]不=
④ 生徒は[必ずしも〔(教師に)如か〕不んばあら]不=
④ 生徒は必ずしも、先生に及ばないとは、限らない。
といふ「命題④」は、「真(1)」である。
然るに、
(06)
明治以前の日本人は、漢文を読むことで論理的な考え方を身に付けました。漢文は論理的な構文をたくさん含んでいるからです(山下正男、論理的に考えること、1985年、はじめに)とあるやうに、以上の「考え方」は、「論理的」に、「正しい」。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
「日本の英語教師の英語の発音」は「帰国子女の英語の発音」に及ばない。
といふことを以て、
③ 必不如教師=偽(0)。
④ 不必不如教師=真(1)。
である。
然るに、
(08)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’といふ空所入れて書くことにしよう;しかし、丸括弧はそのその内部の表術が連言でないかぎり削除しよう(W.O.クワイン著、杖下隆英 訳、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
③ 必不如教師=偽(0)。
④ 不必不如教師=真(1)。
といふ「命題(漢文)」は、
③ 必~(如教師) =偽(0)。
④ ~(必~(如教師))=真(1)。
といふ、ことになる。
然るに、
(10)
「ロジック」といふ言葉は、は「ロゴス(言葉)」から来てゐるのであって、それ故、「アイキャント、ゲット、ノー、サティスファクション。」等の言ひ方は、やはり、「非ロジカル」であるとしか、私には、思へない。
従って、
(09)(10)により、
(11)
「漢文訓読」の問題(issue)だけではなく、「LOGIC」の問題(issue)としても、「括弧」は有りす!。
平成26年11月10日、毛利太。
2014年11月10日月曜日
2014年11月8日土曜日
二重否定(仮題)。
(01)
無=No
人=man
不=doesn’t
死=die.
従って、
(01)により、
(02)
① 無人不死=
② No man doesn’t die.
然るに、
(03)
① 無い=不有(有らず)。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 無人不死=
① 不有人不死=
① 不[有〔人不(死)〕]⇒
① [〔人(死)不〕有]不=
① [〔人として(死せ)不るは〕有ら]不=
① Mors omnibus communis=
① Death is common to all men.
然るに、
(05)
然るに、
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))⇒
③ ((Mⅹ&(Dⅹ)~)(∃ⅹ))~=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
従って、
(01)~(04)により、
(06)
① 無人不死=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
然るに、
(07)
しかし18世紀にきわめて人工的・作為的性質の強い規範文法が整備された際、否定呼応という言語現象に無理解な学者たちは、論理学規範を言語という特殊条件を考慮せずに適応し、「否定語を2回使うということは否定の否定を意味し、論理的に肯定である」と主張し、英語の否定呼応を抹殺した(ウィキペディア:二重否定)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、「英語の否定呼応」は、抹殺されずに、「生きている」。
然るに、
(09)
① 無〔人不(死)〕=
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
であるためには、
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕。
のやうに、
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
である、「必要」がある。
然るに、
(10)
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
であるためには、
② Noman=一語
ではなく、
② No man=二語
である「必要」が、ある。
従って、
(08)~(10)により、
(11)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、
④ No man dies(誰も死なない).
ではなく、
④ Noman dies(誰も死なない).
であると、思はれる。
然るに、
(12)
いづれにせよ、
① 無(人不死)=(人として死せざるは)無し。
① 無(書不読)=(書として読まざるは)無し。
① 無(草不枯)=(草として枯れざるは)無し。
① 無(物不長)=(物として長ぜざるは)無し。
① 無(日不雲)=(日として雲らざるは)無し。
① 無(夕不飲)=(夕として飲まざるは)無し。
⑤ 無(処不傷心)=(処として心を痛めしめざるは)無し。
⑤ 無(教師不如生徒)=(教師として生徒に如かざるは)無し。
・ ・ ・ ・ ・ ・
だけでなく、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「漢文」の場合も、
⑤ 無(所往而不為義)=(往く所として義為らざるは)無し。
との、ことである。
cf.
「笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、58頁」。
然るに、
(13)
⑤ 無(所往而不為義)。
ではなく、
⑥ 無(所往)而不為義。
であるならば、
⑥ 無(所往)而不為義=(往く所)無くして、義為らず。
である。
然るに、
(14)
⑤(往く所として義為らざるは)無し。
⑥(往く所)無くして、義為らず。
に於いて、
⑤と⑥は、もちろん、「同じ意味」ではない。
然るに、
(15)
「漢文(白文)」自体には、「括弧」が書いてあるわけではないので、見た目では、
⑤ 無所往而不為義。
に於いて、
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
の「区別」が、付かない。
cf.
また、童話の題名「眠れる森の美女」も、実は眠っているのは「森の美女」ではなく、「森」であるという話がある。フランス語の原題”La Belle au bois dormant”で、形容詞の性をみるとそう解釈できるのだという。
(木村大治、括弧の意味論、2011年、18頁改)
従って、
(16)
このように「不」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふことは、
このように「無」が頭にきているときにも、当てはまる。
然るに、
(17)
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
は、「正確」には、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
であるため、
⑤と⑥の違ひは、
⑥[ ]の有無の違ひである。
従って、
(13)(14)(17)により、
(18)
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所往而不為義]。
であると、思ったときに、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]⇒
⑤ [(往)所而〔(義)為〕不]無=
⑤ [(往く)所として〔(義)為ら〕不るは]無し。
といふ風に、「訓読」する。ことになる。
然るに、
(19)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 往く所として義為ら不るは無し。
と読むとしたら、その時には、既に、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思ってゐる。」ことになる。
然るに、
(20)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思った。」のは、「何時」かと言へば、当然、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、「見てゐる時」である。
従って、
(20)により、
(21)
さうである以上、
⑤ 無所往而不為義。
を、「よく見る事」こそが、「大切」なのであって、それ故、二畳庵主人曰く、
この「見る」という造形的感覚はだれでもが持っている。けっして特殊な才能を要さない。「読書百遍、意おのずから通ず」(何度も読んでいるうちに、意味がしぜんとわかる)ということの第一段は、この「見る」、骨格を「見る」ということだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、324頁)。といふことになる。
然るに、
(22)
以上のやうに、二畳庵主人が書いたのは、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
ではなく、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
に関してであって、尚且つ、
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であるが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふ「事情」がある。
(23)
もちろん、「二畳庵主人、漢文法基礎」では、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
ではなく、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
であるものの、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
と、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
は、「同じこと」なので、
①〔( )〕( )( )。が、「古注」で、
②〔( )( )〕( )。が、「新注」である。
といふ、ことになる。
従って、
(22)(23)により、
(24)
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美。
を関して、
① 不〔有祝鮀之佞〕而有宋朝之美。
② 不〔有祝鮀之佞而有宋朝之美〕。
に於いて、
①のやうに、「不」が、「前半」に係る。のか、
②のやうに、「不」が、「全体」に係る。のか、
といふ「議論」は、実質的に、朱子も行ってゐる。ことになる。
然るに、
(25)
「新儒教」の朱子学の創始者である朱子は、「漢文訓読」など、行はない。
従って、
(24)(25)により、
(26)
「漢文訓読」の問題(issue)ではなく、「漢文」の問題(issue)として、「括弧」は有ります!。
平成26年11月08日、毛利太。
無=No
人=man
不=doesn’t
死=die.
従って、
(01)により、
(02)
① 無人不死=
② No man doesn’t die.
然るに、
(03)
① 無い=不有(有らず)。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 無人不死=
① 不有人不死=
① 不[有〔人不(死)〕]⇒
① [〔人(死)不〕有]不=
① [〔人として(死せ)不るは〕有ら]不=
① Mors omnibus communis=
① Death is common to all men.
然るに、
(05)
然るに、
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))⇒
③ ((Mⅹ&(Dⅹ)~)(∃ⅹ))~=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
従って、
(01)~(04)により、
(06)
① 無人不死=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
然るに、
(07)
しかし18世紀にきわめて人工的・作為的性質の強い規範文法が整備された際、否定呼応という言語現象に無理解な学者たちは、論理学規範を言語という特殊条件を考慮せずに適応し、「否定語を2回使うということは否定の否定を意味し、論理的に肯定である」と主張し、英語の否定呼応を抹殺した(ウィキペディア:二重否定)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、「英語の否定呼応」は、抹殺されずに、「生きている」。
然るに、
(09)
① 無〔人不(死)〕=
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
であるためには、
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕。
のやうに、
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
である、「必要」がある。
然るに、
(10)
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
であるためには、
② Noman=一語
ではなく、
② No man=二語
である「必要」が、ある。
従って、
(08)~(10)により、
(11)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、
④ No man dies(誰も死なない).
ではなく、
④ Noman dies(誰も死なない).
であると、思はれる。
然るに、
(12)
いづれにせよ、
① 無(人不死)=(人として死せざるは)無し。
① 無(書不読)=(書として読まざるは)無し。
① 無(草不枯)=(草として枯れざるは)無し。
① 無(物不長)=(物として長ぜざるは)無し。
① 無(日不雲)=(日として雲らざるは)無し。
① 無(夕不飲)=(夕として飲まざるは)無し。
⑤ 無(処不傷心)=(処として心を痛めしめざるは)無し。
⑤ 無(教師不如生徒)=(教師として生徒に如かざるは)無し。
・ ・ ・ ・ ・ ・
だけでなく、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「漢文」の場合も、
⑤ 無(所往而不為義)=(往く所として義為らざるは)無し。
との、ことである。
cf.
「笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、58頁」。
然るに、
(13)
⑤ 無(所往而不為義)。
ではなく、
⑥ 無(所往)而不為義。
であるならば、
⑥ 無(所往)而不為義=(往く所)無くして、義為らず。
である。
然るに、
(14)
⑤(往く所として義為らざるは)無し。
⑥(往く所)無くして、義為らず。
に於いて、
⑤と⑥は、もちろん、「同じ意味」ではない。
然るに、
(15)
「漢文(白文)」自体には、「括弧」が書いてあるわけではないので、見た目では、
⑤ 無所往而不為義。
に於いて、
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
の「区別」が、付かない。
cf.
また、童話の題名「眠れる森の美女」も、実は眠っているのは「森の美女」ではなく、「森」であるという話がある。フランス語の原題”La Belle au bois dormant”で、形容詞の性をみるとそう解釈できるのだという。
(木村大治、括弧の意味論、2011年、18頁改)
従って、
(16)
このように「不」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふことは、
このように「無」が頭にきているときにも、当てはまる。
然るに、
(17)
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
は、「正確」には、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
であるため、
⑤と⑥の違ひは、
⑥[ ]の有無の違ひである。
従って、
(13)(14)(17)により、
(18)
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所往而不為義]。
であると、思ったときに、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]⇒
⑤ [(往)所而〔(義)為〕不]無=
⑤ [(往く)所として〔(義)為ら〕不るは]無し。
といふ風に、「訓読」する。ことになる。
然るに、
(19)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 往く所として義為ら不るは無し。
と読むとしたら、その時には、既に、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思ってゐる。」ことになる。
然るに、
(20)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思った。」のは、「何時」かと言へば、当然、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、「見てゐる時」である。
従って、
(20)により、
(21)
さうである以上、
⑤ 無所往而不為義。
を、「よく見る事」こそが、「大切」なのであって、それ故、二畳庵主人曰く、
この「見る」という造形的感覚はだれでもが持っている。けっして特殊な才能を要さない。「読書百遍、意おのずから通ず」(何度も読んでいるうちに、意味がしぜんとわかる)ということの第一段は、この「見る」、骨格を「見る」ということだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、324頁)。といふことになる。
然るに、
(22)
以上のやうに、二畳庵主人が書いたのは、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
ではなく、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
に関してであって、尚且つ、
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であるが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふ「事情」がある。
(23)
もちろん、「二畳庵主人、漢文法基礎」では、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
ではなく、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
であるものの、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
と、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
は、「同じこと」なので、
①〔( )〕( )( )。が、「古注」で、
②〔( )( )〕( )。が、「新注」である。
といふ、ことになる。
従って、
(22)(23)により、
(24)
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美。
を関して、
① 不〔有祝鮀之佞〕而有宋朝之美。
② 不〔有祝鮀之佞而有宋朝之美〕。
に於いて、
①のやうに、「不」が、「前半」に係る。のか、
②のやうに、「不」が、「全体」に係る。のか、
といふ「議論」は、実質的に、朱子も行ってゐる。ことになる。
然るに、
(25)
「新儒教」の朱子学の創始者である朱子は、「漢文訓読」など、行はない。
従って、
(24)(25)により、
(26)
「漢文訓読」の問題(issue)ではなく、「漢文」の問題(issue)として、「括弧」は有ります!。
平成26年11月08日、毛利太。
2014年11月6日木曜日
「括弧はあります!」の「追記(Ⅱ)」。
(01)
大文字を使って、「肯定」を表し、
小文字を使って、「否定」を表す。ことにします。
例へば、
(02)
Aの「否定」を、aとし、
Bの「否定」を、bとします。
従って、
(03)
① AB=Aであって、Bである。
② Ab=Aであって、Bでない。
③ aB=Aでなくて、Bである。
④ ab=Aでなくて、Bでない。
とします。
然るに、
(04)
A=児孫の為である。
B=美田を買ふ。
とします。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① AB=児孫の為であって、美田を買ふ。
② Ab=児孫の為であって、美田を買はない。
③ aB=児孫の為でなくて、美田を買ふ。
④ ab=児孫の為でなくて、美田を買はない。
従って、
(05)により、
(06)
①(AB)に非ず=
①(Aであって、Bである。)でない。
とするならば、
① AB=児孫の為であって、美田を買ふ。
が「否定」された「結果」として、
② Ab=児孫の為であって、美田を買はない。
③ aB=児孫の為でなくて、美田を買ふ。
④ ab=児孫の為でなくて、美田を買はない。
といふ、「三つ」が、残ります。
然るに、
(03)により、
(07)
③ aB
④ ab
の二つは、
③ aB=Aでなくて、・・・・。
④ ab=Aでなくて、・・・・。
であるため、
「Aならば、・・・・。」の場合に、入りません。
従って、
(07)により、
(08)
② Ab
③ aB
④ ab
に於いて、
Aならば、② Ab である。
従って、
(02)(04)(08)により、
(09)
Aならば、Bでない。
従って、
(06)(09)により、
(10)
(Aであって、Bである)でない。ならば、
(Aならば、Bでない)。
然るに、
(11)
「交換律」により、
② Ab=bA
④ ab=ba
然るに、
(03)により、
(12)
② bA
④ ba
の二つは、
② bA=Bでなくて、・・・・。
④ ba=Bでなくて、・・・・。
であるため、
「Bならば、・・・・。」の場合に、入りません。
従って、
(12)により、
(13)
② Ab=bA
③ aB=Ba
④ ab=ba
に於いて、
Bならば、③ Ba である。
従って、
(02)(04)(13)により、
(14)
Bならば、Aでない。
従って、
(10)(14)により、
(15)
(Aであって、Bである)でない。ならば、
(Aならば、Bでなく)、
(Bならば、Aでない)。
従って、
(15)により、
(16)
高校で習った、「ド・モルガンの法則」は、正しい。
従って、
(17)
① 不為児孫買美田。
といふ「漢文」が、
① 不(為児孫買美田)。
といふ「意味」で、あって、尚且つ、「ド・モルガンの法則」は、正しい。のであれば、
① 不為児孫買美田。
① 不(為児孫買美田)。
といふ「漢文」は、
② Ab=児孫の為ならば、 美田を買はない。
③ Ba=美田を買ふならば、児孫の為でない。
といふ「命題」に、等しい。
cf.
幾たびか辛酸を歴て志(こころざし)始めて堅し、
丈夫(ぢやうふ)玉碎すとも甎全(せんぜん)を恥づ。
我が家の遺法人知るや否や、
兒孫(じそん)の爲に美田を買はず。然るに、
(18)
A=其の能の千里なるを知る。
B=馬を食(やしな)ふ。
とする。
従って、
(02)(18)により、
(19)
a=其の能の千里なるを知らず。
b=馬を食(やしな)はず。
とする。
従って、
(18)(19)により、
(20)
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
② Ab=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)はず。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
④ ab=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)はず。
然るに、
(21)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、
馬を食(やしな)はない。
といふことは、有り得ない。
従って、
(21)により、
(22)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
② Ab=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)はず。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
④ ab=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)はず。
に於いて、
② Ab=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)はず。
④ ab=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)はず。
は、初めから、成立しない。
従って、
(22)により、
(23)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
といふ、「二つ」が、残ります。
然るに、
(24)
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
に於いて、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
を「否定」すると、
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
だけが、残ります。
従って、
(23)(24)により、
(25)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
を「否定」すると、
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
だけが、残ります。
然るに、
(26)
① AB の「否定」を、
① ¬(A&B) と書いて、
③ aB の「肯定」を、
③ ¬A&B と書くことに、します。
従って、
(25)(26)により、
(27)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
¬(A&B)=¬A&B。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(28)
① 食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也⇒
① (馬)食者〔(其能千里)知而食〕不也=
① (馬を)食ふ者は〔(其の能の千里なるを)知りて食は〕不るなり=
① 馬を飼ふ者は、その馬が千里馬であること知った上で、飼はないのだ。
といふ「訓読」は、
① ¬(A&B)。
に、相当します。
(29)
③ 食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也⇒
③ (馬)食者〔(其能千里)知〕不而食也=
③ (馬)食ふ者は〔(其の能の千里なるを)知ら〕不して食ふなり=
③ 馬を食ふ者は、その馬が千里馬であることを知らないで、飼ふのだ。
といふ「訓読」は、
③ ¬A&B。
に、相当します。
従って、
(27)(28)(29)により、
(30)
① 食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也=
③ 食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(30)により、
(31)
① 馬を食ふ者は其の能の千里なるを知りて食は不るなり(旺文社、漢文の基礎、1973年、154頁)。
といふ「訓読」は、「誤り」ではない。
然るに、
(32)
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
に於いて、
① は、 ¬A&B に、相当し、
② は、¬(A&B)に、相当する。
然るに、
(33)
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であるが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
従って、
(32)(33)により、
(34)
① ¬A&B。
② ¬(A&B)。
に於いて、①なのか、②なのか、といふ「議論」は、実質的に、朱熹(朱子)も、行ってゐる。
従って、
(35)
「漢文訓読」を一切知らない、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者であっても、
① ¬A&B。
② ¬(A&B)。
に於いて、①なのか、②なのかを、問ふことが出来る。
従って、
(35)により、
(36)
このように「不」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
といふことは、「漢文訓読」だけに、当てはまるのではない。
従って、
(37)
「漢文訓読」の問題(issue)ではなく、「漢文」の問題(issue)として、「括弧」は有ります!。
平成26年11月06日、毛利太。
大文字を使って、「肯定」を表し、
小文字を使って、「否定」を表す。ことにします。
例へば、
(02)
Aの「否定」を、aとし、
Bの「否定」を、bとします。
従って、
(03)
① AB=Aであって、Bである。
② Ab=Aであって、Bでない。
③ aB=Aでなくて、Bである。
④ ab=Aでなくて、Bでない。
とします。
然るに、
(04)
A=児孫の為である。
B=美田を買ふ。
とします。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① AB=児孫の為であって、美田を買ふ。
② Ab=児孫の為であって、美田を買はない。
③ aB=児孫の為でなくて、美田を買ふ。
④ ab=児孫の為でなくて、美田を買はない。
従って、
(05)により、
(06)
①(AB)に非ず=
①(Aであって、Bである。)でない。
とするならば、
① AB=児孫の為であって、美田を買ふ。
が「否定」された「結果」として、
② Ab=児孫の為であって、美田を買はない。
③ aB=児孫の為でなくて、美田を買ふ。
④ ab=児孫の為でなくて、美田を買はない。
といふ、「三つ」が、残ります。
然るに、
(03)により、
(07)
③ aB
④ ab
の二つは、
③ aB=Aでなくて、・・・・。
④ ab=Aでなくて、・・・・。
であるため、
「Aならば、・・・・。」の場合に、入りません。
従って、
(07)により、
(08)
② Ab
③ aB
④ ab
に於いて、
Aならば、② Ab である。
従って、
(02)(04)(08)により、
(09)
Aならば、Bでない。
従って、
(06)(09)により、
(10)
(Aであって、Bである)でない。ならば、
(Aならば、Bでない)。
然るに、
(11)
「交換律」により、
② Ab=bA
④ ab=ba
然るに、
(03)により、
(12)
② bA
④ ba
の二つは、
② bA=Bでなくて、・・・・。
④ ba=Bでなくて、・・・・。
であるため、
「Bならば、・・・・。」の場合に、入りません。
従って、
(12)により、
(13)
② Ab=bA
③ aB=Ba
④ ab=ba
に於いて、
Bならば、③ Ba である。
従って、
(02)(04)(13)により、
(14)
Bならば、Aでない。
従って、
(10)(14)により、
(15)
(Aであって、Bである)でない。ならば、
(Aならば、Bでなく)、
(Bならば、Aでない)。
従って、
(15)により、
(16)
高校で習った、「ド・モルガンの法則」は、正しい。
従って、
(17)
① 不為児孫買美田。
といふ「漢文」が、
① 不(為児孫買美田)。
といふ「意味」で、あって、尚且つ、「ド・モルガンの法則」は、正しい。のであれば、
① 不為児孫買美田。
① 不(為児孫買美田)。
といふ「漢文」は、
② Ab=児孫の為ならば、 美田を買はない。
③ Ba=美田を買ふならば、児孫の為でない。
といふ「命題」に、等しい。
cf.
幾たびか辛酸を歴て志(こころざし)始めて堅し、
丈夫(ぢやうふ)玉碎すとも甎全(せんぜん)を恥づ。
我が家の遺法人知るや否や、
兒孫(じそん)の爲に美田を買はず。然るに、
(18)
A=其の能の千里なるを知る。
B=馬を食(やしな)ふ。
とする。
従って、
(02)(18)により、
(19)
a=其の能の千里なるを知らず。
b=馬を食(やしな)はず。
とする。
従って、
(18)(19)により、
(20)
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
② Ab=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)はず。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
④ ab=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)はず。
然るに、
(21)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、
馬を食(やしな)はない。
といふことは、有り得ない。
従って、
(21)により、
(22)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
② Ab=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)はず。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
④ ab=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)はず。
に於いて、
② Ab=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)はず。
④ ab=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)はず。
は、初めから、成立しない。
従って、
(22)により、
(23)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
といふ、「二つ」が、残ります。
然るに、
(24)
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
に於いて、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
を「否定」すると、
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
だけが、残ります。
従って、
(23)(24)により、
(25)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
を「否定」すると、
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
だけが、残ります。
然るに、
(26)
① AB の「否定」を、
① ¬(A&B) と書いて、
③ aB の「肯定」を、
③ ¬A&B と書くことに、します。
従って、
(25)(26)により、
(27)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
¬(A&B)=¬A&B。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(28)
① 食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也⇒
① (馬)食者〔(其能千里)知而食〕不也=
① (馬を)食ふ者は〔(其の能の千里なるを)知りて食は〕不るなり=
① 馬を飼ふ者は、その馬が千里馬であること知った上で、飼はないのだ。
といふ「訓読」は、
① ¬(A&B)。
に、相当します。
(29)
③ 食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也⇒
③ (馬)食者〔(其能千里)知〕不而食也=
③ (馬)食ふ者は〔(其の能の千里なるを)知ら〕不して食ふなり=
③ 馬を食ふ者は、その馬が千里馬であることを知らないで、飼ふのだ。
といふ「訓読」は、
③ ¬A&B。
に、相当します。
従って、
(27)(28)(29)により、
(30)
① 食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也=
③ 食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(30)により、
(31)
① 馬を食ふ者は其の能の千里なるを知りて食は不るなり(旺文社、漢文の基礎、1973年、154頁)。
といふ「訓読」は、「誤り」ではない。
然るに、
(32)
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
に於いて、
① は、 ¬A&B に、相当し、
② は、¬(A&B)に、相当する。
然るに、
(33)
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であるが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
従って、
(32)(33)により、
(34)
① ¬A&B。
② ¬(A&B)。
に於いて、①なのか、②なのか、といふ「議論」は、実質的に、朱熹(朱子)も、行ってゐる。
従って、
(35)
「漢文訓読」を一切知らない、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者であっても、
① ¬A&B。
② ¬(A&B)。
に於いて、①なのか、②なのかを、問ふことが出来る。
従って、
(35)により、
(36)
このように「不」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
といふことは、「漢文訓読」だけに、当てはまるのではない。
従って、
(37)
「漢文訓読」の問題(issue)ではなく、「漢文」の問題(issue)として、「括弧」は有ります!。
平成26年11月06日、毛利太。
2014年11月5日水曜日
「訓読の条件」。
(01)
荻生徂徠は、漢文を読むが、英文は読まない。
ラッセルは、英文を読むが、漢文を読まない。
とする。
従って、
(01)により、
(02)
① 荻生徂徠読(漢文)=荻生徂徠(漢文を)読む。
② 荻生徂徠読(英文)=荻生徂徠(英文を)読む。
③ ラッセル読(漢文)=ラッセル(漢文を)読む。
④ ラッセル読(英文)=ラッセル(英文を)読む。
に於いて、
① は「真(1)」であって、
② は「偽(0)」である。
③ は「偽(0)」であって、
④ は「真(1)」である。
然るに、
(03)
① 荻生徂徠読(漢文)。
② 荻生徂徠読(英文)。
③ ラッセル読(漢文)。
④ ラッセル読(英文)。
を、
① 読(荻生徂徠、漢文)。
② 読(荻生徂徠、英文)。
③ 読(ラッセル、漢文)。
④ 読(ラッセル、英文)。
といふ風に、書くことにする。
然るに、
(04)
ところで、このレーマは現在のことばでいえば明らかに命題関数である。つまりf(ⅹ)、f(ⅹ,y)、f(ⅹ、y、z)といったものである(山下正男、論理学史、1983年、95頁)。
然るに、
(05)
「レーマ(ΡΗΜΑ)」は、ギリシャ語で、「名詞(ΟΝΟΜΑ)」に対する「動詞(ΡΗΜΑ)」のことを言ふ。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① 読( )。
② 読( )。
③ 読( )。
④ 読( )。
は、「主語と、目的語の、関数」である。
従って、
(06)により、
(07)
① 荻生徂徠読( )。
② 荻生徂徠読( )。
③ ラッセル読( )。
④ ラッセル読( )。
は、「目的語の、関数」である。
然るに、
(08)
① 読( )。
② 読( )。
③ 読( )。
④ 読( )。
に於いて、
① 荻生徂徠
② 荻生徂徠
③ ラッセル
④ ラッセル
といふ「主語」が、「省略」されてゐる。ものとする。
従って、
(07)(08)により、
(09)
⑤ 読( )。
は、「目的語の、関数」である。
然るに、
(10)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「真(1)」である時、その「否定」、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「偽(0)」であって、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「偽(0)」である時、その「否定」、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「真(1)」である。
加へて、
(11)
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「真(1)」である時、その「否定」、
③ 非[不〔読(漢文)〕]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「偽(0)」であって、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「偽(0)」である時、その「否定」、
③ 非[不〔読(漢文)〕]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「真(1)」である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ 非[不〔読(漢文)〕]⇒
③ [〔(漢文)読〕不]非=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「関数の、関数の、関数」である。
然るに、
(13)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)からである。
従って、
(12)(13)により、
(14)
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]。
といふ「漢文」が、、
③ 非[不〔読(漢文)〕]⇒
③ [〔(漢文)読〕不]非=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
のやうに「訓読」出来るといふことは、
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]。
といふ「漢文」が、
③「補足構造の、補足構造の、補足構造」である。といふことを、意味してゐる。
然るに、
(15)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」
といふことは、この場合は、
1.『主述関係』
2.『修飾関係』
3.『補足関係』
4.『並列関係』
に於いて、
1.『主述関係』
2.『修飾関係』
4.『並列関係』
に関して、「国語と漢文は、同じである。」
といふことに、他ならない。
従って、
(14)(15)により、
(16)
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
に対して、
1.我(主述関係)
2.常(修飾関係)
2.者(修飾関係)
を加へて、
④ 我非不常読漢文者=
④ 我非[不〔常読(漢文)〕者]⇒
④ 我[〔常(漢文)読〕不者]非=
④ 我は[〔常には(漢文を)読ま〕不る者に]非ず。
のやうにしても、「漢文訓読」は、成立する。
従って、
(15)(16)により、
(17)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」一方で、
「補足構造以外の語順は、漢文と国語の語順は同じである。」が故に、
③ 非不読漢文=
③ 漢文を読ま不るに非ず=
③ 漢文を読まないのではない。
といふ「漢文訓読」に加へて、
④ 我非不常読漢文者=
④ 我は常には漢文を読ま不る者に非ず=
④ 私は、時には漢文を読まない者ではない(私は常に漢文を読む)。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(18)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対であるが、補足構造以外の語順は、漢文と国語の語順は同じである。」といふ「条件」を、「訓読の条件」とするならば、「ある言語」は、「訓読の条件」を満たしてゐない。といふことが、予想される。
然るに、
(19)
通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない(ウィキペディア:漢文)。近代に至るまで、白話は、民衆語として低俗なものとされていたが、1917年(民国6年)、胡適が、アメリカから雑誌『新青年』に「文学改良芻議」を寄稿し、近代的プラグマティズムの観点から、難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱した(ウィキペディア:白話)。
従って、
(18)(19)により、
(20)
もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になる「白話(中国語)」は、「訓読の条件」を、満たしてゐない。
従って、
(20)により、
(21)
「漢文」は、「訓読の条件」を満たしてゐて、「中国語」は、「訓読の条件」を満たしてゐない。以上、「漢文」には、「訓読の条件」といふ「ルール」が有る。
従って、
(22)
「漢文」には、「訓読の条件」といふ「ルール」が有って、その「ルール」を、「文法」と呼ぶのであれば、「漢文」には、「文法(ルール)」がある。
従って、
(23)
「そもそも、漢文には文法が存在しない。」といふ「見解」は、「誤り」である。
平成26年11月05日、毛利太。
荻生徂徠は、漢文を読むが、英文は読まない。
ラッセルは、英文を読むが、漢文を読まない。
とする。
従って、
(01)により、
(02)
① 荻生徂徠読(漢文)=荻生徂徠(漢文を)読む。
② 荻生徂徠読(英文)=荻生徂徠(英文を)読む。
③ ラッセル読(漢文)=ラッセル(漢文を)読む。
④ ラッセル読(英文)=ラッセル(英文を)読む。
に於いて、
① は「真(1)」であって、
② は「偽(0)」である。
③ は「偽(0)」であって、
④ は「真(1)」である。
然るに、
(03)
① 荻生徂徠読(漢文)。
② 荻生徂徠読(英文)。
③ ラッセル読(漢文)。
④ ラッセル読(英文)。
を、
① 読(荻生徂徠、漢文)。
② 読(荻生徂徠、英文)。
③ 読(ラッセル、漢文)。
④ 読(ラッセル、英文)。
といふ風に、書くことにする。
然るに、
(04)
ところで、このレーマは現在のことばでいえば明らかに命題関数である。つまりf(ⅹ)、f(ⅹ,y)、f(ⅹ、y、z)といったものである(山下正男、論理学史、1983年、95頁)。
然るに、
(05)
「レーマ(ΡΗΜΑ)」は、ギリシャ語で、「名詞(ΟΝΟΜΑ)」に対する「動詞(ΡΗΜΑ)」のことを言ふ。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① 読( )。
② 読( )。
③ 読( )。
④ 読( )。
は、「主語と、目的語の、関数」である。
従って、
(06)により、
(07)
① 荻生徂徠読( )。
② 荻生徂徠読( )。
③ ラッセル読( )。
④ ラッセル読( )。
は、「目的語の、関数」である。
然るに、
(08)
① 読( )。
② 読( )。
③ 読( )。
④ 読( )。
に於いて、
① 荻生徂徠
② 荻生徂徠
③ ラッセル
④ ラッセル
といふ「主語」が、「省略」されてゐる。ものとする。
従って、
(07)(08)により、
(09)
⑤ 読( )。
は、「目的語の、関数」である。
然るに、
(10)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「真(1)」である時、その「否定」、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「偽(0)」であって、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「偽(0)」である時、その「否定」、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「真(1)」である。
加へて、
(11)
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「真(1)」である時、その「否定」、
③ 非[不〔読(漢文)〕]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「偽(0)」であって、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「偽(0)」である時、その「否定」、
③ 非[不〔読(漢文)〕]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「真(1)」である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ 非[不〔読(漢文)〕]⇒
③ [〔(漢文)読〕不]非=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「関数の、関数の、関数」である。
然るに、
(13)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)からである。
従って、
(12)(13)により、
(14)
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]。
といふ「漢文」が、、
③ 非[不〔読(漢文)〕]⇒
③ [〔(漢文)読〕不]非=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
のやうに「訓読」出来るといふことは、
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]。
といふ「漢文」が、
③「補足構造の、補足構造の、補足構造」である。といふことを、意味してゐる。
然るに、
(15)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」
といふことは、この場合は、
1.『主述関係』
2.『修飾関係』
3.『補足関係』
4.『並列関係』
に於いて、
1.『主述関係』
2.『修飾関係』
4.『並列関係』
に関して、「国語と漢文は、同じである。」
といふことに、他ならない。
従って、
(14)(15)により、
(16)
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
に対して、
1.我(主述関係)
2.常(修飾関係)
2.者(修飾関係)
を加へて、
④ 我非不常読漢文者=
④ 我非[不〔常読(漢文)〕者]⇒
④ 我[〔常(漢文)読〕不者]非=
④ 我は[〔常には(漢文を)読ま〕不る者に]非ず。
のやうにしても、「漢文訓読」は、成立する。
従って、
(15)(16)により、
(17)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」一方で、
「補足構造以外の語順は、漢文と国語の語順は同じである。」が故に、
③ 非不読漢文=
③ 漢文を読ま不るに非ず=
③ 漢文を読まないのではない。
といふ「漢文訓読」に加へて、
④ 我非不常読漢文者=
④ 我は常には漢文を読ま不る者に非ず=
④ 私は、時には漢文を読まない者ではない(私は常に漢文を読む)。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(18)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対であるが、補足構造以外の語順は、漢文と国語の語順は同じである。」といふ「条件」を、「訓読の条件」とするならば、「ある言語」は、「訓読の条件」を満たしてゐない。といふことが、予想される。
然るに、
(19)
通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない(ウィキペディア:漢文)。近代に至るまで、白話は、民衆語として低俗なものとされていたが、1917年(民国6年)、胡適が、アメリカから雑誌『新青年』に「文学改良芻議」を寄稿し、近代的プラグマティズムの観点から、難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱した(ウィキペディア:白話)。
従って、
(18)(19)により、
(20)
もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になる「白話(中国語)」は、「訓読の条件」を、満たしてゐない。
従って、
(20)により、
(21)
「漢文」は、「訓読の条件」を満たしてゐて、「中国語」は、「訓読の条件」を満たしてゐない。以上、「漢文」には、「訓読の条件」といふ「ルール」が有る。
従って、
(22)
「漢文」には、「訓読の条件」といふ「ルール」が有って、その「ルール」を、「文法」と呼ぶのであれば、「漢文」には、「文法(ルール)」がある。
従って、
(23)
「そもそも、漢文には文法が存在しない。」といふ「見解」は、「誤り」である。
平成26年11月05日、毛利太。
2014年11月2日日曜日
英文訓読(仮題)。
(01)
I read English=主語+動詞+目的語。
の「下線(アンダーライン)」を、「括弧」に換へると、
I read(English).
従って、
(02)
読(英語)=動詞(目的語)。
であるものの、「漢文」の場合は、
目的語と補語とは、それほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と読んだり、単に補語と読んだりしている(数研出版、チャート式 基礎からの漢文、1982年、26頁)。
然るに、
(03)
荻生徂徠が「主語」である時、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 読(英語)=(英語を)読む。
に於いて、
① は「真(1)」であるが、
② は「偽(0)」である。
(04)
ラッセルが「主語」である時、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 読(英語)=(英語を)読む。
に於いて、
① は「偽(0)」であって、
② は「真(1)」である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 読(英語)=(英語を)読む。
は、「主語」によって、「真偽(1・0)」が決まるといふ「意味」で、
「主語の関数」であり、(02)により、
① 読( )=( を)読む。
② 読( )=( を)読む。
は、「補語の関数」である。
然るに、
(06)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「真(1)」である時、
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「偽(0)」であって、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「偽(0)」である時、
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「真(1)」である。
加へて、
(07)
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「真(1)」である時、
③ 非[ 不〔 読(漢文)]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「偽(0)」であって、
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「偽(0)」である時、
③ 非[ 不〔 読(漢文)]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「真(1)」である。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
③ 非[ 不〔 読( )]。
は、「関数の、関数の、関数」である。
然るに、
(09)
④ 常読(漢文)⇒
④ 常(漢文)読=
④ 常に(漢文を)読む。
の場合は、
④ 常〔読(漢文)〕⇒
④ 〔(漢文)読〕常=
④ 〔(漢文を)読むこと〕常なり。
といふ風にも、「訓読」出来る。
cf.
「原田種成、私の漢文講義、1995年、56頁」。
従って、
(10)
④ 非不常読漢文。
の場合は、
④ 非{不[常〔読(漢文)〕]}⇒
④ {[〔(漢文)読〕常]不}非=
④ {[〔(漢文を)読むこと〕常なら]不るに}非ず。
といふ風に、「訓読」出来る。
従って、
(08)(10)により、
(11)
④ 非{不[常〔読( )〕]}。
は、「関数の、関数の、関数の、関数」であるが、
それと同時に、(02)により、
④ 非{不[常〔読(漢文)〕]}は、
は、「補足の、補足の、補足の、補足」である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
④ 非不常読漢文 ⇒
④ 漢文を読むこと常なら不るに非ず。
といふ「漢文訓読」が、可能である所以は、
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)からである。
といふ、ことになる。
然るに、
(13)
④ 非不常読漢文=
④ 非{不[常〔読(漢文)〕]}⇒
④ {[〔(漢文)読〕常]不}非=
に対して、
⑤ 非不久如天然読漢文=
⑤ 非{不[〔久如(日月)然〕読(漢文)]}⇒
⑤ {[〔久(日月)如然〕(漢文)読]不}非=
⑤ 久しきこと日月の如く然うして漢文を読ま不んば非ず。
であれば、
④ 漢文を読むこと常なら不るに非ず。
といふ「意味」には、とれない。
従って、
(14)
仮に、
久如日月然=常
といふ「イデオム」が、「漢文」に有って、
④ 非不常読漢文=
⑤ 非不久如日月然読漢文。
であったとする。ならば、
④ 非不常読漢文=
⑤ 非不久如日月然読漢文=
⑤ 久しきこと日月の如く然うして漢文を読ま不んば非ず。
となって、「意味」が、通じないが故に、この場合の「漢文」は、「訓読」には適さない。
然るに、
(15)
久如日月然=常(always)
といった、このような「イディオム」は、実際には無い。
然るに、
(16)
「英語」に対して「括弧(返り点)」を付けてみて分かることは、とにかく、「英語」は「イディオム」が多い。といふことである。
(17)
例へば、
彼らはお金が足りなくなった=
They have run short of money.
その船は波にもてあそばれている=
The ship is at the mercy of the waves.
のやうに、「イディオム」が用ゐられてゐる場合は、「返り点(括弧)」を付けることは、出来ない。
加へて、
(18)
あなたは誰ですか=
Who are you?
机の上に本が有る=
There is a book on the desk.
私が漢文を読まないといふことは、本当ではない=
It is not true that I don’t read 漢文.
等には、「返り点(括弧)」を付けることが、出来ない。
然るに、
(19)
I don’t〔read(English)〕⇒
I 〔(English)read〕 don’t=
私は〔(英語を)読ま〕ない。
に対しては、「返り点(括弧)」を付けることが、出来る。
従って、
(12)~(19)により、
(20)
「漢文は、その補足構造における語順が、国語とは全く反対である。」が故に、「漢文訓読」が、可能である一方で、「英語は、その補足構造における語順が、国語とは反対である場合もあり、尚且つ、イディオムなどが多く有る。」が故に、「英文訓読」は、可能である場合と、さうでない場合がある。といふ、ことになる。
従って、
(21)
「漢文」が、仮に、「英語」のやうな「言語」であれば、
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう(ある言語教育関連の新聞の連載コラム、西洋文化研究者)。」と、言はれる前に、「英文訓読」が、さうであるやうに、「漢文訓読」は、成立してゐなかった。ことになる。
従って、
(22)
「漢文訓読」と、「英文訓読」を、同一に論じることは、出来ないのあって、「英文訓読」は、固より、それが出来なかった。といふことに、過ぎない。
平成26年11月02日、毛利太。
I read English=主語+動詞+目的語。
の「下線(アンダーライン)」を、「括弧」に換へると、
I read(English).
従って、
(02)
読(英語)=動詞(目的語)。
であるものの、「漢文」の場合は、
目的語と補語とは、それほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と読んだり、単に補語と読んだりしている(数研出版、チャート式 基礎からの漢文、1982年、26頁)。
然るに、
(03)
荻生徂徠が「主語」である時、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 読(英語)=(英語を)読む。
に於いて、
① は「真(1)」であるが、
② は「偽(0)」である。
(04)
ラッセルが「主語」である時、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 読(英語)=(英語を)読む。
に於いて、
① は「偽(0)」であって、
② は「真(1)」である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 読(英語)=(英語を)読む。
は、「主語」によって、「真偽(1・0)」が決まるといふ「意味」で、
「主語の関数」であり、(02)により、
① 読( )=( を)読む。
② 読( )=( を)読む。
は、「補語の関数」である。
然るに、
(06)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「真(1)」である時、
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「偽(0)」であって、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「偽(0)」である時、
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「真(1)」である。
加へて、
(07)
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「真(1)」である時、
③ 非[ 不〔 読(漢文)]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「偽(0)」であって、
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「偽(0)」である時、
③ 非[ 不〔 読(漢文)]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「真(1)」である。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
③ 非[ 不〔 読( )]。
は、「関数の、関数の、関数」である。
然るに、
(09)
④ 常読(漢文)⇒
④ 常(漢文)読=
④ 常に(漢文を)読む。
の場合は、
④ 常〔読(漢文)〕⇒
④ 〔(漢文)読〕常=
④ 〔(漢文を)読むこと〕常なり。
といふ風にも、「訓読」出来る。
cf.
「原田種成、私の漢文講義、1995年、56頁」。
従って、
(10)
④ 非不常読漢文。
の場合は、
④ 非{不[常〔読(漢文)〕]}⇒
④ {[〔(漢文)読〕常]不}非=
④ {[〔(漢文を)読むこと〕常なら]不るに}非ず。
といふ風に、「訓読」出来る。
従って、
(08)(10)により、
(11)
④ 非{不[常〔読( )〕]}。
は、「関数の、関数の、関数の、関数」であるが、
それと同時に、(02)により、
④ 非{不[常〔読(漢文)〕]}は、
は、「補足の、補足の、補足の、補足」である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
④ 非不常読漢文 ⇒
④ 漢文を読むこと常なら不るに非ず。
といふ「漢文訓読」が、可能である所以は、
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)からである。
といふ、ことになる。
然るに、
(13)
④ 非不常読漢文=
④ 非{不[常〔読(漢文)〕]}⇒
④ {[〔(漢文)読〕常]不}非=
に対して、
⑤ 非不久如天然読漢文=
⑤ 非{不[〔久如(日月)然〕読(漢文)]}⇒
⑤ {[〔久(日月)如然〕(漢文)読]不}非=
⑤ 久しきこと日月の如く然うして漢文を読ま不んば非ず。
であれば、
④ 漢文を読むこと常なら不るに非ず。
といふ「意味」には、とれない。
従って、
(14)
仮に、
久如日月然=常
といふ「イデオム」が、「漢文」に有って、
④ 非不常読漢文=
⑤ 非不久如日月然読漢文。
であったとする。ならば、
④ 非不常読漢文=
⑤ 非不久如日月然読漢文=
⑤ 久しきこと日月の如く然うして漢文を読ま不んば非ず。
となって、「意味」が、通じないが故に、この場合の「漢文」は、「訓読」には適さない。
然るに、
(15)
久如日月然=常(always)
といった、このような「イディオム」は、実際には無い。
然るに、
(16)
「英語」に対して「括弧(返り点)」を付けてみて分かることは、とにかく、「英語」は「イディオム」が多い。といふことである。
(17)
例へば、
彼らはお金が足りなくなった=
They have run short of money.
その船は波にもてあそばれている=
The ship is at the mercy of the waves.
のやうに、「イディオム」が用ゐられてゐる場合は、「返り点(括弧)」を付けることは、出来ない。
加へて、
(18)
あなたは誰ですか=
Who are you?
机の上に本が有る=
There is a book on the desk.
私が漢文を読まないといふことは、本当ではない=
It is not true that I don’t read 漢文.
等には、「返り点(括弧)」を付けることが、出来ない。
然るに、
(19)
I don’t〔read(English)〕⇒
I 〔(English)read〕 don’t=
私は〔(英語を)読ま〕ない。
に対しては、「返り点(括弧)」を付けることが、出来る。
従って、
(12)~(19)により、
(20)
「漢文は、その補足構造における語順が、国語とは全く反対である。」が故に、「漢文訓読」が、可能である一方で、「英語は、その補足構造における語順が、国語とは反対である場合もあり、尚且つ、イディオムなどが多く有る。」が故に、「英文訓読」は、可能である場合と、さうでない場合がある。といふ、ことになる。
従って、
(21)
「漢文」が、仮に、「英語」のやうな「言語」であれば、
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう(ある言語教育関連の新聞の連載コラム、西洋文化研究者)。」と、言はれる前に、「英文訓読」が、さうであるやうに、「漢文訓読」は、成立してゐなかった。ことになる。
従って、
(22)
「漢文訓読」と、「英文訓読」を、同一に論じることは、出来ないのあって、「英文訓読」は、固より、それが出来なかった。といふことに、過ぎない。
平成26年11月02日、毛利太。
2014年10月31日金曜日
漢文訓読と、中国語。
(01)
① ¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
は、「ド・モルガンの法則」である。
従って、
(02)
① から、( )を除いた、
② ¬P∧Q=¬P∨¬Q
といふ「式」は、「誤り」である。
然るに、
(03)
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、Prologで学ぶ AIプログラミング、2008年、13頁)。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① ¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
に於いて、「( )が省略されてゐる。」のであれば、その時に限って、
② ¬P∧Q=¬P∨¬Q
といふ「等式(ド・モルガンの法則)」は、「正しい」。
従って、
(05)
「( )が省略されてゐる。」と、思へば、その時に限って、
② ¬P∧Q=¬P∨¬Q
といふ「等式(ド・モルガンの法則)」は、「正しい」。
然るに、
(06)
① ¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
③ P→¬Q = Q→¬P
に於いて、
① は、③ に等しい。
cf.
詳しくは、「前回の記事(H26/10/28)の、追記」をお読み下さい。
然るに、
(07)
① 不為児孫買美田(¬P∧Q) =
①(児孫の為に美田を買ふこと)はない=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない(Q→¬P)。
といふ「等式」が、成立する。
cf.
詳しくは、「前々回の記事(H26/10/27)」をお読み下さい。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① 不為児孫買美田=
② 不(為児孫買美田)=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(05)(08)により、
(09)
① 不為児孫買美田=
② 不(為児孫買美田)。
といふ風に、「思ってゐる」が故に、
「ド・モルガンの法則、含意の定義、対偶」により、
① 不為児孫買美田=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(10)
① 不為児孫買美田。
に於いて、
不 といふ一字が、
為児孫買美田 といふ六字に、「係ってゐる」。
と、西郷隆盛が「思ってゐる」。
と、我々が「思ってゐる」が故に、
① 不為児孫買美田 =
② 不(為児孫買美田)=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「等式」が、成立する。
cf.
偶 成 西郷南洲
従って、
(11)
尚且つ、
為 といふ一字が、
児孫 といふ二字に、「係ってゐる」。
と、西郷隆盛が「思ってゐる」と、するならば、
不為児孫買美田 =
不〔為(児孫)買美田〕。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(12)
尚且つ、
買 といふ一字が、
美田 といふ二字に、「係ってゐる」。
と、西郷隆盛が、「思ってゐる」と、するならば、
不為児孫買美田 =
不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(13)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
① 不為児孫買美田 =
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ風に、「(西郷は思ってゐると、)思っても良い」のであれば、
「漢文の補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」
といふ「事実」に基づき、
① 不為児孫買美田 =
① 不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
② 〔(児孫)為(美田)買〕不=
② 〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ、「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(14)により、
(15)
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 〔(児孫)為(美田)買〕不。
に於いて、
① は、「漢文の語順」であり、
② は、「国語の語順」である。
と同時に、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
に於いて、
① は、「漢文の補足構造」であり、
② は、「国語の補足構造」である。
が故に、
① 〔( )( )〕=
② 〔( )( )〕。
は、「漢文と国語の、補足構造」である。
従って、
(15)により、
(16)
① 不為児孫買美田。
といふ「漢文」を、
② 児孫の為に美田を買は不。
といふ風に、「訓読」する。といふことは、
① 不為児孫買美田。
といふ「漢文の補足構造」を、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ風に、「捉へてゐる」といふことを、「意味」してゐる。
従って、
(16)により、
(17)
① 不為児孫買美田。
といふ「七文字」を、
① フイジソンバイビデン。
といふ風に、「音読」出来るからではなく、
① 不為児孫買美田。
といふ「七文字」が、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ「構造(シンタックス)」が、「見える」からこそ、
② 児孫の為に美田を買は不。
といふ風に、「訓読」出来る。といふことになるし、思ふに、
「書を読むは書を看るに如かず(荻生徂徠、訳文荃蹄・題言)。」
といふのは、このことを言ふ。
従って、
(17)により、
(18)
① 不為児孫買美田 ⇒
② 児孫の為に美田を買は不。
といふ「漢文訓読」は、「漢文の補足構造」に即した、「(定型的な)訳読」である。といふことになる。
従って、
(19)
例へば、
① 不(憤)不(啓)⇒
② (憤せ)不んば(啓せ)不。
すなはち、「論語、述而第七、八」も、「漢文の補足構造」に即した、「(定型的な)訳読」である。といふことになる。
従って、
(19)により、
(20)
① 不(憤)不(啓)⇒
③ If you do not agonize trying to understand, I will not enlighten you(K.Yuhazu 訳).
並びに、
① 不(憤)不(啓)⇒
④ 不到他想求明白却又想不通而苦恼时,不去开导他(K.Yuhazu 訳).
は、「原文の補足構造」に即さない、「(非定型的)意訳」である。といふことになる。
然るに、
(21)
私には、
④ 不到他想求明白却又想不通而苦恼时,不去开导他。
といふ「現代中国語」が、全く分からない。
(22)
「漢字」で書かれているが故に、
求明白却又=求める明白かえってまた
のやうには、読めるものの、これが仮に、
④ Bù dào tā xiǎng qiú míngbái què yòu xiǎng bùtōng ér kǔnǎo shí, bù qù kāidǎo tā(グーグル翻訳).
のやうに「ピンイン(ローマ字)」で書かれてゐたら、「文字通り、完全に、理解不能」となる。
従って、
(23)
その意味では、
③ If you do not agonize trying to understand, I will not enlighten you((K.Yuhazu 訳).
④ Bù dào tā xiǎng qiú míngbái què yòu xiǎng bùtōng ér kǔnǎo shí, bù qù kāidǎo tā(グーグル翻訳).
の二つは、「外国語」といふ点に関しては、全く同じことである。
然るに、
(24)
英語はノルマン人の征服の後、フランス語から多くの語彙を吸収し、何世紀もかけてドイツ語やアイスランド語などの保守的なゲルマン語諸語になお見られる文法的な複雑さの多くを失った。この違いは、現代アイルランド人が現在のアイスランド・サガを読めるのに、『べーオウルフ』のような古英語による叙事詩の言語が、現代のイギリス人読者にとってはまるで異質な言語であることを考えれば明らかである(新曜社、消えゆく言語たち/失われることば、失われる世界、2001年、17・18頁改)。
然るに、
(25)
現代中国語と言われるものは概ね北京語に他ならない。北京語と古典中国語(文言)は互いに違う言葉である。北京語(普通話)に通じることは文言の理解を特別に助けるものではない(Webサイト:二十一世紀の漢文-死語の将来 - 日本文化研究センター)。
従って、
(26)
漢文というものをやってみるとわかるんですが、現代中国語をしゃべれないような人はほんとうは漢文は読めないんです(yellow.ap.teacup.com/kadowaki/248.html )。
といふ「言ひ方」は、
現代英語をしゃべれないドイツ人は、古英語も読めないんです。
といふ「言ひ方」と、同じやうにしか、聞こえない。
(27)
日本語と古典中国語(漢文)も、もちろん、互いに違ふ言葉である。
しかしながら、
(28)
(15)でも書いたやうに、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 〔(児孫の)為に(美田を)買は〕ず。
に於いて、
① 〔( )( )〕=
② 〔( )( )〕。
であることからすれば、「漢文と国語の、補足構造」は、「等しい」。
従って、
(29)
① 不為児孫買美田。
② 児孫の為に美田を買はず。
に於ける、「語順の違ひ」だけに着目して、
① 〔( )( )〕=
② 〔( )( )〕。
といふ「捕捉構造」には、触れない形で、国語(日本語)と漢文の違ひを「強調」することは、「正しいやり方」であるとは、思へないし、それと同時、次のやうな事情も、忘れるべきではない。
すなはち、
(30)
われわれ日本人は、実に古い中国の古典語彙をいまなお使用していることに改めて驚かされる。本国の中国で、それらのことばは、とうの昔にわすれられてしまい、古典語彙の辞書の中にその存在を示すにとどまっているのである(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、227頁)。
といふことも、忘れるべきではない。
加へて、
(31)
漢字は、実は、本場の中国においても、その読み方は地域の自由にまかせているのである。― 中略 ―その多様さはインド・ヨーロッパ語族の多様さに優に匹敵する。それゆえに、もし中国においてことばの表記を表音文字にきりかえたならば、同時に十三以上の外国語ができてしまうということになる。(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、134・5頁)。
といふことも、忘れるべきではない。
従って、
(32)
現代中国語をしゃべれないような人はほんとうは漢文は読めないんです。
といふ「言ひ方」は、
現代欧州語をしゃべれないような人はほんとうはラテン語は読めないんです。
といふ「言ひ方」を、想起させるものの、さうしたことが、有り得るとは、思へない。
平成26年10月31日、毛利太。
① ¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
は、「ド・モルガンの法則」である。
従って、
(02)
① から、( )を除いた、
② ¬P∧Q=¬P∨¬Q
といふ「式」は、「誤り」である。
然るに、
(03)
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、Prologで学ぶ AIプログラミング、2008年、13頁)。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① ¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
に於いて、「( )が省略されてゐる。」のであれば、その時に限って、
② ¬P∧Q=¬P∨¬Q
といふ「等式(ド・モルガンの法則)」は、「正しい」。
従って、
(05)
「( )が省略されてゐる。」と、思へば、その時に限って、
② ¬P∧Q=¬P∨¬Q
といふ「等式(ド・モルガンの法則)」は、「正しい」。
然るに、
(06)
① ¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
③ P→¬Q = Q→¬P
に於いて、
① は、③ に等しい。
cf.
詳しくは、「前回の記事(H26/10/28)の、追記」をお読み下さい。
然るに、
(07)
① 不為児孫買美田(¬P∧Q) =
①(児孫の為に美田を買ふこと)はない=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない(Q→¬P)。
といふ「等式」が、成立する。
cf.
詳しくは、「前々回の記事(H26/10/27)」をお読み下さい。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① 不為児孫買美田=
② 不(為児孫買美田)=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(05)(08)により、
(09)
① 不為児孫買美田=
② 不(為児孫買美田)。
といふ風に、「思ってゐる」が故に、
「ド・モルガンの法則、含意の定義、対偶」により、
① 不為児孫買美田=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(10)
① 不為児孫買美田。
に於いて、
不 といふ一字が、
為児孫買美田 といふ六字に、「係ってゐる」。
と、西郷隆盛が「思ってゐる」。
と、我々が「思ってゐる」が故に、
① 不為児孫買美田 =
② 不(為児孫買美田)=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「等式」が、成立する。
cf.
偶 成 西郷南洲
幾歴辛酸志始堅
丈夫玉碎恥甎全 我家遺法人知否 不爲兒孫買美田 |
(11)
尚且つ、
為 といふ一字が、
児孫 といふ二字に、「係ってゐる」。
と、西郷隆盛が「思ってゐる」と、するならば、
不為児孫買美田 =
不〔為(児孫)買美田〕。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(12)
尚且つ、
買 といふ一字が、
美田 といふ二字に、「係ってゐる」。
と、西郷隆盛が、「思ってゐる」と、するならば、
不為児孫買美田 =
不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(13)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
① 不為児孫買美田 =
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ風に、「(西郷は思ってゐると、)思っても良い」のであれば、
「漢文の補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」
といふ「事実」に基づき、
① 不為児孫買美田 =
① 不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
② 〔(児孫)為(美田)買〕不=
② 〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ、「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(14)により、
(15)
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 〔(児孫)為(美田)買〕不。
に於いて、
① は、「漢文の語順」であり、
② は、「国語の語順」である。
と同時に、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
に於いて、
① は、「漢文の補足構造」であり、
② は、「国語の補足構造」である。
が故に、
① 〔( )( )〕=
② 〔( )( )〕。
は、「漢文と国語の、補足構造」である。
従って、
(15)により、
(16)
① 不為児孫買美田。
といふ「漢文」を、
② 児孫の為に美田を買は不。
といふ風に、「訓読」する。といふことは、
① 不為児孫買美田。
といふ「漢文の補足構造」を、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ風に、「捉へてゐる」といふことを、「意味」してゐる。
従って、
(16)により、
(17)
① 不為児孫買美田。
といふ「七文字」を、
① フイジソンバイビデン。
といふ風に、「音読」出来るからではなく、
① 不為児孫買美田。
といふ「七文字」が、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ「構造(シンタックス)」が、「見える」からこそ、
② 児孫の為に美田を買は不。
といふ風に、「訓読」出来る。といふことになるし、思ふに、
「書を読むは書を看るに如かず(荻生徂徠、訳文荃蹄・題言)。」
といふのは、このことを言ふ。
従って、
(17)により、
(18)
① 不為児孫買美田 ⇒
② 児孫の為に美田を買は不。
といふ「漢文訓読」は、「漢文の補足構造」に即した、「(定型的な)訳読」である。といふことになる。
従って、
(19)
例へば、
① 不(憤)不(啓)⇒
② (憤せ)不んば(啓せ)不。
すなはち、「論語、述而第七、八」も、「漢文の補足構造」に即した、「(定型的な)訳読」である。といふことになる。
従って、
(19)により、
(20)
① 不(憤)不(啓)⇒
③ If you do not agonize trying to understand, I will not enlighten you(K.Yuhazu 訳).
並びに、
① 不(憤)不(啓)⇒
④ 不到他想求明白却又想不通而苦恼时,不去开导他(K.Yuhazu 訳).
は、「原文の補足構造」に即さない、「(非定型的)意訳」である。といふことになる。
然るに、
(21)
私には、
④ 不到他想求明白却又想不通而苦恼时,不去开导他。
といふ「現代中国語」が、全く分からない。
(22)
「漢字」で書かれているが故に、
求明白却又=求める明白かえってまた
のやうには、読めるものの、これが仮に、
④ Bù dào tā xiǎng qiú míngbái què yòu xiǎng bùtōng ér kǔnǎo shí, bù qù kāidǎo tā(グーグル翻訳).
のやうに「ピンイン(ローマ字)」で書かれてゐたら、「文字通り、完全に、理解不能」となる。
従って、
(23)
その意味では、
③ If you do not agonize trying to understand, I will not enlighten you((K.Yuhazu 訳).
④ Bù dào tā xiǎng qiú míngbái què yòu xiǎng bùtōng ér kǔnǎo shí, bù qù kāidǎo tā(グーグル翻訳).
の二つは、「外国語」といふ点に関しては、全く同じことである。
然るに、
(24)
英語はノルマン人の征服の後、フランス語から多くの語彙を吸収し、何世紀もかけてドイツ語やアイスランド語などの保守的なゲルマン語諸語になお見られる文法的な複雑さの多くを失った。この違いは、現代アイルランド人が現在のアイスランド・サガを読めるのに、『べーオウルフ』のような古英語による叙事詩の言語が、現代のイギリス人読者にとってはまるで異質な言語であることを考えれば明らかである(新曜社、消えゆく言語たち/失われることば、失われる世界、2001年、17・18頁改)。
然るに、
(25)
現代中国語と言われるものは概ね北京語に他ならない。北京語と古典中国語(文言)は互いに違う言葉である。北京語(普通話)に通じることは文言の理解を特別に助けるものではない(Webサイト:二十一世紀の漢文-死語の将来 - 日本文化研究センター)。
従って、
(26)
漢文というものをやってみるとわかるんですが、現代中国語をしゃべれないような人はほんとうは漢文は読めないんです(yellow.ap.teacup.com/kadowaki/248.html )。
といふ「言ひ方」は、
現代英語をしゃべれないドイツ人は、古英語も読めないんです。
といふ「言ひ方」と、同じやうにしか、聞こえない。
(27)
日本語と古典中国語(漢文)も、もちろん、互いに違ふ言葉である。
しかしながら、
(28)
(15)でも書いたやうに、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 〔(児孫の)為に(美田を)買は〕ず。
に於いて、
① 〔( )( )〕=
② 〔( )( )〕。
であることからすれば、「漢文と国語の、補足構造」は、「等しい」。
従って、
(29)
① 不為児孫買美田。
② 児孫の為に美田を買はず。
に於ける、「語順の違ひ」だけに着目して、
① 〔( )( )〕=
② 〔( )( )〕。
といふ「捕捉構造」には、触れない形で、国語(日本語)と漢文の違ひを「強調」することは、「正しいやり方」であるとは、思へないし、それと同時、次のやうな事情も、忘れるべきではない。
すなはち、
(30)
われわれ日本人は、実に古い中国の古典語彙をいまなお使用していることに改めて驚かされる。本国の中国で、それらのことばは、とうの昔にわすれられてしまい、古典語彙の辞書の中にその存在を示すにとどまっているのである(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、227頁)。
といふことも、忘れるべきではない。
加へて、
(31)
漢字は、実は、本場の中国においても、その読み方は地域の自由にまかせているのである。― 中略 ―その多様さはインド・ヨーロッパ語族の多様さに優に匹敵する。それゆえに、もし中国においてことばの表記を表音文字にきりかえたならば、同時に十三以上の外国語ができてしまうということになる。(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、134・5頁)。
といふことも、忘れるべきではない。
従って、
(32)
現代中国語をしゃべれないような人はほんとうは漢文は読めないんです。
といふ「言ひ方」は、
現代欧州語をしゃべれないような人はほんとうはラテン語は読めないんです。
といふ「言ひ方」を、想起させるものの、さうしたことが、有り得るとは、思へない。
平成26年10月31日、毛利太。
2014年10月28日火曜日
「括弧」はあります!の「追記」。
この「記事」は、「10月27日の記事」の「追記」です。
(29)
① Pでない。か、Qでない。
② Pである。
とします。
然るに、
(30)
① Pでない。
② Pである。
に於いて、
①と②は、「矛盾」するため、
② Pである。
ならば、
① Pでない。
は、「否定」されます。
従って、
(31)
① Pでない。か、Qでない。
② Pである。
であるならば、
① Pでない。
は、「否定」されるため、「消去法」により、
③ Qでない。
といふことに、なります。
従って、
(31)により、
(32)
① Pでない。か、Qでない。
② Pである。∴
③ Qでない。
といふ「推論(選言三段論法)」は、「正しい」。
然るに、
(33)
① Pであるならば、Qでない。
② Pである。∴
③ Qでない。
といふ「推論(前件肯定式)」は、当然、「正しい」。
従って、
(32)(33)により、
(34)
① Pでない。か、Qでない。
といふ「命題」は、
② Pであるならば、Qでない。
といふ「命題」に等しく、このことを、「含意の定義」といふ。
然るに、
(35)
① Pでない。か、Qでない。
は、「ド・モルガンの法則」により、
③(Pであって、Qである)でない。
に、等しい。
従って、
(34)(35)により、
(36)
① Pでない。か、Qでない。
② Pであるならば、Qでない。
③(Pであって、Qである)でない。
に於いて、
①=②=③
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(37)
例へば、
② Nが偶数であるならば、N+1は偶数でない。
といふ「命題」の「対偶」は、
④ N+1が偶数であるならば、Nは偶数でない。
であって、「対偶」は等しい。
従って、
(37)により、
(38)
② Pであるならば、Qでない。
といふ「命題」は、その、「対偶」である、
④ Qであるならば、Pでない。
といふ「命題」に、等しい。
従って、
(36)(38)により、
(39)
① Pでない。か、Qでない。
② Pであるならば、Qでない。
③(Pであって、Qである)でない。
④ Qであるならば、Pでない。
に於いて、
①=②=③=④
といふ「等式」が、成立し、それ故、
③(Pであって、Qである)でない。
といふ「命題」は、
④ Qであるならば、Pでない。
といふ「命題」に等しい。
従って、
(39)により、
(40)
③(児孫の為に、美田を買ふこと)はない。
といふ「命題」は、
④ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「命題」に等しい。
従って、
(41)
③ 不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
③〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「命題」は、「論理的」に、
④ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「命題」に、等しい。
然るに、
(42)
「ド・モルガンの法則」により、
① Pでない。か、Qでない。
といふ「選言」は、
③(Pであって、Qである)でない。
といふ「連言の否定」に等しい。
とする際に、
③(Pであって、Qである)でない。
から「括弧」を除き、
③ Pであって、Qでない。
とすることは、出来ない。
従って、
(41)(42)により、
(43)
③ 不(為児孫買美田)⇒
③(児孫の為に、美田を買ふこと)はない=
④ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
に於いて、
③ ( )。
といふ「括弧」を、「無視」することは、出来ない。
然るに、
(44)
以上の「推論」は、「論理学」として「正しい」ため、「国語(日本語)」を超えて、「正しい」。
従って、
(29)~(43)と、(44)により、
(45)
われわれ日本人が中国の古典を学ぶようになってから、永く久しい。その間、その学び方も時代とともに、さまざまに変遷してきた。中国の古典がはじめてわが国に伝来したころは、われわれの祖先は恐らく、まず当時の中国語を学び、それを基礎にして中国の古典の読み方を覚え、内容を理解したにちがいない(牛島徳次郎、中国古典の学び方、1977年、1頁)。
といふことに、かかわらず、
③ 不(為児孫買美田)=
④(児孫の為に、美田を買ふこと)はない。
といふ「漢文」に、「括弧」はあります!。
平成26年10月28・29日、毛利太。
(29)~(45)により、
(46)
不(為児孫買美田)。
の「括弧」に関しては、「ドモルガンの法則」と、「含意の定義」で「証明」出来ても、
残念なことに、
為(児孫)
買(美田)
といふ「括弧」に関して、そのやうな「証明」は、出来ない。
しかしながら、
(47)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)といふ「事実」は、
為(児孫)⇒(児孫)為
買(美田)⇒(美田)買
であるとき、
「語順」として見れば、
左側は、「漢文の語順」であって、
右側は、「国語の語順」である。が、
「補足構造」として見れば、
左側は、「漢文の補足構造」であって、
右側は、「国語の補足構造」である。
といふことを、意味してゐる。
従って、
(43)(47)により、
(48)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫)為(美田)買〕不。
に於いて、
上は、「漢文の語順」であって、
下は、「国語の語順」である。
と同時に、
上は、「漢文の補足構造」であって、
下は、「国語の補足構造」である。
といふことを、意味してゐる。
従って、
(49)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
に於いて、
上は、「漢文の補足構造」であって、
下は、「国語の補足構造」である。
といふことについては、「訓読否定派の方たち」も、認めるもののと、思はれる。
従って、
(49)により、
(50)
不為児孫買美田 ⇒
児孫の為に美田を買は不。
といふ「漢文訓読」が、「補足構造」に即した、「(定型的な)訳読」であることについては、「訓読否定派の方たち」も、認めるもののと、思はれる。
然るに、
(51)
不(憤)不(啓)⇒
(憤せ)不んば(啓せ)不。
すなはち、「論語、述而第七、八」の英訳は、例へば、
if you do not agonize trying to understand, I will not enlighten(ゆはず かずより).
となってゐて、「(非定型的な)意訳」であるが、固より、英語には、漢字が無い。
従って、
(52)
「漢文訓読」は、「漢文英訳」とは、全く異なってゐて、ユニークなのは、もちろん、「漢文訓読」である。
然るに、
(53)
漢文教育(かんぶんきょういく)とは、高等学校における国語教育の1領域である。
中国の古典の読解方法(返り点など)を教える。大学入学試験に課されない場合もあるため、教育現場ではあまり重視されていない(ウィキペディア:漢文教育)。
私もそう思います。戦前は漢文教育が盛んだった日本もGHQによる旧制中学精神構造解体の結果、漢文レベルダウン深刻。でも今も共通テストには漢文あったかな?(Twitter/cunqi)。
といふわけで、
(54)
「ユニークな漢文訓読」は、しばらくすると、GHQと日教組のもくろみ通り(?)に、絶滅します。
平成26年10月29日、毛利太。
(29)
① Pでない。か、Qでない。
② Pである。
とします。
然るに、
(30)
① Pでない。
② Pである。
に於いて、
①と②は、「矛盾」するため、
② Pである。
ならば、
① Pでない。
は、「否定」されます。
従って、
(31)
① Pでない。か、Qでない。
② Pである。
であるならば、
① Pでない。
は、「否定」されるため、「消去法」により、
③ Qでない。
といふことに、なります。
従って、
(31)により、
(32)
① Pでない。か、Qでない。
② Pである。∴
③ Qでない。
といふ「推論(選言三段論法)」は、「正しい」。
然るに、
(33)
① Pであるならば、Qでない。
② Pである。∴
③ Qでない。
といふ「推論(前件肯定式)」は、当然、「正しい」。
従って、
(32)(33)により、
(34)
① Pでない。か、Qでない。
といふ「命題」は、
② Pであるならば、Qでない。
といふ「命題」に等しく、このことを、「含意の定義」といふ。
然るに、
(35)
① Pでない。か、Qでない。
は、「ド・モルガンの法則」により、
③(Pであって、Qである)でない。
に、等しい。
従って、
(34)(35)により、
(36)
① Pでない。か、Qでない。
② Pであるならば、Qでない。
③(Pであって、Qである)でない。
に於いて、
①=②=③
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(37)
例へば、
② Nが偶数であるならば、N+1は偶数でない。
といふ「命題」の「対偶」は、
④ N+1が偶数であるならば、Nは偶数でない。
であって、「対偶」は等しい。
従って、
(37)により、
(38)
② Pであるならば、Qでない。
といふ「命題」は、その、「対偶」である、
④ Qであるならば、Pでない。
といふ「命題」に、等しい。
従って、
(36)(38)により、
(39)
① Pでない。か、Qでない。
② Pであるならば、Qでない。
③(Pであって、Qである)でない。
④ Qであるならば、Pでない。
に於いて、
①=②=③=④
といふ「等式」が、成立し、それ故、
③(Pであって、Qである)でない。
といふ「命題」は、
④ Qであるならば、Pでない。
といふ「命題」に等しい。
従って、
(39)により、
(40)
③(児孫の為に、美田を買ふこと)はない。
といふ「命題」は、
④ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「命題」に等しい。
従って、
(41)
③ 不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
③〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「命題」は、「論理的」に、
④ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「命題」に、等しい。
然るに、
(42)
「ド・モルガンの法則」により、
① Pでない。か、Qでない。
といふ「選言」は、
③(Pであって、Qである)でない。
といふ「連言の否定」に等しい。
とする際に、
③(Pであって、Qである)でない。
から「括弧」を除き、
③ Pであって、Qでない。
とすることは、出来ない。
従って、
(41)(42)により、
(43)
③ 不(為児孫買美田)⇒
③(児孫の為に、美田を買ふこと)はない=
④ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
に於いて、
③ ( )。
といふ「括弧」を、「無視」することは、出来ない。
然るに、
(44)
以上の「推論」は、「論理学」として「正しい」ため、「国語(日本語)」を超えて、「正しい」。
従って、
(29)~(43)と、(44)により、
(45)
われわれ日本人が中国の古典を学ぶようになってから、永く久しい。その間、その学び方も時代とともに、さまざまに変遷してきた。中国の古典がはじめてわが国に伝来したころは、われわれの祖先は恐らく、まず当時の中国語を学び、それを基礎にして中国の古典の読み方を覚え、内容を理解したにちがいない(牛島徳次郎、中国古典の学び方、1977年、1頁)。
といふことに、かかわらず、
③ 不(為児孫買美田)=
④(児孫の為に、美田を買ふこと)はない。
といふ「漢文」に、「括弧」はあります!。
平成26年10月28・29日、毛利太。
(29)~(45)により、
(46)
不(為児孫買美田)。
の「括弧」に関しては、「ドモルガンの法則」と、「含意の定義」で「証明」出来ても、
残念なことに、
為(児孫)
買(美田)
といふ「括弧」に関して、そのやうな「証明」は、出来ない。
しかしながら、
(47)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)といふ「事実」は、
為(児孫)⇒(児孫)為
買(美田)⇒(美田)買
であるとき、
「語順」として見れば、
左側は、「漢文の語順」であって、
右側は、「国語の語順」である。が、
「補足構造」として見れば、
左側は、「漢文の補足構造」であって、
右側は、「国語の補足構造」である。
といふことを、意味してゐる。
従って、
(43)(47)により、
(48)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫)為(美田)買〕不。
に於いて、
上は、「漢文の語順」であって、
下は、「国語の語順」である。
と同時に、
上は、「漢文の補足構造」であって、
下は、「国語の補足構造」である。
といふことを、意味してゐる。
従って、
(49)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
に於いて、
上は、「漢文の補足構造」であって、
下は、「国語の補足構造」である。
といふことについては、「訓読否定派の方たち」も、認めるもののと、思はれる。
従って、
(49)により、
(50)
不為児孫買美田 ⇒
児孫の為に美田を買は不。
といふ「漢文訓読」が、「補足構造」に即した、「(定型的な)訳読」であることについては、「訓読否定派の方たち」も、認めるもののと、思はれる。
然るに、
(51)
不(憤)不(啓)⇒
(憤せ)不んば(啓せ)不。
すなはち、「論語、述而第七、八」の英訳は、例へば、
if you do not agonize trying to understand, I will not enlighten(ゆはず かずより).
となってゐて、「(非定型的な)意訳」であるが、固より、英語には、漢字が無い。
従って、
(52)
「漢文訓読」は、「漢文英訳」とは、全く異なってゐて、ユニークなのは、もちろん、「漢文訓読」である。
然るに、
(53)
漢文教育(かんぶんきょういく)とは、高等学校における国語教育の1領域である。
中国の古典の読解方法(返り点など)を教える。大学入学試験に課されない場合もあるため、教育現場ではあまり重視されていない(ウィキペディア:漢文教育)。
私もそう思います。戦前は漢文教育が盛んだった日本もGHQによる旧制中学精神構造解体の結果、漢文レベルダウン深刻。でも今も共通テストには漢文あったかな?(Twitter/cunqi)。
といふわけで、
(54)
「ユニークな漢文訓読」は、しばらくすると、GHQと日教組のもくろみ通り(?)に、絶滅します。
平成26年10月29日、毛利太。
2014年10月27日月曜日
「括弧」はあります!
(01)
(02)
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 二 二 一 一。
② 二 二 一 二 一 一。
では、「順番」が分からず、
① 四 二 一 三。
② 六 二 一 四 三 五。
であっても、分かりやすくはないため、
① 下 二 一 上。
② 下 二 一 二 一 上。
とした「結果」が、
① 下 二 一 上。
② 下 二 一 二 一 上。
である。といふ、ことになる。
従って、
(03)により、
(04)
① 四 二 一 三。
② 六 二 一 四 三 五。
といふ「番号」を、「読みやすくしたもの」が、
① 下 二 一 上。
② 下 二 一 二 一 上。
といふ「返り点」である。といふことに、なる。
然るに、
(05)
それでは、何故、「漢文訓読」に於いて、「番号」が必要なのか。といふと、
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)からである。
従って、
(03)
有〔為(児孫)買(美田)者〕⇒
〔(児孫)為(美田)買者〕有=
〔(児孫の)為に(美田を)買ふ者〕有り。
といふ風に、「括弧」が、「返り点の役割」を果たす「理由」は、
有為児孫買美田者。
ごいふ「漢文」が、
有〔為(児孫)買(美田)者〕。
といふ「補足構造」をしてゐるからである。といふ、ことになる。
然るに、
(04)
有為児孫買美田者。
といふ「漢文」に、
有〔為(児孫)買(美田)者〕。
といふ「補足構造」が在る。
ことを、「証明」せよ。と言はれても、
〔( )( )〕。
は、顕微鏡を使っても、見えないため、
〔( )( )〕。
を、写真に撮ることは、出来ない。
ただし、
(05)
有為児孫買美田者=
児孫の為に美田を買ふ者有り。
といふのであれば、
児孫の為に。
が、有る。わけでも、
美田を買ふ。
が、有る。わけでも、なく、
児孫の為に美田を買ふ者。
が、有る。ことだけは、間違ひない。
従って、
(05)により、
(06)
有(為児孫)買美田者。
有為児孫(買美田)者。
とすることは、出来ないが、
有(為児孫買美田者)。
とすることに、「問題」は無い。
(07)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫)為(美田)買〕不=
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「命題」が、
〔為(児孫)・買(美田)〕。
といふ「連言」の「否定」であるならば、
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不=
〔(児孫の)為ならば、(美田を)買はない〕。
といふ「等式」が、成立する。
cf.
「ド・モルガンの法則」、「含意の定義」。
然るに、
(08)
〔(児孫の)為ならば、(美田を)買はない〕。
の「対偶」は、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
である。
cf.
命題「AならばB」の真偽とその対偶「BでないならAでない」の真偽とは必ず一致する(ウィキペディア)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
不〔為(児孫)買(美田)〕=
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「否定文」が、
為(児孫)・買(美田)=
(児孫)の為に・(美田を)買ふ。
といふ「命題」の「否定」であれば、
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「命題」は、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
といふ「命題」に等しい。
然るに、
(10)
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ風に、西郷隆盛が言ってゐて、その西郷が、
〔(美田を)買ふ〕のであれば、
西郷が、「ウソつき」でない限り、西郷は、
〔(児孫以外の)為に、(美田を)買ふ〕ことになる。
cf.
「不為児孫買美田」は、西郷隆盛の「偶感」といふ詩の一句。
然るに、
(11)
〔(美田を)買ふ〕のであれば、
〔児孫以外の為に、美田を買ふ〕ことになる。
といふことは、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
といふことに、他ならない。
従って、
(07)~(11)により、
(12)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふことから、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
といふ風に、言へる。といふことは、
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
に於いて、「ド・モルガンの法則」が、成り立つ。
といふことに、他ならない。
然るに、
(13)
「ド・モルガンの法則」とは、
¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
であるため、「括弧の存在」を、必要とする。
cf.
C言語などプログラミング言語の記号を使って書けば、P, Q がどんな式であろうと
!(P || Q) == !P && !Q !(P && Q) == !P || !Q (ウィキペディア)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
不為児孫買美田=
児孫の為に、美田を買はず。
といふ「漢文訓読」から、
「美田を買ふならば、児孫の為でない。」
といふ「意味」が、「読み取れる」のであれば、少なくとも、
不(為児孫買美田)=
(児孫の為に、美田を買は)ず。
といふ「括弧」だけは、認めざるを、得ない。
従って、
(07)~(14)により、
(15)
不(為児孫買美田)⇒
(児孫の為に、美田を買は)ず。
といふ「括弧」を、認めないのであれば、
¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
といふ、「ド・モルガンの法則」が、成り立たないか、「我々の直観」が、誤りである。
といふ、少なくとも、どちらか、一方である。
然るに、
(16)
「西郷隆盛が、自分の児孫の為に、美田を買はない。」のであれば、
「西郷隆盛が、美田を買ふならば、自分の児孫の為でない。」と、せざるを得ないし、
尚且つ、「ド・モルガンの法則」は、「論理学」として、「正しい」ため、以上の推論は、「日本語」を超えて、「正しい」。
従って、
(15)(16)により、
(17)
不(為児孫買美田)=
(児孫の為に、美田を買は)ず。
といふ「括弧」に関しては、顕微鏡では見えず、写真には取れなくとも、その「存在」を、認めてもらえる、はずである。
従って、
(06)(17)により、
(18)
① 不(為児孫買美田)。
② 有(為児孫買美田者)。
に関しては、「括弧」の「存在」を、認めてもらえる、はずである。
然るに、
(19)
私自身は、
① 不(為(児孫)買(美田))。
② 有(為(児孫)買(美田)者)。
だけなく、「返り点」を付けることが出来る「漢文」であれば、その「漢文」には、「括弧」で表せる所の「補足構造」が必ず有る。と、考へます。
従って、
(20)
例へば、
虎求百獣而食之得狐。
狐曰子無敢食我也。
天帝使我長百獣。
今子食我是逆天帝命也。
子以我爲不信吾爲子先行。
子随我後観。
百獣之見我而敢不走乎。
虎以爲然。
故遂与之行。
獣見之皆走。
虎不知獣畏己而走也。
以爲畏狐也。
といふ「虎の威を借る(戦国策)」であれば、
(21)
それが書かれた「時点(紀元前)」に於いて、
虎求(百獣)而食(之)得(狐)。
狐曰子無〔敢食(我)〕也。
天帝使〔我長(百獣)〕。
今子食(我)是逆(天帝命)也。
子以(我)爲〔不(信)〕吾爲(子)先行。
子随(我後)観。
百獣之見(我)而敢不(走)乎。
虎以爲(然)。
故遂与(之)行。
獣見(之)皆走。
虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
以爲〔畏(狐)〕也。
といふ「補足構造」をしてゐる。と、考へます。
従って、
(20)(21)により、
(22)
そのやうな、「補足構造」が有るからこそ、
虎(百獣を)求めて(之を)食らひ(狐を)得たり。
狐曰く子〔敢へて(我を)食らふこと〕無かれ。
天帝〔我をして(百獣に)長たら〕使む。
今子(我を)食らはば是れ(天帝の命に)逆らふなり。
子(我を)以て〔(信なら)不と〕爲さば吾(子の)爲に先行せむ。
子(我が後に)随ひて観よ。
百獣の(我を)見て敢へて(走ら)不らむや。と。
虎以て(然りと)爲す。
故に遂に(之)与行く。
獣(之を)見て皆走る。
虎[〔獣の(己を)畏れて走るを〕知ら]不るなり。
以て〔(狐を)畏るると〕爲すなり。
といふ「漢文訓読」が可能になる。と、考へます。
従って、
(21)(22)により、
(23)
例へば、
③ 虎不知獣畏己而走也=
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
であるからこそ、
#=虎=1
レ=不=7
二=知=6
#=獣=2
レ=畏=4
_=己=3
#=而
一=走=5
#=也
といふ「返り点」が成立する。と、考へます。
従って、
(21)~(24)により、
(25)、
③ 虎不知獣畏己而走也=
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
が有って、然る後に、
③ レ 二 レ 一。
といふ「返り点」が成立する。と、考へます。
従って、
(25)により、
(26)
③ レ 二 レ 一。
といふ「返り点」が、日本に於いて、生まれなかったとしても、
③ 虎不知獣畏己而走也=
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
といふ「補足構造」は存在する。と、考へます。
従って、
(27)
漢文よみを止めて中国語(その当時は支那語でしたが)でもってよまなければならない。それは徳川時代にも荻生徂徠がいっぺんやったことだが、今はもっとやりよい時代だから大いにやらなければならない(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、21頁)。
とする、「漢文音読派」の方たちであっても、例へば、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 有〔為(児孫)買(美田)者〕。
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
といふ「括弧の存在」だけは、認めるべきである。と、考へます。
それ故、
(28)
『返り点に対する「括弧」の用法』は、単なる「漢文訓読」の問題ではない。と、考へます。
平成26年10月27日、毛利太。
(02)
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 二 二 一 一。
② 二 二 一 二 一 一。
では、「順番」が分からず、
① 四 二 一 三。
② 六 二 一 四 三 五。
であっても、分かりやすくはないため、
① 下 二 一 上。
② 下 二 一 二 一 上。
とした「結果」が、
① 下 二 一 上。
② 下 二 一 二 一 上。
である。といふ、ことになる。
従って、
(03)により、
(04)
① 四 二 一 三。
② 六 二 一 四 三 五。
といふ「番号」を、「読みやすくしたもの」が、
① 下 二 一 上。
② 下 二 一 二 一 上。
といふ「返り点」である。といふことに、なる。
然るに、
(05)
それでは、何故、「漢文訓読」に於いて、「番号」が必要なのか。といふと、
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)からである。
従って、
(03)
有〔為(児孫)買(美田)者〕⇒
〔(児孫)為(美田)買者〕有=
〔(児孫の)為に(美田を)買ふ者〕有り。
といふ風に、「括弧」が、「返り点の役割」を果たす「理由」は、
有為児孫買美田者。
ごいふ「漢文」が、
有〔為(児孫)買(美田)者〕。
といふ「補足構造」をしてゐるからである。といふ、ことになる。
然るに、
(04)
有為児孫買美田者。
といふ「漢文」に、
有〔為(児孫)買(美田)者〕。
といふ「補足構造」が在る。
ことを、「証明」せよ。と言はれても、
〔( )( )〕。
は、顕微鏡を使っても、見えないため、
〔( )( )〕。
を、写真に撮ることは、出来ない。
ただし、
(05)
有為児孫買美田者=
児孫の為に美田を買ふ者有り。
といふのであれば、
児孫の為に。
が、有る。わけでも、
美田を買ふ。
が、有る。わけでも、なく、
児孫の為に美田を買ふ者。
が、有る。ことだけは、間違ひない。
従って、
(05)により、
(06)
有(為児孫)買美田者。
有為児孫(買美田)者。
とすることは、出来ないが、
有(為児孫買美田者)。
とすることに、「問題」は無い。
(07)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫)為(美田)買〕不=
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「命題」が、
〔為(児孫)・買(美田)〕。
といふ「連言」の「否定」であるならば、
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不=
〔(児孫の)為ならば、(美田を)買はない〕。
といふ「等式」が、成立する。
cf.
「ド・モルガンの法則」、「含意の定義」。
然るに、
(08)
〔(児孫の)為ならば、(美田を)買はない〕。
の「対偶」は、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
である。
cf.
命題「AならばB」の真偽とその対偶「BでないならAでない」の真偽とは必ず一致する(ウィキペディア)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
不〔為(児孫)買(美田)〕=
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「否定文」が、
為(児孫)・買(美田)=
(児孫)の為に・(美田を)買ふ。
といふ「命題」の「否定」であれば、
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「命題」は、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
といふ「命題」に等しい。
然るに、
(10)
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ風に、西郷隆盛が言ってゐて、その西郷が、
〔(美田を)買ふ〕のであれば、
西郷が、「ウソつき」でない限り、西郷は、
〔(児孫以外の)為に、(美田を)買ふ〕ことになる。
cf.
「不為児孫買美田」は、西郷隆盛の「偶感」といふ詩の一句。
然るに、
(11)
〔(美田を)買ふ〕のであれば、
〔児孫以外の為に、美田を買ふ〕ことになる。
といふことは、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
といふことに、他ならない。
従って、
(07)~(11)により、
(12)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふことから、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
といふ風に、言へる。といふことは、
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
に於いて、「ド・モルガンの法則」が、成り立つ。
といふことに、他ならない。
然るに、
(13)
「ド・モルガンの法則」とは、
¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
であるため、「括弧の存在」を、必要とする。
cf.
C言語などプログラミング言語の記号を使って書けば、P, Q がどんな式であろうと
!(P || Q) == !P && !Q !(P && Q) == !P || !Q (ウィキペディア)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
不為児孫買美田=
児孫の為に、美田を買はず。
といふ「漢文訓読」から、
「美田を買ふならば、児孫の為でない。」
といふ「意味」が、「読み取れる」のであれば、少なくとも、
不(為児孫買美田)=
(児孫の為に、美田を買は)ず。
といふ「括弧」だけは、認めざるを、得ない。
従って、
(07)~(14)により、
(15)
不(為児孫買美田)⇒
(児孫の為に、美田を買は)ず。
といふ「括弧」を、認めないのであれば、
¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
といふ、「ド・モルガンの法則」が、成り立たないか、「我々の直観」が、誤りである。
といふ、少なくとも、どちらか、一方である。
然るに、
(16)
「西郷隆盛が、自分の児孫の為に、美田を買はない。」のであれば、
「西郷隆盛が、美田を買ふならば、自分の児孫の為でない。」と、せざるを得ないし、
尚且つ、「ド・モルガンの法則」は、「論理学」として、「正しい」ため、以上の推論は、「日本語」を超えて、「正しい」。
従って、
(15)(16)により、
(17)
不(為児孫買美田)=
(児孫の為に、美田を買は)ず。
といふ「括弧」に関しては、顕微鏡では見えず、写真には取れなくとも、その「存在」を、認めてもらえる、はずである。
従って、
(06)(17)により、
(18)
① 不(為児孫買美田)。
② 有(為児孫買美田者)。
に関しては、「括弧」の「存在」を、認めてもらえる、はずである。
然るに、
(19)
私自身は、
① 不(為(児孫)買(美田))。
② 有(為(児孫)買(美田)者)。
だけなく、「返り点」を付けることが出来る「漢文」であれば、その「漢文」には、「括弧」で表せる所の「補足構造」が必ず有る。と、考へます。
従って、
(20)
例へば、
虎求百獣而食之得狐。
狐曰子無敢食我也。
天帝使我長百獣。
今子食我是逆天帝命也。
子以我爲不信吾爲子先行。
子随我後観。
百獣之見我而敢不走乎。
虎以爲然。
故遂与之行。
獣見之皆走。
虎不知獣畏己而走也。
以爲畏狐也。
といふ「虎の威を借る(戦国策)」であれば、
(21)
それが書かれた「時点(紀元前)」に於いて、
虎求(百獣)而食(之)得(狐)。
狐曰子無〔敢食(我)〕也。
天帝使〔我長(百獣)〕。
今子食(我)是逆(天帝命)也。
子以(我)爲〔不(信)〕吾爲(子)先行。
子随(我後)観。
百獣之見(我)而敢不(走)乎。
虎以爲(然)。
故遂与(之)行。
獣見(之)皆走。
虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
以爲〔畏(狐)〕也。
といふ「補足構造」をしてゐる。と、考へます。
従って、
(20)(21)により、
(22)
そのやうな、「補足構造」が有るからこそ、
虎(百獣を)求めて(之を)食らひ(狐を)得たり。
狐曰く子〔敢へて(我を)食らふこと〕無かれ。
天帝〔我をして(百獣に)長たら〕使む。
今子(我を)食らはば是れ(天帝の命に)逆らふなり。
子(我を)以て〔(信なら)不と〕爲さば吾(子の)爲に先行せむ。
子(我が後に)随ひて観よ。
百獣の(我を)見て敢へて(走ら)不らむや。と。
虎以て(然りと)爲す。
故に遂に(之)与行く。
獣(之を)見て皆走る。
虎[〔獣の(己を)畏れて走るを〕知ら]不るなり。
以て〔(狐を)畏るると〕爲すなり。
といふ「漢文訓読」が可能になる。と、考へます。
従って、
(21)(22)により、
(23)
例へば、
③ 虎不知獣畏己而走也=
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
であるからこそ、
#=虎=1
レ=不=7
二=知=6
#=獣=2
レ=畏=4
_=己=3
#=而
一=走=5
#=也
といふ「返り点」が成立する。と、考へます。
従って、
(21)~(24)により、
(25)、
③ 虎不知獣畏己而走也=
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
が有って、然る後に、
③ レ 二 レ 一。
といふ「返り点」が成立する。と、考へます。
従って、
(25)により、
(26)
③ レ 二 レ 一。
といふ「返り点」が、日本に於いて、生まれなかったとしても、
③ 虎不知獣畏己而走也=
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
といふ「補足構造」は存在する。と、考へます。
従って、
(27)
漢文よみを止めて中国語(その当時は支那語でしたが)でもってよまなければならない。それは徳川時代にも荻生徂徠がいっぺんやったことだが、今はもっとやりよい時代だから大いにやらなければならない(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、21頁)。
とする、「漢文音読派」の方たちであっても、例へば、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 有〔為(児孫)買(美田)者〕。
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
といふ「括弧の存在」だけは、認めるべきである。と、考へます。
それ故、
(28)
『返り点に対する「括弧」の用法』は、単なる「漢文訓読」の問題ではない。と、考へます。
平成26年10月27日、毛利太。
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