(01)
① Pでない。
② Pである。はウソである。
に於いて、
①=② である。
従って、
(01)により、
(02)
① Pでない。でない。
② Pである。はウソである。はウソである。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
② Pである。はウソである。はウソである。
③ Pである。は本当である。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(04)
③ Pである。は本当である。
④ Pである。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
① Pでない。でない。
④ Pである。
に於いて、
①=④ である。
従って、
(05)により、
(06)
~~P=P(二重否定律) が、成立する。
然るに、
(07)
以下により、「含意の定義」が成立する。
(a)
1 (1) P→ Q A
2(2) P&~Q A
2(3) P 2&E
2(4) ~Q 2&E
12(5) Q 13MPP
12(6) Q&~Q 45&I
1 (7) ~~Q 46RAA
1 (8) Q 7DN
1 (9)~P∨ Q 8∨I
(b)
1 (1) ~P∨ Q A
2 (2) P&~Q A
2 (3) P 2&E
2 (4) ~Q 2&E
3 (5) ~P A
23 (6) ~P& P 25&I
3 (7)~(P&~Q) 26RAA
8 (8) Q A
2 8 (9) Q&~Q 48&I
8 (ア)~(P&~Q) 29RAA
1 (イ)~(P&~Q) 1578ア∨E
ウ (ウ) P A
エ(エ) ~Q A
ウエ(オ) P&~Q ウエ&I
1 ウエ(カ)~(P&~Q)&(P&~Q) イオ&I
1 ウ (キ) ~~Q エカRAA
1 ウ (ク) Q キDN
1 (ケ) P→ Q ウクCP
加へて、
(08)
以下により、「ド・モルガンの法則」が、成立する。
(a)
1 (1) P& Q A
2 (2) ~P∨~Q A
3 (3) ~P A
1 (4) P 1&E
1 3 (5) ~P& P 34&I
3 (6) ~(P& Q) 15RAA
7(7) ~Q A
1 (8) Q 1&E
1 7(9) ~Q& Q 78&I
7(ア) ~(P& Q) 19RAA
2 (イ) ~(P& Q) 2367ア∨エ
12 (ウ) (P& Q)&~(P& Q) 1イ&I
1 (エ)~(~P∨~Q) 2ウRAA
(b)
1 (1)~(~P∨~Q) A
2 (2) ~P A
2 (3) ~P∨~Q 2∨I
12 (4)~(~P∨~Q)&(~P∨~Q) 13&I
1 (5) ~~P 24RAA
1 (6) P 5DN
7(7) ~Q A
7(8) ~P∨~Q 7∨I
1 7(9)~(~P∨~Q)&(~P∨~Q) 18&I
1 (ア) ~~Q 79RAA
1 (イ) Q アDN
1 (ウ) P&Q 6イ&I
(c)
1 (1) P∨ Q A
2 (2) ~P&~Q A
3 (3) P A
2 (4) ~P 2&E
23 (5) ~P& P 34&I
3 (6)~(~P&~Q) 25RAA
7(7) Q A
2 (8) ~Q 2&E
2 7(9) Q&~Q 78&I
7(ア)~(~P&~Q) 29RAA
1 (イ)~(~P&~Q) 1367ア∨E
(d)
1 (1) ~(~P&~Q) A
2 (2) ~( P∨ Q) A
3 (3) P A
3 (4) P∨ Q 3∨I
23 (5) ~( P∨ Q)&( P∨ Q) 24&I
2 (6) ~P 35RAA
7(7) Q A
7(8) P∨ Q 7∨I
2 7(9) ~( P∨ Q)&( P∨ Q) 28&I
2 (ア) ~Q 79RAA
2 (イ) ~P&~Q 6ア&I
12 (ウ) ~(~P&~Q)&(~P&~Q) 1イ&I
1 (エ)~~( P∨ Q) 2ウRAA
1 (オ) ( P∨ Q) エDN
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
「二重否定律、含意の定義、ド・モルガンの法則」が、成立する。
従って、
(09)により、
(10)
次の「推論」は、「正しい」。
(a)
1 (1)~{∀x[ 師x→∃y〔 弟子yx& ~(及yx)〕]} A
1 (2) ~[ 師a→∃y〔 弟子ya& ~(及ya)〕] 1UE
3(3) ~[ 師a→ 〔 弟子ba& ~(及ba)〕] A
3(4) ~[~師a∨ 〔 弟子ba& ~(及ba)〕] 3含意の定義
3(5) ~~師a& ~〔 弟子ba& ~(及ba)〕 4ド・モルガンの法則
3(6) 師a& ~〔 弟子ba& ~(及ba) 5二重否定律
3(7) 師a& 〔~弟子ba∨~~(及ba)〕 6ド・モルガンの法則
3(8) 師a& 〔~弟子ba∨ 及ba〕 7二重否定律
3(9) 師a& 〔 弟子ba→ 及ba〕 8含意の定義
3(ア) 師a&∃y〔 弟子ya→ 及ya〕 9EI
1 (イ) 師a&∃y〔 弟子ya→ 及ya〕 23アEE
1 (ウ) ∀x[師x&∃y〔 弟子yx→ 及yx〕] イUI
(b)
1 (1) ∀x[師x&∃y〔 弟子yx→ 及yx 〕 A
1 (2) 師a&∃y〔 弟子ya→ 及ya 〕 1UE
3(3) 師a& 〔 弟子ba→ 及ba 〕 A
3(4) 師a& 〔~弟子ba∨ 及ba 〕 3含意の定義
3(5) 師a& ~〔 弟子ba& ~(及ba)〕 4ド・モルガンの法則
3(6) ~~師a& ~〔 弟子ba& ~(及ba)〕 5二重否定律
3(7) ~[~師a∨~~〔 弟子ba& ~(及ba)〕] 6ド・モルガンの法則
3(8) ~[~師a∨ 〔 弟子ba& ~(及ba)〕] 7二重否定律
3(9) ~[ 師a→ 〔 弟子ba& ~(及ba)〕] 8含意の定義
3(ア) ~[ 師a→∃y〔 弟子ya& ~(及ya)〕] 9EI
1 (イ) ~[ 師a→∃y〔 弟子ya& ~(及ya)〕] 23アEE
1 (ウ)~{∀x[ 師x→∃y〔 弟子yx& ~(及yx)〕]} イUI
従って、
(10)により、
(11)
① ~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]}。
② ∀x[師x&∃y〔弟子yx →及yx〕]。
に於いて、すなはち、
① 全てのxに於いて、xが師であるならば、或るyはxの弟子であって、yはxに及ばない。といふわけではない。
② 全てのxに於いて、xが師であって、 或るyがxの弟子であるならば、yはxに及ぶ。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(12)
そこで述語論理学では「人間」と「動物」の「包含関係」を表わすのに、
動物(人間)
と表示する。そしてこれを記号化して
F(a) または( )を省略して Fa
というように書く。
(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、116頁改)
従って、
(11)(12)により、
(13)
① ~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]}。
② ∀x[師x&∃y〔弟子yx →及yx〕]。
であれば、( )を「省略」しなければ、
③ ~〈∀x{師(x)→∃y[弟子(yx)&~〔及(yx)〕]}〉。
④ ∀x[師(x)&∃y〔弟子(yx) →及(yx)〕]。
である。
然るに、
(14)
従って、
(14)により、
(15)
③ ~己 ∀戊x 師レ x → ∃丁y 弟二子 yx一 & ~丙レ 及乙 xy甲 =
③ ~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]}=
③ ~〈∀x{師(x)→∃y[弟子(yx)&~〔及(yx)〕]}〉.
に於いて、
③ ~〈 〉⇒〈 〉~
③ ∀x{ }⇒{ }∀x
③ 師( )⇒( )師
③ ∃y[ ]⇒[ ]∃y
③ 弟子( )⇒( )弟子
③ ~〔 〕⇒〔 〕~
③ 及( )⇒( )及
といふ「移動」を行ふと、
③ ~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]}=
③ ~〈∀x{師(x)→∃y[弟子(yx)&~〔及(yx)〕]}〉⇒
③ 〈∀x{師(x)→∃y[弟子(yx)&~〔及(yx)〕]}〉~=
③ 〈{(x)師→[(yx)弟子&〔(yx)及〕~]∃y}∀x〉~=
③ 〈{(xが)師であるならば[(yはxの)弟子であって〔(yはxに)及ば〕ない]といふyが存在するといふことは}必ず正しい〉といふことはない。
といふ、「述語論理訓読」が、成立し、その際に、
③ 己 戊‐ レ 丁‐ 二‐ 一 丙レ 乙 甲
といふ「返り点」は、
③ 〈{ ( )[( )〔( )〕]}〉
といふ「括弧」に、対応する。
然るに、
(16)
③ 〈{(xが)師であるならば[(yはxの)弟子であって〔(yはxに)及ば〕ない]といふyが存在するといふことは}必ず正しい〉といふことはない。
に於いて、
③ x=杉本七段、y=藤井四段。
といふ「代入」を行ふと、
③ 〈{(杉本七段が)師であるならば[(藤井四段は杉本七段の)弟子であって〔(藤井四段は杉本七段に)及ば〕ない]といふ藤井四段が存在するといふことが}必ず正しい〉といふことはない。
といふ、ことになる。
然るに、
(17)
③ 杉本七段が師匠であるならば、藤井四段は杉本七段の弟子であって、藤井四段は杉本七段に及ばない。といふ藤井四段が存在するといふことは、必ずしも正しい、といふわけはない。
といふことは、要するに、
③ 杉本七段に及ばない藤井四段が存在する。といふことは、必ずしも、正しいといふわけではない。
といふ、ことである。
然るに、
(18)
③ 杉本七段に及ばない藤井四段が存在する。といふことは、必ずしも、正しいといふわけではない。
といふことは、
③ 杉本七段よりも将棋が強い藤井四段が、存在し得る。
といふことである。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
③ ~〈∀x{師(x)→∃y[弟子(yx)&~〔及(yx)〕]}〉。
といふ「論理式」は、例へば、
③ 藤井聡太四段(15才)がさうであるやうに、
③ 弟子は必ずしも、師匠に及ばないわけではない。
といふ「意味」である。
然るに、
(20)
① 弟子不二必不一レ如師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]。
に於いて、
① 不[ ]⇒[ ]不
① 不〔 〕⇒〔 〕不
① 如( )⇒( )如
といふ「移動」を行ふと、
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子は[必ずしも〔(師に)如か〕ずんば]あらず=
① 弟子は[必ずしも〔(師に)及ば〕ない]といふわけではない。
従って、
(19)(20)により、
(21)
① 弟子不[必不〔如(師)〕]。
③ ~〈∀x{師(x)→∃y[弟子(yx)&~〔及(yx)〕]}〉。
に於いて、
①=③ である。
従って、
(15)(20)(21)により、
(22)
③ ~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]}=
③ ~〈∀x{師(x)→∃y[弟子(yx)&~〔及(yx)〕]}〉⇒
③ 〈∀x{師(x)→∃y[弟子(yx)&~〔及(yx)〕]}〉~=
③ 〈{(x)師→[(yx)弟子&〔(yx)及〕~]∃y}∀x〉~=
③ 〈{(xが)師であるならば[(yはxの)弟子であって〔(yはxに)及ば〕ない]といふyが存在するといふことは}必ず正しい〉といふことはない。
に於いて、
③ 〈 { ( ) [ ( ) 〔 ( )〕]}〉
といふ「括弧」を、「認める」以上、
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子は[必ずしも〔(師に)如か〕ずんば]あらず=
① 弟子は[必ずしも〔(師に)及ば〕ない]といふわけではない。
に於ける、
① [ 〔 ( )〕]
といふ「括弧」も、「認めない」わけには、いかない。
然るに、
(23)
「重要」なのは、
③ ~〈∀x{師(x)→∃y[弟子(yx)&~〔及(yx)〕]}〉。
に於いて、
③ ~
③ ∀x
③ ∃y
③ ~
といふ「記号」の「意味」が、それぞれ、
③ 〈∀x{師(x)→∃y[弟子(yx)&~〔及(yx)〕]}〉
といふ「命題」と、
③ {師(x)→∃y[弟子(yx)&~〔及(yx)〕]}
③ [弟子(yx)&~〔及(yx)〕]
③ 〔及(yx)〕
といふ「命題函数」に及んでゐる。
といふ、ことである。
然るに、
(24)
記号の列を書くための普通の規約は、記号を左から右への順に従って、あまり離れないように配置する、ということである。これは現代ヨーロッパ語的な規約であるから、読者は、わたしが本書においてこれに従っているのを見てほっとした気持ちがするであろう。
(E.J.レモン著、竹尾治一郎・浅野楢英訳、論理学初歩、1973年、56・157頁)
従って、
(23)(24)により、
(25)
③ ~〈∀x{師(x)→∃y[弟子(yx)&~〔及(yx)〕]}〉.
といふ「語順」を、「左から右へ、読む。」としても、
③ 〈{(x)師→[(yx)弟子&〔(yx)及〕~]∃y}∀x〉~。
といふ「語順」を、「右から左へ、読む。」としても、
③ 〈{(x)師→[(yx)弟子&〔(yx)及〕~]∃y}∀x〉~。
といふ「語順」を、「左から右へ」、
③ 〈{(xが)師であるならば[(yはxの)弟子であって〔(yはxに)及ば〕ない]といふyが存在するといふことは}必ず正しい〉といふことはない。
といふ風に、読むとしても、実際には、どちらでも良い。
従って、
(22)(25)により、
(26)
① 弟子不[必不〔如(師)〕]。
といふ「語順」を、「左から右へ、読む。」としても、
① 弟子[必〔(師)如〕不]不。
といふ「語順」を、「左から右へ」、
① 弟子は[必ずしも〔(師に)及ば〕ない]といふわけではない。
といふ風に、読むとしても、どちらでも良い。
従って、
(27)
② 倭語不[可〔以読(中夏之書)〕]明矣。
といふ「語順」を、「左から右へ、読む。」としても、
② 倭語[〔以(中夏之書)読〕可]不明矣。
といふ「語順」を、「左から右へ」、
② 倭語は[〔以て(中夏之書を)読む〕可から]不ること明らかなり!。
といふ風に、読むとしても、どちらでも良い。
然るに、
(28)
『倭読要領』には春台による漢文の序文がついており、「倭語不可以読中夏之書審矣(倭語は以て中夏之書を読むべからざること審かなり)と、その主張が述べられているが。この漢文の序文には皮肉なことに訓点がついているのである。しかも春台自身、この主張とは別に、『四書』に訓点を施している。おそらく訓点廃止を主張はしたものの、それが「骨髄ニ淪ミテ除キガタシ」であることを十分に承知していたのであろう。
(金文京、漢文と東アジア、2010年、77・78頁)
従って、
(27)(28)により、
(29)
② 倭語不可以読中夏之書審矣=
② 倭語不レ可三以読二中夏之書一審矣⇒
② 倭語以中夏之書一読二可三不四審矣=
② 倭語は以て中夏の書一を読二む可三から不四ること審かなり矣。
といふ、太宰春台の「主張」は、「誤解」である。
平成29年12月07日、毛利太。
2017年12月7日木曜日
2017年12月4日月曜日
「朝鮮語訓読」であっても「括弧」はあります(Ⅱ)。
(01)
~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]} ┤├ ∀x[師x&∃y〔弟子yx→及yx〕
(a)
1 (1)~{∀x[ 師x→∃y〔 弟子yx& ~(及yx)〕]} A
1 (2) ~[ 師a→∃y〔 弟子ya& ~(及ya)〕] 1UE
3(3) ~[ 師a→ 〔 弟子ba& ~(及ba)〕] A
3(4) ~[~師a∨ 〔 弟子ba& ~(及ba)〕] 3含意の定義(選言)
3(5) ~~師a& ~〔 弟子ba& ~(及ba)〕 4ド・モルガンの法則
3(6) 師a& ~〔 弟子ba& ~(及ba) 5DN
3(7) 師a& 〔~弟子ba∨~~(及ba)〕 6ド・モルガンの法則
3(8) 師a& 〔~弟子ba∨ 及ba〕 7DN
3(9) 師a& 〔 弟子ba→ 及ba〕 8含意の定義(選言)
3(ア) 師a&∃y〔 弟子ya→ 及ya〕 9EI
1 (イ) 師a&∃y〔 弟子ya→ 及ya〕 23アEE
1 (ウ) ∀x[師x&∃y〔 弟子yx→ 及yx〕] イUI
(b)
1 (1) ∀x[師x&∃y〔 弟子yx→ 及yx 〕 A
1 (2) 師a&∃y〔 弟子ya→ 及ya 〕 1UE
3(3) 師a& 〔 弟子ba→ 及ba 〕 A
3(4) 師a& 〔~弟子ba∨ 及ba 〕 3含意の定義(選言)
3(5) 師a& ~〔 弟子ba& ~(及ba)〕 4ド・モルガンの法則
3(6) ~~師a& ~〔 弟子ba& ~(及ba)〕 5DN
3(7) ~[~師a∨~~〔 弟子ba& ~(及ba)〕] 6ド・モルガンの法則
3(8) ~[~師a∨ 〔 弟子ba& ~(及ba)〕] 7DN
3(9) ~[ 師a→ 〔 弟子ba& ~(及ba)〕] 8含意の定義(選言)
3(ア) ~[ 師a→∃y〔 弟子ya& ~(及ya)〕] 9EI
1 (イ) ~[ 師a→∃y〔 弟子ya& ~(及ya)〕] 23アEE
1 (ウ)~{∀x[ 師x→∃y〔 弟子yx& ~(及yx)〕]} イUI
従って、
(01)により、
(02)
② ~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]}。
③ ∀x[師x&∃y〔弟子yx →及yx〕]。
に於いて、
②=③ である。
従って、
(02)により、
(03)
② ~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]}。
③ ∀x[師x&∃y〔弟子yx →及yx〕]。
に於いて、すなはち、
② 全てのxに於いて、xが師であるならば、或るyはxの弟子であって、yはxに及ばない。といふわけではない。
③ 全てのxに於いて、xが師であって、 或るyがxの弟子であるならば、yはxに及ぶ。
に於いて、
②=③ である。
従って、
(03)により、
(04)
② ~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]}。
③ ∀x[師x&∃y〔弟子yx →及yx〕]。
に於いて、すなはち、
② 全てのxに於いて、xが師であるならば、或るyはxの弟子であって、yはxに及ばない。といふわけではない。
③ 全てのxに於いて、xが師であって、 或るyがxの弟子であるならば、yはxに及ぶ。
に於いて、すなはち、
② 弟子は必ずしも師に及ばない、といふわけではない。
③ 師よりも、弟子の方すぐれている場合もある。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(05)
① 弟子不必不如師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]。
に於いて、
① 不[ ]⇒[ ]不
① 不〔 〕⇒〔 〕不
① 如( )⇒( )如
といふ「移動」を行ふと、
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子は[必ずしも〔(師に)如か〕ずんば]あらず=
② 弟子は[必ずしも〔(師に)及ば〕ない]といふわけではない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 弟子不[必不〔如(師)〕]。
② ~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]}。
③ ∀x[師x&∃y〔弟子yx →及yx〕]。
に於いて、すなはち、
① 弟子は必ずしも師に如かずんばあらず。
② 全てのxに於いて、xが師であるならば、或るyはxの弟子であって、yはxに及ばない。といふわけではない。
③ 全てのxに於いて、xが師であって、 或るyがxの弟子であるならば、yはxに及ぶ。
に於いて、すなはち、
① 弟子は必ずしも師に如かずんばあらず。
② 弟子は必ずしも師に及ばない、といふわけではない。
③ 師よりも、弟子の方すぐれている場合もある。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(07)
弟子不二必不一レ如レ師。
弟子は必ずしも師に如かずんがあらず。
弟子は必ずしも師に及ばないというわけではなく、(弟子の方がすぐれている場合もあり、)師は必ずしも弟子よりもすぐれているとは限らない(三省堂、明解古典学習シリーズ、1973年、56頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 弟子不二必不一レ如レ師。
② 弟子は必ずしも師に如かずんがあらず。
③ 師よりも弟子の方がすぐれている場合もある。
といふ「三省堂、明解古典学習シリーズ、1973年、56頁」は、「述語論理(Predicate logic)」としても、「正しい」。
然るに、
(09)
「論理的に、正しいこと」は、「支那人(chinese)」にとっても、「日本人(Japanese)」にとっても、「韓国人(korean)」にとっても、「正しい」。
然るに、
(10)
その諺解部分を日本語になおすと、
有子がのたまわく、そのひととなりが、孝であり弟であり、上を犯すを好む者はすくないので、上を犯すを好まずして、亂(乱)を作すを
好む者はいないのである。
となり、日本語の訓読にほぼ対応する。これはすでに述べたように、日本語と朝鮮語の文法がほとんど同じからである。
(金文京、漢文と東アジア、2010年、96頁)
従って、
(06)(09)(10)により、
(11)
① 弟子不必不如師。
といふ「漢文」の「意味」を、
② ~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]}。
といふ風に、捉へることが出来る、朝鮮人であれば、
① * * * * *
は、「然るべき、朝鮮語の発音」であるとして、
① 弟子不必不如師。
といふ「漢文」を、
① 弟子不必不如師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子*[必*〔(師*)如*〕*]*不。
といふに、「訓読」出来たはずである。
(12)
ハングルは知らないので、デタラメではあるものの、雰囲気としては、
① 弟子不必不如師。
といふ「漢文」を、
① 弟子不必不如師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子는[必도시도〔(師게)如여일견〕바]있는不。
といふ風に、「括弧とハングル」を用ゐて、「訓読」出来たはずである。
平成29年12月04日、毛利太。
~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]} ┤├ ∀x[師x&∃y〔弟子yx→及yx〕
(a)
1 (1)~{∀x[ 師x→∃y〔 弟子yx& ~(及yx)〕]} A
1 (2) ~[ 師a→∃y〔 弟子ya& ~(及ya)〕] 1UE
3(3) ~[ 師a→ 〔 弟子ba& ~(及ba)〕] A
3(4) ~[~師a∨ 〔 弟子ba& ~(及ba)〕] 3含意の定義(選言)
3(5) ~~師a& ~〔 弟子ba& ~(及ba)〕 4ド・モルガンの法則
3(6) 師a& ~〔 弟子ba& ~(及ba) 5DN
3(7) 師a& 〔~弟子ba∨~~(及ba)〕 6ド・モルガンの法則
3(8) 師a& 〔~弟子ba∨ 及ba〕 7DN
3(9) 師a& 〔 弟子ba→ 及ba〕 8含意の定義(選言)
3(ア) 師a&∃y〔 弟子ya→ 及ya〕 9EI
1 (イ) 師a&∃y〔 弟子ya→ 及ya〕 23アEE
1 (ウ) ∀x[師x&∃y〔 弟子yx→ 及yx〕] イUI
(b)
1 (1) ∀x[師x&∃y〔 弟子yx→ 及yx 〕 A
1 (2) 師a&∃y〔 弟子ya→ 及ya 〕 1UE
3(3) 師a& 〔 弟子ba→ 及ba 〕 A
3(4) 師a& 〔~弟子ba∨ 及ba 〕 3含意の定義(選言)
3(5) 師a& ~〔 弟子ba& ~(及ba)〕 4ド・モルガンの法則
3(6) ~~師a& ~〔 弟子ba& ~(及ba)〕 5DN
3(7) ~[~師a∨~~〔 弟子ba& ~(及ba)〕] 6ド・モルガンの法則
3(8) ~[~師a∨ 〔 弟子ba& ~(及ba)〕] 7DN
3(9) ~[ 師a→ 〔 弟子ba& ~(及ba)〕] 8含意の定義(選言)
3(ア) ~[ 師a→∃y〔 弟子ya& ~(及ya)〕] 9EI
1 (イ) ~[ 師a→∃y〔 弟子ya& ~(及ya)〕] 23アEE
1 (ウ)~{∀x[ 師x→∃y〔 弟子yx& ~(及yx)〕]} イUI
従って、
(01)により、
(02)
② ~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]}。
③ ∀x[師x&∃y〔弟子yx →及yx〕]。
に於いて、
②=③ である。
従って、
(02)により、
(03)
② ~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]}。
③ ∀x[師x&∃y〔弟子yx →及yx〕]。
に於いて、すなはち、
② 全てのxに於いて、xが師であるならば、或るyはxの弟子であって、yはxに及ばない。といふわけではない。
③ 全てのxに於いて、xが師であって、 或るyがxの弟子であるならば、yはxに及ぶ。
に於いて、
②=③ である。
従って、
(03)により、
(04)
② ~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]}。
③ ∀x[師x&∃y〔弟子yx →及yx〕]。
に於いて、すなはち、
② 全てのxに於いて、xが師であるならば、或るyはxの弟子であって、yはxに及ばない。といふわけではない。
③ 全てのxに於いて、xが師であって、 或るyがxの弟子であるならば、yはxに及ぶ。
に於いて、すなはち、
② 弟子は必ずしも師に及ばない、といふわけではない。
③ 師よりも、弟子の方すぐれている場合もある。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(05)
① 弟子不必不如師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]。
に於いて、
① 不[ ]⇒[ ]不
① 不〔 〕⇒〔 〕不
① 如( )⇒( )如
といふ「移動」を行ふと、
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子は[必ずしも〔(師に)如か〕ずんば]あらず=
② 弟子は[必ずしも〔(師に)及ば〕ない]といふわけではない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 弟子不[必不〔如(師)〕]。
② ~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]}。
③ ∀x[師x&∃y〔弟子yx →及yx〕]。
に於いて、すなはち、
① 弟子は必ずしも師に如かずんばあらず。
② 全てのxに於いて、xが師であるならば、或るyはxの弟子であって、yはxに及ばない。といふわけではない。
③ 全てのxに於いて、xが師であって、 或るyがxの弟子であるならば、yはxに及ぶ。
に於いて、すなはち、
① 弟子は必ずしも師に如かずんばあらず。
② 弟子は必ずしも師に及ばない、といふわけではない。
③ 師よりも、弟子の方すぐれている場合もある。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(07)
弟子不二必不一レ如レ師。
弟子は必ずしも師に如かずんがあらず。
弟子は必ずしも師に及ばないというわけではなく、(弟子の方がすぐれている場合もあり、)師は必ずしも弟子よりもすぐれているとは限らない(三省堂、明解古典学習シリーズ、1973年、56頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 弟子不二必不一レ如レ師。
② 弟子は必ずしも師に如かずんがあらず。
③ 師よりも弟子の方がすぐれている場合もある。
といふ「三省堂、明解古典学習シリーズ、1973年、56頁」は、「述語論理(Predicate logic)」としても、「正しい」。
然るに、
(09)
「論理的に、正しいこと」は、「支那人(chinese)」にとっても、「日本人(Japanese)」にとっても、「韓国人(korean)」にとっても、「正しい」。
然るに、
(10)
その諺解部分を日本語になおすと、
有子がのたまわく、そのひととなりが、孝であり弟であり、上を犯すを好む者はすくないので、上を犯すを好まずして、亂(乱)を作すを
好む者はいないのである。
となり、日本語の訓読にほぼ対応する。これはすでに述べたように、日本語と朝鮮語の文法がほとんど同じからである。
(金文京、漢文と東アジア、2010年、96頁)
従って、
(06)(09)(10)により、
(11)
① 弟子不必不如師。
といふ「漢文」の「意味」を、
② ~{∀x[師x→∃y〔弟子yx&~(及yx)〕]}。
といふ風に、捉へることが出来る、朝鮮人であれば、
① * * * * *
は、「然るべき、朝鮮語の発音」であるとして、
① 弟子不必不如師。
といふ「漢文」を、
① 弟子不必不如師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子*[必*〔(師*)如*〕*]*不。
といふに、「訓読」出来たはずである。
(12)
ハングルは知らないので、デタラメではあるものの、雰囲気としては、
① 弟子不必不如師。
といふ「漢文」を、
① 弟子不必不如師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子는[必도시도〔(師게)如여일견〕바]있는不。
といふ風に、「括弧とハングル」を用ゐて、「訓読」出来たはずである。
平成29年12月04日、毛利太。
2017年12月1日金曜日
~∃x~Fxにも、「括弧」は有ります。
(01)
114 ∀xFx ┤├ ~∃x~Fx
(a)
1 (1) ∀x Fx A
2 (2) ∃x~Fx A
3(3) ~Fa A(代表的選言項)
1 (4) Fa 1UE
1 3(5)~Fa&Fa 34&I
3(6)~∀x Fx 15RAA
2 (7)~∀x Fx 236EE
12 (8)~∀xFx&∀xFx 17&I
1 (9)~∃x~Fx 28RAA
EEが適用されてこその、「代表的選言項」なのだらうか?
(A)
1 (1) ∀x Fx A
2 (2) ∃x~Fx A
3(3) ~Fa A(代表的選言項?)
1 (4) Fa 1UE
1 3(5)~Fa&Fa 34&I
1 (6) ~~Fa 35RAA
1 (7) Fa 6DN
1 (8) ∃x Fx 7EI
12 (9) ∃x~Fx&∃xFx 28&I
1 (ア)~∃x~Fx 29RAA
(b)
1 (1)~∃x~Fx A
2(2) ~Fa A
2(3) ∃x~Fx 2EI
12(4)~∃x~Fx&∃x~Fx 23&I
1 (5) ~~Fa 24RAA
1 (6) Fa 5DN
1 (7) ∀xFx 6UI
(E.J.レモン著、竹尾治一郎・浅野楢英訳、論理学初歩、1973年、156・157頁改)
従って、
(01)により、
(02)
① 全てのモノがFを持つ(∀xFx)。
② 或るモノがFを欠いている。といふことはない(~∃x~Fx)。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
そこで述語論理学では「人間」と「動物」の「包含関係」を表わすのに、
動物(人間)
と表示する。そしてこれを記号化して
F(a) または( )を省略して Fa
というように書く。
(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、116頁改)
従って、
(02)(03)により、
(04)
② Fx=xは動物である。
に於いて、( )を省略しなければ、
② F(x)=xは動物である。
である。
然るに、
(05)
② ~F(x)=xは動物でない。
の場合は、
② F=動物である。
の「否定」ではなく、飽くまでも、
② F(x)=xは動物である。
の「否定」である。
従って、
(05)により、
(06)
② ~F(x)
であれば、
② ~〔F(x)〕
でなければ、ならない。
従って、
(06)により、
(07)
② ∃x~Fx
であれば、
② ∃x~〔F(x)〕
でなければ、ならない。
然るに、
(08)
② 或るモノがFを欠いている。といふことはない(翻訳)。
③ It is not the case that something lacks F(原文).
に於いて、
②=③ である。
(09)
② といふことはない(翻訳)。
③ It is not the case that(原文).
に於いて、
②=③ である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
② 或るモノがFを欠いている。といふことはない(翻訳)。
③ It is not the case that something lacks F(原文).
といふ「命題」は、飽くまでも、
② 或るモノがFを欠いている。
③ something lacks F.
といふ「命題」に対する、「否定」である。
従って、
(04)(07)(10)により、
(10)
② ~∃x~Fx
であれば、
② ~[∃x~〔F(x)〕]
でなければ、ならない。
然るに、
(11)
② ~∃x~Fx=
② ~[∃x~〔F(x)〕]
に於いて、
② ~[ ]⇒[ ]~
② ~〔 〕⇒〔 〕~
② F( )⇒( )F
といふ「移動」を行ふと、
② ~∃x~Fx=
② ~[∃x~〔F(x)〕]⇒
② [∃x〔(x)F〕~]~=
② [或る〔(モノが)Fを〕欠く]といふことはない。
といふ、「述語論理訓読」が、成立する。
然るに、
(12)
② ~∃x~Fx=
② ~[∃x~〔F(x)〕]⇒
② [∃x〔(x)F〕~]~=
② [或る〔(モノが)Fを〕欠く]といふことはない。
といふのであれば、「返り点」は、
② ~二∃x~一レFレx
である。
従って、
(11)(12)により、
(13)
② ~∃x~Fx=
② ~二∃x~一レFレx=
② 或るモノがFでない。といふことはない=
② 或るモノがFを欠いている。といふことはない。
に於ける、
② 二 一レ レ
といふ「返り点」は、
② ~∃x~Fx=
② ~[∃x~〔F(x)〕]=
② 或るモノがFを欠いている。といふことはない。
に於ける、
② [〔( )〕]
といふ「括弧」に、「相当」する。
従って、
(13)により、
(14)
② ~∃x~Fx=
② ~二∃x~一レFレx=
② 或るモノがFでない。といふことはない=
② 或るモノがFを欠いている。といふことはない。
といふ「述語論理」に於いて、「括弧」は、有ります。
平成29年12月01日、毛利太。
114 ∀xFx ┤├ ~∃x~Fx
(a)
1 (1) ∀x Fx A
2 (2) ∃x~Fx A
3(3) ~Fa A(代表的選言項)
1 (4) Fa 1UE
1 3(5)~Fa&Fa 34&I
3(6)~∀x Fx 15RAA
2 (7)~∀x Fx 236EE
12 (8)~∀xFx&∀xFx 17&I
1 (9)~∃x~Fx 28RAA
EEが適用されてこその、「代表的選言項」なのだらうか?
(A)
1 (1) ∀x Fx A
2 (2) ∃x~Fx A
3(3) ~Fa A(代表的選言項?)
1 (4) Fa 1UE
1 3(5)~Fa&Fa 34&I
1 (6) ~~Fa 35RAA
1 (7) Fa 6DN
1 (8) ∃x Fx 7EI
12 (9) ∃x~Fx&∃xFx 28&I
1 (ア)~∃x~Fx 29RAA
(b)
1 (1)~∃x~Fx A
2(2) ~Fa A
2(3) ∃x~Fx 2EI
12(4)~∃x~Fx&∃x~Fx 23&I
1 (5) ~~Fa 24RAA
1 (6) Fa 5DN
1 (7) ∀xFx 6UI
(E.J.レモン著、竹尾治一郎・浅野楢英訳、論理学初歩、1973年、156・157頁改)
従って、
(01)により、
(02)
① 全てのモノがFを持つ(∀xFx)。
② 或るモノがFを欠いている。といふことはない(~∃x~Fx)。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
そこで述語論理学では「人間」と「動物」の「包含関係」を表わすのに、
動物(人間)
と表示する。そしてこれを記号化して
F(a) または( )を省略して Fa
というように書く。
(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、116頁改)
従って、
(02)(03)により、
(04)
② Fx=xは動物である。
に於いて、( )を省略しなければ、
② F(x)=xは動物である。
である。
然るに、
(05)
② ~F(x)=xは動物でない。
の場合は、
② F=動物である。
の「否定」ではなく、飽くまでも、
② F(x)=xは動物である。
の「否定」である。
従って、
(05)により、
(06)
② ~F(x)
であれば、
② ~〔F(x)〕
でなければ、ならない。
従って、
(06)により、
(07)
② ∃x~Fx
であれば、
② ∃x~〔F(x)〕
でなければ、ならない。
然るに、
(08)
② 或るモノがFを欠いている。といふことはない(翻訳)。
③ It is not the case that something lacks F(原文).
に於いて、
②=③ である。
(09)
② といふことはない(翻訳)。
③ It is not the case that(原文).
に於いて、
②=③ である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
② 或るモノがFを欠いている。といふことはない(翻訳)。
③ It is not the case that something lacks F(原文).
といふ「命題」は、飽くまでも、
② 或るモノがFを欠いている。
③ something lacks F.
といふ「命題」に対する、「否定」である。
従って、
(04)(07)(10)により、
(10)
② ~∃x~Fx
であれば、
② ~[∃x~〔F(x)〕]
でなければ、ならない。
然るに、
(11)
② ~∃x~Fx=
② ~[∃x~〔F(x)〕]
に於いて、
② ~[ ]⇒[ ]~
② ~〔 〕⇒〔 〕~
② F( )⇒( )F
といふ「移動」を行ふと、
② ~∃x~Fx=
② ~[∃x~〔F(x)〕]⇒
② [∃x〔(x)F〕~]~=
② [或る〔(モノが)Fを〕欠く]といふことはない。
といふ、「述語論理訓読」が、成立する。
然るに、
(12)
② ~∃x~Fx=
② ~[∃x~〔F(x)〕]⇒
② [∃x〔(x)F〕~]~=
② [或る〔(モノが)Fを〕欠く]といふことはない。
といふのであれば、「返り点」は、
② ~二∃x~一レFレx
である。
従って、
(11)(12)により、
(13)
② ~∃x~Fx=
② ~二∃x~一レFレx=
② 或るモノがFでない。といふことはない=
② 或るモノがFを欠いている。といふことはない。
に於ける、
② 二 一レ レ
といふ「返り点」は、
② ~∃x~Fx=
② ~[∃x~〔F(x)〕]=
② 或るモノがFを欠いている。といふことはない。
に於ける、
② [〔( )〕]
といふ「括弧」に、「相当」する。
従って、
(13)により、
(14)
② ~∃x~Fx=
② ~二∃x~一レFレx=
② 或るモノがFでない。といふことはない=
② 或るモノがFを欠いている。といふことはない。
といふ「述語論理」に於いて、「括弧」は、有ります。
平成29年12月01日、毛利太。
2017年11月26日日曜日
「句読点(括弧)」はあります。
(01)
① Pならば、QならばR。
② PならばQ、ならばR。
に於いて、
① ならば、(QならばR)が、「一括り」であって、
② ならば、(PならばQ)が、「一括り」である。
従って、
(01)により、
(02)
① Pならば、QならばR。
② PならばQ、ならばR。
に於いて、
① Pならば(QならばR)。
②(PならばQ)ならばR。
である。
然るに、
(03)
① Pならば(QならばR)。
②(PならばQ)ならばR。
を、「記号」で書くと、
① P→(Q→R)
②(P→Q)→R
である。
然るに、
(04)
(a)
1 (1) P→(Q→R) A
2(2) P& Q A
2(3) P 2&E
2(4) Q 2&E
12(5) Q→R 14MPP
12(6) R 45MPP
1 (7)(P&Q)→R 26CP
(b)
1 (1)(P&Q)→R A
2 (2) P A
3(3) Q A
23(4) P&Q 23&I
123(5) R 14MPP
12 (6) Q→R 35CP
1 (7) P→(Q→R) 26CP
(c)
1(1) ( P→ Q)→R A
1(2)~( P→ Q)∨R 1含意の定義。
1(3)~(~P∨ Q)∨R 2含意の定義。
1(4)(~~P&~Q)∨R 3ド・モルガンの法則。
1(5) (P&~Q)∨R 4二重否定。
1(6)~~(P&~Q)∨R 5二重否定。
1(7) ~(P&~Q)→R 6含意の定義。
従って、
(04)により、
(05)
① P→(Q→R)
② (P→Q)→R
は、それぞれ、
① (P& Q)→R
② ~(P&~Q)→R
に、「等しい」。
然るに、
(06)
(d)
1(1)(P& Q)→R A
1(2)~R→~(P&Q) 1対偶。
1(3)~R→(~P∨~Q) ド・モルガンの法則。
(e)
1(1)~(P&~Q)→R A
1(2)~R→~~(P&~Q) 1対偶。
1(3)~R→ (P&~Q) 2二重否定。
(05)(06)により、
(07)
① P→(Q→R)
② (P→Q)→R
は、それぞれ、
① ~R→(P &~Q)
② ~R→(~P∨~Q)
に、「等しい」。
然るに、
(08)
① ~R→(~P∨~Q)
② ~R→( P&~Q)
といふ「論理式」は、
① Rでないならば、Pでないか、Qでないか、PでないしQでもない。
② Rでないならば、PであってQでない。
といふ「意味」である。
従って、
(01)~(08)により、
(09)
① Pならば、QならばR。
② PならばQ、ならばR。
といふ「日本語」が、それぞれ、
① Pならば(QならばR)= P→(Q→R)=~R→(~P∨~Q)。
②(PならばQ)ならばR =(P→Q)→R =~R→( P&~Q)。
であるならば、その時に限って、
① Rでないならば、PでないかQでないか、PでないしQでもない。
② Rでないならば、PであってQでない。
といふ「意味」である。
然るに、
(10)
① Pならば、QならばRである。
であるとして、
① Rでない。
といふのであれば、
① Pでないか、Qでないか、PでないしQでもない。
といふ「三通り」の中の、「いづれか」である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① Pならば、QならばR。
といふ「日本語」は、確かに、
① Pならば(QならばR)。
といふ「 それ 」に「等しい」。
然るに、
(12)
② PならばQ、ならばR。
であるとして、
② Rでない。
といふのであれば、
② PならばQ。ではない。
といふことになり、
② PならばQ。ではない。
といふことと、
② PであってQである。
といふことは、「矛盾」するため、
② PならばQ。ではない。
といふのであれば、
② PであってQでない。
従って、
(09)(12)により、
(13)
② PならばQ、ならばR。
といふ「日本語」は、確かに、
②(PならばQ)ならばR。
といふ「 それ 」に「等しい」。
従って、
(01)(03)(09)(11)(13)により、
(14)
① Pならば、QならばRである= Pならば(QならばR)。
② PならばQ、ならばRである=(PならばQ)ならばR。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(15)
③ PならばQならばRである。
といふ「日本語」は、
① Pならば、QならばRである。
であるか、
② PならばQ、ならばRである。
であるかの、いづれかである。
従って、
(14)(15)により、
(16)
③ PならばQならばRである。
といふ「日本語」は、
① Pならば(QならばRである)。
であるか、
②(PならばQ)ならばRである。
であるかの、いづれかである。
従って、
(16)により、
(17)
少なくとも、
③ PならばQならばRである。
といふ「日本語」に、「括弧」は有ります。
従って、
(18)
③ P→Q→R
といふ「論理式」が、
① P→(Q→R)
であるか、
②(P→Q)→R
であるかの、いづれかであるやうに、
③ PならばQならばRである。
といふ「日本語」には、「括弧」が有ります。
平成29年11月26日、毛利太。
① Pならば、QならばR。
② PならばQ、ならばR。
に於いて、
① ならば、(QならばR)が、「一括り」であって、
② ならば、(PならばQ)が、「一括り」である。
従って、
(01)により、
(02)
① Pならば、QならばR。
② PならばQ、ならばR。
に於いて、
① Pならば(QならばR)。
②(PならばQ)ならばR。
である。
然るに、
(03)
① Pならば(QならばR)。
②(PならばQ)ならばR。
を、「記号」で書くと、
① P→(Q→R)
②(P→Q)→R
である。
然るに、
(04)
(a)
1 (1) P→(Q→R) A
2(2) P& Q A
2(3) P 2&E
2(4) Q 2&E
12(5) Q→R 14MPP
12(6) R 45MPP
1 (7)(P&Q)→R 26CP
(b)
1 (1)(P&Q)→R A
2 (2) P A
3(3) Q A
23(4) P&Q 23&I
123(5) R 14MPP
12 (6) Q→R 35CP
1 (7) P→(Q→R) 26CP
(c)
1(1) ( P→ Q)→R A
1(2)~( P→ Q)∨R 1含意の定義。
1(3)~(~P∨ Q)∨R 2含意の定義。
1(4)(~~P&~Q)∨R 3ド・モルガンの法則。
1(5) (P&~Q)∨R 4二重否定。
1(6)~~(P&~Q)∨R 5二重否定。
1(7) ~(P&~Q)→R 6含意の定義。
従って、
(04)により、
(05)
① P→(Q→R)
② (P→Q)→R
は、それぞれ、
① (P& Q)→R
② ~(P&~Q)→R
に、「等しい」。
然るに、
(06)
(d)
1(1)(P& Q)→R A
1(2)~R→~(P&Q) 1対偶。
1(3)~R→(~P∨~Q) ド・モルガンの法則。
(e)
1(1)~(P&~Q)→R A
1(2)~R→~~(P&~Q) 1対偶。
1(3)~R→ (P&~Q) 2二重否定。
(05)(06)により、
(07)
① P→(Q→R)
② (P→Q)→R
は、それぞれ、
① ~R→(P &~Q)
② ~R→(~P∨~Q)
に、「等しい」。
然るに、
(08)
① ~R→(~P∨~Q)
② ~R→( P&~Q)
といふ「論理式」は、
① Rでないならば、Pでないか、Qでないか、PでないしQでもない。
② Rでないならば、PであってQでない。
といふ「意味」である。
従って、
(01)~(08)により、
(09)
① Pならば、QならばR。
② PならばQ、ならばR。
といふ「日本語」が、それぞれ、
① Pならば(QならばR)= P→(Q→R)=~R→(~P∨~Q)。
②(PならばQ)ならばR =(P→Q)→R =~R→( P&~Q)。
であるならば、その時に限って、
① Rでないならば、PでないかQでないか、PでないしQでもない。
② Rでないならば、PであってQでない。
といふ「意味」である。
然るに、
(10)
① Pならば、QならばRである。
であるとして、
① Rでない。
といふのであれば、
① Pでないか、Qでないか、PでないしQでもない。
といふ「三通り」の中の、「いづれか」である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① Pならば、QならばR。
といふ「日本語」は、確かに、
① Pならば(QならばR)。
といふ「 それ 」に「等しい」。
然るに、
(12)
② PならばQ、ならばR。
であるとして、
② Rでない。
といふのであれば、
② PならばQ。ではない。
といふことになり、
② PならばQ。ではない。
といふことと、
② PであってQである。
といふことは、「矛盾」するため、
② PならばQ。ではない。
といふのであれば、
② PであってQでない。
従って、
(09)(12)により、
(13)
② PならばQ、ならばR。
といふ「日本語」は、確かに、
②(PならばQ)ならばR。
といふ「 それ 」に「等しい」。
従って、
(01)(03)(09)(11)(13)により、
(14)
① Pならば、QならばRである= Pならば(QならばR)。
② PならばQ、ならばRである=(PならばQ)ならばR。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(15)
③ PならばQならばRである。
といふ「日本語」は、
① Pならば、QならばRである。
であるか、
② PならばQ、ならばRである。
であるかの、いづれかである。
従って、
(14)(15)により、
(16)
③ PならばQならばRである。
といふ「日本語」は、
① Pならば(QならばRである)。
であるか、
②(PならばQ)ならばRである。
であるかの、いづれかである。
従って、
(16)により、
(17)
少なくとも、
③ PならばQならばRである。
といふ「日本語」に、「括弧」は有ります。
従って、
(18)
③ P→Q→R
といふ「論理式」が、
① P→(Q→R)
であるか、
②(P→Q)→R
であるかの、いづれかであるやうに、
③ PならばQならばRである。
といふ「日本語」には、「括弧」が有ります。
平成29年11月26日、毛利太。
2017年11月23日木曜日
「返り点モドキ」と「括弧」について。
(01)
① 3{2(1)}。
に於いて、
① 2( )⇒( )2
② 3{ }⇒{ }3
といふ「移動」を行ふと、
① 3{2(1)}⇒
① {(1)2}3=
① 1 2 3。
といふ「並び換へ(ソート)」が成立する。
(02)
② 2(3{1)}。
に於いて、
② 2( )⇒( )2
② 3{ }⇒{ }3
といふ「移動」を行ふと、
② 2(3{1)}⇒
② ({1)2}3=
② 1 2 3。
といふ「並び換へ(ソート)」が成立する。
然るに、
(03)
① {( )}
② ({ )}
に於いて、
① は、「括弧」であるが、
② は、「括弧」ではない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
「括弧」は、例へば、
② 2<3>1
④ 4 2<3>1
といふ「順番」を、
② 1 2 3
④ 1 2 3 4
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
従って、
(04)により、
(05)
「括弧」は、例へば、
② 二<三>一
④ 下 二<上>一
といふ「順番」を、
② 一 二 三
④ 一 二 上 下
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
然るに、
(06)
「返り点」とは、
「縦書き」であれば、「下から上へ返る、点」であって、
「横書き」であれば、「右から左へ返る、点」である。
然るに、
(07)
② 二 三 一
であれば、
② 二→三
に於いて、
②「右から左へ」ではなく、
②「左から右へ」返ってゐる。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 三 二 一
に対して、
② 二 三 一
といふ「それ」は、「返り点」ではなく、言はば、「返り点モドキ」である。
然るに、
(09)
(3)上中下点(上・下、上・中・下)
レ点・一二点だけで示しきれない場合。必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、43頁)
従って、
(09)により、
(10)
③ 下 二 一 上
に対して、
④ 下 二 上 一
といふ「それ」は、「返り点」ではなく、言はば、「返り点モドキ」である。
従って、
(05)(08)(10)により、
(11)
「括弧」は、
② 2<3>1
④ 4 2<3>1
といふ「順番」である所の、
② 二<三>一
④ 下 二<上>一
といふ「返り点モドキ」を、
② 一 二 三
④ 一 二 上 下
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
従って、
(11)により、
(12)
「括弧」は、例へば、
② 躬二耕三於南陽一=在南陽親自耕田種地(Zài nányáng qīnzì gēng tián zhòng dì)。
④ 只‐管要下纏二擾上我一=ひたすら我がやっかいになる(唐話纂要)。
といふ「返り点モドキ」を、
② 於南陽一躬二耕三。
④ 只‐管我一纏二擾上要下。
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
然るに、
(13)
(14)
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
② 躬二耕三於南陽一=在南陽親自耕田種地(Zài nányáng qīnzì gēng tián zhòng)。
④ 只‐管要下纏二擾上我一=ひたすら我がやっかいになる。
に於いて、
②「返り点」ではなく、「返り点モドキ」が用ゐられ、
④「返り点」ではなく、「返り点モドキ」が用ゐられる。
が故に、
② 躬耕於南陽(漢文)。
④ 只管要纏擾我(白話)。
に於いて、
②「括弧」を用ゐて、「訓読(中国語訳)」することは、出来ないし、、
④「括弧」を用ゐて、「訓読(日本語訳)」することは、出来ない。
然るに、
(16)
② 躬耕於南陽(漢文)。
④ 只管要纏擾我(白話)。
に於いて、
②「括弧」を用ゐて、「中国語訳(訓読)」することは、出来ないし、
④「括弧」を用ゐて、「日本語訳(訓読)」することは、出来ない。
といふことは、
④ 只管要纏擾我(白話)。
といふ「中国語の構造」と、
④ ひたすら我がやっかいになる。
といふ「日本語の構造」が「異なってゐる」やうに、
② 躬耕於南陽(漢文)。
といふ「中国語の構造」と、
④ 在南陽親自耕田種地。
といふ「中国語の構造」も「異なってゐる」といふことに、他ならない。
然るに、
(17)
特に口頭言語において、中国に侵入、定住した遊牧民の大多数は、トルコ系の突厥、ウイグル人、モンゴル系の契丹、モンゴル人、ツングース系の女真、満州人など、みなアルタイ語系の言語を話す人々であった。彼らは中国に来て、なるほど固有の言語を喪失し、みな中国語を話すようになったであろう。しかし元来が中国語とは系統を異にする言語をもっていた彼らが話した中国語は、古代中国のままではなく、ふたつの言語が接触、融和した一種のブロークンチャイニーズだったのである。その結果、もともと口語とは乖離したところで成立した文言文としての漢文と口語の距離は、時代とともにますます広がり、のちに口語にもとづく白話文が生まれると、同じ中国語に二種類の構造の異なる文体が存在することとなった。古代語の語法は、広東語など南方の方言に残っているが、しかし近代になって標準語とされたのは、遊牧民の影響をもっとも顕著な首都、北京の言葉であり、その北京語にもとづく口語文が正式の文体とされた。
(金文京、漢文と東アジア、2010年、168・169頁)
然るに、
(18)
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
長城(GREAT WALL)を越え、中国に侵入し、定住した「遊牧民の言葉(アルタイ語系言語)」の影響を受けた「古代中国語」が、「ブロークンチャイニーズ」に変ってしまった「結果」として、もし強いて「白話文(中国語)」を、「返り点」を用ゐて「訓読」すると「たいへん奇妙な日本語」になるため、「白話文(中国語)」は、「訓読の対象」にならないものの、その一方で、「漢文(文言文)」は、「固より、口語とは別の約束事によって書かれるもの」であったがために、「漢文(文言文)」は、日本に於いて、常に、「訓読の対象」であった。
といふ、ことになる。
従って、
(20)
「変ってしまったのは中国語(口語)」であって、「変らなかったのは漢文(文語)」である。
然るに、
(21)
ゲルマン語派(ゲルマンごは、英: Germanic languages, 独: Germanische Sprachen, 瑞: Germanska språk)はインド・ヨーロッパ語族のうちの一語派。ドイツ語、オランダ語、英語などが含まれる。共通のゲルマン祖語から分化したとされる(ウィキペディア)。
然るに、
(22)
渡部昇一・ピーター・ミルワード『物語英文学史』(大修館書店、1993年、pp.12-3)において、渡部先生も次のように証言なさっておられます。
わたしは最初古英語をやろうと思ったときにとても遠く感じました。いわゆる現代英語をやってから中英語(Middle English)に入り、そのかなたに古英語があるという感じだったんです。ところが、たまたまわたしはドイツへ留学させられて、OE(古英語)の権威の先生につけられた。ところが、そこのセミナーの学生たちにはOEがいちばん易しいんですね。本当にドイツの一方言という実感を持って読んでいる。― 中略 ―、本当に実感としてOEがわかる。例えば、セミナーでディスカッションしていて、ある単語が出てきます。そうするといろんな学生が、うちのほうの田舎ではこれはこういう意味ですと、それと同根(cognate)の関連ある単語を出すんですね(Webサイト:アーリーバードの収穫)。
従って、
(21)(22)により、
(23)
「大きく変ったのは、英語」であって、「比較的、変らなかったのは、独語」である。
従って、
(24)
「古英語」とは、寧ろ「古ドイツ語」であって、「英語」ではない。といふ風に、言ふことが出来る。
従って、
(20)(23)(24)により、
(25)
「古英語」が「英語」ではないやうに、「漢文(古代中国語)」も、「中国語」ではない。といふ風に、言ふことが出来る。
然るに、
(26)
「支那の言語や文字を研究するのに、漢文と支那語の様な区別を設けてゐるのは、世界中、日本だけで、支那はもとより、ヨーロッパやアメリカで支那学を研究するにも、そんな意味のない区別など夢にも考へてゐない。西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。アメリカの大学で支那のことを研究する学生は、最初の年に現代語学現代文学を学び、次の年に歴史の書物を読み経書を習ふさうである。
(勉誠出版、「訓読」論、2008年、57頁)
従って、
(25)(26)により、
(27)
「支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。」といふ風に、倉石先生(1897‐1975)は言ふものの、「古英語」が、「英語」ではなく「古独語」である。といふことからすれば、「漢文」であっても、「中国語」ではない。といふ風に、言へることになる。
加へて、
(28)
漢詩が特別なのは、そのもとになる中国語を知らなくとも作り、理解することができる点にある。英語のわからない人が、英語の詩を書いたり読んだりすると言っても誰も信じないであろう。しかし李舜臣や夏目漱石は中国語を知らなかった(金文京、漢文と東アジア、2010年、179頁)。これは漢詩の話であるが、漢文についても同じようなことが言へる。漢文は実際の中国語の変化に関係なく、時空を超越した約束事によって書かれたものであった。だからこそ東アジアの共通語と成りえたのである(金文京、漢文と東アジア、2010年、181頁)。
従って、
(27)(28)により、
(29)
「英語と日本語の関係」と、「漢文と日本語の関係」を、「同列に論じるべきではなく」、それ故、「西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読む。」からと言って、我々日本人も、そのやうにする「必要」が有るとは、想はない。
平成29年11月23日、毛利太。
① 3{2(1)}。
に於いて、
① 2( )⇒( )2
② 3{ }⇒{ }3
といふ「移動」を行ふと、
① 3{2(1)}⇒
① {(1)2}3=
① 1 2 3。
といふ「並び換へ(ソート)」が成立する。
(02)
② 2(3{1)}。
に於いて、
② 2( )⇒( )2
② 3{ }⇒{ }3
といふ「移動」を行ふと、
② 2(3{1)}⇒
② ({1)2}3=
② 1 2 3。
といふ「並び換へ(ソート)」が成立する。
然るに、
(03)
① {( )}
② ({ )}
に於いて、
① は、「括弧」であるが、
② は、「括弧」ではない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
「括弧」は、例へば、
② 2<3>1
④ 4 2<3>1
といふ「順番」を、
② 1 2 3
④ 1 2 3 4
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
従って、
(04)により、
(05)
「括弧」は、例へば、
② 二<三>一
④ 下 二<上>一
といふ「順番」を、
② 一 二 三
④ 一 二 上 下
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
然るに、
(06)
「返り点」とは、
「縦書き」であれば、「下から上へ返る、点」であって、
「横書き」であれば、「右から左へ返る、点」である。
然るに、
(07)
② 二 三 一
であれば、
② 二→三
に於いて、
②「右から左へ」ではなく、
②「左から右へ」返ってゐる。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 三 二 一
に対して、
② 二 三 一
といふ「それ」は、「返り点」ではなく、言はば、「返り点モドキ」である。
然るに、
(09)
(3)上中下点(上・下、上・中・下)
レ点・一二点だけで示しきれない場合。必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、43頁)
従って、
(09)により、
(10)
③ 下 二 一 上
に対して、
④ 下 二 上 一
といふ「それ」は、「返り点」ではなく、言はば、「返り点モドキ」である。
従って、
(05)(08)(10)により、
(11)
「括弧」は、
② 2<3>1
④ 4 2<3>1
といふ「順番」である所の、
② 二<三>一
④ 下 二<上>一
といふ「返り点モドキ」を、
② 一 二 三
④ 一 二 上 下
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
従って、
(11)により、
(12)
「括弧」は、例へば、
② 躬二耕三於南陽一=在南陽親自耕田種地(Zài nányáng qīnzì gēng tián zhòng dì)。
④ 只‐管要下纏二擾上我一=ひたすら我がやっかいになる(唐話纂要)。
といふ「返り点モドキ」を、
② 於南陽一躬二耕三。
④ 只‐管我一纏二擾上要下。
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
然るに、
(13)
(14)
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
② 躬二耕三於南陽一=在南陽親自耕田種地(Zài nányáng qīnzì gēng tián zhòng)。
④ 只‐管要下纏二擾上我一=ひたすら我がやっかいになる。
に於いて、
②「返り点」ではなく、「返り点モドキ」が用ゐられ、
④「返り点」ではなく、「返り点モドキ」が用ゐられる。
が故に、
② 躬耕於南陽(漢文)。
④ 只管要纏擾我(白話)。
に於いて、
②「括弧」を用ゐて、「訓読(中国語訳)」することは、出来ないし、、
④「括弧」を用ゐて、「訓読(日本語訳)」することは、出来ない。
然るに、
(16)
② 躬耕於南陽(漢文)。
④ 只管要纏擾我(白話)。
に於いて、
②「括弧」を用ゐて、「中国語訳(訓読)」することは、出来ないし、
④「括弧」を用ゐて、「日本語訳(訓読)」することは、出来ない。
といふことは、
④ 只管要纏擾我(白話)。
といふ「中国語の構造」と、
④ ひたすら我がやっかいになる。
といふ「日本語の構造」が「異なってゐる」やうに、
② 躬耕於南陽(漢文)。
といふ「中国語の構造」と、
④ 在南陽親自耕田種地。
といふ「中国語の構造」も「異なってゐる」といふことに、他ならない。
然るに、
(17)
特に口頭言語において、中国に侵入、定住した遊牧民の大多数は、トルコ系の突厥、ウイグル人、モンゴル系の契丹、モンゴル人、ツングース系の女真、満州人など、みなアルタイ語系の言語を話す人々であった。彼らは中国に来て、なるほど固有の言語を喪失し、みな中国語を話すようになったであろう。しかし元来が中国語とは系統を異にする言語をもっていた彼らが話した中国語は、古代中国のままではなく、ふたつの言語が接触、融和した一種のブロークンチャイニーズだったのである。その結果、もともと口語とは乖離したところで成立した文言文としての漢文と口語の距離は、時代とともにますます広がり、のちに口語にもとづく白話文が生まれると、同じ中国語に二種類の構造の異なる文体が存在することとなった。古代語の語法は、広東語など南方の方言に残っているが、しかし近代になって標準語とされたのは、遊牧民の影響をもっとも顕著な首都、北京の言葉であり、その北京語にもとづく口語文が正式の文体とされた。
(金文京、漢文と東アジア、2010年、168・169頁)
然るに、
(18)
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
長城(GREAT WALL)を越え、中国に侵入し、定住した「遊牧民の言葉(アルタイ語系言語)」の影響を受けた「古代中国語」が、「ブロークンチャイニーズ」に変ってしまった「結果」として、もし強いて「白話文(中国語)」を、「返り点」を用ゐて「訓読」すると「たいへん奇妙な日本語」になるため、「白話文(中国語)」は、「訓読の対象」にならないものの、その一方で、「漢文(文言文)」は、「固より、口語とは別の約束事によって書かれるもの」であったがために、「漢文(文言文)」は、日本に於いて、常に、「訓読の対象」であった。
といふ、ことになる。
従って、
(20)
「変ってしまったのは中国語(口語)」であって、「変らなかったのは漢文(文語)」である。
然るに、
(21)
ゲルマン語派(ゲルマンごは、英: Germanic languages, 独: Germanische Sprachen, 瑞: Germanska språk)はインド・ヨーロッパ語族のうちの一語派。ドイツ語、オランダ語、英語などが含まれる。共通のゲルマン祖語から分化したとされる(ウィキペディア)。
然るに、
(22)
渡部昇一・ピーター・ミルワード『物語英文学史』(大修館書店、1993年、pp.12-3)において、渡部先生も次のように証言なさっておられます。
わたしは最初古英語をやろうと思ったときにとても遠く感じました。いわゆる現代英語をやってから中英語(Middle English)に入り、そのかなたに古英語があるという感じだったんです。ところが、たまたまわたしはドイツへ留学させられて、OE(古英語)の権威の先生につけられた。ところが、そこのセミナーの学生たちにはOEがいちばん易しいんですね。本当にドイツの一方言という実感を持って読んでいる。― 中略 ―、本当に実感としてOEがわかる。例えば、セミナーでディスカッションしていて、ある単語が出てきます。そうするといろんな学生が、うちのほうの田舎ではこれはこういう意味ですと、それと同根(cognate)の関連ある単語を出すんですね(Webサイト:アーリーバードの収穫)。
従って、
(21)(22)により、
(23)
「大きく変ったのは、英語」であって、「比較的、変らなかったのは、独語」である。
従って、
(24)
「古英語」とは、寧ろ「古ドイツ語」であって、「英語」ではない。といふ風に、言ふことが出来る。
従って、
(20)(23)(24)により、
(25)
「古英語」が「英語」ではないやうに、「漢文(古代中国語)」も、「中国語」ではない。といふ風に、言ふことが出来る。
然るに、
(26)
「支那の言語や文字を研究するのに、漢文と支那語の様な区別を設けてゐるのは、世界中、日本だけで、支那はもとより、ヨーロッパやアメリカで支那学を研究するにも、そんな意味のない区別など夢にも考へてゐない。西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。アメリカの大学で支那のことを研究する学生は、最初の年に現代語学現代文学を学び、次の年に歴史の書物を読み経書を習ふさうである。
(勉誠出版、「訓読」論、2008年、57頁)
従って、
(25)(26)により、
(27)
「支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。」といふ風に、倉石先生(1897‐1975)は言ふものの、「古英語」が、「英語」ではなく「古独語」である。といふことからすれば、「漢文」であっても、「中国語」ではない。といふ風に、言へることになる。
加へて、
(28)
漢詩が特別なのは、そのもとになる中国語を知らなくとも作り、理解することができる点にある。英語のわからない人が、英語の詩を書いたり読んだりすると言っても誰も信じないであろう。しかし李舜臣や夏目漱石は中国語を知らなかった(金文京、漢文と東アジア、2010年、179頁)。これは漢詩の話であるが、漢文についても同じようなことが言へる。漢文は実際の中国語の変化に関係なく、時空を超越した約束事によって書かれたものであった。だからこそ東アジアの共通語と成りえたのである(金文京、漢文と東アジア、2010年、181頁)。
従って、
(27)(28)により、
(29)
「英語と日本語の関係」と、「漢文と日本語の関係」を、「同列に論じるべきではなく」、それ故、「西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読む。」からと言って、我々日本人も、そのやうにする「必要」が有るとは、想はない。
平成29年11月23日、毛利太。
2017年11月20日月曜日
「括弧」は、有りますよ。絶対に。
(01)
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない。といふことはない。
に於いて、「直感」として、
①=②=③ である。
然るに、
(02)
(a)
1 (1)甲→ 乙 A
2(2)甲&~乙 A
2(3)甲 2&E
2(4) ~乙 3&E
12(5) 乙 13MPP
12(6)~乙&乙 45&I
1 (7) ~~乙 46RAA
1 (8) 乙 7DN
1 (9)~甲∨乙 8∨I
(b)
1 (1) ~甲∨ 乙 A
2 (2) 甲&~乙 A
2 (3) 甲 &E
2 (4) ~乙 &E
3 (5) ~甲 A
23 (6) ~甲&甲 25&I
3 (7)~(甲&~乙) 26RAA
8 (8) 乙 A
2 8 (9) 乙&~乙 48&I
8 (ア)~(甲&~乙) 29RAA
1 (イ)~(甲&~乙) 1578ア∨E
ウ (ウ) 甲 A
エ(エ) ~乙 A
ウエ(オ) 甲&~乙 ウエ&I
1 ウエ(カ)~(甲&~乙)&
(甲&~乙) イオ&I
1 ウ (キ) ~~乙 エカRAA
1 ウ (ク) 乙 キDN
1 (ケ) 甲→ 乙 ウクCP
(c)
1 (1) 甲→ 乙 A
2 (2) 甲&~乙 A
2 (3) 甲 2&E
12 (4) 乙 13MPP
2 (5) ~乙 2&E
12 (6) 乙&~乙 45&I
1 (7)~(甲&~乙) 26RAA
(d)
1 (1)~(甲&~乙) A
2 (2) 甲 A
3 (3) ~乙 A
23 (4) 甲&~乙 23CP
123 (5)~(甲&~乙)&(甲&~乙) 14&I
12 (6) ~甲 25RAA
1 (7) ~乙→ ~甲 36CP
8(8) 甲 A
8(9)~~甲 8DN
1 8(ア)~~乙 79MTT
1 8(イ) 乙 アDN
1 (ウ) 甲→乙 8イCP
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない。といふことはない。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ である。
然るに、
(04)
~ = 不
& = 而
∨ = 与
とする。
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
① 甲則乙(甲ならば、乙である)。
② 不甲与乙(甲でないか乙である)。
③ 不甲而不乙(甲であって乙でない。といふことはない)。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ である。
然るに、
(06)
つまり、むやみに括弧が多くなることは我慢できないのである(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、59頁)。
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(05)(06)により、
(07)
「論理的」には、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 不(甲而不(乙))。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(05)(07)により、
(08)
① 甲則乙(甲ならば、乙である)。
② 不甲与乙(甲でないか乙である)。
③ 不甲而不乙(甲であって乙でない。といふことはない)。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ であるならば、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 不(甲而不(乙))。
でなければ、ならない。
然るに、
(09)
③ 不(甲而不(乙))。
の場合は、
③ 無甲不乙=
③ 無(甲不(乙))⇒
③ (甲(乙)不)無=
③ (甲にして(乙せ)不る)は無し=
③ (甲であって(乙で)ない場合)は無い。
に、「等しい」。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない場合は無い。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ であるならば、
① 甲則乙。
② 不甲与乙。
③ 無甲不乙。
には、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 無(甲不(乙))。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
(11)
② 甲でないか乙である(~甲∨乙)。
であって、尚且つ、
② 甲である=甲でない。でない。
ならば、必然的に、
② 乙である。
従って、
(11)により、
(12)
② 甲でないか乙である〔~甲∨乙〕。
といふ「命題」は、
① 甲であるならば乙である〔甲→乙〕。
といふ「命題」は、「等しい」。
然るに、
(13)
① 甲であるならば乙である〔甲→乙〕。
といふ「命題」は、
③ 甲であって乙でない場合は無い〔~(甲&~(乙))〕。
といふ「命題」は、「等しい」。
従って、
(01)~(13)により、
(14)
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない場合は無い。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ であるため、
① 甲則乙。
② 不甲与乙。
③ 無甲不乙。
には、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 無(甲不(乙))。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
(15)
③ 無(甲不(乙))。
に於いて、
③ 無 は、
③ (甲不(乙))に、掛ってゐて、
③ 不 は、
③ 乙 に、掛ってゐる。
(16)
③ (甲(乙)不)無。
に於いて、 不 は、
③ 乙 を、受けてゐて、
③ 無 は、
③ (甲(乙)不)を、受けてゐる。
平成29年11月20日、毛利太。
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない。といふことはない。
に於いて、「直感」として、
①=②=③ である。
然るに、
(02)
(a)
1 (1)甲→ 乙 A
2(2)甲&~乙 A
2(3)甲 2&E
2(4) ~乙 3&E
12(5) 乙 13MPP
12(6)~乙&乙 45&I
1 (7) ~~乙 46RAA
1 (8) 乙 7DN
1 (9)~甲∨乙 8∨I
(b)
1 (1) ~甲∨ 乙 A
2 (2) 甲&~乙 A
2 (3) 甲 &E
2 (4) ~乙 &E
3 (5) ~甲 A
23 (6) ~甲&甲 25&I
3 (7)~(甲&~乙) 26RAA
8 (8) 乙 A
2 8 (9) 乙&~乙 48&I
8 (ア)~(甲&~乙) 29RAA
1 (イ)~(甲&~乙) 1578ア∨E
ウ (ウ) 甲 A
エ(エ) ~乙 A
ウエ(オ) 甲&~乙 ウエ&I
1 ウエ(カ)~(甲&~乙)&
(甲&~乙) イオ&I
1 ウ (キ) ~~乙 エカRAA
1 ウ (ク) 乙 キDN
1 (ケ) 甲→ 乙 ウクCP
(c)
1 (1) 甲→ 乙 A
2 (2) 甲&~乙 A
2 (3) 甲 2&E
12 (4) 乙 13MPP
2 (5) ~乙 2&E
12 (6) 乙&~乙 45&I
1 (7)~(甲&~乙) 26RAA
(d)
1 (1)~(甲&~乙) A
2 (2) 甲 A
3 (3) ~乙 A
23 (4) 甲&~乙 23CP
123 (5)~(甲&~乙)&(甲&~乙) 14&I
12 (6) ~甲 25RAA
1 (7) ~乙→ ~甲 36CP
8(8) 甲 A
8(9)~~甲 8DN
1 8(ア)~~乙 79MTT
1 8(イ) 乙 アDN
1 (ウ) 甲→乙 8イCP
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない。といふことはない。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ である。
然るに、
(04)
~ = 不
& = 而
∨ = 与
とする。
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
① 甲則乙(甲ならば、乙である)。
② 不甲与乙(甲でないか乙である)。
③ 不甲而不乙(甲であって乙でない。といふことはない)。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ である。
然るに、
(06)
つまり、むやみに括弧が多くなることは我慢できないのである(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、59頁)。
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(05)(06)により、
(07)
「論理的」には、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 不(甲而不(乙))。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(05)(07)により、
(08)
① 甲則乙(甲ならば、乙である)。
② 不甲与乙(甲でないか乙である)。
③ 不甲而不乙(甲であって乙でない。といふことはない)。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ であるならば、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 不(甲而不(乙))。
でなければ、ならない。
然るに、
(09)
③ 不(甲而不(乙))。
の場合は、
③ 無甲不乙=
③ 無(甲不(乙))⇒
③ (甲(乙)不)無=
③ (甲にして(乙せ)不る)は無し=
③ (甲であって(乙で)ない場合)は無い。
に、「等しい」。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない場合は無い。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ であるならば、
① 甲則乙。
② 不甲与乙。
③ 無甲不乙。
には、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 無(甲不(乙))。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
(11)
② 甲でないか乙である(~甲∨乙)。
であって、尚且つ、
② 甲である=甲でない。でない。
ならば、必然的に、
② 乙である。
従って、
(11)により、
(12)
② 甲でないか乙である〔~甲∨乙〕。
といふ「命題」は、
① 甲であるならば乙である〔甲→乙〕。
といふ「命題」は、「等しい」。
然るに、
(13)
① 甲であるならば乙である〔甲→乙〕。
といふ「命題」は、
③ 甲であって乙でない場合は無い〔~(甲&~(乙))〕。
といふ「命題」は、「等しい」。
従って、
(01)~(13)により、
(14)
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない場合は無い。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ であるため、
① 甲則乙。
② 不甲与乙。
③ 無甲不乙。
には、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 無(甲不(乙))。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
(15)
③ 無(甲不(乙))。
に於いて、
③ 無 は、
③ (甲不(乙))に、掛ってゐて、
③ 不 は、
③ 乙 に、掛ってゐる。
(16)
③ (甲(乙)不)無。
に於いて、 不 は、
③ 乙 を、受けてゐて、
③ 無 は、
③ (甲(乙)不)を、受けてゐる。
平成29年11月20日、毛利太。
2017年11月15日水曜日
「PならばPでない。従って、Pでない。」は「サプライズか」?
(01)
23 P→~P├ ~P
23 PであるならばPでない。従って、Pでない。
これは我々の規則によって証明された第一の驚くべき結果である(This is the first surprising result to be established by our rules.)。
(E.J.レモン、竹尾 治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、34・35頁改)
cf.
(a)
1 (1)P→~P A
2(2)P A
12(3) ~P 12MPP
12(4)P&~P 23&I
1 (5)~P 24RAA
(6)(P→~P)→~P 15CP
(b)
1 (1)~P A
(2)~P∨~P 1∨I
(3) P→~P 含意の定義
(4)~P→(P→~P) 13CP
∴ (P→~P)は(~P)に等しい。
然るに、
(02)
① PならばQでない(P→~Q)。
② PであってQである。といふことはない〔~(P&Q)〕。
といふ「日本語」に於いて、
①=② である。
といふことは、「直観」として、「正しい」。
cf.
(a)
1 (1) P→~Q A
2 (2) P& Q A
2 (3) P 2&E
2 (4) Q 2&E
12 (5) ~Q 13MPP
12 (6) Q&~Q 45&I
1 (7)~(P& Q)26RAA
(b)
1 (1)~(P& Q)A
2 (2) P A
3(3) Q A
23(4) P& Q 23&I
123(5)~(P& Q)
&(P& Q)15&I
12 (6) ~Q 35RAA
1 (7) P →~Q
∴ (P →~Q)は(~(P&Q))に等しい。
従って、
(02)により、
(03)
① PならばPでない(P→~P)。
② PであってPである。といふことはない〔~(P&P)〕。
に於いても、
①=② である。
cf.
(a)
1 (1) P→~P A
2 (2) P& P A
2 (3) P 2&E
2 (4) P 2&E
12 (5) ~P 13MPP
12 (6) P&~P 45&I
1 (7)~(P& P)26RAA
(b)
1 (1)~(P& P)A
2 (2) P A
3(3) P A
23(4) P& P 23&I
123(5)~(P& P)
&(P& P)15&I
12 (6) ~P 35RAA
1 (7) P→~P
∴ (P →~P)は(~(P&P))に等しい。
然るに、
(04)
② Pであって、Pである。
といふ場合に限らず、仮に、
② Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pである。
としても、
② Pである。
であって、このことを、「巾等律・反復律」といふ。
cf.
(a)
1(1) P&P A
1(2) P 1&E
(b)
1(1) P A
1(2) P&P 11&I
∴ (P&P)は(P)に等しい。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① PならばPでない(P→~P)。
② PであってPである。といふことはない〔~(P&P)〕。
③ Pである。 といふことはない〔~(P )〕。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(06)
③ Pである。といふことはない〔~(P)〕。
といふことは、
④ Pでない(~P)。
といふことに、他ならない。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① PならばPでない(P→~P)。
② PであってPである。といふことはない〔~(P&P)〕。
③ Pである。といふことはない〔~(P)〕。
④ Pでない(~P)。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(07)により、
(08)
① PならばPでない(P→~P)。
④ Pでない(~P)。
に於いて、
①=④ である。
従って、
(08)により、
(09)
⑤(PならばPでない。)=(Pでない。)
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(01)(09)により、
(10)
⑤(PならばPでない。) = (Pでない。)
⑤(PならばPでない。)従って(Pでない。)
といふ、
⑤ 驚くべき結果(The surprising result)
が、「証明」された。としても、ヲカシクはない。
然るに、
(11)
② (PであってPである。)といふことはない。
② ( Pである。)といふことはない。
といふ「それ」を、
⑥ Pであって、(Pであるといふことはない)。
といふ風に、「誤解」すると、「記号」で書くならば、
② ~(P&P)
といふ「それ」を、
⑥ P&(~P)
といふ風に、「解釈」することになる。
然るに、
(12)
⑥ P&(~P)
といふ「それ」は、「矛盾」そのものである。
従って、
(05)(12)により、
(13)
① PならばPでない。
⑥ Pであって、(Pであるといふことはない)。
に於いて、
①=⑥ である。
とするならば、
① PならばPでない。
といふ「それ」も、「矛盾」そのものに、ならざるを得ない。
従って、
(14)
「記号」で書くならば、
① P→~P=~(P)=~(P&P)
であって、
① P→~P=~(P)=P&~(P)
ではない。
といふことに、気付くことが出来るならば、
⑤(PならばPでない。) = (Pでない。)
⑤(PならばPでない。)従って(Pでない。)
といふ、
⑤ 驚くべき結果(The surprising result)
が、「証明」された。としても、驚く必要はない。
といふことに、気付く、ことになる。
平成29年11月15日、毛利太。
23 P→~P├ ~P
23 PであるならばPでない。従って、Pでない。
これは我々の規則によって証明された第一の驚くべき結果である(This is the first surprising result to be established by our rules.)。
(E.J.レモン、竹尾 治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、34・35頁改)
cf.
(a)
1 (1)P→~P A
2(2)P A
12(3) ~P 12MPP
12(4)P&~P 23&I
1 (5)~P 24RAA
(6)(P→~P)→~P 15CP
(b)
1 (1)~P A
(2)~P∨~P 1∨I
(3) P→~P 含意の定義
(4)~P→(P→~P) 13CP
∴ (P→~P)は(~P)に等しい。
然るに、
(02)
① PならばQでない(P→~Q)。
② PであってQである。といふことはない〔~(P&Q)〕。
といふ「日本語」に於いて、
①=② である。
といふことは、「直観」として、「正しい」。
cf.
(a)
1 (1) P→~Q A
2 (2) P& Q A
2 (3) P 2&E
2 (4) Q 2&E
12 (5) ~Q 13MPP
12 (6) Q&~Q 45&I
1 (7)~(P& Q)26RAA
(b)
1 (1)~(P& Q)A
2 (2) P A
3(3) Q A
23(4) P& Q 23&I
123(5)~(P& Q)
&(P& Q)15&I
12 (6) ~Q 35RAA
1 (7) P →~Q
∴ (P →~Q)は(~(P&Q))に等しい。
従って、
(02)により、
(03)
① PならばPでない(P→~P)。
② PであってPである。といふことはない〔~(P&P)〕。
に於いても、
①=② である。
cf.
(a)
1 (1) P→~P A
2 (2) P& P A
2 (3) P 2&E
2 (4) P 2&E
12 (5) ~P 13MPP
12 (6) P&~P 45&I
1 (7)~(P& P)26RAA
(b)
1 (1)~(P& P)A
2 (2) P A
3(3) P A
23(4) P& P 23&I
123(5)~(P& P)
&(P& P)15&I
12 (6) ~P 35RAA
1 (7) P→~P
∴ (P →~P)は(~(P&P))に等しい。
然るに、
(04)
② Pであって、Pである。
といふ場合に限らず、仮に、
② Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pである。
としても、
② Pである。
であって、このことを、「巾等律・反復律」といふ。
cf.
(a)
1(1) P&P A
1(2) P 1&E
(b)
1(1) P A
1(2) P&P 11&I
∴ (P&P)は(P)に等しい。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① PならばPでない(P→~P)。
② PであってPである。といふことはない〔~(P&P)〕。
③ Pである。 といふことはない〔~(P )〕。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(06)
③ Pである。といふことはない〔~(P)〕。
といふことは、
④ Pでない(~P)。
といふことに、他ならない。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① PならばPでない(P→~P)。
② PであってPである。といふことはない〔~(P&P)〕。
③ Pである。といふことはない〔~(P)〕。
④ Pでない(~P)。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(07)により、
(08)
① PならばPでない(P→~P)。
④ Pでない(~P)。
に於いて、
①=④ である。
従って、
(08)により、
(09)
⑤(PならばPでない。)=(Pでない。)
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(01)(09)により、
(10)
⑤(PならばPでない。) = (Pでない。)
⑤(PならばPでない。)従って(Pでない。)
といふ、
⑤ 驚くべき結果(The surprising result)
が、「証明」された。としても、ヲカシクはない。
然るに、
(11)
② (PであってPである。)といふことはない。
② ( Pである。)といふことはない。
といふ「それ」を、
⑥ Pであって、(Pであるといふことはない)。
といふ風に、「誤解」すると、「記号」で書くならば、
② ~(P&P)
といふ「それ」を、
⑥ P&(~P)
といふ風に、「解釈」することになる。
然るに、
(12)
⑥ P&(~P)
といふ「それ」は、「矛盾」そのものである。
従って、
(05)(12)により、
(13)
① PならばPでない。
⑥ Pであって、(Pであるといふことはない)。
に於いて、
①=⑥ である。
とするならば、
① PならばPでない。
といふ「それ」も、「矛盾」そのものに、ならざるを得ない。
従って、
(14)
「記号」で書くならば、
① P→~P=~(P)=~(P&P)
であって、
① P→~P=~(P)=P&~(P)
ではない。
といふことに、気付くことが出来るならば、
⑤(PならばPでない。) = (Pでない。)
⑤(PならばPでない。)従って(Pでない。)
といふ、
⑤ 驚くべき結果(The surprising result)
が、「証明」された。としても、驚く必要はない。
といふことに、気付く、ことになる。
平成29年11月15日、毛利太。
2017年11月13日月曜日
我非必不常求以解中文法解漢文者也。
(01)
① 孔子聖人 =孔子は聖人なり(文語)。
② 孟子亜聖也=孟子は亜聖なり(文語)。
然るに、
(02)
① AB =AはBなり(文語)。
に対して、
② 也 を加へても、
② AB也=AはBなり(文語)
である。
(01)(02)により、
(03)
① AB =AはBなり(文語)。
② AB也=AはBなり(文語)。
に於いて、
②「也」は、「置き字(読まない字)」である。
然るに、
(04)
③ AB =AはBである (口語)。
④ AB也=AはBであるのだ(口語)。
然るに、
(05)
ヤ也 なり たり や か
[助動詞]1なり《文の末尾について、文意を強調する語気を表す》
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、329頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
③ AB =AはBである (口語)。
④ AB也=AはBであるのだ(口語)。
に於いて、
④「也」は、「のだ」といふ、「強調の語気」を表してゐる。
然るに、
(07)
⑤ A非B =AはBにあらず(文語)。
⑤ A非B =AはBではない(口語)。
⑥ A非B也=AはBにあらざるなり(文語)。
⑥ A非B也=AはBではない のだ(口語)。
従って、
(02)(07)により、
(08)
⑤ A非B =AはBにあらず(文語)。
⑤ A非B =AはBではない(口語)。
⑥ A非B也=AはBにあらざるなり(文語)。
⑥ A非B也=AはBではない のだ(口語)。
に於いて、
⑥「也(なり)」は、「置き字」ではなく、尚且つ、
⑥「也(なり)」は、「のだ」のやうな、「強調の語気」を表してゐる。
従って、
(08)により、
(09)
⑤ A非B。
⑥ A非B也。
に於いて、
⑤ と、
⑥ の「違ひ」は、
⑤ AはBではない(口語)。 と、
⑥ AはBではないのだ(口語)。くらひの、「違ひ」に相当する。
従って、
(09)により、
(10)
⑤ 我非必不常求以解中文法解漢文者。
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
の「違ひ」は、敢へて言へば、
⑤ AはBではない(口語)。 と、
⑥ AはBではないのだ(口語)。くらひの、「違ひ」に相当する。
然るに、
(11)
⑥ 我非生而知之者=
⑥ 我非〔生而知(之)者〕⇒
⑥ 我〔生而(之)知者〕非=
⑥ 我は〔生れながらにし而(之を)知る者に〕非ず(論語・述而)。
従って、
(11)により、
(12)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非 者
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(13)
⑥ 非必怪奇偉麗者也=
⑥ 非(必怪奇偉麗者)也⇒
⑥ (必怪奇偉麗者)非也=
⑥ (必ずしも怪奇偉麗なる者に)非ざる也(蘇武・超然台記)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非必 者也
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(15)
⑥ 求以解英文法解漢文=
⑥ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]⇒
⑥ [〔(英文)解法〕以(漢文)解]求=
⑥ [〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求む(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(14)(15)により、
(16)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非必 求以解英文法解漢文者也。
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(17)
⑥ 必不仁=
⑥ 必不(仁)⇒
⑥ 必(仁)不=
⑥ 必らずしも(仁なら)不(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(16)(17)により、
(18)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「作例」に於いて、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
従って、
(10)(18)により、
(19)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也=
⑥ 我は必ずしも、常には、中文を解する法を以って、 漢文を解せんことを求め不る者に非ざるなり=
⑥ 私は必ずしも、常には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、しない者ではないのだ=
⑥ 私は、 時には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、 する者なのだ。
といふ「漢文訓読」は、「正しい」。
cf.
然るに、
(20)
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也。
から、
⑥ 我 必 常 中文 法 漢文 者 也
⑥ 我 必 常 中文 法 漢文 者 也
といふ「漢字」を「取り除く」と、
⑥ 非〈不{求[以〔解( )〕解( )]}〉
⑥ 〈{[〔( )解〕以( )解]求}不〉非
である。
従って、
(20)により、
(21)
⑥ 非〈不{求[以〔解( )〕解( )]}〉
⑥ 〈{[〔( )解〕以( )解]求}不〉非
を「合はせる」と、
⑥ 非〈不{求[以〔解( )解〕以解( )解]求}不〉非
従って、
(21)により、
(22)
⑥ 非〈 〉非
⑥ 不{ }不
⑥ 求[ ]求
⑥ 以〔 〕以
⑥ 解( )解
⑥ 解( )解
である。
従って、
(19)~(22)により、
(23)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
に於いて、
⑥ 非〈 〉非
⑥ 不{ }不
⑥ 求[ ]求
⑥ 以〔 〕以
⑥ 解( )解
⑥ 解( )解
である。
然るに、
(24)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(23)(24)により、
(25)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於ける、
⑥ 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( )]} 〉
といふ「括弧」は、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造」を、表してゐる。
従って、
(23)(25)により、
(26)
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文」を、
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
といふ風に、「訓読」したとしても、
⑥ 私は〈必ずしも{常には[〔(中国語を)理解する方法を〕用ゐて(漢文を)理解]しようと}しない者では〉ないのだ。
といふ風に、「直訳」したとしても、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造」は、「保存」される。
然るに、
(27)
然るに、
(28)
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」は、「中国語」であるため、私には「全く読めない」し、
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
との、ことである。
従って、
(25)~(28)により、
(29)
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
⑥ 私は〈必ずしも{常には[〔(中国語を)理解する方法を〕用いて(漢文を)理解]しようと}しない者では〉ないのだ。
であれば、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文の補足構造」を「保存」してゐる一方で、
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」は、さうではない。はずである(?)。
従って、
(29)により、
(30)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「(自分で書いた)漢文」が「正しいか、否か」を知りたい際に、
⑥ 私は必ずしも、常には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、しない者ではないのだ。
といふ「日本語」に対する「知識」より以上に、
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」に対する「知識」が、「訳に立つ」とは、思はない。
(31)
然るに、
(32)
⑥ 我非生而知之者=
⑥ 我非〔生而知(之)者〕⇒
⑥ 我〔生而(之)知者〕非=
⑥ 我は〔生れながらにし而(之を)知る者に〕非ず(論語・述而)。
に於ける、
⑥ 我非〔生而知(之)者〕。
といふ「漢文の補足構造」と、
⑥ 任何知道這一點的人我都不是天生的(グーグル翻訳)。
といふ「中国語の、構造」が、「同じ」であるとは、思へない。
然るに、
(33)
その一方で、
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
(34)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
(35)
大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。
然るに、
(36)
ともかく筆者が言いたいのは、大学でも漢文の授業の方はしっかりと訓読だけを教えればよいということである。以前このようなことをある講演の際に述べたら、他の大学に勤めている先輩から、自分のところでは音読も取り入れて学生もみな読めるようになっていると力まれて困った。それならばその大学出身の若手が中国学会をリードしているはずである(土田健次郎、大学における訓読教育の必要性)。
との、ことである。
平成29年11月13日、毛利太。
① 孔子聖人 =孔子は聖人なり(文語)。
② 孟子亜聖也=孟子は亜聖なり(文語)。
然るに、
(02)
① AB =AはBなり(文語)。
に対して、
② 也 を加へても、
② AB也=AはBなり(文語)
である。
(01)(02)により、
(03)
① AB =AはBなり(文語)。
② AB也=AはBなり(文語)。
に於いて、
②「也」は、「置き字(読まない字)」である。
然るに、
(04)
③ AB =AはBである (口語)。
④ AB也=AはBであるのだ(口語)。
然るに、
(05)
ヤ也 なり たり や か
[助動詞]1なり《文の末尾について、文意を強調する語気を表す》
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、329頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
③ AB =AはBである (口語)。
④ AB也=AはBであるのだ(口語)。
に於いて、
④「也」は、「のだ」といふ、「強調の語気」を表してゐる。
然るに、
(07)
⑤ A非B =AはBにあらず(文語)。
⑤ A非B =AはBではない(口語)。
⑥ A非B也=AはBにあらざるなり(文語)。
⑥ A非B也=AはBではない のだ(口語)。
従って、
(02)(07)により、
(08)
⑤ A非B =AはBにあらず(文語)。
⑤ A非B =AはBではない(口語)。
⑥ A非B也=AはBにあらざるなり(文語)。
⑥ A非B也=AはBではない のだ(口語)。
に於いて、
⑥「也(なり)」は、「置き字」ではなく、尚且つ、
⑥「也(なり)」は、「のだ」のやうな、「強調の語気」を表してゐる。
従って、
(08)により、
(09)
⑤ A非B。
⑥ A非B也。
に於いて、
⑤ と、
⑥ の「違ひ」は、
⑤ AはBではない(口語)。 と、
⑥ AはBではないのだ(口語)。くらひの、「違ひ」に相当する。
従って、
(09)により、
(10)
⑤ 我非必不常求以解中文法解漢文者。
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
の「違ひ」は、敢へて言へば、
⑤ AはBではない(口語)。 と、
⑥ AはBではないのだ(口語)。くらひの、「違ひ」に相当する。
然るに、
(11)
⑥ 我非生而知之者=
⑥ 我非〔生而知(之)者〕⇒
⑥ 我〔生而(之)知者〕非=
⑥ 我は〔生れながらにし而(之を)知る者に〕非ず(論語・述而)。
従って、
(11)により、
(12)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非 者
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(13)
⑥ 非必怪奇偉麗者也=
⑥ 非(必怪奇偉麗者)也⇒
⑥ (必怪奇偉麗者)非也=
⑥ (必ずしも怪奇偉麗なる者に)非ざる也(蘇武・超然台記)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非必 者也
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(15)
⑥ 求以解英文法解漢文=
⑥ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]⇒
⑥ [〔(英文)解法〕以(漢文)解]求=
⑥ [〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求む(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(14)(15)により、
(16)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非必 求以解英文法解漢文者也。
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(17)
⑥ 必不仁=
⑥ 必不(仁)⇒
⑥ 必(仁)不=
⑥ 必らずしも(仁なら)不(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(16)(17)により、
(18)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「作例」に於いて、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
従って、
(10)(18)により、
(19)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也=
⑥ 我は必ずしも、常には、中文を解する法を以って、 漢文を解せんことを求め不る者に非ざるなり=
⑥ 私は必ずしも、常には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、しない者ではないのだ=
⑥ 私は、 時には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、 する者なのだ。
といふ「漢文訓読」は、「正しい」。
cf.
然るに、
(20)
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也。
から、
⑥ 我 必 常 中文 法 漢文 者 也
⑥ 我 必 常 中文 法 漢文 者 也
といふ「漢字」を「取り除く」と、
⑥ 非〈不{求[以〔解( )〕解( )]}〉
⑥ 〈{[〔( )解〕以( )解]求}不〉非
である。
従って、
(20)により、
(21)
⑥ 非〈不{求[以〔解( )〕解( )]}〉
⑥ 〈{[〔( )解〕以( )解]求}不〉非
を「合はせる」と、
⑥ 非〈不{求[以〔解( )解〕以解( )解]求}不〉非
従って、
(21)により、
(22)
⑥ 非〈 〉非
⑥ 不{ }不
⑥ 求[ ]求
⑥ 以〔 〕以
⑥ 解( )解
⑥ 解( )解
である。
従って、
(19)~(22)により、
(23)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
に於いて、
⑥ 非〈 〉非
⑥ 不{ }不
⑥ 求[ ]求
⑥ 以〔 〕以
⑥ 解( )解
⑥ 解( )解
である。
然るに、
(24)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(23)(24)により、
(25)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於ける、
⑥ 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( )]} 〉
といふ「括弧」は、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造」を、表してゐる。
従って、
(23)(25)により、
(26)
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文」を、
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
といふ風に、「訓読」したとしても、
⑥ 私は〈必ずしも{常には[〔(中国語を)理解する方法を〕用ゐて(漢文を)理解]しようと}しない者では〉ないのだ。
といふ風に、「直訳」したとしても、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造」は、「保存」される。
然るに、
(27)
然るに、
(28)
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」は、「中国語」であるため、私には「全く読めない」し、
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
との、ことである。
従って、
(25)~(28)により、
(29)
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
⑥ 私は〈必ずしも{常には[〔(中国語を)理解する方法を〕用いて(漢文を)理解]しようと}しない者では〉ないのだ。
であれば、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文の補足構造」を「保存」してゐる一方で、
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」は、さうではない。はずである(?)。
従って、
(29)により、
(30)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「(自分で書いた)漢文」が「正しいか、否か」を知りたい際に、
⑥ 私は必ずしも、常には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、しない者ではないのだ。
といふ「日本語」に対する「知識」より以上に、
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」に対する「知識」が、「訳に立つ」とは、思はない。
(31)
然るに、
(32)
⑥ 我非生而知之者=
⑥ 我非〔生而知(之)者〕⇒
⑥ 我〔生而(之)知者〕非=
⑥ 我は〔生れながらにし而(之を)知る者に〕非ず(論語・述而)。
に於ける、
⑥ 我非〔生而知(之)者〕。
といふ「漢文の補足構造」と、
⑥ 任何知道這一點的人我都不是天生的(グーグル翻訳)。
といふ「中国語の、構造」が、「同じ」であるとは、思へない。
然るに、
(33)
その一方で、
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
(34)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
(35)
大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。
然るに、
(36)
ともかく筆者が言いたいのは、大学でも漢文の授業の方はしっかりと訓読だけを教えればよいということである。以前このようなことをある講演の際に述べたら、他の大学に勤めている先輩から、自分のところでは音読も取り入れて学生もみな読めるようになっていると力まれて困った。それならばその大学出身の若手が中国学会をリードしているはずである(土田健次郎、大学における訓読教育の必要性)。
との、ことである。
平成29年11月13日、毛利太。
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