ともあれ、
(01)
「① 死なない人間が存在しない」のであれば、
「② 全ての人間は死ぬ」。
といふ「命題」が「真」であることを、「証明」したい。
(02)
命題 ①と、
命題 ②が有って、
その「結果」として、「矛盾(A&非A)」が生じるであれば、
① と、
② の、
どちらか一方が、「偽」である。
従って、
(03)
① が「真」であれば、② が「偽」であり、
② が「偽」であれば、② の否定が「真」である。
従って、
(04)
① は「真」であり、尚且つ、
② も「真」であると「仮定」して、「矛盾(A&~A)」が生じる場合は、
① が「真」であれば(条件的証明)、
② の否定が「真」である(背理法)。
然るに、
(05)
① ~(ヨx)(Hx&~Mx)=死なない人間は存在しない。
② (x)(Hx→Mx) =全ての人間は死ぬ。
に於いて、
(06)
1 (01) ~(ヨx)(Hx&~Mx) A〔仮定①〕
2 (02) ~(x)(Hx→Mx) A〔仮定②〕
2 (03) ~(Ha→Ma) UE
2 (04) ~(~Ha∨Ma) (03)Df.→
2 (05) ~~Ha&~Ma (04)DML
2 (06) Ha&~Ma (05)DN
2 (07) (ヨx)(Hx&~Mx) (06)E I
1,2 (08) ~(ヨx)(Hx&~Mx)&(ヨx)(Hx&~Mx)(01)(07)&I
1 (09) ~~(x)(Ha→Ma) (02)(08)RAA〔背理法〕
1 (10) (x)(Ha→Ma) (09)U I〔仮定②の否定〕
(11) ~(ヨx)(Hx&~Mx)→(x)(Hx→Mx) (01)(11)CP
(12) 死なない人間が存在しないならば、全ての人間は死ぬ。(01)(11)CP
(13) ① 無〔人不(死)〕則 ② 人皆有(死)。(01)(11)CP
従って、
(05)(06)により、
(07)
~(ヨx)(Hx&~Mx)=死なない人間は存在しない。
に於ける、「記号」の意味は、
否定 =~
存在する =(ヨx)
xは人間である=Hx
接続詞 =&
xは死ぬ =Mx
然るに、
(08)
「論理記号」の「結合力」の強さは、「¬、&、∨、→、⇔」の順であり、括弧は曖昧さが無い場合には適当に省略される(赤間世紀、prologで学ぶAIプログラミング、平成20年、13頁)。に於いて、「¬(否定)」は、「~(否定)」に等しい。
従って、
(09)
むやみに括弧が多くなることは我慢できないのである(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、59頁)。とはせずに、「括弧」を、「省略」しない場合は、
~(ヨx)(Hx&~Mx)=
~((ヨx)(Hx&~(Mx)))
従って、
(10)
(( )(( )))を、
[( )〔( )〕]に替へると、
~(ヨx)(Hx&~Mx)=
~((ヨx)(Hx&~(Mx)))=
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]
従って、
(11)
『返り点に対する「括弧」の用法』にならって、
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]⇒
[〔Hx&(Mx)~〕(ヨx)]~。
従って、
(07)(11)により、
(12)
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]⇒
[〔Hx&(Mx)~〕(ヨx)]~=
[〔人間であって(死な)ないxは〕(存在し)]ない=
人間であって 死な ない者は 存在し) ない。
然るに、
(13)
無〔人不(死)〕⇒
〔人(死)不〕無=
〔人にして(死せ)不る〕は無し=
人にして 死せ 不る は無し。
従って、
(12)(13)により、
(14)
無〔人不(死)〕⇒
〔人(死)不〕無=
〔人にして(死せ)不る〕は無し=
人にして 死せ 不る は無し。
といふ『返り点に対する「括弧」の用法』は、
~[(ヨx)〔Hx&~(Mx)〕]⇒
[〔Hx&(Mx)~〕(ヨx)]~=
[〔人間であって(死な)ないxは〕(存在し)]ない=
人間であって 死な ない者は 存在し ない。
といふ『述語論理に対する「括弧」の用法』に、等しい。
従って、
(14)により、
(15)
① 無人不死。
といふ「漢文」は、「表層的」には、
① 無人不死。
といふ「形」をしてゐる一方で、「論理的」には、
② 無〔人不(死)〕
といふ「形」をしてゐる。はずである。
そのため、
(16)
① 読漢文。
の場合も、「論理的」には、
② 読(漢文)。
といふ「形」をしてゐる。とする。
然るに、
(17)
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語)。
の場合は、
② (誰)毀(誰)誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ。
となってゐて、
① 毀誰誉誰=
② 毀(誰)誉(誰)⇒
③ (誰)毀(誰)誉 =
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ。
とはなってゐない。
すなはち、
(18)
② 誉(彼)=彼を誉む。
② 敬(汝)=汝を敬ふ。
② 先(我)=我を先にす。
といふ、「語順」からすれば、
② 誉(誰)=誰をか誉む。
② 敬(誰)=誰をか敬ふ。
② 先(誰)=誰をか先にせむ。
となるはずである。
にも拘わらず、実際には、さうはならず、
②(誰)誉=誰をか誉む。
②(誰)敬=誰をか敬ふ。
②(誰)先=誰をか先にせむ。
といふ風に、「誰(WHOM)」が、「文頭」に来てゐる。
cf.
『孟子』の原文と趙岐の注を比較すると上古の語順は後漢時代すでに変化して現代語式なっていたことがわかる。すなわち『孟子』では「誰敬」「誰先」と賓語の誰が動詞の前に来ている(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁)。
英語(や多くのヨーロッパ言語)のWH要素は文頭へ移動する。日本語( 中国語、韓国語など)ではWH要素は移動しない(日本語の疑問文について - 神戸松蔭女子学院大学Adobe PDF)。
従って、
(18)
FC2ブログ(2011.05.03.Tue).
でも述べた通り、
① 誰毀誰誉=
② (誰)毀(誰)誉=誰をか毀り、誰をか誉めむ。
は、「漢文」に於ける、「WH移動」である。
(A)
「これは私のものである。」の、「私」を「強調」して言うのであれば、その場合は、
「これは私のものであって(、私以外の者の、ものではない)。」⇒「排他的命題」。
という、意味になります。
然るに、
(B)
「ある部分」を「強調」するということは、何らかの形で、「その部分」が、「その他の部分」よりも、「目立つ」ように、工夫することである。という風に、考えられます。
従って、
(C)
「通常の語順」に従わないのであれば、「その部分」は、当然、「目立つ」わけですから、今行った議論 からすれば、「その部分」は、「強調」されることになり、その意味で、私は、次のような、説明を支持します。
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・頁)。
加えて、
(D)
誰毀誰誉(論語、巻第八、衛霊公第十五、二五)は、
誰かを誉め、その誰か以外を誉めないのであれば、その誰かとは、誰か。
という、「排他的命題」であると、考えます。
― 中略 ―
(E)
その言語(漢語)を用ちいる集団の意識として、
「排他的命題」を主張する目的が、「強調」につながり、「強調」しようとする意識が、「疑問詞の前置(Wh移動)」をプロモート(促進・助長)する形で、「漢文に於ける、Wh移動」が、定着したという風に、私は、理解しています。
然るに、
(19)
例へば、ラテン語の場合、
QUIS EST ILLE? =誰、彼である、そこの。
QUO VADIS DOMINE?=何処へあなたは行くのか。主よ。
QUID VIDERE VIS? =何を見ることを、あなたは望むか。
従って、
(20)
「疑問詞」だけを「英語」に置き換へると、
WHO EST ILLE? =あそこにいるのは誰ですか。
WHERE VADIS DOMINE?=何処へあなたは行くのか。主よ。
WHAT VIDERE VIS? =あなたは何が見たいですか。
然るに、
(21)
WHAT DO YOU WANT TO SEE?
I WANT TO SEE A(THE) MOVIE.
従って、
(20)(21)により、
(22)
英語の場合は、
ラテン語のやうな、「語形」が、「格(てにをは)」を表す「言語」から、
漢文のやうな、 「語順」が、「格(てにをは)」を表す「言語」に、
変はって行った過程で、
「疑問詞」だけは、「語頭」に「止まった」のかも、知れない。
すなはち、
(23)
「WH移動」ではなく、「WH停止」なのかも、知れない。
加へて、
(24)
たとえば、「私の女主人」と言いたいとき、普通は domina mea(domina,ae,f)ですが、mea domina と言っても構わないのです。散文などでは離れることさえよくあります。これがラテン語の柔軟さ、屈折語の強みです。このmea domina はキリスト教では「聖母マリア」といふ特別な意味で使われました。比喩的には「敬うべき女性、あこがれの女(ひと)」。伊語のmadonna の元の形です(大西英文、はじめてのラテン語、1997年、75頁)。
従って、
(24)により、
(25)
現代イタリア語としては、
② MADONNA=MEA DOMINA。
といふ「語順」だけしかなく(?)、
古代イタリア語(ラテン語)としては、
①「普通」は ⇒ DOMINA MEA。
②「前置」は ⇒ MEA DOMINA。
である。と、思はれる。
従って、
(25)
現代イタリア語としては、
一通りしか無く、
②「普通」は ⇒ MEUS LIBER(私の本)。
古代イタリア語(ラテン語)としては、
二通り有って、
①「普通」は ⇒ LIBER MEUS(私の本)。
②「前置」は ⇒ MEUS LIBER(私の本)。
である。と、思はれる。
従って、
(A)~(25)により、
(26)
ラテン語に於ける、
① LIBER MEUS(私の本)。
に対する、
② MEUS LIBER(私の本)。
といふ「言ひ方」は、「所有形容詞」の「前置」による「強調形」であって、
② MEUS LIBER=私の以外のものではない所の、私の本。
といふ「意味」である。と、思はれる。
然るに、
(27)
① LIBER MEUS。
に対する、
② MEUS LIBER.
といふラテン語に、
② 私の以外のものではない所の、私の本。
といふニュアンスが有るのか、どうかは、イタリア人でも、フランス人でもない、私には、全くわからない。
但し、
(28)
① 私の本。
① 私のです。
に於いて、「私の」を、強く言ふと、日本語では、
② 私の本 =(私以外のものではない所の、)私の本。
② 私のです=(私以外のものではなく)私のです。
といふ「意味」になることは、知ってゐる。
然るに、
(29)
① LIBER MEUS。
のやうな「普通の語順」を、
② MEUS LIBER。
のやうに「前置」した際に、
② MEUS LIBER=私の以外のものではない所の、私の本。
といふニュアンスになる言語が、3000とも5000ともいわれる世界の言語の中に、在るのかどうかは、わからない。
(30)
仮に、ある言語Aが、そのやうな言語であるとして、その言語Aの話者が、英語だけを使用し始めた結果として、その言語Aが、亡びようとしてゐるのかどうかも、分らない。
従って、
(31)
そのやうな、滅びつつある言語Aが有るのであれば、滅びてしまふ前に、せめて「記録」だけは、残って欲しい。
(32)
① WHAT DO YOU WANT TO SEE?
② DO YOU WANT TO SEE what?
③ I WANT TO SEE MOVIE.
の内の、
② DO YOU WANT TO SEE what?
が、消滅しつつ、あることによって、今現在、
① WHAT DO YOU WANT TO SEE?
③ I WANT TO SEE MOVIE.
といふ「WH移動」が、生じようとしてゐる「言語」が、実際に在るのであれば、滅びてしまふ前に、「記録」だけは、残って欲しい。
従って、
(33)
「現在」に於いても、そのやうな「言語」が在るかもしれないし、
「過去」には、そのやうな「言語」が在ったのかも知れないため、
私は、世界中の、「過去と現在の言語」を、全て知りたい。
然るに、
(34)
「世界中の、全ての、過去と現在の言語」を知ることは、不可能なので、なるべく、「互いにかけ離れた、様々な言語を、少しづづ」知りたい。
然るに、
(35)
ただし、言語学のあらゆる分野が世界中の言語を研究対象にしているわけではない。とくに最近の言語学は、人間が言語を生成するメカニズムを理論的に追い求めるのが主流である。心の中、いや、頭の中がどうなっているのかを追求するわけで、これでは心理学や生理学に近い。
(黒田龍之介、世界の言語入門、2008年、5頁)
然るに、
(36)
「ラテン語やギリシャ語」のやうな、「ありふれた言語の対極」にある「漢文」は、「世界中の様々な言語」から、かなりかけ離れてゐる(?)。と、思はれる。
加へて、
(37)
エヴェレットは、この言語に再帰(繰り返し、recursion)が無いことは、(もしそれが正しいとすれば)チョムスキー言語学の根底を崩すものとなると主張している。この説はしかし、「エヴェレット自身がピラハン語の中に再帰を認めているではないか」と、多くの言語学者から反論を受けている。これに対しエヴェレットは、表面的には再帰的であるように見えるとする当初の発言は、ピダハン語に対する知識不足による誤った解釈であったと言っている(ウィキペディア)。
従って、
(38)
「ラテン語や、ギリシャ語」のやうな、「ありふれた言語の対極」にある「言語」は、「漢文訓読」と、「ピダハン語」なのかも、知れない。
cf.
「どこに外国語を母国語の語順で読む国があろう」か(、そのやうな例は、世界中探してもどこにも無い)と嘆く著者(西洋文化研究者)は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するときだ」とするのである(訓読論、勉誠出版、2008年、1頁)。
然るに、
(39)
この案を簡単に言えば「漢字を禁止し、カタカナのみにする」といふことであります。この案を提案した海軍少佐によれば、カタカナのみにすればすべてが能率的にできるということです。さらに学校で漢字を禁止すると、GHQの検閲が容易になるということです。さらに学校で漢字を禁止すれば、「漢字で書かれた戦前の宣伝に感染しない、日本人の世代を生み出すことになろう。なぜなら、かれらはそれを読むことができないからである」予想していたのです(津田幸男、日本語防衛論、平成23年、150頁)。
(40)
「漢文」を、まともに習ったことがあれば、
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語)。
といふ「語順」が「倒置」であることは、誰にでも、分るはずであり、
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語、巻第八、衛霊公第十五、二五)。
が「反語」であることも、少し考へれば、分るはずである。
(41)
① 誰毀誰誉=
② (誰)毀(誰)誉 ⇒
③ (誰)毀(誰)誉 =
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)。
といふ「漢文」が、「倒置・反語」であることを、「強く意識」する時、
① (誰)毀(誰)誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)。
といふ「漢文」は、
⑤ 誰かを誉め、その誰か以外を誉めないのであれば、その誰かとは、誰か。
といった、「ニュアンス」に、ならないでせうか?
(42)
仮に、少しは、そのやうな「ニュアンス」になり、尚且つ、
漢語としての「通常の語順」を変えて、「目的語の疑問詞」を「前置」することは、疑問文において、その疑問の中心になっている「疑問詞」を、特に「強調」したものにちがいない(鈴木直治、中国語と漢文、334・頁)。
といふことを、読んだことがあるのであれば、私ならぬ、あなたの場合も、「排他的命題」を主張する目的が、「強調」につながり、「強調」しようとする意識が、「疑問詞の前置(Wh移動)」をプロモート(促進・助長)する形で、「漢文に於ける、Wh移動」が、定着した。
といふ風に、考へるやも、知れない。
それ故、
(43)
日本語を母語とする、その意味では普通の高校生であるにかかわらず、60年代のMITに直接論文を請求し、「それを知る由もないMITの言語学科では、いつもすぐに Dr.Harada あてに謄写版の論文をおくってくるのであった。」といふ、逸話が有る、原田信一のやうな人物が、受験勉強の際に、
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語)。
に接してゐたとしたら、その、天才である彼が、
① (誰)毀(誰)誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(論語)。
いふ「漢文」が、
① 誰毀誰誉=
② (誰)毀(誰)誉 ⇒
③ (誰)毀(誰)誉 =
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)=
⑤ 誰かを誉め、その誰か以外を誉めないのであれば、その誰かとは、誰か。
といふ「排他的命題」であるといふことに、気付いた。としても、不思議ではない。
従って、
(44)
1960年代の終わりに彗星の如く日本の言語学界に現われた、天才言語学者によって、MITの
チョムスキーにも、
① (誰)毀(誰)誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)。
といふ、「古代漢語に於けるWH移動(wh-movement in archaic Chinese)」が知られることになり、古代漢語の場合は、上古の語順は後漢時代すでに変化して現代語式なっていたことがわかる(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁)。
といふこととと、相俟って、
① 誰毀誰誉=
④ 誰をか毀り、誰をか誉めむ(反語)=
⑤ 誰かを誉め、その誰か以外を誉めないのであれば、その誰かとは、誰か。
といふ「排他的命題」は、あるいは、一躍有名になってゐた。かも、知れない。
然るに、
(45)
その頃から既に、
最近では倉石武四郎(くらいし・たけしろう)博士(1897-1975)が、中国語の音読を強硬に主張されました。昭和16年に出版された『支那語教育の理論と実際』(岩波書店)は、まさに信念の書です。― 中略、― 倉石博士の影響力はすさまじく、現在ではほとんどの大学において、漢文の講座で中国語(普通話)の音読を用いています(漢文の中国語音読の主張3(倉石武四郎博士) 日本漢文の世界 kambun.jp)。
といふことによって、「漢文訓読」は、アカデミズムとしては、人気の下降に歯止めが訊かず、それ故、
中国文学科に変身した新学科には、訓読を軽視し、否定する教授もいらっしゃる(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、38頁)。といふことに、なってゐる。次第である。
といふ風に、独学の徒は、思ってゐる。
平成26年02月22日、毛利太。
2014年2月22日土曜日
2014年2月11日火曜日
A&B⊂C=学而優則仕。
(01)
而=&(連言)
則=⊃(含意)
A=学
B=優
C=仕
従って、
(01)により、
(02)
① 学而優則仕=
② A&B⊃C。
従って、
(03)
① 学而優則仕。
といふ「論語」の一句は、
② A&B⊃C=AであってBならばC。
といふことである。
然るに、
(04)
② AであってBならばC。
といふ「構文(シンタックス)」は、「これ以上簡単なそれが無い」くらひ、「簡単」である。
従って、
(02)(04)により、
(05)
① 学而優則仕=
② 学&優⊃仕=学びて優なれば則ち仕ふ。。
といふ「漢文」は、「これ以上簡単なそれが無い」くらひ、「簡単」である。
然るに、
(06)
学部の2年生でこの学習会に参加していた者たち二三人が、あるとき連れ立ってわたしの所に来、「学而優則仕」と書いた紙切れを示して、これはどういう意味ですか、とたずねた(牛島徳治、中国古典の学び方、1977年、60頁)。
(07)
これは『論語』の中の句で、「学んでゆとりがあったら官吏になる」ということだ、と説明した。それから一週間か十日ぐらいたったある夜、わたしは何か所かわからない箇所があった。あとで、みんなで読み合わせ、突き合わせて解読して行くうち、わたしが「次の一句が全然わからなかった。」というと、そばにいた二三人の学生が一斉に笑い出して、いった。「先生、そこはこの間、先生がぼくたちに教えてくれた”xue er you ze shi”ですよ!」(同じく、60頁)。
従って、
(05)~(07)により、
(08)
① 学而優則仕=
② A&B⊃C=AであってBならばC。
といふ「漢文」は、「極めて簡単」であるにも拘わらず、「漢文訓読」の知識に依らない限り、「中国語の先生」にも読めなかった。
といふ、ことになる。
然るに、
(09)
ノルマン征服以来、イングランドを支配したのはフランス語話者たちで、イングランドの公用語もフランス語となった(唐澤一友、英語のルーツ、2011年、21頁)。
古英語を見て古い英語だと分かるかどうかも怪しい。英語はこの1000年間でそれだけ大きく性質を変化させてきたのである(唐澤一友、英語のルーツ、2011年、15頁)。
(10)
「フランス語で、古英語が読めない」のは当然であるが、「古英語を見て古い英語だと分かるかどうかも怪しい」のであれば、固より、古英語は、英語であるとさへ、言へない。
然るに、
(11)
オカダ 氏に依れば、北京語が徹底的なアルタイ語化を被ったために、中国語系統の中でも特殊な位置を占めるものとなった。アルタイ語化過程は一七世紀から満州族が中国を侵略して、首都の北京を中心に全国土を支配するようになった時から始まった。二百年以上を経て、アルタイ系統の中のツングース系に属している満州語が北京の話し言葉をはじめ北方中国の方言に非常に強い影響を及ぼした結果、北京語がもはや中国語系統に属せず、アルタイ語系統の一言語とみなさなければならないと強調する(webサイト、二十一世紀の漢文、ジャン-ノエル ロベール)。
従って、
(09)~(11)により、
(12)
「漢文(漢語)」が、「中華人民共和国語(アルタイ語)」で読めない。といふことは、
「古英語(ゲルマン語)」が、「フランス語(ロマンス語)」で読めないことに、相当する。
然るに、
(13)
今は昔、竹取の翁といふ者ありけり≒
今は昔、竹取の翁という者がいた。
といふことは、小学生にも、分るはずである。
従って、
(14)
「日本語の古文」と、「現代日本語」は、繋がってゐる一方で、
「漢文(漢語)」と、「中華人民共和国語(アルタイ語)」は、繋がってゐない。
従って、
(15)
現代中国語(中華人民共和国語)がしゃべれないような人は本当は漢文は読めないんです
...
といふ言ひ方は、
縁木求魚(木に縁りて魚を求む)。
といふことに、等しい。
(16)
じつは日本の、ご存じだと思いますが、荻生徂徠という、悪くいえばけったいなというか、よくいえば非常にすばらしい学者が江戸時代にいたんです。この人は江戸が鎖国時代であるにもかかわらず中国語ができた。
然るに、
(17)
荻生徂徠にしても、
「中国語(?)」⇒「漢文」
の「順番」ではなく、
「漢文」⇒「中国語(?)」
の「順番」で、学んだ。はずである。
そのため、
(18)
荻生徂徠にしても、「中国語(?)」が出来たが故に、その結果として、「漢文」も出来た。とは、思へない。
それ故、
(19)
中国文学科に変身した新学科には、訓読を軽視し、否定する教授もいらっしゃる(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、38頁)。
といふことは、出来れば、無くなって、もらいたい。
ものの、私の漢文は、受験の際のそれを除くと、全くの独学です。
それ故、
(20)
現代中国語(中華人民共和国語)がしゃべれないような人は本当は漢文は読めないんです
...
といふ言ひ方は、
縁木求魚(木に縁りて魚を求む)。
といふことに、等しい。
と、書くにあたって、気兼ねをしなければならない先生は、私にはゐません。
平成26年02月11日、毛利太。
而=&(連言)
則=⊃(含意)
A=学
B=優
C=仕
従って、
(01)により、
(02)
① 学而優則仕=
② A&B⊃C。
従って、
(03)
① 学而優則仕。
といふ「論語」の一句は、
② A&B⊃C=AであってBならばC。
といふことである。
然るに、
(04)
② AであってBならばC。
といふ「構文(シンタックス)」は、「これ以上簡単なそれが無い」くらひ、「簡単」である。
従って、
(02)(04)により、
(05)
① 学而優則仕=
② 学&優⊃仕=学びて優なれば則ち仕ふ。。
といふ「漢文」は、「これ以上簡単なそれが無い」くらひ、「簡単」である。
然るに、
(06)
学部の2年生でこの学習会に参加していた者たち二三人が、あるとき連れ立ってわたしの所に来、「学而優則仕」と書いた紙切れを示して、これはどういう意味ですか、とたずねた(牛島徳治、中国古典の学び方、1977年、60頁)。
(07)
これは『論語』の中の句で、「学んでゆとりがあったら官吏になる」ということだ、と説明した。それから一週間か十日ぐらいたったある夜、わたしは何か所かわからない箇所があった。あとで、みんなで読み合わせ、突き合わせて解読して行くうち、わたしが「次の一句が全然わからなかった。」というと、そばにいた二三人の学生が一斉に笑い出して、いった。「先生、そこはこの間、先生がぼくたちに教えてくれた”xue er you ze shi”ですよ!」(同じく、60頁)。
従って、
(05)~(07)により、
(08)
① 学而優則仕=
② A&B⊃C=AであってBならばC。
といふ「漢文」は、「極めて簡単」であるにも拘わらず、「漢文訓読」の知識に依らない限り、「中国語の先生」にも読めなかった。
といふ、ことになる。
然るに、
(09)
ノルマン征服以来、イングランドを支配したのはフランス語話者たちで、イングランドの公用語もフランス語となった(唐澤一友、英語のルーツ、2011年、21頁)。
古英語を見て古い英語だと分かるかどうかも怪しい。英語はこの1000年間でそれだけ大きく性質を変化させてきたのである(唐澤一友、英語のルーツ、2011年、15頁)。
(10)
「フランス語で、古英語が読めない」のは当然であるが、「古英語を見て古い英語だと分かるかどうかも怪しい」のであれば、固より、古英語は、英語であるとさへ、言へない。
然るに、
(11)
オカダ 氏に依れば、北京語が徹底的なアルタイ語化を被ったために、中国語系統の中でも特殊な位置を占めるものとなった。アルタイ語化過程は一七世紀から満州族が中国を侵略して、首都の北京を中心に全国土を支配するようになった時から始まった。二百年以上を経て、アルタイ系統の中のツングース系に属している満州語が北京の話し言葉をはじめ北方中国の方言に非常に強い影響を及ぼした結果、北京語がもはや中国語系統に属せず、アルタイ語系統の一言語とみなさなければならないと強調する(webサイト、二十一世紀の漢文、ジャン-ノエル ロベール)。
従って、
(09)~(11)により、
(12)
「漢文(漢語)」が、「中華人民共和国語(アルタイ語)」で読めない。といふことは、
「古英語(ゲルマン語)」が、「フランス語(ロマンス語)」で読めないことに、相当する。
然るに、
(13)
今は昔、竹取の翁といふ者ありけり≒
今は昔、竹取の翁という者がいた。
といふことは、小学生にも、分るはずである。
従って、
(14)
「日本語の古文」と、「現代日本語」は、繋がってゐる一方で、
「漢文(漢語)」と、「中華人民共和国語(アルタイ語)」は、繋がってゐない。
従って、
(15)
現代中国語(中華人民共和国語)がしゃべれないような人は本当は漢文は読めないんです
...
といふ言ひ方は、
縁木求魚(木に縁りて魚を求む)。
といふことに、等しい。
(16)
じつは日本の、ご存じだと思いますが、荻生徂徠という、悪くいえばけったいなというか、よくいえば非常にすばらしい学者が江戸時代にいたんです。この人は江戸が鎖国時代であるにもかかわらず中国語ができた。
然るに、
(17)
荻生徂徠にしても、
「中国語(?)」⇒「漢文」
の「順番」ではなく、
「漢文」⇒「中国語(?)」
の「順番」で、学んだ。はずである。
そのため、
(18)
荻生徂徠にしても、「中国語(?)」が出来たが故に、その結果として、「漢文」も出来た。とは、思へない。
それ故、
(19)
中国文学科に変身した新学科には、訓読を軽視し、否定する教授もいらっしゃる(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、38頁)。
といふことは、出来れば、無くなって、もらいたい。
ものの、私の漢文は、受験の際のそれを除くと、全くの独学です。
それ故、
(20)
現代中国語(中華人民共和国語)がしゃべれないような人は本当は漢文は読めないんです
...
といふ言ひ方は、
縁木求魚(木に縁りて魚を求む)。
といふことに、等しい。
と、書くにあたって、気兼ねをしなければならない先生は、私にはゐません。
平成26年02月11日、毛利太。
2014年2月4日火曜日
漢文・括弧・論理(其の参)。
「仮定」により、
(01)
PならばQである。
「仮定」により、
(02)
Pであって、Qでない。
従って、
「連言除去(02)」により、
(03)
Pである。
従って、
「連言導入(01)(03)」により、
(04)
PならばQであって、Pである。
従って、
「前件肯定(04)」により、
(05)
Qである。
然るに、
「連言除去(02)」により、
(06)
Qでない。
従って、
「連言導入(05)(06)」により、
(07)
Qである。のに、Qでない。
従って、
「背理法(02)(07)」により、
(08)
「Pであって、Qでない。」ではない。
従って、
「条件法(01)(08)」により、
(09)
「PならばQである。」ならば、
「Pであって、Qでない。」ではない。
「仮定」により、
(10)
「Pであって、Qでない。」ではない。
「仮定」により、
(11)
Pである。
「仮定」により、
(12)
Qでない。
従って、
「連言導入(11)(12)」により、
(13)
Pであって、Qでない。
従って、
「連言導入(10)(13)」により、
(14)
「Pであって、Qでない。」ではないのに、
「Pであって、Qでない。」。
従って、
「背理法(12)(14)」により、
(15)
「Qでない。」ではない。
従って、
「二重否定(15)」により、
(16)
Qである。
従って、
「条件法(11)(16)」により、
(17)
PならばQである。
従って、
「条件法(10)(17)」により、
(18)
『「Pであって、Qでない。」ではない。』ならば、
「PならばQである。」
従って、
「等値の定義(09)(18)」により、
(19)
『「Pであって、Qでない。」ではない。』と、
「PならばQである。」は、
「論理的」に、等しい。
従って、
(19)により、
(20)
『「Pであって、Qである。」ではない。』と、
「PならばQでない。」は、
「論理的」に、等しい。
従って、
(21)
日本語の順で、「記号」で書くと、
(P∧Q)¬=P⊃Q¬
従って、
(22)
論理学の順で、「記号」で書くと、
¬(P∧Q)=P⊃¬Q
従って、
(23)
漢文で書くと、
不(P而Q)=如P則不Q
であるものの、
如は、省略できるため、
不(P而Q)=P則不Q
然るに、
(23)
「論理」自体は、「普遍的」であるため、
¬(P∧Q)=P⊃¬Q
といふ「等式」と、
不(P而Q)=P則不Q
といふ「等式」とは、「完全に、等しい」。
従って、
(23)
P=捨(義)=義を捨てる。
Q=取(命)=命を取る。
を「代入」すると、
不〔捨(義)而取(命)〕=捨(義)則不〔取(命)〕。
といふ「等式」は、「論理的」に正しい。
然るに、
(25)
日本語と漢文に於いて、「語順」は異なってゐても、「論理」は、日本語であっても、漢文であっても、共通である。
従って、
(25)により、
(26)
『「返り点」に対する「括弧」の用法』により、
① 不〔捨(義)而取(命)〕⇒〔(義を)捨て(命を)取ら〕ず。
② 捨(義)則不〔取(命)〕⇒(義を)捨てなば則ち〔(命を)取ら〕ず。
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、「論理的」に正しい。
(27)
「義を捨てて命を取らず。」
では、分かりにくいのあれば、
『「義を捨てて命を取る」といふことは無い。』
で以て、考へて欲しい。
(28)
それでも分かりにくいのであれば、
『「義を捨てて迄、命を取る」といふことは無い。』
で以て、考へて欲しい。
(29)
『「義を捨てて迄、命を取る」といふことは無い。』
といふことは、
『「義を捨てる」くらいならば、「命を捨てる」。』
といふ、ことである。
然るに、
(30)
『「義を捨てて迄、命を取る」といふことは無い。』
といふことと、
『「義を捨てる」くらいならば、「命を捨てる」。』
といふことが等しい。といふことは、
① 不〔捨(義)而取(命)〕⇒〔(義を)捨て(命を)取ら〕ず。
② 捨(義)則不〔取(命)〕⇒(義を)捨てなば則ち〔(命を)取ら〕ず。
に於いて、
①=② である。
といふことに、他ならない。
従って、
(31)
① 不〔捨(義)而取(命)〕。
② 捨(義)則不〔取(命)〕。
に於いて、
①=② である。
といふことに、他ならない。
従って、
(30)(31)により、
(32)
① 不捨義而取命=義を捨て命を取らず。
② 捨義則不取命=義を捨てなば則ち命を取らず。
といふ「漢文訓読」に於いて、
①=② である。ならば、
① 不捨義而取命。
② 捨義則不取命。
といふ漢文は、その実、
① 不〔捨(義)而取(命)〕。
② 捨(義)則不〔取(命)〕。
といふ形をしてゐる。と、すべきである。
Q.E.D.
平成26年02月04日、毛利太。
(01)
PならばQである。
「仮定」により、
(02)
Pであって、Qでない。
従って、
「連言除去(02)」により、
(03)
Pである。
従って、
「連言導入(01)(03)」により、
(04)
PならばQであって、Pである。
従って、
「前件肯定(04)」により、
(05)
Qである。
然るに、
「連言除去(02)」により、
(06)
Qでない。
従って、
「連言導入(05)(06)」により、
(07)
Qである。のに、Qでない。
従って、
「背理法(02)(07)」により、
(08)
「Pであって、Qでない。」ではない。
従って、
「条件法(01)(08)」により、
(09)
「PならばQである。」ならば、
「Pであって、Qでない。」ではない。
「仮定」により、
(10)
「Pであって、Qでない。」ではない。
「仮定」により、
(11)
Pである。
「仮定」により、
(12)
Qでない。
従って、
「連言導入(11)(12)」により、
(13)
Pであって、Qでない。
従って、
「連言導入(10)(13)」により、
(14)
「Pであって、Qでない。」ではないのに、
「Pであって、Qでない。」。
従って、
「背理法(12)(14)」により、
(15)
「Qでない。」ではない。
従って、
「二重否定(15)」により、
(16)
Qである。
従って、
「条件法(11)(16)」により、
(17)
PならばQである。
従って、
「条件法(10)(17)」により、
(18)
『「Pであって、Qでない。」ではない。』ならば、
「PならばQである。」
従って、
「等値の定義(09)(18)」により、
(19)
『「Pであって、Qでない。」ではない。』と、
「PならばQである。」は、
「論理的」に、等しい。
従って、
(19)により、
(20)
『「Pであって、Qである。」ではない。』と、
「PならばQでない。」は、
「論理的」に、等しい。
従って、
(21)
日本語の順で、「記号」で書くと、
(P∧Q)¬=P⊃Q¬
従って、
(22)
論理学の順で、「記号」で書くと、
¬(P∧Q)=P⊃¬Q
従って、
(23)
漢文で書くと、
不(P而Q)=如P則不Q
であるものの、
如は、省略できるため、
不(P而Q)=P則不Q
然るに、
(23)
「論理」自体は、「普遍的」であるため、
¬(P∧Q)=P⊃¬Q
といふ「等式」と、
不(P而Q)=P則不Q
といふ「等式」とは、「完全に、等しい」。
従って、
(23)
P=捨(義)=義を捨てる。
Q=取(命)=命を取る。
を「代入」すると、
不〔捨(義)而取(命)〕=捨(義)則不〔取(命)〕。
といふ「等式」は、「論理的」に正しい。
然るに、
(25)
日本語と漢文に於いて、「語順」は異なってゐても、「論理」は、日本語であっても、漢文であっても、共通である。
従って、
(25)により、
(26)
『「返り点」に対する「括弧」の用法』により、
① 不〔捨(義)而取(命)〕⇒〔(義を)捨て(命を)取ら〕ず。
② 捨(義)則不〔取(命)〕⇒(義を)捨てなば則ち〔(命を)取ら〕ず。
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、「論理的」に正しい。
(27)
「義を捨てて命を取らず。」
では、分かりにくいのあれば、
『「義を捨てて命を取る」といふことは無い。』
で以て、考へて欲しい。
(28)
それでも分かりにくいのであれば、
『「義を捨てて迄、命を取る」といふことは無い。』
で以て、考へて欲しい。
(29)
『「義を捨てて迄、命を取る」といふことは無い。』
といふことは、
『「義を捨てる」くらいならば、「命を捨てる」。』
といふ、ことである。
然るに、
(30)
『「義を捨てて迄、命を取る」といふことは無い。』
といふことと、
『「義を捨てる」くらいならば、「命を捨てる」。』
といふことが等しい。といふことは、
① 不〔捨(義)而取(命)〕⇒〔(義を)捨て(命を)取ら〕ず。
② 捨(義)則不〔取(命)〕⇒(義を)捨てなば則ち〔(命を)取ら〕ず。
に於いて、
①=② である。
といふことに、他ならない。
従って、
(31)
① 不〔捨(義)而取(命)〕。
② 捨(義)則不〔取(命)〕。
に於いて、
①=② である。
といふことに、他ならない。
従って、
(30)(31)により、
(32)
① 不捨義而取命=義を捨て命を取らず。
② 捨義則不取命=義を捨てなば則ち命を取らず。
といふ「漢文訓読」に於いて、
①=② である。ならば、
① 不捨義而取命。
② 捨義則不取命。
といふ漢文は、その実、
① 不〔捨(義)而取(命)〕。
② 捨(義)則不〔取(命)〕。
といふ形をしてゐる。と、すべきである。
Q.E.D.
平成26年02月04日、毛利太。
2014年2月3日月曜日
漢文・括弧・論理(其の弐)。
「2013/05/12」の記事を、書き換へます。
(01)
① 捨義而取命。
② 義不捨而取命。
③ 不捨義而取命。
に於いて、
①と、②の「訓読」は、
① 義を捨てて命を取る。
② 義は捨てずして命を取る。
然るに、
(02)
これに対して、
③ 不捨義而取命。
の「訓読」は、
④ 不〔捨(義)〕而取(命)⇒
④ 〔(義)捨〕不而(命)取=
④ 義を捨てずして、命を取る。
だけでなく、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕⇒
⑤ 〔(義)捨而(命)取〕不。
⑤ 義を捨てて命を取らず。
といふ「訓読」も、可能である。
然るに、
(01)(02)により、
(03)
③ 不捨義而取命=
④ 義を捨てずして、命を取る。
の場合は、
② 義不捨而取命=
② 義は捨てずして、命を取る。
に等しい。
従って、
(04)
③ 不捨義而取命=
④ 義を捨てずして、命を取る。
であるならば、初めから、
② 義不捨而取命=
② 義は捨てずして、命を取る。
といふ風に、書けば良い。はずである。
従って、
(02)(04)により、
(05)
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」は、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕⇒
⑤ 〔(義)捨而(命)取〕不。
⑤ 義を捨てて命を取らず。
である。とする。
然るに、
(06)
⑤ 義を捨てて命を取らず。
といふ日本語は、普通は、
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない=
⑤ 義を捨てるくらいならば、命は要らない。
といふ、意味である。
従って、
(07)
余談であるが、
「永遠の0」の主人公は、最初は、
④ 義は捨てずして、命を取る。
であって、最後は、
⑤ 義を捨てて命を取らず。
であった。といふ風に、言へないことも、ない。
然るに、
(08)
不=¬(否定)
而=∧(連語)
∨=∨(選言)
⊃=⊃(含意)
P=義を捨てる。
Q=命を取る。
従って、
(08)により、
(09)
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕=
⑤ ¬(P∧Q)
然るに、
(10)
「ド・モルガンの法則」により、
⑤ ¬(P∧Q)=
⑤ ¬P∨¬Q
加へて、
(11)
「含意の定義」により、
⑤ P⊃¬Q
従って、
(08)(11)により、
(12)
⑤ P⊃¬Q=
⑤ 義を捨てる⊃¬命を取る=
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない。
然るに、
(13)
⑥ 如捨義則不取命=
⑥ 如し義を捨てなば則ち命を取ら不=
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない。
従って、
(05)(06)(08)~(13)により、
(14)
③ 不捨義而取命=
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕=
⑤ 義を捨てて命を取らず=
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない。
⑥ 如捨義則不取命=
⑥ 如し義を捨てなば則ち命を取ら不。
従って、
(14)により、
(15)
日本語に於いて、
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない(口語)=
⑥ もし義を捨てなば則ち命を取らず(文語)。
といふ「等式」が成り立つ以上、
③ 不捨義而取命=
⑥ 如捨義則不取命=
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「等式」が成り立つ。ことになる。
従って、
(08)~(15)により、
(16)
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」は、「論理学的」には、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」をしてゐる。ことになる。
従って、
(16)により、
(17)
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」を、
⑤ 義を捨てて命を取らず。
といふ風に「訓読」する。といふことは、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」である所の「漢文」を、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」の通りに、読んでゐる。といふことに、なる。
従って、
(17)により、
(18)
⑤ 二 レ 一レ
といふ「返り点」を加へる。ことによって、
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」を、
⑤ 義を捨てて命を取らず。
と「訓読」する。といふことは、
⑤ 不〔捨(正義)而取(我命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」に対して、
⑤ 二 レ 一レ
といふ「返り点」を加へてゐる。といふ、ことになる。
従って、
(19)
③ 不捨正義而取我命。
であれば、
⑤ 不〔捨(正義)而取(我命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」に対して、
⑤ 下 二 一 中 上
といふ「返り点」を加へてゐる。といふ、ことになる。
平成26年02月03日、毛利太。
(01)
① 捨義而取命。
② 義不捨而取命。
③ 不捨義而取命。
に於いて、
①と、②の「訓読」は、
① 義を捨てて命を取る。
② 義は捨てずして命を取る。
然るに、
(02)
これに対して、
③ 不捨義而取命。
の「訓読」は、
④ 不〔捨(義)〕而取(命)⇒
④ 〔(義)捨〕不而(命)取=
④ 義を捨てずして、命を取る。
だけでなく、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕⇒
⑤ 〔(義)捨而(命)取〕不。
⑤ 義を捨てて命を取らず。
といふ「訓読」も、可能である。
然るに、
(01)(02)により、
(03)
③ 不捨義而取命=
④ 義を捨てずして、命を取る。
の場合は、
② 義不捨而取命=
② 義は捨てずして、命を取る。
に等しい。
従って、
(04)
③ 不捨義而取命=
④ 義を捨てずして、命を取る。
であるならば、初めから、
② 義不捨而取命=
② 義は捨てずして、命を取る。
といふ風に、書けば良い。はずである。
従って、
(02)(04)により、
(05)
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」は、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕⇒
⑤ 〔(義)捨而(命)取〕不。
⑤ 義を捨てて命を取らず。
である。とする。
然るに、
(06)
⑤ 義を捨てて命を取らず。
といふ日本語は、普通は、
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない=
⑤ 義を捨てるくらいならば、命は要らない。
といふ、意味である。
従って、
(07)
余談であるが、
「永遠の0」の主人公は、最初は、
④ 義は捨てずして、命を取る。
であって、最後は、
⑤ 義を捨てて命を取らず。
であった。といふ風に、言へないことも、ない。
然るに、
(08)
不=¬(否定)
而=∧(連語)
∨=∨(選言)
⊃=⊃(含意)
P=義を捨てる。
Q=命を取る。
従って、
(08)により、
(09)
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕=
⑤ ¬(P∧Q)
然るに、
(10)
「ド・モルガンの法則」により、
⑤ ¬(P∧Q)=
⑤ ¬P∨¬Q
加へて、
(11)
「含意の定義」により、
⑤ P⊃¬Q
従って、
(08)(11)により、
(12)
⑤ P⊃¬Q=
⑤ 義を捨てる⊃¬命を取る=
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない。
然るに、
(13)
⑥ 如捨義則不取命=
⑥ 如し義を捨てなば則ち命を取ら不=
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない。
従って、
(05)(06)(08)~(13)により、
(14)
③ 不捨義而取命=
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕=
⑤ 義を捨てて命を取らず=
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない。
⑥ 如捨義則不取命=
⑥ 如し義を捨てなば則ち命を取ら不。
従って、
(14)により、
(15)
日本語に於いて、
⑤ 義を捨てるならば、命を取らない(口語)=
⑥ もし義を捨てなば則ち命を取らず(文語)。
といふ「等式」が成り立つ以上、
③ 不捨義而取命=
⑥ 如捨義則不取命=
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「等式」が成り立つ。ことになる。
従って、
(08)~(15)により、
(16)
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」は、「論理学的」には、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」をしてゐる。ことになる。
従って、
(16)により、
(17)
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」を、
⑤ 義を捨てて命を取らず。
といふ風に「訓読」する。といふことは、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」である所の「漢文」を、
⑤ 不〔捨(義)而取(命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」の通りに、読んでゐる。といふことに、なる。
従って、
(17)により、
(18)
⑤ 二 レ 一レ
といふ「返り点」を加へる。ことによって、
③ 不捨義而取命。
といふ「漢文」を、
⑤ 義を捨てて命を取らず。
と「訓読」する。といふことは、
⑤ 不〔捨(正義)而取(我命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」に対して、
⑤ 二 レ 一レ
といふ「返り点」を加へてゐる。といふ、ことになる。
従って、
(19)
③ 不捨正義而取我命。
であれば、
⑤ 不〔捨(正義)而取(我命)〕。
といふ「構造(シンタックス)」に対して、
⑤ 下 二 一 中 上
といふ「返り点」を加へてゐる。といふ、ことになる。
平成26年02月03日、毛利太。
2014年1月22日水曜日
矣・焉について、
(01)
「貴方と私は一心同体である。」
とすることは、物理的には、不可能である。
然るに、
(02)
「私と貴方は一心一体である。」
とすることは、心理的には、可能である。
従って、
(03)
君主=人民
とすることは、心理的には、可能である。
従って、
(04)
文公=宋の人民
とすることは、心理的には、可能である。
従って、
(05)
文公自身が、
文公=宋の人民
と思ふことは、可能である。
従って、
(06)
人民 に既に起こったことは、
自分 にも起こってゐる。
と、文公が思ふことは、可能である。
然るに、
(07)
例へば、日本語の古文では、
[たり・り]
① 完了
日没し・たり=日が沈んだ。
火は既に我が家に移れ・り=火は既にわが家に移ってしまった。
② 存続
白う咲き・たるは夕顔なるべし=白く咲いてゐるのは夕顔であらう。
雪いと白う降れ・り=雪がたいそう白く降り積もってゐる。
接続
「たり」は、活用語の連用形に付く。
「り」は、四段動詞の已然形(命令形)とサ変動詞の未然形に付く。
e.g.
曰、聖人在乎=曰く、聖人在りや。
公曰、已死矣=公曰く、已に死せ(サ変動詞、未然形)り(完了)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
人民 に既に起こったこと(完了)は、
自分 にも起こってゐる(存続)。
と、文公が思ふことは、可能である。
然るに、
(09)
② 白う咲き・たり(存続)=白く咲いてゐる。
は、「進行形」とすることが、可能である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
人民 に既に起こったこと(完了)は、
自分 にも起こってゐる(進行形)。
と、文公が思ふことは、可能である。
然るに、
(11)
焉には継続・進行を表わす作用がある。これは矣が完了を表わすのと対照的である(布施郁三、中国古典に於ける矣・焉の解釈、第二版、昭和57年、13頁)。
cf.
完了形と進行形は意味的に対立するように考えられるが、いずれも基本的には基準時点での状態を表現するものだから、必ずしも対立するわけではない(例:英語の完了進行形、日本語の「ている」)。:完了形(Wikipedia).
然るに、
(12)
〔仮定〕
[例]民既利矣、孤必与焉。
[読み]民既に利あらば、孤必ず与からん。
[訳]人民に利益があるなら、(君主である)私もきっと利益を受けるだろう。
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、18ページ)
然るに、
(10)(11)により、
(13)
矣=完了、焉=進行形。
であるため、
民既利矣、孤必与焉。
は、
民既に利あれ(已然形)ば、孤必ず与かれ・り(進行形)=
民に既に利益が有るので、私も、必然的にその利益を得てゐる。
と、すべきである。
従って、
(12)(13)により、
(14)
民既に利あら(未然形)ば、孤必ず与から・む(推量)。
は、誤りである。と、思はれる。ものの、今はまだ、
「本文(春秋左氏伝・文公十三年)」を、読んではゐない。
加へて、
(15)
更に言ふと、
まず、「焉」であるが、一番カッコヨクいいきる感じで、大阪弁でいえば、「テナモンヤ」と意気高揚した感じである。私は関西人であるので、大阪弁以外の方言はよくわからない。各地に、こういう高揚したときのいいかたがあるに違いない。自分でそういう語に翻訳して考えてほしい。「矣」は「焉」と違って、キッとなっていいきる感じである(二畳庵主人、漢文法基礎、昭和59年、新版、157頁)。
といふ説明は、
民既利矣、孤必与焉。
の解釈には、役に立たない。と、思はれる。
平成26年01月22日、毛利太。
(16)
漢文と雖も、もし文脈が新たになってテンスを表わす必要があれば、必ずこれをする。「今生矣」「荘公通焉」の如くである(中国古典に於ける矣・焉の解釈、第二版、昭和57年、14頁)。
(17)
矣という文字は、已と矢の合字で、矢を射て、それが一点に至って止るという意味を表わすとされている。これが文章の中で用いられたのを見ると三つの意味を持つようである(中国古典に於ける矣・焉の解釈、第二版、
昭和57年、13頁)。
(一) 或る運動の結末=完了を表わす。
(二) 或る判断の結末=断定を表わす。
(三) 意欲の結末=決意を表す。
(18)
漢字は、どの字も本義から多くの派生を有している。そのうえに同音または近似音による通仮がしきりに行われているが、概して本義と転義の同形同音で示されている(中沢希男、同訓異字辞典、1980年、10頁)。
従って、
(13)、(15)~(16)により、
(19)
民既利矣
の、矣 は、「完了」を表はし、本義に近く、
「キッとなっていいきる感じ」
の、矣 は、「確信・決意」を表はす、転義である。と、思はれる。
(20)
「三省堂、明解古典学習シリーズ16 論語 孟子、昭和48年、71頁」の場合は、
不幸短命死矣。
不幸短命にして死せり。
不幸にも短命で死んでしまった。
に対して、
* 矣 完了の助字。「~てしてしまった」
といふ説明が、されてゐる。
(21)
「仁田峠公人、センター試験対策 漢文キーワード200、平成17年、207頁」の場合は、
矣(置き字)かな (文末に置かれ、断定の意などを添える)
― だなあ。 ― なことよ。
といふ説明しか、してゐない。
(22)
英語であれば、
現在完了、過去完了、未来完了。
現在進行形、過去進行形、未来進行形。
の別が有ることからも判るやうに、
矣=完了。
焉=進行形。
であっても、
「意識」の上で、
現在、括弧、未来。
の別が有っても、良いはず、である。
平成26年01月25日、毛利太。
「貴方と私は一心同体である。」
とすることは、物理的には、不可能である。
然るに、
(02)
「私と貴方は一心一体である。」
とすることは、心理的には、可能である。
従って、
(03)
君主=人民
とすることは、心理的には、可能である。
従って、
(04)
文公=宋の人民
とすることは、心理的には、可能である。
従って、
(05)
文公自身が、
文公=宋の人民
と思ふことは、可能である。
従って、
(06)
人民 に既に起こったことは、
自分 にも起こってゐる。
と、文公が思ふことは、可能である。
然るに、
(07)
例へば、日本語の古文では、
[たり・り]
① 完了
日没し・たり=日が沈んだ。
火は既に我が家に移れ・り=火は既にわが家に移ってしまった。
② 存続
白う咲き・たるは夕顔なるべし=白く咲いてゐるのは夕顔であらう。
雪いと白う降れ・り=雪がたいそう白く降り積もってゐる。
接続
「たり」は、活用語の連用形に付く。
「り」は、四段動詞の已然形(命令形)とサ変動詞の未然形に付く。
e.g.
曰、聖人在乎=曰く、聖人在りや。
公曰、已死矣=公曰く、已に死せ(サ変動詞、未然形)り(完了)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
人民 に既に起こったこと(完了)は、
自分 にも起こってゐる(存続)。
と、文公が思ふことは、可能である。
然るに、
(09)
② 白う咲き・たり(存続)=白く咲いてゐる。
は、「進行形」とすることが、可能である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
人民 に既に起こったこと(完了)は、
自分 にも起こってゐる(進行形)。
と、文公が思ふことは、可能である。
然るに、
(11)
焉には継続・進行を表わす作用がある。これは矣が完了を表わすのと対照的である(布施郁三、中国古典に於ける矣・焉の解釈、第二版、昭和57年、13頁)。
cf.
完了形と進行形は意味的に対立するように考えられるが、いずれも基本的には基準時点での状態を表現するものだから、必ずしも対立するわけではない(例:英語の完了進行形、日本語の「ている」)。:完了形(Wikipedia).
然るに、
(12)
〔仮定〕
[例]民既利矣、孤必与焉。
[読み]民既に利あらば、孤必ず与からん。
[訳]人民に利益があるなら、(君主である)私もきっと利益を受けるだろう。
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、18ページ)
然るに、
(10)(11)により、
(13)
矣=完了、焉=進行形。
であるため、
民既利矣、孤必与焉。
は、
民既に利あれ(已然形)ば、孤必ず与かれ・り(進行形)=
民に既に利益が有るので、私も、必然的にその利益を得てゐる。
と、すべきである。
従って、
(12)(13)により、
(14)
民既に利あら(未然形)ば、孤必ず与から・む(推量)。
は、誤りである。と、思はれる。ものの、今はまだ、
「本文(春秋左氏伝・文公十三年)」を、読んではゐない。
加へて、
(15)
更に言ふと、
まず、「焉」であるが、一番カッコヨクいいきる感じで、大阪弁でいえば、「テナモンヤ」と意気高揚した感じである。私は関西人であるので、大阪弁以外の方言はよくわからない。各地に、こういう高揚したときのいいかたがあるに違いない。自分でそういう語に翻訳して考えてほしい。「矣」は「焉」と違って、キッとなっていいきる感じである(二畳庵主人、漢文法基礎、昭和59年、新版、157頁)。
といふ説明は、
民既利矣、孤必与焉。
の解釈には、役に立たない。と、思はれる。
平成26年01月22日、毛利太。
(16)
漢文と雖も、もし文脈が新たになってテンスを表わす必要があれば、必ずこれをする。「今生矣」「荘公通焉」の如くである(中国古典に於ける矣・焉の解釈、第二版、昭和57年、14頁)。
(17)
矣という文字は、已と矢の合字で、矢を射て、それが一点に至って止るという意味を表わすとされている。これが文章の中で用いられたのを見ると三つの意味を持つようである(中国古典に於ける矣・焉の解釈、第二版、
昭和57年、13頁)。
(一) 或る運動の結末=完了を表わす。
(二) 或る判断の結末=断定を表わす。
(三) 意欲の結末=決意を表す。
(18)
漢字は、どの字も本義から多くの派生を有している。そのうえに同音または近似音による通仮がしきりに行われているが、概して本義と転義の同形同音で示されている(中沢希男、同訓異字辞典、1980年、10頁)。
従って、
(13)、(15)~(16)により、
(19)
民既利矣
の、矣 は、「完了」を表はし、本義に近く、
「キッとなっていいきる感じ」
の、矣 は、「確信・決意」を表はす、転義である。と、思はれる。
(20)
「三省堂、明解古典学習シリーズ16 論語 孟子、昭和48年、71頁」の場合は、
不幸短命死矣。
不幸短命にして死せり。
不幸にも短命で死んでしまった。
に対して、
* 矣 完了の助字。「~てしてしまった」
といふ説明が、されてゐる。
(21)
「仁田峠公人、センター試験対策 漢文キーワード200、平成17年、207頁」の場合は、
矣(置き字)かな (文末に置かれ、断定の意などを添える)
― だなあ。 ― なことよ。
といふ説明しか、してゐない。
(22)
英語であれば、
現在完了、過去完了、未来完了。
現在進行形、過去進行形、未来進行形。
の別が有ることからも判るやうに、
矣=完了。
焉=進行形。
であっても、
「意識」の上で、
現在、括弧、未来。
の別が有っても、良いはず、である。
平成26年01月25日、毛利太。
2013年12月23日月曜日
「返り点」について、
(01)
このブログは、昨日(12月22日)に書いたFCブログの「記事(返り点について、)」のダイジェストであり、
FCブログの「記事(返り点について、)」は、一昨日(12月21日)迄に書いた、
「ホームページ、(〇一)~(七二)」のダイジェストです。
従って、
(02)
このブロガーは、「ダイジェストの、ダイジェスト」であるため、「厳密」であるよりも、「簡潔」に書くつもりです。
(03)
学校で習ふ「返り点」は、
① レ
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
⑤ 天 地 人
然るに、
(03)
この場合、
⑤ 天 地 人
の「三つ」では足りないため、以下では、
⑤ 天 地 人
を「六つ」に増やし、
① レ
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
⑤ 天 地 人
⑤ 天 地 人間 界 極
とする。
然るに、
(04)
⑮
何不令人謂韓叔曰秦之
敢絶周而伐韓者信東周
也公何不与周地発質使
之楚秦必疑楚不信周是
韓不伐也又謂秦曰韓彊
与周地将以疑周於秦也
周不敢不受。
といふ、65個字の「白文」の「訓読」は、
(05)
⑮ 何ぞ人をして韓の公叔に謂ひて「秦の敢へて周を絶つて韓を伐たんとするは東周を信ずればなり、公何ぞ周に地を与へ、質使を発して楚に之かしめざる、秦必ず楚を疑ひ、周を信ぜざらん、是れ韓伐たれざらん、」と曰ひ、又秦に謂ひて「韓彊ひて周に地を与ふるは、将に以て周を秦に疑はしめんとするなり、周敢へて受けずんばあらず」と曰は令めざる(これならわかる返り点 ― 入門から応用まで ― 古田島洋介、九一頁)。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
⑮ 何不令人謂韓叔曰、秦之敢絶周而伐韓者、信東周也、公何不与周地発質使之楚、秦必疑楚不信周、是韓不伐也、又謂秦曰、韓彊与周地、将以疑周於秦也、周不敢不受。
といふ「漢文」には、
⑮ レ 間 二 一 乙 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 甲レ 人 二 一 三 二 一 地 天レ。
といふ「返り点」が、付くことになる。
然るに、
(07)
① レ
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
⑤ 天 地 人
⑤ 天 地 人間 界 極
から、
① レ
を除いて、
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
⑤ 天 地 人
⑤ 天 地 人間 界 極
とした場合の「返り点」も、「返り点」の「役割」を果たすことが出来、その場合の「返り点」は、
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。
である。
然るに、
(08)
一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(新稲法子:はてなブログ、2013-03-15)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。
といふ「返り点」は、
⑮ 三六 三五 二 一 二三 四 三 六 五 八 七 一五 一〇 九 一二 一一 一四 一三 一七 一六 二〇 一九 一八 二二 二一 二五 二四 三四 二七
二 六 三〇 二九 二八 三三 三二 三一。
といふ「返り点」に、対応する。
然るに、
(10)
⑮ 三六 三五 二 一 二三 四 三 六 五 八 七 一五 一〇 九 一二 一一 一四 一三 一七 一六 二〇 一九 一八 二二 二一 二五 二四 三四 二七 二 六 三〇 二九 二八 三三 三二 三一。
は、「一 ~ 三六」であるため、「36個」。
然るに、
(11)
⑮
極 界 二 一 丙
二 一 二 一 二
一 下 二 一 二
一 中 上 二 一
三 二 一 乙 甲
二 一 間 二 一
三 二 一 人 地 天。
であるため、
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。
も、「36個」である。
然るに、
(12)
複数の要素からなるデータの列を、ある特定の規則に従って並べ替えること。整列とも言う。数値を大きい順(小さい順)で並べ替えたり、文字列を五十音順で並べ替えるのがソートである(e-Words)。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
⑮ 三六 三五 二 一 二三 四 三 六 五 八 七 一五 一〇 九 一二 一一 一四 一三 一七 一六 二〇 一九 一八 二二 二一 二五 二四 三四 二七 二 六 三〇 二九 二八 三三 三二 三一。
といふ「36個の要素」を、
⑮ 一 二 三 四 五 六 七 八 九 一〇 一一 一二 一三 一四 一五 一六 一七 一八 一九 二〇 二一 ニニ 二三 二四 二五 二六 二七 二八 二九 三〇 三一 三二 三三 三四 三五 三六。
といふ「順番」に「並び替へる」ことを、「ソート」とするならば、
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。といふ「36個の要素」を、
⑮ 一 二 一 二 一 二 一 二 一 二 一 二 上 中 下 一 二 一 二 三 甲 乙 丙 一 二 一 二 一 二 三 天 地 人 間 界 極。
といふ「順番」に「並び替へる」ことも、「ソート」である。
然るに、
(14)
⑮
レ 間 二 一 乙
レ レ 二 一 下
二 一 二 一 上レ
レ レ レ 甲レ 人
二 一 三 二 一
地 天レ。
は、「計27個」。
従って、
(04)(10)(11)(14)により、
(15)
⑮ 三六 三五 二 一 二三 四 三 六 五 八 七 一五 一〇 九 一二 一一 一四 一三 一七 一六 二〇 一九 一八 二二 二一 二五 二四 三四 二七 二 六 三〇 二九 二八 三三 三二 三一。
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。
による、「二通りの、返り点」が、
「65個中、36個の要素(漢字)」を「ソート」する際に、
「36個の、返り点」を用ゐている。のに対して、
⑮ レ 間 二 一 乙 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 甲レ 人 二 一 三 二 一 地 天レ。
といふ「返り点」の場合は、
「65個中、36個の要素(漢字)」を「ソート」する際に、
「27個の、返り点」を用ゐている。ことになる。
従って、
(15)により、
(16)
⑮ レ 間 二 一 乙 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 甲レ 人 二 一 三 二 一 地 天レ。
といふ「返り点」が、「ソート」であるならば、
(36-27)個=9個の、
「返り点」が、「不足」する。
然るに、
(17)
例へば、
① 非r不r読r書 =書を読ま不るに非ず: レ レ レ。
といふ「返り点」が、
② 非4不3読2書1=書を読ま不るに非ず: 四 三 二 一。
といふ「返り点」の「略号」であるならば、
であるならば、
① の「返り点」の個数=3
② の「返り点」の個数=4
に於ける、
(3-4)個=-1個。
は、「矛盾」しない。
cf.
米国=2字。
亜米利加合衆国=7字。
に於いて、
(2-7)字=-5字。
は、「矛盾」しない。
従って、
(16)(17)により、
(18)
⑮ レ 間 二 一 乙 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 甲レ 人 二 一 三 二 一 地 天レ。
といふ「返り点」が、
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。
といふ「返り点」の、「略号」であるならば、
(27-36)個=-9個。
は、「矛盾」しない。
従って、
(01)~(18)により、
(19)
① レ点
は、
② 一 二 三 四 五 ・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・
⑤ 天 地 人
に対する、「略号」である。
Q.E.D.
平成25年12月23日、毛利太。
このブログは、昨日(12月22日)に書いたFCブログの「記事(返り点について、)」のダイジェストであり、
FCブログの「記事(返り点について、)」は、一昨日(12月21日)迄に書いた、
「ホームページ、(〇一)~(七二)」のダイジェストです。
従って、
(02)
このブロガーは、「ダイジェストの、ダイジェスト」であるため、「厳密」であるよりも、「簡潔」に書くつもりです。
(03)
学校で習ふ「返り点」は、
① レ
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
⑤ 天 地 人
然るに、
(03)
この場合、
⑤ 天 地 人
の「三つ」では足りないため、以下では、
⑤ 天 地 人
を「六つ」に増やし、
① レ
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
⑤ 天 地 人
⑤ 天 地 人間 界 極
とする。
然るに、
(04)
⑮
何不令人謂韓叔曰秦之
敢絶周而伐韓者信東周
也公何不与周地発質使
之楚秦必疑楚不信周是
韓不伐也又謂秦曰韓彊
与周地将以疑周於秦也
周不敢不受。
といふ、65個字の「白文」の「訓読」は、
(05)
⑮ 何ぞ人をして韓の公叔に謂ひて「秦の敢へて周を絶つて韓を伐たんとするは東周を信ずればなり、公何ぞ周に地を与へ、質使を発して楚に之かしめざる、秦必ず楚を疑ひ、周を信ぜざらん、是れ韓伐たれざらん、」と曰ひ、又秦に謂ひて「韓彊ひて周に地を与ふるは、将に以て周を秦に疑はしめんとするなり、周敢へて受けずんばあらず」と曰は令めざる(これならわかる返り点 ― 入門から応用まで ― 古田島洋介、九一頁)。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
⑮ 何不令人謂韓叔曰、秦之敢絶周而伐韓者、信東周也、公何不与周地発質使之楚、秦必疑楚不信周、是韓不伐也、又謂秦曰、韓彊与周地、将以疑周於秦也、周不敢不受。
といふ「漢文」には、
⑮ レ 間 二 一 乙 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 甲レ 人 二 一 三 二 一 地 天レ。
といふ「返り点」が、付くことになる。
然るに、
(07)
① レ
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
⑤ 天 地 人
⑤ 天 地 人間 界 極
から、
① レ
を除いて、
② 一 二 三 四 五 ・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
⑤ 天 地 人
⑤ 天 地 人間 界 極
とした場合の「返り点」も、「返り点」の「役割」を果たすことが出来、その場合の「返り点」は、
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。
である。
然るに、
(08)
一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(新稲法子:はてなブログ、2013-03-15)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。
といふ「返り点」は、
⑮ 三六 三五 二 一 二三 四 三 六 五 八 七 一五 一〇 九 一二 一一 一四 一三 一七 一六 二〇 一九 一八 二二 二一 二五 二四 三四 二七
二 六 三〇 二九 二八 三三 三二 三一。
といふ「返り点」に、対応する。
然るに、
(10)
⑮ 三六 三五 二 一 二三 四 三 六 五 八 七 一五 一〇 九 一二 一一 一四 一三 一七 一六 二〇 一九 一八 二二 二一 二五 二四 三四 二七 二 六 三〇 二九 二八 三三 三二 三一。
は、「一 ~ 三六」であるため、「36個」。
然るに、
(11)
⑮
極 界 二 一 丙
二 一 二 一 二
一 下 二 一 二
一 中 上 二 一
三 二 一 乙 甲
二 一 間 二 一
三 二 一 人 地 天。
であるため、
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。
も、「36個」である。
然るに、
(12)
複数の要素からなるデータの列を、ある特定の規則に従って並べ替えること。整列とも言う。数値を大きい順(小さい順)で並べ替えたり、文字列を五十音順で並べ替えるのがソートである(e-Words)。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
⑮ 三六 三五 二 一 二三 四 三 六 五 八 七 一五 一〇 九 一二 一一 一四 一三 一七 一六 二〇 一九 一八 二二 二一 二五 二四 三四 二七 二 六 三〇 二九 二八 三三 三二 三一。
といふ「36個の要素」を、
⑮ 一 二 三 四 五 六 七 八 九 一〇 一一 一二 一三 一四 一五 一六 一七 一八 一九 二〇 二一 ニニ 二三 二四 二五 二六 二七 二八 二九 三〇 三一 三二 三三 三四 三五 三六。
といふ「順番」に「並び替へる」ことを、「ソート」とするならば、
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。といふ「36個の要素」を、
⑮ 一 二 一 二 一 二 一 二 一 二 一 二 上 中 下 一 二 一 二 三 甲 乙 丙 一 二 一 二 一 二 三 天 地 人 間 界 極。
といふ「順番」に「並び替へる」ことも、「ソート」である。
然るに、
(14)
⑮
レ 間 二 一 乙
レ レ 二 一 下
二 一 二 一 上レ
レ レ レ 甲レ 人
二 一 三 二 一
地 天レ。
は、「計27個」。
従って、
(04)(10)(11)(14)により、
(15)
⑮ 三六 三五 二 一 二三 四 三 六 五 八 七 一五 一〇 九 一二 一一 一四 一三 一七 一六 二〇 一九 一八 二二 二一 二五 二四 三四 二七 二 六 三〇 二九 二八 三三 三二 三一。
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。
による、「二通りの、返り点」が、
「65個中、36個の要素(漢字)」を「ソート」する際に、
「36個の、返り点」を用ゐている。のに対して、
⑮ レ 間 二 一 乙 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 甲レ 人 二 一 三 二 一 地 天レ。
といふ「返り点」の場合は、
「65個中、36個の要素(漢字)」を「ソート」する際に、
「27個の、返り点」を用ゐている。ことになる。
従って、
(15)により、
(16)
⑮ レ 間 二 一 乙 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 甲レ 人 二 一 三 二 一 地 天レ。
といふ「返り点」が、「ソート」であるならば、
(36-27)個=9個の、
「返り点」が、「不足」する。
然るに、
(17)
例へば、
① 非r不r読r書 =書を読ま不るに非ず: レ レ レ。
といふ「返り点」が、
② 非4不3読2書1=書を読ま不るに非ず: 四 三 二 一。
といふ「返り点」の「略号」であるならば、
であるならば、
① の「返り点」の個数=3
② の「返り点」の個数=4
に於ける、
(3-4)個=-1個。
は、「矛盾」しない。
cf.
米国=2字。
亜米利加合衆国=7字。
に於いて、
(2-7)字=-5字。
は、「矛盾」しない。
従って、
(16)(17)により、
(18)
⑮ レ 間 二 一 乙 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 甲レ 人 二 一 三 二 一 地 天レ。
といふ「返り点」が、
⑮ 極 界 二 一 丙 二 一 二 一 二 一 下 二 一 二 一 中 上 二 一 三 二 一 乙 甲 二 一 間 二 一 三 二 一 人 地 天。
といふ「返り点」の、「略号」であるならば、
(27-36)個=-9個。
は、「矛盾」しない。
従って、
(01)~(18)により、
(19)
① レ点
は、
② 一 二 三 四 五 ・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・
⑤ 天 地 人
に対する、「略号」である。
Q.E.D.
平成25年12月23日、毛利太。
2013年12月12日木曜日
算数の括弧と、返り点の括弧(Ⅱ)。
(01)
① -2+3×4
② -2+3×4=+10
③ -2+3×4=-20
に於いて、
(02)
左辺である、
② -2+3×4
③ -2+3×4
を、「文」とする。
(03)
右辺である。
② +10
③ -20
を、「意味」とする。
然るに、
(04)
② - 2+3 ×4 =+10
③ -{(2+3)×4}=-20
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① -2+3×4
といふ「文」の「意味」が、
② +10
であるならば、
① -2+3×4
といふ「文」は、
② - 2+3 ×4 =+10
といふ「形(構造)」を、してゐて、
① -2+3×4
といふ「文」の「意味」が、
③ -20
であるならば、
① -2+3×4
といふ「文」は、
③ -{(2+3)×4}=-20
といふ「形(構造)」を、してゐる。
然るに、
(06)
① 不為劉氏左袒。
に於いて、
不=否定詞
為=前置詞
劉氏=名詞
左袒=動詞
であることについては、おおむね、誰もが、否定しない。
従って、
(07)
① 不為劉氏左袒。
は、
③ 不・為・劉氏・左袒。
といふ風に、「区切る」ことが、出来る。
然るに、
(08)
為+劉氏=前置詞+名詞。
であるため、
為(劉氏)
と書くことに、「無理」は無い。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① 不・為・劉氏・左袒。
は、
③ 不・為(劉氏)左袒。
といふ風に、「区切る」ことが、出来る。
然るに、
(10)
「命題A」の「否定」を、
~A=不A
と書いて、
Aに、
④ 為劉氏左袒(劉氏に対して味方をする)。
を代入した「形」が、
③ 不{為劉氏左袒}。
とするならば、
③ 不{為劉氏左袒}= 劉氏に対して味方をしない。
といふことに、なるものの、
③ 不為劉氏左袒 = 劉氏に対して味方をしない。
であることに関しては、「間違ひ」無い。
従って、
(07)(09)(10)により、
(11)
① 不為劉氏左袒。
は、
③ 不・為・劉氏・左袒。
といふ風に、「区切る」ことが、出来き、
③ 不・為・劉氏・左袒。
は、
③ 不・為(劉氏)左袒。
といふ風に、「区切る」ことが、出来き、
③ 不・為(劉氏)左袒。
は、
③ 不{為(劉氏)左袒}。
といふ風に、「区切る」ことが、出来る。
然るに、
(12)
漢文は「ヲ・ニ・ト・ヨリ・ヨリモ」の送りがなをつけて返る場合が多いが、これらにかかわらず、訓読の際に下から必ず返って読む特別の文字がある。これを「返読文字」という(漢文の基礎、鳥羽田重直、1985年、22頁)。これらはいつでも返読するのではないことも留意する必要がある(漢文早わかり、志村和久、1982年、42頁)。
とのことであるが、
③ 不{為(劉氏)左袒}。
に於いて、
③ 不 為
は、「返読文字」である。
従って、
(13)
③ 不{為(劉氏)左袒}。
ではなく、仮に、
③ 不{為(劉氏)}左袒。
であるならば、
① 不 為 劉氏 左袒 =
③ 不{為(劉氏)}左袒 ⇒
③ {(劉氏)為}不左袒 =
③ 劉氏の為なら不、左袒す(劉氏に対してではなく、味方をする)。
といふ風に、「返読」される。
従って、
(14)
③ 不 為
が、「返読文字」であって、尚且つ、
④ 不為劉氏而左袒。
ではなく、
① 不為劉氏左袒。
の「意味」が、
① 不為劉氏左袒 =
③ 劉氏の為に左袒せ不(劉氏に対して味方をしない)。
である以上、
① 不 為 劉氏 左袒 =
③ 不{為(劉氏)左袒}⇒
③ {(劉氏)為左袒}不=
③ 劉氏の為に左袒せ不(劉氏に対して味方をしない)。
でなければ、ならない。
(15)
このことは、
① -2+3×4
の「意味」が
① -2+3×4=-20
である以上、
① -2+3×4
といふ「文」は、
③ -{(2+3)×4}=-20
でなければならない。といふことに、似てゐて、アナロジーが、成立する。
従って、
(16)
① 不為劉氏左袒。
といふ「白文」が、
① 不為劉氏左袒 = 劉氏に対して味方をしない。
といふ「意味」であるならば、
① 不 為 劉氏 左袒 =
③ 不{為(劉氏)左袒}⇒
③ {(劉氏)為左袒}不=
③ 劉氏の為に左袒せ不(劉氏に対して味方をしない)。
でなければ、ならない。
然るに、
(17)
「翻訳サイト」によると、
③ 劉氏に対して味方をしない。
といふ日本語は、
③ 對劉先生不夥伴。
といふ「意味」であるとのことであるが、実際に、さうであるとする。
従って、
(16)(17)により、
(18)
① 不為劉氏左袒。
といふ「白文」が、
③ 不為劉氏左袒 = 劉氏の為に左袒せ不(對劉先生不夥伴)。
といふ「意味」であるならば、
③ 不 為
が、「返読文字」であるが故に、
① 不為劉氏左袒。
といふ「白文」は、
③ 不{為(劉氏)左袒}
といふ「構造」をしてゐることになり、さうでなければ、
③ 不 為
が、「返読文字」である。といふ事実と、「矛盾」する。
然るに、
(19)
③ 不{為(劉氏)左袒}
といふことは、
③ 不為劉氏左袒。
に付く「返り点」が、
③ 下 二 一 上。
である。といふこと、他ならない。
従って、
(18)(19)により、
(20)
訓読とは「文法構造の把握」であり、訓点はそうした施訓者の理解をそのまま示すものである(続訓読論、川島優子 他、2010年、334頁)。
といふ、ことになる。
平成25年12月12日、毛利太。
① -2+3×4
② -2+3×4=+10
③ -2+3×4=-20
に於いて、
(02)
左辺である、
② -2+3×4
③ -2+3×4
を、「文」とする。
(03)
右辺である。
② +10
③ -20
を、「意味」とする。
然るに、
(04)
② - 2+3 ×4 =+10
③ -{(2+3)×4}=-20
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① -2+3×4
といふ「文」の「意味」が、
② +10
であるならば、
① -2+3×4
といふ「文」は、
② - 2+3 ×4 =+10
といふ「形(構造)」を、してゐて、
① -2+3×4
といふ「文」の「意味」が、
③ -20
であるならば、
① -2+3×4
といふ「文」は、
③ -{(2+3)×4}=-20
といふ「形(構造)」を、してゐる。
然るに、
(06)
① 不為劉氏左袒。
に於いて、
不=否定詞
為=前置詞
劉氏=名詞
左袒=動詞
であることについては、おおむね、誰もが、否定しない。
従って、
(07)
① 不為劉氏左袒。
は、
③ 不・為・劉氏・左袒。
といふ風に、「区切る」ことが、出来る。
然るに、
(08)
為+劉氏=前置詞+名詞。
であるため、
為(劉氏)
と書くことに、「無理」は無い。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① 不・為・劉氏・左袒。
は、
③ 不・為(劉氏)左袒。
といふ風に、「区切る」ことが、出来る。
然るに、
(10)
「命題A」の「否定」を、
~A=不A
と書いて、
Aに、
④ 為劉氏左袒(劉氏に対して味方をする)。
を代入した「形」が、
③ 不{為劉氏左袒}。
とするならば、
③ 不{為劉氏左袒}= 劉氏に対して味方をしない。
といふことに、なるものの、
③ 不為劉氏左袒 = 劉氏に対して味方をしない。
であることに関しては、「間違ひ」無い。
従って、
(07)(09)(10)により、
(11)
① 不為劉氏左袒。
は、
③ 不・為・劉氏・左袒。
といふ風に、「区切る」ことが、出来き、
③ 不・為・劉氏・左袒。
は、
③ 不・為(劉氏)左袒。
といふ風に、「区切る」ことが、出来き、
③ 不・為(劉氏)左袒。
は、
③ 不{為(劉氏)左袒}。
といふ風に、「区切る」ことが、出来る。
然るに、
(12)
漢文は「ヲ・ニ・ト・ヨリ・ヨリモ」の送りがなをつけて返る場合が多いが、これらにかかわらず、訓読の際に下から必ず返って読む特別の文字がある。これを「返読文字」という(漢文の基礎、鳥羽田重直、1985年、22頁)。これらはいつでも返読するのではないことも留意する必要がある(漢文早わかり、志村和久、1982年、42頁)。
とのことであるが、
③ 不{為(劉氏)左袒}。
に於いて、
③ 不 為
は、「返読文字」である。
従って、
(13)
③ 不{為(劉氏)左袒}。
ではなく、仮に、
③ 不{為(劉氏)}左袒。
であるならば、
① 不 為 劉氏 左袒 =
③ 不{為(劉氏)}左袒 ⇒
③ {(劉氏)為}不左袒 =
③ 劉氏の為なら不、左袒す(劉氏に対してではなく、味方をする)。
といふ風に、「返読」される。
従って、
(14)
③ 不 為
が、「返読文字」であって、尚且つ、
④ 不為劉氏而左袒。
ではなく、
① 不為劉氏左袒。
の「意味」が、
① 不為劉氏左袒 =
③ 劉氏の為に左袒せ不(劉氏に対して味方をしない)。
である以上、
① 不 為 劉氏 左袒 =
③ 不{為(劉氏)左袒}⇒
③ {(劉氏)為左袒}不=
③ 劉氏の為に左袒せ不(劉氏に対して味方をしない)。
でなければ、ならない。
(15)
このことは、
① -2+3×4
の「意味」が
① -2+3×4=-20
である以上、
① -2+3×4
といふ「文」は、
③ -{(2+3)×4}=-20
でなければならない。といふことに、似てゐて、アナロジーが、成立する。
従って、
(16)
① 不為劉氏左袒。
といふ「白文」が、
① 不為劉氏左袒 = 劉氏に対して味方をしない。
といふ「意味」であるならば、
① 不 為 劉氏 左袒 =
③ 不{為(劉氏)左袒}⇒
③ {(劉氏)為左袒}不=
③ 劉氏の為に左袒せ不(劉氏に対して味方をしない)。
でなければ、ならない。
然るに、
(17)
「翻訳サイト」によると、
③ 劉氏に対して味方をしない。
といふ日本語は、
③ 對劉先生不夥伴。
といふ「意味」であるとのことであるが、実際に、さうであるとする。
従って、
(16)(17)により、
(18)
① 不為劉氏左袒。
といふ「白文」が、
③ 不為劉氏左袒 = 劉氏の為に左袒せ不(對劉先生不夥伴)。
といふ「意味」であるならば、
③ 不 為
が、「返読文字」であるが故に、
① 不為劉氏左袒。
といふ「白文」は、
③ 不{為(劉氏)左袒}
といふ「構造」をしてゐることになり、さうでなければ、
③ 不 為
が、「返読文字」である。といふ事実と、「矛盾」する。
然るに、
(19)
③ 不{為(劉氏)左袒}
といふことは、
③ 不為劉氏左袒。
に付く「返り点」が、
③ 下 二 一 上。
である。といふこと、他ならない。
従って、
(18)(19)により、
(20)
訓読とは「文法構造の把握」であり、訓点はそうした施訓者の理解をそのまま示すものである(続訓読論、川島優子 他、2010年、334頁)。
といふ、ことになる。
平成25年12月12日、毛利太。
2013年12月11日水曜日
数学の括弧と、返り点の括弧。
(01)
「掛け算が先」であるため、「括弧」が無い場合は、
-2+3×4=
-2+12=
10
然るに、
(02)
-{(2+3)×4}=
-{5×4}=
-{20}=
-20
従って、
(03)
-{(2+3)×4}=-20
といふ「数式」は、
① 2+3=5
② 5×4=20
③ -1×20
④ -20
といふ「順番」で、「括弧の中が先」に、「計算」される。
従って、
(04)
-2+3×4=+10
ではなく、
-2+3×4=-20
であるならば、
-2+3×4=-20
に於いて、
{( ) }
といふ「括弧」が、「省略」されてゐる。
然るに、
(05)
不 為 劉氏 左袒 =
不{為(劉氏)左袒}⇒
{(劉氏)為左袒}不=
劉氏の為に左袒せ不(劉氏の為に左の片肌を脱がない)。
従って、
(06)
不{為(劉氏)左袒}=
劉氏の為に左袒せ不(劉氏の為に左の片肌を脱がない)。
といふ「漢文」は、
① 劉氏の
② 為に、
③ 左袒せ
④ 不。
といふ「順番」で、「括弧の中が先」に、「訓読」される。
従って、
(07)
不 為 劉氏 左袒。
といふ「漢文」が、
不 為 劉氏 左袒 =
劉氏の為に左の片肌を脱がない(劉氏に対して、味方をしない)。
といふ「意味」であるならば、
不 為 劉氏 左袒。
に於いて、
{ ( ) }
といふ「括弧」が、「省略」されてゐる。
従って、
(01)~(07)により、
(08)
「括弧の中が先」に、・・・・・。
といふ点に於いて、
-{(2+3)×4}
不{為(劉氏)左袒}
に於ける、
{ ( ) }
といふ「括弧」は、基本的に、「同じ括弧」である。
然るに、
(09)
訓読とは「文法構造の把握」であり、訓点はそうした施訓者の理解をそのまま示すものである(続訓読論、
川島優子 他、2010年、334頁)。
従って、
(05)(07)(09)により、
(10)
不 為 劉氏 左袒 = 劉氏に対して、味方をしない。
といふ「解釈」が、「誤り」ではなく、尚且つ、
訓読とは「文法構造の把握」である。
といふ「理解」が、「正しい」。のであれば、
「文法構造」として、
不 為 劉氏 左袒 =
不{為(劉氏)左袒}。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(10)により、
(11)
不 為 劉氏 左袒。
といふ「漢文」には、「目には見えない形」で、
不{為(劉氏)左袒}。
といふ「構造」が有る。といふことに、なる。
(12)
不 為 劉氏 左袒。
といふ「漢文」が、
為 劉氏 左袒 =
「劉氏の為に左の片肌を脱ぐ(劉氏に対して、味方をする)」。
といふ「文の全体」を、「否定」してゐる。のであれば、
少なくとも、
不{為 劉氏 左袒}。
といふ「構造」は、有る。はずである。
従って、
(13)
「目には見えない形」を、「深層構造(deep structure )」と呼ぶならば、
不 為 劉氏 左袒。
といふ「漢文」には、
不{為(劉氏)左袒}。
といふ「深層構造(deep structure )」が有る。といふ、ことになる?
cf.
1.深層構造
《 deep structure 》チョムスキーによって設定された変形生成文法理論の基本概念の一。現実の発話の基底にあって文の意味を規定すると想定され、表層構造よりいっそう抽象的な構
造。変形規則を適用することによって表層構造が導き出され、異 ...
デジタル大辞泉
平成25年12月11日、毛利太。
「掛け算が先」であるため、「括弧」が無い場合は、
-2+3×4=
-2+12=
10
然るに、
(02)
-{(2+3)×4}=
-{5×4}=
-{20}=
-20
従って、
(03)
-{(2+3)×4}=-20
といふ「数式」は、
① 2+3=5
② 5×4=20
③ -1×20
④ -20
といふ「順番」で、「括弧の中が先」に、「計算」される。
従って、
(04)
-2+3×4=+10
ではなく、
-2+3×4=-20
であるならば、
-2+3×4=-20
に於いて、
{( ) }
といふ「括弧」が、「省略」されてゐる。
然るに、
(05)
不 為 劉氏 左袒 =
不{為(劉氏)左袒}⇒
{(劉氏)為左袒}不=
劉氏の為に左袒せ不(劉氏の為に左の片肌を脱がない)。
従って、
(06)
不{為(劉氏)左袒}=
劉氏の為に左袒せ不(劉氏の為に左の片肌を脱がない)。
といふ「漢文」は、
① 劉氏の
② 為に、
③ 左袒せ
④ 不。
といふ「順番」で、「括弧の中が先」に、「訓読」される。
従って、
(07)
不 為 劉氏 左袒。
といふ「漢文」が、
不 為 劉氏 左袒 =
劉氏の為に左の片肌を脱がない(劉氏に対して、味方をしない)。
といふ「意味」であるならば、
不 為 劉氏 左袒。
に於いて、
{ ( ) }
といふ「括弧」が、「省略」されてゐる。
従って、
(01)~(07)により、
(08)
「括弧の中が先」に、・・・・・。
といふ点に於いて、
-{(2+3)×4}
不{為(劉氏)左袒}
に於ける、
{ ( ) }
といふ「括弧」は、基本的に、「同じ括弧」である。
然るに、
(09)
訓読とは「文法構造の把握」であり、訓点はそうした施訓者の理解をそのまま示すものである(続訓読論、
川島優子 他、2010年、334頁)。
従って、
(05)(07)(09)により、
(10)
不 為 劉氏 左袒 = 劉氏に対して、味方をしない。
といふ「解釈」が、「誤り」ではなく、尚且つ、
訓読とは「文法構造の把握」である。
といふ「理解」が、「正しい」。のであれば、
「文法構造」として、
不 為 劉氏 左袒 =
不{為(劉氏)左袒}。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(10)により、
(11)
不 為 劉氏 左袒。
といふ「漢文」には、「目には見えない形」で、
不{為(劉氏)左袒}。
といふ「構造」が有る。といふことに、なる。
(12)
不 為 劉氏 左袒。
といふ「漢文」が、
為 劉氏 左袒 =
「劉氏の為に左の片肌を脱ぐ(劉氏に対して、味方をする)」。
といふ「文の全体」を、「否定」してゐる。のであれば、
少なくとも、
不{為 劉氏 左袒}。
といふ「構造」は、有る。はずである。
従って、
(13)
「目には見えない形」を、「深層構造(deep structure )」と呼ぶならば、
不 為 劉氏 左袒。
といふ「漢文」には、
不{為(劉氏)左袒}。
といふ「深層構造(deep structure )」が有る。といふ、ことになる?
cf.
1.深層構造
《 deep structure 》チョムスキーによって設定された変形生成文法理論の基本概念の一。現実の発話の基底にあって文の意味を規定すると想定され、表層構造よりいっそう抽象的な構
造。変形規則を適用することによって表層構造が導き出され、異 ...
デジタル大辞泉
平成25年12月11日、毛利太。
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