2016年3月31日木曜日

「返り点」を完璧に説明します。

―「03月30日の記事」に加筆します。―
(01)
(a)レ
(b)一レ 上レ 甲レ 天レ
(c)一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
(d)上 下 中
(e)甲 乙 丙 丁 戊 ・ ・ ・ ・ ・
(f)天 地 人
(g)│(ハイフン)
(h)再読文字
をパーフェクトに「説明」したいのですが、その前に、次のやうな「前提」を確認させて貰います。
(02)
「返り点」は、
「下から上へ返る点」であって、
「上から下へ返る点」ではありません。
ところが、
(03)

のやうに、すなはち、
2=WHO=誰
3=ARE=であるか。
1=YOU=あなたは、
であれば、
2=誰
1=あなたは、
といふ風に、「下から上へ返り」、
2=誰
3=であるか。
といふ風に、「上から下へ返る」ことになります。
そのため、
(02)(03)により、
(04)
「返り点」は、例へば、
2<3>1
2<3 4>1
2<4 3>1
2<4>1 3
2<4 5>1 3
といふ「順番」を、表すことが出来ません。
(05)
 ○
 囗
 ○
 囗
 ○
 囗
に於いて、
○ には「返り点」は付いてゐないとし、
囗 には「返り点」が付いてゐるとします。
然るに、
(06)
「漢字○」は、「そのまま、上から下へ読む」⇔
「漢字○」から「上の漢字へ、返ることはない」。
といふことを、「公理(06)」とします。
(07)
「返り点」は、
「下から上へ返る点」であって、
「上から下へ返る点」ではない。
といふことから、
「漢字囗」は、「上の漢字囗だけへ返る」⇔
「漢字囗」は、「下の漢字囗へ返ることはない」。
といふことを、「公理(07)」とします。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
 ○=①番
 囗
 ○=②番
 囗
 ○
 囗
といふ「語順」が、「確定」します。
然るに、
(09)
 ○=①番
 囗
 ○=②番
 囗=3
 ○
 囗
であれば、
 ○=①番
 囗=4
 ○=②番
 囗=3
 ○
 囗=5
となって、
 囗=4番 から、下にある、
 ○=②番
 囗=3
 ○
 囗=5番 へ「返る」ため、「公理(07)」と「矛盾」する。
従って、
(10)
 ○=①番
 囗
 ○=②番
 囗=3
 ○
 囗
ではなく、
 ○=①番
 囗
 ○=②番
 囗
 ○=③番
 囗
である。
(11)
 ○=①番
 囗=4番
 ○=②番
 囗=5番
 ○=③番
 囗=6番
であれば、 
 囗=4番 から、下にある、
 ○=②番
 囗=5番 へ「返る」ため、「公理(07)」と「矛盾」する。
(12)
 ○=①番
 囗=4番 から、下にある、
 ○=②番
 囗=6番
 ○=③番
 囗=5番 へ「返る」ため、「公理(07)」と「矛盾」する。
(13)
 ○=①番
 囗=5番 から、下にある、
 ○=②番
 囗=6番 へ「返る」ため、「公理(07)」と「矛盾」する。
 ○=③番
 囗=4番
(14)
 ○=①番
 囗=5番 から、下にある、
 ○=②番
 囗=4番
 ○=③番
 囗=6番 へ「返る」ため、「公理(07)」と「矛盾」する。
然るに、
(15)
 ○=①番
 囗=6番
 ○=②番
 囗=4番
 囗=3番
 囗=5番
であれば、「返り点」は、「二 レ 一」であるものの、
 囗=4番
 ○=③番
であって、
 囗=4番
 囗=3番
ではない。
従って、
(16)
 ○=①番
 囗=6番
 ○=②番
 囗=4番
 ○=③番
 囗=5番
であっても、
 囗=4番 から、下にある、
 ○=③番
 囗=5番 へ「返る」ため、「公理(07)」と「矛盾」する。
然るに、
(17)
 ○=①番
 囗=6番
 ○=②番
 囗=5番
 ○=③番
 囗=4番
であれば、「公理(07)」と「矛盾」しない。
従って、
(05)~(17)により、
(18)
 ○
 囗
 ○
 囗
 ○
 囗
に於いて、
○ には「返り点」は付いてゐない。
囗 には「返り点」が付いてゐる。
とした上で、「公理(06)」と「公理(07)」を「定めた時点」で、
 ○=①番
 囗=6番
 ○=②番
 囗=5番
 ○=③番
 囗=4番
といふ「順番」は、「確定」してゐたことになる。
従って、
(19)
⑲ 我不常読漢文=
⑲ 我常には漢文を読まず。
の場合であれば、
⑲ 三 二 一
といふ「返り点」の代はりに、
○=我
囗=不
○=常
囗=読
○=漢
囗=文
とするだけて、
○=我=①番
囗=不=6番=三
○=常=②番
囗=読=5番=二
○=漢=③番
囗=文=4番=一
といふ「語順」が、「確定」することになる。
といふわけで、
(20)
「返り点」は、例へば、
2<3>1
2<3 4>1
2<4 3>1
2<4>1 3
2<4 5>1 3
といふ「順番」を、表すことが出来ない。
「返り点」が付いてゐない「漢字」は、「そのまま、上から下へ読む」⇔
「返り点」が付いてゐない「漢字」から「上の漢字へ、返ることはない」。
「返り点」が付いてゐる 「漢字」は、「上の漢字へ返る」⇔
「返り点」が付いてゐる 「漢字」は、「下の漢字へ返ることはない」。
といふことを、確認した上で、
(a)レ
(b)一レ 上レ 甲レ 天レ
(c)一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
(d)上 下 中
(e)甲 乙 丙 丁 戊 ・ ・ ・ ・ ・
(f)天 地 人
(g)│(ハイフン)
(h)再読文字
といふ(7+1)個を、次の「例文」で、説明することにします。
(21)

(22)
「書き下し文」は、次の通りです。
① 書を読まざるに非ず。
② 籍をして誠に妻 を畜ひ飢ゑを憂ふるを以て 心を乱さず 財有りて以て医 を済(な)さ使む。
③ 籍をして誠に妻 を畜ひ飢ゑを憂ふるを以て 心を乱さず 財有りて以て医 を済(な)さ使む。
④ 籍をして誠に妻子を畜ひ飢寒を憂ふるを以て良心を乱さず銭財有りて以て医薬を済(な)さ使む。
⑤ 我の小節を羞ぢずして功名の必ずしも天下に顕(あら)はれざるを恥づるを知ればなり。
⑥ 我の小節を羞ぢずして功名の天下に顕(あら)はれざるを恥づるを知ればなり(管鮑の交はり)。
⑦ 衆狙の己に馴れざるを恐る。
⑧ 衆狙の己に馴れざるを恐る(朝三暮四)。
⑨ 衆狙の常には己に馴れざるを恐る。
⑩ 天下を三分す。
⑪ 人を治める所以を知る。
⑫ 人を治める所以を知る。
⑬ 夫(そ)れ庸(なん)ぞ其の年の先後生なるを知らんや。
⑭ 未だ嘗て桓霊に嘆息痛恨せずんばあらざるなり。
⑮ 未だ可否を知らず。
⑯ 尚(なほ)可否を知らず。
⑰ 盍ぞ各々爾(なんじ)の志を言はざる。
⑱ 書を読まざるに非ず。
⑲ 我常には漢文を読まず。
(23)
(a)レ点 は、
① 非不読書=
① 書を読まざるに非ず。
がそうであるやうに、
(a)「一字だけ上の字に返る」際に用ゐます。
そのため、
(24)
① 非不読書=
① 書を読まざるに非ず。
に於ける、
① レ レ レ
のような場合であれば、極めて「簡単」です。

しかしながら、
(25)
大学生に返り点を打たせると、レ点の原則違反から生じる誤りが大半をしめます(古田島洋介、これならわかる返り点、2009年、60頁)。
といふことからも分るやうに、実際には、「一番分りにくい」のが「レ点」です。
(26)
(b)一レ 上レ 甲レ 天レ は、
② 使籍誠不以畜妻憂飢乱心有財以済医=
② 籍をして誠に妻を畜ひ飢ゑを憂ふるを以て心を乱さず財有りて以て薬を済(な)さ使む。
がそうであるやうに、
(b)「一字だけ上に返り、更に、二字以上、上の字に返る」際に用ゐます。
(27)
(b)一レ に対して、
(b)二レ は、
(b)二レ 一 に、相当します。
然るに、
(28)
(b)二レ 一  は、
(b)二 一 一 といふ「一二点」に、相当する一方で、
(b)二 一 一 
であれば、
(b)二 に対して、
(b)一 から「返り」、その上、もう一度、
(b)一 から「返る」ことになる。
従って、
(27)(28)により、
(29)
(b)一レ   に対して、
(b)二レ 一 は有り得ません。
従って、
(30)
(b)一レ 上レ 甲レ 天レ に対して、それぞれ、
(b)二レ 中レ 乙レ 地レ 等の「返り点」も、有り得ません。
(31)
(d)上 中 下 は、
「二字」を用ゐる際は、
(d)上 → 下
の「順」で用ゐ、
「三字」を用いる際は、
(d)上 → 中 → 下
の「順」で用ゐます。
(32)
(c)一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
(d)上 中 上
(e)甲 乙 丙 丁 戊 ・ ・ ・ ・ ・
(f)天 地 人
の四つは、
④ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済医薬=
④ 籍をして誠に妻子を畜ひ飢寒を憂ふるを以て良心を乱さず銭財有りて以て医薬を済(な)さ使む。
がそうであるやうに、「二字以上、上の字に返る」際に用ゐます。
然るに、
(33)
古田島氏が返り点を非論理的だと指摘する根拠は、足りなくなる可能性があるからということらしい。しかし、これは簡単に解決できる。すべて一二点に変換すればいいのである。一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(ブログ:困窮庵日乗)。
然るに、
(34)
② 乙 下 二 レ   一レ  上レ  レ   甲レ
④ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天
を「一二点」に変換すると、
③ 十三 八 五 二 一 四 三 七 六 十 九 十二 十一
となるものの、
③ 十三 八 五 二 一 四 三 七 六 十 九 十二 十一
の場合は、
③ 五 二 一 四 三
だけを見ても、
③ 右(一)から左(二)へ返ってゐて、尚且つ、
③ 左(二)から右(三)へ返ってゐる。
従って、
(35)
③ 十三 八 五 二 一 四 三 七 六 十 九 十二 十一
の場合は、「縦書き」であれば、
③ 下から上へ返り、
③ 上から下へ返る。
といふ、ことになる。
然るに、
(36)
② 乙 下 二 レ   一レ  上レ  レ   甲レ
④ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天
の場合は、
④ 下 二 一 中 上
であれば、
④ 二 一
に対して、
④ 下 中 上 
は、「別の、返り点」であるため、
④ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天
に於ける、
④ 二 一
④ 下 中 上
④ 丙 乙 甲
④ 二 一
④ 人 地 天
の場合は、
③ 下から上へ返る。
だけであって、
③ 上から下へ返る。
といふことが無い。
そのため、
(37)
一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(ブログ:困窮庵日乗)。
としても、
(c)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三 ・ ・ ・ ・ ・
だけからなる「返り点」は、「極めて、読みにくい」。
(38)
(c)一レ & 一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
(d)上レ & 上 下 中
(e)甲レ & 甲 乙 丙 丁 戊 ・ ・ ・ ・ ・
(f)天レ & 天 地 人
の四つは、
② 使籍誠不以畜妻憂飢乱心有財以済医=
② 籍をして誠に妻を畜ひ飢ゑを憂ふるを以て心を乱さず財有りて以て薬を済(な)さ使む。
④ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済医薬=
④ 籍をして誠に妻子を畜ひ飢寒を憂ふるを以て良心を乱さず財有りて以て医薬を済(な)さ使む。
がそうであるやうに、
(a)を「挟んで返る」場合に、(c)を用ゐ、
(c)を「挟んで返る」場合に、(d)を用ゐ、
(d)を「挟んで返る」場合に、(e)を用ゐ、
(e)を「挟んで返る」場合に、(f)を用ゐます。
ただし、
(39)
(a)レ
(c)一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
を挟んで、
(d)上 下
(d)上 中 下
を用ゐようとする時に、
(d)上 中 下
の三つでは「足りない」場合は、
⑤ 知我不羞小節而恥功名不常顕于天下也=
⑤ 我の小節を羞ぢずして功名の必ずしも天下に顕(あら)はれざるを恥づるを知ればなり。
がそうであるやうに、已むを得ず、
⑤ 囗 レ 二 一 囗 下 中 上
ではなく、
⑤ 戊 レ 二 一 丁 丙 乙 甲
を用ゐます。
従って、
(40)
⑤ 知我不羞小節而恥功名不常顕于天下也=
⑤ 我の小節を羞ぢずして功名の必ずしも天下に顕(あら)はれざるを恥づるを知ればなり。
から、
⑤ 常 の「一字」を除くと、
⑥ 知我不羞小節而恥功名不顕于天下也=
⑥ 我の小節を羞ぢずして功名の天下に顕(あら)はれざるを恥づるを知ればなり。
となって、「返り点」は、
⑤ 戊 レ 二 一 丁 丙  乙 甲 から、
⑥ 下 レ 二 一 中 上レ 二 一 に、変はります。
(41)
⑦ 恐衆狙之不馴_己。
⑧ 恐衆狙之不馴於己。
に於いて、
⑧       於
は、「置き字」なので、読みません。
そのため、
(42)
「書き下し文」は、両方とも、
⑦ 衆狙の己に馴れざるを恐る。
⑧ 衆狙の己に馴れざるを恐る。
という風に、「同じ」になります。
ただし、
(43)
(a)レ点  は、「一字だけ上の字に返る」際に用ゐる。
(b)一レ  は、「一字だけ上に返り、更に、二字以上、上の字に返る」際に用ゐる。
(b)一レ  は、「一二点や、上下点」等と、「合はせて」用ゐることが出来る。
(c)一二点 は、「二字以上、上の字に返る」際に用ゐる。
といふことから、
⑦ 恐衆狙之不馴_己。
⑧ 恐衆狙之不馴於己。
の「返り点」は、
⑦ 二 一レ レ
⑧ 二 一レ 二 一
といふことになり、「同じ」にはなりません。
然るに、
(44)
(c)一二点 は、「二字以上、上の字に返る」際に用ゐる。
といふことから、
⑨ 恐衆狙之不必馴於己。
⑨ 衆狙の常には己に馴れざるを恐る。
の「返り点」は、
⑨ 四 三 二 一
になります。
従って、
(43)(44)により、
(45)
(c)一二点 は、「二字以上、上の字に返る」際に用ゐる。
といふ「ルール」を、
(c)一二点 は、「一字以上、上の字に返る」際に用ゐる。
といふ「ルール」に「変更」すれば、
⑦ 恐衆狙之不_馴_己。
⑧ 恐衆狙之不_馴於己。
⑨ 恐衆狙之不必馴於己。
の「返り点」は、三つとも、
⑦ 四 三 二 一
⑧ 四 三 二 一
⑨ 四 三 二 一
といふ風に、「同じ」になります。
従って、
(46)
「初学者」の方であれば、取りあへず、
⑦ 恐衆狙之不馴己。
⑧ 恐衆狙之不馴於己。
⑨ 恐衆狙之不必馴於己。
に対して、
⑦ 四 三 二 一
⑧ 四 三 二 一
⑨ 四 三 二 一
といふ「返り点」を打ってみて、その上で、
(a)レ   は、「一字だけ上の字に返る」際に用ゐる。
(b)一レ  は、「一字だけ上に返り、更に、二字以上、上の字に返る」際に用ゐる。
(b)一レ  は、「一二点や、上下点」等と、「合はせて」用ゐることが出来る。
(c)一二点 は、「二字以上、上の字に返る」際に用ゐる。
といふ「(煩雑な)ルール」から「判断」して、
⑦ 恐衆狙之不馴己。
⑧ 恐衆狙之不馴於己。
⑨ 恐衆狙之不必馴於己。
の「返り点」としては、
⑦ 二 一レ レ
⑧ 二 一レ 二 一
⑨ 四 三  二 一
が「正しい」といふことを、「導き出す」ことを、勧めます。
(47)
「返り点」は、
(g)│(ハイフン)
の、「左側」に付きます。
(48)
(g)│(ハイフン) は、
⑩ 三‐分天下=
⑩ 天下を三‐分す。
がそうであるやうに、
(g)「返る先の語」に限って、それが「熟語(WORD)」であることを、示してゐます。
従って、
(49)
三分 も、
天下 も、両方とも「熟語」ではあっても、
三分 の方は、三-分 となり、
天下 の方は、天-下 にはなりません。
(50)
「漢文のすすめ、原田種成、1992年、112頁」を参考にすると、
⑪ 知所‐以治人=
⑪ 人を治める所以を知る。
の「返り点」は、
 三 
 二│ 
 一
 レ
とするのが、「一般的」であるやうです。
ところが、
(51)
「中西 清 (著)、月洞 譲 (著)、漢文公式と問題正解法 (1967年) 、12頁」に於いて、
⑫ 知所‐以治人=
⑫ 人を治める所以を知る。
の「返り点」は、
 レ
 二│
 一
 レ
とされてゐます。
(52)
⑬ 夫庸知其年之 先‐後‐生 於吾乎=
⑬ 夫(そ)れ庸(なん)ぞ其の年の先-後-生なるを知らんや。
に於ける「先‐後‐生(三文字熟語)」は、「三省堂、明解古典学習シリーズ20、1973年、50頁」を見る限り、(21)で示した通りになってゐます。
(53)
⑭ 未嘗不 嘆‐息‐痛‐恨 於桓霊也=
⑭ 未だ嘗て桓霊に 嘆‐息‐痛‐恨せ ずんばあらざるなり。
に於ける「嘆‐息‐痛‐恨(四文字熟語)」は、「三省堂、明解古典学習シリーズ20、1973年、12頁」を見る限り、(19)で示した通りになってゐます。
従って、
(54)
 歎
二│
 息
 痛
三│
 恨
のように、「返り点」を打つと、
(02)で確認した、
「返り点」は、
「下から上へ返る点」であって、
「上から下へ返る点」ではありません。
といふ「原則」に「違反する」ものの、「四文字熟語」は、「例外」である。といふことに、なります。
(55)
(2)「未」は「未ダ~ズ」とよみ、「まだ~しない」の意で、「尚不」と同じである。
(中澤希男、澁谷玲子、漢文訓読の基礎、1985年、90頁)
従って、
(55)により、
(56)
⑮ 未_知可否=
⑮ 尚不知可否=
⑮ いまだ可否を知らず。
である。
従って、
(56)により、
(57)
⑮ 未知可否=
⑮ いまだ可否を知らず。
の場合は、「最初」に、
⑯ 尚不 の、
⑯ 尚  を、
⑯ いまだ と読み、「レ点」で戻って来た時に、
⑯  不 を
⑯ ず と読んでゐる。
従って、
(48)(57)により、
(58)
⑩ 三‐分 は、「二字」で「一語(WORD)」 であり、
⑮ 未   は、「一字」で「二語(WORDS)」である。
(59)
[句法]
* 盍囗 再読文字で、音カフ。「何不」が合わさったもの。「何不囗」と同じ。
(三省堂、明解古典学習シリーズ16、1973年、16頁)
従って、
(60)
⑰ 盍言爾志=
⑰ 盍ぞ各々爾(なんじ)の志を言はざる。
に於ける、
⑰ 盍=何不 こそは、「一字」で「二語(WORDS)」である。
(61)
① 非不読書=
① 書を読まざるに非ず。
⑱ 非不読書=
⑱ 書を読まざるに非ず。
であるが故に、
レ=四
レ=三
レ=二
 =一 
である。
然るに、
(62)
四=レ
三=レ
二=レ
一=
に於いて、「右辺」の方が、「左辺」よりも、「簡単」である。
従って、
(63)
「レ点」は、「一二点」等に対する、「省略形」であって、特に、
四=レ
三=レ
二=レ
一= 
のやうな場合の、「一番下のそれ」は、「完全に省略」される結果として「書かれない」とする。
従って、
(62)(63)により、
(64)
 レ点を含め、「返り点」は「返り点の、上の字の、左下」についてゐる。
従って、
(65)
私自身は、「レ点は下の字に属して左肩につけ、その他の一二点などは字の左下につける(原田種成、私の漢文講義、1995年、41頁)。」といふ風には、考へません。
(66)

とのことですが、「画像」にある通り、
(A)欲取捨之=之を取捨せんと欲す。
(B)欲取捨之=之を取捨せんと欲す。
に於いて、「取捨」には、「ハイフン」が付いてゐません。
従って、
(67)
ハイフォンはなくとてもかまわない(二畳庵主人、漢文法基礎、1977年、31頁)。
といふことになるものの、「試験の際」にどうかと。といふことは、別の問題である。と、思はれます。
(68)
(c)一二点 は、「二字以上、上の字に返る」際に用ゐる。
(d)上下点 は、「二字以上、上の字に返る」際に用ゐる。
(e)甲乙点 は、「二字以上、上の字に返る」際に用ゐる。
(d)天地点 は、「二字以上、上の字に返る」際に用ゐる。
といふ「ルール」を、
(c)一二点 は、「一字以上、上の字に返る」際に用ゐる。
(d)上下点 は、「一字以上、上の字に返る」際に用ゐる。
(e)甲乙点 は、「一字以上、上の字に返る」際に用ゐる。
(d)天地点 は、「一字以上、上の字に返る」際に用ゐる。
とした上で、
(c)を「挟んで返る」場合に、(d)を用ゐ、
(d)を「挟んで返る」場合に、(e)を用ゐ、
(e)を「挟んで返る」場合に、(f)を用ゐ、
(e)を「挟んで返る」場合に、(f)を用ゐる。
とするならば、
(a)レ
(b)一レ 上レ 甲レ 天レ
(c)一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
(d)上 下 中
(e)甲 乙 丙 丁 戊 ・ ・ ・ ・ ・
(f)天 地 人
に於いて、
(a)レ
(b)一レ 上レ 甲レ 天レ
は、「不要」になります。
(69)
(21)に於いて、「レ点」を含んでゐる「返り点」を、
(c)一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
(d)上 下 中
(e)甲 乙 丙 丁 戊 ・ ・ ・ ・ ・
(f)天 地 人
だけを使って書き直すと、次のやうに、なります。
(70)

(71)
大学生に返り点を打たせると、レ点の原則違反から生じる誤りが大半をしめます(古田島洋介、これならわかる返り点、2009年、60頁)。
とあるため、(70)に対して、「レ点」を加へることが出来れば、「大半の誤り」は、防ぐことが出来る。といふ、ことになります。
(72)
「返り点」は、「合理的」には出来てゐません。
しかしながら、「特別に難しい」。といふわけでも、ありません。
平成28年03月31日、毛利太。

  ― 関連サイト ―
(01)『括弧』と『返り点』と「白話文」。 :http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_34.html
(02)『括弧・返り点』の研究(Ⅱ)。   :http://kannbunn.blogspot.com/2016/04/blog-post_24.html
(03)『括弧・返り点』の研究(Ⅲ)。   :http://kannbunn.blogspot.com/2016/05/blog-post_5.html
(04)「返り点」と「括弧」と「補足構造」。:http://kannbunn.blogspot.com/2016/05/blog-post_39.html

2016年3月30日水曜日

「述語論理」は「訓読」出来ます。

(01)
① 犬の頭であるといふのであれば、その頭は、当然、牛や馬の頭であるべきではない。
といふ「言ひ方」は、
① 如犬有頭其頭不当為牛馬頭。
といふ風に、書くことが出来る。
(02)
② 犬の頭は牛の頭ではないし馬の頭でもない。
② Anything that is a head of a dog is not a head of an bull or a head of a horse.
に対する「述語論理」は、
② ∀x{∃y〔犬(y)&頭(xy)〕→~[∃y〔牛(y)∨馬(y)&頭(xy)〕]}
といふ風に、書くことが出来る。
(03)
① 如犬有頭其頭不当為牛馬頭=
① 如犬有(頭)其頭不[当〔為(牛馬頭)〕]。
に於いて、
① 左から右へ読むものの、その「右側」が、[〔( と接してゐる限り、より内側の[〔( )〕]の中を、先に読む。
然るに、
(04)
① 如犬有(頭)其頭不[当〔為(牛馬頭)〕]。
に於いて、
① 左から右へ読むものの、その「右側」が、[〔( と接してゐる限り、より内側の[〔( )〕]の中を、先に読む。
のであれば、
 1= 如
 2= 犬
の次は、
 3= 有
ではなく、
 3=(頭)
であり、その次が、
 4= 有
である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 如犬有頭其頭不当為牛馬頭=
① 如犬有(頭)其頭不[当〔為(牛馬頭)〕]。
に於いて、
① 左から右へ読むものの、その「右側」が、[〔( と接してゐる限り、より内側の[〔( )〕]の中を、先に読む。
とすると、「結果」として、
有( )⇒( )有
為( )⇒( )為
当〔 〕⇒〔 〕可
不[ ]⇒[ ]不
といふ「倒置」が成立し、それ故、
① 如犬有頭其頭不当為牛馬頭=
① 如犬有(頭)其頭不[当〔為(牛馬頭)〕]⇒
① 如犬(頭)有其頭[当〔(牛馬頭)為〕可]不。
といふ「語順」を、得ることになる。
(06)
② ∀x{∃y〔犬(y)&頭(xy)〕→~[∃y〔牛(y)∨馬(y)&頭(xy)〕]}
に於いて、
② 左から右へ読むものの、その「右側」が、{[〔( と接してゐる限り、より内側の{[〔( )〕]}の中を、先に読む。
とすると、「結果」として、
 犬( )⇒( )犬
 頭( )⇒( )頭
∃y〔 〕⇒〔 〕∃y 
 牛( )⇒( )牛
 馬( )⇒( )馬
 頭( )⇒( )頭
∃y〔 〕⇒〔 〕∃y
 ~[ ]⇒[ ]=
∀x{ }⇒{ }∀x
といふ「倒置」が成立し、それ故、
② {〔(y)犬&(xy)頭〕∃y→[〔(y)牛∨(y)馬&(xy)頭〕∃y]~}∀x
といふ「語順」を、得ることになる。
然るに、
(07)
「記号」などというものは歴史的経緯や何やらの「人間的な事情」に依存して決まっている便宜的なものにすぎず、数学の本質そのものではない。そして、現在一般的に使われている数学の記号は欧米起源のものなので、日本語とは「すれ違う」側面がある、というだけである。実際に、a+bの代わりに、日本語の「aとbを足す」という表現に応じて、ab+という記号で足し算を表しても支障はない。「ab+なんて思いっきりヘン」と感じるかもしれないが、それは「慣れていないだけ」である。その証拠に、ab+のような「日本語の語順に応じた記号」の体系が構成されていて、それが有益であることが実証されている。
(中島匠一、集合・写像・論理、2012年、190頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
② ∀x{∃y〔犬(y)&頭(xy)〕→~[∃y〔牛(y)∨馬(y)&頭(xy)〕]}
といふ「述語論理」は、
② {〔(y)犬&(xy)頭〕∃y→[〔(y)牛∨(y)馬&(xy)頭〕∃y]~}∀x
といふ「述語論理」に等しい。
(09)
① 如犬(頭)有其頭[当〔(牛馬頭)為〕可]不=
① 如し犬に頭有らば、其の頭は当に牛馬の頭為るべからず。
といふ風に、「読むこと」が出来る。
(10)
    ~=ではない。
    ∨=または、
    &=尚且つ、
    →=ならば、
  ( )=といふ
   ∃x=そのやうなxが存在する。
   ∀x=ことは、全てのxに於いて、正しい。
P(x) =xはPである。
P(xy)=xはyに対してPである。
として、
② ∀x{∃y〔犬(y)&頭(xy)〕→~[∃y〔牛(y)∨馬(y)&頭(xy)〕]}=
② {〔(yは)犬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、[〔(yは)牛であるか、または、(yは)馬であり、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在し]ない。}といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、「読むこと」が出来る。
然るに、
(11)

(12)
① 如犬有(頭)其頭不[当〔為(牛馬頭)〕]⇒
① 如犬(頭)有其頭[当〔(牛馬頭)為〕可]不。
② ∀x{∃y〔犬(y)&頭(xy)〕→~[∃y〔牛(y)∨馬(y)&頭(xy)〕]}⇒
② {〔(y)犬&(xy)頭〕∃y→[〔(y)牛∨(y)馬&(xy)頭〕∃y]~}∀x。
に対する「返り点」は、
① レ レ レ 二 一
② 下│ 三│ レ 二 一 上レ 三│ レ レ 二 一
である。
従って、
(13)
① 如犬有頭其頭不当為牛馬頭=
① 如犬有(頭)其頭不[当〔為(牛馬頭)〕]⇒
① 如犬(頭)有其頭[当〔(牛馬頭)為〕可]=
① 如し犬に頭有らば、其の頭は当に牛馬の頭為るべからず。
といふ風に読むことを、「訓読」とするのであれば、
② ∀x{∃y〔犬(y)&頭(xy)〕→~[∃y〔牛(y)∨馬(y)&頭(xy)〕]}⇒
② {〔(y)犬&(xy)頭〕∃y→[〔(y)牛∨(y)馬&(xy)頭〕∃y]~}∀x=
② {〔(yは)犬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、[〔(yは)牛であるか、または、(yは)馬であり、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在し]ない。}といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に読むことも、「訓読」である。
従って、
(14)により、
(15)
② ∀x{∃y〔犬(y)&頭(xy)〕→~[∃y〔牛(y)∨馬(y)&頭(xy)〕]}=
② {〔(yは)犬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、[〔(yは)牛であるか、または、(yは)馬であり、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在し]ない。}といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「読み方」は、「述語論理訓読」である。
平成28年03月31日、毛利太。

2016年3月23日水曜日

述語論理訓読、漢文訓読(Ⅲ)。

―「03月21日の記事」を書き直します。―
(01)
① ∀y∃x親(xy)
② ∀y∃x親(yx)
③ ∃y∀x親(yx)
④ ∃y∀x親(xy)
然るに、
(02)
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、AIプログラミング、2008年、13頁)。
むやみに括弧が多くなることは我慢でないのである(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、59頁)。
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① ∀y(∃x(親(xy)))
② ∀y(∃x(親(yx)))
③ ∃y(∀x(親(yx)))
④ ∃y(∀x(親(xy)))
然るに、
(04)
① ∀y(∃x(親(xy)))
② ∀y(∃x(親(yx)))
③ ∃y(∀x(親(yx)))
④ ∃y(∀x(親(xy)))
に於いて、「左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を、先に読むことにする」。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① ∀y∃x親(xy)
② ∀y∃x親(yx)
③ ∃y∀x親(yx)
④ ∃y∀x親(xy)
といふ「述語論理」は、
① ∀y(∃x(親(xy)))
② ∀y(∃x(親(yx)))
③ ∃y(∀x(親(yx)))
④ ∃y(∀x(親(xy)))
といふ「述語論理」と、
① (((xy)親)∃x)∀y
② (((yx)親)∃x)∀y
③ (((yx)親)∀x)∃y
④ (((xy)親)∀x)∃y
といふ「述語論理」に等しい。
然るに、
(06)
  ~=ではない。
  ∨=または、
  &=尚且つ、
  →=ならば、
( )=といふ
 ∃x=そのやうなxが存在する。
 ∀x=ことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことにする。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① ∀y∃x親(xy)
② ∀y∃x親(yx)
③ ∃y∀x親(yx)
④ ∃y∀x親(xy)
といふ「述語論理」に対して、「括弧」を用ゐて、
① (((xy)親)∃x)∀y=
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなxが存在する。)といふことは、全てのyに於いて、正しい。
② (((yx)親)∃x)∀y=
② (((yはxの)親である。)といふ、そのやうなxが存在する。)といふことは、全てのyに於いて、正しい。
③ (((yx)親)∀x)∃y=
③ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。)といふ、そのやうなyが存在する。
④ (((xy)親)∀x)∃y=
④ (((xはyの)親である。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。)といふ、そのやうなyが存在する。
といふ風に、読むことにする。
然るに、
(08)
① (((xy)親)∃x)∀y=
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうな親xが存在する。)といふことは、全てのyに於いて、正しい。
といふことは、
① 全てのyには、親であるxがゐる。
といふことである。
(09)
② (((yx)親)∃x)∀y=
② (((yはxの)親である。)といふ、そのやうなxが存在する。)といふことは、全てのyに於いて、正しい。
といふことは、①とは「逆」に、
② 全てのyには、子であるxがゐる。
といふことである。
(10)
③ (((yx)親)∀x)∃y=
③ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。)といふ、そのやうなyが存在する。
といふことは、
③ 全てのxの親はyである。
といふことである。
(11)
④ (((xy)親)∀x)∃y=
④ (((xはyの)親である。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。)といふ、そのやうなyが存在する。
といふことは、③とは「逆」に、
④ 全てのxの子はyである。
といふことである。
従って、
(08)~(11)により、
(12)
① 全てのyには、親であるxがゐる。
② 全てのyには、子であるxがゐる。
③ 全てのxの親はyである。
④ 全てのxの子はyである。
然るに、
(13)
「xとy」は、この場合は、「人間」である。
従って、
(12)(13)により、
(14)
① 全ての人には、親であるxがゐる。
② 全ての人には、子であるxがゐる。
③ 全ての人の親はyである。
④ 全ての人の子はyである。
然るに、
(15)
① 全ての人には、親であるxがゐる(た)。
といふ「命題」は「真(本当)」であるが、
② 全ての人には、子であるxがゐる。
といふのは、「明らかに例外のある一般化である(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、126頁)」。
(16)
③ 全ての人の親はyである。
といふのであれば、「ある人はすべての人の親であるという、明らかに偽なることを主張しており、また
④ 全ての人の子はyである。
は、ある人がすべての人を親としてもつということ主張しているが、これはなさら明らかに偽である(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、126頁)」。
従って、
(15)(16)により、
(17)
① ∀y(∃x(親(xy)))=
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなxが存在する。)といふことは、全てのyに於いて、正しい。
② ∀y(∃x(親(yx)))=
② (((yはxの)親である。)といふ、そのやうなxが存在する。)といふことは、全てのyに於いて、正しい。
③ ∃y(∀x(親(yx)))=
③ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。)といふ、そのやうなyが存在する。
④ ∃y(∀x(親(xy)))=
④ (((xはyの)親である。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。)といふ、そのやうなyが存在する。
といふ「解釈」は、正しい。
然るに、
(18)
「xとy」は、「変数(仮の名前)」であるため、
① 全ての人には、親であるxがゐる。
② 全ての人には、子であるxがゐる。
③ 全ての人の親はyである。
④ 全ての人の子はyである。
といふ「言ひ方」は、
① 全ての人には、親であるyがゐる。
② 全ての人には、子であるyがゐる。
③ 全ての人の親はxである。
④ 全ての人の子はxである。
といふ「言ひ方」と、「同じこと」である。
従って、
(18)により、
(19)
② ∀y(∃x(親(yx))) は、
② ∀x(∃y(親(xy))) と、「同じこと」である。
然るに、
(15)(16)により、
(20)
② ∀y(∃x(親(yx))) と、
④ ∃y(∀x(親(xy))) は、「同じ」ではない。
従って、
(19)(20)により、
(21)
② ∀x(∃y(親(xy))) と、
④ ∃y(∀x(親(xy))) は、「同じ」ではない。
従って、
(22)
述語論理
www.brl.ntt.co.jp/people/fujita/2012ai/materials/AI06.pdf
の「書き方」に合はせるならば、
② ∀x∃yp(x,y) と、
④ ∃y∀xp(x,y) は、「同じ」ではない。
然るに、
(23)
藤田(fujita)氏は、
② ∀x∃yp(x,y) 
④ ∃y∀xp(x,y)
といふ「述語論理」を、
② すべてのxについて、それぞれp(x,y)であるようなxが存在する。
④ あるyが存在し、そのyに対してすべてのxについてp(x,y)である。
といふ風に、読んでゐる。
従って、
(24)
② ∀x(∃y(P(xy)))=
② (((xはyに対して)Pである。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
④ ∃y(∀x(P(xy)))=
④ (((xはyに対して)Pである。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。)といふ、そのやうなyが存在する。
といふ「読み方」は、普通は、なされない。
然るに、
(25)
② ∀x∃yP(xy)=
② ∀x[∃y〔P(xy)〕]
に於いて、
 P( )⇒( )P
∃y〔 〕⇒〔 〕∃y
∀x[ ]⇒[ ]∀x
といふ「倒置」を行ふと、
② ∀x[∃y〔P(xy)〕]⇒
② [〔(xy)P〕∃y]∀x=
② [〔(xはyに対して)Pである〕といふ、そのようなyが存在する。]といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「読み方」が、成立する。
然るに、
(26)
② 非不読漢文=
② 非[不〔読(漢文)〕]
読( )⇒( )読
不〔 〕⇒〔 〕不
非[ ]⇒[ ]非
といふ「倒置」を行ふと、
② 非[不〔読(漢文)〕]⇒
② [〔(漢文)読〕不]非=
② [〔(漢文を)読ま〕不る]非ず。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(27)
② ∀y∃x親(yx)=
② take any y:then there is x such that y is parent of x(Beginning Logic by E.J. Lemmon,1965年、99頁改).
であるため、
② ∀y∃x親(yx)
のオリジナルは、「英語」である。
従って、
(05)(24)~(27)により、
(28)
② ∀y∃x親(yx)=
② take any y:then there is x such that y is parent of x.
といふ「読み方」に対して、
② ∀x[∃y〔P(xy)〕]⇒
② [〔(xy)P〕∃y]∀x=
② [〔(xはyに対して)Pである〕といふ、そのようなyが存在する。]といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「読み方」を、「述語論理訓読」と呼ぶことにする。
従って、
(29)
⑤ ∃x[少女(x)&∀y〔少年(y)→愛(yx)〕]⇒
⑤ [(x)少女&〔(y)少年→(yx)愛〕∀y]∃x=
⑤ [(xは)少女であって、尚且つ、〔(yが)少年であるならば、(yはxを)愛する。〕といふことが、全てのyに於いて、正しい。]といふ、そのやうなxが存在する。
といふ「読み方」は、「述語論理訓読」である。
(30)
⑥ ∀x[少年(x)→∃y〔少女(y)&愛(xy)〕]⇒
⑥ [(x)少年→〔(y)少女&(xy)愛〕∃y]∀x=
⑥ [(xが)少年であるならば、〔(yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。〕といふ、そのやうなyが存在する。]といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「読み方」は、「述語論理訓読」である。
(31)
⑦ ∀x[∃y〔馬(y)&頭(xy)〕→∃y〔動物(y)&頭(xy)〕]⇒
⑦ (((y)馬&(xy)頭)∃y→〔(y)動物&(xy)頭〕∃y)∀x=
⑦ [〔(yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、〔(yは)動物であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在する。]といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「読み方」は、「述語論理訓読」である。
cf.
⑦ 馬の頭は、必ず、動物の頭である=
⑦ 馬に頭が有るならば、その頭は動物の頭である=
⑦ xが或る馬の頭であるならば、xは或る動物の頭である。といふことに、例外は無い=
⑦ xが或る馬の頭であるならば、xは或る動物の頭である。といふことは、全てのxに於いて、正しい=
⑦ Anything that is a head of a horse is a head of an animal(Beginning Logic by E.J. Lemmon,1965年、131頁).


然るに、
(32)
⑤ ∃x[少女(x)&∀y〔少年(y)→愛(yx)〕]
といふ「述語論理」は、
⑤ 少女為全少年所愛=
⑤ 少女為〔全少年所(愛)〕⇒
⑤ 少女〔全少年(愛)所〕為=
⑤ 少女〔全少年の(愛する)所と〕為る=
⑤ 全ての少年が愛してゐる所の少女が存在する。
といふ「漢文」に相当する。
(33)

⑥ ∀x[少年(x)→∃y〔少女(y)&愛(xy)〕]
といふ「述語論理」は、
⑥ 少年皆有其所愛少女=
⑥ 少年皆有〔其所(愛)少女〕⇒
⑥ 少年皆〔其(愛)所少女〕有=
⑥ 少年皆〔其の(愛する)所の少女〕有り=
⑥ 全ての、それぞれの少年には、愛してゐる所の少女がゐる。
といふ「漢文」に相当する。
(34)
⑦ ∀x[∃y〔馬(y)&頭(xy)〕→∃y〔動物(y)&頭(xy)〕]
といふ「述語論理」は、例へば、
⑦ 如馬有頭則其頭当為動物頭=
⑦ 如馬有(頭)則其頭当〔為(動物頭)〕⇒
⑦ 如馬(頭)有則其頭当〔(動物頭)為〕=
⑦ 如し馬に(頭)有らば則ち其の頭は当に〔(動物の頭)為る〕べし=
⑦ もし馬に頭が有るならば、その頭は当然、動物の頭でなければならない。
といふ「漢文」に相当する。
従って、
(28)~(34)により、
(35)
「漢文訓読」が可能であるやうに、「述語論理訓読」も可能である。
「述語論理訓読」が可能であるやうに、「漢文訓読」も可能である。
然るに、
(36)
同じ意味内容ものが修辞とか倒置法とかによっていろいろの形態で表現されうるが、論理学では、表現形態が相異なったいくつかの文が同じ意味内容を示すかぎり、それらを同一の命題としてとりあつかう、また日本語で表わそうと外国語で書こうと、同一の主張内容を示すかぎり、同一の命題と見なされる(上田泰治、論理学、1967年、40頁)。
従って、
(35)(36)により、
(37)
⑧ ∀x{∃y〔馬(y)&頭(xy)〕→~[∃y〔牛(y)&頭(xy)〕]}⇒
⑧{〔(y)馬&(xy)頭〕∃y→[〔(y)牛&(xy)頭〕∃y]~} ∀x=
⑧{〔(yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、[〔(yは)牛であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyは存在し]ない。}といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「述語論理訓読」を行ふことには、何らの「問題」も無い。
従って、
(38)
⑧ ∀x{∃y〔馬(y)&頭(xy)〕→~[∃y〔牛(y)&頭(xy)〕]}⇒
⑧{〔(y)馬&(xy)頭〕∃y→[〔(y)牛&(xy)頭〕∃y]~} ∀x=
⑧{〔(yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、[〔(yは)牛であって、尚且つ、(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在し]ない。}といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「述語論理訓読」を行ふことが、「正しい」のであれば、
⑧ 如馬有頭則其頭不当為牛頭=
⑧ 如馬有(頭)則其頭不[当〔為(牛頭)〕]⇒
⑧ 如馬(頭)有則其頭[当〔(牛頭)為〕]不=
⑧ 如し馬に(頭)有らば則ち其の頭は[当に〔(牛の頭)為る〕べから]不。
⑧ もしも馬に頭が有るのであれば、その頭は、当然、牛の頭であるべきではない。
といふ「漢文訓読」を行ふことにも、何らの「問題」も無い。
然るに、
(39)
如=J
馬=B
有=Y
頭=Z
則=S
其=K
頭=Z
不=F
当=T
為=W
動=A
物=R
頭=Z
とすれば、
⑦ 如馬有頭則其頭不当為動物頭=
⑦ JBYZSKZFTWARZ。
である。
従って、
(40)
⑦ 如馬有頭則其頭不当為動物頭=
⑦ JBYZSKZ不TWARZ。
であることから、「漢文」は、「xやy」といふ「変数」を必要としない、「述語論理(のやうな言語)」である。
従って、
(38)(40)により、
(41)
「漢文」は、固より、「述語論理」のやうな「言語」である。と、するならば、
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
といふ具合に、「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと、嘆く、必要は、無い。
(42)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
然るに、
(43)
この辞典では、音韻論によって復元できる発音の姿を「上古(周・秦・漢)―中古(隋・唐)―中世(宋・元・明)―現代(北京式ローマ字綴りもそえた)」四段式に分けて、おもな親字につけた(学研漢和大辞典、1978年、編者のことば)。
従って、
(44)
「論語や孟子」を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読するのでなく、「上古(周・秦・漢)」で読むのであれば、分らないでもない。
(45)
① ∀y∃xP(xy)=
① take any y:then there is x such that x is parent of y.
に於いて、
① take any y:then there is x such that x is parent of y.
は「英語」であるが、
① ∀y∃xP(xy)
は「英語」ではない。
然るに、
(46)
漢文はその発生の初めから知的に整理された中国の文章語で、紀元前の文献である『論語』や『孟子』のころにはすでに記載語として成立していた。その文章は当時の口語の煩雑さを整理して、より簡潔な形に凝集させたものである。― 中略 ―、このようにして文章語が口語よりもより簡潔な形であると意識されたとき、文章語は意識的に簡潔な上にも簡潔な方向へと自らを練り上げて行った。『論語』の文章はすでにその段階にあり、当時の口語とは相当の違いがあったと推察される(ウィキペディア:漢文)。
従って、
(45)(46)により、
(47)
① take any y:then there is x such that x is parent of y.
に対する、
① ∀y∃xP(xy)
といふ「述語論理」が、「英語」ではないやうに、
① 毎个人都有自己的父母(グーグル翻訳)。
に対する、
① 人皆有親。
といふ「漢文」は、「中国語(北京語)」ではない。
従って、
(41)~(47)により、
(48)
従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにする。
といふ「方法」が、「正しい方法」であるとは、私には、思へない。
平成28年03月23日、毛利太。

2016年3月20日日曜日

括弧、集合数、順序数、返り点。

―「03月19日の記事」を書き直します。―
(01)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、三八九頁)
然るに、
(02)
① 読(漢文)⇒
① (漢文)読=
① (漢文を)読む。
に於いて、
① 読 は、
① 漢文 といふ「2つの漢字」に係ってゐる。
(03)
② 不〔読(漢文)〕⇒
② 〔(漢文)読〕不=
② 〔(漢文を)読ま〕ず。
に於いて、
② 不 は、
② 読漢文 といふ「3つの漢字」に係ってゐる。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
② 不読漢文。
に於いて、
② 読 の「管到」は、「2字」であり、
② 不 の「管到」は、「3字」である。
然るに、
(05)
K(囗)=N
と書いて、「囗 の管到は、N字である。」と、読むことにする。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE。
に於いて、
K(有)=K(F)=12
K(不)=K(D)=10
K(求)=K(C)= 8
K(以)=K(8)= 4
K(解)=K(6)= 2
K(解)=K(B)= 2
であるならば、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉。
然るに、
(07)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉。
に於いて、
6( )⇒( )6
8〔 〕⇒〔 〕8
B( )⇒( )B
C[ ]⇒[ ]C
D{ }⇒{ }D
F〈 〉⇒〈 〉F
といふ「倒置」を行ふと、
③ 12〈{3[〔6(45)7〕8(9A)B]C}DE〉F=
③ 中野〈{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉有=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんことを求めざる者有り。
然るに、
(08)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、二九六頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉。
に於ける、
③       〈 {  [ 〔 (  ) 〕 (  )]} 〉
といふ「括弧」は、「管到」を表してゐて、尚且つ、「管到」は、「補足構造」に他ならない。
然るに、
(10)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE。
に於いて、
③ 12FD3C86457B9AE⇒
③ 123456789ABCDEF。
といふ「並び替へ(ソート)」を行ふと、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE⇒
③ 123456789ABCDEF=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんことを求めざる者有り。
従って、
(07)(10)により、
(11)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉⇒
③ 12〈{3[〔6(45)7〕8(9A)B]C}DE〉F=
③ 中野〈{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉有=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんことを求めざる者有り。
に於ける、
③       〈 {  [ 〔 (  ) 〕 (  )]} 〉
③ 12F D 3C 8 6 45 7 B 9A   E
といふ「括弧」と「数」は、「管到」を表してゐて、尚且つ、「管到」は、「補足構造」に、他ならない。
然るに、
(12)
〔問題1〕
数字の順序で読めるように返り点を付けよ。
③ 12FD3C86457B9AE。
cf.

従って、
(11)(12)により、
(13)
③       〈 {  [ 〔 (  ) 〕 (  )]} 〉
③ 12F D 3C 8 6 45 7 B 9A   E
③   地 丁  丙 下 二  一 上 乙  甲   天
といふ「括弧」と「数」と「返り点」は、「管到」を表してゐて、尚且つ、「管到」は、「補足構造」に、他ならない。
然るに、
(14)
数は実際の使い方によって,ものの集まりの大きさ(集合の要素の数)を表す集合数(計量数)と,ある物の順番を表す順序数の2つがあります。
教科書では,前から4番目の人を指す順序数としての4と,前から4人を指す集合数としての4を取り上げ,その違いをはっきりさせています。
(Webサイト:集合数・順序数|算数用語集)
従って、
(14)により、
(15)
③ 1番 2番 15番 3番 13番 12番 8番 6番 4番 5番 7番 11番 9番 10番 14番
③ 1個 2個 15個 3個 13個 12個 8個 6個 4個 5個 7個 11個 9個 10個 14個
に於いて、「前者」は「順序数」であって、「後者」は「集合数」である。
従って、
(15)により、
(16)
例へば、
3=囗囗囗 といふ「集合数」は、
2=囗囗  といふ「集合数」と、
1=囗   といふ「集合数」を「含んでゐる」。
従って、
(16)により、
(17)
1=(囗)
2=(囗囗)
F=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
D=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
3=(囗囗囗)
C=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
8=(囗囗囗囗囗囗囗囗)
6=(囗囗囗囗囗囗)
4=(囗囗囗囗)
5=(囗囗囗囗囗)
7=(囗囗囗囗囗囗囗)
B=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
9=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
A=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
E=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
に於いて、
F=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
E=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)から、
3=(囗囗囗)までの、「12個の集合数」を、「含んでゐる」。
(18)
D=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
3=(囗囗囗)
C=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
8=(囗囗囗囗囗囗囗囗)
6=(囗囗囗囗囗囗)
4=(囗囗囗囗)
5=(囗囗囗囗囗)
7=(囗囗囗囗囗囗囗)
B=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
9=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
A=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
に於いて、
D=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
C=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)から、
3=(囗囗囗)までの、「10個の集合数」を、「含んでゐる」。
(19)
C=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
8=(囗囗囗囗囗囗囗囗)
6=(囗囗囗囗囗囗)
4=(囗囗囗囗)
5=(囗囗囗囗囗)
7=(囗囗囗囗囗囗囗)
B=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
9=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
A=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
に於いて、
C=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
B=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)から、
4=(囗囗囗囗)までの、「8個の集合数」を、「含んでゐる」。
(20)
8=(囗囗囗囗囗囗囗囗)
6=(囗囗囗囗囗囗)
4=(囗囗囗囗)
5=(囗囗囗囗囗)
7=(囗囗囗囗囗囗囗)
に於いて、
8=(囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
7=(囗囗囗囗囗囗囗)から、
4=(囗囗囗囗)までの、「4個の集合数」を、「含んでゐる」。
(21)
6=(囗囗囗囗囗囗)
4=(囗囗囗囗)
5=(囗囗囗囗囗)
に於いて、
6=(囗囗囗囗囗囗)は、
5=(囗囗囗囗囗)から、
4=(囗囗囗囗)までの、「2個の集合数」を、「含んでゐる」。
(22)
B=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
9=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
A=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
に於いて、
B=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
A=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗囗)から、
9=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗)までの、「2個の集合数」を、「含んでゐる」。
然るに、
(23)
S(囗)=N
と書いて、「囗 は、N個の集合数を含んでゐる。」と、読むことにする。
従って、
(05)(23)により、
(24)
K(囗)=N
と書いて、「囗 の管到は、N字である。」    と、読むことにする。
S(囗)=N
と書いて、「囗 は、N個の集合数を含んでゐる。」と、読むことにする。
従って、
(04)(11)(17)~(24)により、
(25)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉。
に於いて、
K(F)=S(F)=12
K(D)=S(D)=10
K(C)=S(C)= 8
K(8)=S(8)= 4
K(6)=S(6)= 2
K(B)=S(B)= 2
である。
従って、
(26)
(11)(24)(25)により、
(27)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉⇒
③ 12〈{3[〔6(45)7〕8(9A)B]C}DE〉F=
③ 中野〈{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉有=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんことを求めざる者有り。
に於ける、
③       〈 {  [ 〔 (  ) 〕 (  )]} 〉
③ 12F D 3C 8 6 45 7 B 9A   E
といふ「括弧」と「集合数」は、「管到」を表してゐて、尚且つ、「管到」は、「補足構造」に他ならない。
然るに、
(28)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである。
(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)
従って、
(17)~(28)により、
(29)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、
「順序数(音声)」として、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 123456789ABCDEF。
であるべきである。といふ風にだけ、述べてゐて、
「集合数(視覚)」として見れば、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE。
である。といふことについては、関心を、示してゐない。
(30)
④ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑤ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側の単語が、( と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
とするのであれば、
④ x 少女 & y 少年 → yx 愛 ∀y ∃x
⑤ x 少年 → y 少女 & xy 愛 ∃y ∀x
といふ「順番」で、読むことになる。
従って、
(31)
④ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側の単語が、( と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
とするならば、
④ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛する。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ風に、読むことが、出来る。
(32)
⑤ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑤ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(33)
④ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))=
④ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛する。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ「述語論理」は、
④ 少女為全少年所愛=
④ 少女為〔全少年所(愛)〕⇒
④ 少女〔全少年(愛)所〕為=
④ 少女〔全少年の(愛する)所と〕為る=
④ 全ての少年が愛してゐる所の少女が存在する。
といふ「漢文」に相当する。

(34)
⑤ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
⑤ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「述語論理」は、
⑤ 少年皆有其所愛少女=
⑤ 少年皆有〔其所(愛)少女〕⇒
⑤ 少年皆〔其(愛)所少女〕有=
⑤ 少年皆〔其の(愛する)所の少女〕有り=
⑤ 全ての、それぞれの少年には、愛してゐる所の少女がゐる。
といふ「漢文」に相当する。
従って、
(35)
④ 少女為全少年所愛。
⑤ 少年皆有其所愛少女。
といふ「漢文」を、
④ 全ての少年が愛してゐる所の少女が存在する。
⑤ 全ての、それぞれの少年には、愛してゐる所の少女がゐる。
といふ風に、「訓読」してはならない。とすることは、
④ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑤ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
といふ「述語論理」を、
④ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛する。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
⑤ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、「訓読」してはならない。としてゐることに、等しい。
然るに、

(36)
④ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑤ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
は、「学習しなければ読めない」といふ意味では、「外国語の一種」である。
従って、
(34)(35)により、
(37)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」か。
といふのであれば、
④ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑤ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
の場合は、「母国語の語順で読んでも良い、外国語」である。
といふことになる。
従って、
(34)~(37)により、
(37)
だとすれば、
④ 少女為全少年所愛=
④ 少女為〔全少年所(愛)〕。
⑤ 少年皆有其所愛少女=
⑤ 少年皆有〔其所(愛)少女〕。
であっても、
④ 少女、全少年の愛する所と為る。
⑤ 少年皆、其の愛する所の少女有り。
といふ風に、「訓読」してはならないとは、言へないはずである。

平成28年03月20日、毛利太(onomameus)。

2016年3月17日木曜日

漢文の文法(シンタックス)。

―「03月16日の記事」を書き直します。―
(01)
① 読(漢文)⇒
① (漢文)読=
① (漢文を)読む。
に於いて、
① 読  は、
① 漢文 の「2字」に係ってゐる。
然るに、
(02)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である。管到の「管」は「領(おさめる)」の意味とほぼ同じと考えてよい。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、三八九頁)
それ故、
(01)(02)により、
(03)
① 読(漢文)⇒
① (漢文)読=
① (漢文を)読む。
に於いて、
① 読  の「管到」は、
① 漢文 の「2字」である。
この時、
(04)
Κ(読)=2
と書いて、「読 の管到は、2である。」と、読むことにする。
従って、
(05)
② 不〔読(漢文)〕⇒
② 〔(漢文)読〕不=
② 〔(漢文を)読ま〕ず。
の場合は、
Κ(不)=3
である。
従って、
(03)(05)により、
(06)
② 不〔読(漢文)〕⇒
② 〔(漢文)読〕不=
② 〔(漢文を)読ま〕ず。
に於いて、
Κ(読)=2
Κ(不)=3
である。
従って、
(07)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE。
に於いて、
Κ(有)=Κ(F)=12
Κ(不)=Κ(D)=10
Κ(求)=Κ(C)= 8
Κ(以)=Κ(8)= 4
Κ(解)=Κ(6)= 2
Κ(解)=Κ(B)= 2
であるならば、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉。
である。
然るに、
(08)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉。
に於いて、
6( )⇒( )6
8〔 〕⇒〔 〕8
B( )⇒( )B
C[ ]⇒[ ]C
D{ }⇒{ }D
F〈 〉⇒〈 〉F
といふ「倒置」を行ふと、
③ 12〈{3[〔6(45)7〕8(9A)B]C}DE〉F=
③ 中野〈{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉有=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんことを求めざる者有り。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(09)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、二九六頁)
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉。
に於ける、
③    〈 {  [ 〔 (  ) 〕 (  )]} 〉
といふ「括弧」は、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者。
といふ「漢文」に於ける、「補足構造」を表してゐる。
然るに、
(11)
④ 321。
⑤ 162543。
⑥ 7312645。
であれば、「これら」に対する「括弧」は、「見た瞬間」に、
④ 3〔2(1)〕。
⑤ 16〔25(43)〕。
⑥ 7〔3(12)6(45)〕。
であることが、分る。
従って、
(11)により、
(12)
③ 12FD3C86457B9AE。
であっても、「訓練」により、「見た瞬間」に、
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉。
であることが、分るやうになることは、「可能」である。
然るに、
(13)
③ 12FD3C86457B9AE。
といふ「数」を、
③ 123456789ABCDEF。
といふ「順番」に「並び替へ(ソートす)る」際の「括弧」は、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
以外には、有り得ない。
従って、
(12)(13)により、
(14)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者。
に対する「括弧(補足構造)」が、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
であることは、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者。
といふ「漢文」自体が、示してゐるのと、同様に、
③ 12FD3C86457B9AE。
に対する「括弧(補足構造)」が、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
であることは、
③ 12FD3C86457B9AE。
といふ「数」自体が、そのことを示してゐる。
従って、
(10)(14)により、
(15)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE⇒
③ 123456789ABCDEF=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんことを求めざる者有り。
といふ「漢文訓読」に於ける、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者。
といふ「漢文」の「補足構造」は、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
といふ「括弧」と、
③ 12FD3C86457B9AE
といふ「数」が、示してゐる。
従って、
(08)(15)により、
(16)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者。
といふ「漢文」の「補足構造」は、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
③ 12FD3C86457B9AE
といふ『括弧と数』が、示してゐて、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんことを求めざる者有り。
といふ「漢文訓読」の「語順」も、
③ 〈 { [ 〔 ( ) 〕( ) ] } 〉
③ 12FD3C86457B9AE
といふ『括弧と数』が、示してゐる。
然るに、
(17)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文__者=
③ 12FD3C86457B9A00E=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)_]_}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)_]_}E〉。
に於いて、
6( )⇒( )6
8〔 〕⇒〔 〕8
B( )⇒( )B
C[ ]⇒[ ]C
D{ }⇒{ }D
F〈 〉⇒〈 〉F
といふ「倒置」を行ふと、
③ 12〈{3[〔6(45)7〕8(9A)B_]C_}DE〉F=
③ 中野〈{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解_]求_}不者〉有=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんこと_を求め_ざる者有り。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(17)により、
(18)
( )=二 一
〔 〕=下 上
[ ]=乙 甲
{ }=地 天
〈 〉=坤 乾
とするならば、
③ 中野有不必求以解英文法解漢文__者=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんこと_を求め_ざる者有り。
に付く「返り点」は、
③ 〈 { [ 〔 ( )  〕( )  ] } 〉
③ 坤 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天 乾
である。
然るに、
(19)
この場合、
_ は「黙字」であって、「発音されず」、尚且つ、「書かなくとも良い」ものとする。
従って、
(17)~(19)により、
(20)
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉。
に於ける、
③ 〈 { [ 〔 ( )  〕( )  ] } 〉
といふ「括弧」は、
③ 坤 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天 乾
といふ「返り点」であると、見なすことも、可能である。
cf.

従って、
(21)
「括弧」は、
( )=二 一
〔 〕=下 上
[ ]=乙 甲
{ }=地 天
〈 〉=坤 乾
 _ =黙字
からなる、「返り点」であると、見なすことも、可能である。
然るに、
(22)
漢語文法の基礎となっている文法的な関係として、次の四つの関係をあげることができる。
(一)主述関係  主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
(四)並列関係 並列語 ― 並列語
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281~284頁改)
従って、
(22)により、
(23)
③ 中野有不必求以解英文法解漢文者=
③ 12FD3C86457B9AE=
③ 中野有〈不{必求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]}者〉=
③ 12F〈D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉⇒
③ 12〈{3[〔6(45)7〕8(9A)B]C}DE〉F=
③ 中野〈{必[〔(英文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉有=
③ 中野に必ずしも英文を解する法を以て漢文解せんことを求めざる者有り。
に於ける、
③    〈 {  [ 〔 (  ) 〕 (  )]} 〉
といふ「括弧」は、
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
だけを、表してゐる。
然るに、
(24)
中=1=形容詞(middle)
野=2=名 詞(field)
必=3=副 詞(always)
英=4=形容詞(English)
文=5=名 詞(writing)
法=7=名 詞(method)
漢=9=形容詞(Chinese)
文=A=名 詞(writing)
者=C=名 詞(person)
従って、
(22)(23)(24)により、
(25)
1+2>F〈D{3+C[8〔6(4+5)+7〕B(9+A)]}+E〉。
とすることにより、
に於ける、「+」と「括弧」は、
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
を表してゐる。
従って、
(25)に加へて、
(26)
(一) 主語>述語
(四)並列語・並列語
とすれば、
1+2>F〈D{3+C[8〔6(4・5)+7〕B(9+A)]}+E〉。
とすることにより、
に於ける、「>」と「+」と「括弧」と「・」は、
1+2>F〈D{3+C[8〔6(4・5)+7〕B(9+A)]}+E〉。
に於ける、
(一)主述関係  主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
(四)並列関係 並列語 ― 並列語
を表してゐる。
従って、
(27)
(Ⅰ)>
(Ⅱ)+
(Ⅲ)( )〔 〕[ ]{ }〈 〉
(Ⅳ)・
を用ゐることにより、
(一)主述関係  主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
(四)並列関係 並列語 ― 並列語
といふ、「漢語文法の基礎となっている文法的である所の四つの関係」を、表すことが、出来る。
然るに、
(28)
デジタル大辞泉の解説
かく‐じょし【格助詞】
助詞の種類の一。体言または体言に準ずるものに付いて、それが文中で他の語とどんな関係にあるかを示す助詞。
従って、
(27)(28)により、
(29)
(Ⅰ)>
(Ⅱ)+
(Ⅲ)( )〔 〕[ ]{ }〈 〉
(Ⅳ)・
は、言はば、「格助詞(Case particle)」である。
平成28年03月17日、毛利太。

2016年3月12日土曜日

「括弧」と「補足構造」と「順番」と「返り点」。

(01)
一=(囗)
二=(囗囗)
三=(囗囗囗)
四=(囗囗囗囗)
五=(囗囗囗囗囗)
六=(囗囗囗囗囗囗)
七=(囗囗囗囗囗囗囗)
八=(囗囗囗囗囗囗囗囗)
九=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗)
といふ風に、「理解」する。
従って、
(02)
九=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
八=(囗囗囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
八=(囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
七=(囗囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
七=(囗囗囗囗囗囗囗)は、
六=(囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
六=(囗囗囗囗囗囗)は、
五=(囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
五=(囗囗囗囗囗)は、
四=(囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
四=(囗囗囗囗)は、
三=(囗囗囗) 以下を「含んでる」。
三=(囗囗囗)は、
二=(囗囗) 以下を「含んでる」。
二=(囗囗)は、
一=(囗) 以下を「含んでる」。
一=(囗)は、
〇=( )を「含んでる」。
従って、
(03)
九は、八を「含んでゐ」て、八は、七を「含んでゐ」て、
七は、六を「含んでゐ」て、六は、五を「含んでゐ」て、
五は、四を「含んでゐ」て、四は、三を「含んでゐ」て、
三は、二を「含んでゐ」て、二は、一を「含んでゐ」て、
一は、〇を「含んでゐる」。
従って、
(04)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① 八( 七(二(一)三六(五(四))))=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxが存在し)ない。
① There is not an x such that x doesn't die.
に於いて、
 ~=八 といふ「一個の数」は、
∃x=七 以下の、
 人=二
 x=一
 &=三
 ~=六
 死=五
 x=四 
といふ、「七個の数」を含んでゐて、
∃x=七 といふ「一個の数」は
 人=二 以下の、
 x=一
 &=三
 ~=六
 死=五
 x=四
といふ、「六個の数」を含んでゐる。
然るに、
(05)
Nは、「(N-1)個の数」を含んでゐる。
といふことを、
Nは、「(N-1)個の数」を「包含」する。
といふ風に、言ふことにする。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=
① 八{ 七[二(一)三六〔五(四)〕]}。
に於ける、
①  {  〔 ( )  〔 ( )〕]}
といふ「括弧」は、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
といふ「述語論理」の、「包含関係」を表してゐる。
然るに、
(07)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)。対象が有限集合の場合は述語論理も命題論理に還元できます(吉永良正、ゲーデル・不完全性定理、1992、201頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① ~{∃x[人(x)&~〔死(x)〕]}=
① 八{ 七[二(一)三六〔五(四)〕]}。
に於ける、「括弧」は、「述語論理」の、「包含関係」を表してゐて、尚且つ、「包含関係」とは、すなはち「スコープ」である。
従って、
(09)
① 不有人而不死。
といふ「漢文」に対して、
六=不
五=有
一=人
二=而
四=不
三=死
といふ「数」を与へることは、その一方で、
① 不有人而不死。
といふ「漢文」に対して、
① 不[有〔人而不(死)〕]。
といふ「包含関係(スコープ)」を与へることを、意味してゐる。
然るに、
(10)
六=不
五=有
一=人
二=而
四=不
三=死
といふ「それ」は、
一=人にし
二=て
三=死せ
四=ざるは
五=有ら
六=ず。九
といふ風に、「並び替へ(ソートす)る」ことが、出来る。
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
① 不有人而不死=
① 六五一二四三=
① 不[有〔人而不(死)〕]=
① 六[五〔一二四(三)〕]⇒
① [〔一二(三)四〕五]六=
① [〔人而(死)不〕有]不=
① 人にして死せざるは有らず。
といふ「漢文訓読」が「可能」である「所以」は、
① 不有人而不=
① 不[有〔人而不(死)〕]。
に於ける、
①  [ 〔   ( )〕]
といふ「括弧」に有る。といふことになり、尚且つ、
「括弧」=「包含関係」=「スコープ」
である。といふことになる。
然るに、
(12)
[五〔一二四(三)〕]
に於いて、
 は、一番、にあって、
① [五〔一二四(三)〕] を「含んでゐる」。
(13)
① [〔一二(三)四〕五]
に於いて、
 は、一番、にあって、
① [〔一二(三)四〕五] を「含んでゐる」。
(14)
(三)
に於いて、
 は、から、
① (三) を「含んでゐる」。
(15)
① (三)
に於いて、
①     は、から、
① (三) を「含んでゐる」。
従って、
(11)~(15)により、
(16)
① 不[有〔人而不(死)〕]=
① 六[五〔一二四(三)〕]⇒
① [〔一二(三)四〕五]六=
① [〔人而(死)不〕有]不。
に於いて、
「括弧」=「包含関係」=「スコープ」
に、「変はり」は無い。
然るに、
(17)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である。管到の「管」は「領(おさめる)」の意味とほぼ同じと考えてよい。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、三八九頁)
然るに、
(18)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、二九六頁)
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
② 有欲揮快刀断乱麻者=
② 九七三一二六四五八=
② 有[欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕者]=
② 九[七〔三(一二)六(四五)〕八]⇒
② [七〔(一二)三六(四五)〕八]九=
② 一二 三  四五 六   七   八九=
② 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者有り。
といふ「漢文訓読」が「可能」である「所以」は、
② 有欲揮快刀断乱麻者=
② 有[欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕者]
に於ける、
②  [ 〔 (  ) (  )〕 ]
といふ「括弧」に有る。といふことになり、尚且つ、
「括弧」=「包含関係」=「スコープ」=「補足構造」
である。といふことになる。
然るに、
(20)
③ 揮快断刀。 
といふ「漢文」は、
③ 快断刀を断つ。
といふ風にしか、「訓読」することが、出来ない。
従って、
(21)
固より、
③ 有欲揮快断刀乱麻者=
② 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者有り。
といふ「漢文訓読」は、有り得ない。
加へて、
(22)
② 三(一二)六(四五)
といふ「包含関係(補足構造)」を、仮に、
② 三(一二)四五
に変へてしまふと、
③ 三一六二
に於いて、
三=(囗囗囗)は、
一=(囗) と、
二=(囗囗)を「含んでゐる」ものの、
三=(囗囗囗)は、
六=(囗囗囗囗囗囗)を、「含んでゐない」。
然るに、
(23)
六=(囗囗囗囗囗囗)は、
五=(囗囗囗囗囗) を、「含んでゐる」ため、
② 三(一二)四五   は、
② 三(一〔二)四五〕 でなければ、成らない。
従って、
(23)により、
(24)
② 有欲揮快刀断乱麻者=
② 九七三一二六四五八。
といふ「包含関係(補足構造)」を、仮に、
③ 有欲揮快断刀乱麻者=
③ 九七三一二四五八。
に変へてしまふと、「包含関係(補足構造)」が「破綻」する。
然るに、
(25)
② 九七三一六二四五八
② 有欲揮快断刀乱麻者。
といふ「それ」を、
③ 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者有り。
といふ風に、「括弧」を用ゐて「訓読」するためには、
③ 有{欲[揮(快断〔刀)乱麻〕]者}。
に於いて、
揮( )⇒( )揮
断〔 〕⇒〔 〕断
欲[ ]⇒[ ]欲
有{ }⇒{ }有
といふ「倒置」、行ふことになる。
然るに、
(26)
③ 有{欲[揮(快断〔刀)乱麻〕]者}。
に於いて、
③ ( )〕
は、「数学」であれば、
② ( )}
に相当するため、
③ ( )〕
を含む、
③  { [ (   )  〕] }
といふ「括弧」は、有り得ない。
加へて、
(27)
② 有欲揮快刀断乱麻者=
② 有[欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕者]⇒
② [〔(快刀)揮(乱麻)断〕欲者]有=
② 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者有り。
に対する「返り点」が、
② 乙 下 二 一 中 上 甲
である一方で、
③ 有欲揮快断刀乱麻者=
③ 有{欲[揮(快断〔刀)乱麻〕]者}⇒
③ {[(快〔刀)揮乱麻〕断]欲者}有=
③ 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者有り。
に対する「それ」は、
③ 乙 下 二  一 上 甲
cf.


である。
然るに、
(28)
上中下点(上・下、上・中・下)
必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、四三頁)
従って、
(28)により、
(29)
③     二  一
を含む、
③ 乙 下 二  一 上 甲
といふ「返り点」は、有り得ない。
従って、
(20)~(29)により、
(30)
② 有欲揮快刀断乱麻者=
② 九七三一二六四五八=
② 九七三一二六四五八。
といふ「包含関係(補足構造)」を、仮に、
③ 有欲揮快刀乱麻者=
③ 九七三一二四五八=
② 九七三一二四五八。
に変へてしまふと、「包含関係(補足構造)」が「破綻」し、尚且つ、
③  { [ (  〔 )  〕] }
といふ「括弧」は、有り得ないし、
③ 乙 下 二  一 上 甲
といふ「返り点」は、有り得ないし、固より、
③ 揮快断刀。 
といふ「漢文」は、
③ 快断刀を断つ。
といふ風にしか、「訓読」することが、出来ない。
然るに、
(31)
② 九 七 三 一 二 六 四 五 八
といふ「数」は、そのまま、
② 一二点
でもある上に、
② 9th 7th 3rd 1st 2nd 6th 4th 5th 8th
といふ「順番」を表すためには、
② 9 7 3 1 2 6 4 5 8
② 九 七 三 一 二 六 四 五 八
② Ⅸ Ⅶ Ⅲ Ⅰ Ⅱ Ⅵ Ⅳ Ⅴ Ⅷ
のやうな「数」を用ゐることが、「普通」である。
従って、
(32)
九=(囗囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
八=(囗囗囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
八=(囗囗囗囗囗囗囗囗)は、
七=(囗囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
七=(囗囗囗囗囗囗囗)は、
六=(囗囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
六=(囗囗囗囗囗囗)は、
五=(囗囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
五=(囗囗囗囗囗)は、
四=(囗囗囗囗) 以下を「含んでゐ」て、
四=(囗囗囗囗)は、
三=(囗囗囗) 以下を「含んでる」。
三=(囗囗囗)は、
二=(囗囗) 以下を「含んでる」。
二=(囗囗)は、
一=(囗) 以下を「含んでる」。
一=(囗)は、
〇=( )を「含んでる」。
といふことにより、
② 九 七 三 一 二 六 四 五 八
といふ「数」と、
② 乙 下 二   一 中   上 甲
といふ「返り点」は、
② 九[七〔三(一二)六(四五)〕八]
② 乙[下 二( 一)中( 上)〕甲]
といふ、
「括弧」=「包含関係」=「スコープ」=「管到」=「補足構造」
を表してゐる。
にも拘はらず、「そのこと」に気付くことは、普通はない。
cf.


それ故、
(33)
返り点 ‎(hiragana かえりてん, romaji kaeriten)
1.in kambun, marks that are placed in the lower left corner of a character to indicate the reading order; types include ichiniten, kōotsuten, jōgeten, tenchiten, and reten(返り点 - Wiktionary).
といふ具合ひに、「返り点は、reading orderを示すためのマークである。」といふ風にしか、理解されてゐない。
平成28年03月12日、毛利太。
然るに、
(34)
中には中国・韓国の留学生もいたが、日本式の訓読を学ぶことは必ず諸君に有益なものがあるからと、訓読を習得させた。初めはだいぶ苦労したようであるが、日本式に読めるようになった。博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
従って、
(32)(34)により、
(35)
「返り点」は、単なる「reading orderを示すためのマーク」ではなく、「括弧・包含関係・スコープ・管到・補足構造」を示してゐる。
(36)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxが存在し)ない=
① 人として死せざるは有らず=
① There is not an x such that x doesn't die.
従って、
(37)
「漢文音読」をとし、「漢文訓読」をとする人たちは、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① There is not an x such that x doesn't die.
に対して、
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxが存在し)ない。
は「述語論理」ではない。といふ風に、述べてゐる、人たちである。
然るに、
(38)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死。
といふことからすれば、「漢文」は、「x等の、変数」を伴わない、「述語論理」である。
(39)
「返り点」は、「レ点」が有ることによって、例へば、
④ 不読書=
④ 不〔読(書)〕⇒
④ 〔(書を)読ま〕不。
の「返り点」は、
④ レ レ
であって、その一方で、
⑤ 不読漢文=
⑤ 不〔読(漢文)〕⇒
⑤ 〔(漢文を)読ま〕不。
の「返り点」は、
⑤ レ 二 一
であって、
⑥ 不訓読書=
⑥ 不〔訓読(書)〕⇒
⑥ 〔(書を)訓読せ〕不。
の「返り点」は、
⑥ レ レ
ではなく、
⑥ 三 二(ハイフンに付く) 一
であると、思はれる。
従って、
(35)(39)により、
(40)
「返り点」は、単なる「reading orderを示すためのマーク」ではなく、「括弧・包含関係・スコープ・管到・補足構造」を示してゐる。ものの、「同一の括弧・包含関係・スコープ・補足構造」に対して、「二通り以上の、返り点」が、存在し、そのため、「返り点」は、初学者にとっては、それなりに難しい。
平成28年03月13日、毛利太。

漢文(述語論理sine変数)。

(01)
  ~=ではない。
  ∨=または、
  &=尚且つ、
  →=ならば、
( )=といふ
 ∃x=そのやうなxが存在する。
 ∀x=ことは、
全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、「定義(01)」する。
(02)
「述語」は、「漢字」で書く。
といふ風に、「約束(02)」する。
(03)
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
といふ風に、「約束(03)」する。
然るに、
(04)
「すべての人間は死ぬ」という文は、
∀x(H(x)→M(x))
となる。∀は全称記号と呼ばれる。「すべて」を意味するAllのAをひっくり返した記号である。
(月本洋、日本語は論理的である、2009年、114頁)
従って、
(01)~(04)により、
(05)
∀x(H(x)→M(x))=
∀x(人(x)→死(x))=
((xが)人である。ならば、(xは)死ぬ。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
然るに、
(06)
不有人而不死=
~∃人&~死=
~(∃x(人(x)&~(死(x)))=
(((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
然るに、
(07)
((xが)人である。ならば、(xは)死ぬ。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
(((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
といふことに、他ならない。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
不有人而不死=
人にして死せ不るは有らず=
∀x(人(x)→死(x))=
~(∃x(人(x)&~(死(x)))=
(((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
(09)
∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))=
((yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、(yは)動物であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
然るに、
(10)
如馬有頭則其頭為馬頭而其頭為動物頭=
如馬有(頭)則其頭為(馬頭)而其頭為(動物頭)=
如馬(頭)有則其頭(馬頭)為而其頭(動物頭)為=
如し馬に(頭)有らば則ち其の頭は(馬の頭)為りて其の頭は(動物の頭)為り。

従って、
(09)(10)により、
(11)
如馬有頭則其頭為馬頭而其頭為動物頭=
∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))=
((yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、(yは)動物であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
然るに、
(12)
この辞典には左の基準によって、約一万一〇〇〇字の親字収録した。
(学研 漢和大辞典、1978年)
然るに、
(13)
シナや極東の王国では、一般に文字をも語をも表わすものではなく、事物あるいは観念を表わすような、実物符号で書くのがならいになっている。そしてそれゆえに、たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができるのであるが、それは符号のほうが言語の及ばぬほどほど広い範囲で了解されるからである。そしてそれゆえに、語根語と(おそらく)同じほどばく大な符号があるのである。
(フランシス・ベーコン、学問の進歩、第二巻、一六・二) 
従って、
(12)(13)により、
(14)
「漢字」は、「一萬字を超える、意味を持ったABC」である。
従って、
(02)(08)~(14)により、
(15)
不有人而不死=
不(有(人而不(死)))=
∀x(人(x)→死(x))=
~(∃x(人(x)&~(死(x)))。
如馬有頭則其頭為馬頭而其頭為動物頭=
如馬有(頭)則其頭為(馬頭)而其頭為(動物頭)=
∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))=
((yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、(yは)動物であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「漢文・述語論理」がさうであるやうに、「漢文」は、「変数(x,y)」を伴はない「述語論理」である。
従って、
(15)により、
(16)
「漢文」に、「変数」はなくとも、「括弧」は有ります。
平成28年03月12日、毛利太。

2016年3月11日金曜日

「述語論理」に対する「括弧」の用法。

(01)
ド・モルガンが、明らかに健全であるにもかかわらず、伝統的論理学のわくぐみのなかでは取り扱うことができなかった論証とし挙げた、有名な、また簡単な論証がある。
There is famous and simple argument, cited by de Morgan as an example of a kind reasoning which, though patently sound, could not be handled within the framework of traditional logic.
(1)すべての馬は動物である。故にすべての馬の頭は動物の頭である(世界思想社、論理学初歩、1973年、167頁)。
(1)All horses are animals; therefore all horses'heads are animal's head(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p131).
(1)∀x(馬(x)→動物(x))├ ∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))
然るに、
(02)


然るに、
(03)
∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))=
∀x[∃y〔馬(y)&頭(xy)〕→∃y〔動物(y)&頭(xy)〕]⇒
[〔(y)馬&(xy)頭〕∃y→∃y〔(y)動物&(xy)頭〕]∀x=
[〔(yは)馬であって、尚且つ(xはyの)頭である。〕といふ、そのやうなyが存在するならば〔(yは)動物であり、尚且つ、(xはyの)頭〕である。といふそのやうなyが存在する]といふことは、全てのxに於いて、正しい。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
「返り点」の代はりに、「括弧」を、「述語論理」に対して、用ゐることは可能である。
(05)
  ~=ではない。
  ∨=または、
  &=尚且つ、
  →=ならば、
( )=といふ
 ∃x=そのやうなxが存在する。
 ∀x=ことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、「定義」する。
(06)
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
とするならば、
① xy 親 ∃y ∀x
② yx 親 ∃y ∀x
③ xy 親 ∀y ∃x
③ yx 親 ∀y ∃x
といふ「順番」で、読むことになる。
然るに、
(07)
① ∀x(∃y(親(xy)))
といふ風に、並んでゐるそれを、
① xy 親 ∃y ∀x
といふ「順番」で読むといふことは、
① ∀x(∃y(親(xy)))
に於いて、
① ∀x( )⇒( )∀x
① ∃y( )⇒( )∃y
①  親( )⇒( )親
といふ「倒置」を行ふことに、等しい。
然るに、
(06)(07)により、
(08)
① ∀x(∃y(親(xy)))=
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
(06)(07)により、
(09)
② ∀x(∃y(親(yx)))=
② (((yはxの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
(06)(07)により、
(10)
③ ∃x(∀y(親(xy)))=
③ (((xがyの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
(06)(07)により、
(11)
④ ∃x(∀y(親(yx)))=
④ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
然るに、
(12)
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
① (((yはxの)子である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
① サザエさんの家の、タラちゃんを含めて、全ての人に、子供がゐる。
といふことを、意味してゐるものの、タラちゃん(三才)に、子供はゐない。
(13)
② (((yはxの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
② (((xはyの)子である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
② 全ての人には、親がゐる。
② take any x:there is a y such that y is parent of x(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p99).
② 任意のxを選ぶとせよ。するとyがxの親であるようなyが存在する(世界思想社、論理学初歩、1973年、126頁改)。
といふ意味である。
(14)
③ (((xがyの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
③ (((yがxの)子である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、
③ 全人類の親である人が、ゐる。
③ その人には、約75億人の子供がゐる。
といふ、意味である。
(15)
④ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
④ (((xはyの)子である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、
④ タラちゃんの子供であって、尚且つ、サザエさんの子供であり、尚且つ、オバマの子供であって、尚且つ、あなたの子供である所の、誰かがゐる。
といふことに、他ならない。
然るに、
(16)
① 子供のゐない夫婦は、いくらでもゐるし、タラちゃん(三才)に、子供はゐない。
③ DNAから見て、全人類が、或る人の子供である。といふことは、有り得ない。
④ DNAから見て、全人類が、或る人の親 である。といふことは、尚のこと、有り得ない。
cf.
③ しばしば誤解を受けるが、彼女は「同世代で唯一、現生人類に対し子孫を残すことができた女性」ではない。

(ウィキペディア:ミトコンドリア・イブ)
従って、
(08)~(16)により、
(17)
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
に於いて、
② だけが、「真(本当)」である。
(18)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(水夫(y)→愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑤ x 少女 & y 少年 → yx 愛 ∀y ∃x
⑥ x 少年 → y 少女 & xy 愛 ∃y ∀x
⑦ x 綺麗 & x 少女 → y 水夫 xy ∀y ∀x 
といふ「順番」で、読むことになる。
然るに、
(19)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
といふ風に、並んでゐるそれを、
⑤ x 少女 & y 少年 → yx 愛 ∀y ∃x
といふ「順番」で読むといふことは、
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
に於いて、
⑤ ∃x( )⇒( )∃x
⑤ 少女( )⇒( )少女
⑤ ∀y( )⇒( )∀y
⑤ 少年( )⇒( )少年
⑤  愛( )⇒( )愛
といふ「倒置」を行ふことに、等しい。
(20)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑤ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛してゐる。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(21)
⑤ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛してゐる。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、「少女xは、全少年によって愛されてゐる所の、スーパーアイドルである。」といふことに、他ならない。
(22)
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑥ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛してゐる。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(23)
⑥ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛してゐる。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、「全ての少年には、愛してゐる所の少女がゐる。」といふことに、他ならない。
然るに、
(24)
⑥ ∃y(少女(y)&愛(xy))
といふのは、
⑥ そのやうな少女が、少なくとも、一人ゐる。
といふ、意味である。
しかしながら、
(25)
「全ての少年には、愛してゐる所の少女がゐる。」といふことは、普通は、
「全ての少年は、それぞれが、別の少女を愛してゐて、出来れば、その少女と結婚したい。」といふ場合である。
従って、
(26)
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(水夫(y)→愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑦ ((xが)綺麗で、尚且つ、(xが)少女であるならば、((yが)水夫であるならば、(xはyを)愛してゐる。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。))といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(27)
⑦ ((xが)綺麗で、尚且つ、(xが)少女であるならば、((yが)水夫であるならば、(xはyを)愛してゐる。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。))といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、「全ての綺麗な少女は、水夫であれば、それだけで、その水夫を愛してゐる。」
といふことになる。
然るに、
(28)
綺麗な少女xとして、
x=オリーブオイル であるならば、
x=オリーブオイル は、
y=ポパイ だけを、愛してゐる。と思はれる。
それ故、
(26)(28)により、
(29)
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(水夫(y)→愛(xy)))=
⑦ ((xが)綺麗で、尚且つ、(xが)少女であるならば、((yが)水夫であるならば、(xはyを)愛してゐる。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。))といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ「述語論理」は、常識的には、「偽(ウソ)」である。
(30)
P→Q=~P∨Q
は、「含意の定義」である。
従って、
(30)により、
(31)
⑦   ∀y(水夫(y)→愛(xy)) は、
⑦ ∀y(~(水夫(y))∨愛(xy))に等しい。
従って、
(29)(31)により、
(32)
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(水夫(y)→愛(xy)))=
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(~(水夫(y))∨愛(xy)))
従って、
(01)~(32)により、
(33)
いづれにせよ、
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
⑦ ∀x(綺麗(x)&少女(x)→∀y(~(水夫(y))∨愛(xy)))
⑧ ∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))
といふ「述語論理」は、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
といふ「ルール」に従ふことによって、「漢文訓読」ならぬ、「述語論理訓読」を、行ふことが、可能となる。
従って、
(33)により、
(34)
「すべての人間は死ぬ」という文は
∀x(H(x)→M(x))
となる。∀は全称記号と呼ばれる。「すべて」を意味するAllのAをひっくり返した記号である。
(月本洋、日本語は論理的である、2009年、114頁)
に於ける、
∀x(H(x)→M(x))
の場合も、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
といふ「ルール」に従って、
((xが)人間であるならば、(xは)死ぬ。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、「訓読」することが、可能となる。
然るに、
(35)
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
⑨ ∀x(H(x)→M(x))
といふ「記号」は、「論理学初歩 単行本 ? 1992E.J.レモン  (著), 竹尾 治一郎 (翻訳), 浅野 楢英 (翻訳)」に従ふと、
① (x)(∃y)Pxy
② (x)(∃y)Pyx
③ (∃x)(y)Pxy
④ (∃x)(y)Pyx
⑨ (x)(Hx→Mx)
といふ風に、「記号化」される。
従って、
(33)(34)(35)により、
(36)
① (x)(∃y)Pxy
② (x)(∃y)Pyx
③ (∃x)(y)Pxy
④ (∃x)(y)Pyx
⑨ (x)(Hx→Mx)
といふ「述語論理」を、「訓読」するためには、
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
⑨ ∀x(人(x)→死(x))
といふ風に、「書き換へ」る、必要が有る。
平成28年03月11日、毛利太。

2016年3月10日木曜日

「述語論理訓読」法。

―「この記事」は、書き直します。―
(01)
  ~=ではない。
  ∨=または、
  &=尚且つ、
  →=ならば、
( )=といふ
 ∃x=そのやうなxが存在する。
 ∀x=ことは、全てのxに於いて、正しい。
(02)
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
とするならば、
① xy 親 ∃y ∀x
② yx 親 ∃y ∀x
③ xy 親 ∀y ∃x
③ yx 親 ∀y ∃x
といふ「順番」で、読むことになる。
然るに、
(03)
① ∀x(∃y(親(xy)))
といふ風に、並んでゐるそれを、
① xy 親 ∃y ∀x
といふ「順番」で読むといふことは、
① ∀x(∃y(親(xy)))
に於いて、
① ∀x( )⇒( )∀x
① ∃y( )⇒( )∃y
①  親( )⇒( )親
といふ「倒置」を行ふことに、等しい。
然るに、
(04)
① ∀x(∃y(親(xy)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
① ∀x(∃y(親(xy)))=
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ、ことになる。
然るに、
(05)
xが人であり、
yも人であって、尚且つ、
① (((xはyの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふこと、すなはち、
① (((yはxの)子である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
① サザエさんの家の、タラちゃんを含めて、全ての人に、子供がゐる。
といふことを、意味してゐるものの、アニメの中の、タラちゃんに、子供はゐない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ∀x(∃y(親(xy)))
といふ「述語論理」は、「偽(ウソ)」である。
(07)
② ∀x(∃y(親(yx)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
② ((yはxの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ、ことになる。
然るに、
(08)
xが人であり、
yも人であって、尚且つ、
② ((yはxの)親である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
② 全ての人には、親がゐる(ゐた)。
といふ、意味である。
cf.
take any x:there is a y such that y is parent of x.
(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p99)
任意のxを選ぶとせよ。するとyがxの親であるようなyが存在する。
(世界思想社、論理学初歩、1973年、126頁改)
従って、
(07)(08)により、
(09)
② ∀x(∃y(親(yx)))
といふ「述語論理」は、「真(本当)」である。
(10)
③ ∃x(∀y(親(xy)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
③ ∃x(∀y(親(xy)))=
③ (((xがyの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ、ことになる。
然るに、
(11)
xが人であり、
yも人であって、尚且つ、
③ (((xがyの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、
③ 全人類の親である人が、ゐる。
③ その人には、約75億人の子供がゐる。
といふ、意味である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ ∃x(∀y(親(xy)))
といふ「述語論理」は、「偽(ウソ)」である。
(13)
④ ∃x(∀y(親(yx)))
に於いて、
その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
④ ∃x(∀y(親(yx)))=
④ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ、ことになる。
然るに、
(14)
xが人であり、
yも人であって、尚且つ、
④ (((yはxの)親である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふこと、すなはち、
④ (((xはyの)子である。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、
④ xは、タラちゃんの子供であって、尚且つ、サザエさんの子供であり、尚且つ、オバマの子供であって、尚且つ、あなたの子供である。
といふことに、他ならない。
従って、
(13)(14)により、
(15)
④ ∃x(∀y(親(yx)))
といふ「述語論理」は、「偽(ウソ)」である。
従って、
(06)(09)(12)(15)により、
(19)
① ∀x(∃y(親(xy)))
② ∀x(∃y(親(yx)))
③ ∃x(∀y(親(xy)))
④ ∃x(∀y(親(yx)))
に於いて、
② だけが、「真(本当)」である。
(20)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑤ x 少女 & y 少年 → yx 愛 ∀y ∃x
⑥ x 少年 → y 少女 & xy 愛 ∃y ∀x
といふ「順番」で、読むことになる。
然るに、
(21)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
といふ風に、並んでゐるそれを、
⑤ x 少女 & y 少年 → yx 愛 ∀y ∃x
といふ「順番」で読むといふことは、
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
に於いて、
⑤ ∃x( )⇒( )∃x
⑤ 少女( )⇒( )少女
⑤ ∀y( )⇒( )∀y
⑤ 少年( )⇒( )少年
⑤  愛( )⇒( )愛
といふ「倒置」を行ふことに、等しい。
(22)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑤ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛する。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(23)
⑤ ((xは)少女であって、尚且つ、((yが)少年である、ならば、(yはxを)愛する。)といふことが、全てのyに於いて、正しい。)といふ、そのやうなxが存在する。
といふことは、「少女xは、全少年によって愛されてゐる所の、スーパーアイドルである。」といふことに、他ならない。
(24)
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑥ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(25)
⑥ ((xが)少年であるならば、((yは)少女であって、尚且つ、(xはyを)愛する。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、「全ての少年には、愛してゐる所の少女がゐる。」といふことに、他ならない。
然るに、
(26)
⑥ ∃y(少女(y)&愛(xy))
といふのは、
⑥ そのやうな少女が、少なくとも、一人ゐる。
といふ、意味である。
しかしながら、
(27)
「全ての少年には、愛してゐる所の少女がゐる。」といふことは、普通は、
「全ての少年は、それぞれが、別の少女を愛してゐて、出来れば、その少女と結婚したい。」といふ場合である。
従って、
(22)~(27)により、
(28)
⑤ ∃x(少女(x)&∀y(少年(y)→愛(yx)))
⑥ ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
に於いて、前者と後者は、「述語論理」として、明確に、異なってゐる。
(29)
ド・モルガンが、明らかにに健全であるにもかかわらず、伝統的論理学のわくぐみのなかでは取り扱うことができなかった論証とし挙げた、有名な、また簡単な論証がある。
(1) All horses are animals;therefore all horses'heads are animal's head.
(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p99)
(1) すべての馬は動物である。故にすべての馬の頭は動物の頭である。
(世界思想社、論理学初歩、1973年、167頁)
(30)
⑦  ∀x(馬(x)→動物(x))├ ∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))
に於いて、
左から右へ読むものの、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。
のであれば、
⑦ ((xは)馬であるならば、(xは)動物である。)といふことが、全てのxに於いて、正しい。が故に、(((yは)馬であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。のであれば、(yは)動物であって、尚且つ、(xはyの)頭である。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふ風に、読むことが、出来る。
(31)
⑦  ∀x(∃y(馬(y)&頭(xy))→∃y(動物(y)&頭(xy)))
が、「縦書き」である際に、「返り点」を付けるとしたら、
⑦ 丁 三 レ 二 一 丙 ハイフン レ 乙 甲
といふ、それが、付くことになる。
平成28年03月10日、毛利太。

述語論理訓読、漢文訓読(Ⅱ)。

―「03月08日の記事」を書き換えます。―
(01)


人=人


死=死
然るに、
(02)
「~」は「・・・ではない」、「∨」は「または」、「&」は「かつ」、「→」は「ならば」、「∀」は「すべての」、「∃」は「ある・・・が存在する」の意味です。
(吉永良正、ゲーデル・不完全定理、1992年、200頁改)
従って、
(01)(02)により、
(03)
不=~=でない。
有=∃=存在する。
人=人
而=&=尚且つ、
不=~=でない。
死=死
従って、
(04)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死。
然るに、
(05)
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ((人而(死)不)有)不=
① 人にして死せ不るは有ら不=
① There is not a man thata doesn't die.
といふ「漢文訓読」は、正しい。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ~(∃(人&~(死)))=
① ((人而(死)不)有)不=
① ((人&(死)~)∃)~=
① 人にして死せ不るは有ら不=
① 人にして死せ~るは∃ら~=
① There is not a man thata doesn't die.
といふ「漢文訓読」は、正しい。
然るに、
(07)
① ~(∃(人&~(死)))
に対して、
① x (x) (x)
を加へて、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
とするならば、「述語論理」である。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① 不(有x(人(x)而不(死(x))))
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
は、二つとも、「述語論理」である。
然るに、
(09)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
に於いて、
①  ~( )⇒( )~
① ∃x( )⇒( )∃x
①  人( )⇒( )人
①  ~( )⇒( )~
①  死( )⇒( )死
のやうに、
①  囗( )⇒( )囗
といふ「倒置」を、「括弧の(回)数」だけ行ふと、
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~
といふ「語順」を、得ることになる。
然るに、
(10)
注意2.4.3  ∃xP(x)は、
               ある x があってP(x)である。
あるいは、           
               ある x が存在してP(x)である。
と言っても良いし、場合によっては
               P(x)となる x が存在する。
という言い方もする。要するに、表す内容が同じであれば、表現の仕方にこだわらなくとも良い。
(中内信光、ろんりの練習帳、2002年、94頁)
従って、
(03)(09)(10)により、
(11)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない。)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
従って、
(06)(11)により、
(12)
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ((人而(死)不)有)不=
① 人にして死せ不るは有ら不=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない。)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
然るに、
(13)
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、AIプログラミング、2008年、13頁)
むやみに括弧が多くなることは我慢でないのである(E.J.愛e人人on、論理学初歩、1973年、59頁)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう;しかし、丸括弧はその内部の表述が連言でないかぎり削除しよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(13)により、
(14)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
①  ~∃x(人 x &~ 死 x)
従って、
(12)(14)により、
(15)
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ((人而(死)不)有)不=
① 人にして死せ不るは有ら不=
①  ~∃x(人 x &~ 死 x)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① (((xは)人であり、尚且つ、((xは)死な)ない。)といふ、そのやうなxは存在し)ない。
従って、
(04)(15)により、
(16)
① ~∃人&~死=
①  ~∃x(人 x &~ 死 x)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))=
① (((x)人&((x)死)~)∃x)~=
① xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
は、「述語論理訓読」である。
然るに、
(17)
② 少年皆有其所愛少女=
② 少年皆有(其所(愛)少女)=
② 少年皆(其(愛)所少女)有=
② 少年皆其の愛す所の少女有り=
② Every boy loves a certain girl.
といふ「漢文訓読」は、正しい。
然るに、
(18)
② 少年(x)→少女(y)&愛(xy)=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛す。
といふことは、
② 少年xは、少女yを愛す。
といふことである。
(19)
② 少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy))=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyの愛す。といふ、そのやうなyが存在する。
といふことは、
② 少年xには、愛する所の、少女yがゐる。
といふことである。
(20)
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛す。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
といふことは、
② 全ての少年xには、愛する所の、少女yがゐる。
といふことである。
従って、
(21)
② 少年の人数=10人
であるならば、
② 10人中10人の、全ての少年xには、愛する所の少女yがゐる。
といふことである。
然るに、
(22)
② 少年の人数=10人
に対して、
② 愛される所の少女は、 1人であることも、可能であり、
② 愛される所の少女は、10人であることも、可能である。
従って、
(17)~(22)により、
(23)
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛す。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
② "for all x,if x is a boy then x loves some girl",and to say "x loves some girl" we say "there is a y such that y is a girl and x loves y"(E.J.Lemmon,Beginning logic,1965,p100).
といふ「言ひかた」は、
② 少年皆有其所愛少女=
② 少年皆有(其所(愛)少女)=
② 少年皆(其(愛)所少女)有=
② 少年皆其の愛す所の少女有り=
② Every boy loves a certain girl.
といふ「漢文訓読」に、等しい。
然るに、
(10)により、
(24)
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② ((x)少年→((y)少女&(xy)愛)∃y)∀x
(13)により、
(25)
② ∀x(少年x→∃y(少女y&愛xy))=
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
従って、
従って、
(02)(23)(24)(25)により、
(26)
② ∀x(少年x→∃y(少女y&愛xy))=
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② ((x)少年→((y)少女&(xy)愛)∃y)∀x=
② ((xが)少年であるならば、((yは)少女であり、尚且つ、(xはyを)愛す。)といふ、そのやうなyが存在する。)といふことは、全てのxに於いて、正しい。
従って、
(23)(26)により、
(27)
② 少年皆有其所愛少女=
② 少年皆有(其所(愛)少女)=
② 少年皆(其(愛)所少女)有=
② 少年皆其の愛す所の少女有り=
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))=
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② ((x)少年→((y)少女&(xy)愛)∃y)∀x=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛す。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
従って、
(28)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))=
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))=
② ((x)少年→((y)少女&(xy)愛)∃y)∀x=
② xが少年ならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛す。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
は、「述語論理訓読」である。
従って、
(15)(16)(27)(28)により、
(29)
① 不有人而不死。
② 少年皆有其所愛少女。
といふ「漢文」に対して、
① 不(有(人而不(死)))
② 少年皆有(其所(愛)少女)
といふ「括弧」を認めないことは、
① ~∃x(人x&~死x)
② ∀x(少年x→∃y(少女y&愛xy))
といふ「述語論理」に対して、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
といふ「括弧」を認めないことに、等しい。
従って、
(30)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
といふ「括弧」を認めるのであれば、
① 不(有(人而不(死)))
② 少年皆有(其所(愛)少女)
といふ「括弧」も、認めざるを得ない。
然るに、
(31)
「述語論理」が正しく、尚且つ、「論理(Logic)」が、「普遍的」である限り、
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
といふ「括弧」は、認めざるを得ない。
従って、
(30)(31)により、
(32)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)
といふこととは、関係なく、
① 不有人而不死=
① 不(有(人而不(死)))=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
② 少年皆有其所愛少女=
② 少年皆有(其所(愛)少女)=
② ∀x(少年(x)→∃y(少女(y)&愛(xy)))
といふ「括弧」は、認めざるを得ない。
然るに、
(33)
① 不(有(人而不(死)))
② 少年皆有(其所(愛)少女)
に於ける、
① ((( )))
②  (( ))
といふ「括弧」は、
① 三 二 一レ
② 二 レ 一
といふ「返り点」に相当する。
cf.


(34)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)
といふこととは、関係なく、
① 不有人而不死。
② 少年皆有其所愛少女。
に付く、
① 三 二 一レ
② 二 レ 一
といふ「返り点」は、認めざるを得ない。
従って、
(35)
漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳する。
にしても、その漢籍に付いてゐる、「返り点(括弧)」まで、否定することは、出来ない。
従って、
(36)
漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳する。
にしても、「漢文訓読」まで、否定すべきではない。
(37)
∃xP(x)
といふ「述語論理」を、
∃x(P(x))
とした上で、
∃xP(x)=
∃x(P(x))⇒
((x)P)∃x=
xはPである。といふ、そのやうなxが存在する。
と読むのが、「述語論理訓読」であるに対して、
∃xP(x)=
There is x that is P.
と読めば、「述語論理音読」である。
従って、
(34)(37)により、
(38)
倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ開始されたことは、
∃xP(x)=
∃x(P(x))⇒
((x)P)∃x=
xはPである。といふ、そのやうなxが存在する。
といふ「述語論理訓読」を否定して、
∃xP(x)=
There is x that is P.
といふ「音読」を開始したことに、等しい。
然るに、
(39)
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))
といふ「述語論理」を、
①「左から右へ読みつつも、その右側が、( )と接してゐる限り、より内側の( )の中を先に読む。」
といふこと、すなはち、
① xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「順番」で、読むことに、反対する人は、ゐないはずである。
従って、
(38)(39)により、
(40)
倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ開始されたことは、
① 不有人而不死=
① ~∃人&~死=
① 不有x(人x而不死x)=
① ~∃x(人x&~死x)=
① ~(有x(人(x)&~(死(x))))=
① ~(∃x(人(x)&~(死(x))))。
といふこと、すなはち、
「漢文」は、「述語論理」のやうな「言語」である。
といふ事実を、無視してゐる。といふ風に、言はざるを得ない。
平成28年03月10日、毛利太。
(41)
シナや極東の王国では、一般に文字をも語をも表わすものではなく、事物あるいは観念を表わすような、実物符号で書くのがならいになっている。そしてそれゆえに、たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができるのであるが、それは符号のほうが言語の及ばぬほどほど広い範囲で了解されるからである。そしてそれゆえに、語根語と(おそらく)同じほどばく大な符号があるのである。
(フランシス・ベーコン、学問の進歩、第二巻、一六・二)
(42)
漢字はことばではない、文字である。多くの文化人はそのことにふれずして、日本語論を語る。その結果、「訓読みは日本人の発明だ!」などという論調が蔓延してしまっているが、そんな日本と日本人の漢字礼讃傾向に、著者は真っ向から反論する書である。
(田中克彦、漢字が日本語をほろぼす、2011年、A人azonの書評?)
(43)
太平洋戦争終結後、1948年(昭和23年)に「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」という偏見から、GHQのジョン・ペルゼル[2]による発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。そして正確な識字率調査のため民間情報教育局は国字ローマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指示した(統計処理は林知己夫が担当)1948年8月、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)により、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男少女を対象とした日本初の全国調査「日本人の読み書き能力調査」が実施されたが、その結果は漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、日本人の識字率が非常に高いことが証明された。柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「識字率が低い結果でないと困る」と遠回しに言われたが、柴田は「結果は曲げられない」と突っぱね[3]、日本語のローマ字化は撤回された[4](ウィキペディア:漢字廃止論)
(44)
あのとき、ローマ字論者であった柴田が、ペルゼルの申し出を拒否せずに、統計の書き直しをしていたら、どうなっていたか。あるいは、ペルゼルが自分の申し出を大人しく引っ込めずに、強く言いつのり、そんなペルゼルに押されて柴田武が折れてしまったら、どうなっていたか。おそらく文部省は、即、ローマ字表記の強制に踏み切ったであろう。そうしたら、日本語は、新字、新かなづかいなどといった、すでに施行された文字改革どころかではなく、ローマ字表記になっていた可能性が大いにあるのである。
(水村美苗、増補 日本語が亡びるとき、2015年、447頁)
(45)
さうであれば、「漢文教育」は、完全に、息の根を止められたたことになるため、このやうな「記事」は、存在しなかたことになる。日本語(と日本の文化=日本らしさ)は、敗戦後の一時期に於いて、「自殺幇助」といふ形で、殺されかけてたことになる。そのことを、English Natives の方たちに、是非とも、知て貰たい。
平成28年03月10日、毛利太。

2016年3月6日日曜日

述語論理訓読、漢文訓読。

(01)
「~」は「・・・ではない」、「∨」は「または」、「&」は「かつ」、「→」は「ならば」、「∀」は「すべての」、「∃」は「ある・・・が存在する」の意味です。
(吉永良正、ゲーデル・不完全定理、1992年、200頁改)
従って、
(02)
① 人として死せざるは無し。
② 少年皆其の愛する所の少女有り。
③ 或る少女全少年の愛する所と為る。
④ 親として其の子を愛せざるは無し。
⑤ 親として其の子を愛せざる無きに非ず
といふ「訓読」を、「述語論理」で「記号化」すると、
① ~∃x(Mx&~Dx)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ∃x(Gx&∀y(By→Lyx))
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
といふことになる。
然るに、
(03)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① ~(∃x(Mx&~(Dx)))
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ∃x(Gx&∀y(By→Lyx))
④ ∀x(Px→~(∃y(Cyx&~(Lxy))))
⑤ ~(∀x(Px→~(∃y(Cyx&~(Lxy)))))
といふことになる。
然るに、
(05)
P(x)は命題型であるが、数学の函数の形と似ているので命題函数(propositional function)ともいう。
(岩波全書、論理学入門、1979年、58頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ~(∃x(M(x)&~(D(x))))
② ∀x(B(x)→∃y(G(y)&L(xy)))
③ ∃x(G(x)&∀y(B(y)→L(yx)))
④ ∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy)))))
⑤ ~(∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy))))))
といふことになる。
然るに、
(07)
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、AIプログラミング、2008年、13頁)。
むやみに括弧が多くなることは我慢でないのである(E.J.Lemmon、論理学初歩、1973年、59頁)。
従って、
(02)~(07)により、
(08)
① 無人不死。
② 少年皆有其所愛少女。
③ 或少女為全少年所愛。
④ 無親不愛其子。
⑤ 非無親不愛其子。
といふ「漢文」を、「述語論理」で「記号化」し、尚且つ、「括弧を省略する」場合は、
① ~∃x(Mx&~Dx)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ∃x(Gx&∀y(By→Lyx))
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
といふことなり、「括弧を省略しない」場合は、
① ~(∃x(M(x)&~(D(x))))
② ∀x(B(x)→∃y(G(y)&L(xy)))
③ ∃x(G(x)&∀y(B(y)→L(yx)))
④ ∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy)))))
⑤ ~(∀x(P(x)→~(∃y(C(yx)&~(L(xy))))))
といふことになる。
(09)
( )( )( )( )( )( )
のやうに、「丸括弧」だけでは読みにくいため、
( )〔 〕[ ]{ }〈 〉《 》
を用ゐることにする。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 無人不死=
① ~∃x(Mx&~Dx)=
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
(11)
② 少年皆有其所愛少女=
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))=
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]
(12)
③ 或少女為全少年所愛=
③ ∃x(Gx&∀x(Bx→Lyx))=
③ ∃x[G(x)&∀y〔B(y)→L(yx)〕]
(13)
④ 無親不愛其子=
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉
(14)
⑤ 非無親不愛其子=
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》
然るに、
(15)
「記号」などというものは歴史的経緯や何やらの「人的な事情」に依存して決まっている便宜的なものにすぎず、数学の本質そのものではない。そして、現在一般的に使われている数学の記号は欧米起源のものなので、日本語とは「すれ違う」側面がある、というだけである。実際に、a+bの代わりに、日本語の「aとbを足す」という表現に応じて、ab+という記号で足し算を表しても支障はない。「ab+なんて思いっきりヘン」と感じるかもしれないが、それは「慣れていないだけ」である。その証拠に、ab+のような「日本語の語順に応じた記号」の体系が構成されていて、それが有益であることが実証されている。
(中島匠一、集合・写像・論理、2012年、190頁)
従って、
(10)(15)により、
(16)
① 無人不死=
① ~∃x(Mx&~Dx)=
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}=
① {[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~
(11)(15)により。
(17)
② 少年皆有其所愛少女=
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))=
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]=
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x
(12)(15)により、
(18)
③ 或少女為全少年所愛=
③ ∃x(Gx&∀x(Bx→Lyx))=
③ ∃x[G(x)&∀y〔B(y)→L(yx)〕]=
③ [(x)G&〔(y)B→(yx)L〕∀y]∃x
(13)(15)により、
(19)
④ 無親不愛其子=
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉=
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x
(14)(15)により、
(20)
⑤ 非無親不愛其子=
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》=
⑤ 《〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
然るに、
(21)
① {[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~
といふ「述語論理」を、「日本語」に「逐語訳」すると、
① xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
(22)
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x
といふ「述語論理」を、「日本語」に「逐語訳」すると、
② xが少年であるならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛する。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
cf.
② Every boy loves a certain girl.
(23)
③ [(x)G&〔(y)B→(yx)L〕∀y]∃x
といふ「述語論理」を、「日本語」に「逐語訳」すると、
③ xは少女であり、尚且つ、yが少年であるならば、yはxを愛する。といふことが、全てのyに於いて、正しい。といふ、そのやうなxが存在する。
cf.
③ There is a girl who is loved by all the boys.
(24)
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x
といふ「記号」を、「日本語」に「逐語訳」すると、
④ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
(25)
⑤ 《〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~
といふ「記号」を、「日本語」に「逐語訳」すると、
⑤ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。とは言へない。
従って、
(16)~(25)により、
(26)
① ~∃x(Mx&~Dx)=
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}=
① {[(x)M&〔(x)D〕~]∃x}~=
① xは人であり、尚且つ、xは死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
は、「述語論理訓読」である。
(27)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))=
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]=
② [(x)B→〔(y)G&(xy)L〕∃y]∀x=
② xが少年であるならば、yは少女であり、尚且つ、xはyを愛する。といふ、そのやうなyが存在する。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
は、「述語論理訓読」である。
(28)
③ ∃x(Gx&∀x(Bx→Lyx))=
③ ∃x[G(x)&∀y〔B(y)→L(yx)〕]=
③ [(x)G&〔(y)B→(yx)L〕∀y]∃x=
③ xは少女であり、尚且つ、yが少年であるならば、yはxを愛する。といふことが、全てのyに於いて、正しい。といふ、そのやうなxが存在する。
は、「述語論理訓読」である。
(29)
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉=
④ 〈(x)P→{[(yx)C&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x=
④ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。
は、「述語論理訓読」である。
(30)
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))=
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》=
⑤ 《〈(x)P→{[C(yx)&〔(xy)L〕~]∃y}~〉∀x》~=
⑤ xが親であるならば、yはxの子供であり、尚且つ、xはyを愛さない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことは、全てのxに於いて、正しい。とは言へない。
は、「述語論理訓読」である。
然るに、
(31)
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕⇒
① 〔人(死)不〕無=
① 人として死せ不るは無し。
は、「漢文訓読」である。
(32)
② 少年皆有其所愛少女=
② 少年皆有〔其所(愛)少女)〕⇒
② 少年皆〔其(愛)所少女)〕有=
② 少年皆其の愛する所の少女有り。
は、「漢文訓読」である。
(33)
③ 或少女為全少年所愛=
③ 或少女為〔全少年所(愛)〕⇒
③ 或少女〔全少年(愛)所〕為=
③ 或る少女全少年の愛する所と為る。
は、「漢文訓読」である。
(34)
④ 無親不愛其子=
④ 無[親不〔愛(其子)〕]⇒
④ [親〔(其子)愛〕不]無=
④ 親として其の子を愛せ不るは無し。
は、「漢文訓読」である。
(35)
⑤ 非無親不愛其子=
⑤ 非{無[親不〔愛(其子)〕]}⇒
⑤ {[親〔(其子)愛〕不]無}非=
⑤ 親として其の子を愛せ不る無きに非ず。
は、「漢文訓読」である。
従って、
(21)~(35)により、
(36)
① 無〔人不(死)〕。
② 少年皆有[其所〔愛(少女)〕]。
③ 或少女為〔全少年所(愛)〕。
④ 無[親〔不〔愛(其子)〕]。
⑤ 非{無[親不〔愛(其子)〕]}。
に対する、
① 無人不死。
② 少年皆有其所愛少女。
③ 或少女為全少年所愛。
④ 無親不愛其子。
⑤ 非無親不愛其子。
といふ「漢文」の場合は、「全ての括弧が、省略」されてゐるのに対して、
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]
③ ∃x[G(x)&∀y〔B(y)→L(yx)〕]
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》

に対する、
① ~∃x(Mx&~Dx)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ∃x(Gx&∀y(By→Lyx))
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
といふ「述語論理」の場合は、
「述語」に続く( )と、
「否定」に続く( )が、「省略」されてゐる。
従って、
(36)により、
(37)
① ~∃x(Mx&~Dx)
② ∀x(Bx→∃y(Gy&Lxy))
③ ∃x(Gx&∀y(By→Lyx))
④ ∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
⑤ ~∀x(Px→~∃y(Cyx&~Lxy))
といふ「述語論理」に、
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
② ∀x[B(x)→∃y〔G(y)&L(xy)〕]
③ ∃x[G(x)&∀y〔B(y)→L(yx)〕]
④ ∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉
⑤ ~《∀x〈P(x)→~{∃y[C(yx)&~〔L(xy)〕]}〉》
といふ「括弧」が有るやうに、
① 無人不死。
② 少年皆有其所愛少女。
③ 或少女為全少年所愛。
④ 無親不愛其子。
⑤ 非無親不愛其子。
といふ「漢文」にも、
① 無〔人不(死)〕。
② 少年皆有[其所〔愛(少女)〕]。
③ 或少女為〔全少年所(愛)〕。
④ 無[親〔不〔愛(其子)〕]。
⑤ 非{無[親不〔愛(其子)〕]}。
といふ「括弧」が、有ります。
然るに、
(38)
① 無〔人不(死)〕⇒
① 〔人(死)不〕無=
① 人として死せ不るは無し。
といふ「漢文」の場合は、
① 不[有〔人而不(死)〕]⇒
① [〔人而(死)不〕有]不=
① 人にして死せ不るは有ら不。
といふ「漢文」に等しい。
然るに、
(39)
① 不[有〔人而不(死)〕]
といふ「漢文」を、
① 不{有[人(x)而不〔死(x)〕]}
とすれば、
① 不{有[人(x)而不〔死(x)〕]}=
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(40)
① 不[有〔人而不(死)〕]
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
に於いて、「異なる」のは、ただ単に、「x」といふ「変数の有無」だけである。
従って、
(41)
「漢文」は、「述語論理」のやうな「言語」である。
といふ、ことになる。
(42)
① 不[有〔人不(死)〕]。
といふ「漢文」に於ける、
① [〔( )〕]
をといふ「括弧」を「否定」することは、
① ~{∃x[M(x)&~〔D(x)〕]}
といふ「述語論理」に於ける、
① {[( )〔( )〕]}
といふ「括弧」を「否定」することに、等しい。

従って、
(42)により、
(43)


平成28年03月06日、毛利太。