(01)
① Pならば、QならばR。
② PならばQ、ならばR。
に於いて、
① ならば、(QならばR)が、「一括り」であって、
② ならば、(PならばQ)が、「一括り」である。
従って、
(01)により、
(02)
① Pならば、QならばR。
② PならばQ、ならばR。
に於いて、
① Pならば(QならばR)。
②(PならばQ)ならばR。
である。
然るに、
(03)
① Pならば(QならばR)。
②(PならばQ)ならばR。
を、「記号」で書くと、
① P→(Q→R)
②(P→Q)→R
である。
然るに、
(04)
(a)
1 (1) P→(Q→R) A
2(2) P& Q A
2(3) P 2&E
2(4) Q 2&E
12(5) Q→R 14MPP
12(6) R 45MPP
1 (7)(P&Q)→R 26CP
(b)
1 (1)(P&Q)→R A
2 (2) P A
3(3) Q A
23(4) P&Q 23&I
123(5) R 14MPP
12 (6) Q→R 35CP
1 (7) P→(Q→R) 26CP
(c)
1(1) ( P→ Q)→R A
1(2)~( P→ Q)∨R 1含意の定義。
1(3)~(~P∨ Q)∨R 2含意の定義。
1(4)(~~P&~Q)∨R 3ド・モルガンの法則。
1(5) (P&~Q)∨R 4二重否定。
1(6)~~(P&~Q)∨R 5二重否定。
1(7) ~(P&~Q)→R 6含意の定義。
従って、
(04)により、
(05)
① P→(Q→R)
② (P→Q)→R
は、それぞれ、
① (P& Q)→R
② ~(P&~Q)→R
に、「等しい」。
然るに、
(06)
(d)
1(1)(P& Q)→R A
1(2)~R→~(P&Q) 1対偶。
1(3)~R→(~P∨~Q) ド・モルガンの法則。
(e)
1(1)~(P&~Q)→R A
1(2)~R→~~(P&~Q) 1対偶。
1(3)~R→ (P&~Q) 2二重否定。
(05)(06)により、
(07)
① P→(Q→R)
② (P→Q)→R
は、それぞれ、
① ~R→(P &~Q)
② ~R→(~P∨~Q)
に、「等しい」。
然るに、
(08)
① ~R→(~P∨~Q)
② ~R→( P&~Q)
といふ「論理式」は、
① Rでないならば、Pでないか、Qでないか、PでないしQでもない。
② Rでないならば、PであってQでない。
といふ「意味」である。
従って、
(01)~(08)により、
(09)
① Pならば、QならばR。
② PならばQ、ならばR。
といふ「日本語」が、それぞれ、
① Pならば(QならばR)= P→(Q→R)=~R→(~P∨~Q)。
②(PならばQ)ならばR =(P→Q)→R =~R→( P&~Q)。
であるならば、その時に限って、
① Rでないならば、PでないかQでないか、PでないしQでもない。
② Rでないならば、PであってQでない。
といふ「意味」である。
然るに、
(10)
① Pならば、QならばRである。
であるとして、
① Rでない。
といふのであれば、
① Pでないか、Qでないか、PでないしQでもない。
といふ「三通り」の中の、「いづれか」である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① Pならば、QならばR。
といふ「日本語」は、確かに、
① Pならば(QならばR)。
といふ「 それ 」に「等しい」。
然るに、
(12)
② PならばQ、ならばR。
であるとして、
② Rでない。
といふのであれば、
② PならばQ。ではない。
といふことになり、
② PならばQ。ではない。
といふことと、
② PであってQである。
といふことは、「矛盾」するため、
② PならばQ。ではない。
といふのであれば、
② PであってQでない。
従って、
(09)(12)により、
(13)
② PならばQ、ならばR。
といふ「日本語」は、確かに、
②(PならばQ)ならばR。
といふ「 それ 」に「等しい」。
従って、
(01)(03)(09)(11)(13)により、
(14)
① Pならば、QならばRである= Pならば(QならばR)。
② PならばQ、ならばRである=(PならばQ)ならばR。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(15)
③ PならばQならばRである。
といふ「日本語」は、
① Pならば、QならばRである。
であるか、
② PならばQ、ならばRである。
であるかの、いづれかである。
従って、
(14)(15)により、
(16)
③ PならばQならばRである。
といふ「日本語」は、
① Pならば(QならばRである)。
であるか、
②(PならばQ)ならばRである。
であるかの、いづれかである。
従って、
(16)により、
(17)
少なくとも、
③ PならばQならばRである。
といふ「日本語」に、「括弧」は有ります。
従って、
(18)
③ P→Q→R
といふ「論理式」が、
① P→(Q→R)
であるか、
②(P→Q)→R
であるかの、いづれかであるやうに、
③ PならばQならばRである。
といふ「日本語」には、「括弧」が有ります。
平成29年11月26日、毛利太。
2017年11月26日日曜日
2017年11月23日木曜日
「返り点モドキ」と「括弧」について。
(01)
① 3{2(1)}。
に於いて、
① 2( )⇒( )2
② 3{ }⇒{ }3
といふ「移動」を行ふと、
① 3{2(1)}⇒
① {(1)2}3=
① 1 2 3。
といふ「並び換へ(ソート)」が成立する。
(02)
② 2(3{1)}。
に於いて、
② 2( )⇒( )2
② 3{ }⇒{ }3
といふ「移動」を行ふと、
② 2(3{1)}⇒
② ({1)2}3=
② 1 2 3。
といふ「並び換へ(ソート)」が成立する。
然るに、
(03)
① {( )}
② ({ )}
に於いて、
① は、「括弧」であるが、
② は、「括弧」ではない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
「括弧」は、例へば、
② 2<3>1
④ 4 2<3>1
といふ「順番」を、
② 1 2 3
④ 1 2 3 4
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
従って、
(04)により、
(05)
「括弧」は、例へば、
② 二<三>一
④ 下 二<上>一
といふ「順番」を、
② 一 二 三
④ 一 二 上 下
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
然るに、
(06)
「返り点」とは、
「縦書き」であれば、「下から上へ返る、点」であって、
「横書き」であれば、「右から左へ返る、点」である。
然るに、
(07)
② 二 三 一
であれば、
② 二→三
に於いて、
②「右から左へ」ではなく、
②「左から右へ」返ってゐる。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 三 二 一
に対して、
② 二 三 一
といふ「それ」は、「返り点」ではなく、言はば、「返り点モドキ」である。
然るに、
(09)
(3)上中下点(上・下、上・中・下)
レ点・一二点だけで示しきれない場合。必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、43頁)
従って、
(09)により、
(10)
③ 下 二 一 上
に対して、
④ 下 二 上 一
といふ「それ」は、「返り点」ではなく、言はば、「返り点モドキ」である。
従って、
(05)(08)(10)により、
(11)
「括弧」は、
② 2<3>1
④ 4 2<3>1
といふ「順番」である所の、
② 二<三>一
④ 下 二<上>一
といふ「返り点モドキ」を、
② 一 二 三
④ 一 二 上 下
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
従って、
(11)により、
(12)
「括弧」は、例へば、
② 躬二耕三於南陽一=在南陽親自耕田種地(Zài nányáng qīnzì gēng tián zhòng dì)。
④ 只‐管要下纏二擾上我一=ひたすら我がやっかいになる(唐話纂要)。
といふ「返り点モドキ」を、
② 於南陽一躬二耕三。
④ 只‐管我一纏二擾上要下。
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
然るに、
(13)
(14)
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
② 躬二耕三於南陽一=在南陽親自耕田種地(Zài nányáng qīnzì gēng tián zhòng)。
④ 只‐管要下纏二擾上我一=ひたすら我がやっかいになる。
に於いて、
②「返り点」ではなく、「返り点モドキ」が用ゐられ、
④「返り点」ではなく、「返り点モドキ」が用ゐられる。
が故に、
② 躬耕於南陽(漢文)。
④ 只管要纏擾我(白話)。
に於いて、
②「括弧」を用ゐて、「訓読(中国語訳)」することは、出来ないし、、
④「括弧」を用ゐて、「訓読(日本語訳)」することは、出来ない。
然るに、
(16)
② 躬耕於南陽(漢文)。
④ 只管要纏擾我(白話)。
に於いて、
②「括弧」を用ゐて、「中国語訳(訓読)」することは、出来ないし、
④「括弧」を用ゐて、「日本語訳(訓読)」することは、出来ない。
といふことは、
④ 只管要纏擾我(白話)。
といふ「中国語の構造」と、
④ ひたすら我がやっかいになる。
といふ「日本語の構造」が「異なってゐる」やうに、
② 躬耕於南陽(漢文)。
といふ「中国語の構造」と、
④ 在南陽親自耕田種地。
といふ「中国語の構造」も「異なってゐる」といふことに、他ならない。
然るに、
(17)
特に口頭言語において、中国に侵入、定住した遊牧民の大多数は、トルコ系の突厥、ウイグル人、モンゴル系の契丹、モンゴル人、ツングース系の女真、満州人など、みなアルタイ語系の言語を話す人々であった。彼らは中国に来て、なるほど固有の言語を喪失し、みな中国語を話すようになったであろう。しかし元来が中国語とは系統を異にする言語をもっていた彼らが話した中国語は、古代中国のままではなく、ふたつの言語が接触、融和した一種のブロークンチャイニーズだったのである。その結果、もともと口語とは乖離したところで成立した文言文としての漢文と口語の距離は、時代とともにますます広がり、のちに口語にもとづく白話文が生まれると、同じ中国語に二種類の構造の異なる文体が存在することとなった。古代語の語法は、広東語など南方の方言に残っているが、しかし近代になって標準語とされたのは、遊牧民の影響をもっとも顕著な首都、北京の言葉であり、その北京語にもとづく口語文が正式の文体とされた。
(金文京、漢文と東アジア、2010年、168・169頁)
然るに、
(18)
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
長城(GREAT WALL)を越え、中国に侵入し、定住した「遊牧民の言葉(アルタイ語系言語)」の影響を受けた「古代中国語」が、「ブロークンチャイニーズ」に変ってしまった「結果」として、もし強いて「白話文(中国語)」を、「返り点」を用ゐて「訓読」すると「たいへん奇妙な日本語」になるため、「白話文(中国語)」は、「訓読の対象」にならないものの、その一方で、「漢文(文言文)」は、「固より、口語とは別の約束事によって書かれるもの」であったがために、「漢文(文言文)」は、日本に於いて、常に、「訓読の対象」であった。
といふ、ことになる。
従って、
(20)
「変ってしまったのは中国語(口語)」であって、「変らなかったのは漢文(文語)」である。
然るに、
(21)
ゲルマン語派(ゲルマンごは、英: Germanic languages, 独: Germanische Sprachen, 瑞: Germanska språk)はインド・ヨーロッパ語族のうちの一語派。ドイツ語、オランダ語、英語などが含まれる。共通のゲルマン祖語から分化したとされる(ウィキペディア)。
然るに、
(22)
渡部昇一・ピーター・ミルワード『物語英文学史』(大修館書店、1993年、pp.12-3)において、渡部先生も次のように証言なさっておられます。
わたしは最初古英語をやろうと思ったときにとても遠く感じました。いわゆる現代英語をやってから中英語(Middle English)に入り、そのかなたに古英語があるという感じだったんです。ところが、たまたまわたしはドイツへ留学させられて、OE(古英語)の権威の先生につけられた。ところが、そこのセミナーの学生たちにはOEがいちばん易しいんですね。本当にドイツの一方言という実感を持って読んでいる。― 中略 ―、本当に実感としてOEがわかる。例えば、セミナーでディスカッションしていて、ある単語が出てきます。そうするといろんな学生が、うちのほうの田舎ではこれはこういう意味ですと、それと同根(cognate)の関連ある単語を出すんですね(Webサイト:アーリーバードの収穫)。
従って、
(21)(22)により、
(23)
「大きく変ったのは、英語」であって、「比較的、変らなかったのは、独語」である。
従って、
(24)
「古英語」とは、寧ろ「古ドイツ語」であって、「英語」ではない。といふ風に、言ふことが出来る。
従って、
(20)(23)(24)により、
(25)
「古英語」が「英語」ではないやうに、「漢文(古代中国語)」も、「中国語」ではない。といふ風に、言ふことが出来る。
然るに、
(26)
「支那の言語や文字を研究するのに、漢文と支那語の様な区別を設けてゐるのは、世界中、日本だけで、支那はもとより、ヨーロッパやアメリカで支那学を研究するにも、そんな意味のない区別など夢にも考へてゐない。西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。アメリカの大学で支那のことを研究する学生は、最初の年に現代語学現代文学を学び、次の年に歴史の書物を読み経書を習ふさうである。
(勉誠出版、「訓読」論、2008年、57頁)
従って、
(25)(26)により、
(27)
「支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。」といふ風に、倉石先生(1897‐1975)は言ふものの、「古英語」が、「英語」ではなく「古独語」である。といふことからすれば、「漢文」であっても、「中国語」ではない。といふ風に、言へることになる。
加へて、
(28)
漢詩が特別なのは、そのもとになる中国語を知らなくとも作り、理解することができる点にある。英語のわからない人が、英語の詩を書いたり読んだりすると言っても誰も信じないであろう。しかし李舜臣や夏目漱石は中国語を知らなかった(金文京、漢文と東アジア、2010年、179頁)。これは漢詩の話であるが、漢文についても同じようなことが言へる。漢文は実際の中国語の変化に関係なく、時空を超越した約束事によって書かれたものであった。だからこそ東アジアの共通語と成りえたのである(金文京、漢文と東アジア、2010年、181頁)。
従って、
(27)(28)により、
(29)
「英語と日本語の関係」と、「漢文と日本語の関係」を、「同列に論じるべきではなく」、それ故、「西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読む。」からと言って、我々日本人も、そのやうにする「必要」が有るとは、想はない。
平成29年11月23日、毛利太。
① 3{2(1)}。
に於いて、
① 2( )⇒( )2
② 3{ }⇒{ }3
といふ「移動」を行ふと、
① 3{2(1)}⇒
① {(1)2}3=
① 1 2 3。
といふ「並び換へ(ソート)」が成立する。
(02)
② 2(3{1)}。
に於いて、
② 2( )⇒( )2
② 3{ }⇒{ }3
といふ「移動」を行ふと、
② 2(3{1)}⇒
② ({1)2}3=
② 1 2 3。
といふ「並び換へ(ソート)」が成立する。
然るに、
(03)
① {( )}
② ({ )}
に於いて、
① は、「括弧」であるが、
② は、「括弧」ではない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
「括弧」は、例へば、
② 2<3>1
④ 4 2<3>1
といふ「順番」を、
② 1 2 3
④ 1 2 3 4
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
従って、
(04)により、
(05)
「括弧」は、例へば、
② 二<三>一
④ 下 二<上>一
といふ「順番」を、
② 一 二 三
④ 一 二 上 下
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
然るに、
(06)
「返り点」とは、
「縦書き」であれば、「下から上へ返る、点」であって、
「横書き」であれば、「右から左へ返る、点」である。
然るに、
(07)
② 二 三 一
であれば、
② 二→三
に於いて、
②「右から左へ」ではなく、
②「左から右へ」返ってゐる。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 三 二 一
に対して、
② 二 三 一
といふ「それ」は、「返り点」ではなく、言はば、「返り点モドキ」である。
然るに、
(09)
(3)上中下点(上・下、上・中・下)
レ点・一二点だけで示しきれない場合。必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、43頁)
従って、
(09)により、
(10)
③ 下 二 一 上
に対して、
④ 下 二 上 一
といふ「それ」は、「返り点」ではなく、言はば、「返り点モドキ」である。
従って、
(05)(08)(10)により、
(11)
「括弧」は、
② 2<3>1
④ 4 2<3>1
といふ「順番」である所の、
② 二<三>一
④ 下 二<上>一
といふ「返り点モドキ」を、
② 一 二 三
④ 一 二 上 下
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
従って、
(11)により、
(12)
「括弧」は、例へば、
② 躬二耕三於南陽一=在南陽親自耕田種地(Zài nányáng qīnzì gēng tián zhòng dì)。
④ 只‐管要下纏二擾上我一=ひたすら我がやっかいになる(唐話纂要)。
といふ「返り点モドキ」を、
② 於南陽一躬二耕三。
④ 只‐管我一纏二擾上要下。
といふ「順番」に、「並び換へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
然るに、
(13)
(14)
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
② 躬二耕三於南陽一=在南陽親自耕田種地(Zài nányáng qīnzì gēng tián zhòng)。
④ 只‐管要下纏二擾上我一=ひたすら我がやっかいになる。
に於いて、
②「返り点」ではなく、「返り点モドキ」が用ゐられ、
④「返り点」ではなく、「返り点モドキ」が用ゐられる。
が故に、
② 躬耕於南陽(漢文)。
④ 只管要纏擾我(白話)。
に於いて、
②「括弧」を用ゐて、「訓読(中国語訳)」することは、出来ないし、、
④「括弧」を用ゐて、「訓読(日本語訳)」することは、出来ない。
然るに、
(16)
② 躬耕於南陽(漢文)。
④ 只管要纏擾我(白話)。
に於いて、
②「括弧」を用ゐて、「中国語訳(訓読)」することは、出来ないし、
④「括弧」を用ゐて、「日本語訳(訓読)」することは、出来ない。
といふことは、
④ 只管要纏擾我(白話)。
といふ「中国語の構造」と、
④ ひたすら我がやっかいになる。
といふ「日本語の構造」が「異なってゐる」やうに、
② 躬耕於南陽(漢文)。
といふ「中国語の構造」と、
④ 在南陽親自耕田種地。
といふ「中国語の構造」も「異なってゐる」といふことに、他ならない。
然るに、
(17)
特に口頭言語において、中国に侵入、定住した遊牧民の大多数は、トルコ系の突厥、ウイグル人、モンゴル系の契丹、モンゴル人、ツングース系の女真、満州人など、みなアルタイ語系の言語を話す人々であった。彼らは中国に来て、なるほど固有の言語を喪失し、みな中国語を話すようになったであろう。しかし元来が中国語とは系統を異にする言語をもっていた彼らが話した中国語は、古代中国のままではなく、ふたつの言語が接触、融和した一種のブロークンチャイニーズだったのである。その結果、もともと口語とは乖離したところで成立した文言文としての漢文と口語の距離は、時代とともにますます広がり、のちに口語にもとづく白話文が生まれると、同じ中国語に二種類の構造の異なる文体が存在することとなった。古代語の語法は、広東語など南方の方言に残っているが、しかし近代になって標準語とされたのは、遊牧民の影響をもっとも顕著な首都、北京の言葉であり、その北京語にもとづく口語文が正式の文体とされた。
(金文京、漢文と東アジア、2010年、168・169頁)
然るに、
(18)
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
長城(GREAT WALL)を越え、中国に侵入し、定住した「遊牧民の言葉(アルタイ語系言語)」の影響を受けた「古代中国語」が、「ブロークンチャイニーズ」に変ってしまった「結果」として、もし強いて「白話文(中国語)」を、「返り点」を用ゐて「訓読」すると「たいへん奇妙な日本語」になるため、「白話文(中国語)」は、「訓読の対象」にならないものの、その一方で、「漢文(文言文)」は、「固より、口語とは別の約束事によって書かれるもの」であったがために、「漢文(文言文)」は、日本に於いて、常に、「訓読の対象」であった。
といふ、ことになる。
従って、
(20)
「変ってしまったのは中国語(口語)」であって、「変らなかったのは漢文(文語)」である。
然るに、
(21)
ゲルマン語派(ゲルマンごは、英: Germanic languages, 独: Germanische Sprachen, 瑞: Germanska språk)はインド・ヨーロッパ語族のうちの一語派。ドイツ語、オランダ語、英語などが含まれる。共通のゲルマン祖語から分化したとされる(ウィキペディア)。
然るに、
(22)
渡部昇一・ピーター・ミルワード『物語英文学史』(大修館書店、1993年、pp.12-3)において、渡部先生も次のように証言なさっておられます。
わたしは最初古英語をやろうと思ったときにとても遠く感じました。いわゆる現代英語をやってから中英語(Middle English)に入り、そのかなたに古英語があるという感じだったんです。ところが、たまたまわたしはドイツへ留学させられて、OE(古英語)の権威の先生につけられた。ところが、そこのセミナーの学生たちにはOEがいちばん易しいんですね。本当にドイツの一方言という実感を持って読んでいる。― 中略 ―、本当に実感としてOEがわかる。例えば、セミナーでディスカッションしていて、ある単語が出てきます。そうするといろんな学生が、うちのほうの田舎ではこれはこういう意味ですと、それと同根(cognate)の関連ある単語を出すんですね(Webサイト:アーリーバードの収穫)。
従って、
(21)(22)により、
(23)
「大きく変ったのは、英語」であって、「比較的、変らなかったのは、独語」である。
従って、
(24)
「古英語」とは、寧ろ「古ドイツ語」であって、「英語」ではない。といふ風に、言ふことが出来る。
従って、
(20)(23)(24)により、
(25)
「古英語」が「英語」ではないやうに、「漢文(古代中国語)」も、「中国語」ではない。といふ風に、言ふことが出来る。
然るに、
(26)
「支那の言語や文字を研究するのに、漢文と支那語の様な区別を設けてゐるのは、世界中、日本だけで、支那はもとより、ヨーロッパやアメリカで支那学を研究するにも、そんな意味のない区別など夢にも考へてゐない。西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。アメリカの大学で支那のことを研究する学生は、最初の年に現代語学現代文学を学び、次の年に歴史の書物を読み経書を習ふさうである。
(勉誠出版、「訓読」論、2008年、57頁)
従って、
(25)(26)により、
(27)
「支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。」といふ風に、倉石先生(1897‐1975)は言ふものの、「古英語」が、「英語」ではなく「古独語」である。といふことからすれば、「漢文」であっても、「中国語」ではない。といふ風に、言へることになる。
加へて、
(28)
漢詩が特別なのは、そのもとになる中国語を知らなくとも作り、理解することができる点にある。英語のわからない人が、英語の詩を書いたり読んだりすると言っても誰も信じないであろう。しかし李舜臣や夏目漱石は中国語を知らなかった(金文京、漢文と東アジア、2010年、179頁)。これは漢詩の話であるが、漢文についても同じようなことが言へる。漢文は実際の中国語の変化に関係なく、時空を超越した約束事によって書かれたものであった。だからこそ東アジアの共通語と成りえたのである(金文京、漢文と東アジア、2010年、181頁)。
従って、
(27)(28)により、
(29)
「英語と日本語の関係」と、「漢文と日本語の関係」を、「同列に論じるべきではなく」、それ故、「西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読む。」からと言って、我々日本人も、そのやうにする「必要」が有るとは、想はない。
平成29年11月23日、毛利太。
2017年11月20日月曜日
「括弧」は、有りますよ。絶対に。
(01)
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない。といふことはない。
に於いて、「直感」として、
①=②=③ である。
然るに、
(02)
(a)
1 (1)甲→ 乙 A
2(2)甲&~乙 A
2(3)甲 2&E
2(4) ~乙 3&E
12(5) 乙 13MPP
12(6)~乙&乙 45&I
1 (7) ~~乙 46RAA
1 (8) 乙 7DN
1 (9)~甲∨乙 8∨I
(b)
1 (1) ~甲∨ 乙 A
2 (2) 甲&~乙 A
2 (3) 甲 &E
2 (4) ~乙 &E
3 (5) ~甲 A
23 (6) ~甲&甲 25&I
3 (7)~(甲&~乙) 26RAA
8 (8) 乙 A
2 8 (9) 乙&~乙 48&I
8 (ア)~(甲&~乙) 29RAA
1 (イ)~(甲&~乙) 1578ア∨E
ウ (ウ) 甲 A
エ(エ) ~乙 A
ウエ(オ) 甲&~乙 ウエ&I
1 ウエ(カ)~(甲&~乙)&
(甲&~乙) イオ&I
1 ウ (キ) ~~乙 エカRAA
1 ウ (ク) 乙 キDN
1 (ケ) 甲→ 乙 ウクCP
(c)
1 (1) 甲→ 乙 A
2 (2) 甲&~乙 A
2 (3) 甲 2&E
12 (4) 乙 13MPP
2 (5) ~乙 2&E
12 (6) 乙&~乙 45&I
1 (7)~(甲&~乙) 26RAA
(d)
1 (1)~(甲&~乙) A
2 (2) 甲 A
3 (3) ~乙 A
23 (4) 甲&~乙 23CP
123 (5)~(甲&~乙)&(甲&~乙) 14&I
12 (6) ~甲 25RAA
1 (7) ~乙→ ~甲 36CP
8(8) 甲 A
8(9)~~甲 8DN
1 8(ア)~~乙 79MTT
1 8(イ) 乙 アDN
1 (ウ) 甲→乙 8イCP
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない。といふことはない。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ である。
然るに、
(04)
~ = 不
& = 而
∨ = 与
とする。
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
① 甲則乙(甲ならば、乙である)。
② 不甲与乙(甲でないか乙である)。
③ 不甲而不乙(甲であって乙でない。といふことはない)。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ である。
然るに、
(06)
つまり、むやみに括弧が多くなることは我慢できないのである(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、59頁)。
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(05)(06)により、
(07)
「論理的」には、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 不(甲而不(乙))。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(05)(07)により、
(08)
① 甲則乙(甲ならば、乙である)。
② 不甲与乙(甲でないか乙である)。
③ 不甲而不乙(甲であって乙でない。といふことはない)。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ であるならば、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 不(甲而不(乙))。
でなければ、ならない。
然るに、
(09)
③ 不(甲而不(乙))。
の場合は、
③ 無甲不乙=
③ 無(甲不(乙))⇒
③ (甲(乙)不)無=
③ (甲にして(乙せ)不る)は無し=
③ (甲であって(乙で)ない場合)は無い。
に、「等しい」。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない場合は無い。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ であるならば、
① 甲則乙。
② 不甲与乙。
③ 無甲不乙。
には、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 無(甲不(乙))。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
(11)
② 甲でないか乙である(~甲∨乙)。
であって、尚且つ、
② 甲である=甲でない。でない。
ならば、必然的に、
② 乙である。
従って、
(11)により、
(12)
② 甲でないか乙である〔~甲∨乙〕。
といふ「命題」は、
① 甲であるならば乙である〔甲→乙〕。
といふ「命題」は、「等しい」。
然るに、
(13)
① 甲であるならば乙である〔甲→乙〕。
といふ「命題」は、
③ 甲であって乙でない場合は無い〔~(甲&~(乙))〕。
といふ「命題」は、「等しい」。
従って、
(01)~(13)により、
(14)
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない場合は無い。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ であるため、
① 甲則乙。
② 不甲与乙。
③ 無甲不乙。
には、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 無(甲不(乙))。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
(15)
③ 無(甲不(乙))。
に於いて、
③ 無 は、
③ (甲不(乙))に、掛ってゐて、
③ 不 は、
③ 乙 に、掛ってゐる。
(16)
③ (甲(乙)不)無。
に於いて、 不 は、
③ 乙 を、受けてゐて、
③ 無 は、
③ (甲(乙)不)を、受けてゐる。
平成29年11月20日、毛利太。
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない。といふことはない。
に於いて、「直感」として、
①=②=③ である。
然るに、
(02)
(a)
1 (1)甲→ 乙 A
2(2)甲&~乙 A
2(3)甲 2&E
2(4) ~乙 3&E
12(5) 乙 13MPP
12(6)~乙&乙 45&I
1 (7) ~~乙 46RAA
1 (8) 乙 7DN
1 (9)~甲∨乙 8∨I
(b)
1 (1) ~甲∨ 乙 A
2 (2) 甲&~乙 A
2 (3) 甲 &E
2 (4) ~乙 &E
3 (5) ~甲 A
23 (6) ~甲&甲 25&I
3 (7)~(甲&~乙) 26RAA
8 (8) 乙 A
2 8 (9) 乙&~乙 48&I
8 (ア)~(甲&~乙) 29RAA
1 (イ)~(甲&~乙) 1578ア∨E
ウ (ウ) 甲 A
エ(エ) ~乙 A
ウエ(オ) 甲&~乙 ウエ&I
1 ウエ(カ)~(甲&~乙)&
(甲&~乙) イオ&I
1 ウ (キ) ~~乙 エカRAA
1 ウ (ク) 乙 キDN
1 (ケ) 甲→ 乙 ウクCP
(c)
1 (1) 甲→ 乙 A
2 (2) 甲&~乙 A
2 (3) 甲 2&E
12 (4) 乙 13MPP
2 (5) ~乙 2&E
12 (6) 乙&~乙 45&I
1 (7)~(甲&~乙) 26RAA
(d)
1 (1)~(甲&~乙) A
2 (2) 甲 A
3 (3) ~乙 A
23 (4) 甲&~乙 23CP
123 (5)~(甲&~乙)&(甲&~乙) 14&I
12 (6) ~甲 25RAA
1 (7) ~乙→ ~甲 36CP
8(8) 甲 A
8(9)~~甲 8DN
1 8(ア)~~乙 79MTT
1 8(イ) 乙 アDN
1 (ウ) 甲→乙 8イCP
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない。といふことはない。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ である。
然るに、
(04)
~ = 不
& = 而
∨ = 与
とする。
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
① 甲則乙(甲ならば、乙である)。
② 不甲与乙(甲でないか乙である)。
③ 不甲而不乙(甲であって乙でない。といふことはない)。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ である。
然るに、
(06)
つまり、むやみに括弧が多くなることは我慢できないのである(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、59頁)。
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(05)(06)により、
(07)
「論理的」には、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 不(甲而不(乙))。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(05)(07)により、
(08)
① 甲則乙(甲ならば、乙である)。
② 不甲与乙(甲でないか乙である)。
③ 不甲而不乙(甲であって乙でない。といふことはない)。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ であるならば、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 不(甲而不(乙))。
でなければ、ならない。
然るに、
(09)
③ 不(甲而不(乙))。
の場合は、
③ 無甲不乙=
③ 無(甲不(乙))⇒
③ (甲(乙)不)無=
③ (甲にして(乙せ)不る)は無し=
③ (甲であって(乙で)ない場合)は無い。
に、「等しい」。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない場合は無い。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ であるならば、
① 甲則乙。
② 不甲与乙。
③ 無甲不乙。
には、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 無(甲不(乙))。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
(11)
② 甲でないか乙である(~甲∨乙)。
であって、尚且つ、
② 甲である=甲でない。でない。
ならば、必然的に、
② 乙である。
従って、
(11)により、
(12)
② 甲でないか乙である〔~甲∨乙〕。
といふ「命題」は、
① 甲であるならば乙である〔甲→乙〕。
といふ「命題」は、「等しい」。
然るに、
(13)
① 甲であるならば乙である〔甲→乙〕。
といふ「命題」は、
③ 甲であって乙でない場合は無い〔~(甲&~(乙))〕。
といふ「命題」は、「等しい」。
従って、
(01)~(13)により、
(14)
① 甲ならば、乙である。
② 甲でないか乙である。
③ 甲であって乙でない場合は無い。
に於いて、「直観」としても、「論理的」にも、
①=②=③ であるため、
① 甲則乙。
② 不甲与乙。
③ 無甲不乙。
には、
① 甲則乙。
② 不(甲)与乙。
③ 無(甲不(乙))。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
(15)
③ 無(甲不(乙))。
に於いて、
③ 無 は、
③ (甲不(乙))に、掛ってゐて、
③ 不 は、
③ 乙 に、掛ってゐる。
(16)
③ (甲(乙)不)無。
に於いて、 不 は、
③ 乙 を、受けてゐて、
③ 無 は、
③ (甲(乙)不)を、受けてゐる。
平成29年11月20日、毛利太。
2017年11月15日水曜日
「PならばPでない。従って、Pでない。」は「サプライズか」?
(01)
23 P→~P├ ~P
23 PであるならばPでない。従って、Pでない。
これは我々の規則によって証明された第一の驚くべき結果である(This is the first surprising result to be established by our rules.)。
(E.J.レモン、竹尾 治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、34・35頁改)
cf.
(a)
1 (1)P→~P A
2(2)P A
12(3) ~P 12MPP
12(4)P&~P 23&I
1 (5)~P 24RAA
(6)(P→~P)→~P 15CP
(b)
1 (1)~P A
(2)~P∨~P 1∨I
(3) P→~P 含意の定義
(4)~P→(P→~P) 13CP
∴ (P→~P)は(~P)に等しい。
然るに、
(02)
① PならばQでない(P→~Q)。
② PであってQである。といふことはない〔~(P&Q)〕。
といふ「日本語」に於いて、
①=② である。
といふことは、「直観」として、「正しい」。
cf.
(a)
1 (1) P→~Q A
2 (2) P& Q A
2 (3) P 2&E
2 (4) Q 2&E
12 (5) ~Q 13MPP
12 (6) Q&~Q 45&I
1 (7)~(P& Q)26RAA
(b)
1 (1)~(P& Q)A
2 (2) P A
3(3) Q A
23(4) P& Q 23&I
123(5)~(P& Q)
&(P& Q)15&I
12 (6) ~Q 35RAA
1 (7) P →~Q
∴ (P →~Q)は(~(P&Q))に等しい。
従って、
(02)により、
(03)
① PならばPでない(P→~P)。
② PであってPである。といふことはない〔~(P&P)〕。
に於いても、
①=② である。
cf.
(a)
1 (1) P→~P A
2 (2) P& P A
2 (3) P 2&E
2 (4) P 2&E
12 (5) ~P 13MPP
12 (6) P&~P 45&I
1 (7)~(P& P)26RAA
(b)
1 (1)~(P& P)A
2 (2) P A
3(3) P A
23(4) P& P 23&I
123(5)~(P& P)
&(P& P)15&I
12 (6) ~P 35RAA
1 (7) P→~P
∴ (P →~P)は(~(P&P))に等しい。
然るに、
(04)
② Pであって、Pである。
といふ場合に限らず、仮に、
② Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pである。
としても、
② Pである。
であって、このことを、「巾等律・反復律」といふ。
cf.
(a)
1(1) P&P A
1(2) P 1&E
(b)
1(1) P A
1(2) P&P 11&I
∴ (P&P)は(P)に等しい。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① PならばPでない(P→~P)。
② PであってPである。といふことはない〔~(P&P)〕。
③ Pである。 といふことはない〔~(P )〕。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(06)
③ Pである。といふことはない〔~(P)〕。
といふことは、
④ Pでない(~P)。
といふことに、他ならない。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① PならばPでない(P→~P)。
② PであってPである。といふことはない〔~(P&P)〕。
③ Pである。といふことはない〔~(P)〕。
④ Pでない(~P)。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(07)により、
(08)
① PならばPでない(P→~P)。
④ Pでない(~P)。
に於いて、
①=④ である。
従って、
(08)により、
(09)
⑤(PならばPでない。)=(Pでない。)
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(01)(09)により、
(10)
⑤(PならばPでない。) = (Pでない。)
⑤(PならばPでない。)従って(Pでない。)
といふ、
⑤ 驚くべき結果(The surprising result)
が、「証明」された。としても、ヲカシクはない。
然るに、
(11)
② (PであってPである。)といふことはない。
② ( Pである。)といふことはない。
といふ「それ」を、
⑥ Pであって、(Pであるといふことはない)。
といふ風に、「誤解」すると、「記号」で書くならば、
② ~(P&P)
といふ「それ」を、
⑥ P&(~P)
といふ風に、「解釈」することになる。
然るに、
(12)
⑥ P&(~P)
といふ「それ」は、「矛盾」そのものである。
従って、
(05)(12)により、
(13)
① PならばPでない。
⑥ Pであって、(Pであるといふことはない)。
に於いて、
①=⑥ である。
とするならば、
① PならばPでない。
といふ「それ」も、「矛盾」そのものに、ならざるを得ない。
従って、
(14)
「記号」で書くならば、
① P→~P=~(P)=~(P&P)
であって、
① P→~P=~(P)=P&~(P)
ではない。
といふことに、気付くことが出来るならば、
⑤(PならばPでない。) = (Pでない。)
⑤(PならばPでない。)従って(Pでない。)
といふ、
⑤ 驚くべき結果(The surprising result)
が、「証明」された。としても、驚く必要はない。
といふことに、気付く、ことになる。
平成29年11月15日、毛利太。
23 P→~P├ ~P
23 PであるならばPでない。従って、Pでない。
これは我々の規則によって証明された第一の驚くべき結果である(This is the first surprising result to be established by our rules.)。
(E.J.レモン、竹尾 治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、34・35頁改)
cf.
(a)
1 (1)P→~P A
2(2)P A
12(3) ~P 12MPP
12(4)P&~P 23&I
1 (5)~P 24RAA
(6)(P→~P)→~P 15CP
(b)
1 (1)~P A
(2)~P∨~P 1∨I
(3) P→~P 含意の定義
(4)~P→(P→~P) 13CP
∴ (P→~P)は(~P)に等しい。
然るに、
(02)
① PならばQでない(P→~Q)。
② PであってQである。といふことはない〔~(P&Q)〕。
といふ「日本語」に於いて、
①=② である。
といふことは、「直観」として、「正しい」。
cf.
(a)
1 (1) P→~Q A
2 (2) P& Q A
2 (3) P 2&E
2 (4) Q 2&E
12 (5) ~Q 13MPP
12 (6) Q&~Q 45&I
1 (7)~(P& Q)26RAA
(b)
1 (1)~(P& Q)A
2 (2) P A
3(3) Q A
23(4) P& Q 23&I
123(5)~(P& Q)
&(P& Q)15&I
12 (6) ~Q 35RAA
1 (7) P →~Q
∴ (P →~Q)は(~(P&Q))に等しい。
従って、
(02)により、
(03)
① PならばPでない(P→~P)。
② PであってPである。といふことはない〔~(P&P)〕。
に於いても、
①=② である。
cf.
(a)
1 (1) P→~P A
2 (2) P& P A
2 (3) P 2&E
2 (4) P 2&E
12 (5) ~P 13MPP
12 (6) P&~P 45&I
1 (7)~(P& P)26RAA
(b)
1 (1)~(P& P)A
2 (2) P A
3(3) P A
23(4) P& P 23&I
123(5)~(P& P)
&(P& P)15&I
12 (6) ~P 35RAA
1 (7) P→~P
∴ (P →~P)は(~(P&P))に等しい。
然るに、
(04)
② Pであって、Pである。
といふ場合に限らず、仮に、
② Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pであって、Pである。
としても、
② Pである。
であって、このことを、「巾等律・反復律」といふ。
cf.
(a)
1(1) P&P A
1(2) P 1&E
(b)
1(1) P A
1(2) P&P 11&I
∴ (P&P)は(P)に等しい。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① PならばPでない(P→~P)。
② PであってPである。といふことはない〔~(P&P)〕。
③ Pである。 といふことはない〔~(P )〕。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(06)
③ Pである。といふことはない〔~(P)〕。
といふことは、
④ Pでない(~P)。
といふことに、他ならない。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① PならばPでない(P→~P)。
② PであってPである。といふことはない〔~(P&P)〕。
③ Pである。といふことはない〔~(P)〕。
④ Pでない(~P)。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(07)により、
(08)
① PならばPでない(P→~P)。
④ Pでない(~P)。
に於いて、
①=④ である。
従って、
(08)により、
(09)
⑤(PならばPでない。)=(Pでない。)
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(01)(09)により、
(10)
⑤(PならばPでない。) = (Pでない。)
⑤(PならばPでない。)従って(Pでない。)
といふ、
⑤ 驚くべき結果(The surprising result)
が、「証明」された。としても、ヲカシクはない。
然るに、
(11)
② (PであってPである。)といふことはない。
② ( Pである。)といふことはない。
といふ「それ」を、
⑥ Pであって、(Pであるといふことはない)。
といふ風に、「誤解」すると、「記号」で書くならば、
② ~(P&P)
といふ「それ」を、
⑥ P&(~P)
といふ風に、「解釈」することになる。
然るに、
(12)
⑥ P&(~P)
といふ「それ」は、「矛盾」そのものである。
従って、
(05)(12)により、
(13)
① PならばPでない。
⑥ Pであって、(Pであるといふことはない)。
に於いて、
①=⑥ である。
とするならば、
① PならばPでない。
といふ「それ」も、「矛盾」そのものに、ならざるを得ない。
従って、
(14)
「記号」で書くならば、
① P→~P=~(P)=~(P&P)
であって、
① P→~P=~(P)=P&~(P)
ではない。
といふことに、気付くことが出来るならば、
⑤(PならばPでない。) = (Pでない。)
⑤(PならばPでない。)従って(Pでない。)
といふ、
⑤ 驚くべき結果(The surprising result)
が、「証明」された。としても、驚く必要はない。
といふことに、気付く、ことになる。
平成29年11月15日、毛利太。
2017年11月13日月曜日
我非必不常求以解中文法解漢文者也。
(01)
① 孔子聖人 =孔子は聖人なり(文語)。
② 孟子亜聖也=孟子は亜聖なり(文語)。
然るに、
(02)
① AB =AはBなり(文語)。
に対して、
② 也 を加へても、
② AB也=AはBなり(文語)
である。
(01)(02)により、
(03)
① AB =AはBなり(文語)。
② AB也=AはBなり(文語)。
に於いて、
②「也」は、「置き字(読まない字)」である。
然るに、
(04)
③ AB =AはBである (口語)。
④ AB也=AはBであるのだ(口語)。
然るに、
(05)
ヤ也 なり たり や か
[助動詞]1なり《文の末尾について、文意を強調する語気を表す》
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、329頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
③ AB =AはBである (口語)。
④ AB也=AはBであるのだ(口語)。
に於いて、
④「也」は、「のだ」といふ、「強調の語気」を表してゐる。
然るに、
(07)
⑤ A非B =AはBにあらず(文語)。
⑤ A非B =AはBではない(口語)。
⑥ A非B也=AはBにあらざるなり(文語)。
⑥ A非B也=AはBではない のだ(口語)。
従って、
(02)(07)により、
(08)
⑤ A非B =AはBにあらず(文語)。
⑤ A非B =AはBではない(口語)。
⑥ A非B也=AはBにあらざるなり(文語)。
⑥ A非B也=AはBではない のだ(口語)。
に於いて、
⑥「也(なり)」は、「置き字」ではなく、尚且つ、
⑥「也(なり)」は、「のだ」のやうな、「強調の語気」を表してゐる。
従って、
(08)により、
(09)
⑤ A非B。
⑥ A非B也。
に於いて、
⑤ と、
⑥ の「違ひ」は、
⑤ AはBではない(口語)。 と、
⑥ AはBではないのだ(口語)。くらひの、「違ひ」に相当する。
従って、
(09)により、
(10)
⑤ 我非必不常求以解中文法解漢文者。
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
の「違ひ」は、敢へて言へば、
⑤ AはBではない(口語)。 と、
⑥ AはBではないのだ(口語)。くらひの、「違ひ」に相当する。
然るに、
(11)
⑥ 我非生而知之者=
⑥ 我非〔生而知(之)者〕⇒
⑥ 我〔生而(之)知者〕非=
⑥ 我は〔生れながらにし而(之を)知る者に〕非ず(論語・述而)。
従って、
(11)により、
(12)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非 者
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(13)
⑥ 非必怪奇偉麗者也=
⑥ 非(必怪奇偉麗者)也⇒
⑥ (必怪奇偉麗者)非也=
⑥ (必ずしも怪奇偉麗なる者に)非ざる也(蘇武・超然台記)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非必 者也
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(15)
⑥ 求以解英文法解漢文=
⑥ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]⇒
⑥ [〔(英文)解法〕以(漢文)解]求=
⑥ [〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求む(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(14)(15)により、
(16)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非必 求以解英文法解漢文者也。
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(17)
⑥ 必不仁=
⑥ 必不(仁)⇒
⑥ 必(仁)不=
⑥ 必らずしも(仁なら)不(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(16)(17)により、
(18)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「作例」に於いて、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
従って、
(10)(18)により、
(19)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也=
⑥ 我は必ずしも、常には、中文を解する法を以って、 漢文を解せんことを求め不る者に非ざるなり=
⑥ 私は必ずしも、常には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、しない者ではないのだ=
⑥ 私は、 時には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、 する者なのだ。
といふ「漢文訓読」は、「正しい」。
cf.
然るに、
(20)
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也。
から、
⑥ 我 必 常 中文 法 漢文 者 也
⑥ 我 必 常 中文 法 漢文 者 也
といふ「漢字」を「取り除く」と、
⑥ 非〈不{求[以〔解( )〕解( )]}〉
⑥ 〈{[〔( )解〕以( )解]求}不〉非
である。
従って、
(20)により、
(21)
⑥ 非〈不{求[以〔解( )〕解( )]}〉
⑥ 〈{[〔( )解〕以( )解]求}不〉非
を「合はせる」と、
⑥ 非〈不{求[以〔解( )解〕以解( )解]求}不〉非
従って、
(21)により、
(22)
⑥ 非〈 〉非
⑥ 不{ }不
⑥ 求[ ]求
⑥ 以〔 〕以
⑥ 解( )解
⑥ 解( )解
である。
従って、
(19)~(22)により、
(23)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
に於いて、
⑥ 非〈 〉非
⑥ 不{ }不
⑥ 求[ ]求
⑥ 以〔 〕以
⑥ 解( )解
⑥ 解( )解
である。
然るに、
(24)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(23)(24)により、
(25)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於ける、
⑥ 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( )]} 〉
といふ「括弧」は、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造」を、表してゐる。
従って、
(23)(25)により、
(26)
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文」を、
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
といふ風に、「訓読」したとしても、
⑥ 私は〈必ずしも{常には[〔(中国語を)理解する方法を〕用ゐて(漢文を)理解]しようと}しない者では〉ないのだ。
といふ風に、「直訳」したとしても、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造」は、「保存」される。
然るに、
(27)
然るに、
(28)
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」は、「中国語」であるため、私には「全く読めない」し、
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
との、ことである。
従って、
(25)~(28)により、
(29)
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
⑥ 私は〈必ずしも{常には[〔(中国語を)理解する方法を〕用いて(漢文を)理解]しようと}しない者では〉ないのだ。
であれば、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文の補足構造」を「保存」してゐる一方で、
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」は、さうではない。はずである(?)。
従って、
(29)により、
(30)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「(自分で書いた)漢文」が「正しいか、否か」を知りたい際に、
⑥ 私は必ずしも、常には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、しない者ではないのだ。
といふ「日本語」に対する「知識」より以上に、
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」に対する「知識」が、「訳に立つ」とは、思はない。
(31)
然るに、
(32)
⑥ 我非生而知之者=
⑥ 我非〔生而知(之)者〕⇒
⑥ 我〔生而(之)知者〕非=
⑥ 我は〔生れながらにし而(之を)知る者に〕非ず(論語・述而)。
に於ける、
⑥ 我非〔生而知(之)者〕。
といふ「漢文の補足構造」と、
⑥ 任何知道這一點的人我都不是天生的(グーグル翻訳)。
といふ「中国語の、構造」が、「同じ」であるとは、思へない。
然るに、
(33)
その一方で、
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
(34)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
(35)
大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。
然るに、
(36)
ともかく筆者が言いたいのは、大学でも漢文の授業の方はしっかりと訓読だけを教えればよいということである。以前このようなことをある講演の際に述べたら、他の大学に勤めている先輩から、自分のところでは音読も取り入れて学生もみな読めるようになっていると力まれて困った。それならばその大学出身の若手が中国学会をリードしているはずである(土田健次郎、大学における訓読教育の必要性)。
との、ことである。
平成29年11月13日、毛利太。
① 孔子聖人 =孔子は聖人なり(文語)。
② 孟子亜聖也=孟子は亜聖なり(文語)。
然るに、
(02)
① AB =AはBなり(文語)。
に対して、
② 也 を加へても、
② AB也=AはBなり(文語)
である。
(01)(02)により、
(03)
① AB =AはBなり(文語)。
② AB也=AはBなり(文語)。
に於いて、
②「也」は、「置き字(読まない字)」である。
然るに、
(04)
③ AB =AはBである (口語)。
④ AB也=AはBであるのだ(口語)。
然るに、
(05)
ヤ也 なり たり や か
[助動詞]1なり《文の末尾について、文意を強調する語気を表す》
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、329頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
③ AB =AはBである (口語)。
④ AB也=AはBであるのだ(口語)。
に於いて、
④「也」は、「のだ」といふ、「強調の語気」を表してゐる。
然るに、
(07)
⑤ A非B =AはBにあらず(文語)。
⑤ A非B =AはBではない(口語)。
⑥ A非B也=AはBにあらざるなり(文語)。
⑥ A非B也=AはBではない のだ(口語)。
従って、
(02)(07)により、
(08)
⑤ A非B =AはBにあらず(文語)。
⑤ A非B =AはBではない(口語)。
⑥ A非B也=AはBにあらざるなり(文語)。
⑥ A非B也=AはBではない のだ(口語)。
に於いて、
⑥「也(なり)」は、「置き字」ではなく、尚且つ、
⑥「也(なり)」は、「のだ」のやうな、「強調の語気」を表してゐる。
従って、
(08)により、
(09)
⑤ A非B。
⑥ A非B也。
に於いて、
⑤ と、
⑥ の「違ひ」は、
⑤ AはBではない(口語)。 と、
⑥ AはBではないのだ(口語)。くらひの、「違ひ」に相当する。
従って、
(09)により、
(10)
⑤ 我非必不常求以解中文法解漢文者。
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
の「違ひ」は、敢へて言へば、
⑤ AはBではない(口語)。 と、
⑥ AはBではないのだ(口語)。くらひの、「違ひ」に相当する。
然るに、
(11)
⑥ 我非生而知之者=
⑥ 我非〔生而知(之)者〕⇒
⑥ 我〔生而(之)知者〕非=
⑥ 我は〔生れながらにし而(之を)知る者に〕非ず(論語・述而)。
従って、
(11)により、
(12)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非 者
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(13)
⑥ 非必怪奇偉麗者也=
⑥ 非(必怪奇偉麗者)也⇒
⑥ (必怪奇偉麗者)非也=
⑥ (必ずしも怪奇偉麗なる者に)非ざる也(蘇武・超然台記)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非必 者也
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(15)
⑥ 求以解英文法解漢文=
⑥ 求[以〔解(英文)法〕解(漢文)]⇒
⑥ [〔(英文)解法〕以(漢文)解]求=
⑥ [〔(英文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求む(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(14)(15)により、
(16)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
い於いて、
⑥ 我非必 求以解英文法解漢文者也。
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
然るに、
(17)
⑥ 必不仁=
⑥ 必不(仁)⇒
⑥ 必(仁)不=
⑥ 必らずしも(仁なら)不(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(16)(17)により、
(18)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「作例」に於いて、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢字の配置」は、「漢文として、正しい」。
従って、
(10)(18)により、
(19)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也=
⑥ 我は必ずしも、常には、中文を解する法を以って、 漢文を解せんことを求め不る者に非ざるなり=
⑥ 私は必ずしも、常には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、しない者ではないのだ=
⑥ 私は、 時には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、 する者なのだ。
といふ「漢文訓読」は、「正しい」。
cf.
然るに、
(20)
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也。
から、
⑥ 我 必 常 中文 法 漢文 者 也
⑥ 我 必 常 中文 法 漢文 者 也
といふ「漢字」を「取り除く」と、
⑥ 非〈不{求[以〔解( )〕解( )]}〉
⑥ 〈{[〔( )解〕以( )解]求}不〉非
である。
従って、
(20)により、
(21)
⑥ 非〈不{求[以〔解( )〕解( )]}〉
⑥ 〈{[〔( )解〕以( )解]求}不〉非
を「合はせる」と、
⑥ 非〈不{求[以〔解( )解〕以解( )解]求}不〉非
従って、
(21)により、
(22)
⑥ 非〈 〉非
⑥ 不{ }不
⑥ 求[ ]求
⑥ 以〔 〕以
⑥ 解( )解
⑥ 解( )解
である。
従って、
(19)~(22)により、
(23)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
に於いて、
⑥ 非〈 〉非
⑥ 不{ }不
⑥ 求[ ]求
⑥ 以〔 〕以
⑥ 解( )解
⑥ 解( )解
である。
然るに、
(24)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(23)(24)により、
(25)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於ける、
⑥ 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( )]} 〉
といふ「括弧」は、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造」を、表してゐる。
従って、
(23)(25)により、
(26)
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文」を、
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
といふ風に、「訓読」したとしても、
⑥ 私は〈必ずしも{常には[〔(中国語を)理解する方法を〕用ゐて(漢文を)理解]しようと}しない者では〉ないのだ。
といふ風に、「直訳」したとしても、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造」は、「保存」される。
然るに、
(27)
然るに、
(28)
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」は、「中国語」であるため、私には「全く読めない」し、
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
との、ことである。
従って、
(25)~(28)により、
(29)
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
⑥ 私は〈必ずしも{常には[〔(中国語を)理解する方法を〕用いて(漢文を)理解]しようと}しない者では〉ないのだ。
であれば、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文の補足構造」を「保存」してゐる一方で、
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」は、さうではない。はずである(?)。
従って、
(29)により、
(30)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「(自分で書いた)漢文」が「正しいか、否か」を知りたい際に、
⑥ 私は必ずしも、常には、中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、しない者ではないのだ。
といふ「日本語」に対する「知識」より以上に、
⑥ 我並不總是一個不懂中文的人用中文理解的方法(グーグル翻訳)。
といふ「中国語」に対する「知識」が、「訳に立つ」とは、思はない。
(31)
然るに、
(32)
⑥ 我非生而知之者=
⑥ 我非〔生而知(之)者〕⇒
⑥ 我〔生而(之)知者〕非=
⑥ 我は〔生れながらにし而(之を)知る者に〕非ず(論語・述而)。
に於ける、
⑥ 我非〔生而知(之)者〕。
といふ「漢文の補足構造」と、
⑥ 任何知道這一點的人我都不是天生的(グーグル翻訳)。
といふ「中国語の、構造」が、「同じ」であるとは、思へない。
然るに、
(33)
その一方で、
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
(34)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
(35)
大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。
然るに、
(36)
ともかく筆者が言いたいのは、大学でも漢文の授業の方はしっかりと訓読だけを教えればよいということである。以前このようなことをある講演の際に述べたら、他の大学に勤めている先輩から、自分のところでは音読も取り入れて学生もみな読めるようになっていると力まれて困った。それならばその大学出身の若手が中国学会をリードしているはずである(土田健次郎、大学における訓読教育の必要性)。
との、ことである。
平成29年11月13日、毛利太。
2017年11月11日土曜日
「マラガシ語・訓読」と「漢文・訓読」。
(01)
5‐a)Tsy1 faly2 Rabe3 safria4 marary5 Rasoa6.
5‐b)ラソアが6 病気な5 ので4 ラベは3 幸せで2 ない1.
このように、日本語とマラガシ語では文のいろいろな構成要素の配列が全く逆の形をとって現われるが、これは、ことばの線状化の原理がこの2つの言語でちょうど逆方向に働いているからである。
(世界言語への視座―歴史言語学と言語類型論 単行本 – 2006/11/1松本 克己(著)、159頁)
従って、
(01)により、
(02)
① Tsy1 faly2 Rabe3 safria4 marary5 Rasoa6 =
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉.
に於いて、
① Tsy1〈 〉⇒ Tsy1
① faly2{ }⇒ faly2
① Rabe3[ ]⇒ Rabe3
① safria4〔 〕⇒ safria4
① marary5( )⇒ marary5
といふ「移動」を行ふと、
① Tsy1 faly2 Rabe3 safria4 marary5 Rasoa6 =
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉⇒
① 〈{[(Rasoa6)marary5〕safria4]faly2}Rabe3〉Tsy1 =
① 〈{[(ラソアが6)病気な5〕ので4]ラベは3}幸せで2〉ない1。
といふ「マラガシ語・訓読」が、成立する。
従って、
(03)
「言ひ換へ」ると、
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉
に於いて、
①「より内側の括弧の中」を先に読むと、
① 〈{[(ラソアが6)病気な5〕ので4]ラベは3}幸せで2〉ない1。
といふ「マラガシ語・訓読」が、成立する。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉.
① 〈{[(ラソアが6)病気な5〕ので4]ラベは3}幸せで2〉ない1.
といふ「例文」に於いて、「マラガシ語」と「日本語」は、「語順こそ、逆」であるが、「構造自体は、全く同じ」である。
然るに、
(05)
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉.
ではなく、
② safria4(Rasoa6 marary5)Rabe3 Tsy1(faly2).
に於いて、
② safria4( )⇒ safria4
② Tsy1( )⇒ Tsy1
といふ「移動」を行ふと、
② safria4 Rasoa6 marary5 Rabe3 Tsy1 faly2 =
② safria4(Rasoa6 marary5)Rabe3 Tsy1(faly2)⇒
② (Rasoa6 marary5)safria4 Rabe3(faly2)Tsy1=
② (ラソアが6 病気な5)ので4ラベは3(幸せで2)ない1。
といふ「非マラガシ語・訓読」が、成立する。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
「主語‐述語の、語順」は、「日本語と共通」であるが、
「主語‐述語の、語順」以外は「日本語と逆」であるといふ「言語L」が、有るとしても、
「括弧」を用ゐて、その「言語L」を「訓読」することは、「可能」である。
然るに、
(07)
③ marary5 safria4 Rasoa6 =
③ marary5(safria4〔Rasoa6)〕.
に於いて、
③ marary5( )⇒ marary5
③ safria4〔 〕⇒ safria4
といふ「移動」を行ふと、
③ marary5 safria4 Rasoa6 =
③ marary5(safria4〔Rasoa6)〕⇒
③ (〔Rasoa6)marary5〕safria4=
③ (〔ラソアが6)病気な5〕ので4。
といふ「非マラガシ語・訓読」が、成立する。
然るに、
(08)
③ marary5(safria4〔Rasoa6)〕.
に於ける、
③ 5(4〔6)〕.
といふ「括弧」、すなはち、
③ ( 〔 )〕
といふ「それ」は、
③ 〔 ( )〕
ではないが故に、実際には、「括弧」ではない。
従って、
(02)(08)により、
(09)
① Tsy1 faly2 Rabe3 safria4 marary5 Rasoa6.
に対して、
③ Tsy1 faly2 Rabe3 marary5 safria4 Rasoa6.
といふ「非マラガシ語」を、「括弧」を用ゐて、「訓読」することは、「可能」ではない。
加へて、
(10)
④ Who are you?=
④ Who(are〔you)〕?⇒
④ (〔you)Who〕are?=
④ (〔あなた)誰〕ですか。
に於いて、
④ ( 〔 )〕
といふ「それ」は、
④ 〔 ( )〕
ではないが故に、「括弧」ではないし、
(11)
⑤ What are you doing now?=
⑤ What(are[you doing〔now)〕]?⇒
⑤ ([you 〔now)What〕doing]are?=
⑤ ([あなたは〔今)何を〕して]ゐますか。
に於いて、
⑤ ( [ 〔 )〕]
といふ「それ」は。
⑤ [ 〔 ( )〕]
ではないが故に、「括弧」ではない。
然るに、
(12)
④ You are who?=
④ You are(who)?⇒
④ You (who)are?=
④ あなたは(誰)ですか。
であって、
⑤ You are doing what now?=
⑤ You are[doing〔what(now)〕]?⇒
⑤ You [〔(now)what〕doing]are?=
⑤ あなたは[〔(今)何を〕して]ゐますか。
である。
従って、 (10)(11)(12)により、
(13)
④ You are who?
⑤ You are doing what now?
ではない所の、
④ Who are you?
⑤ What are you doing now?
といふ「英語」を、「括弧」を用ゐて、「訓読」することは、「可能」ではない。
cf.
WH移動(生成文法)。
然るに、
(14)
然るに、
(15)
④ 下[二(上〔一)〕]
⑤ 二(五[三〔一)〕四]
に於いて、
④ [ ( 〔 )〕]
⑤ ( [ 〔 )〕 ]
といふ「それ」は、「括弧」ではない。
従って、
(14)(15)により、
(16)
④ 只管要纏擾我。
⑤ 端的看不出這婆子的本事。
のやうな「白話(中国語)」を、「括弧」を用ゐて、「訓読」することは、「可能」ではない。
(09)(13)(14)により、
(17)
「どのやうな言語」であっても、「括弧」を用ゐて、「訓読」することが、「可能」である。といふ、わけではない。
然るに、
(18)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(06)(18)により、
(19)
「括弧」を用ゐて、「補足構造」だけを、「漢文の語順」と「逆」にするならば、その場合の「漢字の配列」は、「日本語の語順」と「等しい」。
といふ、ことになる。
然るに、
(20)
従って、
(19)(20)により、
(21)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也=
⑥ 我は必ずしも、常には中文を解する法を以って、 漢文を解せんことを求め不る者に非ざるなり=
⑥ 私は必ずしも、常には中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、しない者ではない=
⑥ 私は、 時には中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、 する者である。
に於ける、
⑥ 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( )]} 〉
といふ「括弧」は、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」の、「補足構造」を表してゐる。
従って、
(20)(21)により、
(22)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非地必不丁常求丙以下解二中文一法上解乙漢文甲者天也。
に於ける、
⑥ 地 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
といふ「返り点」も、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文の補足構造」を表してゐる。
然るに、
(23)
【定義】返り点とは、漢文すなわち古典中国語の語順を、日本語の語順に変換する符号である(古田島洋介、湯城吉信、漢文訓読入門、2011年、45頁)。
といふ【定義】には、「補足構造」といふ「言葉」が無く、それ故、【定義】としては、「一面的」であって、「十分」ではない。
従って、
(24)
【定義】返り点とは、漢文すなわち古典中国語の「補足構造」を表すと同時に、古典中国語の語順を日本語の語順に変換する符号である。
とするのが、「正しい」。
従って、
(24)により、
(25)
例へば、
⑦ 楚人有鬻楯與矛者。譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。或曰、以子之矛、陷子之楯何如。其人弗能應也。
といふ「漢文」を、
⑦ Chǔ rén yǒu yù dùn yǔ máo zhě. Yù zhī yuē, wú dùn zhī jiān, mò néng xiàn yě. Yòu yù qí máo yuē, wú máo zhī lì, yú wù wú bù xiàn yě. Huò yuē, yǐ zǐ zhī máo, xiàn zǐ zhī dùn hérú. Qí rén fú néng yīng yě(グーグル翻訳).
といふ風に、「音読」しようと、
⑦ 楚人に楯と矛とを鬻ぐ者有り。之を誉曰く、吾が楯の堅きこと、能く陥す莫きなり、と。また其の矛を誉めて曰く、吾が矛の利なること、物に於いて陥さざる無なし、と。或るひと曰く、子の矛を以もって、子の楯を陥さば何如、と。其の人応ふる能はざるなり。
といふ風に、「訓読」しようと、
⑦ 楚人有鬻楯與矛者。譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。或曰、以子之矛、陷子之楯何如。其人弗能應也。
といふ「漢文」には、
⑦ 楚人有〔鬻(楯與矛)者〕。譽(之)曰、吾楯之堅、莫〔能(陷)〕也。又譽(其矛)曰、吾矛之利、於(物)無〔不(陷)〕也。或曰、以(子之矛)、陷(子之楯)何如。其人弗能弗〔能(應)〕也。
といふ「補足構造」が有る。といふことには、「変り」が無い。
従って、
(25)により、
(26)
⑦ 楚人有[鬻〔楯與(矛)〕者]。譽(之)曰、吾楯之堅、莫〔能(陷)〕也。又譽(其矛)曰、吾矛之利、於(物)無〔不(陷)〕也。或曰、以(子之矛)、陷(子之楯)何如。其人弗能弗〔能(應)〕也。
といふ「補足構造」を、「把握」しない限り、
⑦ 楚人有鬻楯與矛者。譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。或曰、以子之矛、陷子之楯何如。其人弗能應也。
といふ「漢文」を、
⑦ 楚人に楯と矛とを鬻ぐ者有り。之を誉曰く、吾が楯の堅きこと、能く陥す莫きなり、と。また其の矛を誉めて曰く、吾が矛の利なること、物に於いて陥さざる無なし、と。或るひと曰く、子の矛を以もって、子の楯を陥さば何如、と。其の人応ふる能はざるなり。
といふ風に、「訓読」することは、出来ない。
然るに、
(27)
チュの人々は誰を馬鹿にして槍を投げる。言った、私はケネディの強い、Moの評判は沈むことができます。また、槍として知られている、私は利点の槍、すべてにも陥ると述べた。または、子供の槍で、</ s>の崩壊はどうですか?その人はまたできるはずです(グーグル翻訳)。
といふ「それ」は、「意味不明」である。
従って、
(25)(27)により、
(28)
「グーグルのAI」は、「中国語」は知ってゐても、
⑦ 楚人有鬻楯與矛者。譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。或曰、以子之矛、陷子之楯何如。其人弗能應也。
のやうな「漢文」に対する「知識(データ)」が無いため、
⑦ Chǔ rén yǒu yù dùn yǔ máo zhě. Yù zhī yuē, wú dùn zhī jiān, mò néng xiàn yě. Yòu yù qí máo yuē, wú máo zhī lì, yú wù wú bù xiàn yě. Huò yuē, yǐ zǐ zhī máo, xiàn zǐ zhī dùn hérú. Qí rén fú néng yīng yě(グーグル翻訳).
といふ風に、「音読」は出来ても、その「意味」を、「理解すること」は、出来ない。
従って、
(28)により、
(29)
少なくとも、「グーグルのAI」にとって、「中国語の知識」は、「漢文を読む」上で、「役に立たない」。
従って、
(30)
そして重野の講演を後れること七年、文化大学の講師を務めていたイギリス人チャンバレン氏も一八八六年『東洋学芸雑誌』第六一号に「支那語読法ノ改良ヲ望ム」を発表し、「疑ハシキハ日本人ノ此支那語ヲ通読スル伝法ナリ、前ヲ後ニ変へ、下ヲ上ニ遡ラシ、本文ニ見へザル語尾ヲ附シ虚辞ヲ黙シ、若クハ再用スル等ハ、漢文ヲ通読スルコトニアランヤ。寧ロ漢文ヲ破砕シテ、其片塊ヲ以テ随意ニ別類ノ一科奇物ヲ増加セリト云フヲ免カレンヤ。」「畢竟日本語ハ日本ノ言序アリ、英語ハ英ノ語次存スルコトは皆々承知セリ、唯支那語ニノミ治外法権ヲ許ルサズシ権内ニ置クハ何ソヤ」(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、50頁)。
といふ「見解」は、すなはち、「マチガイ」である。
(31)
5‐b)ラソアが6 病気な5 ので4 ラベは3 幸せで2 ない1.
5‐a)Tsy1 faly2 Rabe3 safria4 marary5 Rasoa6.
のやうに、「語順」自体は、「真逆」であるが、
① 〈{[(ラソアが6)病気な5〕ので4]ラベは3}幸せで2〉ない1.
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉.
のやうに、「構造」自体は、「同一」な「言語」が有ることを、知るべきである。
平成29年11月11日、毛利太。
5‐a)Tsy1 faly2 Rabe3 safria4 marary5 Rasoa6.
5‐b)ラソアが6 病気な5 ので4 ラベは3 幸せで2 ない1.
このように、日本語とマラガシ語では文のいろいろな構成要素の配列が全く逆の形をとって現われるが、これは、ことばの線状化の原理がこの2つの言語でちょうど逆方向に働いているからである。
(世界言語への視座―歴史言語学と言語類型論 単行本 – 2006/11/1松本 克己(著)、159頁)
従って、
(01)により、
(02)
① Tsy1 faly2 Rabe3 safria4 marary5 Rasoa6 =
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉.
に於いて、
① Tsy1〈 〉⇒ Tsy1
① faly2{ }⇒ faly2
① Rabe3[ ]⇒ Rabe3
① safria4〔 〕⇒ safria4
① marary5( )⇒ marary5
といふ「移動」を行ふと、
① Tsy1 faly2 Rabe3 safria4 marary5 Rasoa6 =
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉⇒
① 〈{[(Rasoa6)marary5〕safria4]faly2}Rabe3〉Tsy1 =
① 〈{[(ラソアが6)病気な5〕ので4]ラベは3}幸せで2〉ない1。
といふ「マラガシ語・訓読」が、成立する。
従って、
(03)
「言ひ換へ」ると、
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉
に於いて、
①「より内側の括弧の中」を先に読むと、
① 〈{[(ラソアが6)病気な5〕ので4]ラベは3}幸せで2〉ない1。
といふ「マラガシ語・訓読」が、成立する。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉.
① 〈{[(ラソアが6)病気な5〕ので4]ラベは3}幸せで2〉ない1.
といふ「例文」に於いて、「マラガシ語」と「日本語」は、「語順こそ、逆」であるが、「構造自体は、全く同じ」である。
然るに、
(05)
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉.
ではなく、
② safria4(Rasoa6 marary5)Rabe3 Tsy1(faly2).
に於いて、
② safria4( )⇒ safria4
② Tsy1( )⇒ Tsy1
といふ「移動」を行ふと、
② safria4 Rasoa6 marary5 Rabe3 Tsy1 faly2 =
② safria4(Rasoa6 marary5)Rabe3 Tsy1(faly2)⇒
② (Rasoa6 marary5)safria4 Rabe3(faly2)Tsy1=
② (ラソアが6 病気な5)ので4ラベは3(幸せで2)ない1。
といふ「非マラガシ語・訓読」が、成立する。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
「主語‐述語の、語順」は、「日本語と共通」であるが、
「主語‐述語の、語順」以外は「日本語と逆」であるといふ「言語L」が、有るとしても、
「括弧」を用ゐて、その「言語L」を「訓読」することは、「可能」である。
然るに、
(07)
③ marary5 safria4 Rasoa6 =
③ marary5(safria4〔Rasoa6)〕.
に於いて、
③ marary5( )⇒ marary5
③ safria4〔 〕⇒ safria4
といふ「移動」を行ふと、
③ marary5 safria4 Rasoa6 =
③ marary5(safria4〔Rasoa6)〕⇒
③ (〔Rasoa6)marary5〕safria4=
③ (〔ラソアが6)病気な5〕ので4。
といふ「非マラガシ語・訓読」が、成立する。
然るに、
(08)
③ marary5(safria4〔Rasoa6)〕.
に於ける、
③ 5(4〔6)〕.
といふ「括弧」、すなはち、
③ ( 〔 )〕
といふ「それ」は、
③ 〔 ( )〕
ではないが故に、実際には、「括弧」ではない。
従って、
(02)(08)により、
(09)
① Tsy1 faly2 Rabe3 safria4 marary5 Rasoa6.
に対して、
③ Tsy1 faly2 Rabe3 marary5 safria4 Rasoa6.
といふ「非マラガシ語」を、「括弧」を用ゐて、「訓読」することは、「可能」ではない。
加へて、
(10)
④ Who are you?=
④ Who(are〔you)〕?⇒
④ (〔you)Who〕are?=
④ (〔あなた)誰〕ですか。
に於いて、
④ ( 〔 )〕
といふ「それ」は、
④ 〔 ( )〕
ではないが故に、「括弧」ではないし、
(11)
⑤ What are you doing now?=
⑤ What(are[you doing〔now)〕]?⇒
⑤ ([you 〔now)What〕doing]are?=
⑤ ([あなたは〔今)何を〕して]ゐますか。
に於いて、
⑤ ( [ 〔 )〕]
といふ「それ」は。
⑤ [ 〔 ( )〕]
ではないが故に、「括弧」ではない。
然るに、
(12)
④ You are who?=
④ You are(who)?⇒
④ You (who)are?=
④ あなたは(誰)ですか。
であって、
⑤ You are doing what now?=
⑤ You are[doing〔what(now)〕]?⇒
⑤ You [〔(now)what〕doing]are?=
⑤ あなたは[〔(今)何を〕して]ゐますか。
である。
従って、 (10)(11)(12)により、
(13)
④ You are who?
⑤ You are doing what now?
ではない所の、
④ Who are you?
⑤ What are you doing now?
といふ「英語」を、「括弧」を用ゐて、「訓読」することは、「可能」ではない。
cf.
WH移動(生成文法)。
然るに、
(14)
然るに、
(15)
④ 下[二(上〔一)〕]
⑤ 二(五[三〔一)〕四]
に於いて、
④ [ ( 〔 )〕]
⑤ ( [ 〔 )〕 ]
といふ「それ」は、「括弧」ではない。
従って、
(14)(15)により、
(16)
④ 只管要纏擾我。
⑤ 端的看不出這婆子的本事。
のやうな「白話(中国語)」を、「括弧」を用ゐて、「訓読」することは、「可能」ではない。
(09)(13)(14)により、
(17)
「どのやうな言語」であっても、「括弧」を用ゐて、「訓読」することが、「可能」である。といふ、わけではない。
然るに、
(18)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(06)(18)により、
(19)
「括弧」を用ゐて、「補足構造」だけを、「漢文の語順」と「逆」にするならば、その場合の「漢字の配列」は、「日本語の語順」と「等しい」。
といふ、ことになる。
然るに、
(20)
従って、
(19)(20)により、
(21)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也=
⑥ 我は必ずしも、常には中文を解する法を以って、 漢文を解せんことを求め不る者に非ざるなり=
⑥ 私は必ずしも、常には中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、しない者ではない=
⑥ 私は、 時には中国語を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようと、 する者である。
に於ける、
⑥ 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( )]} 〉
といふ「括弧」は、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」の、「補足構造」を表してゐる。
従って、
(20)(21)により、
(22)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非地必不丁常求丙以下解二中文一法上解乙漢文甲者天也。
に於ける、
⑥ 地 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
といふ「返り点」も、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文の補足構造」を表してゐる。
然るに、
(23)
【定義】返り点とは、漢文すなわち古典中国語の語順を、日本語の語順に変換する符号である(古田島洋介、湯城吉信、漢文訓読入門、2011年、45頁)。
といふ【定義】には、「補足構造」といふ「言葉」が無く、それ故、【定義】としては、「一面的」であって、「十分」ではない。
従って、
(24)
【定義】返り点とは、漢文すなわち古典中国語の「補足構造」を表すと同時に、古典中国語の語順を日本語の語順に変換する符号である。
とするのが、「正しい」。
従って、
(24)により、
(25)
例へば、
⑦ 楚人有鬻楯與矛者。譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。或曰、以子之矛、陷子之楯何如。其人弗能應也。
といふ「漢文」を、
⑦ Chǔ rén yǒu yù dùn yǔ máo zhě. Yù zhī yuē, wú dùn zhī jiān, mò néng xiàn yě. Yòu yù qí máo yuē, wú máo zhī lì, yú wù wú bù xiàn yě. Huò yuē, yǐ zǐ zhī máo, xiàn zǐ zhī dùn hérú. Qí rén fú néng yīng yě(グーグル翻訳).
といふ風に、「音読」しようと、
⑦ 楚人に楯と矛とを鬻ぐ者有り。之を誉曰く、吾が楯の堅きこと、能く陥す莫きなり、と。また其の矛を誉めて曰く、吾が矛の利なること、物に於いて陥さざる無なし、と。或るひと曰く、子の矛を以もって、子の楯を陥さば何如、と。其の人応ふる能はざるなり。
といふ風に、「訓読」しようと、
⑦ 楚人有鬻楯與矛者。譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。或曰、以子之矛、陷子之楯何如。其人弗能應也。
といふ「漢文」には、
⑦ 楚人有〔鬻(楯與矛)者〕。譽(之)曰、吾楯之堅、莫〔能(陷)〕也。又譽(其矛)曰、吾矛之利、於(物)無〔不(陷)〕也。或曰、以(子之矛)、陷(子之楯)何如。其人弗能弗〔能(應)〕也。
といふ「補足構造」が有る。といふことには、「変り」が無い。
従って、
(25)により、
(26)
⑦ 楚人有[鬻〔楯與(矛)〕者]。譽(之)曰、吾楯之堅、莫〔能(陷)〕也。又譽(其矛)曰、吾矛之利、於(物)無〔不(陷)〕也。或曰、以(子之矛)、陷(子之楯)何如。其人弗能弗〔能(應)〕也。
といふ「補足構造」を、「把握」しない限り、
⑦ 楚人有鬻楯與矛者。譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。或曰、以子之矛、陷子之楯何如。其人弗能應也。
といふ「漢文」を、
⑦ 楚人に楯と矛とを鬻ぐ者有り。之を誉曰く、吾が楯の堅きこと、能く陥す莫きなり、と。また其の矛を誉めて曰く、吾が矛の利なること、物に於いて陥さざる無なし、と。或るひと曰く、子の矛を以もって、子の楯を陥さば何如、と。其の人応ふる能はざるなり。
といふ風に、「訓読」することは、出来ない。
然るに、
(27)
チュの人々は誰を馬鹿にして槍を投げる。言った、私はケネディの強い、Moの評判は沈むことができます。また、槍として知られている、私は利点の槍、すべてにも陥ると述べた。または、子供の槍で、</ s>の崩壊はどうですか?その人はまたできるはずです(グーグル翻訳)。
といふ「それ」は、「意味不明」である。
従って、
(25)(27)により、
(28)
「グーグルのAI」は、「中国語」は知ってゐても、
⑦ 楚人有鬻楯與矛者。譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。或曰、以子之矛、陷子之楯何如。其人弗能應也。
のやうな「漢文」に対する「知識(データ)」が無いため、
⑦ Chǔ rén yǒu yù dùn yǔ máo zhě. Yù zhī yuē, wú dùn zhī jiān, mò néng xiàn yě. Yòu yù qí máo yuē, wú máo zhī lì, yú wù wú bù xiàn yě. Huò yuē, yǐ zǐ zhī máo, xiàn zǐ zhī dùn hérú. Qí rén fú néng yīng yě(グーグル翻訳).
といふ風に、「音読」は出来ても、その「意味」を、「理解すること」は、出来ない。
従って、
(28)により、
(29)
少なくとも、「グーグルのAI」にとって、「中国語の知識」は、「漢文を読む」上で、「役に立たない」。
従って、
(30)
そして重野の講演を後れること七年、文化大学の講師を務めていたイギリス人チャンバレン氏も一八八六年『東洋学芸雑誌』第六一号に「支那語読法ノ改良ヲ望ム」を発表し、「疑ハシキハ日本人ノ此支那語ヲ通読スル伝法ナリ、前ヲ後ニ変へ、下ヲ上ニ遡ラシ、本文ニ見へザル語尾ヲ附シ虚辞ヲ黙シ、若クハ再用スル等ハ、漢文ヲ通読スルコトニアランヤ。寧ロ漢文ヲ破砕シテ、其片塊ヲ以テ随意ニ別類ノ一科奇物ヲ増加セリト云フヲ免カレンヤ。」「畢竟日本語ハ日本ノ言序アリ、英語ハ英ノ語次存スルコトは皆々承知セリ、唯支那語ニノミ治外法権ヲ許ルサズシ権内ニ置クハ何ソヤ」(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、50頁)。
といふ「見解」は、すなはち、「マチガイ」である。
(31)
5‐b)ラソアが6 病気な5 ので4 ラベは3 幸せで2 ない1.
5‐a)Tsy1 faly2 Rabe3 safria4 marary5 Rasoa6.
のやうに、「語順」自体は、「真逆」であるが、
① 〈{[(ラソアが6)病気な5〕ので4]ラベは3}幸せで2〉ない1.
① Tsy1〈faly2{Rabe3[safria4〔marary5(Rasoa6)〕]}〉.
のやうに、「構造」自体は、「同一」な「言語」が有ることを、知るべきである。
平成29年11月11日、毛利太。
請以十五城易之
―「一昨日(平成29年11月09日)の記事の、続きです。」―
(29)
① 数請出自致。
② 数出請自致。
③ 請数出自致。
④ 請出数自致。
⑤ 出数請自致。
⑥ 出請数自致。
に於いて、、
① 数請出自致。
② 数出請自致。
③ 請数出自致。
については、「既に、説明した」通りです。
然るに、
(30)
④ 請(出数自致)。
⑤ 出数請(自致)。
⑥ 出請(数自致)。
の「訓読」は、三つとも、
④ (出でて数々自ら致さんことを)請ふ。
⑤ 出でて数々(自ら致さんことを)請ふ。
⑥ 出でて(数々自ら致さんことを)請ふ。
である。
すなはち、
(30)により、
(31)
④ 請出数自致。
⑤ 出数請自致。
⑥ 出請数自致。
の「訓読」は、三つとも、
④ 出でて数々自ら致さんことを請ふ。
⑤ 出でて数々自ら致さんことを請ふ。
⑥ 出でて数々自ら致さんことを請ふ。
である。
然るに、
(30)により、
(32)
④ (出でて数々自ら致さんことを)請ふ。
⑤ (自ら致さんことを)請ふ。
⑥ (数々自ら致さんことを)請ふ。
であるため、それぞれの、「頼む(請ふ)」際の「内容」は、「三つ」とも、「同じ」ではない。
従って、
(30)(32)により、
(33)
④ 請(出数自致)。
⑤ 出数請(自致)。
⑥ 出請(数自致)。
といふ「漢文」も、「三つとも、同じ」ではない。
従って、
(29)(33)により、
(34)
① 数請出自致。
② 数出請自致。
③ 請数出自致。
④ 請出数自致。
⑤ 出数請自致。
⑥ 出請数自致。
といふ「漢文」は、「六つとも、同じ」ではない。
然るに、
(35)
然るに、
(36)
⑦ 請以十五城易之=
⑦ 請〔以(十五城)易(之)〕⇒
⑦ 〔(十五城)以(之)易〕請=
⑦ 〔(十五城を)以て(之に)易へんこと〕請ふ。
に於ける、
⑦ 之
といふのは、すなはち、
⑧ 以十五城請易寡人之璧=
⑧ 以(十五城)請〔易(寡人之璧)〕⇒
⑧ (十五城)以〔(寡人之璧)易〕請=
⑧ (十五城を)以て〔(寡の之璧に)易へんことを〕請ふ。
に於ける、
⑧ 寡人之璧(和氏の璧)
に、他ならない。
cf.
和氏の璧(かしのへき、-たま)とは、中国の春秋時代・戦国時代の故事にあらわれた名玉(ウィキペディア)。
従って、
(35)(36)により、
(37)
⑦ 請以十五城易之(十八史略)。
⑧ 以十五城請易寡人之璧(史記列伝)。
の場合は、両方とも、実質的に、
⑦ 十五城を以て寡人の璧に易へんことを請ふ(十八史略)。
⑧ 十五城を以て寡人の璧に易へんことを請ふ(史記列伝)。
である。
然るに、
(38)
⑧ 以十五城請易寡人之璧(史記列伝)。
の場合は、
⑧ 以十五城請易寡人之璧=
⑧ 以{十‐五‐城[請〔易(寡人之璧)〕]}⇒
⑧ {[〔(寡人之璧)易〕請]十‐五‐城}以=
⑧ {[〔(寡人の璧に)易へんと〕請ふに]十‐五‐城を}以てす。
といふ風にも、「読む」ことが、出来る。
従って、
(37)(38)により、
(39)
⑦ 十五城を以て寡人の璧に易へんことを請ふ(十八史略)。
⑧ 十五城を以て寡人の璧に易へんことを請ふ(史記列伝)。
ではなく、
⑧ に関しては、「新漢文大系(明治書院)」もさうしてゐるやうに、
⑧ 十五城を以て、寡の之璧に易へんことを請ふ(史記列伝)。
のやうに、「、」を打つべきである。
(40)
⑦ 請以十五城易之寡人之璧。
⑧ 以十五城請易之寡人之璧。
に於いて、
⑦「以十五城」といふ「副詞句」は、「易」といふ「動詞」を「修飾」してゐて、
⑧「以十五城」といふ「副詞句」は、「請」といふ「動詞」を「修飾」してゐる。
然るに、
(41)
⑦ 十五城を以て寡の之璧に易へんことを請ふ(十八史略)。
⑧ 十五城を以て、寡の之璧に易へんことを請ふ(史記列伝)。
であるならば、いづれにせよ、
⑦「十五城」と「寡人の璧」の「交換」を望んでゐて、
⑧「十五城」と「寡人の璧」の「交換」を望んでゐる。
従って、
(41)により、
(42)
「命題」としては、
⑦ 請以十五城易之寡人之璧。
⑧ 以十五城請易之寡人之璧。
に於いて、
⑦=⑧ である。
然るに、
(43)
『十八史略』(じゅうはっし りゃく)は、南宋の曾先之によってまとめられた中国の子供向けの歴史読本。三皇五帝の伝説時代から南宋までの十八の正史を要約し、編年体で綴っている。― 中略 ―、中国文学者の高島俊男は、中国では古くから子供向けの書籍であることが正しく認識されていたが、日本人はこれを典拠たりうる歴史書と勘違いしてきたと批判している[4](ウィキペディア)。
然るに、
(44)
「十八史略の漢文」が読めないのであれば、「史記の漢文」は読めないし、「史記の漢文」が読めなければ、「十八史略の漢文」も読めない。
従って、
(45)
『十八史略』が、中国の子供向けの歴史読本である。といふことが、仮に、本当であるにせよ、残念ながら、「十八史略の漢文」が、「史記の漢文」よりも「簡単な漢文」である。といふわけではない。
平成29年11月11日、毛利太。
(29)
① 数請出自致。
② 数出請自致。
③ 請数出自致。
④ 請出数自致。
⑤ 出数請自致。
⑥ 出請数自致。
に於いて、、
① 数請出自致。
② 数出請自致。
③ 請数出自致。
については、「既に、説明した」通りです。
然るに、
(30)
④ 請(出数自致)。
⑤ 出数請(自致)。
⑥ 出請(数自致)。
の「訓読」は、三つとも、
④ (出でて数々自ら致さんことを)請ふ。
⑤ 出でて数々(自ら致さんことを)請ふ。
⑥ 出でて(数々自ら致さんことを)請ふ。
である。
すなはち、
(30)により、
(31)
④ 請出数自致。
⑤ 出数請自致。
⑥ 出請数自致。
の「訓読」は、三つとも、
④ 出でて数々自ら致さんことを請ふ。
⑤ 出でて数々自ら致さんことを請ふ。
⑥ 出でて数々自ら致さんことを請ふ。
である。
然るに、
(30)により、
(32)
④ (出でて数々自ら致さんことを)請ふ。
⑤ (自ら致さんことを)請ふ。
⑥ (数々自ら致さんことを)請ふ。
であるため、それぞれの、「頼む(請ふ)」際の「内容」は、「三つ」とも、「同じ」ではない。
従って、
(30)(32)により、
(33)
④ 請(出数自致)。
⑤ 出数請(自致)。
⑥ 出請(数自致)。
といふ「漢文」も、「三つとも、同じ」ではない。
従って、
(29)(33)により、
(34)
① 数請出自致。
② 数出請自致。
③ 請数出自致。
④ 請出数自致。
⑤ 出数請自致。
⑥ 出請数自致。
といふ「漢文」は、「六つとも、同じ」ではない。
然るに、
(35)
然るに、
(36)
⑦ 請以十五城易之=
⑦ 請〔以(十五城)易(之)〕⇒
⑦ 〔(十五城)以(之)易〕請=
⑦ 〔(十五城を)以て(之に)易へんこと〕請ふ。
に於ける、
⑦ 之
といふのは、すなはち、
⑧ 以十五城請易寡人之璧=
⑧ 以(十五城)請〔易(寡人之璧)〕⇒
⑧ (十五城)以〔(寡人之璧)易〕請=
⑧ (十五城を)以て〔(寡の之璧に)易へんことを〕請ふ。
に於ける、
⑧ 寡人之璧(和氏の璧)
に、他ならない。
cf.
和氏の璧(かしのへき、-たま)とは、中国の春秋時代・戦国時代の故事にあらわれた名玉(ウィキペディア)。
従って、
(35)(36)により、
(37)
⑦ 請以十五城易之(十八史略)。
⑧ 以十五城請易寡人之璧(史記列伝)。
の場合は、両方とも、実質的に、
⑦ 十五城を以て寡人の璧に易へんことを請ふ(十八史略)。
⑧ 十五城を以て寡人の璧に易へんことを請ふ(史記列伝)。
である。
然るに、
(38)
⑧ 以十五城請易寡人之璧(史記列伝)。
の場合は、
⑧ 以十五城請易寡人之璧=
⑧ 以{十‐五‐城[請〔易(寡人之璧)〕]}⇒
⑧ {[〔(寡人之璧)易〕請]十‐五‐城}以=
⑧ {[〔(寡人の璧に)易へんと〕請ふに]十‐五‐城を}以てす。
といふ風にも、「読む」ことが、出来る。
従って、
(37)(38)により、
(39)
⑦ 十五城を以て寡人の璧に易へんことを請ふ(十八史略)。
⑧ 十五城を以て寡人の璧に易へんことを請ふ(史記列伝)。
ではなく、
⑧ に関しては、「新漢文大系(明治書院)」もさうしてゐるやうに、
⑧ 十五城を以て、寡の之璧に易へんことを請ふ(史記列伝)。
のやうに、「、」を打つべきである。
(40)
⑦ 請以十五城易之寡人之璧。
⑧ 以十五城請易之寡人之璧。
に於いて、
⑦「以十五城」といふ「副詞句」は、「易」といふ「動詞」を「修飾」してゐて、
⑧「以十五城」といふ「副詞句」は、「請」といふ「動詞」を「修飾」してゐる。
然るに、
(41)
⑦ 十五城を以て寡の之璧に易へんことを請ふ(十八史略)。
⑧ 十五城を以て、寡の之璧に易へんことを請ふ(史記列伝)。
であるならば、いづれにせよ、
⑦「十五城」と「寡人の璧」の「交換」を望んでゐて、
⑧「十五城」と「寡人の璧」の「交換」を望んでゐる。
従って、
(41)により、
(42)
「命題」としては、
⑦ 請以十五城易之寡人之璧。
⑧ 以十五城請易之寡人之璧。
に於いて、
⑦=⑧ である。
然るに、
(43)
『十八史略』(じゅうはっし りゃく)は、南宋の曾先之によってまとめられた中国の子供向けの歴史読本。三皇五帝の伝説時代から南宋までの十八の正史を要約し、編年体で綴っている。― 中略 ―、中国文学者の高島俊男は、中国では古くから子供向けの書籍であることが正しく認識されていたが、日本人はこれを典拠たりうる歴史書と勘違いしてきたと批判している[4](ウィキペディア)。
然るに、
(44)
「十八史略の漢文」が読めないのであれば、「史記の漢文」は読めないし、「史記の漢文」が読めなければ、「十八史略の漢文」も読めない。
従って、
(45)
『十八史略』が、中国の子供向けの歴史読本である。といふことが、仮に、本当であるにせよ、残念ながら、「十八史略の漢文」が、「史記の漢文」よりも「簡単な漢文」である。といふわけではない。
平成29年11月11日、毛利太。
2017年11月9日木曜日
「ある参考書」の「(微妙な)誤訳」について。
(01)
① 欲数為姉煮粥=
① 欲〔数為(姉)煮(粥)〕⇒
① 〔数(姉)為(粥)煮〕欲=
① 〔数々(姉の)為に(粥を)煮んと〕欲す=
① しばしば姉のために粥を煮てあげようと思った(小学)。
然るに、
(02)
① 欲〔数為(姉)煮(粥)〕。
であれば、
① 数=しばしば
といふ「副詞」は、
① 欲=Want
ではなく、
①「名詞節」の中の、
① 為姉
といふ「副詞句」を「修飾」してゐる。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 欲〔数為(姉)煮(粥)〕。
であれば、
① しばしば姉のために粥を煮てあげようと思った(小学)。
に於ける、
①「欲す」の「回数」は、「数回」ではなく、「一回」である。
然るに、
(04)
② 数欲為姉煮粥=
② 数欲〔為(姉)煮(粥)〕⇒
② 数〔(姉)為(粥)煮〕欲=
② 数々〔(姉の)為に(粥を)煮んと〕欲す=
② しばしば姉のために粥を煮てあげようと思った(作例)。
然るに、
(05)
② 数欲〔為(姉)煮(粥)〕。
の場合は、
② 数=しばしば
といふ「副詞」は、
② 欲=Want
といふ「他動詞」を「修飾」してゐる。
従って、
(04)(05)により、
(06)
② 数欲〔為(姉)煮(粥)〕。
であれば、
② しばしば姉のために粥を煮てあげようと思った(作例)。
に於ける、
②「欲す」の「回数」は、「一回」ではなく、「数回」である。
従って、
(03)(06)により、
(07)
① 欲〔数為(姉)煮(粥)〕。
② 数欲〔為(姉)煮(粥)〕。
といふ「漢文」に対する、
① しばしば姉の為に粥を煮んと欲す。
② しばしば姉の為に粥を煮んと欲す。
といふ「訓読」からは、
①「欲す」の「回数」が、「一回」なのか、
②「欲す」の「回数」が、「数回」なのが、「分からない」。
従って、
(07)により、
(08)
③ 請(数出自致)。
④ 数請(出自致)。
といふ「漢文」に対する、
に対する、
③ しばしば出でて自ら致さんことを請ふ。
④ しばしば出でて自ら致さんことを請ふ。
といふ「訓読」からも、
③「請ふ」の「回数」が、「一回」なのか、
④「請ふ」の「回数」が、「数回」なのかが、「分からない」。
然るに、
(09)
(A)常不レ得レ油 (全部否定)
(B)不二常得一レ油(部分否定)
この例は次のように下から返読してその意味をはっきりさせることができる。
(A)常レ不レ得レ油(油ヲ得ザルコト常ナリ)
(B)不レ常レ得レ油(油ヲ得ルコト常ナラズ)
(原田種成、私の漢文講義、1995年、156頁)
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
② 数欲〔為(姉)煮(粥)〕。
④ 数請(出自致)。
であれば、
② 数[欲〔為(姉)煮(粥)〕]。
④ 数〔請(出自致)〕。
とすることによって、
② 姉の為に粥を煮んと、欲すること、しばしばなり。
④ 出でて自ら致さんと、請ふこと、 しばしばなり。
といふ風に、「読む」ことが出来る。
従って、
(08)(10)により、
(11)
③ 請(数出自致)。
④ 数〔請(出自致)〕。
に対する「訓読」は、
③ (しばしば出でて自ら致さんこと)を請ふ。
④ 〔出でて自ら致さんと、請ふこと〕しばしばなり。
である。
従って、
(11)により、
(12)
③ 請(数出自致)。
④ 数〔請(出自致)〕。
に対する「和訳」は、
③ (何度でも外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
④ 〔外に出て自分でやりたい〕と、何度も頼んだ。
である。
然るに、
(13)
④ 〔外に出て自分でやりたい〕と、何度も頼んだ。
といふことと、
④ 何度も、〔外に出て自分でやりたい〕と頼んだ。
といふことは、「同じ」である。
従って、
(12)(13)により、
(14)
③ 請(数出自致)。
④ 数〔請(出自致)〕。
に対する「和訳」は、
③ (何度でも外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
④ 何度も、〔外に出て自分でやりたい〕と頼んだ。
である。
然るに、
(15)
⑤ 数出請自致=
⑤ 数出請(自致)⇒
⑤ 数出(自致)請=
⑤ しばしば出でて(自ら致さんと)請ふ。
従って、
(15)により、
(16)
⑤ 数出(請自致)。
に対する「和訳」は、
⑤ 何度も外に出て、(自分でやりたい)と頼んだ。
である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
③ 請(数出自致)。
④ 数〔請(出自致)〕。
⑤ 数出(請自致)。
に対する「和訳」は、
③ (何度でも外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
④ 何度も、〔外に出て自分でやりたい〕と頼んだ。
⑤ 何度も外に出て、(自分でやりたい)と頼んだ。
である。
然るに、
(17)により、
(18)
③ (何度でも外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
④ 何度も、〔外に出て自分でやりたい〕と頼んだ。
であれば、
③ (外に出て)は、「頼んだ、内容」であって、
④ 〔外に出て〕も、「頼んだ、内容」である。
従って、
(18)により、
(19)
③ (何度でも外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
④ 何度も、〔外に出て自分でやりたい〕と頼んだ。
であれば、
③ 実際に、(外に出た)わけではないし、
③ 実際に、〔外に出た〕わけではない。
然るに、
(20)
⑤ 何度も外に出て、(自分でやりたい)と頼んだ。
であれば、実際に、
⑤ 何度も外に出て、その上で、(自分でやりたい)と頼んだ。
といふ、ことになる。
従って、
(17)~(20)により、
(21)
③ 請(数出自致)。
④ 数〔請(出自致)〕。
⑤ 数出(請自致)。
に対する、
③ (何度でも外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
④ 何度も、〔外に出て自分でやりたい〕と頼んだ。
⑤ 何度も外に出て、(自分でやりたい)と頼んだ。
といふ「三つの和訳」は、「三つとも、同じ意味」ではない。
従って、
(22)
④ 数請出自致(宋史列伝)。
⑤ 数出請自致(私の作例)。
に於いて、
④ 何度も、外に出て自分でやりたいと頼んだ。
⑤ 何度も外に出て、自分でやりたいと頼んだ。
といふ「二つの和訳」は、「同じ意味」ではない。
従って、
(22)により、
(23)
④ 数請出自致(宋史列伝)。
に対する、
⑤ 何度も外に出て、自分でやりたいと頼んだ。
といふ「和訳」は、「誤訳」となる。
然るに、
(24)
しかし、あれこれ説明しても「ワカラヘン」奴ばかり。そこでええいと思いきって黒板に大書した。「キンタマケルナ」と。右の文に正しく句読点をつけよ、と前へひっぱり出してチョークを持たせた。ところがどいつもこいつもマチガイ。正解は、「金太、負けるな」であるぞ。句読点の大切さを頭にタタキコメ。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、80頁)
従って、
(22)(23)(24)により、
(25)
④ 数請出自致(宋史列伝)。
に対する、
④ 何度も、外に出て自分でやりたいと頼んだ。
⑤ 何度も外に出て、自分でやりたいと頼んだ。
⑥ 何度も外に出て自分でやりたいと頼んだ。
の場合は、
④ 金太負けるな。
に対する、
④ キンタ、マケルナ。
⑤ キンタマ、ケルナ。
⑥ キンタマケルナ。
に「相当」する。
従って、
(23)(24)(25)により、
(26)
④ 数請出自致(宋史列伝)。
に対する、
④ 何度も、外に出て自分でやりたいと頼んだ。
⑤ 何度も外に出て、自分でやりたいと頼んだ。
⑥ 何度も外に出て自分でやりたいと頼んだ。
といふ「和訳」の中で、「唯一、正しい」のは、
④ 何度も、外に出て自分でやりたいと頼んだ。
でなければ、ならない。
然るに、
(27)
数請二出自致一、輒不レ許。
[よみ]数々出でて致さんことを請うも、輒ち許さず。
[訳]何度も外に出て自分でやりたいと頼んだが、そのたびごとに許さなかった。
(教学社、風呂で覚える漢文、1998年、97頁)
従って、
(13)(26)(27)により、
(28)
[訳]何度も外に出て自分でやりたいと頼んだが
[訳]何度も外に出て、自分でやりたいと頼んだが
ではなく、
[訳]何度も、外に出て自分でやりたいと頼んだが
[訳]外に出て自分でやりたいと、何度も頼んだが
でなければ、ならない。
平成29年11月09日、毛利太。
―「関連記事」―
請以十五城易之(https://kannbunn.blogspot.com/2017/11/blog-post_11.html)。
① 欲数為姉煮粥=
① 欲〔数為(姉)煮(粥)〕⇒
① 〔数(姉)為(粥)煮〕欲=
① 〔数々(姉の)為に(粥を)煮んと〕欲す=
① しばしば姉のために粥を煮てあげようと思った(小学)。
然るに、
(02)
① 欲〔数為(姉)煮(粥)〕。
であれば、
① 数=しばしば
といふ「副詞」は、
① 欲=Want
ではなく、
①「名詞節」の中の、
① 為姉
といふ「副詞句」を「修飾」してゐる。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 欲〔数為(姉)煮(粥)〕。
であれば、
① しばしば姉のために粥を煮てあげようと思った(小学)。
に於ける、
①「欲す」の「回数」は、「数回」ではなく、「一回」である。
然るに、
(04)
② 数欲為姉煮粥=
② 数欲〔為(姉)煮(粥)〕⇒
② 数〔(姉)為(粥)煮〕欲=
② 数々〔(姉の)為に(粥を)煮んと〕欲す=
② しばしば姉のために粥を煮てあげようと思った(作例)。
然るに、
(05)
② 数欲〔為(姉)煮(粥)〕。
の場合は、
② 数=しばしば
といふ「副詞」は、
② 欲=Want
といふ「他動詞」を「修飾」してゐる。
従って、
(04)(05)により、
(06)
② 数欲〔為(姉)煮(粥)〕。
であれば、
② しばしば姉のために粥を煮てあげようと思った(作例)。
に於ける、
②「欲す」の「回数」は、「一回」ではなく、「数回」である。
従って、
(03)(06)により、
(07)
① 欲〔数為(姉)煮(粥)〕。
② 数欲〔為(姉)煮(粥)〕。
といふ「漢文」に対する、
① しばしば姉の為に粥を煮んと欲す。
② しばしば姉の為に粥を煮んと欲す。
といふ「訓読」からは、
①「欲す」の「回数」が、「一回」なのか、
②「欲す」の「回数」が、「数回」なのが、「分からない」。
従って、
(07)により、
(08)
③ 請(数出自致)。
④ 数請(出自致)。
といふ「漢文」に対する、
に対する、
③ しばしば出でて自ら致さんことを請ふ。
④ しばしば出でて自ら致さんことを請ふ。
といふ「訓読」からも、
③「請ふ」の「回数」が、「一回」なのか、
④「請ふ」の「回数」が、「数回」なのかが、「分からない」。
然るに、
(09)
(A)常不レ得レ油 (全部否定)
(B)不二常得一レ油(部分否定)
この例は次のように下から返読してその意味をはっきりさせることができる。
(A)常レ不レ得レ油(油ヲ得ザルコト常ナリ)
(B)不レ常レ得レ油(油ヲ得ルコト常ナラズ)
(原田種成、私の漢文講義、1995年、156頁)
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
② 数欲〔為(姉)煮(粥)〕。
④ 数請(出自致)。
であれば、
② 数[欲〔為(姉)煮(粥)〕]。
④ 数〔請(出自致)〕。
とすることによって、
② 姉の為に粥を煮んと、欲すること、しばしばなり。
④ 出でて自ら致さんと、請ふこと、 しばしばなり。
といふ風に、「読む」ことが出来る。
従って、
(08)(10)により、
(11)
③ 請(数出自致)。
④ 数〔請(出自致)〕。
に対する「訓読」は、
③ (しばしば出でて自ら致さんこと)を請ふ。
④ 〔出でて自ら致さんと、請ふこと〕しばしばなり。
である。
従って、
(11)により、
(12)
③ 請(数出自致)。
④ 数〔請(出自致)〕。
に対する「和訳」は、
③ (何度でも外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
④ 〔外に出て自分でやりたい〕と、何度も頼んだ。
である。
然るに、
(13)
④ 〔外に出て自分でやりたい〕と、何度も頼んだ。
といふことと、
④ 何度も、〔外に出て自分でやりたい〕と頼んだ。
といふことは、「同じ」である。
従って、
(12)(13)により、
(14)
③ 請(数出自致)。
④ 数〔請(出自致)〕。
に対する「和訳」は、
③ (何度でも外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
④ 何度も、〔外に出て自分でやりたい〕と頼んだ。
である。
然るに、
(15)
⑤ 数出請自致=
⑤ 数出請(自致)⇒
⑤ 数出(自致)請=
⑤ しばしば出でて(自ら致さんと)請ふ。
従って、
(15)により、
(16)
⑤ 数出(請自致)。
に対する「和訳」は、
⑤ 何度も外に出て、(自分でやりたい)と頼んだ。
である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
③ 請(数出自致)。
④ 数〔請(出自致)〕。
⑤ 数出(請自致)。
に対する「和訳」は、
③ (何度でも外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
④ 何度も、〔外に出て自分でやりたい〕と頼んだ。
⑤ 何度も外に出て、(自分でやりたい)と頼んだ。
である。
然るに、
(17)により、
(18)
③ (何度でも外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
④ 何度も、〔外に出て自分でやりたい〕と頼んだ。
であれば、
③ (外に出て)は、「頼んだ、内容」であって、
④ 〔外に出て〕も、「頼んだ、内容」である。
従って、
(18)により、
(19)
③ (何度でも外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
④ 何度も、〔外に出て自分でやりたい〕と頼んだ。
であれば、
③ 実際に、(外に出た)わけではないし、
③ 実際に、〔外に出た〕わけではない。
然るに、
(20)
⑤ 何度も外に出て、(自分でやりたい)と頼んだ。
であれば、実際に、
⑤ 何度も外に出て、その上で、(自分でやりたい)と頼んだ。
といふ、ことになる。
従って、
(17)~(20)により、
(21)
③ 請(数出自致)。
④ 数〔請(出自致)〕。
⑤ 数出(請自致)。
に対する、
③ (何度でも外に出て自分でやりたい)と頼んだ。
④ 何度も、〔外に出て自分でやりたい〕と頼んだ。
⑤ 何度も外に出て、(自分でやりたい)と頼んだ。
といふ「三つの和訳」は、「三つとも、同じ意味」ではない。
従って、
(22)
④ 数請出自致(宋史列伝)。
⑤ 数出請自致(私の作例)。
に於いて、
④ 何度も、外に出て自分でやりたいと頼んだ。
⑤ 何度も外に出て、自分でやりたいと頼んだ。
といふ「二つの和訳」は、「同じ意味」ではない。
従って、
(22)により、
(23)
④ 数請出自致(宋史列伝)。
に対する、
⑤ 何度も外に出て、自分でやりたいと頼んだ。
といふ「和訳」は、「誤訳」となる。
然るに、
(24)
しかし、あれこれ説明しても「ワカラヘン」奴ばかり。そこでええいと思いきって黒板に大書した。「キンタマケルナ」と。右の文に正しく句読点をつけよ、と前へひっぱり出してチョークを持たせた。ところがどいつもこいつもマチガイ。正解は、「金太、負けるな」であるぞ。句読点の大切さを頭にタタキコメ。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、80頁)
従って、
(22)(23)(24)により、
(25)
④ 数請出自致(宋史列伝)。
に対する、
④ 何度も、外に出て自分でやりたいと頼んだ。
⑤ 何度も外に出て、自分でやりたいと頼んだ。
⑥ 何度も外に出て自分でやりたいと頼んだ。
の場合は、
④ 金太負けるな。
に対する、
④ キンタ、マケルナ。
⑤ キンタマ、ケルナ。
⑥ キンタマケルナ。
に「相当」する。
従って、
(23)(24)(25)により、
(26)
④ 数請出自致(宋史列伝)。
に対する、
④ 何度も、外に出て自分でやりたいと頼んだ。
⑤ 何度も外に出て、自分でやりたいと頼んだ。
⑥ 何度も外に出て自分でやりたいと頼んだ。
といふ「和訳」の中で、「唯一、正しい」のは、
④ 何度も、外に出て自分でやりたいと頼んだ。
でなければ、ならない。
然るに、
(27)
数請二出自致一、輒不レ許。
[よみ]数々出でて致さんことを請うも、輒ち許さず。
[訳]何度も外に出て自分でやりたいと頼んだが、そのたびごとに許さなかった。
(教学社、風呂で覚える漢文、1998年、97頁)
従って、
(13)(26)(27)により、
(28)
[訳]何度も外に出て自分でやりたいと頼んだが
[訳]何度も外に出て、自分でやりたいと頼んだが
ではなく、
[訳]何度も、外に出て自分でやりたいと頼んだが
[訳]外に出て自分でやりたいと、何度も頼んだが
でなければ、ならない。
平成29年11月09日、毛利太。
―「関連記事」―
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2017年11月6日月曜日
「(自然演繹の)仮定の解消」は「理解しやすい(?)」。
(01)
①{P→Q,~Q}├ ~P
②{P→Q}├ ~Q→~P
といふ「それ(sequent)」は、
①{PならばQであるが、Qでない。}従って、Pでない。
②{PならばQである。}従って、QでないならPでない。
といふ「意味」である。
然るに、
(02)
①{PならばQであるが、Qでない。}従って、Pでない。
②{PならばQである。}従って、QでないならPでない。
に於いて、
① といふ「推論」が「妥当(valid)」であって、
② といふ「推論」が「妥当(valid)」ではない。
といふことは、「あり得ない」。
然るに、
(03)
①{PならばQであるが、Qでない。}には、
① {Qでない。}といふ「仮定」が有るが、
②{PならばQである。} には、
① {Qでない。}といふ「仮定」が無い。
従って、
(02)(03)により、
(04)
①{PならばQであるが、Qでない。}従って、Pでない。
②{PならばQである。}従って、QでないならPでない。
に於いて、
① が「妥当」であって、
② が「妥当」ではない。
といふことは、「あり得ない」ものの、
①{PならばQであるが、Qでない。}には、
① {Qでない。}といふ「仮定」が有るが、
②{PならばQである。} には、
① {Qでない。}といふ「仮定」が無い。
のであって、このことが、「仮定の解消」の、「所以」である。
cf.
1 (1) P→Q A(仮定)
2 (2)~Q A(仮定)
3(3) P A(仮定)
1 3(4) Q 13MPP
123(5)~Q&Q 24&I
① 12 (6)~P 35RAA
② 1 (7)~Q→~P 26CP
然るに、
(05)
P=南半球である。
~P=南半球でない。
Q=12月は夏である。
~Q=12月は冬である。
とするならば、
①{P→Q,~Q}├ ~P
②{P→Q}├ ~Q→~P
といふ「それ」は、それぞれ、
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}従って、南半球ではない。
②{南半球ならば、12月は夏である。}従って、12月が冬であるならば、南半球ではない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(06)
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}従って、(東京は)南半球ではない。
②{南半球ならば、12月は夏である。}従って、12月が冬であるならば、(東京は)南半球ではない。
に於いて、
① が「妥当」であって、
② が「妥当」である。といふことは、「あり得ない」。
従って、
(04)(06)により、
(07)
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}従って、南半球ではない。
②{南半球ならば、12月は夏である。}従って、12月が冬であるならば、南半球ではない。
に於いて、
① が「妥当」であって、
② が「妥当」である。といふことは、「あり得ない」。
といふ風に、ある人が、思ふのであれば、その人は、「仮定の解消」といふ「仕組み」を、「理解」してゐることになる。
従って、
(08)
『困難さの第二の理由は、自然演繹には「仮定の解消」(最初に仮定しておいて、あとでなかったことにする)という手続きがあり、それがなかなか理解しづらいことです(小島寛之、証明と論理に強くなる、2017年、144頁)。』とのことであるが、私には、「仮定の解消」は、「さほど、理解しづらい」とは、思へない。
然るに、
(09)
自然演繹は、「仮定の解消」のおかげで公理なしに演繹システムとなり得ており、その意味で「仮定の解消」は自然演繹の本質だと言っても過言ではありません(小島寛之、証明と論理に強くなる、2017年、144頁)。
従って、
(08)(09)により、
(10)
「自然演繹の本質(仮定の解消)」は、それなりに、「理解しやすい」と、すべきである。
(11)
③ P├ P
④ P→ P
は、それぞれ、
③ Pである。故に、Pである。
④ Pであるならば、Pである。
といふ、「意味」である。
従って、
(12)
③ P├ P
であれば、
③ Pである。ことは、「確定」であるが、
④ P→ P
であれば、
④ Pである。ことは、「未定」である。
然るに、
(13)
④ P→ P(同一律)
を、「仮定」した上で、「仮定の解消(自然演繹の本質)」を用ゐると、次の(14)が、それである。
(14)
1 (1) P→P A
2(2) P A
12(3) P 12MPP
1 (4) P→P 23CP
(5) (P→P)→(P→P) 14CP
(6) ~(P→P)∨(P→P) 含意の定義。
(7)~(~P∨P)∨(~P∨P)含意の定義。
(8) (P&~P)∨(~P∨P)ド・モルガンの法則。
然るに、
(15)
(8) (P&~P)∨(~P∨P)
に於いて、 (P&~P)は、「矛盾」である。
従って、
(15)により、
(16)
(8) (P&~P)∨(~P∨P)
(9) (~P∨P)
である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
1 (1) P→P A
2(2) P A
12(3) P 12MPP
1 (4) P→P 23CP
(5) (P→P)→(P→P) 14CP
(6) ~(P→P)∨(P→P) 含意の定義。
(7)~(~P∨P)∨(~P∨P)含意の定義。
(8) (P&~P)∨(~P∨P)ド・モルガンの法則。
(9) (~P∨P)選言の真理表で確認。
である。
従って、
(12)(17)により、
(18)
④ P → P(同一律)=Pならば、Pである。
が、「真(本当)」であるならば、
④ ~P∨P(排中律)=Pでないか、Pである。
も、「真(本当)」である。
従って、
(18)により、
(19)
④ Pならば、 Pである。
④ Pでないか、Pである。
は、両方とも、「同時に、常に、真(本当)」である。
従って、
(19)により、
(20)
④ PならばPである(P→P)。
であるからと言って、
④ Pである。
とは限らない。といふことは、「当然」である。
従って、
(20)により、
(21)
⑤ PならばQである(P→Q)。
であるからと言って、
⑤ Pである。
とは限らない。といふことも、「当然」である。
然るに、
(21)により、
(22)
⑤ PならばQである(P→Q)。
に於いて、
⑤ Pである。
とは限らない。のであれば、
⑤ Qである。
とは限らない。
従って、
(22)により、
(23)
⑤ PならばQである(P→Q)。
といふ「仮言命題」は、
⑤ Pであるとも、
⑤ Qであるとも、言ってゐない。
従って、
(23)により、
(24)
⑤ PでないならばQでない(~P→~Q)。
といふ「仮言命題」も、
⑤ Pでないとも、
⑤ Qでないとも、言ってゐない。
従って、
(23)(24)により、
(25)
② 12月が冬であるならば、南半球ではない。
といふ「仮言命題」は、
② 12月は夏でない。とも、
② 南半球でない。とも、言ってゐない。
然るに、
(26)
① 12月は冬である。従って、南半球ではない。
といふ「それ」は、
① 夏でない。と言ってゐるし、
② 南半球でない。言ってゐる。
然るに、
(27)
①(東京の)12月は冬である。従って、(東京は)南半球ではない。
といふ風に、言へるのであれば、
②(東京の)12月が冬であるならば、(東京は)南半球ではない。
といふ「仮言命題」は、「明らかに、真(本当)」である。
平成29年11月06日、毛利太。
①{P→Q,~Q}├ ~P
②{P→Q}├ ~Q→~P
といふ「それ(sequent)」は、
①{PならばQであるが、Qでない。}従って、Pでない。
②{PならばQである。}従って、QでないならPでない。
といふ「意味」である。
然るに、
(02)
①{PならばQであるが、Qでない。}従って、Pでない。
②{PならばQである。}従って、QでないならPでない。
に於いて、
① といふ「推論」が「妥当(valid)」であって、
② といふ「推論」が「妥当(valid)」ではない。
といふことは、「あり得ない」。
然るに、
(03)
①{PならばQであるが、Qでない。}には、
① {Qでない。}といふ「仮定」が有るが、
②{PならばQである。} には、
① {Qでない。}といふ「仮定」が無い。
従って、
(02)(03)により、
(04)
①{PならばQであるが、Qでない。}従って、Pでない。
②{PならばQである。}従って、QでないならPでない。
に於いて、
① が「妥当」であって、
② が「妥当」ではない。
といふことは、「あり得ない」ものの、
①{PならばQであるが、Qでない。}には、
① {Qでない。}といふ「仮定」が有るが、
②{PならばQである。} には、
① {Qでない。}といふ「仮定」が無い。
のであって、このことが、「仮定の解消」の、「所以」である。
cf.
1 (1) P→Q A(仮定)
2 (2)~Q A(仮定)
3(3) P A(仮定)
1 3(4) Q 13MPP
123(5)~Q&Q 24&I
① 12 (6)~P 35RAA
② 1 (7)~Q→~P 26CP
然るに、
(05)
P=南半球である。
~P=南半球でない。
Q=12月は夏である。
~Q=12月は冬である。
とするならば、
①{P→Q,~Q}├ ~P
②{P→Q}├ ~Q→~P
といふ「それ」は、それぞれ、
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}従って、南半球ではない。
②{南半球ならば、12月は夏である。}従って、12月が冬であるならば、南半球ではない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(06)
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}従って、(東京は)南半球ではない。
②{南半球ならば、12月は夏である。}従って、12月が冬であるならば、(東京は)南半球ではない。
に於いて、
① が「妥当」であって、
② が「妥当」である。といふことは、「あり得ない」。
従って、
(04)(06)により、
(07)
①{南半球ならば、12月は夏であるが、12月は冬である。}従って、南半球ではない。
②{南半球ならば、12月は夏である。}従って、12月が冬であるならば、南半球ではない。
に於いて、
① が「妥当」であって、
② が「妥当」である。といふことは、「あり得ない」。
といふ風に、ある人が、思ふのであれば、その人は、「仮定の解消」といふ「仕組み」を、「理解」してゐることになる。
従って、
(08)
『困難さの第二の理由は、自然演繹には「仮定の解消」(最初に仮定しておいて、あとでなかったことにする)という手続きがあり、それがなかなか理解しづらいことです(小島寛之、証明と論理に強くなる、2017年、144頁)。』とのことであるが、私には、「仮定の解消」は、「さほど、理解しづらい」とは、思へない。
然るに、
(09)
自然演繹は、「仮定の解消」のおかげで公理なしに演繹システムとなり得ており、その意味で「仮定の解消」は自然演繹の本質だと言っても過言ではありません(小島寛之、証明と論理に強くなる、2017年、144頁)。
従って、
(08)(09)により、
(10)
「自然演繹の本質(仮定の解消)」は、それなりに、「理解しやすい」と、すべきである。
(11)
③ P├ P
④ P→ P
は、それぞれ、
③ Pである。故に、Pである。
④ Pであるならば、Pである。
といふ、「意味」である。
従って、
(12)
③ P├ P
であれば、
③ Pである。ことは、「確定」であるが、
④ P→ P
であれば、
④ Pである。ことは、「未定」である。
然るに、
(13)
④ P→ P(同一律)
を、「仮定」した上で、「仮定の解消(自然演繹の本質)」を用ゐると、次の(14)が、それである。
(14)
1 (1) P→P A
2(2) P A
12(3) P 12MPP
1 (4) P→P 23CP
(5) (P→P)→(P→P) 14CP
(6) ~(P→P)∨(P→P) 含意の定義。
(7)~(~P∨P)∨(~P∨P)含意の定義。
(8) (P&~P)∨(~P∨P)ド・モルガンの法則。
然るに、
(15)
(8) (P&~P)∨(~P∨P)
に於いて、 (P&~P)は、「矛盾」である。
従って、
(15)により、
(16)
(8) (P&~P)∨(~P∨P)
(9) (~P∨P)
である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
1 (1) P→P A
2(2) P A
12(3) P 12MPP
1 (4) P→P 23CP
(5) (P→P)→(P→P) 14CP
(6) ~(P→P)∨(P→P) 含意の定義。
(7)~(~P∨P)∨(~P∨P)含意の定義。
(8) (P&~P)∨(~P∨P)ド・モルガンの法則。
(9) (~P∨P)選言の真理表で確認。
である。
従って、
(12)(17)により、
(18)
④ P → P(同一律)=Pならば、Pである。
が、「真(本当)」であるならば、
④ ~P∨P(排中律)=Pでないか、Pである。
も、「真(本当)」である。
従って、
(18)により、
(19)
④ Pならば、 Pである。
④ Pでないか、Pである。
は、両方とも、「同時に、常に、真(本当)」である。
従って、
(19)により、
(20)
④ PならばPである(P→P)。
であるからと言って、
④ Pである。
とは限らない。といふことは、「当然」である。
従って、
(20)により、
(21)
⑤ PならばQである(P→Q)。
であるからと言って、
⑤ Pである。
とは限らない。といふことも、「当然」である。
然るに、
(21)により、
(22)
⑤ PならばQである(P→Q)。
に於いて、
⑤ Pである。
とは限らない。のであれば、
⑤ Qである。
とは限らない。
従って、
(22)により、
(23)
⑤ PならばQである(P→Q)。
といふ「仮言命題」は、
⑤ Pであるとも、
⑤ Qであるとも、言ってゐない。
従って、
(23)により、
(24)
⑤ PでないならばQでない(~P→~Q)。
といふ「仮言命題」も、
⑤ Pでないとも、
⑤ Qでないとも、言ってゐない。
従って、
(23)(24)により、
(25)
② 12月が冬であるならば、南半球ではない。
といふ「仮言命題」は、
② 12月は夏でない。とも、
② 南半球でない。とも、言ってゐない。
然るに、
(26)
① 12月は冬である。従って、南半球ではない。
といふ「それ」は、
① 夏でない。と言ってゐるし、
② 南半球でない。言ってゐる。
然るに、
(27)
①(東京の)12月は冬である。従って、(東京は)南半球ではない。
といふ風に、言へるのであれば、
②(東京の)12月が冬であるならば、(東京は)南半球ではない。
といふ「仮言命題」は、「明らかに、真(本当)」である。
平成29年11月06日、毛利太。
2017年11月5日日曜日
「二重否定(DN)」について。
(01)
1 (1) ~P→~Q A
2 (2) ~P A
3(3) Q A
12 (4) ~Q 12MPP
123(5) Q&~Q 34&I
1 3(6)~~P 25RAA
1 3(7) P 6DN(二重否定)
1 (8) Q→ P 37CP
(02)
1 (1) Q→ P A
2 (2) Q A
3(3) ~P A
12 (4) P 12MPP
123(5) ~P& P 34&I
1 3(6) ~Q 25RAA
1 (7) ~P→~Q 36CP
従って、
(01)(02)により、
(03)
「PでないならばQでない(~P→~Q)。」といふ「命題」が、「QならばPである(Q→P)。」といふ「命題」に「等しい」といふことが、「本当」であるためには、「Pでない。でない(~~P)。」といふ「命題」が、「Pである(P)。」といふ「命題」に、「等しく」なければ、ならない。
然るに、
(04)
我々は、「普通」は、「本当」のことを言ふ。
従って、
(04)により、
(05)
① Pである。
② Pである。は「本当」である。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(06)
② Pである。は「本当」である。
③ Pでない。は「ウソ」である。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(07)
③ Pでない。は「ウソ」である。
④ Pでない。でない。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(08)
④ Pでない。でない。
⑤ Pでない。でない。は「本当」である。
に於いて、
④=⑤ である。
従って、
(04)~(08)により、
(09)
① Pである(は本当である)。
④ Pでない。でない(は本当である)。
に於いて、
①=④ である。
従って、
(09)により、
(10)
「論理学」としても、「日本語」としても、「Pである。」は、「Pでない。でない。」に「等しい」。
然るに、
(11)
"only if P then Q" is equivalent to "if Q then P"(Beginning Logic (英語) ペーパーバック – 1978/6/1,101ページ).
然るに、
(12)
「Pであるときに限ってQである(only if P then Q)。」といふことは、「PでないならばQでない。」といふことに、他ならない。
従って、
(03)(09)~(12)により、
(13)
「論理学・日本語・英語」に於いて、「Pである。」は、「Pでない。でない。」に「等しい」。
然るに、
(14)
「PでないならばQでない(only if P then Q)。」といふ「命題」が、「QならばPである(if Q then P)。」といふ「命題」に「等しい」と言へるためには、「Pである。」は、「Pでない。でない。」に「等しく」なければならない。といふことを、「普通の人」は、気にしない。
従って、
(15)
「Pである。」=「Pでない。でない。」であるにも拘らず、わざわざ、
「Pでない。でない。」といふのであれば、その「場合」は、例へば、
「あなたたちはPでないと、思ふかも知れないが、実際にはPである。」といふやうな「場合」である。
従って、
(15)により、
(16)
「Pでない。でない。」=「Pである。」であるにも拘らず、わざわざ、
「Pでない。でない。」といふのであれば、その「場合」は、例へば、
「おまえたちは、私が、寒さを厭わないと、思ふかも知れないが、実際にはさうではなく、寒さは、厭ふのである。」といふやうな「場合」である。
然るに、
(17)
昔、韓の昭侯が酔って寝てしまった。
冠を管理する職の者が君主が寒そうにしているのを見て、衣服を君主の上に掛けた。
(昭侯が)眠りから覚めると(衣が掛ってゐることを)喜んで、側近の者に尋ねた。
「誰が衣を掛けたのか。」と。
側近の者が答へて言った。
「冠を管理する者です。」と。
君主はこれによって衣を管理する職にある者と冠を管理する職にある者をともに罰した。
衣を管理する職にある者を罰したのは、自分の職責を全うしてゐないと考へたからである。
冠を管理する職にある者を罰したのは、自分の役割を越えたことをしたからである。
寒さを厭はないわけではない。(他人の)職務を侵すことの弊害は寒さのそれよりも重たいのだ。
(韓非子、侵官之害)
(18)
昔者、韓昭候酔而寝。
典冠者見(君之寒)也、故加(衣於君之上)。
覚寝而説、問(左右)曰、
「誰加(衣)者。」
左右対曰、
「典冠。」
君因兼罪(典衣与典冠)。
其罪(典衣)、以為〔失(其事)〕也。
其罪(典冠)、以為〔超(其職)〕也。
非[不〔悪(寒)〕〕也。以為〔侵(官)之害甚(於寒)〕。
(19)
非不悪寒也、以為侵官之害甚於寒=
非[不〔悪(寒)〕〕也、以為〔侵(官)之害甚(於寒)〕⇒
[〔(寒)悪〕不〕非也、以〔(官)侵之害(於寒)甚〕為=
[〔(寒きを)悪ま〕不るに〕非ざるになり。以て〔(官を)侵すの害は(寒きより)甚だしと〕為せばなり。
従って、
(16)~(19)により、
(20)
非不悪寒也、以為侵官之害甚於寒=
非[不〔悪(寒)〕〕也。以為〔侵(官)之害甚(於寒)〕。
といふ「漢文」は、
おまえたちは、私が、寒さを厭はないと、思ふかも知れないが、実際にはさうではなく、寒さは、厭ふのである。
寒さを厭かどうかと、いふことが問題なのではなく、(他人の)職務を侵すことの弊害は寒さのそれよりも重たいといふことが、重要なのである。
といふ、「意味」になる。
平成29年11月05日、毛利太。
1 (1) ~P→~Q A
2 (2) ~P A
3(3) Q A
12 (4) ~Q 12MPP
123(5) Q&~Q 34&I
1 3(6)~~P 25RAA
1 3(7) P 6DN(二重否定)
1 (8) Q→ P 37CP
(02)
1 (1) Q→ P A
2 (2) Q A
3(3) ~P A
12 (4) P 12MPP
123(5) ~P& P 34&I
1 3(6) ~Q 25RAA
1 (7) ~P→~Q 36CP
従って、
(01)(02)により、
(03)
「PでないならばQでない(~P→~Q)。」といふ「命題」が、「QならばPである(Q→P)。」といふ「命題」に「等しい」といふことが、「本当」であるためには、「Pでない。でない(~~P)。」といふ「命題」が、「Pである(P)。」といふ「命題」に、「等しく」なければ、ならない。
然るに、
(04)
我々は、「普通」は、「本当」のことを言ふ。
従って、
(04)により、
(05)
① Pである。
② Pである。は「本当」である。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(06)
② Pである。は「本当」である。
③ Pでない。は「ウソ」である。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(07)
③ Pでない。は「ウソ」である。
④ Pでない。でない。
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(08)
④ Pでない。でない。
⑤ Pでない。でない。は「本当」である。
に於いて、
④=⑤ である。
従って、
(04)~(08)により、
(09)
① Pである(は本当である)。
④ Pでない。でない(は本当である)。
に於いて、
①=④ である。
従って、
(09)により、
(10)
「論理学」としても、「日本語」としても、「Pである。」は、「Pでない。でない。」に「等しい」。
然るに、
(11)
"only if P then Q" is equivalent to "if Q then P"(Beginning Logic (英語) ペーパーバック – 1978/6/1,101ページ).
然るに、
(12)
「Pであるときに限ってQである(only if P then Q)。」といふことは、「PでないならばQでない。」といふことに、他ならない。
従って、
(03)(09)~(12)により、
(13)
「論理学・日本語・英語」に於いて、「Pである。」は、「Pでない。でない。」に「等しい」。
然るに、
(14)
「PでないならばQでない(only if P then Q)。」といふ「命題」が、「QならばPである(if Q then P)。」といふ「命題」に「等しい」と言へるためには、「Pである。」は、「Pでない。でない。」に「等しく」なければならない。といふことを、「普通の人」は、気にしない。
従って、
(15)
「Pである。」=「Pでない。でない。」であるにも拘らず、わざわざ、
「Pでない。でない。」といふのであれば、その「場合」は、例へば、
「あなたたちはPでないと、思ふかも知れないが、実際にはPである。」といふやうな「場合」である。
従って、
(15)により、
(16)
「Pでない。でない。」=「Pである。」であるにも拘らず、わざわざ、
「Pでない。でない。」といふのであれば、その「場合」は、例へば、
「おまえたちは、私が、寒さを厭わないと、思ふかも知れないが、実際にはさうではなく、寒さは、厭ふのである。」といふやうな「場合」である。
然るに、
(17)
昔、韓の昭侯が酔って寝てしまった。
冠を管理する職の者が君主が寒そうにしているのを見て、衣服を君主の上に掛けた。
(昭侯が)眠りから覚めると(衣が掛ってゐることを)喜んで、側近の者に尋ねた。
「誰が衣を掛けたのか。」と。
側近の者が答へて言った。
「冠を管理する者です。」と。
君主はこれによって衣を管理する職にある者と冠を管理する職にある者をともに罰した。
衣を管理する職にある者を罰したのは、自分の職責を全うしてゐないと考へたからである。
冠を管理する職にある者を罰したのは、自分の役割を越えたことをしたからである。
寒さを厭はないわけではない。(他人の)職務を侵すことの弊害は寒さのそれよりも重たいのだ。
(韓非子、侵官之害)
(18)
昔者、韓昭候酔而寝。
典冠者見(君之寒)也、故加(衣於君之上)。
覚寝而説、問(左右)曰、
「誰加(衣)者。」
左右対曰、
「典冠。」
君因兼罪(典衣与典冠)。
其罪(典衣)、以為〔失(其事)〕也。
其罪(典冠)、以為〔超(其職)〕也。
非[不〔悪(寒)〕〕也。以為〔侵(官)之害甚(於寒)〕。
(19)
非不悪寒也、以為侵官之害甚於寒=
非[不〔悪(寒)〕〕也、以為〔侵(官)之害甚(於寒)〕⇒
[〔(寒)悪〕不〕非也、以〔(官)侵之害(於寒)甚〕為=
[〔(寒きを)悪ま〕不るに〕非ざるになり。以て〔(官を)侵すの害は(寒きより)甚だしと〕為せばなり。
従って、
(16)~(19)により、
(20)
非不悪寒也、以為侵官之害甚於寒=
非[不〔悪(寒)〕〕也。以為〔侵(官)之害甚(於寒)〕。
といふ「漢文」は、
おまえたちは、私が、寒さを厭はないと、思ふかも知れないが、実際にはさうではなく、寒さは、厭ふのである。
寒さを厭かどうかと、いふことが問題なのではなく、(他人の)職務を侵すことの弊害は寒さのそれよりも重たいといふことが、重要なのである。
といふ、「意味」になる。
平成29年11月05日、毛利太。
2017年11月4日土曜日
「鳥吾知其能飛」の「其の」について。
(01)
① その人の日本語の能力はネイティブのそれと同等である=
① その人の〔(日本語)の〕能力は〈{[〔(ネイティブ)の〕それ]と}同等〉である。
に於いて、
① ( )の ⇒ の( )
① 〔 〕能力は ⇒ 能力は〔 〕
① ( )の ⇒ の( )
① 〔 〕それ ⇒ それ〔 〕
① [ ]と ⇒ と[ ]
① { }同等 ⇒ 同等{ }
① 〈 〉である ⇒ である〈 〉
といふ「移動」を行ふと、
① その人の日本語の能力はネイティブのそれと同等である=
① その人の〔(日本語)の〕能力は〈{[〔(ネイティブ)の〕それ]と}同等〉である ⇒
① その人の 能力は〔の(日本語)〕である〈同等{と[それ〔の(ネイティブ)〕]}〉=
① His ability〔of(Japanese)〕is〈equal{to[that〔of(a native speaker)〕]}〉=
① His ability of Japanese is equal to that of a native speaker.
といふ「英訳」が、成立する。
従って、
(01)により、
(02)
① その人の日本語の能力はネイティブのそれと同等である=
① His(her)ability of Japanese is equal to that of a native speaker.
といふ「英文和訳」は、「日本語の、直訳」として「正しい」。
従って、
(02)により、
(03)
① その人の=「彼(彼女)の」である。
然るに、
(04)
そ【其・夫】[代名](中称の指示代名詞)それ。その人。《参考》「その」は現代語では連体詞とするが、古文では「代名詞+格助詞」とする(三省堂、全訳読解古語辞典、2007年、690頁)。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① その=「それの」であって、
① その=「その人の」=「彼(彼女)の」である。
然るに、
(06)
② その竹の中にもと光る竹なむ一筋ありけり(竹取物語)。
であれば、「文脈」からすれば、明らかに、
② その竹(複数)の中に根本が光る竹が一本あった。
といふ、ことになる。
従って、
(05)(06)により、
(07)
② その=「それ(ら)の」であって、
② その=「その人(たち)の」=「彼ら(彼女ら)の」である。
然るに、
(08)
キ其 そノ そレ
[指示形容詞]《人・物・事などを指し、単数・複数のどちらも指す》
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、75頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
③ 其=その=「それ(ら)の」であって、
③ 其=その=「その人(たち)の」=「彼ら(彼女ら)の」である。
然るに、
(10)
【1】[が][の]
① 主語を示す。〈・・・・・・が〉 日が暮れるとき。 日の暮るるとき。 汝が去りし日。
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、154頁改)
従って、
(09)(10)により、
(11)
④ 鳥、吾知其能飛=
④ 鳥、吾知(其能飛)⇒
④ 鳥、吾(其能飛)知=
④ 鳥、吾(其の能く飛ぶを)知る=
④ 鳥(について)、私は、彼らが飛べるといふことを知ってゐる。
といふ「漢文訓読」が、成立し、
④ 其=其+の=彼ら+が
である。
cf.
自分は鳥はよく空を飛ぶものであるといふことを知っている。
(林秀一、十八史略・史記 漢書、1966年、70頁)
従って、
(12)
⑤ Birds, I know they can fly=
⑤ Birds, I know〔they can(fly)〕⇒
⑤ Birds, I 〔they (fly)can〕know=
⑤ 鳥, 私は 〔彼らば(飛べ)るといふことを〕知ってゐる=
⑤ 鳥、私は彼らが飛ぶことができることを知っている(グーグル翻訳)。
といふ「英文訓読」が、成立する。
然るに、
(13)
① 名詞節;名詞の働きをする節、文中での要素(主語・目的語・補語)となる。
I know that there was a big church here. 〔目的語〕
(和田稔、シグマ新総合英語、1998年、19頁)
従って、
(12)(13)により、
(14)
⑤ Birds, I know that they can fly.
に於いて、
⑤ they は、「名詞節の主語」である。
然るに、
(15)
「を」は「格助詞」であって、「体言(名詞)」または「体言に準ずる語」にしか付かない。
従って、
(11)(15)により、
(16)
④「其の能く飛ぶ」+「を」
に於いて、
④「其の能く飛ぶ」は、「名詞節」である。
従って、
(16)により、
(17)
④ 其能飛(其の能く飛ぶ)=They can fly
に於いて、
④ 其(They)は、「名詞節の主語」である。
然るに、
(18)
⑥ 秦王恐其破璧=
⑥ 秦王恐〔其破(璧)〕⇒
⑥ 秦王〔其(璧)破〕恐=
⑥ 秦王〔其の(璧を)破らんことを〕恐る=
⑥ 秦王は、相如が、璧を璧を砕いてしまふことを恐れた=
⑥ The king of 秦 was afraid that the man would crush the 璧(史記、廉頗藺相如列傳)。
従って、
(13)~(18)により、
(19)
④ 其能飛(其の能く飛ぶ)=They can fly.
⑥ 其破璧(其の璧を破る)=the man would crush the 璧.
に於いて、
④ 其=其の=they(彼らが) は、「名詞節の主語」である。
⑥ 其=其の=the man(その人が) は、「名詞節の主語」である。
平成29年11月04日、毛利太。
① その人の日本語の能力はネイティブのそれと同等である=
① その人の〔(日本語)の〕能力は〈{[〔(ネイティブ)の〕それ]と}同等〉である。
に於いて、
① ( )の ⇒ の( )
① 〔 〕能力は ⇒ 能力は〔 〕
① ( )の ⇒ の( )
① 〔 〕それ ⇒ それ〔 〕
① [ ]と ⇒ と[ ]
① { }同等 ⇒ 同等{ }
① 〈 〉である ⇒ である〈 〉
といふ「移動」を行ふと、
① その人の日本語の能力はネイティブのそれと同等である=
① その人の〔(日本語)の〕能力は〈{[〔(ネイティブ)の〕それ]と}同等〉である ⇒
① その人の 能力は〔の(日本語)〕である〈同等{と[それ〔の(ネイティブ)〕]}〉=
① His ability〔of(Japanese)〕is〈equal{to[that〔of(a native speaker)〕]}〉=
① His ability of Japanese is equal to that of a native speaker.
といふ「英訳」が、成立する。
従って、
(01)により、
(02)
① その人の日本語の能力はネイティブのそれと同等である=
① His(her)ability of Japanese is equal to that of a native speaker.
といふ「英文和訳」は、「日本語の、直訳」として「正しい」。
従って、
(02)により、
(03)
① その人の=「彼(彼女)の」である。
然るに、
(04)
そ【其・夫】[代名](中称の指示代名詞)それ。その人。《参考》「その」は現代語では連体詞とするが、古文では「代名詞+格助詞」とする(三省堂、全訳読解古語辞典、2007年、690頁)。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① その=「それの」であって、
① その=「その人の」=「彼(彼女)の」である。
然るに、
(06)
② その竹の中にもと光る竹なむ一筋ありけり(竹取物語)。
であれば、「文脈」からすれば、明らかに、
② その竹(複数)の中に根本が光る竹が一本あった。
といふ、ことになる。
従って、
(05)(06)により、
(07)
② その=「それ(ら)の」であって、
② その=「その人(たち)の」=「彼ら(彼女ら)の」である。
然るに、
(08)
キ其 そノ そレ
[指示形容詞]《人・物・事などを指し、単数・複数のどちらも指す》
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、75頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
③ 其=その=「それ(ら)の」であって、
③ 其=その=「その人(たち)の」=「彼ら(彼女ら)の」である。
然るに、
(10)
【1】[が][の]
① 主語を示す。〈・・・・・・が〉 日が暮れるとき。 日の暮るるとき。 汝が去りし日。
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、154頁改)
従って、
(09)(10)により、
(11)
④ 鳥、吾知其能飛=
④ 鳥、吾知(其能飛)⇒
④ 鳥、吾(其能飛)知=
④ 鳥、吾(其の能く飛ぶを)知る=
④ 鳥(について)、私は、彼らが飛べるといふことを知ってゐる。
といふ「漢文訓読」が、成立し、
④ 其=其+の=彼ら+が
である。
cf.
自分は鳥はよく空を飛ぶものであるといふことを知っている。
(林秀一、十八史略・史記 漢書、1966年、70頁)
従って、
(12)
⑤ Birds, I know they can fly=
⑤ Birds, I know〔they can(fly)〕⇒
⑤ Birds, I 〔they (fly)can〕know=
⑤ 鳥, 私は 〔彼らば(飛べ)るといふことを〕知ってゐる=
⑤ 鳥、私は彼らが飛ぶことができることを知っている(グーグル翻訳)。
といふ「英文訓読」が、成立する。
然るに、
(13)
① 名詞節;名詞の働きをする節、文中での要素(主語・目的語・補語)となる。
I know that there was a big church here. 〔目的語〕
(和田稔、シグマ新総合英語、1998年、19頁)
従って、
(12)(13)により、
(14)
⑤ Birds, I know that they can fly.
に於いて、
⑤ they は、「名詞節の主語」である。
然るに、
(15)
「を」は「格助詞」であって、「体言(名詞)」または「体言に準ずる語」にしか付かない。
従って、
(11)(15)により、
(16)
④「其の能く飛ぶ」+「を」
に於いて、
④「其の能く飛ぶ」は、「名詞節」である。
従って、
(16)により、
(17)
④ 其能飛(其の能く飛ぶ)=They can fly
に於いて、
④ 其(They)は、「名詞節の主語」である。
然るに、
(18)
⑥ 秦王恐其破璧=
⑥ 秦王恐〔其破(璧)〕⇒
⑥ 秦王〔其(璧)破〕恐=
⑥ 秦王〔其の(璧を)破らんことを〕恐る=
⑥ 秦王は、相如が、璧を璧を砕いてしまふことを恐れた=
⑥ The king of 秦 was afraid that the man would crush the 璧(史記、廉頗藺相如列傳)。
従って、
(13)~(18)により、
(19)
④ 其能飛(其の能く飛ぶ)=They can fly.
⑥ 其破璧(其の璧を破る)=the man would crush the 璧.
に於いて、
④ 其=其の=they(彼らが) は、「名詞節の主語」である。
⑥ 其=其の=the man(その人が) は、「名詞節の主語」である。
平成29年11月04日、毛利太。
2017年11月3日金曜日
「君子不以其所以養人」の「其の」について。
(01)
① 秦王恐其破璧=
① 秦王恐〔其破(璧)〕⇒
① 秦王〔其(璧)破〕恐=
① 秦王〔其の(璧を)破らんことを〕恐る=
① 秦王は、相如が、璧を璧を砕いてしまふことを恐れた(史記、廉頗藺相如列傳)。
然るに、
(02)
そ【其・夫】[代名](中称の指示代名詞)それ。その人。《参考》「その」は現代語では連体詞とするが、古文では「代名詞+格助詞」とする(三省堂、全訳読解古語辞典、2007年、690頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 秦王恐其破璧(秦王、其の璧を破らんことを恐る)。
① 秦王恐其破璧(The king of 秦 was afraid that the man would crush the 璧)。
に於いて、
① 其=其の=その人が(相如が)
は、「(名詞節の)主語」である。
然るに、
(04)
② 相如持其璧睨柱欲以撃柱=
② 相如持(其璧)睨(柱)欲〔以撃(柱)〕⇒
② 相如(其璧)持(柱)睨〔以(柱)撃〕欲=
② 相如(其の璧を)持ち(柱を)睨み〔以て(柱に)撃たんと〕欲す=
② 相如は、其の璧を手に持ち、柱を見据へるとそれを柱に撃ち付けようとした(史記、廉頗藺相如列傳)。
然るに、
(02)により、
(05)
② 相如持其璧=
② 相如はその人の璧を持つ。
とするならば、
② 其の=その人の=相如の
でなければ、ならない。
然るに、
(06)
② その人の=His(Her)
である。
従って、
(05)(06)により、
(07)
② 相如持其璧=
② 相如 took his 璧。
である。
従って、
(02)(07)により、
(08)
「其」といふ「漢字」には、「彼(ら)の、彼女(ら)の、それ(ら)の」といふ「訳」が有っても、良いことになる。
然るに、
(09)
【1】[が][の]
① 主語を示す。〈・・・・・・が〉 日の暮るるとき。 汝が去りし日。
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、154頁)
従って、
(09)により、
(10)
「彼の言ふこと」=「彼が言ふこと」のやうな「名詞節の主語」の場合は、
「彼の・・・・」=「彼が・・・・」である。
然るに、
(11)
③ 君子不以其所以養人者害人=
③ 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇒
③ 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
③ 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
従って、
(08)(10)(11)により、
(12)
③ 君子不以其所以養人者害人=
③ 君子は、彼が、人々を養ふ手段にしてゐる者(土地)のために、人々を害することはやうなことをしない。
といふ、「意味」になる。
(13)
③ 君子は、彼が、
では、「分りにくい」のであれば、
③ 君子は、彼自身が、
といふ風に、「言ひ換へ」ても、良い。
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
③ 君子不以其所以養人者害人=
③ 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇒
③ 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
③ 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず=
③ 君子は、彼自身が、人々を養ふ手段にしてゐる所の、土地のために、人々を害することはやうなことをしない。
といふ、「意味」になる。
平成29年11月03日、毛利太。
① 秦王恐其破璧=
① 秦王恐〔其破(璧)〕⇒
① 秦王〔其(璧)破〕恐=
① 秦王〔其の(璧を)破らんことを〕恐る=
① 秦王は、相如が、璧を璧を砕いてしまふことを恐れた(史記、廉頗藺相如列傳)。
然るに、
(02)
そ【其・夫】[代名](中称の指示代名詞)それ。その人。《参考》「その」は現代語では連体詞とするが、古文では「代名詞+格助詞」とする(三省堂、全訳読解古語辞典、2007年、690頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 秦王恐其破璧(秦王、其の璧を破らんことを恐る)。
① 秦王恐其破璧(The king of 秦 was afraid that the man would crush the 璧)。
に於いて、
① 其=其の=その人が(相如が)
は、「(名詞節の)主語」である。
然るに、
(04)
② 相如持其璧睨柱欲以撃柱=
② 相如持(其璧)睨(柱)欲〔以撃(柱)〕⇒
② 相如(其璧)持(柱)睨〔以(柱)撃〕欲=
② 相如(其の璧を)持ち(柱を)睨み〔以て(柱に)撃たんと〕欲す=
② 相如は、其の璧を手に持ち、柱を見据へるとそれを柱に撃ち付けようとした(史記、廉頗藺相如列傳)。
然るに、
(02)により、
(05)
② 相如持其璧=
② 相如はその人の璧を持つ。
とするならば、
② 其の=その人の=相如の
でなければ、ならない。
然るに、
(06)
② その人の=His(Her)
である。
従って、
(05)(06)により、
(07)
② 相如持其璧=
② 相如 took his 璧。
である。
従って、
(02)(07)により、
(08)
「其」といふ「漢字」には、「彼(ら)の、彼女(ら)の、それ(ら)の」といふ「訳」が有っても、良いことになる。
然るに、
(09)
【1】[が][の]
① 主語を示す。〈・・・・・・が〉 日の暮るるとき。 汝が去りし日。
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、154頁)
従って、
(09)により、
(10)
「彼の言ふこと」=「彼が言ふこと」のやうな「名詞節の主語」の場合は、
「彼の・・・・」=「彼が・・・・」である。
然るに、
(11)
③ 君子不以其所以養人者害人=
③ 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇒
③ 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
③ 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
従って、
(08)(10)(11)により、
(12)
③ 君子不以其所以養人者害人=
③ 君子は、彼が、人々を養ふ手段にしてゐる者(土地)のために、人々を害することはやうなことをしない。
といふ、「意味」になる。
(13)
③ 君子は、彼が、
では、「分りにくい」のであれば、
③ 君子は、彼自身が、
といふ風に、「言ひ換へ」ても、良い。
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
③ 君子不以其所以養人者害人=
③ 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇒
③ 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
③ 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず=
③ 君子は、彼自身が、人々を養ふ手段にしてゐる所の、土地のために、人々を害することはやうなことをしない。
といふ、「意味」になる。
平成29年11月03日、毛利太。
2017年11月2日木曜日
「与其得小人」の「其の」について(Ⅱb)。
(01)
hitomi_taylorさん2013/10/321:19:40
漢文の質問です!
与其得小人 で
其の小人を得んよりは、となるみたいなのですが。なぜその語順になるのか理解出来なくて
与得其小人 ではなぜダメなのでしょうか??教えてください<(_ _)>
ベストアンサーに選ばれた回答
(02)
カテゴリマスター
ohagitodaihukuさん 編集あり2013/10/322:13:31
与其…不如…というのが、~~better than~~ と同じようなイディオムとして使われるのです。だから、この語順と覚えてください。
然るに、
(03)
① 或得其小人=ある人がその(the)小人を得る。
② 或得其小人=ある人がその人の(his)小人を得る。
に於いて、
① ではなく、普通は、② であると、思はれる。
従って、
(03)により、
(04)
① 得其小人=その小人(the)を得る。
② 得其小人=その人の(his)小人を得る。
に於いて、
① であるか、② である。
然るに、
(05)
「与」といふ「漢字(多義語)」には、「くみする(親しくなる)、関係する、賛成する、と、ともにする、あたへる、ゆるす、認める、より」等の、「意味」がある。
従って、
(05)により、
(06)
③ 其与人鋭其去人必速=
③ 其与(人)鋭其去(人)必速⇒
③ 其(人)与鋭其(人)去必速=
③ 其の(人に)与すること鋭ければ其の(人を)去ること必ず速やかならん(蘇武、亡妻王氏墓誌銘)=
③ ある人が人と親しくなることに性急であるならば、その人が人から離れることもきっと速いことでしょう(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、76頁)。
といふ、「意味」になる。
従って、
(05)(06)により、
(07)
③ 其与人=
③ 其親人=その人が他の人と親しくなる。
である。
従って、
(07)により、
(08)
③ 其親_人=その人(主語)が他の人(補語)と親しくなる。
④ 其得小人=その人(主語)が小人(目的語)を得る。
である。
従って、
(08)により、
(09)
④ 与其得小人寧不若得愚人=
④ 与〔其得(小人)〕寧不[若〔得(愚人)〕]⇒
④ 〔其(小人)得〕与寧[〔(愚人)得〕若]不=
④ 〔其の(小人を)得る〕与りは寧ろ[〔(愚人を)得るに〕しか]ず(資治通鑑、周紀)=
④ その人が小人を得ることは、(その人が)愚人を得ることに、及ばない。
といふ、「意味」になる。
従って、
(04)(09)により、
(10)
② 与得其小人、
④ 与其得小人、
に於いて、
② その人の(所有格)小人を得るよりは、
② その(連体詞)人の小人を得るよりは、
④ その人が(主語が)小人を得るよりは、
である。
然るに、
(11)
② その人の(所有格)小人を得るよりは、
② その(連体詞)人の小人を得るよりは、
④ その人が(主語が)小人を得るよりは、
に於いて、
②=④ ではない。
従って、
(01)(10)(11)により、
(12)
与其得小人 で
其の小人を得んよりは、となるみたいなのですが。なぜその語順になるのか理解出来なくて
与得其小人 ではなぜダメなのでしょうか??教えてください<(_ _)>
に対する「答へ」は、
② その人の(所有格)小人を得るよりは、
② その(連体詞)人の小人を得るよりは、
④ その人が(主語が)小人を得るよりは、
に於いて、
②=④ ではない。からである。
然るに、
(13)
④ 与其得小人寧不若得愚人=
④ 徳のないこざかしい小人を得るよりも、むしろ愚かでも徳のある愚人を得る方が良い(教学者、風呂で覚える漢文、1998年、50頁)。
といふのは、飽く迄も、「一般論」である。
従って、
(09)(13)により、
(14)
① 与其得小人寧不若得愚人=
③ その人が小人を得ることは、(その人が)愚人を得ることに、及ばない。
とは言っても、「一般論」である以上、
① 其=その人
といふのは、
① 其=特定の人
といふことには、ならない。
従って、
(06)(14)により、
(15)
④ 与其得小人寧不若得愚人=
④(ある人が)小人を得ることは、(その人が)愚人を得ることに、及ばない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(09)により、
(16)
④ 与其得小人=
④ 其の小人を得るよりは=
④ その人が小人を得ることは、
である。
従って、
(16)により、
(17)
④ 其
といふ「漢字」は、
④ 其の
といふ風に「訓読」され、
④ その人が
といふ「意味」になる。
従って、
(17)により、
(18)
④ 其=その人
④ そ=その人
である。
然るに、
(19)
そ【其・夫】〔代名(指示・人称)〕
① それ。そこ。その人。そのこと。前にある人や事物をさす。[例]そが言ひけらく[その人が言ったことには]〈土佐日記〉
(大修館書店、古語林、1997年、766頁)
(20)
〔ポイント〕現代語では一語の連体詞とするが、古語では「そ(其)」が独立した代名詞として用いられるので、代名詞に格助詞「の」がついた連語として扱う。
(大修館書店、古語林、1997年、778頁)
従って、
(18)(19)(20)により、
(21)
④ そ =その人
④ その=そ+の(が)=その人+の(が)
である。
従って、
(21)により、
(22)
現代語の「この」は連体詞として扱いますが、古文では代名詞「こ」に格助詞「の」がついたものとして扱います。「あの・その」なども同様で、古文と現代文とではこうした違いがあるので注意しましょう(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、48頁)。
といふ、ことになる。
従って、
(01)(19)~(20)により、
(23)
「現代文」とは異なり、「古文や漢文」の場合は、「其の=そ+の(が)=その人+の(が)」である。といふことを、知ってゐたならば、hitomi_taylorさんは、
与其得小人 で
其の小人を得んよりは、となるみたいなのですが。なぜその語順になるのか理解出来なくて
与得其小人 ではなぜダメなのでしょうか??教えてください<(_ _)>
といふ「疑問」を持たなかったものと、思はれる。
平成29年11月02日、毛利太。
hitomi_taylorさん2013/10/321:19:40
漢文の質問です!
与其得小人 で
其の小人を得んよりは、となるみたいなのですが。なぜその語順になるのか理解出来なくて
与得其小人 ではなぜダメなのでしょうか??教えてください<(_ _)>
ベストアンサーに選ばれた回答
(02)
カテゴリマスター
ohagitodaihukuさん 編集あり2013/10/322:13:31
与其…不如…というのが、~~better than~~ と同じようなイディオムとして使われるのです。だから、この語順と覚えてください。
然るに、
(03)
① 或得其小人=ある人がその(the)小人を得る。
② 或得其小人=ある人がその人の(his)小人を得る。
に於いて、
① ではなく、普通は、② であると、思はれる。
従って、
(03)により、
(04)
① 得其小人=その小人(the)を得る。
② 得其小人=その人の(his)小人を得る。
に於いて、
① であるか、② である。
然るに、
(05)
「与」といふ「漢字(多義語)」には、「くみする(親しくなる)、関係する、賛成する、と、ともにする、あたへる、ゆるす、認める、より」等の、「意味」がある。
従って、
(05)により、
(06)
③ 其与人鋭其去人必速=
③ 其与(人)鋭其去(人)必速⇒
③ 其(人)与鋭其(人)去必速=
③ 其の(人に)与すること鋭ければ其の(人を)去ること必ず速やかならん(蘇武、亡妻王氏墓誌銘)=
③ ある人が人と親しくなることに性急であるならば、その人が人から離れることもきっと速いことでしょう(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、76頁)。
といふ、「意味」になる。
従って、
(05)(06)により、
(07)
③ 其与人=
③ 其親人=その人が他の人と親しくなる。
である。
従って、
(07)により、
(08)
③ 其親_人=その人(主語)が他の人(補語)と親しくなる。
④ 其得小人=その人(主語)が小人(目的語)を得る。
である。
従って、
(08)により、
(09)
④ 与其得小人寧不若得愚人=
④ 与〔其得(小人)〕寧不[若〔得(愚人)〕]⇒
④ 〔其(小人)得〕与寧[〔(愚人)得〕若]不=
④ 〔其の(小人を)得る〕与りは寧ろ[〔(愚人を)得るに〕しか]ず(資治通鑑、周紀)=
④ その人が小人を得ることは、(その人が)愚人を得ることに、及ばない。
といふ、「意味」になる。
従って、
(04)(09)により、
(10)
② 与得其小人、
④ 与其得小人、
に於いて、
② その人の(所有格)小人を得るよりは、
② その(連体詞)人の小人を得るよりは、
④ その人が(主語が)小人を得るよりは、
である。
然るに、
(11)
② その人の(所有格)小人を得るよりは、
② その(連体詞)人の小人を得るよりは、
④ その人が(主語が)小人を得るよりは、
に於いて、
②=④ ではない。
従って、
(01)(10)(11)により、
(12)
与其得小人 で
其の小人を得んよりは、となるみたいなのですが。なぜその語順になるのか理解出来なくて
与得其小人 ではなぜダメなのでしょうか??教えてください<(_ _)>
に対する「答へ」は、
② その人の(所有格)小人を得るよりは、
② その(連体詞)人の小人を得るよりは、
④ その人が(主語が)小人を得るよりは、
に於いて、
②=④ ではない。からである。
然るに、
(13)
④ 与其得小人寧不若得愚人=
④ 徳のないこざかしい小人を得るよりも、むしろ愚かでも徳のある愚人を得る方が良い(教学者、風呂で覚える漢文、1998年、50頁)。
といふのは、飽く迄も、「一般論」である。
従って、
(09)(13)により、
(14)
① 与其得小人寧不若得愚人=
③ その人が小人を得ることは、(その人が)愚人を得ることに、及ばない。
とは言っても、「一般論」である以上、
① 其=その人
といふのは、
① 其=特定の人
といふことには、ならない。
従って、
(06)(14)により、
(15)
④ 与其得小人寧不若得愚人=
④(ある人が)小人を得ることは、(その人が)愚人を得ることに、及ばない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(09)により、
(16)
④ 与其得小人=
④ 其の小人を得るよりは=
④ その人が小人を得ることは、
である。
従って、
(16)により、
(17)
④ 其
といふ「漢字」は、
④ 其の
といふ風に「訓読」され、
④ その人が
といふ「意味」になる。
従って、
(17)により、
(18)
④ 其=その人
④ そ=その人
である。
然るに、
(19)
そ【其・夫】〔代名(指示・人称)〕
① それ。そこ。その人。そのこと。前にある人や事物をさす。[例]そが言ひけらく[その人が言ったことには]〈土佐日記〉
(大修館書店、古語林、1997年、766頁)
(20)
〔ポイント〕現代語では一語の連体詞とするが、古語では「そ(其)」が独立した代名詞として用いられるので、代名詞に格助詞「の」がついた連語として扱う。
(大修館書店、古語林、1997年、778頁)
従って、
(18)(19)(20)により、
(21)
④ そ =その人
④ その=そ+の(が)=その人+の(が)
である。
従って、
(21)により、
(22)
現代語の「この」は連体詞として扱いますが、古文では代名詞「こ」に格助詞「の」がついたものとして扱います。「あの・その」なども同様で、古文と現代文とではこうした違いがあるので注意しましょう(武藤元昭、0からわかる古文、1997年、48頁)。
といふ、ことになる。
従って、
(01)(19)~(20)により、
(23)
「現代文」とは異なり、「古文や漢文」の場合は、「其の=そ+の(が)=その人+の(が)」である。といふことを、知ってゐたならば、hitomi_taylorさんは、
与其得小人 で
其の小人を得んよりは、となるみたいなのですが。なぜその語順になるのか理解出来なくて
与得其小人 ではなぜダメなのでしょうか??教えてください<(_ _)>
といふ「疑問」を持たなかったものと、思はれる。
平成29年11月02日、毛利太。
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