(01)
1 (1) P→ Q A
2 (2) ~Q A
3(3) P A
12 (4) Q 13MPP
123(5) Q&~Q 24&I
12 (6)~P 35RAA
1 (7)~Q→~P 26CP
(02)
1 (1)~Q→~P A
2 (2) P A
3(3)~Q A
1 3(4) ~P 13MPP
123(5) P&~P 24&I
12 (6)~~Q 35RAA
12 (7) Q 5DN
1 (8) P→ Q 27CP
従って、
(01)(02)により、
(03)
① PならばQである。
② QでないならばPでない。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(04)
命題「AならばB」の対偶は「BでないならAでない」である。 論理記号を用いて説明すると、命題「A ⇒ B」の対偶は「¬B⇒ ¬A」(¬A は命題 A の否定)である。 通常の数学では、命題「AならばB」の真偽とその対偶「BでないならAでない」の真偽とは必ず一致する(すなわち真理値が等しい)。Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/対偶_(論理学)
従って、
(03)(04)により、
(05)
① AでないならばBでない。
② BならばAである。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(06)
① AでないならばBでない。
といふことは、
① A以外はBでない。
といふことに、他ならない。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① A以外はBでない。
② BならばAである。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(08)
② BならばAである。
といふことは、
② BはAである。
といふことに、他ならない。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① A以外はBでない。
② BはAである。
に於いて、
①=② である。
従って、
(09)により、
(10)
① 私以外は大野でない。
② 大野は私です。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(11)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
私が大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをガで承けた。それゆえこの形は、
大野は私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
「既知・未知」といふ「マチガイ」は、ともかく、いづれにせよ、
① 私以外は大野でない。
② 大野は私です。
③ 私が大野です。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(12)により、
(13)
③ 私が大野です。
といふのであれば、
③(その時刻、その場所に於いて、) 私以外は大野でない。
といふ、ことになる。
従って、
(13)により、
(14)
④ 象がゐる。
といふのであれば、
④(今、私の目の前に、) 象はゐるが(象以外はゐない)。
といふ風に、「理解」することになる。
従って、
(14)により、
(15)
⑤(今、見てゐる図鑑の中では、)象が鼻が長い。
といふのであれば、
⑤{ゾウ、キリン、カバ、ライオン、ゴリラ}等を「比較」する限り、
⑤ ゾウの鼻は長く、ゾウ以外の鼻は長くない。
といふ、ことになる。
従って、
(16)
⑥(今、見てゐる図鑑の中では、)キリンが首が長い。
といふのであれば、
⑥{キリン、ゾウ、カバ、ライオン、ゴリラ}等を「比較」する限り、
⑥ キリンの首は長く、キリン以外の首は長くない。
といふ、ことになる。
然るに、
(12)により、
(17)
⑥ キリンが首が長い(キリン以外の首は長くない)。
に対して、
⑦ キリンは首が長い。
といふのであれば、
⑥{キリン、ゾウ、カバ、ライオン、ゴリラ}ではく、
⑦{キリン}だけを見て(念頭に置いて)、
⑦ キリンは首が長い。
といふ風に、言ってゐる(思ってゐる)。
従って、
(17)により、
(18)
⑦ キリンは首が長い。
といふ「日本語」は、
⑦「キリン」について、「述べてゐる」のであって、
⑦「キリン」以外については、「何も述べてゐない」。
従って、
(18)により、
(19)
⑧ 象は鼻は長い。
といふのであれば、
⑧「象と、象の鼻」について、「述べてゐる」のであって、
⑧「象と、象の鼻」以外については、「何も述べてゐない」。
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
⑧ 象は鼻は長い。
に対して、
⑨ 象は鼻が長い。
といふのであれば、
⑨「象」以外については、「何も述べてゐない」ものの、
⑨「象の体」に於いて、「鼻」以外については、「長くはない。」といふ風に、「述べてゐる」。
従って、
(19)(20)により、
(21)
⑧ 象は鼻は長い。
といふのであれば、
⑧ 象の鼻は長い。としても、象の体の、他の部分が、長いかどうかは、分からない。
のに対して、
⑨ 象は鼻が長い。
といふのであれば、
⑨ 象の鼻は長く、象の体の、他の部分が、特には、長くはない。
といふ、ことになる。
従って、
(18)~(21)により、
(22)
⑨ 象だけを、「念頭」に置いて、
⑨ 象の鼻は長く、象の体の、他の部分が、特には、長くはない。
といふ風に、思ってゐるのであれば、
⑧ 象は鼻は長い。
とは言はずに、
⑨ 象は鼻が長い。
といふ風に、言ふことになる。
従って、
(23)
⑨ サンマは目黒がうまい。
といふのであれば、
⑨ サンマだけを、「念頭」に置いて、
⑨ 目黒のそれはうまく、目黒以外(日本橋の魚河岸)のそれは、うまくない。
といふ風に、述べてゐる。
従って、
(24)
⑩ 鼻はゾウが長く、首はキリンが長く、口はカバが大きい。
といふのであれば、
⑩ 鼻={ゾウの鼻、キリンの鼻、カバの鼻}
⑩ 首={ゾウの首、キリンの首、カバの首}
⑩ 口={ゾウの口、キリンの口、カバの口}
に於いて、
⑩ ゾウ以外の鼻は長くなく、キリン以外の首は長くなく、カバ以外の口は大きくない。
といふ風に、述べてゐる。
然るに、
(25)
もうすぐ、92才になる、日本人男性、他に確認したところ、
⑧ 象は鼻は長い。
⑨ 象は鼻が長い。
⑩ 鼻は象が長い。
といふ「日本語」の「意味」は、私が思ってゐる「それ」と、「同じ」であった。
従って、
(01)~(25)により、
(25)
⑧ 象は鼻は長い。
⑨ 象は鼻が長い。
⑩ 鼻は象が長い。
といふ「日本語の文法」は、「説明可能」である。
然るに、
(26)
日本語に主語はないと仮定すると、「象は鼻が長い」など文法的に説明不能だった点が見事にクリアになります(igawa's Blog)。
然るに、
(27)
私自身は、「日本語に主語はない」などといふ風に、思ったことは、一度もない。
平成30年01月30日、毛利太。
2018年1月30日火曜日
2018年1月29日月曜日
「aがFならば、」の「aが」について。
(01)
1 (1) F→ G A
2(2) F&~G A
2(3) F 2&E
12(4) G 13MPP
12(5) ~G 2&E
12(6) G&~G 45&I
1 (7)~(F&~G)16RAA
(02)
1 (1)~(F&~G) A
2 (2) F A
3(3) ~G A
23(4) F&~G 23&I
123(5)~(F&~G)&(F&~G)12&I
12 (6) ~~G 35RAA
12 (7) G 6DN
1 (8) F→ G 27CP
従って、
(01)(02)により、
(03)
① FならばGである。
② FであってGでない。といふことはない。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(04)
② FであってGでない。といふことはない。
③ GでなくてFである。といふことはない。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(05)
③ GでなくてFである。といふことはない。
④ GでないならばFでない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
① FならばGである。
② FであってGでない。といふことはない。
③ GでなくてFである。といふことはない。
④ GでないならばFでない。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(06)により、
(07)
① FならばGである。
② GでないならばFでない。
に於いて、
①=② である。
cf.
任意の仮言命題は、その命題の「対偶(contraposition)」に等しい。
然るに、
(08)
② GでないならばFでない。
といふのであれば、
② Gである。とは、「言ってゐない」し、
② Fである。とも、「言ってゐない」。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① FならばGである。
といふのであれば、
① Fである。とは、「言ってゐない」し、
① Gである。とも、「言ってゐない。
従って、
(09)により、
(10)
① aがFならば、dはGである。
といふのであれば、
① aはFである。とは、「言ってゐない」し、
① dはGである。とも、「言ってゐない」。
然るに、
(11)
① aがFならば、dはGである。
といふのであれば、
① aがFならば、とは、「言ってゐる」が、
② bがFならば、とは、「言ってゐない」し、
③ cがFならば、とも、「言ってゐない」。
従って、
(10)(11)により、
(12)
① aがFならば、dはGである。
といふのであれば、
① aはFである。⇒「dはGである。」は、「本当である」。
② bはFである。⇒「dはGである。」は、「本当か、どうか分からない」。
③ cはFである。⇒「dはGである。」は、「本当か、どうか分からない」。
従って、
(12)により、
(13)
① aがFならば、dはGである。
といふのであれば、
① a is F.⇒「dはGである。」は、「本当である」。
② b is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうか分からない」。
③ c is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうかわからない」。
然るに、
(14)
その人(発話者)は
② b is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうか分からない」。
③ c is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうかわからない」。
といふことよりも、
① a is F.⇒「dはGである。」は、「本当である」。
といふことを、言ひたいのである。とする。
然るに、
(15)
その人(発話者)は
② b is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうか分からない」。
③ c is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうかわからない」。
といふことよりも、
① a is F.⇒「dはGである。」は、「本当である」。
といふことを、言ひたいのであれば、
① a is F.
に於ける、
① a は、「強調」されても、「不思議」ではない。
然るに、
(16)
① a is F.
に於いて、
① a
を、「強く発音する(強調)」する場合は、
① A is F.
といふ風に、書くことにする。
従って、
(13)~(16)により、
(17)
① aがFならば、dはGである。
といふのであれば、
① a is F.⇒「dはGである。」は、「本当である」。
ではなく、
① A is F.⇒「dはGである。」は、「本当である」。
といふ、ことになる。
然るに、
(18)
① aがFならば、
② aはFなので、
といふ「日本語」に対して、
① aはFならば、
といふ「日本語」は、存在しない。
cf.
① aがFなら(仮定形)ば、
② aはFなの(断定形)で、
② aはFなれ(已然形)ば、
従って、
(17)(18)により、
(19)
① aがFならば、
② aはFなので、
といふ「それ」は、
① A is F ならば、
② a is F なので、
でなければ、ならない。
従って、
(16)~(19)により、
(20)
①「aが」は、A(強調形) であって、
②「aは」は、a(普通形) である。
従って、
(20)により、
(21)
①「aが(濁音)」は、A(強調形) であって、
②「aは(清音)」は、a(普通形) である。
然るに、
(22)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(23)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(21)(22)(23)により、
(24)
① ~が は、「(濁音による)強調形」であって、
② ~は は、「(清音による)普通形」である。
従って、
(24)により、
(25)
① 私が大野です。
② 私は大野です。
に於いて、
① 私が は、「(濁音による)強調形」であって、
② 私は は、「(清音による)普通形」である。
然るに、
(26)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
b.Tom SENT Mary flowers.
c.Tom sent MARY flowers.
d.TOM sent Mary FLOWERS.
"Tom sent Mary flowers.”"(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
従って、
(26)により、
(27)
① I am 大野。
に於いて、
① I が、「強調」されると、
その場合は、
① 私以外は大野ではない。
といふ、「意味」になる。
従って、
(25)(27)により、
(28)
① 私が大野です。
といふ「日本語」は、
① 私以外は大野ではない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(29)
① 私以外は大野ではない。
といふことは、
① 私でないなら大野ではない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(30)
既に、述べたものの、
命題「AならばB」の対偶は「BでないならAでない」である。 論理記号を用いて説明すると、命題「A ⇒ B」の対偶は「¬B⇒ ¬A」(¬A は命題 A の否定)である。 通常の数学では、命題「AならばB」の真偽とその対偶「BでないならAでない」の真偽とは必ず一致する(すなわち真理値が等しい)。Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/対偶_(論理学)
従って、
(07)(30)により、
(31)
① 私でないなら大野ではない。
といふことは、
① 大野ならば私である。
といふことに、他ならない。
然るに、
(32)
① 大野ならば私である。
といふことは、
① 大野は私です。
といふことに、他ならない。
従って、
(28)~(32)により、
(33)
① 私が大野です。
① 私以外は大野ではない。
① 私でないなら大野ではない。
① 大野ならば私である。
① 大野は私です。
といふ「日本語」は、「論理的」には、「同じ」である。
従って、
(33)により、
(34)
① 私が大野です。
といふ「日本語」は、
① 大野は私です。
といふ「日本語」に、「等しい」。
従って、
(25)(34)により、
(35)
① 私が(濁音による強調形)大野です。
といふ「日本語」は、
① 大野は(清音による普通形)私です。
といふ「日本語」に、「等しい」。
然るに、
(36)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
私が大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをガで承けた。それゆえこの形は、
大野は私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
従って、
(33)~(36)により、
(37)
① 私が大野です。
① 大野は私です。
といふ「日本語」は、
① 私以外は大野ではない。
といふ「意味」なのであって、「既知・未知」といふこととは、「関係」がない。
(38)
① aがFならば、bはGである。
① 太陽が西から昇るならば、私は逆立ちをして地球を一周する。
といふ「日本語」に対して、
② aはFならば、bはGである。
② 太陽は西から昇るならば、私は逆立ちをして地球を一周する。
といふ「日本語」は、存在しない。
然るに、
(39)
① 太陽が西から昇るならば、
② 太陽は西から昇るならば、
に於いて、
① 太陽が は、「未知が」であって、
② 太陽は は、「既知は」である。
とするならば、そのやうな「理屈」は、詭弁であるに、違ひない。
平成30年01月29日、毛利太。
1 (1) F→ G A
2(2) F&~G A
2(3) F 2&E
12(4) G 13MPP
12(5) ~G 2&E
12(6) G&~G 45&I
1 (7)~(F&~G)16RAA
(02)
1 (1)~(F&~G) A
2 (2) F A
3(3) ~G A
23(4) F&~G 23&I
123(5)~(F&~G)&(F&~G)12&I
12 (6) ~~G 35RAA
12 (7) G 6DN
1 (8) F→ G 27CP
従って、
(01)(02)により、
(03)
① FならばGである。
② FであってGでない。といふことはない。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(04)
② FであってGでない。といふことはない。
③ GでなくてFである。といふことはない。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(05)
③ GでなくてFである。といふことはない。
④ GでないならばFでない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
① FならばGである。
② FであってGでない。といふことはない。
③ GでなくてFである。といふことはない。
④ GでないならばFでない。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(06)により、
(07)
① FならばGである。
② GでないならばFでない。
に於いて、
①=② である。
cf.
任意の仮言命題は、その命題の「対偶(contraposition)」に等しい。
然るに、
(08)
② GでないならばFでない。
といふのであれば、
② Gである。とは、「言ってゐない」し、
② Fである。とも、「言ってゐない」。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① FならばGである。
といふのであれば、
① Fである。とは、「言ってゐない」し、
① Gである。とも、「言ってゐない。
従って、
(09)により、
(10)
① aがFならば、dはGである。
といふのであれば、
① aはFである。とは、「言ってゐない」し、
① dはGである。とも、「言ってゐない」。
然るに、
(11)
① aがFならば、dはGである。
といふのであれば、
① aがFならば、とは、「言ってゐる」が、
② bがFならば、とは、「言ってゐない」し、
③ cがFならば、とも、「言ってゐない」。
従って、
(10)(11)により、
(12)
① aがFならば、dはGである。
といふのであれば、
① aはFである。⇒「dはGである。」は、「本当である」。
② bはFである。⇒「dはGである。」は、「本当か、どうか分からない」。
③ cはFである。⇒「dはGである。」は、「本当か、どうか分からない」。
従って、
(12)により、
(13)
① aがFならば、dはGである。
といふのであれば、
① a is F.⇒「dはGである。」は、「本当である」。
② b is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうか分からない」。
③ c is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうかわからない」。
然るに、
(14)
その人(発話者)は
② b is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうか分からない」。
③ c is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうかわからない」。
といふことよりも、
① a is F.⇒「dはGである。」は、「本当である」。
といふことを、言ひたいのである。とする。
然るに、
(15)
その人(発話者)は
② b is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうか分からない」。
③ c is F.⇒「dはGである。」は、「本当か、どうかわからない」。
といふことよりも、
① a is F.⇒「dはGである。」は、「本当である」。
といふことを、言ひたいのであれば、
① a is F.
に於ける、
① a は、「強調」されても、「不思議」ではない。
然るに、
(16)
① a is F.
に於いて、
① a
を、「強く発音する(強調)」する場合は、
① A is F.
といふ風に、書くことにする。
従って、
(13)~(16)により、
(17)
① aがFならば、dはGである。
といふのであれば、
① a is F.⇒「dはGである。」は、「本当である」。
ではなく、
① A is F.⇒「dはGである。」は、「本当である」。
といふ、ことになる。
然るに、
(18)
① aがFならば、
② aはFなので、
といふ「日本語」に対して、
① aはFならば、
といふ「日本語」は、存在しない。
cf.
① aがFなら(仮定形)ば、
② aはFなの(断定形)で、
② aはFなれ(已然形)ば、
従って、
(17)(18)により、
(19)
① aがFならば、
② aはFなので、
といふ「それ」は、
① A is F ならば、
② a is F なので、
でなければ、ならない。
従って、
(16)~(19)により、
(20)
①「aが」は、A(強調形) であって、
②「aは」は、a(普通形) である。
従って、
(20)により、
(21)
①「aが(濁音)」は、A(強調形) であって、
②「aは(清音)」は、a(普通形) である。
然るに、
(22)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(23)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(21)(22)(23)により、
(24)
① ~が は、「(濁音による)強調形」であって、
② ~は は、「(清音による)普通形」である。
従って、
(24)により、
(25)
① 私が大野です。
② 私は大野です。
に於いて、
① 私が は、「(濁音による)強調形」であって、
② 私は は、「(清音による)普通形」である。
然るに、
(26)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
b.Tom SENT Mary flowers.
c.Tom sent MARY flowers.
d.TOM sent Mary FLOWERS.
"Tom sent Mary flowers.”"(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
従って、
(26)により、
(27)
① I am 大野。
に於いて、
① I が、「強調」されると、
その場合は、
① 私以外は大野ではない。
といふ、「意味」になる。
従って、
(25)(27)により、
(28)
① 私が大野です。
といふ「日本語」は、
① 私以外は大野ではない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(29)
① 私以外は大野ではない。
といふことは、
① 私でないなら大野ではない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(30)
既に、述べたものの、
命題「AならばB」の対偶は「BでないならAでない」である。 論理記号を用いて説明すると、命題「A ⇒ B」の対偶は「¬B⇒ ¬A」(¬A は命題 A の否定)である。 通常の数学では、命題「AならばB」の真偽とその対偶「BでないならAでない」の真偽とは必ず一致する(すなわち真理値が等しい)。Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/対偶_(論理学)
従って、
(07)(30)により、
(31)
① 私でないなら大野ではない。
といふことは、
① 大野ならば私である。
といふことに、他ならない。
然るに、
(32)
① 大野ならば私である。
といふことは、
① 大野は私です。
といふことに、他ならない。
従って、
(28)~(32)により、
(33)
① 私が大野です。
① 私以外は大野ではない。
① 私でないなら大野ではない。
① 大野ならば私である。
① 大野は私です。
といふ「日本語」は、「論理的」には、「同じ」である。
従って、
(33)により、
(34)
① 私が大野です。
といふ「日本語」は、
① 大野は私です。
といふ「日本語」に、「等しい」。
従って、
(25)(34)により、
(35)
① 私が(濁音による強調形)大野です。
といふ「日本語」は、
① 大野は(清音による普通形)私です。
といふ「日本語」に、「等しい」。
然るに、
(36)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
私が大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをガで承けた。それゆえこの形は、
大野は私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
従って、
(33)~(36)により、
(37)
① 私が大野です。
① 大野は私です。
といふ「日本語」は、
① 私以外は大野ではない。
といふ「意味」なのであって、「既知・未知」といふこととは、「関係」がない。
(38)
① aがFならば、bはGである。
① 太陽が西から昇るならば、私は逆立ちをして地球を一周する。
といふ「日本語」に対して、
② aはFならば、bはGである。
② 太陽は西から昇るならば、私は逆立ちをして地球を一周する。
といふ「日本語」は、存在しない。
然るに、
(39)
① 太陽が西から昇るならば、
② 太陽は西から昇るならば、
に於いて、
① 太陽が は、「未知が」であって、
② 太陽は は、「既知は」である。
とするならば、そのやうな「理屈」は、詭弁であるに、違ひない。
平成30年01月29日、毛利太。
2018年1月8日月曜日
「返り点」に代はる『括弧』の付け方。
―「返り点」と「括弧」については、併せて、『「一二点・上下点」について(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)』他を、お読み下さい。―
(01)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 A B C D E F G
は、16個の、「17進数」であるとする。
従って、
(01)により、
(02)
1<2<3<4<5<6<7<8<9<A<B<C<D<E<F<G
である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 1642357。
に於いて、
① 1 の右側に、1 よりも「小さい数」は無い。
(04)
① 1642357。
に於いて、
① 6 の右側で、6 よりも「小さい数」は、
① (4235)である。
(05)
① 16(4235)7。
に於いて、
① 4 の右側で、4よりも「小さい数」は、
① (23)である。
(06)
① 16〔4(23)5〕7。
に於いて、
① 2 の右側に、2 よりも「小さい数」は無い。
(07)
① 16〔4(23)5〕7。
に於いて、
① 3 の右側に、3 よりも「小さい数」は無い。
(08)
① 16〔4(23)5〕7。
に於いて、
① 5 の右側に、5 よりも「小さい数」は無い。
従って、
(03)~(08)により、
(09)
① 16〔4(23)5〕7。
に於いて、
① 6〔 〕⇒〔 〕6
① 4( )⇒( )4
といふ「移動」を行ふと、
① 16〔4(23)5〕7⇒
① 1〔(23)45〕67=
① 1<2<3<4<5<6<7。
といふ「並び替へ(ソート)」が成立する。
然るに、
(10)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 非〔 〕⇒〔 〕非
① 解( )⇒( )解
といふ「移動」を行ふと、
① 我非〔解(中文)者〕也⇒
① 我〔(中文)解者〕非也=
① 我は〔(中文を)解する者に〕非ざる也=
① 私は中国語の文を理解する者ではないのである。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(01)~(09)により、
(11)
「同様なやり方」によって、
② 1F〈2D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉G。
に於いて、
② F〈 〉⇒〈 〉F
② D{ }⇒{ )D
② C[ ]⇒[ ]C
② 8〔 〕⇒〔 〕8
② 6( )⇒( )6
② B( )⇒( )B
といふ「移動」を行ふと、
② 1F〈2D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉G⇒
② 1〈2{3[〔(45)67〕8(9A)B]C}DE〉FG=
② 1<2<3<4<5<6<7<8<9<A<B<C<D<E<F<G。
といふ「並び替へ(ソート)」が成立する。
然るに、
(12)
② 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
② 非〈 〉⇒〈 〉非
② 不{ }⇒{ }不
② 求[ ]⇒[ ]求
② 以〔 〕⇒〔 〕以
② 解( )⇒( )解
② 解( )⇒( )解
といふ「移動」を行ふと、
② 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
② 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
② 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也=
② 私は必ずしも、常に、中国語の文を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようとしない者、ではないのである=
② 私は、時には、中国語の文を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようとする者なのである。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(09)(10)(11)(12)により、
(13)
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」に対して、
① 1 6 4 2 3 5 7。
② 1 F 2 D 3 C 8 6 4 5 7 B 9 A E G。
といふ「語順」を与へることは、
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」に対して、
① 我非〔解(中文)者〕也。
② 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「括弧」与へることに、「等しい」。
然るに、
(10)(12)により、
(14)
① 我非下 解二 中文一 者上 也。
② 我非地 必不丁 常求丙 以下 解二 中文一 法上 解乙 漢文甲 者天 也。
であるため、
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
に対する「返り点」は、
① 下 二 一 上
② 地 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
である。
然るに、
(15)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
① 我非〔解(中文)者〕也。
② 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於ける、
① 〔 ( ) 〕
② 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( )]} 〉
といふ「括弧」は、
① 下 二 一 上
② 地 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
といふ「返り点」によって示される「訓読の語順」を表すと「同時に」、
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」の、「補足構造」を表してゐる。
然るに、
(17)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
然るに、
(18)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)
従って、
(17)(18)により、
(19)
括弧は、漢字の管到(スコープ)を明示する働きを持つ。管到(スコープ)は、漢字の意味が及ぶ範囲のことをいう。
従って、
(16)(19)により、
(20)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 我 の「意味」は、
① 非 を介して、
① 〔解(中文)者〕
に及んでゐる。
(21)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 非 の「意味」は、直接、
① 〔解(中文)者〕
に及んでゐる。
(22)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 解 の「意味」は、直接、
① 中文
に及んでゐる。
(23)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 中 の「意味」は、「連体修飾語」として、
① 文
に係ってゐる。
(24)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 解(中文) の「意味」は、「連体修飾句」として、
① 者
に係ってゐる。
(25)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 也 は、「語気詞」として、
① 我非〔解(中文)者〕
といふ「文全体」を、「断定」してゐる。
然るに、
(26)
gyoukou6_2_2008さん2012/9/1917:47:34
漢文(白文を書き下し文に)
白文を書き下すのって無理じゃないですか?
それとも何かコツでもあるんでしょうか?
どなたか教えて下さい。
(27)
kaede_flower_158432976さん2013/1/2002:09:54
【漢文】
白文が全く読めません…;
返り点と送り仮名がないと私は、本当に一文字も意味がわからないんです・・・
自分で白文に返り点・送り仮名をつける問題なんてしょっちゅう出てきますが、あんなのもってのほかです
どうしたら読めるでしょうか(ToT)
すみません、お願いします。。。
従って、
(13)(20)~(27)により、
(28)
gyoukou6_2_2008さんや、
kaede_flower_158432976さんが、仮に、
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
のやうな「白文」を、「全く、読めない」のであれば、
gyoukou6_2_2008さんと、
kaede_flower_158432976さんは、
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
に於いて、
①「左から順」に、それぞれの「 7個の、漢字の意味」が、「直接、あるいは、間接的に、どの漢字」にまで「及んでゐる」のか。
②「左から順」に、それぞれの「16個の、漢字の意味」が、「直接、あるいは、間接的に、どの漢字」にまで「及んでゐる」のか。
といふことが、「見て取れない」。といふことになる。
然るに、
(29)
③ 独逸非(羅馬属州)=ドイツはローマの属州に非ず。
④ 我以(善言葉)導〔僕与(其息子)〕=我、善き言葉を以て僕と其の息子とを導く。
とは、異なり、若かりし時に、両方とも挫折した、
③ Germania propvincia Romanorum non erat(ドイツはローマの属州ではなかった).
④ αγομεν τoυς δoυλoυς μετα των υιων αυτων λoγoις καλoις(我々は、その僕たちと彼等の息子たちを善い言葉で導く).
のやうな「言語(ラテン語とギリシャ語)」の場合は、「語順」ではなく、むしろ、「単語の形」が、「文法構造」を表してゐる。
すなはち、
(30)
④ αγομεν τoυς δoυλoυς μετα των υιων αυτων λoγoις καλoις.
に於いて、
④ δoυλoυς
といふ「それ」が、
④ δoυλoς δoυλoυ δoυλω δoυλoν δoυλε δoυλoι δoυλων δoυλoις
ではなく、
④ δoυλoυς
であるからこそ、
④ δoυλoυς は、
④ αγομεν の「目的語」である。といふことが、分る。
従って、
(29)(30)により、
(31)
④ δoυλoς δoυλoυ δoυλω δoυλoν δoυλε δoυλoι δoυλων δoυλoις
といふ「語形」ではなく、
④ δoυλoυς
といふ「語形」であるからこそ、
④ αγομεν τoυς δoυλoυς μετα των υιων αυτων λoγoις καλoις.
に於いて、
④ αγομεν といふ「動詞」の「意味」は、「語順」には、依存せずに、
④ τoυς δoυλoυς
に及んでゐる。
従って、
(29)~(31)により、
(32)
単語と単語との間の文法的関係を把握し、その意味を理解することが、その語形の変化や文法的な成分などによらずに、右のように、その文脈による全体的な直観にゆだねられていることが多いことは、単音節的・孤立的な言語としての漢語における大きなな特徴であるといわなければならない。漢語におけるこのような表現のしかたは、単語の間の関係を文法的な形式によって示すことを重んじている西欧の言語になれている人にとっては、まことに奇妙なことに思われるものと考えられる。カールグレン氏は、その著書《中国の言語》において、このような奇妙な孤立的な漢語の文法は、「非常に貧弱なものであり」、「漢語においては、文法的な分析は、あまり役に立たず、実際に役立つのは、広い読書を通じて習得した経験、つまり、中国人がどのようにして文をつくりあげているかということに対する感覚が、唯一のものである」と説き、更に、漢語の文の意味を理解するためには、「豊富な直観が、必要である」とも述べている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、293頁)。
といふ、ことになる。
従って、
(32)により、
(33)
「ラテン語やギリシャ語の文法」とは異なり、「漢文の文法」は、極言すると、「語順に対する、直感」だけである。
従って、
(01)~(33)により、
(34)
私の方が、
gyoukou6_2_2008さん
kaede_flower_158432976さんよりも、
① 我非解中文者也。
② 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
③ 独逸非羅馬属州。
④ 我以善言葉導僕与其息子。
といふ「漢文」の、
① 我非〔解(中文)者〕也。
② 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
③ 独逸非(羅馬属州)。
④ 我以(善言葉)導〔僕与(其息子)〕。
といふ「補足構造」を「把握」する上での「直観」が、「優れてゐる(豊富である)」。
といふ、ことになる。
然るに、
(35)
① 我非解中文者也。
② 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
③ 独逸非羅馬属州。
④ 我以善言葉導僕与其息子。
といふ「漢文」を書いたのは、私自身である。
従って、
(34)(35)により、
(36)
① 我は、中文を解する者に非ざるなり。
② 我は、必ずしも常には中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
③ 独逸は、羅馬の属州に非ず。
④ 我、善言を以て僕と其の息子とを導く。
といふ「訓読」を、
① 我非解中文者也。
② 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
③ 独逸非羅馬属州。
④ 我以善言葉導僕与其息子。
といふ風に、書けるやうになれば、すなはち、「復文」出来るやうになれば、
① 我非解中文者也。
② 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
③ 独逸非羅馬属州。
④ 我以善言葉導僕与其息子。
といふ「漢文」を、
① 我は、中文を解する者に非ざるなり。
② 我は、必ずしも常には中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
③ 独逸は、羅馬の属州に非ず。
④ 我、善言を以て僕と其の息子とを導く。
といふ風に、「読める」ことになる。
然るに、
(37)
20世紀の終はりか、21世紀の初めに、私の場合は、
1000 CLEAR ,,512/8,8*4
1010 DEFINT I-L:L=0
1020 DIM K$(L),N$(L),Y$(L)
1030 FOR I=1 TO L
1040 READ K$(I):READ N$(I):READ Y$(I)
1050 NEXT I
1060 LOCATE 0,12
1070 PRINT "「漢文の基礎、本文、練習」"
1080 PRINT
1090 PRINT " F デ 1カラ。else 白文";B$
1100 B$=INKEY$ :M=RND :IF B$="" THEN 1100
1110 PRINT
1120 PRINT " F デ 白文 else 復文";C$
1130 B$=INKEY$ :M=RND :IF B$="" THEN 1130
で始まり、
1790 *TATE
1800 LNGT=(LEN(AA$)/2)-1
1810 FOR II=2 TO LNGT
1820 BB=ASC(MID$(AA$,II*2-1,1))*256
1830 CC=ASC(MID$(AA$,II*2 ,1)):DD=AA+BB
1840 Y=Y+20
1850 IF DD=9008 THEN Y=-20 :X=X+2 :GOTO 1910
1860 IF DD=8567 THEN Y=-20: X=X+1 :GOTO 1910
1870 IF DD=8482 THEN Y=Y-16 :GOTO 1910
1880 IF DD=8483 THEN 1910
1890 IF Y+16>(400-16*0) THEN Y=0 :X=X+1
1900 PUT@(16*(XX-X),Y),KANJI(DD)
1910 NEXT II
1920 RETURN
といふ「サブルーチン」を含む所の、「自作のプログラム:N88-日本語BASIC(86)」を用ゐて、「640×400ドット」のCRT上に、
例へば、
⑤ 悪称人之悪者。
といふ「白文」を、「縦書き」で示しては、その、
⑤ 悪称人之悪者。を、
⑤ 人の悪を称する者をにくむ。
といふ風に、「訓読」し、
⑤ 人の悪を称する者をにくむ。
といふ「訓読」を、「縦書き」で示しては、その、
⑤ 人の悪を称する者をにくむ。を、
⑤ ヲショウジンシアクシャ。
といふ風に、「復文(音読)」することを、「趣味」にしてゐて、その「過程」で、例へば、
⑤ 悪下 称二 人之悪一 者上。
といふ「返り点」は、
⑤ 悪〔称(人之悪)者〕。
といふ「括弧」に等しい。といふことに、気付いた。
すなはち、
(38)
「受験参考書」の中に有る「漢文」を、「白文」に変へて、その「白文」を「訓読」する一方で、
「受験参考書」の中に有る「訓読」を、「口頭」で、「原文」に、「復文」してゐた。
然るに、
(39)
はじめに ― 復文の過去と現在 ―
復文は、書き下し文から漢文の原文を復元する学習法です。漢文に熟達するための捷径つまり早道として、江戸時代は元禄元年(1688)ごろから少なくとも戦前すなわち昭和二十年(1945)まで、ざっと二百六十年間にわたって活用されていた学習法です。― 中略 ―、けれども、復文をいう学習法は、戦後(1945‐)漢文教育が衰退してゆくとともに、その著しい有効性にもかかわらず、水準の高すぎる学習法として学校教育の現場で禁止され、しだいに消え失せてしまったのです。
(古田島洋介、これならわかる復文の要領、2017年、3頁改)
従って、
(35)~(39)により、
(40)
私がさうであるやうに、少しは、「白文」を「訓読」出来るやうになりたい方には、「白文」を「訓読」し、「訓読」を「音読(復文)」することを、勧めたい。
但し、
(41)
私自身は、図書館で見付けた、「古田島洋介、これならわかる復文の要領、2017年」を、まだ、読んではゐない。
従って、
(39)(40)(41)により、
(42)
「古田島洋介、これならわかる復文の要領、2017年」が、「良書」であるのか、さうでないのかは、分らないし、「復文」を行ふのであれば、「普通にある、参考書の、例文」をPCに入力して、
⑥ 我読書。 を、
⑥ 我、書を読む。 と読んで、
⑥ 我、書を読む。 を、
⑥ ガ、ドクショ。 と読めば、良い。
但し、
(43)
受験生の段階で、「復文」までやってゐたら、「他の科目」が、その分、「苦手」になるはずなので、「参考書」にある「基本的な例文(句形)」を、自分自身で、「返り点」の無い「白文」に書き換へて、その「白文」を、「訓読」出来るやうに、なれば良い。
平成30年01月08日、毛利太。
―「関連記事」―
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html)。
(β)「返り点」と「括弧」の条件。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)。
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ) :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html)。
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html)。
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html)。
(ζ)「返り点・モドキ」について。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)。
(η)「一二点・上下点」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)。
(θ)「括弧」の「順番」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)。
(ι)「返り点」の「付け方」を教へます。:(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)。
(κ)「括弧・返り点」の「読み方」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_7.html)。
(01)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 A B C D E F G
は、16個の、「17進数」であるとする。
従って、
(01)により、
(02)
1<2<3<4<5<6<7<8<9<A<B<C<D<E<F<G
である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 1642357。
に於いて、
① 1 の右側に、1 よりも「小さい数」は無い。
(04)
① 1642357。
に於いて、
① 6 の右側で、6 よりも「小さい数」は、
① (4235)である。
(05)
① 16(4235)7。
に於いて、
① 4 の右側で、4よりも「小さい数」は、
① (23)である。
(06)
① 16〔4(23)5〕7。
に於いて、
① 2 の右側に、2 よりも「小さい数」は無い。
(07)
① 16〔4(23)5〕7。
に於いて、
① 3 の右側に、3 よりも「小さい数」は無い。
(08)
① 16〔4(23)5〕7。
に於いて、
① 5 の右側に、5 よりも「小さい数」は無い。
従って、
(03)~(08)により、
(09)
① 16〔4(23)5〕7。
に於いて、
① 6〔 〕⇒〔 〕6
① 4( )⇒( )4
といふ「移動」を行ふと、
① 16〔4(23)5〕7⇒
① 1〔(23)45〕67=
① 1<2<3<4<5<6<7。
といふ「並び替へ(ソート)」が成立する。
然るに、
(10)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 非〔 〕⇒〔 〕非
① 解( )⇒( )解
といふ「移動」を行ふと、
① 我非〔解(中文)者〕也⇒
① 我〔(中文)解者〕非也=
① 我は〔(中文を)解する者に〕非ざる也=
① 私は中国語の文を理解する者ではないのである。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(01)~(09)により、
(11)
「同様なやり方」によって、
② 1F〈2D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉G。
に於いて、
② F〈 〉⇒〈 〉F
② D{ }⇒{ )D
② C[ ]⇒[ ]C
② 8〔 〕⇒〔 〕8
② 6( )⇒( )6
② B( )⇒( )B
といふ「移動」を行ふと、
② 1F〈2D{3C[8〔6(45)7〕B(9A)]}E〉G⇒
② 1〈2{3[〔(45)67〕8(9A)B]C}DE〉FG=
② 1<2<3<4<5<6<7<8<9<A<B<C<D<E<F<G。
といふ「並び替へ(ソート)」が成立する。
然るに、
(12)
② 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
② 非〈 〉⇒〈 〉非
② 不{ }⇒{ }不
② 求[ ]⇒[ ]求
② 以〔 〕⇒〔 〕以
② 解( )⇒( )解
② 解( )⇒( )解
といふ「移動」を行ふと、
② 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
② 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
② 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也=
② 私は必ずしも、常に、中国語の文を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようとしない者、ではないのである=
② 私は、時には、中国語の文を理解する方法を用ゐて、漢文を理解しようとする者なのである。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(09)(10)(11)(12)により、
(13)
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」に対して、
① 1 6 4 2 3 5 7。
② 1 F 2 D 3 C 8 6 4 5 7 B 9 A E G。
といふ「語順」を与へることは、
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」に対して、
① 我非〔解(中文)者〕也。
② 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「括弧」与へることに、「等しい」。
然るに、
(10)(12)により、
(14)
① 我非下 解二 中文一 者上 也。
② 我非地 必不丁 常求丙 以下 解二 中文一 法上 解乙 漢文甲 者天 也。
であるため、
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
に対する「返り点」は、
① 下 二 一 上
② 地 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
である。
然るに、
(15)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
① 我非〔解(中文)者〕也。
② 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於ける、
① 〔 ( ) 〕
② 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ( )]} 〉
といふ「括弧」は、
① 下 二 一 上
② 地 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
といふ「返り点」によって示される「訓読の語順」を表すと「同時に」、
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
といふ「漢文」の、「補足構造」を表してゐる。
然るに、
(17)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
然るに、
(18)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)
従って、
(17)(18)により、
(19)
括弧は、漢字の管到(スコープ)を明示する働きを持つ。管到(スコープ)は、漢字の意味が及ぶ範囲のことをいう。
従って、
(16)(19)により、
(20)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 我 の「意味」は、
① 非 を介して、
① 〔解(中文)者〕
に及んでゐる。
(21)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 非 の「意味」は、直接、
① 〔解(中文)者〕
に及んでゐる。
(22)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 解 の「意味」は、直接、
① 中文
に及んでゐる。
(23)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 中 の「意味」は、「連体修飾語」として、
① 文
に係ってゐる。
(24)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 解(中文) の「意味」は、「連体修飾句」として、
① 者
に係ってゐる。
(25)
① 我非〔解(中文)者〕也。
に於いて、
① 也 は、「語気詞」として、
① 我非〔解(中文)者〕
といふ「文全体」を、「断定」してゐる。
然るに、
(26)
gyoukou6_2_2008さん2012/9/1917:47:34
漢文(白文を書き下し文に)
白文を書き下すのって無理じゃないですか?
それとも何かコツでもあるんでしょうか?
どなたか教えて下さい。
(27)
kaede_flower_158432976さん2013/1/2002:09:54
【漢文】
白文が全く読めません…;
返り点と送り仮名がないと私は、本当に一文字も意味がわからないんです・・・
自分で白文に返り点・送り仮名をつける問題なんてしょっちゅう出てきますが、あんなのもってのほかです
どうしたら読めるでしょうか(ToT)
すみません、お願いします。。。
従って、
(13)(20)~(27)により、
(28)
gyoukou6_2_2008さんや、
kaede_flower_158432976さんが、仮に、
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
のやうな「白文」を、「全く、読めない」のであれば、
gyoukou6_2_2008さんと、
kaede_flower_158432976さんは、
① 我 非 解 中 文 者 也。
② 我 非 必 不 常 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 者 也。
に於いて、
①「左から順」に、それぞれの「 7個の、漢字の意味」が、「直接、あるいは、間接的に、どの漢字」にまで「及んでゐる」のか。
②「左から順」に、それぞれの「16個の、漢字の意味」が、「直接、あるいは、間接的に、どの漢字」にまで「及んでゐる」のか。
といふことが、「見て取れない」。といふことになる。
然るに、
(29)
③ 独逸非(羅馬属州)=ドイツはローマの属州に非ず。
④ 我以(善言葉)導〔僕与(其息子)〕=我、善き言葉を以て僕と其の息子とを導く。
とは、異なり、若かりし時に、両方とも挫折した、
③ Germania propvincia Romanorum non erat(ドイツはローマの属州ではなかった).
④ αγομεν τoυς δoυλoυς μετα των υιων αυτων λoγoις καλoις(我々は、その僕たちと彼等の息子たちを善い言葉で導く).
のやうな「言語(ラテン語とギリシャ語)」の場合は、「語順」ではなく、むしろ、「単語の形」が、「文法構造」を表してゐる。
すなはち、
(30)
④ αγομεν τoυς δoυλoυς μετα των υιων αυτων λoγoις καλoις.
に於いて、
④ δoυλoυς
といふ「それ」が、
④ δoυλoς δoυλoυ δoυλω δoυλoν δoυλε δoυλoι δoυλων δoυλoις
ではなく、
④ δoυλoυς
であるからこそ、
④ δoυλoυς は、
④ αγομεν の「目的語」である。といふことが、分る。
従って、
(29)(30)により、
(31)
④ δoυλoς δoυλoυ δoυλω δoυλoν δoυλε δoυλoι δoυλων δoυλoις
といふ「語形」ではなく、
④ δoυλoυς
といふ「語形」であるからこそ、
④ αγομεν τoυς δoυλoυς μετα των υιων αυτων λoγoις καλoις.
に於いて、
④ αγομεν といふ「動詞」の「意味」は、「語順」には、依存せずに、
④ τoυς δoυλoυς
に及んでゐる。
従って、
(29)~(31)により、
(32)
単語と単語との間の文法的関係を把握し、その意味を理解することが、その語形の変化や文法的な成分などによらずに、右のように、その文脈による全体的な直観にゆだねられていることが多いことは、単音節的・孤立的な言語としての漢語における大きなな特徴であるといわなければならない。漢語におけるこのような表現のしかたは、単語の間の関係を文法的な形式によって示すことを重んじている西欧の言語になれている人にとっては、まことに奇妙なことに思われるものと考えられる。カールグレン氏は、その著書《中国の言語》において、このような奇妙な孤立的な漢語の文法は、「非常に貧弱なものであり」、「漢語においては、文法的な分析は、あまり役に立たず、実際に役立つのは、広い読書を通じて習得した経験、つまり、中国人がどのようにして文をつくりあげているかということに対する感覚が、唯一のものである」と説き、更に、漢語の文の意味を理解するためには、「豊富な直観が、必要である」とも述べている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、293頁)。
といふ、ことになる。
従って、
(32)により、
(33)
「ラテン語やギリシャ語の文法」とは異なり、「漢文の文法」は、極言すると、「語順に対する、直感」だけである。
従って、
(01)~(33)により、
(34)
私の方が、
gyoukou6_2_2008さん
kaede_flower_158432976さんよりも、
① 我非解中文者也。
② 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
③ 独逸非羅馬属州。
④ 我以善言葉導僕与其息子。
といふ「漢文」の、
① 我非〔解(中文)者〕也。
② 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
③ 独逸非(羅馬属州)。
④ 我以(善言葉)導〔僕与(其息子)〕。
といふ「補足構造」を「把握」する上での「直観」が、「優れてゐる(豊富である)」。
といふ、ことになる。
然るに、
(35)
① 我非解中文者也。
② 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
③ 独逸非羅馬属州。
④ 我以善言葉導僕与其息子。
といふ「漢文」を書いたのは、私自身である。
従って、
(34)(35)により、
(36)
① 我は、中文を解する者に非ざるなり。
② 我は、必ずしも常には中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
③ 独逸は、羅馬の属州に非ず。
④ 我、善言を以て僕と其の息子とを導く。
といふ「訓読」を、
① 我非解中文者也。
② 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
③ 独逸非羅馬属州。
④ 我以善言葉導僕与其息子。
といふ風に、書けるやうになれば、すなはち、「復文」出来るやうになれば、
① 我非解中文者也。
② 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
③ 独逸非羅馬属州。
④ 我以善言葉導僕与其息子。
といふ「漢文」を、
① 我は、中文を解する者に非ざるなり。
② 我は、必ずしも常には中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
③ 独逸は、羅馬の属州に非ず。
④ 我、善言を以て僕と其の息子とを導く。
といふ風に、「読める」ことになる。
然るに、
(37)
20世紀の終はりか、21世紀の初めに、私の場合は、
1000 CLEAR ,,512/8,8*4
1010 DEFINT I-L:L=0
1020 DIM K$(L),N$(L),Y$(L)
1030 FOR I=1 TO L
1040 READ K$(I):READ N$(I):READ Y$(I)
1050 NEXT I
1060 LOCATE 0,12
1070 PRINT "「漢文の基礎、本文、練習」"
1080 PRINT
1090 PRINT " F デ 1カラ。else 白文";B$
1100 B$=INKEY$ :M=RND :IF B$="" THEN 1100
1110 PRINT
1120 PRINT " F デ 白文 else 復文";C$
1130 B$=INKEY$ :M=RND :IF B$="" THEN 1130
で始まり、
1790 *TATE
1800 LNGT=(LEN(AA$)/2)-1
1810 FOR II=2 TO LNGT
1820 BB=ASC(MID$(AA$,II*2-1,1))*256
1830 CC=ASC(MID$(AA$,II*2 ,1)):DD=AA+BB
1840 Y=Y+20
1850 IF DD=9008 THEN Y=-20 :X=X+2 :GOTO 1910
1860 IF DD=8567 THEN Y=-20: X=X+1 :GOTO 1910
1870 IF DD=8482 THEN Y=Y-16 :GOTO 1910
1880 IF DD=8483 THEN 1910
1890 IF Y+16>(400-16*0) THEN Y=0 :X=X+1
1900 PUT@(16*(XX-X),Y),KANJI(DD)
1910 NEXT II
1920 RETURN
といふ「サブルーチン」を含む所の、「自作のプログラム:N88-日本語BASIC(86)」を用ゐて、「640×400ドット」のCRT上に、
例へば、
⑤ 悪称人之悪者。
といふ「白文」を、「縦書き」で示しては、その、
⑤ 悪称人之悪者。を、
⑤ 人の悪を称する者をにくむ。
といふ風に、「訓読」し、
⑤ 人の悪を称する者をにくむ。
といふ「訓読」を、「縦書き」で示しては、その、
⑤ 人の悪を称する者をにくむ。を、
⑤ ヲショウジンシアクシャ。
といふ風に、「復文(音読)」することを、「趣味」にしてゐて、その「過程」で、例へば、
⑤ 悪下 称二 人之悪一 者上。
といふ「返り点」は、
⑤ 悪〔称(人之悪)者〕。
といふ「括弧」に等しい。といふことに、気付いた。
すなはち、
(38)
「受験参考書」の中に有る「漢文」を、「白文」に変へて、その「白文」を「訓読」する一方で、
「受験参考書」の中に有る「訓読」を、「口頭」で、「原文」に、「復文」してゐた。
然るに、
(39)
はじめに ― 復文の過去と現在 ―
復文は、書き下し文から漢文の原文を復元する学習法です。漢文に熟達するための捷径つまり早道として、江戸時代は元禄元年(1688)ごろから少なくとも戦前すなわち昭和二十年(1945)まで、ざっと二百六十年間にわたって活用されていた学習法です。― 中略 ―、けれども、復文をいう学習法は、戦後(1945‐)漢文教育が衰退してゆくとともに、その著しい有効性にもかかわらず、水準の高すぎる学習法として学校教育の現場で禁止され、しだいに消え失せてしまったのです。
(古田島洋介、これならわかる復文の要領、2017年、3頁改)
従って、
(35)~(39)により、
(40)
私がさうであるやうに、少しは、「白文」を「訓読」出来るやうになりたい方には、「白文」を「訓読」し、「訓読」を「音読(復文)」することを、勧めたい。
但し、
(41)
私自身は、図書館で見付けた、「古田島洋介、これならわかる復文の要領、2017年」を、まだ、読んではゐない。
従って、
(39)(40)(41)により、
(42)
「古田島洋介、これならわかる復文の要領、2017年」が、「良書」であるのか、さうでないのかは、分らないし、「復文」を行ふのであれば、「普通にある、参考書の、例文」をPCに入力して、
⑥ 我読書。 を、
⑥ 我、書を読む。 と読んで、
⑥ 我、書を読む。 を、
⑥ ガ、ドクショ。 と読めば、良い。
但し、
(43)
受験生の段階で、「復文」までやってゐたら、「他の科目」が、その分、「苦手」になるはずなので、「参考書」にある「基本的な例文(句形)」を、自分自身で、「返り点」の無い「白文」に書き換へて、その「白文」を、「訓読」出来るやうに、なれば良い。
平成30年01月08日、毛利太。
―「関連記事」―
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html)。
(β)「返り点」と「括弧」の条件。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)。
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ) :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html)。
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html)。
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html)。
(ζ)「返り点・モドキ」について。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)。
(η)「一二点・上下点」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)。
(θ)「括弧」の「順番」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)。
(ι)「返り点」の「付け方」を教へます。:(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)。
(κ)「括弧・返り点」の「読み方」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_7.html)。
2018年1月7日日曜日
「括弧・返り点」の「読み方」。
―「返り点」と「括弧」については、併せて、『「一二点・上下点」について(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)』他を、お読み下さい。―
(01)
① 読(書)。
に於いて、
① 読( )⇒( )
といふ「移動」を行ふと、
① 読(書)⇒
① (書)読=
① (書を)読む。
といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(02)
① 読(書)。
に於いて、
① ( )の中を読んだ後で、
① 読 を読んだとしても、
① (書を)読む。
といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(03)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 読(書)。
に於ける、
① ( )
といふ「括弧」は、
① 読書。
といふ「漢文」の、「補足構造」を示してゐる。
(05)
② 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
② 不〔 〕⇒〔 〕不
② 読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふと、
② 我不〔常読(漢文)〕⇒
② 我〔常(漢文)読〕不=
② 我〔常には(漢文を)読ま〕ず。
といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(06)
② 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
② 我 は、そのまま読み、
② 〔 〕の中を読んだ後で、
② 不 を、読み、
② 常 は、そのまま読み、
② ( )の中を読んだ後で、
② 読 を読むならば、
② 我常には(漢文を)読まず。
といふ「漢文訓読」が成立する。
従って、
(03)(05)(06)により、
(07)
② 我不〔常読(漢文)〕。
に於ける、
② 〔 ( )〕
といふ「括弧」は、
② 我不常読漢文。
といふ「漢文」の、「補足構造」を示してゐる。
然るに、
(08)
② 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
② 我 は、そのまま読み、
② 常 も、そのまま読む。
といふのであれば、わざわざ、
② 我 は、そのまま読み、
② 常 は、そのまま読み、
といふ風に、「書く」必要はない。
従って、
(07)(08)により、
(09)
② 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
② 不 は、〔 〕の中を読んだ後で、読み、
② 読 は、( )の中を読んだ後で、読むならば、
② 我常には(漢文を)読まず。
といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(10)
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於いて、
③ 使〈 〉⇒〈 〉使
③ 即( )⇒( )即
③ 莫{ }⇒{ }莫
③ 不[ ]⇒[ ]不
③ 因( )⇒( )因
③ 極( )⇒( )極
③ 求〔 〕⇒〔 〕求
③ 至( )⇒( )至
といふ「移動」を行ふと、
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
③ 是以大学始教必〈学者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
③ 是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
③ そのため、大学の教へを始める際には、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)ついて{[(その学者がすでに知っているの理に)依って、益々(これを)極め、以て〔(その極点に)至ることを〕求め]ないことが}無いやうに〉させる。
といふ「漢文訓読」が成立する。
従って、
(09)(10)により、
(11)
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於いて、
③ 使 は、〈 〉の中を読んだ後で、読み、
③ 即 は、( )の中を読んだ後で、読み、
③ 莫 は、{ }の中を読んだ後で、読み、
③ 不 は、[ ]の中を読んだ後で、読み、
③ 因 は、( )の中を読んだ後で、読み、
③ 極 は、( )の中を読んだ後で、読み、
③ 求 は、〔 〕の中を読んだ後で、読み、
③ 至 は、( )の中を読んだ後で、読むならば、
③ 是以大学始教必〈学者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
③ 是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ「漢文訓読」が成立する。
従って、
(03)(10)(11)により、
(12)
③ 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於ける、
③ 〈 ( ) { [ ( ) ( ) 〔 ( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の、「補足構造」を示してゐる。
従って、
(01)~(12)により、
(13)
① 読(書)。
② 我不〔常読(漢文)〕。
③ 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於ける、
① ( )
② 〔 ( )〕
③ 〈 ( ) { [ ( ) ( ) 〔 ( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
① 読書。
② 我不常読漢文。
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の、「補足構造」を示してゐると、「同時」に、
① 書を読む。
② 我、常には書を読まず。
③ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして、凡そ天下の物に即きて、其の已に知るの理に因って、益々、之を極め、以て、其の極に至るを求め不るを莫から使む。
といふ「訓読」の「語順」を示してゐる。
従って、
(13)により、
(14)
私自身は、「括弧」は、単なる「返り点」の「代用」であるとは、思ってはゐなくて、例へば、
① 読書。
② 我不常読漢文。
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」には、
① ( )
② 〔 ( ) 〕
③ 〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧(補足構造)」が「実在」する。といふ風に、思ってゐる。
然るに、
(15)
③ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
といふ「返り点」は、
③ 己乙 二二 一一 戊戊 丁丁 二二 一一 二二 一一 丙丙 乙乙 甲甲
といふ風に、「返り点」が付いてゐる「漢字」とする。
然るに、
(16)
③ 己〈二(一)戊{丁[二(一)二(一)丙〔乙(甲)〕]}〉。
に於いて、
③ 乙〈 〉⇒〈 〉乙
③ 二( )⇒( )二
③ 戊{ }⇒{ }戊
③ 丁[ ]⇒[ ]丁
③ 二( )⇒( )二
③ 二( )⇒( )二
③ 丙〔 〕⇒〔 〕丙
③ 乙( )⇒( )乙
といふ「移動」を行ふと、
③ 己〈二(一)戊{丁[二(一)二(一)丙〔乙(甲)〕]}〉⇒
③ 〈(一)二{[(一)二(一)二〔(甲)乙〕丙]丁}戊〉己。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
然るに、
(17)
従って、
(17)により、
(18)
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以、大学始教、必使己 学者即二 凡天下之物一、莫戊 不丁 因二 其已知之理一、而益々極二 之一、以求丙 至乙 乎其極甲。
に於いて、
③ 己 が付いてゐる「漢字」は、
③ 戊 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 二 が付いてゐる「漢字」は、
③ 一 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 戊 が付いてゐる「漢字」は、
③ 丁 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 二 が付いてゐる「漢字」は、
③ 一 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 丁 が付いてゐる「漢字」は、
③ 丙 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 二 が付いてゐる「漢字」は、
③ 一 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 二 が付いてゐる「漢字」は、
③ 一 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 丙 が付いてゐる「漢字」は、
③ 乙 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 乙 が付いてゐる「漢字」は、
③ 甲 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読むならば、
③ 是以、大学始教、必学者凡天下之物一 即二、其已知之理一 因二、而益々之一極二、以乎其極甲 至乙 求丙 不丁 莫戊 使己=
③ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして凡そ天下の物一に 即二きて、其の已に知るの理一に 因二りて、益々之一を 極二め、以て其の極甲に 至乙るを 求丙め 不丁るを、莫戊から 使己む。
といふ「漢文訓読」が成立する。
従って、
(15)~(17)により、
(19)
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以大学始教必使己 学者即二 凡天下之物一莫戊 不丁 因二 其已知之理一而益々極二 之一以求丙 至乙 乎其極甲⇒
③ 是以大学始教必学者凡天下之物一 即二其已知之理一 因二而益々之一極二以乎其極甲 至乙 求丙 不丁 莫戊 使己=
③ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして凡そ天下の物一に 即二きて、其の已に知るの理一に 因二りて、益々之一を 極二め、以て其の極甲に 至乙るを 求丙め 不丁るを、莫戊から 使己む。
に於ける。
③ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
といふ「返り点」も、
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の、「補足構造」を示してゐると、「同時」に、
③ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして、凡そ天下の物に即きて、其の已に知るの理に因って、益々、之を極め、以て、其の極に至るを求め不るを莫から使む。
といふ「訓読」の「語順」を示してゐる。
然るに、
(20)
「学校で習ふ、返り点」は、
③ 是以大学始教必使下 学者即二 凡天下之物一莫上レ 不下 因二 其已知之理一益々極レ 之以求上レ 至二 乎其極一。
に於ける、
③ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
であって
③ 是以大学始教必使己 学者即二 凡天下之物一莫戊 不丁 因二 其已知之理一而益々極二 之一以求丙 至乙 乎其極甲。
に於ける、
③ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
ではない。
然るに、
(18)により、
(21)
③ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」が示す「順番」を説明することは、
③ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
といふ「返り点」が示す「順番」を説明することよりも、「むずかしい」。
加へて、
(16)により、
(22)
③ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
であれば、
③ 己〈二(一)戊{丁[二(一)二(一)丙〔乙(甲)〕]}〉。
のやうに、「括弧」を加へることが、出来るものの、
③ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
に対しては、「括弧」を加へることが、出来ない。
従って、
(19)(22)により、
(23)
「学校で習ふ」ところの、
③ 是以大学始教必使下 学者即二 凡天下之物一莫上レ 不下 因二 其已知之理一益々極レ 之以求上レ 至二 乎其極一。
に於ける、
③ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」は、「補足構造」ではなく、「語順」を表してゐる。
然るに、
(03)により、
(24)
漢語における補足構造における語順は、国語とは全く反対である。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁改)
従って、
(23)(24)により、
(25)
「漢文の語順」を「国語の語順」に直すこと自体が、「漢文の補足構造」を示すことであって、それ故、
③ 是以大学始教必使下 学者即二 凡天下之物一莫上レ 不下 因二 其已知之理一益々極レ 之以求上レ 至二 乎其極一。
に於ける、
③ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」は、「語順」を表してゐると「同時」に、「不完全な形」で、「補足構造」を表してゐる。
然るに、
(26)
【定義】返り点とは、漢文すなわち古典中国語の語順を、日本語の語順に変換する符号である(古田島洋介、湯城吉信、漢文訓読入門、2011年、45頁)。
といふ【定義】には、「補足構造」といふ「言葉」が無く、それ故、【定義】としては、「一面的」であって、「十分」ではない。
従って、
(25)(26)により、
(27)
【定義】返り点とは、漢文すなわち古典中国語の「補足構造」を表すと同時に、古典中国語の語順を日本語の語順に変換する符号である。
とするのが、「正しい」。
然るに、
(28)
漢文にネイティブはいない『白文攻略 漢文法ひとり学び』
漢文は外国語。この当り前の事実に気づかないことが多い。ラテン語ならば動詞の活用や名詞の格変化を覚えなければならないから、たとえ欧米の高校生でも外国語だと意識する。ところが漢文では変化を暗記する必要がない。しかも日本では伝統的にレ点とか一二点といった符号をつけて読むので、漢文の学習が返り点の読み解き方に終始してしまう。あとはフィーリングで漢字を適当に解釈するものだから、いつまで経ても読めるようにならない(黒田龍之介、寝るまえ5分の外国語、2016年、194頁)。
(29)
まず「学習の前に」では、漢文を読むための基礎知識が紹介されている。はじめに漢文は自然言語を土台にして作り上げられた人口的な書記言語であることを確認する。話すのではなく、読んで書くために作られたのである(黒田龍之介、寝るまえ5分の外国語、2016年、194・195頁)。
従って、
(28)(29)により、
(30)
「漢文」は、ネイティブがゐない所の、「自然言語を土台にして作り上げられた人口的な書記言語」である。
従って、
(27)(30)により、
(31)
【定義】返り点とは、「人口的な書記言語」の「補足構造」を表すと同時に、「その言語の語順」を、「日本語の語順」に変換する符号である。
とするのが、「正しい」。
従って、
(31)により、
(32)
固より、「漢文(人工言語)」は、「中国語(chinese)」ではないし、
ここに上海で出版された非常に便利な『文言読本』の前書きの一、二行を引用したい。まず中国語の原文:「…我們認為、在名副其實的文言跟現代口語之間已有很大的距離。我們學習文言的時候應該多少採取一點學習外国語的態度和方法、一切從根本上做起、處處注意它踉現代口語的同異…」、敢えて日本語に翻訳すれば、次の意味になる:「本物の漢文と現代口語のあいだにはたいへん大きな距離があるとわれわれは思う。漢文を勉強する時、外国語を勉強するような態度と方法を取らねばならないものであって、すべて基礎より初め、ところどころ現代口語との相違に注意するべきである」。現代中国語と漢文(文言)を別々のものとして勉強するのは一番確かな方法である(Webサイト:二十一世紀の漢文-死語の将来、ジャン-ノエル ロベール、パリ国立高等研究院 教授)。
然るに、
(33)
古典を正しく理解するためには、訓読によるのではなく、まず中国語を学習して中国語音を身につけ、中国人と同様になる必要があると、主張する徂徠は、自らの学塾に岡島冠山を講師として招き、自身も冠山の指導のもと中国語を学んだ。
(続訓読論、川島優子 他、2010年、316頁)
従って、
(32)(33)により、
(34)
古典(漢文)を正しく理解するためには、訓読によるのではなく、まず中国語を学習して中国語音を身につけ、中国人と同様になる必要がある。
とする、荻生徂徠(1666~1728)の主張は、アテには、ならない。
従って、
(34)により、
(35)
支那の言語や文字を研究するのに、漢文と支那語の様な区別を設けてゐるのは、世界中、日本だけで、支那はもとより、ヨーロッパやアメリカで支那学を研究するにも、そんな意味のない区別など夢にも考へてゐない。西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。アメリカの大学で支那のことを研究する学生は、最初の年に現代語学現代文学を学び、次の年に歴史の書物を読み経書を習ふさうである(勉誠出版、「訓読」論、2008年、57頁)が故に、日本人もアメリカ人を見習ふべきである。
とする、倉石武四郎(1897~1975)の主張も、正しいとは、思へない。
平成30年01月07日、毛利太。
―「関連記事」―
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html)。
(β)「返り点」と「括弧」の条件。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)。
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ) :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html)。
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html)。
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html)。
(ζ)「返り点・モドキ」について。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)。
(η)「一二点・上下点」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)。
(θ)「括弧」の「順番」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)。
(ι)「返り点」の「付け方」を教へます。:(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)。
(01)
① 読(書)。
に於いて、
① 読( )⇒( )
といふ「移動」を行ふと、
① 読(書)⇒
① (書)読=
① (書を)読む。
といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(02)
① 読(書)。
に於いて、
① ( )の中を読んだ後で、
① 読 を読んだとしても、
① (書を)読む。
といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(03)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 読(書)。
に於ける、
① ( )
といふ「括弧」は、
① 読書。
といふ「漢文」の、「補足構造」を示してゐる。
(05)
② 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
② 不〔 〕⇒〔 〕不
② 読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふと、
② 我不〔常読(漢文)〕⇒
② 我〔常(漢文)読〕不=
② 我〔常には(漢文を)読ま〕ず。
といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(06)
② 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
② 我 は、そのまま読み、
② 〔 〕の中を読んだ後で、
② 不 を、読み、
② 常 は、そのまま読み、
② ( )の中を読んだ後で、
② 読 を読むならば、
② 我常には(漢文を)読まず。
といふ「漢文訓読」が成立する。
従って、
(03)(05)(06)により、
(07)
② 我不〔常読(漢文)〕。
に於ける、
② 〔 ( )〕
といふ「括弧」は、
② 我不常読漢文。
といふ「漢文」の、「補足構造」を示してゐる。
然るに、
(08)
② 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
② 我 は、そのまま読み、
② 常 も、そのまま読む。
といふのであれば、わざわざ、
② 我 は、そのまま読み、
② 常 は、そのまま読み、
といふ風に、「書く」必要はない。
従って、
(07)(08)により、
(09)
② 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
② 不 は、〔 〕の中を読んだ後で、読み、
② 読 は、( )の中を読んだ後で、読むならば、
② 我常には(漢文を)読まず。
といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(10)
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於いて、
③ 使〈 〉⇒〈 〉使
③ 即( )⇒( )即
③ 莫{ }⇒{ }莫
③ 不[ ]⇒[ ]不
③ 因( )⇒( )因
③ 極( )⇒( )極
③ 求〔 〕⇒〔 〕求
③ 至( )⇒( )至
といふ「移動」を行ふと、
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
③ 是以大学始教必〈学者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
③ 是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
③ そのため、大学の教へを始める際には、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)ついて{[(その学者がすでに知っているの理に)依って、益々(これを)極め、以て〔(その極点に)至ることを〕求め]ないことが}無いやうに〉させる。
といふ「漢文訓読」が成立する。
従って、
(09)(10)により、
(11)
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於いて、
③ 使 は、〈 〉の中を読んだ後で、読み、
③ 即 は、( )の中を読んだ後で、読み、
③ 莫 は、{ }の中を読んだ後で、読み、
③ 不 は、[ ]の中を読んだ後で、読み、
③ 因 は、( )の中を読んだ後で、読み、
③ 極 は、( )の中を読んだ後で、読み、
③ 求 は、〔 〕の中を読んだ後で、読み、
③ 至 は、( )の中を読んだ後で、読むならば、
③ 是以大学始教必〈学者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
③ 是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ「漢文訓読」が成立する。
従って、
(03)(10)(11)により、
(12)
③ 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於ける、
③ 〈 ( ) { [ ( ) ( ) 〔 ( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の、「補足構造」を示してゐる。
従って、
(01)~(12)により、
(13)
① 読(書)。
② 我不〔常読(漢文)〕。
③ 是以大学始教必使〈学者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
に於ける、
① ( )
② 〔 ( )〕
③ 〈 ( ) { [ ( ) ( ) 〔 ( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
① 読書。
② 我不常読漢文。
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の、「補足構造」を示してゐると、「同時」に、
① 書を読む。
② 我、常には書を読まず。
③ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして、凡そ天下の物に即きて、其の已に知るの理に因って、益々、之を極め、以て、其の極に至るを求め不るを莫から使む。
といふ「訓読」の「語順」を示してゐる。
従って、
(13)により、
(14)
私自身は、「括弧」は、単なる「返り点」の「代用」であるとは、思ってはゐなくて、例へば、
① 読書。
② 我不常読漢文。
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」には、
① ( )
② 〔 ( ) 〕
③ 〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧(補足構造)」が「実在」する。といふ風に、思ってゐる。
然るに、
(15)
③ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
といふ「返り点」は、
③ 己乙 二二 一一 戊戊 丁丁 二二 一一 二二 一一 丙丙 乙乙 甲甲
といふ風に、「返り点」が付いてゐる「漢字」とする。
然るに、
(16)
③ 己〈二(一)戊{丁[二(一)二(一)丙〔乙(甲)〕]}〉。
に於いて、
③ 乙〈 〉⇒〈 〉乙
③ 二( )⇒( )二
③ 戊{ }⇒{ }戊
③ 丁[ ]⇒[ ]丁
③ 二( )⇒( )二
③ 二( )⇒( )二
③ 丙〔 〕⇒〔 〕丙
③ 乙( )⇒( )乙
といふ「移動」を行ふと、
③ 己〈二(一)戊{丁[二(一)二(一)丙〔乙(甲)〕]}〉⇒
③ 〈(一)二{[(一)二(一)二〔(甲)乙〕丙]丁}戊〉己。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
然るに、
(17)
従って、
(17)により、
(18)
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以、大学始教、必使己 学者即二 凡天下之物一、莫戊 不丁 因二 其已知之理一、而益々極二 之一、以求丙 至乙 乎其極甲。
に於いて、
③ 己 が付いてゐる「漢字」は、
③ 戊 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 二 が付いてゐる「漢字」は、
③ 一 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 戊 が付いてゐる「漢字」は、
③ 丁 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 二 が付いてゐる「漢字」は、
③ 一 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 丁 が付いてゐる「漢字」は、
③ 丙 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 二 が付いてゐる「漢字」は、
③ 一 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 二 が付いてゐる「漢字」は、
③ 一 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 丙 が付いてゐる「漢字」は、
③ 乙 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読み、
③ 乙 が付いてゐる「漢字」は、
③ 甲 が付いてゐる「漢字」を読んだ後で読むならば、
③ 是以、大学始教、必学者凡天下之物一 即二、其已知之理一 因二、而益々之一極二、以乎其極甲 至乙 求丙 不丁 莫戊 使己=
③ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして凡そ天下の物一に 即二きて、其の已に知るの理一に 因二りて、益々之一を 極二め、以て其の極甲に 至乙るを 求丙め 不丁るを、莫戊から 使己む。
といふ「漢文訓読」が成立する。
従って、
(15)~(17)により、
(19)
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
③ 是以大学始教必使己 学者即二 凡天下之物一莫戊 不丁 因二 其已知之理一而益々極二 之一以求丙 至乙 乎其極甲⇒
③ 是以大学始教必学者凡天下之物一 即二其已知之理一 因二而益々之一極二以乎其極甲 至乙 求丙 不丁 莫戊 使己=
③ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして凡そ天下の物一に 即二きて、其の已に知るの理一に 因二りて、益々之一を 極二め、以て其の極甲に 至乙るを 求丙め 不丁るを、莫戊から 使己む。
に於ける。
③ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
といふ「返り点」も、
③ 是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の、「補足構造」を示してゐると、「同時」に、
③ 是を以て、大学の始教は、必ず学者をして、凡そ天下の物に即きて、其の已に知るの理に因って、益々、之を極め、以て、其の極に至るを求め不るを莫から使む。
といふ「訓読」の「語順」を示してゐる。
然るに、
(20)
「学校で習ふ、返り点」は、
③ 是以大学始教必使下 学者即二 凡天下之物一莫上レ 不下 因二 其已知之理一益々極レ 之以求上レ 至二 乎其極一。
に於ける、
③ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
であって
③ 是以大学始教必使己 学者即二 凡天下之物一莫戊 不丁 因二 其已知之理一而益々極二 之一以求丙 至乙 乎其極甲。
に於ける、
③ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
ではない。
然るに、
(18)により、
(21)
③ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」が示す「順番」を説明することは、
③ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
といふ「返り点」が示す「順番」を説明することよりも、「むずかしい」。
加へて、
(16)により、
(22)
③ 己 二 一 戊 丁 二 一 二 一 丙 乙 甲
であれば、
③ 己〈二(一)戊{丁[二(一)二(一)丙〔乙(甲)〕]}〉。
のやうに、「括弧」を加へることが、出来るものの、
③ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
に対しては、「括弧」を加へることが、出来ない。
従って、
(19)(22)により、
(23)
「学校で習ふ」ところの、
③ 是以大学始教必使下 学者即二 凡天下之物一莫上レ 不下 因二 其已知之理一益々極レ 之以求上レ 至二 乎其極一。
に於ける、
③ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」は、「補足構造」ではなく、「語順」を表してゐる。
然るに、
(03)により、
(24)
漢語における補足構造における語順は、国語とは全く反対である。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁改)
従って、
(23)(24)により、
(25)
「漢文の語順」を「国語の語順」に直すこと自体が、「漢文の補足構造」を示すことであって、それ故、
③ 是以大学始教必使下 学者即二 凡天下之物一莫上レ 不下 因二 其已知之理一益々極レ 之以求上レ 至二 乎其極一。
に於ける、
③ 下 二 一 上レ 下 二 一 レ 上レ 二 一
といふ「返り点」は、「語順」を表してゐると「同時」に、「不完全な形」で、「補足構造」を表してゐる。
然るに、
(26)
【定義】返り点とは、漢文すなわち古典中国語の語順を、日本語の語順に変換する符号である(古田島洋介、湯城吉信、漢文訓読入門、2011年、45頁)。
といふ【定義】には、「補足構造」といふ「言葉」が無く、それ故、【定義】としては、「一面的」であって、「十分」ではない。
従って、
(25)(26)により、
(27)
【定義】返り点とは、漢文すなわち古典中国語の「補足構造」を表すと同時に、古典中国語の語順を日本語の語順に変換する符号である。
とするのが、「正しい」。
然るに、
(28)
漢文にネイティブはいない『白文攻略 漢文法ひとり学び』
漢文は外国語。この当り前の事実に気づかないことが多い。ラテン語ならば動詞の活用や名詞の格変化を覚えなければならないから、たとえ欧米の高校生でも外国語だと意識する。ところが漢文では変化を暗記する必要がない。しかも日本では伝統的にレ点とか一二点といった符号をつけて読むので、漢文の学習が返り点の読み解き方に終始してしまう。あとはフィーリングで漢字を適当に解釈するものだから、いつまで経ても読めるようにならない(黒田龍之介、寝るまえ5分の外国語、2016年、194頁)。
(29)
まず「学習の前に」では、漢文を読むための基礎知識が紹介されている。はじめに漢文は自然言語を土台にして作り上げられた人口的な書記言語であることを確認する。話すのではなく、読んで書くために作られたのである(黒田龍之介、寝るまえ5分の外国語、2016年、194・195頁)。
従って、
(28)(29)により、
(30)
「漢文」は、ネイティブがゐない所の、「自然言語を土台にして作り上げられた人口的な書記言語」である。
従って、
(27)(30)により、
(31)
【定義】返り点とは、「人口的な書記言語」の「補足構造」を表すと同時に、「その言語の語順」を、「日本語の語順」に変換する符号である。
とするのが、「正しい」。
従って、
(31)により、
(32)
固より、「漢文(人工言語)」は、「中国語(chinese)」ではないし、
ここに上海で出版された非常に便利な『文言読本』の前書きの一、二行を引用したい。まず中国語の原文:「…我們認為、在名副其實的文言跟現代口語之間已有很大的距離。我們學習文言的時候應該多少採取一點學習外国語的態度和方法、一切從根本上做起、處處注意它踉現代口語的同異…」、敢えて日本語に翻訳すれば、次の意味になる:「本物の漢文と現代口語のあいだにはたいへん大きな距離があるとわれわれは思う。漢文を勉強する時、外国語を勉強するような態度と方法を取らねばならないものであって、すべて基礎より初め、ところどころ現代口語との相違に注意するべきである」。現代中国語と漢文(文言)を別々のものとして勉強するのは一番確かな方法である(Webサイト:二十一世紀の漢文-死語の将来、ジャン-ノエル ロベール、パリ国立高等研究院 教授)。
然るに、
(33)
古典を正しく理解するためには、訓読によるのではなく、まず中国語を学習して中国語音を身につけ、中国人と同様になる必要があると、主張する徂徠は、自らの学塾に岡島冠山を講師として招き、自身も冠山の指導のもと中国語を学んだ。
(続訓読論、川島優子 他、2010年、316頁)
従って、
(32)(33)により、
(34)
古典(漢文)を正しく理解するためには、訓読によるのではなく、まず中国語を学習して中国語音を身につけ、中国人と同様になる必要がある。
とする、荻生徂徠(1666~1728)の主張は、アテには、ならない。
従って、
(34)により、
(35)
支那の言語や文字を研究するのに、漢文と支那語の様な区別を設けてゐるのは、世界中、日本だけで、支那はもとより、ヨーロッパやアメリカで支那学を研究するにも、そんな意味のない区別など夢にも考へてゐない。西洋人が支那のことを研究するには、何よりも先き、支那の現代の言葉を学び、現代人の書く文章を読み、それから次第に順序を追うて、古い言葉で書いた書物を読んで、支那民族の文化の深淵を理解する。アメリカの大学で支那のことを研究する学生は、最初の年に現代語学現代文学を学び、次の年に歴史の書物を読み経書を習ふさうである(勉誠出版、「訓読」論、2008年、57頁)が故に、日本人もアメリカ人を見習ふべきである。
とする、倉石武四郎(1897~1975)の主張も、正しいとは、思へない。
平成30年01月07日、毛利太。
―「関連記事」―
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html)。
(β)「返り点」と「括弧」の条件。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)。
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ) :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html)。
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html)。
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html)。
(ζ)「返り点・モドキ」について。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)。
(η)「一二点・上下点」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)。
(θ)「括弧」の「順番」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)。
(ι)「返り点」の「付け方」を教へます。:(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)。
2018年1月6日土曜日
「返り点」を「横書き」で示す「方法」について。
―「返り点」と「括弧」については、『「一二点・上下点」について(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)』他を、お読み下さい。―
(01)
① 不常読漢文。
三 二 一
であれば、
① 不三常読二漢文一=常には漢文を読まず。
であるとする。
(02)
返り点は、「レ点」を含めて「字の下」につける(志村和久、漢文早わかり、1982年、11頁改)。
とはせずに、
「レ点」は、「下の字の上」につけ、その他の「一二点など」は「字の下」につける(原田種成、私の漢文講義、1995年、41頁改)。
とする。
従って、
(02)により、
(03)
レレレ
② 非不読書。
であれば、
② 非レ不レ読レ書=書を読ま不るに非ず。
である。
(04)
「一レ」という特殊な返り点があるわけではなく、「漢字の下につく、一」と「漢字の上につく、レ」が一緒になって、「一レ」の形となる(原田種成、私の漢文講義、1995年、41頁改)。
とする。
従って、
(04)により、
(05)
レ
③ 不常読書。
二 一
であれば、
③ 不二常読一レ書=常には書を読まず。
である。
(06)
④ 訓二読漢文一=漢文を訓‐読す。
のやうな場合は、
④ 訓‐読漢文。
二 一
といふ風に、「ハイフン(‐)」の下に、「二」を書くことにする。
従って、
(01)~(06)により、
(07)
であれば、
レレレ
① 不可不告。
レ
② 我聞鳥啼樹。
二 一
レ レ レ
③ 鳥獣不可与之同群。
二 一
レ
④ 不足為外人道也。
下二 一上
レ
⑤ 耕者不可以不益急矣。
三 二 一
レ レレ
⑥ 無友不如己者。
二 一
レ
⑦ 当世士大夫無不知有劉老人者。
下 二 一上
レレ レ レ
⑧ 聖人所不知未必不為愚人所知也。
二 一二 一
レレ レレ
⑨ 曽子之母非不知子不殺人也。
二 一
レ レ レ レ レ
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
乙 下二 一 上 甲
⑪ 欲取‐捨之。
三 二 一
⑫ 未嘗不嘆‐息痛‐恨於桓霊也。
五 四 二 三 一
といふ、ことになる。
(08)
レ レ レ レ レ
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
乙 下二 一 上 甲
などは、特にさうであるものの、かうした「書き方」は、初めて見る、私以外の方にとって、おそらくは、「読みにくい」。
しかしながら、
(09)
レ レ レ レ レ
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
乙 下二 一 上 甲
を、「縦に、並び替へ」れば、そのまま、
⑩
使
乙
籍
誠
不
下
以
二
畜
レ
子
憂
一
レ
寒
乱
上
レ
心
有
レ
財
以
済
甲
レ
薬
。
となって、すなはち、
⑩
使
乙
籍
誠
不
下
以
二
畜
レ
子
憂
一
レ
寒
乱
上
レ
心
有
レ
財
以
済
甲
レ
薬
。
といふ、ことになる。
従って、
(09)
HTMLが使へない「ヤフー知恵袋」などで、
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
といふ「漢文」に、「返り点」を付けて下さい。
といふ「質問」が有った際に、その質問者が、
レ レ レ レ レ
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
乙 下二 一 上 甲
といふ「書き方」を知ってゐてくれるのであれば、回答者としては、ずいぶんと、楽になる。
平成30年01月06日、毛利太。
―「関連記事」―
「返り点」の「付け方」を教へます。:(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)。
(01)
① 不常読漢文。
三 二 一
であれば、
① 不三常読二漢文一=常には漢文を読まず。
であるとする。
(02)
返り点は、「レ点」を含めて「字の下」につける(志村和久、漢文早わかり、1982年、11頁改)。
とはせずに、
「レ点」は、「下の字の上」につけ、その他の「一二点など」は「字の下」につける(原田種成、私の漢文講義、1995年、41頁改)。
とする。
従って、
(02)により、
(03)
レレレ
② 非不読書。
であれば、
② 非レ不レ読レ書=書を読ま不るに非ず。
である。
(04)
「一レ」という特殊な返り点があるわけではなく、「漢字の下につく、一」と「漢字の上につく、レ」が一緒になって、「一レ」の形となる(原田種成、私の漢文講義、1995年、41頁改)。
とする。
従って、
(04)により、
(05)
レ
③ 不常読書。
二 一
であれば、
③ 不二常読一レ書=常には書を読まず。
である。
(06)
④ 訓二読漢文一=漢文を訓‐読す。
のやうな場合は、
④ 訓‐読漢文。
二 一
といふ風に、「ハイフン(‐)」の下に、「二」を書くことにする。
従って、
(01)~(06)により、
(07)
であれば、
レレレ
① 不可不告。
レ
② 我聞鳥啼樹。
二 一
レ レ レ
③ 鳥獣不可与之同群。
二 一
レ
④ 不足為外人道也。
下二 一上
レ
⑤ 耕者不可以不益急矣。
三 二 一
レ レレ
⑥ 無友不如己者。
二 一
レ
⑦ 当世士大夫無不知有劉老人者。
下 二 一上
レレ レ レ
⑧ 聖人所不知未必不為愚人所知也。
二 一二 一
レレ レレ
⑨ 曽子之母非不知子不殺人也。
二 一
レ レ レ レ レ
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
乙 下二 一 上 甲
⑪ 欲取‐捨之。
三 二 一
⑫ 未嘗不嘆‐息痛‐恨於桓霊也。
五 四 二 三 一
といふ、ことになる。
(08)
レ レ レ レ レ
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
乙 下二 一 上 甲
などは、特にさうであるものの、かうした「書き方」は、初めて見る、私以外の方にとって、おそらくは、「読みにくい」。
しかしながら、
(09)
レ レ レ レ レ
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
乙 下二 一 上 甲
を、「縦に、並び替へ」れば、そのまま、
⑩
使
乙
籍
誠
不
下
以
二
畜
レ
子
憂
一
レ
寒
乱
上
レ
心
有
レ
財
以
済
甲
レ
薬
。
となって、すなはち、
⑩
使
乙
籍
誠
不
下
以
二
畜
レ
子
憂
一
レ
寒
乱
上
レ
心
有
レ
財
以
済
甲
レ
薬
。
といふ、ことになる。
従って、
(09)
HTMLが使へない「ヤフー知恵袋」などで、
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
といふ「漢文」に、「返り点」を付けて下さい。
といふ「質問」が有った際に、その質問者が、
レ レ レ レ レ
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
乙 下二 一 上 甲
といふ「書き方」を知ってゐてくれるのであれば、回答者としては、ずいぶんと、楽になる。
平成30年01月06日、毛利太。
―「関連記事」―
「返り点」の「付け方」を教へます。:(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)。
2018年1月3日水曜日
「返り点」の「付け方」を教へます。
―「返り点」と「括弧」については、併せて、『「一二点・上下点」について(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)』他を、お読み下さい。―
(01)
に於いて、
(Ⅰ)「青」で書かれてゐる漢字には、「返り点」が付かない。
(Ⅱ)「矣」は、「置き字(語気詞)」であるため、「読まない」。
(Ⅲ)「未」は、「いまだ(副詞)+不」からなる「再読文字」である。
(Ⅳ)⑫ の「取‐捨」には、「ハイフン(接続線)」が、付いてゐる。
従って、
(01)により、
(02)
① レ レ レ
② 二 一レ
③ レ 二 レ 一レ
④ レ 下 二 一 上
⑤ レ 三 二 一
⑥ レ 二 レ レ 一
⑦ 下 レ レ 二 一 上
⑧ レ レ 二 一レ 二 一レ
⑨ レ レ 二 一レ レ
⑩ 乙 下 二 レ 一レ 上レ レ 甲レ
⑪ レ 二‐ 一
⑫ レ ‐
といふ「レ点を含む、返り点」は、
① 四 三 二 一
② 三 二 一
③ 丁 丙 二 一 乙 甲
④ 下 中 二 一 上
⑤ 四 三 二 一
⑥ 下 三 二 一 上
⑦ 下 四 三 二 一 上
⑧ 三 二 一、五 四 三 二 一
⑨ 六 五 四 三 二 一
⑩ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天
⑪ 三 二 一
⑫ 三 二 一
といふ「レ点を含まない、返り点」に、「置き換へ」ることが、出来る。
然るに、
(03)
大学生に返り点を打たせると、レ点の原則違反から生じる誤りが大半をしめます。
(古田島洋介、これならわかる返り点、2009年、60頁)
従って、
(03)により、
(04)
「返り点は、レ点が有るからこそ難しい。」といふ、ことになる。
従って、
(02)(04)により、
(05)
① 不可不告。
② 我聞鳥啼樹。
③ 鳥獣不可与之同群。
④ 不足為外人道也。
⑤ 耕者不可以不益急矣。
⑥ 無友不如己者。
⑦ 当世士大夫無不知有劉老人者。
⑧ 聖人所不知未必不為愚人所知也。
⑨ 曽子之母非不知子不殺人也。
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
⑪ 欲取之。
⑫ 欲取捨之。
といふ「漢文」に対して、
① 四 三 二 一
② 三 二 一
③ 丁 丙 二 一 乙 甲
④ 下 中 二 一 上
⑤ 四 三 二 一
⑥ 下 三 二 一 上
⑦ 下 四 三 二 一 上
⑧ 三 二 一、五 四 三 二 一
⑨ 六 五 四 三 二 一
⑩ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天
⑪ 三 二 一
⑫ 三 二 一
といふ、「レ点を含まない、返り点」を、付けられないのであれば、固より、
① レ レ レ
② 二 一レ
③ レ 二 レ 一レ
④ レ 下 二 一 上
⑤ レ 三 二 一
⑥ レ 二 レ レ 一
⑦ 下 レ レ 二 一 上
⑧ レ レ 二 一レ 二 一レ
⑨ レ レ 二 一レ レ
⑩ 乙 下 二 レ 一レ 上レ レ 甲レ
⑪ レ レ
⑫ レ 二‐ 一
といふ、「レ点を含む、返り点」を、付けることは、出来ない。
従って、
(05)により、
(06)
① 四 三 二 一
② 三 二 一
③ 丁 丙 二 一 乙 甲
④ 下 中 二 一 上
⑤ 四 三 二 一
⑥ 下 三 二 一 上
⑦ 下 四 三 二 一 上
⑧ 三 二 一、五 四 三 二 一
⑨ 六 五 四 三 二 一
⑩ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天
⑪ 三 二 一
⑫ 二 一
といふ「レ点を含まない、返り点」を、「確実に、付けられる」やうになった「時点」で、それらの「返り点」を、(01)の「画像」を参考にして、
① レ レ レ
② 二 一レ
③ レ 二 レ 一レ
④ レ 下 二 一 上
⑤ レ 三 二 一
⑥ レ 二 レ レ 一
⑦ 下 レ レ 二 一 上
⑧ レ レ 二 一レ 二 一レ
⑨ レ レ 二 一レ レ
⑩ 乙 下 二 レ 一レ 上レ レ 甲レ
⑪ レ レ
⑫ 三 二 一
といふ「レ点を含む、返り点」に、「書き換へらる」やうに、すべきである。
(07)
① 不可不告。
の「訓読」は、
① 告げ不る可から不=告げざるべからず。
である。
従って、
(07)により、
(08)
① 不可不告。
に於いて、
① 告から、
① 不へ、返り、
① 不から、
① 可へ、返り、
① 可から、
① 不へ、返ってゐる。
従って、
(08)により、
(09)
① 不可不告 に付く「一二点」を、
① 不可不告。 の下に書くと、
① 四三二一 といふことになる。
然るに、
(10)
〔説明〕一字から一字へ返る時はレ点をつける。返り点は、字の左下につける。
(志村和久、漢文早わかり、1982年、11頁)
従って、
(01)(09)(10)により、
(11)
「学校で習ふ、返り点」として、志村先生の説に従ふと、
① 不可不告。
① レ レ レ
といふことになる。
然るに、
(12)
〔注意〕レ点は下の字に属して左肩につけ、その他の一二点などは字の左下につける。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、41頁)
従って、
(01)(09)(12)により、
(13)
「学校で習ふ、返り点」として、原田先生の説に従ふと、
① レ レ レ
① 不可不告。 といふことになる。
(14)
② 我聞鳥啼樹。
の「訓読」は、
② 我、鳥の樹に啼くを聞く。
である。
従って、
(14)により、
(15)
② 我聞鳥啼樹。
に於いて、
② 我 鳥 樹=我 鳥の 樹に
と読んだ上で、
② 樹から、
② 啼へ、返り、
② 啼から、
② 聞へ、返ってゐる。
従って、
(15)により、
(16)
② 聞 鳴樹 に付く「返り点」を、
② 我聞鳥啼樹。 の下に書くと、
② 三 二一 といふことになる。
(17)
③ 鳥獣不可与之同群。
の「訓読」は、
③ 鳥獣は之と与に群を同じくす可から不=鳥獣はこれとともに群を同じくすべからず。
である、
従って、
(17)により、
(18)
③ 鳥獣吾不可与之同群。
に於いて、
③ 鳥獣吾=鳥獣は、吾之と
と読んだ上で、
③ 之から、
③ 与へ、返り、
③ 群から、
③ 同へ、返り、
③ 同から、
③ 可へ、返り、
③ 可から、
③ 不へ、返ってゐる。
従って、
(18)により、
(19)
③ 不可与之同群 に付く「返り点」を、
③ 鳥獣吾不可与之同群。 の下に書くと、一応、
③ 六五二一四三 といふことになる。
然るに、
(20)
「返り点」とは、「縦書き」であれば、飽く迄も、「下から上へ、返る点」であるため、
「返り点」とは、「横書き」であれば、飽く迄も、「右から左へ、返る点」である。
従って、
(20)により、
(21)
③ 六五二一四三 に於ける、
③ 二 → 三
といふ「それ」は、「返り点」では、有り得ない。
然るに、
(22)
(3)上中下点(上・下、上・中・下)
レ点・一二点だけで示しきれない場合。必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、43頁)
従って、
(21)(22)により、
(23)
③ 六五二一四三 ではなく、
③ 囗下二一中上 でなければ、ならない。
然るに、
(24)
③ 上中下点=上、中、下。
であって、
③ 上中下点=上、中、下、囗
ではないため、
③ 囗下二一中上 でなければ、ならないとしても、
③ 囗 に相当する「上下点」は無い。
従って、
(22)(23)(24)により、
(25)
③「一二点」を挟んで、「三つ以上、返る」場合は、「上下点」ではなく、「甲乙点」を用ゐることになる。
従って、
(19)~(25)により、
(26)
③ 不可与之同群 に付く「返り点」を、
③ 鳥獣吾不可与之同群。 の下に書くと、
③ 丁丙二一乙甲 といふことになる。
(27)
④ 不足為外人道也。
の「訓読」は、
④ 外人の為に道ふに足ら不る也=外人のためにいふに足らざるなり。
である。
従って、
(27)により、
(28)
④ 不足為外人道也。
に於いて、
④ 外人の
と読んだ上で、
④ 人から、
④ 為へ、返り、
④ 道から、
④ 足へ、返り、
④ 足から、
④ 不へ、返ってゐる。
従って、
(22)(28)により、
(29)
④ 不足為 人道 に付く「返り点」を、
④ 不足為外人道也。 の下に書くと、
④ 下中二 一上 といふことになる。
(30)
⑤ 耕者不可以不益急矣。
の「訓読」は、
⑤ 耕す者、以て益々急なら不る可から不=耕す者、以て益々急ならざるべからず。
である。
従って、
(30)により、
(31)
⑤ 耕者不可以不益急矣。
に於いて、
⑤ 耕者 以 益急=耕す者、以て益々急なら
と読んだ上で、
⑤ 急から、
⑤ 不へ、返り、
⑤ 不から、
⑤ 可へ、返り、
⑤ 可から、
⑤ 不へ、返ってゐる。
従って、
(31)により、
(32)
⑤ 不可 不 急 に付く「返り点」を、
⑤ 耕者不可以不益急矣。 の下に書くと、
⑤ 四三 二 一 といふことになる。
(33)
⑥ 無友不如己者。
の「訓読」は、
⑥ 己に如か不る者を友とする無かれ=おのれにしかざる者を友とする無かれ。
である。
従って、
(33)により、
(34)
⑥ 無友不如己者。
に於いて、
⑥ 己に
と読んだ上で、
⑥ 己から、
⑥ 如へ、返り、
⑥ 如から、
⑥ 不へ、返り、
⑥ 者から、
⑥ 友へ、返り、
⑥ 無へ、返ってゐる。
従って、
(22)(34)により、
(35)
⑥ 無友不如己者 に付く「返り点」を、
⑥ 無友不如己者。 の下に書くと、
⑥ 下中三二一上 といふことになる。
(36)
⑦ 当世士大夫無不知有劉老人者。
の「訓読」は、
⑦ 当世の士大夫、劉老人有るを知ら不る者無し=とうせいのしたいふ、劉老人有るを知らざる者無し。
従って、
(36)により、
(37)
⑦ 当世士大夫無不知有劉老人者。
に於いて、
⑦ 当世士大夫 劉老人=当世の士大夫、劉老人
と読んだ上で、
⑦ 人から、
⑦ 有へ、返り、
⑦ 有から、
⑦ 知へ、返り、
⑦ 知から、
⑦ 不へ返り、
⑦ 者から、
⑦ 無へ、返ってゐる。
従って、
(22)(37)により、
(38)
⑦ 無不知有 人者 に付く「返り点」を、
⑦ 当世士大夫無不知有劉老人者。 の下に書くと、
⑦ 下四三二 一上 といふことになる。
(39)
⑧ 聖人所不知未必不為愚人所知也。
の場合は、
⑧ 聖人所不知 といふ「主語」と、
⑧ 未必不為愚人所知也。 といふ「述語」からなってゐる。
然るに、
(40)
⑧ 聖人所不知、
の「訓読」は、
⑧ 聖人の知ら不る所=聖人の知らざる所、
である。
従って、
(40)により、
(41)
⑧ 聖人所不知、
に於いて、
⑧ 聖人 知=聖人の知ら
と読んだ上で、
⑧ 知から、
⑧ 不へ、返り、
⑧ 所へ、返ってゐる。
(42)
⑧ 未必不為愚人所知也。
の「訓読」は、
⑧ 未だ必ずしも、愚人の知る所と為さ不んばあらざる也=いまだ必ずしも愚人の知る所となさずんばあらざるなり。
である。
然るに、
(43)
⑧ 未 の場合は、「漢字」としては、「一文字」であるが、「意味」としては、
⑧ 未=いまだ(副詞)+不
であって、尚且つ、
⑧ 未必不為愚人所知也。
⑧ いまだ(副詞)
に対しては、「返り点」が付かない。ものの、
⑧ 不
には、「返り点」が付く、
従って、
(44)
⑧ 未必不為愚人所知也。
に於いて、
⑧ 未必 愚人 知=いまだ必ずしも愚人の知る
と読んだ上で、
⑧ 知から、
⑧ 所へ、返り、
⑧ 所から、
⑧ 為へ、返り、
⑧ 為から、
⑧ 不へ、返り、
⑧ 不から、
⑧ 未=いまだ(副詞)+不
であるところの、
⑧ 不へ、返ってゐる。
従って、
(39)(41)(44)により、
(45)
⑧ 所不知未 不為 所知 に付く「返り点」を、
⑧ 聖人所不知未必不為愚人所知也。 の下に書くと、
⑧ 三二一、五四三 二一 といふことになる。
(46)
⑨ 曽子之母非不知子不殺人也。
の「訓読」は、
⑨ 曽子之母、子の人を殺さ不るを知ら不るに非ざる也=曽子の母、子の人を殺さざるを知らざるにあらざるなり。
である。
従って、
(46)により、
(47)
⑨ 曽子之母非不知子不殺人也。
に於いて。
⑨ 曽子之母 子 人=曽子の母、子の人を
と読んだ上で、
⑨ 人から、
⑨ 殺へ、返り、
⑨ 殺から、
⑨ 不へ、返り、
⑨ 不から、
⑨ 知へ、返り、
⑨ 知から、
⑨ 不へ、返り、
⑨ 不から、
⑨ 非へ、返ってゐる。
従って、
(47)により、
(48)
⑨ 非不知 不殺人 に付く「返り点」を、
⑨ 曽子之母非不知子不殺人也。 の下に書くと、
⑨ 六五四 三二一 といふことになる。
(49)
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
の「訓読」は、
⑩ 籍をして、誠に子を畜ひ寒さを憂ふるを以て心を乱さ不、財有りて以て薬を剤さ使む=籍をして、誠に子をやしなひ寒さを憂ふるを以て心を乱さず、財有りて以て薬をなさしむ。
である。
従って、
(49)により、
(50)
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
に於いて、
⑩ 使籍誠 子=籍をして誠に子を
と読んだ上で、
⑩ 子から、
⑩ 畜へ、返り、
⑩ 寒から、
⑩ 憂へ、返り、
⑩ 憂から、
⑩ 以へ、返り、
⑩ 心から、
⑩ 乱へ、返り、
⑩ 乱から、
⑩ 不へ、返り、
⑩ 財から、
⑩ 有へ、返り、
⑩ 以(返り点は付いてゐない)を読んで、
⑩ 薬から、
⑩ 使へ、返ってゐる。
然るに、
(51)
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・ ・ ・ ・ ・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅵ)天 地 人
に於いて、
(Ⅰ)を挟んで返る際には、
(Ⅱ)を用ゐ、
(Ⅱ)を挟んで返る際には、
(Ⅲ)を用ゐ、
(Ⅲ)を挟んで返る際には、
(Ⅳ)を用ゐる。
従って、
(50)(51)により、
(52)
⑩ 使 不以畜子憂寒乱心有財 済薬 に付く「返り点」を、
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。 の下に書くと、
⑩ 人 丙下二一中上乙甲二一 地天 といふことになる。
(53)
⑪ 欲取之。
の「訓読」は、
⑪ 之を取る=これをとる。
である。
従って、
(53)により、
(54)
⑪ 欲取之。
に於いて、
⑪ 欲取之=之を
と読んだ上で、
⑪ 之から、
⑪ 取へ、返り、
⑪ 取から、
⑪ 欲へ、返ってゐる。
従って、
(54)により、
(55)
⑪ 欲取之 に付く「返り点」を、
⑪ 欲取之。 の下に書くと、
⑪ 三二一 といふことになる。
(56)
⑫ 欲取‐捨之。
の「訓読」は、
⑫ 之を取捨せんと欲す=これを取捨せんとほっす。
である。
然るに、
(57)
⑫ 取‐捨 のような「熟語」の場合は、「二字」であっても、「一語」とみなす。
従って、
(55)(56)(57)により、
(58)
「レ点」は、「一語下の語」から「一語上の語」に返る際に、「上の字」の「下」に付く。
とするならば、
⑪ 欲取之。
⑪ レレ
であって、尚且つ、
⑫ 欲取‐捨之。
⑫ レ レ
でなければ、ならない。
然るに、
(59)
⑪ 欲取之。
⑪ レレ
ではあっても、
⑫ 欲取‐捨之。
⑫ レ レ
ではなく、
⑫ 欲取‐捨之。
⑫ レ 二 一
でもないし、何故か、
⑫ 欲取‐捨之。
⑫ 三 二 一
だけが、「正しい」と、されてゐる。
(60)
⑬ 登竜門。
の「訓読」は、
⑬ 竜門に登る。
である。
従って、
(60)により、
(61)
⑬ 登竜門。
に於いて、
⑬ 登竜門=竜門に
と読んだ上で、
⑬ 門から、
⑬ 登へ、返ってゐる。
従って、
(61)により、
(62)
⑬ 登 門 に付く「返り点」を、
⑬ 登竜門。 の下に書くと、
⑬ 二 一 といふことになる。
然るに、
(63)
たとえば「登竜門」を「竜門に登る」と訓読するならば、次のような「返り点」を打つこともあったのです。
【誤】登レ竜‐門
(古田島洋介、これならわかる返り点、2009年、58頁)
従って、
(62)(63)により、
(64)
⑬ 登竜‐門。
のやうな、
⑬ 動詞+補‐語。
の場合は、
⑬ 補‐語 に付く「ハイフン」は、「不要」である。
然るに、
(65)
⑫ 取‐捨之=之を取捨す。
⑫ 二 一
でなくて、
⑫ 取捨之。
⑫ レ
であるならば、
⑫ 取捨之=取りて之を捨てる。
といふ風に、読むことになるし、
⑫ 取捨之。
⑫ 二 一
であるならば、
⑫ 取捨之=捨てて之を取る。
といふ風に、読むことになる。
従って、
(59)(65)により、
(66)
⑫ 取‐捨之。
のやうな、
⑫ 動‐詞+補語。
の場合は、
⑫ 動‐詞 に付く「ハイフン」が、「必要」となる。
然るに、
(67)
ハイフンは初心者用の符号であって、入試問題ではついていないこともある。
(志村和久、漢文早わかり、1982年、14頁)
従って、
(65)(66)(67)により、
(68)
⑫ 取‐捨之=之を取捨す。
⑫ 二 一
であるものの、
⑫ 取捨之=之を取捨す。
⑫ 二 一
であることもあるため、「注意」しなければ、ならない。
従って、
(01)~(68)により、
(69)
① 告げ不る可から不。
② 我、鳥の樹に啼くを聞く。
③ 鳥獣は之と与に群を同じくす可から不。
④ 外人の為に道ふに足ら不る也。
⑤ 耕す者、以て益々急なら不る可から不。
⑥ 己に如か不る者を友とする無かれ。
⑦ 当世の士大夫、劉老人有るを知ら不る者無し。
⑧ 聖人の知らざる所、未だ必ずしも、愚人の知る所と為さ不んばあらざる也。
⑨ 曽子之母、子の人を殺さ不るを知ら不るに非ざる也。
⑩ 籍をして、誠に子を畜ひ寒さを憂ふるを以て心を乱さ不、財有りて以て薬を剤さ使む。
⑪ 之を取らんと欲す。
⑫ 之を取捨せんと欲す。
といふ「訓読」に基づき、
① 不可不告。
② 我聞鳥啼樹。
③ 鳥獣不可与之同群。
④ 不足為外人道也。
⑤ 耕者不可以不益急矣。
⑥ 無友不如己者。
⑦ 当世士大夫無不知有劉老人者。
⑧ 聖人所不知未必不為愚人所知也。
⑨ 曽子之母非不知子不殺人也。
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
⑪ 欲取之。
⑫ 欲取捨之。
といふ「漢文」に対して、
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・ ・ ・ ・ ・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅵ)天 地 人
といふ、「レ点を含まない、返り点」を付けると、
といふ、ことになる。
然るに。
(70)
同じく、
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・ ・ ・ ・ ・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅵ)天 地 人
(Ⅴ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ
といふ、「レ点を含む、返り点」を付けると、
といふ、ことになり、「学校で習ふ、返り点」としては、「これ」が、「正しい、返り点」である。
然るに、
(71)
① 不可不告。
② 我聞鳥啼樹。
③ 鳥獣不可与之同群。
④ 不足為外人道也。
⑤ 耕者不可以不益急矣。
⑥ 無友不如己者。
⑦ 当世士大夫無不知有劉老人者。
⑧ 聖人所不知未必不為愚人所知也。
⑨ 曽子之母非不知子不殺人也。
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
⑪ 欲取之。
⑫ 欲取‐捨之。
に対して、「括弧」を加へると、次のやうになる。
① 不[可〔不(告)〕]。
② 我聞〔鳥啼(樹)〕。
③ 鳥獣不[可〔与(之)同(群)〕]。
④ 不[足〔為(外人)道〕]也。
⑤ 耕者不[可〔以不(益急)〕]矣。
⑥ 無{友[不〔如(己)者〕]}。
⑦ 当世士大夫無{不[知〔有(劉老人)〕]者}。
⑧ 聖人所〔不(知)〕未{必不[為〔愚人所(知)〕]}也。
⑨ 曽子之母非〈 不{知[子不〔殺(人)〕]}〉也。
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(子)憂(寒)〕乱(心)]有(財)以済(薬)}。
⑪ 欲〔取(之)〕。
⑫ 欲〔取‐捨(之)〕。
然るに、
(72)
例へば、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
に於いて、
⑩ 使{ }⇒{ }使
⑩ 不[ ]⇒[ ]不
⑩ 以〔 〕⇒〔 〕以
⑩ 畜( )⇒( )畜
⑩ 憂( )⇒( )憂
⑩ 乱( )⇒( )乱
⑩ 有( )⇒( )有
⑩ 済( )⇒( )済
といふ「移動」を行ふと、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}⇒
⑩ {籍誠[〔(妻子)畜(飢寒)憂〕以(良心)乱]不(銭財)有以(医薬)済}使=
⑩ {籍をして誠に[〔(妻子を)畜ひ(飢寒を)憂ふるを〕以て(良心を)乱さ]不(銭財)有りて以て(医薬を)済さ}使む。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
従って、
(72)により、
(73)
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
であるとして、「左から順」に、
⑩ 使{ }に於ける、使 は、{ }の中を「読んだ後で、読む」。
⑩ 不[ ]に於ける、不 は、[ ]の中を「読んだ後で、読む」。
⑩ 以〔 〕に於ける、以 は、〔 〕の中を「読んだ後で、読む」。
⑩ 畜( )に於ける、畜 は、( )の中を「読んだ後で、読む」。
⑩ 憂( )に於ける、憂 は、( )の中を「読んだ後で、読む」。
⑩ 乱( )に於ける、乱 は、( )の中を「読んだ後で、読む」。
⑩ 有( )に於ける、有 は、( )の中を「読んだ後で、読む」。
⑩ 済( )に於ける、済 は、( )の中を「読んだ後で、読む」。
とするならば、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
といふ「語順」を、
⑩ {籍誠[〔(妻子)畜(飢寒)憂〕以(良心)乱]不(銭財)有以(医薬)済}使=
⑩ {籍をして誠に[〔(妻子を)畜ひ(飢寒を)憂ふるを〕以て(良心を)乱さ]不(銭財)有りて以て(医薬を)済さ}使む。
といふ「順番」で、「左から右へ」読んでゐるに、「等しい」。
従って、
(73)により、
(74)
例へば、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
に於ける、
⑩ { [ 〔 ( ) ( )〕 ( )] ( ) ( )}
といふ「括弧」は、
⑩ 使人籍誠不丙以下畜二妻子一憂中飢寒上乱乙良心甲有二銭財一以済地医薬天。
に於ける、
⑩ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天。
といふ「返り点」に、「相当」する。
然るに、
(75)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(72)~(75)により、
(76)
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有銭財以済医薬。
といふ「漢文」には、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
といふ「補足構造」が有って、
⑩ 籍をして、誠に妻子を畜ひ飢寒を憂ふるを以て良心を乱さ不、銭財有りて以て医薬を剤さ使む。
といふ「国語」には、
⑩ {籍をして誠に[〔(妻子を)畜ひ(飢寒を)憂ふるを〕以て(良心を)乱さ]不(銭財)有りて以て(医薬を)済さ}使む。
といふ「補足構造」が有る。が故に、
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済薬=
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
に於いて、
⑩ 使{ }⇒{ }使
⑩ 不[ ]⇒[ ]不
⑩ 以〔 〕⇒〔 〕以
⑩ 畜( )⇒( )畜
⑩ 憂( )⇒( )憂
⑩ 乱( )⇒( )乱
⑩ 有( )⇒( )有
⑩ 済( )⇒( )済
といふ「移動」を行ふと、
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済薬=
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}⇒
⑩ {籍誠[〔(妻子)畜(飢寒)憂〕以(良心)乱]不(銭財)有以(医薬)済}使=
⑩ {籍をして誠に[〔(妻子を)畜ひ(飢寒を)憂ふるを〕以て(良心を)乱さ]不(銭財)有りて以て(医薬を)済さ}使む。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
といふ、ことなる。
従って、
(74)(76)により、
(77)
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
に於ける、
⑩ { [ 〔 ( ) ( )〕 ( )] ( ) ( )}
といふ「括弧」は、
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済薬。
といふ「漢文」の、「補足構造」を表すと、「同時」に、
⑩ 籍をして誠に妻子を畜ひ飢寒を憂ふるを以て良心を乱さず銭財有りて以て医薬を済さ使む。
といふ「訓読」の「語順」を表してゐる。
然るに、
(78)
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済薬。
といふ「漢文」を、
⑩ シセキセイフイチクサイシキカンランリョウシンユウセンザイイサイイヤク。
といふ風に、「音読」するだけならば、「漢文」を一切、学んだことの無い、「帰国子女のA君」にも出来るはずである。
加へて、
(79)
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有銭財以済医薬。
といふ「漢文」を、
⑩ Shǐ jí chéng bù yǐ chù qīzi yōu jīhán luàn liángxīn yǒu qián cái yǐ jì yīyào.
といふ風に、「音読」するだけならば、「グーグル翻訳(AI)」であっても、可能である。
然るに、
(77)により、
(80)
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済薬。
といふ「漢文」を、
⑩ 籍をして誠に妻子を畜ひ飢寒を憂ふるを以て良心を乱さず銭財有りて以て医薬を済さ使む。
といふ風に、「訓読」するためには、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
といふ「補足構造」を、「把握」してゐなければ、ならない。
然るに、
(81)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
然るに、
(82)
どこまで管到して(かかって)ゐるか。
といふことであれば、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
に於ける、
⑩ 使 は、{籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有銭財以済医薬}に管到して(かかって)ゐて、
⑩ 不 は、[以畜妻子憂飢寒乱良心]に管到して(かかって)ゐて、
⑩ 以 は、〔畜妻子憂飢寒〕に管到して(かかって)ゐて、
⑩ 畜 は、(妻子)に管到して(かかって)ゐて、
⑩ 乱 は、(良心)に管到して(かかって)ゐて、
⑩ 有 は、(銭財)に管到して(かかって)ゐて、
⑩ 済 は、(医薬)に管到して(かかって)ゐる。
従って、
(77)~(82)により、
(83)
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済薬。
といふ「漢文」を、「読解」するためには、
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済薬。
といふ「漢文」の、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
といふ「補足構造(管到)」を「把握」出来なければならないし、その為には、
⑩ 使人籍誠不丙以下畜二妻子一憂中飢寒上乱乙良心甲有二銭財一以済地医薬天。
に於ける、
⑩ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天。
といふ「返り点」が、「有効」である。
といふ風に、「博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君」が、述べてゐる。
加へて、
(84)
また、本書を訳してみて、日本における漢文読解の方法としての訓読の威力を痛感した。こころみに本書を英訳したとしても、専門家以外の人にわかるように訳すことは至難の技であると思われるが、原文と書下し文を並べるだけで、一般の日本人には、著者の中国人に対して述べている内容がほぼ正確に伝達されるのである。これを現代日本語訳を並べただけでは、もう一つ別の手立てを必要とする。訓読については功罪それぞれ議論があるが、訳者としてはたいそう助かったといえる。
(鮑善淳 著、増田栄次 訳、漢文をどう読みこなすか、1995年、238頁)
従って、
(83)(84)により、
(85)
日本人が、独学で、「漢文」を読めるやうになるためには、「漢文訓読法」以外には、現実には有り得ないはずであるが、然るに、
かつて漢文学科だった学科や漢文学専攻は、いま、そのほとんすべてが中国文学科や中国文学専攻になってしまっている。そこでは、当然、中国語も履修することになっていて、そこで学んだ方々は、古代の中国文も現代の中国音で発音できるし、またそういう出身の先生は、得意げにそういうように読んでも聞かせたりするもののようである。そこで、日本文学科出身の国語科の先生や、教育学部の国語専修などの出身の先生は、漢文は嫌いではないのだが、生徒からなにか、偽者のように思われて辛い、と聞くことがあったりするのである(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、36頁)。との、ことである。
然るに、
(81)(85)により、
(86)
中国の某君でさえ、「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。」と言ってゐるのだから、「古代の中国文も現代の中国音で発音できるし、またそういう出身の先生は、得意げにそういうように読んでも聞かせたりする。」といふのであれば、アホらしい。としか、言ひやうが無い。
然るに、
(87)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる。 (『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)
然るに、
(88)
「漢文訓読」に関する「書籍」は、「いくらでも有る」のに対して、昭和5年を去ること、約90年の今に至っても、「中国語の現代の発音による、漢文の、読み方」に関する、「日本語の、書籍」は、寡聞にして、一冊、知らない。
従って、
(85)(87)(88)により、
(89)
昭和5年に、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られて、試みた所の「漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにする」方法は、88年後の「大学の外にゐる日本人」に対して、「何も、教へてない」。
従って、
(89)により、
(90)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
といふ、西洋文化研究者の見解は、マチガイである。
(91)
漢語におけるこのような表現のしかたは、単語の間の関係を文法的な形式によって示すことを重んじている西欧の言語になれている人にとっては、まことに奇妙なことに思われるものと考えられる。カールグレン氏は、その著書《中国の言語》において、このような奇妙な孤立的な漢語の文法は、「非常に貧弱なものであり」、「漢語においては、文法的な分析は、あまり役に立たず、実際に役立つのは、広い読書を通じて習得した経験、つまり、中国人がどのようにして文をつくりあげているかということに対する感覚が、唯一のものである」と説き、更に、漢語の文の意味を理解するためには、「豊富な直観が、必要である」とも述べている。
(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、293頁)
従って、
(90)(91)により、
(92)
「漢文」と、「ラテン語」のやうな「西洋の言語」とを、「同列」に論じるべきではない。
(93)
門外漢の私には、本当かどうか、分からないものの、
専門家と称する人たちの大部分、99.9パーセントは(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである。これは厳たる事実である。といって悲しむ必要はない。なにも「外国語として理解」するということが最上の方法だとはいえないからである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、62頁)。 とのことである。
平成30年01月03日、毛利太。
―「関連記事」―
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html)。
(β)「返り点」と「括弧」の条件。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)。
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ):(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html)。
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html)。
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。:(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html)。
(ζ)「返り点・モドキ」について。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)。
(η)「一二点・上下点」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)。
(θ)「括弧」の「順番」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)。
(01)
に於いて、
(Ⅰ)「青」で書かれてゐる漢字には、「返り点」が付かない。
(Ⅱ)「矣」は、「置き字(語気詞)」であるため、「読まない」。
(Ⅲ)「未」は、「いまだ(副詞)+不」からなる「再読文字」である。
(Ⅳ)⑫ の「取‐捨」には、「ハイフン(接続線)」が、付いてゐる。
従って、
(01)により、
(02)
① レ レ レ
② 二 一レ
③ レ 二 レ 一レ
④ レ 下 二 一 上
⑤ レ 三 二 一
⑥ レ 二 レ レ 一
⑦ 下 レ レ 二 一 上
⑧ レ レ 二 一レ 二 一レ
⑨ レ レ 二 一レ レ
⑩ 乙 下 二 レ 一レ 上レ レ 甲レ
⑪ レ 二‐ 一
⑫ レ ‐
といふ「レ点を含む、返り点」は、
① 四 三 二 一
② 三 二 一
③ 丁 丙 二 一 乙 甲
④ 下 中 二 一 上
⑤ 四 三 二 一
⑥ 下 三 二 一 上
⑦ 下 四 三 二 一 上
⑧ 三 二 一、五 四 三 二 一
⑨ 六 五 四 三 二 一
⑩ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天
⑪ 三 二 一
⑫ 三 二 一
といふ「レ点を含まない、返り点」に、「置き換へ」ることが、出来る。
然るに、
(03)
大学生に返り点を打たせると、レ点の原則違反から生じる誤りが大半をしめます。
(古田島洋介、これならわかる返り点、2009年、60頁)
従って、
(03)により、
(04)
「返り点は、レ点が有るからこそ難しい。」といふ、ことになる。
従って、
(02)(04)により、
(05)
① 不可不告。
② 我聞鳥啼樹。
③ 鳥獣不可与之同群。
④ 不足為外人道也。
⑤ 耕者不可以不益急矣。
⑥ 無友不如己者。
⑦ 当世士大夫無不知有劉老人者。
⑧ 聖人所不知未必不為愚人所知也。
⑨ 曽子之母非不知子不殺人也。
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
⑪ 欲取之。
⑫ 欲取捨之。
といふ「漢文」に対して、
① 四 三 二 一
② 三 二 一
③ 丁 丙 二 一 乙 甲
④ 下 中 二 一 上
⑤ 四 三 二 一
⑥ 下 三 二 一 上
⑦ 下 四 三 二 一 上
⑧ 三 二 一、五 四 三 二 一
⑨ 六 五 四 三 二 一
⑩ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天
⑪ 三 二 一
⑫ 三 二 一
といふ、「レ点を含まない、返り点」を、付けられないのであれば、固より、
① レ レ レ
② 二 一レ
③ レ 二 レ 一レ
④ レ 下 二 一 上
⑤ レ 三 二 一
⑥ レ 二 レ レ 一
⑦ 下 レ レ 二 一 上
⑧ レ レ 二 一レ 二 一レ
⑨ レ レ 二 一レ レ
⑩ 乙 下 二 レ 一レ 上レ レ 甲レ
⑪ レ レ
⑫ レ 二‐ 一
といふ、「レ点を含む、返り点」を、付けることは、出来ない。
従って、
(05)により、
(06)
① 四 三 二 一
② 三 二 一
③ 丁 丙 二 一 乙 甲
④ 下 中 二 一 上
⑤ 四 三 二 一
⑥ 下 三 二 一 上
⑦ 下 四 三 二 一 上
⑧ 三 二 一、五 四 三 二 一
⑨ 六 五 四 三 二 一
⑩ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天
⑪ 三 二 一
⑫ 二 一
といふ「レ点を含まない、返り点」を、「確実に、付けられる」やうになった「時点」で、それらの「返り点」を、(01)の「画像」を参考にして、
① レ レ レ
② 二 一レ
③ レ 二 レ 一レ
④ レ 下 二 一 上
⑤ レ 三 二 一
⑥ レ 二 レ レ 一
⑦ 下 レ レ 二 一 上
⑧ レ レ 二 一レ 二 一レ
⑨ レ レ 二 一レ レ
⑩ 乙 下 二 レ 一レ 上レ レ 甲レ
⑪ レ レ
⑫ 三 二 一
といふ「レ点を含む、返り点」に、「書き換へらる」やうに、すべきである。
(07)
① 不可不告。
の「訓読」は、
① 告げ不る可から不=告げざるべからず。
である。
従って、
(07)により、
(08)
① 不可不告。
に於いて、
① 告から、
① 不へ、返り、
① 不から、
① 可へ、返り、
① 可から、
① 不へ、返ってゐる。
従って、
(08)により、
(09)
① 不可不告 に付く「一二点」を、
① 不可不告。 の下に書くと、
① 四三二一 といふことになる。
然るに、
(10)
〔説明〕一字から一字へ返る時はレ点をつける。返り点は、字の左下につける。
(志村和久、漢文早わかり、1982年、11頁)
従って、
(01)(09)(10)により、
(11)
「学校で習ふ、返り点」として、志村先生の説に従ふと、
① 不可不告。
① レ レ レ
といふことになる。
然るに、
(12)
〔注意〕レ点は下の字に属して左肩につけ、その他の一二点などは字の左下につける。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、41頁)
従って、
(01)(09)(12)により、
(13)
「学校で習ふ、返り点」として、原田先生の説に従ふと、
① レ レ レ
① 不可不告。 といふことになる。
(14)
② 我聞鳥啼樹。
の「訓読」は、
② 我、鳥の樹に啼くを聞く。
である。
従って、
(14)により、
(15)
② 我聞鳥啼樹。
に於いて、
② 我 鳥 樹=我 鳥の 樹に
と読んだ上で、
② 樹から、
② 啼へ、返り、
② 啼から、
② 聞へ、返ってゐる。
従って、
(15)により、
(16)
② 聞 鳴樹 に付く「返り点」を、
② 我聞鳥啼樹。 の下に書くと、
② 三 二一 といふことになる。
(17)
③ 鳥獣不可与之同群。
の「訓読」は、
③ 鳥獣は之と与に群を同じくす可から不=鳥獣はこれとともに群を同じくすべからず。
である、
従って、
(17)により、
(18)
③ 鳥獣吾不可与之同群。
に於いて、
③ 鳥獣吾=鳥獣は、吾之と
と読んだ上で、
③ 之から、
③ 与へ、返り、
③ 群から、
③ 同へ、返り、
③ 同から、
③ 可へ、返り、
③ 可から、
③ 不へ、返ってゐる。
従って、
(18)により、
(19)
③ 不可与之同群 に付く「返り点」を、
③ 鳥獣吾不可与之同群。 の下に書くと、一応、
③ 六五二一四三 といふことになる。
然るに、
(20)
「返り点」とは、「縦書き」であれば、飽く迄も、「下から上へ、返る点」であるため、
「返り点」とは、「横書き」であれば、飽く迄も、「右から左へ、返る点」である。
従って、
(20)により、
(21)
③ 六五二一四三 に於ける、
③ 二 → 三
といふ「それ」は、「返り点」では、有り得ない。
然るに、
(22)
(3)上中下点(上・下、上・中・下)
レ点・一二点だけで示しきれない場合。必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、43頁)
従って、
(21)(22)により、
(23)
③ 六五二一四三 ではなく、
③ 囗下二一中上 でなければ、ならない。
然るに、
(24)
③ 上中下点=上、中、下。
であって、
③ 上中下点=上、中、下、囗
ではないため、
③ 囗下二一中上 でなければ、ならないとしても、
③ 囗 に相当する「上下点」は無い。
従って、
(22)(23)(24)により、
(25)
③「一二点」を挟んで、「三つ以上、返る」場合は、「上下点」ではなく、「甲乙点」を用ゐることになる。
従って、
(19)~(25)により、
(26)
③ 不可与之同群 に付く「返り点」を、
③ 鳥獣吾不可与之同群。 の下に書くと、
③ 丁丙二一乙甲 といふことになる。
(27)
④ 不足為外人道也。
の「訓読」は、
④ 外人の為に道ふに足ら不る也=外人のためにいふに足らざるなり。
である。
従って、
(27)により、
(28)
④ 不足為外人道也。
に於いて、
④ 外人の
と読んだ上で、
④ 人から、
④ 為へ、返り、
④ 道から、
④ 足へ、返り、
④ 足から、
④ 不へ、返ってゐる。
従って、
(22)(28)により、
(29)
④ 不足為 人道 に付く「返り点」を、
④ 不足為外人道也。 の下に書くと、
④ 下中二 一上 といふことになる。
(30)
⑤ 耕者不可以不益急矣。
の「訓読」は、
⑤ 耕す者、以て益々急なら不る可から不=耕す者、以て益々急ならざるべからず。
である。
従って、
(30)により、
(31)
⑤ 耕者不可以不益急矣。
に於いて、
⑤ 耕者 以 益急=耕す者、以て益々急なら
と読んだ上で、
⑤ 急から、
⑤ 不へ、返り、
⑤ 不から、
⑤ 可へ、返り、
⑤ 可から、
⑤ 不へ、返ってゐる。
従って、
(31)により、
(32)
⑤ 不可 不 急 に付く「返り点」を、
⑤ 耕者不可以不益急矣。 の下に書くと、
⑤ 四三 二 一 といふことになる。
(33)
⑥ 無友不如己者。
の「訓読」は、
⑥ 己に如か不る者を友とする無かれ=おのれにしかざる者を友とする無かれ。
である。
従って、
(33)により、
(34)
⑥ 無友不如己者。
に於いて、
⑥ 己に
と読んだ上で、
⑥ 己から、
⑥ 如へ、返り、
⑥ 如から、
⑥ 不へ、返り、
⑥ 者から、
⑥ 友へ、返り、
⑥ 無へ、返ってゐる。
従って、
(22)(34)により、
(35)
⑥ 無友不如己者 に付く「返り点」を、
⑥ 無友不如己者。 の下に書くと、
⑥ 下中三二一上 といふことになる。
(36)
⑦ 当世士大夫無不知有劉老人者。
の「訓読」は、
⑦ 当世の士大夫、劉老人有るを知ら不る者無し=とうせいのしたいふ、劉老人有るを知らざる者無し。
従って、
(36)により、
(37)
⑦ 当世士大夫無不知有劉老人者。
に於いて、
⑦ 当世士大夫 劉老人=当世の士大夫、劉老人
と読んだ上で、
⑦ 人から、
⑦ 有へ、返り、
⑦ 有から、
⑦ 知へ、返り、
⑦ 知から、
⑦ 不へ返り、
⑦ 者から、
⑦ 無へ、返ってゐる。
従って、
(22)(37)により、
(38)
⑦ 無不知有 人者 に付く「返り点」を、
⑦ 当世士大夫無不知有劉老人者。 の下に書くと、
⑦ 下四三二 一上 といふことになる。
(39)
⑧ 聖人所不知未必不為愚人所知也。
の場合は、
⑧ 聖人所不知 といふ「主語」と、
⑧ 未必不為愚人所知也。 といふ「述語」からなってゐる。
然るに、
(40)
⑧ 聖人所不知、
の「訓読」は、
⑧ 聖人の知ら不る所=聖人の知らざる所、
である。
従って、
(40)により、
(41)
⑧ 聖人所不知、
に於いて、
⑧ 聖人 知=聖人の知ら
と読んだ上で、
⑧ 知から、
⑧ 不へ、返り、
⑧ 所へ、返ってゐる。
(42)
⑧ 未必不為愚人所知也。
の「訓読」は、
⑧ 未だ必ずしも、愚人の知る所と為さ不んばあらざる也=いまだ必ずしも愚人の知る所となさずんばあらざるなり。
である。
然るに、
(43)
⑧ 未 の場合は、「漢字」としては、「一文字」であるが、「意味」としては、
⑧ 未=いまだ(副詞)+不
であって、尚且つ、
⑧ 未必不為愚人所知也。
⑧ いまだ(副詞)
に対しては、「返り点」が付かない。ものの、
⑧ 不
には、「返り点」が付く、
従って、
(44)
⑧ 未必不為愚人所知也。
に於いて、
⑧ 未必 愚人 知=いまだ必ずしも愚人の知る
と読んだ上で、
⑧ 知から、
⑧ 所へ、返り、
⑧ 所から、
⑧ 為へ、返り、
⑧ 為から、
⑧ 不へ、返り、
⑧ 不から、
⑧ 未=いまだ(副詞)+不
であるところの、
⑧ 不へ、返ってゐる。
従って、
(39)(41)(44)により、
(45)
⑧ 所不知未 不為 所知 に付く「返り点」を、
⑧ 聖人所不知未必不為愚人所知也。 の下に書くと、
⑧ 三二一、五四三 二一 といふことになる。
(46)
⑨ 曽子之母非不知子不殺人也。
の「訓読」は、
⑨ 曽子之母、子の人を殺さ不るを知ら不るに非ざる也=曽子の母、子の人を殺さざるを知らざるにあらざるなり。
である。
従って、
(46)により、
(47)
⑨ 曽子之母非不知子不殺人也。
に於いて。
⑨ 曽子之母 子 人=曽子の母、子の人を
と読んだ上で、
⑨ 人から、
⑨ 殺へ、返り、
⑨ 殺から、
⑨ 不へ、返り、
⑨ 不から、
⑨ 知へ、返り、
⑨ 知から、
⑨ 不へ、返り、
⑨ 不から、
⑨ 非へ、返ってゐる。
従って、
(47)により、
(48)
⑨ 非不知 不殺人 に付く「返り点」を、
⑨ 曽子之母非不知子不殺人也。 の下に書くと、
⑨ 六五四 三二一 といふことになる。
(49)
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
の「訓読」は、
⑩ 籍をして、誠に子を畜ひ寒さを憂ふるを以て心を乱さ不、財有りて以て薬を剤さ使む=籍をして、誠に子をやしなひ寒さを憂ふるを以て心を乱さず、財有りて以て薬をなさしむ。
である。
従って、
(49)により、
(50)
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
に於いて、
⑩ 使籍誠 子=籍をして誠に子を
と読んだ上で、
⑩ 子から、
⑩ 畜へ、返り、
⑩ 寒から、
⑩ 憂へ、返り、
⑩ 憂から、
⑩ 以へ、返り、
⑩ 心から、
⑩ 乱へ、返り、
⑩ 乱から、
⑩ 不へ、返り、
⑩ 財から、
⑩ 有へ、返り、
⑩ 以(返り点は付いてゐない)を読んで、
⑩ 薬から、
⑩ 使へ、返ってゐる。
然るに、
(51)
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・ ・ ・ ・ ・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅵ)天 地 人
に於いて、
(Ⅰ)を挟んで返る際には、
(Ⅱ)を用ゐ、
(Ⅱ)を挟んで返る際には、
(Ⅲ)を用ゐ、
(Ⅲ)を挟んで返る際には、
(Ⅳ)を用ゐる。
従って、
(50)(51)により、
(52)
⑩ 使 不以畜子憂寒乱心有財 済薬 に付く「返り点」を、
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。 の下に書くと、
⑩ 人 丙下二一中上乙甲二一 地天 といふことになる。
(53)
⑪ 欲取之。
の「訓読」は、
⑪ 之を取る=これをとる。
である。
従って、
(53)により、
(54)
⑪ 欲取之。
に於いて、
⑪ 欲取之=之を
と読んだ上で、
⑪ 之から、
⑪ 取へ、返り、
⑪ 取から、
⑪ 欲へ、返ってゐる。
従って、
(54)により、
(55)
⑪ 欲取之 に付く「返り点」を、
⑪ 欲取之。 の下に書くと、
⑪ 三二一 といふことになる。
(56)
⑫ 欲取‐捨之。
の「訓読」は、
⑫ 之を取捨せんと欲す=これを取捨せんとほっす。
である。
然るに、
(57)
⑫ 取‐捨 のような「熟語」の場合は、「二字」であっても、「一語」とみなす。
従って、
(55)(56)(57)により、
(58)
「レ点」は、「一語下の語」から「一語上の語」に返る際に、「上の字」の「下」に付く。
とするならば、
⑪ 欲取之。
⑪ レレ
であって、尚且つ、
⑫ 欲取‐捨之。
⑫ レ レ
でなければ、ならない。
然るに、
(59)
⑪ 欲取之。
⑪ レレ
ではあっても、
⑫ 欲取‐捨之。
⑫ レ レ
ではなく、
⑫ 欲取‐捨之。
⑫ レ 二 一
でもないし、何故か、
⑫ 欲取‐捨之。
⑫ 三 二 一
だけが、「正しい」と、されてゐる。
(60)
⑬ 登竜門。
の「訓読」は、
⑬ 竜門に登る。
である。
従って、
(60)により、
(61)
⑬ 登竜門。
に於いて、
⑬ 登竜門=竜門に
と読んだ上で、
⑬ 門から、
⑬ 登へ、返ってゐる。
従って、
(61)により、
(62)
⑬ 登 門 に付く「返り点」を、
⑬ 登竜門。 の下に書くと、
⑬ 二 一 といふことになる。
然るに、
(63)
たとえば「登竜門」を「竜門に登る」と訓読するならば、次のような「返り点」を打つこともあったのです。
【誤】登レ竜‐門
(古田島洋介、これならわかる返り点、2009年、58頁)
従って、
(62)(63)により、
(64)
⑬ 登竜‐門。
のやうな、
⑬ 動詞+補‐語。
の場合は、
⑬ 補‐語 に付く「ハイフン」は、「不要」である。
然るに、
(65)
⑫ 取‐捨之=之を取捨す。
⑫ 二 一
でなくて、
⑫ 取捨之。
⑫ レ
であるならば、
⑫ 取捨之=取りて之を捨てる。
といふ風に、読むことになるし、
⑫ 取捨之。
⑫ 二 一
であるならば、
⑫ 取捨之=捨てて之を取る。
といふ風に、読むことになる。
従って、
(59)(65)により、
(66)
⑫ 取‐捨之。
のやうな、
⑫ 動‐詞+補語。
の場合は、
⑫ 動‐詞 に付く「ハイフン」が、「必要」となる。
然るに、
(67)
ハイフンは初心者用の符号であって、入試問題ではついていないこともある。
(志村和久、漢文早わかり、1982年、14頁)
従って、
(65)(66)(67)により、
(68)
⑫ 取‐捨之=之を取捨す。
⑫ 二 一
であるものの、
⑫ 取捨之=之を取捨す。
⑫ 二 一
であることもあるため、「注意」しなければ、ならない。
従って、
(01)~(68)により、
(69)
① 告げ不る可から不。
② 我、鳥の樹に啼くを聞く。
③ 鳥獣は之と与に群を同じくす可から不。
④ 外人の為に道ふに足ら不る也。
⑤ 耕す者、以て益々急なら不る可から不。
⑥ 己に如か不る者を友とする無かれ。
⑦ 当世の士大夫、劉老人有るを知ら不る者無し。
⑧ 聖人の知らざる所、未だ必ずしも、愚人の知る所と為さ不んばあらざる也。
⑨ 曽子之母、子の人を殺さ不るを知ら不るに非ざる也。
⑩ 籍をして、誠に子を畜ひ寒さを憂ふるを以て心を乱さ不、財有りて以て薬を剤さ使む。
⑪ 之を取らんと欲す。
⑫ 之を取捨せんと欲す。
といふ「訓読」に基づき、
① 不可不告。
② 我聞鳥啼樹。
③ 鳥獣不可与之同群。
④ 不足為外人道也。
⑤ 耕者不可以不益急矣。
⑥ 無友不如己者。
⑦ 当世士大夫無不知有劉老人者。
⑧ 聖人所不知未必不為愚人所知也。
⑨ 曽子之母非不知子不殺人也。
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
⑪ 欲取之。
⑫ 欲取捨之。
といふ「漢文」に対して、
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・ ・ ・ ・ ・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅵ)天 地 人
といふ、「レ点を含まない、返り点」を付けると、
といふ、ことになる。
然るに。
(70)
同じく、
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・ ・ ・ ・ ・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅵ)天 地 人
(Ⅴ)レ 一レ 上レ 甲レ 天レ
といふ、「レ点を含む、返り点」を付けると、
といふ、ことになり、「学校で習ふ、返り点」としては、「これ」が、「正しい、返り点」である。
然るに、
(71)
① 不可不告。
② 我聞鳥啼樹。
③ 鳥獣不可与之同群。
④ 不足為外人道也。
⑤ 耕者不可以不益急矣。
⑥ 無友不如己者。
⑦ 当世士大夫無不知有劉老人者。
⑧ 聖人所不知未必不為愚人所知也。
⑨ 曽子之母非不知子不殺人也。
⑩ 使籍誠不以畜子憂寒乱心有財以済薬。
⑪ 欲取之。
⑫ 欲取‐捨之。
に対して、「括弧」を加へると、次のやうになる。
① 不[可〔不(告)〕]。
② 我聞〔鳥啼(樹)〕。
③ 鳥獣不[可〔与(之)同(群)〕]。
④ 不[足〔為(外人)道〕]也。
⑤ 耕者不[可〔以不(益急)〕]矣。
⑥ 無{友[不〔如(己)者〕]}。
⑦ 当世士大夫無{不[知〔有(劉老人)〕]者}。
⑧ 聖人所〔不(知)〕未{必不[為〔愚人所(知)〕]}也。
⑨ 曽子之母非〈 不{知[子不〔殺(人)〕]}〉也。
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(子)憂(寒)〕乱(心)]有(財)以済(薬)}。
⑪ 欲〔取(之)〕。
⑫ 欲〔取‐捨(之)〕。
然るに、
(72)
例へば、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
に於いて、
⑩ 使{ }⇒{ }使
⑩ 不[ ]⇒[ ]不
⑩ 以〔 〕⇒〔 〕以
⑩ 畜( )⇒( )畜
⑩ 憂( )⇒( )憂
⑩ 乱( )⇒( )乱
⑩ 有( )⇒( )有
⑩ 済( )⇒( )済
といふ「移動」を行ふと、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}⇒
⑩ {籍誠[〔(妻子)畜(飢寒)憂〕以(良心)乱]不(銭財)有以(医薬)済}使=
⑩ {籍をして誠に[〔(妻子を)畜ひ(飢寒を)憂ふるを〕以て(良心を)乱さ]不(銭財)有りて以て(医薬を)済さ}使む。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
従って、
(72)により、
(73)
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
であるとして、「左から順」に、
⑩ 使{ }に於ける、使 は、{ }の中を「読んだ後で、読む」。
⑩ 不[ ]に於ける、不 は、[ ]の中を「読んだ後で、読む」。
⑩ 以〔 〕に於ける、以 は、〔 〕の中を「読んだ後で、読む」。
⑩ 畜( )に於ける、畜 は、( )の中を「読んだ後で、読む」。
⑩ 憂( )に於ける、憂 は、( )の中を「読んだ後で、読む」。
⑩ 乱( )に於ける、乱 は、( )の中を「読んだ後で、読む」。
⑩ 有( )に於ける、有 は、( )の中を「読んだ後で、読む」。
⑩ 済( )に於ける、済 は、( )の中を「読んだ後で、読む」。
とするならば、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
といふ「語順」を、
⑩ {籍誠[〔(妻子)畜(飢寒)憂〕以(良心)乱]不(銭財)有以(医薬)済}使=
⑩ {籍をして誠に[〔(妻子を)畜ひ(飢寒を)憂ふるを〕以て(良心を)乱さ]不(銭財)有りて以て(医薬を)済さ}使む。
といふ「順番」で、「左から右へ」読んでゐるに、「等しい」。
従って、
(73)により、
(74)
例へば、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
に於ける、
⑩ { [ 〔 ( ) ( )〕 ( )] ( ) ( )}
といふ「括弧」は、
⑩ 使人籍誠不丙以下畜二妻子一憂中飢寒上乱乙良心甲有二銭財一以済地医薬天。
に於ける、
⑩ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天。
といふ「返り点」に、「相当」する。
然るに、
(75)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(72)~(75)により、
(76)
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有銭財以済医薬。
といふ「漢文」には、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
といふ「補足構造」が有って、
⑩ 籍をして、誠に妻子を畜ひ飢寒を憂ふるを以て良心を乱さ不、銭財有りて以て医薬を剤さ使む。
といふ「国語」には、
⑩ {籍をして誠に[〔(妻子を)畜ひ(飢寒を)憂ふるを〕以て(良心を)乱さ]不(銭財)有りて以て(医薬を)済さ}使む。
といふ「補足構造」が有る。が故に、
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済薬=
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
に於いて、
⑩ 使{ }⇒{ }使
⑩ 不[ ]⇒[ ]不
⑩ 以〔 〕⇒〔 〕以
⑩ 畜( )⇒( )畜
⑩ 憂( )⇒( )憂
⑩ 乱( )⇒( )乱
⑩ 有( )⇒( )有
⑩ 済( )⇒( )済
といふ「移動」を行ふと、
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済薬=
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}⇒
⑩ {籍誠[〔(妻子)畜(飢寒)憂〕以(良心)乱]不(銭財)有以(医薬)済}使=
⑩ {籍をして誠に[〔(妻子を)畜ひ(飢寒を)憂ふるを〕以て(良心を)乱さ]不(銭財)有りて以て(医薬を)済さ}使む。
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
といふ、ことなる。
従って、
(74)(76)により、
(77)
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
に於ける、
⑩ { [ 〔 ( ) ( )〕 ( )] ( ) ( )}
といふ「括弧」は、
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済薬。
といふ「漢文」の、「補足構造」を表すと、「同時」に、
⑩ 籍をして誠に妻子を畜ひ飢寒を憂ふるを以て良心を乱さず銭財有りて以て医薬を済さ使む。
といふ「訓読」の「語順」を表してゐる。
然るに、
(78)
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済薬。
といふ「漢文」を、
⑩ シセキセイフイチクサイシキカンランリョウシンユウセンザイイサイイヤク。
といふ風に、「音読」するだけならば、「漢文」を一切、学んだことの無い、「帰国子女のA君」にも出来るはずである。
加へて、
(79)
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有銭財以済医薬。
といふ「漢文」を、
⑩ Shǐ jí chéng bù yǐ chù qīzi yōu jīhán luàn liángxīn yǒu qián cái yǐ jì yīyào.
といふ風に、「音読」するだけならば、「グーグル翻訳(AI)」であっても、可能である。
然るに、
(77)により、
(80)
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済薬。
といふ「漢文」を、
⑩ 籍をして誠に妻子を畜ひ飢寒を憂ふるを以て良心を乱さず銭財有りて以て医薬を済さ使む。
といふ風に、「訓読」するためには、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
といふ「補足構造」を、「把握」してゐなければ、ならない。
然るに、
(81)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
然るに、
(82)
どこまで管到して(かかって)ゐるか。
といふことであれば、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
に於ける、
⑩ 使 は、{籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有銭財以済医薬}に管到して(かかって)ゐて、
⑩ 不 は、[以畜妻子憂飢寒乱良心]に管到して(かかって)ゐて、
⑩ 以 は、〔畜妻子憂飢寒〕に管到して(かかって)ゐて、
⑩ 畜 は、(妻子)に管到して(かかって)ゐて、
⑩ 乱 は、(良心)に管到して(かかって)ゐて、
⑩ 有 は、(銭財)に管到して(かかって)ゐて、
⑩ 済 は、(医薬)に管到して(かかって)ゐる。
従って、
(77)~(82)により、
(83)
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済薬。
といふ「漢文」を、「読解」するためには、
⑩ 使籍誠不以畜妻子憂飢寒乱良心有財以済薬。
といふ「漢文」の、
⑩ 使{籍誠不[以〔畜(妻子)憂(飢寒)〕乱(良心)]有(銭財)以済(医薬)}。
といふ「補足構造(管到)」を「把握」出来なければならないし、その為には、
⑩ 使人籍誠不丙以下畜二妻子一憂中飢寒上乱乙良心甲有二銭財一以済地医薬天。
に於ける、
⑩ 人 丙 下 二 一 中 上 乙 甲 二 一 地 天。
といふ「返り点」が、「有効」である。
といふ風に、「博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君」が、述べてゐる。
加へて、
(84)
また、本書を訳してみて、日本における漢文読解の方法としての訓読の威力を痛感した。こころみに本書を英訳したとしても、専門家以外の人にわかるように訳すことは至難の技であると思われるが、原文と書下し文を並べるだけで、一般の日本人には、著者の中国人に対して述べている内容がほぼ正確に伝達されるのである。これを現代日本語訳を並べただけでは、もう一つ別の手立てを必要とする。訓読については功罪それぞれ議論があるが、訳者としてはたいそう助かったといえる。
(鮑善淳 著、増田栄次 訳、漢文をどう読みこなすか、1995年、238頁)
従って、
(83)(84)により、
(85)
日本人が、独学で、「漢文」を読めるやうになるためには、「漢文訓読法」以外には、現実には有り得ないはずであるが、然るに、
かつて漢文学科だった学科や漢文学専攻は、いま、そのほとんすべてが中国文学科や中国文学専攻になってしまっている。そこでは、当然、中国語も履修することになっていて、そこで学んだ方々は、古代の中国文も現代の中国音で発音できるし、またそういう出身の先生は、得意げにそういうように読んでも聞かせたりするもののようである。そこで、日本文学科出身の国語科の先生や、教育学部の国語専修などの出身の先生は、漢文は嫌いではないのだが、生徒からなにか、偽者のように思われて辛い、と聞くことがあったりするのである(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、36頁)。との、ことである。
然るに、
(81)(85)により、
(86)
中国の某君でさえ、「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。」と言ってゐるのだから、「古代の中国文も現代の中国音で発音できるし、またそういう出身の先生は、得意げにそういうように読んでも聞かせたりする。」といふのであれば、アホらしい。としか、言ひやうが無い。
然るに、
(87)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる。 (『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)
然るに、
(88)
「漢文訓読」に関する「書籍」は、「いくらでも有る」のに対して、昭和5年を去ること、約90年の今に至っても、「中国語の現代の発音による、漢文の、読み方」に関する、「日本語の、書籍」は、寡聞にして、一冊、知らない。
従って、
(85)(87)(88)により、
(89)
昭和5年に、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られて、試みた所の「漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにする」方法は、88年後の「大学の外にゐる日本人」に対して、「何も、教へてない」。
従って、
(89)により、
(90)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
といふ、西洋文化研究者の見解は、マチガイである。
(91)
漢語におけるこのような表現のしかたは、単語の間の関係を文法的な形式によって示すことを重んじている西欧の言語になれている人にとっては、まことに奇妙なことに思われるものと考えられる。カールグレン氏は、その著書《中国の言語》において、このような奇妙な孤立的な漢語の文法は、「非常に貧弱なものであり」、「漢語においては、文法的な分析は、あまり役に立たず、実際に役立つのは、広い読書を通じて習得した経験、つまり、中国人がどのようにして文をつくりあげているかということに対する感覚が、唯一のものである」と説き、更に、漢語の文の意味を理解するためには、「豊富な直観が、必要である」とも述べている。
(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、293頁)
従って、
(90)(91)により、
(92)
「漢文」と、「ラテン語」のやうな「西洋の言語」とを、「同列」に論じるべきではない。
(93)
門外漢の私には、本当かどうか、分からないものの、
専門家と称する人たちの大部分、99.9パーセントは(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである。これは厳たる事実である。といって悲しむ必要はない。なにも「外国語として理解」するということが最上の方法だとはいえないからである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、62頁)。 とのことである。
平成30年01月03日、毛利太。
―「関連記事」―
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html)。
(β)「返り点」と「括弧」の条件。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)。
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ):(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html)。
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html)。
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。:(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html)。
(ζ)「返り点・モドキ」について。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)。
(η)「一二点・上下点」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)。
(θ)「括弧」の「順番」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)。
2018年1月2日火曜日
「括弧」の「順番」。
―「返り点」と「括弧」については、併せて、『「一二点・上下点」について(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)』他を、お読み下さい。―
(01)
① 非以刀断麻=
① 非〔以(刀)断(麻)〕。
に於いて、
① 非 は、
① 〔 〕の「直前の一字(単語)」であって、
① 以 は、
① ( )の「直前の一字(単語)」であって、
① 断 は、
① ( )の「直前の一字(単語)」である。
然るに、
(02)
① 非以刀断麻=
① 非〔以(快刀)断(乱麻)〕。
に於いて、
① 非〔 〕⇒〔 〕非
① 以( )⇒( )以
① 断( )⇒( )断
といふ「移動」を行ふと、
① 非〔以(刀)断(麻)〕⇒
① 〔(刀)以(麻)断〕非=
① 〔(刀を)以て(麻)断つに〕非ず。
といふ「漢文訓読」が成立する。
(03)
② 我非常以快刀断乱麻者也=
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也。
に於いて、
② 非 は、
② 〔 〕の「直前の一字(単語)」であって、
② 以 は、
② ( )の「直前の一字(単語)」であって、
② 断 は、
② ( )の「直前の一字(単語)」である。
然るに、
(04)
② 我非常以快刀断乱麻者也=
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也。
に於いて、
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也。
② 非〔 〕⇒〔 〕非
② 以( )⇒( )以
② 断( )⇒( )断
といふ「移動」を行ふと、
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也⇒
② 我〔常(快刀)以(乱麻)断者〕非也=
② 我は〔常には(快刀を)以て(乱麻を)断つ者に〕非ざるなり。
といふ「漢文訓読」が成立する。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
(Ⅰ)「左から右へ読む」ことを「前提」として、但し、〔 〕の「直前の一字(単語)」は、〔 〕の中を「読んだ直後に読む」。
(Ⅱ)「左から右へ読む」ことを「前提」として、但し、( )の「直前の一字(単語)」は、( )の中を「読んだ直後に読む」。
とするならば、
① 非〔以(刀)断(麻)〕⇒
① 〔(刀)以(麻)断〕非=
① 〔(刀)以て(麻)断つに〕非ず。
といふ「漢文訓読」と、
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也⇒
② 我〔常(快刀)以(乱麻)断者〕非也=
② 我は〔常には(快刀を)以て(乱麻を)断つ者に〕非ざるなり。
といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(06)
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也。
に於ける、
② 我 常 快 乱 者 也
といふ「漢字(単語)」は、「左から順」に、
② 我=主語
② 常=連用修飾語
② 快=連体修飾語
② 乱=連体修飾語
② 者=被連体修飾語
② 也=語気詞
であって、これらの「語順」は、「国語(日本語)」の「語順」と、「共通」である。
然るに、
(07)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(01)~(07)により、
(08)
① 非〔以(刀)断(麻)〕=快刀を以て乱麻を断つに非ず。
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也=我は、常には、快刀を以て乱麻を断つ者に非ざるなり。
に於ける、
① 〔 ( ) ( ) 〕
② 〔 ( ) ( ) 〕
といふ「括弧」は、
① 非以刀断麻。
② 我非常以快刀断乱麻者也。
といふ「漢文」の、「補足構造」を、表してゐる。
然るに、
(09)
① 非以刀断麻=非二以レ刀断一レ麻=刀を以て麻を断つに非ず。
② 我非下常以二快刀一断二乱麻一者下也=我は常には快刀を以て乱麻を断つ者に非ざるなり。
従って、
(09)により、
(10)
① 非以刀断麻。
② 我非常以快刀断乱麻者也。
に対する「返り点」は、
① 二 レ 一レ
② 下 二 一 二 一 上
である。
然るに、
(11)
① 非以刀断麻=非二以レ刀断一レ麻=刀を以て麻を断つに非ず。
② 我非下常以二快刀一断二乱麻一者下也=我は常には快刀を以て乱麻を断つ者に非ざるなり。
に於ける、
① 二 レ 一レ
② 下 二 一 二 一 上
に於いて、
①と② は、「同じ」ではない。
然るに、
(12)
② 下 二 一 二 一 上
② 〔 ( ) ( ) 〕
であるため、
② 下 二 一 二 一 上
の場合は、
② 〔 ( ) ( ) 〕
の上に、重ねることが、出来る。
従って、
(12)により、
(13)
② 下 二 一 二 一 上
といふ「返り点」は、
② 〔 ( ) ( ) 〕
といふ「括弧」に、「等しい」。
従って、
(08)(11)(13)により、
(14)
① 非〔以(刀)断(麻)〕=刀を以て麻を断つに非ず。
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也=我は、常には、快刀を以て乱麻を断つ者に非ざるなり。
② 我非下常以二快刀一断二乱麻一者下也=我は常には快刀を以て乱麻を断つ者に非ざるなり。
に於ける、
① 〔 ( ) ( ) 〕
② 〔 ( ) ( ) 〕
② 下 二 一 二 一 上
といふ「括弧」と「返り点」は、
① 非以刀断麻。
② 我非常以快刀断乱麻者也。
といふ「漢文」の、「補足構造」を、表してゐる。ものの、
① 非以刀断麻=非二以レ刀断一レ麻=快刀を以て乱麻を断つに非ず。
に於ける、
① 二 レ 一レ
といふ「(レ点を含む)返り点」は、
① 非以刀断麻。
といふ「漢文」の、「補足構造」を、表してはゐない。
然るに、
(15)
① 非以刀断麻。
ではなく、
③ 非以刀断麻Φ。
であれば、
③ 非以刀断麻Φ=非二以レ刀断レ麻Φ一=快刀を以て乱麻を断つΦに非ず。
であって、
③ 非以刀断麻Φ=非二以レ刀断レ麻Φ一=快刀を以て乱麻を断つΦに非ず。
であれば、
③ 下 二 一 二 一 上
を用ゐて、
③ 非以刀断麻Φ=非下以二刀一断二麻一Φ下=快刀を以て乱麻を断つΦに非ず。
といふ風に、書くことが出来る。
然るに、
(16)
③ 非以刀断麻Φ=非下以二刀一断二麻一Φ下=快刀を以て乱麻を断つΦに非ず。
に於いて、
③ Φ は、「黙字(サイレント)」であって、「黙字(サイレント)」は「書かない」とするならば、
③ 非以刀断麻=非下以二刀一断二麻一下=刀を以て乱麻を断つに非ず。
である。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
③ Φ は、「黙字(サイレント)」であって、「黙字(サイレント)」は「書かない」とするならば、
① 非以刀断麻=非二以レ刀断一レ麻=刀を以て麻を断つに非ず。
に於ける、
① 二 レ 一レ
といふ「(レ点を含む)返り点」は、
① 下 二 一 二 一 上
といふ「返り点」に、すなはち、
① 〔 ( ) ( ) 〕
といふ「括弧」に、「置き換へ」ることが、出来る。
平成30年01月02日、毛利太。
―「関連記事」―
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html)。
(β)「返り点」と「括弧」の条件。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)。
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ):(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html)。
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html)。
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。:(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html)。
(ζ)「返り点・モドキ」について。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)。
(η)「一二点・上下点」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)。
(01)
① 非以刀断麻=
① 非〔以(刀)断(麻)〕。
に於いて、
① 非 は、
① 〔 〕の「直前の一字(単語)」であって、
① 以 は、
① ( )の「直前の一字(単語)」であって、
① 断 は、
① ( )の「直前の一字(単語)」である。
然るに、
(02)
① 非以刀断麻=
① 非〔以(快刀)断(乱麻)〕。
に於いて、
① 非〔 〕⇒〔 〕非
① 以( )⇒( )以
① 断( )⇒( )断
といふ「移動」を行ふと、
① 非〔以(刀)断(麻)〕⇒
① 〔(刀)以(麻)断〕非=
① 〔(刀を)以て(麻)断つに〕非ず。
といふ「漢文訓読」が成立する。
(03)
② 我非常以快刀断乱麻者也=
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也。
に於いて、
② 非 は、
② 〔 〕の「直前の一字(単語)」であって、
② 以 は、
② ( )の「直前の一字(単語)」であって、
② 断 は、
② ( )の「直前の一字(単語)」である。
然るに、
(04)
② 我非常以快刀断乱麻者也=
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也。
に於いて、
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也。
② 非〔 〕⇒〔 〕非
② 以( )⇒( )以
② 断( )⇒( )断
といふ「移動」を行ふと、
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也⇒
② 我〔常(快刀)以(乱麻)断者〕非也=
② 我は〔常には(快刀を)以て(乱麻を)断つ者に〕非ざるなり。
といふ「漢文訓読」が成立する。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
(Ⅰ)「左から右へ読む」ことを「前提」として、但し、〔 〕の「直前の一字(単語)」は、〔 〕の中を「読んだ直後に読む」。
(Ⅱ)「左から右へ読む」ことを「前提」として、但し、( )の「直前の一字(単語)」は、( )の中を「読んだ直後に読む」。
とするならば、
① 非〔以(刀)断(麻)〕⇒
① 〔(刀)以(麻)断〕非=
① 〔(刀)以て(麻)断つに〕非ず。
といふ「漢文訓読」と、
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也⇒
② 我〔常(快刀)以(乱麻)断者〕非也=
② 我は〔常には(快刀を)以て(乱麻を)断つ者に〕非ざるなり。
といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(06)
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也。
に於ける、
② 我 常 快 乱 者 也
といふ「漢字(単語)」は、「左から順」に、
② 我=主語
② 常=連用修飾語
② 快=連体修飾語
② 乱=連体修飾語
② 者=被連体修飾語
② 也=語気詞
であって、これらの「語順」は、「国語(日本語)」の「語順」と、「共通」である。
然るに、
(07)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(01)~(07)により、
(08)
① 非〔以(刀)断(麻)〕=快刀を以て乱麻を断つに非ず。
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也=我は、常には、快刀を以て乱麻を断つ者に非ざるなり。
に於ける、
① 〔 ( ) ( ) 〕
② 〔 ( ) ( ) 〕
といふ「括弧」は、
① 非以刀断麻。
② 我非常以快刀断乱麻者也。
といふ「漢文」の、「補足構造」を、表してゐる。
然るに、
(09)
① 非以刀断麻=非二以レ刀断一レ麻=刀を以て麻を断つに非ず。
② 我非下常以二快刀一断二乱麻一者下也=我は常には快刀を以て乱麻を断つ者に非ざるなり。
従って、
(09)により、
(10)
① 非以刀断麻。
② 我非常以快刀断乱麻者也。
に対する「返り点」は、
① 二 レ 一レ
② 下 二 一 二 一 上
である。
然るに、
(11)
① 非以刀断麻=非二以レ刀断一レ麻=刀を以て麻を断つに非ず。
② 我非下常以二快刀一断二乱麻一者下也=我は常には快刀を以て乱麻を断つ者に非ざるなり。
に於ける、
① 二 レ 一レ
② 下 二 一 二 一 上
に於いて、
①と② は、「同じ」ではない。
然るに、
(12)
② 下 二 一 二 一 上
② 〔 ( ) ( ) 〕
であるため、
② 下 二 一 二 一 上
の場合は、
② 〔 ( ) ( ) 〕
の上に、重ねることが、出来る。
従って、
(12)により、
(13)
② 下 二 一 二 一 上
といふ「返り点」は、
② 〔 ( ) ( ) 〕
といふ「括弧」に、「等しい」。
従って、
(08)(11)(13)により、
(14)
① 非〔以(刀)断(麻)〕=刀を以て麻を断つに非ず。
② 我非〔常以(快刀)断(乱麻)者〕也=我は、常には、快刀を以て乱麻を断つ者に非ざるなり。
② 我非下常以二快刀一断二乱麻一者下也=我は常には快刀を以て乱麻を断つ者に非ざるなり。
に於ける、
① 〔 ( ) ( ) 〕
② 〔 ( ) ( ) 〕
② 下 二 一 二 一 上
といふ「括弧」と「返り点」は、
① 非以刀断麻。
② 我非常以快刀断乱麻者也。
といふ「漢文」の、「補足構造」を、表してゐる。ものの、
① 非以刀断麻=非二以レ刀断一レ麻=快刀を以て乱麻を断つに非ず。
に於ける、
① 二 レ 一レ
といふ「(レ点を含む)返り点」は、
① 非以刀断麻。
といふ「漢文」の、「補足構造」を、表してはゐない。
然るに、
(15)
① 非以刀断麻。
ではなく、
③ 非以刀断麻Φ。
であれば、
③ 非以刀断麻Φ=非二以レ刀断レ麻Φ一=快刀を以て乱麻を断つΦに非ず。
であって、
③ 非以刀断麻Φ=非二以レ刀断レ麻Φ一=快刀を以て乱麻を断つΦに非ず。
であれば、
③ 下 二 一 二 一 上
を用ゐて、
③ 非以刀断麻Φ=非下以二刀一断二麻一Φ下=快刀を以て乱麻を断つΦに非ず。
といふ風に、書くことが出来る。
然るに、
(16)
③ 非以刀断麻Φ=非下以二刀一断二麻一Φ下=快刀を以て乱麻を断つΦに非ず。
に於いて、
③ Φ は、「黙字(サイレント)」であって、「黙字(サイレント)」は「書かない」とするならば、
③ 非以刀断麻=非下以二刀一断二麻一下=刀を以て乱麻を断つに非ず。
である。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
③ Φ は、「黙字(サイレント)」であって、「黙字(サイレント)」は「書かない」とするならば、
① 非以刀断麻=非二以レ刀断一レ麻=刀を以て麻を断つに非ず。
に於ける、
① 二 レ 一レ
といふ「(レ点を含む)返り点」は、
① 下 二 一 二 一 上
といふ「返り点」に、すなはち、
① 〔 ( ) ( ) 〕
といふ「括弧」に、「置き換へ」ることが、出来る。
平成30年01月02日、毛利太。
―「関連記事」―
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html)。
(β)「返り点」と「括弧」の条件。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)。
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ):(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html)。
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html)。
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。:(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html)。
(ζ)「返り点・モドキ」について。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)。
(η)「一二点・上下点」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)。
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