(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
(01)
(a)
1 (1) ∃x(Fx&~Gx) A
2 (2) (Fa&~Ga) A
3(3) ∀x~(Fx&~Gx) A
3(4) ~(Fa&~Ga) 3UE
23(5) (Fa&~Ga)&
~(Fa&~Ga) 24&I
2 (6)~∀x~(Fx&~Gx) 35RAA
1 (7)~∀x~(Fx&~Gx) 126EE
1 (8)~∀x(~Fx∨~~Gx) 7ド・モルガンの法則
1 (9)~∀x(~Fx∨ Gx) 8DN
1 (ア) ~∀x(Fx→ Gx) 9含意の定義
(b)
1 (1) ~∀x(Fx→ Gx) A
1 (2)~∀x(~Fx∨ Gx) 1含意の定義
1 (3)~∀x~(Fx&~Gx) 2ド・モルガンの法則
4 (4) ~(Fa&~Ga) A
4 (5) ∀x~(Fx&~Gx) 4UI
14 (6)~∀x~(Fx&~Gx)&
∀x~(Fx&~Gx) 35&I
1 (7) ~~(Fa&~Ga) 46RAA
1 (8) (Fa&~Ga) 7DN
1 (9) ∃x(Fx&~Gx) 8EI
従って、
(01)により、
(02)
① ∃x(Fx&~Gx)
② ~∀x(Fx→ Gx)
に於いて、
①=② である。
従って、
(02)により、
(03)
③ ~∃x(Fx&~Gx)
④ ∀x(Fx→ Gx)
に於いて、
③=④ である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
F=英語ができる
G=数学ができる
であるとして、
① ∃x(英語ができるx&~数学ができるx)
② ~∀x(英語ができるx→ 数学ができるx)
③ ~∃x(英語ができるx&~数学ができるx)
④ ∀x(英語ができるx→ 数学ができるx)
に於いて、
①=② であって、
③=④ である。
従って、
(04)により、
(05)
x=人
であるとして、
① ある人は、英語はできるが、 数学ができない。
② 誰もが、 英語ができるならば、数学もできる。といふわけではない。
③ 英語ができる人が、数学ができない。といふことはない。
④ 誰であっても、 英語ができるならば、数学もできる。
に於いて、
①=② であって、
③=④ である。
然るに、
(06)
先日、数人の大学の先生と話をしているときに、ある先生が「うちの学生が、英語ができるようになったら、数学ができるようになった」と言った。これは、暗に、英語ができるようになった、だから数学ができるようになったと言いたいのである。言い換えれば、日本語では論理的に考えられないから、数学ができない、と言いたいのである。私は「またか」と思った。日本人は、この大学の先生のように、日本語は非論理的であり、論理的思考に向いていないと思い込んでいる人が多い。
(月本洋、日本語は論理的である、2009年、2頁)
従って、
(01)~(06)により、
(07)
月本先生は、
① ∃x(Fx&~Gx)=ある人は、英語はできるが、 数学ができない。
② ~∀x(Fx→ Gx)=誰もが、 英語ができるならば、数学もできる。といふわけではない。
といふ風に、思はれてゐて、
ある先生は、敢へて言へば、
③ ~∃x(Fx&~Gx)=英語ができる人が、数学ができない。といふことはない。
④ ∀x(Fx→ Gx)=誰であっても、 英語ができるならば、数学もできる。
といふ風に、思はれてゐる。
然るに、
(08)
① ∃x(Fx&~Gx)=ある人は、英語はできるが、 数学ができない。
② ~∀x(Fx→ Gx)=誰もが、 英語ができるならば、数学もできる。といふわけではない。
③ ~∃x(Fx&~Gx)=英語ができる人が、数学ができない。といふことはない。
④ ∀x(Fx→ Gx)=誰であっても、 英語ができるならば、数学もできる。
といふ「等式」に於いて、「左辺」が「論理的」であるのに、「右辺」が「非論理的」である。
といふことは、有り得ない。
従って、
(08)により、
(09)
少なくとも、
① ある人は、英語はできるが、 数学ができない。
② 誰もが、 英語ができるならば、数学もできる。といふわけではない。
③ 英語ができる人が、数学ができない。といふことはない。
④ 誰であっても、 英語ができるならば、数学もできる。
といふ「日本語」が、「非論理的」である。
といふことは、有り得ない。
(10)
(c)
1(1)~∀x{ 弟子x→ ~∃y(師匠yx&~及yx)} A
1(2)∃x~{ 弟子x→ ~∃y(師匠yx&~及yx)} 1量化子の関係
1(3)∃x~{ ~弟子x∨ ~∃y(師匠yx&~及yx)} 2含意の定義
1(4)∃x {~~弟子x&~~∃y(師匠yx&~及yx)} 3ド・モルガンの法則
1(5)∃x { 弟子x& ∃y(師匠yx&~及yx)} 4DN
1(〃)あるxは弟子であって、あるyはxの師匠であって、yはxに及ばない。
(d)
1(1)∃x { 弟子x& ∃y(師匠yx&~及yx)} A
1(2)∃x {~~弟子x&∃y(師匠yx&~及yx)} 1DN
1(3)∃x~{~弟子x∨~∃y(師匠yx&~及yx)} 2ドモルガンの法則
1(4)∃x~{ 弟子x→~∃y(師匠yx&~及yx)} 3含意の定義
1(5)~∀x{ 弟子x→~∃y(師匠yx&~及yx)} 4量化子の関係
1(〃)すべてのxについて、xが弟子ならば、あるyはxの師匠であって、yはxに及ばない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことはない。
従って、
(10)により、
(11)
⑤ すべてのxについて、xが弟子ならば、あるyはxの師匠であって、yはxに及ばない。といふ、そのやうなyが存在しない。といふことはない。
⑥ あるxは弟子であって、あるyはxの師匠であって、yはxに及ばない。
に於いて、
⑤=⑥ である。
従って、
(11)により、
(12)
⑤ 弟子不必不如師=
⑤ 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
⑥ 弟子[必〔(師)如〕不]不=
⑥ 弟子は[必ずしも〔(師に)如か〕ずんば]あらず=
⑥ 弟子の方が師匠よりも優れている場合もある(三省堂、明解古典学習シリーズ20、1973年、56頁改)。
に於いて、
⑤=⑥ である。
といふことは、「論理的」である。
(13)
⑦ 不入虎穴不得虎子=
⑦ 不〔入(虎穴)〕不〔得(虎子)〕⇒
⑦ 〔(虎穴)入〕不〔(虎子)得〕不=
⑦ 〔(虎穴に)入ら〕ずんば〔(虎子を)得〕ず=
⑦ 〔(危険を)侵さ〕なければ〔(成功は)得られ〕ない。
(後漢書、班超伝)
然るに、
(14)
⑦ 危険を侵さなければ、成功は得られない。
の「対偶(Contraposition)」は、
⑧ 成功を得るためには、危険を侵す必要がある。
である。
然るに、
(15)
⑦ 危険を侵さなければ、成功は得られない。
⑧ 成功を得るためには、危険を侵す必要がある。
といふ「日本語」に於いて、
⑦=⑧ である。
といふことは、「論理学」を学ばなくとも、「そんなことは、初めから、当然」である。
然るに、
(16)
⑤ 弟子不[必不〔如(師)〕]=弟子は必ずしも師に如かずんばあらず(弟子の方が師匠よりも優れている場合もある)。
⑦ 不〔入(虎穴)〕不〔得(虎子)〕=虎穴に入らずんば虎子を得ず(成功を得るためには、危険を侵す必要がある)。
⑧ 無{人不[道〔看(花)而回〕]}=人にして花を看て回ると道はざるは無し(全ての人は、花を看て回ると道ふ)。
のやうな「言ひ方」は、「論理的」であるに、違ひない。
然るに、
(17)
明治以前の日本人は、漢文を読むことで論理的な考えを身につけました。漢文は論理的な構文をたくさん含んでいるからです。
(山下正男、論理的に考えること、1985年、ⅲ)
従って、
(16)(17)により、
(18)
「漢文・訓読」は、
⑤ 弟子は必ずしも師に如かずんばあらず(弟子の方が師匠よりも優れている場合もある)。
⑦ 虎穴に入らずんば虎子を得ず(成功を得るためには、危険を侵す必要がある)。
⑧ 人にして花を看て回ると道はざるは無し(すべての人は、花を看て回ると道ふ)。
のやうな、「論理的な構文」が「多用」されてゐるにも拘らず、「日本語は、非論理的な言語である。」といふことは、有り得ない。
(19)
例へば、
⑨ ~∃x{人x&~(死x)}=
⑨ ∀x~{人x&~(死x)}=
⑨ ∀x{~人x∨~~(死x)}=
⑨ ∀x{人x→死x}=すべてのxについて、xが人ならば、xは死ぬ=
⑨ 不有{而不(死)}=人にして死せざるは、有らず。
がさうであるように、「漢文」は、「述語論理」に、似てゐる。
平成30年08月12日、毛利太。
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