(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』他をお読み下さい。
(01)
「量化子の関係」により、
① ∃x ∀y 囗(xy)
② ∃x~∃y~囗(xy)
③ ~∀x∃y~囗(xy)
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(01)により、
(02)
x=人
y=人
囗=愛す
であるとして、
① ∃x ∀y 愛(xy)=ある人はすべての人を愛す。
② ∃x~∃y~愛(xy)=ある人が愛さない人はゐない。
③ ~∀x∃y~愛(xy)=すべての人がある人を愛さない。といふことはない。
に於いて、
①=②=③ である。
(03)
① ∃x ∀y 愛(xy)
② ∃x~∃y~愛(xy)
③ ~∀x∃y~愛(xy)
といふ「関係」を、説明する上で都合が良いため、「取税人」について、引用すると、次の通りである。
(04)
これらの取税人たちはユダヤ人であって、しかも異邦人(ローマ人)の政府につかえており、民衆を搾取したので、人々により罪人、遊女、異邦人と一緒に考えられた。しかし、主イエスは取税人の友であられた。たとえばマタイやザアカイ等の取税人を愛されたことが福音書に記されている(日本基督教団出版局、聖書辞典、1961年、515頁改)。
従って、
(05)
2000年前の、ユダヤ人社会にあって、「嫌われ者の最たる者」が、「取税人」であったにも拘らず、イエスだけは、そのやうな「取税人」をも愛された。
といふことになる。
従って、
(06)
x=2000年前のユダヤ人
y=2000年前のユダヤ人
であるとして、
① ∃x ∀y 愛(xy)=ある人(イエス)は(取税人を含む)すべての人を愛す。
② ∃x~∃y~愛(xy)=ある人(イエス)が愛さない人は(、たとえ、取税人であっても)ゐない。
③ ~∀x∃y~愛(xy)=(イエスを含む)すべての人がある人を(、たとへば、取税人を)を愛さない。といふことはない。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(02)(06)により、
(07)
もう一度、確認すると、
① ∃x ∀y 愛(xy)=ある人はすべての人を愛す。
② ∃x~∃y~愛(xy)=ある人が愛さない人はゐない。
③ ~∀x∃y~愛(xy)=すべての人がある人を愛さない。といふことはない。
であるものの、この場合、「左辺」である、
① ∃x ∀y 愛(xy)
② ∃x~∃y~愛(xy)
③ ~∀x∃y~愛(xy)
といふ「論理式」が、「非論理的」である。といふことは、有り得ない。
従って、
(07)により、
(08)
① ∃x ∀y 愛(xy)=ある人はすべての人を愛す。
② ∃x~∃y~愛(xy)=ある人が愛さない人はゐない。
③ ~∀x∃y~愛(xy)=すべての人がある人を愛さない。といふことはない。
といふ「等式」の「右辺」である、
① ある人はすべての人を愛す。
② ある人が愛さない人はゐない。
③ すべての人がある人を愛さない。といふことはない。
といふ「日本語」が「非論理的な言語」である。といふことは、有り得ない。
然るに、
(09)
論理思考から連想される、「論理学」は哲学、数学、計算機科学等の一部となる学問分野である。― 中略 ―、これら学問的な文脈からは、「論理的」という表現や「論理的思考」が何かは規定されておらず、これらは学術用語であるとは認められない。学問的な意味での論理は、日常的に使われる論理のイメージとは異なったものであることは、広く指摘されている(ウィキペディア)。
それ故、
(10)
「英語やフランス」は「論理的な言語」であって、「日本語」は「非論理的な言語」である。と言はれるとき、何を以て、「論理的」であるとか、「非論理的」である。と言ふのかが、私には、分からない。
然るに、
(11)
(a)
1 (1) ∃x∀y囗(xy) A
2 (2) ∀y囗(ay) A
2 (3) 囗(ab) 2UE
4 (4) ∃y~囗(ay) A
5(5) ~囗(ab) A
2 5(6)囗(ab)&~囗(ab) 35&I
24 (7)囗(ab)&~囗(ab) 456EE
2 (8) ~∃y~囗(ay) 47RAA
2 (9) ∃x~∃y~囗(xy) 8EI
1 (ア) ∃x~∃y~囗(xy) 129EE
(b)
1 (1) ∃x~∃y~囗(xy) A
2 (2) ~∃y~囗(ay) A
3 (3) ~囗(ab) A
3 (4) ∃y~囗(ay) 3EI
23 (5) ~∃y~囗(ay)&
∃y~囗(ay) 24&I
2 (6) ~~囗(ab) 35RAA
2 (7) 囗(ab) 6DN
1 (8) 囗(ab) 127EE
1 (9) ∀y囗(ay) 8UI
1 (ア) ∃x∀y囗(xy) 9EI
(12)
(a)
1 (1) ∃x∀y囗(xy) A
2 (2) ∀y囗(ay) A
2 (3) 囗(ab) 2UE
4 (4) ∀x∃y~囗(xy) A
4 (5) ∃y~囗(ay) 4UE
6(6) ~囗(ab) A
4 (7) ~囗(ab) 566EE
24 (8)囗(ab)&~囗(ab) 37&I
2 (9) ~∀x∃y~囗(xy) 48RAA
1 (ア) ~∀x∃y~囗(xy) 129EE
(b)
1 (1)~∀x∃y~囗(xy) A
2 (2) ~∃x∀y囗(xy) A
3 (3) ∀y囗(ay) A
3 (4) ∃x∀y囗(xy) 3EI
23 (5) ~∃x∀y囗(xy)&
∃x∀y囗(xy) 24&I
2 (6) ~∀y囗(ay) 35RAA
7 (7) ~∃y~囗(ay) A
8(8) ~囗(ab) A
8(9) ∃y~囗(ay) 8EI
78(ア) ~∃y~囗(ay)&
∃y~囗(ay) 79&I
7 (イ) ~~囗(ab) 8アRAA
7 (ウ) 囗(ab) イDN
7 (エ) ∀y囗(ay) ウUI
2 7 (オ) ~∀y囗(ay)&
∀y囗(ay) 6エ&I
2 (カ) ~~∃y~囗(ay) 7オRAA
2 (キ) ∃y~囗(ay) カDN
2 (ク) ∀x∃y~囗(xy) キUI
12 (ケ)~∀x∃y~囗(xy)&
∀x∃y~囗(xy) 1ク&I
1 (コ)~~∃x∀y囗(xy) 2ケRAA
1 (サ) ∃x∀y囗(xy) コDN
従って、
(01)(11)(12)により、
(13)
① ∃x ∀y 囗(xy)
② ∃x~∃y~囗(xy)
③ ~∀x∃y~囗(xy)
に於いて、
①=②=③ である。
といふ、「量化子の関係」は、「述語論理学的」である。
従って、
(02)(13)により、
(14)
x=人
y=人
囗=愛す
であるとして、
① ∃x ∀y 愛(xy)=ある人はすべての人を愛す。
② ∃x~∃y~愛(xy)=ある人が愛さない人はゐない。
③ ~∀x∃y~愛(xy)=すべての人がある人を愛さない。といふことはない。
に於いて、
①=②=③ である。
といふ、ことからすれば、
① ある人はすべての人を愛す。
② ある人が愛さない人はゐない。
③ すべての人がある人を愛さない。といふことはない。
といふ「日本語」は、「述語論理学的」である。
(15)
① ∃x ∀y 愛(xy)
② ∃x~∃y~愛(xy)
③ ~∀x∃y~愛(xy)
といふ「述語論理」を、
① ある人はすべての人を愛す。
② ある人が愛さない人はゐない。
③ すべての人がある人を愛さない。といふことはない。
といふ風に「読む」、「読み方」は、「E.J.レモン 著、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野楢英、1973年」他に載ってゐるわけではない。
(16)
① ある人はすべての人を愛す。
② ある人が愛さない人はゐない。
③ すべての人がある人を愛さない。といふことはない。
といふ風に「読む」のは、
① ∃x ∀y 愛(xy)
② ∃x~∃y~愛(xy)
③ ~∀x∃y~愛(xy)
といふ「述語論理」の「意味」を考へると、『日本語』では、そのやうな『語順』になるので、私自身は、そのやうに読んでゐる。
(17)
④ 無親不愛其子=親にして其の子を愛せ不るは無し。
といふ「漢文訓読」であれば、
④ 二 一レ 二 一
といふ「返り点」が付くやうに、
② ∃x~∃y~愛(xy)=ある人が愛さない人はゐない。
といふ「述語論理訓読」であれば、
② レ 二- レ 一
といふ「返り点」が、付くことになる。
平成30年08月18日、毛利太。
0 件のコメント:
コメントを投稿