(01)然るに、
(02)
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 不{以[所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を行ふと、
① (漢文)読。
② 〔我(百獸)長〕使。
③ 〔(聖人)爲(弊事)除〕欲。
④ [我両君匪〔以(玉帛)相見〕]使。
⑤ {[〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不。
⑥ 〈{我〔(小節)羞〕不而[功名〔(于天下)顕〕不]恥}知〉不也。
といふ「語順」になる。
従って、
(03)
「平仮名」を加へると、
① (漢文を)読む。
② 〔我をして(百獸に)長たら〕使む。
③ 〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲す。
④ [我が両君をして〔(玉帛を)以て相見みゆることを〕匪ざら]使む。
⑤ {[〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
⑥ 〈{我の〔(小節を)羞ぢ〕ずして[功名の〔(天下に)顕はれ〕ざるを]恥づるを}知ら〉ざればなり。
といふ「語順」になる。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 漢文を、読む。
② 我をして、百獸に長たら使む。
③ 聖人の爲に、弊事を除かんと欲す。
④ 我が両君をして、玉帛を以て相見みゆることを、匪ざら使む。
⑤ 人を養ふ所以の者を以て、人を害せず。
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ「日本語」は、
① 読漢文。
② 使我長百獸。
③ 欲爲聖人除弊事。
④ 使我両君匪以玉帛相見。
⑤ 不以所以養人者害人。
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」の、「訓読」である。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
まず第一に、
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 不{以[所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
① ( )
② 〔( )〕
③ 〔( )( )〕
④ [〔( )〕]
⑤ {[〔( )〕]( )}
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
① 読二 漢文一。
② 使三 我長二 百獸一。
③ 欲下 爲二 聖人一 除中 弊事上。
④ 使下 我両君匪中 以二 玉帛一 相見上。
⑤ 不乙 以下 所 二 以養一レ 人者上 害甲レ 人。
⑥ 不レ 知下 我不レ 羞二 小節一 而恥中 功名不上レ 顕二 于天下一 也。
に於ける、
① 二 一
② 三 二 一
③ 下 二 一 中 上
④ 下 中 二 一 上
⑤ 乙 下 二‐ 一レ 上 甲レ
⑥ レ 下 レ 二 一 中 上レ 二 一
といふ「返り点」に、「相当する」。
然るに、
(06)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)~(06)により、
(07)
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 不{以[所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
① ( )
② 〔( )〕
③ 〔( )( )〕
④ [〔( )〕]
⑤ {[〔( )〕]( )}
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
① 読漢文。
② 使我長百獸。
③ 欲爲聖人除弊事。
④ 使我両君匪以玉帛相見。
⑤ 不以所以養人者害人。
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文の補足構造」と、
① 漢文を、読む。
② 我をして、百獸に長たら使む。
③ 聖人の爲に、弊事を除かんと欲す。
④ 我が両君をして、玉帛を以て相見みゆることを、匪ざら使む。
⑤ 人を養ふ所以の者を以て、人を害せず。
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ「訓読の補足構造」の、「両方」を、表してゐる。
従って、
(07)により、
(08)
「中国語」を全く知らない私が、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」を、
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ風に、「訓読」しようと、しまいと、
「訓読」をあまり知らない(?)京大の先生が、
⑥ Bùzhī wǒ bù xiū xiǎojié ér chǐ gōngmíng bù xiǎn yú tiānxià yě(グーグル翻訳).
といふ風に、「音読」しようと、しまいと、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」には、固より、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
といふ「補足構造」が、有ることになる。
cf.
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)。
従って、
(05)~(08)により、
(09)
⑥ 不レ 知下 我不レ 羞二 小節一 而恥中 功名不上レ 顕二 于天下一 也。
に於ける、
⑥ レ 下 レ 二 一 中 上レ 二 一
といふ「返り点」も、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
といふ「括弧」も、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文の補足構造」と、それと「同時に」、
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ「訓読の語順」の、両方を、「表してゐる」。
然るに、
(10)
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
がさうでるやうに、
(ⅰ)〈 〉の中には、一つ以上の{ }があって、
(ⅱ){ }の中には、一つ以上の[ ]があって、
(ⅲ)[ ]の中には、一つ以上の〔 〕があって、
(ⅳ)〔 〕の中には、一つ以上の( )があって、尚且つ、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を行ふと、
⑥ 〈{我の〔(小節を)羞ぢ〕不して[功名の〔(天下に)顕はれ〕不るを]恥づるを}知ら〉不ればなり。
といふ「語順」になる。
従って、
(10)により、
(11)
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
⑥ 不〈
を見れば、「その瞬間」に、
⑥ 不 は、
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
の「中の、すべて」を、「読み終へた直後」に「読む」。
といふことが「分かる」といふ、「仕組み」になってゐる。
(12)
⑥ 知{
を見れば、「その瞬間」に、
⑥ 知 は、
⑥ {〔( )〕[〔( )〕]}
の「中の、すべて」を、「読み終へた直後」に「読む」。
といふことが「分かる」といふ、「仕組み」になってゐる。
然るに、
(13)
一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(はてなブログ:固窮庵日乗)。
然るに、
(14)
③ 下 二 一 中 上
④ 下 中 二 一 上
⑦ 庚 己 三 二 一 戊 丁 丙 乙 甲
には、それぞれ、
③ 下 中 上
二 一
④ 下 中 上
二 一
⑦ 庚 己 戊 丁 丙 乙 甲
三 二 一
といふ「インデント(indent)」が、見て取れる。
のに対して、
③ 五 二 一 四 一
④ 五 四 二 一 三
⑦ 十 九 三 二 一 五 四 三 二 一
には、そのやうな「インデント」が、見られない。
従って、
(13)(14)により、
(15)
一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(はてなブログ:固窮庵日乗)。
とは言ふものの、「そのやうな一二点だけ」では、「読みにくい」が故に、「淘汰」されたと、すべきである。
然るに、
(16)
質問者:noname#100659質問日時:2005/11/20 01:10回答数:1件
漢文についてお聞きします。
(数字)は、返り点を表します。レ点はカタカナの(レ)で書きます。
漢文の教科書に次のような文章が出てきます。
例文は有名な朝三暮四です。
恐(2)衆狙之不(1+レ)馴(2)於己(1)也、先誑(レ)之曰、・・・(以下略)。
(読み下しは、衆狙の己に馴れざらんことを恐るるや、先づこれを誑きて曰く・・です。)
これなのですが、打ち方はこれ一通りと決まっていますか?
次のように打つと何がいけないのでしょうか?
同じように読めてしまうような気がするのですが・・。
恐(3)衆狙之不(レ)馴(2)於己(1)也、先誑(レ)之曰、・・・(以下略)。
上の打ち方だと何が問題でしょうか?
同じにはなりませんでしょうか?
然るに、
(01)により、
(17)
⑨ 二 一レ 二 一
⑩ 四 三 二 一
に於いて、
⑨=⑩ である。
(18)
⑥ レ 下 レ 二 一 中 上レ 二 一
⑦ 庚 己 三 二 一 戊 丁 丙 乙 甲
であっても、
⑥=⑦ であるが、
⑥ よりも、
⑦ の方が、明らかに、「読み易い」。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
(Ⅲ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅳ)上 中 下
(Ⅴ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅵ)天 地 人
である所の、「返り点」は、
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
という「レ点」があるが故に、「読みにくい」。
然るに、
(20)
専門家と称する人たちの大部分、九九.九パーセントは、(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである(二畳主人、漢文文法基礎、1972年、62頁)。
然るに、
(21)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)。
(22)
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
といふ風に書けば、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」の「管到」が、「一目瞭然」であるし、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ風には、読めない。
従って、
(20)(21)(22)により、
(23)
「管到」を把握すること≒「訓読」をすること。
であるならば、「大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。」といふ風に、言ってゐる先生たちも、二畳主人が言ってゐるやうに、あるいは、「専門家と称する人たちの大部分、九九.九パーセントは、(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである。」
といふことは、「正しい」のかも、知れない。
令和03年04月14日、毛利太。
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