―「昨日(03年04月24日)の記事」を補足します。―
(01)
「管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)。
然るに、
(02)
ただ単に、『「管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という「範囲」のことである。』
とするならば、例へば、
③ 我読漢文。
といふ「白文」に於いて、
③「我」は、「読」 には、「管到してゐる (係ってゐる) 」として、それならば、
③「我」は、「漢文」には、「管到してゐない(係ってゐない)」のか、といふ「質問」が、予想される。
然るに、
(03)
① 訓‐読漢文=
① 訓‐読(漢文)⇒
① (漢文)訓‐読=
① (漢文を)訓読す。
然るに、
(04)
② 訓読漢文=
② 訓読(漢文)⇒
② 訓(漢文)読=
② 訓にて(漢文を)読む。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① (漢文を)訓‐読す。
② 訓にて(漢文を)読む。
に於いて、
①=② である。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① 訓‐読漢文。
に於ける、
① 訓‐
が、さうであるやうに、
② 訓読漢文=
② 訓読(漢文)⇒
② 訓(漢文)読=
② 訓にて(漢文を)読む。
といふ「漢文・訓読」に於ける、
② 訓で(副詞) の「意味」は、
② 読む(動詞) を介して、
② 漢文(補語) に、「管到してゐる(係ってゐる)」。
従って、
(06)により、
(07)
③ 我読漢文=
③ 我読(漢文)⇒
③ 我(漢文)読=
③ 我(漢文を)読む。
といふ「漢文・訓読」に於いも、
③ 我(副詞) の「意味」は、
③ 読(動詞) を介して、
③ 漢文(補語) に、「管到してゐる(係ってゐる)」。
従って、
(02)(07)により、
(08)
③ 我読漢文。
といふ「白文」に於いて、
③「我」は、「読」 には、「管到してゐる (係ってゐる) 」として、それならば、
③「我」は、「漢文」には、「管到してゐない(係ってゐない)」のか、といふ「質問」に対しては、
③ 我読漢文。
といふ「白文」に於いて、
③ 我(副詞) の「意味」は、
③ 読(動詞) を介して、
③ 漢文(補語) に、「管到してゐる(係ってゐる)」。
といふ風に「説明」することが、「可能」となる。
然るに、
(09)
③ 我読漢文(I read 漢文)。
に於いて、
③「我」は「副詞」である。
とするならば、
③「漢文」に於ける、
③「我」は、「人称代名詞」ではないのか(?)。
といふ「質問」が、予想される。
然るに、
(10)
「日本語に即した文法の樹立を」を目指すわれわれは「日本語で人称代名詞と呼ばれているものは、実は名詞だ」と宣言したい。どうしても区別したいなら「人称名詞」で十分だ。日本語の「人称代名詞」はこれからは「人称名詞」と呼ぼう(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、40・41頁)。
然るに、
(11)
修辞法でも、自分のことをわざと気取って第三者的に「人」と呼んだり、身分面では、天子は「朕」、諸侯は「寡人」、臣下は「臣」と称するなど、漢文における一人称および一人称的に使われる語彙はきわめて豊富である。この感覚は日本人にもわかりやすい(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、36頁)。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
③ 我読漢文(I read kanbun)。
に於いて、
③「我」は、「人称代名詞」ではないのか(?)。
といふ「質問」に対しては、
③『といふよりも、「日本語や漢文」には、「英語やフランス」で言ふところの、「人称代名詞」は、初めから無い。』
といふ風に、「答へる」ことになる。
然るに、
(13)
その場合、『それならば、「我」は単なる「名詞」であって、「名詞」が、「副詞」になることがあるのか(?)。』
といふ「質問」が、予想される。
然るに、
(14)
しかし漢文で用いられる単語≒漢字は、品詞によって外形が変わることがありません。名詞になったからといって点画が増えたり、動詞になったからと言ってハライがハネに変わったり、そういうことはないのです。「難」という語は、形容詞であっても動詞であっても名詞であっても、「難」そのままです。逆に言えば「難」という字を見ただけでは形容詞なのか動詞なのか名詞なのか、判断をつけることができません。結局のところ「難」という字がどこに置かれているか、つまり語順と文脈から判定せざるを得ないのです(漢文獅子韜)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
『それならば、「我」は単なる「名詞」であって、「名詞」が、「副詞」になるのか(?)。』
といふ「質問」に対しては、
『漢文の場合は、少なくとも、外形(見た目)から「品詞」を区別することは、出来ない。』
といふ風に、「答へる」ことになる。
従って、
(01)~(15)により、
(16)
①「我」の「意味」は、
①「非」を介して、
①「必不求以解中文法解漢文者」に及んでゐる。
として、
① 我非必不求以解中文法解漢文者也。
の「管到(どこまで係るか)」を「括弧」で表すならば、
① 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
と思ふのですが、「さう考へても良いですか(?)。」
といふ風に、明治大学の、加藤徹先生(漢文20面相)に、「質問」することが、出来る。
然るに、
(17)
漢語文法の基礎となっている文法的関係として、次の四つの関係(構造)をあげることができる。
(一)主述構造 主語―述語
(二)修飾構造 修飾語―被修飾語
(三)補足構造 叙述語―補足語
(四)並列構造 並列語―並列語
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281・282頁改)
(18)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
① 我非必不求以解中文法解漢文者也。
といふ「白文」の「管到」が、
① 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
であるならば、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を、行ふと、
① 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
① 我〈必{[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
① 我は〈必ずしも{[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也=
① 私は〈必ずしも{[〔(中国語を)読解する法を〕用ひて(漢文を)読解することを]求め}ない者では〉ないのです。
といふ「訓読の語順」を、得ることになる。
然るに、
(20)
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください。
(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)
(21)
「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという。
(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)
従って、
(16)(21)により、
(22)
① 我非必不求以解中文法解漢文者也。
といふ「白文(作例)」の「訓読」が、
① 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
で良いのか、といふことを、
明治大学の、加藤徹先生(漢文20面相)ではなく、
京都大学の、漢文の先生に、「質問」してはならない。
然るに、
(23)
まず北京語に拠る可しと云うことが常識的には考えられるが、併し北京語は入声が無くなっているから古書を読むのには音韻上遺憾無き能わず。寧ろ南方の田舎の音で古音に近い地方の音を採用するか。最も理想的としては、古音の研究をどしどし進めてことだ、併しそれを云う可くして容易には行われまい。
(牛島徳治、中国古典の学び方、1977年、13・14頁)
従って、
(20)(23)により、
(24)
>現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。
とは言ふものの、その場合であっても、
>寧ろ南方の田舎の音で古音に近い地方の音を採用する。
といふことを、京大の先生には、期待したい。
令和03年04月25日、毛利太。
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