(01)
1 (1) ∀x(象x→動x) A
1 (2) 象a→動a 1UE
3 (3) ~動a A
4(4) 象a A
1 4(5) 動a 24MPP
134(6) ~動a&動a 35&I
13 (7) ~象a 46RAA
1 (8) ~動a→~象a 37CP
1 (9)∀x(~動x→~象x) 8UI
(ⅱ)
1 (1)∀x(~動x→~象x) A
1 (2) ~動a→~象a 1UE
3 (3) 象a A
4(4) ~動a A
1 4(5) ~象a 24MPP
134(6) 象a&~象a 35&I
13 (7) ~~動a 46RAA
13 (8) 動a 7DN
1 (9) 象a→動a 38CP
1 (ア) ∀x(象x→動x) 9UI
(02)
(ⅱ)
1 (1) ∀x(~動x→~象x) A
1 (2) ~動a→~象a 1UE
3(3) ~動a& 象a A
(4) ~動a 3&E
13(5) ~象a 24MPP
3(6) 象a 3&E
1 (7) ~象a&象a 56&I
1 (8) ~(~動a& 象a) 37RAA
1 (9)∀x~(~動x& 象x) 8UI
1 (ア)~∃x(~動x& 象x) 9量化子の関係
(ⅲ)
1 (1)~∃x(~動x&象x) A
1 (2)Ax~(~動x&象x) 1量化子の関係
1 (3) ~(~動a&象a) 2UE
4 (4) ~動a A
5(5) 象a A
45(6) ~動a&象a 45&I
145(7) ~(~動a&象a)&
(~動a&象a) 36&I
14 (8) ~象a 57RAA
1 (9) ~動a→~象a 48CP
1 (ア)∀x(~動x→~象x) 9UI
従って、
(01)(02)により、
(03)
① ∀x( 象x→ 動x)
② ∀x(~動x→~象x)
③ ~∃x(~動x& 象x)
に於いて、すなはち、
① すべてのxについて(xが象であるならば、 xは動物である)。
② すべてのxについて(xが動物でないならば、xは象ではない)。
③ あるxが(動物でなくて、象である。)といふことはない。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(03)により、
(04)
① 象は動物である。
② 動物でない象はゐない。
に於いて、
①=② は「対偶(Contraposition)」である。
従って、
(04)により、
(05)
③ 動物は象である。
④ 象でない動物はゐない。
に於いて、
③=④ も「対偶(Contraposition)」である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
①&③ ⇔ ⑤ 象は動物であり、動物は象である。
②&④ ⇔ ⑥ 象は動物であり、象以外は動物ではない。
に於いて、
⑤=⑥ である。
然るに、
(07)
① 象は動物であり、
② 桜は植物である。
従って、
(07)により、
(08)
{象、桜}を{対象」とすると、
① 象が動物であり、
② 桜は植物である。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
{象、桜}を{対象}とすると、
① 象が動物である。
② 象は動物であり、動物は象である。
③ 象は動物であり、象以外(桜)は動物ではない(植物である)。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(10)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されるのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念会は、私が理事長です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念会」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
従って、
(10)により、
(11)
{タゴール記念会員}を{対象}とすると、
① 私が理事長です。
② 私は理事長であり、理事長は私である。
③ 私は理事長であり、私以外は理事長である。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(09)(11)により、
(12)
① AがBである。
② AはBであり、BはAである。
③ AはBであり、A以外はBでない。
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(03)(04)により、
(13)
① 象は
② ∀x(象x→
③ すべてのxについて(xが象であるならば、
に於いて、
①=②=③ である。
cf.
④ Take anything you like: then if it has the property of being an elephant,
従って、
(13)により、
(14)
① 象は
といふ「日本語」は、
② すべてのxについて(xが象であるならば、
といふ「日本語」に、「等しい」。
然るに、
(15)
② すべてのxについて(xが象であるならば、
といふ「日本語」は、
③ これから象についてのことを述べますよ、
といふ「意味」に、解することが、「可能」である。
然るに、
(16)
学校文法は単純な英語文法からの輸入で、主語・述語関係を単純に当てはめたものだ。そのため、「象は、鼻が長い」という単純な文でさえ、どれが主語だか指摘できず、複数主語だとか、主語の入れ子だとか、奇矯な技を使う。これに対して三上は、日本語には主語はない、とする。「象は」は、テーマを提示する主題であり、これから象についてのことを述べますよというメンタルスペースのセットアップであり、そのメンタルスペースのスコープを形成する働きをもつと主張する(この場合は「長い」までをスコープとする)。また、「鼻が」は主格の補語にすぎなく、数ある補語と同じ格であるとする。基本文は述語である「長い」だけだ(三上文法! : wrong, rogue and log)。
従って、
(15)(16)により、
(17)
「象は」は、テーマを提示する「主題」であり、「これから象についてのことを述べますよという」ことである。
といふ「言ひ方」も、分からないではない。
然るに、
(18)
実際、文法学者が「主語」という「語」を使わなければならないことは、不幸なことだ。この語は、普通のことばでは、とりわけ「話題」(主題)という意味でも使われているからである(イェスペルセン著、安藤貞雄 訳、文法の原理(中)、2006年、45頁)。
従って、
(18)により、
(19)
「主語」であることと、
「主題」であることとは、「矛盾」しない。
従って、
(20)
「象は」が、「主題」であるから。と言って、それだけでは、
「象は」が、「主語」ではない。といふことには、ならない。
令和02年12月29日、毛利太。
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