―「昨日(03年04月24日)の記事」を補足します。―
(01)
「管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)。
然るに、
(02)
ただ単に、『「管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という「範囲」のことである。』
とするならば、例へば、
③ 我読漢文。
といふ「白文」に於いて、
③「我」は、「読」 には、「管到してゐる (係ってゐる) 」として、それならば、
③「我」は、「漢文」には、「管到してゐない(係ってゐない)」のか、といふ「質問」が、予想される。
然るに、
(03)
① 訓‐読漢文=
① 訓‐読(漢文)⇒
① (漢文)訓‐読=
① (漢文を)訓読す。
然るに、
(04)
② 訓読漢文=
② 訓読(漢文)⇒
② 訓(漢文)読=
② 訓にて(漢文を)読む。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① (漢文を)訓‐読す。
② 訓にて(漢文を)読む。
に於いて、
①=② である。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① 訓‐読漢文。
に於ける、
① 訓‐
が、さうであるやうに、
② 訓読漢文=
② 訓読(漢文)⇒
② 訓(漢文)読=
② 訓にて(漢文を)読む。
といふ「漢文・訓読」に於ける、
② 訓で(副詞) の「意味」は、
② 読む(動詞) を介して、
② 漢文(補語) に、「管到してゐる(係ってゐる)」。
従って、
(06)により、
(07)
③ 我読漢文=
③ 我読(漢文)⇒
③ 我(漢文)読=
③ 我(漢文を)読む。
といふ「漢文・訓読」に於いも、
③ 我(副詞) の「意味」は、
③ 読(動詞) を介して、
③ 漢文(補語) に、「管到してゐる(係ってゐる)」。
従って、
(02)(07)により、
(08)
③ 我読漢文。
といふ「白文」に於いて、
③「我」は、「読」 には、「管到してゐる (係ってゐる) 」として、それならば、
③「我」は、「漢文」には、「管到してゐない(係ってゐない)」のか、といふ「質問」に対しては、
③ 我読漢文。
といふ「白文」に於いて、
③ 我(副詞) の「意味」は、
③ 読(動詞) を介して、
③ 漢文(補語) に、「管到してゐる(係ってゐる)」。
といふ風に「説明」することが、「可能」となる。
然るに、
(09)
③ 我読漢文(I read 漢文)。
に於いて、
③「我」は「副詞」である。
とするならば、
③「漢文」に於ける、
③「我」は、「人称代名詞」ではないのか(?)。
といふ「質問」が、予想される。
然るに、
(10)
「日本語に即した文法の樹立を」を目指すわれわれは「日本語で人称代名詞と呼ばれているものは、実は名詞だ」と宣言したい。どうしても区別したいなら「人称名詞」で十分だ。日本語の「人称代名詞」はこれからは「人称名詞」と呼ぼう(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、40・41頁)。
然るに、
(11)
修辞法でも、自分のことをわざと気取って第三者的に「人」と呼んだり、身分面では、天子は「朕」、諸侯は「寡人」、臣下は「臣」と称するなど、漢文における一人称および一人称的に使われる語彙はきわめて豊富である。この感覚は日本人にもわかりやすい(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、36頁)。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
③ 我読漢文(I read kanbun)。
に於いて、
③「我」は、「人称代名詞」ではないのか(?)。
といふ「質問」に対しては、
③『といふよりも、「日本語や漢文」には、「英語やフランス」で言ふところの、「人称代名詞」は、初めから無い。』
といふ風に、「答へる」ことになる。
然るに、
(13)
その場合、『それならば、「我」は単なる「名詞」であって、「名詞」が、「副詞」になることがあるのか(?)。』
といふ「質問」が、予想される。
然るに、
(14)
しかし漢文で用いられる単語≒漢字は、品詞によって外形が変わることがありません。名詞になったからといって点画が増えたり、動詞になったからと言ってハライがハネに変わったり、そういうことはないのです。「難」という語は、形容詞であっても動詞であっても名詞であっても、「難」そのままです。逆に言えば「難」という字を見ただけでは形容詞なのか動詞なのか名詞なのか、判断をつけることができません。結局のところ「難」という字がどこに置かれているか、つまり語順と文脈から判定せざるを得ないのです(漢文獅子韜)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
『それならば、「我」は単なる「名詞」であって、「名詞」が、「副詞」になるのか(?)。』
といふ「質問」に対しては、
『漢文の場合は、少なくとも、外形(見た目)から「品詞」を区別することは、出来ない。』
といふ風に、「答へる」ことになる。
従って、
(01)~(15)により、
(16)
①「我」の「意味」は、
①「非」を介して、
①「必不求以解中文法解漢文者」に及んでゐる。
として、
① 我非必不求以解中文法解漢文者也。
の「管到(どこまで係るか)」を「括弧」で表すならば、
① 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
と思ふのですが、「さう考へても良いですか(?)。」
といふ風に、明治大学の、加藤徹先生(漢文20面相)に、「質問」することが、出来る。
然るに、
(17)
漢語文法の基礎となっている文法的関係として、次の四つの関係(構造)をあげることができる。
(一)主述構造 主語―述語
(二)修飾構造 修飾語―被修飾語
(三)補足構造 叙述語―補足語
(四)並列構造 並列語―並列語
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281・282頁改)
(18)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
① 我非必不求以解中文法解漢文者也。
といふ「白文」の「管到」が、
① 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
であるならば、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を、行ふと、
① 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
① 我〈必{[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
① 我は〈必ずしも{[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也=
① 私は〈必ずしも{[〔(中国語を)読解する法を〕用ひて(漢文を)読解することを]求め}ない者では〉ないのです。
といふ「訓読の語順」を、得ることになる。
然るに、
(20)
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください。
(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)
(21)
「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという。
(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)
従って、
(16)(21)により、
(22)
① 我非必不求以解中文法解漢文者也。
といふ「白文(作例)」の「訓読」が、
① 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
で良いのか、といふことを、
明治大学の、加藤徹先生(漢文20面相)ではなく、
京都大学の、漢文の先生に、「質問」してはならない。
然るに、
(23)
まず北京語に拠る可しと云うことが常識的には考えられるが、併し北京語は入声が無くなっているから古書を読むのには音韻上遺憾無き能わず。寧ろ南方の田舎の音で古音に近い地方の音を採用するか。最も理想的としては、古音の研究をどしどし進めてことだ、併しそれを云う可くして容易には行われまい。
(牛島徳治、中国古典の学び方、1977年、13・14頁)
従って、
(20)(23)により、
(24)
>現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。
とは言ふものの、その場合であっても、
>寧ろ南方の田舎の音で古音に近い地方の音を採用する。
といふことを、京大の先生には、期待したい。
令和03年04月25日、毛利太。
2021年4月25日日曜日
2021年4月24日土曜日
「白文訓読」と「(副詞としての)主語」。
(01)
漢語文法の基礎となっている文法的関係として、次の四つの関係(構造)をあげることができる。
(一)主述構造 主語―述語
(二)修飾構造 修飾語―被修飾語
(三)補足構造 叙述語―補足語
(四)並列構造 並列語―並列語
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281・282頁改)
従って、
(01)により、
(02)
① 我不常読漢文。
であるならば、
① 我=主語
① 常=修飾語
① 不=叙述語
① 読=叙述語
① 漢=修飾語
① 文=補足語
である。
然るに、
(03)
① 我=主語
ではなく、
① 我=連用修飾語
であるとし、
① 我=連用修飾語
① 常=連用修飾語
① 不=叙述語
① 読=叙述語
① 漢=連体修飾語
① 文=補足語
であるとする。
然るに、
(04)
「連用修飾語」を「 副詞 」とし、
「連体修飾語」を「形容詞」とする。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 我=副詞
① 常=副詞
① 不=叙述語
① 読=叙述語
① 漢=形容詞
① 文=補足語
であるとする。
然るに、
(06)
① 我不〔常読(中文)〕。
に於いて、
不〔 〕⇒〔 〕不
読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふと、
① 我不〔常読(漢文)〕⇒
① 我〔常(漢文)読〕不=
① 我〔常には(漢文を)読ま〕ず。
といふ「訓読の語順」を、得ることになる。
然るに、
(07)
「管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)。
然るに、
(08)
「副詞」は、「叙述語」を介して、「補足語」に「管到する(掛かってゐる)」とする。
従って、
(05)~(08)により、
(09)
① 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
① 我( 副詞 ) は、「不(叙述語)」を介して、〔常読(漢文)〕に、「管到する(掛かってゐる)」。
① 不(叙述語) は、「不(叙述語)」として、 〔常読(漢文)〕に、「管到する(掛かってゐる)」。
① 常( 副詞 ) は、「読(叙述語)」を介して、 読(漢文) に、「管到する(掛かってゐる)」。
① 読(叙述語) は、「読(叙述語)」として、 読(漢文) に、「管到する(掛かってゐる)」。
然るに、
(10)
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を、行ふと、
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
② 我〈必{[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
② 我は〈必ずしも{[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
といふ「訓読の語順」を、得ることになる。
従って、
(07)(08)(10)により、
(11)
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
② 我(副詞) は、「非(叙述語)」を介して、〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉に、「管到する(掛かってゐる)」。
従って、
(09)(11)により、
(12)
① 我不〔常読(漢文)〕。
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
「我」は「副詞」であって、「叙述語」を介して、「補足語」に「管到する(掛かってゐる)」。
従って、
(07)(12)により、
(13)
「白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない。」
といふことが、あるものの、その場合は、
「我」は「副詞」であって、「叙述語」を介して、「補足語」に「管到する(掛かってゐる)」。
といふことを、「確認」する、「必要」がある。
従って、
(14)
例へば、
① 読書。
② 我読書。
③ 我不読書。
④ 我不常読書。
⑤ 我解漢文者也。
⑥ 我非解漢文者也。
⑦ 以解中文法解漢文。
⑧ 求以解中文法解漢文。
⑨ 不求以解中文法解漢文。
⑩ 不求以解中文法解漢文者。
⑪ 非不求以解中文法解漢文者。
⑫ 我非不求以解中文法解漢文者。
⑬ 我非不求以解中文法解漢文者也。
⑭ 我非必不求以解中文法解漢文者也。
といふ「白文」を「訓読」する際に於いて、
② 我
③ 我
④ 我
⑤ 我
⑥ 我
⑬ 我
⑭ 我
は、すべて「副詞」である。
然るに、
(01)により、
(15)
⑮ 我日本人也(I am a japanese)。
の場合は、
(一)主述構造 主語―述語
である。
従って、
(15)により、
(16)
⑮ 我日本人也(I am a japanese)。
であれば、
⑮ 我 は「名詞」であって、「副詞」ではない。
従って、
(01)~(16)により、
(17)
「白文訓読」といふ「観点」からすると、
「我」は、時に、「副詞」であって、時に、「名詞」である。
然るに、
(18)
修辞法でも、自分のことをわざと気取って第三者的に「人」と呼んだり、身分面では、天子は「朕」、諸侯は「寡人」、臣下は「臣」と称するなど、漢文における一人称および一人称的に使われる語彙はきわめて豊富である。この感覚は日本人にもわかりやすい(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、36頁)。
(19)
「日本語に即した文法の樹立を」を目指すわれわれは「日本語で人称代名詞と呼ばれているものは、実は名詞だ」と宣言したい。どうしても区別したいなら「人称名詞」で十分だ。日本語の「人称代名詞」はこれからは「人称名詞」と呼ぼう(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、40・41頁)。
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
「白文訓読」といふ「観点」からすると、
「我」は、「副詞」であって、「名詞」であるとしても、「(英文法でいふやうな)人称代名詞」といふ、わけではない。
令和03年04月24日、毛利太。
漢語文法の基礎となっている文法的関係として、次の四つの関係(構造)をあげることができる。
(一)主述構造 主語―述語
(二)修飾構造 修飾語―被修飾語
(三)補足構造 叙述語―補足語
(四)並列構造 並列語―並列語
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281・282頁改)
従って、
(01)により、
(02)
① 我不常読漢文。
であるならば、
① 我=主語
① 常=修飾語
① 不=叙述語
① 読=叙述語
① 漢=修飾語
① 文=補足語
である。
然るに、
(03)
① 我=主語
ではなく、
① 我=連用修飾語
であるとし、
① 我=連用修飾語
① 常=連用修飾語
① 不=叙述語
① 読=叙述語
① 漢=連体修飾語
① 文=補足語
であるとする。
然るに、
(04)
「連用修飾語」を「 副詞 」とし、
「連体修飾語」を「形容詞」とする。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 我=副詞
① 常=副詞
① 不=叙述語
① 読=叙述語
① 漢=形容詞
① 文=補足語
であるとする。
然るに、
(06)
① 我不〔常読(中文)〕。
に於いて、
不〔 〕⇒〔 〕不
読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふと、
① 我不〔常読(漢文)〕⇒
① 我〔常(漢文)読〕不=
① 我〔常には(漢文を)読ま〕ず。
といふ「訓読の語順」を、得ることになる。
然るに、
(07)
「管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)。
然るに、
(08)
「副詞」は、「叙述語」を介して、「補足語」に「管到する(掛かってゐる)」とする。
従って、
(05)~(08)により、
(09)
① 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
① 我( 副詞 ) は、「不(叙述語)」を介して、〔常読(漢文)〕に、「管到する(掛かってゐる)」。
① 不(叙述語) は、「不(叙述語)」として、 〔常読(漢文)〕に、「管到する(掛かってゐる)」。
① 常( 副詞 ) は、「読(叙述語)」を介して、 読(漢文) に、「管到する(掛かってゐる)」。
① 読(叙述語) は、「読(叙述語)」として、 読(漢文) に、「管到する(掛かってゐる)」。
然るに、
(10)
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を、行ふと、
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
② 我〈必{[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
② 我は〈必ずしも{[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
といふ「訓読の語順」を、得ることになる。
従って、
(07)(08)(10)により、
(11)
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
② 我(副詞) は、「非(叙述語)」を介して、〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉に、「管到する(掛かってゐる)」。
従って、
(09)(11)により、
(12)
① 我不〔常読(漢文)〕。
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
「我」は「副詞」であって、「叙述語」を介して、「補足語」に「管到する(掛かってゐる)」。
従って、
(07)(12)により、
(13)
「白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない。」
といふことが、あるものの、その場合は、
「我」は「副詞」であって、「叙述語」を介して、「補足語」に「管到する(掛かってゐる)」。
といふことを、「確認」する、「必要」がある。
従って、
(14)
例へば、
① 読書。
② 我読書。
③ 我不読書。
④ 我不常読書。
⑤ 我解漢文者也。
⑥ 我非解漢文者也。
⑦ 以解中文法解漢文。
⑧ 求以解中文法解漢文。
⑨ 不求以解中文法解漢文。
⑩ 不求以解中文法解漢文者。
⑪ 非不求以解中文法解漢文者。
⑫ 我非不求以解中文法解漢文者。
⑬ 我非不求以解中文法解漢文者也。
⑭ 我非必不求以解中文法解漢文者也。
といふ「白文」を「訓読」する際に於いて、
② 我
③ 我
④ 我
⑤ 我
⑥ 我
⑬ 我
⑭ 我
は、すべて「副詞」である。
然るに、
(01)により、
(15)
⑮ 我日本人也(I am a japanese)。
の場合は、
(一)主述構造 主語―述語
である。
従って、
(15)により、
(16)
⑮ 我日本人也(I am a japanese)。
であれば、
⑮ 我 は「名詞」であって、「副詞」ではない。
従って、
(01)~(16)により、
(17)
「白文訓読」といふ「観点」からすると、
「我」は、時に、「副詞」であって、時に、「名詞」である。
然るに、
(18)
修辞法でも、自分のことをわざと気取って第三者的に「人」と呼んだり、身分面では、天子は「朕」、諸侯は「寡人」、臣下は「臣」と称するなど、漢文における一人称および一人称的に使われる語彙はきわめて豊富である。この感覚は日本人にもわかりやすい(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、36頁)。
(19)
「日本語に即した文法の樹立を」を目指すわれわれは「日本語で人称代名詞と呼ばれているものは、実は名詞だ」と宣言したい。どうしても区別したいなら「人称名詞」で十分だ。日本語の「人称代名詞」はこれからは「人称名詞」と呼ぼう(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、40・41頁)。
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
「白文訓読」といふ「観点」からすると、
「我」は、「副詞」であって、「名詞」であるとしても、「(英文法でいふやうな)人称代名詞」といふ、わけではない。
令和03年04月24日、毛利太。
2021年4月22日木曜日
「述語論理」と「漢文」の「語順」について。
(01)
ブログを始めた当初から、これまでに、何度も示してゐる通り、
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
2 (2)∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(耳zx→~鼻zx)} A
3 (3)∃x(兎x&象x) A
1 (4) 象a→∃y(鼻ya&長y)&∀z(~鼻za→~長z) 1UE
2 (5) 兎a→∃y(耳ya&長y)&∀z(耳za→~鼻za) 2UE
6 (6) 兎a&象a A
6 (7) 象a 6&E
6 (8) 兎a 6&E
1 6 (9) ∃y(鼻ya&長y)&∀z(~鼻za→~長z) 48MPP
2 6 (ア) ∃y(耳ya&長y)&∀z(耳za→~鼻za) 57MPP
1 6 (イ) ∃y(鼻ya&長y) 9&E
ウ (ウ) 鼻ba&長b A
2 6 (エ) ∃y(耳ya&長y) ア&E
オ(オ) 耳ba&長b A
オ(カ) 耳ba オ&E
2 6 (キ) ∀z(耳za→~鼻za) ア&E
2 6 (ク) 耳ba→~鼻ba キUE
2 6 オ(ケ) ~鼻ba カクMPP
1 6 (コ) ∀z(~鼻za→~長z) ア&E
1 6 (サ) ~鼻ba→~長b コUE
12 6 オ(シ) ~長b ケサMPP
オ(ス) 長b オ&E
12 6 オ(セ) 長b&~長b シス&I
12 6 (ソ) 長b&~長b エオセEE
123 (タ) 長b&~長b 36ソEE
12 (チ)~∃x(兎x&象x) 3タRAA
12 (ツ)∀x~(兎x&象x) チ量化子の関係
12 (テ) ~(兎a&象a) ツUE
12 (ト) ~兎a∨~象a テ、ド・モルガンの法則
12 (ナ) 兎a→~象a ト含意の定義
12 (ニ)∀x(兎x→~象x) ナUI
従って、
(01)により、
(02)
(ⅰ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。然るに、
(ⅱ)∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(耳zx→~鼻zx)}。従って、
(ⅲ)∀x(兎x→~象x)。
といふ「推論(三段論法)」、すなはち、
(ⅰ)象は鼻が長い。然るに、
(ⅱ)兎の耳は長いが、耳は鼻ではない。従って、
(ⅲ)兎は象ではない。
といふ「推論(三段論法)」は、「妥当」である。
然るに、
(03)
アメリカの論理学者パースはレーマという概念を導入した。例をあげると、「・・・は善良である」、「・・・は―――を愛する」、「・・・は―――に与える」といったものである。つまりレーマとは、いくつかの空白的部分をもつ文のことである。ところでこのレーマは現在の論理学のことばでいえば、明らかに命題関数である。
つまり、f(x)、f(x、y)、f(x,y)といったものである(山下正雄、論理学史、1983年、95頁)。
従って、
(02)(03)により、
(04)
兎(x) は、「命題関数(レーマ)」であって、
象(x) も、「命題関数(レーマ)」である。
然るに、
(05)
~象(x) は、
象(x) の、「全体の、否定」であるため、
~〔象(x)〕 でなければ、ならない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
∀x(兎x→~象x)
という「論理式(wff)」は、
∀x[兎(x)→~〔象(x)〕]
といふ風に、書くならば、「括弧の省略」は無い。
従って、
(02)(06)により、
(07)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
2 (2)∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(耳zx→~鼻zx)} A
といふ「論理式(wff)」は、
1 (1)∀x{象(x)→∃y〔鼻(yx)&長(y)〕&∀z[~〔鼻(zx)〕→~〔長(z)〕]} A
2 (2)∀x{兎(x)→∃y〔耳(yx)&長(y)〕&∀z[ 耳(zx) →~〔鼻(zx)〕} A
といふ風に、書くならば、「括弧の省略」は無い。
然るに、
(08)
① ∀x{象(x)→∃y〔鼻(yx)&長(y)〕&∀z[~〔鼻(zx)〕→~〔長(z)〕]}
② ∀x{兎(x)→∃y〔耳(yx)&長(y)〕&∀z[ 耳(zx) →~〔鼻(zx)〕}
に於ける、「命題関数(レーマ)」に於いて、
□( )⇒□
□〔 〕⇒□
といふ「移動」を行ふと、
① ∀x{(x)象→∃y〔(yx)鼻&(y)長〕&∀z[〔(zx)鼻〕~→〔(z)長〕~]}
② ∀x{(x)兎→∃y〔(yx)耳&(y)長〕&∀z[ (zx)耳 →〔(zx)鼻〕~}
となって、「左から右へ」、
① すべてのxについて{xが象であるならば、あるyはxの鼻であって、長く、すべてのzについて[zがxの鼻でないならば、zは長くない]}。
② すべてのxについて{xが兎であるならば、あるyはxの耳であって、長く、すべてのzについて[zがxの耳であるならば、zはxの鼻ではない]}」。
という「語順」になる。
然るに、
(09)
記号論理学は、英語などヨーロッパ語を母国語とする文化圏でもっぱら開発された学門であるにもかかわらず、論理学者の母語よりも日本語のような外国語の文法に合致している部分が少なくない(もちろん逆もある)。このことは、論理学が、ローカルな日常言語ではなく言語的な普遍論理をかなり再現しおおせている証しと言えるだろう(三浦俊彦、ラッセルのパラドックス、2005年、105頁)。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
② ∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(耳zx→~鼻zx)}
といふ「人工言語」は、日本人の我々であれば、初めから、
① ∀x{x象→∃y(yx鼻&y長)&∀z(zx鼻~→z長~)}
② ∀x{x兎→∃y(yx耳&y長)&∀z(zx耳→zx鼻~)}
といふ「語順」で書いて、
① すべてのxについて{xが象であるならば、あるyはxの鼻であって、長く、すべてのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない}。
② すべてのxについて{xが象であるならば、あるyはxの耳であって、長く、すべてのzについて、zがxの耳であるならば、zはxの鼻ではない}。
という風に「訓読」しても、「何らの問題」も無い。
然るに、
(11)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く西洋文化研究者は、
「述語論理とは異なり、漢文は、自然言語であって、人工言語などでは、決してない。」と思っている、ことになる。
然るに、
(13)
文語体と口語体の区別は、もし簡便な基準を探すとなれば、それは耳で聞いてわかるのが口語体で、目で見なければわからないのが文語体だ、といえる。(「開明文言読本」開明書店、1948、導言)呂叔湘氏は人も知る「中國文法要略」(商務印書館、1942)の著者であり、解放後は中國科学院言語研究所長を勤めている超一流の言語学者であり、文化人である。
(牛島徳次、中國語の学び方、1977年、60頁)
然るに、
(14)
「耳で聞いてもわからず、目で見なければわからない自然言語が、母国語である国など、世界中のどこにも、無い。」
従って、
(11)~(14)により、
(15)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く西洋文化研究者は、
「述語論理とは異なり、漢文は、自然言語であって、人工言語などでは、決してない。」と思っているものの、
「耳で聞いてもわからず、目で見なければわからない漢文が、自然言語であるはずがない」ため、
「どこの国に、漢文を、母国語の語順で読む国があろう」かと嘆くこと自体が、「間違ひである。」と、すべきである。
(16)
シナや極東の王国では、一般に文字をも語を表わすのではなく、事物あるいは観念を表わすような、実物符号で書くのがならいになっている。そしてそれゆえに、たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができるのであるが、それは符号のほうが言語の及ばぬほど広い範囲に了解されるからである。そしてそれゆえに、語根語と(おそらく)同じほどばく大な数の符号があるのである(服部英次郎、多田英次、ベーコン、学問の進歩 他、2005年、124頁)。
然るに、
(17)
「たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができる。」
ということは、「素晴らしいこと」であるに、違ひない。
従って、
(18)
「漢文」は、むしろ、「日本語」としても、「理解できる」からこそ、その点に於いては、例へば、「ラテン語よりも、優れてゐる」とすべきである。
然るに、
(19)
少数の天才的なひとたちあるいは秀才たちは、返り点・送り仮名をつけなくとも正確な漢文の理解に至るであろう。李氏朝鮮の儒学のレベルの高さはそういう少数の秀才や天才に負うものである。・・・・・・しかし大多数のコリア人にとって、シナの古典は近づき難い高峰であった」(渡辺昇一、『英文法を撫でる』PHP新書、頁は不明)。
然るに、
(20)
日本のような漢文訓読法がなかった朝鮮では、純正漢文を読めたのは上流知識人に限られた。読書層は日本にくらべると薄く、朝鮮の対日認識は限定的なものにとどまった。極論すれば、漢文訓読法をもてなかったことが、朝鮮が近代において日本に圧倒されるようになった遠因の一つとなった(加藤徹、漢文の素養、2006年、199頁)。
従って、
(16)~(20)により、
(21)
「漢文」は、例へば、「朝鮮語」としても、「理解できた」はずであるが、「日本人」とは異なり、「朝鮮人」は、それをしなかった、ということになる。
令和03年04月22日、毛利太。
ブログを始めた当初から、これまでに、何度も示してゐる通り、
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
2 (2)∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(耳zx→~鼻zx)} A
3 (3)∃x(兎x&象x) A
1 (4) 象a→∃y(鼻ya&長y)&∀z(~鼻za→~長z) 1UE
2 (5) 兎a→∃y(耳ya&長y)&∀z(耳za→~鼻za) 2UE
6 (6) 兎a&象a A
6 (7) 象a 6&E
6 (8) 兎a 6&E
1 6 (9) ∃y(鼻ya&長y)&∀z(~鼻za→~長z) 48MPP
2 6 (ア) ∃y(耳ya&長y)&∀z(耳za→~鼻za) 57MPP
1 6 (イ) ∃y(鼻ya&長y) 9&E
ウ (ウ) 鼻ba&長b A
2 6 (エ) ∃y(耳ya&長y) ア&E
オ(オ) 耳ba&長b A
オ(カ) 耳ba オ&E
2 6 (キ) ∀z(耳za→~鼻za) ア&E
2 6 (ク) 耳ba→~鼻ba キUE
2 6 オ(ケ) ~鼻ba カクMPP
1 6 (コ) ∀z(~鼻za→~長z) ア&E
1 6 (サ) ~鼻ba→~長b コUE
12 6 オ(シ) ~長b ケサMPP
オ(ス) 長b オ&E
12 6 オ(セ) 長b&~長b シス&I
12 6 (ソ) 長b&~長b エオセEE
123 (タ) 長b&~長b 36ソEE
12 (チ)~∃x(兎x&象x) 3タRAA
12 (ツ)∀x~(兎x&象x) チ量化子の関係
12 (テ) ~(兎a&象a) ツUE
12 (ト) ~兎a∨~象a テ、ド・モルガンの法則
12 (ナ) 兎a→~象a ト含意の定義
12 (ニ)∀x(兎x→~象x) ナUI
従って、
(01)により、
(02)
(ⅰ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。然るに、
(ⅱ)∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(耳zx→~鼻zx)}。従って、
(ⅲ)∀x(兎x→~象x)。
といふ「推論(三段論法)」、すなはち、
(ⅰ)象は鼻が長い。然るに、
(ⅱ)兎の耳は長いが、耳は鼻ではない。従って、
(ⅲ)兎は象ではない。
といふ「推論(三段論法)」は、「妥当」である。
然るに、
(03)
アメリカの論理学者パースはレーマという概念を導入した。例をあげると、「・・・は善良である」、「・・・は―――を愛する」、「・・・は―――に与える」といったものである。つまりレーマとは、いくつかの空白的部分をもつ文のことである。ところでこのレーマは現在の論理学のことばでいえば、明らかに命題関数である。
つまり、f(x)、f(x、y)、f(x,y)といったものである(山下正雄、論理学史、1983年、95頁)。
従って、
(02)(03)により、
(04)
兎(x) は、「命題関数(レーマ)」であって、
象(x) も、「命題関数(レーマ)」である。
然るに、
(05)
~象(x) は、
象(x) の、「全体の、否定」であるため、
~〔象(x)〕 でなければ、ならない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
∀x(兎x→~象x)
という「論理式(wff)」は、
∀x[兎(x)→~〔象(x)〕]
といふ風に、書くならば、「括弧の省略」は無い。
従って、
(02)(06)により、
(07)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
2 (2)∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(耳zx→~鼻zx)} A
といふ「論理式(wff)」は、
1 (1)∀x{象(x)→∃y〔鼻(yx)&長(y)〕&∀z[~〔鼻(zx)〕→~〔長(z)〕]} A
2 (2)∀x{兎(x)→∃y〔耳(yx)&長(y)〕&∀z[ 耳(zx) →~〔鼻(zx)〕} A
といふ風に、書くならば、「括弧の省略」は無い。
然るに、
(08)
① ∀x{象(x)→∃y〔鼻(yx)&長(y)〕&∀z[~〔鼻(zx)〕→~〔長(z)〕]}
② ∀x{兎(x)→∃y〔耳(yx)&長(y)〕&∀z[ 耳(zx) →~〔鼻(zx)〕}
に於ける、「命題関数(レーマ)」に於いて、
□( )⇒□
□〔 〕⇒□
といふ「移動」を行ふと、
① ∀x{(x)象→∃y〔(yx)鼻&(y)長〕&∀z[〔(zx)鼻〕~→〔(z)長〕~]}
② ∀x{(x)兎→∃y〔(yx)耳&(y)長〕&∀z[ (zx)耳 →〔(zx)鼻〕~}
となって、「左から右へ」、
① すべてのxについて{xが象であるならば、あるyはxの鼻であって、長く、すべてのzについて[zがxの鼻でないならば、zは長くない]}。
② すべてのxについて{xが兎であるならば、あるyはxの耳であって、長く、すべてのzについて[zがxの耳であるならば、zはxの鼻ではない]}」。
という「語順」になる。
然るに、
(09)
記号論理学は、英語などヨーロッパ語を母国語とする文化圏でもっぱら開発された学門であるにもかかわらず、論理学者の母語よりも日本語のような外国語の文法に合致している部分が少なくない(もちろん逆もある)。このことは、論理学が、ローカルな日常言語ではなく言語的な普遍論理をかなり再現しおおせている証しと言えるだろう(三浦俊彦、ラッセルのパラドックス、2005年、105頁)。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
② ∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(耳zx→~鼻zx)}
といふ「人工言語」は、日本人の我々であれば、初めから、
① ∀x{x象→∃y(yx鼻&y長)&∀z(zx鼻~→z長~)}
② ∀x{x兎→∃y(yx耳&y長)&∀z(zx耳→zx鼻~)}
といふ「語順」で書いて、
① すべてのxについて{xが象であるならば、あるyはxの鼻であって、長く、すべてのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない}。
② すべてのxについて{xが象であるならば、あるyはxの耳であって、長く、すべてのzについて、zがxの耳であるならば、zはxの鼻ではない}。
という風に「訓読」しても、「何らの問題」も無い。
然るに、
(11)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く西洋文化研究者は、
「述語論理とは異なり、漢文は、自然言語であって、人工言語などでは、決してない。」と思っている、ことになる。
然るに、
(13)
文語体と口語体の区別は、もし簡便な基準を探すとなれば、それは耳で聞いてわかるのが口語体で、目で見なければわからないのが文語体だ、といえる。(「開明文言読本」開明書店、1948、導言)呂叔湘氏は人も知る「中國文法要略」(商務印書館、1942)の著者であり、解放後は中國科学院言語研究所長を勤めている超一流の言語学者であり、文化人である。
(牛島徳次、中國語の学び方、1977年、60頁)
然るに、
(14)
「耳で聞いてもわからず、目で見なければわからない自然言語が、母国語である国など、世界中のどこにも、無い。」
従って、
(11)~(14)により、
(15)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く西洋文化研究者は、
「述語論理とは異なり、漢文は、自然言語であって、人工言語などでは、決してない。」と思っているものの、
「耳で聞いてもわからず、目で見なければわからない漢文が、自然言語であるはずがない」ため、
「どこの国に、漢文を、母国語の語順で読む国があろう」かと嘆くこと自体が、「間違ひである。」と、すべきである。
(16)
シナや極東の王国では、一般に文字をも語を表わすのではなく、事物あるいは観念を表わすような、実物符号で書くのがならいになっている。そしてそれゆえに、たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができるのであるが、それは符号のほうが言語の及ばぬほど広い範囲に了解されるからである。そしてそれゆえに、語根語と(おそらく)同じほどばく大な数の符号があるのである(服部英次郎、多田英次、ベーコン、学問の進歩 他、2005年、124頁)。
然るに、
(17)
「たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができる。」
ということは、「素晴らしいこと」であるに、違ひない。
従って、
(18)
「漢文」は、むしろ、「日本語」としても、「理解できる」からこそ、その点に於いては、例へば、「ラテン語よりも、優れてゐる」とすべきである。
然るに、
(19)
少数の天才的なひとたちあるいは秀才たちは、返り点・送り仮名をつけなくとも正確な漢文の理解に至るであろう。李氏朝鮮の儒学のレベルの高さはそういう少数の秀才や天才に負うものである。・・・・・・しかし大多数のコリア人にとって、シナの古典は近づき難い高峰であった」(渡辺昇一、『英文法を撫でる』PHP新書、頁は不明)。
然るに、
(20)
日本のような漢文訓読法がなかった朝鮮では、純正漢文を読めたのは上流知識人に限られた。読書層は日本にくらべると薄く、朝鮮の対日認識は限定的なものにとどまった。極論すれば、漢文訓読法をもてなかったことが、朝鮮が近代において日本に圧倒されるようになった遠因の一つとなった(加藤徹、漢文の素養、2006年、199頁)。
従って、
(16)~(20)により、
(21)
「漢文」は、例へば、「朝鮮語」としても、「理解できた」はずであるが、「日本人」とは異なり、「朝鮮人」は、それをしなかった、ということになる。
令和03年04月22日、毛利太。
2021年4月19日月曜日
「述語論理訓読」と「漢文訓読」。
(01)
(ⅰ)
1 (1)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師匠yx&x<y)} A
1 (2)∃x~{ 弟子x→ ∃y(師匠yx&x<y)} 1量化子の関係
3(3) ~{ 弟子a→ ∃y(師匠ya&a<y)} A
3(4) ~{~弟子a∨ ∃y(師匠ya&a<y)} 3含意の定義
3(5) 弟子a&~∃y(師匠ya&a<y) 4ド・モルガンの法則
3(6) 弟子a 5&E
3(7) ~∃y(師匠ya&a<y) 5&E
3(8) ∀y~(師匠ya&a<y) 7量化子の関係
3(9) ~(師匠ba&a<b) 8UE
3(ア) ~師匠ba∨a≧b 9ド・モルガンの法則
3(イ) 師匠ba→a≧b ア含意の定義
3(ウ) ∀y(師匠ya→a≧y) イUI
3(エ) 弟子a&∀y(師匠ya→a≧y) 6ウ&I
3(オ) ∃x{弟子a&∀y(師匠yx→x≧y)} エEI
1 (カ) ∃x{弟子x&∀y(師匠yx→x≧y)} 13オEE
(ⅱ)
1 (1) ∃x{弟子x&∀y(師匠yx→x≧y)} A
2(2) 弟子a&∀y(師匠ya→a≧y) A
2(3) 弟子a 2&E
2(4) ∀y(師匠ya→a≧y) 2&E
2(5) 師匠ba→a≧b 4UE
2(6) ~師匠ba∨a≧b 5含意の定義
2(7) ~(師匠ba&a<b) 6ド・モルガンの法則
2(8) ∀y~(師匠ya&a<y) 7UI
2(9) ~∃y(師匠ya&a<y) 8量化子の関係
2(ア) 弟子a&~∃y(師匠ya&a<y) 39&I
2(イ) ~{~弟子a∨ ∃y(師匠ya&a<y)} ア、ド・モルガンの法則
2(ウ) ~{ 弟子a→ ∃y(師匠ya&a<y)} イ含意の定義
2(エ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師匠ya&a<y)} 2EI
1 (オ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師匠ya&a<y)} 12エEE
1 (カ)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師匠yx&x<y)} オ量化子の関係
従って、
(01)により、
(02)
① ~∀x{弟子x→∃y(師匠yx&x<y)}
② ∃x{弟子x&∀y(師匠yx→x≧y)}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
(ⅰ)
1 (1)~{∀x[ 弟子(x)→ ∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]} A
1 (2) ∃x~{ 弟子(x)→ ∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕} 1量化子の関係
3(3) ~{ 弟子(a)→ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} A
3(4) ~{~弟子(a)∨ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} 3含意の定義
3(5) 弟子(a)&~∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 4ド・モルガンの法則
3(6) 弟子(a) 5&E
3(7) ~∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 5&E
3(8) ∀y~〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 7量化子の関係
3(9) ~〔師匠(ba)&~(a≧b)〕 8UE
3(ア) ~師匠(ba)∨ (a≧b) 9ド・モルガンの法則
3(イ) 師匠(ba)→ (a≧b) ア含意の定義
3(ウ) ∀y〔師匠(ya)→ (a≧y)〕 イUI
3(エ) 弟子(a)& ∀y〔師匠(ya)→ (a≧y)〕 6ウ&I
3(オ) ∃x{弟子(a)& ∀y〔師匠(yx)→ (x≧y)〕} エEI
1 (カ) ∃x{弟子(x)& ∀y〔師匠(yx)→ (x≧y)〕} 13オEE
(ⅱ)
1 (1) ∃x{弟子(x)& ∀y〔師匠(yx)→ (x≧y)〕} A
2(2) 弟子(a)& ∀y〔師匠(ya)→ (a≧y)〕 A
2(3) 弟子(a) 2&E
2(4) ∀y〔師匠(ya)→ (a≧y)〕 2&E
2(5) 師匠(ba)→ (a≧b) 4UE
2(6) ~師匠(ba)∨ (a≧b) 5含意の定義
2(7) ~(師匠(ba)&~(a≧b)〕 6ド・モルガンの法則
2(8) ∀y~〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 7UI
2(9) ~∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 8量化子の関係
2(ア) 弟子(a)&~∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 39&I
2(イ) ~{~弟子(a)∨ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} ア、ド・モルガンの法則
2(ウ) ~{ 弟子(a)→ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} イ含意の定義
2(エ) ∃x~{ 弟子(a)→ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} 2EI
1 (オ) ∃x~{ 弟子(a)→ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} 12エEE
1 (カ)~{∀x[ 弟子(x)→ ∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]} オ量化子の関係
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① ~∀x{弟子x→∃y(師匠yx&x<y)}
② ∃x{弟子x&∀y(師匠yx→x≧y)}
③ ~{∀x[弟子(x)→∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]}
④ ∃x{弟子(x)&∀y〔師匠(yx)→ (x≧y)〕}
に於いて、
①=③ であって、
②=④ である。
然るに、
(05)
① ~{∀x[弟子(x)→∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]}
に於いて、
① ~{ }⇒{ }~
① 弟子( )⇒( )弟子
① 師匠( )⇒( )師匠
① ~{ }⇒{ }~
といふ「移動」を行ふと、
① {∀x[(x)弟子→∃y〔(yx)師匠&(x≧y)~〕]}~
といふ「語順」になる。
然るに、
(06)
① {∀x[(x)弟子→∃y〔(yx)師匠&(x≧y)~〕]}~
といふ「述語論理式」は、「左から右へ」、
① {すべてのxについて[(xが)弟子でならば、ある〔(yはxの)師匠であって(xはyに及ば)ない〕]}といふことはない。
といふ風に、「読む」ことになる。
然るに、
(07)
① 弟子不必不如師=
① 弟子不ニ必不一レ如レ師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不=
① 弟子は必ずしも、師匠に及ばない、というわけではない。
といふ「読み方」が、「漢文・訓読」であるならば、
② ~∀x{弟子x→∃y(師匠yx&x<y)}=
② ~{∀x[弟子(x)→∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]}⇒
② {∀x[(x)弟子→∃y〔(yx)師匠&(x≧y)~〕]}~=
②{すべてのxについて[(xが)弟子でならば、ある〔(yはxの)師匠であって(xはyに及ば)ない〕]}といふことはない。
といふ「読み方」は、いはば、「述語論理・訓読」である。
然るに、
(08)
記号論理学は、英語などヨーロッパ語を母国語とする文化圏でもっぱら開発された学門であるにもかかわらず、論理学者の母語よりも日本語のような外国語の文法に合致している部分が少なくない(もちろん逆もある)。このことは、論理学が、ローカルな日常言語ではなく言語的な普遍論理をかなり再現しおおせている証しと言えるだろう(三浦俊彦、ラッセルのパラドックス、2005年、105頁)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
② ~∀x{弟子x→∃y(師匠yx&x<y)}=
② ~{∀x[弟子(x)→∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]}⇒
② {∀x[(x)弟子→∃y〔(yx)師匠&(x≧y)~〕]}~=
②{すべてのxについて[(xが)弟子でならば、ある〔(yはxの)師匠であって(xはyに及ば)ない〕]}といふことはない。
といふ「述語論理・訓読」を行っても、「誰にも、文句を言はれない。」
然るに、
(10)
(青木)二百年前、正徳の昔に於て荻生徂徠は夙に道破した。漢学の授業法はまず支那語から取りかからねばならぬ。教うるに俗語を以てし、誦するに支那音を以てし、訳するに日本の俗語を以てし、決して和訓廻環の読み方をしてはならぬ。先ず零細な二字三字の短句から始めて、後には纏った書物を読ませる、斯くて支那語が熟達して支那人と同様になつてから、而る後段々と経子史集四部の書を読ませると云う風にすれば破竹の如しだ、是が最良の策だ(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(倉石)徂徠は、単に唐音を操るといふ様なことに満足せず、漢文を学ぶには先ず支那語からとりかり、支那の俗語をば支那語で暗誦させ、これを日本語の俗語に訳し、決して和訓の顚倒読みをしてはならない、始めは零細な二字三字の句から始めて、遂に纏った書物を読ます、支那語が支那人ほど熟達してから、古い書物を読ませば、破竹の勢いで進歩すると説いたこれは、今日の様に外国語に対する理念が発達した時代から見れば、何の不思議もないことであるが、その当時、つとに、かかる意見を吐いたのは、たしかに一世に抜きんでた見識に相違ない(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(11)
日本語や英語、中国語(現代でなく、過去の中国語も含む)は、自然言語である。しかし漢文は、自然言語を土台にした人工言語だ(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、8頁)。中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)。しからば、口語はAxByであるものを、文章語はABとつづめても、これはこれで完全な文となり得る。かくして記載語のABは、はじめから口語のAxByとは別のものとして発生し、存在したと思われる(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、59頁)。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
荻生徂徠、青木正兒、倉石武四郎は、「漢文は、中国語である。」といふに、思ってゐた、ことになり、
魚返善雄、吉川幸次郎、加藤徹 は、「漢文は、人工言語」であると、思ってゐる(た)ことに、なるものの、「人工言語」であるならば、
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒ 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不。
② ~∀x{弟子x→∃y(師匠yx&x<y)}⇒ すべてのxについて[(xが)弟子でならば、ある〔(yはxの)師匠であって(xはyに及ば)ない〕]}といふことはない。
といふ風に読んだとしても、「問題」は、無いはずある。
然るに、
(13)
「ユーチューブ」で探してみたところ(李姉妹ch)、
A:中国人ならば、漢文をスラスラ読めるのか。日頃から、トップレベルに多い質問なんですけど、ズバリ結論からいうと、中国語が出来るからと言って、漢文が読めるわけではありません。その人の知識次第です。
A:今日は、この動画をとるに当たって、日本の漢文で、どういう感じだったかなぁ、と思って、2019年度のセンター試験の、国語の問題の中から、持って来ました。 B:これは、杜甫の文章です。Dùfǔ。えっ、ちょっと読んでみます。Wūhū'āizāi yǒu xiōng zǐ yuē fǔ zhìfú yú sī jì dé yú sī kè shí yú sī huò yuē qǐ xiào tóng zhī yóuzi yǔ xī xiàoyì zhī qín ruò cǐ.
A:全く、分からん。
B:全く、分からん。― 中略 ―、「そもそも、語順が違うから、並び替えも必要。― 後略 ―、因みに、中国の学生に、「文言文(漢文)」という言葉は、「禁句の言葉」に入るくらい、聞いただけで、鳥肌が立つって言うさ、
A:いやな思い出しかないって、言うみたいな。
B:マジで嫌。みんな、嫌いやもん、文言文(漢文)は、
A:因みに、お母さんに、この動画撮る前に、文言文(漢文)について、動画撮るって、言ったら、
B:ウン、
A:ハァッツ(と、母はため息をついたとのことで、二人とも、声をだして、笑う)。お母さん、メッチャ、きらいやった。っていうとった。嫌いな人が多い、ムズカシイんやろなぁ。
従って、
(12)(13)により、
(14)
「漢文(文言文)」が、「人工言語」であらうと、なからうと、いづれにせよ、
「漢文(文言文)」を理解する上で、「中国語の知識」は、「何らのアドバンテージ」にも、なりそうにない。
従って、
(08)~(14)により、
(15)
「英語」が出来なければ、「論理学」が分かるようにならないわけではないため、それと「同じ様」に、
「漢学の授業法はまず支那語から取りかからねばならぬ」という風に、私自身は、思はない。
令和03年04月19日、毛利太。
(ⅰ)
1 (1)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師匠yx&x<y)} A
1 (2)∃x~{ 弟子x→ ∃y(師匠yx&x<y)} 1量化子の関係
3(3) ~{ 弟子a→ ∃y(師匠ya&a<y)} A
3(4) ~{~弟子a∨ ∃y(師匠ya&a<y)} 3含意の定義
3(5) 弟子a&~∃y(師匠ya&a<y) 4ド・モルガンの法則
3(6) 弟子a 5&E
3(7) ~∃y(師匠ya&a<y) 5&E
3(8) ∀y~(師匠ya&a<y) 7量化子の関係
3(9) ~(師匠ba&a<b) 8UE
3(ア) ~師匠ba∨a≧b 9ド・モルガンの法則
3(イ) 師匠ba→a≧b ア含意の定義
3(ウ) ∀y(師匠ya→a≧y) イUI
3(エ) 弟子a&∀y(師匠ya→a≧y) 6ウ&I
3(オ) ∃x{弟子a&∀y(師匠yx→x≧y)} エEI
1 (カ) ∃x{弟子x&∀y(師匠yx→x≧y)} 13オEE
(ⅱ)
1 (1) ∃x{弟子x&∀y(師匠yx→x≧y)} A
2(2) 弟子a&∀y(師匠ya→a≧y) A
2(3) 弟子a 2&E
2(4) ∀y(師匠ya→a≧y) 2&E
2(5) 師匠ba→a≧b 4UE
2(6) ~師匠ba∨a≧b 5含意の定義
2(7) ~(師匠ba&a<b) 6ド・モルガンの法則
2(8) ∀y~(師匠ya&a<y) 7UI
2(9) ~∃y(師匠ya&a<y) 8量化子の関係
2(ア) 弟子a&~∃y(師匠ya&a<y) 39&I
2(イ) ~{~弟子a∨ ∃y(師匠ya&a<y)} ア、ド・モルガンの法則
2(ウ) ~{ 弟子a→ ∃y(師匠ya&a<y)} イ含意の定義
2(エ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師匠ya&a<y)} 2EI
1 (オ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師匠ya&a<y)} 12エEE
1 (カ)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師匠yx&x<y)} オ量化子の関係
従って、
(01)により、
(02)
① ~∀x{弟子x→∃y(師匠yx&x<y)}
② ∃x{弟子x&∀y(師匠yx→x≧y)}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
(ⅰ)
1 (1)~{∀x[ 弟子(x)→ ∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]} A
1 (2) ∃x~{ 弟子(x)→ ∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕} 1量化子の関係
3(3) ~{ 弟子(a)→ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} A
3(4) ~{~弟子(a)∨ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} 3含意の定義
3(5) 弟子(a)&~∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 4ド・モルガンの法則
3(6) 弟子(a) 5&E
3(7) ~∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 5&E
3(8) ∀y~〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 7量化子の関係
3(9) ~〔師匠(ba)&~(a≧b)〕 8UE
3(ア) ~師匠(ba)∨ (a≧b) 9ド・モルガンの法則
3(イ) 師匠(ba)→ (a≧b) ア含意の定義
3(ウ) ∀y〔師匠(ya)→ (a≧y)〕 イUI
3(エ) 弟子(a)& ∀y〔師匠(ya)→ (a≧y)〕 6ウ&I
3(オ) ∃x{弟子(a)& ∀y〔師匠(yx)→ (x≧y)〕} エEI
1 (カ) ∃x{弟子(x)& ∀y〔師匠(yx)→ (x≧y)〕} 13オEE
(ⅱ)
1 (1) ∃x{弟子(x)& ∀y〔師匠(yx)→ (x≧y)〕} A
2(2) 弟子(a)& ∀y〔師匠(ya)→ (a≧y)〕 A
2(3) 弟子(a) 2&E
2(4) ∀y〔師匠(ya)→ (a≧y)〕 2&E
2(5) 師匠(ba)→ (a≧b) 4UE
2(6) ~師匠(ba)∨ (a≧b) 5含意の定義
2(7) ~(師匠(ba)&~(a≧b)〕 6ド・モルガンの法則
2(8) ∀y~〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 7UI
2(9) ~∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 8量化子の関係
2(ア) 弟子(a)&~∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 39&I
2(イ) ~{~弟子(a)∨ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} ア、ド・モルガンの法則
2(ウ) ~{ 弟子(a)→ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} イ含意の定義
2(エ) ∃x~{ 弟子(a)→ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} 2EI
1 (オ) ∃x~{ 弟子(a)→ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} 12エEE
1 (カ)~{∀x[ 弟子(x)→ ∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]} オ量化子の関係
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① ~∀x{弟子x→∃y(師匠yx&x<y)}
② ∃x{弟子x&∀y(師匠yx→x≧y)}
③ ~{∀x[弟子(x)→∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]}
④ ∃x{弟子(x)&∀y〔師匠(yx)→ (x≧y)〕}
に於いて、
①=③ であって、
②=④ である。
然るに、
(05)
① ~{∀x[弟子(x)→∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]}
に於いて、
① ~{ }⇒{ }~
① 弟子( )⇒( )弟子
① 師匠( )⇒( )師匠
① ~{ }⇒{ }~
といふ「移動」を行ふと、
① {∀x[(x)弟子→∃y〔(yx)師匠&(x≧y)~〕]}~
といふ「語順」になる。
然るに、
(06)
① {∀x[(x)弟子→∃y〔(yx)師匠&(x≧y)~〕]}~
といふ「述語論理式」は、「左から右へ」、
① {すべてのxについて[(xが)弟子でならば、ある〔(yはxの)師匠であって(xはyに及ば)ない〕]}といふことはない。
といふ風に、「読む」ことになる。
然るに、
(07)
① 弟子不必不如師=
① 弟子不ニ必不一レ如レ師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不=
① 弟子は必ずしも、師匠に及ばない、というわけではない。
といふ「読み方」が、「漢文・訓読」であるならば、
② ~∀x{弟子x→∃y(師匠yx&x<y)}=
② ~{∀x[弟子(x)→∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]}⇒
② {∀x[(x)弟子→∃y〔(yx)師匠&(x≧y)~〕]}~=
②{すべてのxについて[(xが)弟子でならば、ある〔(yはxの)師匠であって(xはyに及ば)ない〕]}といふことはない。
といふ「読み方」は、いはば、「述語論理・訓読」である。
然るに、
(08)
記号論理学は、英語などヨーロッパ語を母国語とする文化圏でもっぱら開発された学門であるにもかかわらず、論理学者の母語よりも日本語のような外国語の文法に合致している部分が少なくない(もちろん逆もある)。このことは、論理学が、ローカルな日常言語ではなく言語的な普遍論理をかなり再現しおおせている証しと言えるだろう(三浦俊彦、ラッセルのパラドックス、2005年、105頁)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
② ~∀x{弟子x→∃y(師匠yx&x<y)}=
② ~{∀x[弟子(x)→∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]}⇒
② {∀x[(x)弟子→∃y〔(yx)師匠&(x≧y)~〕]}~=
②{すべてのxについて[(xが)弟子でならば、ある〔(yはxの)師匠であって(xはyに及ば)ない〕]}といふことはない。
といふ「述語論理・訓読」を行っても、「誰にも、文句を言はれない。」
然るに、
(10)
(青木)二百年前、正徳の昔に於て荻生徂徠は夙に道破した。漢学の授業法はまず支那語から取りかからねばならぬ。教うるに俗語を以てし、誦するに支那音を以てし、訳するに日本の俗語を以てし、決して和訓廻環の読み方をしてはならぬ。先ず零細な二字三字の短句から始めて、後には纏った書物を読ませる、斯くて支那語が熟達して支那人と同様になつてから、而る後段々と経子史集四部の書を読ませると云う風にすれば破竹の如しだ、是が最良の策だ(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(倉石)徂徠は、単に唐音を操るといふ様なことに満足せず、漢文を学ぶには先ず支那語からとりかり、支那の俗語をば支那語で暗誦させ、これを日本語の俗語に訳し、決して和訓の顚倒読みをしてはならない、始めは零細な二字三字の句から始めて、遂に纏った書物を読ます、支那語が支那人ほど熟達してから、古い書物を読ませば、破竹の勢いで進歩すると説いたこれは、今日の様に外国語に対する理念が発達した時代から見れば、何の不思議もないことであるが、その当時、つとに、かかる意見を吐いたのは、たしかに一世に抜きんでた見識に相違ない(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(11)
日本語や英語、中国語(現代でなく、過去の中国語も含む)は、自然言語である。しかし漢文は、自然言語を土台にした人工言語だ(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、8頁)。中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)。しからば、口語はAxByであるものを、文章語はABとつづめても、これはこれで完全な文となり得る。かくして記載語のABは、はじめから口語のAxByとは別のものとして発生し、存在したと思われる(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、59頁)。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
荻生徂徠、青木正兒、倉石武四郎は、「漢文は、中国語である。」といふに、思ってゐた、ことになり、
魚返善雄、吉川幸次郎、加藤徹 は、「漢文は、人工言語」であると、思ってゐる(た)ことに、なるものの、「人工言語」であるならば、
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒ 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不。
② ~∀x{弟子x→∃y(師匠yx&x<y)}⇒ すべてのxについて[(xが)弟子でならば、ある〔(yはxの)師匠であって(xはyに及ば)ない〕]}といふことはない。
といふ風に読んだとしても、「問題」は、無いはずある。
然るに、
(13)
「ユーチューブ」で探してみたところ(李姉妹ch)、
A:中国人ならば、漢文をスラスラ読めるのか。日頃から、トップレベルに多い質問なんですけど、ズバリ結論からいうと、中国語が出来るからと言って、漢文が読めるわけではありません。その人の知識次第です。
A:今日は、この動画をとるに当たって、日本の漢文で、どういう感じだったかなぁ、と思って、2019年度のセンター試験の、国語の問題の中から、持って来ました。 B:これは、杜甫の文章です。Dùfǔ。えっ、ちょっと読んでみます。Wūhū'āizāi yǒu xiōng zǐ yuē fǔ zhìfú yú sī jì dé yú sī kè shí yú sī huò yuē qǐ xiào tóng zhī yóuzi yǔ xī xiàoyì zhī qín ruò cǐ.
A:全く、分からん。
B:全く、分からん。― 中略 ―、「そもそも、語順が違うから、並び替えも必要。― 後略 ―、因みに、中国の学生に、「文言文(漢文)」という言葉は、「禁句の言葉」に入るくらい、聞いただけで、鳥肌が立つって言うさ、
A:いやな思い出しかないって、言うみたいな。
B:マジで嫌。みんな、嫌いやもん、文言文(漢文)は、
A:因みに、お母さんに、この動画撮る前に、文言文(漢文)について、動画撮るって、言ったら、
B:ウン、
A:ハァッツ(と、母はため息をついたとのことで、二人とも、声をだして、笑う)。お母さん、メッチャ、きらいやった。っていうとった。嫌いな人が多い、ムズカシイんやろなぁ。
従って、
(12)(13)により、
(14)
「漢文(文言文)」が、「人工言語」であらうと、なからうと、いづれにせよ、
「漢文(文言文)」を理解する上で、「中国語の知識」は、「何らのアドバンテージ」にも、なりそうにない。
従って、
(08)~(14)により、
(15)
「英語」が出来なければ、「論理学」が分かるようにならないわけではないため、それと「同じ様」に、
「漢学の授業法はまず支那語から取りかからねばならぬ」という風に、私自身は、思はない。
令和03年04月19日、毛利太。
2021年4月18日日曜日
「返り点」と「括弧」と「述語論理」と「漢文訓読」と「京大の漢文の先生」。
―「昨日(令和03年04月18日)の記事」を書き直します。―
(01)
(ⅰ)
1 (1)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} A
1 (2)∃x~{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} 1量化子の関係
3(3) ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} A
3(4) ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} 3含意の定義
3(5) 弟子a&~∃y(師ya&a<y) 4ド・モルガンの法則
3(6) 弟子a 5&E
3(7) ~∃y(師ya&a<y) 5&E
3(8) ∀y~(師ya&a<y) 7量化子の関係
3(9) ~(師ba&a<b) 8UE
3(ア) ~師ba∨a≧b 9ド・モルガンの法則
3(イ) 師ba→a≧b ア含意の定義
3(ウ) ∀y(師ya→a≧y) イUI
3(エ) 弟子a&∀y(師ya→a≧y) 6ウ&I
3(オ) ∃x{弟子a&∀y(師yx→x≧y)} エEI
1 (カ) ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} 13オEE
(ⅱ)
1 (1) ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} A
2(2) 弟子a&∀y(師ya→a≧y) A
2(3) 弟子a 2&E
2(4) ∀y(師ya→a≧y) 2&E
2(5) 師ba→a≧b 4UE
2(6) ~師ba∨a≧b 5含意の定義
2(7) ~(師ba&a<b) 6ド・モルガンの法則
2(8) ∀y~(師ya&a<y) 7UI
2(9) ~∃y(師ya&a<y) 8量化子の関係
2(ア) 弟子a&~∃y(師ya&a<y) 39&I
2(イ) ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} ア、ド・モルガンの法則
2(ウ) ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} イ含意の定義
2(エ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} 2EI
1 (オ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} 12エEE
1 (カ)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} オ量化子の関係
従って、
(01)により、
(02)
① ~∀x{弟子x→∃y(師yx&x<y)}
② ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
① y>x
② ~(x≧y)
に於いて、
①=② である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① ~∀x{弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕}
② ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(05)
① ~∀x(Fx)
② ~{∀x(Fx)}
に於いて、
①=② である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(07)
「~(A≧B)」=「AはBに及ばない。」
「A≧B」 =「AはBに及んでゐる。」
といふ風に、「読む」ことにする。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、すなはち、
① すべてのxについて{xが弟子であるならば、あるyは(xの師匠であって、xはyに及ばない)。}といふわけではない。
② あるxについて{xは弟子であって、すべてのyについて(yがxの師匠であるならば、xはyに及んでゐる)}。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(09)
② 弟子不必不如師=
② 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
② 弟子[必〔(師)如〕不]不=
② 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不=
② 弟子は必ずしも、師匠に及ばない、というわけではない。
然るに、
(10)
弟子は必ずしも師に及ばないというわけではなく(、弟子の方がすぐれている場合もある)。
(三省堂、明解古典学習シリーズ20、1973年、56頁)
従って、
(07)~(10)により、
(11)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② 弟子不[必不〔如(師)〕]
に於いて、
① は、「二重否定」であって、
② も、「二重否定」であって、
① は、② の「直訳」である。
然るに、
(12)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(11)(12)により、
(13)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② 弟子不[必不〔如(師)〕]
に於ける。
①{ [ 〔 ( ) 〕 ] }
② [ 〔 ( ) 〕 ]
といふ「括弧」は、「スコープ(scope)」を明示する「働き」を担ってゐる。
然るに、
(14)
「管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない。
(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)
従って、
(13)(14)により、
(15)
① ~∀x{弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕}
② 弟子不[必不〔如(師)〕]
に於ける。
①{ [ 〔 ( ) 〕 ] }
② [ 〔 ( ) 〕 ]
といふ「括弧」は、「管到(scope)」を明示する「働き」を担ってゐる。
従って、
(01)~(15)により、
(16)
加藤徹先生が、仮に、
1 (1)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} A
1 (2)∃x~{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} 1量化子の関係
3(3) ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} A
3(4) ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} 3含意の定義
3(5) 弟子a&~∃y(師ya&a<y) 4ド・モルガンの法則
3(6) 弟子a 5&E
3(7) ~∃y(師ya&a<y) 5&E
3(8) ∀y~(師ya&a<y) 7量化子の関係
3(9) ~(師ba&a<b) 8UE
3(ア) ~師ba∨a≧b 9ド・モルガンの法則
3(イ) 師ba→a≧b ア含意の定義
3(ウ) ∀y(師ya→a≧y) イUI
3(エ) 弟子a&∀y(師ya→a≧y) 6ウ&I
3(オ) ∃x{弟子a&∀y(師yx→x≧y)} エEI
1 (カ) ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} 13オEE
といふ「計算」を、行ふ人であるならば、
加藤徹先生もまた、既に、
① 弟子不必不如師=
① 弟子不ニ必不一レ如レ師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不=
① 弟子は必ずしも、師匠に及ばない、というわけではない=
① 弟子は必ずしも師に及ばないというわけではなく(、弟子の方がすぐれている場合もある)。
といふ「括弧の用法」に、気付いてゐることになる。
然るに、
(17)
「白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考える。」
といふことを、『趣味』にしてゐる(た)人には、分かってもらえる通り、
② 弟子不必不如師。
のやうに、「極めて簡単な漢文(白文)」であれば、「それを見た瞬間」に、
② 弟子は必ずしも師に如か不んばあら不。
といふに、「訓読」出来る。
然るに、
(18)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
② 是以大學始敎必使下學者即二凡天下之物一莫上レ不下因二其已知之理一益々極レ之以求上レ至二乎其極一=
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
② 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
に於ける、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
のような、「極めて複雑な漢文(白文)」の場合は、「それを見た瞬間」に、
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
といふに、「訓読」することは、「相当、難しい」。
然るに、
(19)
例えば、京都大学において、その中国文化の研究について、大きな基礎を作られた狩野直喜氏(一八六六~一九四七)は、その教えを受けた倉石武四郎(一八九七~」に、かつて「自分たちが訓読するのは、そういう習慣になっていたから、いちおう訓読するだけで、実は、原文を直読しているのである」と語られたという。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、385頁)
従って、
(18)(19)により、
(20)
狩野直喜氏(一八六六~一九四七)であれば、あるいは、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
という「漢文」であっても、「訓読」としての「直読」が、可能であったと、思はれる。
然るに、
(21)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(18)(21)により、
(22)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
② 是以大學始敎必使下學者即二凡天下之物一莫上レ不下因二其已知之理一益々極レ之以求上レ至二乎其極一=
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
② 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
に於ける、
②〈 ( ) { [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」は、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の「補足構造」を表してゐる、と同時に、「訓読」に於ける、
② 下 二 一 上レ 下 二 一 レ レ 二 一
といふ「返り点」に、「相当」する。
従って、
(14)(22)により、
(23)
例へば、「京都大学の漢文の先生」に、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文の補足構造」を「質問」した「結果」として、
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」を、得ることが、出来たのであれば、そのまま直ぐに、
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ、「訓読の語順」を、得ることになる。
然るに、
(24)
文系国語
第一問は評論、随筆、第二問は、従来は文語文が出題されていたが、近年では小説や随筆が出題される事が多い(ただし、やや文語的なものが出題される)。第三問は古典である。主に古文が出題される。各大問とも配点はそれぞれ50点である。
(京大対策/国語 - Wikibooks - ウィキブックス)
従って、
(24)により、
(25)
どうやら、「京都大学」の場合は、「文系の入試」でさえも、「漢文の出題」が無いことになる。
加へて、
(26)
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください。
(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)
然るに、
(27)
「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという。
(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)
従って、
(23)~(27)により、
(28)
例へば、「京都大学の漢文の先生」に、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文の補足構造」を「質問」することまでは、「良い」としても、
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ「訓読」が、「正しいのか、間違ひであるのか」といふことを、「質問」しては、ならない。
然るに、
(29)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
従って、
(28)(29)により、
(30)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、ある人が、
② Shì yǐ dàxué shǐ jiào bì shǐ xuézhě jí fán tiānxià zhī wù mòbù yīn qí yǐ zhīzhī lǐ ér yì jí zhī yǐ qiú zhì hū qí jí.
といふ風に、読めるからと言って、その人が、
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」を、「把握」してゐるとは、限らない。
然るに、
(31)
然るに、
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる。
(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)
従って、
(24)~(31)により、
(32)
大学(京都帝国大学)に入った二年目(昭和5年)の秋から、
① 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
① 是以大學始敎必使下 學者即二 凡天下之物一莫上レ 不下 因二 其已知之理一益々極レ 之以求上レ 至二 乎其極一=
① 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
① 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
① 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已の知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
① そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
といふ「読み方」は、「京都大学」に於いて、「排斥」されて来た。といふことになる。
(33)
その「結果」として、「京都大学の漢文」先生が、「他の大学の漢文」の先生よりも、「漢文の読み書き」に於いて、優秀なのか、否か。
といふことについては、部外者の私には、全く、分からない。
(34)
中國以北京語為國語矣。然若北京語非漢文也。是以中國語直読法雖盛中華人民共和國語不可以書中夏之書審矣。
如日本之学生有欲能読漢文者則宜以括弧学其管到。古漢文之於日本語猶古文之於日本語也。故漢文亦日本語也。
学中國語莫若音読、学漢文莫若以訓読学之。
令和03年04月19日、毛利太。
(01)
(ⅰ)
1 (1)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} A
1 (2)∃x~{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} 1量化子の関係
3(3) ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} A
3(4) ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} 3含意の定義
3(5) 弟子a&~∃y(師ya&a<y) 4ド・モルガンの法則
3(6) 弟子a 5&E
3(7) ~∃y(師ya&a<y) 5&E
3(8) ∀y~(師ya&a<y) 7量化子の関係
3(9) ~(師ba&a<b) 8UE
3(ア) ~師ba∨a≧b 9ド・モルガンの法則
3(イ) 師ba→a≧b ア含意の定義
3(ウ) ∀y(師ya→a≧y) イUI
3(エ) 弟子a&∀y(師ya→a≧y) 6ウ&I
3(オ) ∃x{弟子a&∀y(師yx→x≧y)} エEI
1 (カ) ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} 13オEE
(ⅱ)
1 (1) ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} A
2(2) 弟子a&∀y(師ya→a≧y) A
2(3) 弟子a 2&E
2(4) ∀y(師ya→a≧y) 2&E
2(5) 師ba→a≧b 4UE
2(6) ~師ba∨a≧b 5含意の定義
2(7) ~(師ba&a<b) 6ド・モルガンの法則
2(8) ∀y~(師ya&a<y) 7UI
2(9) ~∃y(師ya&a<y) 8量化子の関係
2(ア) 弟子a&~∃y(師ya&a<y) 39&I
2(イ) ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} ア、ド・モルガンの法則
2(ウ) ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} イ含意の定義
2(エ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} 2EI
1 (オ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} 12エEE
1 (カ)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} オ量化子の関係
従って、
(01)により、
(02)
① ~∀x{弟子x→∃y(師yx&x<y)}
② ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
① y>x
② ~(x≧y)
に於いて、
①=② である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① ~∀x{弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕}
② ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(05)
① ~∀x(Fx)
② ~{∀x(Fx)}
に於いて、
①=② である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(07)
「~(A≧B)」=「AはBに及ばない。」
「A≧B」 =「AはBに及んでゐる。」
といふ風に、「読む」ことにする。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、すなはち、
① すべてのxについて{xが弟子であるならば、あるyは(xの師匠であって、xはyに及ばない)。}といふわけではない。
② あるxについて{xは弟子であって、すべてのyについて(yがxの師匠であるならば、xはyに及んでゐる)}。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(09)
② 弟子不必不如師=
② 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
② 弟子[必〔(師)如〕不]不=
② 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不=
② 弟子は必ずしも、師匠に及ばない、というわけではない。
然るに、
(10)
弟子は必ずしも師に及ばないというわけではなく(、弟子の方がすぐれている場合もある)。
(三省堂、明解古典学習シリーズ20、1973年、56頁)
従って、
(07)~(10)により、
(11)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② 弟子不[必不〔如(師)〕]
に於いて、
① は、「二重否定」であって、
② も、「二重否定」であって、
① は、② の「直訳」である。
然るに、
(12)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(11)(12)により、
(13)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② 弟子不[必不〔如(師)〕]
に於ける。
①{ [ 〔 ( ) 〕 ] }
② [ 〔 ( ) 〕 ]
といふ「括弧」は、「スコープ(scope)」を明示する「働き」を担ってゐる。
然るに、
(14)
「管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない。
(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)
従って、
(13)(14)により、
(15)
① ~∀x{弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕}
② 弟子不[必不〔如(師)〕]
に於ける。
①{ [ 〔 ( ) 〕 ] }
② [ 〔 ( ) 〕 ]
といふ「括弧」は、「管到(scope)」を明示する「働き」を担ってゐる。
従って、
(01)~(15)により、
(16)
加藤徹先生が、仮に、
1 (1)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} A
1 (2)∃x~{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} 1量化子の関係
3(3) ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} A
3(4) ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} 3含意の定義
3(5) 弟子a&~∃y(師ya&a<y) 4ド・モルガンの法則
3(6) 弟子a 5&E
3(7) ~∃y(師ya&a<y) 5&E
3(8) ∀y~(師ya&a<y) 7量化子の関係
3(9) ~(師ba&a<b) 8UE
3(ア) ~師ba∨a≧b 9ド・モルガンの法則
3(イ) 師ba→a≧b ア含意の定義
3(ウ) ∀y(師ya→a≧y) イUI
3(エ) 弟子a&∀y(師ya→a≧y) 6ウ&I
3(オ) ∃x{弟子a&∀y(師yx→x≧y)} エEI
1 (カ) ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} 13オEE
といふ「計算」を、行ふ人であるならば、
加藤徹先生もまた、既に、
① 弟子不必不如師=
① 弟子不ニ必不一レ如レ師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不=
① 弟子は必ずしも、師匠に及ばない、というわけではない=
① 弟子は必ずしも師に及ばないというわけではなく(、弟子の方がすぐれている場合もある)。
といふ「括弧の用法」に、気付いてゐることになる。
然るに、
(17)
「白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考える。」
といふことを、『趣味』にしてゐる(た)人には、分かってもらえる通り、
② 弟子不必不如師。
のやうに、「極めて簡単な漢文(白文)」であれば、「それを見た瞬間」に、
② 弟子は必ずしも師に如か不んばあら不。
といふに、「訓読」出来る。
然るに、
(18)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
② 是以大學始敎必使下學者即二凡天下之物一莫上レ不下因二其已知之理一益々極レ之以求上レ至二乎其極一=
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
② 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
に於ける、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
のような、「極めて複雑な漢文(白文)」の場合は、「それを見た瞬間」に、
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
といふに、「訓読」することは、「相当、難しい」。
然るに、
(19)
例えば、京都大学において、その中国文化の研究について、大きな基礎を作られた狩野直喜氏(一八六六~一九四七)は、その教えを受けた倉石武四郎(一八九七~」に、かつて「自分たちが訓読するのは、そういう習慣になっていたから、いちおう訓読するだけで、実は、原文を直読しているのである」と語られたという。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、385頁)
従って、
(18)(19)により、
(20)
狩野直喜氏(一八六六~一九四七)であれば、あるいは、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
という「漢文」であっても、「訓読」としての「直読」が、可能であったと、思はれる。
然るに、
(21)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(18)(21)により、
(22)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
② 是以大學始敎必使下學者即二凡天下之物一莫上レ不下因二其已知之理一益々極レ之以求上レ至二乎其極一=
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
② 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
に於ける、
②〈 ( ) { [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」は、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の「補足構造」を表してゐる、と同時に、「訓読」に於ける、
② 下 二 一 上レ 下 二 一 レ レ 二 一
といふ「返り点」に、「相当」する。
従って、
(14)(22)により、
(23)
例へば、「京都大学の漢文の先生」に、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文の補足構造」を「質問」した「結果」として、
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」を、得ることが、出来たのであれば、そのまま直ぐに、
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ、「訓読の語順」を、得ることになる。
然るに、
(24)
文系国語
第一問は評論、随筆、第二問は、従来は文語文が出題されていたが、近年では小説や随筆が出題される事が多い(ただし、やや文語的なものが出題される)。第三問は古典である。主に古文が出題される。各大問とも配点はそれぞれ50点である。
(京大対策/国語 - Wikibooks - ウィキブックス)
従って、
(24)により、
(25)
どうやら、「京都大学」の場合は、「文系の入試」でさえも、「漢文の出題」が無いことになる。
加へて、
(26)
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください。
(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)
然るに、
(27)
「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという。
(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)
従って、
(23)~(27)により、
(28)
例へば、「京都大学の漢文の先生」に、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文の補足構造」を「質問」することまでは、「良い」としても、
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ「訓読」が、「正しいのか、間違ひであるのか」といふことを、「質問」しては、ならない。
然るに、
(29)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
従って、
(28)(29)により、
(30)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、ある人が、
② Shì yǐ dàxué shǐ jiào bì shǐ xuézhě jí fán tiānxià zhī wù mòbù yīn qí yǐ zhīzhī lǐ ér yì jí zhī yǐ qiú zhì hū qí jí.
といふ風に、読めるからと言って、その人が、
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」を、「把握」してゐるとは、限らない。
然るに、
(31)
然るに、
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる。
(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)
従って、
(24)~(31)により、
(32)
大学(京都帝国大学)に入った二年目(昭和5年)の秋から、
① 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
① 是以大學始敎必使下 學者即二 凡天下之物一莫上レ 不下 因二 其已知之理一益々極レ 之以求上レ 至二 乎其極一=
① 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
① 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
① 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已の知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
① そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
といふ「読み方」は、「京都大学」に於いて、「排斥」されて来た。といふことになる。
(33)
その「結果」として、「京都大学の漢文」先生が、「他の大学の漢文」の先生よりも、「漢文の読み書き」に於いて、優秀なのか、否か。
といふことについては、部外者の私には、全く、分からない。
(34)
中國以北京語為國語矣。然若北京語非漢文也。是以中國語直読法雖盛中華人民共和國語不可以書中夏之書審矣。
如日本之学生有欲能読漢文者則宜以括弧学其管到。古漢文之於日本語猶古文之於日本語也。故漢文亦日本語也。
学中國語莫若音読、学漢文莫若以訓読学之。
令和03年04月19日、毛利太。
2021年4月15日木曜日
「括弧」と「返り点」と「漢文・縦横書き」と「インデント」(Ⅱ)。
―「先程の記事(令和03年04月15日)」を補足します。―
(01)
「漢文・縦横書き」と「インデント」を説明するための「例文(作例)」としては、
① 非無不欲爲聖人除弊事者。
② 我非必不求以解中文法解漢文者也。
であれば、
② の方が「相応しい」。
(02)
① 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を行ひ、「平仮名」を加へると、
①〈{[〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲せ]不る者}無きに〉非ず。
② 我は〈必ずしも{[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
然るに、
(03)
② 我非必不求以解中文法解漢文者也。
② 我 必 中文
解 法
以
漢文
解
求
不 者
非 也。
に於いて、
(ⅰ)「右よりも左を先に」読み、
(ⅱ)「下よりも上を先に」読む。
とするならば、
② 我必中文解法以漢文解求不者非也。
といふ「語順」、すなはち、
② 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
② 私は必ずしも中国語を理解する方法を用ひて漢文を理解しようとしない者ではないのである。
といふ「訓読の語順」で、「読む」ことになる。
然るに、
(04)
② 我非必不求以解中文法解漢文者也。
② 我 必 中文
解 法
以
漢文
解
求
不 者
非 也。
といふ「形」の「インデント(字下げ)」を、
(ⅰ)「右よりも左を先に」読み、
(ⅱ)「下よりも上を先に」読む。
といふことは、
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於ける、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
に関しては、
① の中を全てを「読み終へた」直後に、
① の左の一字を「読み」、
② の中を全てを「読み終へた」直後に、
② の左の一字を「読み」、
③ の中を全てを「読み終へた」直後に、
③ の左の一字を「読み」、
④ の中を全てを「読み終へた」直後に、
④ の左の一字を「読み」、
⑤ の中を全てを「読み終へた」直後に、
⑤ の左の一字を「読ん」だ場合に「等しい」。
従って、
(04)により、
(05)
② 我非必不求以解中文法解漢文者也。
② 我 必 中文
解 法
以
漢文
解
求
不 者
非 也。
といふ「形」の「インデント(字下げ)」を、
(ⅰ)「右よりも左を先に」読み、
(ⅱ)「下よりも上を先に」読む。
といふことは、
② 我非〈 必不{ 求[ 以〔 解( 中文) 法〕 解( 漢文)]} 者〉也。
② 我非間 必不地 求乙 以下 解二 中文一 法上 解二 漢文一甲天 者人也。
に於ける、例へば、
①( )=二 一
②〔 〕=下 上
③[ ]=乙 甲
④{ }=地 天
⑤〈 〉=間 人
に於いて、
① の中を全てを「読み終へた」直後に、
① の左の一字を「読み」、
② の中を全てを「読み終へた」直後に、
② の左の一字を「読み」、
③ の中を全てを「読み終へた」直後に、
③ の左の一字を「読み」、
④ の中を全てを「読み終へた」直後に、
④ の左の一字を「読み」、
⑤ の中を全てを「読み終へた」直後に、
⑤ の左の一字を「読ん」だ場合に「等しい」。
然るに、
(06)
② 我非間 必不地 求乙 以下 解二 中文一 法上 解二 漢文一甲天 者人也。
③ 我非地 必不レ 求丙 以下 解二 中文一 法上 解乙 漢文甲 者天 也。
に於ける、
② 間 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天 人
③ 地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
に於いて、
②=③ ではない。
従って、
(05)(06)により、
(07)
③ 我非地 必不レ 求丙 以下 解二 中文一 法上 解乙 漢文甲 者天 也。
の場合は、
①( )=二 一
②〔 〕=下 上
③[ ]=乙 甲
④{ }=地 天
⑤〈 〉=間 人
に於いて、
① の中を全てを「読み終へた」直後に、
① の左の一字を「読み」、
② の中を全てを「読み終へた」直後に、
② の左の一字を「読み」、
③ の中を全てを「読み終へた」直後に、
③ の左の一字を「読み」、
④ の中を全てを「読み終へた」直後に、
④ の左の一字を「読み」、
⑤ の中を全てを「読み終へた」直後に、
⑤ の左の一字を「読む」。
といふ「ルール」が無い。
従って、
(08)
① レ
② 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
⑤ 天 地 人
⑥ 一レ 上レ 甲レ 天レ
である所の、「返り点」の場合は、
① の中を全てを「読み終へた」直後に、
① の左の一字を「読み」、
② の中を全てを「読み終へた」直後に、
② の左の一字を「読み」、
③ の中を全てを「読み終へた」直後に、
③ の左の一字を「読み」、
④ の中を全てを「読み終へた」直後に、
④ の左の一字を「読み」、
⑤ の中を全てを「読み終へた」直後に、
⑤ の左の一字を「読み」、
⑥ の中を全てを「読み終へた」直後に、
⑥ の左の一字を「読む」。
といふ「単純極まりない、ルール」が無い。
従って、
(07)(08)により、
(09)
①( )=二 一
②〔 〕=下 上
③[ ]=乙 甲
④{ }=地 天
⑤〈 〉=間 人
といふ「括弧」と、
① レ
② 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
⑤ 天 地 人
⑥ 一レ 上レ 甲レ 天レ
といふ「返り点」に於いて、
「 括弧のルール 」の方が、
「返り点のルール」よりも、「単純であって、分かり易い」。
といふ、ことになる。
然るに、
(10)
すべて一二点に変換すればいいのである。一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった。一二点で返ったものを含めて返る必要がある時に上中下点を用いるのは、数学で( )の次に{ }を用いるのと似ている。数式は必ずしも{( )}の形にしなくてもよい。(( ))の形であってもその機能は同じである。そして{ }の次に用いる括弧がないから、数学の式を危機管理能力のない非論理的な体系だとは誰も言わない。高等数学ではどのようになっているのか私は詳しいことはわからないが、{ }を用いるのは数式が人間にとって認識しやすく便利だからという理由に過ぎないのではないか。パソコンに計算させるのなら( )いくら重ねても問題ないのだから(はてなブログ:固窮庵日乗)。
然るに、
(11)
「一二点だけの返り点」は、「過去にはあったが、今はない。」といふことは、「読みにくいので、淘汰された。」とすべきである。
従って、
(10)(11)により、
(12)
「人間にとって認識しやすく便利」といふ「機能」を考慮する限り、
(a)すべて一二点に変換すればいいのである。
(b)〈 { [ 〔 ( )( ) 〕 ] } 〉ではなく、( ( ( ( ( )( ) ) ) ) )の形であってもその機能は同じである。
といふことには、ならない。
(13)
因みに、「プログラミングの分野では、プログラムの構造を見やすくするために制御構文の内側にある行などの先頭に一律に同じ幅の空白を挿入することをインデントという(IT用語辞典 e-Words)。」
令和03年04月15日、毛利太。
(01)
「漢文・縦横書き」と「インデント」を説明するための「例文(作例)」としては、
① 非無不欲爲聖人除弊事者。
② 我非必不求以解中文法解漢文者也。
であれば、
② の方が「相応しい」。
(02)
① 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を行ひ、「平仮名」を加へると、
①〈{[〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲せ]不る者}無きに〉非ず。
② 我は〈必ずしも{[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
然るに、
(03)
② 我非必不求以解中文法解漢文者也。
② 我 必 中文
解 法
以
漢文
解
求
不 者
非 也。
に於いて、
(ⅰ)「右よりも左を先に」読み、
(ⅱ)「下よりも上を先に」読む。
とするならば、
② 我必中文解法以漢文解求不者非也。
といふ「語順」、すなはち、
② 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
② 私は必ずしも中国語を理解する方法を用ひて漢文を理解しようとしない者ではないのである。
といふ「訓読の語順」で、「読む」ことになる。
然るに、
(04)
② 我非必不求以解中文法解漢文者也。
② 我 必 中文
解 法
以
漢文
解
求
不 者
非 也。
といふ「形」の「インデント(字下げ)」を、
(ⅰ)「右よりも左を先に」読み、
(ⅱ)「下よりも上を先に」読む。
といふことは、
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於ける、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
に関しては、
① の中を全てを「読み終へた」直後に、
① の左の一字を「読み」、
② の中を全てを「読み終へた」直後に、
② の左の一字を「読み」、
③ の中を全てを「読み終へた」直後に、
③ の左の一字を「読み」、
④ の中を全てを「読み終へた」直後に、
④ の左の一字を「読み」、
⑤ の中を全てを「読み終へた」直後に、
⑤ の左の一字を「読ん」だ場合に「等しい」。
従って、
(04)により、
(05)
② 我非必不求以解中文法解漢文者也。
② 我 必 中文
解 法
以
漢文
解
求
不 者
非 也。
といふ「形」の「インデント(字下げ)」を、
(ⅰ)「右よりも左を先に」読み、
(ⅱ)「下よりも上を先に」読む。
といふことは、
② 我非〈 必不{ 求[ 以〔 解( 中文) 法〕 解( 漢文)]} 者〉也。
② 我非間 必不地 求乙 以下 解二 中文一 法上 解二 漢文一甲天 者人也。
に於ける、例へば、
①( )=二 一
②〔 〕=下 上
③[ ]=乙 甲
④{ }=地 天
⑤〈 〉=間 人
に於いて、
① の中を全てを「読み終へた」直後に、
① の左の一字を「読み」、
② の中を全てを「読み終へた」直後に、
② の左の一字を「読み」、
③ の中を全てを「読み終へた」直後に、
③ の左の一字を「読み」、
④ の中を全てを「読み終へた」直後に、
④ の左の一字を「読み」、
⑤ の中を全てを「読み終へた」直後に、
⑤ の左の一字を「読ん」だ場合に「等しい」。
然るに、
(06)
② 我非間 必不地 求乙 以下 解二 中文一 法上 解二 漢文一甲天 者人也。
③ 我非地 必不レ 求丙 以下 解二 中文一 法上 解乙 漢文甲 者天 也。
に於ける、
② 間 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天 人
③ 地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
に於いて、
②=③ ではない。
従って、
(05)(06)により、
(07)
③ 我非地 必不レ 求丙 以下 解二 中文一 法上 解乙 漢文甲 者天 也。
の場合は、
①( )=二 一
②〔 〕=下 上
③[ ]=乙 甲
④{ }=地 天
⑤〈 〉=間 人
に於いて、
① の中を全てを「読み終へた」直後に、
① の左の一字を「読み」、
② の中を全てを「読み終へた」直後に、
② の左の一字を「読み」、
③ の中を全てを「読み終へた」直後に、
③ の左の一字を「読み」、
④ の中を全てを「読み終へた」直後に、
④ の左の一字を「読み」、
⑤ の中を全てを「読み終へた」直後に、
⑤ の左の一字を「読む」。
といふ「ルール」が無い。
従って、
(08)
① レ
② 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
⑤ 天 地 人
⑥ 一レ 上レ 甲レ 天レ
である所の、「返り点」の場合は、
① の中を全てを「読み終へた」直後に、
① の左の一字を「読み」、
② の中を全てを「読み終へた」直後に、
② の左の一字を「読み」、
③ の中を全てを「読み終へた」直後に、
③ の左の一字を「読み」、
④ の中を全てを「読み終へた」直後に、
④ の左の一字を「読み」、
⑤ の中を全てを「読み終へた」直後に、
⑤ の左の一字を「読み」、
⑥ の中を全てを「読み終へた」直後に、
⑥ の左の一字を「読む」。
といふ「単純極まりない、ルール」が無い。
従って、
(07)(08)により、
(09)
①( )=二 一
②〔 〕=下 上
③[ ]=乙 甲
④{ }=地 天
⑤〈 〉=間 人
といふ「括弧」と、
① レ
② 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
③ 上 中 下
④ 甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
⑤ 天 地 人
⑥ 一レ 上レ 甲レ 天レ
といふ「返り点」に於いて、
「 括弧のルール 」の方が、
「返り点のルール」よりも、「単純であって、分かり易い」。
といふ、ことになる。
然るに、
(10)
すべて一二点に変換すればいいのである。一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった。一二点で返ったものを含めて返る必要がある時に上中下点を用いるのは、数学で( )の次に{ }を用いるのと似ている。数式は必ずしも{( )}の形にしなくてもよい。(( ))の形であってもその機能は同じである。そして{ }の次に用いる括弧がないから、数学の式を危機管理能力のない非論理的な体系だとは誰も言わない。高等数学ではどのようになっているのか私は詳しいことはわからないが、{ }を用いるのは数式が人間にとって認識しやすく便利だからという理由に過ぎないのではないか。パソコンに計算させるのなら( )いくら重ねても問題ないのだから(はてなブログ:固窮庵日乗)。
然るに、
(11)
「一二点だけの返り点」は、「過去にはあったが、今はない。」といふことは、「読みにくいので、淘汰された。」とすべきである。
従って、
(10)(11)により、
(12)
「人間にとって認識しやすく便利」といふ「機能」を考慮する限り、
(a)すべて一二点に変換すればいいのである。
(b)〈 { [ 〔 ( )( ) 〕 ] } 〉ではなく、( ( ( ( ( )( ) ) ) ) )の形であってもその機能は同じである。
といふことには、ならない。
(13)
因みに、「プログラミングの分野では、プログラムの構造を見やすくするために制御構文の内側にある行などの先頭に一律に同じ幅の空白を挿入することをインデントという(IT用語辞典 e-Words)。」
令和03年04月15日、毛利太。
「括弧」と「返り点」と「漢文・縦横書き」と「インデント」。
(01)
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}。
⑥ 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を行ふと、
① (漢文)読。
② 〔我(百獸)長〕使。
③ 〔(聖人)爲(弊事)除〕欲。
④ [我両君匪〔以(玉帛)相見〕]使。
⑤ {[〔(聖人)爲(弊事)除〕欲]不者}無。
⑥ 〈{[〔(聖人)爲(弊事)除〕欲]不者}無〉非。
然るに、
(02)
① (漢文)読。
② 〔我(百獸)長〕使。
③ 〔(聖人)爲(弊事)除〕欲。
④ [我両君匪〔以(玉帛)相見〕]使。
⑤ {[〔(聖人)爲(弊事)除〕欲]不者}無。
⑥ 〈{[〔(聖人)爲(弊事)除〕欲]不者}無〉非。
に対して、「平仮名」を加へると、
① (漢文を)読む。
② 〔我をして(百獸に)長たら〕使む。
③ 〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲す。
④ [我が両君をして〔(玉帛を)以て相見みゆることを〕匪ざら]使む。
⑤ {[〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲せ]不る者}無し。
⑥ 〈{[〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲せ]不る者}無きに〉非ず。
といふ「訓読」になる。
然るに、
(03)
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}。
⑥ 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
に於ける、
① ( )
② 〔( )〕
③ 〔( )( )〕
④ [〔( )〕]
⑤ {[〔( )( )〕]}
⑥ 〈{[〔( )( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
① 読二 漢文一。
② 使三 我長二 百獸一。
③ 欲下 爲二 聖人一 除中 弊事上。
④ 使下 我両君匪中 以二 玉帛一 相見上。
⑤ 無乙 不レ 欲下 爲二 聖人一 除中 弊事上 者甲。
⑥ 非レ 無乙 不レ 欲下 爲二 聖人一 除中 弊事上 者甲。
に於ける、
① 二 一
② 三 二 一
③ 下 二 一 中 上
④ 下 中 二 一 上
⑤ 乙 レ 下 二 一 中 上 甲
⑥ レ 乙 レ 下 二 一 中 上 甲
といふ「返り点」に相当する。
然るに、
(05)
① 漢文を
読む
といふ「それ」を、
(ⅰ)「右よりも左を先に」読み、
(ⅱ)「下よりも上を先に」読む。
とするならば、その場合は、
③ 漢文を読む。
といふ「語順」で、「読む」ことになる。
(06)
⑥ 聖人の
爲に
弊事を
除かんと
欲せ
不ざる 者
無きに
非ず。
といふ「それ」を、
(ⅱ)「下よりも上を先に」読み、
(ⅰ)「右よりも左を先に」読む。
とするならば、
⑩ 聖人の爲に弊事を除かんと欲せ不る者無きに非ず。
といふ「語順」で、「読む」ことになる。
従って、
(05)(06)により、
(07)
例へば、
⑥ 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
といふ「漢文」には、
⑥ 聖人
爲
弊事
除
欲
不 者
無
非
といふ「インデント(字下げ)」が、有ることになる。
従って、
(03)(07)により、
(08)
⑥ 非レ 無乙 不レ 欲下 爲二 聖人一 除中 弊事上 者甲。
⑦ 非人 無地 不丁 欲丙 爲二 聖人一 除乙 弊事甲 者天。
⑧ 非九 無八 不六 欲五 爲二 聖人一 除四 弊事三 者七。
⑨ 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
に於ける、
⑥ レ 乙 レ 下 二 一 中 上 甲
⑦ 人 地 丁 丙 二 一 乙 甲 天
⑧ 九 八 六 五 二 一 四 三 七
⑨〈 { [ 〔 ( )( ) 〕 ] } 〉
といふ「返り点」と「括弧」は、4つとも、
⑥ 聖人
爲
弊事
除
欲
不 者
無
非
といふ「インデント(字下げ)」を示してゐる。
然るに、
(09)
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
といふ「括弧」の場合、「横書き」であれば、
① の中を「読み終へた」直後に、
① の左を「読み」、
② の中を「読み終へた」直後に、
② の左を「読み」、
③ の中を「読み終へた」直後に、
③ の左を「読み」、
④ の中を「読み終へた」直後に、
④ の上を「読み」、
⑤ の左を「読む」。
従って、
(08)(09)により、
(10)
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
といふ「括弧」の場合は、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
の中を「読み終へる」ごとに、そのときに限って、「インデント(字下げ)」が生じることになる。
然るに、
(11)
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅳ)天 地 人
の場合は、
(Ⅰ)を挟んで返る場合に、
(Ⅱ)を用ひ、
(Ⅱ)を挟んで返る場合に、
(Ⅲ)を用ひ、
(Ⅲ)を挟んで返る場合に、
(Ⅳ)を用ひる。
従って、
(08)(11)により、
(12)
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅳ)天 地 人
の場合は、少なくとも、
(Ⅰ)を挟んで返る場合と、
(Ⅱ)を挟んで返る場合と、
(Ⅲ)を挟んで返る場合には、「インデント(字下げ)」が生じることになる。
然るに、
(13)
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅳ)天 地 人
ではなくて、
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
(Ⅲ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅳ)上 中 下
(Ⅴ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅵ)天 地 人
の場合は、
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
が加はることによって、その分、
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
が無い場合よりも、「インデント(字下げ)」が生じ方が、「複雑」になる。
然るに、
(14)
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅳ)天 地 人
ではなくて、
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
の場合は、固より、
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
だけので、少なくとも (Ⅰ)を挟んで返る場合と、
(Ⅱ)を挟んで返る場合と、
(Ⅲ)を挟んで返る場合には、「インデント(字下げ)」が生じることになる。
といふことが、一切、無い。
従って、
(14)により、
(15)
「一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(はてなブログ:固窮庵日乗)。」
とは言ふものの、「一二点しか施していないもの」は、「インデントの見えにくさ」によって「淘汰」された。
と、すべきである。
従って、
(08)~(15)により、
(16)
⑥ 非レ 無乙 不レ 欲下 爲二 聖人一 除中 弊事上 者甲。
⑦ 非人 無地 不丁 欲丙 爲二 聖人一 除乙 弊事甲 者天。
⑧ 非九 無八 不六 欲五 爲二 聖人一 除四 弊事三 者七。
⑨ 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
に於いて、「インデント(字下げ)の見やすさ」という「観点」から言ふならば、
⑨〈 { [ 〔 ( )( ) 〕 ] } 〉
⑦ 人 地 丁 丙 二 一 乙 甲 天
⑥ レ 乙 レ 下 二 一 中 上 甲
⑧ 九 八 六 五 二 一 四 三 七
といふ「順番」で「優れてゐる」。
といふ、ことになる。
従って、
(01)~(16)により、
(17)
「インデント見やすさ」といふ「観点」からすれば、
「返り点」よりも、「括弧」の方が、「優れてゐる」。
令和03年04月15日、毛利太。
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}。
⑥ 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を行ふと、
① (漢文)読。
② 〔我(百獸)長〕使。
③ 〔(聖人)爲(弊事)除〕欲。
④ [我両君匪〔以(玉帛)相見〕]使。
⑤ {[〔(聖人)爲(弊事)除〕欲]不者}無。
⑥ 〈{[〔(聖人)爲(弊事)除〕欲]不者}無〉非。
然るに、
(02)
① (漢文)読。
② 〔我(百獸)長〕使。
③ 〔(聖人)爲(弊事)除〕欲。
④ [我両君匪〔以(玉帛)相見〕]使。
⑤ {[〔(聖人)爲(弊事)除〕欲]不者}無。
⑥ 〈{[〔(聖人)爲(弊事)除〕欲]不者}無〉非。
に対して、「平仮名」を加へると、
① (漢文を)読む。
② 〔我をして(百獸に)長たら〕使む。
③ 〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲す。
④ [我が両君をして〔(玉帛を)以て相見みゆることを〕匪ざら]使む。
⑤ {[〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲せ]不る者}無し。
⑥ 〈{[〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲せ]不る者}無きに〉非ず。
といふ「訓読」になる。
然るに、
(03)
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}。
⑥ 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
に於ける、
① ( )
② 〔( )〕
③ 〔( )( )〕
④ [〔( )〕]
⑤ {[〔( )( )〕]}
⑥ 〈{[〔( )( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
① 読二 漢文一。
② 使三 我長二 百獸一。
③ 欲下 爲二 聖人一 除中 弊事上。
④ 使下 我両君匪中 以二 玉帛一 相見上。
⑤ 無乙 不レ 欲下 爲二 聖人一 除中 弊事上 者甲。
⑥ 非レ 無乙 不レ 欲下 爲二 聖人一 除中 弊事上 者甲。
に於ける、
① 二 一
② 三 二 一
③ 下 二 一 中 上
④ 下 中 二 一 上
⑤ 乙 レ 下 二 一 中 上 甲
⑥ レ 乙 レ 下 二 一 中 上 甲
といふ「返り点」に相当する。
然るに、
(05)
① 漢文を
読む
といふ「それ」を、
(ⅰ)「右よりも左を先に」読み、
(ⅱ)「下よりも上を先に」読む。
とするならば、その場合は、
③ 漢文を読む。
といふ「語順」で、「読む」ことになる。
(06)
⑥ 聖人の
爲に
弊事を
除かんと
欲せ
不ざる 者
無きに
非ず。
といふ「それ」を、
(ⅱ)「下よりも上を先に」読み、
(ⅰ)「右よりも左を先に」読む。
とするならば、
⑩ 聖人の爲に弊事を除かんと欲せ不る者無きに非ず。
といふ「語順」で、「読む」ことになる。
従って、
(05)(06)により、
(07)
例へば、
⑥ 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
といふ「漢文」には、
⑥ 聖人
爲
弊事
除
欲
不 者
無
非
といふ「インデント(字下げ)」が、有ることになる。
従って、
(03)(07)により、
(08)
⑥ 非レ 無乙 不レ 欲下 爲二 聖人一 除中 弊事上 者甲。
⑦ 非人 無地 不丁 欲丙 爲二 聖人一 除乙 弊事甲 者天。
⑧ 非九 無八 不六 欲五 爲二 聖人一 除四 弊事三 者七。
⑨ 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
に於ける、
⑥ レ 乙 レ 下 二 一 中 上 甲
⑦ 人 地 丁 丙 二 一 乙 甲 天
⑧ 九 八 六 五 二 一 四 三 七
⑨〈 { [ 〔 ( )( ) 〕 ] } 〉
といふ「返り点」と「括弧」は、4つとも、
⑥ 聖人
爲
弊事
除
欲
不 者
無
非
といふ「インデント(字下げ)」を示してゐる。
然るに、
(09)
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
といふ「括弧」の場合、「横書き」であれば、
① の中を「読み終へた」直後に、
① の左を「読み」、
② の中を「読み終へた」直後に、
② の左を「読み」、
③ の中を「読み終へた」直後に、
③ の左を「読み」、
④ の中を「読み終へた」直後に、
④ の上を「読み」、
⑤ の左を「読む」。
従って、
(08)(09)により、
(10)
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
といふ「括弧」の場合は、
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
⑤〈 〉
の中を「読み終へる」ごとに、そのときに限って、「インデント(字下げ)」が生じることになる。
然るに、
(11)
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅳ)天 地 人
の場合は、
(Ⅰ)を挟んで返る場合に、
(Ⅱ)を用ひ、
(Ⅱ)を挟んで返る場合に、
(Ⅲ)を用ひ、
(Ⅲ)を挟んで返る場合に、
(Ⅳ)を用ひる。
従って、
(08)(11)により、
(12)
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅳ)天 地 人
の場合は、少なくとも、
(Ⅰ)を挟んで返る場合と、
(Ⅱ)を挟んで返る場合と、
(Ⅲ)を挟んで返る場合には、「インデント(字下げ)」が生じることになる。
然るに、
(13)
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅳ)天 地 人
ではなくて、
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
(Ⅲ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅳ)上 中 下
(Ⅴ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅵ)天 地 人
の場合は、
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
が加はることによって、その分、
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
が無い場合よりも、「インデント(字下げ)」が生じ方が、「複雑」になる。
然るに、
(14)
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅱ)上 中 下
(Ⅲ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅳ)天 地 人
ではなくて、
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
の場合は、固より、
(Ⅰ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
だけので、少なくとも (Ⅰ)を挟んで返る場合と、
(Ⅱ)を挟んで返る場合と、
(Ⅲ)を挟んで返る場合には、「インデント(字下げ)」が生じることになる。
といふことが、一切、無い。
従って、
(14)により、
(15)
「一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(はてなブログ:固窮庵日乗)。」
とは言ふものの、「一二点しか施していないもの」は、「インデントの見えにくさ」によって「淘汰」された。
と、すべきである。
従って、
(08)~(15)により、
(16)
⑥ 非レ 無乙 不レ 欲下 爲二 聖人一 除中 弊事上 者甲。
⑦ 非人 無地 不丁 欲丙 爲二 聖人一 除乙 弊事甲 者天。
⑧ 非九 無八 不六 欲五 爲二 聖人一 除四 弊事三 者七。
⑨ 非〈無{不[欲〔爲(聖人)除(弊事)〕]者}〉。
に於いて、「インデント(字下げ)の見やすさ」という「観点」から言ふならば、
⑨〈 { [ 〔 ( )( ) 〕 ] } 〉
⑦ 人 地 丁 丙 二 一 乙 甲 天
⑥ レ 乙 レ 下 二 一 中 上 甲
⑧ 九 八 六 五 二 一 四 三 七
といふ「順番」で「優れてゐる」。
といふ、ことになる。
従って、
(01)~(16)により、
(17)
「インデント見やすさ」といふ「観点」からすれば、
「返り点」よりも、「括弧」の方が、「優れてゐる」。
令和03年04月15日、毛利太。
2021年4月14日水曜日
「返り点」は難しく、「括弧」は易しい。
(01)然るに、
(02)
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 不{以[所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を行ふと、
① (漢文)読。
② 〔我(百獸)長〕使。
③ 〔(聖人)爲(弊事)除〕欲。
④ [我両君匪〔以(玉帛)相見〕]使。
⑤ {[〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不。
⑥ 〈{我〔(小節)羞〕不而[功名〔(于天下)顕〕不]恥}知〉不也。
といふ「語順」になる。
従って、
(03)
「平仮名」を加へると、
① (漢文を)読む。
② 〔我をして(百獸に)長たら〕使む。
③ 〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲す。
④ [我が両君をして〔(玉帛を)以て相見みゆることを〕匪ざら]使む。
⑤ {[〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
⑥ 〈{我の〔(小節を)羞ぢ〕ずして[功名の〔(天下に)顕はれ〕ざるを]恥づるを}知ら〉ざればなり。
といふ「語順」になる。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 漢文を、読む。
② 我をして、百獸に長たら使む。
③ 聖人の爲に、弊事を除かんと欲す。
④ 我が両君をして、玉帛を以て相見みゆることを、匪ざら使む。
⑤ 人を養ふ所以の者を以て、人を害せず。
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ「日本語」は、
① 読漢文。
② 使我長百獸。
③ 欲爲聖人除弊事。
④ 使我両君匪以玉帛相見。
⑤ 不以所以養人者害人。
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」の、「訓読」である。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
まず第一に、
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 不{以[所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
① ( )
② 〔( )〕
③ 〔( )( )〕
④ [〔( )〕]
⑤ {[〔( )〕]( )}
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
① 読二 漢文一。
② 使三 我長二 百獸一。
③ 欲下 爲二 聖人一 除中 弊事上。
④ 使下 我両君匪中 以二 玉帛一 相見上。
⑤ 不乙 以下 所 二 以養一レ 人者上 害甲レ 人。
⑥ 不レ 知下 我不レ 羞二 小節一 而恥中 功名不上レ 顕二 于天下一 也。
に於ける、
① 二 一
② 三 二 一
③ 下 二 一 中 上
④ 下 中 二 一 上
⑤ 乙 下 二‐ 一レ 上 甲レ
⑥ レ 下 レ 二 一 中 上レ 二 一
といふ「返り点」に、「相当する」。
然るに、
(06)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)~(06)により、
(07)
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 不{以[所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
① ( )
② 〔( )〕
③ 〔( )( )〕
④ [〔( )〕]
⑤ {[〔( )〕]( )}
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
① 読漢文。
② 使我長百獸。
③ 欲爲聖人除弊事。
④ 使我両君匪以玉帛相見。
⑤ 不以所以養人者害人。
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文の補足構造」と、
① 漢文を、読む。
② 我をして、百獸に長たら使む。
③ 聖人の爲に、弊事を除かんと欲す。
④ 我が両君をして、玉帛を以て相見みゆることを、匪ざら使む。
⑤ 人を養ふ所以の者を以て、人を害せず。
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ「訓読の補足構造」の、「両方」を、表してゐる。
従って、
(07)により、
(08)
「中国語」を全く知らない私が、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」を、
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ風に、「訓読」しようと、しまいと、
「訓読」をあまり知らない(?)京大の先生が、
⑥ Bùzhī wǒ bù xiū xiǎojié ér chǐ gōngmíng bù xiǎn yú tiānxià yě(グーグル翻訳).
といふ風に、「音読」しようと、しまいと、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」には、固より、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
といふ「補足構造」が、有ることになる。
cf.
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)。
従って、
(05)~(08)により、
(09)
⑥ 不レ 知下 我不レ 羞二 小節一 而恥中 功名不上レ 顕二 于天下一 也。
に於ける、
⑥ レ 下 レ 二 一 中 上レ 二 一
といふ「返り点」も、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
といふ「括弧」も、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文の補足構造」と、それと「同時に」、
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ「訓読の語順」の、両方を、「表してゐる」。
然るに、
(10)
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
がさうでるやうに、
(ⅰ)〈 〉の中には、一つ以上の{ }があって、
(ⅱ){ }の中には、一つ以上の[ ]があって、
(ⅲ)[ ]の中には、一つ以上の〔 〕があって、
(ⅳ)〔 〕の中には、一つ以上の( )があって、尚且つ、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を行ふと、
⑥ 〈{我の〔(小節を)羞ぢ〕不して[功名の〔(天下に)顕はれ〕不るを]恥づるを}知ら〉不ればなり。
といふ「語順」になる。
従って、
(10)により、
(11)
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
⑥ 不〈
を見れば、「その瞬間」に、
⑥ 不 は、
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
の「中の、すべて」を、「読み終へた直後」に「読む」。
といふことが「分かる」といふ、「仕組み」になってゐる。
(12)
⑥ 知{
を見れば、「その瞬間」に、
⑥ 知 は、
⑥ {〔( )〕[〔( )〕]}
の「中の、すべて」を、「読み終へた直後」に「読む」。
といふことが「分かる」といふ、「仕組み」になってゐる。
然るに、
(13)
一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(はてなブログ:固窮庵日乗)。
然るに、
(14)
③ 下 二 一 中 上
④ 下 中 二 一 上
⑦ 庚 己 三 二 一 戊 丁 丙 乙 甲
には、それぞれ、
③ 下 中 上
二 一
④ 下 中 上
二 一
⑦ 庚 己 戊 丁 丙 乙 甲
三 二 一
といふ「インデント(indent)」が、見て取れる。
のに対して、
③ 五 二 一 四 一
④ 五 四 二 一 三
⑦ 十 九 三 二 一 五 四 三 二 一
には、そのやうな「インデント」が、見られない。
従って、
(13)(14)により、
(15) 一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(はてなブログ:固窮庵日乗)。
とは言ふものの、「そのやうな一二点だけ」では、「読みにくい」が故に、「淘汰」されたと、すべきである。
然るに、
(16)
質問者:noname#100659質問日時:2005/11/20 01:10回答数:1件
漢文についてお聞きします。
(数字)は、返り点を表します。レ点はカタカナの(レ)で書きます。
漢文の教科書に次のような文章が出てきます。
例文は有名な朝三暮四です。
恐(2)衆狙之不(1+レ)馴(2)於己(1)也、先誑(レ)之曰、・・・(以下略)。
(読み下しは、衆狙の己に馴れざらんことを恐るるや、先づこれを誑きて曰く・・です。)
これなのですが、打ち方はこれ一通りと決まっていますか?
次のように打つと何がいけないのでしょうか?
同じように読めてしまうような気がするのですが・・。
恐(3)衆狙之不(レ)馴(2)於己(1)也、先誑(レ)之曰、・・・(以下略)。
上の打ち方だと何が問題でしょうか?
同じにはなりませんでしょうか?
然るに、
(01)により、
(17)
⑨ 二 一レ 二 一
⑩ 四 三 二 一
に於いて、
⑨=⑩ である。
(18)
⑥ レ 下 レ 二 一 中 上レ 二 一
⑦ 庚 己 三 二 一 戊 丁 丙 乙 甲
であっても、
⑥=⑦ であるが、
⑥ よりも、
⑦ の方が、明らかに、「読み易い」。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
(Ⅲ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅳ)上 中 下
(Ⅴ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅵ)天 地 人
である所の、「返り点」は、
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
という「レ点」があるが故に、「読みにくい」。
然るに、
(20)
専門家と称する人たちの大部分、九九.九パーセントは、(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである(二畳主人、漢文文法基礎、1972年、62頁)。
然るに、
(21)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)。
(22)
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
といふ風に書けば、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」の「管到」が、「一目瞭然」であるし、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ風には、読めない。
従って、
(20)(21)(22)により、
(23)
「管到」を把握すること≒「訓読」をすること。
であるならば、「大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。」といふ風に、言ってゐる先生たちも、二畳主人が言ってゐるやうに、あるいは、「専門家と称する人たちの大部分、九九.九パーセントは、(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである。」 といふことは、「正しい」のかも、知れない。
令和03年04月14日、毛利太。
(02)
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 不{以[所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を行ふと、
① (漢文)読。
② 〔我(百獸)長〕使。
③ 〔(聖人)爲(弊事)除〕欲。
④ [我両君匪〔以(玉帛)相見〕]使。
⑤ {[〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不。
⑥ 〈{我〔(小節)羞〕不而[功名〔(于天下)顕〕不]恥}知〉不也。
といふ「語順」になる。
従って、
(03)
「平仮名」を加へると、
① (漢文を)読む。
② 〔我をして(百獸に)長たら〕使む。
③ 〔(聖人の)爲に(弊事を)除かんと〕欲す。
④ [我が両君をして〔(玉帛を)以て相見みゆることを〕匪ざら]使む。
⑤ {[〔(人を)養ふ〕所‐以の者を]以て(人を)害せ}ず。
⑥ 〈{我の〔(小節を)羞ぢ〕ずして[功名の〔(天下に)顕はれ〕ざるを]恥づるを}知ら〉ざればなり。
といふ「語順」になる。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 漢文を、読む。
② 我をして、百獸に長たら使む。
③ 聖人の爲に、弊事を除かんと欲す。
④ 我が両君をして、玉帛を以て相見みゆることを、匪ざら使む。
⑤ 人を養ふ所以の者を以て、人を害せず。
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ「日本語」は、
① 読漢文。
② 使我長百獸。
③ 欲爲聖人除弊事。
④ 使我両君匪以玉帛相見。
⑤ 不以所以養人者害人。
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」の、「訓読」である。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
まず第一に、
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 不{以[所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
① ( )
② 〔( )〕
③ 〔( )( )〕
④ [〔( )〕]
⑤ {[〔( )〕]( )}
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
① 読二 漢文一。
② 使三 我長二 百獸一。
③ 欲下 爲二 聖人一 除中 弊事上。
④ 使下 我両君匪中 以二 玉帛一 相見上。
⑤ 不乙 以下 所 二 以養一レ 人者上 害甲レ 人。
⑥ 不レ 知下 我不レ 羞二 小節一 而恥中 功名不上レ 顕二 于天下一 也。
に於ける、
① 二 一
② 三 二 一
③ 下 二 一 中 上
④ 下 中 二 一 上
⑤ 乙 下 二‐ 一レ 上 甲レ
⑥ レ 下 レ 二 一 中 上レ 二 一
といふ「返り点」に、「相当する」。
然るに、
(06)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)~(06)により、
(07)
① 読(漢文)。
② 使〔我長(百獸)〕。
③ 欲〔爲(聖人)除(弊事)〕。
④ 使[我両君匪〔以(玉帛)相見〕]。
⑤ 不{以[所‐以〔養(人)〕者]害(人)}。
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
① ( )
② 〔( )〕
③ 〔( )( )〕
④ [〔( )〕]
⑤ {[〔( )〕]( )}
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
といふ「括弧」は、
① 読漢文。
② 使我長百獸。
③ 欲爲聖人除弊事。
④ 使我両君匪以玉帛相見。
⑤ 不以所以養人者害人。
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文の補足構造」と、
① 漢文を、読む。
② 我をして、百獸に長たら使む。
③ 聖人の爲に、弊事を除かんと欲す。
④ 我が両君をして、玉帛を以て相見みゆることを、匪ざら使む。
⑤ 人を養ふ所以の者を以て、人を害せず。
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ「訓読の補足構造」の、「両方」を、表してゐる。
従って、
(07)により、
(08)
「中国語」を全く知らない私が、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」を、
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ風に、「訓読」しようと、しまいと、
「訓読」をあまり知らない(?)京大の先生が、
⑥ Bùzhī wǒ bù xiū xiǎojié ér chǐ gōngmíng bù xiǎn yú tiānxià yě(グーグル翻訳).
といふ風に、「音読」しようと、しまいと、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」には、固より、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
といふ「補足構造」が、有ることになる。
cf.
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)。
従って、
(05)~(08)により、
(09)
⑥ 不レ 知下 我不レ 羞二 小節一 而恥中 功名不上レ 顕二 于天下一 也。
に於ける、
⑥ レ 下 レ 二 一 中 上レ 二 一
といふ「返り点」も、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
といふ「括弧」も、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文の補足構造」と、それと「同時に」、
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ「訓読の語順」の、両方を、「表してゐる」。
然るに、
(10)
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
がさうでるやうに、
(ⅰ)〈 〉の中には、一つ以上の{ }があって、
(ⅱ){ }の中には、一つ以上の[ ]があって、
(ⅲ)[ ]の中には、一つ以上の〔 〕があって、
(ⅳ)〔 〕の中には、一つ以上の( )があって、尚且つ、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を行ふと、
⑥ 〈{我の〔(小節を)羞ぢ〕不して[功名の〔(天下に)顕はれ〕不るを]恥づるを}知ら〉不ればなり。
といふ「語順」になる。
従って、
(10)により、
(11)
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
に於ける、
⑥ 不〈
を見れば、「その瞬間」に、
⑥ 不 は、
⑥ 〈{〔( )〕[〔( )〕]}〉
の「中の、すべて」を、「読み終へた直後」に「読む」。
といふことが「分かる」といふ、「仕組み」になってゐる。
(12)
⑥ 知{
を見れば、「その瞬間」に、
⑥ 知 は、
⑥ {〔( )〕[〔( )〕]}
の「中の、すべて」を、「読み終へた直後」に「読む」。
といふことが「分かる」といふ、「仕組み」になってゐる。
然るに、
(13)
一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(はてなブログ:固窮庵日乗)。
然るに、
(14)
③ 下 二 一 中 上
④ 下 中 二 一 上
⑦ 庚 己 三 二 一 戊 丁 丙 乙 甲
には、それぞれ、
③ 下 中 上
二 一
④ 下 中 上
二 一
⑦ 庚 己 戊 丁 丙 乙 甲
三 二 一
といふ「インデント(indent)」が、見て取れる。
のに対して、
③ 五 二 一 四 一
④ 五 四 二 一 三
⑦ 十 九 三 二 一 五 四 三 二 一
には、そのやうな「インデント」が、見られない。
従って、
(13)(14)により、
(15) 一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施していないものも過去にはあった(はてなブログ:固窮庵日乗)。
とは言ふものの、「そのやうな一二点だけ」では、「読みにくい」が故に、「淘汰」されたと、すべきである。
然るに、
(16)
質問者:noname#100659質問日時:2005/11/20 01:10回答数:1件
漢文についてお聞きします。
(数字)は、返り点を表します。レ点はカタカナの(レ)で書きます。
漢文の教科書に次のような文章が出てきます。
例文は有名な朝三暮四です。
恐(2)衆狙之不(1+レ)馴(2)於己(1)也、先誑(レ)之曰、・・・(以下略)。
(読み下しは、衆狙の己に馴れざらんことを恐るるや、先づこれを誑きて曰く・・です。)
これなのですが、打ち方はこれ一通りと決まっていますか?
次のように打つと何がいけないのでしょうか?
同じように読めてしまうような気がするのですが・・。
恐(3)衆狙之不(レ)馴(2)於己(1)也、先誑(レ)之曰、・・・(以下略)。
上の打ち方だと何が問題でしょうか?
同じにはなりませんでしょうか?
然るに、
(01)により、
(17)
⑨ 二 一レ 二 一
⑩ 四 三 二 一
に於いて、
⑨=⑩ である。
(18)
⑥ レ 下 レ 二 一 中 上レ 二 一
⑦ 庚 己 三 二 一 戊 丁 丙 乙 甲
であっても、
⑥=⑦ であるが、
⑥ よりも、
⑦ の方が、明らかに、「読み易い」。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
(Ⅲ)一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 ・・・・・・・
(Ⅳ)上 中 下
(Ⅴ)甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
(Ⅵ)天 地 人
である所の、「返り点」は、
(Ⅰ)レ
(Ⅱ)一レ 上レ 甲レ 天レ
という「レ点」があるが故に、「読みにくい」。
然るに、
(20)
専門家と称する人たちの大部分、九九.九パーセントは、(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである(二畳主人、漢文文法基礎、1972年、62頁)。
然るに、
(21)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)。
(22)
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
といふ風に書けば、
⑥ 不知我不羞小節而恥功名不顕于天下也。
といふ「漢文」の「管到」が、「一目瞭然」であるし、
⑥ 不〈知{我不〔羞(小節)〕而恥[功名不〔顕(于天下)〕]}〉也。
⑥ 我の小節を羞ぢずして、功名の天下に顕はれざるを恥づるを、知らざればなり。
といふ風には、読めない。
従って、
(20)(21)(22)により、
(23)
「管到」を把握すること≒「訓読」をすること。
であるならば、「大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。」といふ風に、言ってゐる先生たちも、二畳主人が言ってゐるやうに、あるいは、「専門家と称する人たちの大部分、九九.九パーセントは、(外国語として扱えという人ももちろん含めて)実は「訓読」すなわち日本語流に理解しているのである。」 といふことは、「正しい」のかも、知れない。
令和03年04月14日、毛利太。
2021年4月12日月曜日
「代表的選言項(typical disjunct)」について。
―「昨日(令和03年04月11日)の記事」を書き直します。―
(01)
1(1)∃x(Fx) A
2(2) Fa A
といふ「仮定」は「妥当」であり、それ故、
連式 ∃x(Fx)├ Fa
といふ「連式」も「妥当」でなければ、ならない。
然るに、
(02)
連式 Fa├ ∃x(Fx)
は妥当であると受けいれるが、
連式 ∃x(Fx)├ Fa
を妥当であるとは考えず、aは任意に選ばれているが、与えられたFをもつ対象の一つではないかも知れないから、この連式を受け入れないのである。
(E.J.レモン 著、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、149頁)
従って、
(01)(02)により、
(03)
① ∃x(Fx)├ Fa
② ∃x(Fx)├ Fa
に於いて、
① は「妥当」であって、
② は「妥当」ではない。
といふ風に、「矛盾」する。
然るに、
(04)
(α)「あるxはF」なので、取り合へず、「aがFである」と仮定して、「Fa」としよう。ところが、
(β)「すべてのxについて(xがFであるならば、xはGである)。」といふことからすれば、
(〃)「FaならばGaである」といふことは、「事実」であり、
(〃)「FbならばGbである」といふことも、「事実」であり、
(〃)「FcならばGcである」といふことも、「実事」であるため、「Fa」ではなく、
「Fb」であったとしても、
「Fb」ではなく、
「Fc」であったとしても、いづれにせよ、
(γ)「あるxは、Fであって、尚且つ、Gである。」といふことには、変はりがない。
といふのが、
(ⅰ)
1 (1)∃x(Fx) A
2 (2) Fa A(代表的選言項)
3(3)∀x(Fx→Gx) A
3(4) Fa→Ga 1UE
1 3(5) Ga 24MPP
123(6) Fa&Ga 25&I
123(7)∃x(Fx&Gx) 6EI
1 3(8)∃x(Fx&Gx) 6EI
といふ「計算」の、「その心(意味)」である。
(05)
(α)「あるxはF」 なので、取り合へず、「aがFである」 と仮定して、「Fa」 としよう。
(β)「あるxはF→G」なので、取り合へず、「aがF→Gである」と仮定して、「Fa→Ga」としよう。ところが、
(〃)「FaならばGaである」といふことは、「仮定」に過ぎないため、
(〃)「FbならばGbである」といふことが、「本当」なのかも知れないし、
(〃)「FcならばGcである」といふことが、「本当」なのかも知れないため、この場合は、
(γ)「あるxは、Fであって、尚且つ、Gである。」とは、「断定」出来ない。
といふのが、
(ⅱ)
1 (1)∃x(Fx→Gx) A
2 (2)∃x(Fx) A
3 (3) Fa→Ga A(代表的選言項)
4(4) Fa A(代表的選言項)
34(5) Ga 34MPP
34(6) Fa&Ga 45&I
34(7)∃x(Fx&Gx) 6EI
23 (8)∃x(Fx&Gx) 247EE
12 (9)∃x(Fx&Gx) 138EE
といふ「計算」の、「その心(意味)」である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ∃x(Fx),∀x(Fx→Gx)├ ∃x(Fx&Gx)
② ∃x(Fx),∃x(Fx→Gx)├ ∃x(Fx&Gx)
に於いて、すなはち、
① あるxは(Fである)。すべてのxについて(xがFであるならば、xはGである)。故に、あるxは(Fであって、Gである)。
② あるxは(Fである)。 あるxについて(xがFであるならば、xはGである)。故に、あるxは(Fであって、Gである)。
に於いて、
① は、「妥当」であるが、
② は、「妥当」ではない。
従って、
(01)(06)により、
(07)
連式 Fa├ ∃x(Fx)
は妥当であると受けいれるが、
連式 ∃x(Fx)├ Fa
を妥当であるとは考えないにしても、
(ⅰ)
1 (1)∃x(Fx) A
2 (2) Fa A(代表的選言項)
3(3)∀x(Fx→Gx) A
3(4) Fa→Ga 1UE
1 3(5) Ga 24MPP
123(6) Fa&Ga 25&I
123(7)∃x(Fx&Gx) 6EI
1 3(8)∃x(Fx&Gx) 6EI
といふ「計算」に於ける、
1 (1)∃x(Fx) A
2 (2) Fa A(代表的選言項)
といふ「仮定」に関しては、「妥当」である。
といふ、ことになる。
然るに、
(08)
われわれはつぎのように証明をはじめるであろう。
1 (1)∃x(Fx)&∃x(Gx) A
1 (2)∃x(Fx) 1&E
1 (3) ∃x(Gx) 1&E
4 (4) Fa A
5(5) Gb A
45(6) Fa&Gb 45&I
45(7)∃x(Fx&Gx) 6EI
存在命題(2)および(3)に対して、われわれは
代表的選言項(4)(5)を仮定し、それらから、
∃x(Fx&Gx)
を導出した。しかし、EEを適用するどのようなくわだても、こんどはうまく行かない。
(7)の行の結論は(4)と(5)に依存し、そのいずれにも「a」が現われているからである。
(E.J.レモン 著、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、154頁)
従って、
(05)(08)により、
(09)
(ⅱ)
1 (1)∃x(Fx→Gx) A
2 (2)∃x(Fx) A
3 (3) Fa→Ga A(代表的選言項)
4(4) Fa A(代表的選言項)
34(5) Ga 34MPP
34(6) Fa&Ga 45&I
34(7)∃x(Fx&Gx) 6EI
23 (8)∃x(Fx&Gx) 247EE
12 (9)∃x(Fx&Gx) 138EE
といふ「計算」と、
(ⅲ)
1 (1)∃x(Fx)&∃x(Gx) A
1 (2)∃x(Fx) 1&E
1 (3) ∃x(Gx) 1&E
4 (4) Fa A(代表的選言項)
5(5) Ga A(代表的選言項)
45(6) Fa&Gb 45&I
45(7)∃x(Fx&Gx) 6EI
14 (8)∃x(Fx&Gx) 357EE
1 (9)∃x(Fx&Gx) 248EE
といふ「計算」は、両方とも、「マチガイ」である。
従って、
(09)により、
(10)
(ⅱ)
1 (1)∃x(Fx→Gx) A
2 (2)∃x(Fx) A
3 (3) Fa→Ga A(代表的選言項)
4(4) Fa A(代表的選言項)
(ⅲ)
1 (1)∃x(Fx)&∃x(Gx) A
1 (2)∃x(Fx) 1&E
1 (3) ∃x(Gx) 1&E
4 (4) Fa A(代表的選言項)
5(5) Ga A(代表的選言項)
がさうであるやうに、「2つの存在命題」から、
(ⅱ)
12 (9)∃x(Fx&Gx) 138EE
(ⅲ)
1 (9)∃x(Fx&Gx) 248EE
のやうに、「1つの存在命題」を、「結論」することは、出来ない。
令和03年04月12日、毛利太。
(01)
1(1)∃x(Fx) A
2(2) Fa A
といふ「仮定」は「妥当」であり、それ故、
連式 ∃x(Fx)├ Fa
といふ「連式」も「妥当」でなければ、ならない。
然るに、
(02)
連式 Fa├ ∃x(Fx)
は妥当であると受けいれるが、
連式 ∃x(Fx)├ Fa
を妥当であるとは考えず、aは任意に選ばれているが、与えられたFをもつ対象の一つではないかも知れないから、この連式を受け入れないのである。
(E.J.レモン 著、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、149頁)
従って、
(01)(02)により、
(03)
① ∃x(Fx)├ Fa
② ∃x(Fx)├ Fa
に於いて、
① は「妥当」であって、
② は「妥当」ではない。
といふ風に、「矛盾」する。
然るに、
(04)
(α)「あるxはF」なので、取り合へず、「aがFである」と仮定して、「Fa」としよう。ところが、
(β)「すべてのxについて(xがFであるならば、xはGである)。」といふことからすれば、
(〃)「FaならばGaである」といふことは、「事実」であり、
(〃)「FbならばGbである」といふことも、「事実」であり、
(〃)「FcならばGcである」といふことも、「実事」であるため、「Fa」ではなく、
「Fb」であったとしても、
「Fb」ではなく、
「Fc」であったとしても、いづれにせよ、
(γ)「あるxは、Fであって、尚且つ、Gである。」といふことには、変はりがない。
といふのが、
(ⅰ)
1 (1)∃x(Fx) A
2 (2) Fa A(代表的選言項)
3(3)∀x(Fx→Gx) A
3(4) Fa→Ga 1UE
1 3(5) Ga 24MPP
123(6) Fa&Ga 25&I
123(7)∃x(Fx&Gx) 6EI
1 3(8)∃x(Fx&Gx) 6EI
といふ「計算」の、「その心(意味)」である。
(05)
(α)「あるxはF」 なので、取り合へず、「aがFである」 と仮定して、「Fa」 としよう。
(β)「あるxはF→G」なので、取り合へず、「aがF→Gである」と仮定して、「Fa→Ga」としよう。ところが、
(〃)「FaならばGaである」といふことは、「仮定」に過ぎないため、
(〃)「FbならばGbである」といふことが、「本当」なのかも知れないし、
(〃)「FcならばGcである」といふことが、「本当」なのかも知れないため、この場合は、
(γ)「あるxは、Fであって、尚且つ、Gである。」とは、「断定」出来ない。
といふのが、
(ⅱ)
1 (1)∃x(Fx→Gx) A
2 (2)∃x(Fx) A
3 (3) Fa→Ga A(代表的選言項)
4(4) Fa A(代表的選言項)
34(5) Ga 34MPP
34(6) Fa&Ga 45&I
34(7)∃x(Fx&Gx) 6EI
23 (8)∃x(Fx&Gx) 247EE
12 (9)∃x(Fx&Gx) 138EE
といふ「計算」の、「その心(意味)」である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ∃x(Fx),∀x(Fx→Gx)├ ∃x(Fx&Gx)
② ∃x(Fx),∃x(Fx→Gx)├ ∃x(Fx&Gx)
に於いて、すなはち、
① あるxは(Fである)。すべてのxについて(xがFであるならば、xはGである)。故に、あるxは(Fであって、Gである)。
② あるxは(Fである)。 あるxについて(xがFであるならば、xはGである)。故に、あるxは(Fであって、Gである)。
に於いて、
① は、「妥当」であるが、
② は、「妥当」ではない。
従って、
(01)(06)により、
(07)
連式 Fa├ ∃x(Fx)
は妥当であると受けいれるが、
連式 ∃x(Fx)├ Fa
を妥当であるとは考えないにしても、
(ⅰ)
1 (1)∃x(Fx) A
2 (2) Fa A(代表的選言項)
3(3)∀x(Fx→Gx) A
3(4) Fa→Ga 1UE
1 3(5) Ga 24MPP
123(6) Fa&Ga 25&I
123(7)∃x(Fx&Gx) 6EI
1 3(8)∃x(Fx&Gx) 6EI
といふ「計算」に於ける、
1 (1)∃x(Fx) A
2 (2) Fa A(代表的選言項)
といふ「仮定」に関しては、「妥当」である。
といふ、ことになる。
然るに、
(08)
われわれはつぎのように証明をはじめるであろう。
1 (1)∃x(Fx)&∃x(Gx) A
1 (2)∃x(Fx) 1&E
1 (3) ∃x(Gx) 1&E
4 (4) Fa A
5(5) Gb A
45(6) Fa&Gb 45&I
45(7)∃x(Fx&Gx) 6EI
存在命題(2)および(3)に対して、われわれは
代表的選言項(4)(5)を仮定し、それらから、
∃x(Fx&Gx)
を導出した。しかし、EEを適用するどのようなくわだても、こんどはうまく行かない。
(7)の行の結論は(4)と(5)に依存し、そのいずれにも「a」が現われているからである。
(E.J.レモン 著、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、154頁)
従って、
(05)(08)により、
(09)
(ⅱ)
1 (1)∃x(Fx→Gx) A
2 (2)∃x(Fx) A
3 (3) Fa→Ga A(代表的選言項)
4(4) Fa A(代表的選言項)
34(5) Ga 34MPP
34(6) Fa&Ga 45&I
34(7)∃x(Fx&Gx) 6EI
23 (8)∃x(Fx&Gx) 247EE
12 (9)∃x(Fx&Gx) 138EE
といふ「計算」と、
(ⅲ)
1 (1)∃x(Fx)&∃x(Gx) A
1 (2)∃x(Fx) 1&E
1 (3) ∃x(Gx) 1&E
4 (4) Fa A(代表的選言項)
5(5) Ga A(代表的選言項)
45(6) Fa&Gb 45&I
45(7)∃x(Fx&Gx) 6EI
14 (8)∃x(Fx&Gx) 357EE
1 (9)∃x(Fx&Gx) 248EE
といふ「計算」は、両方とも、「マチガイ」である。
従って、
(09)により、
(10)
(ⅱ)
1 (1)∃x(Fx→Gx) A
2 (2)∃x(Fx) A
3 (3) Fa→Ga A(代表的選言項)
4(4) Fa A(代表的選言項)
(ⅲ)
1 (1)∃x(Fx)&∃x(Gx) A
1 (2)∃x(Fx) 1&E
1 (3) ∃x(Gx) 1&E
4 (4) Fa A(代表的選言項)
5(5) Ga A(代表的選言項)
がさうであるやうに、「2つの存在命題」から、
(ⅱ)
12 (9)∃x(Fx&Gx) 138EE
(ⅲ)
1 (9)∃x(Fx&Gx) 248EE
のやうに、「1つの存在命題」を、「結論」することは、出来ない。
令和03年04月12日、毛利太。
2021年4月10日土曜日
「含意の定義」と「∨I(選言導入)」と「移出律」と「移入律」。
(01)
―「含意の定義」の証明。―
(ⅰ)
1 (1) P→Q A
2 (2) ~(~P∨Q) A
3(3) ~P A
3(4) ~P∨Q 3∨I(選言導入)
23(5) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
12 (8) Q 17MPP
12 (9) ~P∨Q 8∨I(選言導入)
12 (ア) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 29&I
1 (イ)~~(~P∨Q) 2アRAA
1 (ウ) ~P∨Q イDN
(ⅱ)
1 (1) ~P∨ Q A
2 (2) P&~Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6)~(P&~Q) 25RAA
7 (7) Q A
2 (8) ~Q 2&E
2 7 (9) Q&~Q 78&I
7 (ア)~(P&~Q) 29RAA
1 (イ)~(P&~Q) 1367ア∨E
ウ (ウ) P A
エ(エ) ~Q A
ウエ(オ) P&~Q ウエ&I
1 ウエ(カ)~(P&~Q)&
(P&~Q) イオ&I
1 ウ (キ) ~~Q エカRAA
1 ウ (ク) Q キDN
1 (ケ) P→ Q ウクCP
然るに、
(02)
1(1) P A
1(2) ~T∨P 1∨I(選言導入)
1(3) T→P 2含意の定義
1(4) ~S∨(T→P) 3∨I(選言導入)
1(5) S→(T→P) 4含意の定義
1(6) ~R∨(S→(T→P)) 5∨I(選言導入)
1(7) R→(S→(T→P)) 6含意の定義
1(8)~Q∨(R→(S→(T→P))) 7∨I(選言導入)
1(9) Q→(R→(S→(T→P))) 8含意の定義
従って、
(02)により、
(03)
例へば、
① P├ T→P
① P├ S→(T→P)
① P├ R→(S→(T→P))
① P├ Q→(R→(S→(T→P)))
といふ「連式(Sequent)」は、「妥当」である。
然るに、
(04)
演繹定理(Deduction theorem)は次のように表現される。
A は論理式で、B も論理式で、Γ は複数の論理式の列であるとする。
このとき、
Γ,A├ B
であるならば、
Γ├ A→B
であるが、
Γ が空のときは当然、
├ A→B
である。
(長尾真・淵一博、論理と意味、1983年、39・40頁改)
従って、
(03)(04)により、
(05)
「演繹的理」により、
② ├ P→(T→P)
② ├ P→(S→(T→P))
② ├ P→(R→(S→(T→P)))
② ├ P→(Q→(R→(S→(T→P))))
といふ「連式(Sequent)」は、「妥当」である。
従って、
(02)~(05)により、
(06)
1(1) P A
1(2) ~T∨P 1∨I(選言導入)
1(3) T→P 2含意の定義
1(4) ~S∨(T→P) 3∨I(選言導入)
1(5) S→(T→P) 4含意の定義
1(6) ~R∨(S→(T→P)) 5∨I(選言導入)
1(7) R→(S→(T→P)) 6含意の定義
1(8) ~Q∨(R→(S→(T→P))) 7∨I(選言導入)
1(9) Q→(R→(S→(T→P))) 8含意の定義
(ア)P→(Q→(R→(S→(T→P)))) 19CP(演繹定理)
といふ「推論」は、「妥当」である。
然るに、
(07)
① P→(T→P)
① P→(S→(T→P))
① P→(R→(S→(T→P)))
① P→(Q→(R→(S→(T→P))))
に於いて、
Pは、「真」であるか、「偽」であるかの、いづれかである。
然るに、
(08)
① A→B は、
① 真→偽 であるならば、そのときに限って「偽」である。
従って、
(08)により、
(09)
① 真→(T→真)
① 真→(S→(T→真))
① 真→(R→(S→(T→真)))
① 真→(Q→(R→(S→(T→真))))
は、4つとも、「真」であり、
① 偽→(T→偽)
① 偽→(S→(T→偽))
① 偽→(R→(S→(T→偽)))
① 偽→(Q→(R→(S→(T→偽))))
も、4つとも、「真」である。
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
いづれにせよ、
① P→(T→P)
① P→(S→(T→P))
① P→(R→(S→(T→P)))
① P→(Q→(R→(S→(T→P))))
といふ「論理式」は、「真(トートロジー)」である。
然るに、
(11)
(ⅰ)
1 (1)P→(Q→(R→(S→(T→P)))) A
2 (2)P&Q&R&S&T A
2 (3)P 2&E
2 (4) Q 2&E
2 (5) R 2&E
2 (6) S 2&E
2 (7) T 2&E
12 (8) Q→(R→(S→(T→P))) 13MPP
12 (9) R→(S→(T→P)) 48MPP
12 (ア) S→(T→P)) 59MPP
12 (イ) T→P 6アMPP
1 (ウ) P 7イMPP
(エ)(P&Q&R&S&T)→P 1ウCP(演繹定理)
(ⅱ)
1 (1)(P&Q&R&S&T)→P A
2 (2) P A
3 (3) Q A
4 (4) R A
5 (5) S A
6(6) T A
23 (7)P&Q 34&I
234 (8)P&Q&R 47&I
2345 (9)P&Q&R&S 58&I
23456(ア)P&Q&R&S&T 69&I
123456(イ) P 1アMPP
12345 (ウ) T→P 6イCP(演繹定理)
1234 (エ) S→(T→P) 5ウCP(演繹定理)
123 (オ) R→(S→(T→P)) 4エCP(演繹定理)
12 (カ) Q→(R→(S→(T→P))) 3オCP(演繹定理)
1 (キ)P→(Q→(R→(S→(T→P)))) 2カCP(演繹定理)
従って、
(11)により、
(12)
① P→(Q→(R→(S→(T →P))))
②(P& Q& R& S& T)→P
に於いて、
①=② である(移入律・移出律)。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① P→(Q →P)
②(P& Q)→P
に於いて、
①=② である(移入律・移出律)。
然るに、
(14)
① Pならば(Qならば、Pである)。
②(PであってQである)ならば、Pである。
に於いて、
② は、「当然」であるが、
① は、「奇異」である。
然るに、
(15)
因みに、
① P→(Q→P)
① Pならば(Qならば、Pである)。
は、「ルカジェヴィッツの公理(Ⅰ)」である。
然るに、
(16)
(ⅰ)
1(1) P A
1(2) ~Q∨P 1∨I(選言導入)
1(3) Q→P 2含意の定義
(4)P→( Q→P) 13CP(演繹定理)
(ⅱ)
1(1) P A
1(2) Q∨P 1∨I(選言導入)
1(3) ~~Q∨P 2DN
1(4) ~Q→P 3含意の定義
(5)P→(~Q→P) 14CP(演繹定理)
従って、
(15)(16)により、
(17)
① Pならば(Qであるならば、Pである)。
② Pならば(Qでないならば、Pである)。
に於いて、
① が、「ルカジェヴィッツの公理(Ⅰ)」であるならば、
② も、「ルカジェヴィッツの公理(Ⅰ)」である。
従って、
(15)(17)により、
(18)
① P→(Q→P)
である所の、「ルカジェヴィッツの公理(Ⅰ)」は、
① Pならば(Qであるなしに拘はらず、Pである)。
といふ「意味」に、他ならない。
従って、
(13)(14)(18)により、
(19)
① P→(Q →P)
②(P& Q)→P
に於いて、すなはち、
① Pならば(Qであるなしに拘はらず、Pである)。
②(PであってQである)ならば、いづれにせよ、Pである。
に於いて、
①=② である(移入律・移出律)。
然るに、
(06)により、
(20)
もう一度、確認すると、
1(1) P A
1(2) ~T∨P 1∨I(選言導入)
1(3) T→P 2含意の定義
1(4) ~S∨(T→P) 3∨I(選言導入)
1(5) S→(T→P) 4含意の定義
1(6) ~R∨(S→(T→P)) 5∨I(選言導入)
1(7) R→(S→(T→P)) 6含意の定義
1(8) ~Q∨(R→(S→(T→P))) 7∨I(選言導入)
1(9) Q→(R→(S→(T→P))) 8含意の定義
(ア)P→(Q→(R→(S→(T→P)))) 19CP(演繹定理)
従って、
(06)(11)(12)により、
(21)
「移入律・移出律」が成り立つためには、「∨I(選言導入)」が、「不可欠」である。
然るに、
(22)
我々は、普段、「今日は土曜である(P)。故に、今日は天気が悪いか、または、今日は土曜である(~T∨P)。」
といふやうな「推論(選言導入)」を、行ふことはない。
従って、
(20)(21)(22)により、
(23)
「今日は土曜である(P)。故に、今日は天気が悪いか、または、今日は土曜である(~T∨P)。」といふやうな「推論(選言導入)」は、「役に立たない」やうでゐて、その一方で、「命題論理」といふ「体系」に於いては、「不可欠な推論」である。
といふ、ことになる。
令和03年04月10日、毛利太。
―「含意の定義」の証明。―
(ⅰ)
1 (1) P→Q A
2 (2) ~(~P∨Q) A
3(3) ~P A
3(4) ~P∨Q 3∨I(選言導入)
23(5) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
12 (8) Q 17MPP
12 (9) ~P∨Q 8∨I(選言導入)
12 (ア) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 29&I
1 (イ)~~(~P∨Q) 2アRAA
1 (ウ) ~P∨Q イDN
(ⅱ)
1 (1) ~P∨ Q A
2 (2) P&~Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6)~(P&~Q) 25RAA
7 (7) Q A
2 (8) ~Q 2&E
2 7 (9) Q&~Q 78&I
7 (ア)~(P&~Q) 29RAA
1 (イ)~(P&~Q) 1367ア∨E
ウ (ウ) P A
エ(エ) ~Q A
ウエ(オ) P&~Q ウエ&I
1 ウエ(カ)~(P&~Q)&
(P&~Q) イオ&I
1 ウ (キ) ~~Q エカRAA
1 ウ (ク) Q キDN
1 (ケ) P→ Q ウクCP
然るに、
(02)
1(1) P A
1(2) ~T∨P 1∨I(選言導入)
1(3) T→P 2含意の定義
1(4) ~S∨(T→P) 3∨I(選言導入)
1(5) S→(T→P) 4含意の定義
1(6) ~R∨(S→(T→P)) 5∨I(選言導入)
1(7) R→(S→(T→P)) 6含意の定義
1(8)~Q∨(R→(S→(T→P))) 7∨I(選言導入)
1(9) Q→(R→(S→(T→P))) 8含意の定義
従って、
(02)により、
(03)
例へば、
① P├ T→P
① P├ S→(T→P)
① P├ R→(S→(T→P))
① P├ Q→(R→(S→(T→P)))
といふ「連式(Sequent)」は、「妥当」である。
然るに、
(04)
演繹定理(Deduction theorem)は次のように表現される。
A は論理式で、B も論理式で、Γ は複数の論理式の列であるとする。
このとき、
Γ,A├ B
であるならば、
Γ├ A→B
であるが、
Γ が空のときは当然、
├ A→B
である。
(長尾真・淵一博、論理と意味、1983年、39・40頁改)
従って、
(03)(04)により、
(05)
「演繹的理」により、
② ├ P→(T→P)
② ├ P→(S→(T→P))
② ├ P→(R→(S→(T→P)))
② ├ P→(Q→(R→(S→(T→P))))
といふ「連式(Sequent)」は、「妥当」である。
従って、
(02)~(05)により、
(06)
1(1) P A
1(2) ~T∨P 1∨I(選言導入)
1(3) T→P 2含意の定義
1(4) ~S∨(T→P) 3∨I(選言導入)
1(5) S→(T→P) 4含意の定義
1(6) ~R∨(S→(T→P)) 5∨I(選言導入)
1(7) R→(S→(T→P)) 6含意の定義
1(8) ~Q∨(R→(S→(T→P))) 7∨I(選言導入)
1(9) Q→(R→(S→(T→P))) 8含意の定義
(ア)P→(Q→(R→(S→(T→P)))) 19CP(演繹定理)
といふ「推論」は、「妥当」である。
然るに、
(07)
① P→(T→P)
① P→(S→(T→P))
① P→(R→(S→(T→P)))
① P→(Q→(R→(S→(T→P))))
に於いて、
Pは、「真」であるか、「偽」であるかの、いづれかである。
然るに、
(08)
① A→B は、
① 真→偽 であるならば、そのときに限って「偽」である。
従って、
(08)により、
(09)
① 真→(T→真)
① 真→(S→(T→真))
① 真→(R→(S→(T→真)))
① 真→(Q→(R→(S→(T→真))))
は、4つとも、「真」であり、
① 偽→(T→偽)
① 偽→(S→(T→偽))
① 偽→(R→(S→(T→偽)))
① 偽→(Q→(R→(S→(T→偽))))
も、4つとも、「真」である。
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
いづれにせよ、
① P→(T→P)
① P→(S→(T→P))
① P→(R→(S→(T→P)))
① P→(Q→(R→(S→(T→P))))
といふ「論理式」は、「真(トートロジー)」である。
然るに、
(11)
(ⅰ)
1 (1)P→(Q→(R→(S→(T→P)))) A
2 (2)P&Q&R&S&T A
2 (3)P 2&E
2 (4) Q 2&E
2 (5) R 2&E
2 (6) S 2&E
2 (7) T 2&E
12 (8) Q→(R→(S→(T→P))) 13MPP
12 (9) R→(S→(T→P)) 48MPP
12 (ア) S→(T→P)) 59MPP
12 (イ) T→P 6アMPP
1 (ウ) P 7イMPP
(エ)(P&Q&R&S&T)→P 1ウCP(演繹定理)
(ⅱ)
1 (1)(P&Q&R&S&T)→P A
2 (2) P A
3 (3) Q A
4 (4) R A
5 (5) S A
6(6) T A
23 (7)P&Q 34&I
234 (8)P&Q&R 47&I
2345 (9)P&Q&R&S 58&I
23456(ア)P&Q&R&S&T 69&I
123456(イ) P 1アMPP
12345 (ウ) T→P 6イCP(演繹定理)
1234 (エ) S→(T→P) 5ウCP(演繹定理)
123 (オ) R→(S→(T→P)) 4エCP(演繹定理)
12 (カ) Q→(R→(S→(T→P))) 3オCP(演繹定理)
1 (キ)P→(Q→(R→(S→(T→P)))) 2カCP(演繹定理)
従って、
(11)により、
(12)
① P→(Q→(R→(S→(T →P))))
②(P& Q& R& S& T)→P
に於いて、
①=② である(移入律・移出律)。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① P→(Q →P)
②(P& Q)→P
に於いて、
①=② である(移入律・移出律)。
然るに、
(14)
① Pならば(Qならば、Pである)。
②(PであってQである)ならば、Pである。
に於いて、
② は、「当然」であるが、
① は、「奇異」である。
然るに、
(15)
因みに、
① P→(Q→P)
① Pならば(Qならば、Pである)。
は、「ルカジェヴィッツの公理(Ⅰ)」である。
然るに、
(16)
(ⅰ)
1(1) P A
1(2) ~Q∨P 1∨I(選言導入)
1(3) Q→P 2含意の定義
(4)P→( Q→P) 13CP(演繹定理)
(ⅱ)
1(1) P A
1(2) Q∨P 1∨I(選言導入)
1(3) ~~Q∨P 2DN
1(4) ~Q→P 3含意の定義
(5)P→(~Q→P) 14CP(演繹定理)
従って、
(15)(16)により、
(17)
① Pならば(Qであるならば、Pである)。
② Pならば(Qでないならば、Pである)。
に於いて、
① が、「ルカジェヴィッツの公理(Ⅰ)」であるならば、
② も、「ルカジェヴィッツの公理(Ⅰ)」である。
従って、
(15)(17)により、
(18)
① P→(Q→P)
である所の、「ルカジェヴィッツの公理(Ⅰ)」は、
① Pならば(Qであるなしに拘はらず、Pである)。
といふ「意味」に、他ならない。
従って、
(13)(14)(18)により、
(19)
① P→(Q →P)
②(P& Q)→P
に於いて、すなはち、
① Pならば(Qであるなしに拘はらず、Pである)。
②(PであってQである)ならば、いづれにせよ、Pである。
に於いて、
①=② である(移入律・移出律)。
然るに、
(06)により、
(20)
もう一度、確認すると、
1(1) P A
1(2) ~T∨P 1∨I(選言導入)
1(3) T→P 2含意の定義
1(4) ~S∨(T→P) 3∨I(選言導入)
1(5) S→(T→P) 4含意の定義
1(6) ~R∨(S→(T→P)) 5∨I(選言導入)
1(7) R→(S→(T→P)) 6含意の定義
1(8) ~Q∨(R→(S→(T→P))) 7∨I(選言導入)
1(9) Q→(R→(S→(T→P))) 8含意の定義
(ア)P→(Q→(R→(S→(T→P)))) 19CP(演繹定理)
従って、
(06)(11)(12)により、
(21)
「移入律・移出律」が成り立つためには、「∨I(選言導入)」が、「不可欠」である。
然るに、
(22)
我々は、普段、「今日は土曜である(P)。故に、今日は天気が悪いか、または、今日は土曜である(~T∨P)。」
といふやうな「推論(選言導入)」を、行ふことはない。
従って、
(20)(21)(22)により、
(23)
「今日は土曜である(P)。故に、今日は天気が悪いか、または、今日は土曜である(~T∨P)。」といふやうな「推論(選言導入)」は、「役に立たない」やうでゐて、その一方で、「命題論理」といふ「体系」に於いては、「不可欠な推論」である。
といふ、ことになる。
令和03年04月10日、毛利太。
2021年4月9日金曜日
「パースの法則」と「演繹定理」。
―「昨日(令和03年04月09日)の記事」を補足します。―
(01)
命題計算では、パースの法則は ((P→Q)→P)→P のことを言う。この意味するところを書き出すと、命題Pについて、命題Qが存在して、「PならばQ」からPが真であることが従うときには、Pは真でなければならないとなる。とりわけ、Qとして偽を選んだ場合には、Pから偽が従うときは常にPが真であるならば、Pは真であるとなる。
パースの法則は直観論理や中間命題論理では成立せず、演繹定理だけからでは導くことができない(ウィキペディア)。
然るに、
(02)
1 (1) (P→Q)→P A
2 (2) ~P∨Q A
2 (3) P→Q 2含意の定義
12 (4) P 13MPP
1 (5) (~P∨Q)→P 24CP(演繹定理)
1 (6)~(~P∨Q)∨P 2含意の定義
7 (7)~(~P∨Q) A
7 (8) P&~Q 7ド・モルガンの法則
7 (9) P 8&E
ア(ア) P A
1 (イ) P 679アア∨E
(ウ)((P→Q)→P)→P 1イCP(演繹定理)
従って、
(02)により、
(03)
Γ├((P→Q)→P)→P
といふ「連式(Sequent)」に於ける、
Γ は、空 である。
然るに、
(04)
演繹定理(Deduction theorem)は次のように表現される。
Γ,A├ B
ならば、
Γ├ A→B
であるが、
Γ が空のときは当然、
├ A→B
である。
(長尾真・淵一博、論理と意味、1983年、39・40頁改)
然るに、
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
「証明(02)」は、紛れもなく、
(Γ,A├ B)⇔(Γ├ A→B)
である所の、「演繹定理」による「証明」である。
然るに、
(06)
「証明(02)」の際に、
「定理(含意の定義・ド・モルガンの法則)」を用ひない場合は、
「やむを得ず、その分、長くなる」のであって、「次の証明」がそれである。
1 (1) (P→Q)→ P A
2 (2) ~P∨Q A
3 (3) P&~Q A
4 (4) ~P A
3 (5) P 3&E
34 (6) P&~P 45&I
4 (7) ~(P&~Q) 36RAA
8 (8) Q A
3 (9) ~Q 3&E
3 8 (ア) Q&~Q 89&I
8 (イ) ~(P&~Q) 3アRAA
2 (ウ) ~(P&~Q) 2478イ∨E
エ (エ) P A
オ (オ) ~Q A
エオ (カ) P&~Q エオ&I
2 エオ (キ) ~(P&~Q)&
(P&~Q) ウカ&I
2 エ (ク) ~~Q オキRAA
2 エ (ケ) Q クDN
2 (コ) P→Q エケCP(演繹定理)
12 (サ) P 1コMPP
1 (シ) (~P∨Q)→ P 2サCP(演繹定理)
ス (ス) (~P∨Q)&~P A
ス (セ) (~P∨Q) ス&E
1 ス (ソ) P シセMPP
ス (タ) ~P ス&E
1 ス (チ) P&~P ソタ&I
1 (ツ) ~{(~P∨Q)&~P} スチRAA
テ (テ)~{~(~P∨Q)∨ P} A
ト (ト) ~(~P∨Q) A
ト (ナ) ~(~P∨Q)∨ P ト∨I
テト (ニ)~{~(~P∨Q)∨ P}&
{~(~P∨Q)∨ P} テナ&I
テ (ヌ) ~~(~P∨Q) トニRAA
テ (ネ) (~P∨Q) ヌDN
ノ (ノ) P A
ノ (ハ) ~(~P∨Q)∨ P ノ∨I
テ ノ (ヒ)~{~(~P∨Q)∨ P}&
{~(~P∨Q)∨ P} テハ&I
テ (フ) ~P ノヒRAA
テ (ヘ) (~P∨Q)&~P ネフ&I
1 テ (ホ) ~{(~P∨Q)&~P}&
{(~P∨Q)&~P} ツヘ&I
1 (マ)~~{~(~P∨Q)∨P} テホRAA
1 (ミ) ~(~P∨Q)∨P マDN
ム (ム) ~(~P∨Q) A
メ (メ) ~P A
メ (モ) ~P∨Q メ∨I
ムメ (ヤ) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) ムモ&I
ム (ユ) ~~P メヤRAA
ム (ヨ) P ユDN
ラ(ラ) P A
1 (リ) P ミムヨララ∨E
(ル) ((P→Q)→P)→P 1リCP(演繹定理)
従って、
(02)(06)により、
(07)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、
「E.J.レモンの、自然演繹の規則」である所の、「原子規則(10 primitive rules)」である所の、
「A、MPP、DN、CP、&I、&E、∨I、∨E、RAA」によって、「証明」出来る。
然るに、
(08)
命題計算の規則は、本質的にゲンツェン(G.Gentzen)に由来するものである。
(E.J.レモン 著、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、序ⅲ)
従って、
(07)(08)により、
(09)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、
「E.J.レモンの、自然演繹の規則(ゲンツェンの自然演繹に由来する)」によって、「証明」出来る。
従って、
(01)(09)により、
(10)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、「演繹定理」だけでは導くことができない(ウィキペディア)。」
とは言ふものの、「パースの法則」は、「ゲンツェンの自然演繹」だけで、導くことができる。
然るに、
(11)
1(1) P A
1(2) ~Q∨P 1∨I
1(3) Q→P 2含意の定義
(4)P→(Q→P) 13CP(演繹定理)
従って、
(07)(11)により、
(12)
P→(Q→P) である所の、「ルカジェヴィッツの公理(Ⅰ)」も、
「E.J.レモンの、自然演繹の規則(ゲンツェンの自然演繹に由来する)」によって、「証明」出来る。
従って、
(02)(09)(11)(12)により、
(13)
①((P→Q)→P)→P
② P→(Q→P)
である所の、
①「パースの法則」と、
②「ルカジェヴィッツの公理(Ⅰ)」等は、 (ⅰ)
1 (1) (P→Q)→P A
2 (2) ~P∨Q A
2 (3) P→Q 2含意の定義
12 (4) P 13MPP
1 (5) (~P∨Q)→P 24CP(演繹定理)
1 (6)~(~P∨Q)∨P 2含意の定義
7 (7)~(~P∨Q) A
7 (8) P&~Q 7ド・モルガンの法則
7 (9) P 8&E
ア(ア) P A
1 (イ) P 679アア∨E
(ウ)((P→Q)→P)→P 1イCP(演繹定理)
(ⅱ)
1(1) P A
1(2) ~Q∨P 1∨I
1(3) Q→P 2含意の定義
(4)P→(Q→P) 13CP(演繹定理)
といふ「自然演繹」で「導出可能(derivable)」な、「普通の、恒真式(トートロジー)」である。
令和03年04月09日、毛利太。
(01)
命題計算では、パースの法則は ((P→Q)→P)→P のことを言う。この意味するところを書き出すと、命題Pについて、命題Qが存在して、「PならばQ」からPが真であることが従うときには、Pは真でなければならないとなる。とりわけ、Qとして偽を選んだ場合には、Pから偽が従うときは常にPが真であるならば、Pは真であるとなる。
パースの法則は直観論理や中間命題論理では成立せず、演繹定理だけからでは導くことができない(ウィキペディア)。
然るに、
(02)
1 (1) (P→Q)→P A
2 (2) ~P∨Q A
2 (3) P→Q 2含意の定義
12 (4) P 13MPP
1 (5) (~P∨Q)→P 24CP(演繹定理)
1 (6)~(~P∨Q)∨P 2含意の定義
7 (7)~(~P∨Q) A
7 (8) P&~Q 7ド・モルガンの法則
7 (9) P 8&E
ア(ア) P A
1 (イ) P 679アア∨E
(ウ)((P→Q)→P)→P 1イCP(演繹定理)
従って、
(02)により、
(03)
Γ├((P→Q)→P)→P
といふ「連式(Sequent)」に於ける、
Γ は、空 である。
然るに、
(04)
演繹定理(Deduction theorem)は次のように表現される。
Γ,A├ B
ならば、
Γ├ A→B
であるが、
Γ が空のときは当然、
├ A→B
である。
(長尾真・淵一博、論理と意味、1983年、39・40頁改)
然るに、
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
「証明(02)」は、紛れもなく、
(Γ,A├ B)⇔(Γ├ A→B)
である所の、「演繹定理」による「証明」である。
然るに、
(06)
「証明(02)」の際に、
「定理(含意の定義・ド・モルガンの法則)」を用ひない場合は、
「やむを得ず、その分、長くなる」のであって、「次の証明」がそれである。
1 (1) (P→Q)→ P A
2 (2) ~P∨Q A
3 (3) P&~Q A
4 (4) ~P A
3 (5) P 3&E
34 (6) P&~P 45&I
4 (7) ~(P&~Q) 36RAA
8 (8) Q A
3 (9) ~Q 3&E
3 8 (ア) Q&~Q 89&I
8 (イ) ~(P&~Q) 3アRAA
2 (ウ) ~(P&~Q) 2478イ∨E
エ (エ) P A
オ (オ) ~Q A
エオ (カ) P&~Q エオ&I
2 エオ (キ) ~(P&~Q)&
(P&~Q) ウカ&I
2 エ (ク) ~~Q オキRAA
2 エ (ケ) Q クDN
2 (コ) P→Q エケCP(演繹定理)
12 (サ) P 1コMPP
1 (シ) (~P∨Q)→ P 2サCP(演繹定理)
ス (ス) (~P∨Q)&~P A
ス (セ) (~P∨Q) ス&E
1 ス (ソ) P シセMPP
ス (タ) ~P ス&E
1 ス (チ) P&~P ソタ&I
1 (ツ) ~{(~P∨Q)&~P} スチRAA
テ (テ)~{~(~P∨Q)∨ P} A
ト (ト) ~(~P∨Q) A
ト (ナ) ~(~P∨Q)∨ P ト∨I
テト (ニ)~{~(~P∨Q)∨ P}&
{~(~P∨Q)∨ P} テナ&I
テ (ヌ) ~~(~P∨Q) トニRAA
テ (ネ) (~P∨Q) ヌDN
ノ (ノ) P A
ノ (ハ) ~(~P∨Q)∨ P ノ∨I
テ ノ (ヒ)~{~(~P∨Q)∨ P}&
{~(~P∨Q)∨ P} テハ&I
テ (フ) ~P ノヒRAA
テ (ヘ) (~P∨Q)&~P ネフ&I
1 テ (ホ) ~{(~P∨Q)&~P}&
{(~P∨Q)&~P} ツヘ&I
1 (マ)~~{~(~P∨Q)∨P} テホRAA
1 (ミ) ~(~P∨Q)∨P マDN
ム (ム) ~(~P∨Q) A
メ (メ) ~P A
メ (モ) ~P∨Q メ∨I
ムメ (ヤ) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) ムモ&I
ム (ユ) ~~P メヤRAA
ム (ヨ) P ユDN
ラ(ラ) P A
1 (リ) P ミムヨララ∨E
(ル) ((P→Q)→P)→P 1リCP(演繹定理)
従って、
(02)(06)により、
(07)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、
「E.J.レモンの、自然演繹の規則」である所の、「原子規則(10 primitive rules)」である所の、
「A、MPP、DN、CP、&I、&E、∨I、∨E、RAA」によって、「証明」出来る。
然るに、
(08)
命題計算の規則は、本質的にゲンツェン(G.Gentzen)に由来するものである。
(E.J.レモン 著、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、序ⅲ)
従って、
(07)(08)により、
(09)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、
「E.J.レモンの、自然演繹の規則(ゲンツェンの自然演繹に由来する)」によって、「証明」出来る。
従って、
(01)(09)により、
(10)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、「演繹定理」だけでは導くことができない(ウィキペディア)。」
とは言ふものの、「パースの法則」は、「ゲンツェンの自然演繹」だけで、導くことができる。
然るに、
(11)
1(1) P A
1(2) ~Q∨P 1∨I
1(3) Q→P 2含意の定義
(4)P→(Q→P) 13CP(演繹定理)
従って、
(07)(11)により、
(12)
P→(Q→P) である所の、「ルカジェヴィッツの公理(Ⅰ)」も、
「E.J.レモンの、自然演繹の規則(ゲンツェンの自然演繹に由来する)」によって、「証明」出来る。
従って、
(02)(09)(11)(12)により、
(13)
①((P→Q)→P)→P
② P→(Q→P)
である所の、
①「パースの法則」と、
②「ルカジェヴィッツの公理(Ⅰ)」等は、 (ⅰ)
1 (1) (P→Q)→P A
2 (2) ~P∨Q A
2 (3) P→Q 2含意の定義
12 (4) P 13MPP
1 (5) (~P∨Q)→P 24CP(演繹定理)
1 (6)~(~P∨Q)∨P 2含意の定義
7 (7)~(~P∨Q) A
7 (8) P&~Q 7ド・モルガンの法則
7 (9) P 8&E
ア(ア) P A
1 (イ) P 679アア∨E
(ウ)((P→Q)→P)→P 1イCP(演繹定理)
(ⅱ)
1(1) P A
1(2) ~Q∨P 1∨I
1(3) Q→P 2含意の定義
(4)P→(Q→P) 13CP(演繹定理)
といふ「自然演繹」で「導出可能(derivable)」な、「普通の、恒真式(トートロジー)」である。
令和03年04月09日、毛利太。
2021年4月8日木曜日
「パースの法則」の「証明」の「説明」(Ⅱ)。
(01)
命題計算では、パースの法則は ((P→Q)→P)→P のことを言う。この意味するところを書き出すと、命題Pについて、命題Qが存在して、「PならばQ」からPが真であることが従うときには、Pは真でなければならないとなる。とりわけ、Qとして偽を選んだ場合には、Pから偽が従うときは常にPが真であるならば、Pは真であるとなる。
パースの法則は直観論理や中間命題論理では成立せず、演繹定理だけからでは導くことができない(ウィキペディア)。
(02)
1 (1) (P→Q)→P A
2 (2) ~P∨Q A
2 (3) P→Q 2含意の定義
12 (4) P 13MPP
1 (5) (~P∨Q)→P 24CP
1 (6)~(~P∨Q)∨P 2含意の定義
7 (7)~(~P∨Q) A
7 (8) P&~Q 7ド・モルガンの法則
7 (9) P 8&E
ア(ア) P A
1 (イ) P 679アア∨E
(ウ)((P→Q)→P)→P 1イCP
従って、
(01)(02)により、
(03)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、 「A、含意の定義、MPP、CP、ド・モルガンの法則、&E、∨E」によって、「証明」出来る。
然るに、
(04)
―「含意の定義」の証明。―
(ⅰ)
1 (1) P→Q A
2 (2) ~(~P∨Q) A
3(3) ~P A
3(4) ~P∨Q 3∨I
23(5) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
12 (8) Q 17MPP
12 (9) ~P∨Q 8∨I
12 (ア) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 29&I
1 (イ)~~(~P∨Q) 2アRAA
1 (ウ) ~P∨Q イDN
(ⅱ)
1 (1) ~P∨ Q A
2 (2) P&~Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6)~(P&~Q) 25RAA
7 (7) Q A
2 (8) ~Q 2&E
2 7 (9) Q&~Q 78&I
7 (ア)~(P&~Q) 29RAA
1 (イ)~(P&~Q) 1367ア∨E
ウ (ウ) P A
エ(エ) ~Q A
ウエ(オ) P&~Q ウエ&I
1 ウエ(カ)~(P&~Q)&
(P&~Q) イオ&I
1 ウ (キ) ~~Q エカRAA
1 ウ (ク) Q キDN
1 (ケ) P→ Q ウクCP
(05)
―「ド・モルガンの法則」の証明(Ⅰ)。―
(ⅰ)
1 (1) ~( P& Q) A
2 (2) ~(~P∨~Q) A
3 (3) ~P A
3 (4) ~P∨~Q 3∨I
23 (5) ~(~P∨~Q)&
(~P∨~Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
8(8) ~Q A
8(9) ~P∨~Q 8∨I
2 8(ア) ~(~P∨~Q)&
~P∨~Q 29&I
2 (イ) ~~Q 8アRAA
2 (ウ) Q イDN
2 (エ) P& Q 7ウ&I
12 (オ) ~( P& Q)&
( P& Q) 1エ&I
1 (カ)~~(~P∨~Q) 2オRAA
1 (キ) ~P∨~Q カDN
(ⅱ)
1 (1) ~P∨~Q A
2 (2) P& Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6) ~( P& Q) 25RAA
7(7) ~Q A
2 (8) Q 2&E
2 7(9) ~Q&Q 78&I
7(ア) ~( P& Q) 29RAA
1 (イ) ~( P& Q) 1367ア∨E
従って、
(04)(05)により、
(06)
「含意の定義」と「ド・モルガンの法則」は、
「A、∨I、&I、RAA、DN、MPP、&E、CP、∨E」によって、「証明」出来る。
従って、
(03)(06)により、
(07)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、
「A、含意の定義、MPP、CP、ド・モルガンの法則、&E、∨E」によって、「証明」出来、
「含意の定義」と「ド・モルガンの法則」は、
「A、∨I、&I、RAA、DN、MPP、&E、CP、∨E」によって、「証明」出来る。
従って、
(07)により、
(08)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、
「A、MPP、DN、CP、&I、&E、∨I、∨E、RAA」によって、「証明」出来る。
然るに、
(09)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、
「E.J.レモンの、自然演繹の規則」である所の、「原子規則(10 primitive rules)」である、
「A、MPP、DN、CP、&I、&E、∨I、∨E、RAA」によって、「証明」出来る。
然るに、
(10)
命題計算の規則は、本質的にゲンツェン(G.Gentzen)に由来するものである。
(E.J.レモン 著、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、序ⅲ)
従って、
(09)(10)により、
(11)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、
「E.J.レモンの、自然演繹の規則(ゲンツェンの自然演繹に由来する)」によって、「証明」出来る。
従って、
(01)(11)により、
(12)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、「演繹定理」だけでは導くことができない(ウィキペディア)。」
とは言ふものの、「パースの法則」は、「ゲンツェンの自然演繹」だけで、導くことができる。
従って、
(01)(02)(12)により、
(13)
「パースの法則は直観論理や中間命題論理では成立しない(ウィキペディア)。」
とは言ふものの、
1 (1) (P→Q)→P A
2 (2) ~P∨Q A
2 (3) P→Q 2含意の定義
12 (4) P 13MPP
1 (5) (~P∨Q)→P 24CP
1 (6)~(~P∨Q)∨P 2含意の定義
7 (7)~(~P∨Q) A
7 (8) P&~Q 7ド・モルガンの法則
7 (9) P 8&E
ア(ア) P A
1 (イ) P 679アア∨E
(ウ)((P→Q)→P)→P 1イCP
といふ「証明」からすれば、「パースの法則」は、「ごく普通の、恒真式(トートロジー)の一つ」に、過ぎない。
令和03年04月08日、毛利太。
命題計算では、パースの法則は ((P→Q)→P)→P のことを言う。この意味するところを書き出すと、命題Pについて、命題Qが存在して、「PならばQ」からPが真であることが従うときには、Pは真でなければならないとなる。とりわけ、Qとして偽を選んだ場合には、Pから偽が従うときは常にPが真であるならば、Pは真であるとなる。
パースの法則は直観論理や中間命題論理では成立せず、演繹定理だけからでは導くことができない(ウィキペディア)。
(02)
1 (1) (P→Q)→P A
2 (2) ~P∨Q A
2 (3) P→Q 2含意の定義
12 (4) P 13MPP
1 (5) (~P∨Q)→P 24CP
1 (6)~(~P∨Q)∨P 2含意の定義
7 (7)~(~P∨Q) A
7 (8) P&~Q 7ド・モルガンの法則
7 (9) P 8&E
ア(ア) P A
1 (イ) P 679アア∨E
(ウ)((P→Q)→P)→P 1イCP
従って、
(01)(02)により、
(03)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、 「A、含意の定義、MPP、CP、ド・モルガンの法則、&E、∨E」によって、「証明」出来る。
然るに、
(04)
―「含意の定義」の証明。―
(ⅰ)
1 (1) P→Q A
2 (2) ~(~P∨Q) A
3(3) ~P A
3(4) ~P∨Q 3∨I
23(5) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
12 (8) Q 17MPP
12 (9) ~P∨Q 8∨I
12 (ア) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 29&I
1 (イ)~~(~P∨Q) 2アRAA
1 (ウ) ~P∨Q イDN
(ⅱ)
1 (1) ~P∨ Q A
2 (2) P&~Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6)~(P&~Q) 25RAA
7 (7) Q A
2 (8) ~Q 2&E
2 7 (9) Q&~Q 78&I
7 (ア)~(P&~Q) 29RAA
1 (イ)~(P&~Q) 1367ア∨E
ウ (ウ) P A
エ(エ) ~Q A
ウエ(オ) P&~Q ウエ&I
1 ウエ(カ)~(P&~Q)&
(P&~Q) イオ&I
1 ウ (キ) ~~Q エカRAA
1 ウ (ク) Q キDN
1 (ケ) P→ Q ウクCP
(05)
―「ド・モルガンの法則」の証明(Ⅰ)。―
(ⅰ)
1 (1) ~( P& Q) A
2 (2) ~(~P∨~Q) A
3 (3) ~P A
3 (4) ~P∨~Q 3∨I
23 (5) ~(~P∨~Q)&
(~P∨~Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
8(8) ~Q A
8(9) ~P∨~Q 8∨I
2 8(ア) ~(~P∨~Q)&
~P∨~Q 29&I
2 (イ) ~~Q 8アRAA
2 (ウ) Q イDN
2 (エ) P& Q 7ウ&I
12 (オ) ~( P& Q)&
( P& Q) 1エ&I
1 (カ)~~(~P∨~Q) 2オRAA
1 (キ) ~P∨~Q カDN
(ⅱ)
1 (1) ~P∨~Q A
2 (2) P& Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6) ~( P& Q) 25RAA
7(7) ~Q A
2 (8) Q 2&E
2 7(9) ~Q&Q 78&I
7(ア) ~( P& Q) 29RAA
1 (イ) ~( P& Q) 1367ア∨E
従って、
(04)(05)により、
(06)
「含意の定義」と「ド・モルガンの法則」は、
「A、∨I、&I、RAA、DN、MPP、&E、CP、∨E」によって、「証明」出来る。
従って、
(03)(06)により、
(07)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、
「A、含意の定義、MPP、CP、ド・モルガンの法則、&E、∨E」によって、「証明」出来、
「含意の定義」と「ド・モルガンの法則」は、
「A、∨I、&I、RAA、DN、MPP、&E、CP、∨E」によって、「証明」出来る。
従って、
(07)により、
(08)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、
「A、MPP、DN、CP、&I、&E、∨I、∨E、RAA」によって、「証明」出来る。
然るに、
(09)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、
「E.J.レモンの、自然演繹の規則」である所の、「原子規則(10 primitive rules)」である、
「A、MPP、DN、CP、&I、&E、∨I、∨E、RAA」によって、「証明」出来る。
然るに、
(10)
命題計算の規則は、本質的にゲンツェン(G.Gentzen)に由来するものである。
(E.J.レモン 著、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、序ⅲ)
従って、
(09)(10)により、
(11)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、
「E.J.レモンの、自然演繹の規則(ゲンツェンの自然演繹に由来する)」によって、「証明」出来る。
従って、
(01)(11)により、
(12)
((P→Q)→P)→P である所の、「パースの法則」は、「演繹定理」だけでは導くことができない(ウィキペディア)。」
とは言ふものの、「パースの法則」は、「ゲンツェンの自然演繹」だけで、導くことができる。
従って、
(01)(02)(12)により、
(13)
「パースの法則は直観論理や中間命題論理では成立しない(ウィキペディア)。」
とは言ふものの、
1 (1) (P→Q)→P A
2 (2) ~P∨Q A
2 (3) P→Q 2含意の定義
12 (4) P 13MPP
1 (5) (~P∨Q)→P 24CP
1 (6)~(~P∨Q)∨P 2含意の定義
7 (7)~(~P∨Q) A
7 (8) P&~Q 7ド・モルガンの法則
7 (9) P 8&E
ア(ア) P A
1 (イ) P 679アア∨E
(ウ)((P→Q)→P)→P 1イCP
といふ「証明」からすれば、「パースの法則」は、「ごく普通の、恒真式(トートロジー)の一つ」に、過ぎない。
令和03年04月08日、毛利太。
∀x(偶x∨奇x)├ ∃x(偶x)∨∃x(奇x)┤├ ∃x(遇x∨奇x)
(01)
すべての正の整数が奇数ではなく、またすべての数が偶数でもない。この場合には、自然な試みを差しとめるのは「UIに対する制限」である。
1 (1)∀x(Fx∨Gx) A
1 (2) Fa∨Ga 1UE
3(3) Fa A
Fa∨Ga を(1)から結論し、そして第1の選言項Faを(3)の行に仮定する。しかし(3)は「a」を含む故、ここで、「UIに対する制限」が、∀x(Fx)を結論とすることをさしとめる。
(E.J.レモン 著、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、156頁改)
従って、
(01)により、
(02)
次の「計算」は、「UIに対する制限」を満たしてゐないが故に、「マチガイ」である。
1 (1)∀x(Fx∨Gx) A
1 (2) Fa∨Ga 1UE
3 (3) Fa A
3 (4)∀x(Fx) 3UI(はマチガイである。)
3 (5)∀x(Fx)∨∀x(Gx) 4∨I
6(6) Ga A
6(7) ∀x(Gx) 6UI(はマチガイである。)
6(8)∀x(Fx)∨∀x(Gx) 7∨I
1 (9)∀x(Fx)∨∀x(Gx) 23568∨E(はマチガイである。)
然るに、
(03)
次の「計算」は、「UI」自体が無いため、「正しい」。
1 (1)∀x(Fx∨Gx) A
1 (2) Fa∨Ga 1UE
3 (3) Fa A
3 (4)∃x(Fx) 3EI(は正しい。)
3 (5)∃x(Fx)∨∃x(Gx) 4∨I
6(6) Ga A
6(7) ∃x(Gx) 6EI
6(8)∃x(Fx)∨∃x(Gx) 7∨I(は正しい。)
1 (9)∃x(Fx)∨∃x(Gx) 23568∨E(は正しい。)
従って、
(03)により、
(04)
① ∀x(Fx∨Gx)
② ∃x(Fx)∨∃x(Gx)
に於いて、少なくとも、
① ならば、② である。
然るに、
(05)
(ⅱ)
1 (1)∃x(Fx)∨∃x(Gx) A
2 (2)∃x(Fx) A
3 (3) Fa A
3 (4) Fa∨Ga 3∨I
3 (5)∃x(Fx∨Gx) 4EI
2 (6)∃x(Fx∨Gx) 235EE
7 (7) ∃x(Gx) A
8(8) Ga A
8(9) Fa∨Ga 8∨I
8(ア) ∃x(Fx∨Gx) 9EI
7 (イ) ∃x(Fx∨Gx) 78アEE
1 (ウ)∃x(Fx∨Gx) 1267イ∨E
(ⅲ)
1 (1)∃x(Fx∨Gx) A
2 (2) Fa∨Ga A
3 (3) Fa A
3 (4)∃x(Fx) 3EI
3 (5)∃x(Fx)∨∃x(Gx) 4∨I
6 (6) Ga A
6 (7) ∃x(Gx) 6EI
6 (8)∃x(Fx)∨∃x(Gx) 7∨I
2 (9)∃x(Fx)∨∃x(Gx) 23568∨E
1 (ア)∃x(Fx)∨∃x(Gx) 129EE
従って、
(05)により、
(06)
② ∃x(Fx)∨∃x(Gx)
③ ∃x(Fx∨Gx)
に於いて、
②=③ である。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① ∀x(Fx∨Gx)
② ∃x(Fx)∨∃x(Gx)
③ ∃x(Fx∨Gx)
に於いて、
① ならば、② であって、
② は、 ③ に等しい。
が故に、
① ならば、③ である。
従って、
(07)により、
(08)
「番号」を付け直すと、
① ∀x(Fx∨Gx)
② ∃x(Fx∨Gx)
に於いて、
① ならば、② である。
然るに、
(09)
(ⅰ)
1 (1)∀x(Fx∨Gx) A
1 (2) Fa∨Ga 1UE
1 (3)∃x(Fx∨Gx) 2EI
といふ「計算」は「正しく」、
(ⅱ)
1 (1)∃x(Fx∨Gx) A
2(2) Fa∨Ga A
2(3)∀x(Fx∨Gx) 2UI(はマチガイである。)
1 (4)∀x(Fx∨Gx) 123EE(はマチガイである。)
といふ「計算」は、「UIに対する制限」に対する「違反」であるため、「マチガイ」である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① ∀x(Fx∨Gx)
② ∃x(Fx∨Gx)
に於いて、
① ならば、② であるが、
② ならば、① である、ではない。
(11)
例へば、
① ∀x(Fx∨Gx)≡すべての自然数xは(奇数であるか、遇数である)。
② ∃x(Fx∨Gx)≡ ある自然数xは(奇数であるか、遇数である)。
に於いて、
① ならば、② である。
然るに、
(12)
例へば、
②「2」といふ、「一つの自然数」が「偶数」である。
ならば、それだけで、
② ∃x(Fx∨Gx)≡ ある自然数xは(奇数であるか、遇数である)。
といふ「命題」は、「真(本当)」である。
然るに、
(13)
①「2」以外にも、「無数の自然数」が存在する。
が故に、
②「2」といふ、「一つの自然数」が「偶数」である。
としても、
① ∀x(Fx∨Gx)≡すべての自然数xは(奇数であるか、遇数である)。
といふ「命題」は、「真(本当)」には、ならない。
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
例へば、
① ∀x(Fx∨Gx)≡すべての自然数xは(奇数であるか、遇数である)。
② ∃x(Fx∨Gx)≡ ある自然数xは(奇数であるか、遇数である)。
に於いて、
① ならば、② であるが、
② ならば、① である。ではない。
従って、
(10)(14)により、
(15)
「結論」として、
① ∀x(Fx∨Gx)
② ∃x(Fx∨Gx)
に於いて、
① ならば、② であるが、
② ならば、① である、ではない。
(16)
(ⅰ){∀x(Fx)→Fa}→∃x(Fx)
(ⅱ) Fa →∃x(Fx)
(ⅲ) ∃x(Fx)→Fa
(ⅳ){∃x(Fx)→Fa}→∀x(Fx)
(ⅴ) Fa →∀x(Fx)
に於いて、
(ⅰ)は「正しい」。
(ⅱ)は「正しい」。
(ⅲ)は「正しくはない」。
(ⅳ)は「正しくはない」。
(ⅴ)は「正しくはない」。
(17)
「UIに対する制限」といふのは、
(ⅳ){∃x(Fx)→Fa}→∀x(Fx)
(ⅴ) Fa →∀x(Fx)
は、両方とも、「正しくない」にも拘らず、
(ⅳ){∃x(Fx)→Fa}→∀x(Fx)
(ⅴ) Fa →∀x(Fx)
を、「正しい」と、することをいふ。
ただし、
(18)
(ⅲ) ∃x(Fx)→Fa
については、「説明」を、必要とする。
cf.
代表的選言項(typical disjunct)
令和03年04月08日、毛利太。
すべての正の整数が奇数ではなく、またすべての数が偶数でもない。この場合には、自然な試みを差しとめるのは「UIに対する制限」である。
1 (1)∀x(Fx∨Gx) A
1 (2) Fa∨Ga 1UE
3(3) Fa A
Fa∨Ga を(1)から結論し、そして第1の選言項Faを(3)の行に仮定する。しかし(3)は「a」を含む故、ここで、「UIに対する制限」が、∀x(Fx)を結論とすることをさしとめる。
(E.J.レモン 著、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、156頁改)
従って、
(01)により、
(02)
次の「計算」は、「UIに対する制限」を満たしてゐないが故に、「マチガイ」である。
1 (1)∀x(Fx∨Gx) A
1 (2) Fa∨Ga 1UE
3 (3) Fa A
3 (4)∀x(Fx) 3UI(はマチガイである。)
3 (5)∀x(Fx)∨∀x(Gx) 4∨I
6(6) Ga A
6(7) ∀x(Gx) 6UI(はマチガイである。)
6(8)∀x(Fx)∨∀x(Gx) 7∨I
1 (9)∀x(Fx)∨∀x(Gx) 23568∨E(はマチガイである。)
然るに、
(03)
次の「計算」は、「UI」自体が無いため、「正しい」。
1 (1)∀x(Fx∨Gx) A
1 (2) Fa∨Ga 1UE
3 (3) Fa A
3 (4)∃x(Fx) 3EI(は正しい。)
3 (5)∃x(Fx)∨∃x(Gx) 4∨I
6(6) Ga A
6(7) ∃x(Gx) 6EI
6(8)∃x(Fx)∨∃x(Gx) 7∨I(は正しい。)
1 (9)∃x(Fx)∨∃x(Gx) 23568∨E(は正しい。)
従って、
(03)により、
(04)
① ∀x(Fx∨Gx)
② ∃x(Fx)∨∃x(Gx)
に於いて、少なくとも、
① ならば、② である。
然るに、
(05)
(ⅱ)
1 (1)∃x(Fx)∨∃x(Gx) A
2 (2)∃x(Fx) A
3 (3) Fa A
3 (4) Fa∨Ga 3∨I
3 (5)∃x(Fx∨Gx) 4EI
2 (6)∃x(Fx∨Gx) 235EE
7 (7) ∃x(Gx) A
8(8) Ga A
8(9) Fa∨Ga 8∨I
8(ア) ∃x(Fx∨Gx) 9EI
7 (イ) ∃x(Fx∨Gx) 78アEE
1 (ウ)∃x(Fx∨Gx) 1267イ∨E
(ⅲ)
1 (1)∃x(Fx∨Gx) A
2 (2) Fa∨Ga A
3 (3) Fa A
3 (4)∃x(Fx) 3EI
3 (5)∃x(Fx)∨∃x(Gx) 4∨I
6 (6) Ga A
6 (7) ∃x(Gx) 6EI
6 (8)∃x(Fx)∨∃x(Gx) 7∨I
2 (9)∃x(Fx)∨∃x(Gx) 23568∨E
1 (ア)∃x(Fx)∨∃x(Gx) 129EE
従って、
(05)により、
(06)
② ∃x(Fx)∨∃x(Gx)
③ ∃x(Fx∨Gx)
に於いて、
②=③ である。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① ∀x(Fx∨Gx)
② ∃x(Fx)∨∃x(Gx)
③ ∃x(Fx∨Gx)
に於いて、
① ならば、② であって、
② は、 ③ に等しい。
が故に、
① ならば、③ である。
従って、
(07)により、
(08)
「番号」を付け直すと、
① ∀x(Fx∨Gx)
② ∃x(Fx∨Gx)
に於いて、
① ならば、② である。
然るに、
(09)
(ⅰ)
1 (1)∀x(Fx∨Gx) A
1 (2) Fa∨Ga 1UE
1 (3)∃x(Fx∨Gx) 2EI
といふ「計算」は「正しく」、
(ⅱ)
1 (1)∃x(Fx∨Gx) A
2(2) Fa∨Ga A
2(3)∀x(Fx∨Gx) 2UI(はマチガイである。)
1 (4)∀x(Fx∨Gx) 123EE(はマチガイである。)
といふ「計算」は、「UIに対する制限」に対する「違反」であるため、「マチガイ」である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① ∀x(Fx∨Gx)
② ∃x(Fx∨Gx)
に於いて、
① ならば、② であるが、
② ならば、① である、ではない。
(11)
例へば、
① ∀x(Fx∨Gx)≡すべての自然数xは(奇数であるか、遇数である)。
② ∃x(Fx∨Gx)≡ ある自然数xは(奇数であるか、遇数である)。
に於いて、
① ならば、② である。
然るに、
(12)
例へば、
②「2」といふ、「一つの自然数」が「偶数」である。
ならば、それだけで、
② ∃x(Fx∨Gx)≡ ある自然数xは(奇数であるか、遇数である)。
といふ「命題」は、「真(本当)」である。
然るに、
(13)
①「2」以外にも、「無数の自然数」が存在する。
が故に、
②「2」といふ、「一つの自然数」が「偶数」である。
としても、
① ∀x(Fx∨Gx)≡すべての自然数xは(奇数であるか、遇数である)。
といふ「命題」は、「真(本当)」には、ならない。
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
例へば、
① ∀x(Fx∨Gx)≡すべての自然数xは(奇数であるか、遇数である)。
② ∃x(Fx∨Gx)≡ ある自然数xは(奇数であるか、遇数である)。
に於いて、
① ならば、② であるが、
② ならば、① である。ではない。
従って、
(10)(14)により、
(15)
「結論」として、
① ∀x(Fx∨Gx)
② ∃x(Fx∨Gx)
に於いて、
① ならば、② であるが、
② ならば、① である、ではない。
(16)
(ⅰ){∀x(Fx)→Fa}→∃x(Fx)
(ⅱ) Fa →∃x(Fx)
(ⅲ) ∃x(Fx)→Fa
(ⅳ){∃x(Fx)→Fa}→∀x(Fx)
(ⅴ) Fa →∀x(Fx)
に於いて、
(ⅰ)は「正しい」。
(ⅱ)は「正しい」。
(ⅲ)は「正しくはない」。
(ⅳ)は「正しくはない」。
(ⅴ)は「正しくはない」。
(17)
「UIに対する制限」といふのは、
(ⅳ){∃x(Fx)→Fa}→∀x(Fx)
(ⅴ) Fa →∀x(Fx)
は、両方とも、「正しくない」にも拘らず、
(ⅳ){∃x(Fx)→Fa}→∀x(Fx)
(ⅴ) Fa →∀x(Fx)
を、「正しい」と、することをいふ。
ただし、
(18)
(ⅲ) ∃x(Fx)→Fa
については、「説明」を、必要とする。
cf.
代表的選言項(typical disjunct)
令和03年04月08日、毛利太。
2021年4月7日水曜日
「ド・モルガンの法則」と「含意の定義」は「当然」である。
(01)
―「ド・モルガンの法則」の証明(Ⅰ)。―
(ⅰ)
1 (1) ~( P& Q) A
2 (2) ~(~P∨~Q) A
3 (3) ~P A
3 (4) ~P∨~Q 3∨I
23 (5) ~(~P∨~Q)&
(~P∨~Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
8(8) ~Q A
8(9) ~P∨~Q 8∨I
2 8(ア) ~(~P∨~Q)&
~P∨~Q 29&I
2 (イ) ~~Q 8アRAA
2 (ウ) Q イDN
2 (エ) P& Q 7ウ&I
12 (オ) ~( P& Q)&
( P& Q) 1エ&I
1 (カ)~~(~P∨~Q) 2オRAA
1 (キ) ~P∨~Q カDN
(ⅱ)
1 (1) ~P∨~Q A
2 (2) P& Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6) ~( P& Q) 25RAA
7(7) ~Q A
2 (8) Q 2&E
2 7(9) ~Q&Q 78&I
7(ア) ~( P& Q) 29RAA
1 (イ) ~( P& Q) 1367ア∨E
(02)
―「ド・モルガンの法則」の証明(Ⅱ)。―
(ⅲ)
1 (1)~{ P&Q & R} A
1 (2)~{(P&Q)& R} 1結合法則
1 (3) ~(P&Q)∨~R 2ド・モルガンの法則
4 (4) ~(P&Q) A
4 (5)(~P∨~Q) 4ド・モルガンの法則
4 (6)(~P∨~Q)∨~R 5∨I
7(7) ~R A
7(8)(~P∨~Q)∨~R 7∨I
1 (9)(~P∨~Q)∨~R 14678∨E
1 (ア) ~P∨~Q ∨~R 9結合法則
(ⅳ)
1 (1) ~P∨~Q ∨~R A
1 (2)(~P∨~Q)∨~R 1結合法則
3 (3)(~P∨~Q) A
3 (4) ~(P&Q) 3ド・モルガンの法則
3 (5) ~(P&Q)∨~R 4∨I
6(6) ~R A
6(7) ~(P&Q)∨~R 6∨I
1 (8) ~(P&Q)∨~R 13567∨E
1 (9)~{(P&Q)& R} 6ド・モルガンの法則
1 (ア)~{ P&Q & R} 9結合法則
(03)
―「ド・モルガンの法則」の証明(Ⅲ)。―
(ⅴ)
1(1)~{ P∨Q ∨ R} A
1(2)~{(P∨Q)∨ R} 1結合法則
1(3) ~(P∨Q)&~R 2ド・モルガンの法則
1(4) ~(P∨Q) 3&E
1(5) ~P&~Q 4ド・モルガンの法則
1(6) ~R 3&E
1(7)(~P&~Q)&~R 56&I
1(8) ~P&~Q &~R 7結合法則
(ⅵ)
1(1) ~P&~Q &~R A
1(2)(~P&~Q)&~R 1結合法則
1(3)(~P&~Q) 2&E
1(4) ~(P∨Q) 3ド・モルガンの法則
1(5) ~R 2&E
1(6) ~(P∨Q)&~R 45&I
1(7)~{(P∨Q)∨ R} 6ド・モルガンの法則
1(8)~{ P∨Q ∨ R} 7結合法則
(04)
―「ド・モルガンの法則」の証明(Ⅳ)。―
(ⅶ)
1(1)~{(P&Q)∨ R} A
1(2) ~(P&Q)&~R 1ド・モルガンの法則
1(3) ~(P&Q) 2&E
1(4)(~P∨~Q) 3ド・モルガンの法則
1(5) ~R 2&E
1(6)(~P∨~Q)&~R 45&I
(ⅷ)
1(1)(~P∨~Q)&~R A
1(2)(~P∨~Q) 1&E
1(3)~(P& Q) 2ド・モルガンの法則
1(4) ~R 1&E
1(5) ~(P&Q)&~R 34&I
1(6)~{(P&Q)∨ R} 5ド・モルガンの法則
(05)
―「ド・モルガンの法則」の証明(Ⅴ)。―
(ⅸ)
1 (1)~{P& (Q∨ R)} A
1 (2) ~P∨~(Q∨ R) 1ド・モルガンの法則
3 (3) ~P A
3 (4) ~P∨(~Q&~R) 3∨I
5(5) ~(Q∨ R) A
5(6) ~Q&~R 5ド・モルガンの法則
5(7) ~P∨(~Q&~R) 6∨I
1 (8) ~P∨(~Q&~R) 23457∨E
(ⅹ)
1 (1) ~P∨(~Q&~R) A
2 (2) ~P A
2 (3) ~P∨~(Q∨ R) 2∨I
4(5) (~Q&~R) A
4(6) ~(Q∨ R) A
4(7) ~P∨~(Q∨ R) 6∨I
1 (8) ~P∨~(Q∨ R) 12347∨E
1 (9)~{P& (Q∨ R)} 8ド・モルガンの法則
従って、
(01)~(05)により、
(06)
① ~(P& Q)
② ~P∨~Q
③ ~(P& Q& R)
④ ~P∨~Q∨~R
⑤ ~(P∨ Q∨ R)
⑥ ~P&~Q&~R
⑦ ~{(P& Q)∨ R}
⑧ (~P∨~Q)&~R
⑨ ~{P&( Q∨ R)}
⑩ ~P∨(~Q&~R)
に於いて、
①=②
③=④
⑤=⑥
⑦=⑧
⑨=⑩
である(ド・モルガンの法則)。
然るに、
(07)
―「含意の定義」の証明。―
(ⅰ)
1 (1) P→Q A
2 (2) ~(~P∨Q) A
3(3) ~P A
3(4) ~P∨Q 3∨I
23(5) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
12 (8) Q 17MPP
12 (9) ~P∨Q 8∨I
12 (ア) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 29&I
1 (イ)~~(~P∨Q) 2アRAA
1 (ウ) ~P∨Q イDN
(ⅱ)
1 (1) ~P∨ Q A
2 (2) P&~Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6)~(P&~Q) 25RAA
7 (7) Q A
2 (8) ~Q 2&E
2 7 (9) Q&~Q 78&I
7 (ア)~(P&~Q) 29RAA
1 (イ)~(P&~Q) 1367ア∨E
ウ (ウ) P A
エ(エ) ~Q A
ウエ(オ) P&~Q ウエ&I
1 ウエ(カ)~(P&~Q)&
(P&~Q) イオ&I
1 ウ (キ) ~~Q エカRAA
1 ウ (ク) Q キDN
1 (ケ) P→ Q ウクCP
従って、
(07)により、
(08)
① P→Q≡Pならば、Qである。
② ~P∨Q≡Pでないか、または、Qである。
に於いて、
①=② である(含意の定義)。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
① ~(P& Q)
② P→~Q
③ ~(P& Q& R)
④ P→ Q→ R
⑤ ~(P∨ Q∨ R)
⑥ ~P&~Q&~R
⑦ ~{(P& Q)∨ R}
⑧ (P→~Q)&~R
⑨ ~{P&( Q∨ R)}
⑩ P→(~Q&~R)
に於いて、
①=②
③=④
⑤=⑥
⑦=⑧
⑨=⑩
である(ド・モルガンの法則&含意の定義)。
従って、
(09)により、
(10)
例へば、
⑨ ~{P&( Q∨ R)}≡{Pであって、 (Qであるか、または、Rである)}といふことはない。
⑩ P→(~Q&~R) ≡ Pであるならば、(Qではないし、 Rでもない)。
に於いて、
⑨=⑩ である。
従って、
(10)により、
(11)
⑨ ~{無&( 偶∨ 奇)}≡{無理数であって、 (偶数であるか、または、奇数である)}といふことはない。
⑩ 無→(~偶&~奇) ≡ 無理数であるならば、(偶数ではないし、 奇数でもない)。
に於いて、
⑨=⑩ である。
然るに、
(12)
⑨{無理数であって、 (偶数であるか、または、奇数である)}といふことはない。
⑩ 無理数であるならば、(偶数ではないし、 奇数でもない)。
に於いて、
⑨=⑩ である。
といふことは、「当然」である。
cf.
無理数(むりすう、 英: irrational number)とは、有理数ではない実数、つまり分子・分母ともに整数である分数(比 = 英: ratio)として表すことのできない実数を指す(ウィキペディア)。
従って、
(13)
「含意の定義」は、「当然」であるし、
「ド・モルガンの法則」も、「当然」である。
従って、
(01)~(13)により、
(14)
―「ド・モルガンの法則」の証明(Ⅰ)。―
(ⅰ)
1 (1) ~( P& Q) A
2 (2) ~(~P∨~Q) A
3 (3) ~P A
3 (4) ~P∨~Q 3∨I
23 (5) ~(~P∨~Q)&
(~P∨~Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
8(8) ~Q A
8(9) ~P∨~Q 8∨I
2 8(ア) ~(~P∨~Q)&
~P∨~Q 29&I
2 (イ) ~~Q 8アRAA
2 (ウ) Q イDN
2 (エ) P& Q 7ウ&I
12 (オ) ~( P& Q)&
( P& Q) 1エ&I
1 (カ)~~(~P∨~Q) 2オRAA
1 (キ) ~P∨~Q カDN
(ⅱ)
1 (1) ~P∨~Q A
2 (2) P& Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6) ~( P& Q) 25RAA
7(7) ~Q A
2 (8) Q 2&E
2 7(9) ~Q&Q 78&I
7(ア) ~( P& Q) 29RAA
1 (イ) ~( P& Q) 1367ア∨E
といふ「計算」は、「ド・モルガンの法則」といふ「当然の理」を、「A、∨I、&I、RAA、DN、∨E」といふ「規則」で、「説明」してゐる。
といふ、ことになる。
令和03年04月07日、毛利太。
―「ド・モルガンの法則」の証明(Ⅰ)。―
(ⅰ)
1 (1) ~( P& Q) A
2 (2) ~(~P∨~Q) A
3 (3) ~P A
3 (4) ~P∨~Q 3∨I
23 (5) ~(~P∨~Q)&
(~P∨~Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
8(8) ~Q A
8(9) ~P∨~Q 8∨I
2 8(ア) ~(~P∨~Q)&
~P∨~Q 29&I
2 (イ) ~~Q 8アRAA
2 (ウ) Q イDN
2 (エ) P& Q 7ウ&I
12 (オ) ~( P& Q)&
( P& Q) 1エ&I
1 (カ)~~(~P∨~Q) 2オRAA
1 (キ) ~P∨~Q カDN
(ⅱ)
1 (1) ~P∨~Q A
2 (2) P& Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6) ~( P& Q) 25RAA
7(7) ~Q A
2 (8) Q 2&E
2 7(9) ~Q&Q 78&I
7(ア) ~( P& Q) 29RAA
1 (イ) ~( P& Q) 1367ア∨E
(02)
―「ド・モルガンの法則」の証明(Ⅱ)。―
(ⅲ)
1 (1)~{ P&Q & R} A
1 (2)~{(P&Q)& R} 1結合法則
1 (3) ~(P&Q)∨~R 2ド・モルガンの法則
4 (4) ~(P&Q) A
4 (5)(~P∨~Q) 4ド・モルガンの法則
4 (6)(~P∨~Q)∨~R 5∨I
7(7) ~R A
7(8)(~P∨~Q)∨~R 7∨I
1 (9)(~P∨~Q)∨~R 14678∨E
1 (ア) ~P∨~Q ∨~R 9結合法則
(ⅳ)
1 (1) ~P∨~Q ∨~R A
1 (2)(~P∨~Q)∨~R 1結合法則
3 (3)(~P∨~Q) A
3 (4) ~(P&Q) 3ド・モルガンの法則
3 (5) ~(P&Q)∨~R 4∨I
6(6) ~R A
6(7) ~(P&Q)∨~R 6∨I
1 (8) ~(P&Q)∨~R 13567∨E
1 (9)~{(P&Q)& R} 6ド・モルガンの法則
1 (ア)~{ P&Q & R} 9結合法則
(03)
―「ド・モルガンの法則」の証明(Ⅲ)。―
(ⅴ)
1(1)~{ P∨Q ∨ R} A
1(2)~{(P∨Q)∨ R} 1結合法則
1(3) ~(P∨Q)&~R 2ド・モルガンの法則
1(4) ~(P∨Q) 3&E
1(5) ~P&~Q 4ド・モルガンの法則
1(6) ~R 3&E
1(7)(~P&~Q)&~R 56&I
1(8) ~P&~Q &~R 7結合法則
(ⅵ)
1(1) ~P&~Q &~R A
1(2)(~P&~Q)&~R 1結合法則
1(3)(~P&~Q) 2&E
1(4) ~(P∨Q) 3ド・モルガンの法則
1(5) ~R 2&E
1(6) ~(P∨Q)&~R 45&I
1(7)~{(P∨Q)∨ R} 6ド・モルガンの法則
1(8)~{ P∨Q ∨ R} 7結合法則
(04)
―「ド・モルガンの法則」の証明(Ⅳ)。―
(ⅶ)
1(1)~{(P&Q)∨ R} A
1(2) ~(P&Q)&~R 1ド・モルガンの法則
1(3) ~(P&Q) 2&E
1(4)(~P∨~Q) 3ド・モルガンの法則
1(5) ~R 2&E
1(6)(~P∨~Q)&~R 45&I
(ⅷ)
1(1)(~P∨~Q)&~R A
1(2)(~P∨~Q) 1&E
1(3)~(P& Q) 2ド・モルガンの法則
1(4) ~R 1&E
1(5) ~(P&Q)&~R 34&I
1(6)~{(P&Q)∨ R} 5ド・モルガンの法則
(05)
―「ド・モルガンの法則」の証明(Ⅴ)。―
(ⅸ)
1 (1)~{P& (Q∨ R)} A
1 (2) ~P∨~(Q∨ R) 1ド・モルガンの法則
3 (3) ~P A
3 (4) ~P∨(~Q&~R) 3∨I
5(5) ~(Q∨ R) A
5(6) ~Q&~R 5ド・モルガンの法則
5(7) ~P∨(~Q&~R) 6∨I
1 (8) ~P∨(~Q&~R) 23457∨E
(ⅹ)
1 (1) ~P∨(~Q&~R) A
2 (2) ~P A
2 (3) ~P∨~(Q∨ R) 2∨I
4(5) (~Q&~R) A
4(6) ~(Q∨ R) A
4(7) ~P∨~(Q∨ R) 6∨I
1 (8) ~P∨~(Q∨ R) 12347∨E
1 (9)~{P& (Q∨ R)} 8ド・モルガンの法則
従って、
(01)~(05)により、
(06)
① ~(P& Q)
② ~P∨~Q
③ ~(P& Q& R)
④ ~P∨~Q∨~R
⑤ ~(P∨ Q∨ R)
⑥ ~P&~Q&~R
⑦ ~{(P& Q)∨ R}
⑧ (~P∨~Q)&~R
⑨ ~{P&( Q∨ R)}
⑩ ~P∨(~Q&~R)
に於いて、
①=②
③=④
⑤=⑥
⑦=⑧
⑨=⑩
である(ド・モルガンの法則)。
然るに、
(07)
―「含意の定義」の証明。―
(ⅰ)
1 (1) P→Q A
2 (2) ~(~P∨Q) A
3(3) ~P A
3(4) ~P∨Q 3∨I
23(5) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
12 (8) Q 17MPP
12 (9) ~P∨Q 8∨I
12 (ア) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 29&I
1 (イ)~~(~P∨Q) 2アRAA
1 (ウ) ~P∨Q イDN
(ⅱ)
1 (1) ~P∨ Q A
2 (2) P&~Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6)~(P&~Q) 25RAA
7 (7) Q A
2 (8) ~Q 2&E
2 7 (9) Q&~Q 78&I
7 (ア)~(P&~Q) 29RAA
1 (イ)~(P&~Q) 1367ア∨E
ウ (ウ) P A
エ(エ) ~Q A
ウエ(オ) P&~Q ウエ&I
1 ウエ(カ)~(P&~Q)&
(P&~Q) イオ&I
1 ウ (キ) ~~Q エカRAA
1 ウ (ク) Q キDN
1 (ケ) P→ Q ウクCP
従って、
(07)により、
(08)
① P→Q≡Pならば、Qである。
② ~P∨Q≡Pでないか、または、Qである。
に於いて、
①=② である(含意の定義)。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
① ~(P& Q)
② P→~Q
③ ~(P& Q& R)
④ P→ Q→ R
⑤ ~(P∨ Q∨ R)
⑥ ~P&~Q&~R
⑦ ~{(P& Q)∨ R}
⑧ (P→~Q)&~R
⑨ ~{P&( Q∨ R)}
⑩ P→(~Q&~R)
に於いて、
①=②
③=④
⑤=⑥
⑦=⑧
⑨=⑩
である(ド・モルガンの法則&含意の定義)。
従って、
(09)により、
(10)
例へば、
⑨ ~{P&( Q∨ R)}≡{Pであって、 (Qであるか、または、Rである)}といふことはない。
⑩ P→(~Q&~R) ≡ Pであるならば、(Qではないし、 Rでもない)。
に於いて、
⑨=⑩ である。
従って、
(10)により、
(11)
⑨ ~{無&( 偶∨ 奇)}≡{無理数であって、 (偶数であるか、または、奇数である)}といふことはない。
⑩ 無→(~偶&~奇) ≡ 無理数であるならば、(偶数ではないし、 奇数でもない)。
に於いて、
⑨=⑩ である。
然るに、
(12)
⑨{無理数であって、 (偶数であるか、または、奇数である)}といふことはない。
⑩ 無理数であるならば、(偶数ではないし、 奇数でもない)。
に於いて、
⑨=⑩ である。
といふことは、「当然」である。
cf.
無理数(むりすう、 英: irrational number)とは、有理数ではない実数、つまり分子・分母ともに整数である分数(比 = 英: ratio)として表すことのできない実数を指す(ウィキペディア)。
従って、
(13)
「含意の定義」は、「当然」であるし、
「ド・モルガンの法則」も、「当然」である。
従って、
(01)~(13)により、
(14)
―「ド・モルガンの法則」の証明(Ⅰ)。―
(ⅰ)
1 (1) ~( P& Q) A
2 (2) ~(~P∨~Q) A
3 (3) ~P A
3 (4) ~P∨~Q 3∨I
23 (5) ~(~P∨~Q)&
(~P∨~Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
8(8) ~Q A
8(9) ~P∨~Q 8∨I
2 8(ア) ~(~P∨~Q)&
~P∨~Q 29&I
2 (イ) ~~Q 8アRAA
2 (ウ) Q イDN
2 (エ) P& Q 7ウ&I
12 (オ) ~( P& Q)&
( P& Q) 1エ&I
1 (カ)~~(~P∨~Q) 2オRAA
1 (キ) ~P∨~Q カDN
(ⅱ)
1 (1) ~P∨~Q A
2 (2) P& Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6) ~( P& Q) 25RAA
7(7) ~Q A
2 (8) Q 2&E
2 7(9) ~Q&Q 78&I
7(ア) ~( P& Q) 29RAA
1 (イ) ~( P& Q) 1367ア∨E
といふ「計算」は、「ド・モルガンの法則」といふ「当然の理」を、「A、∨I、&I、RAA、DN、∨E」といふ「規則」で、「説明」してゐる。
といふ、ことになる。
令和03年04月07日、毛利太。
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