―「07月04日の記事」の「補足」です。―
(01)
① 帝王莫不得之於艱難失之於安逸=
② 帝王莫[不〔得(之於艱難)失(之於安逸)〕]⇒
② 帝王[〔(之於艱難)得(之於安逸)失〕不]莫=
② 帝王[〔(之を艱難に)得て(之を安逸に)失は〕不るは]莫し。
然るに、
(02)
③ 帝王莫得之於艱難不失之於安逸=
③ 帝王莫[得(之於艱難)不〔失(之於安逸)〕]⇒
③ 帝王[(之於艱難)得〔(之於安逸)失〕不]莫=
③ 帝王[(之を艱難に)得て〔(之を安逸に)失は〕不るは]莫し。
従って、
(01)(02)により、
(03)
② 帝王莫不得之於艱難失之於安逸。
③ 帝王莫得之於艱難不失之於安逸。
に対して、両方とも、
② 帝王[〔(之を艱難に)得て(之を安逸に)失は〕不るは]莫し。
③ 帝王[(之を艱難に)得て〔(之を安逸に)失は〕不るは]莫し。
である。
従って、
(03)により、
(04)
② [ 〔 ( )( ) 〕 ]
③ [ ( )〔 ( ) 〕 ]
を「除いた」、
② 帝王、これを艱難に得て、これを安逸に失はざるは莫し。
③ 帝王、これを艱難に得て、これを安逸に失はざるは莫し。
といふ「書き下し文」からは、その「原文」が、
② 帝王莫不得之於艱難失之於安逸。
であるのか、
③ 帝王莫得之於艱難不失之於安逸。
であるのかが、「分からない」。
従って、
(04)により、
(05)
和文の否定は文の最後尾につきます。「・・・ではない」という形式です。すると、直前の語を否定しているのか、文全体を否定しているのか、別の語や句読点を補わない限り区別がつかなくなります(新井紀子、数学は言葉、2009年、123頁)。
といふ「指摘」は、「その通り」である。
然るに、
(06)
このように、管到でいちばん苦労するのは、否定形の場合である。だから、否定形がでてきたときには、どこまでかかるかという判断をしないとしっかり訳せないないわけだ(二畳庵主人、漢文文法基礎、1984年、390・391頁)。
従って、
(06)により、
(07)
① 帝王莫不得之於艱難失之於安逸。
であっても、初学者には、
① 莫 が、「どこまで係り」、
① 不 が、「どこまで係る」か、「分からない」。
然るに、
(08)
(ベルンハルド・カールグレンは、)「漢語においては、文法的な分析は、あまり役に立たず、実際に役立つのは、広い読書を通じて習得した経験、つまり、中国人がどのようにして文をつくりあげているかということに対する感覚が、唯一のものである」と説き、更に、漢語の文の意味を理解するためには、「豊富な直観が、必要である」とも述べている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、293頁改)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① 莫不得之於艱難失之於安逸。
であっても、
① 莫 が、「どこまで係り」、
① 不 が、「どこまで係る」か、「分からない」。ものの、
① を、「普通に読む」ならば、
① 自古帝王莫不得之於艱難失之於安逸=
② 自(古)帝王莫[不〔得(之於艱難)失(之於安逸)〕]⇒
② (古)自帝王[〔(之於艱難)得(之於安逸)失〕不]莫=
② (古)より帝王[〔(之を艱難に)得て(之を安逸に)失は〕不るは]莫し。
である。といふ、ことになる。
然るに、
(10)
gamtjjjjgamtさん2012/10/209:39:46
漢文の句型
無A不V
AとしてVせざるは無し。
について質問です。
AをVの主語か目的語かを判断するのにはどう見分ければいいですか?
従って、
(11)
④ 無夕不飲。
⑤ 無書不読。
⑥ 莫行不可。
⑦ 無物不長。
⑧ 無人不仁。
のやうな、「無A不V」であれば、「句形」であるため、「豊富な直観」など無くとも、
④ 無〔夕不(飲)〕。
⑤ 無〔書不(読)〕。
⑥ 莫〔行不(可)〕。
⑦ 無〔物不(長)〕。
⑧ 無〔人不(仁)〕。
であることは、「明らか」であり、尚且つ、
⑤ 無〔書不(読)〕。
であれば、「常識」として、
⑤ 書 は、「読まず」の「目的語」であって、
⑧ 無〔人不(仁)〕。
であれば、「常識」として、
⑧ 人 は、「仁ならず」の「主語」である。
然るに、
(12)
子曰。人而不仁。如禮何。
子、曰はく、人ひとにして仁ならずんば、礼を如何いかんせん(論語、八佾)。
cf.
而=て(接続助詞)。
従って、
(11)(12)により、
(13)
⑧ 無〔人不(仁)〕=
⑧ 無〔人而不(仁)〕。
然るに、
(14)
⑧ 無=不有
従って、
(13)(14)により、
(15)
⑧ 無〔人不(仁)〕=
⑧ 無〔人而不(仁)〕=
⑧ 不[有〔人而不(仁)〕]。
然るに、
(16)
⑧ 不[有〔人而不(仁)〕]。
に於いて、
⑧ 不[ ]⇒[ ]不
⑧ 有〔 〕⇒〔 〕有
⑧ 不( )⇒( )不
といふ「移動」を行ふと、
⑧ 不[有〔人而不(仁)〕]⇒
⑧ [〔人而(仁)不〕有]不=
⑧ [〔人にし而(仁なら)不るは〕有ら]不=
⑧ 人であって、人間らしい愛情がない者はゐない。
然るに、
(17)
⑧ 不[有〔人而不(仁)〕]。
に於いて
不=~
有=∃x
人=人(x)
而=&
不=~
仁=仁(x)
といふ「代入(replacement)」を行ふと、
⑧ ~{∃x[人(x)&~〔仁(x)〕]}.
然るに、
(18)
⑧ ~{∃x[人(x)&~〔仁(x)〕]}.
に於いて、
⑧ ~{ }⇒{ }~
⑧ ∃x[ ]⇒[ ]∃x
⑧ 人( )⇒( )人
⑧ ~〔 〕⇒〔 〕~
⑧ 仁( )⇒( )仁
といふ「移動」を行ふと、
⑧ ~∃x人(x)&~仁(x)=
⑧ ~{∃x[人(x)&~〔仁(x)〕]}⇒
⑧ {[(x)人&〔(x)仁〕~]∃x}~=
⑧ {[(xは)人であって〔(xは)仁〕でないといふ]そのやうなxは存在し}ない=
⑧ 人であって、人間らしい愛情がない者はゐない。
然るに、
(19)
つまり、むやみに括弧が多くなることは我慢できないのである(E.J.レモン、論理学初歩、1973年、59頁)。
従って、
(17)(19)により、
(20)
⑧ ~{∃x[人(x)&~〔仁(x)〕]}
ではなく、
⑧ ~∃x〔人x&~(仁x)〕
であったとしても、「同じこと」である。
従って、
(12)~(20)により、
(21)
⑧ 無〔人不(仁)〕。
といふ「漢文」に、
⑧ 〔 ( ) 〕
といふ「括弧」が有ることは、
⑧ ~∃x〔人x&~(仁x)〕
といふ「述語論理」に、
⑧ 〔 ( ) 〕
といふ「括弧」が有ることと、「同じ」ことである。
然るに、
(22)
⑧ ~∃x〔人x&~(仁x)〕
といふ「述語論理」は、
⑧ There is not an x such that x is 人 but x is not 仁.
といふ風に、「読まう」と、
⑧ xは人であって、xは仁でないといふ、そのやうなxは存在しない。
といふ風に、「読むまい」と、
⑧ xは人であって、xは仁でないといふ、そのやうなxは存在しない。
といふ「意味」であることに、「変り」は無い。
従って、
(22)により、
(23)
⑧ ~∃x〔人x&~(仁x)〕
といふ「述語論理」に、
⑧ ~{∃x[人(x)&~〔仁(x)〕]}
といふ「括弧」が有る「所以」は、
⑧ ~∃x人(x)&~仁(x)=
⑧ ~{∃x[人(x)&~〔仁(x)〕]}⇒
⑧ {[(x)人&〔(x)仁〕~]∃x}~=
⑧ {[(xは)人であって〔(xは)仁〕でないといふ]そのやうなxは存在し}ない。
といふ、「述語論理訓読」を行ふ「ため」ではない。
従って、
(24)
⑧ 無人不仁。
といふ「漢文」に、
⑧ 無〔人不(仁)〕。
といふ「括弧」がある「所以」も、
⑧ 無人不仁=
⑧ 無〔人不(仁)〕⇒
⑧ 〔人(仁)不〕無=
⑧ 〔人にして(仁なら)不るは〕無し。
といふ、「漢文訓読」を行ふ「ため」ではない。
従って、
(25)
⑧ 無人不仁。
といふ「漢文」には、
⑧ 無〔人不(仁)〕。
といふ「補足構造」が有って、
⑧ 人にして仁なら不るは無し。
といふ「国語」には、
⑧ 〔人にして(仁なら)不るは〕無し。
といふ「補足構造」が、有って、その「結果」として、
⑧ 無二人不一レ仁。
のやうに、
⑧ 無人不仁。
といふ「漢文」に対して、
⑧ 二 一レ
といふ「返り点」が、付いてゐるに、過ぎない。
従って、
(26)
「返り点」は、「そのやうに、意識しようと、意識しない」に拘らず、単なる、「返読」のための、「符号」ではない。
cf.
【定義】返り点とは、漢文すなわち古典中国語の語順を、日本語の語順に変換する符号である。
(古田島洋介、湯城吉信、漢文訓読入門、2011年、45頁)
然るに、
(27)
⑧ 無人不仁。
に於いて。
⑧ 無=莫
⑧ 人=帝王
⑧ 不=不
⑧ 仁=得之於艱難失之於安逸
といふ「代入(replacement)」を行ふと、
① 莫帝王不得之於艱難失之於安逸。
といふ「漢文」になる。
然るに、
(28)
① 無帝王不得之於艱難失之於安逸=
① 無[帝王不〔得(之於艱難)失(之於安逸)〕]⇒
① [帝王〔(之於艱難)得(之於安逸)失〕不]無=
① [帝王にして〔(之を艱難に)得て(之を安逸に)失は〕不るは]無し。
従って、
(27)(28)により、
(29)
①「十八史略、創業守成」に於ける、
① 帝王莫不得之於艱難失之於安逸。
といふ「語順」が、
① 無帝王不得之於艱難失之於安逸。
であったならば、「大枠」として、
④ 無〔夕不(飲)〕。
⑤ 無〔書不(読)〕。
⑥ 莫〔行不(可)〕。
⑦ 無〔物不(長)〕。
⑧ 無〔人不(仁)〕。
と「同じ構造」である。といふことになる。
従って、
(03)(04)(29)により、
(30)
① 帝王にして之を艱難に得て之を安逸に失はざるは無し。
といふ「書き下し文」であるならば、
② [帝王にして〔(之を艱難に)得て(之を安逸に)失は〕不るは]無し。
であって、
③ [帝王にして(之を艱難に)得て〔(之を安逸に)失は〕不ふは]無し。
ではない。といふことが、「分りやすい」。
然るに、
(31)
(2)「倒置」により、次の各分は文の成分の位置が変わっている。
① 詠嘆 ・・・ 賢人哉回也(賢なるかな回や)。
② 強意 ・・・ 何亡国敗家之有(何ぞ国を亡ぼし家を敗ること之有らん)。
③ 提示 ・・・ 故人不可以成敗論也(古人をば成敗を以て論ずべからざるなり)。
(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、36頁を参照)
従って、
(31)により、
(32)
③ 故人不可以成敗論也=
③ 古人不[可〔以(成敗)論〕]也⇒
③ 古人[〔(成敗)以論〕可]不也=
③ 古人をば[〔(成敗を)以て論ず〕可から]不るなり。
といふ「漢文訓読」は、
④ 不可以成敗論故人也=
④ 不[可〔以(成敗)論(故人)〕]也⇒
④ [〔(成敗)以(故人)論〕可]不也=
④ [〔(成敗を)以て(故人を)論ず〕可から]不るなり。
に対する、
③「提示(倒置)」である。
従って、
(33)
③ 帝王無不得之於艱難失之於安逸=
③ 帝王無[不〔得(之於艱難)失(之於安逸)〕]⇒
③ 帝王[〔(之於艱難)得(之於安逸)失〕不]無=
③ 帝王[〔(之を艱難に)得て(之を安逸に)失は〕不るは]無し。
といふ「漢文訓読」も、
① 無帝王不得之於艱難失之於安逸=
① 無[帝王不〔得(之於艱難)失(之於安逸)〕]⇒
① [帝王〔(之於艱難)得(之於安逸)失〕不]無=
① [帝王にして〔(之を艱難に)得て(之を安逸に)失は〕不るは]無し。
に対する、
③「倒置(提示)」である(はずである)。
然るに、
(32)(33)により、
(34)
③ 古人不[可〔以(成敗)論〕]。
① 帝王無[不〔得(之於艱難)失(之於安逸)〕]。
に於いて、
③ 古人 は、「補語」の「提示(倒置)」であるが、
① 帝王 は、「主語」の「提示(倒置)」である。
然るに、
(35)
「主語」の下(右)に有るの、「述語」であるため、
「主語」の下(右)に、「括弧」は、無い。
従って、
(35)により、
(36)
③ 帝王無[不〔得(之於艱難)失(之於安逸)〕]。
① 無[帝王不〔得(之於艱難)失(之於安逸)〕]。
に於いて、
③ [ 〔 ( )( ) 〕 ]
① [ 〔 ( )( ) 〕 ]
といふ「括弧」自体に、「変り」はない。
従って、
(34)(35)(36)により、
(37)
③ 帝王無不得之於艱難失之於安逸。
に於ける、
③ 帝王 が、「倒置(提示)」である(?)かも知れない。
といふ風に、「気付く」ことが、出来るならば、
④ 無〔夕不(飲)〕。
⑤ 無〔書不(読)〕。
⑥ 莫〔行不(可)〕。
⑦ 無〔物不(長)〕。
⑧ 無〔人不(仁)〕。
といふ「句形」により、
① 無[帝王不〔得(之於艱難)失(之於安逸)〕]。
といふ「漢文」に、「気付く」ことになる。
それ故、
(36)(37)により、
(38)
① 帝王無不得之於艱難失之於安逸。
に於ける、
① 帝王無[不〔得(之於艱難)失(之於安逸)〕]。
といふ「括弧(補足構造)」に、「気付く」ことになる。
然るに、
(39)
① 自古帝王無不得之於艱難失之於安逸。
であれば、
① 自古帝王~~得之於艱難失之於安逸。
であるため、「二重否定律」により、
① 自古帝王得之於艱難失之於安逸=
① 自(古)帝王得(之於艱難)失(之於安逸)⇒
①(古)自帝王(之於艱難)得(之於安逸)失=
①(古)より帝王(之を艱難に)得て(之を安逸に)失ふ。
は、「極めて、シンプル」である。
(40)
① 自古帝王無不得之於艱難失之於安逸=
① 自(古)帝王無[不〔得(之於艱難)失(之於安逸)〕]。
に於いて、「ド・モルガンの法則、含意の定義」により、
① 自古帝王無不得之於艱難失之於安逸=
① 自(古)帝王無[如得(之於艱難)則不〔失(之於安逸)〕]⇒
① (古)自帝王[如(之於艱難)得則〔(之於安逸)失〕不]無=
① (古)より帝王[もし(之を艱難に)得なば則ち〔(之を安逸に)失は〕不るは]無し。
といふ、ことになる。
然るに、
(41)
飽く迄も、「訓読」として、それを「見る」として、
① 古より、帝王、之を艱難に得て、之を安逸に失ふ。
② 古より、帝王、もし之を艱難に得なば、則ち、之を安逸に失は不るは無し。
に於いて、
② の方が、「力強く、印象深い」と、言ふべきである。
平成29年07月05日、毛利太。
0 件のコメント:
コメントを投稿