(01)
―「漢文の基本構造」―
(Ⅰ) 主語◇述語
(Ⅱ) 述語(補足語)
(Ⅲ)連用修飾語+被連用修飾語
(Ⅳ)連体修飾語+被連体修飾語
(Ⅴ) 並列語・並列語
cf.
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281~283頁)
(02)
右に加へて、
(Ⅵ)接続詞&
(Ⅶ)文末助詞
(Ⅷ)その他
が、「確認」出来る。
(03)
① 富・貴◇非(吾+願)也=
① 富貴は吾が願ひに非ざるなり。
に於いて、
① 富・貴 は、「並列語」であって、
① 富・貴 は、「主語◇」であって、
① ◇非 は、
① (吾+願)の「述語」であって、
① (吾+願)は、
① ◇非 の(補語)であって、
① 吾+ は、
① 願 の「連体修飾語」であって、
① 願 は、
① 吾+ の「被連体修飾語」である。
(04)
① 也 に関して、
① 富貴非吾願。 と、
① 富貴非吾願也。の「関係」は、
① 富貴は吾が願ひではない。 と、
① 富貴は吾が願ひではないのだ。との「関係」に、「似てゐる」。
(05)
② 積(善)+家◇必+有(餘+慶)。
② 積善の家には必ず余慶有り。
に於いて、
② 積(善) は、
② 述語(補足語)
であって、
② 積(善)+ は、
② 家 に対しては、
② 連体修飾語+ と、なってゐて、
② 必+ は、
② 有 に対して、
② 連用修飾語+ と、なってゐて、
② 餘+ は、
② 慶 に対して、
② 連体修飾語+ と、なってゐる。
(06)
③ 無〔人◇不(仁)〕。
③ 人にして、仁ならざるは無し。
に於いて、
③ 人◇ は、「能動態の、主語」である。
(07)
③ 無〔書◇不(読)〕
③ 書として、読まざるは無し。
であるならば、
③ 書◇ は、「受動態の、主語」である。
然るに、
(08)
③ 無〔夕◇不(飲)〕。
③ 夕べとして飲まざるは無し。
に於いて、
③ 夕◇ は、「能動態・受動態の、主語」ではない。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
③ 無〔人&不(仁)〕。
③ 無〔書&不(読)〕。
③ 無〔夕&不(飲)〕。
であって、
③ 無〔人◇不(仁)〕。
③ 無〔書◇不(仁)〕。
③ 無〔夕◇不(飲)〕。
ではない。
(10)
④ 不〔常+有(白楽)〕。
④ 伯楽は、常には有らず。
である。
然るに、
(11)
④ 不人気、不可解、不正解、不文律、不用意。
であれば、
④ 五つとも、全て、「名詞」である。
従って、
(12)
④ 不常有
といふ「それ」も、「名詞」である。と、することが、「可能」である。
従って、
(13)
④ 伯楽+不常有=名詞+名詞。
である。と、することも、「可能」である。
従って、
(14)
④ 伯楽◇不常有。
④ 伯楽は、常には有らず(不常有)。
である。とすることも、「可能」である。
然るに、
(15)
(2)「倒置」により、次の各分は文の成分の位置が変わっている。
① 詠嘆 ・・・ 賢人哉回也(賢なるかな回や)。
② 強意 ・・・ 何亡国敗家之有(何ぞ国を亡ぼし家を敗ること之有らん)。
③ 提示 ・・・ 故人不可以成敗論也(古人をば成敗を以て論ずべからざるなり)。
(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、36頁を参照)
従って、
(10)(15)により、
(16)
⑤ 伯楽不常有。
⑤ 伯楽は、常には有らず。
の場合も、
⑤ 不〔常+有(白楽)〕。
⑤ 伯楽は、常には有らず。
に対する、「提示」である。と、することも、「可能」である。
従って、
(16)により、
(17)
⑤ 伯楽不常有。
⑤ 伯楽は、常には有らず。
の場合は、それが「提示」であるとして、
⑤ (伯楽)不〔常+有(??)〕。
といふ風に、書くことも、「可能」である。
cf.
?? は、ワイルドカードで、
??=伯楽
(18)
⑥ 英文=Englishの文。
⑥ 中文=Chineseの文。
であるため、
⑥ 英文=English+文。
⑥ 中文=Chinese+文。
である。
従って、
(19)
⑥ 我◇非〈必+不{常+求[以〔解(中+文)+法〕解(漢+文)]+者}〉也。
⑥ 我は、必ずしも、常には、中文を解する法を以って漢文を解せんことを、求めざる者に非ざるなり。
に於いて、
⑥「必+」は、「連用修飾語」であって、
⑥「常+」は、「連用修飾語」であって、
⑥「中+」は、「連体修飾語」であって、
⑥「英+」は、「連体修飾語」であって、
⑥「必不常求以解中文法解漢文+」は、「連体修飾語」である。
従って、
(01)(19)により、
(20)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我◇非〈必+不{常+求[以〔解(中+文)+法〕解(漢+文)]+者}〉也。
といふ「漢文」は、
(Ⅰ) 主語◇述語
(Ⅱ) 述語(補足語)
(Ⅲ)連用修飾語+被連用修飾語
(Ⅳ)連体修飾語+被連体修飾語
といふ、「基本構造」によって、「出来てゐる」。
然るに、
(21)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様ものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
然るに、
(22)
右のやうに述べてゐた、「中国語の先生」のやうな、「現役の中国語の先生」に対して、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也。
に於いて、
⑥ 我 は、「主語であるか」。
⑥ 非 は、「どこまで、掛るのか」。
⑥ 必 は、「連用修飾語であるか」。
⑥ 不 は、「どこまで、掛るのか」。
⑥ 常 は、「連用修飾語であるか」。
⑥ 求 は、「どこまで、掛るのか」。
⑥ 以 は、「どこまで、掛るのか」
⑥ 解 は、「どこまで、掛るのか」
⑥ 中 は、「連体修飾語であるか」。
⑥ 文 は、「被連体修飾語であるか」。
⑥ 法 は、「被連体修飾語であるか」。
⑥ 解 は、「どこまで、掛るのか」。
⑥ 漢 は、「連体修飾語であるか」。
⑥ 文 は、「被連体修飾語であるか」。
⑥ 者 は、「被連体修飾語であるか」。
⑥ 也 は、「文末助詞であるか」。
といふ風に、「質問」した「結果」として、
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我◇非〈必+不{常+求[以〔解(中+文)+法〕解(漢+文)]+者}〉也。
である。といふことは、「有り得ない」わけではない。
然るに、
(23)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(22)(23)により、
(24)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我◇非〈必+不{常+求[以〔解(中+文)+法〕解(漢+文)]+者}〉也。
といふ「漢文」に於いて、
(Ⅰ) 主語◇述語
(Ⅱ) 述語(補足語)
(Ⅲ)連用修飾語+被連用修飾語
(Ⅳ)連体修飾語+被連体修飾語
(Ⅴ) 並列語・並列語
といふ「五つ」の内の、
(Ⅱ) 述語(補足語)
といふ「語順」だけが、「国語とは全く反対である。」といふ、ことになる。
従って、
(24)により、
(25)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我◇非〈必+不{常+求[以〔解(中+文)+法〕解(漢+文)]+者}〉也。
といふ「基本構造」から、
⑥ ◇ + + + + + +
を「除いた」、
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉。
に於いて、
⑥ 非〈 〉⇒〈 〉非
⑥ 不{ }⇒{ }不
⑥ 求[ ]⇒[ ]求
⑥ 以〔 〕⇒〔 〕以
⑥ 解( )⇒( )解
⑥ 解( )⇒( )解
といふ「移動」を行った「結果」である、
⑥ 我〈必{常[〔中文)解(法〕以(漢文)解]求}不者〉非。
といふ「それ」は、「国語の補足構造の語順」である。
従って、
(25)により、
(26)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざるなり=
⑥ 我は〈必ずしも{どんな場合でも[〔(中文を)読解する法を〕用ゐて(漢文を)読解]しようと}しない者〉ではないのです。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
cf.
A=どんな場合でも、中文を解する法を用ゐて漢文を読解しようとする者。
B=どんな場合でも、中文を解する法を用ゐて漢文を読解しようとしない者。
の内の、
私は、必ずしも、Bではない。
といふことは、
私は、時には、Aである場合もあるが、概ね、Bである場合の方が、多い。
といふことは、
私は、どちらかと言へば、中文を読解する法を用ゐて漢文を読解しようとしない者である。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(27)
⑥ 我地〈必丁{常丙[下〔二(中一)上〕乙(漢甲)]}天〉。
に於いて、
⑥ 地〈 〉⇒〈 〉地
⑥ 丁{ }⇒{ }丁
⑥ 丙[ ]⇒[ ]丙
⑥ 下〔 〕⇒〔 〕下
⑥ 二( )⇒( )二
⑥ 乙( )⇒( )乙
といふ「移動」を行ふと、
⑥ 我〈必{常[〔(中一)二上〕下(漢甲)乙]丙}丁天〉地。
然るに、
(28)
⑥ 我〈必{常[〔(中一)二上〕下(漢甲)乙]丙}丁天〉地。
に於いて、
⑥ 一 = 文
⑥ 二 = 解
⑥ 上 = 法
⑥ 下 = 以
⑥ 甲 = 文
⑥ 乙 = 解
⑥ 丙 = 求
⑥ 丁 = 不
⑥ 天 = 者
⑥ 地 = 非
といふ、「代入(replacement)」を、行ふと、
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざるなり。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(27)(28)により、
(29)
⑥ 我非必不常求以解中文法解漢文者也=
⑥ 我非〈必不{常求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
⑥ 我〈必{常[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
⑥ 我は〈必ずしも{常には[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざるなり。
に於ける、「返り点」は、
⑥ 我地〈必丁{常丙[下〔二(中一)上〕乙(漢甲)]}天〉。
に於ける、
⑥ 地 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
である。
cf.
従って、
(29)により、
(30)
⑥ 我非地必不丁常求丙以下解二中文一法上解乙漢文甲者天也⇒
⑥ 我必常漢文一解二法上以下中文甲解乙求丙不丁者天非地也。
に於ける、
⑥ 地 丁 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
といふ「返り点」は、その一方で、
⑥ 地〈丁{丙[下〔二(一)上〕乙(甲)]}天〉
といふ「括弧」であると、すべきである。
従って、
(01)(30)により、
(31)
「返り点・括弧」は、
―「漢文の基本構造」―
(Ⅰ) 主語◇述語
(Ⅱ) 述語(補足語)
(Ⅲ)連用修飾語+被連用修飾語
(Ⅳ)連体修飾語+被連体修飾語
(Ⅴ) 並列語・並列語
に於ける、
(Ⅱ)漢文の、補足構造。
を、表してゐる。
従って、
(32)
「漢文の補足構造における、語順は、国語とは全く反対である。」といふことから、「返り点・括弧」は、「結果」として、「漢文の補足構造」を、表してゐる。
従って、
(33)
【定義】返り点とは、漢文すなわち古典中国語の語順を、日本語の語順に変換する符号である(古田島洋介、湯城吉信、漢文訓読入門、2011年、45頁)。
といふ【定義】は、「一面的」である。といふ「意味」に於いて、「誤り」である。
(34)
・中国教育の普及によって、今や現代中国語による接近も可能となった。
・二種の接近法は、日本人にとって、それぞれ長所と短所がある。すなわち、両者は排除し合う関係ではなく、補い合う関係にあると考えるのが正しい(古田島洋介、湯城吉信、漢文訓読入門、2011年、10頁)。
とは、思はない。
(35)
学部の2年生でこの学習会に参加していた者たち二三人が、あるとき連れだってわたしの所に来、「学而優則仕」と書いた紙切れを示して、これどういう意味ですかと、たずねた。どうしたのか、と聞くと、数日前の”記録新聞”に出て来て、そのときの「注釈」を聞きながら書くことは書いたが、意味がわからないのでという。そうか、これは「論語」の中の句で、「学んでゆとりがあったら官吏になる」ということだと説明した。それから1週間か十日ぐらいたったある夜、わたしは何か所かわからない箇所があった。あとで、みんなで読み合わせ、突き合わせて解読して行くうち、わたしが「次の一句が全然わからなかった。」というと、そばにいた二三人の学生が一斉に笑い出して、いった。「先生、そこはこの間、先生がぼくたちに教えてくれた”Xué ér yōu zé shì”ですよ!」これがわたしであり、あとで述べる「A先生」なのである。漢字で書かれた”学而優則仕”を見ると、一応”Xué ér yōu zé shì”と発音することはする。しかし、この一句の意味は、といえば、「マナンデユウナレバスナワチツコウ」であり、「学んでゆとりが有ったら官吏になる」なのだと、思う。これはまったく「訓読」で得た知識であり、漢字で書かれたものを、目だけに頼り、日本語だけで考えたものである(牛島徳次、中國語の学び方、1977年、59・60頁)。
然るに、
(36)
「学而優則仕(学びて優なれば、則ち仕ふ)。」といふ『これ以上簡単なそれが無いくらひに「簡単な漢文」』さえも、「中国語」としては、読めないのであれば、そのやうな「現代中国語」を、「わざわざ、苦労をして、学ぶ気」には、なれない。
(37)
中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)。
といふのであれば、
・二種の接近法(訓読による接近法・現代中国語による接近法)は、日本人にとって、それぞれ長所と短所がある。
とは言ふものの、
・現代中国語による接近。
に関しては、長所が、あるとは、思へない。
平成29年07月07日。毛利太。
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