(01)
一言で、「括弧」では分からないため、「左側のそれ」を、
( =「括」
〔 =「括」
[ =「括」
{ =「括」
とする。
(02
「右側のそれ」を、
)=「弧」
〕=「弧」
]=「弧」
}=「弧」
とする。
従って、
(01)(02)により、
(03)
「左右のそれ」を、
( )=「括 弧」
〔 〕=「括 弧」
[ ]=「括 弧」
{ }=「括 弧」
とする。
従って、
(03)により、
(04)
( ) = 「括 弧」
〔( )〕 = 「括括 弧弧」
[〔( )〕] = 「括括括 弧弧弧」
{[〔( )〕]}=「括括括括 弧弧弧弧」
とする。
(05)
①( )=「括 弧」
②〔 〕=「括 弧」
③[ ]=「括 弧」
④{ }=「括 弧」
に於いて、
①の中に、「括
弧」は、無い。
②の中には、一つ以上の①が有る。
③の中には、一つ以上の②が有る。
④の中には、一つ以上の③が有る。
とする。
従って、
(05)により、
(06)
例へば、
(〔 〕)=「1:括括 弧弧」
(〔 )〕=「2:括括 弧弧」
〔( 〕)=「3:括括 弧弧」
であるが、これらは、
〔( )〕とは、逆に、
①の中に、②が有る。が故に、
このやうな「括括 弧弧」等は、認めない。
(07)
①(B)AC。
は、「不可」とする。
(08)
②B(A)C。
であるとき、
②Aは「Bを補足する」。
(09)
③AC(B)。
であるとき、
③Bは「Cを補足」する。
(10)
④B‐C(A)。
であるとき、
④Aは「B‐Cを補足」し、このときの、
④B‐Cは、「熟語」以外は、「不可」とする。
(11)
⑤AHD(BC)GEF。
に於いて、
⑤BCは「Dを補足」する。
(12)
⑥AHD(BC)G(EF)。
に於いて、
⑤BCは「Dを補足」し、
⑥EFは「Gを補足」する。
(14)
⑦AH〔D(BC)G(EF)〕。
に於いて、
⑤BCは「Dを補足」し、
⑥EFは「Gを補足」し、
⑦DBCGEFは「Hを補足」する。
(15)
このやうにして、「無限」に「補足」を続けることが出来るため、この辺で止めるものの、(05)を逆に言ふと、
①( )=「括 弧」
②〔 〕=「括 弧」
③[ ]=「括 弧」
④{ }=「括 弧」
に於いて、
④の中には、一つ以上の③が有り、
③の中には、一つ以上の②が有り、
②の中には、一つ以上の①が有り、
①の中に、「括 弧」が、無い。
のであれば、『括弧』である。とする。
従って、
(16)
⑦ AH〔D(BC)G(EF)〕。
が、『括弧』であるため、
⑦ 我不〔為(児孫)買(美田)〕。
も、『括弧』である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
⑦ 我不〔為(児孫)買(美田)〕。
に於いて、
⑤ 児孫は「為を補足」する。
⑥ 美田は「買を補足」する。
⑦ 為児孫買美田は「不を補足」する。
然るに、
(18)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置き換えて読むことが、その大きな原則となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
⑦ 我不〔為(児孫)買(美田)〕⇔
⑧ 我〔(児孫)為(美田)買〕不。
に於いて、
⑦ は、「漢文の語順」であり、
⑧ は、「国語の語順」である。
従って、
(19)により、
(20)
⑦ 我不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
⑧ 我〔(児孫)為(美田)買〕不=
⑧ 我は〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
は、「漢文訓読」である。
従って、
(01)~(20)により、
(21)
⑨ 我非[不〔為(児孫)買(美田)〕者]也⇒
⑨ 我[〔(児孫)為(美田)買〕不者]非也=
⑨ 我は[〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不る者に]非ざるなり。
も、「漢文訓読」であり、
⑩ 我買(田)⇒
⑩ 我(田)買=
⑩ 我(田を)買ふ。
も、「漢文訓読」である。
従って、
(22)
(ア)『括弧』は、「補足構造」を表すことが出来、尚且つ、
(イ)「漢文」と「国語」の「補足構造」における「語順」は、全く反対である。
といふ「二つの条件」が揃っているが故に、
例へば、
① 我買(田)⇒
① 我(田を)買ふ。
② 我不〔買(美田)〕⇒
② 我は〔(美田を)買は〕不。
③ 我不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
③ 我は〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
④ 我非[不〔為(児孫)買(美田)〕者]也⇒
④ 我は[〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不る者に]非ざるなり。
といふ「漢文訓読」が、「可能」になる。
従って、
(23)
(ウ)「漢文」だけでなく、「英語」と「国語」の「補足構造」における「語順」も、全く反対である。
といふ「条件」が有るのであれば、例へば、
⑤ Who are you?
⑥ What are you doing?
⑦ I know that he is a good student.
⑧ I have no doubt that he is a good student.
といふ「英語」に於いても、「英文訓読」が、「可能」になる。
然るに、
(24)
「結論」から言ふと、この場合、
⑦ I know[that〔he is(a good student)〕]⇒
⑦ I [〔he(a good student) is〕that]know=
⑦ 私は[〔彼が(良い生徒)である〕といふことを]知ってゐる。
以外は、『括弧(返り点)』による「英文訓読」は、「不可能」である。
(25)
⑤と⑧に関しては、
⑤ Who‐are
であれば、
⑤ Who‐are(you)?⇒
⑤ (you)Who‐are?=
⑤ (あなたは)誰‐であるか。
のやうに、「倒置」が、「可能」であるものの、
⑤ Who‐are=誰‐である。
⑧ have‐no=持ってゐ‐ない。
は、「熟語」ではないため、「ハイフン(‐)」を付けることが、出来ない。
cf.
熟語2.二つまたはそれ以上の単語が合わさって、一つの単語として用いられるようになったも(デジタル大辞泉)。
従って、
(10)(25)により、
(26)
⑤ Who‐are=誰-である。
⑧ have‐no=持ってゐ-ない。
に関しては、「一つの単語(熟語)」ではない。が故に、
『括弧(返り点)』による「英文訓読」は、「不可能」である。
(27)
⑨ You are doing what?
に対して、『括弧』を加へると、
⑨ You are〔doing(what)〕?⇒
⑨ You 〔(what)doing〕are?=
⑨ あなたは〔(何を)して〕ゐるか。
然るに、
(28)
⑥ What are you doing?
に対して、「括弧」を加へると、
⑥ What(are〔you)doing〕?⇒
⑥ (〔you)Whatdoing〕are?=
⑥ (〔あなたは)何をして〕ゐるか。
然るに、
(06)(15)により、
(29)
⑥ 二(四〔一)三〕⇒
⑥ (〔一)二三〕四=
⑥ 一 二 三 四。
のやうな、「2:括括 弧弧」は、『括弧』ではない。
従って、
(23)~(29)により、
(30)
⑤ Who are you?
⑥ What are you doing?
⑦ I know that he is a good student.
⑧ I have no doubt that he is a good student.
に於いて、
⑦ I know that he is a good student.
以外の三つに関しては、『括弧(返り点)』による「英文訓読」は、「不可能」である。
従って、
(22)(30)により、
(31)
(ア)『括弧』は、「補足構造」を表すことが出来る。といふ「必然」と、
(イ)「漢文」と「国語」の「補足構造」における「語順」は、全く反対である。といふ「偶然」により、
(ウ)『括弧』による「漢文訓読」は、「可能」となる。
(32)
「括弧」が、「返り点」よりも「優れてゐる点」は、
(一)「返り点」は、「横書き」では、表せない。
(二)「括弧」は、「論理構造(シンタックス)」を表現してゐる。
(三)「返り点」は、「合理的」には、出来てゐない。が故に、
(四)「返り点」は、それなりに難しい(が、「括弧」は簡単である)。
(33)
(一)に関しては、仮に、「返り点のフォント」を作ったとしても、たぶん、読みにくい。
(34)
(二)に関しては、例へば、
不〔為(児孫)買(美田)〕。
であれば、
~(A&B)=~A∨~B=A→~B。
といふ、「ド・モルガンの法則」と、「含意の定義」が、成立する。
加へて、
(35)
無人不死=
不[有〔人不(死)〕]⇒
[〔人(死)不〕有]不=
[〔人として(死せ)不るは〕有ら]ず。
といふ「漢文」は、
~[∃ⅹ〔人ⅹ&~(死ⅹ)〕]⇒
[〔人ⅹ&(死ⅹ)~〕∃ⅹ]~=
[〔人であって(死な)ないといふ〕そのやうなⅹは存在し]ない。
といふ「述語論理」に、「直訳」出来る。
(36)
(三)に関しては、例へば、「朝三暮四」の、「二 一レ 二 一。」といふ「返り点」に、納得できない高校生が、絶えない。
(37)
(四)に関しては、「Yahoo!知恵袋の質問」を、読んでゐると、さうとしか、思へない。
平成26年11月30日、毛利太。
2014年11月30日日曜日
2014年11月27日木曜日
「括弧」は無いのかな。
(01)
① I know that he is a good student=
① I know[that〔he is(a good student)〕]⇒
① I [〔he(a good student) is〕that]know=
① 私は[〔彼が(良い生徒)である〕といふことを]知ってゐる。
然るに、
(02)
① I know that he is a good student.
は、that を、「省略」して、
① I know he is a good student.
としても、かまわない。
従って、
(01)(02)により、
(03)
that=といふこと=[・・・・・] とするならば、
① I know he is a good student.
には、[括弧]があって、その[括弧]が、「省略」されてゐる。
従って、
(03)により、
(04)
① I know he is a good student.
② I see he is a good student.
に、「括弧(that)」は、有ります。
然るに、
(05)
【知覚動詞】
see,hear,smell,feel など
I hear him singing.(彼が歌っているのが聞こえる)
(旺文社、高校総合英語、1989年、106頁)
然るに、
(06)
「聞鳥啼樹」を「鳥の樹に啼くを聞く。」と訓読するときには、前記の「レ」と「一・二」とを合わせてもちいることになり、「啼樹」の部分には「レ」を、「聞・ ・ ・ ・ ・啼」には「一・二」の符号をつけて示す(旺文社、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
③ 我 聞 鳥 啼 樹 =
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕=
③ I hear〔birds singing(in the trees)〕⇒
③ I 〔birds (in the trees)singing〕hear=
③ 我〔鳥の(樹に)啼くを〕聞く。
に於いて、「括弧(that)」が有っても、「矛盾」は、しない。
然るに、
(08)
その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
然るに、
(09)
③ 啼樹=
③ 啼(樹)=
③ singing(in the trees)
等は、「補足構造」である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ 啼樹=
③ 啼(樹)⇒
③(樹に)啼く。
といふ「漢文訓読」は、「漢文と国語の補足構造の違ひ」による、「必然」であり、
③ 我 聞 ・・・・・ =
③ 我 聞〔・・・・・〕⇒
③ 我 〔・・・・・〕聞=
③ 我 〔・・・・・を〕聞く。
といふ「漢文訓読」も、「漢文と国語の補足構造の違ひ」による、「必然」である。
従って、
(10)により、
(11)
③ 〔( )〕 を介して、
③ 我 聞 鳥 啼 樹 ⇔
③ 我 鳥の 樹に 啼くを 聞く。
といふ「漢文訓読」が成立する「所以」は、要するに、『補足構造の語順が、逆である』からに、他ならない。
従って、
(11)により、
(12)
③ 我 聞 鳥 啼 樹。
といふ「漢文」は、固より、「それ自体」として、
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕。
といふ「補足構造(シンタックス)」をしてゐる。と、すべきである。
従って、
(13)
仮に、
③ 我 聞 鳥 啼 樹 ⇔
③ 我 鳥の 樹に 啼くを 聞く。
といふ「関係」が、「分りにくい」のであれば、その場合、
③ 我 聞 鳥 啼 樹。は、
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕。
といふ風に、書くべきである。
従って、
(14)
省略できるものはすべて省略するというのではなく、省略するかしないかは、「わかりやすい表現かどうか」を基準に判断して下さい(中内伸光、ろんりの練習帳、2002年、71頁)。といふアドバイスは、「論理学の括弧」に関してだけでなく、「漢文の括弧」に於いても、当てはまると、すべきである。
従って、
(13)(14)により、
(15)
① 民可使由之、不可使知之(民は之を由らしむべし、之を知らしむべからず)
② 民可使、由之。不可使、知之(民の使うべきは之を由らしめよ。使うべからざるは之を知らしめよ)
③ 民可、使由之。不可、使知之。(民、可ならば、之を由らしむ。不可ならば、之を知らしむ)
④ 民可使、由之不可。使知之。(民は使うべし、之に由らしむるは不可なり。之を知らしむ)
をどう正確に読解するか、極めてむずかしい(黄文雄、儒禍、2014年、300頁)といふことは、
① 民可[使〔由(之)〕]、不{可[使〔知(之)〕]}。
② 民可(使)、由(之)。不〔可(使)〕、知(之)。
③ 民(可)、使〔由(之)〕。不(可)、使〔知(之)〕。
④ 民〔可(使)〕、由(之)不(可)。使〔知(之)〕。
のうちの、「どれであるのか」といふことが、「難しい」。といふことに、他ならない。
cf.
四書五経についての教育は、私が最後の世代かも知れない。小学校に入る前に、『論語』、『孟子』、『大学』などを暗誦できたが、『中庸』までは暗誦できずに国民学校に入った(黄文雄、儒禍、2014年、331頁)。だが、
漢文古典の白話文(現代語訳)は中国語以上に日本の訓読はすぐれていると、私にかぎらず、たいてい漢文教育を受けてきた私の友人は、異口同音で、そう実感していた(黄文雄、儒禍、2014年、299頁)。
然るに、
(16)
その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
といふことからすれば、私には、
① 民可[使〔由(之)〕]、不{可[使〔知(之)〕]}⇔
① 民は[〔(之を)由ら〕使む]可し、{[〔(之を)知ら〕使む]可から}不。
とするのが、「一番、分かりやすい」。
従って、
(17)
近年、中国のインターネット上でよく話題になっているが、これは四通りに切りうる(加藤徹、本当は危ない『論語』、2011年、157頁)。とのことであっても、「昔からある、次の議論」の方が、私には、「分かりやすい」。
(18)
この言葉は「民にはなにも知らせてはならない、信頼させて黙ってついてこさせるべきだ」と解釈され、それを戦時中の日本になぞらえて批判されてたわけだが、〈中略〉この「可・不可」は「できる、できない」の意味。したがって「民衆からは、その政治に対する信頼をかちうることはできるが、政治の内容を知らせることはむずかしい」という事実を、そのまま述べた言葉である(山本七平、論語の読み方、1981年、18頁)。
すなはち、
(19)
①「できる(CAN)・できない」
②「すべきである(SHOULD)・すべきでない」
のうちの、どちらかである。とする「議論」の方が、「分かりやすい」。
平成26年11月27日、毛利太。
① I know that he is a good student=
① I know[that〔he is(a good student)〕]⇒
① I [〔he(a good student) is〕that]know=
① 私は[〔彼が(良い生徒)である〕といふことを]知ってゐる。
然るに、
(02)
① I know that he is a good student.
は、that を、「省略」して、
① I know he is a good student.
としても、かまわない。
従って、
(01)(02)により、
(03)
that=といふこと=[・・・・・] とするならば、
① I know he is a good student.
には、[括弧]があって、その[括弧]が、「省略」されてゐる。
従って、
(03)により、
(04)
① I know he is a good student.
② I see he is a good student.
に、「括弧(that)」は、有ります。
然るに、
(05)
【知覚動詞】
see,hear,smell,feel など
I hear him singing.(彼が歌っているのが聞こえる)
(旺文社、高校総合英語、1989年、106頁)
然るに、
(06)
「聞鳥啼樹」を「鳥の樹に啼くを聞く。」と訓読するときには、前記の「レ」と「一・二」とを合わせてもちいることになり、「啼樹」の部分には「レ」を、「聞・ ・ ・ ・ ・啼」には「一・二」の符号をつけて示す(旺文社、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
③ 我 聞 鳥 啼 樹 =
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕=
③ I hear〔birds singing(in the trees)〕⇒
③ I 〔birds (in the trees)singing〕hear=
③ 我〔鳥の(樹に)啼くを〕聞く。
に於いて、「括弧(that)」が有っても、「矛盾」は、しない。
然るに、
(08)
その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
然るに、
(09)
③ 啼樹=
③ 啼(樹)=
③ singing(in the trees)
等は、「補足構造」である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ 啼樹=
③ 啼(樹)⇒
③(樹に)啼く。
といふ「漢文訓読」は、「漢文と国語の補足構造の違ひ」による、「必然」であり、
③ 我 聞 ・・・・・ =
③ 我 聞〔・・・・・〕⇒
③ 我 〔・・・・・〕聞=
③ 我 〔・・・・・を〕聞く。
といふ「漢文訓読」も、「漢文と国語の補足構造の違ひ」による、「必然」である。
従って、
(10)により、
(11)
③ 〔( )〕 を介して、
③ 我 聞 鳥 啼 樹 ⇔
③ 我 鳥の 樹に 啼くを 聞く。
といふ「漢文訓読」が成立する「所以」は、要するに、『補足構造の語順が、逆である』からに、他ならない。
従って、
(11)により、
(12)
③ 我 聞 鳥 啼 樹。
といふ「漢文」は、固より、「それ自体」として、
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕。
といふ「補足構造(シンタックス)」をしてゐる。と、すべきである。
従って、
(13)
仮に、
③ 我 聞 鳥 啼 樹 ⇔
③ 我 鳥の 樹に 啼くを 聞く。
といふ「関係」が、「分りにくい」のであれば、その場合、
③ 我 聞 鳥 啼 樹。は、
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕。
といふ風に、書くべきである。
従って、
(14)
省略できるものはすべて省略するというのではなく、省略するかしないかは、「わかりやすい表現かどうか」を基準に判断して下さい(中内伸光、ろんりの練習帳、2002年、71頁)。といふアドバイスは、「論理学の括弧」に関してだけでなく、「漢文の括弧」に於いても、当てはまると、すべきである。
従って、
(13)(14)により、
(15)
① 民可使由之、不可使知之(民は之を由らしむべし、之を知らしむべからず)
② 民可使、由之。不可使、知之(民の使うべきは之を由らしめよ。使うべからざるは之を知らしめよ)
③ 民可、使由之。不可、使知之。(民、可ならば、之を由らしむ。不可ならば、之を知らしむ)
④ 民可使、由之不可。使知之。(民は使うべし、之に由らしむるは不可なり。之を知らしむ)
をどう正確に読解するか、極めてむずかしい(黄文雄、儒禍、2014年、300頁)といふことは、
① 民可[使〔由(之)〕]、不{可[使〔知(之)〕]}。
② 民可(使)、由(之)。不〔可(使)〕、知(之)。
③ 民(可)、使〔由(之)〕。不(可)、使〔知(之)〕。
④ 民〔可(使)〕、由(之)不(可)。使〔知(之)〕。
のうちの、「どれであるのか」といふことが、「難しい」。といふことに、他ならない。
cf.
四書五経についての教育は、私が最後の世代かも知れない。小学校に入る前に、『論語』、『孟子』、『大学』などを暗誦できたが、『中庸』までは暗誦できずに国民学校に入った(黄文雄、儒禍、2014年、331頁)。だが、
漢文古典の白話文(現代語訳)は中国語以上に日本の訓読はすぐれていると、私にかぎらず、たいてい漢文教育を受けてきた私の友人は、異口同音で、そう実感していた(黄文雄、儒禍、2014年、299頁)。
然るに、
(16)
その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
といふことからすれば、私には、
① 民可[使〔由(之)〕]、不{可[使〔知(之)〕]}⇔
① 民は[〔(之を)由ら〕使む]可し、{[〔(之を)知ら〕使む]可から}不。
とするのが、「一番、分かりやすい」。
従って、
(17)
近年、中国のインターネット上でよく話題になっているが、これは四通りに切りうる(加藤徹、本当は危ない『論語』、2011年、157頁)。とのことであっても、「昔からある、次の議論」の方が、私には、「分かりやすい」。
(18)
この言葉は「民にはなにも知らせてはならない、信頼させて黙ってついてこさせるべきだ」と解釈され、それを戦時中の日本になぞらえて批判されてたわけだが、〈中略〉この「可・不可」は「できる、できない」の意味。したがって「民衆からは、その政治に対する信頼をかちうることはできるが、政治の内容を知らせることはむずかしい」という事実を、そのまま述べた言葉である(山本七平、論語の読み方、1981年、18頁)。
すなはち、
(19)
①「できる(CAN)・できない」
②「すべきである(SHOULD)・すべきでない」
のうちの、どちらかである。とする「議論」の方が、「分かりやすい」。
平成26年11月27日、毛利太。
2014年11月22日土曜日
「括弧」は無いのか?
(01)
① 世界中の、全ての人には親がゐる(た)。
② 全ての人(約72億2064万人以上)を子供とする親が存在する。
に於いて、
① は「真(本当)」であって、
② は「偽(ウソ)」である。
従って、
(01)により、
(02)
① ∀ⅹ∃yPyⅹ=Everyone has(had)a parent.
② ∃y∀ⅹPyⅹ=Someone is a parent of everyone.
に於いて、
① は「真(本当)」であって、
② は「偽(ウソ)」である。
然るに、
(03)
① ∀ⅹ∃yPyⅹ=
① ∀ⅹ(∃y(Pyⅹ))⇒
① ((Pyⅹ)∃y)∀ⅹ=
① ((ⅹはyの子供である。といふことが)あるyについて正しいといふことは)(全てのⅹに於いて、さうである)。
といふことは、「真(本当)」であって、
(04)
② ∃y∀ⅹPyⅹ=
② ∃y(∀ⅹ(Pyⅹ))⇒
② ((Pyⅹ)∀ⅹ)∃y=
② ((yはⅹの親である。といふことが)全てⅹに対してさうである所の)(そのやうなyが存在する)。
といふことは、「偽(ウソ)」である。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① ∀ⅹ∃yPyⅹ=全ての人には、それぞれに親がゐる(た)。
② ∃y∀ⅹPyⅹ=全ての人の、親である所の人がゐる。
といふ「論理式」は、実際には、
① ∀ⅹ(∃y(Pyⅹ))
② ∃y(∀ⅹ(Pyⅹ))
といふ「形」をしてゐるに、違ひない。
然るに、
(06)
∀ⅹ ∃y (...) は
∀ⅹ(∃y (...)) の
意味で解釈されるということに注意(Webサイト:V. 述語論理の意味論)。
とのことであって、それ故、「V. 述語論理の意味論」が「正しい」のであれば、
① ∀ⅹ(∃y(Pyⅹ))
は、「正しい」ため、
② ∃y(∀ⅹ(Pyⅹ))
も、「正しい」はずである。が、
そのやうなことは、例へば、「論理学初歩(E.J.レモン)」には、書かれてゐない。
従って、
(03)~(06)により、
(07)
命題論理と同様、論理式を表記するときに曖昧さがなければ、余分な括弧は省略することができる(スマリヤン)。
といふ風に、されてゐる以上、例へば、
③ ~∃y∀ⅹPyⅹ
といふ風に、「入門書」には、書かれてゐても、
③ ~(∃y(∀ⅹ(Pyⅹ)))
といふ風に「思へれば」、「さう思っても、良い。」ことになる。
従って、
(08)
④ ~∃ⅹ(Mⅹ&~Dⅹ)
であれば、
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
といふ風に「思へれば」、「さう思って、も良い。」ことになる。
加へて、
(09)
固より、「論理学の記号」は、統一されてはゐないのであって、その意味では、
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
といふ「論理式」を、
⑤ 不(有ⅹ(Mⅹ而不(Dⅹ)))
といふ風に、書いても、構はない。
加へて、
(10)
Mⅹ の M は、
Man の M であるものの、「取りあへず、さうした」のは、私であり、
Dⅹ の D は、
Die の D であるものの、「取りあへず、さうした」のは、私である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))=
⑤ 不(有ⅹ(人ⅹ而不(死ⅹ)))
然るに、
(12)
⑤ 不(有ⅹ(人ⅹ而不(死ⅹ)))
に於ける「三つのⅹ」は、この場合は、「yやZではなく、三つともⅹである」といふ意味しか、持ってゐない。
従って、
(12)により、
(13)
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))=
④ ~(∃(M&~(D)))=
⑤ 不(有(人而不(死)))
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(14)
「古今東西、人類の頭の中(思考法)」は、変はらないはずであり、それ故、
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
といふ「論理式」に於いて、
④((( )))
といふ「括弧」が有って、
⑤ 不(有(人而不(死)))
といふ「漢文」に於いて、
⑤((( )))
といふ「括弧」が無い。といふことは、ほとんど、有り得ない。
cf.
文法とは、単純に、精神活動の一部であって、精神活動とは普遍的なものである;すなわち、文法は普遍的である(ウィキペディア:ポール・ロワイヤル文法)。生成文法において言語とは、人間の存在を離れて客体として存在しているのではなく、あくまで人間の心/脳の中に存在しているもの (I-language) で、ある言語の母語話者がその言語を話すために保持している知識の体系(language competence) を指している(ウィキペディア:普遍文法)。記号論理学においては表層構造と深層構造の区別は存在しない。といふのも、記号論理学は初めからそのようにつくられた人口言語だからである(山下正男、論理学史、1983年、186頁)。漢文は「東洋のエスペラント」であるといわれます。目で見てわかりやすく、文法も単純な、漢文という共通の道具を使えば、中国人でも日本人でも、朝鮮人でも、安南人でもすぐに意志を通じることができました。そればかりでなく、二千年まえの人の書きものでも、自由に読むことができるのです(魚返善雄、漢文入門、1966年、14頁)。漢文はその発生の初めから知的に整理された中国の文章語で、紀元前の文献である『論語』や『孟子』のころにはすでに記載語として成立していた。その文章は当時の口語の煩雑さを整理して、より簡潔な形に凝集させたものである(ウィキペディア:漢文)。
従って、
(15)
「論理式」を表記するときに曖昧さがなければ、「余分な括弧は省略」することができる(スマリヤン)。といふことが、「論理学」に於いて、成り立つ一方で、「漢文」に於いては、「全ての括弧が省略」されてゐる。と、すべきである。
従って、
(16)
⑤ 不(有(人而不(死)))
といふ風に、書かれることが無い。といふ「理由」により、
⑤ 不有人而不死
といふ「漢文」は、存在しても、
⑤ 不(有(人而不(死)))
といふ「漢文」は、存在しない。とすることは、
④ ~∃ⅹ(Mⅹ&~Dⅹ)
といふ風に、書かれた「論理式」は、見たことがあるが、
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
といふ「論理式」は、見たことが無いため、
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
といふ「論理式」は、マチガイである。とすることに、等しい。
従って、
(16)により、
(17)
⑤ 不有人而不死=
⑤ 不(有(人而不(死)))
ではない。とすることは、
④ ~∃ⅹ(Mⅹ&~Dⅹ)=
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
ではない。とすることと、同様に、マチガイである。
cf.
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう;しかし、丸括弧はその内部の表述が連言でないかぎり削除しよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、1頁)。
平成26年11月22日、毛利太。
① 世界中の、全ての人には親がゐる(た)。
② 全ての人(約72億2064万人以上)を子供とする親が存在する。
に於いて、
① は「真(本当)」であって、
② は「偽(ウソ)」である。
従って、
(01)により、
(02)
① ∀ⅹ∃yPyⅹ=Everyone has(had)a parent.
② ∃y∀ⅹPyⅹ=Someone is a parent of everyone.
に於いて、
① は「真(本当)」であって、
② は「偽(ウソ)」である。
然るに、
(03)
① ∀ⅹ∃yPyⅹ=
① ∀ⅹ(∃y(Pyⅹ))⇒
① ((Pyⅹ)∃y)∀ⅹ=
① ((ⅹはyの子供である。といふことが)あるyについて正しいといふことは)(全てのⅹに於いて、さうである)。
といふことは、「真(本当)」であって、
(04)
② ∃y∀ⅹPyⅹ=
② ∃y(∀ⅹ(Pyⅹ))⇒
② ((Pyⅹ)∀ⅹ)∃y=
② ((yはⅹの親である。といふことが)全てⅹに対してさうである所の)(そのやうなyが存在する)。
といふことは、「偽(ウソ)」である。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① ∀ⅹ∃yPyⅹ=全ての人には、それぞれに親がゐる(た)。
② ∃y∀ⅹPyⅹ=全ての人の、親である所の人がゐる。
といふ「論理式」は、実際には、
① ∀ⅹ(∃y(Pyⅹ))
② ∃y(∀ⅹ(Pyⅹ))
といふ「形」をしてゐるに、違ひない。
然るに、
(06)
∀ⅹ ∃y (...) は
∀ⅹ(∃y (...)) の
意味で解釈されるということに注意(Webサイト:V. 述語論理の意味論)。
とのことであって、それ故、「V. 述語論理の意味論」が「正しい」のであれば、
① ∀ⅹ(∃y(Pyⅹ))
は、「正しい」ため、
② ∃y(∀ⅹ(Pyⅹ))
も、「正しい」はずである。が、
そのやうなことは、例へば、「論理学初歩(E.J.レモン)」には、書かれてゐない。
従って、
(03)~(06)により、
(07)
命題論理と同様、論理式を表記するときに曖昧さがなければ、余分な括弧は省略することができる(スマリヤン)。
といふ風に、されてゐる以上、例へば、
③ ~∃y∀ⅹPyⅹ
といふ風に、「入門書」には、書かれてゐても、
③ ~(∃y(∀ⅹ(Pyⅹ)))
といふ風に「思へれば」、「さう思っても、良い。」ことになる。
従って、
(08)
④ ~∃ⅹ(Mⅹ&~Dⅹ)
であれば、
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
といふ風に「思へれば」、「さう思って、も良い。」ことになる。
加へて、
(09)
固より、「論理学の記号」は、統一されてはゐないのであって、その意味では、
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
といふ「論理式」を、
⑤ 不(有ⅹ(Mⅹ而不(Dⅹ)))
といふ風に、書いても、構はない。
加へて、
(10)
Mⅹ の M は、
Man の M であるものの、「取りあへず、さうした」のは、私であり、
Dⅹ の D は、
Die の D であるものの、「取りあへず、さうした」のは、私である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))=
⑤ 不(有ⅹ(人ⅹ而不(死ⅹ)))
然るに、
(12)
⑤ 不(有ⅹ(人ⅹ而不(死ⅹ)))
に於ける「三つのⅹ」は、この場合は、「yやZではなく、三つともⅹである」といふ意味しか、持ってゐない。
従って、
(12)により、
(13)
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))=
④ ~(∃(M&~(D)))=
⑤ 不(有(人而不(死)))
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(14)
「古今東西、人類の頭の中(思考法)」は、変はらないはずであり、それ故、
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
といふ「論理式」に於いて、
④((( )))
といふ「括弧」が有って、
⑤ 不(有(人而不(死)))
といふ「漢文」に於いて、
⑤((( )))
といふ「括弧」が無い。といふことは、ほとんど、有り得ない。
cf.
文法とは、単純に、精神活動の一部であって、精神活動とは普遍的なものである;すなわち、文法は普遍的である(ウィキペディア:ポール・ロワイヤル文法)。生成文法において言語とは、人間の存在を離れて客体として存在しているのではなく、あくまで人間の心/脳の中に存在しているもの (I-language) で、ある言語の母語話者がその言語を話すために保持している知識の体系(language competence) を指している(ウィキペディア:普遍文法)。記号論理学においては表層構造と深層構造の区別は存在しない。といふのも、記号論理学は初めからそのようにつくられた人口言語だからである(山下正男、論理学史、1983年、186頁)。漢文は「東洋のエスペラント」であるといわれます。目で見てわかりやすく、文法も単純な、漢文という共通の道具を使えば、中国人でも日本人でも、朝鮮人でも、安南人でもすぐに意志を通じることができました。そればかりでなく、二千年まえの人の書きものでも、自由に読むことができるのです(魚返善雄、漢文入門、1966年、14頁)。漢文はその発生の初めから知的に整理された中国の文章語で、紀元前の文献である『論語』や『孟子』のころにはすでに記載語として成立していた。その文章は当時の口語の煩雑さを整理して、より簡潔な形に凝集させたものである(ウィキペディア:漢文)。
従って、
(15)
「論理式」を表記するときに曖昧さがなければ、「余分な括弧は省略」することができる(スマリヤン)。といふことが、「論理学」に於いて、成り立つ一方で、「漢文」に於いては、「全ての括弧が省略」されてゐる。と、すべきである。
従って、
(16)
⑤ 不(有(人而不(死)))
といふ風に、書かれることが無い。といふ「理由」により、
⑤ 不有人而不死
といふ「漢文」は、存在しても、
⑤ 不(有(人而不(死)))
といふ「漢文」は、存在しない。とすることは、
④ ~∃ⅹ(Mⅹ&~Dⅹ)
といふ風に、書かれた「論理式」は、見たことがあるが、
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
といふ「論理式」は、見たことが無いため、
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
といふ「論理式」は、マチガイである。とすることに、等しい。
従って、
(16)により、
(17)
⑤ 不有人而不死=
⑤ 不(有(人而不(死)))
ではない。とすることは、
④ ~∃ⅹ(Mⅹ&~Dⅹ)=
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
ではない。とすることと、同様に、マチガイである。
cf.
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう;しかし、丸括弧はその内部の表述が連言でないかぎり削除しよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、1頁)。
平成26年11月22日、毛利太。
2014年11月20日木曜日
「は」と「が」(排他的命題)。
(01)
A={1,2,3}
B={1,3,2}
C={4,6,8,10}
D={5,7,8,9,11}
は、「集合」である。
従って、
(01)により、
(02)
ⅹが集合Aの要素であれば、ⅹは集合Bの要素であり、逆に、
ⅹが集合Bの要素であれば、ⅹは集合Aの要素である。
従って、
(02)により、
(03)
Aならば、Bであり、Bならば、Aである。
然るに、
(04)
Bならば、Aである。
の「対偶」は、
Aでないならば、Bでない。
従って、
(03)(04)により、
(05)
Aならば、Bであり、Aでないならば、Bでない。
然るに、
(06)
Aでないならば、Bでない=
A以外はBでない(排他的命題)。
従って、
(03)~(06)により、
(07)
① Aならば、Bであり、Bならば、Aである。
② Aならば、Bであり、A以外は、Bでない。
③ Aならば、Bであり、AでないならばBでない。
に於いて、
①=②=③
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(08)
A={1,2,3}
B={1,2,3}
C={4,6,8,10}
D={5,7,8,9,11}
であれば、
CはBでなく、
DもBでなく、∴
AがBである。は、「真(本当)」である。
然るに、
(09)
A={1,2,3}
B={1,2,3}
C={1,2,3}
D={4,6,8,10}
E={5,7,8,9,11}
であれば、
A={1,2,3}
B={1,2,3}
であって、尚且つ、
C={1,2,3}
B={1,2,3}
であるため、すなはち、
CもBであるため、∴
A以外はBでない。
といふ「排他的命題」は、「偽(ウソ)」である。
加へて、
(09)により、
(10)
A={1,2,3}
B={1,2,3}
であって、尚且つ、
C={1,2,3}
B={1,2,3}
であるため、∴
AがBである。は、「偽(ウソ)」である。
従って、
(07)~(10)により、
(11)
② Aならば、Bであり、A以外は、Bでない。
といふ「排他的命題」が、「真(本当)」である。ならば、その時に限って、
④ AがBである。
といふ「日本語」は、「真(本当)」である。
従って、
(07)(11)により、
(12)
① Aならば、Bであり、Bならば、Aである。
② Aならば、Bであり、A以外は、Bでない。
③ Aならば、Bであり、AでないならばBでない。
④ AがBである。
に於いて、
①=②=③=④
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(12)により、
(13)
① aがⅹである=
② aはⅹであり、ⅹはbである=
③ aはⅹであり、a以外はⅹでない。
従って、
(13)により、
(14)
① 鈴木が社長です。
といふ風に、言へる。のであれば、
② 社長は鈴木です=
③ 鈴木以外に社長はゐない。
と言へる、「必要」がある。
従って、
(14)により。
(15)
① 人間が動物である。
といふ風に、言へる。のであれば、
② 動物は人間である=
③ 人間以外に動物はゐない。
と言へる、「必要」がある。
然るに、
(16)
② 動物は人間である=
③ 人間以外に動物はゐない。
とは、言へない。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
① 人間が動物である=
② 動物は人間である=
③ 人間以外は動物ではない。
とは言へず、普通は、
① 人間は動物である。
といふ、ことになる。
従って、
(01)~(17)により、
(18)
① 人間が動物である。
と言へない「理由」は、
② 動物は人間である=
③ 人間以外は動物ではない。
といふ「命題」が、「偽(ウソ)」であるからである。
従って、
(18)により、
(19)
高校に通ってる者です(astro_walkersさん:2011/11/420:47:11)。
英語の授業で「日本語は非論理的で英語は論理的な言語だ。」ということをやりました。助詞「は」/「が」が日本語があいまいで非論理的あるという根拠のうちの一つ。
とあるものの、
助詞「は」/「が」が日本語があいまいで非論理的ある。
といふ「言ひ方自体」が、私には、「理解できない」。
(20)
「学校の教師が言っていたから正しい」なんてことは当然ありません。
権威に惑わされず、自分の頭で考えるようにしてください(miso00juiceさん)。
といふ「言ひ方」こそが、正しい。
平成26年11月20日、毛利太。
A={1,2,3}
B={1,3,2}
C={4,6,8,10}
D={5,7,8,9,11}
は、「集合」である。
従って、
(01)により、
(02)
ⅹが集合Aの要素であれば、ⅹは集合Bの要素であり、逆に、
ⅹが集合Bの要素であれば、ⅹは集合Aの要素である。
従って、
(02)により、
(03)
Aならば、Bであり、Bならば、Aである。
然るに、
(04)
Bならば、Aである。
の「対偶」は、
Aでないならば、Bでない。
従って、
(03)(04)により、
(05)
Aならば、Bであり、Aでないならば、Bでない。
然るに、
(06)
Aでないならば、Bでない=
A以外はBでない(排他的命題)。
従って、
(03)~(06)により、
(07)
① Aならば、Bであり、Bならば、Aである。
② Aならば、Bであり、A以外は、Bでない。
③ Aならば、Bであり、AでないならばBでない。
に於いて、
①=②=③
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(08)
A={1,2,3}
B={1,2,3}
C={4,6,8,10}
D={5,7,8,9,11}
であれば、
CはBでなく、
DもBでなく、∴
AがBである。は、「真(本当)」である。
然るに、
(09)
A={1,2,3}
B={1,2,3}
C={1,2,3}
D={4,6,8,10}
E={5,7,8,9,11}
であれば、
A={1,2,3}
B={1,2,3}
であって、尚且つ、
C={1,2,3}
B={1,2,3}
であるため、すなはち、
CもBであるため、∴
A以外はBでない。
といふ「排他的命題」は、「偽(ウソ)」である。
加へて、
(09)により、
(10)
A={1,2,3}
B={1,2,3}
であって、尚且つ、
C={1,2,3}
B={1,2,3}
であるため、∴
AがBである。は、「偽(ウソ)」である。
従って、
(07)~(10)により、
(11)
② Aならば、Bであり、A以外は、Bでない。
といふ「排他的命題」が、「真(本当)」である。ならば、その時に限って、
④ AがBである。
といふ「日本語」は、「真(本当)」である。
従って、
(07)(11)により、
(12)
① Aならば、Bであり、Bならば、Aである。
② Aならば、Bであり、A以外は、Bでない。
③ Aならば、Bであり、AでないならばBでない。
④ AがBである。
に於いて、
①=②=③=④
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(12)により、
(13)
① aがⅹである=
② aはⅹであり、ⅹはbである=
③ aはⅹであり、a以外はⅹでない。
従って、
(13)により、
(14)
① 鈴木が社長です。
といふ風に、言へる。のであれば、
② 社長は鈴木です=
③ 鈴木以外に社長はゐない。
と言へる、「必要」がある。
従って、
(14)により。
(15)
① 人間が動物である。
といふ風に、言へる。のであれば、
② 動物は人間である=
③ 人間以外に動物はゐない。
と言へる、「必要」がある。
然るに、
(16)
② 動物は人間である=
③ 人間以外に動物はゐない。
とは、言へない。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
① 人間が動物である=
② 動物は人間である=
③ 人間以外は動物ではない。
とは言へず、普通は、
① 人間は動物である。
といふ、ことになる。
従って、
(01)~(17)により、
(18)
① 人間が動物である。
と言へない「理由」は、
② 動物は人間である=
③ 人間以外は動物ではない。
といふ「命題」が、「偽(ウソ)」であるからである。
従って、
(18)により、
(19)
高校に通ってる者です(astro_walkersさん:2011/11/420:47:11)。
英語の授業で「日本語は非論理的で英語は論理的な言語だ。」ということをやりました。助詞「は」/「が」が日本語があいまいで非論理的あるという根拠のうちの一つ。
とあるものの、
助詞「は」/「が」が日本語があいまいで非論理的ある。
といふ「言ひ方自体」が、私には、「理解できない」。
(20)
「学校の教師が言っていたから正しい」なんてことは当然ありません。
権威に惑わされず、自分の頭で考えるようにしてください(miso00juiceさん)。
といふ「言ひ方」こそが、正しい。
平成26年11月20日、毛利太。
2014年11月19日水曜日
「不敢」について。
(01)
(参考)
三浦吉明教諭は「「不敢(あへて・・・ず)」の解釈について」(「漢文教室」第一五四号、一九八六・六)において、次のような問題提起をした。
1.市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。
2.西田太一郎『漢文の語法』(角川書店)では、これを次のように説明しており、「目からうろこが落ちた気持ちになった。」
以下は、西田氏の説明を三浦教諭が要約したものである。
「敢」の訳しかたは場面に合わせて様々な可能性がある。
仮に「敢」が「勇気を出して~~する」の時は、「不敢~~」はそれの否定であるから「勇気を出して~~することをしない」「~~するだけの勇気がない」となる。
このように「不敢」の形を正しくつかむと、「はばかって~~しない」「決して~~しない」「どうしても~~まい」は誤りである。(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、81頁)。
然るに、
(02)
私自身は、
① 敢告。
② 敢不告。
③ 不敢告。
④ 不敢不告。
といふ「漢文」を、
①「告げたい気持ち」が、「告げたくない気持ち」を、上回るので、 「告げる」。 ⇒「積極的」。
②「告げたくない気持ち」が、「告げたい気持ち」を、上回るので、 「告げない」。⇒「積極的」。
③「告げたい気持ち」が、「告げたくない気持ち」を、上回らないので、「告げない」。⇒「消極的」。
④「告げたくない気持ち」が、「告げたい気持ち」を、上回らないので、「告げる」。 ⇒「消極的」。
といふ風に、理解したい。
従って、
(03)
① 敢告。
④ 不敢不告。
は、両方とも、「結果」としては、
① 告げる。
④ 告げる。
であるが、ただし、、
① は、「積極的に、告げる」のであって、
④ は、「消極的に、告げる」ことになる。
(04)
② 敢不告。
③ 不敢告。
の場合も、両方とも、「結果」としては、
② 告げない。
③ 告げない。
であるが、ただし、
② は、「積極的に、告げない」のであって、
③ は、「消極的に、告げない」ことになる。
従って、
(02)により、
(05)
③ 不敢視。
であれば、
③「視たい気持ち」が、「視たくない気持ち」を、上回らないので、「視ない」。⇒「消極的」。
であるものの、この時、「視たい気持ち」が、「とても強い」のであれば、
③「視たい気持ち」が、強いのに、「視れない(視ることが出来ない)」。
と、すべきである。
従って、
(05)により、
(06)
昆弟妻嫂側目不敢視=
昆弟妻嫂目を側目めて敢へて視ず(十八史略)。
に於ける、
③ 不敢視=(視たいけれど、)視れない。
といふ「語句」を、
見ることが出来なかった(日英社、要説 十八史略・史記、1970年、147頁)。
と訳してゐることは、「納得がいく」。
加へて、
(02)により、
(07)
④ 不敢不告。
であれば、
④「告げたくない気持ち」が、「告げたい気持ち」を、上回らないので、「告げる」。⇒「消極的」。
であるものの、さうであれば、
④ 不敢不知=(今、この時点で、知らせたくない気持ちが、知らせたい気持ちを上回らない)ので、知らせることを、(やむを得ず)決意した。といふ「文脈」で、
④ 不敢不告。
と言ふことは、「理に適ってゐる」。
従って、
(07)により、
(08)
〔例文〕110
事已至此。不敢不告=事已に此に至る。敢へて告げずんばあらず。
(事態がもはやここまできてしまった。思いきって知らせないではいられない。)[日本外史](昇龍堂、漢文公式と問題正解法、1997年、46版、59頁)。
に於ける、
④ 事已至此。不敢不告.
といふ、書き方は、「理に適ってゐる」。
然るに、
(02)により、
(09)
①「告げたい気持ち」が、「告げたくない気持ち」を、上回るので、 「告げる」。
の「否定」は、
③「告げたい気持ち」が、「告げたくない気持ち」を、上回らないので、「告げない」。
であって、
②「告げたくない気持ち」が、「告げたい気持ち」を、上回るので、 「告げない」。
の「否定」は、
④「告げたくない気持ち」が、「告げたい気持ち」を、上回らないので、「告げる」。
である。
すなはち、
(10)
① 敢告。 の「否定」は、
③ 不敢告。 であって、
② 敢不告。の「否定」は、
④ 不敢不告。である。
然るに、
(11)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ 不敢言。
に関しては、
③ 不(敢言)。
である。ことに、なる。
従って、
(11)(12)により、
(13)
⑤ 非不敢言。=
⑤ 非〔不(敢言)〕⇒
⑤〔(敢言)不〕非=
⑤〔(敢へて言は)不るに〕非ず。
であるものの、このことは、
③「言たい気持ち」が、「言たくない気持ち」を、上回らないので、「言はない」。⇒「消極的」。
の「否定」が、
⑤ 非〔不(敢言)〕。
である。ことになる。
従って、
(02)(13)により、
(14)
③ 不敢言 = (消極的に、言は)ない。
の「否定」は、
⑤ 非不敢言=((消極的に、言は)ない)のではない。
といふ、ことになる
従って、
(14)により、
(15)
〔問題(笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、61頁)〕は、
⑥ 我非不敢言、乃不肯言爾=
⑥ 我非〔不〔敢(言)〕、乃不〔肯(言)〕爾⇒
⑥ 我〔〔敢へて(言は)不るに〕非ず、乃ち〔(言ふを)肯ぜ〕不るのみ=
⑥ 私は((消極的に、言は)ない)のではない。すなはち、言ふことを、良しとしないが故に、言はないだけだ。
といふ、「意味」になる。
cf.
【肯】(意味)①(動詞)がえんずる。うなずく。また、承知する。「肯定」→(語法②)
②「不肯」は、「~するをがんぜず」とよみ、「~することを承知しない」と訳す。
(学研、改訂新版 漢字源、2002年、710頁)
(16)
端的に言ふと、
⑥ 我非不敢言、乃不肯言爾≒
⑥ 言ひたいけれど言はないのではなく、言ひたくないから言はないのだ。
といふ、ことになる。
(06)により、
(17)
⑧ 不敢背=(背きたくとも、)背けない。
であるものの、
⑧(背きたくとも、)背けない⇒
⑧(決して、)背かない。
である。はずである。
従って、
(17)により、
(18)
⑧ 沛公不敢背項王=
⑧ 沛公は(決して、)項王に背かない。
といふ、ことになる。
従って、
(18)により、
(19)
1.市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。
としても、「不都合」は、ない。
平成26年11月19日、毛利太。
(参考)
三浦吉明教諭は「「不敢(あへて・・・ず)」の解釈について」(「漢文教室」第一五四号、一九八六・六)において、次のような問題提起をした。
1.市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。
2.西田太一郎『漢文の語法』(角川書店)では、これを次のように説明しており、「目からうろこが落ちた気持ちになった。」
以下は、西田氏の説明を三浦教諭が要約したものである。
「敢」の訳しかたは場面に合わせて様々な可能性がある。
仮に「敢」が「勇気を出して~~する」の時は、「不敢~~」はそれの否定であるから「勇気を出して~~することをしない」「~~するだけの勇気がない」となる。
このように「不敢」の形を正しくつかむと、「はばかって~~しない」「決して~~しない」「どうしても~~まい」は誤りである。(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、81頁)。
然るに、
(02)
私自身は、
① 敢告。
② 敢不告。
③ 不敢告。
④ 不敢不告。
といふ「漢文」を、
①「告げたい気持ち」が、「告げたくない気持ち」を、上回るので、 「告げる」。 ⇒「積極的」。
②「告げたくない気持ち」が、「告げたい気持ち」を、上回るので、 「告げない」。⇒「積極的」。
③「告げたい気持ち」が、「告げたくない気持ち」を、上回らないので、「告げない」。⇒「消極的」。
④「告げたくない気持ち」が、「告げたい気持ち」を、上回らないので、「告げる」。 ⇒「消極的」。
といふ風に、理解したい。
従って、
(03)
① 敢告。
④ 不敢不告。
は、両方とも、「結果」としては、
① 告げる。
④ 告げる。
であるが、ただし、、
① は、「積極的に、告げる」のであって、
④ は、「消極的に、告げる」ことになる。
(04)
② 敢不告。
③ 不敢告。
の場合も、両方とも、「結果」としては、
② 告げない。
③ 告げない。
であるが、ただし、
② は、「積極的に、告げない」のであって、
③ は、「消極的に、告げない」ことになる。
従って、
(02)により、
(05)
③ 不敢視。
であれば、
③「視たい気持ち」が、「視たくない気持ち」を、上回らないので、「視ない」。⇒「消極的」。
であるものの、この時、「視たい気持ち」が、「とても強い」のであれば、
③「視たい気持ち」が、強いのに、「視れない(視ることが出来ない)」。
と、すべきである。
従って、
(05)により、
(06)
昆弟妻嫂側目不敢視=
昆弟妻嫂目を側目めて敢へて視ず(十八史略)。
に於ける、
③ 不敢視=(視たいけれど、)視れない。
といふ「語句」を、
見ることが出来なかった(日英社、要説 十八史略・史記、1970年、147頁)。
と訳してゐることは、「納得がいく」。
加へて、
(02)により、
(07)
④ 不敢不告。
であれば、
④「告げたくない気持ち」が、「告げたい気持ち」を、上回らないので、「告げる」。⇒「消極的」。
であるものの、さうであれば、
④ 不敢不知=(今、この時点で、知らせたくない気持ちが、知らせたい気持ちを上回らない)ので、知らせることを、(やむを得ず)決意した。といふ「文脈」で、
④ 不敢不告。
と言ふことは、「理に適ってゐる」。
従って、
(07)により、
(08)
〔例文〕110
事已至此。不敢不告=事已に此に至る。敢へて告げずんばあらず。
(事態がもはやここまできてしまった。思いきって知らせないではいられない。)[日本外史](昇龍堂、漢文公式と問題正解法、1997年、46版、59頁)。
に於ける、
④ 事已至此。不敢不告.
といふ、書き方は、「理に適ってゐる」。
然るに、
(02)により、
(09)
①「告げたい気持ち」が、「告げたくない気持ち」を、上回るので、 「告げる」。
の「否定」は、
③「告げたい気持ち」が、「告げたくない気持ち」を、上回らないので、「告げない」。
であって、
②「告げたくない気持ち」が、「告げたい気持ち」を、上回るので、 「告げない」。
の「否定」は、
④「告げたくない気持ち」が、「告げたい気持ち」を、上回らないので、「告げる」。
である。
すなはち、
(10)
① 敢告。 の「否定」は、
③ 不敢告。 であって、
② 敢不告。の「否定」は、
④ 不敢不告。である。
然るに、
(11)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ 不敢言。
に関しては、
③ 不(敢言)。
である。ことに、なる。
従って、
(11)(12)により、
(13)
⑤ 非不敢言。=
⑤ 非〔不(敢言)〕⇒
⑤〔(敢言)不〕非=
⑤〔(敢へて言は)不るに〕非ず。
であるものの、このことは、
③「言たい気持ち」が、「言たくない気持ち」を、上回らないので、「言はない」。⇒「消極的」。
の「否定」が、
⑤ 非〔不(敢言)〕。
である。ことになる。
従って、
(02)(13)により、
(14)
③ 不敢言 = (消極的に、言は)ない。
の「否定」は、
⑤ 非不敢言=((消極的に、言は)ない)のではない。
といふ、ことになる
従って、
(14)により、
(15)
〔問題(笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、61頁)〕は、
⑥ 我非不敢言、乃不肯言爾=
⑥ 我非〔不〔敢(言)〕、乃不〔肯(言)〕爾⇒
⑥ 我〔〔敢へて(言は)不るに〕非ず、乃ち〔(言ふを)肯ぜ〕不るのみ=
⑥ 私は((消極的に、言は)ない)のではない。すなはち、言ふことを、良しとしないが故に、言はないだけだ。
といふ、「意味」になる。
cf.
【肯】(意味)①(動詞)がえんずる。うなずく。また、承知する。「肯定」→(語法②)
②「不肯」は、「~するをがんぜず」とよみ、「~することを承知しない」と訳す。
(学研、改訂新版 漢字源、2002年、710頁)
(16)
端的に言ふと、
⑥ 我非不敢言、乃不肯言爾≒
⑥ 言ひたいけれど言はないのではなく、言ひたくないから言はないのだ。
といふ、ことになる。
(06)により、
(17)
⑧ 不敢背=(背きたくとも、)背けない。
であるものの、
⑧(背きたくとも、)背けない⇒
⑧(決して、)背かない。
である。はずである。
従って、
(17)により、
(18)
⑧ 沛公不敢背項王=
⑧ 沛公は(決して、)項王に背かない。
といふ、ことになる。
従って、
(18)により、
(19)
1.市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。
としても、「不都合」は、ない。
平成26年11月19日、毛利太。
2014年11月16日日曜日
三重否定(非_無_不)。
(01)
① 生徒は、必ず、教師に及ばない。
② 教師であって、生徒に及ばない者はゐない。
といふ「日本語」を、「漢文」で書くと、
① 生徒必不如教師=生徒は必ず、教師に如かず。
② 無教師不如生徒=教師として生徒に如かざるは無し。
然るに、
(02)
① 生徒必不如教師。
の「否定」は、
③ 生徒不必不如教師=
③ 生徒不[必不〔如(教師)〕]⇒
③ 生徒[必〔(教師)如〕不]不=
③ 生徒は[必ずしも〔(教師に)如か〕不んばあら]不=
③ 生徒は[必ずしも〔(教師に)及ば〕ないといふことは]ない。
(03)
② 無教師不如生徒。
の「否定」は、
④ 非無教師不如生徒者=
④ 非{無[教師不〔如(生徒)〕者]}⇒
④ 非{無[教師不〔如(生徒)〕者]}=
④ {[教師〔(生徒)如〕不者]無}非=
④ {[教師として〔(生徒に)如か〕不る者]無き}非ず=
④ {教師であって〔(生徒に)及ば〕ない者が]ゐないわけでは}ない。
然るに、
(04)
① 生徒は、必ず、教師に及ばない。
② 教師であって、生徒に及ばない者はゐない。
に於いて、
①は、②の「言ひ換へ」であって、
③ 生徒は必ずしも教師に及ばないといふことはない。
④ 教師であって生徒に及ばない者がゐないわけではない。
に於いて、
③は、④の「言ひ換へ」である。
然るに、
(05)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(02)~(05)により、
(06)
① = ②
~(①)=~(②)
であるものの、このことを、「等値の対偶則」といふ。
従って、
(04)(06)により、
(07)
① 生徒必不如教師=生徒は必ず、教師に如かず。
② 無教師不如生徒=教師として生徒に如かざるは無し。
③ 生徒不必不如教師 =生徒は必ずしも教師に如か不んばあら不。
④ 非無教師不如生徒者=教師にして生徒に如か不る者無きに非ず。
といふ、
① 壱重否定。
② 弐重否定。
③ 弐重否定。
④ 参重否定。
は、「左辺(漢文)」も、「右辺(訓読)」も、両方とも、「論理学的」である。
従って、
(08)
① 壱重否定。
② 弐重否定。
③ 弐重否定。
④ 参重否定。
に於いて、「左辺(漢文)」だけが、「論理学的」である。
とは、言へない。
従って、
(08)により、
(09)
でも、私はそんなことは無い!!と強く言いたいです!!
「日本語は非論理的で英語は論理的な言語だ。」
という主張を完膚なきまでに論破したいです><;
に対する「ベストアンサー(hjghnmdm85さん)」=
日本語(倭語)は江戸時代までは和歌や小説専門の言語でした。論理的な文章は全て漢語で書いています。今の日本語は漢語の要素を多大に取り入れているとはいえ、元がこれではそもそも論理的なわけがありません。これも歴史を学べばわかります。
は、マチガイです。
(10)
英語が、「論理的」かどうかといふ「質問」を、
英語は、「論理学的」かといふ「質問」に変へるならば、明らかに、No.であると、断言できます。
(11)
つまりは、「英語」は、「論理的」であったとしても、すくなくとも、「漢文訓読」に比べたら、明らかに、「論理学的」では、ありません。
(12)
11月08日の記事でも、書いたやうに、「二重否定」さえ、まともに表現できない「英語」が、「論理学的」であるはずが、ありません。
平成26年11月16日、毛利太。
① 生徒は、必ず、教師に及ばない。
② 教師であって、生徒に及ばない者はゐない。
といふ「日本語」を、「漢文」で書くと、
① 生徒必不如教師=生徒は必ず、教師に如かず。
② 無教師不如生徒=教師として生徒に如かざるは無し。
然るに、
(02)
① 生徒必不如教師。
の「否定」は、
③ 生徒不必不如教師=
③ 生徒不[必不〔如(教師)〕]⇒
③ 生徒[必〔(教師)如〕不]不=
③ 生徒は[必ずしも〔(教師に)如か〕不んばあら]不=
③ 生徒は[必ずしも〔(教師に)及ば〕ないといふことは]ない。
(03)
② 無教師不如生徒。
の「否定」は、
④ 非無教師不如生徒者=
④ 非{無[教師不〔如(生徒)〕者]}⇒
④ 非{無[教師不〔如(生徒)〕者]}=
④ {[教師〔(生徒)如〕不者]無}非=
④ {[教師として〔(生徒に)如か〕不る者]無き}非ず=
④ {教師であって〔(生徒に)及ば〕ない者が]ゐないわけでは}ない。
然るに、
(04)
① 生徒は、必ず、教師に及ばない。
② 教師であって、生徒に及ばない者はゐない。
に於いて、
①は、②の「言ひ換へ」であって、
③ 生徒は必ずしも教師に及ばないといふことはない。
④ 教師であって生徒に及ばない者がゐないわけではない。
に於いて、
③は、④の「言ひ換へ」である。
然るに、
(05)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(02)~(05)により、
(06)
① = ②
~(①)=~(②)
であるものの、このことを、「等値の対偶則」といふ。
従って、
(04)(06)により、
(07)
① 生徒必不如教師=生徒は必ず、教師に如かず。
② 無教師不如生徒=教師として生徒に如かざるは無し。
③ 生徒不必不如教師 =生徒は必ずしも教師に如か不んばあら不。
④ 非無教師不如生徒者=教師にして生徒に如か不る者無きに非ず。
といふ、
① 壱重否定。
② 弐重否定。
③ 弐重否定。
④ 参重否定。
は、「左辺(漢文)」も、「右辺(訓読)」も、両方とも、「論理学的」である。
従って、
(08)
① 壱重否定。
② 弐重否定。
③ 弐重否定。
④ 参重否定。
に於いて、「左辺(漢文)」だけが、「論理学的」である。
とは、言へない。
従って、
(08)により、
(09)
でも、私はそんなことは無い!!と強く言いたいです!!
「日本語は非論理的で英語は論理的な言語だ。」
という主張を完膚なきまでに論破したいです><;
に対する「ベストアンサー(hjghnmdm85さん)」=
日本語(倭語)は江戸時代までは和歌や小説専門の言語でした。論理的な文章は全て漢語で書いています。今の日本語は漢語の要素を多大に取り入れているとはいえ、元がこれではそもそも論理的なわけがありません。これも歴史を学べばわかります。
は、マチガイです。
(10)
英語が、「論理的」かどうかといふ「質問」を、
英語は、「論理学的」かといふ「質問」に変へるならば、明らかに、No.であると、断言できます。
(11)
つまりは、「英語」は、「論理的」であったとしても、すくなくとも、「漢文訓読」に比べたら、明らかに、「論理学的」では、ありません。
(12)
11月08日の記事でも、書いたやうに、「二重否定」さえ、まともに表現できない「英語」が、「論理学的」であるはずが、ありません。
平成26年11月16日、毛利太。
2014年11月15日土曜日
二重否定(不敢不_)。
― この「記事」は、『「敢へて」について。』として、もうすぐ、書き換へます。―
(01)
あえて【敢えて】(副)①しいて、無理に dare(旺文社、英訳つき国語総合新辞典、1998年)
従って、
(02)
① 敢へて言ふ =(言ひたくないけれど)言ふ。
② 敢へて言はず=(言ひたいけれど)言はない。
従って、
(02)により、
(03)
① 言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを、上回ってゐる。
② 言ひたくない気持ちが、言ひたい気持ちを、上回ってゐる。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 敢言 =敢へて言ふ。
② 敢不言=敢へて言はず。
であらならば、二つの「否定」は、
① 不(敢言) =(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを、上回ってゐ)ないので、言はない。
② 不(敢不言)=(言ひたくない気持ちが、言ひたい気持ちを、上回ってゐ)ないので、言ふ。
然るに、
(05)
(言ひたくない気持ちが、言ひたい気持ちを、上回ってゐ)ない=
(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを、上回ってゐる)。
従って、
(04)(05)により、
(06)
② 不(敢不言)=(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを、上回ってゐる)ので言ふ。
従って、
(06)により、
(07)
② 不(敢不言)=(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを、上回ってゐる)ので言ふ。
③ 不(敢不告)=(告げたい気持ちが、告げたくない気持ちを、上回ってゐる)ので告げる。
④ 不(敢不知)=(知らせたい気持ちが、知らせたくない気持ちを、上回ってゐる)ので知らせる。
に於いて、
②=③=④
である。と、する。
従って、
(07)により、
(08)
④ 不(敢不知)=(今迄は、迷ってゐたが、知らせたい気持ちが、知らせたくない気持ちを、上回った)ので知らせる。ことを、決意した。といふ「文脈」で、
③ 不(敢不告)。
と言ふことは、「理に適ってゐる」。
然るに、
(09)
〔例文〕110
事已至此。不敢不告=事已に此に至る。敢へて告げずんばあらず。
(事態がもはやここまできてしまった。思いきって知らせないではいられない。)[日本外史]
(昇龍堂、漢文公式と問題正解法、1997年、46版、59頁)。
従って、
(01)~(09)により、
(10)
③ 不(敢不告)=(告げたい気持ちが、告げたくない気持ちを、上回ってゐる)ので告げる。
といふ「等式」は、「正しい」。
従って、
(10)により、
(11)
③ 不敢不告。
といふ「二重否定」には、少なくとも、
③ 不(敢不告)。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
然るに、
(12)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。とする、W.O.クワインであれば、
③ 不(敢不(告))。
とすることに、賛成しない、はずがない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
少なくとも、「論理的」には、
③ 不敢不告=
③ 不(敢不(告))⇒
③(敢(告)不) 不=
③(敢へて(告げ)不んばあら) 不。
といふ「括弧」は、有ります!。
従って、
(14)
「括弧」は、「実在」であるため、「単なる、返り点の代用」では、なく、むしろ、
③ 不敢不告。
に於ける、
③ 二 一レ 。
といふ「返り点」は、
③〔( )〕。
といふ「括弧」の、「代用」である。
平成26年11月15日、毛利太。
(01)
あえて【敢えて】(副)①しいて、無理に dare(旺文社、英訳つき国語総合新辞典、1998年)
従って、
(02)
① 敢へて言ふ =(言ひたくないけれど)言ふ。
② 敢へて言はず=(言ひたいけれど)言はない。
従って、
(02)により、
(03)
① 言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを、上回ってゐる。
② 言ひたくない気持ちが、言ひたい気持ちを、上回ってゐる。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 敢言 =敢へて言ふ。
② 敢不言=敢へて言はず。
であらならば、二つの「否定」は、
① 不(敢言) =(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを、上回ってゐ)ないので、言はない。
② 不(敢不言)=(言ひたくない気持ちが、言ひたい気持ちを、上回ってゐ)ないので、言ふ。
然るに、
(05)
(言ひたくない気持ちが、言ひたい気持ちを、上回ってゐ)ない=
(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを、上回ってゐる)。
従って、
(04)(05)により、
(06)
② 不(敢不言)=(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを、上回ってゐる)ので言ふ。
従って、
(06)により、
(07)
② 不(敢不言)=(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを、上回ってゐる)ので言ふ。
③ 不(敢不告)=(告げたい気持ちが、告げたくない気持ちを、上回ってゐる)ので告げる。
④ 不(敢不知)=(知らせたい気持ちが、知らせたくない気持ちを、上回ってゐる)ので知らせる。
に於いて、
②=③=④
である。と、する。
従って、
(07)により、
(08)
④ 不(敢不知)=(今迄は、迷ってゐたが、知らせたい気持ちが、知らせたくない気持ちを、上回った)ので知らせる。ことを、決意した。といふ「文脈」で、
③ 不(敢不告)。
と言ふことは、「理に適ってゐる」。
然るに、
(09)
〔例文〕110
事已至此。不敢不告=事已に此に至る。敢へて告げずんばあらず。
(事態がもはやここまできてしまった。思いきって知らせないではいられない。)[日本外史]
(昇龍堂、漢文公式と問題正解法、1997年、46版、59頁)。
従って、
(01)~(09)により、
(10)
③ 不(敢不告)=(告げたい気持ちが、告げたくない気持ちを、上回ってゐる)ので告げる。
といふ「等式」は、「正しい」。
従って、
(10)により、
(11)
③ 不敢不告。
といふ「二重否定」には、少なくとも、
③ 不(敢不告)。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
然るに、
(12)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。とする、W.O.クワインであれば、
③ 不(敢不(告))。
とすることに、賛成しない、はずがない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
少なくとも、「論理的」には、
③ 不敢不告=
③ 不(敢不(告))⇒
③(敢(告)不) 不=
③(敢へて(告げ)不んばあら) 不。
といふ「括弧」は、有ります!。
従って、
(14)
「括弧」は、「実在」であるため、「単なる、返り点の代用」では、なく、むしろ、
③ 不敢不告。
に於ける、
③ 二 一レ 。
といふ「返り点」は、
③〔( )〕。
といふ「括弧」の、「代用」である。
平成26年11月15日、毛利太。
2014年11月13日木曜日
「不敢視」について。
(01)
「日本語」では、
敢へて言ふ=(言ひたくないけれど)敢へて言ふ。
cf.
あえて【敢えて】(副)①しいて、無理に dare(旺文社、英訳つき国語総合新辞典、1998年)
然るに、
(02)
言ひたくないけれど言ふ。
といふことは、
言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを上回ってゐる。
といふことに、他ならない。
従って、
(03)
「漢文」と、「日本語(訓読)」に於いて、
敢言=敢へて言ふ。
であるならば、その「否定」は、
不敢言=(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを上回らないので、)言はない。
といふ、ことになる。
従って、
(03)により、
(04)
不敢言=(言ひたいけれど、)言はない。
然るに、
(05)
言ひたい気持ちが大きい場合は、
不敢言=(言ひたいけれど、)言はない。
といふよりも、
不敢言=(言ひたいけれど、)言へない。
と、すべきである。
従って、
(05)により、
(06)
不敢視=(視たいけれど、)視れない。
従って、
(06)により、
(07)
昆弟妻嫂側目不敢視=
昆弟妻嫂目を側目めて敢へて視ず(十八史略)。
の、
不敢視=(視たいけれど、)視れない。
を、
見ることができなかった(日英社、要説 十八史略・史記、1970年、147頁)。
と訳してゐることは、納得がいく。
然るに、
(08)
不敢視=(視たいけれど、)視れない。
の、
視れない。
は、普通であれば、
不能視=視れない。
従って、
(08)により、
(09)
敢視=能視
従って、
(09)により、
(10)
莫敢仰視=莫能仰視
従って、
(10)により、
(11)
左右皆泣莫敢仰視=
左右皆泣莫能仰視
であるものの、私が、今日まで、記憶してゐたのは、
左右皆泣莫敢仰視(笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、60頁)。
ではなく、
左右皆泣莫能仰視(旺文社、漢文の基礎、1973年、259頁)。
である。
(12)
といふわけで、何が言ひたいのか言ふと、
以前から、このやうな場合の「敢(dare)」には、「能(can)」といふ「意味合ひ(ニュアンス)」があるはずであると、思ってゐたところ、奇しくも、
莫敢(笠間書院、60頁)=
莫能 (旺文社、 259頁)
によって、それが、今日、確かめられた。といふことである。
然るに、
(13)
言ひたい気持ちが大きい場合は、
不敢言=(言ひたいけれど、)言はない。
といふよりも、
不敢言=(言ひたいけれど、)言へない。
と、すべきである。
という風に、私をして、思はしめたのは、「私の、日本語の語感」である。
然るに、
(14)
「敢」といふ漢字を、グーグル翻訳にかけると、
「敢」⇒「Dare」
である。
従って、
(13)(14)により、
(15)
あるいは、中国語ネイティブの方たちも、
言ひたい気持ちが大きい場合は、
不敢視=(視たいけれど、)視ない。
といふよりも、
不敢視=(視たいけれど、)視れない。
と、すべきである。といふ風に、思はれるのかも、知れない(?)。
cf.
至是為従約長併相六国。行過洛陽。車騎輜重、擬於王者。昆弟妻嫂、側目不敢視(十八史略、蘇秦・張儀、合従連衡)。
平成26年11月13日、毛利太。
「日本語」では、
敢へて言ふ=(言ひたくないけれど)敢へて言ふ。
cf.
あえて【敢えて】(副)①しいて、無理に dare(旺文社、英訳つき国語総合新辞典、1998年)
然るに、
(02)
言ひたくないけれど言ふ。
といふことは、
言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを上回ってゐる。
といふことに、他ならない。
従って、
(03)
「漢文」と、「日本語(訓読)」に於いて、
敢言=敢へて言ふ。
であるならば、その「否定」は、
不敢言=(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを上回らないので、)言はない。
といふ、ことになる。
従って、
(03)により、
(04)
不敢言=(言ひたいけれど、)言はない。
然るに、
(05)
言ひたい気持ちが大きい場合は、
不敢言=(言ひたいけれど、)言はない。
といふよりも、
不敢言=(言ひたいけれど、)言へない。
と、すべきである。
従って、
(05)により、
(06)
不敢視=(視たいけれど、)視れない。
従って、
(06)により、
(07)
昆弟妻嫂側目不敢視=
昆弟妻嫂目を側目めて敢へて視ず(十八史略)。
の、
不敢視=(視たいけれど、)視れない。
を、
見ることができなかった(日英社、要説 十八史略・史記、1970年、147頁)。
と訳してゐることは、納得がいく。
然るに、
(08)
不敢視=(視たいけれど、)視れない。
の、
視れない。
は、普通であれば、
不能視=視れない。
従って、
(08)により、
(09)
敢視=能視
従って、
(09)により、
(10)
莫敢仰視=莫能仰視
従って、
(10)により、
(11)
左右皆泣莫敢仰視=
左右皆泣莫能仰視
であるものの、私が、今日まで、記憶してゐたのは、
左右皆泣莫敢仰視(笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、60頁)。
ではなく、
左右皆泣莫能仰視(旺文社、漢文の基礎、1973年、259頁)。
である。
(12)
といふわけで、何が言ひたいのか言ふと、
以前から、このやうな場合の「敢(dare)」には、「能(can)」といふ「意味合ひ(ニュアンス)」があるはずであると、思ってゐたところ、奇しくも、
莫敢(笠間書院、60頁)=
莫能 (旺文社、 259頁)
によって、それが、今日、確かめられた。といふことである。
然るに、
(13)
言ひたい気持ちが大きい場合は、
不敢言=(言ひたいけれど、)言はない。
といふよりも、
不敢言=(言ひたいけれど、)言へない。
と、すべきである。
という風に、私をして、思はしめたのは、「私の、日本語の語感」である。
然るに、
(14)
「敢」といふ漢字を、グーグル翻訳にかけると、
「敢」⇒「Dare」
である。
従って、
(13)(14)により、
(15)
あるいは、中国語ネイティブの方たちも、
言ひたい気持ちが大きい場合は、
不敢視=(視たいけれど、)視ない。
といふよりも、
不敢視=(視たいけれど、)視れない。
と、すべきである。といふ風に、思はれるのかも、知れない(?)。
cf.
至是為従約長併相六国。行過洛陽。車騎輜重、擬於王者。昆弟妻嫂、側目不敢視(十八史略、蘇秦・張儀、合従連衡)。
平成26年11月13日、毛利太。
2014年11月12日水曜日
「括弧」は、存在(∃)します。
(01)
「論理学の記号」は、昔から「書き方」が、一定ではありません。
そのため、
(02)
私自身は、
∀ⅹ∃y(ⅹKy∧~yKⅹ)=すべての人は彼を知らないある人を知っている。
(スマリヤン、記号論理学 一般化と記号化、2013年、119頁)を、
(∀ⅹ)(∃y)(ⅹKy&~yKⅹ)=すべての人は彼を知らないある人を知っている。
といふ風に、書くことに、します。
然るに、
(03)
~yKⅹ は、yKⅹ の「否定」であるため、
~(yKⅹ)とします。
従って、
(02)(03)により、
(04)
(∀ⅹ)(∃y)(ⅹKy&~(yKⅹ))
であるものの、
(∀ⅹ)(∃y)(ⅹKy&~(yKⅹ))は、
「正確」には、
(∀ⅹ)((∃y)(ⅹKy&~(yKⅹ)))
である、はずです。
従って、
(02)(04)により、
(05)
∀ⅹ∃y(ⅹKy∧~yKⅹ)=
(∀ⅹ)((∃y)(ⅹKy&~(yKⅹ)))
であるものの、読みやすいやうに、
(∀ⅹ)((∃y)(ⅹKy&~(yKⅹ)))=
(∀ⅹ)[(∃y)〔ⅹKy&~(yKⅹ)〕]
といふ風に、書くことにします。
然るに、
(06)
(∀ⅹ)[(∃y)〔ⅹKy&~(yKⅹ)〕]
といふ「述語論理」を、「訓読」すると、
(∀ⅹ)[(∃y)〔ⅹKy&~(yKⅹ)〕]⇒
[〔ⅹKy&(yKⅹ)~〕(∃y)](∀ⅹ)=
[〔ⅹがyを知ってゐて、(yがⅹを知ら)ない〕(といふ、そのやうなyが存在する)ことに関しては、](全てのⅹについて、正しい)。
然るに、
(07)
日本国総理大臣は、例へば、私を知らないため、
安倍晋三を知ってゐて、安倍晋三が知らない日本国民は、存在します。
従って、
(07)により、
(08)
ⅹ=日本国民の一人。
y =安部信三。
であれば、
ⅹがy(安倍晋三)を知ってゐて、y(安倍晋三)がⅹを知らない。といふ、そのやうなy(日本国総理大臣)が存在する。といふことは、「正しい」。
然るに、
(09)
ⅹ=日本国民の一人。
であるときに、(全てのⅹについて、正しい)。
といふことは、
約1億3千万の、「全ての日本人」について、「正しい」といふことを、意味してゐる。
然るに、
(10)
ⅹ=日本国民の一人。
として、
ⅹ=10日前に生まれた赤ん坊。
を「想定」すると、
ⅹは、安倍晋三を知らない。
従って、
(06)~(10)により、
(11)
ⅹ=日本国民の一人。
y =安倍晋三。
であるとき、
ⅹ(赤ん坊)はy(安倍晋三)を知らない。
が故に、
(∀ⅹ)[(∃y)〔ⅹKy&~(yKⅹ)〕]
といふ「述語論理」は、「偽(ウソ)」です。
従って、
(05)(06)(11)により、
(12)
ⅹ=日本国民の一人。
y =安倍晋三。
であるとき、
∀ⅹ∃yⅹKy∧~yKⅹ=
(∀ⅹ)[(∃y)〔ⅹKy&~(yKⅹ)〕]=
すべての人は、彼を知らない所の、ある人を知っている。
といふ「述語論理」は、「偽(ウソ)」です。
従って、
(05)~(12)により、
(13)
∀ⅹ∃yⅹKy∧~yKⅹ
といふ「偽なる命題」に、
∀ⅹ[∃y〔ⅹKy∧~(yKⅹ)〕]
といふ「括弧」を加へることは、正しい。
然るに、
(14)
∀ⅹ[∃y〔ⅹKy∧~(yKⅹ)〕]
を、「漢文」で表すならば、
人皆知所不己知者。
といふ風に、なると、思はれます。
然るに、
(15)
人皆知所不己知者。
といふ「漢文」が、有るとして、
人皆知所不己知者=
人皆知[所〔不(己知)〕者]⇒
人皆[〔(己知)不〕所者]知=
人皆知[所〔不(己知)〕者]=
人皆[〔(己を知ら)不る〕所の者を]知る。
といふ「漢文訓読」は、正しい。
従って、
(14)(15)により、
(16)
人皆知所不己知者。
といふ「漢文」が、有るとして、
人皆知所不己知者。
に対して、
[〔( )〕]
といふ「括弧」を加へることは、
∀ⅹ∃yⅹKy∧~yKⅹ
に対して、
[〔( )〕]
といふ「括弧」を加へることに、相当します。
然るに、
(17)
論理結合子を組み合わせて用いることで、単純な命題から複雑な命題を組み立てることができる、その際、曖昧さを排除するために括弧が必要となることがある(スマリヤン、記号論理学 一般化と記号化、2013年、49頁)。
従って、
(16)(17)により、
(18)
∀ⅹ∃yⅹKy∧~yKⅹ
といふ「論理式」に、[〔( )〕]といふ「括弧」が、有るやうに、
人皆知所不己知者。
といふ「漢文」にも、[〔( )〕]といふ「括弧」は、有ります!。
平成26年11月12日、毛利太。
(19)
(∃ⅹ)〔(∀y)(yKⅹ → ⅹKy)〕
を、「訓読」すると、
(∃ⅹ)〔(∀y)(yKⅹ → ⅹKy)〕⇒
〔(yKⅹ → ⅹKy)(∀y)〕(∃ⅹ)=
〔(yがⅹを知ってゐるならば、 ⅹもyを知ってゐる。といふことが)(全てのyについて正しい)〕(といふ、そのやうなⅹが存在する)。
従って、
(20)
(∃ⅹ)〔(∀y)(yKⅹ → ⅹKy)〕=
自分を知ってゐる全ての人物を知ってゐる、そのやうな人である所のⅹが存在する。
然るに、
(21)
【関連記事】
眞鍋かをりさん脅迫 逮捕の男「謝罪しろ」と事務所に電話 面識はなし(夕刊フジ)。
最終更新:11月12日(水)19時6分
従って、
(20)(21)により、
(22)
(∃ⅹ)〔(∀y)(yKⅹ → ⅹKy)& ⅹ=眞鍋かをりさん〕
といふ「命題」は、「偽(ウソ)」である。
(23)
中川翔子が、彼女のファンの全員を知ってゐることも有りえない。
従って、
(23)により、
(24)
(∃ⅹ)〔(∀y)(yKⅹ → ⅹKy)& ⅹ=しょこたん〕
といふ「命題」も、「偽(ウソ)」である。
平成26年11月12日、毛利太。
「論理学の記号」は、昔から「書き方」が、一定ではありません。
そのため、
(02)
私自身は、
∀ⅹ∃y(ⅹKy∧~yKⅹ)=すべての人は彼を知らないある人を知っている。
(スマリヤン、記号論理学 一般化と記号化、2013年、119頁)を、
(∀ⅹ)(∃y)(ⅹKy&~yKⅹ)=すべての人は彼を知らないある人を知っている。
といふ風に、書くことに、します。
然るに、
(03)
~yKⅹ は、yKⅹ の「否定」であるため、
~(yKⅹ)とします。
従って、
(02)(03)により、
(04)
(∀ⅹ)(∃y)(ⅹKy&~(yKⅹ))
であるものの、
(∀ⅹ)(∃y)(ⅹKy&~(yKⅹ))は、
「正確」には、
(∀ⅹ)((∃y)(ⅹKy&~(yKⅹ)))
である、はずです。
従って、
(02)(04)により、
(05)
∀ⅹ∃y(ⅹKy∧~yKⅹ)=
(∀ⅹ)((∃y)(ⅹKy&~(yKⅹ)))
であるものの、読みやすいやうに、
(∀ⅹ)((∃y)(ⅹKy&~(yKⅹ)))=
(∀ⅹ)[(∃y)〔ⅹKy&~(yKⅹ)〕]
といふ風に、書くことにします。
然るに、
(06)
(∀ⅹ)[(∃y)〔ⅹKy&~(yKⅹ)〕]
といふ「述語論理」を、「訓読」すると、
(∀ⅹ)[(∃y)〔ⅹKy&~(yKⅹ)〕]⇒
[〔ⅹKy&(yKⅹ)~〕(∃y)](∀ⅹ)=
[〔ⅹがyを知ってゐて、(yがⅹを知ら)ない〕(といふ、そのやうなyが存在する)ことに関しては、](全てのⅹについて、正しい)。
然るに、
(07)
日本国総理大臣は、例へば、私を知らないため、
安倍晋三を知ってゐて、安倍晋三が知らない日本国民は、存在します。
従って、
(07)により、
(08)
ⅹ=日本国民の一人。
y =安部信三。
であれば、
ⅹがy(安倍晋三)を知ってゐて、y(安倍晋三)がⅹを知らない。といふ、そのやうなy(日本国総理大臣)が存在する。といふことは、「正しい」。
然るに、
(09)
ⅹ=日本国民の一人。
であるときに、(全てのⅹについて、正しい)。
といふことは、
約1億3千万の、「全ての日本人」について、「正しい」といふことを、意味してゐる。
然るに、
(10)
ⅹ=日本国民の一人。
として、
ⅹ=10日前に生まれた赤ん坊。
を「想定」すると、
ⅹは、安倍晋三を知らない。
従って、
(06)~(10)により、
(11)
ⅹ=日本国民の一人。
y =安倍晋三。
であるとき、
ⅹ(赤ん坊)はy(安倍晋三)を知らない。
が故に、
(∀ⅹ)[(∃y)〔ⅹKy&~(yKⅹ)〕]
といふ「述語論理」は、「偽(ウソ)」です。
従って、
(05)(06)(11)により、
(12)
ⅹ=日本国民の一人。
y =安倍晋三。
であるとき、
∀ⅹ∃yⅹKy∧~yKⅹ=
(∀ⅹ)[(∃y)〔ⅹKy&~(yKⅹ)〕]=
すべての人は、彼を知らない所の、ある人を知っている。
といふ「述語論理」は、「偽(ウソ)」です。
従って、
(05)~(12)により、
(13)
∀ⅹ∃yⅹKy∧~yKⅹ
といふ「偽なる命題」に、
∀ⅹ[∃y〔ⅹKy∧~(yKⅹ)〕]
といふ「括弧」を加へることは、正しい。
然るに、
(14)
∀ⅹ[∃y〔ⅹKy∧~(yKⅹ)〕]
を、「漢文」で表すならば、
人皆知所不己知者。
といふ風に、なると、思はれます。
然るに、
(15)
人皆知所不己知者。
といふ「漢文」が、有るとして、
人皆知所不己知者=
人皆知[所〔不(己知)〕者]⇒
人皆[〔(己知)不〕所者]知=
人皆知[所〔不(己知)〕者]=
人皆[〔(己を知ら)不る〕所の者を]知る。
といふ「漢文訓読」は、正しい。
従って、
(14)(15)により、
(16)
人皆知所不己知者。
といふ「漢文」が、有るとして、
人皆知所不己知者。
に対して、
[〔( )〕]
といふ「括弧」を加へることは、
∀ⅹ∃yⅹKy∧~yKⅹ
に対して、
[〔( )〕]
といふ「括弧」を加へることに、相当します。
然るに、
(17)
論理結合子を組み合わせて用いることで、単純な命題から複雑な命題を組み立てることができる、その際、曖昧さを排除するために括弧が必要となることがある(スマリヤン、記号論理学 一般化と記号化、2013年、49頁)。
従って、
(16)(17)により、
(18)
∀ⅹ∃yⅹKy∧~yKⅹ
といふ「論理式」に、[〔( )〕]といふ「括弧」が、有るやうに、
人皆知所不己知者。
といふ「漢文」にも、[〔( )〕]といふ「括弧」は、有ります!。
平成26年11月12日、毛利太。
(19)
(∃ⅹ)〔(∀y)(yKⅹ → ⅹKy)〕
を、「訓読」すると、
(∃ⅹ)〔(∀y)(yKⅹ → ⅹKy)〕⇒
〔(yKⅹ → ⅹKy)(∀y)〕(∃ⅹ)=
〔(yがⅹを知ってゐるならば、 ⅹもyを知ってゐる。といふことが)(全てのyについて正しい)〕(といふ、そのやうなⅹが存在する)。
従って、
(20)
(∃ⅹ)〔(∀y)(yKⅹ → ⅹKy)〕=
自分を知ってゐる全ての人物を知ってゐる、そのやうな人である所のⅹが存在する。
然るに、
(21)
【関連記事】
眞鍋かをりさん脅迫 逮捕の男「謝罪しろ」と事務所に電話 面識はなし(夕刊フジ)。
最終更新:11月12日(水)19時6分
従って、
(20)(21)により、
(22)
(∃ⅹ)〔(∀y)(yKⅹ → ⅹKy)& ⅹ=眞鍋かをりさん〕
といふ「命題」は、「偽(ウソ)」である。
(23)
中川翔子が、彼女のファンの全員を知ってゐることも有りえない。
従って、
(23)により、
(24)
(∃ⅹ)〔(∀y)(yKⅹ → ⅹKy)& ⅹ=しょこたん〕
といふ「命題」も、「偽(ウソ)」である。
平成26年11月12日、毛利太。
2014年11月10日月曜日
二重否定(其の2)。
(01)
① 生徒不〔如(教師)〕⇒
① 生徒〔(教師)如〕不=
① 生徒は〔(教師に)如か〕不=
① 生徒は、教師に及ばない。
といふことは、「普通」は、「正しい」。
然るに、
(02)
② 無[教師不〔如(生徒)〕]⇒
② [教師〔(生徒)如〕不]無=
② [教師として〔(生徒に)如か〕不るは]無し=
② 教師であるならば、全員が、生徒よりも劣ることはない。
とは、言へない。
然るに、
(03)
例へば、「日本の中学の英語教師の英語の発音」は、「帰国子女の英語の発音」に、及ばない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 生徒不〔如(教師)〕。
といふ「命題①」に対して、「必ず」を加へた、
③ 生徒必不〔如(教師)〕⇒
③ 生徒必〔(教師)如〕不=
③ 生徒は必ず〔(教師に)如か〕不=
③ 生徒は、必ず、教師に及ばない。
といふ「命題③」は、「偽(0)」である。
従って、
(04)により、
(05)
③ 生徒必不〔如(教師)〕。
といふ「命題③」の「否定」、すなはち、
④ 生徒不[必不〔如(教師)〕]⇒
④ 生徒[必〔(教師)如〕不]不=
④ 生徒は[必ずしも〔(教師に)如か〕不んばあら]不=
④ 生徒は必ずしも、先生に及ばないとは、限らない。
といふ「命題④」は、「真(1)」である。
然るに、
(06)
明治以前の日本人は、漢文を読むことで論理的な考え方を身に付けました。漢文は論理的な構文をたくさん含んでいるからです(山下正男、論理的に考えること、1985年、はじめに)とあるやうに、以上の「考え方」は、「論理的」に、「正しい」。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
「日本の英語教師の英語の発音」は「帰国子女の英語の発音」に及ばない。
といふことを以て、
③ 必不如教師=偽(0)。
④ 不必不如教師=真(1)。
である。
然るに、
(08)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’といふ空所入れて書くことにしよう;しかし、丸括弧はそのその内部の表術が連言でないかぎり削除しよう(W.O.クワイン著、杖下隆英 訳、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
③ 必不如教師=偽(0)。
④ 不必不如教師=真(1)。
といふ「命題(漢文)」は、
③ 必~(如教師) =偽(0)。
④ ~(必~(如教師))=真(1)。
といふ、ことになる。
然るに、
(10)
「ロジック」といふ言葉は、は「ロゴス(言葉)」から来てゐるのであって、それ故、「アイキャント、ゲット、ノー、サティスファクション。」等の言ひ方は、やはり、「非ロジカル」であるとしか、私には、思へない。
従って、
(09)(10)により、
(11)
「漢文訓読」の問題(issue)だけではなく、「LOGIC」の問題(issue)としても、「括弧」は有りす!。
平成26年11月10日、毛利太。
① 生徒不〔如(教師)〕⇒
① 生徒〔(教師)如〕不=
① 生徒は〔(教師に)如か〕不=
① 生徒は、教師に及ばない。
といふことは、「普通」は、「正しい」。
然るに、
(02)
② 無[教師不〔如(生徒)〕]⇒
② [教師〔(生徒)如〕不]無=
② [教師として〔(生徒に)如か〕不るは]無し=
② 教師であるならば、全員が、生徒よりも劣ることはない。
とは、言へない。
然るに、
(03)
例へば、「日本の中学の英語教師の英語の発音」は、「帰国子女の英語の発音」に、及ばない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 生徒不〔如(教師)〕。
といふ「命題①」に対して、「必ず」を加へた、
③ 生徒必不〔如(教師)〕⇒
③ 生徒必〔(教師)如〕不=
③ 生徒は必ず〔(教師に)如か〕不=
③ 生徒は、必ず、教師に及ばない。
といふ「命題③」は、「偽(0)」である。
従って、
(04)により、
(05)
③ 生徒必不〔如(教師)〕。
といふ「命題③」の「否定」、すなはち、
④ 生徒不[必不〔如(教師)〕]⇒
④ 生徒[必〔(教師)如〕不]不=
④ 生徒は[必ずしも〔(教師に)如か〕不んばあら]不=
④ 生徒は必ずしも、先生に及ばないとは、限らない。
といふ「命題④」は、「真(1)」である。
然るに、
(06)
明治以前の日本人は、漢文を読むことで論理的な考え方を身に付けました。漢文は論理的な構文をたくさん含んでいるからです(山下正男、論理的に考えること、1985年、はじめに)とあるやうに、以上の「考え方」は、「論理的」に、「正しい」。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
「日本の英語教師の英語の発音」は「帰国子女の英語の発音」に及ばない。
といふことを以て、
③ 必不如教師=偽(0)。
④ 不必不如教師=真(1)。
である。
然るに、
(08)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’といふ空所入れて書くことにしよう;しかし、丸括弧はそのその内部の表術が連言でないかぎり削除しよう(W.O.クワイン著、杖下隆英 訳、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
③ 必不如教師=偽(0)。
④ 不必不如教師=真(1)。
といふ「命題(漢文)」は、
③ 必~(如教師) =偽(0)。
④ ~(必~(如教師))=真(1)。
といふ、ことになる。
然るに、
(10)
「ロジック」といふ言葉は、は「ロゴス(言葉)」から来てゐるのであって、それ故、「アイキャント、ゲット、ノー、サティスファクション。」等の言ひ方は、やはり、「非ロジカル」であるとしか、私には、思へない。
従って、
(09)(10)により、
(11)
「漢文訓読」の問題(issue)だけではなく、「LOGIC」の問題(issue)としても、「括弧」は有りす!。
平成26年11月10日、毛利太。
2014年11月8日土曜日
二重否定(仮題)。
(01)
無=No
人=man
不=doesn’t
死=die.
従って、
(01)により、
(02)
① 無人不死=
② No man doesn’t die.
然るに、
(03)
① 無い=不有(有らず)。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 無人不死=
① 不有人不死=
① 不[有〔人不(死)〕]⇒
① [〔人(死)不〕有]不=
① [〔人として(死せ)不るは〕有ら]不=
① Mors omnibus communis=
① Death is common to all men.
然るに、
(05)
然るに、
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))⇒
③ ((Mⅹ&(Dⅹ)~)(∃ⅹ))~=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
従って、
(01)~(04)により、
(06)
① 無人不死=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
然るに、
(07)
しかし18世紀にきわめて人工的・作為的性質の強い規範文法が整備された際、否定呼応という言語現象に無理解な学者たちは、論理学規範を言語という特殊条件を考慮せずに適応し、「否定語を2回使うということは否定の否定を意味し、論理的に肯定である」と主張し、英語の否定呼応を抹殺した(ウィキペディア:二重否定)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、「英語の否定呼応」は、抹殺されずに、「生きている」。
然るに、
(09)
① 無〔人不(死)〕=
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
であるためには、
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕。
のやうに、
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
である、「必要」がある。
然るに、
(10)
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
であるためには、
② Noman=一語
ではなく、
② No man=二語
である「必要」が、ある。
従って、
(08)~(10)により、
(11)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、
④ No man dies(誰も死なない).
ではなく、
④ Noman dies(誰も死なない).
であると、思はれる。
然るに、
(12)
いづれにせよ、
① 無(人不死)=(人として死せざるは)無し。
① 無(書不読)=(書として読まざるは)無し。
① 無(草不枯)=(草として枯れざるは)無し。
① 無(物不長)=(物として長ぜざるは)無し。
① 無(日不雲)=(日として雲らざるは)無し。
① 無(夕不飲)=(夕として飲まざるは)無し。
⑤ 無(処不傷心)=(処として心を痛めしめざるは)無し。
⑤ 無(教師不如生徒)=(教師として生徒に如かざるは)無し。
・ ・ ・ ・ ・ ・
だけでなく、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「漢文」の場合も、
⑤ 無(所往而不為義)=(往く所として義為らざるは)無し。
との、ことである。
cf.
「笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、58頁」。
然るに、
(13)
⑤ 無(所往而不為義)。
ではなく、
⑥ 無(所往)而不為義。
であるならば、
⑥ 無(所往)而不為義=(往く所)無くして、義為らず。
である。
然るに、
(14)
⑤(往く所として義為らざるは)無し。
⑥(往く所)無くして、義為らず。
に於いて、
⑤と⑥は、もちろん、「同じ意味」ではない。
然るに、
(15)
「漢文(白文)」自体には、「括弧」が書いてあるわけではないので、見た目では、
⑤ 無所往而不為義。
に於いて、
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
の「区別」が、付かない。
cf.
また、童話の題名「眠れる森の美女」も、実は眠っているのは「森の美女」ではなく、「森」であるという話がある。フランス語の原題”La Belle au bois dormant”で、形容詞の性をみるとそう解釈できるのだという。
(木村大治、括弧の意味論、2011年、18頁改)
従って、
(16)
このように「不」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふことは、
このように「無」が頭にきているときにも、当てはまる。
然るに、
(17)
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
は、「正確」には、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
であるため、
⑤と⑥の違ひは、
⑥[ ]の有無の違ひである。
従って、
(13)(14)(17)により、
(18)
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所往而不為義]。
であると、思ったときに、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]⇒
⑤ [(往)所而〔(義)為〕不]無=
⑤ [(往く)所として〔(義)為ら〕不るは]無し。
といふ風に、「訓読」する。ことになる。
然るに、
(19)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 往く所として義為ら不るは無し。
と読むとしたら、その時には、既に、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思ってゐる。」ことになる。
然るに、
(20)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思った。」のは、「何時」かと言へば、当然、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、「見てゐる時」である。
従って、
(20)により、
(21)
さうである以上、
⑤ 無所往而不為義。
を、「よく見る事」こそが、「大切」なのであって、それ故、二畳庵主人曰く、
この「見る」という造形的感覚はだれでもが持っている。けっして特殊な才能を要さない。「読書百遍、意おのずから通ず」(何度も読んでいるうちに、意味がしぜんとわかる)ということの第一段は、この「見る」、骨格を「見る」ということだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、324頁)。といふことになる。
然るに、
(22)
以上のやうに、二畳庵主人が書いたのは、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
ではなく、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
に関してであって、尚且つ、
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であるが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふ「事情」がある。
(23)
もちろん、「二畳庵主人、漢文法基礎」では、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
ではなく、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
であるものの、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
と、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
は、「同じこと」なので、
①〔( )〕( )( )。が、「古注」で、
②〔( )( )〕( )。が、「新注」である。
といふ、ことになる。
従って、
(22)(23)により、
(24)
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美。
を関して、
① 不〔有祝鮀之佞〕而有宋朝之美。
② 不〔有祝鮀之佞而有宋朝之美〕。
に於いて、
①のやうに、「不」が、「前半」に係る。のか、
②のやうに、「不」が、「全体」に係る。のか、
といふ「議論」は、実質的に、朱子も行ってゐる。ことになる。
然るに、
(25)
「新儒教」の朱子学の創始者である朱子は、「漢文訓読」など、行はない。
従って、
(24)(25)により、
(26)
「漢文訓読」の問題(issue)ではなく、「漢文」の問題(issue)として、「括弧」は有ります!。
平成26年11月08日、毛利太。
無=No
人=man
不=doesn’t
死=die.
従って、
(01)により、
(02)
① 無人不死=
② No man doesn’t die.
然るに、
(03)
① 無い=不有(有らず)。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 無人不死=
① 不有人不死=
① 不[有〔人不(死)〕]⇒
① [〔人(死)不〕有]不=
① [〔人として(死せ)不るは〕有ら]不=
① Mors omnibus communis=
① Death is common to all men.
然るに、
(05)
然るに、
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))⇒
③ ((Mⅹ&(Dⅹ)~)(∃ⅹ))~=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
従って、
(01)~(04)により、
(06)
① 無人不死=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
然るに、
(07)
しかし18世紀にきわめて人工的・作為的性質の強い規範文法が整備された際、否定呼応という言語現象に無理解な学者たちは、論理学規範を言語という特殊条件を考慮せずに適応し、「否定語を2回使うということは否定の否定を意味し、論理的に肯定である」と主張し、英語の否定呼応を抹殺した(ウィキペディア:二重否定)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、「英語の否定呼応」は、抹殺されずに、「生きている」。
然るに、
(09)
① 無〔人不(死)〕=
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
であるためには、
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕。
のやうに、
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
である、「必要」がある。
然るに、
(10)
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
であるためには、
② Noman=一語
ではなく、
② No man=二語
である「必要」が、ある。
従って、
(08)~(10)により、
(11)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、
④ No man dies(誰も死なない).
ではなく、
④ Noman dies(誰も死なない).
であると、思はれる。
然るに、
(12)
いづれにせよ、
① 無(人不死)=(人として死せざるは)無し。
① 無(書不読)=(書として読まざるは)無し。
① 無(草不枯)=(草として枯れざるは)無し。
① 無(物不長)=(物として長ぜざるは)無し。
① 無(日不雲)=(日として雲らざるは)無し。
① 無(夕不飲)=(夕として飲まざるは)無し。
⑤ 無(処不傷心)=(処として心を痛めしめざるは)無し。
⑤ 無(教師不如生徒)=(教師として生徒に如かざるは)無し。
・ ・ ・ ・ ・ ・
だけでなく、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「漢文」の場合も、
⑤ 無(所往而不為義)=(往く所として義為らざるは)無し。
との、ことである。
cf.
「笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、58頁」。
然るに、
(13)
⑤ 無(所往而不為義)。
ではなく、
⑥ 無(所往)而不為義。
であるならば、
⑥ 無(所往)而不為義=(往く所)無くして、義為らず。
である。
然るに、
(14)
⑤(往く所として義為らざるは)無し。
⑥(往く所)無くして、義為らず。
に於いて、
⑤と⑥は、もちろん、「同じ意味」ではない。
然るに、
(15)
「漢文(白文)」自体には、「括弧」が書いてあるわけではないので、見た目では、
⑤ 無所往而不為義。
に於いて、
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
の「区別」が、付かない。
cf.
また、童話の題名「眠れる森の美女」も、実は眠っているのは「森の美女」ではなく、「森」であるという話がある。フランス語の原題”La Belle au bois dormant”で、形容詞の性をみるとそう解釈できるのだという。
(木村大治、括弧の意味論、2011年、18頁改)
従って、
(16)
このように「不」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふことは、
このように「無」が頭にきているときにも、当てはまる。
然るに、
(17)
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
は、「正確」には、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
であるため、
⑤と⑥の違ひは、
⑥[ ]の有無の違ひである。
従って、
(13)(14)(17)により、
(18)
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所往而不為義]。
であると、思ったときに、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]⇒
⑤ [(往)所而〔(義)為〕不]無=
⑤ [(往く)所として〔(義)為ら〕不るは]無し。
といふ風に、「訓読」する。ことになる。
然るに、
(19)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 往く所として義為ら不るは無し。
と読むとしたら、その時には、既に、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思ってゐる。」ことになる。
然るに、
(20)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思った。」のは、「何時」かと言へば、当然、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、「見てゐる時」である。
従って、
(20)により、
(21)
さうである以上、
⑤ 無所往而不為義。
を、「よく見る事」こそが、「大切」なのであって、それ故、二畳庵主人曰く、
この「見る」という造形的感覚はだれでもが持っている。けっして特殊な才能を要さない。「読書百遍、意おのずから通ず」(何度も読んでいるうちに、意味がしぜんとわかる)ということの第一段は、この「見る」、骨格を「見る」ということだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、324頁)。といふことになる。
然るに、
(22)
以上のやうに、二畳庵主人が書いたのは、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
ではなく、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
に関してであって、尚且つ、
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であるが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふ「事情」がある。
(23)
もちろん、「二畳庵主人、漢文法基礎」では、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
ではなく、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
であるものの、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
と、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
は、「同じこと」なので、
①〔( )〕( )( )。が、「古注」で、
②〔( )( )〕( )。が、「新注」である。
といふ、ことになる。
従って、
(22)(23)により、
(24)
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美。
を関して、
① 不〔有祝鮀之佞〕而有宋朝之美。
② 不〔有祝鮀之佞而有宋朝之美〕。
に於いて、
①のやうに、「不」が、「前半」に係る。のか、
②のやうに、「不」が、「全体」に係る。のか、
といふ「議論」は、実質的に、朱子も行ってゐる。ことになる。
然るに、
(25)
「新儒教」の朱子学の創始者である朱子は、「漢文訓読」など、行はない。
従って、
(24)(25)により、
(26)
「漢文訓読」の問題(issue)ではなく、「漢文」の問題(issue)として、「括弧」は有ります!。
平成26年11月08日、毛利太。
2014年11月6日木曜日
「括弧はあります!」の「追記(Ⅱ)」。
(01)
大文字を使って、「肯定」を表し、
小文字を使って、「否定」を表す。ことにします。
例へば、
(02)
Aの「否定」を、aとし、
Bの「否定」を、bとします。
従って、
(03)
① AB=Aであって、Bである。
② Ab=Aであって、Bでない。
③ aB=Aでなくて、Bである。
④ ab=Aでなくて、Bでない。
とします。
然るに、
(04)
A=児孫の為である。
B=美田を買ふ。
とします。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① AB=児孫の為であって、美田を買ふ。
② Ab=児孫の為であって、美田を買はない。
③ aB=児孫の為でなくて、美田を買ふ。
④ ab=児孫の為でなくて、美田を買はない。
従って、
(05)により、
(06)
①(AB)に非ず=
①(Aであって、Bである。)でない。
とするならば、
① AB=児孫の為であって、美田を買ふ。
が「否定」された「結果」として、
② Ab=児孫の為であって、美田を買はない。
③ aB=児孫の為でなくて、美田を買ふ。
④ ab=児孫の為でなくて、美田を買はない。
といふ、「三つ」が、残ります。
然るに、
(03)により、
(07)
③ aB
④ ab
の二つは、
③ aB=Aでなくて、・・・・。
④ ab=Aでなくて、・・・・。
であるため、
「Aならば、・・・・。」の場合に、入りません。
従って、
(07)により、
(08)
② Ab
③ aB
④ ab
に於いて、
Aならば、② Ab である。
従って、
(02)(04)(08)により、
(09)
Aならば、Bでない。
従って、
(06)(09)により、
(10)
(Aであって、Bである)でない。ならば、
(Aならば、Bでない)。
然るに、
(11)
「交換律」により、
② Ab=bA
④ ab=ba
然るに、
(03)により、
(12)
② bA
④ ba
の二つは、
② bA=Bでなくて、・・・・。
④ ba=Bでなくて、・・・・。
であるため、
「Bならば、・・・・。」の場合に、入りません。
従って、
(12)により、
(13)
② Ab=bA
③ aB=Ba
④ ab=ba
に於いて、
Bならば、③ Ba である。
従って、
(02)(04)(13)により、
(14)
Bならば、Aでない。
従って、
(10)(14)により、
(15)
(Aであって、Bである)でない。ならば、
(Aならば、Bでなく)、
(Bならば、Aでない)。
従って、
(15)により、
(16)
高校で習った、「ド・モルガンの法則」は、正しい。
従って、
(17)
① 不為児孫買美田。
といふ「漢文」が、
① 不(為児孫買美田)。
といふ「意味」で、あって、尚且つ、「ド・モルガンの法則」は、正しい。のであれば、
① 不為児孫買美田。
① 不(為児孫買美田)。
といふ「漢文」は、
② Ab=児孫の為ならば、 美田を買はない。
③ Ba=美田を買ふならば、児孫の為でない。
といふ「命題」に、等しい。
cf.
幾たびか辛酸を歴て志(こころざし)始めて堅し、
丈夫(ぢやうふ)玉碎すとも甎全(せんぜん)を恥づ。
我が家の遺法人知るや否や、
兒孫(じそん)の爲に美田を買はず。然るに、
(18)
A=其の能の千里なるを知る。
B=馬を食(やしな)ふ。
とする。
従って、
(02)(18)により、
(19)
a=其の能の千里なるを知らず。
b=馬を食(やしな)はず。
とする。
従って、
(18)(19)により、
(20)
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
② Ab=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)はず。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
④ ab=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)はず。
然るに、
(21)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、
馬を食(やしな)はない。
といふことは、有り得ない。
従って、
(21)により、
(22)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
② Ab=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)はず。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
④ ab=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)はず。
に於いて、
② Ab=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)はず。
④ ab=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)はず。
は、初めから、成立しない。
従って、
(22)により、
(23)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
といふ、「二つ」が、残ります。
然るに、
(24)
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
に於いて、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
を「否定」すると、
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
だけが、残ります。
従って、
(23)(24)により、
(25)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
を「否定」すると、
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
だけが、残ります。
然るに、
(26)
① AB の「否定」を、
① ¬(A&B) と書いて、
③ aB の「肯定」を、
③ ¬A&B と書くことに、します。
従って、
(25)(26)により、
(27)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
¬(A&B)=¬A&B。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(28)
① 食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也⇒
① (馬)食者〔(其能千里)知而食〕不也=
① (馬を)食ふ者は〔(其の能の千里なるを)知りて食は〕不るなり=
① 馬を飼ふ者は、その馬が千里馬であること知った上で、飼はないのだ。
といふ「訓読」は、
① ¬(A&B)。
に、相当します。
(29)
③ 食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也⇒
③ (馬)食者〔(其能千里)知〕不而食也=
③ (馬)食ふ者は〔(其の能の千里なるを)知ら〕不して食ふなり=
③ 馬を食ふ者は、その馬が千里馬であることを知らないで、飼ふのだ。
といふ「訓読」は、
③ ¬A&B。
に、相当します。
従って、
(27)(28)(29)により、
(30)
① 食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也=
③ 食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(30)により、
(31)
① 馬を食ふ者は其の能の千里なるを知りて食は不るなり(旺文社、漢文の基礎、1973年、154頁)。
といふ「訓読」は、「誤り」ではない。
然るに、
(32)
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
に於いて、
① は、 ¬A&B に、相当し、
② は、¬(A&B)に、相当する。
然るに、
(33)
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であるが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
従って、
(32)(33)により、
(34)
① ¬A&B。
② ¬(A&B)。
に於いて、①なのか、②なのか、といふ「議論」は、実質的に、朱熹(朱子)も、行ってゐる。
従って、
(35)
「漢文訓読」を一切知らない、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者であっても、
① ¬A&B。
② ¬(A&B)。
に於いて、①なのか、②なのかを、問ふことが出来る。
従って、
(35)により、
(36)
このように「不」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
といふことは、「漢文訓読」だけに、当てはまるのではない。
従って、
(37)
「漢文訓読」の問題(issue)ではなく、「漢文」の問題(issue)として、「括弧」は有ります!。
平成26年11月06日、毛利太。
大文字を使って、「肯定」を表し、
小文字を使って、「否定」を表す。ことにします。
例へば、
(02)
Aの「否定」を、aとし、
Bの「否定」を、bとします。
従って、
(03)
① AB=Aであって、Bである。
② Ab=Aであって、Bでない。
③ aB=Aでなくて、Bである。
④ ab=Aでなくて、Bでない。
とします。
然るに、
(04)
A=児孫の為である。
B=美田を買ふ。
とします。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① AB=児孫の為であって、美田を買ふ。
② Ab=児孫の為であって、美田を買はない。
③ aB=児孫の為でなくて、美田を買ふ。
④ ab=児孫の為でなくて、美田を買はない。
従って、
(05)により、
(06)
①(AB)に非ず=
①(Aであって、Bである。)でない。
とするならば、
① AB=児孫の為であって、美田を買ふ。
が「否定」された「結果」として、
② Ab=児孫の為であって、美田を買はない。
③ aB=児孫の為でなくて、美田を買ふ。
④ ab=児孫の為でなくて、美田を買はない。
といふ、「三つ」が、残ります。
然るに、
(03)により、
(07)
③ aB
④ ab
の二つは、
③ aB=Aでなくて、・・・・。
④ ab=Aでなくて、・・・・。
であるため、
「Aならば、・・・・。」の場合に、入りません。
従って、
(07)により、
(08)
② Ab
③ aB
④ ab
に於いて、
Aならば、② Ab である。
従って、
(02)(04)(08)により、
(09)
Aならば、Bでない。
従って、
(06)(09)により、
(10)
(Aであって、Bである)でない。ならば、
(Aならば、Bでない)。
然るに、
(11)
「交換律」により、
② Ab=bA
④ ab=ba
然るに、
(03)により、
(12)
② bA
④ ba
の二つは、
② bA=Bでなくて、・・・・。
④ ba=Bでなくて、・・・・。
であるため、
「Bならば、・・・・。」の場合に、入りません。
従って、
(12)により、
(13)
② Ab=bA
③ aB=Ba
④ ab=ba
に於いて、
Bならば、③ Ba である。
従って、
(02)(04)(13)により、
(14)
Bならば、Aでない。
従って、
(10)(14)により、
(15)
(Aであって、Bである)でない。ならば、
(Aならば、Bでなく)、
(Bならば、Aでない)。
従って、
(15)により、
(16)
高校で習った、「ド・モルガンの法則」は、正しい。
従って、
(17)
① 不為児孫買美田。
といふ「漢文」が、
① 不(為児孫買美田)。
といふ「意味」で、あって、尚且つ、「ド・モルガンの法則」は、正しい。のであれば、
① 不為児孫買美田。
① 不(為児孫買美田)。
といふ「漢文」は、
② Ab=児孫の為ならば、 美田を買はない。
③ Ba=美田を買ふならば、児孫の為でない。
といふ「命題」に、等しい。
cf.
幾たびか辛酸を歴て志(こころざし)始めて堅し、
丈夫(ぢやうふ)玉碎すとも甎全(せんぜん)を恥づ。
我が家の遺法人知るや否や、
兒孫(じそん)の爲に美田を買はず。然るに、
(18)
A=其の能の千里なるを知る。
B=馬を食(やしな)ふ。
とする。
従って、
(02)(18)により、
(19)
a=其の能の千里なるを知らず。
b=馬を食(やしな)はず。
とする。
従って、
(18)(19)により、
(20)
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
② Ab=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)はず。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
④ ab=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)はず。
然るに、
(21)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、
馬を食(やしな)はない。
といふことは、有り得ない。
従って、
(21)により、
(22)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
② Ab=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)はず。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
④ ab=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)はず。
に於いて、
② Ab=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)はず。
④ ab=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)はず。
は、初めから、成立しない。
従って、
(22)により、
(23)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
といふ、「二つ」が、残ります。
然るに、
(24)
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
に於いて、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
を「否定」すると、
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
だけが、残ります。
従って、
(23)(24)により、
(25)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
を「否定」すると、
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
だけが、残ります。
然るに、
(26)
① AB の「否定」を、
① ¬(A&B) と書いて、
③ aB の「肯定」を、
③ ¬A&B と書くことに、します。
従って、
(25)(26)により、
(27)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
¬(A&B)=¬A&B。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(28)
① 食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也⇒
① (馬)食者〔(其能千里)知而食〕不也=
① (馬を)食ふ者は〔(其の能の千里なるを)知りて食は〕不るなり=
① 馬を飼ふ者は、その馬が千里馬であること知った上で、飼はないのだ。
といふ「訓読」は、
① ¬(A&B)。
に、相当します。
(29)
③ 食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也⇒
③ (馬)食者〔(其能千里)知〕不而食也=
③ (馬)食ふ者は〔(其の能の千里なるを)知ら〕不して食ふなり=
③ 馬を食ふ者は、その馬が千里馬であることを知らないで、飼ふのだ。
といふ「訓読」は、
③ ¬A&B。
に、相当します。
従って、
(27)(28)(29)により、
(30)
① 食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也=
③ 食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(30)により、
(31)
① 馬を食ふ者は其の能の千里なるを知りて食は不るなり(旺文社、漢文の基礎、1973年、154頁)。
といふ「訓読」は、「誤り」ではない。
然るに、
(32)
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
に於いて、
① は、 ¬A&B に、相当し、
② は、¬(A&B)に、相当する。
然るに、
(33)
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であるが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
従って、
(32)(33)により、
(34)
① ¬A&B。
② ¬(A&B)。
に於いて、①なのか、②なのか、といふ「議論」は、実質的に、朱熹(朱子)も、行ってゐる。
従って、
(35)
「漢文訓読」を一切知らない、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者であっても、
① ¬A&B。
② ¬(A&B)。
に於いて、①なのか、②なのかを、問ふことが出来る。
従って、
(35)により、
(36)
このように「不」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
といふことは、「漢文訓読」だけに、当てはまるのではない。
従って、
(37)
「漢文訓読」の問題(issue)ではなく、「漢文」の問題(issue)として、「括弧」は有ります!。
平成26年11月06日、毛利太。
2014年11月5日水曜日
「訓読の条件」。
(01)
荻生徂徠は、漢文を読むが、英文は読まない。
ラッセルは、英文を読むが、漢文を読まない。
とする。
従って、
(01)により、
(02)
① 荻生徂徠読(漢文)=荻生徂徠(漢文を)読む。
② 荻生徂徠読(英文)=荻生徂徠(英文を)読む。
③ ラッセル読(漢文)=ラッセル(漢文を)読む。
④ ラッセル読(英文)=ラッセル(英文を)読む。
に於いて、
① は「真(1)」であって、
② は「偽(0)」である。
③ は「偽(0)」であって、
④ は「真(1)」である。
然るに、
(03)
① 荻生徂徠読(漢文)。
② 荻生徂徠読(英文)。
③ ラッセル読(漢文)。
④ ラッセル読(英文)。
を、
① 読(荻生徂徠、漢文)。
② 読(荻生徂徠、英文)。
③ 読(ラッセル、漢文)。
④ 読(ラッセル、英文)。
といふ風に、書くことにする。
然るに、
(04)
ところで、このレーマは現在のことばでいえば明らかに命題関数である。つまりf(ⅹ)、f(ⅹ,y)、f(ⅹ、y、z)といったものである(山下正男、論理学史、1983年、95頁)。
然るに、
(05)
「レーマ(ΡΗΜΑ)」は、ギリシャ語で、「名詞(ΟΝΟΜΑ)」に対する「動詞(ΡΗΜΑ)」のことを言ふ。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① 読( )。
② 読( )。
③ 読( )。
④ 読( )。
は、「主語と、目的語の、関数」である。
従って、
(06)により、
(07)
① 荻生徂徠読( )。
② 荻生徂徠読( )。
③ ラッセル読( )。
④ ラッセル読( )。
は、「目的語の、関数」である。
然るに、
(08)
① 読( )。
② 読( )。
③ 読( )。
④ 読( )。
に於いて、
① 荻生徂徠
② 荻生徂徠
③ ラッセル
④ ラッセル
といふ「主語」が、「省略」されてゐる。ものとする。
従って、
(07)(08)により、
(09)
⑤ 読( )。
は、「目的語の、関数」である。
然るに、
(10)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「真(1)」である時、その「否定」、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「偽(0)」であって、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「偽(0)」である時、その「否定」、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「真(1)」である。
加へて、
(11)
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「真(1)」である時、その「否定」、
③ 非[不〔読(漢文)〕]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「偽(0)」であって、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「偽(0)」である時、その「否定」、
③ 非[不〔読(漢文)〕]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「真(1)」である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ 非[不〔読(漢文)〕]⇒
③ [〔(漢文)読〕不]非=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「関数の、関数の、関数」である。
然るに、
(13)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)からである。
従って、
(12)(13)により、
(14)
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]。
といふ「漢文」が、、
③ 非[不〔読(漢文)〕]⇒
③ [〔(漢文)読〕不]非=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
のやうに「訓読」出来るといふことは、
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]。
といふ「漢文」が、
③「補足構造の、補足構造の、補足構造」である。といふことを、意味してゐる。
然るに、
(15)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」
といふことは、この場合は、
1.『主述関係』
2.『修飾関係』
3.『補足関係』
4.『並列関係』
に於いて、
1.『主述関係』
2.『修飾関係』
4.『並列関係』
に関して、「国語と漢文は、同じである。」
といふことに、他ならない。
従って、
(14)(15)により、
(16)
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
に対して、
1.我(主述関係)
2.常(修飾関係)
2.者(修飾関係)
を加へて、
④ 我非不常読漢文者=
④ 我非[不〔常読(漢文)〕者]⇒
④ 我[〔常(漢文)読〕不者]非=
④ 我は[〔常には(漢文を)読ま〕不る者に]非ず。
のやうにしても、「漢文訓読」は、成立する。
従って、
(15)(16)により、
(17)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」一方で、
「補足構造以外の語順は、漢文と国語の語順は同じである。」が故に、
③ 非不読漢文=
③ 漢文を読ま不るに非ず=
③ 漢文を読まないのではない。
といふ「漢文訓読」に加へて、
④ 我非不常読漢文者=
④ 我は常には漢文を読ま不る者に非ず=
④ 私は、時には漢文を読まない者ではない(私は常に漢文を読む)。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(18)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対であるが、補足構造以外の語順は、漢文と国語の語順は同じである。」といふ「条件」を、「訓読の条件」とするならば、「ある言語」は、「訓読の条件」を満たしてゐない。といふことが、予想される。
然るに、
(19)
通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない(ウィキペディア:漢文)。近代に至るまで、白話は、民衆語として低俗なものとされていたが、1917年(民国6年)、胡適が、アメリカから雑誌『新青年』に「文学改良芻議」を寄稿し、近代的プラグマティズムの観点から、難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱した(ウィキペディア:白話)。
従って、
(18)(19)により、
(20)
もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になる「白話(中国語)」は、「訓読の条件」を、満たしてゐない。
従って、
(20)により、
(21)
「漢文」は、「訓読の条件」を満たしてゐて、「中国語」は、「訓読の条件」を満たしてゐない。以上、「漢文」には、「訓読の条件」といふ「ルール」が有る。
従って、
(22)
「漢文」には、「訓読の条件」といふ「ルール」が有って、その「ルール」を、「文法」と呼ぶのであれば、「漢文」には、「文法(ルール)」がある。
従って、
(23)
「そもそも、漢文には文法が存在しない。」といふ「見解」は、「誤り」である。
平成26年11月05日、毛利太。
荻生徂徠は、漢文を読むが、英文は読まない。
ラッセルは、英文を読むが、漢文を読まない。
とする。
従って、
(01)により、
(02)
① 荻生徂徠読(漢文)=荻生徂徠(漢文を)読む。
② 荻生徂徠読(英文)=荻生徂徠(英文を)読む。
③ ラッセル読(漢文)=ラッセル(漢文を)読む。
④ ラッセル読(英文)=ラッセル(英文を)読む。
に於いて、
① は「真(1)」であって、
② は「偽(0)」である。
③ は「偽(0)」であって、
④ は「真(1)」である。
然るに、
(03)
① 荻生徂徠読(漢文)。
② 荻生徂徠読(英文)。
③ ラッセル読(漢文)。
④ ラッセル読(英文)。
を、
① 読(荻生徂徠、漢文)。
② 読(荻生徂徠、英文)。
③ 読(ラッセル、漢文)。
④ 読(ラッセル、英文)。
といふ風に、書くことにする。
然るに、
(04)
ところで、このレーマは現在のことばでいえば明らかに命題関数である。つまりf(ⅹ)、f(ⅹ,y)、f(ⅹ、y、z)といったものである(山下正男、論理学史、1983年、95頁)。
然るに、
(05)
「レーマ(ΡΗΜΑ)」は、ギリシャ語で、「名詞(ΟΝΟΜΑ)」に対する「動詞(ΡΗΜΑ)」のことを言ふ。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① 読( )。
② 読( )。
③ 読( )。
④ 読( )。
は、「主語と、目的語の、関数」である。
従って、
(06)により、
(07)
① 荻生徂徠読( )。
② 荻生徂徠読( )。
③ ラッセル読( )。
④ ラッセル読( )。
は、「目的語の、関数」である。
然るに、
(08)
① 読( )。
② 読( )。
③ 読( )。
④ 読( )。
に於いて、
① 荻生徂徠
② 荻生徂徠
③ ラッセル
④ ラッセル
といふ「主語」が、「省略」されてゐる。ものとする。
従って、
(07)(08)により、
(09)
⑤ 読( )。
は、「目的語の、関数」である。
然るに、
(10)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「真(1)」である時、その「否定」、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「偽(0)」であって、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「偽(0)」である時、その「否定」、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「真(1)」である。
加へて、
(11)
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「真(1)」である時、その「否定」、
③ 非[不〔読(漢文)〕]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「偽(0)」であって、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「偽(0)」である時、その「否定」、
③ 非[不〔読(漢文)〕]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「真(1)」である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ 非[不〔読(漢文)〕]⇒
③ [〔(漢文)読〕不]非=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「関数の、関数の、関数」である。
然るに、
(13)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)からである。
従って、
(12)(13)により、
(14)
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]。
といふ「漢文」が、、
③ 非[不〔読(漢文)〕]⇒
③ [〔(漢文)読〕不]非=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
のやうに「訓読」出来るといふことは、
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]。
といふ「漢文」が、
③「補足構造の、補足構造の、補足構造」である。といふことを、意味してゐる。
然るに、
(15)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」
といふことは、この場合は、
1.『主述関係』
2.『修飾関係』
3.『補足関係』
4.『並列関係』
に於いて、
1.『主述関係』
2.『修飾関係』
4.『並列関係』
に関して、「国語と漢文は、同じである。」
といふことに、他ならない。
従って、
(14)(15)により、
(16)
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
に対して、
1.我(主述関係)
2.常(修飾関係)
2.者(修飾関係)
を加へて、
④ 我非不常読漢文者=
④ 我非[不〔常読(漢文)〕者]⇒
④ 我[〔常(漢文)読〕不者]非=
④ 我は[〔常には(漢文を)読ま〕不る者に]非ず。
のやうにしても、「漢文訓読」は、成立する。
従って、
(15)(16)により、
(17)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」一方で、
「補足構造以外の語順は、漢文と国語の語順は同じである。」が故に、
③ 非不読漢文=
③ 漢文を読ま不るに非ず=
③ 漢文を読まないのではない。
といふ「漢文訓読」に加へて、
④ 我非不常読漢文者=
④ 我は常には漢文を読ま不る者に非ず=
④ 私は、時には漢文を読まない者ではない(私は常に漢文を読む)。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(18)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対であるが、補足構造以外の語順は、漢文と国語の語順は同じである。」といふ「条件」を、「訓読の条件」とするならば、「ある言語」は、「訓読の条件」を満たしてゐない。といふことが、予想される。
然るに、
(19)
通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない(ウィキペディア:漢文)。近代に至るまで、白話は、民衆語として低俗なものとされていたが、1917年(民国6年)、胡適が、アメリカから雑誌『新青年』に「文学改良芻議」を寄稿し、近代的プラグマティズムの観点から、難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱した(ウィキペディア:白話)。
従って、
(18)(19)により、
(20)
もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になる「白話(中国語)」は、「訓読の条件」を、満たしてゐない。
従って、
(20)により、
(21)
「漢文」は、「訓読の条件」を満たしてゐて、「中国語」は、「訓読の条件」を満たしてゐない。以上、「漢文」には、「訓読の条件」といふ「ルール」が有る。
従って、
(22)
「漢文」には、「訓読の条件」といふ「ルール」が有って、その「ルール」を、「文法」と呼ぶのであれば、「漢文」には、「文法(ルール)」がある。
従って、
(23)
「そもそも、漢文には文法が存在しない。」といふ「見解」は、「誤り」である。
平成26年11月05日、毛利太。
2014年11月2日日曜日
英文訓読(仮題)。
(01)
I read English=主語+動詞+目的語。
の「下線(アンダーライン)」を、「括弧」に換へると、
I read(English).
従って、
(02)
読(英語)=動詞(目的語)。
であるものの、「漢文」の場合は、
目的語と補語とは、それほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と読んだり、単に補語と読んだりしている(数研出版、チャート式 基礎からの漢文、1982年、26頁)。
然るに、
(03)
荻生徂徠が「主語」である時、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 読(英語)=(英語を)読む。
に於いて、
① は「真(1)」であるが、
② は「偽(0)」である。
(04)
ラッセルが「主語」である時、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 読(英語)=(英語を)読む。
に於いて、
① は「偽(0)」であって、
② は「真(1)」である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 読(英語)=(英語を)読む。
は、「主語」によって、「真偽(1・0)」が決まるといふ「意味」で、
「主語の関数」であり、(02)により、
① 読( )=( を)読む。
② 読( )=( を)読む。
は、「補語の関数」である。
然るに、
(06)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「真(1)」である時、
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「偽(0)」であって、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「偽(0)」である時、
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「真(1)」である。
加へて、
(07)
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「真(1)」である時、
③ 非[ 不〔 読(漢文)]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「偽(0)」であって、
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「偽(0)」である時、
③ 非[ 不〔 読(漢文)]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「真(1)」である。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
③ 非[ 不〔 読( )]。
は、「関数の、関数の、関数」である。
然るに、
(09)
④ 常読(漢文)⇒
④ 常(漢文)読=
④ 常に(漢文を)読む。
の場合は、
④ 常〔読(漢文)〕⇒
④ 〔(漢文)読〕常=
④ 〔(漢文を)読むこと〕常なり。
といふ風にも、「訓読」出来る。
cf.
「原田種成、私の漢文講義、1995年、56頁」。
従って、
(10)
④ 非不常読漢文。
の場合は、
④ 非{不[常〔読(漢文)〕]}⇒
④ {[〔(漢文)読〕常]不}非=
④ {[〔(漢文を)読むこと〕常なら]不るに}非ず。
といふ風に、「訓読」出来る。
従って、
(08)(10)により、
(11)
④ 非{不[常〔読( )〕]}。
は、「関数の、関数の、関数の、関数」であるが、
それと同時に、(02)により、
④ 非{不[常〔読(漢文)〕]}は、
は、「補足の、補足の、補足の、補足」である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
④ 非不常読漢文 ⇒
④ 漢文を読むこと常なら不るに非ず。
といふ「漢文訓読」が、可能である所以は、
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)からである。
といふ、ことになる。
然るに、
(13)
④ 非不常読漢文=
④ 非{不[常〔読(漢文)〕]}⇒
④ {[〔(漢文)読〕常]不}非=
に対して、
⑤ 非不久如天然読漢文=
⑤ 非{不[〔久如(日月)然〕読(漢文)]}⇒
⑤ {[〔久(日月)如然〕(漢文)読]不}非=
⑤ 久しきこと日月の如く然うして漢文を読ま不んば非ず。
であれば、
④ 漢文を読むこと常なら不るに非ず。
といふ「意味」には、とれない。
従って、
(14)
仮に、
久如日月然=常
といふ「イデオム」が、「漢文」に有って、
④ 非不常読漢文=
⑤ 非不久如日月然読漢文。
であったとする。ならば、
④ 非不常読漢文=
⑤ 非不久如日月然読漢文=
⑤ 久しきこと日月の如く然うして漢文を読ま不んば非ず。
となって、「意味」が、通じないが故に、この場合の「漢文」は、「訓読」には適さない。
然るに、
(15)
久如日月然=常(always)
といった、このような「イディオム」は、実際には無い。
然るに、
(16)
「英語」に対して「括弧(返り点)」を付けてみて分かることは、とにかく、「英語」は「イディオム」が多い。といふことである。
(17)
例へば、
彼らはお金が足りなくなった=
They have run short of money.
その船は波にもてあそばれている=
The ship is at the mercy of the waves.
のやうに、「イディオム」が用ゐられてゐる場合は、「返り点(括弧)」を付けることは、出来ない。
加へて、
(18)
あなたは誰ですか=
Who are you?
机の上に本が有る=
There is a book on the desk.
私が漢文を読まないといふことは、本当ではない=
It is not true that I don’t read 漢文.
等には、「返り点(括弧)」を付けることが、出来ない。
然るに、
(19)
I don’t〔read(English)〕⇒
I 〔(English)read〕 don’t=
私は〔(英語を)読ま〕ない。
に対しては、「返り点(括弧)」を付けることが、出来る。
従って、
(12)~(19)により、
(20)
「漢文は、その補足構造における語順が、国語とは全く反対である。」が故に、「漢文訓読」が、可能である一方で、「英語は、その補足構造における語順が、国語とは反対である場合もあり、尚且つ、イディオムなどが多く有る。」が故に、「英文訓読」は、可能である場合と、さうでない場合がある。といふ、ことになる。
従って、
(21)
「漢文」が、仮に、「英語」のやうな「言語」であれば、
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう(ある言語教育関連の新聞の連載コラム、西洋文化研究者)。」と、言はれる前に、「英文訓読」が、さうであるやうに、「漢文訓読」は、成立してゐなかった。ことになる。
従って、
(22)
「漢文訓読」と、「英文訓読」を、同一に論じることは、出来ないのあって、「英文訓読」は、固より、それが出来なかった。といふことに、過ぎない。
平成26年11月02日、毛利太。
I read English=主語+動詞+目的語。
の「下線(アンダーライン)」を、「括弧」に換へると、
I read(English).
従って、
(02)
読(英語)=動詞(目的語)。
であるものの、「漢文」の場合は、
目的語と補語とは、それほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と読んだり、単に補語と読んだりしている(数研出版、チャート式 基礎からの漢文、1982年、26頁)。
然るに、
(03)
荻生徂徠が「主語」である時、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 読(英語)=(英語を)読む。
に於いて、
① は「真(1)」であるが、
② は「偽(0)」である。
(04)
ラッセルが「主語」である時、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 読(英語)=(英語を)読む。
に於いて、
① は「偽(0)」であって、
② は「真(1)」である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 読(英語)=(英語を)読む。
は、「主語」によって、「真偽(1・0)」が決まるといふ「意味」で、
「主語の関数」であり、(02)により、
① 読( )=( を)読む。
② 読( )=( を)読む。
は、「補語の関数」である。
然るに、
(06)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「真(1)」である時、
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「偽(0)」であって、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「偽(0)」である時、
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「真(1)」である。
加へて、
(07)
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「真(1)」である時、
③ 非[ 不〔 読(漢文)]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「偽(0)」であって、
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「偽(0)」である時、
③ 非[ 不〔 読(漢文)]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「真(1)」である。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
③ 非[ 不〔 読( )]。
は、「関数の、関数の、関数」である。
然るに、
(09)
④ 常読(漢文)⇒
④ 常(漢文)読=
④ 常に(漢文を)読む。
の場合は、
④ 常〔読(漢文)〕⇒
④ 〔(漢文)読〕常=
④ 〔(漢文を)読むこと〕常なり。
といふ風にも、「訓読」出来る。
cf.
「原田種成、私の漢文講義、1995年、56頁」。
従って、
(10)
④ 非不常読漢文。
の場合は、
④ 非{不[常〔読(漢文)〕]}⇒
④ {[〔(漢文)読〕常]不}非=
④ {[〔(漢文を)読むこと〕常なら]不るに}非ず。
といふ風に、「訓読」出来る。
従って、
(08)(10)により、
(11)
④ 非{不[常〔読( )〕]}。
は、「関数の、関数の、関数の、関数」であるが、
それと同時に、(02)により、
④ 非{不[常〔読(漢文)〕]}は、
は、「補足の、補足の、補足の、補足」である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
④ 非不常読漢文 ⇒
④ 漢文を読むこと常なら不るに非ず。
といふ「漢文訓読」が、可能である所以は、
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)からである。
といふ、ことになる。
然るに、
(13)
④ 非不常読漢文=
④ 非{不[常〔読(漢文)〕]}⇒
④ {[〔(漢文)読〕常]不}非=
に対して、
⑤ 非不久如天然読漢文=
⑤ 非{不[〔久如(日月)然〕読(漢文)]}⇒
⑤ {[〔久(日月)如然〕(漢文)読]不}非=
⑤ 久しきこと日月の如く然うして漢文を読ま不んば非ず。
であれば、
④ 漢文を読むこと常なら不るに非ず。
といふ「意味」には、とれない。
従って、
(14)
仮に、
久如日月然=常
といふ「イデオム」が、「漢文」に有って、
④ 非不常読漢文=
⑤ 非不久如日月然読漢文。
であったとする。ならば、
④ 非不常読漢文=
⑤ 非不久如日月然読漢文=
⑤ 久しきこと日月の如く然うして漢文を読ま不んば非ず。
となって、「意味」が、通じないが故に、この場合の「漢文」は、「訓読」には適さない。
然るに、
(15)
久如日月然=常(always)
といった、このような「イディオム」は、実際には無い。
然るに、
(16)
「英語」に対して「括弧(返り点)」を付けてみて分かることは、とにかく、「英語」は「イディオム」が多い。といふことである。
(17)
例へば、
彼らはお金が足りなくなった=
They have run short of money.
その船は波にもてあそばれている=
The ship is at the mercy of the waves.
のやうに、「イディオム」が用ゐられてゐる場合は、「返り点(括弧)」を付けることは、出来ない。
加へて、
(18)
あなたは誰ですか=
Who are you?
机の上に本が有る=
There is a book on the desk.
私が漢文を読まないといふことは、本当ではない=
It is not true that I don’t read 漢文.
等には、「返り点(括弧)」を付けることが、出来ない。
然るに、
(19)
I don’t〔read(English)〕⇒
I 〔(English)read〕 don’t=
私は〔(英語を)読ま〕ない。
に対しては、「返り点(括弧)」を付けることが、出来る。
従って、
(12)~(19)により、
(20)
「漢文は、その補足構造における語順が、国語とは全く反対である。」が故に、「漢文訓読」が、可能である一方で、「英語は、その補足構造における語順が、国語とは反対である場合もあり、尚且つ、イディオムなどが多く有る。」が故に、「英文訓読」は、可能である場合と、さうでない場合がある。といふ、ことになる。
従って、
(21)
「漢文」が、仮に、「英語」のやうな「言語」であれば、
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう(ある言語教育関連の新聞の連載コラム、西洋文化研究者)。」と、言はれる前に、「英文訓読」が、さうであるやうに、「漢文訓読」は、成立してゐなかった。ことになる。
従って、
(22)
「漢文訓読」と、「英文訓読」を、同一に論じることは、出来ないのあって、「英文訓読」は、固より、それが出来なかった。といふことに、過ぎない。
平成26年11月02日、毛利太。
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