(01)
A=祝鮀の佞有り。
B=宋朝の美有り。
C=今の世に免るること難し(今の世ではやって行けない)。
とする。
然るに、
(02)
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① ~(A)&B→C
② ~(A&B)→C
である。
然るに、
(04)
② ~(A&B)→C
の「対偶」は、
② ~C→(A&B)
である。
然るに、
(05)
「AならばB」と「BでないならAでない」との真偽は一致するので、このようなときには対偶「BでないならAでない」のほうを証明すれば「AならばB」を証明できる(対偶論法)。(ウィキペディア)
従って、
(04)(05)により、
(06)
② ~(A&B)→C
といふ「命題」は、その「対偶」である、
② ~C→(A&B)
といふ「命題」に、等しい。
然るに、
(07)
数学上の必要条件,十分条件は,pならばq(記号では,p→q)という関係が成り立つかどうかで決まります.
pならばq
(記号で表わせば,p→q)
が成り立つとき,
「pはqであるための十分条件」,
「qはpであるための必要条件」
といいます.(Webサイト:必要条件、十分条件)
従って、
(01)(06)(07)により、
(08)
A=祝鮀の佞有り。
B=宋朝の美有り。
C=今の世に免るること難し。
② ~(A&B)→C=~C→(A&B)
に於いて、
(A&B)=祝鮀の佞が有って、宋朝の美も有る。
といふことは、
~C=今の世に免るることを難しくしない。
といふことに対する、「必要条件」である。
従って、
(09)
② ~(A&B)→C=~C→(A&B)
といふ「命題」は、
② 今の世に免るることを難しくしないためには、
② 祝鮀の佞と、宋朝の美が、「必要」である。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(10)
② 祝鮀の佞と、宋朝の美が、「必要」である。
といふことは、
② 宋朝の美と、祝鮀の佞が、「必要」である。
といふことに、他ならない。
従って、
(09)(10)により、
(11)
② ~(A&B)→C=~C→(A&B)
といふ「命題」は、
② 今の世に免るることを難しくいないためには、
② 宋朝のやうにハンサムであって、祝鮀のやうな弁舌を備へてゐなければならない。
といふ、「意味」になる。
従って、
(11)により、
(12)
② ~(A&B)→C=~C→(A&B)
であれば、
② ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめて、やってゆける。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(13)
② ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめて、やってゆける。
といふ「日本語」は、
② 弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、やってゆけない。
といふ「日本語」に、等しい。
従って、
(12)(13)により、
(14)
② ~(A&B)→C=~C→(A&B)
であれば、
② 弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、やってゆけない(ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめてやってゆける)。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(15)
① ~(A)&B→C=(A∨~B)∨C
であれば、
① 弁舌がなくて、ハンサムであるならば、やってゆけない。
といふ、「意味」である。
cf.
含意の定義、ド・モルガンの法則、二重否定律。
然るに、
(16)
① 弁舌がなくて、ハンサムであるならば、
といふことは、
① 弁舌がある場合。
については、「やってゆけるとも、やってゆけないとも、言ってゐない」。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
① ~(A)&B→C=(A∨~B)∨C
① 弁舌がなくて、ハンサムであるならば、やってゆけない。
② ~(A&B)→C=(A& B)∨C
② 弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、やってゆけない(ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめてやってゆける)。
に於いて、
①と②は、「等しくない」。
然るに、
(18)
①の場合、すなわち -a+b であると訳すと「弁舌はなくても、ハンサムというのは、あぶない(ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめてやってゆける)」ということになる。②の場合は、すなわち、-(a+b)であると「弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、
やってゆけない」ということになる。どちらが正しいか(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、325・326頁)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
二畳庵主人こと、加地伸行先生の説明は、
① -a+b =ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめてやってゆける
② -(a+b)=弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、やってゆけない。
といふ風に、①と②を、「混同」してゐる。
すなはち、
(20)
① ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめてやってゆける。
② 弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、やってゆけない。
とするのであれば、両方とも、
① -(a+b)
② -(a+b)
でなければ、ならないものの、加地伸行先生は、
① -a+b
② -(a+b)
といふ風に、書かれてゐる。
然るに、
(21)
子曰、不有祝鮀之佞、而有宋朝之美、難乎、免於今之世矣。
子の曰く、祝鮀の佞あらずして宋朝の美あるは、難いかな、今の世に免るること。
*新注では、「祝鮀の佞のありて宋朝の美あらずんば、」と読み、佞美の両方がなければと解する。
(金谷治 訳注、論語、1963年、115・116頁)
(22)
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であるが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
(23)
古注の読み方を変えた朱子は、例によって、徂徠から古代の読み方を知らぬ者と、やっつけられているが、徂徠から百年ばかりのちの、古代語の大家、清の王引之の経伝釈詞の説は、かえって朱子に同じい(吉川幸次郎、論語上、1965年、167頁)。
従って、
(02)(03)(17)~(23)により、
(24)
① ~(A)&B→C
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
であるか、
② ~(A&B)→C
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
であるかの、どちらか一方である。
といふ、ことになる。
従って、
(25)
このように「不」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
といふ、ことになる。
然るに、
(26)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁:命題論理、今仁生美)
然るに、
(27)
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
に於いて、「どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみること」を、「述語と、その補足語」に関して、「括弧」を用ゐて行ふのであれば、例へば、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
といふ、ことになる。
然るに、
(28)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。目的語と補語とはそれほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と呼んだり、単に補語と呼んだりしている(江連隆、基礎からの漢文、1993年、26頁)。
従って、
(27)(28)により、
(29)
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文(論語、雍也一七)」に、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
といふ「補足構造」があるならば、「国語」には、
① 〔(祝鮀の佞)有ら〕ずして(宋朝の美)有らば、難いかな、(今に世に)免るること。
といふ「補足構造」が有る。といふことなる。
然るに、
(30)
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
といふ「漢文」を、
① 〔(祝鮀の佞)有ら〕ずして(宋朝の美)有らば、難いかな、(今に世に)免るること。
といふ「語順」で「訓読」するのであれば、
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文」には、
① 不レ有二祝鮀之佞一而有二宋朝之美一難乎、免二於今之世一矣。
といふ「返り点」が、付くことになる。
従って、
(27)~(30)により、
(31)
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文」に、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
といふ「補足構造」が有ると、思ふからこそ、
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文」に、
① 不レ有二祝鮀之佞一而有二宋朝之美一難乎、免二於今之世一矣。
といふ「返り点」が、付くことになる。
(32)
② 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文」に、
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
といふ「補足構造」が有ると、思ふからこそ、
② 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文」に、
② 不下有二祝鮀之佞一而有中宋朝之美上難乎、免二於今之世一矣。
といふ「返り点」が、付くことになる。
従って、
(33)
初めに括弧ありき。括弧は漢文とともにありき。
である。
従って、
(34)
私自身は、「返り点とは、漢文すなわち古典中国語の語順を、日本語の語順に変換する符号である(古田島洋介・湯城吉信、漢文訓読入門、平成23年、45頁)。」といふ風には、思ってゐない。
(35)
「漢文には、補足構造といふ名の、括弧が有って、然る後に、返り点が有る。」が故に、「返り点は、補足構造といふ名の、括弧の、代用である。」といふ風に、私自身は、思ってゐる。
平成29年04月28日、毛利太。
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