2021年1月1日金曜日

「3Bは坂本が担任である」の「述語論理」:三上文法批判。

(01)
① 3Bは、坂本担任である。
② 3Bは、坂本担任である。
に於いて、
① は、「普通」であって、
② は、「普通」ではない
然るに、
(02)
1     (1)∀x{3Bx→∃y[(坂本y&担任yx)&∀z(担任zx→(z=y)]} A
1     (2)   3Ba→∃y[(坂本y&担任ya)&∀z(担任za→(z=y)]  1UE
 3    (3)   3Ba                               A
13    (4)       ∃y[(坂本y&担任ya)&∀z(担任za→(z=y)]  23MPP
  5   (5)          (坂本b&担任ba)&∀z(担任za→(z=b)   A
  5   (6)           坂本b&担任ba                  5&E
  5   (7)                     ∀z(担任za→(z=b)   5&E
  5   (8)                        担任ca→(c=b)   7UE
   9  (9)        ∃z(渡辺z&~坂本z)                 A
    ア (ア)           渡辺c&~坂本c                  A
    ア (イ)           渡辺c                       ア&E
    ア (ウ)               ~坂本c                  ア&E
  5   (エ)           坂本b                       5&E
     オ(オ)                  c=b                A
  5  オ(カ)           坂本c                       エオ=E
  5 アオ(キ)           坂本c&~坂本c                  ウカ&I
  5 ア (ク)                  c≠b                オキRAA
  5 ア (ケ)                       ~担任ca         8クMTT
  5 ア (コ)           渡辺c&~担任ca                 イケ&I
  5 ア (サ)        ∃z(渡辺z&~担任za)                コEI
  59  (シ)        ∃z(渡辺z&~担任za)                9アサEE
13 9  (ス)        ∃z(渡辺z&~担任za)                45シEE
1  9  (セ)    3Ba→∃z(渡辺z&~担任za)                3スCP
1  9  (ソ) ∀x{3Bx→∃z(渡辺z&~担任zx)}                セUI
従って、
(02)により、
(03)
(ⅰ)∀x{3Bx→∃y[(坂本y&担任yx)&∀z(担任zx→(z=y)]}。然るに、
(ⅱ)∃z(渡辺z&~坂本z)。従って、
(ⅲ)∀x{3Bx→∃z(渡辺z&~担任zx)}。
といふ「推論」、すなはち、
(ⅰ)すべてのxについて{xが3Bならば、あるyは[(坂本であって、xの担任であって)、すべてのzについて(zがxの担任であるならば、zとyは、「同じ人物」である)]}。然るに、
(ⅱ)あるzは(渡辺であって、坂本ではない)。従って、
(ⅲ)すべてのxについて{xが3Bならば、あるzは渡辺であって、zは、xの担任ではない}。
といふ「推論」は、「妥当」である。
従って、
(03)により、
(04)
(ⅰ)3Bは、坂本担任である。然るに、
(ⅱ)渡辺は、坂本ではない。従って、
(ⅲ)3Bは、渡辺、担任ではない。
といふ「推論」は、「妥当」である。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① 3Bは、坂本担任である。⇔
① 3Bは、坂本は担任であり、坂本以外は担任ではない。⇔
① ∀x{3Bx→∃y[(坂本y&担任yx)&∀z(担任zx→(z=y)]}⇔
① すべてのxについて{xが3Bならば、あるyは[(坂本であって、xの担任であって)、すべてのzについて(zがxの担任であるならば、zとyは、「同じ人物」である)]}。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(06)
三上章(みかみあきら)が提唱。「」は文末まで働くが(この機能を主題と言う。)「」は用言の語幹までしか働かない(この機能を主格と言う。)という、機能上大きな違いがあるのであって、両者を「主語」を表わす助詞として一括するのは、西洋文法を無批判に取り入れた結果であると痛烈に批判​した。​三上章の主語廃止論は、これまで「主語」という括りで「ハ」と「ガ」を同一視していたものを、「主題」(文全体のレベル)と「主格」(命題レベル)という2つの異なる次元のものであるということを明確にした点で、日本語の文法(統語論)に大きく貢献したといえます(主語廃止論(しゅごはいしろん) | 株式会社篠研)。
従って、
(06)により、
(07)
>「ガ」は用言の語幹までしか働かないが(この機能を主格と言う。)「ハ」は文末まで働くが(この機能を主題と言う。)
従って、
(07)により、
(08)
① 3年B組、坂本先生の、担任である。
② 2年C組、坂本先生の、担任ではない。
に於いて、
① 3年B組 の「意味」は、「担任である(文末)」にまで、届いてゐないが、
② 2年C組 の「意味」は、「担任でない(文末)」にまで、届いてゐる)。
然るに、
(09)
① 3年B組、坂本先生の、担任である。
② 2年C組、坂本先生の、担任ではない。
に於いて、
① 3年B組 の「意味」は、「担任である(文末)」にまで、届いてゐないが、
② 2年C組 の「意味」は、「担任でない(文末)」にまで、届いてゐる
といふことは、有り得ない
(10)
「命題(proposition)」といふのは、「フィクション」であれ「現実」であれ、「本当か、ウソか」を「判断し得る文」を言ふ。
従って、
(10)により、
(11)
① 3年B組、坂本先生の、担任である。
② 2年C組、坂本先生の、担任ではない。
といふ「文全体」は、「命題」である。
従って、
(12)
>ハ」と「ガ」を同一視していたものを、「主題」(文全体のレベル)と「主格」(命題レベル)という2つの異なる次元のものであるということを明確にした。
といふ場合の、「文全体のレベル」といふ「用語」と、「命題レベル」といふ「用語」の「違ひ」が、私には、「理解」出来ない。
(13)
ギリシャ語では通常
αποστολος λεγει λογον である。だが、
λεγει αποστολος λογον も、
λογον λεγει αποστολος も共に全く可能である。
だから、和訳、英訳は、共に順序ではなく、語尾を観察することによって決定しなければならない。
(J・G・メイチェン著、田辺滋訳、新約聖書ギリシャ語原典入門、1974年、29頁)
従って、
(13)により、
(14)
ギリシャ語であれば、例へば、
① λογον(目的格) ανθρωποις(与格) αποστολος(主格) λεγει(動詞).
② λεγει(動詞) αποστολος(主格) ανθρωποις(与格) λογον(目的格).
③ λογον(目的格) ανθρωποις(与格) λεγει(動詞) αποστολος(主格).
といふ「語順」は、3つとも、
① An apostle say a word to(the)people(言葉を、人々に、使徒が、言ふ). といふ「意味」である。
然るに、
(15)
文章の主語は、主格で表される。それゆえ、αποστολος γινωσκει は、「使徒は知る」(An apostle knows)という意味である。
(J・G・メイチェン著、田辺滋訳、新約聖書ギリシャ語原典入門、1974年、27頁)
従って、
(15)により、
(16)
「ギリシャ語や、ラテン語の教科書」でいふ所の、「主格(nominative)」といふのは、要するに、「主語」を表す所の「語形」である。
加へて、
(17)
格助詞「」には、『主格』『連体修飾格』『同格』『体言の代用』の4つの用法があります。
格助詞「」の『主格』用法
主格とは、格助詞の付いた語が主語になることを示します。
(国語 古文 漢文 徹底研究)
現代語訳はそのまま「~が」となります。
例文で確認してみましょう。
例文『主格』
(1)雀(すずめ)の子を、犬君(いぬき)が逃がしつる 〔源氏物語〕
(現代語訳:雀の子を、犬君(=召使の童女の名)が逃がしてしまったの)
従って、
(06)(15)(16)(17)により、
(18)
>文章の主語は、主格で表される。
主格とは、格助詞の付いた語が主語になることを示します。
といふことからすれば、
三上章先生が行ふ所の、「主語」と「主格」を「区別」する「説明」は、私には、「理解」出来ない。
令和三年正月元日、毛利太。

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