(01)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁:命題論理、今仁生美)
然るに、
(02)
① 我不常読中国語。
に於いて、
① 不 の「意味」が、常読中国語 に及んでゐることを、「括弧」を用ゐて、
① 我不(常読中国語)。
といふ風に、書くことにする。
(03)
① 我不(常読中国語)。
に於いて、
① 我 の「意味」は、不 を介して、(常読中国語)に及んでゐる。
(04)
② 我不(常読中国語)。
に於いて、
② 読 の「意味」が、中国語 に及んでゐることを、
② 我不〔常読(中国語)〕。
といふ風に、書くことにする。
(05)
② 我不〔常読(中国語)〕。
に於いて、
② 常 の「意味」は、読 を介して、(中国語)に及んでゐる。
然るに、
(06)
② 我不〔常読(中国語)〕。
にならって、
③ 我非必求以解中国語法解漢文者也。
に対して、「括弧」を用ゐると、
③ 我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
といふ、ことになる。
従って、
(02)~(06)により、
(07)
③ 我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
に於いて、
③ 非 の「意味」は、{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}に及んでゐて、
③ 求 の「意味」は、 [以〔解(中国語)法〕解(漢文)] に及んでゐて、
③ 以 の「意味」は、 〔解(中国語)法〕 に及んでゐて、
③ 解 の「意味」は、 (中国語) に及んでゐて、
③ 解 の「意味」は、 (漢文) に及んでゐる。
従って、
(07)により、
(08)
③ 我非必求以解中国語法解漢文者也。
に於ける、
③ 非 の「意味」が及ぶ「範囲」を確定し、
③ 求 の「意味」が及ぶ「範囲」を確定し、
③ 以 の「意味」が及ぶ「範囲」を確定し、
③ 解 の「意味」が及ぶ「範囲」を確定し、
③ 解 の「意味」が及ぶ「範囲」を確定した「結果」が、
③ 我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)者]}也。
である。
然るに、
(09)
③ 我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
に於ける「括弧」は、
③ 我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造」を表してゐると、「仮定」する。
然るに、
(10)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治、
中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(09)(10)により、
(11)
③ 我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」に、
③ 我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
といふ「補足構造」が有るのであれば、
③ 我は必ずしも中国語を解する法を以て漢文を解せんことを求むる者に非ざる也。
といふ「国語」には、
③ 我は{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ざる也。
といふ「補足構造」が、無ければならない。
従って、
(07)~(11)により、
(12)
③ 我非必求以解中国語法解漢文者也。
に於ける「補足構造」を、
③ 我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
のやうに、「確定」し、
(13)
③ 我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
に対して、
非{ }⇒{ }非
求[ ]⇒[ ]求
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
解( )⇒( )解
といふ「移動」を行ひ、その上で、
(14)
③ は{ ずしも[〔( を) する を〕以て( を) せんことを] むる に} ざる
といふ風に、「平仮名」を、補ふことによって、
③ 我は{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ざる也。
といふ「漢文訓読」が成立する。
然るに、
(15)
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様ものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
(16)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
(17)
かつて漢文学科だった学科や漢文学専攻は、いま、そのほとんすべてが中国文学科や中国文学専攻になってしまっている。そこでは、当然、中国語も履修することになっていて、そこで学んだ方々は、古代の中国文も現代の中国音で発音できるし、またそういう出身の先生は、得意げにそういうように読んでも聞かせたりするもののようである。そこで、日本文学科出身の国語科の先生や、教育学部の国語専修などの出身の先生は、漢文は嫌いではないのだが、生徒からなにか、偽者のように思われて辛い、と聞くことがあったりするのである(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、36頁)。
(18)
古来、日本人は訓読といふ方法で漢文を読んできました。訓読は漢文を読む技術として有効なだけでなく、日本語にも大きな影響を与え、漢文訓読それ自体が一つの日本文化だと言っても過言ではないでしょう。その漢文訓読が、現在、中学・高校で丁寧に教えられているとは言えません。大学においても、十分に漢文を訓読する練習をしていない学生が国語科の教員免許状を取得してしているのが実情ではないかと危惧します。―中略―、漢文訓読の灯が消えることは、日本文化にとって大きな損失です。そのような危機意識のもとに本書を著しました。本書がそれを防ぐ一助になれば幸いです(古田島洋介・湯城吉信、漢文訓読入門、平成23年、はじめに)。
従って、
(15)~(18)により、
(19)
「漢文訓読」といふ「日本語」は、ILISH の如く、絶滅に向ひつつある所の、「風前の灯」である。
然るに、
(20)
「古代の中国文も現代の中国音で発音できるし、またそういう出身の先生は、得意げにそういうように読んでも聞かせたりする」教師に対してであっても、例へば、
③ 我非必求以解中国語法解漢文者也。
に於ける、
③ 非 の「意味」が及ぶ「範囲」を質問し、
③ 求 の「意味」が及ぶ「範囲」を質問し、
③ 以 の「意味」が及ぶ「範囲」を質問し、
③ 解 の「意味」が及ぶ「範囲」を質問し、
③ 解 の「意味」が及ぶ「範囲」を質問することは、可能である。
従って、
(21)
その「質問」に対する「答へ」が、
③ 非 の「意味」は、{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}に及んでゐて、
③ 求 の「意味」は、 [以〔解(中国語)法〕解(漢文)] に及んでゐて、
③ 以 の「意味」は、 〔解(中国語)法〕 に及んでゐて、
③ 解 の「意味」は、 (中国語) に及んでゐて、
③ 解 の「意味」は、 (漢文) に及んでゐる。
であるならば、
③ 我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」には、
③ 我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
といふ「補足構造」が有る。といふ、ことになる。
従って、
(12)(13)(14)(21)により、
(22)
漢文訓読よりも、現代中国語の方が得意な、教師に対してであっても、
③ 我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」に対する、「訓読」が、
③ 我は{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ざる也。
であり得るのか、といふことを、「質問」することは、可能である。
従って、
(23)
漢文訓読よりも、現代中国語の方が得意な、教師に対してであっても、
(Ⅰ)で示す「漢文」に対する「訓読」が、
(Ⅱ)のやうであって、「良いのか否か」といふことを、
(Ⅲ)で示す「括弧」を用ゐて、「質問」することは、可能である。
(Ⅰ)
庚子。集賢殿副提學崔萬理等、上疏曰、『臣等伏覩、諺文制作、至爲神妙、創物運智、夐出千古。然以臣等區區管見、尚有可疑者。敢布危懇、謹疏于後、伏惟聖裁。』
一、我朝自祖宗以來、至誠事大、一遵華制。今當同文同軌之時、創‐作諺文有駭觀聽。黨曰、『諺文皆本古字、非新字也。』則字形雖倣古之篆文、用音合字、盡反於古、實無所據、若流中國、或有非‐議之者、豈不有愧於事大慕華。
一、自古九州之内、風土雖異、未有因方言而別爲文字者。唯蒙古・西夏・女眞・日本・西蕃之類、各有其字、是皆夷狄事耳、無足道者。傳曰、『用夏變夷、未聞於夷者也。』歴代中國皆以我國有箕子遺風。文物・禮樂比擬中華。今別作諺文、捨中國而自同於夷狄。是所謂棄蘇合之香而取螗螂之丸也。豈非文明之大累哉。
一、新羅薛聰吏讀、雖爲鄙俚、然皆借中國通行之字、施於語助、與文字元不相離。故雖至胥吏僕之徒、必欲習之、先讀數書、粗知文字、然後乃用吏讀。用吏讀者、須馮文字、乃能達意。故因吏讀而知字者頗多、亦興學之一助也。若我國元不知文字、如結繩之世、則姑借諺文、以資一時之用猶可、而執正議者、必曰『與其行諺文以姑息、不如寧遲緩而習中國通行之文字、以爲久長之計也。』而況吏讀行之數千年、而簿書期會等事、無有防礎者。何用改舊行無弊之文、別創鄙諺無益之字乎。若行諺文、則爲吏者專習諺文。不顧學問文字、吏員岐而爲二。苟爲吏者以諺文而宦達、則後進皆見其如此也、以爲『二十七文字諺文足以立身於世、何須苦心勞思、窮性理之學哉。』如此則數十年之後、知文字者必少、雖能以諺文而施於吏事、不知聖賢之文字、則不學墻面、昧於事理之是非。徒工於諺文、將何用哉。我國家積累右文之化、恐漸至掃地矣。前此吏讀雖不外於文字、有識者尚且鄙之、思欲以吏文易之。而況諺文與文字暫不干渉、專用委巷俚語者乎。借使諺文自前朝有之、以今日文明之治・變魯至道之意、尚肯因循而襲之乎。必有更張之議者、此灼然可知之理也。厭舊喜新、古今通患。今此諺文不過新奇一藝耳。於學有損於治無益、反覆籌之未見其可也。
cf.
「東洋文庫、訓民正音、2010年、P136~P145」
(Ⅱ)
庚子。集賢殿副提學崔萬理等、上疏して曰く、『臣等伏して覩るに、諺文の制作、至って(神妙)爲り、創物運智、夐かに(千古を)出づ。然れども(臣等の區區管見を)以てするに、尚ほ〔(疑ふ)可き者〕有り。敢へて(危懇を)布き、謹んで(後に)疏し、伏して(聖裁を)惟ふ。』
一、我朝(祖宗)自り以來、至誠に(大に)事へ、一に(華制に)遵ふ。今(同文同軌の時に)當り、(諺文)創‐作するに(駭きて觀聽する)有り。黨しくは曰く、『諺文は皆(古字に)本づき、(新字に)非ざるなり。』則ひ字形〔(古の篆文に)倣ふと〕雖も、(音を)用ひ(字を)合はすは、盡く(古に)反す、實に〔(據る)所〕無し、若し(中國に)流れ、或は〔(之を)非‐議する者〕有らば、豈に{[〔(大に)事へ(華を)慕ふに〕愧ずること]有ら}ざらんや。
一つ、(古)自り九州の内、風土(異なると)雖も、未だ[〔(方言に)因りて別に(文字を)爲す者〕有ら]ず。唯だ蒙古・西夏・女眞・日本・西蕃之類、各々(其の字)有るは、是れ皆夷狄の事のみ、〔(道ふに)足る者〕無し。傳に曰く、『(夏を)用ひて(夷を)變ずるも、未だ[〔(夷に)變ずる者を〕聞か]ざるなり。』歴代の中國、皆(我國を)以て(箕子の遺風)有りとし、文物・禮樂は(中華)に比‐擬す。今、別に(諺文を)作り、(中國を)捨て、自ら(夷狄と)同じくす。是れ所謂(蘇合の香を)棄て(螗螂の丸)取るなり。豈に(文明の大累に)非ざらんや。
一つ、新羅の薛聰の吏讀は、〔(鄙俚)爲りと〕雖も、然れども皆(中國通行の字を)借り、(語助を)施し、(文字)と元々(相ひ離れ)ず。故に〔(至胥吏僕の徒)至ると〕雖も、必ず〔(之を)習はんと〕欲せば、先ず(數書を)讀み、粗ぼ(文字を)知りて、然る後に乃ち(吏讀を)用ゐる。(吏讀を)用ゐる者は、須らく(文字に)馮り、乃ち能く(意を)達す。故に(吏讀に)因りて(字を)知る者頗る多く、亦た興學の一助なり。若し我が國元々〔(文字を)知ら〕ず、(結繩の世の)如くんば、則ち姑く(諺文を)借り、以て(一時の用に)資するも猶ほ可なれども、(正議を)執る者、必ず曰く『〔其の(諺文を)行ひ(姑息を)以ってする〕與りは、[〔寧ろ遲緩なれども(中國通行の文字を)習ひ、以て(久長の計を)爲すに〕如か]ざるなり。』而も況んや吏讀は、(之を)行ふこと數千年にして、簿書・期會等の事、[〔(礎を)防ぐる者〕有ること]無し。何の用にか(舊行無弊の文を)改め、別に(鄙諺無益の字を)創らんむや。若し(諺文を)行はば、則ち(吏)爲る者は專ら(諺文を)習ひ。〔(學問・文字を)顧み〕ず、吏員は岐れて(二と)爲らむ。苟くも(吏)爲る者、(諺文を)以て宦達すれば、則ち後進、皆〔其の(此くの)如き〕見るや、以爲く『二十七文字の諺文[以て〔(世に)身を〕立つるに]足らば、何ぞ須く〔苦心勞思し、(性理の學を)窮む〕可きや。』(此くの)如くん則ち數十年の後、(文字を)知る者は必ず少なく、〔能く(諺文を)以て(吏事に)施すと〕雖も、〔(聖賢の文字を)知ら〕ずんば、則ち不學墻面にして、(事理の是非に)昧し。徒に(諺文に)工なるは、將た何ぞ用ひんや。我が國家積累右文の化、〔漸く(掃地するに)至るを〕恐る。(此に)前つ吏讀は[〔(文字を)外れ〕ざると]雖も、(識)有る者は尚ほ且つ(之を)鄙み、思ひて〔(吏文を)以て(之に)易へんと〕欲す。而るに況んや諺文は(文字)と暫く(干渉せ)ず、專ら(委巷の俚語を)用ゐる者をや。借-使ひ諺文(前朝)自り(之)有るとも、(今日の文明の治・變魯至道の意を)以てすら、尚ほ(因循を)肯じて(之を)襲ぬるや。必ず(更張の議)有るは、此れ灼然として可知の理なり。(舊を)厭ひ(新しきを)喜ぶは、古今の通患なり。今、此の諺文〔(新奇の一藝に)過ぎ〕ざるのみ。(學に)於て(損)有り(治)於て(益)無く、反覆して(之を)籌れども未だ〔(其の可なるを)見〕ざるなり。
(Ⅲ)
庚子。集賢殿副提學崔萬理等、上疏曰、『臣等伏覩、諺文制作、至爲(神妙)、創物運智、夐出(千古)。然以(臣等區區管見)、尚有〔可(疑)者〕。敢布(危懇)、謹疏(于後)、伏惟(聖裁)。』
一、我朝自(祖宗)以來、至誠事(大)、一遵(華制)。今當(同文同軌之時)、創‐作(諺文)有(駭觀聽)。黨曰、『諺文皆本(古字)、非(新字)也。』則字形雖〔倣(古之篆文)〕、用(音)合(字)、盡反(於古)、實無〔所(據)〕、若流(中國)、或有〔非‐議(之)者〕、豈不{有[愧〔於事(大)慕(華)〕]}。
一、自(古)九州之内、風土雖(異)、未[有〔因(方言)而別爲(文字)者〕]。唯蒙古・西夏・女眞・日本・西蕃之類、各有(其字)、是皆夷狄事耳、無〔足(道)者〕。傳曰、『用(夏)變(夷)、未[聞〔變(於夷)者〕]也。』歴代中國皆以(我國)有(箕子遺風)、文物・禮樂比‐擬(中華)。今別作(諺文)、捨(中國)而自同(於夷狄)。是所謂棄(蘇合之香)而取(螗螂之丸)也。豈非(文明之大累)哉。
一、新羅薛聰吏讀、雖〔爲(鄙俚)〕、然皆借(中國通行之字)、施(於語助)、與(文字)元不(相離)。故雖〔至(胥吏僕之徒)〕、必欲〔習(之)〕、先讀(數書)、粗知(文字)、然後乃用(吏讀)。用(吏讀)者、須馮(文字)、乃能達(意)。故因(吏讀)而知(字)者頗多、亦興學之一助也。若我國元不〔知(文字)〕、如(結繩之世)、則姑借(諺文)、以資(一時之用)猶可、而執(正議)者、必曰『與〔其行(諺文)以(姑息)〕、不[如〔寧遲緩而習(中國通行之文字)、以爲(久長之計)〕]也。』而況吏讀行(之)數千年、而簿書期會等事、無[有〔防(礎)者〕]。何用改(舊行無弊之文)、別創(鄙諺無益之字)乎。若行(諺文)、則爲(吏)者專習(諺文)。不〔顧(學問・文字)〕、吏員岐而爲(二)。苟爲(吏)者以(諺文)而宦達、則後進皆見〔其如(此)〕也、以爲『二十七文字諺文足[以立〔身(於世)〕]、何須〔苦心勞思、窮(性理之學)〕哉。』如(此)則數十年之後、知(文字)者必少、雖〔能以(諺文)而施(於吏事)〕、不〔知(聖賢之文字)〕、則不學墻面、昧(於事理之是非)。徒工(於諺文)、將何用哉。我國家積累右文之化、恐〔漸至(掃地)〕矣。前(此)吏讀雖[不〔外(於文字)〕]、有(識)者尚且鄙(之)、思欲〔以(吏文)易(之)〕。而況諺文與(文字)暫不(干渉)、專用(委巷俚語)者乎。借-使諺文自(前朝)有(之)、以(今日文明之治・變魯至道之意)、尚肯(因循)而襲(之)乎。必有(更張之議)者、此灼然可知之理也。厭(舊)喜(新)、古今通患。今此諺文不〔過(新奇一藝)〕耳。於(學)有(損)於(治)無(益)、反覆籌(之)未〔見(其可)〕也。
(24)
漢文訓読よりも、現代中国語の方が得意な、教師に対して、例へば、
④ 尚有可疑者。
に於いて、
④ 有 は、可疑者 に及んでゐて、
④ 可 は、 疑 に及んでゐる。
のか、といふ「質問」を、行ふことが、出来る。
(25)
その結果として、教師の「答へ」が、仮に、「YES」であるならば、
④ 尚有可疑者。
といふ「漢文」には、
④ 尚有〔可(疑)者〕。
といふ「補足構造」が、有ることになる。
従って、
(10)(25)により、
(26)
④ 尚有可疑者。
といふ「漢文」は、その教師の「説」により、
④ 尚〔(疑ふ)可き者〕有り。
といふ風に、「訓読」しても良い。
といふ、ことになる。
平成29年04月29日、毛利太。
2017年4月29日土曜日
2017年4月27日木曜日
「必要条件(祝鮀之佞&宋朝之美)」。
(01)
A=祝鮀の佞有り。
B=宋朝の美有り。
C=今の世に免るること難し(今の世ではやって行けない)。
とする。
然るに、
(02)
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① ~(A)&B→C
② ~(A&B)→C
である。
然るに、
(04)
② ~(A&B)→C
の「対偶」は、
② ~C→(A&B)
である。
然るに、
(05)
「AならばB」と「BでないならAでない」との真偽は一致するので、このようなときには対偶「BでないならAでない」のほうを証明すれば「AならばB」を証明できる(対偶論法)。(ウィキペディア)
従って、
(04)(05)により、
(06)
② ~(A&B)→C
といふ「命題」は、その「対偶」である、
② ~C→(A&B)
といふ「命題」に、等しい。
然るに、
(07)
数学上の必要条件,十分条件は,pならばq(記号では,p→q)という関係が成り立つかどうかで決まります.
pならばq
(記号で表わせば,p→q)
が成り立つとき,
「pはqであるための十分条件」,
「qはpであるための必要条件」
といいます.(Webサイト:必要条件、十分条件)
従って、
(01)(06)(07)により、
(08)
A=祝鮀の佞有り。
B=宋朝の美有り。
C=今の世に免るること難し。
② ~(A&B)→C=~C→(A&B)
に於いて、
(A&B)=祝鮀の佞が有って、宋朝の美も有る。
といふことは、
~C=今の世に免るることを難しくしない。
といふことに対する、「必要条件」である。
従って、
(09)
② ~(A&B)→C=~C→(A&B)
といふ「命題」は、
② 今の世に免るることを難しくしないためには、
② 祝鮀の佞と、宋朝の美が、「必要」である。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(10)
② 祝鮀の佞と、宋朝の美が、「必要」である。
といふことは、
② 宋朝の美と、祝鮀の佞が、「必要」である。
といふことに、他ならない。
従って、
(09)(10)により、
(11)
② ~(A&B)→C=~C→(A&B)
といふ「命題」は、
② 今の世に免るることを難しくいないためには、
② 宋朝のやうにハンサムであって、祝鮀のやうな弁舌を備へてゐなければならない。
といふ、「意味」になる。
従って、
(11)により、
(12)
② ~(A&B)→C=~C→(A&B)
であれば、
② ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめて、やってゆける。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(13)
② ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめて、やってゆける。
といふ「日本語」は、
② 弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、やってゆけない。
といふ「日本語」に、等しい。
従って、
(12)(13)により、
(14)
② ~(A&B)→C=~C→(A&B)
であれば、
② 弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、やってゆけない(ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめてやってゆける)。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(15)
① ~(A)&B→C=(A∨~B)∨C
であれば、
① 弁舌がなくて、ハンサムであるならば、やってゆけない。
といふ、「意味」である。
cf.
含意の定義、ド・モルガンの法則、二重否定律。
然るに、
(16)
① 弁舌がなくて、ハンサムであるならば、
といふことは、
① 弁舌がある場合。
については、「やってゆけるとも、やってゆけないとも、言ってゐない」。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
① ~(A)&B→C=(A∨~B)∨C
① 弁舌がなくて、ハンサムであるならば、やってゆけない。
② ~(A&B)→C=(A& B)∨C
② 弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、やってゆけない(ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめてやってゆける)。
に於いて、
①と②は、「等しくない」。
然るに、
(18)
①の場合、すなわち -a+b であると訳すと「弁舌はなくても、ハンサムというのは、あぶない(ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめてやってゆける)」ということになる。②の場合は、すなわち、-(a+b)であると「弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、
やってゆけない」ということになる。どちらが正しいか(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、325・326頁)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
二畳庵主人こと、加地伸行先生の説明は、
① -a+b =ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめてやってゆける
② -(a+b)=弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、やってゆけない。
といふ風に、①と②を、「混同」してゐる。
すなはち、
(20)
① ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめてやってゆける。
② 弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、やってゆけない。
とするのであれば、両方とも、
① -(a+b)
② -(a+b)
でなければ、ならないものの、加地伸行先生は、
① -a+b
② -(a+b)
といふ風に、書かれてゐる。
然るに、
(21)
子曰、不有祝鮀之佞、而有宋朝之美、難乎、免於今之世矣。
子の曰く、祝鮀の佞あらずして宋朝の美あるは、難いかな、今の世に免るること。
*新注では、「祝鮀の佞のありて宋朝の美あらずんば、」と読み、佞美の両方がなければと解する。
(金谷治 訳注、論語、1963年、115・116頁)
(22)
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であるが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
(23)
古注の読み方を変えた朱子は、例によって、徂徠から古代の読み方を知らぬ者と、やっつけられているが、徂徠から百年ばかりのちの、古代語の大家、清の王引之の経伝釈詞の説は、かえって朱子に同じい(吉川幸次郎、論語上、1965年、167頁)。
従って、
(02)(03)(17)~(23)により、
(24)
① ~(A)&B→C
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
であるか、
② ~(A&B)→C
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
であるかの、どちらか一方である。
といふ、ことになる。
従って、
(25)
このように「不」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
といふ、ことになる。
然るに、
(26)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁:命題論理、今仁生美)
然るに、
(27)
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
に於いて、「どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみること」を、「述語と、その補足語」に関して、「括弧」を用ゐて行ふのであれば、例へば、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
といふ、ことになる。
然るに、
(28)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。目的語と補語とはそれほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と呼んだり、単に補語と呼んだりしている(江連隆、基礎からの漢文、1993年、26頁)。
従って、
(27)(28)により、
(29)
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文(論語、雍也一七)」に、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
といふ「補足構造」があるならば、「国語」には、
① 〔(祝鮀の佞)有ら〕ずして(宋朝の美)有らば、難いかな、(今に世に)免るること。
といふ「補足構造」が有る。といふことなる。
然るに、
(30)
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
といふ「漢文」を、
① 〔(祝鮀の佞)有ら〕ずして(宋朝の美)有らば、難いかな、(今に世に)免るること。
といふ「語順」で「訓読」するのであれば、
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文」には、
① 不レ有二祝鮀之佞一而有二宋朝之美一難乎、免二於今之世一矣。
といふ「返り点」が、付くことになる。
従って、
(27)~(30)により、
(31)
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文」に、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
といふ「補足構造」が有ると、思ふからこそ、
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文」に、
① 不レ有二祝鮀之佞一而有二宋朝之美一難乎、免二於今之世一矣。
といふ「返り点」が、付くことになる。
(32)
② 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文」に、
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
といふ「補足構造」が有ると、思ふからこそ、
② 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文」に、
② 不下有二祝鮀之佞一而有中宋朝之美上難乎、免二於今之世一矣。
といふ「返り点」が、付くことになる。
従って、
(33)
初めに括弧ありき。括弧は漢文とともにありき。
である。
従って、
(34)
私自身は、「返り点とは、漢文すなわち古典中国語の語順を、日本語の語順に変換する符号である(古田島洋介・湯城吉信、漢文訓読入門、平成23年、45頁)。」といふ風には、思ってゐない。
(35)
「漢文には、補足構造といふ名の、括弧が有って、然る後に、返り点が有る。」が故に、「返り点は、補足構造といふ名の、括弧の、代用である。」といふ風に、私自身は、思ってゐる。
平成29年04月28日、毛利太。
A=祝鮀の佞有り。
B=宋朝の美有り。
C=今の世に免るること難し(今の世ではやって行けない)。
とする。
然るに、
(02)
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① ~(A)&B→C
② ~(A&B)→C
である。
然るに、
(04)
② ~(A&B)→C
の「対偶」は、
② ~C→(A&B)
である。
然るに、
(05)
「AならばB」と「BでないならAでない」との真偽は一致するので、このようなときには対偶「BでないならAでない」のほうを証明すれば「AならばB」を証明できる(対偶論法)。(ウィキペディア)
従って、
(04)(05)により、
(06)
② ~(A&B)→C
といふ「命題」は、その「対偶」である、
② ~C→(A&B)
といふ「命題」に、等しい。
然るに、
(07)
数学上の必要条件,十分条件は,pならばq(記号では,p→q)という関係が成り立つかどうかで決まります.
pならばq
(記号で表わせば,p→q)
が成り立つとき,
「pはqであるための十分条件」,
「qはpであるための必要条件」
といいます.(Webサイト:必要条件、十分条件)
従って、
(01)(06)(07)により、
(08)
A=祝鮀の佞有り。
B=宋朝の美有り。
C=今の世に免るること難し。
② ~(A&B)→C=~C→(A&B)
に於いて、
(A&B)=祝鮀の佞が有って、宋朝の美も有る。
といふことは、
~C=今の世に免るることを難しくしない。
といふことに対する、「必要条件」である。
従って、
(09)
② ~(A&B)→C=~C→(A&B)
といふ「命題」は、
② 今の世に免るることを難しくしないためには、
② 祝鮀の佞と、宋朝の美が、「必要」である。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(10)
② 祝鮀の佞と、宋朝の美が、「必要」である。
といふことは、
② 宋朝の美と、祝鮀の佞が、「必要」である。
といふことに、他ならない。
従って、
(09)(10)により、
(11)
② ~(A&B)→C=~C→(A&B)
といふ「命題」は、
② 今の世に免るることを難しくいないためには、
② 宋朝のやうにハンサムであって、祝鮀のやうな弁舌を備へてゐなければならない。
といふ、「意味」になる。
従って、
(11)により、
(12)
② ~(A&B)→C=~C→(A&B)
であれば、
② ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめて、やってゆける。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(13)
② ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめて、やってゆける。
といふ「日本語」は、
② 弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、やってゆけない。
といふ「日本語」に、等しい。
従って、
(12)(13)により、
(14)
② ~(A&B)→C=~C→(A&B)
であれば、
② 弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、やってゆけない(ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめてやってゆける)。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(15)
① ~(A)&B→C=(A∨~B)∨C
であれば、
① 弁舌がなくて、ハンサムであるならば、やってゆけない。
といふ、「意味」である。
cf.
含意の定義、ド・モルガンの法則、二重否定律。
然るに、
(16)
① 弁舌がなくて、ハンサムであるならば、
といふことは、
① 弁舌がある場合。
については、「やってゆけるとも、やってゆけないとも、言ってゐない」。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
① ~(A)&B→C=(A∨~B)∨C
① 弁舌がなくて、ハンサムであるならば、やってゆけない。
② ~(A&B)→C=(A& B)∨C
② 弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、やってゆけない(ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめてやってゆける)。
に於いて、
①と②は、「等しくない」。
然るに、
(18)
①の場合、すなわち -a+b であると訳すと「弁舌はなくても、ハンサムというのは、あぶない(ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめてやってゆける)」ということになる。②の場合は、すなわち、-(a+b)であると「弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、
やってゆけない」ということになる。どちらが正しいか(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、325・326頁)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
二畳庵主人こと、加地伸行先生の説明は、
① -a+b =ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめてやってゆける
② -(a+b)=弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、やってゆけない。
といふ風に、①と②を、「混同」してゐる。
すなはち、
(20)
① ハンサムの上に弁舌を兼ねそなえてこそ、はじめてやってゆける。
② 弁舌があり、その上にハンサムでないかぎり、やってゆけない。
とするのであれば、両方とも、
① -(a+b)
② -(a+b)
でなければ、ならないものの、加地伸行先生は、
① -a+b
② -(a+b)
といふ風に、書かれてゐる。
然るに、
(21)
子曰、不有祝鮀之佞、而有宋朝之美、難乎、免於今之世矣。
子の曰く、祝鮀の佞あらずして宋朝の美あるは、難いかな、今の世に免るること。
*新注では、「祝鮀の佞のありて宋朝の美あらずんば、」と読み、佞美の両方がなければと解する。
(金谷治 訳注、論語、1963年、115・116頁)
(22)
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であるが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
(23)
古注の読み方を変えた朱子は、例によって、徂徠から古代の読み方を知らぬ者と、やっつけられているが、徂徠から百年ばかりのちの、古代語の大家、清の王引之の経伝釈詞の説は、かえって朱子に同じい(吉川幸次郎、論語上、1965年、167頁)。
従って、
(02)(03)(17)~(23)により、
(24)
① ~(A)&B→C
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
であるか、
② ~(A&B)→C
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
であるかの、どちらか一方である。
といふ、ことになる。
従って、
(25)
このように「不」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
といふ、ことになる。
然るに、
(26)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁:命題論理、今仁生美)
然るに、
(27)
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
に於いて、「どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみること」を、「述語と、その補足語」に関して、「括弧」を用ゐて行ふのであれば、例へば、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
といふ、ことになる。
然るに、
(28)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。目的語と補語とはそれほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と呼んだり、単に補語と呼んだりしている(江連隆、基礎からの漢文、1993年、26頁)。
従って、
(27)(28)により、
(29)
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文(論語、雍也一七)」に、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
といふ「補足構造」があるならば、「国語」には、
① 〔(祝鮀の佞)有ら〕ずして(宋朝の美)有らば、難いかな、(今に世に)免るること。
といふ「補足構造」が有る。といふことなる。
然るに、
(30)
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
といふ「漢文」を、
① 〔(祝鮀の佞)有ら〕ずして(宋朝の美)有らば、難いかな、(今に世に)免るること。
といふ「語順」で「訓読」するのであれば、
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文」には、
① 不レ有二祝鮀之佞一而有二宋朝之美一難乎、免二於今之世一矣。
といふ「返り点」が、付くことになる。
従って、
(27)~(30)により、
(31)
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文」に、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
といふ「補足構造」が有ると、思ふからこそ、
① 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文」に、
① 不レ有二祝鮀之佞一而有二宋朝之美一難乎、免二於今之世一矣。
といふ「返り点」が、付くことになる。
(32)
② 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文」に、
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
といふ「補足構造」が有ると、思ふからこそ、
② 不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎、免於今之世矣。
といふ「漢文」に、
② 不下有二祝鮀之佞一而有中宋朝之美上難乎、免二於今之世一矣。
といふ「返り点」が、付くことになる。
従って、
(33)
初めに括弧ありき。括弧は漢文とともにありき。
である。
従って、
(34)
私自身は、「返り点とは、漢文すなわち古典中国語の語順を、日本語の語順に変換する符号である(古田島洋介・湯城吉信、漢文訓読入門、平成23年、45頁)。」といふ風には、思ってゐない。
(35)
「漢文には、補足構造といふ名の、括弧が有って、然る後に、返り点が有る。」が故に、「返り点は、補足構造といふ名の、括弧の、代用である。」といふ風に、私自身は、思ってゐる。
平成29年04月28日、毛利太。
2017年4月26日水曜日
「対偶(transposition)」について(Ⅳ)。
(01)
kjlwn38さん2016/10/718:23:45
【命題 数学】
よくいう
PならばQが正しい時、
Qでないならば、Pでないも正しい。
という所謂、対偶ですが、
本当にそうですかね。まぁ考えても意味ないですが、
数学が好きなら国語も好きである
が正しい時、
国語が好きでないなら、数学も好きでない。
なんて言えないだろ???
(02)
① 数学が好きであるならば、国語も好きである。
②(数学が好きであって、 国語が好きでない。)といふことはない。
に於いて、
①=② である。
(03)
②(数学が好きであって、国語が好きでない。)といふことはない。
③(国語が好きでなくて、数学が好きである。)といふことはない。
に於いて、
②=③ である
(04)
③(国語が好きでなくて、数学が好きである。)といふことはない。
④ 国語が好きでないならば、数学も好きでない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(02)(03)(04)により、
(04)
① 数学が好きであるならば、国語も好きである。
②(数学が好きであって、 国語が好きでない。)といふことはない。
③(国語が好きでなくて、数学が好きである。)といふことはない。
④ 国語が好きでないならば、数学も好きでない。
に於いて、
①=②=③=④ である。
cf.
② ~(P&~Q)= ~P ∨ Q= P→ Q
③ ~(~Q&P)=~(~Q)∨~P=~Q→~P
従って、
(04)により、
(05)
① 数学が好きであるならば、国語も好きである。
④ 国語が好きでないならば、数学も好きでない。
に於いて、
①=④ である。
従って、
(01)(05)により、
(06)
① 数学が好きなら国語も好きである。
が正しい時、
④ 国語が好きでないなら、数学も好きでない。
なんて言えないだろ???
といふことには、ならない。
然るに、
(07)
「常識」としては、
① 数学が好きなら国語も好きである。
といふ「仮言命題」は、「ウソ」であり、そのため、
④ 国語が好きでないなら、数学も好きでない。
といふ「仮言命題」も、「ウソ」であり、そのため、
④ 国語が好きでないなら、数学も好きでない。
なんて言えない。
といふこと自体は、「本当」である。
然るに、
(08)
① 数学が好きであるならば、国語も好きである。
④ 国語が好きでないならば、数学も好きでない。
といふ「仮言命題」が、「常識的」には、「ウソ」であることと、
① が「本当」であれば、
④ も「本当」であり、
④ が「本当」であれば、
① も「本当」である。
といふこととは、「別の話」である。
(09)
① 中野区民であるならば東京都民である。
④ 東京都民でないならば中野区民ではない。
といふ「仮言命題」は、「本当」であって、尚且つ、
① が「本当」であるため、
④ も「本当」であり、
④ が「本当」であるため、
① も「本当」である。
平成29年04月26日、毛利太。
kjlwn38さん2016/10/718:23:45
【命題 数学】
よくいう
PならばQが正しい時、
Qでないならば、Pでないも正しい。
という所謂、対偶ですが、
本当にそうですかね。まぁ考えても意味ないですが、
数学が好きなら国語も好きである
が正しい時、
国語が好きでないなら、数学も好きでない。
なんて言えないだろ???
(02)
① 数学が好きであるならば、国語も好きである。
②(数学が好きであって、 国語が好きでない。)といふことはない。
に於いて、
①=② である。
(03)
②(数学が好きであって、国語が好きでない。)といふことはない。
③(国語が好きでなくて、数学が好きである。)といふことはない。
に於いて、
②=③ である
(04)
③(国語が好きでなくて、数学が好きである。)といふことはない。
④ 国語が好きでないならば、数学も好きでない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(02)(03)(04)により、
(04)
① 数学が好きであるならば、国語も好きである。
②(数学が好きであって、 国語が好きでない。)といふことはない。
③(国語が好きでなくて、数学が好きである。)といふことはない。
④ 国語が好きでないならば、数学も好きでない。
に於いて、
①=②=③=④ である。
cf.
② ~(P&~Q)= ~P ∨ Q= P→ Q
③ ~(~Q&P)=~(~Q)∨~P=~Q→~P
従って、
(04)により、
(05)
① 数学が好きであるならば、国語も好きである。
④ 国語が好きでないならば、数学も好きでない。
に於いて、
①=④ である。
従って、
(01)(05)により、
(06)
① 数学が好きなら国語も好きである。
が正しい時、
④ 国語が好きでないなら、数学も好きでない。
なんて言えないだろ???
といふことには、ならない。
然るに、
(07)
「常識」としては、
① 数学が好きなら国語も好きである。
といふ「仮言命題」は、「ウソ」であり、そのため、
④ 国語が好きでないなら、数学も好きでない。
といふ「仮言命題」も、「ウソ」であり、そのため、
④ 国語が好きでないなら、数学も好きでない。
なんて言えない。
といふこと自体は、「本当」である。
然るに、
(08)
① 数学が好きであるならば、国語も好きである。
④ 国語が好きでないならば、数学も好きでない。
といふ「仮言命題」が、「常識的」には、「ウソ」であることと、
① が「本当」であれば、
④ も「本当」であり、
④ が「本当」であれば、
① も「本当」である。
といふこととは、「別の話」である。
(09)
① 中野区民であるならば東京都民である。
④ 東京都民でないならば中野区民ではない。
といふ「仮言命題」は、「本当」であって、尚且つ、
① が「本当」であるため、
④ も「本当」であり、
④ が「本当」であるため、
① も「本当」である。
平成29年04月26日、毛利太。
2017年4月24日月曜日
「三段論法」の「は・が」(Ⅱ)。
(01)
① 東京は日本の首都である。は、本当である。
① 日本の首都は東京である。は、本当である。
① 東京以外は日本の首都ではない。は、本当である。
然るに、
(02)
② 東京は日本である。は、本当である。
② 日本は東京である。は、ウソである。
② 東京以外は日本ではない。は、ウソである。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① A以外はBでない。
であるならば、その時に限って、
① BはAである。
従って、
(03)により、
(04)
① AはBであり(、A以外はBでない)。
ならば、その時に限って、
① AはBであり(、BはAである)。
然るに、
(05)
問題 真理表を使って以下の推論の妥当性を判定しなさい。妥当でない推論については、そのときの要素命題の真理値を明記すること。
① 次郎か三郎が犯人だ。
次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。 (選言三段論法)
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、58頁)
答へ:
~(~P&~Q)=P∨Q=~(~P)∨Q=~P→Q
~(~P&~Q)=Q∨P=~(~Q)∨P=~Q→P
であるため、「推論」は「妥当」である。
然るに、
(06)
① 次郎か三郎が犯人だ。
次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。
といふことは、
① 三郎以外(次郎)は犯人でない。
① 犯人は三郎である。
といふことに、他ならない。
然るに、
(07)
① 犯人は三郎である。
① 三郎以外は犯人でない。
と言ふのであれば、
① 三郎が犯人だ。
と言ふのであって、
② 三郎は犯人だ。
とは、言はない。
従って、
(05)(07)により、
(08)
① 次郎か三郎が犯人だ。
次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。 (選言三段論法)
といふ「推論」からも、分るやうに、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AはBであり(、A以外はBでない)。
といふ、「意味」である。
然るに、
(09)
② AはBである。
といふ「日本語」は、
② AはBである。
といふ、「意味」である。
従って、
(04)(08)(09)により、
(10)
① AがBである=AはBであり(、A以外はBでない)。
① AがBである=AはBであり(、BはAである)。
② AはBである=AはBである。
然るに、
(11)
Definition of exclusive proposition
: a proposition in logic whose predicate is asserted to apply to its subject and no other “none but the brave deserves the fair” is a simple exclusive proposition.
(www.merriam-webster.com)
従って、
(10)(11)により、
(12)
① AがBである=AはBであり(、A以外はBでない)。
といふ「日本語」は、「排他的命題(exclusive proposition)」である。
然るに、
(13)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
b.Ton SENT Mary flowers.
c.Tom sent MARY flowers.
d.Tom sent Mary FLOWERS.
”Tom sent Mary flowers.”(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を
強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
従って、
(13)により、
(14)
a.TOM sent Mary flowers.
に於いて、
a.TOM を、「強調」して言ふと、
a.TOM以外はメアリーに花を送っていない。
といふ、ことになる。
従って、
(12)(14)により、
(15)
a.TOM sent Mary flowers.
がさうであるやうに、「強調形」は、「排他的命題」を、主張する。
然るに、
(16)
「Aが」の「が」は、「濁音」であって、
「Aは」の「は」は、「清音」である。
然るに、
(17)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(12)(15)(16)(17)により、
(18)
① AがBである=AはBであり(、A以外はBでない)。
といふ「日本語」は、「排他的命題(exclusive proposition)」であって、
① Aが は、
② Aは に対する、「(濁音による)強調形」であり、「強調形」は、「排他的命題」を、主張する。
然るに、
(19)
wakwak1234123さん2008/2/1815:08:27
韓国語で「~は」は~ヌン、「~が」は~ガ と考えてよいのでしょうか?
共感した 0
閲覧数:12,537 回答数:2 違反報告
ベストアンサーに選ばれた回答
corea828さん 2008/2/1822:54:42
基本的にはそれでよいと思いますが、やはり外国語。日本語と100%互換性があるとは言えません。
然るに、
(20)
① 次郎か三郎が犯人だ。
次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。
を、「グーグル」で英訳すると、
① Jiro or Saburo is the culprit.
Jiro is not the culprit.
∴ Saburo is the culprit.
(21)
① Jiro or Saburo is the culprit.
Jiro is not the culprit.
∴ Saburo is the culprit.
を、「グーグル」で韓国語にすると、
① 지로 또는 사부로가 범인이다.
지로는 범인이 아닙니다.
∴ 사부로가 범인입니다.
従って、
(18)~(21)により、
(22)
① 三郎が犯人だ=三郎は犯人であり(、三郎以外は犯人ではない)。
といふ「日本語」がさうであるやうに、
① 사부로가 범인입니다.
といふ「韓国語」の場合も、「(濁音による)強調形」であり、「排他的命題」である。
といふ、「推測」が、可能である。
平成29年04月25日、毛利太。
① 東京は日本の首都である。は、本当である。
① 日本の首都は東京である。は、本当である。
① 東京以外は日本の首都ではない。は、本当である。
然るに、
(02)
② 東京は日本である。は、本当である。
② 日本は東京である。は、ウソである。
② 東京以外は日本ではない。は、ウソである。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① A以外はBでない。
であるならば、その時に限って、
① BはAである。
従って、
(03)により、
(04)
① AはBであり(、A以外はBでない)。
ならば、その時に限って、
① AはBであり(、BはAである)。
然るに、
(05)
問題 真理表を使って以下の推論の妥当性を判定しなさい。妥当でない推論については、そのときの要素命題の真理値を明記すること。
① 次郎か三郎が犯人だ。
次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。 (選言三段論法)
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、58頁)
答へ:
~(~P&~Q)=P∨Q=~(~P)∨Q=~P→Q
~(~P&~Q)=Q∨P=~(~Q)∨P=~Q→P
であるため、「推論」は「妥当」である。
然るに、
(06)
① 次郎か三郎が犯人だ。
次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。
といふことは、
① 三郎以外(次郎)は犯人でない。
① 犯人は三郎である。
といふことに、他ならない。
然るに、
(07)
① 犯人は三郎である。
① 三郎以外は犯人でない。
と言ふのであれば、
① 三郎が犯人だ。
と言ふのであって、
② 三郎は犯人だ。
とは、言はない。
従って、
(05)(07)により、
(08)
① 次郎か三郎が犯人だ。
次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。 (選言三段論法)
といふ「推論」からも、分るやうに、
① AがBである。
といふ「日本語」は、
① AはBであり(、A以外はBでない)。
といふ、「意味」である。
然るに、
(09)
② AはBである。
といふ「日本語」は、
② AはBである。
といふ、「意味」である。
従って、
(04)(08)(09)により、
(10)
① AがBである=AはBであり(、A以外はBでない)。
① AがBである=AはBであり(、BはAである)。
② AはBである=AはBである。
然るに、
(11)
Definition of exclusive proposition
: a proposition in logic whose predicate is asserted to apply to its subject and no other “none but the brave deserves the fair” is a simple exclusive proposition.
(www.merriam-webster.com)
従って、
(10)(11)により、
(12)
① AがBである=AはBであり(、A以外はBでない)。
といふ「日本語」は、「排他的命題(exclusive proposition)」である。
然るに、
(13)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
b.Ton SENT Mary flowers.
c.Tom sent MARY flowers.
d.Tom sent Mary FLOWERS.
”Tom sent Mary flowers.”(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を
強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
従って、
(13)により、
(14)
a.TOM sent Mary flowers.
に於いて、
a.TOM を、「強調」して言ふと、
a.TOM以外はメアリーに花を送っていない。
といふ、ことになる。
従って、
(12)(14)により、
(15)
a.TOM sent Mary flowers.
がさうであるやうに、「強調形」は、「排他的命題」を、主張する。
然るに、
(16)
「Aが」の「が」は、「濁音」であって、
「Aは」の「は」は、「清音」である。
然るに、
(17)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(12)(15)(16)(17)により、
(18)
① AがBである=AはBであり(、A以外はBでない)。
といふ「日本語」は、「排他的命題(exclusive proposition)」であって、
① Aが は、
② Aは に対する、「(濁音による)強調形」であり、「強調形」は、「排他的命題」を、主張する。
然るに、
(19)
wakwak1234123さん2008/2/1815:08:27
韓国語で「~は」は~ヌン、「~が」は~ガ と考えてよいのでしょうか?
共感した 0
閲覧数:12,537 回答数:2 違反報告
ベストアンサーに選ばれた回答
corea828さん 2008/2/1822:54:42
基本的にはそれでよいと思いますが、やはり外国語。日本語と100%互換性があるとは言えません。
然るに、
(20)
① 次郎か三郎が犯人だ。
次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。
を、「グーグル」で英訳すると、
① Jiro or Saburo is the culprit.
Jiro is not the culprit.
∴ Saburo is the culprit.
(21)
① Jiro or Saburo is the culprit.
Jiro is not the culprit.
∴ Saburo is the culprit.
を、「グーグル」で韓国語にすると、
① 지로 또는 사부로가 범인이다.
지로는 범인이 아닙니다.
∴ 사부로가 범인입니다.
従って、
(18)~(21)により、
(22)
① 三郎が犯人だ=三郎は犯人であり(、三郎以外は犯人ではない)。
といふ「日本語」がさうであるやうに、
① 사부로가 범인입니다.
といふ「韓国語」の場合も、「(濁音による)強調形」であり、「排他的命題」である。
といふ、「推測」が、可能である。
平成29年04月25日、毛利太。
2017年4月23日日曜日
「三段論法」の「は・が」。
(01)
「Aは」の「は」は、「清音」であって、
「Aが」の「が」は、「濁音」である。
然るに、
(02)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
「Aが」は、「Aは」に対する、「(濁音による)強調形」である。
然るに、
(04)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
b.Ton SENT Mary flowers.
c.Tom sent MARY flowers.
d.Tom sent Mary FLOWERS.
”Tom sent Mary flowers.”(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
従って、
(03)(04)により、
(05)
「AはBである。」
に対する、
「AがBである。」
といふ「強調形」は、
「AはBであって、A以外はBでない。」
といふ「意味」に、なるものの、そのやうな「命題」を、
「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(05)により、
(06)
① 三郎が犯人である。
といふ「日本語」は、
① 三郎は犯人であって、三郎以外は犯人ではない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(07)
問題 真理表を使って以下の推論の妥当性を判定しなさい。妥当でない推論については、そのときの要素命題の真理値を明記すること。
① 次郎か三郎が犯人だ。
次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。 (選言三段論法)
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、58頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 次郎か三郎が犯人だ。
次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。 (選言三段論法)
といふ「推論」に於ける、
① 三郎が犯人である。
といふ「日本語」は、
① 三郎は犯人であって、三郎以外(次郎)は犯人ではない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(09)
① 次郎か三郎が犯人だ。
といふ、「日本語」は、
① 次郎が犯人である。か、三郎が犯人である。
といふ、「複合命題」である。
然るに、
(10)
① 次郎が犯人である。か、三郎が犯人である。
といふ、「複合命題」は、
② 次郎が犯人でないならば、三郎が犯人である。
といふ「仮言命題」と、その「対偶」である、
③ 三郎が犯人でないならば、次郎が犯人である。
といふ「仮言命題」に等しい。
cf.
~(~P&~Q)=P∨Q=~(~P)∨Q=~P→Q
~(~P&~Q)=Q∨P=~(~Q)∨P=~Q→P
∴
PでないならばQである。⇔
QでないならばPである。⇔
PでなくてQでない。といふことはない。⇔
QでなくてPでない。といふことはない。
然るに、
(08)(10)により、
(11)
① 次郎か三郎が犯人だ。
といふ「日本語」は、
② 次郎が犯人ではなく(、次郎以外が犯人である)ならば、三郎が犯人である。
③ 三郎が犯人ではなく(、三郎以外が犯人である)ならば、次郎が犯人である。
といふ、「意味」になる。
従って、
(05)(11)により、
(12)
③ 三郎が犯人ではないならば、次郎が犯人である。
といふ「仮言命題」に於いて、
③ 三郎が犯人ではない。
といふ「前件」は、
③ 三郎は犯人はなく(、三郎以外が犯人である)。
といふ、「排他的命題」である。
従って、
(05)(12)により、
(13)
③ 三郎が犯人ではないならば、
③ 三郎が犯人ならば、
に対して、
④ 三郎は犯人ではないならば、
④ 三郎は犯人ならば、
といふ風に、言はないことは、「理に適ってゐて、自然である」。
然るに、
(14)
④ 明日が晴れならば、
に対して、
④ 明日は晴れならば、
とも、言はない。
然るに、
(15)
例へば、
④ 明日が晴れならば、釣りに行く。
と言ふのであれば、
④(明日以外ではなく、)明日が晴れならば、釣りに行く。
といふことに、他ならない。
従って、
(05)(15)により、
(16)
④(明日以外ではなく、)明日_晴れならば、釣りに行く。
といふのであれば、
④ 明日は晴れならば、釣りに行く。
とは言はずに、
④ 明日が晴れならば、釣りに行く。
と言ふことは、「理に適ってゐて、不自然ではない」。
従って、
(13)(16)により、
(17)
③ 三郎が犯人ならば、次郎は犯人ではない。
④ 明日が晴れならば、釣りに行く。
と言ふことは、「理に適ってゐて、自然である」。
従って、
(17)により、
(18)
③ AがBならば、Cである。
④ AはBならば、Cである。
に於いて、
③ が「正しく」、
④ は「間違ひ」である。
然るに、
(19)
④ 太郎は日本人ならば、東洋人である。
太郎は日本人ではない。
∴ 太郎は東洋人ではない。
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、58頁)
従って、
(18)(19)により、
(20)
④ 太郎は日本人ならば、東洋人である。
といふ「例文」は、
③ 太郎が日本人ならば、東洋人である。
といふ風に、書き直すべきである。
然るに、
(21)
④ 太郎は日本人ならば、太郎は東洋人である。
⑤ 太郎は日本人なので、太郎は東洋人である。
に於いて、
④ は、ともかく、
⑤ は、「日本語として、完全に、正しい」。
(22)
⑥ 太郎は日本人である。ならば、太郎は日本人である。
といふ「トートロジー」であれば、
⑥ は、「論理的に、完全に、正しい」。
然るに、
(23)
④ 太郎は日本人ならば、東洋人である。
⑤ 太郎は日本人なので、太郎は東洋人である。
⑥ 太郎は日本人である。ならば、太郎は日本人である。
といふ「例文」を、「繰り返し読んでゐる」と、「次第に、混乱し」、
④ 太郎は日本人ならば、東洋人である。
といふ「日本語」も、「間違ひ」ではない(?)のではと、思へて来る。
然るに、
(24)
それでも尚、
③ AがBならば、Cである。
④ AはBならば、Cである。
であれば、明らかに、
③ が「正しく」、
④ は「間違ひ」である。
(25)
「私は(僕は)」を韓国語では?
韓国語で「私は(僕は)」を「나는(ナヌン)」と言います。
丁寧な言い方では「저는(チョヌン)」と言われます。
「私が(僕が)」を韓国語では?
韓国語で「私が(僕が)」を「내가(ネガ)」と言います。
丁寧な言い方では「제가(チェガ)」と言われます。
(coneru-web.com › 韓国語)
然るに、
(26)
내가(ネガ)の「가(ガ)」は、「日本語」と同く、「が」である。
然るに、
(27)
③ AがBならば、Cである(A ga Bnaraba, Cdearu)。
を、「グーグル翻訳」に掛けたところ、
③ A가 B이면 C이다(Aga Bimyeon Cida).
とのことである。
然るに、
(28)
残念なことに、私自身は、「韓国語(朝鮮語)」を、全く知らない。
従って、
(09)
「日本語」の「は・が」と、「韓国語(朝鮮語)」の「ヌン・ガ」を「比較」することは、私には、出来ない。
平成29年04月23日、毛利太。
「Aは」の「は」は、「清音」であって、
「Aが」の「が」は、「濁音」である。
然るに、
(02)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
「Aが」は、「Aは」に対する、「(濁音による)強調形」である。
然るに、
(04)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
b.Ton SENT Mary flowers.
c.Tom sent MARY flowers.
d.Tom sent Mary FLOWERS.
”Tom sent Mary flowers.”(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
従って、
(03)(04)により、
(05)
「AはBである。」
に対する、
「AがBである。」
といふ「強調形」は、
「AはBであって、A以外はBでない。」
といふ「意味」に、なるものの、そのやうな「命題」を、
「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(05)により、
(06)
① 三郎が犯人である。
といふ「日本語」は、
① 三郎は犯人であって、三郎以外は犯人ではない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(07)
問題 真理表を使って以下の推論の妥当性を判定しなさい。妥当でない推論については、そのときの要素命題の真理値を明記すること。
① 次郎か三郎が犯人だ。
次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。 (選言三段論法)
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、58頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 次郎か三郎が犯人だ。
次郎は犯人ではない。
∴ 三郎が犯人だ。 (選言三段論法)
といふ「推論」に於ける、
① 三郎が犯人である。
といふ「日本語」は、
① 三郎は犯人であって、三郎以外(次郎)は犯人ではない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(09)
① 次郎か三郎が犯人だ。
といふ、「日本語」は、
① 次郎が犯人である。か、三郎が犯人である。
といふ、「複合命題」である。
然るに、
(10)
① 次郎が犯人である。か、三郎が犯人である。
といふ、「複合命題」は、
② 次郎が犯人でないならば、三郎が犯人である。
といふ「仮言命題」と、その「対偶」である、
③ 三郎が犯人でないならば、次郎が犯人である。
といふ「仮言命題」に等しい。
cf.
~(~P&~Q)=P∨Q=~(~P)∨Q=~P→Q
~(~P&~Q)=Q∨P=~(~Q)∨P=~Q→P
∴
PでないならばQである。⇔
QでないならばPである。⇔
PでなくてQでない。といふことはない。⇔
QでなくてPでない。といふことはない。
然るに、
(08)(10)により、
(11)
① 次郎か三郎が犯人だ。
といふ「日本語」は、
② 次郎が犯人ではなく(、次郎以外が犯人である)ならば、三郎が犯人である。
③ 三郎が犯人ではなく(、三郎以外が犯人である)ならば、次郎が犯人である。
といふ、「意味」になる。
従って、
(05)(11)により、
(12)
③ 三郎が犯人ではないならば、次郎が犯人である。
といふ「仮言命題」に於いて、
③ 三郎が犯人ではない。
といふ「前件」は、
③ 三郎は犯人はなく(、三郎以外が犯人である)。
といふ、「排他的命題」である。
従って、
(05)(12)により、
(13)
③ 三郎が犯人ではないならば、
③ 三郎が犯人ならば、
に対して、
④ 三郎は犯人ではないならば、
④ 三郎は犯人ならば、
といふ風に、言はないことは、「理に適ってゐて、自然である」。
然るに、
(14)
④ 明日が晴れならば、
に対して、
④ 明日は晴れならば、
とも、言はない。
然るに、
(15)
例へば、
④ 明日が晴れならば、釣りに行く。
と言ふのであれば、
④(明日以外ではなく、)明日が晴れならば、釣りに行く。
といふことに、他ならない。
従って、
(05)(15)により、
(16)
④(明日以外ではなく、)明日_晴れならば、釣りに行く。
といふのであれば、
④ 明日は晴れならば、釣りに行く。
とは言はずに、
④ 明日が晴れならば、釣りに行く。
と言ふことは、「理に適ってゐて、不自然ではない」。
従って、
(13)(16)により、
(17)
③ 三郎が犯人ならば、次郎は犯人ではない。
④ 明日が晴れならば、釣りに行く。
と言ふことは、「理に適ってゐて、自然である」。
従って、
(17)により、
(18)
③ AがBならば、Cである。
④ AはBならば、Cである。
に於いて、
③ が「正しく」、
④ は「間違ひ」である。
然るに、
(19)
④ 太郎は日本人ならば、東洋人である。
太郎は日本人ではない。
∴ 太郎は東洋人ではない。
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、58頁)
従って、
(18)(19)により、
(20)
④ 太郎は日本人ならば、東洋人である。
といふ「例文」は、
③ 太郎が日本人ならば、東洋人である。
といふ風に、書き直すべきである。
然るに、
(21)
④ 太郎は日本人ならば、太郎は東洋人である。
⑤ 太郎は日本人なので、太郎は東洋人である。
に於いて、
④ は、ともかく、
⑤ は、「日本語として、完全に、正しい」。
(22)
⑥ 太郎は日本人である。ならば、太郎は日本人である。
といふ「トートロジー」であれば、
⑥ は、「論理的に、完全に、正しい」。
然るに、
(23)
④ 太郎は日本人ならば、東洋人である。
⑤ 太郎は日本人なので、太郎は東洋人である。
⑥ 太郎は日本人である。ならば、太郎は日本人である。
といふ「例文」を、「繰り返し読んでゐる」と、「次第に、混乱し」、
④ 太郎は日本人ならば、東洋人である。
といふ「日本語」も、「間違ひ」ではない(?)のではと、思へて来る。
然るに、
(24)
それでも尚、
③ AがBならば、Cである。
④ AはBならば、Cである。
であれば、明らかに、
③ が「正しく」、
④ は「間違ひ」である。
(25)
「私は(僕は)」を韓国語では?
韓国語で「私は(僕は)」を「나는(ナヌン)」と言います。
丁寧な言い方では「저는(チョヌン)」と言われます。
「私が(僕が)」を韓国語では?
韓国語で「私が(僕が)」を「내가(ネガ)」と言います。
丁寧な言い方では「제가(チェガ)」と言われます。
(coneru-web.com › 韓国語)
然るに、
(26)
내가(ネガ)の「가(ガ)」は、「日本語」と同く、「が」である。
然るに、
(27)
③ AがBならば、Cである(A ga Bnaraba, Cdearu)。
を、「グーグル翻訳」に掛けたところ、
③ A가 B이면 C이다(Aga Bimyeon Cida).
とのことである。
然るに、
(28)
残念なことに、私自身は、「韓国語(朝鮮語)」を、全く知らない。
従って、
(09)
「日本語」の「は・が」と、「韓国語(朝鮮語)」の「ヌン・ガ」を「比較」することは、私には、出来ない。
平成29年04月23日、毛利太。
2017年4月21日金曜日
初めに「括弧」ありき。
(01)
「聞鳥啼」を「鳥の啼くを聞く」と訓読することを示すためには、「啼」の文字から「聞」の文字に返って読むので「レ」の符号では間に合わない。このようなときには「一・二」の符号をもちい、「一」のつけられた文字から「二」のつけられた文字に返って読むことを示す。この符号を「一二点」とよぶ。
聞二鳥啼一。
「聞鳥啼樹」を「鳥の樹に啼くを聞く」と訓読するときには、前記の「レ」と「一・二」を合わせてもちいることになり、「啼樹」の部分には「レ」を、「聞・・・・・啼」には「一・二」の符号をつけて示す。
聞二鳥啼一レ樹。
(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、19・20頁改)
然るに、
(02)
① 我聞鳥啼樹。
② I hear birds singing in the trees.
といふ「命題」に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
② I hear birds singing in the trees.
であるならば、
Q:What do you hear?
A:I hear birds singing.
Q:Where are they singing?
A:In the trees.
である。
従って、
(03)により、
(04)
② I hear birds singing in the trees.
であるならば、
② I hear の「意味」は、
② birds singing in the trees.
に及んでゐて、
② birds singing の「意味」は、
② in the trees.
に及んでゐる。
従って、
(02)(04)により、
(05)
① 我聞鳥啼樹。
であるならば、
① 我聞 の「意味」は、
① 鳥啼樹。
に及んでゐて、
① 鳥啼 の「意味」は、
① 樹
に及んでゐる。
然るに、
(06)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(06)により、
(07)
括弧は、① 我聞 の「意味」が及ぶ範囲を明示する働きを持ち、
括弧は、① 鳥啼 の「意味」が及ぶ範囲を明示する働きを持つ。
従って、
(05)(07)により、
(08)
① 我聞鳥啼樹=
① 我聞〔鳥啼(樹)〕。
である。
然るに、
(09)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。目的語と補語とはそれほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と呼んだり、単に補語と呼んだりしている(江連隆、基礎からの漢文、1993年、26頁)。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 我聞鳥啼樹。
といふ「漢文」に、
① 我聞〔鳥啼(樹)〕。
といふ「補足構造」が、有るならば、
① 我、鳥の樹に啼くを聞く。
といふ「国語」には、
① 我〔鳥の(樹に)啼くを〕聞く。
といふ「補足構造」が、有ることになる。
従って、
(01)(10)により、
(11)
① 我聞鳥啼樹。
といふ「漢文」に、
① 我聞二鳥啼一レ樹。
といふ「返り点」が付く「所以」は、
① 我聞鳥啼樹。
といふ「漢文」に、
① 我聞〔鳥啼(樹)〕。
といふ「補足構造」が有って、尚且つ、
漢文の「補足構造」に於ける語順は、国語とは全く反対である。からである。
然るに、
(12)
(13)
① 我〔鳥の(樹に)啼くを〕聞く。
② 鳥獣は吾[〔(之と)与に(群れを)同じくす〕可から]ず。
③ [〔(外人に)為に道ふに〕足ら]ざるなり。
④ 耕す者[〔以て(益々急なら)ざる〕可から]ず。
⑤ {[〔(己に)如か〕ざる者]友とする}無かれ。
⑥ 当世の士大夫{[〔(劉老人)有るを〕知ら]ざる者}無し。
⑦ 聖人の〔(知ら)ざる〕所、未だ{必ずしも[〔愚人の(知る)所と〕為さ]ずんばあら}ざるなり。
⑧ 曽子の母〈{[子の〔(人を)殺さ〕ざるを]知ら}ざるに〉非ざるなり。
従って、
(11)~(13)により、
(14)
① 我聞鳥啼樹。
② 鳥獣吾不可与之同群。
③ 不足為外人道也。
④ 耕者不可以不益急矣。
⑤ 無友不如己者。
⑥ 当世士大夫無不知有劉老人者。
⑦ 聖人所不知、未必不為愚人所知也。
⑧ 曽子之母非不知子不殺人也。
といふ「漢文」に、
① 我聞〔鳥啼(樹)〕。
② 鳥獣吾不[可〔与(之)同(群)〕]。
③ 不[足〔為(外人)道〕]也。<br><br>
④ 耕者不[可〔以不(益急)〕]矣。
⑤ 無{友[不〔如(己)〕者]}。
⑥ 当世士大夫無{不[知〔有(劉老人)〕]者}。
⑦ 聖人所〔不(知)〕、未{必不[為〔愚人所(知)〕]}也。
⑧ 曽子之母非〈不{知[子不〔殺(人)〕]}〉也。
といふ「補足構造」が有るからこそ、それらに対して、
① 二 一レ
② レ 二 レ 一レ
③ レ 下 二 一 上
④ レ 三 二 一
⑤ レ 二 レ レ 一
⑥ 下 レ レ 二 一 上
⑦ レ レ 二 一レ 二 一レ
⑧ レ レ 二 一レ レ
といふ「返り点」が、付くことになるのであって、「逆」ではない。
従って、
(14)により、
(15)
① 我、鳥の樹に啼くを聞く。
② 鳥獣は、吾、之と与に群れを同じくす可からず。
③ 外人に為に道ふに足らざるなり。
④ 耕す者以て益々急ならざる可からず。
⑤ 己に如かざる者友とする無かれ。
⑥ 当世の士大夫劉老人有るを知らざる者無し。
⑦ 聖人の知らざる所、未だ必ずしも愚人の知る所と為さずんばあらざるなり。
⑧ 曽子の母、子の人を殺さざるを知らざるに非ざるなり。
といふ風に、読まうと、読むまいとに拘はらず、
① 我聞鳥啼樹。
② 鳥獣吾不可与之同群。
③ 不足為外人道也。
④ 耕者不可以不益急矣。
⑤ 無友不如己者。
⑥ 当世士大夫無不知有劉老人者。
⑦ 聖人所不知、未必不為愚人所知也。
⑧ 曽子之母非不知子不殺人也。
といふ「漢文」には、
① 〔( )〕
② [〔( )( )〕]
③ [〔( )〕]
④ [〔( )〕]
⑤ {[〔( )〕]}
⑥ {[〔( )〕]}
⑦ 〔( )〕{[〔( )〕]}
⑧ 〈{[〔( )〕]}〉
といふ「括弧(補足構造)」が、有ることになる。
従って、
(16)
初めに「括弧」ありき。「括弧」は漢文とともにありき。
漢文に「括弧」ありて、然る後に「返り点」あり。
である。
従って、
(17)
例へば、
① 我聞鳥啼樹。
といふ「漢文」を、
① ガブンテウテイジュ。
① 我、鳥の樹に啼くを聞く。
① I hear birds singing in the trees.
① Mi aŭdas birdoj kantante en la arboj.
① Wǒ tīngdào niǎo er zài shù shàng chànggē.
① J'entends les oiseaux chanter dans les arbres.
といふ風に、読まうと、読むまいとに拘はらず、
① 我聞鳥啼樹。
といふ「漢文」の、
① 我聞〔鳥啼(樹)〕。
といふ「括弧(補足構造)」を、「無視」することは、出来ない。
平成29年04月21日、毛利太。
「聞鳥啼」を「鳥の啼くを聞く」と訓読することを示すためには、「啼」の文字から「聞」の文字に返って読むので「レ」の符号では間に合わない。このようなときには「一・二」の符号をもちい、「一」のつけられた文字から「二」のつけられた文字に返って読むことを示す。この符号を「一二点」とよぶ。
聞二鳥啼一。
「聞鳥啼樹」を「鳥の樹に啼くを聞く」と訓読するときには、前記の「レ」と「一・二」を合わせてもちいることになり、「啼樹」の部分には「レ」を、「聞・・・・・啼」には「一・二」の符号をつけて示す。
聞二鳥啼一レ樹。
(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、19・20頁改)
然るに、
(02)
① 我聞鳥啼樹。
② I hear birds singing in the trees.
といふ「命題」に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
② I hear birds singing in the trees.
であるならば、
Q:What do you hear?
A:I hear birds singing.
Q:Where are they singing?
A:In the trees.
である。
従って、
(03)により、
(04)
② I hear birds singing in the trees.
であるならば、
② I hear の「意味」は、
② birds singing in the trees.
に及んでゐて、
② birds singing の「意味」は、
② in the trees.
に及んでゐる。
従って、
(02)(04)により、
(05)
① 我聞鳥啼樹。
であるならば、
① 我聞 の「意味」は、
① 鳥啼樹。
に及んでゐて、
① 鳥啼 の「意味」は、
① 樹
に及んでゐる。
然るに、
(06)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(06)により、
(07)
括弧は、① 我聞 の「意味」が及ぶ範囲を明示する働きを持ち、
括弧は、① 鳥啼 の「意味」が及ぶ範囲を明示する働きを持つ。
従って、
(05)(07)により、
(08)
① 我聞鳥啼樹=
① 我聞〔鳥啼(樹)〕。
である。
然るに、
(09)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。目的語と補語とはそれほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と呼んだり、単に補語と呼んだりしている(江連隆、基礎からの漢文、1993年、26頁)。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 我聞鳥啼樹。
といふ「漢文」に、
① 我聞〔鳥啼(樹)〕。
といふ「補足構造」が、有るならば、
① 我、鳥の樹に啼くを聞く。
といふ「国語」には、
① 我〔鳥の(樹に)啼くを〕聞く。
といふ「補足構造」が、有ることになる。
従って、
(01)(10)により、
(11)
① 我聞鳥啼樹。
といふ「漢文」に、
① 我聞二鳥啼一レ樹。
といふ「返り点」が付く「所以」は、
① 我聞鳥啼樹。
といふ「漢文」に、
① 我聞〔鳥啼(樹)〕。
といふ「補足構造」が有って、尚且つ、
漢文の「補足構造」に於ける語順は、国語とは全く反対である。からである。
然るに、
(12)
(13)
① 我〔鳥の(樹に)啼くを〕聞く。
② 鳥獣は吾[〔(之と)与に(群れを)同じくす〕可から]ず。
③ [〔(外人に)為に道ふに〕足ら]ざるなり。
④ 耕す者[〔以て(益々急なら)ざる〕可から]ず。
⑤ {[〔(己に)如か〕ざる者]友とする}無かれ。
⑥ 当世の士大夫{[〔(劉老人)有るを〕知ら]ざる者}無し。
⑦ 聖人の〔(知ら)ざる〕所、未だ{必ずしも[〔愚人の(知る)所と〕為さ]ずんばあら}ざるなり。
⑧ 曽子の母〈{[子の〔(人を)殺さ〕ざるを]知ら}ざるに〉非ざるなり。
従って、
(11)~(13)により、
(14)
① 我聞鳥啼樹。
② 鳥獣吾不可与之同群。
③ 不足為外人道也。
④ 耕者不可以不益急矣。
⑤ 無友不如己者。
⑥ 当世士大夫無不知有劉老人者。
⑦ 聖人所不知、未必不為愚人所知也。
⑧ 曽子之母非不知子不殺人也。
といふ「漢文」に、
① 我聞〔鳥啼(樹)〕。
② 鳥獣吾不[可〔与(之)同(群)〕]。
③ 不[足〔為(外人)道〕]也。<br><br>
④ 耕者不[可〔以不(益急)〕]矣。
⑤ 無{友[不〔如(己)〕者]}。
⑥ 当世士大夫無{不[知〔有(劉老人)〕]者}。
⑦ 聖人所〔不(知)〕、未{必不[為〔愚人所(知)〕]}也。
⑧ 曽子之母非〈不{知[子不〔殺(人)〕]}〉也。
といふ「補足構造」が有るからこそ、それらに対して、
① 二 一レ
② レ 二 レ 一レ
③ レ 下 二 一 上
④ レ 三 二 一
⑤ レ 二 レ レ 一
⑥ 下 レ レ 二 一 上
⑦ レ レ 二 一レ 二 一レ
⑧ レ レ 二 一レ レ
といふ「返り点」が、付くことになるのであって、「逆」ではない。
従って、
(14)により、
(15)
① 我、鳥の樹に啼くを聞く。
② 鳥獣は、吾、之と与に群れを同じくす可からず。
③ 外人に為に道ふに足らざるなり。
④ 耕す者以て益々急ならざる可からず。
⑤ 己に如かざる者友とする無かれ。
⑥ 当世の士大夫劉老人有るを知らざる者無し。
⑦ 聖人の知らざる所、未だ必ずしも愚人の知る所と為さずんばあらざるなり。
⑧ 曽子の母、子の人を殺さざるを知らざるに非ざるなり。
といふ風に、読まうと、読むまいとに拘はらず、
① 我聞鳥啼樹。
② 鳥獣吾不可与之同群。
③ 不足為外人道也。
④ 耕者不可以不益急矣。
⑤ 無友不如己者。
⑥ 当世士大夫無不知有劉老人者。
⑦ 聖人所不知、未必不為愚人所知也。
⑧ 曽子之母非不知子不殺人也。
といふ「漢文」には、
① 〔( )〕
② [〔( )( )〕]
③ [〔( )〕]
④ [〔( )〕]
⑤ {[〔( )〕]}
⑥ {[〔( )〕]}
⑦ 〔( )〕{[〔( )〕]}
⑧ 〈{[〔( )〕]}〉
といふ「括弧(補足構造)」が、有ることになる。
従って、
(16)
初めに「括弧」ありき。「括弧」は漢文とともにありき。
漢文に「括弧」ありて、然る後に「返り点」あり。
である。
従って、
(17)
例へば、
① 我聞鳥啼樹。
といふ「漢文」を、
① ガブンテウテイジュ。
① 我、鳥の樹に啼くを聞く。
① I hear birds singing in the trees.
① Mi aŭdas birdoj kantante en la arboj.
① Wǒ tīngdào niǎo er zài shù shàng chànggē.
① J'entends les oiseaux chanter dans les arbres.
といふ風に、読まうと、読むまいとに拘はらず、
① 我聞鳥啼樹。
といふ「漢文」の、
① 我聞〔鳥啼(樹)〕。
といふ「括弧(補足構造)」を、「無視」することは、出来ない。
平成29年04月21日、毛利太。
2017年4月20日木曜日
「古文」にも「括弧」は有ります。
(01)
また、「聞鳥啼」を「鳥の啼くを聞く」と訓読することを示すためには、「啼」の文字から「聞」の文字に返って読むので「レ」の符号では間に合わない。このようなときには「一・二」の符号をもちい、「一」のつけられた文字から「二」のつけられた文字に返って読むことを示す。この符号を「一二点」とよぶ。
聞二鳥啼一。
(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、19・20頁)
従って、
(02)
① 聞鳥啼=
① 聞二鳥啼一=
① 聞(鳥啼)⇒
① (鳥啼)聞=
① (鳥の啼くを)聞く。
である。
然るに、
(03)
言ふまでもなく、「書き下し文」であれば、
① 鳥の啼くを聞く。
であって、
①(鳥の啼くを)聞く。
のやうに、
①( )
が付くことはない。
然るに、
(04)
① 鳥の啼くを聞く。
といふ「古文」に、その実、
①(鳥の啼くを)聞く。
といふ「括弧」が有るのであれば、
② 雪の降るを詠む。
といふ「古文」にも、
②(雪の降るを)詠む。
といふ「括弧」が有る。
然るに、
(05)
② 雪の降るを詠む。
といふ「古文」に、
②(雪の降るを)詠む。
といふ「括弧」が有るのであれば、
③ 雪の降りけるを詠める。
といふ「古文」にも、
③(雪の降りけるを)詠める。
といふ「括弧」が有る。
cf.
② 雪の(格助詞)降る(連体形)を(格助詞)詠む(終止形)。
③ 雪の(格助詞)降り(連用形)ける(助動詞・連体形)を(格助詞)詠め(已然形)る(助動詞・準体法)。
然るに、
(06)
雪の降りけるをよめる。
という文は、「雪の降りける」という文節に対して、もうひとつ「よめる」という文節が関係しているわけで、全体として「・・・・・を・・・・・する」という形の文節関係になっている。
そのなかの「雪の降りける」において、「雪」が「降りける」の主語であることを、格助詞の「の」で示したのである。こんな場合、
雪降りけるをよめる。
とは言わない。数学の式のようにしてあらわすなら、
(aのb)をc。
となるわけわけであるが、もっと文節関係が加わって、
〔(aのb)がc〕がd。
といった形になることもある。
(小西仁一、古文研究法、1955年初版、2015年、280頁)
従って、
(05)(06)により、
(07)
少なくとも、
① 鳥の啼くを聞く。
② 雪の降るを詠む。
といふ「日本語」には、
①(鳥の啼くを)聞く。
②(雪の降るを)詠む。
といふ「括弧」が有る。
といふ風に、小西先生は、述べてゐる。
平成29年04月20日、毛利太。
また、「聞鳥啼」を「鳥の啼くを聞く」と訓読することを示すためには、「啼」の文字から「聞」の文字に返って読むので「レ」の符号では間に合わない。このようなときには「一・二」の符号をもちい、「一」のつけられた文字から「二」のつけられた文字に返って読むことを示す。この符号を「一二点」とよぶ。
聞二鳥啼一。
(赤塚忠・遠藤哲夫、漢文の基礎、1973年、19・20頁)
従って、
(02)
① 聞鳥啼=
① 聞二鳥啼一=
① 聞(鳥啼)⇒
① (鳥啼)聞=
① (鳥の啼くを)聞く。
である。
然るに、
(03)
言ふまでもなく、「書き下し文」であれば、
① 鳥の啼くを聞く。
であって、
①(鳥の啼くを)聞く。
のやうに、
①( )
が付くことはない。
然るに、
(04)
① 鳥の啼くを聞く。
といふ「古文」に、その実、
①(鳥の啼くを)聞く。
といふ「括弧」が有るのであれば、
② 雪の降るを詠む。
といふ「古文」にも、
②(雪の降るを)詠む。
といふ「括弧」が有る。
然るに、
(05)
② 雪の降るを詠む。
といふ「古文」に、
②(雪の降るを)詠む。
といふ「括弧」が有るのであれば、
③ 雪の降りけるを詠める。
といふ「古文」にも、
③(雪の降りけるを)詠める。
といふ「括弧」が有る。
cf.
② 雪の(格助詞)降る(連体形)を(格助詞)詠む(終止形)。
③ 雪の(格助詞)降り(連用形)ける(助動詞・連体形)を(格助詞)詠め(已然形)る(助動詞・準体法)。
然るに、
(06)
雪の降りけるをよめる。
という文は、「雪の降りける」という文節に対して、もうひとつ「よめる」という文節が関係しているわけで、全体として「・・・・・を・・・・・する」という形の文節関係になっている。
そのなかの「雪の降りける」において、「雪」が「降りける」の主語であることを、格助詞の「の」で示したのである。こんな場合、
雪降りけるをよめる。
とは言わない。数学の式のようにしてあらわすなら、
(aのb)をc。
となるわけわけであるが、もっと文節関係が加わって、
〔(aのb)がc〕がd。
といった形になることもある。
(小西仁一、古文研究法、1955年初版、2015年、280頁)
従って、
(05)(06)により、
(07)
少なくとも、
① 鳥の啼くを聞く。
② 雪の降るを詠む。
といふ「日本語」には、
①(鳥の啼くを)聞く。
②(雪の降るを)詠む。
といふ「括弧」が有る。
といふ風に、小西先生は、述べてゐる。
平成29年04月20日、毛利太。
2017年4月18日火曜日
「大日本帝國は」の「は」。
(01)
① 大日本帝國者万世一系天皇之所統治國也。
① 大日本帝國は万世一系の天皇の統治する所の國なり。
であれば、
①「大日本帝國は」は、「主語」である。
然るに、
(02)
② 大日本帝國者万世一系天皇之所統治國也。
② 大日本帝國が万世一系の天皇の統治する所の國である。
であっても、
②「大日本帝國が」は、「主語」である。
然るに、
(03)
③ 大日本帝國万世一系天皇統治之。
③ 大日本帝國は万世一系の天皇、之を統治す。
であれば、
③ 之を=大日本帝國を
である。
従って、
(03)により、
(04)
③ 大日本帝國は万世一系の天皇、之を統治す。
であれば、
③「大日本帝國は」 は、「目的語」であって、
③「万世一系の天皇」が、「 主語 」である。
cf.
現代語訳
第1条 大日本帝國は、万世一系の天皇が、これを統治する。
(中学校社会 公民/大日本帝國憲法 - Wikibooks)
然るに、
(05)
④ 大日本帝國万世一系天皇統治之。
④ 大日本帝國が万世一系の天皇、之を統治す。
であれば、
④「大日本帝國が」が、「主語」である。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
① 大日本帝國は万世一系の天皇の統治する所の國なり。
② 大日本帝國が万世一系の天皇の統治する所の國である。
③ 大日本帝國は万世一系の天皇、之を統治す。
④ 大日本帝國が万世一系の天皇、之を統治す。
に於いて、
①「大日本帝國は」は、「 主語 」である。
②「大日本帝國が」は、「 主語 」である。
③「大日本帝國は」は、「目的語」である。
④「大日本帝國が」は、「 主語 」である。
然るに、
(07)
⑤ 太陽は地球の周りを廻ってゐる。
⑥ 地球は太陽の周りを廻ってゐる。
に於いて、
⑤ は、「間違ひ」であって、
⑥ が、「正しい」。
然るに、
(08)
⑤ The sun goes aroud the earth.
⑥ The earth goes aroud the sun.
に於いて、
⑤ は、「間違ひ」であって、
⑥ が、「正しい」といふことを、「主張」する場合は、
⑥ The earth を、「強く、発音」するはずである。
然るに、
(09)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中國語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(09)により、
(10)
日本語の場合は、
⑥「地球は(清音)」よりも、
⑥「地球が(濁音)」の方が、「心理的な音量」が「大きい」。
従って、
(08)(10)により、
(11)
⑤ The sun goes aroud the earth.
⑥ The earth goes aroud the sun.
に於いて、
⑥ が、「正しい」といふことを、「主張」する場合は、
⑥ 地球は太陽の周りを廻ってゐる。
とは言はずに、
⑥ 地球が太陽の周りを廻ってゐる。
といふ風に、言ふことになる。
然るに、
(12)
⑤ The sun goes aroud the earth.
⑥ The earth goes aroud the sun.
に於いて、
⑥ The earth を、「強く、発音」する。
といふことは、
⑥ goes の「主語」が、
⑤ The sun ではなく、
⑥ The earth であるといふことを、「確認する」ことに、他ならない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
⑥ 地球は太陽の周りを廻ってゐる。
とは言はずに、敢へて、
⑥ 地球が太陽の周りを廻ってゐる。
といふ風に、言ふのであれば、
⑥「廻ってゐる」の「主語」が、
⑤「太陽」ではなく、
⑥「地球」である。といふことを、「確認する」ことになる。
従って、
(06)(13)により、
(14)
③ 大日本帝國は万世一系の天皇、之を統治す。
とは、言はずに、
④ 大日本帝國が万世一系の天皇、之を統治す。
と言ふのであれば、「結果」として、
④「統治す」の「主語」が、
④「大日本帝國」である。といふことを、「確認する」ことになる。
然るに、
(15)
大正期においては、国家法人学説を前提に、主権は天皇にではなく国家にあり(国家主権説)、天皇は法人である国家の最高機関としてその意をうけて権能を振るうとする天皇機関説が憲法学会の通説であった(ウィキペディア)としても、いづれにせよ、
④ 大日本帝國が、万世一系の天皇を統治す。
では、ヲカシイ、ことになる。
従って、
(16)
④ 大日本帝國が万世一系の天皇、之を統治す。
ではなく、
③ 大日本帝國は万世一系の天皇、之を統治す。
でなければ、ならない。
平成29年04月18日、毛利太。
① 大日本帝國者万世一系天皇之所統治國也。
① 大日本帝國は万世一系の天皇の統治する所の國なり。
であれば、
①「大日本帝國は」は、「主語」である。
然るに、
(02)
② 大日本帝國者万世一系天皇之所統治國也。
② 大日本帝國が万世一系の天皇の統治する所の國である。
であっても、
②「大日本帝國が」は、「主語」である。
然るに、
(03)
③ 大日本帝國万世一系天皇統治之。
③ 大日本帝國は万世一系の天皇、之を統治す。
であれば、
③ 之を=大日本帝國を
である。
従って、
(03)により、
(04)
③ 大日本帝國は万世一系の天皇、之を統治す。
であれば、
③「大日本帝國は」 は、「目的語」であって、
③「万世一系の天皇」が、「 主語 」である。
cf.
現代語訳
第1条 大日本帝國は、万世一系の天皇が、これを統治する。
(中学校社会 公民/大日本帝國憲法 - Wikibooks)
然るに、
(05)
④ 大日本帝國万世一系天皇統治之。
④ 大日本帝國が万世一系の天皇、之を統治す。
であれば、
④「大日本帝國が」が、「主語」である。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
① 大日本帝國は万世一系の天皇の統治する所の國なり。
② 大日本帝國が万世一系の天皇の統治する所の國である。
③ 大日本帝國は万世一系の天皇、之を統治す。
④ 大日本帝國が万世一系の天皇、之を統治す。
に於いて、
①「大日本帝國は」は、「 主語 」である。
②「大日本帝國が」は、「 主語 」である。
③「大日本帝國は」は、「目的語」である。
④「大日本帝國が」は、「 主語 」である。
然るに、
(07)
⑤ 太陽は地球の周りを廻ってゐる。
⑥ 地球は太陽の周りを廻ってゐる。
に於いて、
⑤ は、「間違ひ」であって、
⑥ が、「正しい」。
然るに、
(08)
⑤ The sun goes aroud the earth.
⑥ The earth goes aroud the sun.
に於いて、
⑤ は、「間違ひ」であって、
⑥ が、「正しい」といふことを、「主張」する場合は、
⑥ The earth を、「強く、発音」するはずである。
然るに、
(09)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中國語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(09)により、
(10)
日本語の場合は、
⑥「地球は(清音)」よりも、
⑥「地球が(濁音)」の方が、「心理的な音量」が「大きい」。
従って、
(08)(10)により、
(11)
⑤ The sun goes aroud the earth.
⑥ The earth goes aroud the sun.
に於いて、
⑥ が、「正しい」といふことを、「主張」する場合は、
⑥ 地球は太陽の周りを廻ってゐる。
とは言はずに、
⑥ 地球が太陽の周りを廻ってゐる。
といふ風に、言ふことになる。
然るに、
(12)
⑤ The sun goes aroud the earth.
⑥ The earth goes aroud the sun.
に於いて、
⑥ The earth を、「強く、発音」する。
といふことは、
⑥ goes の「主語」が、
⑤ The sun ではなく、
⑥ The earth であるといふことを、「確認する」ことに、他ならない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
⑥ 地球は太陽の周りを廻ってゐる。
とは言はずに、敢へて、
⑥ 地球が太陽の周りを廻ってゐる。
といふ風に、言ふのであれば、
⑥「廻ってゐる」の「主語」が、
⑤「太陽」ではなく、
⑥「地球」である。といふことを、「確認する」ことになる。
従って、
(06)(13)により、
(14)
③ 大日本帝國は万世一系の天皇、之を統治す。
とは、言はずに、
④ 大日本帝國が万世一系の天皇、之を統治す。
と言ふのであれば、「結果」として、
④「統治す」の「主語」が、
④「大日本帝國」である。といふことを、「確認する」ことになる。
然るに、
(15)
大正期においては、国家法人学説を前提に、主権は天皇にではなく国家にあり(国家主権説)、天皇は法人である国家の最高機関としてその意をうけて権能を振るうとする天皇機関説が憲法学会の通説であった(ウィキペディア)としても、いづれにせよ、
④ 大日本帝國が、万世一系の天皇を統治す。
では、ヲカシイ、ことになる。
従って、
(16)
④ 大日本帝國が万世一系の天皇、之を統治す。
ではなく、
③ 大日本帝國は万世一系の天皇、之を統治す。
でなければ、ならない。
平成29年04月18日、毛利太。
2017年4月16日日曜日
「対偶(transposition)」について(Ⅲ)。
(01)
①「Aである」と「Bである」は、「同時には」成り立たない。
といふことは、すなはち、
②「Bである」と「Aである」が、「同時には」成り立たない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(02)
①「Aである」と「Bである」が、「同時には」成り立たない。
のであれば、
①「Aである」ならば「Bでない」。
(03)
②「Bである」と「Aである」が、「同時には」成り立たない。
のであれば、
②「Bである」ならば「Aでない」。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
①「Aである」と「Bである」は、「同時には」成り立たない。
②「Bである」と「Aである」は、「同時には」成り立たない。
に於いて、
①=② であるが故に、
①「Aである」ならば「Bでない」。
②「Bである」ならば「Aでない」。
に於いて、
①=② である。
(05)
③「Aである」と「Bでない」は、「同時には」成り立たない。
といふことは、すなはち、
④「Bでない」と「Aである」が、「同時には」成り立たない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(06)
③「Aである」と「Bでない」が、「同時には」成り立たない。
のであれば、
③「Aである」ならば、「Bでない」ではなく、「Bである」。
(07)
④「Bでない」と「Aである」が、「同時には」成り立たない。
のであれば、
④「Bでない」ならば、「Aである」ではなく、「Aでない」。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
③「Aである」と「Bでない」は、「同時には」成り立たない。
④「Bでない」と「Aである」は、「同時には」成り立たない。
に於いて、
③=④ であるが故に、
③「Aである」ならば、「Bである」。
④「Bでない」ならば、「Aでない」。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(08)により、
(09)
③「Aである」ならば、「Bである」。
といふ「仮言命題」は、その「対偶」である所の、
④「Bでない」ならば、「Aでない」。
といふ「仮言命題」に、「等しい」。
然るに、
(10)
⑤「Aでない」と「Bである」は、「同時には」成り立たない。
⑥「Bである」と「Aでない」は、「同時には」成り立たない。
に於いて、
⑤=⑥ であるが故に、
⑤「Aでない」ならば、「Bである」ではなく、「Bでない」。
⑥「Bである」ならば、「Aでない」ではなく、「Aである」。
に於いて、
⑤=⑥ である。
従って、
(10)により、
(11)
⑤「Aでない」ならば、「Bでない」。
といふ「仮言命題」は、その「対偶」である所の、
⑥「Bである」ならば、「Aである」。
といふ「仮言命題」に、「等しい」。
然るに、
(12)
③「Aである」と「Bでない」。
⑤「Aでない」と「Bである」。
に於いて、
③=⑤ ではないし、
④「Bでない」と「Aである」。
⑥「Bである」と「Aでない」。
に於いて、
④=⑥ ではない。
従って、
(08)~(12)により、
(13)
③「Aである」ならば、「Bである」。
④「Bでない」ならば、「Aでない」。
⑤「Aでない」ならば、「Bでない」。
⑥「Bである」ならば、「Aである」。
に於いて、
{③=④}≠{⑤=⑥}
であって、
{③=④}={⑤=⑥}
ではない。
従って、
(13)により、
(14)
③「Aである」ならば、「Bである」。
であるからと言って、
⑤「Aでない」ならば、「Bでない」。
であるとは、限らず、
④「Bでない」ならば、「Aでない」。
であるからと言って、
⑥「Bである」ならば、「Aである」。
であるとは、限らない。
(15)
論理は「日常会話」でいつも使っているものだから改めて(国語ではなく)数学で教える必要はない、という考え方もあるだろう。しかし、日常の論理と数学の論理には微妙な用法の違いがあり、日常の論理の経験に期待するのはとても危険である(小島寛之、数学でつまづくのはなぜか、2008年、91頁)。
(16)
「数学の論理」といふのは、「論理学の論理」であるものの、「論理学の教科書」が教へる所の、
「AならばBである。:A→B」は、「AであってBでない。といふことはない。:~(A&~B)」といふ「意味」である。
従って、
(17)
日常で言ふ「AならばBである。」が、数学で言ふ「AならばBである。」と、「微妙に異なる」のであれば、
日常で言ふ「AならばBである。」は、必ずしも、「AであってBでない。といふことはない。」といふ「意味」ではない。
といふ、ことになる。
平成29年04月16日、毛利太。
①「Aである」と「Bである」は、「同時には」成り立たない。
といふことは、すなはち、
②「Bである」と「Aである」が、「同時には」成り立たない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(02)
①「Aである」と「Bである」が、「同時には」成り立たない。
のであれば、
①「Aである」ならば「Bでない」。
(03)
②「Bである」と「Aである」が、「同時には」成り立たない。
のであれば、
②「Bである」ならば「Aでない」。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
①「Aである」と「Bである」は、「同時には」成り立たない。
②「Bである」と「Aである」は、「同時には」成り立たない。
に於いて、
①=② であるが故に、
①「Aである」ならば「Bでない」。
②「Bである」ならば「Aでない」。
に於いて、
①=② である。
(05)
③「Aである」と「Bでない」は、「同時には」成り立たない。
といふことは、すなはち、
④「Bでない」と「Aである」が、「同時には」成り立たない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(06)
③「Aである」と「Bでない」が、「同時には」成り立たない。
のであれば、
③「Aである」ならば、「Bでない」ではなく、「Bである」。
(07)
④「Bでない」と「Aである」が、「同時には」成り立たない。
のであれば、
④「Bでない」ならば、「Aである」ではなく、「Aでない」。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
③「Aである」と「Bでない」は、「同時には」成り立たない。
④「Bでない」と「Aである」は、「同時には」成り立たない。
に於いて、
③=④ であるが故に、
③「Aである」ならば、「Bである」。
④「Bでない」ならば、「Aでない」。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(08)により、
(09)
③「Aである」ならば、「Bである」。
といふ「仮言命題」は、その「対偶」である所の、
④「Bでない」ならば、「Aでない」。
といふ「仮言命題」に、「等しい」。
然るに、
(10)
⑤「Aでない」と「Bである」は、「同時には」成り立たない。
⑥「Bである」と「Aでない」は、「同時には」成り立たない。
に於いて、
⑤=⑥ であるが故に、
⑤「Aでない」ならば、「Bである」ではなく、「Bでない」。
⑥「Bである」ならば、「Aでない」ではなく、「Aである」。
に於いて、
⑤=⑥ である。
従って、
(10)により、
(11)
⑤「Aでない」ならば、「Bでない」。
といふ「仮言命題」は、その「対偶」である所の、
⑥「Bである」ならば、「Aである」。
といふ「仮言命題」に、「等しい」。
然るに、
(12)
③「Aである」と「Bでない」。
⑤「Aでない」と「Bである」。
に於いて、
③=⑤ ではないし、
④「Bでない」と「Aである」。
⑥「Bである」と「Aでない」。
に於いて、
④=⑥ ではない。
従って、
(08)~(12)により、
(13)
③「Aである」ならば、「Bである」。
④「Bでない」ならば、「Aでない」。
⑤「Aでない」ならば、「Bでない」。
⑥「Bである」ならば、「Aである」。
に於いて、
{③=④}≠{⑤=⑥}
であって、
{③=④}={⑤=⑥}
ではない。
従って、
(13)により、
(14)
③「Aである」ならば、「Bである」。
であるからと言って、
⑤「Aでない」ならば、「Bでない」。
であるとは、限らず、
④「Bでない」ならば、「Aでない」。
であるからと言って、
⑥「Bである」ならば、「Aである」。
であるとは、限らない。
(15)
論理は「日常会話」でいつも使っているものだから改めて(国語ではなく)数学で教える必要はない、という考え方もあるだろう。しかし、日常の論理と数学の論理には微妙な用法の違いがあり、日常の論理の経験に期待するのはとても危険である(小島寛之、数学でつまづくのはなぜか、2008年、91頁)。
(16)
「数学の論理」といふのは、「論理学の論理」であるものの、「論理学の教科書」が教へる所の、
「AならばBである。:A→B」は、「AであってBでない。といふことはない。:~(A&~B)」といふ「意味」である。
従って、
(17)
日常で言ふ「AならばBである。」が、数学で言ふ「AならばBである。」と、「微妙に異なる」のであれば、
日常で言ふ「AならばBである。」は、必ずしも、「AであってBでない。といふことはない。」といふ「意味」ではない。
といふ、ことになる。
平成29年04月16日、毛利太。
2017年4月15日土曜日
It is not he case that=~( )
(01)
① Pであって、Qである。といふことはない。
② Pならば、 Qでない。
に於いて、
①=② である。
(02)
③ Qであって、Pである。といふことはない。
④ Qならば、 Pでない。
に於いて、
②=④ である。
然るに、
(03)
① Pであって、Qである。といふことはない。
③ Qであって、Pである。といふことはない。
に於いて、
①=③ である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① Pであって、Qである。といふことはない。
② Pならば、 Qでない。
③ Qであって、Pである。といふことはない。
④ Qならば、 Pでない。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(05)
「記号」で書くならば、
① ~(P&Q)
② P→~Q
③ ~(Q&P)
④ Q→~P
に於いて、
①=②=③=④ である。
然るに、
(06)
P=ジョーンズは病気である。
&=そして
Q=スミスは不在である。
とする。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① ~(P&Q)=ジョーンズは病気でありそしてスミスは不在である、ということはない。
② P→~Q=ジョーンズが病気であるならばスミスは不在ではなく(在宅である)。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(08)
(3)ジョーンズは病気でありそしてスミスは不在である、ということはない(It is not the case that Jones is ill and Smith is away.)
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、16頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
P=Jones is ill.
&=and
Q=Smith is away.
である。
従って、
(07)(09)により、
(10)
① ~(P&Q)= It is not the case that Jones is ill and Smith is away.
② P→~Q= If Jones is ill then Smith is not away.
に於いて、
①=② である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① ~( )= It is not the case that
① P&Q = Jones is ill and Smith is away.
である。
然るに、
(12)
接頭辞‘~’を一定不変の否定記号として採用することにより、かなりの単純化が行われる。この接頭辞は、(3)の場合のように、‘・・・であるということはない’(It is not the case that)という句に対応するものであると、説明することができよう;この句を頭につければ、規則的に表術を否定する効果をもつからである。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、16頁)
従って、
(12)により、
(13)
ここでの、W.O.クワインは、
① ~ = It is not the case that
であると、してゐる。
然るに、
(14)
① ~(P&Q)= It is not the case that Jones is ill and Smith is away.
の「両辺」から、
① ~ = It is not the case that
を除くならば、
① (P&Q)= Jones is ill and Smith is away.
でなければ、ならない。
然るに、
(11)により、
(15)
① P&Q = Jones is ill and Smith is away.
であって、
① (P&Q)= Jones is ill and Smith is away.
ではない。
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
① ~ = It is not the case that
ではなく、
① ~( )= It is not the case that
でなければ、ならない。
平成29年04月15日、毛利太。
① Pであって、Qである。といふことはない。
② Pならば、 Qでない。
に於いて、
①=② である。
(02)
③ Qであって、Pである。といふことはない。
④ Qならば、 Pでない。
に於いて、
②=④ である。
然るに、
(03)
① Pであって、Qである。といふことはない。
③ Qであって、Pである。といふことはない。
に於いて、
①=③ である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① Pであって、Qである。といふことはない。
② Pならば、 Qでない。
③ Qであって、Pである。といふことはない。
④ Qならば、 Pでない。
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(05)
「記号」で書くならば、
① ~(P&Q)
② P→~Q
③ ~(Q&P)
④ Q→~P
に於いて、
①=②=③=④ である。
然るに、
(06)
P=ジョーンズは病気である。
&=そして
Q=スミスは不在である。
とする。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① ~(P&Q)=ジョーンズは病気でありそしてスミスは不在である、ということはない。
② P→~Q=ジョーンズが病気であるならばスミスは不在ではなく(在宅である)。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(08)
(3)ジョーンズは病気でありそしてスミスは不在である、ということはない(It is not the case that Jones is ill and Smith is away.)
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、16頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
P=Jones is ill.
&=and
Q=Smith is away.
である。
従って、
(07)(09)により、
(10)
① ~(P&Q)= It is not the case that Jones is ill and Smith is away.
② P→~Q= If Jones is ill then Smith is not away.
に於いて、
①=② である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① ~( )= It is not the case that
① P&Q = Jones is ill and Smith is away.
である。
然るに、
(12)
接頭辞‘~’を一定不変の否定記号として採用することにより、かなりの単純化が行われる。この接頭辞は、(3)の場合のように、‘・・・であるということはない’(It is not the case that)という句に対応するものであると、説明することができよう;この句を頭につければ、規則的に表術を否定する効果をもつからである。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、16頁)
従って、
(12)により、
(13)
ここでの、W.O.クワインは、
① ~ = It is not the case that
であると、してゐる。
然るに、
(14)
① ~(P&Q)= It is not the case that Jones is ill and Smith is away.
の「両辺」から、
① ~ = It is not the case that
を除くならば、
① (P&Q)= Jones is ill and Smith is away.
でなければ、ならない。
然るに、
(11)により、
(15)
① P&Q = Jones is ill and Smith is away.
であって、
① (P&Q)= Jones is ill and Smith is away.
ではない。
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
① ~ = It is not the case that
ではなく、
① ~( )= It is not the case that
でなければ、ならない。
平成29年04月15日、毛利太。
2017年4月13日木曜日
「連体形準体法」について。
(01)
一般に、訓読で主語に「が」を付けることはありません(古田島洋介、これならわかる漢文の送り仮名、2012年、94頁)。
近代語では「が」で主格、「を」で対格を表すが、古い時代はこういった助詞を使わない言い方が普通であった(佐伯哲夫・山内洋一郎、国語概説、1983年、89頁改)。
従って、
(01)により、
(02)
① 孔子は聖人なり。
② 孔子が聖人なり。
に於いて、
① は、「古文」であって、
② は、「古文」ではない。
然るに、
(03)
② 孔子が聖人なり(終止形)。
③ 孔子が聖人なる(連体形)。
である。
cf.
なら なり・に なり なる なれ なれ
未然 連用 終止 連体 已然 命令
は、「体言(名詞)と連体形」に付く、「断定の助動詞」。
然るに、
(04)
11.連体形準体法
連体形は、もともと名詞と同等の資格を有していて、連体形単独で「こと」・「もの」・「の」・「ところ」・「ひと」などの形式的な名詞の意味を含むという性質がある。
(浅川哲也・竹部歩美、歴史的変化から理解する現代日本語文法、2014年、146頁)
従って、
(03)(04)により、
(05)
② 孔子が聖人なり(終止形)。
に対して、
③ 孔子が聖人なる(連体形)。
であれば、
③ 孔子が聖人である(連体形)こと。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(06)
連体形準体法は「連体形+形式名詞」と併存しながら、江戸時代末期まで会話文でも用いられていたが、現代語においては、連体形準体法は全く衰え、連体形には必ず準体助詞「の」や他の名詞・形式名詞が介入するように接続する。
(浅川哲也・竹部歩美、歴史的変化から理解する現代日本語文法、2014年、147頁)
従って、
(05)(06)により、
(07)
③ 孔子が聖人である(連体形)こと。
から、
③ こと(形式名詞)
を除くことは、出来ない。
従って、
(08)
③ 孔子が聖人である(連体形)こと。
に対して、
③ 孔子が聖人である(連体形)。
といふ「日本語」は、本来であれば、「非文」である。
然るに、
(09)
③ 孔子_聖人である(連体形)。
④ 孔子_聖人である(終止形)。
に於いて、
③ は、「非文」であるが、
④ は、「非文」ではない。
然るに、
(10)
古代語の文法を根本的に変化させた大きな内的原因は次の二点である。
(a)活用語の連体形が文を終止させるはたらきを有するようになり、それまでの終止形の語形を駆逐して、終止形が連体形と同じ語形となったこと。
(b)活用語の連用形の語形の影響で、終止形・連体形の語形が変わったこと。
(浅川哲也・竹部歩美、歴史的変化から理解する現代日本語文法、2014年、141頁)
従って、
(09)(10)により、
(11)
(a)終止形が連体形と同じ語形となった。
がために、
③ 孔子が聖人である(連体形)。
ではなく、
④ 孔子が聖人である(終止形)。
である。といふことになり、それ故、
④ 孔子が聖人である(終止形)。
といふ「現代語」は、「非文」ではない。
然るに、
(05)(06)(11)により、
(12)
④ 孔子が聖人である(終止形)。
といふ「言ひ方」は、
③ 孔子が聖人である(連体形)こと。
から、
③ こと(形式名詞)
を除いた「形」である。
然るに、
(13)
【1】[が][の]
(a)主語を示す。 日の暮るるとき。 汝が去りし日。
(b)連体修飾語を作る。 夏草や兵どもが夢のあと。
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、154頁改)
【26】[は]
他と区別して述べる意を表す。〈・・・・・ハ〉
草の花はなでしこ(徒然草)
[訳]草花はなでしこがよい。
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、191頁)
従って、
(13)により、
(14)
③ 孔子が(格助詞)説く(連体形)道(名詞)。
③ 孔子が(格助詞)聖人である(連体形)こと(形式名詞)。
に対して、
⑤ 孔子は(係助詞)説く(連体形)道(名詞)。
⑤ 孔子は(係助詞)聖人である(連体形)こと(形式名詞)。
といふ「日本語」は、固より、存在しない。
従って、
(14)により、
(15)
⑤ 孔子は(係助詞)聖人である。
に対して、
⑤ こと(形式名詞)
を加へる場合は、
⑤ 孔子は(係助詞)
といふ「それ」を、
③ 孔子が(格助詞)
といふ「それ」に、変へなければ、ならない。
然るに、
(16)
⑤ 孔子は聖人である。といふこと。
であれば、
⑤ 孔子は聖人である。
の「引用」である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
⑤ 孔子は聖人であること。
といふ「日本語」は、「間違ひ」であるが、
⑤ 孔子は聖人である。といふこと。
といふ「日本語」は、「正しい」。
平成29年04月13日、毛利太。
一般に、訓読で主語に「が」を付けることはありません(古田島洋介、これならわかる漢文の送り仮名、2012年、94頁)。
近代語では「が」で主格、「を」で対格を表すが、古い時代はこういった助詞を使わない言い方が普通であった(佐伯哲夫・山内洋一郎、国語概説、1983年、89頁改)。
従って、
(01)により、
(02)
① 孔子は聖人なり。
② 孔子が聖人なり。
に於いて、
① は、「古文」であって、
② は、「古文」ではない。
然るに、
(03)
② 孔子が聖人なり(終止形)。
③ 孔子が聖人なる(連体形)。
である。
cf.
なら なり・に なり なる なれ なれ
未然 連用 終止 連体 已然 命令
は、「体言(名詞)と連体形」に付く、「断定の助動詞」。
然るに、
(04)
11.連体形準体法
連体形は、もともと名詞と同等の資格を有していて、連体形単独で「こと」・「もの」・「の」・「ところ」・「ひと」などの形式的な名詞の意味を含むという性質がある。
(浅川哲也・竹部歩美、歴史的変化から理解する現代日本語文法、2014年、146頁)
従って、
(03)(04)により、
(05)
② 孔子が聖人なり(終止形)。
に対して、
③ 孔子が聖人なる(連体形)。
であれば、
③ 孔子が聖人である(連体形)こと。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(06)
連体形準体法は「連体形+形式名詞」と併存しながら、江戸時代末期まで会話文でも用いられていたが、現代語においては、連体形準体法は全く衰え、連体形には必ず準体助詞「の」や他の名詞・形式名詞が介入するように接続する。
(浅川哲也・竹部歩美、歴史的変化から理解する現代日本語文法、2014年、147頁)
従って、
(05)(06)により、
(07)
③ 孔子が聖人である(連体形)こと。
から、
③ こと(形式名詞)
を除くことは、出来ない。
従って、
(08)
③ 孔子が聖人である(連体形)こと。
に対して、
③ 孔子が聖人である(連体形)。
といふ「日本語」は、本来であれば、「非文」である。
然るに、
(09)
③ 孔子_聖人である(連体形)。
④ 孔子_聖人である(終止形)。
に於いて、
③ は、「非文」であるが、
④ は、「非文」ではない。
然るに、
(10)
古代語の文法を根本的に変化させた大きな内的原因は次の二点である。
(a)活用語の連体形が文を終止させるはたらきを有するようになり、それまでの終止形の語形を駆逐して、終止形が連体形と同じ語形となったこと。
(b)活用語の連用形の語形の影響で、終止形・連体形の語形が変わったこと。
(浅川哲也・竹部歩美、歴史的変化から理解する現代日本語文法、2014年、141頁)
従って、
(09)(10)により、
(11)
(a)終止形が連体形と同じ語形となった。
がために、
③ 孔子が聖人である(連体形)。
ではなく、
④ 孔子が聖人である(終止形)。
である。といふことになり、それ故、
④ 孔子が聖人である(終止形)。
といふ「現代語」は、「非文」ではない。
然るに、
(05)(06)(11)により、
(12)
④ 孔子が聖人である(終止形)。
といふ「言ひ方」は、
③ 孔子が聖人である(連体形)こと。
から、
③ こと(形式名詞)
を除いた「形」である。
然るに、
(13)
【1】[が][の]
(a)主語を示す。 日の暮るるとき。 汝が去りし日。
(b)連体修飾語を作る。 夏草や兵どもが夢のあと。
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、154頁改)
【26】[は]
他と区別して述べる意を表す。〈・・・・・ハ〉
草の花はなでしこ(徒然草)
[訳]草花はなでしこがよい。
(中村菊一、重点整理 基礎からわかる古典文法、1978年、191頁)
従って、
(13)により、
(14)
③ 孔子が(格助詞)説く(連体形)道(名詞)。
③ 孔子が(格助詞)聖人である(連体形)こと(形式名詞)。
に対して、
⑤ 孔子は(係助詞)説く(連体形)道(名詞)。
⑤ 孔子は(係助詞)聖人である(連体形)こと(形式名詞)。
といふ「日本語」は、固より、存在しない。
従って、
(14)により、
(15)
⑤ 孔子は(係助詞)聖人である。
に対して、
⑤ こと(形式名詞)
を加へる場合は、
⑤ 孔子は(係助詞)
といふ「それ」を、
③ 孔子が(格助詞)
といふ「それ」に、変へなければ、ならない。
然るに、
(16)
⑤ 孔子は聖人である。といふこと。
であれば、
⑤ 孔子は聖人である。
の「引用」である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
⑤ 孔子は聖人であること。
といふ「日本語」は、「間違ひ」であるが、
⑤ 孔子は聖人である。といふこと。
といふ「日本語」は、「正しい」。
平成29年04月13日、毛利太。
2017年4月11日火曜日
「こと(that)」による「名詞化」。
(01)
① 我、かの女の間者なるを知れり(古文)。
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(02)
① 我、かの女のスパイなるを知れり。
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
に於いて、
① には、「こと」といふ語がなく、
② には、「こと」といふ語がある。
然るに、
(03)
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
に於いて、
②「こと」
といふ「語」は、「それが名詞」である。
といふ事以外に、「具体的な意味」を、持ってゐない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
② 彼女はスパイである。
といふ「文」を「名詞化」した「結果」が、
② 彼女がスパイであること。
であって、尚且つ、「こと」は、少なくとも、「古文」であれば、「省略」できる。
(05)
③ I am aware she is a spy.
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(06)
③ I am aware she is a spy.
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
③ には、「that」といふ語がなく、
④ には、「that」といふ語がある。
然るに、
(07)
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
④「that」
といふ「単語」は、「具体的な意味」を、持ってゐない。
従って、
(07)により、
(08)
④ She is a spy.
といふ「文」を「名詞化」した「結果」が、
④ that she is a spy.
であって、尚且つ、「that」は、「省略できる」といふ風に、捉へることが出来る。
従って、
(04)(08)により、
(09)
① 我、かの女のスパイなるを知れり。
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
③ I am aware she is a spy.
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
②「こと」は、
④「that」に「等しい」。
然るに、
(10)
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
⑤ 私は、彼女はスパイである。といふことを知ってゐる。
に於いて、
②「こと」は、
⑤「といふこと」に「等しい」。
従って、
(09)(10)により、
(11)
④ I am aware that she is a spy.
⑤ 私は、彼女はスパイである。といふことを知ってゐる。
に於いて、
④「that」は、
⑤「といふこと」に「等しい」。
平成29年04月11日、毛利太。
① 我、かの女の間者なるを知れり(古文)。
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(02)
① 我、かの女のスパイなるを知れり。
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
に於いて、
① には、「こと」といふ語がなく、
② には、「こと」といふ語がある。
然るに、
(03)
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
に於いて、
②「こと」
といふ「語」は、「それが名詞」である。
といふ事以外に、「具体的な意味」を、持ってゐない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
② 彼女はスパイである。
といふ「文」を「名詞化」した「結果」が、
② 彼女がスパイであること。
であって、尚且つ、「こと」は、少なくとも、「古文」であれば、「省略」できる。
(05)
③ I am aware she is a spy.
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(06)
③ I am aware she is a spy.
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
③ には、「that」といふ語がなく、
④ には、「that」といふ語がある。
然るに、
(07)
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
④「that」
といふ「単語」は、「具体的な意味」を、持ってゐない。
従って、
(07)により、
(08)
④ She is a spy.
といふ「文」を「名詞化」した「結果」が、
④ that she is a spy.
であって、尚且つ、「that」は、「省略できる」といふ風に、捉へることが出来る。
従って、
(04)(08)により、
(09)
① 我、かの女のスパイなるを知れり。
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
③ I am aware she is a spy.
④ I am aware that she is a spy.
に於いて、
②「こと」は、
④「that」に「等しい」。
然るに、
(10)
② 私は彼女がスパイであることを知ってゐる。
⑤ 私は、彼女はスパイである。といふことを知ってゐる。
に於いて、
②「こと」は、
⑤「といふこと」に「等しい」。
従って、
(09)(10)により、
(11)
④ I am aware that she is a spy.
⑤ 私は、彼女はスパイである。といふことを知ってゐる。
に於いて、
④「that」は、
⑤「といふこと」に「等しい」。
平成29年04月11日、毛利太。
2017年4月8日土曜日
あらなく・・・と=~( )
(01)
子曰、 「巧言令色、鮮矣。」
子曰く、「巧言令色、鮮いかな仁。」と。
先生が言われた、「ことばじょうずで、顔つきがよくして、人の気に入るようにする人間は、ほとんどないものだな、仁の徳は。」
(三省堂、明解古典学習シリーズ16、1973年、5頁)
然るに、
(02)
ク語法
動詞の未然形に、準体助詞の「く」がついて、「・・・こと、・・・ところ」など名詞化した意味を表す語法。
(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、199頁)
従って、
(01)(02)により、
(03)
子曰く、「巧言令色、鮮いかな仁。」と。
であれば、
先生が言ふこと、「巧言令色、鮮いかな仁。」と。
である。
然るに、
(04)
・「と」・・・最も多いのは、いわゆる引用の「と」で、「曰(いは)ク」「云(い)フ」「聞(き)く」「以為(おも)ヘラク」「聞説(きくなら)ク」などよって導かれた引用文の終結を表します。
(古田島洋介、これならわかる漢文の送り仮名、96頁)
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
① 曰く AはBなりと。
② 以為くAはBなりと。
③ 聞説くAはBなりと。
であれば、
① 言ふこと=AはBなり。
② 思ふこと=AはBなり。
③ 聞くこと=AはBなり。
である。
然るに、
(06)
あら‐な-く-に【有らなくに】① ないことだなあ。
[品詞分解]動詞ラ変「あり」の未然形「あら」+打消の助動詞「ず」の古い形の未然形「な」+接尾語「く」+助詞「に」。
なくに ②(終助詞的に用いられる場合)・・・ないことだなあ。
《参考》「に」は格助詞・接続助詞・終助詞、また、断定の助動詞「なり」の連用形などとする諸説がある。
(三省堂、全訳読解古語辞典、65・885頁)
従って、
(06)により、
(07)
④ あらなく
を、「ク語法」とすることは、可能であり、それ故、
④ あらなくAはBなりと。
であれば、
④ あらざること=AはBなり。
である。
然るに、
(08)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
④ ~(AはBなり)。
といふ「それ」は、
④ あらなくAはBなりと。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(10)
④ ~(AはBなり)。
と書いて、
④ あらなくAはBなりと。
と読むのは、「恐らク」は、私だけである。ものの、
因みに、「恐らク」といふ語は、「曰ク、以為へらク、聞説ならク」等と同じく、本来は、「ク語法」である。
(11)
⑤ AはBである。といふことはない。
といふ「それ」は、
⑤ AはBである。
といふ「表述(statement)」の「否定」である。
従って、
(08)(09)(11)により、
(12)
④ あらなくAはBなりと。
⑤ AはBである。といふことはない。
に於いて、
④=⑤ である。
然るに、
(13)
④ あらなくAはBなりと。
といふ「語順」は、
④ ~(AはBなり)。
といふ「それ」に、対応し、
⑤ AはBである。といふことはない。
といふ「語順」は、
(AはBなり)~。
といふ「それ」に、対応する。
従って、
(12)(13)により、
(14)
④ 任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
としても、
⑤ 任意の表述の否定は、その表述を’( )~’という空所にいれて書くことにしよう。
としても、要するに、「どちらでも、良い」。
従って、
(15)
④ ~( ).
⑤ ( )~。
に於いて、
④ は、「論理的に、正しい語順」であり、
⑤ は、「論理的に、正しい語順」ではない。
といふことには、ならない。
平成29年04月08日、毛利太。
子曰、 「巧言令色、鮮矣。」
子曰く、「巧言令色、鮮いかな仁。」と。
先生が言われた、「ことばじょうずで、顔つきがよくして、人の気に入るようにする人間は、ほとんどないものだな、仁の徳は。」
(三省堂、明解古典学習シリーズ16、1973年、5頁)
然るに、
(02)
ク語法
動詞の未然形に、準体助詞の「く」がついて、「・・・こと、・・・ところ」など名詞化した意味を表す語法。
(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、199頁)
従って、
(01)(02)により、
(03)
子曰く、「巧言令色、鮮いかな仁。」と。
であれば、
先生が言ふこと、「巧言令色、鮮いかな仁。」と。
である。
然るに、
(04)
・「と」・・・最も多いのは、いわゆる引用の「と」で、「曰(いは)ク」「云(い)フ」「聞(き)く」「以為(おも)ヘラク」「聞説(きくなら)ク」などよって導かれた引用文の終結を表します。
(古田島洋介、これならわかる漢文の送り仮名、96頁)
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
① 曰く AはBなりと。
② 以為くAはBなりと。
③ 聞説くAはBなりと。
であれば、
① 言ふこと=AはBなり。
② 思ふこと=AはBなり。
③ 聞くこと=AはBなり。
である。
然るに、
(06)
あら‐な-く-に【有らなくに】① ないことだなあ。
[品詞分解]動詞ラ変「あり」の未然形「あら」+打消の助動詞「ず」の古い形の未然形「な」+接尾語「く」+助詞「に」。
なくに ②(終助詞的に用いられる場合)・・・ないことだなあ。
《参考》「に」は格助詞・接続助詞・終助詞、また、断定の助動詞「なり」の連用形などとする諸説がある。
(三省堂、全訳読解古語辞典、65・885頁)
従って、
(06)により、
(07)
④ あらなく
を、「ク語法」とすることは、可能であり、それ故、
④ あらなくAはBなりと。
であれば、
④ あらざること=AはBなり。
である。
然るに、
(08)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(07)(08)により、
(09)
④ ~(AはBなり)。
といふ「それ」は、
④ あらなくAはBなりと。
といふ風に、読むことが、出来る。
然るに、
(10)
④ ~(AはBなり)。
と書いて、
④ あらなくAはBなりと。
と読むのは、「恐らク」は、私だけである。ものの、
因みに、「恐らク」といふ語は、「曰ク、以為へらク、聞説ならク」等と同じく、本来は、「ク語法」である。
(11)
⑤ AはBである。といふことはない。
といふ「それ」は、
⑤ AはBである。
といふ「表述(statement)」の「否定」である。
従って、
(08)(09)(11)により、
(12)
④ あらなくAはBなりと。
⑤ AはBである。といふことはない。
に於いて、
④=⑤ である。
然るに、
(13)
④ あらなくAはBなりと。
といふ「語順」は、
④ ~(AはBなり)。
といふ「それ」に、対応し、
⑤ AはBである。といふことはない。
といふ「語順」は、
(AはBなり)~。
といふ「それ」に、対応する。
従って、
(12)(13)により、
(14)
④ 任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
としても、
⑤ 任意の表述の否定は、その表述を’( )~’という空所にいれて書くことにしよう。
としても、要するに、「どちらでも、良い」。
従って、
(15)
④ ~( ).
⑤ ( )~。
に於いて、
④ は、「論理的に、正しい語順」であり、
⑤ は、「論理的に、正しい語順」ではない。
といふことには、ならない。
平成29年04月08日、毛利太。
2017年4月5日水曜日
( )=that=といふこと。
(01)
「活用」の無い「自立語」で「主語」になる語を「体言」といひ、「体言」とは、所謂、「名詞」である。
従って、
(02)
「名詞」以外は、原則として、「主語」になれない。
然るに、
(03)
行か 行き 行く。行く 行け 行け。
未然 連用 終止。連体 仮定 命令。
である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
「行く」のやうな、「活用する語」である「動詞」は、「主語」にはなれない。
然るに、
(05)
① 君の行く(連体)道
② 君が行く(連体)道
に於いて、
① 道 は、「体言」であり、
② 道 は、「体言」である。
従って、
(01)(05)により、
(06)
① 君の(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
② 君が(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
に於いて、
① 君の行く道 は、「主語」であって、
② 君が行く道 は、「主語」である。
然るに、
(07)
① 君の行く は、「道」を「修飾する所の、連体修飾語」であって、
② 君が行く は、「道」を「修飾する所の、連体修飾語」である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 君の は、「連体修飾語の、主語」であって、
② 君が は、「連体修飾語の、主語」である。
然るに、
(09)
① 君の道=Your way.
② 君が道=Your way.
③ 君は道=You are way.
に於いて、
① の は、「格助詞」であって、
② が も、「格助詞」であって、
③ は は、「係助詞」である。
然るに、
(10)
① 君の(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
② 君が(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
③ 君は(係助詞)行く道は、果てしなく遠い。
に於いて、
① は、「日本語」であって、
② も、「日本語」であって、
③ は、「日本語」ではない。
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
② 君が は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来、
③ 君は は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来ない。
従って、
(12)
② Aが は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来、
③ Aは は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来ない。
従って、
(13)
② 地球が太陽の周りをまわってゐること。
③ 地球は太陽の周りをまわってゐること。
に於いて、
② は、「日本語」であって、
③ は、「日本語」ではない。
従って、
(13)により、
(14)
② 地球が太陽の周りをまわってゐることはない。
③ 地球は太陽の周りをまわってゐることはない。
に於いて、
② は、「日本語」であって、
③ は、「日本語」ではない。
然るに、
(15)
と[格助][並立語]
2.会話・心中思惟・思想・手紙文・詩句などの引用を表す。・・・と言って。・・・などと。
(三省堂、全訳読解古語辞典、1995年、834頁)
従って、
(15)により、
(16)
「・・・・・」といふこと。
に於いて、
「・・・・・」は「引用」である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
② 地球が太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
③ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
に於いて、
② は、「日本語」であって、
③ も、「日本語」である。
従って、
(18)
① ・・・・・。といふことはない。
といふ「日本語」は、
①「任意の命題」の、「否定」である。
従って、
(18)により、
(19)
③ 地球は太陽の周りをまわってゐる。
といふ「命題」の「否定」は、
④ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
であって、
④ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
といふ「命題」の「否定」は、
③ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。といふことはない。
である。
然るに、
(20)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(19)(20)により、
(21)
③ P =地球は太陽の周りをまわってゐる。
④ ~(P) =地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
③ ~(~(P))=地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。といふことはない。
である。
然るに、
(22)
例へば、
① It is not true that the earth goes around the sun.
といふ「英語」は、
① The earth goes around the sun.
といふ「命題」の「否定」であって、
① It is not true that the earth doesn't go around the sun.
といふ「英語」は、
① The earth doesn't go around the sun.
といふ「命題」の「否定」である。
従って、
(17)(20)(22)により、
(23)
① ~(・ ・ ・ ・ ・).
① ・ ・ ・ ・ 。といふことはない。
① It is not true that ・ ・ ・ ・ ・.
は、それぞれが、「任意の命題の、否定」である。
従って、
(23)により、
(24)
① ~( )
① といふことはない
① It is not true that
であって、
① ~
① はない
① It is not true
である。
従って、
(24)により、
(25)
① ( )
① といふこと
① that
である。
従って、
(25)により、
(26)
① ( )=といふこと=that
である。
平成29年04月05日、毛利太。
「活用」の無い「自立語」で「主語」になる語を「体言」といひ、「体言」とは、所謂、「名詞」である。
従って、
(02)
「名詞」以外は、原則として、「主語」になれない。
然るに、
(03)
行か 行き 行く。行く 行け 行け。
未然 連用 終止。連体 仮定 命令。
である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
「行く」のやうな、「活用する語」である「動詞」は、「主語」にはなれない。
然るに、
(05)
① 君の行く(連体)道
② 君が行く(連体)道
に於いて、
① 道 は、「体言」であり、
② 道 は、「体言」である。
従って、
(01)(05)により、
(06)
① 君の(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
② 君が(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
に於いて、
① 君の行く道 は、「主語」であって、
② 君が行く道 は、「主語」である。
然るに、
(07)
① 君の行く は、「道」を「修飾する所の、連体修飾語」であって、
② 君が行く は、「道」を「修飾する所の、連体修飾語」である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① 君の は、「連体修飾語の、主語」であって、
② 君が は、「連体修飾語の、主語」である。
然るに、
(09)
① 君の道=Your way.
② 君が道=Your way.
③ 君は道=You are way.
に於いて、
① の は、「格助詞」であって、
② が も、「格助詞」であって、
③ は は、「係助詞」である。
然るに、
(10)
① 君の(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
② 君が(格助詞)行く道は、果てしなく遠い。
③ 君は(係助詞)行く道は、果てしなく遠い。
に於いて、
① は、「日本語」であって、
② も、「日本語」であって、
③ は、「日本語」ではない。
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
② 君が は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来、
③ 君は は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来ない。
従って、
(12)
② Aが は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来、
③ Aは は、「連体修飾語の、主語」に、なることが、出来ない。
従って、
(13)
② 地球が太陽の周りをまわってゐること。
③ 地球は太陽の周りをまわってゐること。
に於いて、
② は、「日本語」であって、
③ は、「日本語」ではない。
従って、
(13)により、
(14)
② 地球が太陽の周りをまわってゐることはない。
③ 地球は太陽の周りをまわってゐることはない。
に於いて、
② は、「日本語」であって、
③ は、「日本語」ではない。
然るに、
(15)
と[格助][並立語]
2.会話・心中思惟・思想・手紙文・詩句などの引用を表す。・・・と言って。・・・などと。
(三省堂、全訳読解古語辞典、1995年、834頁)
従って、
(15)により、
(16)
「・・・・・」といふこと。
に於いて、
「・・・・・」は「引用」である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
② 地球が太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
③ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
に於いて、
② は、「日本語」であって、
③ も、「日本語」である。
従って、
(18)
① ・・・・・。といふことはない。
といふ「日本語」は、
①「任意の命題」の、「否定」である。
従って、
(18)により、
(19)
③ 地球は太陽の周りをまわってゐる。
といふ「命題」の「否定」は、
④ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
であって、
④ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
といふ「命題」の「否定」は、
③ 地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。といふことはない。
である。
然るに、
(20)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(19)(20)により、
(21)
③ P =地球は太陽の周りをまわってゐる。
④ ~(P) =地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。
③ ~(~(P))=地球は太陽の周りをまわってゐる。といふことはない。といふことはない。
である。
然るに、
(22)
例へば、
① It is not true that the earth goes around the sun.
といふ「英語」は、
① The earth goes around the sun.
といふ「命題」の「否定」であって、
① It is not true that the earth doesn't go around the sun.
といふ「英語」は、
① The earth doesn't go around the sun.
といふ「命題」の「否定」である。
従って、
(17)(20)(22)により、
(23)
① ~(・ ・ ・ ・ ・).
① ・ ・ ・ ・ 。といふことはない。
① It is not true that ・ ・ ・ ・ ・.
は、それぞれが、「任意の命題の、否定」である。
従って、
(23)により、
(24)
① ~( )
① といふことはない
① It is not true that
であって、
① ~
① はない
① It is not true
である。
従って、
(24)により、
(25)
① ( )
① といふこと
① that
である。
従って、
(25)により、
(26)
① ( )=といふこと=that
である。
平成29年04月05日、毛利太。
2017年4月4日火曜日
「括弧」=といふこと(Ⅱ)。
(01)
① その人は邦人であって男性でない。
② その人は男性であって邦人でない。
に於いて、
① であれば、その人は、例へば、ヤマダ・ハナコである。
② であれば、その人は、例へば、トム・ソーヤーである。
従って、
(01)により、
(02)
① AはBであってCでない。
② AはCであってBでない。
に於いて、
①=② ではない。
然るに、
(03)
③ 花子は邦人であって女性である。
④ 花子は女性であって邦人である。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(03)により、
(04)
③ AはBであってCである。
④ AはCであってBである。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(05)
③ AはBであってCである。といふことはない。
④ AはCであってBである。といふことはない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(02)(04)(05)により、
(06)
① AはBであってCでない。
③ AはBであってCである。といふことはない。
に於いて、
① ⇒ BとCを「逆」にすると、「意味」が変はる。
③ ⇒ BとCを「逆」にしても、「意味」は変はらない。
従って、
(06)により、
(07)
① AはBであってCでない。
③ AはBであってCである。といふことはない。
に於いて、
①=③ ではない。
然るに、
(08)
① AはBであってCでない。
③ AはBであってCである。といふことはない。
といふことは、
① AはBであってAはCでない。
③ AはBであってAはCである。といふことはない。
といふことに、他ならない。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① AはBであってAはCでない。
③ AはBであってAはCである。といふことはない。
に於いて、
①=③ ではない。
然るに、
(10)
「否定」は、「論理演算子」である。
然るに、
(11)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
然るに、
(12)
と[格助][並立語]
2.会話・心中思惟・思想・手紙文・詩句などの引用を表す。・・・と言って。・・・などと。
(三省堂、全訳読解古語辞典、1995年、834頁)
従って、
(09)~(12)により、
(13)
③ AはBであってAはCである。といふことはない。
であるならば、
③(AはBであってAはCである。)の「否定」である。
である。
然るに、
(14)
P=AはBである。
Q=AはCである。
~=否定
&=接続詞
→=ならば
とする。
従って、
(13)(14)により、
(15)
③ AはBであってAはCである。といふことはない。
であるならば、
③ ~(P&Q)
である。
然るに、
(16)
③ ~(P&Q)=~P∨~Q=P→~Q
③ ~(Q&P)=~Q∨~P=Q→~P
は、「連言の交換法則」、「ド・モルガンの法則」、「含意の定義」である。
然るに、
(14)(16)により、
(17)
③ P→~Q=AがBであるならば、AはCでない。
③ Q→~P=AがCであるならば、AはBでない。
である。
従って、
(15)(17)により、
(18)
③ AはBであってAはCである。といふことはない。
であるならば、
③ ~(P&Q)
であって、
③ ~(P&Q)
であるならば、
③ P→~Q=AがBであるならば、AはCでない。
③ Q→~P=AがCであるならば、AはBでない。
である。
然るに、
(19)
私を含む、日本人にとって、
③ AはBであってAはCである。といふことはない。
といふ「国語」は、
③ AがBであるならば、AはCでない。
③ AがCであるならば、AはBでない。
といふ、「意味」である。
従って、
(14)(18)(19)により、
(20)
P=AはBである。
&=て
Q=AはCである。
( )=といふこと
~=ない。
である。
従って、
(20)により、
(21)
例へば、
③ AはBであってAはCである。といふことはない。
といふ「日本語」に於いて、
( )=といふこと
といふ「等式」が、成立する。
平成29年04月04日、毛利太。
① その人は邦人であって男性でない。
② その人は男性であって邦人でない。
に於いて、
① であれば、その人は、例へば、ヤマダ・ハナコである。
② であれば、その人は、例へば、トム・ソーヤーである。
従って、
(01)により、
(02)
① AはBであってCでない。
② AはCであってBでない。
に於いて、
①=② ではない。
然るに、
(03)
③ 花子は邦人であって女性である。
④ 花子は女性であって邦人である。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(03)により、
(04)
③ AはBであってCである。
④ AはCであってBである。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(05)
③ AはBであってCである。といふことはない。
④ AはCであってBである。といふことはない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(02)(04)(05)により、
(06)
① AはBであってCでない。
③ AはBであってCである。といふことはない。
に於いて、
① ⇒ BとCを「逆」にすると、「意味」が変はる。
③ ⇒ BとCを「逆」にしても、「意味」は変はらない。
従って、
(06)により、
(07)
① AはBであってCでない。
③ AはBであってCである。といふことはない。
に於いて、
①=③ ではない。
然るに、
(08)
① AはBであってCでない。
③ AはBであってCである。といふことはない。
といふことは、
① AはBであってAはCでない。
③ AはBであってAはCである。といふことはない。
といふことに、他ならない。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① AはBであってAはCでない。
③ AはBであってAはCである。といふことはない。
に於いて、
①=③ ではない。
然るに、
(10)
「否定」は、「論理演算子」である。
然るに、
(11)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
然るに、
(12)
と[格助][並立語]
2.会話・心中思惟・思想・手紙文・詩句などの引用を表す。・・・と言って。・・・などと。
(三省堂、全訳読解古語辞典、1995年、834頁)
従って、
(09)~(12)により、
(13)
③ AはBであってAはCである。といふことはない。
であるならば、
③(AはBであってAはCである。)の「否定」である。
である。
然るに、
(14)
P=AはBである。
Q=AはCである。
~=否定
&=接続詞
→=ならば
とする。
従って、
(13)(14)により、
(15)
③ AはBであってAはCである。といふことはない。
であるならば、
③ ~(P&Q)
である。
然るに、
(16)
③ ~(P&Q)=~P∨~Q=P→~Q
③ ~(Q&P)=~Q∨~P=Q→~P
は、「連言の交換法則」、「ド・モルガンの法則」、「含意の定義」である。
然るに、
(14)(16)により、
(17)
③ P→~Q=AがBであるならば、AはCでない。
③ Q→~P=AがCであるならば、AはBでない。
である。
従って、
(15)(17)により、
(18)
③ AはBであってAはCである。といふことはない。
であるならば、
③ ~(P&Q)
であって、
③ ~(P&Q)
であるならば、
③ P→~Q=AがBであるならば、AはCでない。
③ Q→~P=AがCであるならば、AはBでない。
である。
然るに、
(19)
私を含む、日本人にとって、
③ AはBであってAはCである。といふことはない。
といふ「国語」は、
③ AがBであるならば、AはCでない。
③ AがCであるならば、AはBでない。
といふ、「意味」である。
従って、
(14)(18)(19)により、
(20)
P=AはBである。
&=て
Q=AはCである。
( )=といふこと
~=ない。
である。
従って、
(20)により、
(21)
例へば、
③ AはBであってAはCである。といふことはない。
といふ「日本語」に於いて、
( )=といふこと
といふ「等式」が、成立する。
平成29年04月04日、毛利太。
2017年4月3日月曜日
「対偶(transposition)」について(Ⅱ)。
(01)
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。ということはない。
に於いて、
①=② である。と、
国語を知ってゐる日本人ならば、誰でもさう思ふ。
(02)
② AであってBでない。ということはない。
③ BでなくてAである。ということはない。
に於いて、
②=③ である。と、
国語を知ってゐる日本人ならば、誰でもさう思ふ。
(03)
③ BでなくてAである。ということはない。
④ BでないならばAでない。
に於いて、
③=④ である。と、
国語を知ってゐる日本人ならば、誰でもさう思ふ。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。ということはない。
③ BでなくてAである。ということはない。
④ BでないならばAでない。
に於いて、
①=②=③=④
である。
従って、
(04)により、
(05)
① Aであるならば、Bである。
④ Bでないならば、Aでない。
に於いて、
①=④ である。
といふ「証明」は、日本人であれば、小学生であっても、理解できる。
然るに、
(06)
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。ということはない。
に於いて、
①=② である。
といふことを、「自然演繹(E.J.レモン)」で「証明」するならば、次のやうに、なるはずである。
(07)
1(1) A→ B :仮定
2(2) A&~B :仮定
2(3) A :&消去(2)
12(4) B :条件法(1)(3)
2(5) ~B :&消去(2)
12(6) ~B&B :&導入(4)(5)
1 (7)~(A&~B):背理法(2)(6)
(8) (A→ B)→ ~(A&~B):(1)(7)条件法
1(1)~(A&~B):仮定
2(2) A :仮定
3(3) ~B :仮定
23(4) A&~B :&導入 (3)(4)
123(5)~(A&~B)&(A&~B):&導入(1)(4)
12 (6)~(~B) :背理法 (3)(6)
12 (7) B :二重否定(6)(7)
1 (8) A→ B :条件法 (2)(7)
(9)~(A&~B)→(A→ B):(1)(8)条件法
従って、
(07)により、
(08)
① Aであるならば、Bである。 : A→ B
② AであってBでない。ということはない。:~(A&~B)
に於いて、
①=② である。
然るに、
(09)
「仮定、仮定、&消去、条件法、&消去、&導入、背理法、条件法」、
「仮定、仮定、仮定、&導入、&導入、背理法、二重否定、条件法、条件法」。
のやうな「理屈(理論)」は、勉強しなければ、理解できない。
従って、
(05)(08)(09)により、
(10)
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。ということはない。
に於いて、
①=② である。
といふ「理屈」は、日本人であれば、小学生にも、理解できるものの、
① (A→ B)
② ~(A&~B)
に於いて、
①=② である。
といふ「理屈」は、小学生一年生には、理解できない。
(11)
「小学生にも理解できる事柄α」と、
「小学生には理解でない事柄β」が有って、
「事柄α」=「事柄β」
といふ「等式」が成り立つことは、「不思議なこと」である。
(12)
Aであるならば、Bである=
Aであって Bでない。ということはない。
は、「背理法」である。
然るに、
(13)
1(1) A→ B :仮定
2(2) A&~B :仮定
2(3) A :&消去(2)
12(4) B :条件法(1)(3)
2(5) ~B :&消去(2)
12(6) ~B&B :&導入(4)(5)
1 (7)~(A&~B):背理法(2)(6)
(8) (A→ B)→ ~(A&~B):(1)(7)条件法
の場合も、「背理法」を用ひなければ、「証明」できない。
平成29年04月03日、毛利太。
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。ということはない。
に於いて、
①=② である。と、
国語を知ってゐる日本人ならば、誰でもさう思ふ。
(02)
② AであってBでない。ということはない。
③ BでなくてAである。ということはない。
に於いて、
②=③ である。と、
国語を知ってゐる日本人ならば、誰でもさう思ふ。
(03)
③ BでなくてAである。ということはない。
④ BでないならばAでない。
に於いて、
③=④ である。と、
国語を知ってゐる日本人ならば、誰でもさう思ふ。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。ということはない。
③ BでなくてAである。ということはない。
④ BでないならばAでない。
に於いて、
①=②=③=④
である。
従って、
(04)により、
(05)
① Aであるならば、Bである。
④ Bでないならば、Aでない。
に於いて、
①=④ である。
といふ「証明」は、日本人であれば、小学生であっても、理解できる。
然るに、
(06)
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。ということはない。
に於いて、
①=② である。
といふことを、「自然演繹(E.J.レモン)」で「証明」するならば、次のやうに、なるはずである。
(07)
1(1) A→ B :仮定
2(2) A&~B :仮定
2(3) A :&消去(2)
12(4) B :条件法(1)(3)
2(5) ~B :&消去(2)
12(6) ~B&B :&導入(4)(5)
1 (7)~(A&~B):背理法(2)(6)
(8) (A→ B)→ ~(A&~B):(1)(7)条件法
1(1)~(A&~B):仮定
2(2) A :仮定
3(3) ~B :仮定
23(4) A&~B :&導入 (3)(4)
123(5)~(A&~B)&(A&~B):&導入(1)(4)
12 (6)~(~B) :背理法 (3)(6)
12 (7) B :二重否定(6)(7)
1 (8) A→ B :条件法 (2)(7)
(9)~(A&~B)→(A→ B):(1)(8)条件法
従って、
(07)により、
(08)
① Aであるならば、Bである。 : A→ B
② AであってBでない。ということはない。:~(A&~B)
に於いて、
①=② である。
然るに、
(09)
「仮定、仮定、&消去、条件法、&消去、&導入、背理法、条件法」、
「仮定、仮定、仮定、&導入、&導入、背理法、二重否定、条件法、条件法」。
のやうな「理屈(理論)」は、勉強しなければ、理解できない。
従って、
(05)(08)(09)により、
(10)
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。ということはない。
に於いて、
①=② である。
といふ「理屈」は、日本人であれば、小学生にも、理解できるものの、
① (A→ B)
② ~(A&~B)
に於いて、
①=② である。
といふ「理屈」は、小学生一年生には、理解できない。
(11)
「小学生にも理解できる事柄α」と、
「小学生には理解でない事柄β」が有って、
「事柄α」=「事柄β」
といふ「等式」が成り立つことは、「不思議なこと」である。
(12)
Aであるならば、Bである=
Aであって Bでない。ということはない。
は、「背理法」である。
然るに、
(13)
1(1) A→ B :仮定
2(2) A&~B :仮定
2(3) A :&消去(2)
12(4) B :条件法(1)(3)
2(5) ~B :&消去(2)
12(6) ~B&B :&導入(4)(5)
1 (7)~(A&~B):背理法(2)(6)
(8) (A→ B)→ ~(A&~B):(1)(7)条件法
の場合も、「背理法」を用ひなければ、「証明」できない。
平成29年04月03日、毛利太。
2017年4月2日日曜日
「英文」には「三重否定」が無い?
(01)
① 然而不王者未之有。
① 然り而うして、王たらざる者、未だ之れ有らず。
① このやうであってしかも王にならなかった者は、今までにゐない(孟子、告上)。
従って、
(01)により、
(02)
② 不王者。
② 王たらざる者。
② 王にならない者。
従って、
(03)
③ 無不王者。
③ 王たらざる者無し。
③ 王にならない者はゐない。
然るに、
(04)
③ No person who doesn't become a king.
の「グーグル翻訳」は、
③ 王にならない人はいない。
然るに、
(05)
【非】[意味]① ・・・にあらず ・・・ではない。・・・ということではない。◇ 後にくる名詞や、事由をあらわすクローズを打ち消すことば。
(学研、漢和大辞典、1978年、1457頁改)
従って、
(03)(05)により、
(06)
③ 無不王者。
③ No person who doesn't become a king.
の「否定」は、
④ 非無不王者=
④ 非[無〔不(王)者〕]⇒
④ [〔(王)不者〕無]非=
④ [〔(王たら)不る者〕無きに]非ず=
④ 王にならない者はゐないのではない。
然るに、
(07)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
④ 非(無不王者)=(王にならない者はゐない)のではない。
⑤ ~(No person who doesn't become a king).
⑥ Not(No person who doesn't become a king).
に於いて、
④=⑤=⑥
である。
然るに、
(09)
⑥ Not no person who doesn't become a king.
⑥ Not{no[person who doesn't〔become(a king)〕]}.
といふ「三重否定」は、「英語」には無い。
然るに、
(10)
明治以前の日本人は、漢文を読むことで論理的な考えを身につけました。漢文は論理的な構文をたくさん含んでいるからです。
(山下正男、論理的に考えること、1985年、ⅲ)
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
「漢文は、論理的な構文をたくさん含んでいる。」のに対して、
「英文は、漢文のやうには、論理的な構文を、持ってはゐない。」といふ風に、言へさうである。
平成29年04月02日、毛利太。
① 然而不王者未之有。
① 然り而うして、王たらざる者、未だ之れ有らず。
① このやうであってしかも王にならなかった者は、今までにゐない(孟子、告上)。
従って、
(01)により、
(02)
② 不王者。
② 王たらざる者。
② 王にならない者。
従って、
(03)
③ 無不王者。
③ 王たらざる者無し。
③ 王にならない者はゐない。
然るに、
(04)
③ No person who doesn't become a king.
の「グーグル翻訳」は、
③ 王にならない人はいない。
然るに、
(05)
【非】[意味]① ・・・にあらず ・・・ではない。・・・ということではない。◇ 後にくる名詞や、事由をあらわすクローズを打ち消すことば。
(学研、漢和大辞典、1978年、1457頁改)
従って、
(03)(05)により、
(06)
③ 無不王者。
③ No person who doesn't become a king.
の「否定」は、
④ 非無不王者=
④ 非[無〔不(王)者〕]⇒
④ [〔(王)不者〕無]非=
④ [〔(王たら)不る者〕無きに]非ず=
④ 王にならない者はゐないのではない。
然るに、
(07)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう。
(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)
従って、
(06)(07)により、
(08)
④ 非(無不王者)=(王にならない者はゐない)のではない。
⑤ ~(No person who doesn't become a king).
⑥ Not(No person who doesn't become a king).
に於いて、
④=⑤=⑥
である。
然るに、
(09)
⑥ Not no person who doesn't become a king.
⑥ Not{no[person who doesn't〔become(a king)〕]}.
といふ「三重否定」は、「英語」には無い。
然るに、
(10)
明治以前の日本人は、漢文を読むことで論理的な考えを身につけました。漢文は論理的な構文をたくさん含んでいるからです。
(山下正男、論理的に考えること、1985年、ⅲ)
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
「漢文は、論理的な構文をたくさん含んでいる。」のに対して、
「英文は、漢文のやうには、論理的な構文を、持ってはゐない。」といふ風に、言へさうである。
平成29年04月02日、毛利太。
「対偶(transposition)」について。
(01)
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。といふことはない。
に於いて、
①=②
である。
(02)
③ Bでないならば、Aでない。
④ BでなくてAである。といふことはない。
に於いて、
③=④
である。
然るに、
(03)
② AであってBでない。
④ BでなくてAである。
に於いて、
②=④
であるため、
②(AであってBでない。)といふことはない。
④(BでなくてAである。)といふことはない。
に於いて、
②=④
である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。といふことはない。
③ Bでないならば、Aでない。
④ BでなくてAである。といふことはない。
に於いて、
①=②
③=④
②=④
である。
従って、
(04)により、
(05)
① Aであるならば、Bである。
③ Bでないならば、Aでない。
に於いて、
①=③
である。
然るに、
(06)
対偶(たいぐう、英: Contraposition)とは、ある命題が成立する場合に、その命題の仮定と結論の両方を否定した命題も成立するという命題同士の関係性の事を言う。
命題「AならばB」の対偶は「BでないならAでない」である。 論理記号を用いて説明すると、命題「A ⇒ B」の対偶は「¬B⇒ ¬A」(¬A は命題 A の否定)である。
(ウィキペディア)
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。といふことはない。
③ Bでないならば、Aでない。
④ BでなくてAである。といふことはない。
といふ「日本語」に於いて、
①=②
③=④
②=④
であるが故に、「対偶」は、等しい。
従って、
(07)により、
(08)
② AであってBでない。といふことはない。
④ BでなくてAである。といふことはない。
に於いて、
②=④
である以上、
① Aであるならば、Bである。
③ Bでないならば、Aでない。
といふ「対偶」が等しいことは、「当然」である。
従って、
(09)
「対偶」を理解するためには、
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。といふことはない。
③ Bでないならば、Aでない。
④ BでなくてAである。といふことはない。
といふ「日本語」が理解できれば、それで、「十分」である。
従って、
(10)
例へば、
■ 条件Aを満たすものの全体を集合Aで,条件Bを満たすもの全体を集合Bで表わすとき,命題「A→B」は,A⊂Bに対応します.
A,B あるいは A(x),B(x)が条件であるとき,この条件が成り立つかどうかはxの値しだいです.
例 条件x>1をA(x)で表わすとき,x=2ならばA(x)は真ですが,x=0ならばA(x)は偽です.
といふ「説明」を理解できないとしても、「対偶」を理解することは、可能であって、尚且つ、簡単である。
(01)
① A→~B =Aならば、Bでない。
② ~( A& B)=AであってBである。といふことはない。
に於いて、
①=②
である。
(02)
③ B→~A =Bならば、Aでない。
④ ~( B& A)=BであってAである。といふことはない。
に於いて、
③=④
である。
(03)
② ~( A& B)=AであってBである。といふことはない。
④ ~( B& A)=BであってAである。といふことはない。
に於いて、
②=④
である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① A→~B =Aならば、Bでない。
③ B→~A =Bならば、Aでない。
に於いて、
①=③
である。
(05)
① A→ B =Aならば、Bである。
② ~( A&~B)=AであってBでない。といふことはない。
に於いて、
①=②
(06)
③ ~B→~A =Bでないならば、Aでない。
④ ~(~B& A)=BでなくてAである。といふことはない。
に於いて、
③=④
である。
然るに、
(07)
② ~( A&~B)=AであってBでない。といふことはない。
④ ~(~B& A)=BでなくてAである。といふことはない。
に於いて、
②=④
である。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① A→ B =Aならば、Bである。
③ ~B→~A =Bでないならば、Aでない。
に於いて、
①=③
である。
(09)
① ~A→~B =Aでないならば、Bでない。
② ~(~A& B)=AでなくてBである。といふことはない。
に於いて、
①=②
である。
(10)
③ B→ A =Bならば、Aである。
④ ~( B&~A)=BであってAでない。といふことはない。
に於いて、
③=④
である。
然るに、
(11)
② ~(~A& B)=AでなくてBである。といふことはない。
④ ~( B&~A)=BであってAでない。といふことはない。
に於いて、
②=④
である。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
① ~A→~B =Aでないならば、Bでない。
③ B→ A =Bならば、Aである。
に於いて、
①=③
である。
(13)
① ~A→ B =Aでないならば、Bである。
② ~(~A&~B)=AでなくてBでない。といふことはない。
に於いて、
①=②
である。
(14)
③ ~B→ A =Bでないならば、Aである。
④ ~(~B&~A)=BでなくてAでない。といふことはない。
に於いて、
③=④
である。
(15)
② ~(~A&~B)=AでなくてBでない。といふことはない。
④ ~(~B&~A)=BでなくてAでない。といふことはない。
に於いて、
②=④
である。
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
① ~A→ B =Aでないならば、Bである。
③ ~B→ A =Bでないならば、Aである。
に於いて、
①=③
である。
従って、
(01)~(16)により、
(17)
① A→~B =Aならば、Bでない。
② B→~A =Bならば、Aでない。
③ A→ B =Aならば、Bである。
④ ~B→~A =Bでないならば、Aでない。
⑤ ~A→~B =Aでないならば、Bでない。
⑥ B→ A =Bならば、Aである。
⑦ ~A→ B =Aでないならば、Bである。
⑧ ~B→ A =Bでないならば、Aである。
に於いて、
①=②
③=④
⑤=⑥
⑦=⑧
である。
平成29年04月02日、毛利太。
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。といふことはない。
に於いて、
①=②
である。
(02)
③ Bでないならば、Aでない。
④ BでなくてAである。といふことはない。
に於いて、
③=④
である。
然るに、
(03)
② AであってBでない。
④ BでなくてAである。
に於いて、
②=④
であるため、
②(AであってBでない。)といふことはない。
④(BでなくてAである。)といふことはない。
に於いて、
②=④
である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。といふことはない。
③ Bでないならば、Aでない。
④ BでなくてAである。といふことはない。
に於いて、
①=②
③=④
②=④
である。
従って、
(04)により、
(05)
① Aであるならば、Bである。
③ Bでないならば、Aでない。
に於いて、
①=③
である。
然るに、
(06)
対偶(たいぐう、英: Contraposition)とは、ある命題が成立する場合に、その命題の仮定と結論の両方を否定した命題も成立するという命題同士の関係性の事を言う。
命題「AならばB」の対偶は「BでないならAでない」である。 論理記号を用いて説明すると、命題「A ⇒ B」の対偶は「¬B⇒ ¬A」(¬A は命題 A の否定)である。
(ウィキペディア)
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。といふことはない。
③ Bでないならば、Aでない。
④ BでなくてAである。といふことはない。
といふ「日本語」に於いて、
①=②
③=④
②=④
であるが故に、「対偶」は、等しい。
従って、
(07)により、
(08)
② AであってBでない。といふことはない。
④ BでなくてAである。といふことはない。
に於いて、
②=④
である以上、
① Aであるならば、Bである。
③ Bでないならば、Aでない。
といふ「対偶」が等しいことは、「当然」である。
従って、
(09)
「対偶」を理解するためには、
① Aであるならば、Bである。
② AであってBでない。といふことはない。
③ Bでないならば、Aでない。
④ BでなくてAである。といふことはない。
といふ「日本語」が理解できれば、それで、「十分」である。
従って、
(10)
例へば、
■ 条件Aを満たすものの全体を集合Aで,条件Bを満たすもの全体を集合Bで表わすとき,命題「A→B」は,A⊂Bに対応します.
A,B あるいは A(x),B(x)が条件であるとき,この条件が成り立つかどうかはxの値しだいです.
例 条件x>1をA(x)で表わすとき,x=2ならばA(x)は真ですが,x=0ならばA(x)は偽です.
といふ「説明」を理解できないとしても、「対偶」を理解することは、可能であって、尚且つ、簡単である。
(01)
① A→~B =Aならば、Bでない。
② ~( A& B)=AであってBである。といふことはない。
に於いて、
①=②
である。
(02)
③ B→~A =Bならば、Aでない。
④ ~( B& A)=BであってAである。といふことはない。
に於いて、
③=④
である。
(03)
② ~( A& B)=AであってBである。といふことはない。
④ ~( B& A)=BであってAである。といふことはない。
に於いて、
②=④
である。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① A→~B =Aならば、Bでない。
③ B→~A =Bならば、Aでない。
に於いて、
①=③
である。
(05)
① A→ B =Aならば、Bである。
② ~( A&~B)=AであってBでない。といふことはない。
に於いて、
①=②
(06)
③ ~B→~A =Bでないならば、Aでない。
④ ~(~B& A)=BでなくてAである。といふことはない。
に於いて、
③=④
である。
然るに、
(07)
② ~( A&~B)=AであってBでない。といふことはない。
④ ~(~B& A)=BでなくてAである。といふことはない。
に於いて、
②=④
である。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① A→ B =Aならば、Bである。
③ ~B→~A =Bでないならば、Aでない。
に於いて、
①=③
である。
(09)
① ~A→~B =Aでないならば、Bでない。
② ~(~A& B)=AでなくてBである。といふことはない。
に於いて、
①=②
である。
(10)
③ B→ A =Bならば、Aである。
④ ~( B&~A)=BであってAでない。といふことはない。
に於いて、
③=④
である。
然るに、
(11)
② ~(~A& B)=AでなくてBである。といふことはない。
④ ~( B&~A)=BであってAでない。といふことはない。
に於いて、
②=④
である。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
① ~A→~B =Aでないならば、Bでない。
③ B→ A =Bならば、Aである。
に於いて、
①=③
である。
(13)
① ~A→ B =Aでないならば、Bである。
② ~(~A&~B)=AでなくてBでない。といふことはない。
に於いて、
①=②
である。
(14)
③ ~B→ A =Bでないならば、Aである。
④ ~(~B&~A)=BでなくてAでない。といふことはない。
に於いて、
③=④
である。
(15)
② ~(~A&~B)=AでなくてBでない。といふことはない。
④ ~(~B&~A)=BでなくてAでない。といふことはない。
に於いて、
②=④
である。
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
① ~A→ B =Aでないならば、Bである。
③ ~B→ A =Bでないならば、Aである。
に於いて、
①=③
である。
従って、
(01)~(16)により、
(17)
① A→~B =Aならば、Bでない。
② B→~A =Bならば、Aでない。
③ A→ B =Aならば、Bである。
④ ~B→~A =Bでないならば、Aでない。
⑤ ~A→~B =Aでないならば、Bでない。
⑥ B→ A =Bならば、Aである。
⑦ ~A→ B =Aでないならば、Bである。
⑧ ~B→ A =Bでないならば、Aである。
に於いて、
①=②
③=④
⑤=⑥
⑦=⑧
である。
平成29年04月02日、毛利太。
2017年4月1日土曜日
「漢文」の「一重否定」と「三重否定」について。
(01)
① AB=名詞+名詞。
であるならば、
① AB=AはBである。
といふ、「意味」である。
(02)
② A非B=名詞+非+名詞。
であるならば、
② A非B=AはBでない(B以外である)。
といふ、「意味」である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 我王 =我は王なり。
② 我非王=我は王に非ず。
といふ、「意味」である。
然るに、
(02)(03)により、
(04)
② 我非王=我は王に非ず。
② 我非王=私は王ではない。
に於いて、
② 王 は、「名詞」であるため、
② 王 は、「動詞」でも、「形容詞」でもない。
然るに、
(05)
不は、あとの動詞や形容詞を否定して「不行(行かない)」、「不良(良くない)」のように用いる。
(学研、漢和大辞典、1978年、1457頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
② 我非王=我は王にあらず。
③ 我不王=我は王にあらず。
に於いて、
③ は、「正しく」はない。
然るに、
(07)
【王】〔意味〕
[一]きみ(君)国土を統べ、人民を治める君主。
[二]きみとなる「欲レ王二関中一 カンチュウにオウたらんとほっす」〈史記・項羽記〉
(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、535頁改)
従って、
(08)
「王」といふ「漢字」は、「名詞」であって、尚且つ、「王になる」といふ「動詞」である。
従って、
(06)(08)により、
(09)
③ 我非王。
ではなく、
③ 我不王。
であるならば、
③ 我不王=私は王ではない。
ではなく、
③ 我不王=私は王にならない。
といふ「意味」である。
然るに、
(10)
④ 不王者=王たらざる者(王にならない者)
は、「名詞」である。
従って、
(02)(10)により、
(11)
⑤ 我不王者=我は王たらざる者なり。
⑤ 我不王者=私は王にならない者である。
であって、
⑥ 我非不王者=我は王たらざる者に非ず。
⑥ 我非不王者=私は王にならない者ではない。
であるものの、
⑥ 我非不王者=我は王たらざる者に非ず。
⑥ 我非不王者=私は王にならない者ではない。
は、「二重否定」である。
(12)
⑦ 無不王者=王たらざる者無し。
⑦ 無不王者=王にならない者はゐない。
も、「二重否定」である。
然るに、
(13)
【非】ひ あらズ[連語] 《内容の否定》
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、283・293頁改)
【非】[意味]① ・・・にあらず ・・・ではない。・・・ということではない。◇ 後にくる名詞や、事由をあらわすクローズを打ち消すことば。(学研、漢和大辞典、1978年、1457頁改)
従って、
(12)(13)により、
(14)
【非】は、
⑦ 無不王者=王たらざる者無し。
⑦ 無不王者=王にならない者はゐない。
といふ「二重否定」を「否定」することが出来、
⑧ 非無不王者=王たらざる者無きに非ず。
⑧ 非無不王者=王にならない者はゐないのではない。
は、「三重否定」である。
(15)
⑨ 天下無非王土=天下王土に非ざる無し。
⑨ 天下無非王土=天下に王の土地でないところは無い。
然るに、
(16)
非=ヒ
不=フ
無=ム
(17)
一=ヒ
二=フ
三=ミ
四=ヨ
五=イツ
六=ム
従って、
(16)(17)により、
(18)
非不= ヒフ= 一二
非無= ヒム= 一六
無非= ムヒ= 六一
無不= ムフ= 六二
非無不=ヒムフ
であるため、
1216。6162。162。
である。
平成29年04月01日、毛利太。
① AB=名詞+名詞。
であるならば、
① AB=AはBである。
といふ、「意味」である。
(02)
② A非B=名詞+非+名詞。
であるならば、
② A非B=AはBでない(B以外である)。
といふ、「意味」である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 我王 =我は王なり。
② 我非王=我は王に非ず。
といふ、「意味」である。
然るに、
(02)(03)により、
(04)
② 我非王=我は王に非ず。
② 我非王=私は王ではない。
に於いて、
② 王 は、「名詞」であるため、
② 王 は、「動詞」でも、「形容詞」でもない。
然るに、
(05)
不は、あとの動詞や形容詞を否定して「不行(行かない)」、「不良(良くない)」のように用いる。
(学研、漢和大辞典、1978年、1457頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
② 我非王=我は王にあらず。
③ 我不王=我は王にあらず。
に於いて、
③ は、「正しく」はない。
然るに、
(07)
【王】〔意味〕
[一]きみ(君)国土を統べ、人民を治める君主。
[二]きみとなる「欲レ王二関中一 カンチュウにオウたらんとほっす」〈史記・項羽記〉
(旺文社、高校基礎漢和辞典、1984年、535頁改)
従って、
(08)
「王」といふ「漢字」は、「名詞」であって、尚且つ、「王になる」といふ「動詞」である。
従って、
(06)(08)により、
(09)
③ 我非王。
ではなく、
③ 我不王。
であるならば、
③ 我不王=私は王ではない。
ではなく、
③ 我不王=私は王にならない。
といふ「意味」である。
然るに、
(10)
④ 不王者=王たらざる者(王にならない者)
は、「名詞」である。
従って、
(02)(10)により、
(11)
⑤ 我不王者=我は王たらざる者なり。
⑤ 我不王者=私は王にならない者である。
であって、
⑥ 我非不王者=我は王たらざる者に非ず。
⑥ 我非不王者=私は王にならない者ではない。
であるものの、
⑥ 我非不王者=我は王たらざる者に非ず。
⑥ 我非不王者=私は王にならない者ではない。
は、「二重否定」である。
(12)
⑦ 無不王者=王たらざる者無し。
⑦ 無不王者=王にならない者はゐない。
も、「二重否定」である。
然るに、
(13)
【非】ひ あらズ[連語] 《内容の否定》
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、283・293頁改)
【非】[意味]① ・・・にあらず ・・・ではない。・・・ということではない。◇ 後にくる名詞や、事由をあらわすクローズを打ち消すことば。(学研、漢和大辞典、1978年、1457頁改)
従って、
(12)(13)により、
(14)
【非】は、
⑦ 無不王者=王たらざる者無し。
⑦ 無不王者=王にならない者はゐない。
といふ「二重否定」を「否定」することが出来、
⑧ 非無不王者=王たらざる者無きに非ず。
⑧ 非無不王者=王にならない者はゐないのではない。
は、「三重否定」である。
(15)
⑨ 天下無非王土=天下王土に非ざる無し。
⑨ 天下無非王土=天下に王の土地でないところは無い。
然るに、
(16)
非=ヒ
不=フ
無=ム
(17)
一=ヒ
二=フ
三=ミ
四=ヨ
五=イツ
六=ム
従って、
(16)(17)により、
(18)
非不= ヒフ= 一二
非無= ヒム= 一六
無非= ムヒ= 六一
無不= ムフ= 六二
非無不=ヒムフ
であるため、
1216。6162。162。
である。
平成29年04月01日、毛利太。
登録:
投稿 (Atom)