① P→(Q →R)
③(P→ Q)→R
に於いて、
P=偽
Q=偽
R=偽
であるとすると、
① 偽→(偽 →偽)≡ 偽→(真)≡真
③(偽→ 偽)→偽 ≡(真)→偽 ≡偽
であるため、
① は「真」であるが、
③ は「偽」である。
従って、
(01)により、
(02)
① P→(Q →R)
③(P→ Q)→R
に於いて、
①=③ ではない。
従って、
(02)により、
(03)
それぞれの「意味」が変はってしまふため、
① P→(Q→R)
③(P→Q)→R
から、「括弧」を除くことは、出来ない。
然るに、
(04)
(ⅰ)
1 (1) P→(Q→R) A
2(2) P& Q A
2(3) P 2&E
12(4) Q→R 13MPP
2(5) Q 2&E
12(6) R 45MPP
1 (7)(P&Q)→R 26CP
(ⅱ)
1 (1)(P&Q)→R A
2 (2) P A
3(3) Q A
23(4) P&Q 23&I
123(5) R 14MPP
12 (6) Q→ R 35CP
1 (7) P→(Q→R) 26CP
(ⅲ)
1 (1) (P→ Q)→R A
2 (2)~(P&~Q) A
3 (3) P A
4(4) ~Q A
34(5) P&~Q 34&I
234(6)~(P&~Q)&
(P&~Q) 25&I
23 (7) ~~Q 46RAA
23 (8) Q 7DN
2 (9) P→ Q 38CP
12 (ア) R 19MPP
1 (イ)~(P&~Q)→R 2ア
(ⅳ)
1 (1)~(P&~Q)→R A
2 (2) P→ Q A
3 (3) P&~Q A
3 (4) P 3&E
23 (5) Q 24MPP
3 (6) ~Q 3&E
23 (7) Q&~Q 56&I
2 (8)~(P&~Q) 37RAA
12 (9) R 18MPP
1 (ア) (P→ Q)→R 29CP
従って、
(04)により、
(05)
① P→(Q →R)
② (P& Q)→R
③ (P→ Q)→R
④ ~(P&~Q)→R
に於いて、
①=② であって、
③=④ であるが、
①=③ ではなく、それ故、
②=④ ではない。
従って、
(05)により、
(06)
② (P& Q)→R
④ ~(P&~Q)→R
といふ「論理式」に於いて、
②=④ ではない。
然るに、
(07)
「日本語の語順」に従ふのであれば、
②(P&Q )→ R
④(P&Q~)~→R
といふ「論理式」に於いて、
②=④ ではない。
然るに、
(08)
②(P&Q )→ R
④(P&Q~)~→R
といふ「論理式」は、
②(Pであって、Qである)ならばRである。
④(Pであって、Qでない)ではないならばRである。
といふ「日本語」に、相当する。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
②(P&Q )→ R
④(P&Q~)~→R
といふ「論理式」と、
②(Pであって、Qである)ならばRである。
④(Pであって、Qでない)ではないならばRである。
といふ「日本語」に於いて、
②=④ ではない。
然るに、
(10)
④(Pであって、Qでない)ではないならばRである。
ではなくて、
④ Pであって(Qでない、ではない)ならばRである。
であると、する。
然るに、
(11)
④(Qでない、ではない)
といふことは、「二重否定律(DN)」により、
④(Qである)
に、他ならない。
従って、
(10)(11)により、
(12)
④(Pであって、Qでない)ではないならばRである。
ではなくて、
④ Pであって(Qでない、ではない)ならばRである。
であると、するならば、
④ Pであって(Qである)ならばRである。
といふ「意味」になる。
然るに、
(13)
②(Pであって、Qである)ならばRである。
④ Pであって(Qである)ならばRである。
に於いて、
②=④ である。
従って、
(09)(13)により、
(14)
②(P&Q )→ R
④(P&Q~)~→R
といふ「論理式」と、
②(Pであって、Qである)ならばRである。
④(Pであって、Qでない)ではないならばRである。
といふ「日本語」に於いて、
②=④ ではない。
にも拘はらず、その一方で、
②(Pであって、Qである)ならばRである。
④ Pであって(Qである)ならばRである。
に於いて、
②=④ である。
従って、
(14)により、
(15)
④(P&Q~)~→R
④(Pであって、Qでない)ではないならばRである。
といふ「論理式」と「日本語」から、「括弧」を除くことは、出来ない。
然るに、
(16)
任意の表述の否定は、その表述を、~( )という空所にいれて書くことにしよう。:しかし丸括弧はその内部が連言でないかぎり削除しよう(W.O.クワイン 著、杖下隆英 訳、現代論理入門、1972年、15頁)。
従って、
(06)(16)により、
(17)
任意の表述の否定は、必ず、~( )という空所、または、~{ }という空所にいれて書くことにするならば、
④ ~(P&~Q)→R
といふ「論理式」は、
④ ~{P&~(Q)}→R
といふ風に、書くことになる。
然るに、
(18)
④ ~{P&~(Q)}→R
に於いて、
~{ }→{ }~
~( )→( )~
といふ「移動」を行ふと、
④ ~{P&~(Q)}→R⇒
④{P&(Q)~} ~→R=
④{Pであって(Qで)でない}ではないならばRである。
といふ「命題論理訓読」が、成立する。
然るに、
(19)
④ 無ニ生而不一レ知則聖人也=
④ 無{生而不(知)}則聖人也。
に於いて、
無{ }→{ }無
不( )→( )不
といふ「移動」を行ふと、
④ 無{生而不(知)}則聖人也⇒
④ {生而(知)不}無則聖人也=
④ {生れながらにして(知ら)不ること}無くんば則ち聖人なり。
といふ「漢文訓読(は作例)」が、成立する。
然るに、
(20)
しかし、正確さに欠けることはあるにしても、われわれの直観は健全であった。つまり。むやみに括弧が多くなることは我慢できないのである。
採用してもよい自然で実際的な規則は、最も外側の括弧を省略することである。そしていまひとつ、括弧を減らす有効で実際的な方法がある。
結合記号に一定のランクをつけることにしよう(E.J.レモン 著、竹尾治一郎・浅野 楢英 訳、1973年、59頁)。
従って、
(20)により、
(21)
「論理式」であっても、「理論上、あるべき括弧」の、そのすべてを、「省略」せずに書いてゐる。といふわけではない。
従って、
(18)~(21)により、
(22)
例へば、
④ 無生而不知則聖人也。
といふ「漢文」に対して、
④ 無ニ生而不一レ知則聖人也。
といふ「返り点」を、加へることは、
例へば、
④ ~P&~Q→R
といふ「論理式」に対して、
④ ~{P&~(Q)}→R
といふ「括弧」を付けることに、相当する。
然るに、
(23)
「論理式」には、予め、「必要最低限の括弧」が付いてゐるが、「漢文の原文(白文)」には、「返り点(括弧)」が「全く付いてゐない」。
然るに、
(24)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)。
従って、
(23)(24)により、
(25)
「漢文の原文(白文)」には、「返り点(括弧)」が「全く付いてゐない」からと言って、「漢文の原文(白文)」に、「管到(括弧)」が無い。
といふことには、ならない。
然るに、
(26)
しばしばとりあげられる〈語順〉の問題、元来はまっすぐに書かれた漢文に返り点をつけた、転倒しながら読むのは不自然だという考え方、などは、むしろ些少なことにすぎないかもしれない。かえって、語と語との修飾や支配の関係を、まったく構造を異にする日本語という言語と対比させることによって、はっきりとうかびあがらせる効用があるというべきである。
是以、大学始教、必使下学者即二凡天下之物一、 莫上レ不下因二其已知之理一、而益々極レ之、以求上レ至二乎其極一。
そこで大学での始めの教えは、学習者が天下の物すべてについて、彼がすでに知っている理を手がかりとしてますますこれをきわめ、そしてその極点にまで到達することを求めるようにせしめる(原文では、「求めないことはいっさいないように、ぜともせしめる」)のである。
このよう複雑な文章でも、返り点があることによって、簡明直截に文字のかかり方を知ることができる。
(平凡社、日本語の歴史2、2007年、155・156頁改)
(27)
例へば、
是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、
是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
是以、大学始教、必〈学者(凡天下之物)即、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ風に、「訓読」したとしても、
是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
是以、大学始教、必〈学者(凡天下之物)即、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使。
に於ける、
〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「補足構造」は、「不変」であって、尚且つ、「括弧・返り点」があることによって、
是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
のやうな「複雑な文章」でも、
是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
のやうに「簡明直截」に「文字のかかり方」を知ることができるが故に、「転倒しながら読む」のは不自然だという考え方、などは、むしろ「些少なこと」にすぎない。
令和03年03月31日、毛利太。
(27)
例へば、
是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、
是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
是以、大学始教、必〈学者(凡天下之物)即、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
是を以て、大学の始教は、必ず〈学者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ風に、「訓読」したとしても、
是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
是以、大学始教、必〈学者(凡天下之物)即、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使。
に於ける、
〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「補足構造」は、「不変」であって、尚且つ、「括弧・返り点」があることによって、
是以大学始教必使学者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
のやうな「複雑な文章」でも、
是以、大学始教、必使〈学者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉。
のやうに「簡明直截」に「文字のかかり方」を知ることができるが故に、「転倒しながら読む」のは不自然だという考え方、などは、むしろ「些少なこと」にすぎない。
令和03年03月31日、毛利太。
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