―「最近約一週間の記事」の要約にしては長すぎる、ダイジェストです。―
(01)
② 東京が日本である。
③ 東京以外は日本でない。
に於いて、
② は、「ウソ」であって、
③ も、「ウソ」である。
(02)
② 東京が日本の首都である。
③ 東京以外に日本の首都はない。
に於いて、
② は、「本当」であって、
③ も、「本当」である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
② AがBである。
であるならば、その時に限って、
③ A以外はBでない。
は、「本当」である。
従って、
(03)により、
(04)
② AがBである。
③ A以外はBでない。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(05)
③ A以外はBでない。
といふことは、
④ AでないならばBでない。
といふことに、他ならない。
然るに、
(06)
(a)
1 (1)~A→~B 仮定
2 (2) B 仮定
3(3)~A 仮定
1 3(4) ~B 13前件肯定
123(5) B&~B 24&導入
12 (6)~~A 35背理法
12 (7) A 5二重否定
1 (8) B→ A 27条件法
(b)
1 (1) B→ A 仮定
2 (2) ~A 仮定
3(3) B 仮定
12 (4) A 13前件肯定
123(5) A&~A 24&導入
12 (6)~B 35背理法
1 (7)~A→~B 26条件法
従って、
(05)(06)により、
(07)
④ AでないならばBでない。
⑤ BはAである。
に於いて、
④=⑤ である。
cf.
命題「AならばB」の対偶は「BでないならAでない」である。 論理記号を用いて説明すると、命題「A ⇒ B」の対偶は「¬B⇒ ¬A」(¬A は命題 A の否定)である。 通常の数学では、命題「AならばB」の真偽とその対偶「BでないならAでない」の真偽とは必ず一致する(すなわち真理値が等しい)。
対偶 (論理学) - Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/対偶_(論理学)
従って、
(04)(07)により、
(08)
② AがBである。
③ A以外はBでない。
④ AでないならばBでない。
⑤ BはAである。
に於いて、
②=③=④=⑤ である。
従って、
(08)により、
(09)
「順番」を変へるならば、
② AがBである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
②=③=④ である。
然るに、
(10)
② AがBである。
であって、
① AはBでない。
といふことは、有り得ない。
然るに、
(11)
誰でもが、一度は聞いたことがあるやうに、「逆は必ずしも真ではない(The converse is not necessarily true)」。
従って、
(11)により、
(12)
① AはBである。
からと言って、
③ BはAである。
とは、限らない。
従って、
(09)(12)により、
(13)
① AはBである。
② AがBである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
従って、
(13)により、
(14)
① 私は大野です。
② 私が大野です。
③ 大野は私です。
④ 私以外は大野でない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
(15)
① 私は大野です。
② 私が大野です。
に於いて、必ずしも、
①=② ではない。
といふのは、例へば、
① 大野晋さんと、
① 大野明子さんがゐる場合には、
① 大野晋さん であっても、
① 大野明子さんであっても、
② 私が大野です。
とは言へない。といふ意味である。
然るに、
(16)
①「大野晋さん」と、
①「和田明子さん」しかゐないのであれば、
であれば、
② 大野晋さんは、
② 私が大野です。
と言へることになるし、それ故、
② 大野さんはどちらですか。
③ どちらが大野さんですか。
といふ「質問」がなされてゐる場合は、当然、
② 私が大野です。
③ 大野は私です。
といふ風に、答へることになる。
従って、
(14)~(16)により、
(17)
① 私は大野です。
② 私が大野です。
③ 大野は私です。
④ 私以外は大野でない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。が故に、
④ 大野晋さん以外に、
④ 大野さんはゐなくて、尚且つ、
② どちらが大野さんですか。
③ 大野さんはどちらですか。
といふ「質問」がなされてゐる場合は、
② 私が大野です。
③ 大野は私です。
といふ風に、答へることになる。
然るに、
(18)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
私が大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをガで承けた。それゆえこの形は、
大野は私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
④ 大野晋さん以外に、
④ 大野さんはゐなくて、尚且つ、
② どちらが大野さんですか。
③ 大野さんはどちらですか。
といふ「質問」がなされてゐる場合に、
② 私が大野です。
③ 大野は私です。
といふ風に、答へるのであって、それ故、
① 私は(既知)大野(既知)です。
② 私が(未知)大野(既知)です。
といふ「理屈」は、「後付けの理屈」に過ぎない。
従って、
(14)~(19)により、
(20)
大野晋先生は、
① 私は大野です。
② 私が大野です。
③ 大野は私です。
④ 私以外は大野でない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふ「事実」に、気付いてゐないに、違ひない。
然るに、
(13)により、
(21)
① これは良いです。
② これが良いです。
③ 良いのはこれです。
④ これ以外は良くない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
従って、
(21)により、
(22)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
② これがいいです。
とは言はずに、
① これはいいです。
と言ふのであれば、
③ 良いのはこれです(とは言へない)。
④ これ以外は良くない(とは言へない)。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(21)により、
(23)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
② これが良いです。
と言ふのであれば、
③ 良いのはこれです。 といふ「意味」になり、
④ これ以外は良くない。といふ「意味」になる。
従って、
(22)(23)により、
(24)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
① これはいいです。
② これがいいです。
と言ふのであれば、
① これはいいです(他のを見せて下さい)。
② これがいいです(これを下さい)。
③ 良いのはこれです(これを下さい)。
④ これ以外は良くない(これを下さい)。
といふ、「意味」になる。
従って、
(24)により、
(25)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
① これはいいです。
② これがいいです。
といふのであれば、
①と②では、「反対の意味」になる。
然るに、
(26)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、ハとガで意味が反対になることがある。
これはいいです。(不用)
これがいいです。(入用)
ここで異を立てる方にはハを使っているが、述語が同型意義になっている。不用の方はテモイイ、デモイイ(許可)で、入用の方はほめことば(好適)である。つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう(三上章、日本語の論理、1963年、156・7頁)。
従って、
(21)~(26)により、
(27)
三上章先生は、
① これは良いです。
② これが良いです。
③ 良いのはこれです。
④ これ以外は良くない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふことには、「言及」せずに、「説明にならない、説明」をしてゐる。
従って、
(27)により、
(28)
三上章先生は、
① これは良いです(他のを見せてください)。
② これが良いです(これを下さい)。
③ 良いのはこれです(これを下さい)。
④ これ以外は良くない(これを下さい)。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふ「事実」に、気付いてゐないに、違ひない。
従って、
(13)(20)(28)により、
(29)
大野先生と、三上先生は、二人とも、
① AはBである。
② AがBである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
といふ「日本語」に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふ「事実」に、気付いてはゐない。違ひない。
然るに、
(30)
【名字】大野
【読み】おおの,おの,おおや,おうの
【全国順位】 71位
【全国人数】 およそ222,000人
(苗字由来net)
従って、
(13)(30)により、
(31)
② 私が大野です。
といふのであれば、
④(その時刻、その場所に於いて、) 私以外は大野でない。
といふ、ことになる。
従って、
(31)により、
(32)
② 象がゐる。
といふのであれば、
④(今、私の目の前に、) 象はゐるが(象以外はゐない)。
といふ風に、「理解」することになる。
従って、
(13)(32)により、
(33)
②(今、見てゐる図鑑の中では、)象が鼻は長い。
といふのであれば、
②{ゾウ、キリン、カバ、ライオン、ゴリラ}等を「比較」する限り、
④ ゾウの鼻は長く、ゾウ以外の鼻は長くない。
といふ、ことになる。
従って、
(13)(33)により、
(34)
① 象は鼻は長い。
といふのであれ、
①{ゾウ}だけを見て(念頭に置いて)、
① 象は鼻は長い。
といふ風に、述べてゐる(思ってゐる)。
従って、
(13)(34)により、
(35)
① 象は鼻は長い。
といふのであれば、
①「象と、象の鼻」について、「述べてゐる」のであって、
①「象と、象の鼻」以外については、「何も述べてゐない」
従って、
(13)(35)により、
(36)
① 象は鼻は長い。
に対して、
② 象は鼻が長い。
といふのであれば、
②「象」以外については、「何も述べてゐない」ものの、
②「象の体」に於いて、「鼻」以外については、「長くはない。」といふ風に、「述べてゐる」。
従って、
(35)(36)により、
(37)
① 象は鼻は長い。
といふのであれば、
① 象の鼻は長い。としても、象の体の、他の部分が、長いかどうかは、分からない。
のに対して、
② 象は鼻が長い。
といふのであれば、
② 象の鼻は長く、象の体の、他の部分が、特には、長くはない。
といふ、ことになる。
然るに、
(38)
① 象の鼻は長い。としても、象の体の、他の部分が、長いかどうかは、分からない。
といふ「日本語」は、
① ∀x{象x→∃y(鼻xy&長y)}=全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
といふ風に、訳すことになる。
(39)
② 象の鼻は長く、象の体の、他の部分は、特には、長くはない。
といふ「日本語」は、
① ∀x{象x→∃y(鼻xy&長y)}=全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
といふ「述語論理」と、
② ∀x{象x→∃z〔鼻以外xz&~(長z)〕}=全てのxについて、xが象ならば、あるzはxの鼻以外の部分であって、zは長くない。
といふ「述語論理」の「連言」である。
従って、
(37)~(39)により、
(40)
② 象は鼻が長い。
といふ「日本語」は、
① ∀x{象x→∃y(鼻xy&長y)}=全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
といふ「意味」を、含んでゐる。
然るに、
(41)
SはPである。
という一般的な 主語-述語文は、
Fx Gx
という二つの文で構成されていると考える。そしてこの場合、Fx はもとの文の主語に対応し、Gx は述語に対応していることがわかる。
(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、119頁)
従って、
(40)(41)により、
(42)
「沢田『現代論学入門』二九ペから―(三上章、日本語の論理、1963年、25・26頁)」でいふところの「述語論理」といふ「観点」からすれば、
② 象は鼻が長い。
といふ「日本語」は、
② 象x =xは象である。 といふ「主語」と、
② 鼻xy=xの鼻はyである。 といふ「主語」を、持ってゐる。
然るに、
(43)
① ∀x{象x→∃y(鼻xy&長y)}
に於いて、
① x は、
① {象x→∃y(鼻xy&長y)} に、掛ってゐて、
① ∃y(鼻xy&長y)
に於いて、
① yは、
① (鼻xy&長y) に、掛ってゐる。
従って、
(42)(43)により、
(44)
「述語論理」といふ「観点」からすれば、
② 象は鼻は長い。
といふ「日本語」には、
② 象=x
② 鼻=y
といふ、「二つの主語」が、有って、
② 象 は、
② 鼻は長い。 の「主語」であって、
② 鼻 は、
② 長い。 の「主語」である。
然るに、
(45)
その動作主は、少なくとも四人いるようです。ただしその中の一人は「近くゐたまへる人」(近くにすわっていらっしゃる人)なので、この動作を除けば、三人の動作が、一段の全文からは主語が明らかにすることが出来ない、ということになります。われわれは行きづまってしまうのでしょうか。 もしこれが『枕草子』であることを知らなかったら、専門家でさえ行きづまってしまう。ということはあると思います(古文のよみかた、1984年、15頁)。
従って、
(45)により、
(46)
常識的に、「主語」といふのは、「(動詞が表す)動作の主体」である。
然るに、
(47)
⑤ AはBなり(にあり)。
⑤ AはBである(にてあり)。
といふ「名詞文」も、本来は「ラ変動詞文」である。
然るに、
(48)
カリ活用は、「高くあり→高くあり」のように、形容詞本来の活用の連用形にラ変動詞「あり」が付いて出来たものである(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、65頁)。
従って、
(48)により、
(49)
「形容詞文」の一部は、「ラ変動詞文」である。
従って、
(47)(49)により、
(50)
「である」は、「述語(ラ変)動詞」である。
従って、
(51)
「日本語」の場合は、
⑤ 孔子は聖人である(孔子 is 聖人)。
のやうな「命題」であっても、
⑤ 彼、漢文を読む(He reads 漢文)。
のやうな「文」と同様に、「主語」は、「動詞」が表す「動作の主体」である。
とすることが、出来る。
然るに、
(52)
⑤ 彼、漢文を読む(He reads 漢文)。
に於いて、
⑤ 彼(He) こそが、
⑤ 読む(read) といふ「動作」の「動作主」である。
従って、
(51)(52)により、
(53)
⑤ 誰が漢文を読むか(Who reads 漢文?)。
に対する「答へ」が、
⑤ 彼(He) ならば、
⑤ 彼(He) こそが、「主語」である。
従って、
(54)
② 象は鼻が長い(鼻以外は長くない)。
に於いて、
② 長いの は、「鼻」であるならば、
② 長い の「主語」は「鼻」であって、
② 鼻が長いの は、「象」であるならば、
② 鼻が長い の「主語」は、「象」である。
従って、
(42)~(54)により、
(55)
② 象は鼻が長い(鼻以外は長くない)=
① ∀x{象x→∃y(鼻xy&長y)}&
② ∀x{象x→∃z〔鼻以外xz&~(長z)〕}.
に於いて、
② 鼻が長い の「主語」は、
② 象 であって、
② 長い の「主語」は、
② 鼻 である。
然るに、
(56)
日本語などの東アジアの言語には必要のない「主語」は、明治維新以降は「脱亜入欧」の掛け声のもと、英文法を真似て導入されたものだった。大野晋も『日本語の世界』付録の丸谷才一との対談、その事情をあっさり認めてゐる。 明治以降、要するに英文法をもとにして、大槻博士が日本語の文法を組み立てた。その時に、ヨーロッパでは文を作る時に必ず主語を立てる。そこで『文には主語が必要』と決めた。そこで日本語では主語を示すのに『は』を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくては具合が悪いというわけで、無理にいろんなものを当てはめた。 ここまで言い切る大野なら、なぜ「日本語に主語はない」と文部科学省に断固抗議し、学校文法改正の音頭を取らないのだろう。言語学的に何ら根拠のない「ハとガの違い」の説明に拘泥し、三上章の「主語廃止論」を一蹴した国語学会の大御所である大野晋も、学問的に正しく批判さる日がやがて来るだろう(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、11頁)。
然るに、
(29)により、
(57)
三上先生も、大野先生も、
① AはBである。
② AがBである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
といふ「日本語」に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふ「事実」に、基づいて、「自説」を述べてゐるわけではない。
従って、
(56)(57)により、
(58)
にもかかわらず、
『三上章の「主語廃止論」を一蹴した国語学会の大御所である大野晋も、学問的に正しく批判さる日がやがて来るだろう(金谷武洋)。』
とするのであれば、金谷先生もまた、
① AはBである。
② AがBである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
といふ「日本語」に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふ「事実」に、基づいて、「自説」を述べてゐるわけではないに、違ひない。
平成30年02月03日、毛利太。
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