2018年2月22日木曜日

金谷武洋先生を初めとする、日本語の教師の方たちに「これだけは、知って欲しい」こと(Ⅱ)。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』をお読み下さい。

(01)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
といふことについては、(40)~(53)で「説明」します。
(02)
③ 今独臣有船=
③ 今、独り臣のみ船有り=
③ 今、一人、私のみ船を持ってゐる(史記)。
然るに、
(03)
③ 私だけ船を持ってゐる=
③ 私は船を持ってゐて(私以外は船を持ってゐない)。
のやうな「命題」を、「排他的命題(Exclusive proposition)」といふ。
然るに、
(04)
(a)ただ空の名残のみ惜しき=
(b)四季おりおりの空の美しさだけ捨てがたい(徒然草)。
cf.
なにがしとかや言ひし世捨人の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ空の名残のみ惜しき」と言ひしこそ、誠にさも覚えぬべけれ。
なにがしとかいった世捨て人が、「現世で人の心を引きつけ自由を束縛するものは何も持っていない身にも、ただ四季おりおりの空の美しさだけ捨てがたい」と言ったのは、まったくそのように思われるにちがいない。
(三省堂、新明解古典シリーズ10 徒然草、1990年、49頁)
従って、
(03)(04)により、
(05)
(a)ただ空の名残のみ惜しき(文語)。
(b)だた空の名残だけ捨てがたい(口語)。
に於いて、
(a)は、「排他的命題」であって、
(b)も、「排他的命題」であって、
(a)=(b) である。
然るに、
(05)により、
(06)
(a)のみぞ(文語)。
(b)だけが(口語)。
に於いて、
(a)=(b) である。
従って、
(05)(06)により、
(07)
(a)のみ(口語)。
(b)だけ(口語)。
に於いて、
(a)=(b) である。
従って、
(06)(07)により、
(08)
(a)ぞ(文語)。
(b)が(口語)。
に於いて、
(a)=(b) である。
然るに、
(09)
(a)(文語) は、「音」であって、
(b)(口語) も、「音」である。
然るに、
(10)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(11)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
(a)(文語) は、「音による、強調形」であって、
(b)(口語) も、「音による、強調形」である。
然るに、
(13)
(係助詞)
①(ア)主語の強調  ・・・
 (イ)目的語の強調 ・・・を。
(旺文社、全訳学習古語辞典、2006年、463頁)
従って、
(13)により、
(14)
いづれにせよ、
(a)名残(係助詞) は、「強調形」である。
従って、
(05)(12)(14)により、
(15)
(a)ただ空の名残のみ惜しき(文語)。
(b)だた空の名残だけ捨てがたい(口語)。
に於いて、
(a)は、「排他的命題」であって、
(b)も、「排他的命題」であって、
(a)(文語) は、「音による、強調形」であって、
(b)(口語) も、「音による、強調形」であって、
(a)=(b) である。
従って、
(15)により、
(16)
(a)ただ空の名残のみ惜しき(文語)。
(b)だた空の名残だけ捨てがたい(口語)。
といふ「日本語」が、さうであるやうに、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
然るに、
(17)
(c)金谷武洋先生を初めとする、日本語の教師の方たちには、これだけ( )知って欲しい。
と言ふ場合は、
(c)これだけ()知って欲しい。
と言ふのであって、
(d)これだけ()知って欲しい。
とは、絶対に、言はない。
すなはち、
(18)
(c)少なくとも、これだけ()知って欲しい。
といふ「日本語」は、
(c)これを知ってもらへるならば、これ以外は「知ってもらっても、知ってもらへなくとも、どちらでも良い」。
といふ「意味」であって、そのやうな場合には、
(d)これだけ()知って欲しい。
とは、絶対に、言はない
然るに、
(01)により、
(19)
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ず、
③=④ であるため、
(d)これだけ()知って欲しい。
といふのであれば、
(d)これ以外は、知って欲しくない
といふ、「意味」になる。
然るに、
(20)
(c)これ以外も「知られても良い。」
(d)これ以外は「知って欲しくない。」
に於いて、
(c)と(d)は、「矛盾」する。
従って、
(17)~(20)により、
(21)
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ず、
③=④ である以上、
(c)これだけ()知って欲しい。
といふ「日本語」を、
(d)これだけ()知って欲しい。
とは、言へないのは、「当然」である。
然るに、
(01)
(22)
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ず、
③=④ であるため、
(e)これだけ()残念だ。
であれば、
(e)これ以外は残念ではない
といふ、「意味」になる。
然るに、
(23)
(e)これだけ()残念だ。
といふ「日本語」は、実際に
(e)これ以外は残念ではない
といふ、「意味」である。
従って、
(01)(21)(22)(23)により、
(24)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。が故に、
(c)これだけ(は)知って欲しい。
(e)これだけ()残念だ。
であって、
(c)これだけ()知って欲しい。
(e)これだけ(は)残念だ。
ではない。といふ、ことになる。
加へて、
(25)
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外Bでない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
  ②=③=④ である。といふことを、「公理(Axiom)」とするならば、
例へば、
① これいいです(他のを見せて下さい)。
② 良いのこれです(これを下さい)。
③ これいいです(これを下さい)。
④ これ以外は良くない(ので、これを下さい)。
③ サンマは目黒うまい(目黒に限る)。
④ サンマは目黒以外(日本橋の魚河岸)はうまくない
① お爺さん山に芝刈に行きました。
③ お爺さんではなくお婆さん山に芝刈に行きました。
③ 象は鼻長い(象は、鼻以外は長くない)。
等々の、「~は・~が」を、「説明」出来る。
然るに、
(26)
よく「日本語には主語が2つある」と言われます。簡単に言ってしまうと、主語を表す形には「は」と「が」あるということです。こう言うと反論を述べる人が必ず出ると思います。日本語では「は」は主題といい、「が」を主格というので、主語ないのです(倉本幸彦、なぜ、日本人は日本語を説明でいないのか、2017年、38頁)。
従って、
(25)(26)により、
(27)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
といふことが、「大切」なのであって、『「は」は主題といい、「が」を主格というので、主語はないのです。』といふことは、どうでも良いと、すべきである。
然るに、
(28)
主語廃止論」を欠いた「文法」を三上文法と呼んではいけない。困るのは、ありもしない主語を主張し、神学論争に明け暮れる上空の学界/学会ではない。いまだ母国語のまともな文法を知らない日本人、とりわけ子供たちである。また、私の場合は日本語教室という「地に足のついた」現場であり、そこにいる何百人もの教え子たちなのだ。「地に足のついた」現場に要るのは「土着」の文法であることは言うまでもない(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、235頁)。
然るに、
(29)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、ハとで意味が反対になることがある。
 これはいいです。(用)
 これいいです。(入用)
ここで異を立てる方にはハを使っているが、述語が同型意義になっている。不用の方はテモイイ、デモイイ(許可)で、入用の方はほめことば(好適)である。つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう(三上章、日本語の論理、1963年、156・7頁)。
従って、
(28)(29)により、
(30)
三上先生は、
 これはいいです。(不用)
 これいいです。(入用)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、ハとで意味が反対になることがある。
といふことは、知ってゐても
① これは良いです。
良いのはこれです。
③ これ良いです。
④ これ以外は良くない
に於いても、必ずしも。
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
といふことには、気付いてゐない
従って、
(24)(25)(28)(30)により、
(31)
金谷先生が、「金科玉条」とする「三上文法」は
① これだけ知って欲しい。
③ これだけ残念だ。
① これいいです(他のを見せて下さい)。
② 良いのこれです(これを下さい)。
③ これいいです(これを下さい)。
④ これ以外は良くない(ので、これを下さい)。
③ サンマは目黒うまい(目黒に限る)。
④ サンマは目黒以外(日本橋の魚河岸)はうまくない
① お爺さん山に芝刈に行きました。
お爺さんではなくお婆さん山に芝刈に行きました。
③ 象は鼻長い(象は、鼻以外は長くない)。
等々に於ける「~は・~が」の「使ひ分け」を、説明できない
然るに、
(32)
どうやら私もまた「黙殺」されるという点で、三上の後塵を拝する栄誉に与りそうである。『主語はいらない』では大野晋、久野暲と柴谷方良、『謎を解く』では町田健の主語擁護論をかなりの頁を割いて批判したが、これまで反応らしきものは聞こえてこない。書評はいくつもでて、ほとんど好意的なものだったが、私が批判した文法家たちは揃ってだんまりを決め込んでいる様子だ(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、215頁)。
然るに、
(33)
金谷武洋公式ブログ
https://shugohairanai.com/
2017/12/29 - 「日本語に主語はいらない」「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」の著者である金谷武洋(たっきー)の公式ブログです。たっきーのファンであるちえ蔵が、たっきーから原稿を受け取って管理しています。
(34)
お問い合わせ
2017/9/14 2017/12/29
質問、感想など、何でもお気軽にご連絡ください。
また、金谷先生と直接連絡を取りたい場合は、その旨お知らせください。金谷先生のEメールに転送いたします。
(35)
『どうやら私もまた「黙殺」されるという点で、三上の後塵を拝する栄誉に与りそうである。』といふに述べてゐる、その、金谷武洋先のEメールに、「この記事の要約」を転送してもらって、金谷先生に、「この記事のURL」を知らせて、「この記事」に目を通してもらへたとして、
金谷先生から、「一言」くらひ、私に対して、「反論」が有るだらうかと思った時、「思へらく、そのやうなことは、ほぼ、100%期待できない」のが「普通」であるし、「一言の反論」も無いのであれば、「詰まらない」。
(36)
教え子の心意気が涙がでるほどうれしかった。まるで『二十四の瞳』の大石先生ではないか。おまけにこっちはその二倍だ。「二十四の心」か「四十八の瞳」か、― 中略 ― 現在モントリオール大学で日本語を教えているのは、あの雪の感動と、この署名運動が原点である。住まいをモントリオールに移した今でも、当時の教え子数人と付き合いがあり、日本食を一緒にすることがある(金谷武洋、主語を抹殺した男、2006年、34・35頁)。
従って、
(37)
金谷先生は「かなりの、良き人」には、違ひないとしても、そのやうな「良き人」であっても、「三上・金谷理論」といふ「自説」が、全くの素人によって、「否定」される以上、「一言」くらひ、「素人の私」に対して、「反論」が有るだらうかと思った時、「そのやうなことは、ほとんど期待できない」とするのが「(大人の)常識」である。
それ故、
(38)

とは言へ、次のやうな、「メッセージ本文」しか、書けないことになる。

それ故、
(39)
いつの日か、カナダにゐる、金谷武洋先生の、何百人の、教え子の方たち中の、どなたかに「この記事」が目にとまり、「この記事」に書かれてゐることは、ウソである。といふことを、金谷先生に、確認しようとする方が、現はれるやうことが無い限り、「私の、自説」が、金谷武洋先生によって、「確認」されことは、諦めるしかない。
然るに、
(40)
  中野は東京である。
  東京は日本である。
∴ 中野は日本である。
といふ「推論」を、「三段論法」と言ふ。
然るに、
(41)
主語は元々三段論法など伝統論理学の用語であった。三段論法では2つの前提文から結論文を正しく導くことが目的になる(主語:ウィキペディア)。
従って、
(40)(41)により、
(42)
「日本語」であれば、本来は、
  AはBである。
  BはAである。
∴ AはBである。
のやうな「三段論法」に於ける、「Aは・Bは」だけを、「主語」といふ。
然るに、
(43)
  AはBである。
  BはAである。
∴ AはBである。
といふ「推論」は、「普遍的」に「正しい」。
従って、
(28)(42)(43)により、
(44)
  AはBである。
  BはAである。
∴ AはBである。
といふ「日本語」に於ける、「Aは・Bは」だけを、「主語」と言はない。
とするのは、「暴言」以外の、何ものでもない。
いづれにせよ、
(45)
④{杉並も、練馬も、葛飾も、小笠原も}東京である。
従って、
(45)により、
(46)
① 中野は東京である。
東京は中野である。
③ 中野東京である。
④ 中野以外は東京ではない
に於いて、
① は、「本当」であるが、
② は、「ウソ」であって、
③ も、「ウソ」であって、
④ も、「ウソ」である。
然るに、
(47)
④{大阪も、福島も、仙台も、名古屋も}日本の首都ではない
従って、
(47)により、
(48)
① 東京は日本の首都である。
日本の首都は東京である。
③ 東京日本の首都である。
④ 東京以外は日本の首都ではない
に於いて、
① は、「本当」である。
② も、「本当」である。
③ も、「本当」である。
④ も、「本当」である。
従って、
(45)~(48)により、
(49)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
といふことになる。
然るに、
(50)
③ 東京日本の首都である。
④ 東京以外は日本の首都ではない
といふ「日本語」がさうであるやうに、
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、
③=④ であることは、「日本人の直観」が示すところの、「事実(fact)」である。
然るに、
(51)
これまでに、何度も確認してしてゐるやうに、
(ⅱ)
1  (1) B→ A 仮定
 2 (2)   ~A 仮定
  3(3) B    仮定
1 3(4)    A 13前件肯定
123(5) A&~A 42&導入
12 (6)~B    35背理法
1  (7)~A→~B 26条件法
(ⅳ)
1  (1) ~A→~B 仮定
 2 (2)     B 仮定
  3(3) ~A    仮定
1 3(4)    ~B 13前件肯定
123(5)  B&~B 24&導入
12 (6)~~A    35背理法
12 (7)  A    6二重否定
1  (8)  B→ A 26条件法
といふ「命題計算」は、「正しい」。
cf.
これまでの「命題計算」には、ケアレスミスが有ったものの、「結論」としては、「正しい」。
従って、
(51)により、
(52)
② Bはである。
以外Bでない
といふ「対偶(Contraposition)」に於いて、
②=④ であることは、「論理学」が「確認」する所の、「事実(fact)」である。
従って、
(50)(52)により、
(53)
① Aはである。
はAである。
③ ABである。
④ A以外Bでない
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず
  ②=③=④ である。
といふことは、「学説」ではなく、「事実(fact)」である。
(54)
⑤ 象は鼻が長い。
といふ「日本語」は、
⑤ 象は鼻長い=
⑤ 象は鼻は長く、鼻以外は長くない
⑤ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
⑤ その動物が象であるならば、その動物には長い鼻があって、その動物の、鼻以外は長くない=
⑤ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「意味」である。
平成30年02月22日、毛利太。
 ―「関連記事」―
(c)『AがBならば』の『Aが』については、(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_29.html)を読み下さい。
(d)かの『三上章、象は鼻が長い。』については、(htmlhttps://kannbunn.blogspot.com/2018/02/blog-post_17.html)を読み下さい。

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