(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』をお読み下さい。
(c)『AがBならば』の『Aが』については、『01月29日の記事(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_29.html)』を読み下さい。
(01)
金谷先生から、「回答」が無い場合は、カナダに在るとの、当大学への入学を果たし、「学生の身分(権利)」として、直接「質問」に伺います。
(02)
① こんにゃくは太らない。
もちろん、この文が問題となるのは、「太らない」のが「こんにゃく」ではなく、それを食べる人間様の場合である。
(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、84頁改)
従って、
(02)により、
(03)
① こんにゃくは太らない。といふのであれば、
① こんにゃくが存在するならば、こんにゃくを食べて、太らない人間が、存在する。
然るに、
(04)
1 (1)∀x{蒟蒻x→ ∃y(人y&食yx&~太y)} A
1 (2) 蒟蒻a→ ∃y(人y&食yx&~太y)} 1UE
3 (3)∃x(蒟蒻x) A
4(4) 蒟蒻a A
1 4(5) ∃y(人y&食yx&~太y) 24MPP
13 (6) ∃y(人y&食yx&~太y) 345EE
1 (7)∃x(蒟蒻x)→∃y(人y&食yx&~太y) 36CP
1 (8)あるxが蒟蒻であるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
といふ「述語計算」は、「正しい」。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① こんにゃくは太らない。
① こんにゃくが存在するならば、こんにゃくを食べて、太らない人間が、存在する。
といふ「日本語」は、
① ∀x{蒟蒻x →∃y(人y&食yx&~太y)}。
① ∃x(蒟蒻x)→∃y(人y&食yx&~太y)
といふ「述語論理」に、「置き換へ」ることが、出来る。
然るに、
(06)
① ∀x{蒟蒻x →∃y(人y&食yx&~太y)}。
① ∃x(蒟蒻x)→∃y(人y&食yx&~太y)
といふ「述語論理」を、「日本語」に「直訳」すると、
① 全てのxについて、xが蒟蒻であるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
① あるxが蒟蒻であるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
といふ、ことなる。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① こんにゃくは太らない=
① ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}=
① 全てのxについて、xが蒟蒻であるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
といふ「等式」は、「正しい」。
然るに、
(08)
① こんにゃくは太らない=
① ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}=
① 全てのxについて、xが蒟蒻であるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
に於いて、
① x =こんにゃく
① 蒟蒻=x
といふ「代入(Replacement)」を行ふと、
① 全てのこんにゃくについて、こんにゃくがこんにゃくであるならば、あるyは人であって、yはこんにゃくを食べ、yは太らない。
といふ、ことになる。
然るに、
(09)
① 全てのこんにゃくについて、こんにゃくがこんにゃくであるならば、あるyは人であって、yはこんにゃくを食べ、yは太らない。
といふ「日本語」の「主題」は、明らかに、「こんにゃく」である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① こんにゃくは太らない=
① ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}=
① 全てのxについて、xが蒟蒻であるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
といふ「日本語・述語論理」の「主題」は、明らかに、「こんにゃく」である。
従って、
(11)
① こんにゃくは太らない。
といふ、
①「こんにゃく」を「主題」とする「日本語(一般論)」は、
① ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}=
① 全てのxについて、xが蒟蒻であるならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
といふ「意味」である。
といふことに、なるのですが、このやうな「述語論理」による「解釈」を、金谷先生は、だう思はれるでせうか(質問Ⅰ)。
然るに、
(12)
ならば、「日本語に即した文法の樹立を」を目指すわれわれは「日本語で人称代名詞と呼ばれているものは、実は名詞だ」と宣言したい。どうしても区別したいなら「人称名詞」で十分だ。日本語の「人称代名詞」はこれからは「人称名詞」と呼ぼう。
(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、40・41頁)
従って、
(12)により、
(13)
① 私は彼は好きです。
② 私は彼が好きです。
であれば、
① 私(名詞)は彼(名詞)は好きです。
② 私(名詞)は彼(名詞)が好きです。
である。
然るに、
(14)
① 私は彼は好きです。
② 私は彼が好きです。
に於いて、
① であれば、「私は、彼以外も好きである。」といふことを、「否定」しない。
② であれば、「私は、彼以外は好きでない。」といふことを、「肯定」する。
従って、
(14)により、
(15)
① 私(名詞)は彼(名詞)は好きです。
② 私(名詞)は彼(名詞)が好きです。
といふ「日本語」は、それぞれ、
① ∃x{∃y(私x&彼y&好xy)} =あるxは私であって、あるyは彼であって、xはyを好きである。
② ∃x{私x&∀y(~彼y→~好xy)}=あるxは私であって、全てのyについて、yが彼でないならば、xはyを好きではない。
といふ、「意味」である。
(16)
① 象は鼻は長い。
② 象は鼻が長い。
に於いても、
① であれば、「象は、鼻以外も長い。」 といふことを、「否定」しない。
② であれば、「象は、鼻以外は長くない。」といふことを、「肯定」する。
従って、
(16)により、
(17)
① 象は鼻は長い=象は鼻は長い。
② 象は鼻が長い=象は鼻は長く、鼻以外は長くない。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(18)
② 象は鼻が長い=
② 象は鼻は長く、鼻以外は長くない。
といふのであれば、
② 鼻の長い象が存在する。
然るに、
(19)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2) 象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 1UE
3 (3)∃x(象x) A
4 (4) 象a A
1 4 (5) ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 24MPP
1 4 (6) ∃y(鼻yx&長y) 5&E
13 (7) ∃y(鼻yx&長y) 346EE
1 4 (8) ∀z(~鼻zx→~長z) 5&E
13 (9) ∀z(~鼻zx→~長z) 348EE
13 (ア) ~鼻bx→~長b 9UE
イ (イ) 長b A
ウ(ウ) ~鼻bx A
13 ウ(エ) ~長b アウMPP
13 イウ(オ) ~長b&長b イエ&I
13 イ (カ) ~~鼻bx ウオRAA
13 イ (キ) 鼻bx カDN
13 (ク) 長b→鼻bx イキCP
13 (ケ) ∃z(長z→鼻zx) クEI
13 (コ) ∃y(鼻yx&長y)& ∃z(長z→鼻zx) 7ケ&I
13 (サ)∃x(象x)&∃y(鼻yx&長y)&∃z(長z→鼻zx) 3コ&I
13 (シ)あるxは象であって、あるyはxの鼻であって長く、あるzが長いならば、zはxの鼻である。
13 (ス)ある象は象であって、あるyは象の鼻であって長く、あるzが長いならば、zは象の鼻である。
13 (セ)従って、鼻の長い象である所のxが存在する。
といふ「計算」は、「正しい」。
従って、
(18)(19)により、
(20)
② 象は鼻が長い。
といふ「日本語」は、
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「述語論理」に、「置き換へ」ることが、出来る。
然るに、
(21)
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「述語論理」を「直訳」すると、
② 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「意味」になる。
従って、
(17)(20)(21)により、
(22)
② 象は鼻が長い=
② 象は鼻は長く、鼻以外は長くない=
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
② 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(23)
(a)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)} 1&E
1 (3) 象a→∃y(鼻yx&長y) 2UE
1 (4)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} 1&E
1 (5) 象a→∀z(~鼻zx→~長z) 4UE
6(6) 象a A
16(7) ∃y(鼻yx&長y) 63CP
16(8) ∀z(~鼻zx→~長z) 65CP
16(9) ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 78&I
1 (ア) 象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 69CP
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} アUI
(b)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1 (2) 象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 1UE
3(3) 象a A
13(4) ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z) 23MPP
13(5) ∃y(鼻yx&長y) 4&E
1 (6) 象a→∃y(鼻yx&長y) 35CP
1 (7)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)} 6UI
13(8) ∀z(~鼻zx→~長z) 4&E
1 (9) 象a→∀z(~鼻zx→~長z) 38CP
1 (ア)∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} 9UI
1 (イ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&
∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)} 7ア&I
従って、
(23)により、
(24)
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「論理式」は、
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「論理式」に、「等しい」。
従って、
(22)(24)により、
(25)
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}。
であるが故に、
② 象は鼻が長い=
② 象は鼻は長く、 鼻以外は長くない=
② 象は鼻は長く、象は鼻以外は長くない。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(26)
1 (1)∀x{ぼくx→∃y(ウナギy&欲xy)&∀z(~ウナギz→~欲xz)} A
1 (2) ぼくa→∃y(ウナギy&欲xy)&∀z(~ウナギz→~欲xz) 1UE
3 (3)∃x(ぼくx) A
4 (4) ぼくa A
1 4 (5) ∃y(ウナギy&欲xy)&∀z(~ウナギz→~欲xz) 24MPP
1 4 (6) ∃y(ウナギy&欲xy) 5&E
13 (7) ∃y(ウナギy&欲xy) 346EE
1 4 (8) ∀z(~ウナギz→~欲xz) 5&E
13 (9) ∀z(~ウナギz→~欲xz) 348EE
13 (ア) ~ウナギb→~欲xb 9UE
イ (イ) 欲xb A
ウ(ウ) ~ウナギb A
13 ウ(エ) ~欲xb アウMPP
13 イウ(オ) 欲xb& ~欲xb イエ&I
13 イ (カ) ~~ウナギb ウオRAA
13 イ (キ) ウナギb カDN
13 (ク) 欲xb→ウナギb イキCP
13 (ケ) ∃z(欲xz→ウナギz) クEI
13 (コ) ∃y(ウナギy&欲xy)&∃z(欲xz→ウナギz) 7ケ&I
13 (サ)∃x(ぼくx)&∃y(ウナギy&欲xy)&∃z(欲xz→ウナギz) 3コ&I
13 (シ)あるxは、ぼくであって、あるyはウナギであって、xはyが欲しく、あるzをxが欲しいとすると、zはウナギである。
13 (ス)あるぼくは、ぼくであって、あるyはウナギであって、ぼくはyが欲しく、あるzをぼくが欲しいとすると、zはウナギである。
13 (セ)要するに、「ぼくはウナギだ。」
従って、
(22)(26)により、
(27)
③ ぼくはウナギだ=
③(この中の)ぼくに関して言へば、ウナギが欲しく、ウナギ以外は欲しくない=
③ ∀x{ぼくx→∃y(ウナギy&欲xy)&∀z(~ウナギz→~欲xz)}=
③ 全てのxについて、xが僕ならば、あるyは鰻であって、xはyが欲しく、全てのzについて、zが鰻でないならば、xはzを欲しくない。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(28)
1 (1)∀x{サンマx→∃y(目黒yx&美味y)&∀z(~目黒zx→~美味z)} A
1 (2) サンマa→∃y(目黒yx&美味y)&∀z(~目黒zx→~美味z) 1UE
3 (3)∃x(サンマx) A
4 (4) サンマa A
1 4 (5) ∃y(目黒yx&美味y)&∀z(~目黒zx→~美味z) 24MPP
1 4 (6) ∃y(目黒yx&美味y) 5&E
13 (7) ∃y(目黒yx&美味y) 346EE
1 4 (8) ∀z(~目黒zx→~美味z) 5&E
13 (9) ∀z(~目黒zx→~美味z) 348EE
13 (ア) ~目黒bx→~美味b 9UE
イ (イ) 美味b A
ウ(ウ) ~目黒bx A
13 ウ(エ) ~美味b アウMPP
13 イウ(オ) ~美味b& 美味b イエ&I
13 イ (カ) ~~目黒bx ウオRAA
13 イ (キ) 目黒bx カDN
13 (ク) 美味b→目黒bx イキCP
13 (ケ) ∃z(美味z→目黒zx) クEI
13 (コ) ∃y(目黒yx&美味y)&∃z(美味z→目黒zx) 7ケ&I
13 (サ)∃x(サンマx)&∃y(目黒yx&美味y)&∃z(美味z→目黒zx) 3コ&I
13 (シ)あるxはサンマであって、あるyは目黒のxであって美味しく、あるzが美味しいならば、zは目黒のxである。
13 (ス)あるサンマはサンマであって、あるyは目黒のサンマであって美味しく、あるzが美味しいならば、zは目黒のサンマである。
13 (セ)要するに、「サンマは目黒に限る(落語)」。
従って、
(22)(28)により、
(29)
④ サンマは目黒に限る=
④ サンマは目黒がうまい=
④ ∀x{サンマx→∃y(目黒yx&美味y)&∀z(~目黒zx→~美味z)}=
④ サンマについて言へば、目黒のそれはうまく、目黒以外(日本橋魚河岸)のそれはうまくない=
④ 全てのxについて、xがサンマならば、あるyは目黒のxであって、yはうまく、全てのzについて、zが目黒のxでないならば、zはうまくない。
といふ「等式」が、成立する。
(07)(22)(27)(29)により、
(30)
① こんにゃくは太らない。
② 象は鼻が長い。
③ ぼくはウナギだ。
④ サンマは目黒に限る。
といふ「日本語」は、それぞれ、
① ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}。
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}&∀x{象x→∀z(~鼻zx→~長z)}。
③ ∀x{ぼくx→∃y(ウナギy&欲xy)&∀z(~ウナギz→~欲xz)}。
④ ∀x{サンマx→∃y(目黒yx&美味y)&∀z(~目黒zx→~美味z)}。
といふ「述語論理」に「置き換へ」られ、「これらの述語論理」は、
① 全てのxについて、xが蒟蒻ならば、あるyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
② 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
③ 全てのxについて、xが僕ならば、あるyは鰻であって、xはyが欲しく、全てのzについて、zが鰻でないならば、xはzを欲しくない。
④ 全てのxについて、xがサンマならば、あるyは目黒のxであって、yはうまく、全てのzについて、zが目黒のxでないならば、zはうまくない。
といふ「日本語」に、「直訳」される。
従って、
(30)により、
(31)
① こんにゃくは
② 象は
③ ぼくは
④ サンマは
といふ「日本語」は、全て、
① 全てのxについて、xが蒟蒻ならば、
② 全てのxについて、xが象ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
④ 全てのxについて、xがサンマならば、
といふ「意味」である。
然るに、
(15)により、
(32)
② 私は彼が好きです。
の場合は、
② 私は彼が好きです=
② ∃x{私x&∀y(~彼y→~好xy)}=
② あるxは私であって、全てのyについて、yが彼でないならば、xはyを好きではない。
であるため、
② 私は
に関しては、
② 全てのxについて、xが私ならば、
ではなく、
② あるxは私であって、
である。
従って、
(30)(32)により、
(33)
② 私は彼が好きです。
③ ぼくはウナギだ。
の場合は、「シンタックス」が「異なる」ものの、
③ ぼくはウナギだ。
④ サンマは目黒に限る。
の場合は、「シンタックス」が「等しい」。
従って、
(33)により、
(34)
日常言語の文から述語計算の文への翻訳のためには、一般にあたまが柔軟なことが必要である。なんら確定的な規則があるわけではなく、量記号に十分に馴れるまでは、練習を積むことが必要である(E.J.レモン 著、竹尾治一郎・浅野楢英、1973年、130頁)。
Flexibility of mind is generally required for translating from ordinary speech into sentences of the predicate calculs. No firm rules can be given, and practice is needed before full familiarity with quantifires is reached(E.J.Lemmon, Beginning Logic).
といふ、ことになる。
然るに、
(35)
そこでたとえば「象は鼻が長い」というような表現は、象が主語なのか鼻が主語なのかはっきりしないから、このままではその論理構造が明示されていなから、いわば非論理的な文である、という人もある。しかしこの文の論理構造をはっきり文章にあらわして、
「すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い」
といえばいいかもしれない。しかし日常の言語によるコミニュケーションでは、たとえば動物園で象をはじめて見た小学生が、父親にむかってこのような文章で話しかけたとすれば、その子供は論理的であるといって感心されるまえに社会人としての常識をうたがわれるにきまっている。
(田允茂、現代論理学入門、1962年、29頁)
従って、
(34)(35)により、
(36)
② 象は鼻が長い。
② Every elephant has a long nose, and no other part of it is long.
といふ「日英語」を、
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
② ∀x{Ex→∃y(Nyx&Ly)&∀z(~Nzx→~Lz)}。
といふ風に、すなはち、
② 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
② As for all x, if x is an elephant then there is y such that y is a nose of x, and y is long, and as for all z, if z is not a nose of x then z is not long.
といふ風に、「翻訳」出来るようになるためには、「練習」を必要とし、尚且つ、
② 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
② As for all x, if x is an elephant then there is y such that y is a nose of x, and y is long, and as for all z, if z is not a nose of x then z is not long.
といふ「日英語」は、「日英語」ではあっても、「相当、変な、日英語」である。といふ、ことになる。
従って、
(37)
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
② ∀x{Ex→∃y(Nyx&Ly)&∀z(~Nzx→~Lz)}。
といふ「述語論理」は、「英語」でも、「日本語」でもないし、「フランス語」でもない。
然るに、
(38)
その言語の長所は、その記法上の制限にもかかわらず、非常に広範な表現能力を持っていることである(E.J.レモン 著、竹尾治一郎・浅野楢英、1973年、130頁)。
The chief merit of the language is that, despite its notational limitation, it has a very wide expressive power(E.J.Lemmon, Beginning Logic).
(39)
一階述語論理は、数学のほぼ全領域を形式化するのに十分な表現力を持っている。実際、現代の標準的な集合論の公理系 ZFC は一階述語論理を用いて形式化されており、数学の大部分はそのように形式化された ZFC の中で行うことができる。すなわち、数学の命題は一階述語論理の論理式によって記述することができ、そのように論理式で記述された数学の定理には ZFC の公理からの形式的証明 (formal proof) が存在する。このことが一階述語論理が重要視される理由の一つである(ウィキペディア)。
従って、
(40)
① ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}。
② ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「述語論理(数学語)」は、「普遍言語(UG)」の「一種(?)」に違ひない。
従って、
(40)により、
(41)
(ⅰ)∃x{∃y(私x&彼y&好xy)}=私は彼は好きです。
(ⅱ)∃x{私x&∀y(~彼y→~好xy)}=私は彼が好きです。
(ⅲ)∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}=こんにゃくは太らない。
(ⅳ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=象は鼻が長い。
といふ「比較」を、
(ⅰ)I like him=私は彼は好きです。
(ⅱ)I like him only=私は彼が好きです。
(ⅲ)(As)for "Kon'nyaku",we do not get fat=∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}。
(ⅳ)Every elephant has a long nose, and no other part of it is not long=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「比較」と、「同列」に論じるべきではない。
然るに、
(42)
そこで私たちは主語を示す変項x、yを文字通りに解釈して、「或るもの」(英語で表現するならば something)とか、「他の或るもの」というような不定代名詞にあたるものを最も基本的な主語とする。そこで「ソクラテスは人間である」といふ一つの文は、
(xはソクラテスである)(xは人間である)
という、もっとも基本的な 主語-述語 からなる二つの文の特定の組み合わせと考えることができる。すなわち、
SはPである。
という一般的な 主語-述語文は、
Fx Gx
という二つの文で構成されていると考える。そしてこの場合、Fx はもとの文の主語に対応し、Gx は述語に対応していることがわかる。
(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、118・119頁)
従って、
(42)により、
(43)
⑤ ∃x(ソクラテスx&人間x)=ソクラテスは人間である=ソクラテスといふ人間が存在する。
⑥ ∃x{ソクラテスx&∃y(妻yx&愛xy)}=ソクラテスは妻を愛す=その妻を愛する所のソクラテスが存在する。
といふ、ことになる。
従って、
(42)(43)により、
(44)
変項x、yを「最も基本的な主語」とするならば、
⑥ ソクラテスは妻を愛す=∃x{ソクラテスx&∃y(妻yx&愛xy)}。
といふ「日本語・述語論理」には、
⑥ x=ソクラテス
⑥ y=xの妻
といふ、「二つの主語(xとy)」が、無ければ、ならない。
従って、
(45)
変項x、y、zを「最も基本的な主語」とするならば、
② 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「日本語・述語論理」であっても、少なくとも、
② x=象
② y=xの鼻
といふ、「二つの主語(xとy)」が、無ければ、ならない。
然るに、
(46)
② Every elephant has a long nose.
の場合は、飽くまでも、
② S+V+O(英語第3文型)
であるため、
② Every elephant has a long nose.
といふ「英語」を「手本」とする限り、「二重主語文」といふ「発想」は、絶対に、有り得ない。
然るに、
(47)
日本文法界でかつて流行した見解、げんに流行しているらしい見解は次のものです。どちらもわれわれにはもはや用のないものです。
象ハ 鼻ガ 長イ。
総主語 主語
(三上章、象は鼻が長い、1982年、第13版、66頁)
然るに、
(48)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(45)(48)により、
(49)
② 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於いて、
② 象は=∀x{象x
といふ「意味」は、
② 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
といふ「文の全体」に「及んでゐる」。
然るに、
(50)
② 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
に於いて、
② 鼻が=∃y(鼻yx
といふ「意味」は、
② 鼻が長い=∃y(鼻yx&長y)
といふ「一部の文」にしか「及んでゐない」。
従って、
(47)~(50)により、
(51)
象ハ 鼻ガ 長イ。
総主語 主語
といふ「見解」は、極めて「述語論理的(Predicate logical)」である。
と言ふべきである。
然るに、
(52)
(31)で示した通り、
① こんにゃくは
② 象は
③ ぼくは
④ サンマは
といふ「日本語」は、全て、
① ∀x{囗x→
といふ「意味」、すなはち、
① 全てのxについて、xが蒟蒻ならば、
② 全てのxについて、xが象ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
④ 全てのxについて、xがサンマならば、
といふ「意味」である。
従って、
(10)(53)により、
(53)
②「全てのxについて、xが象ならば、」
②「全ての象について、象が象ならば、」
に「対応」する、
②「象は」といふ「日本語」が、「主題」である。
といふことについては、「たしかに、さう」である。
然るに、
(54)
②「象は」が「主題」である。からと言って、
② 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
ではない。といふことには、ならない。
従って、
(45)(46)(54)により、
(55)
少なくとも、
② 象ハ 鼻ガ 長イ。
② 総主語 主語
といふ「日本語」の「理解」に関しては、
日本語などの東アジアの言語には必要のない「主語」は、明治維新以降は「脱亜入欧」の掛け声のもと、英文法を真似て導入されたものだった。大野晋も『日本語の世界』付録の丸谷才一との対談、その事情をあっさり認めてゐる。 明治以降、要するに英文法をもとにして、大槻博士が日本語の文法を組み立てた。その時に、ヨーロッパでは文を作る時に必ず主語を立てる。そこで『文には主語が必要』と決めた。そこで日本語では主語を示すのに『は』を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくては具合が悪いというわけで、無理にいろんなものを当てはめた(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、11頁)。
といふ「主張」は、成り立たないと、すべきである(質問Ⅱ)。
平成30年02月28日、毛利太。
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