2018年2月25日日曜日

「象は鼻が長い。」の「は・が」に関連して、日本語の教師の方に、建設的な質問が、「三つ」有ります。

(a)『返り点と括弧』については、『「括弧」の「順番」(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)』他をお読み下さい。
(b)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』をお読み下さい。
(c)『AがBならば』の『Aが』については、『01月29日の記事(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_29.html)』を読み下さい。

(01)
よく「日本語には主語が2つある」と言われます。簡単に言ってしまうと、主語を表す形には「は」と「が」あるということです。こう言うと反論を述べる人が必ず出ると思います。日本語では「は」は主題といい、「が」を主格というので、主語はないのです。
(倉本幸彦、なぜ、日本人は日本語を説明でいないのか、2017年、38頁)
従って、
(01)により、
(02)
「は」と「が」は、一方は「主題」、一方は「主格」といふ風に、同じ「範疇」ではないので、二つを「比較」しても「無意味」である。
然るに、
(03)
① AはBである。
② BはAである。
は、「二つ」とも、「~は」である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① AはBである。
② BはAである。
であれば、「比較」をしても、「無意味」ではない。
然るに、
(05)
(ⅱ)
1  (1) B→ A 仮定
 2 (2)   ~A 仮定
  3(3) B    仮定
1 3(4)    A 13前件肯定
123(5) A&~A 42&導入
12 (6)~B    35背理法
1  (7)~A→~B 26条件法
(ⅳ)
1  (1) ~A→~B 仮定
 2 (2)     B 仮定
  3(3) ~A    仮定
1 3(4)    ~B 13前件肯定
123(5)  B&~B 24&導入
12 (6)~~A    35背理法
12 (7)  A    6二重否定
1  (8)  B→ A 26条件法
といふ「命題計算」は、「正しい」。
従って、
(05)により、
(06)
「対偶は、その真理値が等しい。」が故に、
② BはAである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
②=④ である。
然るに、
(07)
「地図(東京都23区)」を見れば分るやうに、
③ 中野が東京である。
④ 中野以外は東京ではない。
に於いて、
③ は、「ウソ」であって、
④ も、「ウソ」である。
然るに、
(08)
③ 東京が日本の首都である。
④ 東京以外は日本の首都ではない。
に於いて、
③ は、「本当」であって、
④ も、「本当」である。
従って、
(07)(08)により、
(09)
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(06)(09)により、
(10)
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外はBでない。
に於いて、
②=③=④ である。
従って、
(11)
② BはAである。
③ AがBである。
に於いて、
②=③ である。
従って、
(04)(11)により、
(12)
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
に於いて、
① と ② であれば、「比較」しても「無意味」ではなく、
② とは、すなはち、③ である。
従って、
(13)
① AはBである。
② BはAである。
に於いて、
① と ② の場合は、二つを、「比較」しても「無意味」ではないのであれば、
① AはBである。
③ AがBである。
に於いて、
① と ③ の場合に、二つを、「比較」しても「無意味」である。とするのは、「ヲカシイ」。
(14)
① 博士の数式。○
① 博士が数式。×
① 博士の愛した数式。○
① 博士が愛した数式。○
に於いて、
①「の・が」は、「格助詞」である。
然るに、
(15)
② 空の名残のみぞ惜しき(徒然草)。
③ 空の名残だけが惜しい(口語訳)。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(16)
② 空の名残のみぞ惜しき(徒然草)。
に於いて、
② 空(名詞)の(格助詞)名残(名詞)のみ(副助詞)ぞ(係助詞)惜しき(形容詞)。
である。
然るに、
(15)(16)により、
(17)
② 空の名残のみぞ惜しき(徒然草)。
③ 空の名残だけが惜しい(口語訳)。
に於いて、
②=③ であって、尚且つ、
② 空(名詞)の(格助詞)名残(名詞)のみ(副助詞)ぞ(係助詞)惜しき(形容詞)。
であるならば、必然的に、
③ 空(名詞)の(格助詞)名残(名詞)だけ(副助詞)が(係助詞)惜しい(形容詞)。
である。
従って、
(17)により、
(18)
② 博士ぞ(係助詞)惜しき。
③ 博士が(係助詞)惜しい。
である。
従って、
(14)(18)により、
(19)
① 博士が(格助詞)愛した数式。
③ 博士が(係助詞)惜しい。
である。
然るに、
(20)
② 博士は(係助詞)惜しい。
である。
従って、
(19)(20)により、
(21)
① 博士が(格助詞)愛した数式。
② 博士は(係助詞)惜しい。
③ 博士が(係助詞)惜しい。
である。
従って、
(21)により、
(22)
① 博士が(格助詞)
② 博士は(係助詞)
③ 博士が(係助詞)
である。
従って、
(22)により、
(23)
① 博士が(格助詞)
② 博士は(係助詞)
がさうであるやうに、
① 格助詞 と、
② 係助詞  を「比較する」のは、「無意味」であるが、
② 博士は(係助詞)
③ 博士が(係助詞)
がさうであるやうに、
② 係助詞 と、
③ 係助詞  を「比較する」のは、「無意味」では、ないはずですが、だうでせうか(質問Ⅰ)。
(24)
⑤ 象は鼻が長い。
といふ「日本語」は、
⑤ その動物が象ならば、その動物の鼻は長く、その動物の鼻以外の部分は長くない。
といふ「意味」である。
従って、
(25)
⑤ 象は鼻が長い。
といふ「日本語」は、「述語論理」で表せば、
⑤ 象は鼻が長い=
⑤ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
⑤ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(26)
1    (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
1    (2)   象a→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  1UE
 3   (3)∃x(象x)                         A
  4  (4)   象a                          A
1 4  (5)      ∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)  24MPP   
1 4  (6)      ∃y(鼻yx&長y)               5&E
13   (7)      ∃y(鼻yx&長y)               346EE
1 4  (8)                 ∀z(~鼻zx→~長z)  5&E 
13   (9)                 ∀z(~鼻zx→~長z)  348EE
13   (ア)                    ~鼻bx→~長b   9UE
   イ (イ)                          長b   A
    ウ(ウ)                    ~鼻bx       A
13  ウ(エ)                         ~長b   アウMPP
13 イウ(オ)                    ~長b&長b     イエ&I
13 イ (カ)                   ~~鼻bx       ウオRAA
13 イ (キ)                     鼻bx       カDN
13   (ク)                     長b→鼻bx    イキCP
13   (ケ)                  ∃z(長z→鼻zx)   クEI
13   (コ)      ∃y(鼻yx&長y)& ∃z(長z→鼻zx)   7ケ&I
13   (サ)∃x(象x)&∃y(鼻yx&長y)&∃z(長z→鼻zx)   3コ&I
然るに、
(27)
⑤ ∃x(象x)&∃y(鼻yx&長y)&∃z(長z→鼻zx)。
とふ「論理式」を、「直訳」すれば、
⑤ 或るxは象であって、或るyはxの鼻であって、yは長く、或るzが長いならば、そのzはxの鼻である。
といふ「日本語」になる。
然るに、
(28)
⑤ 或るxは象であって、或るyはxの鼻であって、yは長く、或るzが長いならば、そのzはxの鼻である。
といふことは、要する、
⑤ 鼻の長い象xが存在する。
といふ「意味」である。
従って、
(26)(27)(28)により、
(29)
1    (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
 3   (3)∃x(象x)                         A
13   (サ)∃x(象x)&∃y(鼻yx&長y)&∃z(長z→鼻zx)   3コ&I
といふ「述語計算」は、
⑤ 象は鼻が長い。ならば、
⑤ 象が存在する。ならば、
⑤ 鼻の長い象が存在する。
といふ、「極めて、当然なこと」を、「証明」してゐる。
然るに、
(30)
⑤ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
⑤ 或るxは象であって、或るyはxの鼻であって、yは長く、或るzが長いならば、そのzはxの鼻である。
といふ「それ」は、「日本語」ではあっても、
⑤ 象は鼻が長い。
⑤ 鼻の長い象がゐる。
といふ「日本語」と、「同じ」ではない。
然るに、
(31)
⑤ ∀x{Ex→∃y(Nyx&Ly)&∀z(~Nzx→~Lz)}=
⑤ For all x, if x is an elephant then there is a y such that y is a nose of x and y is long, and for all z, if z is not a nose of x then z is not long.
といふ「それ」は、「英語」ではあっても、
⑤ Every elephant has a long nose, and no other part of it is not long.
といふ「英語」と、「同じ」ではない。
従って、
(30)(31)により、
(32)
⑤ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
⑤ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない=
⑤ For all x, if x is an elephant then there is a y such that y is a nose of x and y is long, and for all z, if z is not a nose of x then z is not long.
といふ「述語論理」は、
⑤ 象は鼻が長い。といふ「日本語」とも、
⑤ Every elephant has a long nose, and no other part of it is not long. といふ「英語」とも、「同じ」ではない。
従って、
(33)
日常言語の文から述語計算の文への翻訳のためには、一般にあたまが柔軟なことが必要である。なんら確定的な規則があるわけではなく、量記号に十分に馴れるまでは、練習を積むことが必要である(E.J.レモン 著、竹尾治一郎・浅野楢英、1973年、130頁)。
Flexibility of mind is generally required for translating from ordinary speech into sentences of the predicate calculs. No firm rules can be given, and practice is needed before full familiarity with quantifires is reached(E.J.Lemmon, Beginning Logic).
従って、
(32)(33)により、
(34)
⑤ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
⑤ ∀x{Ex→∃y(Nyx&Ly)&∀z(~Nzx→~Lz)}。
といふ「述語論理」の「読み書き」が出来るやうになるためには、
⑤ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
⑤ For all x, if x is an elephant then there is a y such that y is a nose of x and y is long, and for all z, if z is not a nose of x then z is not long.
といふやうな、「変な、日英語」に、「馴れる必要」がある。
然るに、
(35)
⑤ 象は鼻が長い。
に対して、
⑤ 象が、鼻が長い。
と言ふのであれば、例へば、
⑤{象の鼻、キリンの首}に関して、
⑤ 象が、鼻が長く(キリンは、首が長い)。
といふ「意味」である。
然るに、
(36)
⑤ 象は鼻が長い。
に対して、
⑥ 象は鼻は長い。
と言ふのであれば、
⑥ 象は、鼻以外にも、牙も長いのも知れないし、牙はそれ程長くないのかも、知れない(し、毛長マンモスは、毛も長い)。
従って、
(37)
⑤ 象は鼻が長い=
⑤ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
⑤ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない
に対して、
⑥ 象は鼻は長い=
⑥ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}=
⑥ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
といふ風に、書くことになる。
然るに、
(38)
そこでたとえば「象は鼻が長い」というような表現は、象が主語なのか鼻が主語なのかはっきりしないから、このままではその論理構造が明示されていなから、いわば非論理的な文である、という人もある。しかしこの文の論理構造をはっきり文章にあらわして、
「すべてのxについて、もしxが象であるならば、yなるものが存在し、そのyは鼻であり、xはyを所有しており、yは長い」
といえばいいかもしれない(田允茂、現代論理学入門、1962年、29頁)。
従って、
(37)(38)により、
(39)
田允茂先生の、「象は鼻が長い」は、実際には、
⑥ 象は鼻は長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)}。 であって、
⑤ 象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。 ではない。
然るに、
(40)
そこで私たちは主語を示す変項x、yを文字通りに解釈して、「或るもの」(英語で表現するならば something)とか、「他の或るもの」というような不定代名詞にあたるものを最も基本的な主語とする。そこで「ソクラテスは人間である」といふ一つの文は、
(xはソクラテスである)(xは人間である)
という、もっとも基本的な 主語-述語 からなる二つの文の特定の組み合わせと考えることができる。すなわち、
SはPである。
という一般的な 主語-述語文は、
Fx Gx
という二つの文で構成されていると考える。そしてこの場合、Fx はもとの文の主語に対応し、Gx は述語に対応していることがわかる。
(沢田允茂、現代論理学入門、1962年、118・119頁)
然るに、
(41)
ならば、「日本語に即した文法の樹立を」を目指すわれわれは「日本語で人称代名詞と呼ばれているものは、実は名詞だ」と宣言したい。どうしても区別したいなら「人称名詞」で十分だ。日本語の「人称代名詞」はこれからは「人称名詞」と呼ぼう。
(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、40・41頁)
従って、
(33)(40)(41)により、
(42)
「私(人称代名詞)」と「ソクラテス(固有名詞)」は、両方とも「普通名詞」である。といふ「前提」に立って、「柔軟な頭(Flexibility of mind)」で、
⑤ 私がソクラテスです。
といふ「日本語」を、「述語論理」に「翻訳」するならば、
⑤ 私がソクラテスです=
⑤ ∃x{私x&ソクラテスx&∀y[~私y→~(x=y)]}=
⑤ あるxは私であって、そのxはソクラテスであって、全てのyについて、yが私でないならば、xとyは、同一人物ではない=
⑤ あるxはあなたの目前にゐる人であって、そのxはソクラテスであって、全てのyについて、yがあなたの目前にゐる人でないならば、xとyは、同一人物ではない。
といふ「論理式」が、成立する。
従って、
(39)~(42)により、
(43)
⑤ 象は鼻が長い=
⑤ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
⑤ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「日本語・述語論理」の場合は、
⑤ 象x→∃y(鼻yx&長y)=
⑤ xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
といふ「部分」に、少なくとも、
⑤ x=象
⑤ y=xの鼻
といふ、「二つの主語」を、含んでゐる。
従って、
(44)
⑤ 象は鼻が長い≒
⑤ 象x→∃y(鼻yx&長y)=
⑤ xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
といふ「日本語・述語論理」には、
⑤ x=象
⑤ y=xの鼻
といふ、「二つの主語(xとy)」が、含まれてゐる。
然るに、
(45)
日本文法界でかつて流行した見解、げんに流行しているらしい見解は次のものです。どちらもわれわれにはもはや用のないものです。
象ハ  鼻ガ 長イ。
総主語 主語
(三上章、象は鼻が長い、1982年、第13版、66頁)
従って、
(44)(45)により、
(46)
⑤ 象ハ  鼻ガ 長イ。
⑤ 総主語 主語
といふ「見解」は、むしろ、
⑤ 象は鼻が長い≒
⑤ 象x→∃y(鼻yx&長y)=
⑤ xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長い。
といふ「述語論理」的な「発想」である。とすべきである。
(47)
⑤ Every elephant has a long nose.
といふ「それ」は、飽くまでも、
⑤ SVO=主語+動詞+目的語.
であるため、
⑤ 象x→∃y(鼻yx&長y)=
⑤ if x is an elephant then there is a y such that y is a nose of x and y is long.
といふ「述語論理」的な「発想」が、見られない。
従って、
(46)(47)により、
(48)
⑤ 象ハ  鼻ガ 長イ。
⑤ 総主語 主語
といふ「見解」は、「述語論理的(Predicate logical)」であるが、
⑤ Every elephant has a long nose.
⑤ SVO=主語+動詞+目的語.
という「文法」は、「述語論理的(Predicate logical)」ではない。
従って、
(48)により、
(49)
⑤ 象ハ  鼻ガ 長イ。
⑤ 総主語 主語
といふ「見解」に関しては、「英語の文法」の「主語」の影響ではなく、「述語論理の文法」の「主語」の影響を受けてゐる。
然るに、
(50)
⑤ 象ハ  鼻ガ 長イ。
⑤ 総主語 主語
といふ「見解」が、
⑤ 象は鼻が長い=
⑤ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}=
⑤ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
といふ「述語論理の文法」の影響を受けてゐる。といふことは、おそらくは、無い。
従って、
(49)(50)により、
(51)
⑤ 象ハ  鼻ガ 長イ。
⑤ 総主語 主語
といふ「見解」は、少なくとも、「英語の文法」の「主語」の影響を、受けてはゐない。
従って、
(51)により、
(52)
少なくとも、
⑤ 象ハ  鼻ガ 長イ。
⑤ 総主語 主語
といふ「日本語」の「理解」に関しては、
日本語などの東アジアの言語には必要のない「主語」は、明治維新以降は「脱亜入欧」の掛け声のもと、英文法を真似て導入されたものだった。大野晋も『日本語の世界』付録の丸谷才一との対談、その事情をあっさり認めてゐる。 明治以降、要するに英文法をもとにして、大槻博士が日本語の文法を組み立てた。その時に、ヨーロッパでは文を作る時に必ず主語を立てる。そこで『文には主語が必要』と決めた。そこで日本語では主語を示すのに『は』を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくては具合が悪いというわけで、無理にいろんなものを当てはめた(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、11頁)。
といふ「主張」は、成り立たないと、すべきである(質問Ⅱ)。
(53)
③ ぼくはウナギだ。
③ サンマは目黒に限る。
といふ「日本語」は、
③(ここにゐる数人中で)ぼくに関して言へば、ウナギが欲しく、ウナギ以外は欲しくない。
③ サンマに関して言へば、目黒のそれはうまく、目黒以外(日本橋魚河岸)のそれはうまくない。
といふ「意味」である。
然るに、
(26)により、
(54)
1    (1)∀x{サンマx→∃y(目黒yx&美味y)&∀z(~目黒zx→~美味z)} A
1    (2)   サンマa→∃y(目黒yx&美味y)&∀z(~目黒zx→~美味z)  1UE
 3   (3)∃x(サンマx)                             A
  4  (4)   サンマa                              A
1 4  (5)      ∃y(目黒yx&美味y)&∀z(~目黒zx→~美味z)    24MPP   
1 4  (6)      ∃y(目黒yx&美味y)                   5&E
13   (7)      ∃y(目黒yx&美味y)                   346EE
1 4  (8)                 ∀z(~目黒zx→~美味z)      5&E 
13   (9)                 ∀z(~目黒zx→~美味z)      348EE
13   (ア)                    ~目黒bx→~美味b       9UE
   イ (イ)                           美味b       A
    ウ(ウ)                    ~目黒bx            A
13  ウ(エ)                          ~美味b       アウMPP
13 イウ(オ)                    ~美味b&  美味b       イエ&I
13 イ (カ)                   ~~目黒bx            ウオRAA
13 イ (キ)                     目黒bx            カDN
13   (ク)                     美味b→目黒bx        イキCP
13   (ケ)                  ∃z(美味z→目黒zx)       クEI
13   (コ)         ∃y(目黒yx&美味y)&∃z(美味z→目黒zx)   7ケ&I
13   (サ)∃x(サンマx)&∃y(目黒yx&美味y)&∃z(美味z→目黒zx)   3コ&I
従って、
(25)(53)(54)により、
(55)
③ 象は鼻が長い。
③ ぼくはウナギだ。
③ サンマは目黒に限る。
といふ「日本語」は、「柔軟な頭(Flexibility of mind)」で考へるならば、
③ 全てのxについて、xが象ならば、あるyはxの鼻であって、yは長く、全てのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない。
③ 全てのxについて、xが僕ならば、あるyは鰻であって、xはyが欲しく、全てのzについて、zが鰻でないならば、xはzを欲しくない。
③ 全てのxについて、xがサンマならば、あるyは目黒のxであって、yはうまく、全てのzについて、zが目黒のxでないならば、zはうまくない。
であるため、「三つ」とも、
③ ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
③ ∀x{僕x→∃y(鰻y&欲xy)&∀z(~鰻z→~欲xz)}。
③ ∀x{サンマx→∃y(目黒yx&美味y)&∀z(~目黒zx→~美味z)}。
といふ風に、書くことが出来る。
従って、
(55)により、
(56)
「述語論理」といふ「観点(」からすれば、
③ 象は鼻が長い。
③ ぼくはウナギだ。
③ サンマは目黒に限る。
といふ「日本語のシンタックス」は、「三つとも、等しい」。
然るに、
(57)
① こんにゃくは太らない。
の場合は、
① 全てのxについて、xがこんにゃくであるならば、或るyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
であるため、
① ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}。
といふ風に、書くことになる。
従って、
(57)により、
(58)
① そのやうな「蒟蒻x」が存在するならば、
① こんにゃくxを食べて、太らない人yが、存在する。
cf.
① ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}。
①    蒟蒻a→∃y(人y&食yx&~太y)。
① ∃x(蒟蒻x)
①       蒟蒻a
 ∴       
① ∃y(人y&食yx&~太y)=こんにゃくxを食べて、太らない人yが、存在する。
然るに、
(59)
英語でこんにゃく文に対応するのは、(As)for "Kon'nyaku",we do not get fat. であって、"Kon'nyaku" does not get fat. ではない。やはりここでも文が切れているからこそ、日英語とも正しく理解できるのである(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、85頁)。
然るに、
(60)
① 全てのxについて、xが蒟蒻ならば、
③ 全てのxについて、xが象ならば、
③ 全てのxについて、xが僕ならば、
③ 全てのxについて、xがサンマならば、
といふ「決まり文句」、すなはち、
① 全てのxについて、xが何々ならば、
といふ「日本語」は、
① As for all x if x is "何々" then,
といふ「英語」に、訳すことが、できる。
従って、
(55)(57)(60)により、
(61)
① こんにゃくは、
③ 象は、
③ ぼくは、
③ サンマは、
といふ「日本語」は、「述語論理」といふ「観点(Flexibility of mind)」からすれば、
① 全てのxについて、xが何々ならば、
① As for all x if x is "何々" then,
といふ「意味」になる。
然るに、
(62)
① こんにゃくは太らない=
① ∀x{蒟蒻x→∃y(人y&食yx&~太y)}=
① 全てのxについて、xがこんにゃくであるならば、或るyは人であって、yはxを食べ、yは太らない。
に於いて、
① x=こんにゃく
といふ「代入」を行ふと、
① こんにゃくは太らない=
① 全てのこんにゃくについて、こんにゃくがこんにゃくであるならば、或るyは人であって、yはこんにゃくを食べ、yは太らない。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(63)
① 全てのこんにゃくについて、こんにゃくがこんにゃくであるならば、或るyは人であって、yはこんにゃくを食べ、yは太らない。
といふ「文」は、明らかに、「こんにゃく」を、「主題(トピック)」としてゐる。
従って、
(01)(63)により、
(64)
日本語では「は」は主題という(倉本幸彦、なぜ、日本人は日本語を説明でいないのか、2017年、38頁)。
といふのは、「述語論理」に於ける、
① 全てのxについて、xが何々ならば、
① As for all x if x is "何々" then,
といふ、「決まり文句」に、関係してゐると、思はれるものの、果たして、さうと、言へるのでせうか(質問Ⅲ)。
平成30年02月25日、毛利太。

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