2018年2月19日月曜日
「は」と「が」について、「知恵袋」に「質問」してみました。まだ「回答」はありません。
(a)『返り点』については、(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』をお読み下さい。
(b)『返り点と括弧』については、(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)他をお読み下さい。
(c)『AがBならば』の『Aが』については、(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_29.html)』を読み下さい。
(d)かの『三上章、象は鼻が長い。』については、(htmlhttps://kannbunn.blogspot.com/2018/02/blog-post_17.html)』を読み下さい。
(e)かの『三上章、象は鼻が長い。』について、『補足』します。
(10)
① AはBである。
② BはAである。
の場合は、「逆」であって、といふ「そのこころ」は、
逆は必ずしも真ではない。
といふことからすれば、
① 中野は東京である。からと言って、
② 東京は中野である。ではないのは、「当然」である。
といふことである。
(11)
これまでに、何度も確認してしてゐるやうに、
(ⅱ)
1 (1) B→ A 仮定
2 (2) ~A 仮定
3(3) B 仮定
12 (4) A 13前件肯定
123(5) A&~A 42&導入
12 (6)~B 35背理法
1 (7)~A→~B 26条件法
(ⅳ)
1 (1)~A→~B 仮定
2 (2) B 仮定
3(3)~A 仮定
12 (4) ~B 13前件肯定
123(5) B&~B 24&導入
12 (6) A 35背理法
1 (7) B→ A 26条件法
といふ「命題計算」は、「正しい」。
従って、
(04)(11)により、
(12)
② BはAである。
④ A以外Bでない。
の場合は、「対偶」です。といふ「そのこころ」は、
対偶の真理値は、等しい。
といふことからすれば、
② 日本の首都は東京である。
④ 東京以外は日本の首都ではない。
に於いて、
②=④ である。ことは、「事実(fact)」である。
といふことである。
(13)
皆さんの「直観」ではどうなのか。ということを教えてもらえれば、幸いです。
ネイティブではなくとも、日本語が得意な方であれば、あなたの意見も、お聞かせください。
といふ「そのこころ」は、次のやうな「事実」に、係はります。
(14)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます。
(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)
すなはち、
(15)
英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っている。
といふことからすれば、
① Aは(清音) よりも、
③ Aが(濁音) の方が、「大きな音」である。
といふことは、英語話者や中国語話者にとっても、さうである。
然るに、
(16)
① A is B. の、
① A を、「強調(強く発音)」すれば、
① A is B. は、
④ Only A is B(AだけがBである).
といふ「意味」になるはずである。
従って、
(15)(16)により、
(17)
英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っている。
といふのであれば、
③ AがBである。
④ A以外Bでない。
に於いて、
③=④ である。
といふ「印象」を持つのは、「日本語ネイティブ」だけではなく、「英語ネイティブ」等であっても、「同じ」である、「可能性」がある。
cf.
因みに、「2018/02/12 11:00 – 2018/02/19 10:00」でいふならば、「このブログのページビュウーの、海外:日本 の割合」は、「約4.7:1.0」です。
然るに、
(12)により、
(18)
④ A以外Bでない。 の「対偶」は、
② BはAである。 であるため、
それ故、
③ AがBである。
④ A以外Bでない。
に於いて、
③=④ であるならば、
必然的に、
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外Bでない。
に於いて、
②=③=④
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(19)
逆は必ずしも真ではない(the reverse is not always true)。
従って、
(18)(19)により、
(20)
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外Bでない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふ、ことになる。
然るに、
(21)
実際に、
① 東京は日本の首都である。
② 日本の首都は東京である。
③ 東京が日本の首都である。
④ 東京以外は日本の首都ではない。
に於いて、
① は、「本当」である。
② も、「本当」である。
③ も、「本当」である。
④ も、「本当」である。
ものの、その一方で、
① 中野は東京である。
② 東京は中野である。
③ 中野が東京である。
④ 中野以外は東京ではない。
において、
① は、「本当」である。
② は、「ウソ」である。
③ も、「ウソ」である。
④ も、「ウソ」である。
従って、
(20)(21)により、
(22)
③ 東京が日本の首都である。
④ 東京以外は日本の首都ではない。
に於いて、
③=④ である。
といふことを、「日本語のネイティブ」の多くが、認めるのであれば、その場合は、
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外Bでない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふことは、「は」と「が」を論じる際の、言はば、「公理(axiom)」になり得る。
然るに、
(23)
「ネット並びに、図書館」で調べる限り、
③ AがBである。
④ A以外Bでない。
に於いて、
③=④ である。
といふことを、指摘する研究者は、ゐる(?)ものの、
② BはAである。
④ A以外Bでない。
に於ける、
②=④ である。
といふ「対偶」を指摘してゐる人は、寡聞にして、ゐないやうである。
cf.
因みに、私自身は、おそらく、昭和60年の11月06日頃(?)に、『強調形と、排他的命題』といふやうなタイトルの論文を、「國語と國文学」へ投稿して、没になってゐます。
それ故、
(24)
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外Bでない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふことは、「は」と「が」を論じる際の、言はば、「公理(axiom)」になり得る。
といふことを、言ひたくて、約20日間、連続で、かうした「記事」を、書き続けることになる。
然るに、
(25)
『日本語学』(2003年6月号)には、『「象は鼻が長い」入門』と山崎美紀子著『日本語基礎講座―三上文法入門』の2冊について井上優の書評が掲載された。そこに拙書『謎を解く』についてのコメントがある。私が三上文法について「国語学会や言語学会からいまだ正当の評価を受けていないのは誠に残念なことである」と書いたことを受けて、山崎紀美子と私が一蓮托生で批判されている。
(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、220頁)
然るに、
(26)
Untitled - 国立国語研究所
db3.ninjal.ac.jp/SJL/getpdf.php?number=1950350400
2018/02/07 - このような文の階層構造のモデルについては、『現代日本語文法の. 「な軌跡は、三上章の独創的な「主語廃止論」がたどった軌跡をほぼ. 輪郭』に体系的な記述がされていて、そちらが決定版だと言える。
従って、
(25)(26)により、
(27)
「三上章、象は鼻が長い」は、それから15年後の、「2018/02/07」の時点で、「今なお、健在」である。
然るに、
(28)
1 無題化ということ
第一章で、センテンスを題と解説に分けることにしました。この解説(述部)に名詞一個を含むセンテンスを六つ並べます。
鼻は、象が長い。
父は、この本を買ってくれました。
日本は、温泉が多い。
この本は、父が買ってくれました。
きのうは、大風が吹いた。
カキ料理は、広島が本場です。
これらのセンテンスから、題を底(base)とする名詞句を機械的に作ることができます。
底とは名詞句の末尾の名詞のことです。
鼻が長い象
この本を買ってくれた父
温泉が多い日本
父が買ってくれたこの本
大風が吹いたきのう
広島が本場であるカキ料理
次に、傍線の名詞を底とする名詞句を作ろうとすると、今度は、新しい助詞が現れてきます。
象の長い鼻
父が買ってくれたこの本
日本に多い温泉
この本を買ってくれた父
きのう 吹いた大風
カキ料理の本場である広島
新しく現れた助詞は、順に「の」「が」「に」「を」「( )」「の」です。呼びやすいように少し順序を変えて、「がのにを」としておきます。
これらの助詞はどこから現れたのかと言ふと、題「Xは」のかげから現れたと解釈するほかはありません。そこで潜在していたと考えることもできます。
(山崎紀美子、日本語基礎講座 ― 三上文法入門、2003年、62~64頁)
然るに、
(29)
鼻は、
父は、
日本は、
この本は、
きのうは、
カキ料理は、
といふ「それ」を、
鼻も、
父も、
日本も、
この本も、
きのうも、
カキ料理も、
といふ「それ」に「置き換へ」ると、
鼻も、象が長い。
父も、この本を買ってくれました。
日本も、温泉が多い。
この本も、父が買ってくれました。
きのうも、大風が吹いた。
カキ料理も、広島が本場です。
といふ「日本語」が、成立する。
然るに、
(30)
鼻は、象が長い。
父は、この本を買ってくれました。
日本は、温泉が多い。
この本は、父が買ってくれました。
きのうは、大風が吹いた。
カキ料理は、広島が本場です。
といふ「それ」に対して、
鼻も、象が長い。
父も、この本を買ってくれました。
日本も、温泉が多い。
この本も、父が買ってくれました。
きのうも、大風が吹いた。
カキ料理も、広島が本場です。
といふ「それ」も、「日本語」である。
従って、
(28)(29)(30)により、
(31)
① これらの助詞はどこから現れたのかと言ふと、題「Xは」のかげから現れたと解釈するほかはありません。
② これらの助詞はどこから現れたのかと言ふと、題「Xも」のかげから現れたと解釈するほかはありません。
に於いて、
① が、「正しい」のであれば、
② も、「正しい」ことになる。
従って、
(31)により、
(32)
①「がのにを」といふ「助詞」が、題「Xも」ではなく、題「Xは」のかげから現れた。とするのであれば、
②「がのにを」といふ「助詞」が、題「Xも」のかげからは、決して現われない。といふことを、三上先生は、「証明」しなければ、ならない。
然るに、
(33)
例へば、
象の長い鼻。 の「の」が、
象は鼻が長い。 の「は」の影から現れたものであって、
象の長い鼻。 の「の」は、
象も鼻が長い。 の「も」の影から現れたものではない。
などといふことを、「証明」することなど、出来るはずがない。
従って、
(33)により、
(34)
① これらの助詞はどこから現れたのかと言ふと、題「Xは」のかげから現れたと解釈するほかはありません。
と言はれても、そのやうな「仮説」を、そのままで、受け入れるわけには、行かない。
加へて、
(35)
さて、最初の六つのセンテンスの中身(事柄、コト)は、次のように書き表されます。
象の鼻が長いコト
父がこの本を買ってくれたコト
日本に温泉が多いコト
父がこの本を買ってくれたコト
きのう 大風が吹いてコト
広島がカキ料理の本場であるコト
これらのコトどもからそれぞれ傍線部の名詞を取りたてれば、つまり題として提示すれば、最初の六つのセンテンスに戻ります。反対に、それぞれの「は」を消して、上記のようなコトどもを取り出すことを、センテンスの無題化と呼ぶことにします。
無題化というのは、「Xは」の「は」を消すことですから、センテンスの形のままでもできないことはありませんが、センテンスの形では、本当に無題になりきれない場合も起こります。たとえば、
私は、幹事です。
私が、幹事です。
のように、「は」を消しても、センテンスの意味は、
幹事は、私です。
というのに近く、題が文中の別の個所に移り隠れたにすぎません。つまり、本当には無題化していないわけです。
(山崎紀美子、日本語基礎講座 ― 三上文法入門、2003年、65頁・66頁)
といふ「説明」は、そもそも、私には、「何のこと」か、全く分からない。
然るに、
(24)により、
(36)
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外Bでない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
は、ほとんど「公理(axiom)」である。
従って、
(35)(36)により、
(37)
① 私は幹事である。
② 幹事は私である。
③ 私が幹事である。
④ 私以外は幹事ではない。
に於いて、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
は、ほとんど「公理(axiom)」である。
従って、
(37)により、
(38)
③ 私が幹事です。
といふのであれば、
② 幹事は私です。
④ 私以外は幹事ではない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(39)
また、幹事が複数いる場合、その代表者が「幹事長」「代表幹事」と名乗るケースもある。幹事(かんじ)とは、あるグループを取りまとめる代表となる人をいう(ウィキペディア)。
然るに、
(38)(39)により、
(40)
② 幹事は私です。
④ 私以外は幹事ではない。
といふ「事実」が無い場合は、
③ 私が幹事です。
とは、言はずに、
① 私は幹事です。
といふ風に、言ふことになる。
然るに、
(41)
世の中には、同窓会の幹事もさうであって、自民党幹事長もさうであるため、幹事と呼ばれる人は、いくらでも「ゐる」。
従って、
(37)(41)により、
(42)
① 私は幹事である。
② 幹事は私である。
③ 私が幹事である。
④ 私以外は幹事ではない。
に於いて、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
といふ「公理(axiom)」に、従ふ限り、
③ 私が幹事です。
と言へば、それだけで、「ある特定の、一人の幹事」である。
従って、
(41)(42)により、
(43)
③ 幹事がゐる(幹事以外はゐない)。
③ 幹事がゐる(幹事以外は目に入ってゐない)。
といふのであれば、
③(ある時、ある場所に)特定の幹事がゐる。
といふ風に、せざるを得ない。
然るに、
(44)
③ 昔々、あるところに、お爺さんとお婆さんが、ゐました。
といふのであれば、それこそ、
③(ある時、ある場所に)特定の、お爺さんとお婆さんがゐた。
といふことになる。
然るに、
(45)
普通は、
③ お爺さんは山に柴刈に行きました。
③ お婆さんは川へ洗濯に行きました。
であるが、さうではなく、
③ お婆さんは山に柴刈に行きました。
③ お爺さんは川へ洗濯に行きました。
といふのであれば、「桃太郎の話」と、「話が逆」である。
然るに、
(46)
③ お婆さんは山に柴刈に行きました。
とは言はずに、
③ お婆さんが山が柴刈に行きました。
といふのであれば、
③ お婆さんが山へ柴刈に行き、
③ お婆さん以外(お爺さん)は柴刈に行きませんでした。
といふ、ことになる。
従って、
(42)~(46)により、
(47)
③ お爺さんではなく、お婆さん( )山に芝刈に行きました。
といふのであれば、
③ お爺さんではなく、お婆さん(が)山に芝刈に行きました。
といふ風に、言ふことになる。
従って、
(36)(47)により、
(48)
① AはBである。
② BはAである。
③ AがBである。
④ A以外Bでない。
に於いて、必ずしも、
①=② ではないが、必ず、
②=③=④ である。
は、「公理(axiom)」である。とするならば、
③ お爺さんではなく、お婆さん(は)山に芝刈に行きました。
ではなく、
③ お爺さんではなく、お婆さん(が)山に芝刈に行きました。
である「理由」を、「説明」することが、出来る。
然るに、
(49)
これらの助詞(が)はどこから現れたのかと言ふと、題「Xは」のかげから現れたと解釈するほかはありません。
といふ「仮定」を認めても、
③ お爺さんではなく、お婆さん(は)山に芝刈に行きました。
ではなく、
③ お爺さんではなく、お婆さん(が)山に芝刈に行きました。
である「理由」を、「説明」することなど、出来るはずがない。
それ故、
(50)
私自身は、「三上文法」なるものを、全く、「信用」してゐないし、「日本語」にも、「主語」はあって欲しいと、思ってゐる
(51)
主語廃止論からは「主語がないとしたら、今まで学校文法で主語と言われてきたのは何だ?」という議論が必ず出てくる。
(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、230頁)
然るに、
(52)
主語は元々三段論法など伝統論理学の用語であった(ウィキペディア)のであって、「主語」といふのは、オリジナルには、
すべての人は死ぬ。
ソクラテスは人である。
∴ ソクラテスは死ぬ。
のやうな「三段論法」で言ふところの「主語」である。
従って、
(53)
「日本語」に、「主語」が無いならば、「日本語」では、「論理学」を学ぶことが、出来ないことになって、それ故、日本語しか出来ない、私は、困る。
(54)
「主語廃止論」を欠いた「文法」を三上文法と呼んではいけない。困るのは、ありもしない主語を主張し、神学論争に明け暮れる上空の学界/学会ではない。いまだ母国語のまともな文法を知らない日本人、とりわけ子供たちである。また、私の場合は日本語教室という「地に足のついた」現場で
あり、そこにいる何百人もの教え子たちなのだ。「地に足のついた」現場に要るのは「土着」の文法であることは言うまでもない。
(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、235頁)
(55)
カナダにゐる、金谷武洋先生の、何百人、何千人の、教え子の方たち中の、どなたかに「この記事」が目にとまり、「この記事」に書かれてゐ
ることは、ウソである。といふことを、金谷先生に、確認しようとする方が、ゐるならば、私自身は、そのことを、何よりも、うれしく思ひます。
平成30年02月19日、毛利太。
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