(01)
① 読(漢文)⇒
① (漢文)読=
① (漢文を)読む。
(02)
② 常読(漢文)⇒
② 常(漢文)読=
② 常に(漢文を)読む。
従って、
(01)(02)により、
(03)
② 常読(漢文)。
に於いて、
② 常 の「意味」は、
② 読 を介して、
② 漢文 に届いてゐる。
然るに、
(04)
③ 我読(漢文)⇒
③ 我(漢文)読=
③ 我(漢文を)読む。
従って、
(01)(04)により、
(05)
③ 我読(漢文)。
に於いて、
③ 我 の「意味」は、
③ 読 を介して、
③ 漢文 に届いてゐる。
従って、
(03)(05)により、
(06)
② 常読(漢文)。
に於ける、
② 常 を、「副詞」とするならば、
③ 我読(漢文)。
に於ける、
③ 我 も、「副詞の一種」とすることは、可能である。
然るに、
(07)
③ 我読(漢文)。
に於いて、
③「漢文を読む」のは、「我(I)」であるが、
② 常読(漢文)。
に於いて、
②「漢文を読む」のが、「常に(Always)」であることは、有り得ない。
従って、
(07)により、
(08)
② 常読(漢文)。
に於いて、
②「漢文を読む」のが、仮に、「我」であれば、
② 常読(漢文)。
といふ「それ」には、
② 我 といふ「主語」が、「省略」されてゐる。
然るに、
(09)
④ 孔子は聖人なり(に在り)。
に於いて、
④「に在る」のは、「孔子」であり、それ故、
④ 孔子は聖人である(にて在る)。
に於ける、
④「聖人である(聖人にて在る)」の「主語」は、「孔子」である。
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
② 常に漢文を読む。
③ 我、漢文を読む。
④ 孔子は聖人である。
に於いて、
② の「主語」は、「常(副詞)」ではなく、
③ の「主語」は、「我(代名詞)」であって、
④ の「主語」は、「孔子(固有名詞)」である。
然るに、
(11)
その四 文法教科書の品詞分類は、活用しない自立語を次のように二分している。
主語になるもの ― 名詞。
主語にならないもの ― 副詞。
数十万部、いや数百万部印刷された教科書は専門書以外とみられるから、この主語も補語と読み直されたい(三上章、日本語の論理、1963年、
145頁)。
とは言ふものの、私には。
主語になるもの ― 名詞。
主語にならないもの ― 副詞。
といふ「説明」に、「不足」があるとは、思へない。
(12)
要するに、
③ 我、漢文を読む。
④ 孔子は聖人である。
に於いて、
③「読む」 のは「誰か」。
④「である」のは「誰か」。
に対する「答へ」が、
③「我」 であり、
④「孔子」であるならば、
③ 我、漢文を読む。
④ 孔子は聖人である。
の「主語」は、それぞれ、
③「我」 であり、
④「孔子」である。
とするのが、「(私が理解するところの)主語」である。
従って、
(13)
③ 我、漢文を読む。
③ I read 漢文.
の「主語」は、
③ 我(I) である。
とするのが、「(私が理解するところの)主語」である。
然るに、
(14)
その動作主は、少なくとも四人いるようです。ただしその中の一人は「近くゐたまへる人」(近くにすわっていらっしゃる人)なので、この動作を除けば、三人の動作が、一段の全文からは主語が明らかにすることが出来ない、ということになります。われわれは行きづまってしまうのでしょうか。
もしこれが『枕草子』であることを知らなかったら、専門家でさえ行きづまってしまう。ということはあると思います(古文のよみかた、1984年、15頁)。
従って、
(14)により、
(15)
「古文の専門家」が言ふ所の「主語」とは、「動作主」である。
然るに、
(16)
③ 我、漢文を読む。
③ I read 漢文.
に於いて、
③ 我(I) こそが、
③ 読む(read) といふ「動作」の「動作主」である。
従って、
(13)~(16)により、
(17)
「(古文の専門家が言ふところの)主語」と、「(私が理解するところの)主語」は、「同じ、主語」である。
然るに、
(18)
カリ活用は、「高くあり→高くあり」のように、形容詞本来の活用の連用形にラ変動詞「あり」が付いて出来たものである(中村菊一、基礎からわかる古典文法、1978年、65頁)。
従って、
(09)(18)により、
(19)
「名詞文・形容詞文」の「主語」も含めて、「動作主」を、「主語」とすることが、可能である。
(20)
日本語などの東アジアの言語には必要のない「主語」は、明治維新以降は「脱亜入欧」の掛け声のもと、英文法を真似て導入されたものだった。大野晋も『日本語の世界』付録の丸谷才一との対談、その事情をあっさり認めてゐる。
明治以降、要するに英文法をもとにして、大槻博士が日本語の文法を組み立てた。その時に、ヨーロッパでは文を作る時に必ず主語を立てる。そこで『文には主語が必要』と決めた。そこで日本語では主語を示すのに『は』を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくては具合が悪いというわけで、無理にいろんなものを当てはめた。
ここまで言い切る大野なら、なぜ「日本語に主語はない」と文部科学省に断固抗議し、学校文法改正の音頭を取らないのだろう。言語学的に何ら根拠のない「ハとガの違い」の説明に拘泥し、三上章の「主語廃止論」を一蹴した国語学会の大御所である大野晋も、学問的に正しく批判さる日がやがて来るだろう(金谷武洋、英語にも主語はなかった、2004年、11頁)。
然るに、
(21)
私自身は、「日本語には、主語が無いのでは?」と思ったことが、一度も無い。
(22)
① AがBである。
② BはAである。
③ A以外はBでない。
④ AでないならばBでない。
に於いて、
①=②=③=④ である。
といふ「事実」に気付いてゐなかった。
といふこの関しては、大野晋は、さうであったし、三上章も、さうであった、はずである。
といふことは、この一週間以内に、書いた通りである。
従って、
(23)
(完全なアマチュアである)私の立場からすれば、「三上先生も、大野先生も、金谷先生」は、三人とも、「正しく」はない。
平成30年02月02日、毛利太。
0 件のコメント:
コメントを投稿