(ⅰ)『返り点』については、『「返り点」の「付け方」を教へます(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post_3.html)』をお読み下さい。
(ⅱ)『返り点と括弧』については、『「一二点・上下点」について(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)』他をお読み下さい。
(01)
(4)人称代名詞の主格は、特にそれが強調される場合以外には用いられない。
(a)この理由は、動詞の語尾が、主語が一人称であるか、それとも二人称であるか、または、三人称であるかを充分に示しているからである。つまり λεγω は「私は言う」(I say)である。故に、特に「私」を強調が置かれるのでなければ、εγω を付け加えない。
(b)強調というのは、通常対照によって生ずる。たとえば、εγω λεγω,συ δε γραφειs,「私は語るが、しかし汝は書く」(I say,but you write)という文で,εγω と συ とは強調されている。
(J.G.メイチェン著、田辺滋 訳、新約聖書ギリシャ語原点入門、1967年、55頁)
従って、
(01)により、
(02)
① λεγω,γραφειs.
② εγω λεγω,συ δε γραφειs.
は、両方とも、
① I say,you write.
② I say,but you write.
といふ「意味」である。
然るに、
(03)
マルチネにとっては(あ)が唯一の「主語の条件」であるが、特に英仏語の様子を勘案しながら、さらに3点を加えてみる。
(あ)基本文に不可欠の要素である。
(い)語順的には、ほとんどの場合、文頭に置かれる。
(う)動詞の人称変化(つまり活用)を起こさせる。
(え)一定のカク(主格)を持って現れる。
(金谷武洋、日本語に主語はいらない、2002年、62頁)
従って、
(02)(03)により、
(04)
少なくとも、ギリシャ語(やラテン語)の場合は、
(あ)主語は、基本文に不可欠の要素である。
といふことに、ならない。
(05)
ギリシャ語(やラテン語)の場合は、
(い)主語は、語順的には、ほとんどの場合、文頭に置かれる。
といふことも、ない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
(あ)基本文に不可欠の要素である。
(い)語順的には、ほとんどの場合、文頭に置かれる。
といふ「主語の条件」は、「英語やフランス語の主語」には当てはまっても、「ギリシャ語やラテン語の主語」には、当てはまらない。
然るに、
(07)
ギリシャ語(やラテン語)に、「主語」が無い。
といふ話は、聞くことが無い。
従って、
(06)(07)により、
(08)
(あ)基本文に不可欠の要素である。
(い)語順的には、ほとんどの場合、文頭に置かれる。
といふことが無いからと言って、そのことを以て、「日本語には主語が無い。」とすることは、出来ない。
(09)
α:誰が言ふのか。
β:私は言ひます。
に対して、
γ:私も言ひます。
といふのであれば、
βとγが言ふ。ことなる。
然るに、
(10)
α:誰が言ふのか。
β:私は言ひます。
に対して、
γ:私が言ひます。
といふのであれば、
言ふのは、γだけである。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① 私は言ふ。
とは異なり、
② 私が言ふ。
といふ「日本語」は、それだけで、
② 私は言ひ(私以外は言はない)。
といふ「意味」になる。
cf.
排他手命題(Exclusive proposition)。
従って、
(11)により、
(12)
② 私は言ひ(私以外は言はない)、あなたは書き(あなた以外は書かない)。
といふのであれば、その場合は、
② 私が言ひ、あなたが書く。
といふ風に、言ふことになる。
然るに、
(13)
② 私は言ひ(私以外は言はない)、あなたは書き(あなた以外は書かない)。
といふのであれば、
②「私がすること」と「あなたがすること」は、「対照的」である。
然るに、
(01)により、
(14)
(b)強調というのは、通常対照によって生ずる。たとえば、εγω λεγω,συ δε γραφειs.という文で、εγω(私) と συ(あなた) は強調されている。
といふことから、ギリシャ語で、
② εγω λεγω,συ δε γραφειs.
と言ふのであれば、
②「私(εγω)がすること」と「あなた(συ)がすること」は、「対照的」であって、尚且つ、
② εγω λεγω,συ δε γραφειs.
と言ふのであれば、εγω(私) と συ(あなた) は、「強調」されている。
従って、
(13)(14)により、
(15)
① 私は言ふ。
② 私が言ふ。
に於ける、
① 私は
② 私が
に於いて、① に対する、② は、「強調形」であると、推定される。
然るに、
(16)
次(17)に示す通り、
①「Aが(濁音)」の「心理的な音量」は、
①「Aは(清音)」の「心理的な音量」よりも「大きく」、それ故、
①「Aが(濁音)」は、
①「Aは(清音)」に対する、「強調形」である。
(17)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(12)~(17)により、
(18)
② εγω λεγω,συ δε γραφειs.
といふ「ギリシャ」は、
② 私が言ひ、あなたが書く。
といふ「日本語」に相当し、尚且つ、
② εγω、συ は、「強調形」であって、
② 私が、あなたが も、「強調形」である。
然るに、
(01)により、
(19)
ギリシャ語(ラテン語)の場合は、「動詞の語尾が、主語が一人称であるか、それとも二人称であるか、または、三人称であるかを充分に示しているから」、「わざわざ、εγω(私)や、συ(あなた)といふ主語を、用ゐることはない。」
然るに、
(20)
「日本語の動詞」には、「人称語尾」が付かない。
然るに、
(21)
③ 言ふから、書いて。
と言へば、AIならぬ、「日本人」にとっては、
③ From the words, write.
といふ「意味」ではなく、それだけで、明らかに、
③ 私が言ふから、君が書いてね。
といふ「意味」になる。
従って、
(19)(20)(21)により、
(22)
「ギリシャ語(やラテン語)の動詞」には、「人称語尾」が有って、「日本語の動詞」には、「人称語尾」が無いものの、「言はなくとも、分かりきってゐる主語」は、「一々、言はない(省略する)」といふ点に於いては、「ギリシャ語(やラテン語)」であっても、「日本語」であっても、「変り」が無い。
(23)
明治時代、キリスト教諸派の働きにより、さまざまな日本語訳聖書が文語体で編まれ、宣教に用いられた。口語文を唱導する言文一致運動が起こるなど、日本語の書きことばが大きく揺れ動いていた時代ではあったが、第二次世界大戦ののちまで、外国語の和訳には文語文を用いるのが常であった(ウィキペディア)。
(24)
ぶんご [0]【文語】
① もっぱら文章を書くときに用いられる言葉。口頭で話される言葉に対していう。文字言語。書き言葉。
② 古典語。平安時代の言語に基づき,それ以後の時代の言語の要素をも多少加えた書き言葉。近世から明治前期の文章語まで含めていう。
(辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書)
従って、
(23)(24)により、
(25)
(ⅰ)イエスはヘロデ王の時、ユダヤのベツレヘムに生まれ給ひしが、視よ、東の博士たちエルサレムに來て言ふ。ユダヤ人の王とて生まれ給へる人は、何處に在ますか。我ら東にてその星を見たれば、拝せんために來れり。ヘロデ王これを聞きて惱みまどふ。エルサレムも皆然り。王、民の祭司長・學者らを皆あつめて、キリストの何處に生まれるべきを問ひ質す。かれら言ふ、ユダヤのベツレヘムなり(日本聖書協会、新約聖書)。
(ⅱ)上の御局の御簾の前にて、殿上人、日一日、琴、笛吹き遊び暮らして、大殿油まゐるほどに、まだ御格子はまゐらぬに、大殿油さし出でたれば、外の開きたるがあらはなれば、琵琶の御琴を、縦様に持たせ給へり。紅の御衣どもの言ふも世の常なる、打ちも張りたるも、数多奉りて、いと黒うつややかなる琵琶に、御袖をうちかけて捕へさせ給へるだにめでたきに、そばより、御額のほどのいみじう白うめでたく、けざやかにて、はづれさせ給へるは、譬ふべき方ぞなきや。近く居給へる人にさし寄りて、「半ば隠したりけむは、えかくはあらざりけむかし。あれは、ただ人にこそはありけめ」と言ふを、道もなきに分けまゐりて申せば、笑はせ給ひて、「別れは知りたりや」となむ、仰せらるる、と伝ふるも、いとをかし(枕の草紙)。
に於いて、(ⅰ)と(ⅱ)は、同じく、「平安時代の文法」で書かれてゐる。
然るに、
(26)
(ⅰ)に関しては、「現代文」と「同じ程度」に、「理解しやすく」、
(ⅱ)に関しては、その動作主は、少なくとも四人いるようです。ただしその中の一人は「近くゐたまへる人」(近くにすわっていらっしゃる人)なので、この動作を除けば、三人の動作が、一段の全文からは主語が明らかにすることが出来ない、ということになります。われわれは行きづまってしまうのでしょうか。 もしこれが『枕草子』であることを知らなかったら、専門家でさえ行きづまってしまう。ということはあると思います(古文のよみかた、1984年、15頁)。
といふ「事態」が生じることになる。
従って、
(25)(26)により、
(27)
同じく、「日本語(古文)」であるにも拘らず、(ⅰ)が、「非常に、読みやすく」、(ⅱ)が、「極端に、読みにくい」のは、(ⅰ)では、「主語の省略が無い」のに対して、(ⅱ)では、「主語が、省略されまくりである」からである。といふ、ことになる。
然るに、
(28)
本当に、(27)の通りであるならば、(ⅱ)には、「主語が無い。」のではなく、(ⅱ)では、「主語が省略されてゐる。」といふ、ことになる。
従って、
(06)(07)(28)により、
(29)
私には、金谷武先生が行ふ「日本語には主語が無い。」といふ「主張」は、「荒唐無稽」であるとしか思へない。
平成30年02月08日、毛利太。
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