2019年11月9日土曜日

「他ならぬ~が」の「が」について(其の?)

(01)
例文
白雪のまだふるさとの春日野にいざうちはらひ若菜摘みてむ
   ▽「ふる」 → 「降る」「(故郷の)ふる」
立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む
   ▽「まつ」 → 「松」「待つ」
花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに
   ▽「ふる」 → 「経る」「降る」
   ▽「ながめ」→ 「眺む」「長雨」
風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君がひとり越ゆらむ
   ▽「たつ」 → 「立つ」「(龍田山の)たつ」
というわけで、まぁ、掛詞というのは、簡単にいえばダジャレなわけで、一つの言葉に二つの意味があるわけですね!
(Study Supportキミの学習を支えるスタサポ)
然るに、
(02)
「文字列の中のある部分」を「強調」する。といふことは、
「文字列の中のその部分」を「目立たせる」ことである。
従って、
(01)(02)により、
(03)
例へば、
風吹けば沖つ白浪たつた山夜半にや君がひとり越ゆらむ。
(Study Supportキミの学習を支えるスタサポ)
に於いて、「たつ」といふ「語」は、「それが掛詞である」といふことを示すために、「強調」されてゐる。
然るに、
(04)
これはよく引かれる有名な話である。『宇治拾遺物語』に佐太という侍の話が記されている。たいした身分でもない佐太は自分の着ていた水干のほころびを直せと、無造作に物縫いの女房のところへ、投げ込んだ。ところが、もと京女であったのに、だまされて田舎に居ついたその女房は、水干を直しもせずに投げ返した。直せといったほころび目には歌が書いた結びつけてある。その歌には、
 われが身は竹の林にあらねどもさた衣を脱ぎかくるかな。
と書いてあった。この歌は、故事をふまえてつくられている。薩埵太子が、餓えた虎に自分の身をあたえて虎を救ったという仏教の有名な話がある。太子は自分の衣を竹の林に脱ぎかけ、虎の前におのが身を食わせたという。
説教を聞いてその説話を知っていた女房は、「薩埵」と、「佐太」との音がかようところから、その故事をふまえ、「自分の身は、あの薩埵太子衣を脱いでかけたという竹の林でもないのに、佐太衣を脱いでかけてくること」という、この歌を作った(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、162頁)。従って、
(03)(04)により、
(05)
われが身は竹の林にあらねどもさた衣を脱ぎかくるかな。
に於いて、「さた」といふ「語」は、「それが掛詞である」といふことを示すために、私によって、「強調」されてゐる。
然るに、
(06)
(ⅰ)「さた」と、「さた」と「2通り」があって、尚且つ、
(ⅱ)「さた」は、「さた」に対する、「強調形」である。
といふ風に、「仮定」する。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① われが身は竹の林にあらねどもさたの衣を脱ぎかくるかな。
② われが身は竹の林にあらねどもさた衣を脱ぎかくるかな。
に於いて、
①「さたの」ではなく、
②「さた」といふ「語」は、「それが掛詞である」といふことを示すために、「強調」されてゐる。
然るに、
(08)
これを見て、殊勝なことよと感じ入ったのならば、あっぱれというべきだろうが、佐太は見るやいなやかんかんに腹を立て、「この目のつぶれた女め、ほころびを縫いにやったら、ほころんだところを見つけることさえできず、『佐太』と言うべきところを、まったく申すも畏れ多い国守様でさえ、そうはお呼びにならないのだ。なんでおまえなんかが『佐太』と言うべき法があるか。思い知らせてくれよう」と言って、まったく言うも恥ずかしいところについてまでも、なんだかんだと悪口を続けたので、女は気もそぞろになって泣いてしまった(小学館、新編 日本古典文学集50、宇治拾遺物語、1996年、230頁)。
従って、
(06)(08)により、
(09)
(ⅰ)「さた」と、「さた」と「2通り」があって、尚且つ、
(ⅱ)「さたが」は、「さたの」に対する、「強調形」である。
といふ「2つの仮定」にあって、
(ⅰ)に関しては、「事実」である。
然るに、
(10)
「さた・(清音)」であって、
「さた・音)」である。
然るに、
(11)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2115年、13頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
「さた・(清音)」であって、
「さた・音)」であるが故に、
「さた・(清音)」の「心理的な音量」より、
「さた・(濁音)」の「心理的な音量」の方が、「大きい」。
従って、
(09)(12)により、
(13)
(ⅰ)「さた」と、「さた」と「2通り」があって、尚且つ、
(ⅱ)「さた」は、「さた」に対する、「強調形」である。
といふ「2つの仮定」にあって、
(ⅰ)に関しては、「事実」であり、
(ⅱ)に関しても、「事実」である。
従って、
(06)~(13)により、
(14)
① われが身は竹の林にあらねどもさたの衣を脱ぎかくるかな。
② われが身は竹の林にあらねどもさた衣を脱ぎかくるかな。
に於いて、
①「さた」ではなく、
②「さた」といふ「語」は、「それが掛詞である」といふことを示すために、「強調」されてゐる。
とすることは、「可能」である。
然るに、
(15)
② われが身は竹の林にあらねどもさた衣を脱ぎかくるかな。
に於いて、
②「さたが」といふ「語」が、「掛詞」である。といふことは、
②「さたが」といふ「語」が、例へば、
②「しちが」であったり、
②「すつが」であったり、
③「せてが」であったりすれば、「掛詞」としては、「成立」しない
といふことを、「意味」してゐる。
従って、
(15)により、
(16)
② われが身は竹の林にあらねどもさた衣を脱ぎかくるかな。
に於いて、
②「さた」といふ「語」が、「掛詞」である。といふことは、
②「(さた以外ではない所の)さた」が・・・・・・・。
といふ、ことになる。
従って、
(16)により、
(17)
② われが身は竹の林にあらねどもさた衣を脱ぎかくるかな。
に於いて、
②「さた」といふ「語」が、「掛詞」である。といふことは、
②「(他ならぬ)さた」・・・・・・・。
といふ、ことである。
従って、
(17)により、
(18)
② われが身は竹の林にあらねどもさた衣を脱ぎかくるかな。
といふ「歌」は、
② 私の身は竹の林ではないのに、(他ならぬさた太子)が衣を脱ぎかくるかな。
といふ「意味」になる。
従って、
(04)(18)により、
(19)
②(他ならぬさた衣を脱ぎかくるかな。
と言って、女房は、「水干を直しもせず投げ返した」ことになる。
然るに、
(20)
②(他ならぬさた衣を脱ぎかくるかな。
と言って、「水干を直しもせず投げ返した」といふことは、
②(さた以外)であれば、水干は直しても良い
といふ「意味」に、取れないこともない。
然るに、
(21)
②(さた以外の)水干であれば、直しても良いが、さたの水干は直さない
といふことは、
② お前(さた)の水干など、誰が直すものか
といふ「意味」に、取れないこともない。
従って、
(08)(21)により、
(22)
女房は、「さた太子」の「意味」で「(他ならぬさた」と言ってゐるにも拘らず、
さたは、「お前の水干など、誰が直すものか。」といふ「意味」で、「(他ならぬさた」と言ってゐるといふ風に、「誤解」してゐる。
といふことになるし、「お前の水干など、誰が直すものか。」と言はれたとしたら、「さたが怒る」のも、「無りは無い」。
令和元年11月09日、毛利太。

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