―「一昨日の記事」を補足します。―
(01)
① AはBであり(、A以外はBでない)。
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
然るに、
(02)
① A以外はBでない。
② AでないならばBでない。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
「対偶」は「等しい」ため、
② AでないならばBでない。
③ BならばAである。
に於いて、
②=③ である。
cf.
(~A⇒~B)=(~~A∨~B)=(A∨~B)=(~B∨A)=(B⇒A)
然るに、
(04)
③ BならばAである。
④ BはAである。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
① A以外はBでない。
② AでないならばBでない。
③ BならばAである。
④ BはAである。
に於いて、
①=② であって、
②=③ であって、
③=④ である。
従って、
(05)により、
(06)
① A以外はBでない。
④ BはAである。
に於いて、
①=④ である。
従って、
(06)により、
(07)
① AはBであり(、A以外はBでない)。
といふ「命題」は、
① AはBであり(、BはAである)。
といふ「命題」に、等しい。
従って、
(01)(07)により、
(08)
① AはBであり(、A以外はBでない)。
① AはBであり(、BはAである)。
といふ「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
然るに、
(09)
① 誰が好きですか。
に対して、
② 誰は好きですか。
といふ「日本語」は存在しない。
然るに、
(10)
① 誰が好きですか。
② あなたは好きです。
といふ場合は、
② あなた以外にも好きな人がゐる。
然るに、
(11)
① 誰が好きですか。
① あなたが好きです。
といふ場合は、
① 好きなのは、あなたであって、
① あなた以外に好きな人はゐない。
(08)~(11)により、
(12)
① 誰が好きですか。
① あなたが好きです(好きなのはあなたです)。
は、「排他的命題」である。
従って、
(12)により、
(13)
① 誰が好きですか。
① 好きなのは誰ですか。
といふ「日本語」は、「排他的命題」である。
従って、
(13)により、
(14)
② 汝何読=汝、何をか読む。
② 汝之所読書為何=汝の読む所の書を何と為す。
といふ「漢文」は、「排他的命題」である。
従って、
(14)により、
(15)
③ What do you read?
③ What is the book that you read?
といふ「英語(Wh移動)」は、「排他的命題」である。
平成28年12月31日、毛利太。
―「関連記事」―
「強調形」と「疑問詞」と「排他的命題」(12月30日)〔http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_30.html〕。
2016年12月31日土曜日
2016年12月30日金曜日
「強調形」と「疑問詞」と「排他的命題」(12月30日の補足)。
―「先ほどの記事」を補足します。―
(01)
① 郷人長於伯兄一歳、則誰敬。曰敬兄。=
① 郷人長レ於二伯父一一歳、則誰敬。曰敬レ兄。=
① 郷人長〔於(伯兄)〕一歳、則誰敬。曰敬(兄)。⇒
① 郷人〔(伯兄)於〕長一歳、則誰敬。曰(兄)敬。=
① 郷人〔(伯兄)より〕長ずること一歳ならば、則ち誰をか敬せん。曰く(兄を)敬せん。
(02)
「では、同じ村人で君の長兄より一つ年上の人があったとしたら、君はどちらを敬いますか。」公都子がいった。「それは兄の方だ。」
(小林勝人訳注、孟子(下)、1972年、227・229頁)
然るに、
(03)
「村人と兄、二人の内の、誰を敬ふか。」といふ「質問」に対して、
「それは兄の方だ。」と言ふのであれば、
「兄を敬い(、兄以外は敬はない)。」といふ、ことになる。
(04)
② 子貢問政。子曰、足食足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去、於斯三者何先。曰、去兵。=
② 子貢問レ政。子曰、足レ食足レ兵、民信レ之矣。子貢曰、必不レ得レ已而去、於二斯三者一何先。曰、去レ兵。=
② 子貢問(政)。子曰、足(食)足(兵)、民信(之)矣。子貢曰、必不〔得(已)〕而去、於(斯三者)何先。曰、去(兵)。⇒
子貢(政を)問ふ。子曰はく、(食を)足し(兵を)足し、民(之を)信ぜしむ。子貢曰はく、必ず〔(已むを)得〕不し而去らば、(斯の三者に)於いて何をか先にせん。曰く、(兵を)去らん。
(05)
子貢が政治のことをおたずねした。先生はいわれた、「食糧を十分にし軍備を十分にして、人民には信を持たせることだ。」子貢が「どうしてもやむををえずに捨てるなら、この三つの中でどれを先にしますか。」というと、先生は「軍備を捨てる。」といわれた。
(金谷治・訳注、論語、1963年、230頁)
然るに、
(06)
「この三つの中でどれを先に捨てますか。」といふ「質問」に対して、
「軍備を捨てる。」と言ふのであれば、
「軍備は捨てる(が、軍備以外は捨てない)。」といふ、ことになる。
然るに、
(07)
AはBであり(A以外はBでない)。
A以外はBでない(BはAである)。
といふ「命題」を「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(01)~(07)により、
(08)
① 誰敬=誰をか敬せん。
② 何先=何をか先にせん。
といふ「疑問文」は、「排他的命題」である。
従って、
(08)により、
(09)
例へば、
③ 吾之於人誰毀誰誉=吾の人に於けるや、誰をか毀り誰をか誉めん。
といふ「疑問文(反語)」も、「排他的命題」である。
cf.
わたしはひとに対して、むやみにホメたり、みだりにケナしたりはしない。
(山田史生、全訳論語、2014年、465頁)
然るに、
(10)
③ 誰誉=誰をか誉めん。
に対して、
④ 我誉=我、誉めん。
であれば、
④ 我 は、「主語」である。
従って、
(11)
「英語」で言へば、
③ Who praise. の、
③ Who が、「主語」ではなく、「目的語」である。
といふ、ことになる。
従って、
(12)
④ 我誉=我、誉めん。
に対して、
③ 誰誉=誰をか誉めん。
といふ「語順」は、「漢語」としても、「異例」なのであって、次の(13)は、そのことを、述べてゐる。
(13)
動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本構造としての単語の配列のしかたである。また、漢語における介詞は、ほとんど、動詞から発達したものであって、その目的語も、その介詞の後に置かれるのが、通則であるということができる。しかし、古代漢語においては、それらの目的語が疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前におかれている。このように、漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置きすることは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に強調したものにちがいない。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、334・5頁)
従って、
(08)(12)(13)により、
(14)
④ 誰誉=誰をか誉めん。
は、「排他的命題」であって、尚且つ、「(前置による)強調形」である。
然るに、
(15)
⑤ 誰が好きですか、
⑤ あなたは好きです。
といふ場合は、
⑤ あなた以外にも好きな人がゐる。
然るに、
(16)
⑥ 誰が好きですか。
⑥ あなたが好きです。
といふ場合は、
⑥ あなた以外に好きな人はゐない。
従って、
(07)(15)(16)により、
(17)
⑤ あなたは好きです。
に対する、
⑥ あなたが好きです。
は、「排他的命題」である。
然るに、
(18)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
然るに、
(19)
⑤「は」は、「清音」であって、
⑥「が」は、「濁音」である。
従って、
(18)(19)により、
(20)
⑤ あなたは
に対する、
⑥ あなたが
は、「心理的な音量」による「強調形」である。
従って、
(17)(20)により、
(21)
⑥ あなたが好きです。
は、「排他的命題」であって、尚且つ、「(心理的な音量による)強調形」である。
従って、
(14)(21)により、
(22)
④ 誰誉=誰をか誉めん。
⑥ あなたが好きです。
に於いて、
④ は、「強調形」であって、「排他的命題」である。
⑥ も、「強調形」であって、「排他的命題」である。
平成28年12月30日、毛利太。
―「関連記事」―
「強調形」と「疑問詞」と「排他的命題」(12月30日)〔http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_30.html〕。
(01)
① 郷人長於伯兄一歳、則誰敬。曰敬兄。=
① 郷人長レ於二伯父一一歳、則誰敬。曰敬レ兄。=
① 郷人長〔於(伯兄)〕一歳、則誰敬。曰敬(兄)。⇒
① 郷人〔(伯兄)於〕長一歳、則誰敬。曰(兄)敬。=
① 郷人〔(伯兄)より〕長ずること一歳ならば、則ち誰をか敬せん。曰く(兄を)敬せん。
(02)
「では、同じ村人で君の長兄より一つ年上の人があったとしたら、君はどちらを敬いますか。」公都子がいった。「それは兄の方だ。」
(小林勝人訳注、孟子(下)、1972年、227・229頁)
然るに、
(03)
「村人と兄、二人の内の、誰を敬ふか。」といふ「質問」に対して、
「それは兄の方だ。」と言ふのであれば、
「兄を敬い(、兄以外は敬はない)。」といふ、ことになる。
(04)
② 子貢問政。子曰、足食足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去、於斯三者何先。曰、去兵。=
② 子貢問レ政。子曰、足レ食足レ兵、民信レ之矣。子貢曰、必不レ得レ已而去、於二斯三者一何先。曰、去レ兵。=
② 子貢問(政)。子曰、足(食)足(兵)、民信(之)矣。子貢曰、必不〔得(已)〕而去、於(斯三者)何先。曰、去(兵)。⇒
子貢(政を)問ふ。子曰はく、(食を)足し(兵を)足し、民(之を)信ぜしむ。子貢曰はく、必ず〔(已むを)得〕不し而去らば、(斯の三者に)於いて何をか先にせん。曰く、(兵を)去らん。
(05)
子貢が政治のことをおたずねした。先生はいわれた、「食糧を十分にし軍備を十分にして、人民には信を持たせることだ。」子貢が「どうしてもやむををえずに捨てるなら、この三つの中でどれを先にしますか。」というと、先生は「軍備を捨てる。」といわれた。
(金谷治・訳注、論語、1963年、230頁)
然るに、
(06)
「この三つの中でどれを先に捨てますか。」といふ「質問」に対して、
「軍備を捨てる。」と言ふのであれば、
「軍備は捨てる(が、軍備以外は捨てない)。」といふ、ことになる。
然るに、
(07)
AはBであり(A以外はBでない)。
A以外はBでない(BはAである)。
といふ「命題」を「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(01)~(07)により、
(08)
① 誰敬=誰をか敬せん。
② 何先=何をか先にせん。
といふ「疑問文」は、「排他的命題」である。
従って、
(08)により、
(09)
例へば、
③ 吾之於人誰毀誰誉=吾の人に於けるや、誰をか毀り誰をか誉めん。
といふ「疑問文(反語)」も、「排他的命題」である。
cf.
わたしはひとに対して、むやみにホメたり、みだりにケナしたりはしない。
(山田史生、全訳論語、2014年、465頁)
然るに、
(10)
③ 誰誉=誰をか誉めん。
に対して、
④ 我誉=我、誉めん。
であれば、
④ 我 は、「主語」である。
従って、
(11)
「英語」で言へば、
③ Who praise. の、
③ Who が、「主語」ではなく、「目的語」である。
といふ、ことになる。
従って、
(12)
④ 我誉=我、誉めん。
に対して、
③ 誰誉=誰をか誉めん。
といふ「語順」は、「漢語」としても、「異例」なのであって、次の(13)は、そのことを、述べてゐる。
(13)
動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本構造としての単語の配列のしかたである。また、漢語における介詞は、ほとんど、動詞から発達したものであって、その目的語も、その介詞の後に置かれるのが、通則であるということができる。しかし、古代漢語においては、それらの目的語が疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前におかれている。このように、漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置きすることは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に強調したものにちがいない。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、334・5頁)
従って、
(08)(12)(13)により、
(14)
④ 誰誉=誰をか誉めん。
は、「排他的命題」であって、尚且つ、「(前置による)強調形」である。
然るに、
(15)
⑤ 誰が好きですか、
⑤ あなたは好きです。
といふ場合は、
⑤ あなた以外にも好きな人がゐる。
然るに、
(16)
⑥ 誰が好きですか。
⑥ あなたが好きです。
といふ場合は、
⑥ あなた以外に好きな人はゐない。
従って、
(07)(15)(16)により、
(17)
⑤ あなたは好きです。
に対する、
⑥ あなたが好きです。
は、「排他的命題」である。
然るに、
(18)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
然るに、
(19)
⑤「は」は、「清音」であって、
⑥「が」は、「濁音」である。
従って、
(18)(19)により、
(20)
⑤ あなたは
に対する、
⑥ あなたが
は、「心理的な音量」による「強調形」である。
従って、
(17)(20)により、
(21)
⑥ あなたが好きです。
は、「排他的命題」であって、尚且つ、「(心理的な音量による)強調形」である。
従って、
(14)(21)により、
(22)
④ 誰誉=誰をか誉めん。
⑥ あなたが好きです。
に於いて、
④ は、「強調形」であって、「排他的命題」である。
⑥ も、「強調形」であって、「排他的命題」である。
平成28年12月30日、毛利太。
―「関連記事」―
「強調形」と「疑問詞」と「排他的命題」(12月30日)〔http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_30.html〕。
「強調形」と「疑問詞」と「排他的命題」(12月30日)。
(01)
「強調」とは、「その部分」を「他の部分」よりも、「目立たせる」ことに、他ならない。
(02)
AはBであり(A以外はBでない)。
A以外はBでない(BはAである)。
といふ「命題」を「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
(03)
「強調形」は、「排他的命題」を主張する。
(04)
「強調形」には、
① 心理的な音量差による「強調形」。
② 物理的な音量差による「強調形」。
③ 語順を変へる事による「強調形」。
等が、有る。
然るに、
(05)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(06)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① あなたは好きです。
ではなく、
① あなたが好きです。
等に於ける、
「~は(清音)・・・・・。」に対する、
「~が(濁音)・・・・・。」は、
① 心理的な音量差による「強調形(排他的命題)」である。
然るに、
(08)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
b.Ton SENT Mary flowers.
c.Tom sent MARY flowers.
d.Tom sent Mary FLOWERS.
”Tom sent Mary flowers.”(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
従って、
(04)(08)により、
(09)
a.TOM sent Mary flowers. 等は、
② 物理的な音量差による「強調形(排他的命題)」である。
然るに、
(10)
動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本構造としての単語の配列のしかたである。また、漢語における介詞は、ほとんど、動詞から発達したものであって、その目的語も、その介詞の後に置かれるのが、通則であるということができる。しかし、古代漢語においては、それらの目的語が疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前におかれている。このように、漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置きすることは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に強調したものにちがいない。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、334・5頁)
従って、
(04)(10)により、
(11)
③ 汝欲誰見。
④ 汝欲見誰。
に於いて、
③ 汝欲誰見。 は、
③ 語順を変へる事による「強調形(排他的命題)」である。
従って、
(12)
③ 汝欲誰見=汝、誰にか会はんと欲す。
と「同様」に、
③ Do you want to see who?
ではない所の、
③ Who do you want to see?
の場合も、
③ 語順を変へる事による「強調形(排他的命題)」である。
と、すべきである。
然るに、
(13)
「漢文」の場合は、「英語」とは異なり、「主語」や「目的語」が、しばしば、「省略」される。
従って、
(12)(13)により、
(14)
③ 汝誰敬=
であれば、
③ 誰敬=誰をか敬ふ。
とすることが、可能である。
然るに、
(15)
③ 誰敬=誰を(目的語)か敬ふ。
に対して、
④ 誰が敬ふ。
の場合も、
④ 誰敬=誰が(主語)か敬ふ。
である。
従って、
(01)(11)(15)により、
(16)
③ 誰敬=誰をか敬ふ。
に於いて、
③「排他的命題」を主張するために、「前置」といふ「強調形」が、用ゐられる。
といふ「理解」が、得られなくなれば、
③ 誰敬=誰を(目的語)か敬ふ。
④ 誰敬=誰が( 主語 )敬ふか。
に於ける、「識別」が「不能」となる。
然るに、
(17)
賓語が疑問代名詞であるばあい、上古漢語では倒置して動詞の前におく。現代語ではこのように倒置せず、動詞の後におくことは言うまでもない。このように倒置しなくなった時期について、筆者は明言を避けておいたのであるが(歴 p.130-131)、以下に中古の用例を補足する(ここ
では介詞も動詞にふくめて述べておく)。
曰、郷人長於伯兄一歳、則誰敬。〔趙注、季子曰、敬誰也〕曰、敬兄。酌則誰先。〔趙注、季子曰、酌酒則先酌誰〕曰、先酌郷人(孟子、告子、上、第5章)
曰く、郷人伯兄より長ずること一歳なれば、すなわち誰をか敬う。酌まばすなわち誰をか先にする。曰く、まず郷人に酌まん。
『孟子』の原文と趙岐の注を比較すると、上古の語序は後漢時代すでに変化して現代語式なっていたことがわかる。すなわち『孟子』では「誰敬」「誰先」と賓語の誰が動詞の前に来ている。
(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁)
cf.
趙岐(ちょう き、?[1] - 201年)は、後漢末の政治家、学者。『孟子』の注釈で知られる(ウィキペディア)。
従って、
(17)により、
(18)
『孟子』の原文では、
③ 誰敬=誰(目的語)+敬(動詞)
③ 誰先=誰(目的語)+先(動詞)
となってゐる。のに対して、
「趙岐」は、彼が書いた「注」に於いて、
③ 敬誰=敬(動詞)+誰(目的語)
③ 先誰=先(動詞)+誰(目的語)
といふ風に、「語順」を、変へてゐる。
然るに、
(19)
正岡子規による、
雲水絶塵緑
懶加弓馬列
斯心可比何
富士千秋雪
に関して、
第三行の「可比何」は、文法的に誤りであって、かく「何」の字が下に来る習慣は、漢文にはない。「何可比」といふべきところを、ついうっかりしたのであろう。
(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、24頁)
従って、
(19)により、
(20)
「目的語」が「疑問代名詞」であるばあいは、2世紀であらうと、20世紀であらうと、「漢文(文言)」である限り、倒置をして「動詞・助動詞」の前に置く。
従って、
(16)~(20)により、
(21)
③ 誰敬=誰をか敬ふ。
に於いて、
③「排他的命題」を主張するために、「前置」といふ「強調形」が、用ゐられる。
といふ「理解」が、得られなくなったとしても、
③ 漢文(文言) であれば、
③ 汝誰敬=汝、誰(目的語)をか敬ふ。
といふ「語順」が「正しく」、
④ 口語(白話) であれば、
④ 汝敬誰=汝、誰(目的語)をか敬ふ。
といふ「語順」が「正しい」。
然るに、
(22)
3.3 wh移動
次に、wh疑問文について考えてみましょう。第8章の(32)で見たように、Who does she loveのWhoは、D構造では、
loveの目的語の位置にあり、S構造では、CPの指定部の位置にあると考えられます〔言語研究入門―生成文法を学ぶ人のために 単行本 – 2002/5大津 由紀雄 (編集), 今西 典子 (編集), 池内 正幸 (編集), 水光 雅則 (編集)、130頁〕。
(17)(21)(22)により、
(23)
チョムスキーを始めとする、「理論言語学者」の方たちは、後漢時代の、趙岐(ちょう き、?[1] - 201年)と同じく、
⑤ Who does she love?
⑥ Does she love who?
であれば、本来は、
⑥ Does she love who?
といふ「語順」の方が「正しい」。といふ風に、思ってゐる。
従って、
(03)(04)(18)(23)により、
(24)
① 心理的な音量差による「強調形」。
② 物理的な音量差による「強調形」。
③ 語順を変へる事による「強調形」。
等が有って、「強調形」は、「排他的命題」を主張する。
といふ風には、趙岐も、チョムスキーも、思ってはゐない。
(25)
「排他的命題」を主張しようとする目的が、「強調」につながり、強調しようとする意識が、「疑問詞(目的語)」の「前置」を「プロモート」する。
といふ風には、趙岐も、チョムスキーも、思ってはゐない。
平成28年12月30日、毛利太。
―「関連記事」―
「強調形」と「疑問詞」と「排他的命題」(12月30日の補足)〔http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_89.html〕。
「強調」とは、「その部分」を「他の部分」よりも、「目立たせる」ことに、他ならない。
(02)
AはBであり(A以外はBでない)。
A以外はBでない(BはAである)。
といふ「命題」を「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
(03)
「強調形」は、「排他的命題」を主張する。
(04)
「強調形」には、
① 心理的な音量差による「強調形」。
② 物理的な音量差による「強調形」。
③ 語順を変へる事による「強調形」。
等が、有る。
然るに、
(05)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(06)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
① あなたは好きです。
ではなく、
① あなたが好きです。
等に於ける、
「~は(清音)・・・・・。」に対する、
「~が(濁音)・・・・・。」は、
① 心理的な音量差による「強調形(排他的命題)」である。
然るに、
(08)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
b.Ton SENT Mary flowers.
c.Tom sent MARY flowers.
d.Tom sent Mary FLOWERS.
”Tom sent Mary flowers.”(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
従って、
(04)(08)により、
(09)
a.TOM sent Mary flowers. 等は、
② 物理的な音量差による「強調形(排他的命題)」である。
然るに、
(10)
動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本構造としての単語の配列のしかたである。また、漢語における介詞は、ほとんど、動詞から発達したものであって、その目的語も、その介詞の後に置かれるのが、通則であるということができる。しかし、古代漢語においては、それらの目的語が疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前におかれている。このように、漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置きすることは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に強調したものにちがいない。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、334・5頁)
従って、
(04)(10)により、
(11)
③ 汝欲誰見。
④ 汝欲見誰。
に於いて、
③ 汝欲誰見。 は、
③ 語順を変へる事による「強調形(排他的命題)」である。
従って、
(12)
③ 汝欲誰見=汝、誰にか会はんと欲す。
と「同様」に、
③ Do you want to see who?
ではない所の、
③ Who do you want to see?
の場合も、
③ 語順を変へる事による「強調形(排他的命題)」である。
と、すべきである。
然るに、
(13)
「漢文」の場合は、「英語」とは異なり、「主語」や「目的語」が、しばしば、「省略」される。
従って、
(12)(13)により、
(14)
③ 汝誰敬=
であれば、
③ 誰敬=誰をか敬ふ。
とすることが、可能である。
然るに、
(15)
③ 誰敬=誰を(目的語)か敬ふ。
に対して、
④ 誰が敬ふ。
の場合も、
④ 誰敬=誰が(主語)か敬ふ。
である。
従って、
(01)(11)(15)により、
(16)
③ 誰敬=誰をか敬ふ。
に於いて、
③「排他的命題」を主張するために、「前置」といふ「強調形」が、用ゐられる。
といふ「理解」が、得られなくなれば、
③ 誰敬=誰を(目的語)か敬ふ。
④ 誰敬=誰が( 主語 )敬ふか。
に於ける、「識別」が「不能」となる。
然るに、
(17)
賓語が疑問代名詞であるばあい、上古漢語では倒置して動詞の前におく。現代語ではこのように倒置せず、動詞の後におくことは言うまでもない。このように倒置しなくなった時期について、筆者は明言を避けておいたのであるが(歴 p.130-131)、以下に中古の用例を補足する(ここ
では介詞も動詞にふくめて述べておく)。
曰、郷人長於伯兄一歳、則誰敬。〔趙注、季子曰、敬誰也〕曰、敬兄。酌則誰先。〔趙注、季子曰、酌酒則先酌誰〕曰、先酌郷人(孟子、告子、上、第5章)
曰く、郷人伯兄より長ずること一歳なれば、すなわち誰をか敬う。酌まばすなわち誰をか先にする。曰く、まず郷人に酌まん。
『孟子』の原文と趙岐の注を比較すると、上古の語序は後漢時代すでに変化して現代語式なっていたことがわかる。すなわち『孟子』では「誰敬」「誰先」と賓語の誰が動詞の前に来ている。
(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁)
cf.
趙岐(ちょう き、?[1] - 201年)は、後漢末の政治家、学者。『孟子』の注釈で知られる(ウィキペディア)。
従って、
(17)により、
(18)
『孟子』の原文では、
③ 誰敬=誰(目的語)+敬(動詞)
③ 誰先=誰(目的語)+先(動詞)
となってゐる。のに対して、
「趙岐」は、彼が書いた「注」に於いて、
③ 敬誰=敬(動詞)+誰(目的語)
③ 先誰=先(動詞)+誰(目的語)
といふ風に、「語順」を、変へてゐる。
然るに、
(19)
正岡子規による、
雲水絶塵緑
懶加弓馬列
斯心可比何
富士千秋雪
に関して、
第三行の「可比何」は、文法的に誤りであって、かく「何」の字が下に来る習慣は、漢文にはない。「何可比」といふべきところを、ついうっかりしたのであろう。
(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、24頁)
従って、
(19)により、
(20)
「目的語」が「疑問代名詞」であるばあいは、2世紀であらうと、20世紀であらうと、「漢文(文言)」である限り、倒置をして「動詞・助動詞」の前に置く。
従って、
(16)~(20)により、
(21)
③ 誰敬=誰をか敬ふ。
に於いて、
③「排他的命題」を主張するために、「前置」といふ「強調形」が、用ゐられる。
といふ「理解」が、得られなくなったとしても、
③ 漢文(文言) であれば、
③ 汝誰敬=汝、誰(目的語)をか敬ふ。
といふ「語順」が「正しく」、
④ 口語(白話) であれば、
④ 汝敬誰=汝、誰(目的語)をか敬ふ。
といふ「語順」が「正しい」。
然るに、
(22)
3.3 wh移動
次に、wh疑問文について考えてみましょう。第8章の(32)で見たように、Who does she loveのWhoは、D構造では、
loveの目的語の位置にあり、S構造では、CPの指定部の位置にあると考えられます〔言語研究入門―生成文法を学ぶ人のために 単行本 – 2002/5大津 由紀雄 (編集), 今西 典子 (編集), 池内 正幸 (編集), 水光 雅則 (編集)、130頁〕。
(17)(21)(22)により、
(23)
チョムスキーを始めとする、「理論言語学者」の方たちは、後漢時代の、趙岐(ちょう き、?[1] - 201年)と同じく、
⑤ Who does she love?
⑥ Does she love who?
であれば、本来は、
⑥ Does she love who?
といふ「語順」の方が「正しい」。といふ風に、思ってゐる。
従って、
(03)(04)(18)(23)により、
(24)
① 心理的な音量差による「強調形」。
② 物理的な音量差による「強調形」。
③ 語順を変へる事による「強調形」。
等が有って、「強調形」は、「排他的命題」を主張する。
といふ風には、趙岐も、チョムスキーも、思ってはゐない。
(25)
「排他的命題」を主張しようとする目的が、「強調」につながり、強調しようとする意識が、「疑問詞(目的語)」の「前置」を「プロモート」する。
といふ風には、趙岐も、チョムスキーも、思ってはゐない。
平成28年12月30日、毛利太。
―「関連記事」―
「強調形」と「疑問詞」と「排他的命題」(12月30日の補足)〔http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_89.html〕。
2016年12月25日日曜日
「リカージョン(Recursion、再帰)」としての「多重否定」。
(01)
最大の論争を巻き起こしたのはピダハン語に全ての言語にあるとされる文法上の法則がないとする主張でした。その法則とはリカージョン。文章を際限なく伸ばしていく法則のことです。例えば「ビルがメアリーに会った。」という文を伸ばすと「ビルがメアリーに会ったとジョンが言った。」文はさらに伸ばことが出来ます。例えば「アービングが家を買ったとピーターが言ったとメアリーが言ったとジョンが言った。」というように、1つの文章を永遠に伸ばしていく文法です。もし文章を伸ばすことが出来ないとしたら、その言語にはリカージョンがないということです。ピダハン語にはリカージョンがないのだと言います。しかし、ノーム・チョムスキーはリカージョンはあらゆる言語に存在するとしています。これはチョムスキーが唱え言語学界の定説となっている理論、普遍文法の最も重要なルールなのです。チョムスキーが唱える普遍文法とは文法は生まれつき人間の遺伝子の中にそなわっているとする理論です。この理論によると人間の言語は表面的な違いに関わらず、全て同じ構造を持っていると言います。普遍文法は言語学界で50年以上に渡って支持されてきました。もし、ダニエルが言うようにピダハン語にリカージョンがないとすれば普遍文法の理論が間違っているということになります(ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民|NHK 地球ドラマチック)。
従って、
(01)により、
(02)
① 地球は温暖化してゐる。と太郎が言った。
② 地球は温暖化してゐる。と太郎が言った。と次郎が言った。
③ 地球は温暖化してゐる。と太郎が言った。と次郎が言った。と三郎が言った。
④ 地球は温暖化してゐる。と太郎が言った。と次郎が言った。と三郎が言った。と四朗が言った。
⑤ 地球は温暖化してゐる。と太郎が言った。と次郎が言った。と三郎が言った。と四朗が言った。と五郎が言った。
は、「recursion(再帰)」である。
然るに、
(03)
① 太郎は、ウソつきである。
② 次郎は、ウソつきである。
③ 三郎は、ウソつきである。
④ 四郎は、ウソつきである。
⑤ 五郎は、ウソつきである。
とする。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 地球が温暖化してゐる。といふことはウソである。
② 地球が温暖化してゐる。といふことはウソである。といふことはウソである。
③ 地球が温暖化してゐる。といふことはウソである。といふことはウソである。といふことはウソである。
④ 地球が温暖化してゐる。といふことはウソである。といふことはウソである。といふことはウソである。といふことはウソである。
⑤ 地球が温暖化してゐる。といふことはウソである。といふことはウソである。といふことはウソである。といふことはウソである。といふことはウソである。
cf.
① 地球は の「は」は「係助詞」。
① 地球が の「が」は「格助詞」。
従って、
(04)により、
(05)
① 地球が温暖化してゐる。といふことはない。
② 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。
③ 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。といふことはない。
④ 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。といふことはない。といふことはない。
⑤ 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。といふことはない。といふことはない。といふことはない。
従って、
(05)により、
(06)
① 地球は温暖化してゐない。
② 地球は温暖化してゐる。
③ 地球は温暖化してゐない。
④ 地球は温暖化してゐる。
④ 地球は温暖化してゐない。
然るに、
(07)
P = 地球は温暖化してゐる。
( )= といふことは
~ = ない
とする。
従って、
(05)(07)により、
(08)
① 地球が温暖化してゐる。といふことはない。
② 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。
③ 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。といふことはない。
④ 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。といふことはない。といふことはない。
⑤ 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。といふことはない。といふことはない。といふことはない。
といふ「語順(日本語)」は、「命題論理」として、
① (P)~
② ((P)~)~
③ (((P)~)~)~
④ ((((P)~)~)~)~
⑤ (((((P)~)~)~)~)~
といふ風に、書くことが出来る。
(09)
① 太郎 said that the earth is getting warmer every year.
② 次郎 said that 太郎 said that the earth is getting warmer every year.
③ 三郎 said that 次郎 said that 太郎 said that the earth is getting warmer every year.
④ 四朗 said that 三郎 said that 次郎 said that 太郎 said that the earth is getting warmer every year.
⑤ 五郎 said that 四朗 said that 三郎 said that 次郎 said that 太郎 said that the earth is getting warmer every year.
然るに、
(10)
① 太郎 is a liar.
② 次郎 is a liar.
③ 三郎 is a liar.
④ 四郎 is a liar.
⑤ 五郎 is a liar.
であるとする。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① It is a lie that the earth is getting warmer every year.
② It is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
③ It is a lie that it is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
④ It is a lie that it is a lie that it is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
⑤ It is a lie that it is a lie that it is a lie that it is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
然るに、
(12)
~ = it is a lie
( )= that
P = the earth is getting warmer every year.
とする。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① ~(P)
② ~(~(P))
③ ~(~(~(P)))
④ ~(~(~(~(P))))
⑤ ~(~(~(~(~(P)))))
である。
従って、
(11)(13)により、
(14)
① It is a lie that the earth is getting warmer every year.
② It is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
③ It is a lie that it is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
④ It is a lie that it is a lie that it is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
⑤ It is a lie that it is a lie that it is a lie that it is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
といふ「語順(英語)」は、「命題論理」として、
① ~(P)
② ~(~(P))
③ ~(~(~(P)))
④ ~(~(~(~(P))))
⑤ ~(~(~(~(~(P)))))
といふ風に、書くことが出来る。
然るに、
(15)
⑤ 地球は年々暖かくなって来ている。と太郎が言った。と次郎が言った。と三郎が言った。と四朗が言った。と五郎が言った。
と言ふことが、「事実」であると、「仮定」すると、
① 太郎
② 次郎
③ 三郎
④ 四朗
⑤ 五郎
の「順番」で「さう言った。」といふ、ことになる。
(16)
⑤ 五郎 said that 四朗 said that 三郎 said that 次郎 said that 太郎 said that the earth is getting warmer every year.
といふ「英語」の場合も、「事実」であると、「仮定」すれば、
① 太郎
② 次郎
③ 三郎
④ 四朗
⑤ 五郎
の「順番」で「さう言った。」といふ、ことになる。
従って、
(15)(16)により、
(17)
⑤ 五郎 said that 四朗 said that 三郎 said that 次郎 said that 太郎 said that the earth is getting warmer every year.
に於ける、
⑤ 五郎 ⇒ 四朗 ⇒ 三郎 ⇒ 次郎 ⇒ 太郎
といふ「順番」は、「実際の順番」と、「逆」になってゐる。
然るに、
(18)
テーブルの上に在る「コイン」を、「二回裏返す」場合は、「一度裏返した」上で、「もう一度裏返す」以外に「方法」はない。
然るに、
(19)
(表)~ =表の反対=裏
((表)~)~=表の反対の反対=表
であって、
(真)~ =真の反対=偽
((真)~)~=真の反対の反対=真
である。
従って、
(18)(19)により、
(20)
「否定」に対しては、「裏返す」といふ「アナロジー」が、成立し、それ故、
① P =The earth is getting warmer every year.
といふ「命題」を「否定」した「後」でなければ、
② ~(P)=The earth is not getting warmer every year.
といふ「命題」を「否定」することは、出来ない。
従って、
(10)(14)(17)(20)により、
(21)
① ~(P)
② ~(~(P))
③ ~(~(~(P)))
④ ~(~(~(~(P))))
⑤ ~(~(~(~(~(P)))))
といふ「論理式」は、(右から左へ、読まなければ、ならない)。
従って、
(21)により、
(22)
必ず、(左から右へ、読まなければ、ならない)のであれば、
① ~(P)
② ~(~(P))
③ ~(~(~(P)))
④ ~(~(~(~(P))))
⑤ ~(~(~(~(~(P)))))
といふ「論理式」は、
① (P)~
② ((P)~)~
③ (((P)~)~)~
④ ((((P)~)~)~)~
⑤ (((((P)~)~)~)~)~
といふ「語順」に、「書き換へ」なければ、ならない。
平成28年12月25日、毛利太。
最大の論争を巻き起こしたのはピダハン語に全ての言語にあるとされる文法上の法則がないとする主張でした。その法則とはリカージョン。文章を際限なく伸ばしていく法則のことです。例えば「ビルがメアリーに会った。」という文を伸ばすと「ビルがメアリーに会ったとジョンが言った。」文はさらに伸ばことが出来ます。例えば「アービングが家を買ったとピーターが言ったとメアリーが言ったとジョンが言った。」というように、1つの文章を永遠に伸ばしていく文法です。もし文章を伸ばすことが出来ないとしたら、その言語にはリカージョンがないということです。ピダハン語にはリカージョンがないのだと言います。しかし、ノーム・チョムスキーはリカージョンはあらゆる言語に存在するとしています。これはチョムスキーが唱え言語学界の定説となっている理論、普遍文法の最も重要なルールなのです。チョムスキーが唱える普遍文法とは文法は生まれつき人間の遺伝子の中にそなわっているとする理論です。この理論によると人間の言語は表面的な違いに関わらず、全て同じ構造を持っていると言います。普遍文法は言語学界で50年以上に渡って支持されてきました。もし、ダニエルが言うようにピダハン語にリカージョンがないとすれば普遍文法の理論が間違っているということになります(ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民|NHK 地球ドラマチック)。
従って、
(01)により、
(02)
① 地球は温暖化してゐる。と太郎が言った。
② 地球は温暖化してゐる。と太郎が言った。と次郎が言った。
③ 地球は温暖化してゐる。と太郎が言った。と次郎が言った。と三郎が言った。
④ 地球は温暖化してゐる。と太郎が言った。と次郎が言った。と三郎が言った。と四朗が言った。
⑤ 地球は温暖化してゐる。と太郎が言った。と次郎が言った。と三郎が言った。と四朗が言った。と五郎が言った。
は、「recursion(再帰)」である。
然るに、
(03)
① 太郎は、ウソつきである。
② 次郎は、ウソつきである。
③ 三郎は、ウソつきである。
④ 四郎は、ウソつきである。
⑤ 五郎は、ウソつきである。
とする。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 地球が温暖化してゐる。といふことはウソである。
② 地球が温暖化してゐる。といふことはウソである。といふことはウソである。
③ 地球が温暖化してゐる。といふことはウソである。といふことはウソである。といふことはウソである。
④ 地球が温暖化してゐる。といふことはウソである。といふことはウソである。といふことはウソである。といふことはウソである。
⑤ 地球が温暖化してゐる。といふことはウソである。といふことはウソである。といふことはウソである。といふことはウソである。といふことはウソである。
cf.
① 地球は の「は」は「係助詞」。
① 地球が の「が」は「格助詞」。
従って、
(04)により、
(05)
① 地球が温暖化してゐる。といふことはない。
② 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。
③ 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。といふことはない。
④ 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。といふことはない。といふことはない。
⑤ 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。といふことはない。といふことはない。といふことはない。
従って、
(05)により、
(06)
① 地球は温暖化してゐない。
② 地球は温暖化してゐる。
③ 地球は温暖化してゐない。
④ 地球は温暖化してゐる。
④ 地球は温暖化してゐない。
然るに、
(07)
P = 地球は温暖化してゐる。
( )= といふことは
~ = ない
とする。
従って、
(05)(07)により、
(08)
① 地球が温暖化してゐる。といふことはない。
② 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。
③ 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。といふことはない。
④ 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。といふことはない。といふことはない。
⑤ 地球が温暖化してゐる。といふことはない。といふことはない。といふことはない。といふことはない。といふことはない。
といふ「語順(日本語)」は、「命題論理」として、
① (P)~
② ((P)~)~
③ (((P)~)~)~
④ ((((P)~)~)~)~
⑤ (((((P)~)~)~)~)~
といふ風に、書くことが出来る。
(09)
① 太郎 said that the earth is getting warmer every year.
② 次郎 said that 太郎 said that the earth is getting warmer every year.
③ 三郎 said that 次郎 said that 太郎 said that the earth is getting warmer every year.
④ 四朗 said that 三郎 said that 次郎 said that 太郎 said that the earth is getting warmer every year.
⑤ 五郎 said that 四朗 said that 三郎 said that 次郎 said that 太郎 said that the earth is getting warmer every year.
然るに、
(10)
① 太郎 is a liar.
② 次郎 is a liar.
③ 三郎 is a liar.
④ 四郎 is a liar.
⑤ 五郎 is a liar.
であるとする。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① It is a lie that the earth is getting warmer every year.
② It is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
③ It is a lie that it is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
④ It is a lie that it is a lie that it is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
⑤ It is a lie that it is a lie that it is a lie that it is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
然るに、
(12)
~ = it is a lie
( )= that
P = the earth is getting warmer every year.
とする。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① ~(P)
② ~(~(P))
③ ~(~(~(P)))
④ ~(~(~(~(P))))
⑤ ~(~(~(~(~(P)))))
である。
従って、
(11)(13)により、
(14)
① It is a lie that the earth is getting warmer every year.
② It is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
③ It is a lie that it is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
④ It is a lie that it is a lie that it is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
⑤ It is a lie that it is a lie that it is a lie that it is a lie that it is a lie that the earth is getting warmer every year.
といふ「語順(英語)」は、「命題論理」として、
① ~(P)
② ~(~(P))
③ ~(~(~(P)))
④ ~(~(~(~(P))))
⑤ ~(~(~(~(~(P)))))
といふ風に、書くことが出来る。
然るに、
(15)
⑤ 地球は年々暖かくなって来ている。と太郎が言った。と次郎が言った。と三郎が言った。と四朗が言った。と五郎が言った。
と言ふことが、「事実」であると、「仮定」すると、
① 太郎
② 次郎
③ 三郎
④ 四朗
⑤ 五郎
の「順番」で「さう言った。」といふ、ことになる。
(16)
⑤ 五郎 said that 四朗 said that 三郎 said that 次郎 said that 太郎 said that the earth is getting warmer every year.
といふ「英語」の場合も、「事実」であると、「仮定」すれば、
① 太郎
② 次郎
③ 三郎
④ 四朗
⑤ 五郎
の「順番」で「さう言った。」といふ、ことになる。
従って、
(15)(16)により、
(17)
⑤ 五郎 said that 四朗 said that 三郎 said that 次郎 said that 太郎 said that the earth is getting warmer every year.
に於ける、
⑤ 五郎 ⇒ 四朗 ⇒ 三郎 ⇒ 次郎 ⇒ 太郎
といふ「順番」は、「実際の順番」と、「逆」になってゐる。
然るに、
(18)
テーブルの上に在る「コイン」を、「二回裏返す」場合は、「一度裏返した」上で、「もう一度裏返す」以外に「方法」はない。
然るに、
(19)
(表)~ =表の反対=裏
((表)~)~=表の反対の反対=表
であって、
(真)~ =真の反対=偽
((真)~)~=真の反対の反対=真
である。
従って、
(18)(19)により、
(20)
「否定」に対しては、「裏返す」といふ「アナロジー」が、成立し、それ故、
① P =The earth is getting warmer every year.
といふ「命題」を「否定」した「後」でなければ、
② ~(P)=The earth is not getting warmer every year.
といふ「命題」を「否定」することは、出来ない。
従って、
(10)(14)(17)(20)により、
(21)
① ~(P)
② ~(~(P))
③ ~(~(~(P)))
④ ~(~(~(~(P))))
⑤ ~(~(~(~(~(P)))))
といふ「論理式」は、(右から左へ、読まなければ、ならない)。
従って、
(21)により、
(22)
必ず、(左から右へ、読まなければ、ならない)のであれば、
① ~(P)
② ~(~(P))
③ ~(~(~(P)))
④ ~(~(~(~(P))))
⑤ ~(~(~(~(~(P)))))
といふ「論理式」は、
① (P)~
② ((P)~)~
③ (((P)~)~)~
④ ((((P)~)~)~)~
⑤ (((((P)~)~)~)~)~
といふ「語順」に、「書き換へ」なければ、ならない。
平成28年12月25日、毛利太。
2016年12月24日土曜日
「といふことは」としての「括弧」。
(01)
① Pではなく、尚且つ、Qでもない。
② Pであるか、または、Qである。といふことはない。
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、「日本語」として「正しい」。
然るに、
(02)
P = Pである
Q = Qである
~ = ない = 不
& = 尚且つ
∨ = または
( )= といふことは
とする。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① P~&Q~ =Pではなく、尚且つ、Qでもない。
②(P∨Q)~=Pであるか、または、Qである。といふことはない。
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、「日本語」として「正しい」。
然るに、
(04)
① ~P&~Q
② ~(P∨Q)
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、「論理学」として「正しい」。
然るに、
(05)
① ~P&~Q
といふ「論理式」は、
①(Pではなく、尚且つ、Qでもない。)ならば、その時に限って、「正しい」。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① ~P&~Q =P~&Q~ =Pではなく、尚且つ、Qでもない。
② ~(P∨Q)=(P∨Q)~=Pであるか、または、Qである。といふことはない。
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、「論理学・日本語」として「正しい」。
然るに、
(07)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、Elementary Logic、1972年、15頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ~P=P~
であれば、
① ~(P)=(P)~
と書くのが、「正しい」。
従って、
(08)により、
(09)
① ~~P=P~~
であれば、
① ~(~(P))=((P)~)~
と書くのが、「正しい」。
従って、
(02)(09)により、
(10)
① ~~P=
① ((P)~)~=
① Pである。といふことはない。といふことはない。
といふ、ことになる。
cf.
① Pである。はウソである。はウソである。ならば、
① Pである。は本当である。ならば、Pである。
然るに、
(11)
③ 不レ読二英文一=
③ 英文を読まない。
は、「漢文・訓読」として、「正しい」。
然るに、
(12)
③ 英文を読まない。
といふことは、
③ 英文を読む。といふことはない。
といふことに、他ならない。
従って、
(02)(08)(11)(12)により、
(13)
③ 不読英文=
③ 不(読英文)=
③ (英文を読ま)ない=
③ 英文を読む。といふことはない。
然るに、
(14)
③ 読英文=英文を読む。
に於いて、
③ 他動詞(ρημα)である所の、
③ 読 の「意味」は、(英文)に及んでゐる。
従って、
(14)により、
(15)
③ 読英文=
③ 読(英文)。
とすることに、「不都合」はない。
従って、
(13)(15)により、
(16)
③ 不読英文=
③ 不〔読(英文)〕⇒
③ 〔(英文)読〕不=
③ 英文を読む。といふことはない。
然るに、
(17)
「漢文」の「主語」は、「文頭」にあり、
「国語」の「主語」も、「文頭」にある。
従って、
(15)(16)(17)により、
(18)
④ 私不読英文=
④ 私不〔読(英文)〕⇒
④ 私〔(英文)読〕不=
④ 私が英文を読む。といふことはない。
従って、
(18)により、
(19)
④ 私不読英文=
④ 私不〔読(英文)〕。
に於いて、
不〔 〕⇒〔 〕不
読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふことにより、
④ 私不読英文=
④ 私不〔読(英文)〕=
④ 私は〔(英文を)読ま〕ない=
④ 私が英文を読む。といふことはない。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(20)
④ 私が英文を読むといふこと=
④ 私が(格助詞)英文を読むといふ(連体形)こと(体言)
であるため、
④ 私が(格助詞)英文を読むといふ(連体形)
が、「全体」として、
④ こと(体言)
に、「連体修飾」をしてゐる。
従って、
(19)(20)により、
(20)
④ 私が英文を読む。といふことはない。
に於いて、
④ 私が の「意味」は、
④ こと に「届いてゐる」。
(21)
④ 私不〔読(英文)〕。
に於いて、
④ 私 の「意味」は、
④ 不 を「介して」、
④ 〔読(英文)〕 に「及んでゐる」。
平成28年12月24日、毛利太。
① Pではなく、尚且つ、Qでもない。
② Pであるか、または、Qである。といふことはない。
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、「日本語」として「正しい」。
然るに、
(02)
P = Pである
Q = Qである
~ = ない = 不
& = 尚且つ
∨ = または
( )= といふことは
とする。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① P~&Q~ =Pではなく、尚且つ、Qでもない。
②(P∨Q)~=Pであるか、または、Qである。といふことはない。
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、「日本語」として「正しい」。
然るに、
(04)
① ~P&~Q
② ~(P∨Q)
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、「論理学」として「正しい」。
然るに、
(05)
① ~P&~Q
といふ「論理式」は、
①(Pではなく、尚且つ、Qでもない。)ならば、その時に限って、「正しい」。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① ~P&~Q =P~&Q~ =Pではなく、尚且つ、Qでもない。
② ~(P∨Q)=(P∨Q)~=Pであるか、または、Qである。といふことはない。
に於いて、
①=②
といふ「等式」は、「論理学・日本語」として「正しい」。
然るに、
(07)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、Elementary Logic、1972年、15頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ~P=P~
であれば、
① ~(P)=(P)~
と書くのが、「正しい」。
従って、
(08)により、
(09)
① ~~P=P~~
であれば、
① ~(~(P))=((P)~)~
と書くのが、「正しい」。
従って、
(02)(09)により、
(10)
① ~~P=
① ((P)~)~=
① Pである。といふことはない。といふことはない。
といふ、ことになる。
cf.
① Pである。はウソである。はウソである。ならば、
① Pである。は本当である。ならば、Pである。
然るに、
(11)
③ 不レ読二英文一=
③ 英文を読まない。
は、「漢文・訓読」として、「正しい」。
然るに、
(12)
③ 英文を読まない。
といふことは、
③ 英文を読む。といふことはない。
といふことに、他ならない。
従って、
(02)(08)(11)(12)により、
(13)
③ 不読英文=
③ 不(読英文)=
③ (英文を読ま)ない=
③ 英文を読む。といふことはない。
然るに、
(14)
③ 読英文=英文を読む。
に於いて、
③ 他動詞(ρημα)である所の、
③ 読 の「意味」は、(英文)に及んでゐる。
従って、
(14)により、
(15)
③ 読英文=
③ 読(英文)。
とすることに、「不都合」はない。
従って、
(13)(15)により、
(16)
③ 不読英文=
③ 不〔読(英文)〕⇒
③ 〔(英文)読〕不=
③ 英文を読む。といふことはない。
然るに、
(17)
「漢文」の「主語」は、「文頭」にあり、
「国語」の「主語」も、「文頭」にある。
従って、
(15)(16)(17)により、
(18)
④ 私不読英文=
④ 私不〔読(英文)〕⇒
④ 私〔(英文)読〕不=
④ 私が英文を読む。といふことはない。
従って、
(18)により、
(19)
④ 私不読英文=
④ 私不〔読(英文)〕。
に於いて、
不〔 〕⇒〔 〕不
読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふことにより、
④ 私不読英文=
④ 私不〔読(英文)〕=
④ 私は〔(英文を)読ま〕ない=
④ 私が英文を読む。といふことはない。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(20)
④ 私が英文を読むといふこと=
④ 私が(格助詞)英文を読むといふ(連体形)こと(体言)
であるため、
④ 私が(格助詞)英文を読むといふ(連体形)
が、「全体」として、
④ こと(体言)
に、「連体修飾」をしてゐる。
従って、
(19)(20)により、
(20)
④ 私が英文を読む。といふことはない。
に於いて、
④ 私が の「意味」は、
④ こと に「届いてゐる」。
(21)
④ 私不〔読(英文)〕。
に於いて、
④ 私 の「意味」は、
④ 不 を「介して」、
④ 〔読(英文)〕 に「及んでゐる」。
平成28年12月24日、毛利太。
2016年12月23日金曜日
「漢文のWH移動」と「中国語の非WH移動」と「強調」と「排他的命題」。
(01)
動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本的構造としての単語の配列のしかたである。
(鈴木直治、中国語漢文、1975年、334頁)
(02)
しかし、古代漢語においては、それらの目的語が、疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前に置かれる。
(鈴木直治、中国語漢文、1975年、334頁)
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 汝 誰 愛=S+O+V
② 汝 愛 我=S+V+O
といふ「古代漢語の語順」は、「現代英語」であれば、
① You who love=S+O+V
② You love me =S+V+O
といふ、「語順」に相当する。
然るに、
(04)
賓語(目的語)が疑問代名詞であるばあい、上古漢語では倒置して動詞の前におく。現代語ではこのように倒置せず、動詞の後におくことは言うまでもない。
(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁改)
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 汝 誰 愛=S+O+V
② 你 愛 誰=S+V+O
に於いて、
① は、「古代漢語の語順」であって、
② は、「現代漢語の語順」である。
然るに、
(06)
然るに、
(7)你 看見 了 谁?
Nǐ kàn jiàn le shuí?
あなた 見る 相 誰
「あなたは誰を見たのですか?」
(Huang 1982 から)
この文では、疑問詞「谁 shuí」は直接目的語の通常の位置に残っている。英語と違い、疑問詞は文頭の位置に動く必要がない。このような事実から、なぜ言語によって疑問詞の現れる位置がことなるのか、という興味深い疑問が出てくる。
(言語類型論入門―言語の普遍性と多様性 2006/10/18リンゼイ・J. ウェイリー、 Lindsay J. Whaley、33頁)
従って、
(07)
① 汝 誰 愛。
② 你 愛 誰?
③ Who do you love?
といふ「古代漢語と、現代漢語と、現代英語」に於いて、何故、「疑問詞の現れる位置」が異なるのか、という興味深い疑問が出てくる。
cf.
語順が比較的固定している。
疑問詞を前に移動する(wh-移動、ただし中国語は当てはまらない)。
英:What is this? 〔ウィキペディア:SVO〕
(08)
① 汝 誰 愛レ =汝、誰をか愛す。
② 誰 愛レ汝 =誰か汝を愛せん。
③ 誰 愛レ汝 者=誰か汝を愛する者ぞ。
に於いて、
① 誰=目的語
② 誰=主語
③ 誰=主語
である。
然るに、
(09)
「三省堂、新明漢和辞典、第四版、1095頁」によると、
② 誰 愛レ汝 =誰か汝を愛せん。
③ 誰 愛レ汝 者=誰か汝を愛する者ぞ。
に於いて、
② は、多くは、「反語」であって、
② 誰 愛レ汝 =誰か汝を愛せん(Nobody loves you)。
といふ「意味」であり、
③ は、「他意」はなく、普通に、
③ 誰 愛レ汝 者=誰か汝を愛する者ぞ(Who loves you)。
といふ「意味」である。
然るに、
(10)
「三省堂、新明漢和辞典、第四版、1095頁」によると、
② 誰 愛レ汝 =誰か汝を愛せん。
③ 誰 愛レ汝 者=誰か汝を愛する者ぞ。
④ 愛レ汝 誰 =汝を愛する は誰ぞ。
に於いて、
④ の場合は、
また「誰」を述語として文末に用い、〈・・・・・たぞ〉〈・・・・・たれぞ〉と読んで、「・・・・・するのは誰か」の意になる。ただしこの語法は単純な疑問ではなく、自問自答する場合に用いたり、詰問の調子を帯びたりして、やや語調が切迫し、その点、右の「誰・・・・・者」が特に他意なく尋ねるのとは異なる。
との、ことである。
cf.
④ 愛レ汝 誰。
④ Loves you who?
然るに、
(11)
漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置することは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に強調したものにちがいない。
(鈴木直治、中国語と漢文、334・335頁)
(12)
この後置による強調にも上古的な特異な語順によっているものと、いうべきものである。しかし、前述の前置による強調は、漢語における語順としては、いずれも、異常な上古的なものであるのに対して、この後置による強調のものは、その多くは、漢語における語順として、異常のものということができない。
(鈴木直治、中国語と漢文、345頁)
従って、
(08)~(12)により、
(13)
① 汝 誰 愛レ =汝、誰をか愛す。
② 誰 愛レ汝 =誰か汝を愛せん。
③ 誰 愛レ汝 者=誰か汝を愛する者ぞ。
④ 愛レ汝 誰 =汝を愛する は誰ぞ。
に於いて、
① は、「目的語(object)の前置」による「強調形」であって、
② に対する、
④ は、「主語 (subject)の後置」による「強調形」である。
然るに、
(14)
② 誰 愛レ汝=誰か汝を愛せん。
④ 愛レ汝 誰=汝を愛するは誰ぞ。
に於いて、その「答へ」が、
② 我は汝を愛す。
④ 汝を愛するは我なり。
であるならば、「論理的」に、
④ 私はあなたを愛し(、私以外は、あなたを愛さない)。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(15)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
b.Ton SENT Mary flowers.
c.Tom sent MARY flowers.
d.Tom sent Mary FLOWERS.
”Tom sent Mary flowers.”(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
然るに、
(16)
⑤ 他の誰でもないトムがメアリーに花を送った。
といふのであれば、
⑤ トムはメアリーに花を送ったが(、トム以外はメアリーに花を送っていない)。
といふ、ことになる。
然るに、
(17)
④ 私はあなたを愛し、私以外は、あなたを愛さない。
⑤ トムはメアリーに花を送ったが、トム以外はメアリーに花を送っていない。
のやうな「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(13)~(17)により、
(18)
④ 愛レ汝 誰 =汝を愛するは誰ぞ。
⑤ TOM sent Mary flowers.
に於いて、
④ は、「主語 (subject)の後置」による「強調形」であって、尚且つ、「排他的命題」である。
⑤ は、「強調して、発音すること」による「強調形」であって、尚且つ、「排他的命題」である。
然るに、
(11)(13)により、
(19)
⑥ 何 先=何をか先にせん。
⑦ 先レ兵=兵 を先にせん。
に於いて、
⑥ は、「目的語(object)の前置」による「強調形」である。
然るに、
(20)
子貢問政。子曰、足食足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去、於斯三者何先。曰、去兵=
子貢問(政)。子曰、足(食)足(兵)、民信(之)矣。子貢曰、必不〔得(已)〕而去、於(斯三者)何先。曰、去(兵)⇒
子貢(政を)問ふ。子曰はく、(食を)足し(兵を)足し、民(之を)信ぜしむ。子貢曰はく、必ず〔(已むを)得〕不し而去らば、(斯の三者に)於いて何をか先にせん。曰く、(兵を)去らん。
(21)
子貢が政治のことをおたずねした。先生はいわれた、「食糧を十分にし軍備を十分にして、人民には信を持たせることだ。」子貢が「どうしてもやむををえずに捨てるなら、この三つの中でどれを先にしますか。」というと、先生は「軍備を捨てる。」といわれた。
(金谷治・訳注、論語、1963年、230頁)
然るに、
(22)
⑥「この三つの中でどれを先に捨てますか。」といふ「質問」に対して、
⑥ 食は捨てない。
⑥ 兵は捨てる。
⑥ 信は捨てない。
といふことは、
⑥ 兵は捨てるが(兵以外は捨てない)。
といふことに、他ならない。
従って、
(13)(18)(22)により、
(23)
④ 愛レ汝 誰 =汝を愛するは誰ぞ。
⑤ TOM sent Mary flowers.
⑥ 子 何 先=子は、何をか先にせん。
に於いて、
④ は、「主語 (subject)の後置」による「強調形」であって、尚且つ、「排他的命題」である。
⑤ は、「強調して、発音すること」による「強調形」であって、尚且つ、「排他的命題」である。
⑥ は、「目的語(object)の前置」による「強調形」であって、尚且つ、「排他的命題」である。
従って、
(24)
① 汝 誰 愛=S+O+V
といふ、
①「古代漢語の語順」に関しては、
①「排他的命題」を「主張」することを「目的」とした、「目的語の前置」による「強調形」である。
といふ風に、「説明」出来る。
然るに、
(25)
抽象的なレベルでは、英語も中国も同じ語順をもっている。その順序は全ての言語にあてはまる原理から導かれる。しかし英語と中国語は、動詞の一致(Arg)というパラメータが異なっている。英語はテンスが現在の時に一致標識 ‐s が現れることからわかる通り、+Argである(I run vs. He runs)。一方、中国語は-Argである。中国語は動詞の一致を全く示さない。これまでの研究でなされた主張によれば、このパラメータの変異が疑問詞の文頭への配置を義務的に行うか否かを決定する要因である。英語のような+Agr言語は文頭への配置が要求され、-Agr言語では言語では要求されないといふわけだ(Huang 1982)。
(言語類型論入門―言語の普遍性と多様性 2006/10/18リンゼイ・J. ウェイリー、 Lindsay J. Whaley、33頁)
然るに、
(26)
① 汝 誰 愛(古代漢語)。
② 你 愛レ誰(現代漢語)。
に関しては、「動詞の一致(Arg)というパラメータの変異」が無いにも拘らず、「疑問詞の位置」が、一致しない。
従って、
(27)
「動詞の一致(Arg)というパラメータの変異」なるものが、「疑問詞の位置」を「決定」するとは、思へない。
平成28年12月23日、毛利太。
―「関連記事」―
「Wh疑問文」は「括弧」を用ゐて、「訓読」出来ない(http://kannbunn.blogspot.com/2016/10/blog-post_7.html)。
「が」と「は」と「強調」と「排他的命題」と「WH移動(前置)」(平成28年10月25日)(http://kannbunn.blogspot.com/2016/10/blog-post_25.html)。
動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本的構造としての単語の配列のしかたである。
(鈴木直治、中国語漢文、1975年、334頁)
(02)
しかし、古代漢語においては、それらの目的語が、疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前に置かれる。
(鈴木直治、中国語漢文、1975年、334頁)
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 汝 誰 愛=S+O+V
② 汝 愛 我=S+V+O
といふ「古代漢語の語順」は、「現代英語」であれば、
① You who love=S+O+V
② You love me =S+V+O
といふ、「語順」に相当する。
然るに、
(04)
賓語(目的語)が疑問代名詞であるばあい、上古漢語では倒置して動詞の前におく。現代語ではこのように倒置せず、動詞の後におくことは言うまでもない。
(太田辰夫、中国語通史考、1988年、28頁改)
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 汝 誰 愛=S+O+V
② 你 愛 誰=S+V+O
に於いて、
① は、「古代漢語の語順」であって、
② は、「現代漢語の語順」である。
然るに、
(06)
然るに、
(7)你 看見 了 谁?
Nǐ kàn jiàn le shuí?
あなた 見る 相 誰
「あなたは誰を見たのですか?」
(Huang 1982 から)
この文では、疑問詞「谁 shuí」は直接目的語の通常の位置に残っている。英語と違い、疑問詞は文頭の位置に動く必要がない。このような事実から、なぜ言語によって疑問詞の現れる位置がことなるのか、という興味深い疑問が出てくる。
(言語類型論入門―言語の普遍性と多様性 2006/10/18リンゼイ・J. ウェイリー、 Lindsay J. Whaley、33頁)
従って、
(07)
① 汝 誰 愛。
② 你 愛 誰?
③ Who do you love?
といふ「古代漢語と、現代漢語と、現代英語」に於いて、何故、「疑問詞の現れる位置」が異なるのか、という興味深い疑問が出てくる。
cf.
語順が比較的固定している。
疑問詞を前に移動する(wh-移動、ただし中国語は当てはまらない)。
英:What is this? 〔ウィキペディア:SVO〕
(08)
① 汝 誰 愛レ =汝、誰をか愛す。
② 誰 愛レ汝 =誰か汝を愛せん。
③ 誰 愛レ汝 者=誰か汝を愛する者ぞ。
に於いて、
① 誰=目的語
② 誰=主語
③ 誰=主語
である。
然るに、
(09)
「三省堂、新明漢和辞典、第四版、1095頁」によると、
② 誰 愛レ汝 =誰か汝を愛せん。
③ 誰 愛レ汝 者=誰か汝を愛する者ぞ。
に於いて、
② は、多くは、「反語」であって、
② 誰 愛レ汝 =誰か汝を愛せん(Nobody loves you)。
といふ「意味」であり、
③ は、「他意」はなく、普通に、
③ 誰 愛レ汝 者=誰か汝を愛する者ぞ(Who loves you)。
といふ「意味」である。
然るに、
(10)
「三省堂、新明漢和辞典、第四版、1095頁」によると、
② 誰 愛レ汝 =誰か汝を愛せん。
③ 誰 愛レ汝 者=誰か汝を愛する者ぞ。
④ 愛レ汝 誰 =汝を愛する は誰ぞ。
に於いて、
④ の場合は、
また「誰」を述語として文末に用い、〈・・・・・たぞ〉〈・・・・・たれぞ〉と読んで、「・・・・・するのは誰か」の意になる。ただしこの語法は単純な疑問ではなく、自問自答する場合に用いたり、詰問の調子を帯びたりして、やや語調が切迫し、その点、右の「誰・・・・・者」が特に他意なく尋ねるのとは異なる。
との、ことである。
cf.
④ 愛レ汝 誰。
④ Loves you who?
然るに、
(11)
漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置することは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に強調したものにちがいない。
(鈴木直治、中国語と漢文、334・335頁)
(12)
この後置による強調にも上古的な特異な語順によっているものと、いうべきものである。しかし、前述の前置による強調は、漢語における語順としては、いずれも、異常な上古的なものであるのに対して、この後置による強調のものは、その多くは、漢語における語順として、異常のものということができない。
(鈴木直治、中国語と漢文、345頁)
従って、
(08)~(12)により、
(13)
① 汝 誰 愛レ =汝、誰をか愛す。
② 誰 愛レ汝 =誰か汝を愛せん。
③ 誰 愛レ汝 者=誰か汝を愛する者ぞ。
④ 愛レ汝 誰 =汝を愛する は誰ぞ。
に於いて、
① は、「目的語(object)の前置」による「強調形」であって、
② に対する、
④ は、「主語 (subject)の後置」による「強調形」である。
然るに、
(14)
② 誰 愛レ汝=誰か汝を愛せん。
④ 愛レ汝 誰=汝を愛するは誰ぞ。
に於いて、その「答へ」が、
② 我は汝を愛す。
④ 汝を愛するは我なり。
であるならば、「論理的」に、
④ 私はあなたを愛し(、私以外は、あなたを愛さない)。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(15)
〔63〕a.TOM sent Mary flowers.
b.Ton SENT Mary flowers.
c.Tom sent MARY flowers.
d.Tom sent Mary FLOWERS.
”Tom sent Mary flowers.”(トムはメアリーに花を送った)という文は、四つの単語からできていますが、どの単語を強調して発音するかによって少しずつ意味が違ってきます。
〔63〕では、強調して発音される単語は全部大文字で示してあります。
Tom を強調して発音すれば、「他の誰でもないトムがメアリーに花を送った」という意味になります。つまり、主語として、「トム」という人間が他の人間と対比されているということです。
(町田健、チョムスキー入門、2006年、150頁)
然るに、
(16)
⑤ 他の誰でもないトムがメアリーに花を送った。
といふのであれば、
⑤ トムはメアリーに花を送ったが(、トム以外はメアリーに花を送っていない)。
といふ、ことになる。
然るに、
(17)
④ 私はあなたを愛し、私以外は、あなたを愛さない。
⑤ トムはメアリーに花を送ったが、トム以外はメアリーに花を送っていない。
のやうな「命題」を、「排他的命題(exclusive proposition)」と言ふ。
従って、
(13)~(17)により、
(18)
④ 愛レ汝 誰 =汝を愛するは誰ぞ。
⑤ TOM sent Mary flowers.
に於いて、
④ は、「主語 (subject)の後置」による「強調形」であって、尚且つ、「排他的命題」である。
⑤ は、「強調して、発音すること」による「強調形」であって、尚且つ、「排他的命題」である。
然るに、
(11)(13)により、
(19)
⑥ 何 先=何をか先にせん。
⑦ 先レ兵=兵 を先にせん。
に於いて、
⑥ は、「目的語(object)の前置」による「強調形」である。
然るに、
(20)
子貢問政。子曰、足食足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去、於斯三者何先。曰、去兵=
子貢問(政)。子曰、足(食)足(兵)、民信(之)矣。子貢曰、必不〔得(已)〕而去、於(斯三者)何先。曰、去(兵)⇒
子貢(政を)問ふ。子曰はく、(食を)足し(兵を)足し、民(之を)信ぜしむ。子貢曰はく、必ず〔(已むを)得〕不し而去らば、(斯の三者に)於いて何をか先にせん。曰く、(兵を)去らん。
(21)
子貢が政治のことをおたずねした。先生はいわれた、「食糧を十分にし軍備を十分にして、人民には信を持たせることだ。」子貢が「どうしてもやむををえずに捨てるなら、この三つの中でどれを先にしますか。」というと、先生は「軍備を捨てる。」といわれた。
(金谷治・訳注、論語、1963年、230頁)
然るに、
(22)
⑥「この三つの中でどれを先に捨てますか。」といふ「質問」に対して、
⑥ 食は捨てない。
⑥ 兵は捨てる。
⑥ 信は捨てない。
といふことは、
⑥ 兵は捨てるが(兵以外は捨てない)。
といふことに、他ならない。
従って、
(13)(18)(22)により、
(23)
④ 愛レ汝 誰 =汝を愛するは誰ぞ。
⑤ TOM sent Mary flowers.
⑥ 子 何 先=子は、何をか先にせん。
に於いて、
④ は、「主語 (subject)の後置」による「強調形」であって、尚且つ、「排他的命題」である。
⑤ は、「強調して、発音すること」による「強調形」であって、尚且つ、「排他的命題」である。
⑥ は、「目的語(object)の前置」による「強調形」であって、尚且つ、「排他的命題」である。
従って、
(24)
① 汝 誰 愛=S+O+V
といふ、
①「古代漢語の語順」に関しては、
①「排他的命題」を「主張」することを「目的」とした、「目的語の前置」による「強調形」である。
といふ風に、「説明」出来る。
然るに、
(25)
抽象的なレベルでは、英語も中国も同じ語順をもっている。その順序は全ての言語にあてはまる原理から導かれる。しかし英語と中国語は、動詞の一致(Arg)というパラメータが異なっている。英語はテンスが現在の時に一致標識 ‐s が現れることからわかる通り、+Argである(I run vs. He runs)。一方、中国語は-Argである。中国語は動詞の一致を全く示さない。これまでの研究でなされた主張によれば、このパラメータの変異が疑問詞の文頭への配置を義務的に行うか否かを決定する要因である。英語のような+Agr言語は文頭への配置が要求され、-Agr言語では言語では要求されないといふわけだ(Huang 1982)。
(言語類型論入門―言語の普遍性と多様性 2006/10/18リンゼイ・J. ウェイリー、 Lindsay J. Whaley、33頁)
然るに、
(26)
① 汝 誰 愛(古代漢語)。
② 你 愛レ誰(現代漢語)。
に関しては、「動詞の一致(Arg)というパラメータの変異」が無いにも拘らず、「疑問詞の位置」が、一致しない。
従って、
(27)
「動詞の一致(Arg)というパラメータの変異」なるものが、「疑問詞の位置」を「決定」するとは、思へない。
平成28年12月23日、毛利太。
―「関連記事」―
「Wh疑問文」は「括弧」を用ゐて、「訓読」出来ない(http://kannbunn.blogspot.com/2016/10/blog-post_7.html)。
「が」と「は」と「強調」と「排他的命題」と「WH移動(前置)」(平成28年10月25日)(http://kannbunn.blogspot.com/2016/10/blog-post_25.html)。
2016年12月19日月曜日
「ギリシャ語&白話」の「訓読」。
(01)
「J・G・メイシェン、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、57頁」により、
ΑΓΕΙ ΜΕ Ο ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΤΟΥΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
然るに、
(02)
ΑΓΕΙ=LEADS
ΜΕ=ME
Ο ΚΥΡΙΟΣ=THE LORD
ΠΡΟΣ=TO
ΤΟΥΣ ΜΑΘΗΤΑΣ=THE DISCIPLES
ΑΥΤΟΥ=HIS
従って、
(01)(02)により、
(03)
④ ΑΓΕΙ ΜΕ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ=
④ ΑΓΕΙ[ΜΕ(ΚΥΡΙΟΣ)ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕].
に於いて、
ΑΓΕΙ[ ]⇒[ ]ΑΓΕΙ
ΜΕ( )⇒( )ΜΕ
ΠΡΟΣ〔 〕⇒〔 〕ΠΡΟΣ
ΜΑΘΗΤΑΣ( )⇒ΜΑΘΗΤΑΣ
といふ「移動」を行ふと、
④ ΑΓΕΙ[ΜΕ(ΚΥΡΙΟΣ)ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕]⇒
④ [(ΚΥΡΙΟΣ)ΜΕ〔(ΑΥΤΟΥ)ΜΑΘΗΤΑΣ〕ΠΡΟΣ]ΑΓΕΙ=
④ [(主は)私を〔(彼の)弟子たち〕へと]導く。
といふ「ギリシャ語訓読」が、成立する。
然るに、
(04)
④ ΑΓΕΙ ΜΕ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
④ 述語 補語 主語 前置詞 被修飾語 修飾語 .
である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
④ ΑΓΕΙ ΜΕ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ=
④ ΑΓΕΙ[ΜΕ(ΚΥΡΙΟΣ)ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕]=
④ 述語 [補語(主語 )前置詞 〔被修飾語 (修飾語 )〕].
である。
然るに、
(06)
(一)主述関係 主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
(四)並列関係 並列語 ― 並列語
(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、281~283頁、抜粋)
に於いて、「漢文訓読」の際に「括弧」が付くのは、
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
だけである。
従って、
(05)(06)により、
(07)
④ ΑΓΕΙ[ΜΕ(ΚΥΡΙΟΣ)ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕]=
④ 述語 [補語(主語 )前置詞 〔被修飾語 (修飾語 )〕].
といふ「ギリシャ語訓読」に於ける「括弧」は、「漢文訓読」では、有り得ない。
然るに、
(08)
所有を表わすには、人称代名詞の非強調形が用いられるべきで、英語(日本語も)の my word(私の言葉)とか、これに類した句は、
the word of me の順序にかえてから、ギリシャ語に訳されなければならない(J・G・メイシェン、新約聖書ギリシャ語原典
入門、1967年、55頁)。
従って、
(08)により、
(09)
④ ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)=
④ DISCIPLES(HIS)=
④ DISCIPLES(OF HIM).
といふ「語順」については、「変へること」が、出来ない。
然るに、
(10)
ギリシャ語の文章の通常の順序は、英語におけると同じく、主語(subject)、動詞(verb)、目的語(object)の順である。ラテン語におけるように、動詞を最後におくというような特別な傾向はない。しかし、ギリシャ語では、強調とか語調をよくするとかの目的で、英語の場合よりずっと自由に順序を変えることができる(J・G・メイシェン、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、29頁改)。
従って、
(05)(09)(10)により、
(11)
① ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΑΓΕΙ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
② ΚΥΡΙΟΣ ΑΓΕΙ ΜΕ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
③ ΑΓΕΙ ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
④ ΑΓΕΙ ΜΕ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
⑤ ΜΕ ΑΓΕΙ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
⑥ ΜΕ ΚΥΡΙΟΣ ΑΓΕΙ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
といふ「ギリシャ語」は、全て、
① 主は私を彼の弟子たちへと導く。
② 主は私を彼の弟子たちへと導く。
③ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
④ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
⑤ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
⑥ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
といふ、「意味」である。
cf.
語順は多様であっても、(11)の各文の意味をとる上で何らの混乱もない。なぜならギリシャ語の名詞句は格(cace)の表示を受けてゐるからである(言語類型論入門―言語の普遍性と多様性2006/10/18リンゼイ・J. ウェイリー、 Lindsay J. Whaley、86頁改)。
然るに、
(12)
以上の六つを、
① 主は私を彼の弟子たちへと導く。
② 主は私を彼の弟子たちへと導く。
③ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
④ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
⑤ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
⑥ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
といふ風に、「訓読」する際の「括弧」は、
① ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΑΓΕΙ[ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕].
② ΚΥΡΙΟΣ ΑΓΕΙ[ΜΕ ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕].
③ ΑΓΕΙ[ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕].
④ ΑΓΕΙ[ΜΕ(ΚΥΡΙΟΣ)ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕].
⑤ ΜΕ(ΑΓΕΙ[ΚΥΡΙΟΣ)ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕].
⑥ ΜΕ(ΚΥΡΙΟΣ)ΑΓΕΙ[ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕].
である。
従って、
(12)により、
(13)
「括弧」だけを示すと、
① [〔( )〕]
② [〔( )〕]
③ [〔( )〕]
④ [( )〔( )〕]
⑤ ([ )〔( )〕]
⑥ ( )[〔( )〕]
である。
然るに、
(14)
⑤ ΜΕ(ΑΓΕΙ[ΚΥΡΙΟΣ)
に於ける、
⑤ ( [ )
といふ「それ」は、数学に於ける、
⑤ ( { )
がさうであるやうに、「括弧」ではない。
cf.
⑤ 2<6>1 5 4 3
のやうな、
⑤ M<N>L & M-L=1
といふ「順番」を含む「順番」を、「括弧」を用ゐて、
⑤ 1<2<3<4<5<6
といふ「順番」に「並び替へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
然るに、
(15)
「返り点」の場合は、次のやうになる。
① ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΑΓΕΙ四 ΠΡΟΣ三 ΜΑΘΗΤΑΣ二 ΑΥΤΟΥ一.
② ΚΥΡΙΟΣ ΑΓΕΙ四 ΜΕ ΠΡΟΣ三 ΜΑΘΗΤΑΣ二 ΑΥΤΟΥ一.
③ ΑΓΕΙ四 ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΠΡΟΣ三 ΜΑΘΗΤΑΣ二 ΑΥΤΟΥ一.
④ ΑΓΕΙ丁 ΜΕ二 ΚΥΡΙΟΣ一 ΠΡΟΣ丙 ΜΑΘΗΤΑΣ乙 ΑΥΤΟΥ甲.
⑤ ΜΕ二 ΑΓΕΙ丁 ΚΥΡΙΟΣ一 ΠΡΟΣ丙 ΜΑΘΗΤΑΣ乙 ΑΥΤΟΥ甲.
⑥ ΜΕ二 ΚΥΡΙΟΣ一 ΑΓΕΙ四 ΠΡΟΣ三 ΜΑΘΗΤΑΣ二 ΑΥΤΟΥ一.
従って、
(13)(15)により、
(16)
① [〔( )〕]
② [〔( )〕]
③ [〔( )〕]
④ [( )〔( )〕]
⑤ ([ )〔( )〕]
⑥ ( )[〔( )〕]
に対する「返り点」は、
① 四 三 二 一
② 四 三 二 一
③ 四 三 二 一
④ 丁 二 一 丙 乙 甲
⑤ 二 丁 一 丙 乙 甲
⑥ 二 一 四 三 二 一
である。
然るに、
(17)
⑤ 二 囗 一
であるならば、必ず、
⑤ 二 レ 一
であるため、
⑤ 二 丁 一 丙 乙 甲
のやうな「返り点」は、有り得ない。
従って、
(12)~(17)により、
(18)
① ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΑΓΕΙ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
② ΚΥΡΙΟΣ ΑΓΕΙ ΜΕ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
③ ΑΓΕΙ ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
④ ΑΓΕΙ ΜΕ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
⑤ ΜΕ ΑΓΕΙ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
⑥ ΜΕ ΚΥΡΙΟΣ ΑΓΕΙ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
に於いて、
⑤ OVS型 である所の、
⑤ ΜΕ ΑΓΕΙ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
に関しては、「返り点・括弧」を用ゐて、「訓読」することが、出来ない。
然るに、
(19)
SOV型 - 日本語、琉球語、アイヌ語、アルタイ諸語、インド・イラン語派、ドラヴィダ語族、チベット・ビルマ語派、ニヴフ語、ウィルタ語、ブルーシャスキー語、パーリ語、朝鮮語、アムハラ語、エスキモー語、チュクチ語、テュルク諸語、アイマラ語、ケチュア語、ナバホ語、ホピ語、バスク語、シュメール語、アッカド語、ヒッタイト語、エラム語など。
SVO型 - 英語、フランス語、中国語(広東語などの諸方言や漢文を含む)、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、ルーマニア語、ブルガリア語、現代ギリシア語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、タイ語、ラーオ語(ラオス語)、ベトナム語、ジャワ語、インドネシア語、マレー語(マレーシア語)、クメール語(カンボジア語)、スワヒリ語、現代アラビア語諸方言、ハウサ語、ヨルバ語、グアラニー語、ナワトル語など。
VSO型 - 古典アラビア語、ヘブライ語、アラム語、フェニキア語、古代エジプト語、ゲエズ語、ゲール語、古典マヤ語、タガログ語、セブアノ語、イロカノ語、マオリ語など。
VOS型 - フィジー語、ツォツィル語など。
OVS型 - ヒシカリヤナ語など。
OSV型 - シャバンテ語(英語版)など。〔語順-ウィキペディア〕
従って、
(18)(19)により、
(20)
OVS型 - ヒシカリヤナ語など。
の場合も、「返り点・括弧」を用ゐて、「訓読」することが、出来ない。
然るに、
(19)により、
(21)
SVO型 - 英語、フランス語、中国語(広東語などの諸方言や漢文を含む)
とあるため、「中国語(漢文を含む)」の場合は、「SOV型」である。
然るに、
(22)
然るに、
(23)
⑦ 端的看二不五出三這婆子的本事一来四。
のやうに、
⑦ 二 五 三 一 四
であれば、
⑦ 二<五 三>一 四
であるものの、
⑦ 二 五 三 一 四
であれば、
⑦ 二(五[三〔一)〕四]
である。
然るに、
(24)
⑦ ([〔 )〕]
は、「括弧」ではない。
然るに、
(25)
「返り点」は、「下 から 上 に しか、返らない」ため、
二 二
↑ ↓
↑ ↓ 五
↑ ↓ ↑
↑ 三 ↑
↑ ↓ ↑
一 ↓ ↑
↓ ↑
四 四
のやうに、「下 から 上 に 返り、上 から 下 へ 降りる点」は、「返り点」ではない。
従って、
(23)(24)(25)により、
(26)
⑦ 端的看二不五出三這婆子的本事一来四。
に於ける、
⑦ 二 五 三 一 四
といふ「それ」は、「返り点」ではないし、尚且つ、
⑦ 2<5 3>1 4
といふ「順番」を、「括弧」を用ゐて、
⑦ 1<2<3<4<5
といふ「順番」に「並び替へ(ソートす)る」ことは、出来ない。
然るに、
(27)
中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)。
従って、
(21)~(27)により、
(28)
「中国語(漢文を含む)」の場合は、「SOV型」であるものの、「漢文」と「中国語(白話文)」は、もともと二つのちがった体系で、「単語も文法」もたいへん違ふため、
⑦ 端的看不出這婆子的本事来。
⑧ 西門慶促忙促急儧造不出床来。
のやうな「中国語」を、「括弧・返り点」を用ゐて、「訓読」することは、出来ない。
平成28年12月19日、毛利太。
―「関連記事」―
(a)「括弧」の付け方:「係り・及び・並び」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_6.html)。
(b)「訓読」の原理(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_3.html)。
(c){( )}の方が「読みやすい」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_2.html)。
(d)「レ点」について(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post.html)。
(e)「返り点(特にレ点)」が苦手な人へ(http://kannbunn.blogspot.com/2016/11/blog-post_30.html)。
(f)「括弧」と『返り点』(http://kannbunn.blogspot.com/2016/11/blog-post.html)。
(g)「漢文の補足構造」としての「括弧」の付け方(http://kannbunn.blogspot.com/2016/09/blog-post_22.html)。
「J・G・メイシェン、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、57頁」により、
ΑΓΕΙ ΜΕ Ο ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΤΟΥΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
然るに、
(02)
ΑΓΕΙ=LEADS
ΜΕ=ME
Ο ΚΥΡΙΟΣ=THE LORD
ΠΡΟΣ=TO
ΤΟΥΣ ΜΑΘΗΤΑΣ=THE DISCIPLES
ΑΥΤΟΥ=HIS
従って、
(01)(02)により、
(03)
④ ΑΓΕΙ ΜΕ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ=
④ ΑΓΕΙ[ΜΕ(ΚΥΡΙΟΣ)ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕].
に於いて、
ΑΓΕΙ[ ]⇒[ ]ΑΓΕΙ
ΜΕ( )⇒( )ΜΕ
ΠΡΟΣ〔 〕⇒〔 〕ΠΡΟΣ
ΜΑΘΗΤΑΣ( )⇒ΜΑΘΗΤΑΣ
といふ「移動」を行ふと、
④ ΑΓΕΙ[ΜΕ(ΚΥΡΙΟΣ)ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕]⇒
④ [(ΚΥΡΙΟΣ)ΜΕ〔(ΑΥΤΟΥ)ΜΑΘΗΤΑΣ〕ΠΡΟΣ]ΑΓΕΙ=
④ [(主は)私を〔(彼の)弟子たち〕へと]導く。
といふ「ギリシャ語訓読」が、成立する。
然るに、
(04)
④ ΑΓΕΙ ΜΕ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
④ 述語 補語 主語 前置詞 被修飾語 修飾語 .
である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
④ ΑΓΕΙ ΜΕ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ=
④ ΑΓΕΙ[ΜΕ(ΚΥΡΙΟΣ)ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕]=
④ 述語 [補語(主語 )前置詞 〔被修飾語 (修飾語 )〕].
である。
然るに、
(06)
(一)主述関係 主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
(四)並列関係 並列語 ― 並列語
(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、281~283頁、抜粋)
に於いて、「漢文訓読」の際に「括弧」が付くのは、
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
だけである。
従って、
(05)(06)により、
(07)
④ ΑΓΕΙ[ΜΕ(ΚΥΡΙΟΣ)ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕]=
④ 述語 [補語(主語 )前置詞 〔被修飾語 (修飾語 )〕].
といふ「ギリシャ語訓読」に於ける「括弧」は、「漢文訓読」では、有り得ない。
然るに、
(08)
所有を表わすには、人称代名詞の非強調形が用いられるべきで、英語(日本語も)の my word(私の言葉)とか、これに類した句は、
the word of me の順序にかえてから、ギリシャ語に訳されなければならない(J・G・メイシェン、新約聖書ギリシャ語原典
入門、1967年、55頁)。
従って、
(08)により、
(09)
④ ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)=
④ DISCIPLES(HIS)=
④ DISCIPLES(OF HIM).
といふ「語順」については、「変へること」が、出来ない。
然るに、
(10)
ギリシャ語の文章の通常の順序は、英語におけると同じく、主語(subject)、動詞(verb)、目的語(object)の順である。ラテン語におけるように、動詞を最後におくというような特別な傾向はない。しかし、ギリシャ語では、強調とか語調をよくするとかの目的で、英語の場合よりずっと自由に順序を変えることができる(J・G・メイシェン、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、29頁改)。
従って、
(05)(09)(10)により、
(11)
① ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΑΓΕΙ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
② ΚΥΡΙΟΣ ΑΓΕΙ ΜΕ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
③ ΑΓΕΙ ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
④ ΑΓΕΙ ΜΕ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
⑤ ΜΕ ΑΓΕΙ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
⑥ ΜΕ ΚΥΡΙΟΣ ΑΓΕΙ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
といふ「ギリシャ語」は、全て、
① 主は私を彼の弟子たちへと導く。
② 主は私を彼の弟子たちへと導く。
③ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
④ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
⑤ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
⑥ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
といふ、「意味」である。
cf.
語順は多様であっても、(11)の各文の意味をとる上で何らの混乱もない。なぜならギリシャ語の名詞句は格(cace)の表示を受けてゐるからである(言語類型論入門―言語の普遍性と多様性2006/10/18リンゼイ・J. ウェイリー、 Lindsay J. Whaley、86頁改)。
然るに、
(12)
以上の六つを、
① 主は私を彼の弟子たちへと導く。
② 主は私を彼の弟子たちへと導く。
③ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
④ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
⑤ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
⑥ 主は私を彼の弟子たちへと導く。
といふ風に、「訓読」する際の「括弧」は、
① ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΑΓΕΙ[ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕].
② ΚΥΡΙΟΣ ΑΓΕΙ[ΜΕ ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕].
③ ΑΓΕΙ[ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕].
④ ΑΓΕΙ[ΜΕ(ΚΥΡΙΟΣ)ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕].
⑤ ΜΕ(ΑΓΕΙ[ΚΥΡΙΟΣ)ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕].
⑥ ΜΕ(ΚΥΡΙΟΣ)ΑΓΕΙ[ΠΡΟΣ〔ΜΑΘΗΤΑΣ(ΑΥΤΟΥ)〕].
である。
従って、
(12)により、
(13)
「括弧」だけを示すと、
① [〔( )〕]
② [〔( )〕]
③ [〔( )〕]
④ [( )〔( )〕]
⑤ ([ )〔( )〕]
⑥ ( )[〔( )〕]
である。
然るに、
(14)
⑤ ΜΕ(ΑΓΕΙ[ΚΥΡΙΟΣ)
に於ける、
⑤ ( [ )
といふ「それ」は、数学に於ける、
⑤ ( { )
がさうであるやうに、「括弧」ではない。
cf.
⑤ 2<6>1 5 4 3
のやうな、
⑤ M<N>L & M-L=1
といふ「順番」を含む「順番」を、「括弧」を用ゐて、
⑤ 1<2<3<4<5<6
といふ「順番」に「並び替へ(ソートす)る」ことが、出来ない。
然るに、
(15)
「返り点」の場合は、次のやうになる。
① ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΑΓΕΙ四 ΠΡΟΣ三 ΜΑΘΗΤΑΣ二 ΑΥΤΟΥ一.
② ΚΥΡΙΟΣ ΑΓΕΙ四 ΜΕ ΠΡΟΣ三 ΜΑΘΗΤΑΣ二 ΑΥΤΟΥ一.
③ ΑΓΕΙ四 ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΠΡΟΣ三 ΜΑΘΗΤΑΣ二 ΑΥΤΟΥ一.
④ ΑΓΕΙ丁 ΜΕ二 ΚΥΡΙΟΣ一 ΠΡΟΣ丙 ΜΑΘΗΤΑΣ乙 ΑΥΤΟΥ甲.
⑤ ΜΕ二 ΑΓΕΙ丁 ΚΥΡΙΟΣ一 ΠΡΟΣ丙 ΜΑΘΗΤΑΣ乙 ΑΥΤΟΥ甲.
⑥ ΜΕ二 ΚΥΡΙΟΣ一 ΑΓΕΙ四 ΠΡΟΣ三 ΜΑΘΗΤΑΣ二 ΑΥΤΟΥ一.
従って、
(13)(15)により、
(16)
① [〔( )〕]
② [〔( )〕]
③ [〔( )〕]
④ [( )〔( )〕]
⑤ ([ )〔( )〕]
⑥ ( )[〔( )〕]
に対する「返り点」は、
① 四 三 二 一
② 四 三 二 一
③ 四 三 二 一
④ 丁 二 一 丙 乙 甲
⑤ 二 丁 一 丙 乙 甲
⑥ 二 一 四 三 二 一
である。
然るに、
(17)
⑤ 二 囗 一
であるならば、必ず、
⑤ 二 レ 一
であるため、
⑤ 二 丁 一 丙 乙 甲
のやうな「返り点」は、有り得ない。
従って、
(12)~(17)により、
(18)
① ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΑΓΕΙ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
② ΚΥΡΙΟΣ ΑΓΕΙ ΜΕ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
③ ΑΓΕΙ ΚΥΡΙΟΣ ΜΕ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
④ ΑΓΕΙ ΜΕ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
⑤ ΜΕ ΑΓΕΙ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
⑥ ΜΕ ΚΥΡΙΟΣ ΑΓΕΙ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
に於いて、
⑤ OVS型 である所の、
⑤ ΜΕ ΑΓΕΙ ΚΥΡΙΟΣ ΠΡΟΣ ΜΑΘΗΤΑΣ ΑΥΤΟΥ.
に関しては、「返り点・括弧」を用ゐて、「訓読」することが、出来ない。
然るに、
(19)
SOV型 - 日本語、琉球語、アイヌ語、アルタイ諸語、インド・イラン語派、ドラヴィダ語族、チベット・ビルマ語派、ニヴフ語、ウィルタ語、ブルーシャスキー語、パーリ語、朝鮮語、アムハラ語、エスキモー語、チュクチ語、テュルク諸語、アイマラ語、ケチュア語、ナバホ語、ホピ語、バスク語、シュメール語、アッカド語、ヒッタイト語、エラム語など。
SVO型 - 英語、フランス語、中国語(広東語などの諸方言や漢文を含む)、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、ルーマニア語、ブルガリア語、現代ギリシア語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、タイ語、ラーオ語(ラオス語)、ベトナム語、ジャワ語、インドネシア語、マレー語(マレーシア語)、クメール語(カンボジア語)、スワヒリ語、現代アラビア語諸方言、ハウサ語、ヨルバ語、グアラニー語、ナワトル語など。
VSO型 - 古典アラビア語、ヘブライ語、アラム語、フェニキア語、古代エジプト語、ゲエズ語、ゲール語、古典マヤ語、タガログ語、セブアノ語、イロカノ語、マオリ語など。
VOS型 - フィジー語、ツォツィル語など。
OVS型 - ヒシカリヤナ語など。
OSV型 - シャバンテ語(英語版)など。〔語順-ウィキペディア〕
従って、
(18)(19)により、
(20)
OVS型 - ヒシカリヤナ語など。
の場合も、「返り点・括弧」を用ゐて、「訓読」することが、出来ない。
然るに、
(19)により、
(21)
SVO型 - 英語、フランス語、中国語(広東語などの諸方言や漢文を含む)
とあるため、「中国語(漢文を含む)」の場合は、「SOV型」である。
然るに、
(22)
然るに、
(23)
⑦ 端的看二不五出三這婆子的本事一来四。
のやうに、
⑦ 二 五 三 一 四
であれば、
⑦ 二<五 三>一 四
であるものの、
⑦ 二 五 三 一 四
であれば、
⑦ 二(五[三〔一)〕四]
である。
然るに、
(24)
⑦ ([〔 )〕]
は、「括弧」ではない。
然るに、
(25)
「返り点」は、「下 から 上 に しか、返らない」ため、
二 二
↑ ↓
↑ ↓ 五
↑ ↓ ↑
↑ 三 ↑
↑ ↓ ↑
一 ↓ ↑
↓ ↑
四 四
のやうに、「下 から 上 に 返り、上 から 下 へ 降りる点」は、「返り点」ではない。
従って、
(23)(24)(25)により、
(26)
⑦ 端的看二不五出三這婆子的本事一来四。
に於ける、
⑦ 二 五 三 一 四
といふ「それ」は、「返り点」ではないし、尚且つ、
⑦ 2<5 3>1 4
といふ「順番」を、「括弧」を用ゐて、
⑦ 1<2<3<4<5
といふ「順番」に「並び替へ(ソートす)る」ことは、出来ない。
然るに、
(27)
中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)。
従って、
(21)~(27)により、
(28)
「中国語(漢文を含む)」の場合は、「SOV型」であるものの、「漢文」と「中国語(白話文)」は、もともと二つのちがった体系で、「単語も文法」もたいへん違ふため、
⑦ 端的看不出這婆子的本事来。
⑧ 西門慶促忙促急儧造不出床来。
のやうな「中国語」を、「括弧・返り点」を用ゐて、「訓読」することは、出来ない。
平成28年12月19日、毛利太。
―「関連記事」―
(a)「括弧」の付け方:「係り・及び・並び」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_6.html)。
(b)「訓読」の原理(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_3.html)。
(c){( )}の方が「読みやすい」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_2.html)。
(d)「レ点」について(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post.html)。
(e)「返り点(特にレ点)」が苦手な人へ(http://kannbunn.blogspot.com/2016/11/blog-post_30.html)。
(f)「括弧」と『返り点』(http://kannbunn.blogspot.com/2016/11/blog-post.html)。
(g)「漢文の補足構造」としての「括弧」の付け方(http://kannbunn.blogspot.com/2016/09/blog-post_22.html)。
2016年12月14日水曜日
荻生徂徠先生(1666~1728)へ。
(01)
(xとy)の「変域」は、「数」ではなく「人間」であるとする。
(02)
P(x,y)=(xはy)の親である。
とする。
然るに、
(03)
注意2.4.3 ∃xP(x)は、
ある x があって P(x)である。
あるいは、
ある x が存在してP(x)である。
と言っても良いし、場合によっては
P(x)となる x が存在する。
という言い方もする。要するに、表す内容が同じであれば、表現の仕方にこだわらなくとも良い(中内信光、ろんりの練習帳、2002年、94頁)。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]=
① 全ての人の親であるやうな人は存在しない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(05)
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]
に於いて、
~[ ]⇒[ ]~
∃x〔 〕⇒〔 〕∃x
P( )⇒( )P
といふ「移動」を行ふと、
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]⇒
② [〔∀y(x,y)P〕∃x]~=
② [〔全ての(人の)親であるやうな〕人は存在し]ない。
といふ「訓読」が、成立する。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]
といふ「論理式」を、
① 全ての人の親であるやうな人は存在しない。
といふ風に理解する。といふことは、
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]
といふ「論理式」を、
② [〔∀y(x,y)P〕∃x]~
といふ「語順」で読んでゐる。といふことに、他ならない。
然るに、
(07)
数式はたまたま15世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパにおいて、ヨーロッパの言語に象って作り出されたという歴史的偶然を反映したものであるにすぎない(大谷泰照、日本人にとって英語とは何か、2007年、30頁)。
従って、
(04)(07)により、
(08)
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]
といふ「論理式」も、20世紀のヨーロッパとアメリカにおいて、ヨーロッパとアメリカの言語に象って作り出されたという歴史的偶然を反映したものであるにすぎない。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]
といふ「論理式」を、
② [〔∀y(x,y)P〕∃x]~
といふ「語順」で「訓読」したとしても、「何らの問題」も、生じない。
然るに、
(10)
中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)。
(11)
しからば、口語はAxByであるものを、文章語はABとつづめても、これはこれで完全な文となり得る。かくして記載語のABは、はじめから口語のAxByとは別のものとして発生し、存在したと思われる(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、59頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
「漢文」は、固より、「述語論理」と同じく、「人工言語」としての側面がある。
従って、
(09)(12)により、
(13)
③ 不[有〔人為(全人親)者〕]。
といふ「人工言語」を、
④ [〔人にして(全ての人の親)為る者は〕有ら]ず。
といふ「語順」で「訓読」したとしても、「何らの問題」も、生じない。
従って、
(14)
例へば
③ 不有人為全人親者。
といふ「漢文」に対して、
③ 不レ有下人為二全人親一者上。
といふ「返り点」を加へることにより、
④ 人にして全ての人の親為る者は有らず。
といふ「語順」で「訓読」したとしても、「何らの問題」も、生じない。
然るに、
(15)
その上で徂徠は、こうした恥ずかしい誤りが量産されるのは、訓読という漢文学習法に決定的な問題があるからだと論じる。伝統的なこの方法を、徂徠は「和訓顚読之法」と表現しているが、それは返り点や一二点などを使って顚じて(ひっくり返して)和訓を導くからである。
(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、72頁)
従って、
(09)(13)(15)により、
(16)
荻生徂徠は、
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]
といふ「語順」を、
② [〔∀y(x,y)P〕∃x]~=
② [〔全ての(人の)親であるやうな〕人は存在し]ない。
といふ「語順」で読むことに対しても、「異議」を唱へるものと、思はれる。
(17)
漢字は、実は、本場の中国においても、その読み方は地域の自由にまかせているのである。― 中略 ―その多様さはインド・ヨーロッパ語族の多様さに優に匹敵する。それゆえに、もし中国においてことばの表記を表音文字にきりかえたならば、同時に十三以上の外国語ができてしまうということになる(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、134・5頁)。
従って、
(18)
「ヨーロッパ語」が「一つ」ではないやうに、所謂、「中国語」も「一つ」ではない。
然るに、
(19)
⑤(J・G・メイシェン、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、47頁)
により、
⑤ ΜΕΤΑ ΤΟΥΣ ΑΓΓΕΛΟΥΣ ΠΕΜΠΕΙ Ο ΘΕΟΣ ΤΟΝ ΥΙΟΝ.
は、「ヨーロッパの言語」である。
然るに、
(20)
⑤ ΜΕΤΑ ΤΟΥΣ ΑΓΓΕΛΟΥΣ ΠΕΜΠΕΙ Ο ΘΕΟΣ ΤΟΝ ΥΙΟΝ.
⑥ META TOUS AGGELOUS PENPEI O THEOS TON UION.
⑦ WITH THE MESSENGERS SENDS THE GOD THE SON.
に於いて、上から順に、
⑤「ギリシャ語」そのもの。
⑥「ギリシャ語」の「ローマ字表示」。
⑦「ギリシャ語」の語順のまま、「英語」に置き換へたもの。
である。
従って、
(18)(19)(20)により、
(21)
「ギリシャ語」は、「ヨーロッパの言語」であって、
「イギリス語」も、「ヨーロッパの言語」であるが、
「イギリス語」を学んだからと言って、
「ギリシャ語」が分るやうになるわけではない。
然るに、
(22)
光源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれ給ふ咎多かんなるに、いとど、かかるすき事どもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さんむと、忍び給ひける隠ろへ事をさへ語り伝へけむ、人の物言ひがなさよ(源氏物語、帚木)。
といふ「千年前の日本語」を理解するためには、「現代日本語の知識」も、必要である(?)と、思はれる。
然るに、
(23)
「崎陽」は長崎の雅名であり、「崎陽の学」は長崎の唐通事たちを中心とした中国の俗語(口語)の学習を指している(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、85頁)ものの、
聖賢の書は当然ながら、口語文とは異質な古い時代の文語文であり、「崎陽の学」を身に付けたからといって、読めるものではなく、それは、現代日本語の会話に通じている外国人が『万葉集』や『源氏物語』を読めるわけではないことににているかもしれない。しかし、それらの古典を読むためには、まず現代日本語の会話から学習しなければならないはずである(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、85頁)。
従って、
(22)(23)により、
(24)
「聖賢の書(文言)」と「中国の俗語(白話)」との関係が、
「千年前の日本語」 と「現代の日本語」 との関係に、匹敵するのであれば、
「しかし、それらの古典を読むためには、まず現代日本語の会話から学習しなければならないはずである。」
といふ「説明の仕方」は、マチガイであるとは、言へない。
然るに、
(21)(23)により、
(25)
「聖賢の書(文言)」 と「中国の俗語(白話)」との関係が、
「二千年前ギリシャ語」と「現代のイギリス語」 との関係に、匹敵するのであれば、
「しかし、それらの古典を読むためには、まず現代中国語の会話から学習しなければならないはずである。」
といふ「説明の仕方」は、マチガイであると、言はざるを得ない。
然るに、
(26)
いわゆる「漢文」といっているのは、文言という。文章語のことだね。日本語の漢文訓読は、文言を日本語におきかえて読む技術だから、この白話は漢文訓読読みができない。文法がだいぶ違うんだ(橋本陽介、慶応志木高校ライブ授業 漢文は本当につまらないのか、2014年、202頁)。
加へて、
(27)
一般做乳母的人對事故從小撫養帶大的總是有一種偏愛、總是覺得與眾不同的:何況這位乳母所撫養帶大的是源氏之君這様稀世的人物呢!(林訳『源氏物語』一 六三頁)
といふ「中国語(白話)」は、「漢文(文言)の知識」では、「文字通り、全く、読めない」。
従って、
(10)(25)(26)(27)により、
(28)
「聖賢の書(文言)」と「中国の俗語(白話)」に関して、
「しかし、それらの古典を読むためには、まず現代日本語の会話から学習しなければならないはずである。」
といふ「説明の仕方」は、マチガイである。
(29)
道難知亦難言。為其大故也。後世儒者。名道所見。皆一端也。夫道。先王之道也。思孟而後。降為儒家者流。乃始與百家爭衡。
(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、316頁、巻末付録)
然るに、
(30)
道難知亦難言 =道は知り難く、また言ひ難し。
為其大故也 =その大なる故がためなり。
後世儒者 =後世、儒者、
名道所見 =各々見る所をいふ。
皆一端也 =皆、一端なり。
夫道 =かの道、
先王之道也 =先王の道なり。
思孟而後 =思孟にして後、
降為儒家者流 =降りて儒家たる者流る(「流」は、読めないが、「流派をなす」のやうな意。)
乃始與百家爭衡=乃ち、始めて百家と爭衡す。
といふ風に、「訓読」をする場合は、
道難知亦難言。為其大故也。後世儒者。各道所見。皆一端也。夫道。先王之道也。思孟而後。降為儒家者流。乃始與百家爭衡。
といふ「47個の漢字」を、「観察」した結果として、「さう読む」のであって、
ドウダンチエイキナンゲン。ヰキダイコヤ。コウセイジュシャ。メイドウショケン。カイイッタンヤ。フドウ。センオウシドウ。シモウジコウ。コウフヰジュカシャリュウ。ダイシヨヒャッカソウコウ。
といふ風に、「音読」した上で、「さう読む」わけではない。
然るに、
(31)
徂徠は、書を千遍読めば意味はおのずとわかる(「読書千遍、其義自見」)とはどういうことか、幼時にはわからなかったと云う。意味がわか
らないのに読めるはずがなく、読めればわかっているはずだと思ったからである。しかし後になって、中華では文字列をそのままの順で読むた
めに、意味がわからないくとも読めること、それに対して。日本では中華の文字をこちらの言語の語順に直して読むために意味がとれなければ
読めないことに気づく(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、17頁)。
従って、
(30)(31)により、
(32)
徂徠が、「意味がわからないのに読めるはずがなく、読めればわかっているはずだと思った」といふのは、「音読」ではなく、「訓読」のことを言ふ。
従って、
(30)(32)により、
(33)
「漢文(白文)」を「訓読」しようとするならば、「その漢文(白文)を観察する」以外に、方法は無く、それ故、
読書不如看書=
読(書)不[如〔看(書)〕]⇒
(書)読[〔(書)看〕如]不=
(書を)読むは[〔(書を)看る〕如か]ず=
書物を音読することは、書物を看ることよりも劣ってゐる。
といふ、ことになる。
然るに、
(34)
徂徠は「題言十則」のなかで以下のように述べている。
中華の人多く言へり、「読書、読書」と。予は便ち謂へり、書を読むは書を看るに如かず、と。此れ中華と此の方との語言同じからざるに縁りて、故に此の方は耳口の二者、皆な力を得ず、唯だ一双の眼のみ、三千世界の人を合はせて、総て殊なること有ること莫し。
ここでの「読書」は、文脈からして音読であろう(勉誠出版、「訓読」論、2008年、27・244頁)
然るに、
(35)
予は十四歳の時に南総に流れ落し、二十五歳で赦されて江戸に還るまでの十三年間、田夫野老の中で暮らす毎日で、学門上の師も友も持てなかった。ただ父の篋中にあった「大学諺解」一冊、これは父の手沢本であったが、この書物を一生懸命に何度も読んだものである。すると久しくして、群書に通じるようになった(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、78頁)。
従って、
(30)~(35)により、
(36)
学門上の師も友も持てなかった、十四歳から二十五歳までの徂徠は、「一人で、ひたすら、書を見る」ことより、「中華の文字をこちらの言語の語順に直して読んでゐた」結果として、群書に通じるようになった。
といふ、ことになる。
然るに、
(37)
予は近頃、華音で中国の俗語について知ることが多い。その上で漢文を読んでみると、実によく分かってくる(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、74頁)。
従って、
(34)(36)(37)により、
(38)
徂徠は、
書を読むは書を看るに如かず=
書物を「音読すること」は書物を「看ること」よりも劣ってゐる。
と言ひながら、その一方で、
中国の俗語で「音読する」と、漢文が実によく分かってくる。
といふ風に、「矛盾したこと」を述べてゐる。
然るに、
(39)
文語体と口語体の区別は、もし簡便な基準を探すとなれば、それは耳で聞いてわかるのが口語体で、目で見なければわからないのが文語体だ、といえる。(「開明文言読本」開明書店、1948、導言)呂叔湘氏は人も知る「中國文法要略」(商務印書館、1942)の著者であり、解放後は中國科学院言語研究所長を勤めている超一流の言語学者であり、文化人である(牛島徳次、中國語の学び方、1977年、60頁)。
従って、
(39)により、
(40)
「目で見なければわからないのが文語体だ。」といふ風に、中国人自身が、述べてゐる。
従って、
(38)(40)により、
(41)
予は近頃、(日本漢字音ではなく)中国の俗語の「音」について知ることが多い。その上で漢文を読んでみると、実によく分かってくる。
といふのは、おそらくは、「気のせい」である。
平成28年12月15日、毛利太。
(xとy)の「変域」は、「数」ではなく「人間」であるとする。
(02)
P(x,y)=(xはy)の親である。
とする。
然るに、
(03)
注意2.4.3 ∃xP(x)は、
ある x があって P(x)である。
あるいは、
ある x が存在してP(x)である。
と言っても良いし、場合によっては
P(x)となる x が存在する。
という言い方もする。要するに、表す内容が同じであれば、表現の仕方にこだわらなくとも良い(中内信光、ろんりの練習帳、2002年、94頁)。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]=
① 全ての人の親であるやうな人は存在しない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(05)
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]
に於いて、
~[ ]⇒[ ]~
∃x〔 〕⇒〔 〕∃x
P( )⇒( )P
といふ「移動」を行ふと、
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]⇒
② [〔∀y(x,y)P〕∃x]~=
② [〔全ての(人の)親であるやうな〕人は存在し]ない。
といふ「訓読」が、成立する。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]
といふ「論理式」を、
① 全ての人の親であるやうな人は存在しない。
といふ風に理解する。といふことは、
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]
といふ「論理式」を、
② [〔∀y(x,y)P〕∃x]~
といふ「語順」で読んでゐる。といふことに、他ならない。
然るに、
(07)
数式はたまたま15世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパにおいて、ヨーロッパの言語に象って作り出されたという歴史的偶然を反映したものであるにすぎない(大谷泰照、日本人にとって英語とは何か、2007年、30頁)。
従って、
(04)(07)により、
(08)
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]
といふ「論理式」も、20世紀のヨーロッパとアメリカにおいて、ヨーロッパとアメリカの言語に象って作り出されたという歴史的偶然を反映したものであるにすぎない。
従って、
(07)(08)により、
(09)
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]
といふ「論理式」を、
② [〔∀y(x,y)P〕∃x]~
といふ「語順」で「訓読」したとしても、「何らの問題」も、生じない。
然るに、
(10)
中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)。
(11)
しからば、口語はAxByであるものを、文章語はABとつづめても、これはこれで完全な文となり得る。かくして記載語のABは、はじめから口語のAxByとは別のものとして発生し、存在したと思われる(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、59頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
「漢文」は、固より、「述語論理」と同じく、「人工言語」としての側面がある。
従って、
(09)(12)により、
(13)
③ 不[有〔人為(全人親)者〕]。
といふ「人工言語」を、
④ [〔人にして(全ての人の親)為る者は〕有ら]ず。
といふ「語順」で「訓読」したとしても、「何らの問題」も、生じない。
従って、
(14)
例へば
③ 不有人為全人親者。
といふ「漢文」に対して、
③ 不レ有下人為二全人親一者上。
といふ「返り点」を加へることにより、
④ 人にして全ての人の親為る者は有らず。
といふ「語順」で「訓読」したとしても、「何らの問題」も、生じない。
然るに、
(15)
その上で徂徠は、こうした恥ずかしい誤りが量産されるのは、訓読という漢文学習法に決定的な問題があるからだと論じる。伝統的なこの方法を、徂徠は「和訓顚読之法」と表現しているが、それは返り点や一二点などを使って顚じて(ひっくり返して)和訓を導くからである。
(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、72頁)
従って、
(09)(13)(15)により、
(16)
荻生徂徠は、
① ~[∃x〔∀yP(x,y)〕]
といふ「語順」を、
② [〔∀y(x,y)P〕∃x]~=
② [〔全ての(人の)親であるやうな〕人は存在し]ない。
といふ「語順」で読むことに対しても、「異議」を唱へるものと、思はれる。
(17)
漢字は、実は、本場の中国においても、その読み方は地域の自由にまかせているのである。― 中略 ―その多様さはインド・ヨーロッパ語族の多様さに優に匹敵する。それゆえに、もし中国においてことばの表記を表音文字にきりかえたならば、同時に十三以上の外国語ができてしまうということになる(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、134・5頁)。
従って、
(18)
「ヨーロッパ語」が「一つ」ではないやうに、所謂、「中国語」も「一つ」ではない。
然るに、
(19)
⑤(J・G・メイシェン、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、47頁)
により、
⑤ ΜΕΤΑ ΤΟΥΣ ΑΓΓΕΛΟΥΣ ΠΕΜΠΕΙ Ο ΘΕΟΣ ΤΟΝ ΥΙΟΝ.
は、「ヨーロッパの言語」である。
然るに、
(20)
⑤ ΜΕΤΑ ΤΟΥΣ ΑΓΓΕΛΟΥΣ ΠΕΜΠΕΙ Ο ΘΕΟΣ ΤΟΝ ΥΙΟΝ.
⑥ META TOUS AGGELOUS PENPEI O THEOS TON UION.
⑦ WITH THE MESSENGERS SENDS THE GOD THE SON.
に於いて、上から順に、
⑤「ギリシャ語」そのもの。
⑥「ギリシャ語」の「ローマ字表示」。
⑦「ギリシャ語」の語順のまま、「英語」に置き換へたもの。
である。
従って、
(18)(19)(20)により、
(21)
「ギリシャ語」は、「ヨーロッパの言語」であって、
「イギリス語」も、「ヨーロッパの言語」であるが、
「イギリス語」を学んだからと言って、
「ギリシャ語」が分るやうになるわけではない。
然るに、
(22)
光源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれ給ふ咎多かんなるに、いとど、かかるすき事どもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さんむと、忍び給ひける隠ろへ事をさへ語り伝へけむ、人の物言ひがなさよ(源氏物語、帚木)。
といふ「千年前の日本語」を理解するためには、「現代日本語の知識」も、必要である(?)と、思はれる。
然るに、
(23)
「崎陽」は長崎の雅名であり、「崎陽の学」は長崎の唐通事たちを中心とした中国の俗語(口語)の学習を指している(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、85頁)ものの、
聖賢の書は当然ながら、口語文とは異質な古い時代の文語文であり、「崎陽の学」を身に付けたからといって、読めるものではなく、それは、現代日本語の会話に通じている外国人が『万葉集』や『源氏物語』を読めるわけではないことににているかもしれない。しかし、それらの古典を読むためには、まず現代日本語の会話から学習しなければならないはずである(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、85頁)。
従って、
(22)(23)により、
(24)
「聖賢の書(文言)」と「中国の俗語(白話)」との関係が、
「千年前の日本語」 と「現代の日本語」 との関係に、匹敵するのであれば、
「しかし、それらの古典を読むためには、まず現代日本語の会話から学習しなければならないはずである。」
といふ「説明の仕方」は、マチガイであるとは、言へない。
然るに、
(21)(23)により、
(25)
「聖賢の書(文言)」 と「中国の俗語(白話)」との関係が、
「二千年前ギリシャ語」と「現代のイギリス語」 との関係に、匹敵するのであれば、
「しかし、それらの古典を読むためには、まず現代中国語の会話から学習しなければならないはずである。」
といふ「説明の仕方」は、マチガイであると、言はざるを得ない。
然るに、
(26)
いわゆる「漢文」といっているのは、文言という。文章語のことだね。日本語の漢文訓読は、文言を日本語におきかえて読む技術だから、この白話は漢文訓読読みができない。文法がだいぶ違うんだ(橋本陽介、慶応志木高校ライブ授業 漢文は本当につまらないのか、2014年、202頁)。
加へて、
(27)
一般做乳母的人對事故從小撫養帶大的總是有一種偏愛、總是覺得與眾不同的:何況這位乳母所撫養帶大的是源氏之君這様稀世的人物呢!(林訳『源氏物語』一 六三頁)
といふ「中国語(白話)」は、「漢文(文言)の知識」では、「文字通り、全く、読めない」。
従って、
(10)(25)(26)(27)により、
(28)
「聖賢の書(文言)」と「中国の俗語(白話)」に関して、
「しかし、それらの古典を読むためには、まず現代日本語の会話から学習しなければならないはずである。」
といふ「説明の仕方」は、マチガイである。
(29)
道難知亦難言。為其大故也。後世儒者。名道所見。皆一端也。夫道。先王之道也。思孟而後。降為儒家者流。乃始與百家爭衡。
(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、316頁、巻末付録)
然るに、
(30)
道難知亦難言 =道は知り難く、また言ひ難し。
為其大故也 =その大なる故がためなり。
後世儒者 =後世、儒者、
名道所見 =各々見る所をいふ。
皆一端也 =皆、一端なり。
夫道 =かの道、
先王之道也 =先王の道なり。
思孟而後 =思孟にして後、
降為儒家者流 =降りて儒家たる者流る(「流」は、読めないが、「流派をなす」のやうな意。)
乃始與百家爭衡=乃ち、始めて百家と爭衡す。
といふ風に、「訓読」をする場合は、
道難知亦難言。為其大故也。後世儒者。各道所見。皆一端也。夫道。先王之道也。思孟而後。降為儒家者流。乃始與百家爭衡。
といふ「47個の漢字」を、「観察」した結果として、「さう読む」のであって、
ドウダンチエイキナンゲン。ヰキダイコヤ。コウセイジュシャ。メイドウショケン。カイイッタンヤ。フドウ。センオウシドウ。シモウジコウ。コウフヰジュカシャリュウ。ダイシヨヒャッカソウコウ。
といふ風に、「音読」した上で、「さう読む」わけではない。
然るに、
(31)
徂徠は、書を千遍読めば意味はおのずとわかる(「読書千遍、其義自見」)とはどういうことか、幼時にはわからなかったと云う。意味がわか
らないのに読めるはずがなく、読めればわかっているはずだと思ったからである。しかし後になって、中華では文字列をそのままの順で読むた
めに、意味がわからないくとも読めること、それに対して。日本では中華の文字をこちらの言語の語順に直して読むために意味がとれなければ
読めないことに気づく(勉誠出版、続「訓読」論、2010年、17頁)。
従って、
(30)(31)により、
(32)
徂徠が、「意味がわからないのに読めるはずがなく、読めればわかっているはずだと思った」といふのは、「音読」ではなく、「訓読」のことを言ふ。
従って、
(30)(32)により、
(33)
「漢文(白文)」を「訓読」しようとするならば、「その漢文(白文)を観察する」以外に、方法は無く、それ故、
読書不如看書=
読(書)不[如〔看(書)〕]⇒
(書)読[〔(書)看〕如]不=
(書を)読むは[〔(書を)看る〕如か]ず=
書物を音読することは、書物を看ることよりも劣ってゐる。
といふ、ことになる。
然るに、
(34)
徂徠は「題言十則」のなかで以下のように述べている。
中華の人多く言へり、「読書、読書」と。予は便ち謂へり、書を読むは書を看るに如かず、と。此れ中華と此の方との語言同じからざるに縁りて、故に此の方は耳口の二者、皆な力を得ず、唯だ一双の眼のみ、三千世界の人を合はせて、総て殊なること有ること莫し。
ここでの「読書」は、文脈からして音読であろう(勉誠出版、「訓読」論、2008年、27・244頁)
然るに、
(35)
予は十四歳の時に南総に流れ落し、二十五歳で赦されて江戸に還るまでの十三年間、田夫野老の中で暮らす毎日で、学門上の師も友も持てなかった。ただ父の篋中にあった「大学諺解」一冊、これは父の手沢本であったが、この書物を一生懸命に何度も読んだものである。すると久しくして、群書に通じるようになった(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、78頁)。
従って、
(30)~(35)により、
(36)
学門上の師も友も持てなかった、十四歳から二十五歳までの徂徠は、「一人で、ひたすら、書を見る」ことより、「中華の文字をこちらの言語の語順に直して読んでゐた」結果として、群書に通じるようになった。
といふ、ことになる。
然るに、
(37)
予は近頃、華音で中国の俗語について知ることが多い。その上で漢文を読んでみると、実によく分かってくる(田尻祐一郎、荻生徂徠、2008年、74頁)。
従って、
(34)(36)(37)により、
(38)
徂徠は、
書を読むは書を看るに如かず=
書物を「音読すること」は書物を「看ること」よりも劣ってゐる。
と言ひながら、その一方で、
中国の俗語で「音読する」と、漢文が実によく分かってくる。
といふ風に、「矛盾したこと」を述べてゐる。
然るに、
(39)
文語体と口語体の区別は、もし簡便な基準を探すとなれば、それは耳で聞いてわかるのが口語体で、目で見なければわからないのが文語体だ、といえる。(「開明文言読本」開明書店、1948、導言)呂叔湘氏は人も知る「中國文法要略」(商務印書館、1942)の著者であり、解放後は中國科学院言語研究所長を勤めている超一流の言語学者であり、文化人である(牛島徳次、中國語の学び方、1977年、60頁)。
従って、
(39)により、
(40)
「目で見なければわからないのが文語体だ。」といふ風に、中国人自身が、述べてゐる。
従って、
(38)(40)により、
(41)
予は近頃、(日本漢字音ではなく)中国の俗語の「音」について知ることが多い。その上で漢文を読んでみると、実によく分かってくる。
といふのは、おそらくは、「気のせい」である。
平成28年12月15日、毛利太。
2016年12月11日日曜日
「一二点」や(丸括弧)だけでは読みにくい。
(01)
① ( ( ( )( ( ( )( ) ) ) )( ( )( ) ) )
は正しいが、
② ( ( ( )( )( )( ) )( ) )( )( ) ) )
は間違いである。これをチェックするのはいい頭の体操になるが、プログラミング用に、括弧の対応をチェックするエディタもある。この原稿を書いている「秀丸」でもそれができるので、実は右の例はその機能を使ってチェックしたのである。
(木村大治、括弧の意味論、2011年、一八頁改)
然るに、
(02)
① ( ( ( )( ( ( )( ) ) ) )( ( )( ) ) )
であれば、
① ( ( (囗)( ( (囗)(囗) ) ) )( (囗)(囗) ) )
であって、
① ( ( (囗)( 〔 (囗)(囗) 〕 ) )〔 (囗)(囗) 〕 )
であって、
① ( ( (囗)[ 〔 (囗)(囗) 〕 ] )〔 (囗)(囗) 〕 )
であって、
① ( { (囗)[ 〔 (囗)(囗) 〕 ] }〔 (囗)(囗) 〕 )
であって、
① 〈 { (囗)[ 〔 (囗)(囗) 〕 ] }〔 (囗)(囗) 〕 〉
である。
(03)
② ( ( ( )( )( )( ) )( ) )( )( ) ) )
であれば、
② ( ( (囗)(囗)(囗)(囗) )(囗) )(囗)(囗) ) )
であって、
② ( 〔 (囗)(囗)(囗)(囗) 〕(囗) )(囗)(囗) ) )
であって、
② [ 〔 (囗)(囗)(囗)(囗) 〕(囗) ](囗)(囗) ) )
である。
然るに、
(04)
② [ 〔 (囗)(囗)(囗)(囗) 〕(囗) ](囗)(囗) ) )
であるならば、
② (囗)(囗) ) )
に於いて、
② ) )
に対する、「左側の括弧」が、「二個、足りない」。
従って、
(02)(04)により、
(05)
① 〈 { ( )[ 〔 ( )( ) 〕 ] }〔 ( )( ) 〕 〉
② [ 〔 ( )( )( )( ) 〕( ) ]( )( ) ) )
を「見れば分る」やうに、
① ( ( ( )( ( ( )( ) ) ) )( ( )( ) ) )
② ( ( ( )( )( )( ) )( ) )( )( ) ) )
に於いて、
① は「正しく」、
② は「間違ひ」である。
従って、
(01)(05)により、
(06)
① ( ( ( )( ( ( )( ) ) ) )( ( )( ) ) )
② ( ( ( )( )( )( ) )( ) )( )( ) ) )
といふ「括弧」よりも、
① 〈 { ( )[ 〔 ( )( ) 〕 ] }〔 ( )( ) 〕 〉
② [ 〔 ( )( )( )( ) 〕( ) ]( )( ) ) )
といふ「括弧」の方が、「分りやすい」。
(07)
ASCIIとは、アルファベットや数字、記号などを収録した文字コードの一つ。 最も基本的な文字コードとして世界的に普及している(IT用語辞典)。
(08)
③ A B C D E F G H I J K L M N O P Q.
に対する「ASCIIコード」は、
③ 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81.
である。
従って、
(08)により、
(09)
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
に対する「ASCIIコード」は、
① 81 73 66 65 72 71 68 67 70 69 79 75 74 77 76 78 80.
である。
然るに、
(10)
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P=
① Q〈I{B(A)H[G〔D(C)F(E)〕]}O〔K(J)M(L)N〕P〉=
① 81〈73{66(65)72[71〔68(67)70(69)〕]}79〔75(74)77(76)78〕80〉.
に於いて、
81〈 〉⇒〈 〉81
73{ }⇒{ }73
66( )⇒( )66
72[ ]⇒[ ]72
71〔 〕⇒〔 〕71
68( )⇒( )68
70( )⇒( )70
79〔 〕⇒〔 〕79
75( )⇒( )75
77( )⇒( )77
といふ「移動」を行ふと
① 〈{(65)66[〔(67)68(69)70〕71]72}73〔(74)75(76)77 78〕79 80〉81=
① 〈{(A)B[〔(C)D(E)F〕G]H}I〔(J)K(L)M N〕O P〉Q=
① A B C D E F G H I J K L M N O P Q.
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
従って、
(10)により、
(11)
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
といふ「アルファベット」に、
① 81 73 66 65 72 71 68 67 70 69 79 75 74 77 76 78 80.
といふ「順番」を与へることは、
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
といふ「アルファベット」に、
① 〈 { ( )[ 〔 ( )( ) 〕 ] }〔 ( )( ) 〕 〉
といふ「括弧」を加へることに、等しい。
然るに、
(12)
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
といふ「アルファベット」に、
① 81 73 66 65 72 71 68 67 70 69 79 75 74 77 76 78 80.
といふ「順番」を与へることは、
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
といふ「アルファベット」に、
① 17 09 02 01 08 07 04 03 06 05 15 11 10 13 12 14 16.
といふ「順番」を与へることは、等しい。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
といふ「アルファベット」に、
① 17 09 02 01 08 07 04 03 06 05 15 11 10 13 12 14 16.
といふ「順番」を与へることは、
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
といふ「アルファベット」に、
① 〈 { ( )[ 〔 ( )( ) 〕 ] }〔 ( )( ) 〕 〉
といふ「括弧」を加へることに、等しい。
然るに、
(14)
② B(C{A)}
② 2(3{1)}
に於いて、
② ( { )}
は、「括弧」ではない。
従って、
(14)により、
(15)
② 2<3>1 & 2-1=1
のやうな「順番」を、「括弧」を用ゐて、
② 1<2<3
といふ「順番」に「並び替へる(ソートする)」は、出来ない。
従って、
(13)(15)により、
(16)
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
② B C A
に於いて、「括弧」は、
① を、「アルファベット順」に「並び替へること」は、出来ても、
② を、「アルファベット順」に「並び替へること」は、出来ない。
(17)
① 17 09 02 01 08 07 04 03 06 05 15 11 10 13 12 14 16
といふ「順番」は、
③ 十七 九 二 一 八 七 四 三 六 五 十五 十一 十 十三 十二 十四 十六
といふ「一二点」に相当する。
然るに、
(18)
③ 十七 九 二 一 八 七 四 三 六 五 十五 十一 十 十三 十二 十四 十六
といふ「一二点」は、
④ 地 戊 二 一 丁 丙 二 一 乙 甲 下 二 一 二 一 上 天
といふ「返り点」に相当する。
然るに、
(19)
④ 地 戊 二 一 丁 丙 二 一 乙 甲 下 二 一 二 一 上 天
であれば、
④ 地 戊 二 一 丁 丙 二 一 乙 甲 下 二 一 二 一 上 天
であれば、
④「甲乙点」の中に、二つの「一二点」があって、
④「上下点」の中に、二つの「一二点」があって、
④「全体」を、「天地点」が挟んでゐる。
といふ「構造」が「見て取れる」。
然るに、
(20)
③ 十七 九 二 一 八 七 四 三 六 五 十五 十一 十 十三 十二 十四 十六
の場合には、そのやうな「構造」が、「見えない」。
然るに、
(21)
二 二 戊 二 二 下 地
↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑
一 一 丁 一 一 上 天
↑
丙
↑
乙
↑
甲
に対して、
九 九 十一 十一 十三 十三 十五 十五 十七
↑ ↓ ↑ ↓ ↑ ↓ ↑ ↓ ↑
八 十 十 十二 十二 十三 十四 十六 十六
↑
七
↑
二 二 四 四 六
↑ ↓ ↑ ↓ ↑
一 三 三 五 五
である。
従って、
(19)(20)(21)により、
(22)
④ 地 戊 二 一 丁 丙 二 一 乙 甲 下 二 一 二 一 上 天
であれば、
④「下 から 上 へ 返る。」
だけであるのに対して、
③ 十七 九 二 一 八 七 四 三 六 五 十五 十一 十 十三 十二 十四 十六
の場合は、
③「下 から 上 へ 返り、上 から 下 へ 降りる。」
必要がある。
従って、
(23)により、
(24)
③ Q十七I九B二A一H八G七D四C三F六E五O十五K十一J十M十三L十二N十四P十六.
④ Q地I戊B二A一H丁G丙D二C一F乙E甲O下K二J一M二L一N上P天.
であれば、
③ よりも、
④ の方が、はるかに、「読みやすい」。
従って、
(06)(24)により、
(25)
① ( ( ( )( ( ( )( ) ) ) )( ( )( ) ) )
② 〈 { ( )[ 〔 ( )( ) 〕 ] }〔 ( )( ) 〕 〉
であれば、② の方が「読みやすく」、
③ 十七 九 二 一 八 七 四 三 六 五 十五 十一 十 十三 十二 十四 十六
④ 地 戊 二 一 丁 丙 二 一 乙 甲 下 二 一 二 一 上 天
であれば、④ の方が、「読みやすい」。
然るに、
(26)
上中下点(上・下、上・中・下)
必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、41・43頁)
従って、
(25)(26)により、
(27)
② 〈 { ( )[ 〔 ( )( ) 〕 ] }〔 ( )( ) 〕 〉
の方が、
① ( ( ( )( ( ( )( ) ) ) )( ( )( ) ) )
よりも「読みやすい」やうに、
④ 地 戊 二 一 丁 丙 二 一 乙 甲 下 二 一 二 一 上 天
の方が、
③ 十七 九 二 一 八 七 四 三 六 五 十五 十一 十 十三 十二 十四 十六
よりも「読みやすい」。
然るに、
(28)
すべて一二点に変換すればいいのである。一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施してい
ないものも過去にはあった。一二点で返ったものを含めて返る必要がある時に上中下点を用いるのは、数学で( )の次に{ }を用いるのと似て
いる。数式は必ずしも{( )}の形にしなくてもよい。( ( ) )の形であってもその機能は同じである。そして{ }の次に用いる括弧がないか
ら、数学の式を危機管理能力のない非論理的な体系だとは誰も言わない。高等数学ではどのようになっているのか私は詳しいことはわからない
が、{ }を用いるのは数式が人間にとって認識しやすく便利だからという理由に過ぎないのではないか。パソコンに計算させるのなら( )を
いくら重ねても問題ないのだから(はてなブログ:固窮庵日乗)。
従って、
(27)(28)により、
(29)
「人間にとって認識しやすく便利」といふ「機能」を考慮する限り、
(Ⅰ)すべて一二点に変換すればいいのである。
(Ⅱ){( )}ではなく、( ( ) )の形であってもその機能は同じである。
といふことには、ならない。
(30)
因みに、インデントとは、プログラムを見やすくするための字下げのこと(C言語入門)であるものの、
(
( )
)
のやうな、インデントの効果も、
( ( ) ) に対する、
{ ( ) } の効果に、似てゐるものが ある。
平成28年12月11日、毛利太。
―「関連記事」―
{( )}の方が「読みやすい」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_2.html)
① ( ( ( )( ( ( )( ) ) ) )( ( )( ) ) )
は正しいが、
② ( ( ( )( )( )( ) )( ) )( )( ) ) )
は間違いである。これをチェックするのはいい頭の体操になるが、プログラミング用に、括弧の対応をチェックするエディタもある。この原稿を書いている「秀丸」でもそれができるので、実は右の例はその機能を使ってチェックしたのである。
(木村大治、括弧の意味論、2011年、一八頁改)
然るに、
(02)
① ( ( ( )( ( ( )( ) ) ) )( ( )( ) ) )
であれば、
① ( ( (囗)( ( (囗)(囗) ) ) )( (囗)(囗) ) )
であって、
① ( ( (囗)( 〔 (囗)(囗) 〕 ) )〔 (囗)(囗) 〕 )
であって、
① ( ( (囗)[ 〔 (囗)(囗) 〕 ] )〔 (囗)(囗) 〕 )
であって、
① ( { (囗)[ 〔 (囗)(囗) 〕 ] }〔 (囗)(囗) 〕 )
であって、
① 〈 { (囗)[ 〔 (囗)(囗) 〕 ] }〔 (囗)(囗) 〕 〉
である。
(03)
② ( ( ( )( )( )( ) )( ) )( )( ) ) )
であれば、
② ( ( (囗)(囗)(囗)(囗) )(囗) )(囗)(囗) ) )
であって、
② ( 〔 (囗)(囗)(囗)(囗) 〕(囗) )(囗)(囗) ) )
であって、
② [ 〔 (囗)(囗)(囗)(囗) 〕(囗) ](囗)(囗) ) )
である。
然るに、
(04)
② [ 〔 (囗)(囗)(囗)(囗) 〕(囗) ](囗)(囗) ) )
であるならば、
② (囗)(囗) ) )
に於いて、
② ) )
に対する、「左側の括弧」が、「二個、足りない」。
従って、
(02)(04)により、
(05)
① 〈 { ( )[ 〔 ( )( ) 〕 ] }〔 ( )( ) 〕 〉
② [ 〔 ( )( )( )( ) 〕( ) ]( )( ) ) )
を「見れば分る」やうに、
① ( ( ( )( ( ( )( ) ) ) )( ( )( ) ) )
② ( ( ( )( )( )( ) )( ) )( )( ) ) )
に於いて、
① は「正しく」、
② は「間違ひ」である。
従って、
(01)(05)により、
(06)
① ( ( ( )( ( ( )( ) ) ) )( ( )( ) ) )
② ( ( ( )( )( )( ) )( ) )( )( ) ) )
といふ「括弧」よりも、
① 〈 { ( )[ 〔 ( )( ) 〕 ] }〔 ( )( ) 〕 〉
② [ 〔 ( )( )( )( ) 〕( ) ]( )( ) ) )
といふ「括弧」の方が、「分りやすい」。
(07)
ASCIIとは、アルファベットや数字、記号などを収録した文字コードの一つ。 最も基本的な文字コードとして世界的に普及している(IT用語辞典)。
(08)
③ A B C D E F G H I J K L M N O P Q.
に対する「ASCIIコード」は、
③ 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81.
である。
従って、
(08)により、
(09)
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
に対する「ASCIIコード」は、
① 81 73 66 65 72 71 68 67 70 69 79 75 74 77 76 78 80.
である。
然るに、
(10)
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P=
① Q〈I{B(A)H[G〔D(C)F(E)〕]}O〔K(J)M(L)N〕P〉=
① 81〈73{66(65)72[71〔68(67)70(69)〕]}79〔75(74)77(76)78〕80〉.
に於いて、
81〈 〉⇒〈 〉81
73{ }⇒{ }73
66( )⇒( )66
72[ ]⇒[ ]72
71〔 〕⇒〔 〕71
68( )⇒( )68
70( )⇒( )70
79〔 〕⇒〔 〕79
75( )⇒( )75
77( )⇒( )77
といふ「移動」を行ふと
① 〈{(65)66[〔(67)68(69)70〕71]72}73〔(74)75(76)77 78〕79 80〉81=
① 〈{(A)B[〔(C)D(E)F〕G]H}I〔(J)K(L)M N〕O P〉Q=
① A B C D E F G H I J K L M N O P Q.
といふ「並び替へ(ソート)」が、成立する。
従って、
(10)により、
(11)
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
といふ「アルファベット」に、
① 81 73 66 65 72 71 68 67 70 69 79 75 74 77 76 78 80.
といふ「順番」を与へることは、
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
といふ「アルファベット」に、
① 〈 { ( )[ 〔 ( )( ) 〕 ] }〔 ( )( ) 〕 〉
といふ「括弧」を加へることに、等しい。
然るに、
(12)
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
といふ「アルファベット」に、
① 81 73 66 65 72 71 68 67 70 69 79 75 74 77 76 78 80.
といふ「順番」を与へることは、
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
といふ「アルファベット」に、
① 17 09 02 01 08 07 04 03 06 05 15 11 10 13 12 14 16.
といふ「順番」を与へることは、等しい。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
といふ「アルファベット」に、
① 17 09 02 01 08 07 04 03 06 05 15 11 10 13 12 14 16.
といふ「順番」を与へることは、
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
といふ「アルファベット」に、
① 〈 { ( )[ 〔 ( )( ) 〕 ] }〔 ( )( ) 〕 〉
といふ「括弧」を加へることに、等しい。
然るに、
(14)
② B(C{A)}
② 2(3{1)}
に於いて、
② ( { )}
は、「括弧」ではない。
従って、
(14)により、
(15)
② 2<3>1 & 2-1=1
のやうな「順番」を、「括弧」を用ゐて、
② 1<2<3
といふ「順番」に「並び替へる(ソートする)」は、出来ない。
従って、
(13)(15)により、
(16)
① Q I B A H G D C F E O K J M L N P.
② B C A
に於いて、「括弧」は、
① を、「アルファベット順」に「並び替へること」は、出来ても、
② を、「アルファベット順」に「並び替へること」は、出来ない。
(17)
① 17 09 02 01 08 07 04 03 06 05 15 11 10 13 12 14 16
といふ「順番」は、
③ 十七 九 二 一 八 七 四 三 六 五 十五 十一 十 十三 十二 十四 十六
といふ「一二点」に相当する。
然るに、
(18)
③ 十七 九 二 一 八 七 四 三 六 五 十五 十一 十 十三 十二 十四 十六
といふ「一二点」は、
④ 地 戊 二 一 丁 丙 二 一 乙 甲 下 二 一 二 一 上 天
といふ「返り点」に相当する。
然るに、
(19)
④ 地 戊 二 一 丁 丙 二 一 乙 甲 下 二 一 二 一 上 天
であれば、
④ 地 戊 二 一 丁 丙 二 一 乙 甲 下 二 一 二 一 上 天
であれば、
④「甲乙点」の中に、二つの「一二点」があって、
④「上下点」の中に、二つの「一二点」があって、
④「全体」を、「天地点」が挟んでゐる。
といふ「構造」が「見て取れる」。
然るに、
(20)
③ 十七 九 二 一 八 七 四 三 六 五 十五 十一 十 十三 十二 十四 十六
の場合には、そのやうな「構造」が、「見えない」。
然るに、
(21)
二 二 戊 二 二 下 地
↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑
一 一 丁 一 一 上 天
↑
丙
↑
乙
↑
甲
に対して、
九 九 十一 十一 十三 十三 十五 十五 十七
↑ ↓ ↑ ↓ ↑ ↓ ↑ ↓ ↑
八 十 十 十二 十二 十三 十四 十六 十六
↑
七
↑
二 二 四 四 六
↑ ↓ ↑ ↓ ↑
一 三 三 五 五
である。
従って、
(19)(20)(21)により、
(22)
④ 地 戊 二 一 丁 丙 二 一 乙 甲 下 二 一 二 一 上 天
であれば、
④「下 から 上 へ 返る。」
だけであるのに対して、
③ 十七 九 二 一 八 七 四 三 六 五 十五 十一 十 十三 十二 十四 十六
の場合は、
③「下 から 上 へ 返り、上 から 下 へ 降りる。」
必要がある。
従って、
(23)により、
(24)
③ Q十七I九B二A一H八G七D四C三F六E五O十五K十一J十M十三L十二N十四P十六.
④ Q地I戊B二A一H丁G丙D二C一F乙E甲O下K二J一M二L一N上P天.
であれば、
③ よりも、
④ の方が、はるかに、「読みやすい」。
従って、
(06)(24)により、
(25)
① ( ( ( )( ( ( )( ) ) ) )( ( )( ) ) )
② 〈 { ( )[ 〔 ( )( ) 〕 ] }〔 ( )( ) 〕 〉
であれば、② の方が「読みやすく」、
③ 十七 九 二 一 八 七 四 三 六 五 十五 十一 十 十三 十二 十四 十六
④ 地 戊 二 一 丁 丙 二 一 乙 甲 下 二 一 二 一 上 天
であれば、④ の方が、「読みやすい」。
然るに、
(26)
上中下点(上・下、上・中・下)
必ず一二点をまたいで返る場合に用いる(数学の式における( )が一二点で、{ }が上中下点に相当するものと考えるとわかりやすい)。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、41・43頁)
従って、
(25)(26)により、
(27)
② 〈 { ( )[ 〔 ( )( ) 〕 ] }〔 ( )( ) 〕 〉
の方が、
① ( ( ( )( ( ( )( ) ) ) )( ( )( ) ) )
よりも「読みやすい」やうに、
④ 地 戊 二 一 丁 丙 二 一 乙 甲 下 二 一 二 一 上 天
の方が、
③ 十七 九 二 一 八 七 四 三 六 五 十五 十一 十 十三 十二 十四 十六
よりも「読みやすい」。
然るに、
(28)
すべて一二点に変換すればいいのである。一二点は無限にあるから、どんなに複雑な構文が出現しても対応できる。実際、一二点しか施してい
ないものも過去にはあった。一二点で返ったものを含めて返る必要がある時に上中下点を用いるのは、数学で( )の次に{ }を用いるのと似て
いる。数式は必ずしも{( )}の形にしなくてもよい。( ( ) )の形であってもその機能は同じである。そして{ }の次に用いる括弧がないか
ら、数学の式を危機管理能力のない非論理的な体系だとは誰も言わない。高等数学ではどのようになっているのか私は詳しいことはわからない
が、{ }を用いるのは数式が人間にとって認識しやすく便利だからという理由に過ぎないのではないか。パソコンに計算させるのなら( )を
いくら重ねても問題ないのだから(はてなブログ:固窮庵日乗)。
従って、
(27)(28)により、
(29)
「人間にとって認識しやすく便利」といふ「機能」を考慮する限り、
(Ⅰ)すべて一二点に変換すればいいのである。
(Ⅱ){( )}ではなく、( ( ) )の形であってもその機能は同じである。
といふことには、ならない。
(30)
因みに、インデントとは、プログラムを見やすくするための字下げのこと(C言語入門)であるものの、
(
( )
)
のやうな、インデントの効果も、
( ( ) ) に対する、
{ ( ) } の効果に、似てゐるものが ある。
平成28年12月11日、毛利太。
―「関連記事」―
{( )}の方が「読みやすい」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_2.html)
2016年12月9日金曜日
「漢文」と「中国語」は別物です。
(01)
漢文というのは古い中国語なので、日本語と構文が違います。その構文の違う言葉に無理矢理レ点や送り仮名をつけて日本語として読めるようにしたのが、いわゆる漢文です。中国語の構文はどちらというと英語に似ているので、漢文ができた福澤には、英語の構文が楽に理解できたのだと思います(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、53頁)。
従って、
(01)により、
(02)
「 漢文 」の「構文」は「英語の構文」に似てゐて、
「中国語」の「構文」も「英語の構文」に似てゐる。
従って、
(02)により、
(03)
「 漢文 」の「構文」は、
「中国語」の「構文」に似てゐる。
然るに、
(04)
中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)。
(05)
しからば、口語はAxByであるものを、文章語はABとつづめても、これはこれで完全な文となり得る。かくして記載語のABは、はじめから口語のAxByとは別のものとして発生し、存在したと思われる(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、59頁)。
従って、
(04)(05)により、
(06)
「漢文(記載語)」と「中国語(白話文)」は、
「単語も文法もたいへんちがう」ところの、
「別のもの」として発生した、「別の言語」である。
従って、
(06)により、
(07)
「 漢文 」の「構文」は、
「中国語」の「構文」に似てゐない。
従って、
(03)(07)により、
(08)
「(03)と(07)」は、「矛盾」する。
然るに、
(01)により、
(09)
「レ点や送り仮名をつけて日本語として読めるようにしたのが、いわゆる漢文です。」
とあるやうに、「漢文」は「訓読」に適してゐる。
従って、
(03)(09)により、
(10)
「 漢文 」の「構文」は、
「中国語」の「構文」に似てゐる。
にも拘らず、
「 漢文 」の「構文」は、「訓読」に適してゐるが、
「中国語」の「構文」は、「訓読」に適してゐない。
といふことは、有り得ない。
然るに、
(11)
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし
強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語
気に近い訳となる(ウィキペディア)。
従って、
(11)により、
(12)
「もし強いて中国語(白話文)を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため」、
「中国語(白話文)」の「構文」は、「訓読」に適してゐない。
従って、
(10)(12)により、
(13)
「 漢文 」の「構文」は、
「中国語」の「構文」に似てゐない。
然るに、
(14)
「孝莫大於厳父、厳父莫大於配天」というところが、白話訳では
「孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般」となっている。
両者の違いは一目瞭然であろう(続訓読論、川島優子 他、2010年、312頁改)。
然るに、
(15)
「孝莫大於厳父、厳父莫大於配天。」
といふ「漢文」であれば、
「孝は父を厳ぶより大なるは莫く、父を厳ぶは天に配するよりも大なるは莫し。」
といふ風に「訓読」出来るのに対して、
「孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般。」
といふ「中国語(白話文)」は、私には、完全に、チンプンカンプン(It's Greek to me)である。
加へて、
(16)
一般做乳母的人對事故從小撫養帶大的總是有一種偏愛、總是覺得與眾不同的:何況這位乳母所撫養帶大的是源氏之君這様稀世的人物呢!(林訳『源氏物語』一 六三頁)といふ「中国語(白話文)」も、「漢文(文言文)の知識」では、「文字通り、全く、読めない」。
従って、
(06)(13)(15)(16)により、
(17)
「漢文(文言文)」と「中国語(白話文)」は、
「単語も文法もたいへんちがう」ところの、
「別のもの」として発生した、「別の言語」であって、それ故、
「漢文(文言文)」の「構文」は、「中国語(白話文)」の「構文」に似てゐない。
然るに、
(18)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
(19)
もっとも手近に考へれば、日本人が日本のことを研究する方法だって、つまり、この順序を踏んでゐるので、小学校で現代の日本語を学び、今の文章を読み、次第に、古い書物を研究して行くのである。支那のことだけが例外でなければならないと云ふ筈はない(勉誠出版、「訓読論」、2008年、58頁:陶徳民)。
従って、
(18)(19)により、
(20)
倉石先生は、「中国語(白話文)」を学んでから、「漢文(文言文)」を学ぶべきであると、されてゐた。
然るに、
(21)
漢字は、実は、本場の中国においても、その読み方は地域の自由にまかせているのである。― 中略 ―その多様さはインド・ヨーロッパ語族の多様さに優に匹敵する。それゆえに、もし中国においてことばの表記を表音文字にきりかえたならば、同時に十三以上の外国語ができてしまうということになる(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、134・5頁)。
従って、
(17)(20)(21)により、
(22)
「倉石先生の方法」は、私が思ふに、「木に縁りて魚を求む」といふことと、変はりが無い。
「ラテン語やギリシャ語」を学ぶ際に、「独語や仏語や英語」の「知識」が「必要」である。といふことと、変はりが無い。
(23)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文の補足構造」が、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
であるとする。
然るに、
(24)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治、
中国語と漢文、1975年、二九六頁)。
従って、
(23)(24)により、
(25)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文の補足構造」が、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
であるならば、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
に対する「国語の補足国造」は、
非{ }⇒{ }非
求[ ]⇒[ ]求
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
解( )⇒( )解
といふ「移動」により、
我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求者}非也。
である。といふことになる。
然るに、
(26)
我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求者}非也。
であれば、
我は{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以って(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ざるなり。
といふ風に読むことは、「難しく」はない。
従って、
(24)(25)(26)により、
(27)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」に、
我非地必求丙以下解二中国語一法上解乙漢文甲者天也。
といふ「返り点」を付けることが出来る人は、
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文の補足構造」が、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
であることを、知ってゐる人でなければ、ならない。
然るに、
(28)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」を、
ガヒヒツキュウカイチュウゴクゴホウカイカンブンシャヤ。
と「音読」するだけならば、小学生であっても、出来る。
従って、
(29)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」を、
ガヒヒツキュウカイチュウゴクゴホウカイカンブンシャヤ。
Wǒ fēi bì qiú yǐ jiě zhōngguó yǔfǎ jiě hànwén zhě yě(グーグル翻訳).
といふ風に、「音読」出来たとしても、
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」の、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
といふ「補足構造」を、把握することは、出来ない。
然るに、
(30)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」の、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
といふ「補足構造」を、把握することが、出来ないのであれば、
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」を、理解することは、出来ない。
然るに、
(31)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)。
従って、
(29)(30)(31)により、
(32)
漢文の解釈については日本語の読み下し文のほうがわかりやすい。これは漢語を母語とする留学生たちの体験としてよく聞いている話だ
(黄文雄、漢字文明にひそむ中華思想の呪縛、2001年、226・7頁)といふことは、「当然」である。
然るに、
(33)
かつて漢文学科だった学科や漢文学専攻は、いま、そのほとんすべてが中国文学科や中国文学専攻になってしまっている。そこでは、当然、中国語も履修することになっていて、そこで学んだ方々は、古代の中国文も現代の中国音で発音できるし、またそういう出身の先生は、得意げにそういうように読んでも聞かせたりするもののようである。そこで、日本文学科出身の国語科の先生や、教育学部の国語専修などの出身の先生は、漢文は嫌いではないのだが、生徒からなにか、偽者のように思われて辛い、と聞くことがあったりするのである(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、36頁)。
従って、
(21)(32)(33)により、
(34)
漢語を母語とする留学生自身が、「漢文訓読法」の方が優れてゐると、言ってゐるにも拘らず、
中国文学科の出身である、高校の教師が、日本の漢字音を無視して、漢文を、普通話(北京語)の発音で、得意げに読んでも聞かせたりする。
のは、ずいぶんとヲカシイ(あほらしい)。
(35)
日本の中高生は、辛うじて、今でも、「論語や史記」等の「漢文」と「徒然草や源氏物語」等の「古文」を学んでゐる。
然るに、
(36)
朋有り、遠方より来る(論語)。
いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひ給ひける中に、いと已むごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめきたまふありけり(源氏物語)。
といふ「それ」を、「日本語」として「比較」するならば、
論語や孟子を読むことは、少なくとも「源氏物語」や「枕草子」を読むほどには、むつかしくない。更にもう一つを加えれば、少なくとも漢文の文法は、いわゆる日本の「古文」の文法よりも簡単である(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、59頁)し、因みに、齋藤先生曰く、『源氏物語』や『蜻蛉日記』を本気で読もうとする、ものすごくたいへんなのです。私が受験した頃は、『源氏物語』がよく東大入試に出たので、当時かなり熱心に読んだのですが、かなり苦労した記憶があります(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、53頁)との、ことである。
(37)
「光源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれ給ふ咎多かんなるに、いとど、かかるすき事どもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さんむと、忍び給ひける隠ろへ事をさへ語り伝へけむ、人の物言ひがなさよ(源氏物語、帚木)。」などといふ「1000年前の日本語」は、「構文が把握しくい文の典型」である。
従って、
(32)(36)(37)により、
(38)
「アニメやマンガ」で日本語を覚えた、外国の方が、
「ノーベル文学賞を取った近代日本を代表する文豪・川端康成でさえ、『源氏物語』はすごい、あれは奇跡の作品だ(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、59頁)」といふ風に述べてゐる『源氏物語』を読めるやうになることは、「齋藤先生が経験した以上に、ものすごくたいへん」であっても、「返り点と、送り仮名」が付いた『論語や史記』を読めるやうになることは、「比較的、簡単」である。
(39)
漢文ができた福澤には、英語の構文が楽に理解できたのだと思います。そう考えてみると、私たちも英語にレ点を付けたり、関係代名詞を括弧に入れたりと、もっと記号化していけば、英語も読みやすくなるのかもしれません。実際。私は英語を教えていたとき、漢文を意識していたわけではありませんが、記号化して、関係代名詞は括弧に入れ、この言葉はここに戻ると矢印を書いて、「こうすれば頭から読んでも構造が理解できる」といふ教え方をしていたことがありました(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、53・54頁)。
(40)
I have[a-friend〔whose father is(an-actor)〕].
に於いて、
have[ ]⇒[ ]have
a-friend〔 〕⇒〔 〕a-friend
is( )⇒( )is
といふ「移動」を行ふと、
I have[a-friend〔whose father is(an-actor)〕]⇒
I [〔whose father (an-actor)is〕a-friend]have=
私には[〔その父親が(俳優)である所の〕一人の友人が]ゐる。
といふ「英文訓読」が、成立する。
(41)
If《you are〈not{afraid[of〔making(mistakes)〕]}〉》, your English will〔become(much better)〕.
に於いて、
If《 》⇒《 》If
are〈 〉⇒〈 〉are
not{ }⇒{ }not
afraid[ ]⇒[ ]afraid
of〔 〕⇒〔 〕of
making( )⇒( )making
will〔 〕⇒〔 〕will
become( )⇒( )become
といふ「移動」を行ふと、
If《you are〈not{afraid[of〔making(mistakes)〕]}〉》, your English will〔become(much better)〕⇒
《you〈{[〔(mistakes)making〕of]afraid}not〉are》If, your English〔(much better)become〕will=
《あなたが〈{[〔(間違ひを)すること〕を]恐れ}ないで〉ゐる》ならば、あなたの英語は〔(もっとずっと良く)なる〕でせう。
といふ「英文訓読」が、成立する。
(42)
「括弧」を用ゐる「英文訓読」をやってみて、気付くことは、
(Ⅰ)「英語」の場合は、「括弧」の種類が、やたらと、多くなる。
(Ⅱ)「Wh疑問文」等がさうであるやうに、「括弧」を付けることが出来ない「英語」が、それなりに多く有る。
といふ、ことである。
(43)
さらに言へば、
喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}。
非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}。
がさうである所の、
(Ⅲ)
{[〔( )〕]( )}といふ「括弧」や、
{[〔( )〕( )]}といふ「括弧」は、「英語」には、少ないか、無い。
のでは(?)といふ「印象」を、持ってゐる。
平成28年12月12日、毛利太。
―「関連記事」―
「漢字音」等について(http://kannbunn.blogspot.com/2016/11/blog-post_17.html)。
漢文というのは古い中国語なので、日本語と構文が違います。その構文の違う言葉に無理矢理レ点や送り仮名をつけて日本語として読めるようにしたのが、いわゆる漢文です。中国語の構文はどちらというと英語に似ているので、漢文ができた福澤には、英語の構文が楽に理解できたのだと思います(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、53頁)。
従って、
(01)により、
(02)
「 漢文 」の「構文」は「英語の構文」に似てゐて、
「中国語」の「構文」も「英語の構文」に似てゐる。
従って、
(02)により、
(03)
「 漢文 」の「構文」は、
「中国語」の「構文」に似てゐる。
然るに、
(04)
中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)。
(05)
しからば、口語はAxByであるものを、文章語はABとつづめても、これはこれで完全な文となり得る。かくして記載語のABは、はじめから口語のAxByとは別のものとして発生し、存在したと思われる(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、59頁)。
従って、
(04)(05)により、
(06)
「漢文(記載語)」と「中国語(白話文)」は、
「単語も文法もたいへんちがう」ところの、
「別のもの」として発生した、「別の言語」である。
従って、
(06)により、
(07)
「 漢文 」の「構文」は、
「中国語」の「構文」に似てゐない。
従って、
(03)(07)により、
(08)
「(03)と(07)」は、「矛盾」する。
然るに、
(01)により、
(09)
「レ点や送り仮名をつけて日本語として読めるようにしたのが、いわゆる漢文です。」
とあるやうに、「漢文」は「訓読」に適してゐる。
従って、
(03)(09)により、
(10)
「 漢文 」の「構文」は、
「中国語」の「構文」に似てゐる。
にも拘らず、
「 漢文 」の「構文」は、「訓読」に適してゐるが、
「中国語」の「構文」は、「訓読」に適してゐない。
といふことは、有り得ない。
然るに、
(11)
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし
強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語
気に近い訳となる(ウィキペディア)。
従って、
(11)により、
(12)
「もし強いて中国語(白話文)を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため」、
「中国語(白話文)」の「構文」は、「訓読」に適してゐない。
従って、
(10)(12)により、
(13)
「 漢文 」の「構文」は、
「中国語」の「構文」に似てゐない。
然るに、
(14)
「孝莫大於厳父、厳父莫大於配天」というところが、白話訳では
「孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般」となっている。
両者の違いは一目瞭然であろう(続訓読論、川島優子 他、2010年、312頁改)。
然るに、
(15)
「孝莫大於厳父、厳父莫大於配天。」
といふ「漢文」であれば、
「孝は父を厳ぶより大なるは莫く、父を厳ぶは天に配するよりも大なるは莫し。」
といふ風に「訓読」出来るのに対して、
「孝的勾當都無大似父親的、敬父親的勾當便似敬天一般。」
といふ「中国語(白話文)」は、私には、完全に、チンプンカンプン(It's Greek to me)である。
加へて、
(16)
一般做乳母的人對事故從小撫養帶大的總是有一種偏愛、總是覺得與眾不同的:何況這位乳母所撫養帶大的是源氏之君這様稀世的人物呢!(林訳『源氏物語』一 六三頁)といふ「中国語(白話文)」も、「漢文(文言文)の知識」では、「文字通り、全く、読めない」。
従って、
(06)(13)(15)(16)により、
(17)
「漢文(文言文)」と「中国語(白話文)」は、
「単語も文法もたいへんちがう」ところの、
「別のもの」として発生した、「別の言語」であって、それ故、
「漢文(文言文)」の「構文」は、「中国語(白話文)」の「構文」に似てゐない。
然るに、
(18)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
(19)
もっとも手近に考へれば、日本人が日本のことを研究する方法だって、つまり、この順序を踏んでゐるので、小学校で現代の日本語を学び、今の文章を読み、次第に、古い書物を研究して行くのである。支那のことだけが例外でなければならないと云ふ筈はない(勉誠出版、「訓読論」、2008年、58頁:陶徳民)。
従って、
(18)(19)により、
(20)
倉石先生は、「中国語(白話文)」を学んでから、「漢文(文言文)」を学ぶべきであると、されてゐた。
然るに、
(21)
漢字は、実は、本場の中国においても、その読み方は地域の自由にまかせているのである。― 中略 ―その多様さはインド・ヨーロッパ語族の多様さに優に匹敵する。それゆえに、もし中国においてことばの表記を表音文字にきりかえたならば、同時に十三以上の外国語ができてしまうということになる(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、134・5頁)。
従って、
(17)(20)(21)により、
(22)
「倉石先生の方法」は、私が思ふに、「木に縁りて魚を求む」といふことと、変はりが無い。
「ラテン語やギリシャ語」を学ぶ際に、「独語や仏語や英語」の「知識」が「必要」である。といふことと、変はりが無い。
(23)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文の補足構造」が、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
であるとする。
然るに、
(24)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治、
中国語と漢文、1975年、二九六頁)。
従って、
(23)(24)により、
(25)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文の補足構造」が、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
であるならば、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
に対する「国語の補足国造」は、
非{ }⇒{ }非
求[ ]⇒[ ]求
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
解( )⇒( )解
といふ「移動」により、
我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求者}非也。
である。といふことになる。
然るに、
(26)
我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求者}非也。
であれば、
我は{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以って(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ざるなり。
といふ風に読むことは、「難しく」はない。
従って、
(24)(25)(26)により、
(27)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」に、
我非地必求丙以下解二中国語一法上解乙漢文甲者天也。
といふ「返り点」を付けることが出来る人は、
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文の補足構造」が、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
であることを、知ってゐる人でなければ、ならない。
然るに、
(28)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」を、
ガヒヒツキュウカイチュウゴクゴホウカイカンブンシャヤ。
と「音読」するだけならば、小学生であっても、出来る。
従って、
(29)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」を、
ガヒヒツキュウカイチュウゴクゴホウカイカンブンシャヤ。
Wǒ fēi bì qiú yǐ jiě zhōngguó yǔfǎ jiě hànwén zhě yě(グーグル翻訳).
といふ風に、「音読」出来たとしても、
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」の、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
といふ「補足構造」を、把握することは、出来ない。
然るに、
(30)
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」の、
我非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}也。
といふ「補足構造」を、把握することが、出来ないのであれば、
我非必求以解中国語法解漢文者也。
といふ「漢文」を、理解することは、出来ない。
然るに、
(31)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)。
従って、
(29)(30)(31)により、
(32)
漢文の解釈については日本語の読み下し文のほうがわかりやすい。これは漢語を母語とする留学生たちの体験としてよく聞いている話だ
(黄文雄、漢字文明にひそむ中華思想の呪縛、2001年、226・7頁)といふことは、「当然」である。
然るに、
(33)
かつて漢文学科だった学科や漢文学専攻は、いま、そのほとんすべてが中国文学科や中国文学専攻になってしまっている。そこでは、当然、中国語も履修することになっていて、そこで学んだ方々は、古代の中国文も現代の中国音で発音できるし、またそういう出身の先生は、得意げにそういうように読んでも聞かせたりするもののようである。そこで、日本文学科出身の国語科の先生や、教育学部の国語専修などの出身の先生は、漢文は嫌いではないのだが、生徒からなにか、偽者のように思われて辛い、と聞くことがあったりするのである(中村幸弘・杉本完治、漢文文型 訓読の語法、2012年、36頁)。
従って、
(21)(32)(33)により、
(34)
漢語を母語とする留学生自身が、「漢文訓読法」の方が優れてゐると、言ってゐるにも拘らず、
中国文学科の出身である、高校の教師が、日本の漢字音を無視して、漢文を、普通話(北京語)の発音で、得意げに読んでも聞かせたりする。
のは、ずいぶんとヲカシイ(あほらしい)。
(35)
日本の中高生は、辛うじて、今でも、「論語や史記」等の「漢文」と「徒然草や源氏物語」等の「古文」を学んでゐる。
然るに、
(36)
朋有り、遠方より来る(論語)。
いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひ給ひける中に、いと已むごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめきたまふありけり(源氏物語)。
といふ「それ」を、「日本語」として「比較」するならば、
論語や孟子を読むことは、少なくとも「源氏物語」や「枕草子」を読むほどには、むつかしくない。更にもう一つを加えれば、少なくとも漢文の文法は、いわゆる日本の「古文」の文法よりも簡単である(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、59頁)し、因みに、齋藤先生曰く、『源氏物語』や『蜻蛉日記』を本気で読もうとする、ものすごくたいへんなのです。私が受験した頃は、『源氏物語』がよく東大入試に出たので、当時かなり熱心に読んだのですが、かなり苦労した記憶があります(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、53頁)との、ことである。
(37)
「光源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれ給ふ咎多かんなるに、いとど、かかるすき事どもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さんむと、忍び給ひける隠ろへ事をさへ語り伝へけむ、人の物言ひがなさよ(源氏物語、帚木)。」などといふ「1000年前の日本語」は、「構文が把握しくい文の典型」である。
従って、
(32)(36)(37)により、
(38)
「アニメやマンガ」で日本語を覚えた、外国の方が、
「ノーベル文学賞を取った近代日本を代表する文豪・川端康成でさえ、『源氏物語』はすごい、あれは奇跡の作品だ(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、59頁)」といふ風に述べてゐる『源氏物語』を読めるやうになることは、「齋藤先生が経験した以上に、ものすごくたいへん」であっても、「返り点と、送り仮名」が付いた『論語や史記』を読めるやうになることは、「比較的、簡単」である。
(39)
漢文ができた福澤には、英語の構文が楽に理解できたのだと思います。そう考えてみると、私たちも英語にレ点を付けたり、関係代名詞を括弧に入れたりと、もっと記号化していけば、英語も読みやすくなるのかもしれません。実際。私は英語を教えていたとき、漢文を意識していたわけではありませんが、記号化して、関係代名詞は括弧に入れ、この言葉はここに戻ると矢印を書いて、「こうすれば頭から読んでも構造が理解できる」といふ教え方をしていたことがありました(齋藤孝、学校では教えてくれない日本語の授業、2014年、53・54頁)。
(40)
I have[a-friend〔whose father is(an-actor)〕].
に於いて、
have[ ]⇒[ ]have
a-friend〔 〕⇒〔 〕a-friend
is( )⇒( )is
といふ「移動」を行ふと、
I have[a-friend〔whose father is(an-actor)〕]⇒
I [〔whose father (an-actor)is〕a-friend]have=
私には[〔その父親が(俳優)である所の〕一人の友人が]ゐる。
といふ「英文訓読」が、成立する。
(41)
If《you are〈not{afraid[of〔making(mistakes)〕]}〉》, your English will〔become(much better)〕.
に於いて、
If《 》⇒《 》If
are〈 〉⇒〈 〉are
not{ }⇒{ }not
afraid[ ]⇒[ ]afraid
of〔 〕⇒〔 〕of
making( )⇒( )making
will〔 〕⇒〔 〕will
become( )⇒( )become
といふ「移動」を行ふと、
If《you are〈not{afraid[of〔making(mistakes)〕]}〉》, your English will〔become(much better)〕⇒
《you〈{[〔(mistakes)making〕of]afraid}not〉are》If, your English〔(much better)become〕will=
《あなたが〈{[〔(間違ひを)すること〕を]恐れ}ないで〉ゐる》ならば、あなたの英語は〔(もっとずっと良く)なる〕でせう。
といふ「英文訓読」が、成立する。
(42)
「括弧」を用ゐる「英文訓読」をやってみて、気付くことは、
(Ⅰ)「英語」の場合は、「括弧」の種類が、やたらと、多くなる。
(Ⅱ)「Wh疑問文」等がさうであるやうに、「括弧」を付けることが出来ない「英語」が、それなりに多く有る。
といふ、ことである。
(43)
さらに言へば、
喜{与[不〔如(己)〕者]為(友)}。
非{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]者}。
がさうである所の、
(Ⅲ)
{[〔( )〕]( )}といふ「括弧」や、
{[〔( )〕( )]}といふ「括弧」は、「英語」には、少ないか、無い。
のでは(?)といふ「印象」を、持ってゐる。
平成28年12月12日、毛利太。
―「関連記事」―
「漢字音」等について(http://kannbunn.blogspot.com/2016/11/blog-post_17.html)。
2016年12月8日木曜日
「漢文」は「論理式」。
(01)
例2.6.1 命題函数P(x,y)について、
∀x∃yP(x,y):すべてのxについて、あるyがあってP(x,y)である。
∃y∀xP(x,y):あるyがあって、すべてのxについてP(x,y)である。
(中内伸光、ろんりの練習帳、2002年、103頁)
従って、
(01)により、
(02)
(xとy)を入れ換へると、
① ∀x∃yP(y,x):すべてのxについて、あるyがあってP(y,x)である。
② ∃x∀yP(x,y):あるxがあって、すべてにyについてP(x,y)である。
然るに、
(03)
(xとy)の「変域」は、「数」ではなく、「人間」であるとする。
加へて、
(04)
P(y,x)
といふ「命題函数」を、
P(y,x)=yはxの親である。
P(y,x)=xはyの子である。
といふ風に、「定義」する。
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
① ∀x∃yP(y,x):全てのxについて、或るyがあってP(y,x)である。
といふ「述語論理」は、この場合は、
① ∀x∃yP(y,x)=全ての人は、或る人の子である。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(06)
安倍晋三が、安倍晋太郎の子であるやうに、
ヒラリーが、ヒラリーの父親の子であるやうに、
トランプが、トランプの母親の子であるやうに、
全ての人は、或る人の、子である。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① ∀x∃yP(y,x)=全ての人は、或る人の子である。
といふ「論理式」は、「真(本当)」である。
然るに、
(08)
② ∃y∀xP(y,x)
の場合は、
② ∃y∀xP(y,x)=或る人は、全ての人の親である。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(09)
② 人(アダム)の子(ベン)
といふことでも、ない限り、
② ∃y∀xP(y,x)=或る人は、全ての人の親である。
といふことには、ならない。
cf.
Υιός του Θεού(神の子)
Υιός του Ανθρώπου(人の子、アダムの子)
イエスース クリストス ヒュイオス トゥ テェウー(神の子、イエス基督)。
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
① ∀x∃yP(y,x)=全ての人は、或る人の子である。
② ∃y∀xP(y,x)=或る人は、全ての人の親である。
に於いて、
① は、万人にとって「真」であって、
② は、万人にとって「真」であるとは、言へない。
然るに、
(11)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、Elementary Logic、1972年、15頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
② ∃x∀yP(x,y)
といふ「論理式」の「否定」である、
③ ~(∃x∀yP(x,y))
といふ「論理式」は、「真」である。
然るに、
(13)
③ ~(∃x∀yP(x,y))
に於いて、
~( )⇒( )~
P( )⇒( )P
といふ「移動」を行ふと、
④ (∃x∀y(x,y)P)~
といふ「式」になる。
然るに、
(14)
④ (∃x∀y(x,y)P)~
といふ「式」を、「左から右へ」読むと、
④ (∃x :或る人は、
④ (∃x∀y :或る人は、全ての人の、
④ (∃x∀y(x,y)P) :或る人は、全ての人の親である。
④ (∃x∀y(x,y)P)~ :或る人が、全ての人の親である。といふことはない。
といふ風に、読むことになる。
然るに、
(15)
③ ~(∃x∀yP(x,y))
といふ「式」は、例へば、
③ It is not true that there is such a person who is the parent of the all people.
のやうな、「英語」に相当する(?)はずであって、因みに、
③ It is not true that there is such a person who is the parent of the all people.
を、「グーグル翻訳」で、「日本語」に翻訳すると、
③ すべての人の親であるそのような人がいるのは事実ではありません。
との、ことである。
然るに、
(16)
③ すべての人の親であるそのような人がいるのは事実ではありません。
④ 或る人が、全ての人の親である。といふことはない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
③ ~(∃x∀yP(x,y))
④ (∃x∀y(x,y)P)~
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(18)
数式はたまたま15世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパにおいて、ヨーロッパの言語に象って作り出されたという歴史的偶然を反映したものであるにすぎない(大谷泰照、日本人にとって英語とは何か、2007年、30頁)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
③ ~(∃x∀yP(x,y))
といふ「論理式」も、20世紀のヨーロッパとアメリカにおいて、ヨーロッパとアメリカの言語に象って作り出されたという歴史的偶然を反映したものであるにすぎない。
従って、
(17)(19)により、
(20)
③ ~(∃x∀yP(x,y))
といふ「語順」を、
④ (∃x∀y(x,y)P)~
といふ「語順」で読んだとしても、「何らの問題」も、生じない。
従って、
(21)
③ 不(有(人為(全人親)))。
といふ「語順」を、
④((人(全人親)為)有)不=
④((人にして(全ての人の親)為るものは)有ら)不。
といふ「語順」で読んだとしても、「何らの問題」も、生じない。
平成28年12月08日、毛利太。
例2.6.1 命題函数P(x,y)について、
∀x∃yP(x,y):すべてのxについて、あるyがあってP(x,y)である。
∃y∀xP(x,y):あるyがあって、すべてのxについてP(x,y)である。
(中内伸光、ろんりの練習帳、2002年、103頁)
従って、
(01)により、
(02)
(xとy)を入れ換へると、
① ∀x∃yP(y,x):すべてのxについて、あるyがあってP(y,x)である。
② ∃x∀yP(x,y):あるxがあって、すべてにyについてP(x,y)である。
然るに、
(03)
(xとy)の「変域」は、「数」ではなく、「人間」であるとする。
加へて、
(04)
P(y,x)
といふ「命題函数」を、
P(y,x)=yはxの親である。
P(y,x)=xはyの子である。
といふ風に、「定義」する。
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
① ∀x∃yP(y,x):全てのxについて、或るyがあってP(y,x)である。
といふ「述語論理」は、この場合は、
① ∀x∃yP(y,x)=全ての人は、或る人の子である。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(06)
安倍晋三が、安倍晋太郎の子であるやうに、
ヒラリーが、ヒラリーの父親の子であるやうに、
トランプが、トランプの母親の子であるやうに、
全ての人は、或る人の、子である。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① ∀x∃yP(y,x)=全ての人は、或る人の子である。
といふ「論理式」は、「真(本当)」である。
然るに、
(08)
② ∃y∀xP(y,x)
の場合は、
② ∃y∀xP(y,x)=或る人は、全ての人の親である。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(09)
② 人(アダム)の子(ベン)
といふことでも、ない限り、
② ∃y∀xP(y,x)=或る人は、全ての人の親である。
といふことには、ならない。
cf.
Υιός του Θεού(神の子)
Υιός του Ανθρώπου(人の子、アダムの子)
イエスース クリストス ヒュイオス トゥ テェウー(神の子、イエス基督)。
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
① ∀x∃yP(y,x)=全ての人は、或る人の子である。
② ∃y∀xP(y,x)=或る人は、全ての人の親である。
に於いて、
① は、万人にとって「真」であって、
② は、万人にとって「真」であるとは、言へない。
然るに、
(11)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、Elementary Logic、1972年、15頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
② ∃x∀yP(x,y)
といふ「論理式」の「否定」である、
③ ~(∃x∀yP(x,y))
といふ「論理式」は、「真」である。
然るに、
(13)
③ ~(∃x∀yP(x,y))
に於いて、
~( )⇒( )~
P( )⇒( )P
といふ「移動」を行ふと、
④ (∃x∀y(x,y)P)~
といふ「式」になる。
然るに、
(14)
④ (∃x∀y(x,y)P)~
といふ「式」を、「左から右へ」読むと、
④ (∃x :或る人は、
④ (∃x∀y :或る人は、全ての人の、
④ (∃x∀y(x,y)P) :或る人は、全ての人の親である。
④ (∃x∀y(x,y)P)~ :或る人が、全ての人の親である。といふことはない。
といふ風に、読むことになる。
然るに、
(15)
③ ~(∃x∀yP(x,y))
といふ「式」は、例へば、
③ It is not true that there is such a person who is the parent of the all people.
のやうな、「英語」に相当する(?)はずであって、因みに、
③ It is not true that there is such a person who is the parent of the all people.
を、「グーグル翻訳」で、「日本語」に翻訳すると、
③ すべての人の親であるそのような人がいるのは事実ではありません。
との、ことである。
然るに、
(16)
③ すべての人の親であるそのような人がいるのは事実ではありません。
④ 或る人が、全ての人の親である。といふことはない。
に於いて、
③=④ である。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
③ ~(∃x∀yP(x,y))
④ (∃x∀y(x,y)P)~
に於いて、
③=④ である。
然るに、
(18)
数式はたまたま15世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパにおいて、ヨーロッパの言語に象って作り出されたという歴史的偶然を反映したものであるにすぎない(大谷泰照、日本人にとって英語とは何か、2007年、30頁)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
③ ~(∃x∀yP(x,y))
といふ「論理式」も、20世紀のヨーロッパとアメリカにおいて、ヨーロッパとアメリカの言語に象って作り出されたという歴史的偶然を反映したものであるにすぎない。
従って、
(17)(19)により、
(20)
③ ~(∃x∀yP(x,y))
といふ「語順」を、
④ (∃x∀y(x,y)P)~
といふ「語順」で読んだとしても、「何らの問題」も、生じない。
従って、
(21)
③ 不(有(人為(全人親)))。
といふ「語順」を、
④((人(全人親)為)有)不=
④((人にして(全ての人の親)為るものは)有ら)不。
といふ「語順」で読んだとしても、「何らの問題」も、生じない。
平成28年12月08日、毛利太。
2016年12月6日火曜日
「括弧」の付け方:「係り・及び・並び」。
―「12月04日の記事」を書き直します。―
(01)
(一)主述関係 主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
(四)並列関係 並列語 ― 並列語
漢語の文法は上述の基本構造における語順が、その重要な基礎になっているのであって、その実詞は単に語順による結合によって、連語を構成していることが多い。それで、この点からいえば、漢語の文法は比較的簡単であるともいうことができる。
(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、281~5頁、抜粋)
従って、
(01)により、
(02)
「漢文の基本構造」は、
(一) 主語 ― 述語
(二)修飾語 ― 被修飾語
(三) 述語 ― 補語
(四)並列語 ― 並列語
といふ、「四通り」である。
(03)
① 孔子聖人=孔子は聖人なり。
の場合は、
① 主語 ― 述語
である。
然るに、
(04)
① 孔子聖人=孔子は聖人なり。
に於いて、
① 孔子 は 聖人 に「係ってゐる」とする。
(05)
② 聖人=聖なる人。
の場合は、
② 連体修飾語 ― 被修飾語
である。
然るに、
(06)
② 聖人=聖なる人。
に於いて、
② 聖 は 人 に「係ってゐる」とする。
(07)
③ 必読=必ず読む。
の場合は、
③ 連用修飾語 ― 被修飾語
である。
然るに、
(08)
③ 必読=必ず読む。
に於いて、
③ 必 は 読 に「係ってゐる」とする。
(09)
④ 愛父母=父母を愛す。
の場合は、
④ 述語 ― 補語
である。
然るに、
(10)
④ 愛父母=父母を愛す。
に於いて、
④ 愛 は 父母 に「及んでゐる」とする。
(11)
⑤ 父母=父の母(Father's mother)。
ではなく、
⑤ 父母=父と母(Father and mother)。
の場合は、
⑤ 並列語 ― 並列語
である。
然るに、
(12)
⑤ 父母=父と母(Father and mother)。
に於いて、
⑤ 父 と 母は「並んでゐる」とする。
従って、
(02)~(12)により、
(13)
「漢文の基本構造」である、
(一 主語 ― 述語
(二)修飾語 ― 被修飾語
(三) 述語 ― 補語
(四)並列語 ― 並列語
といふ、「四通り」に於いて、
(一 主語 は 述語に 「係ってゐる」。
(二)修飾語 は 被修飾語に「係ってゐる」。
(三) 述語 は 補語 に「及んでゐる」。
(四)並列語 は 並列語 に「並んでゐる」。
従って、
(14)
「漢文の基本構造」である、
(一) 主語 ― 述語
(二)修飾語 ― 被修飾語
(三) 述語 ― 補語
(四)並列語 ― 並列語
といふ、「四通り」は、
(Ⅰ)囗 は 囗 に「係ってゐる」。
(Ⅱ)囗 は 囗 に「及んでゐる」。
(Ⅲ)囗 と 囗 は「並んでゐる」。
といふ、「三通り」に、「分類」出来る。
然るに、
(15)
(Ⅰ)囗 は 囗 に「係ってゐる」。
(Ⅱ)囗 は 囗 に「及んでゐる」。
(Ⅲ)囗 と 囗 は「並んでゐる」。
といふ場合に於いて、それぞれ、
(Ⅰ)囗‐囗
(Ⅱ)囗(囗)
(Ⅲ)囗・囗
といふ風に、書くことにする。
従って、
(15)により、
(16)
① 父・母‐国
② 父‐母‐国
に於いて、
① 父と母の国=両親の国
② 父の母の国=父方の祖母の国
である。
従って、
(10)(15)(16)により、
(17)
③ 私は父方の祖母の国を愛す。
であれば、
③ 我‐愛(父‐母‐国)。
である。
従って、
(15)(17)により、
(18)
④ 私は父方の祖母の国を愛さない。
⑤ 私は父方の祖母の国を愛さないのではない。
であれば、
④ 我‐不(愛(父‐母‐国))。
⑤ 我‐非(不(愛(父‐母‐国)))。
であるものの、「括弧」が重なる場合は、
(((( ))))
とはせずに、
{[〔( )〕]}
とする。
従って、
(14)~(18)により、
(19)
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也=
⑥ 私は必ずしも欧米語を理解する方法を用ゐて漢文を理解しようとする者ではないのである。
であれば、
⑥ 我‐非{必‐求[以〔解(欧・米‐語)‐法〕解(漢‐文)]‐者}也。
である。
従って、
(15)(19)により、
(20)
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也。
といふ「漢文」に於いて、
⑥ 我 が 非 に「係ってゐて」、
⑥ 非 が{必求以解欧米語法解漢文者}に「及んでゐて」、
⑥ 必 が 求 に「係ってゐて」、
⑥ 求 が [以解欧米語法解漢文] に「及んでゐて」、
⑥ 以 が 〔解欧米語法〕 に「及んでゐて」、
⑥ 解 が (欧米語) に「及んでゐて」、
⑥ 欧 と 米 が「並んでゐて」、
⑥ 欧米 が 語 に「係ってゐて」、
⑥ 解欧米語 が 法 に「係ってゐて」、
⑥ 解 が (漢文) に「及んでゐて」、
⑥ 漢 が 文 に「係ってゐて」、
⑥ 必求以解欧米語法解漢文 が 者 に「係ってゐる」。
ならば、その時に限って、
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也。
といふ「漢文」は、
⑥ 我‐非{必‐求[以〔解(欧・米‐語)‐法〕解(漢‐文)]‐者}也。
といふ「構造(シンタックス)」をしてゐる。
然るに、
(21)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)
―「余録」―
古田島先生曰く、
ず~っと探している本
欲しくて欲しくて探している本というのはなかなか出てこない。
漢文関係で長年探しているものは、
鈴木直治『中国語と漢文-訓読の原則と漢語の特徴-』(光生館、中国語研究学習双書12、1975年)
西田太一郎『漢文の語法』(角川書店、角川小辞典23、1980年)
の2冊かなぁ。
従って、
(14)(15)(19)(21)により、
(22)
⑥ 我‐非{必‐求[以〔解(欧・米‐語)‐法〕解(漢‐文)]‐者}也。
に於いて、
非{ }⇒{ }非
求[ ]⇒[ ]求
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
解( )⇒( )解
といふ「移動(返読)」によって、得られる、
⑥ 我‐{必‐[〔(欧・米‐語)解‐法〕以解(漢‐文)]求‐者}非也。
といふ「語順」は、「国語(訓読)」の「語順」である。
従って、
(22)により、
(23)
⑥ 我‐非{必‐求[以〔解(欧・米‐語)‐法〕解(漢‐文)]‐者}也⇒
⑥ 我‐{必‐[〔(欧・米‐語)解‐法〕以解(漢‐文)]求‐者}非也=
⑥ 我は{必ずしも[〔(欧米語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ざる也。
といふ「語順」は、「国語(訓読)」の「語順」である。
従って、
(14)(20)~(23)により、
(24)
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也。
に於いて、
⑥「どの漢字」が「どの漢字」に「係ってゐて」、
⑥「どの漢字」が「どこまで」に「及んでゐて」、
⑥「どの漢字」と「どの漢字」が「並んでゐる」。
のかといふことを、「把握」出来るのであれば、
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也=
⑥ 我非地必求丙 以下解二欧米語一法上解乙漢文甲者天也=
⑥ 我非{必求[以〔解(欧米語)法〕解(漢文)]者}也。
といふ「漢文」は、「訓読」出来る。
然るに、
(25)
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也=
⑥ 我非地必求丙 以下解二欧米語一法上解乙漢文甲者天也=
⑥ 我‐非{必‐求[以〔解(欧・米‐語)‐法〕解(漢‐文)]‐者}也=
⑥ 1‐E{2‐C[8〔6(3‐4‐5)‐7〕B(9‐A)]‐D}F。
に於いて、
E{ }⇒{ }E
C[ ]⇒[ ]C
8〔 〕⇒〔 〕8
6( )⇒( )6
B( )⇒( )B
といふ「移動(返読)」を行ふと、
⑥ 1‐{2‐[〔(3‐4‐5)6‐7〕8(9‐A)B]C‐D}EF=
⑥ 我‐{必‐[〔(欧・米‐語)解‐法〕以解(漢‐文)]求‐者}非也=
⑥ 我は{必ずしも[〔(欧米語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ざるなり。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
cf.
アルファベットは、16進数。
従って、
(21)(25)により、
(26)
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也。
に於ける、
⑥ { [ 〔 ( ) 〕( ) ] }
といふ「括弧」は、
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造」を表してゐると、同時に、
⑥ 地 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
⑥ { [ 〔 ( ) 〕( ) ] }
⑥ 1 E 2 C 8 6 3 4 5 7 B 9 A D F
といふ「返り点・括弧・番号」は、
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也⇒
⑥ 我は必ずしも欧米語を解する法を以て漢文を解せんことを求むる者に非ざるなり。
といふ「漢文訓読」を行ふ際の、「順番」を表してゐる。
然るに、
(27)
⑥ 我‐非{必‐求[以〔解(欧・米‐語)‐法〕解(漢‐文)]‐者}也=
⑥ 1‐E{2‐C[8〔6(3・4‐5)‐7〕B(9‐A)]‐D}F。
に於いて、
⑥ E{ D}
⑥ C[ B]
⑥ 8〔 7〕
⑥ 6( 5)
⑥ B( A)
である。
然るに、
(28)
仮に、例へば、
⑥ E{F D}
⑥ C[D B]
⑥ 8〔9 7〕
⑥ 6(7 5)
⑥ B(C A)
E{ }⇒{ }E
C[ ]⇒[ ]C
8〔 〕⇒〔 〕8
6( )⇒( )6
B( )⇒( )B
といふ「移動(返読)」を行なったとしても、
⑥ {F D}E
⑥ [D B]C
⑥ 〔9 7〕8
⑥ (7 5)6
⑥ (C A)B
であるため、
⑥ F>D<E
⑥ D>B<C
⑥ 9>7<8
⑥ 7>5<6
⑥ C>A<B
である。
従って、
(28)により、
(29)
例へば、
⑥ 8〔囗 7〕
に於いて、
⑥ 囗=9
であるならば、
8〔 〕⇒〔 〕8
という「移動(返読)」を行っても、
⑥ 9>7<8
となるだけであって、
⑥ 7<8<9
といふ「順番」には、ならない。
従って、
(27)(28)(29)により、
(30)
⑥ E{・・・D} に於いて、{ }の中に在る「最大の数」は、「Eよりも、1だけ小さい数、Dである」。
⑥ C[・・・B] に於いて、[ ]の中に在る「最大の数」は、「Cよりも、1だけ小さい数、Bである」。
⑥ 8〔・・・7〕 に於いて、〔 〕の中に在る「最大の数」は、「8よりも、1だけ小さい数、7である」。
⑥ 6(・・・5) に於いて、( )の中に在る「最大の数」は、「6よりも、1だけ小さい数、5である」。
⑥ B(・・・A) に於いて、( )の中に在る「最大の数」は、「Bよりも、1だけ小さい数、Aである」。
従って、
(30)により、
(31)
例へば、
⑥ 8〔6 7〕& 8‐7=+1
に対して、
⑥ 8〔9 7〕& 8‐9=-1
⑥ 8〔7 9〕& 8‐9=-1
のやうな、
⑥ 8〔囗 囗〕
といふ「括弧」は、有り得ない。
然るに、
(32)
⑥ 8二9三7一
に於ける、
⑥ 二 < 三 > 一
といふ「返り点」も、有り得ない。
然るに、
(33)
⑦ Who are you?=あなたは 誰 である。
の場合の「それ」は、
⑦ Who二are三you一?
である。
従って、
(31)(32)(33)により、
(34)
⑦ Who are you?=あなたは 誰 である。
に対して、「括弧・返り点」を用ゐることは、出来ない。
cf.
WH移動 生成文法。
加へて、
(35)
⑨ What(are[you looking〔 )for〕]?⇒
⑨ ([you 〔 )Whatfor〕looking]are?=
⑨ ([あなたは〔 )何を〕探して]ゐるか。
に於いて、
⑨ ( [ 〔 ) 〕 ] は、「括弧」ではないし、
⑨ What二 are五 you一 looking四 for三?
に於いて、
⑨ 二 < 五 > 一 四 三
といふ「返り点」も、有り得ない。
然るに、
(36)
⑦ Who are you?=あなたは 誰 である。
ではなく、
⑧ Are you who?=あなたは 誰 である。
であるならば、
⑧ Are(you who)?=あなたは 誰 である。
⑧ Are二you who一?
である。
加へて、
(37)
⑩ Are[you looking〔for(what)〕]?⇒
⑩ [you〔(what)for〕 looking]Are?=
⑩ [あなたは〔(なに)を〕探して]ゐるか。
に於いて、
⑩ [ 〔 ( ) 〕 ] は、「 括弧 」であって、
<⑩ Are四 you looking三 for二 what一?
に於いて、
⑩ 四 三 二 一 は、「返り点」である。
従って、
(34)~(37)により、
(38)
⑦ Who are you?
⑨ What are you looking for?
といふ「英語」だけでなく、
⑧ Are you who?
⑩ Are you looking for what?
といふ「英語」も「正しい」とするならば、「その分」だけ、「括弧・返り点」を用ゐた「訓読」が「可能な英語」が、増へることになる。
平成28年12月05日、毛利太。
―「関連記事」―
(a)「訓読」の原理(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_3.html)。
(b){( )}の方が「読みやすい」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_2.html)。
(c)「レ点」に付いて(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post.html)。
(d)「返り点(特にレ点)」が苦手な人へ(http://kannbunn.blogspot.com/2016/11/blog-post_30.html)。
(e)「括弧」と『返り点』(http://kannbunn.blogspot.com/2016/11/blog-post.html)。
(f)「漢文の補足構造」としての「括弧」の付け方(http://kannbunn.blogspot.com/2016/09/blog-post_22.html)。
(01)
(一)主述関係 主語 ― 述語
(二)修飾関係 修飾語 ― 被修飾語
(三)補足関係 叙述語 ― 補足語
(四)並列関係 並列語 ― 並列語
漢語の文法は上述の基本構造における語順が、その重要な基礎になっているのであって、その実詞は単に語順による結合によって、連語を構成していることが多い。それで、この点からいえば、漢語の文法は比較的簡単であるともいうことができる。
(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、281~5頁、抜粋)
従って、
(01)により、
(02)
「漢文の基本構造」は、
(一) 主語 ― 述語
(二)修飾語 ― 被修飾語
(三) 述語 ― 補語
(四)並列語 ― 並列語
といふ、「四通り」である。
(03)
① 孔子聖人=孔子は聖人なり。
の場合は、
① 主語 ― 述語
である。
然るに、
(04)
① 孔子聖人=孔子は聖人なり。
に於いて、
① 孔子 は 聖人 に「係ってゐる」とする。
(05)
② 聖人=聖なる人。
の場合は、
② 連体修飾語 ― 被修飾語
である。
然るに、
(06)
② 聖人=聖なる人。
に於いて、
② 聖 は 人 に「係ってゐる」とする。
(07)
③ 必読=必ず読む。
の場合は、
③ 連用修飾語 ― 被修飾語
である。
然るに、
(08)
③ 必読=必ず読む。
に於いて、
③ 必 は 読 に「係ってゐる」とする。
(09)
④ 愛父母=父母を愛す。
の場合は、
④ 述語 ― 補語
である。
然るに、
(10)
④ 愛父母=父母を愛す。
に於いて、
④ 愛 は 父母 に「及んでゐる」とする。
(11)
⑤ 父母=父の母(Father's mother)。
ではなく、
⑤ 父母=父と母(Father and mother)。
の場合は、
⑤ 並列語 ― 並列語
である。
然るに、
(12)
⑤ 父母=父と母(Father and mother)。
に於いて、
⑤ 父 と 母は「並んでゐる」とする。
従って、
(02)~(12)により、
(13)
「漢文の基本構造」である、
(一 主語 ― 述語
(二)修飾語 ― 被修飾語
(三) 述語 ― 補語
(四)並列語 ― 並列語
といふ、「四通り」に於いて、
(一 主語 は 述語に 「係ってゐる」。
(二)修飾語 は 被修飾語に「係ってゐる」。
(三) 述語 は 補語 に「及んでゐる」。
(四)並列語 は 並列語 に「並んでゐる」。
従って、
(14)
「漢文の基本構造」である、
(一) 主語 ― 述語
(二)修飾語 ― 被修飾語
(三) 述語 ― 補語
(四)並列語 ― 並列語
といふ、「四通り」は、
(Ⅰ)囗 は 囗 に「係ってゐる」。
(Ⅱ)囗 は 囗 に「及んでゐる」。
(Ⅲ)囗 と 囗 は「並んでゐる」。
といふ、「三通り」に、「分類」出来る。
然るに、
(15)
(Ⅰ)囗 は 囗 に「係ってゐる」。
(Ⅱ)囗 は 囗 に「及んでゐる」。
(Ⅲ)囗 と 囗 は「並んでゐる」。
といふ場合に於いて、それぞれ、
(Ⅰ)囗‐囗
(Ⅱ)囗(囗)
(Ⅲ)囗・囗
といふ風に、書くことにする。
従って、
(15)により、
(16)
① 父・母‐国
② 父‐母‐国
に於いて、
① 父と母の国=両親の国
② 父の母の国=父方の祖母の国
である。
従って、
(10)(15)(16)により、
(17)
③ 私は父方の祖母の国を愛す。
であれば、
③ 我‐愛(父‐母‐国)。
である。
従って、
(15)(17)により、
(18)
④ 私は父方の祖母の国を愛さない。
⑤ 私は父方の祖母の国を愛さないのではない。
であれば、
④ 我‐不(愛(父‐母‐国))。
⑤ 我‐非(不(愛(父‐母‐国)))。
であるものの、「括弧」が重なる場合は、
(((( ))))
とはせずに、
{[〔( )〕]}
とする。
従って、
(14)~(18)により、
(19)
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也=
⑥ 私は必ずしも欧米語を理解する方法を用ゐて漢文を理解しようとする者ではないのである。
であれば、
⑥ 我‐非{必‐求[以〔解(欧・米‐語)‐法〕解(漢‐文)]‐者}也。
である。
従って、
(15)(19)により、
(20)
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也。
といふ「漢文」に於いて、
⑥ 我 が 非 に「係ってゐて」、
⑥ 非 が{必求以解欧米語法解漢文者}に「及んでゐて」、
⑥ 必 が 求 に「係ってゐて」、
⑥ 求 が [以解欧米語法解漢文] に「及んでゐて」、
⑥ 以 が 〔解欧米語法〕 に「及んでゐて」、
⑥ 解 が (欧米語) に「及んでゐて」、
⑥ 欧 と 米 が「並んでゐて」、
⑥ 欧米 が 語 に「係ってゐて」、
⑥ 解欧米語 が 法 に「係ってゐて」、
⑥ 解 が (漢文) に「及んでゐて」、
⑥ 漢 が 文 に「係ってゐて」、
⑥ 必求以解欧米語法解漢文 が 者 に「係ってゐる」。
ならば、その時に限って、
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也。
といふ「漢文」は、
⑥ 我‐非{必‐求[以〔解(欧・米‐語)‐法〕解(漢‐文)]‐者}也。
といふ「構造(シンタックス)」をしてゐる。
然るに、
(21)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。
(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)
―「余録」―
古田島先生曰く、
ず~っと探している本
欲しくて欲しくて探している本というのはなかなか出てこない。
漢文関係で長年探しているものは、
鈴木直治『中国語と漢文-訓読の原則と漢語の特徴-』(光生館、中国語研究学習双書12、1975年)
西田太一郎『漢文の語法』(角川書店、角川小辞典23、1980年)
の2冊かなぁ。
従って、
(14)(15)(19)(21)により、
(22)
⑥ 我‐非{必‐求[以〔解(欧・米‐語)‐法〕解(漢‐文)]‐者}也。
に於いて、
非{ }⇒{ }非
求[ ]⇒[ ]求
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
解( )⇒( )解
といふ「移動(返読)」によって、得られる、
⑥ 我‐{必‐[〔(欧・米‐語)解‐法〕以解(漢‐文)]求‐者}非也。
といふ「語順」は、「国語(訓読)」の「語順」である。
従って、
(22)により、
(23)
⑥ 我‐非{必‐求[以〔解(欧・米‐語)‐法〕解(漢‐文)]‐者}也⇒
⑥ 我‐{必‐[〔(欧・米‐語)解‐法〕以解(漢‐文)]求‐者}非也=
⑥ 我は{必ずしも[〔(欧米語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ざる也。
といふ「語順」は、「国語(訓読)」の「語順」である。
従って、
(14)(20)~(23)により、
(24)
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也。
に於いて、
⑥「どの漢字」が「どの漢字」に「係ってゐて」、
⑥「どの漢字」が「どこまで」に「及んでゐて」、
⑥「どの漢字」と「どの漢字」が「並んでゐる」。
のかといふことを、「把握」出来るのであれば、
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也=
⑥ 我非地必求丙 以下解二欧米語一法上解乙漢文甲者天也=
⑥ 我非{必求[以〔解(欧米語)法〕解(漢文)]者}也。
といふ「漢文」は、「訓読」出来る。
然るに、
(25)
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也=
⑥ 我非地必求丙 以下解二欧米語一法上解乙漢文甲者天也=
⑥ 我‐非{必‐求[以〔解(欧・米‐語)‐法〕解(漢‐文)]‐者}也=
⑥ 1‐E{2‐C[8〔6(3‐4‐5)‐7〕B(9‐A)]‐D}F。
に於いて、
E{ }⇒{ }E
C[ ]⇒[ ]C
8〔 〕⇒〔 〕8
6( )⇒( )6
B( )⇒( )B
といふ「移動(返読)」を行ふと、
⑥ 1‐{2‐[〔(3‐4‐5)6‐7〕8(9‐A)B]C‐D}EF=
⑥ 我‐{必‐[〔(欧・米‐語)解‐法〕以解(漢‐文)]求‐者}非也=
⑥ 我は{必ずしも[〔(欧米語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求むる者に}非ざるなり。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
cf.
アルファベットは、16進数。
従って、
(21)(25)により、
(26)
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也。
に於ける、
⑥ { [ 〔 ( ) 〕( ) ] }
といふ「括弧」は、
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也。
といふ「漢文」の「補足構造」を表してゐると、同時に、
⑥ 地 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
⑥ { [ 〔 ( ) 〕( ) ] }
⑥ 1 E 2 C 8 6 3 4 5 7 B 9 A D F
といふ「返り点・括弧・番号」は、
⑥ 我非必求以解欧米語法解漢文者也⇒
⑥ 我は必ずしも欧米語を解する法を以て漢文を解せんことを求むる者に非ざるなり。
といふ「漢文訓読」を行ふ際の、「順番」を表してゐる。
然るに、
(27)
⑥ 我‐非{必‐求[以〔解(欧・米‐語)‐法〕解(漢‐文)]‐者}也=
⑥ 1‐E{2‐C[8〔6(3・4‐5)‐7〕B(9‐A)]‐D}F。
に於いて、
⑥ E{ D}
⑥ C[ B]
⑥ 8〔 7〕
⑥ 6( 5)
⑥ B( A)
である。
然るに、
(28)
仮に、例へば、
⑥ E{F D}
⑥ C[D B]
⑥ 8〔9 7〕
⑥ 6(7 5)
⑥ B(C A)
E{ }⇒{ }E
C[ ]⇒[ ]C
8〔 〕⇒〔 〕8
6( )⇒( )6
B( )⇒( )B
といふ「移動(返読)」を行なったとしても、
⑥ {F D}E
⑥ [D B]C
⑥ 〔9 7〕8
⑥ (7 5)6
⑥ (C A)B
であるため、
⑥ F>D<E
⑥ D>B<C
⑥ 9>7<8
⑥ 7>5<6
⑥ C>A<B
である。
従って、
(28)により、
(29)
例へば、
⑥ 8〔囗 7〕
に於いて、
⑥ 囗=9
であるならば、
8〔 〕⇒〔 〕8
という「移動(返読)」を行っても、
⑥ 9>7<8
となるだけであって、
⑥ 7<8<9
といふ「順番」には、ならない。
従って、
(27)(28)(29)により、
(30)
⑥ E{・・・D} に於いて、{ }の中に在る「最大の数」は、「Eよりも、1だけ小さい数、Dである」。
⑥ C[・・・B] に於いて、[ ]の中に在る「最大の数」は、「Cよりも、1だけ小さい数、Bである」。
⑥ 8〔・・・7〕 に於いて、〔 〕の中に在る「最大の数」は、「8よりも、1だけ小さい数、7である」。
⑥ 6(・・・5) に於いて、( )の中に在る「最大の数」は、「6よりも、1だけ小さい数、5である」。
⑥ B(・・・A) に於いて、( )の中に在る「最大の数」は、「Bよりも、1だけ小さい数、Aである」。
従って、
(30)により、
(31)
例へば、
⑥ 8〔6 7〕& 8‐7=+1
に対して、
⑥ 8〔9 7〕& 8‐9=-1
⑥ 8〔7 9〕& 8‐9=-1
のやうな、
⑥ 8〔囗 囗〕
といふ「括弧」は、有り得ない。
然るに、
(32)
⑥ 8二9三7一
に於ける、
⑥ 二 < 三 > 一
といふ「返り点」も、有り得ない。
然るに、
(33)
⑦ Who are you?=あなたは 誰 である。
の場合の「それ」は、
⑦ Who二are三you一?
である。
従って、
(31)(32)(33)により、
(34)
⑦ Who are you?=あなたは 誰 である。
に対して、「括弧・返り点」を用ゐることは、出来ない。
cf.
WH移動 生成文法。
加へて、
(35)
⑨ What(are[you looking〔 )for〕]?⇒
⑨ ([you 〔 )Whatfor〕looking]are?=
⑨ ([あなたは〔 )何を〕探して]ゐるか。
に於いて、
⑨ ( [ 〔 ) 〕 ] は、「括弧」ではないし、
⑨ What二 are五 you一 looking四 for三?
に於いて、
⑨ 二 < 五 > 一 四 三
といふ「返り点」も、有り得ない。
然るに、
(36)
⑦ Who are you?=あなたは 誰 である。
ではなく、
⑧ Are you who?=あなたは 誰 である。
であるならば、
⑧ Are(you who)?=あなたは 誰 である。
⑧ Are二you who一?
である。
加へて、
(37)
⑩ Are[you looking〔for(what)〕]?⇒
⑩ [you〔(what)for〕 looking]Are?=
⑩ [あなたは〔(なに)を〕探して]ゐるか。
に於いて、
⑩ [ 〔 ( ) 〕 ] は、「 括弧 」であって、
<⑩ Are四 you looking三 for二 what一?
に於いて、
⑩ 四 三 二 一 は、「返り点」である。
従って、
(34)~(37)により、
(38)
⑦ Who are you?
⑨ What are you looking for?
といふ「英語」だけでなく、
⑧ Are you who?
⑩ Are you looking for what?
といふ「英語」も「正しい」とするならば、「その分」だけ、「括弧・返り点」を用ゐた「訓読」が「可能な英語」が、増へることになる。
平成28年12月05日、毛利太。
―「関連記事」―
(a)「訓読」の原理(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_3.html)。
(b){( )}の方が「読みやすい」(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post_2.html)。
(c)「レ点」に付いて(http://kannbunn.blogspot.com/2016/12/blog-post.html)。
(d)「返り点(特にレ点)」が苦手な人へ(http://kannbunn.blogspot.com/2016/11/blog-post_30.html)。
(e)「括弧」と『返り点』(http://kannbunn.blogspot.com/2016/11/blog-post.html)。
(f)「漢文の補足構造」としての「括弧」の付け方(http://kannbunn.blogspot.com/2016/09/blog-post_22.html)。
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