2020年8月12日水曜日

「漢文訓読」は、「漢文の補足構造」に従った「読み方」である。

(01)
① 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
① 非〈 〉⇒〈 〉非
① 不{ }⇒{ }不
① 求[ ]⇒[ ]求
① 以〔 〕⇒〔 〕以
① 解( )⇒( )解
① 解( )⇒( )解
といふ「移動」を行ひ、「平仮名」を加へると、
① 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
① 我〈必{[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
① 我は〈必ずしも{[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也=
① 私は〈必ずしも{[〔(中国語を)理解する方法を〕用ひて(漢文を)理解することを]求め}ない者では〉ないのである。
といふ「日本語語順」になる。
従って、
(01)により、
(02)
① 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
① 非 は、〈 〉の中を「読んだ直後に読む」。
① 不 は、{ }の中を「読んだ直後に読む」。
① 求 は、[ ]の中を「読んだ直後に読む」。
① 以 は、〔 〕の中を「読んだ直後に読む」。
① 解 は、( )の中を「読んだ直後に読む」。
① 解 は、( )の中を「読んだ直後に読む」。
ことによって、
① 我は〈必ずしも{[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
といふ、「漢文訓読語順」を、得ることが出来る。
然るに、
(03)
 漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」
といふ「事情」が有るからこそ、
① 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於ける、
①   〈  { [ 〔 (  ) 〕 (  )]} 〉
といふ『括弧』は、
(ⅰ)「漢文補足構造」と、
(ⅱ)「漢文訓読語順」とを、「同時」に、表してゐる。
然るに、
(03)により、
(05)
③ 読( 書)⇒( 書を)読む。
④ 読(漢文)⇒(漢文を)読む。
に於いて、
③ の「補足構造」と、
④ の「補足構造」とは、「等しい」。
然るに、
(06)
③ 読( 書)⇒( 書を)読む。
④ 読(漢文)⇒(漢文を)読む。
に於ける『返り点』は、それぞれ、
③ レ
④ 二 一
である。
加へて、
(07)
① 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
② 我非〈 不{求[以〔解( 文)法〕解( 文)]}者〉也。
であるならば、『返り点』は、それぞれ、
① 地 レ 丙 下 二 一 上 乙 甲 天
② 乙 レ 下 二 レ   一 上レ  甲
である。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
例へば、
① 地  丙 下 二 一 上 乙 甲 天
② 乙  下 二    一 上  甲

④ 二 一
がそうであるやうに、
「二つの漢文」の「補足構造」が「同じ」であったとしても、
『返り点』の場合は、「(レ点が有ることによって、)同じにはならない
従って、
(04)~(08)により、
(09)
(ⅰ)「漢文の補足構造」と、
(ⅱ)「漢文訓読の語順」とを、「同時」に表してゐる。
といふことは、『返り点』に関しては、成り立たない
然るに、
(10)
いづれにせよ、例へば、
⑤ 有江上。見人方引嬰兒而欲之江中嬰兒啼
といふ「(返り点が付いてゐる)漢文」を、
⑤ 江上を過ぎる者有り。人の方に嬰兒を引きて之を江中に投ぜんと欲し嬰兒の啼くを見る。
といふ風に、「訓読」するのであれば、その場合は、
⑤ 有過於江上者。見人方引嬰兒而欲投之江中嬰兒啼。
といふ「漢文」の、
⑤ 有[過〔於(江上)〕者]。見[人方引(嬰兒)而欲〔投(之江中)〕嬰兒啼]。
といふ「補足構造」に従って、「読んでゐる」
従って、
(10)により、
(11)
漢文」と「訓読」とでは、「語順」こそ、「同じ」ではないが、
漢文」を「訓読」したとしても、「補足構造」自体は、「変はらない」。
然るに、
(12)
中国語の文章は文言と白話に大別されるが、漢文とは文章語の文言のことであり、白話文や日本語化された漢字文などは漢文とは呼ばない。通常、日本における漢文とは、訓読といふ法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない。白話文は直接口語訳するのがよく、より原文の語気に近い訳となる(ウィキペディア)。
従って、
(11)(12)により、
(13)
「漢文(文言文)」とは異なり、「白話文(北京語)」は、「補足構造を、保存したまま、「日本語」にすることが、出来ない
従って、
(01)(10)(11)(13)により、
(14)
例へば、
① 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
① 我は〈必ずしも{[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
⑤ 有[過〔於(江上)〕者]。見[人方引(嬰兒)而欲〔投(之江中)〕嬰兒啼]。
⑤ [〔(江上)を〕過ぐる者]有り。[人の方に(嬰兒を)引きて〔(之を江中に)投ぜんと〕欲し嬰兒の啼くを]見る。
といふ、「漢文(文言文)の補足構造」と、「訓読(日本語)の補足構造」は、「共通」であるが、
   「白話文(北京語)の補足構造」と、「訓読(日本語)の補足構造」は、「共通」ではない
然るに、
(14)により、
(15)
 「漢文(文言文)の補足構造」と、「訓読(日本語)の補足構造」は、「共通」であるが、
「白話文(北京語)の補足構造」と、「訓読(日本語)の補足構造」は、「共通」ではない
といふことは、
 「漢文(文言文)の補足構造」と、
白話文(北京語)の補足構造」は、「共通」ではない
といふことに、他ならない。
然るに、
(16)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる。
(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)
従って、
(15)(16)により、
(17)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、
漢文(文言文)の補足構造」が、「共通である所の 「訓読」 による「漢文の解釈」を止めてしまひ
漢文(文言文)の補足構造」が、「共通ではない所の「中国語」による「漢文の解釈」を始めた。といふことになる
(18)
従って、
(18)により、
(19)
HTML」を用ひれば、「ハイフン(接続線)」の付いた『返り点』も、「書くこと」は、出来る。
しかしながら、
(20)
① 4 2 1 3
② 1 2 5 4 3
③ 1 2 5 3 4
④ 5‐6 2 1 3 4
⑤ 6 1 2 3 5 4
⑥ 6 4 3 1 2 5
⑦ 10 9 1 8 2 3 6 4 5 7
⑧ 6 4 1 3 2 5 7
⑨ 8 1 6 4 2 3 5 7
⑩ 1 5‐6‐7‐8 2 4 3
であるならば、
① 4〔2(1)3〕
② 1 2 5〔4(3)〕
③ 1 2 5(3 4)
④ 5‐6〔2(1)3 4〕
⑤ 6〔1 2 3 5(4)〕
⑥ 6[4〔3(1 2)〕5]
⑦ 10{9[1 8〔2 3 6(4 5)7〕]}
⑧ 6[4〔1 3(2)〕5]7
⑨ 8[1 6〔4(2 3)5〕7]
⑩ 1 5‐6‐7‐8〔2 4(3)〕
といふことになり、尚且つ、『括弧』であれば、「HTML」を用ひなくとも、「メモ帳だけで、「書くこと」が、出来る。
従って、
(20)により、
(21)
HTML」等を用ひなくとも、書くことが出来る。
といふ「一点」だけを以てしても、『括弧』の方が、『返り点』よりも、「優れてゐる」。
令和02年08月12日、毛利太。

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