(01)
cf.
① 無非欲不揮快刀不断乱麻者。
は、もちろん、私による「作例」です。
(02)
cf.
⑨ 快刀を揮ふ。
⑧ 快刀を揮はんと欲す。
⑦ 快刀を揮って乱麻を断たんと欲す。
⑥ 快刀を揮って乱麻を断たんと欲せず。
⑤ 快刀を揮って乱麻を断たんと欲する者に非ず。
④ 快刀を揮はずして乱麻を断たんと欲する者に非ず。
③ 快刀を揮って乱麻を断たざらんと欲する者に非ず。
② 快刀を揮はずして乱麻を断たざらんと欲する者に非ず。
① 快刀を揮はずして乱麻を断たざらんと欲する者に非ざるは無し。
然るに、
(03)
① 無〈非{欲[不〔揮(快刀)〕不〔断(乱麻)〕]者}〉。
に於いて、
無〈 〉⇒〈 〉無
非{ }⇒{ }非
欲[ ]⇒[ ]欲
不〔 〕⇒〔 〕不
揮( )⇒( )揮
不〔 〕⇒〔 〕不
断( )⇒( )断
といふ「移動」を行ふと、
① 無〈非{欲[不〔揮(快刀)〕不〔断(乱麻)〕]者}〉⇒
① 〈{[〔(快刀)揮〕不〔断(乱麻)〕不]欲者}非〉無=
① 〈{[〔(快刀を)揮は〕ずして〔(乱麻を)断た〕ざらんと]欲する者に}非ざるは〉無し。
といふ「訓読」を行ふことが、出来る。
然るに、
(04)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
⑨ 揮(快刀)。
⑧ 欲〔揮(快刀)〕。
⑦ 欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑥ 不[欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕]。
⑤ 非[欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕者]。
④ 非{欲[不〔揮(快刀)〕断(乱麻)]者}。
③ 非{欲[揮(快刀)不〔断(乱麻)〕]者}。
② 非{欲[不〔揮(快刀)〕不〔断(乱麻)〕]者}。
① 無〈非{欲[不〔揮(快刀)〕不〔断(乱麻)〕]者}〉。
に於ける、
⑨ ( )
⑧ 〔 ( ) 〕
⑦ 〔 ( )( ) 〕
⑥ [ 〔 ( )( ) 〕 ]
⑤ [ 〔 ( )( ) 〕 ]
④ { [ 〔 ( )〕( ) ] }
③ { [ ( )〔 ( )〕 ] }
② { [ 〔 ( )〕〔 ( ) 〕 ] }
①〈 { [ 〔 ( )〕〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」は、それぞれが、
⑨ 揮快刀。
⑧ 欲揮快刀。
⑦ 欲揮快刀断乱麻。
⑥ 不欲揮快刀断乱麻。
⑤ 非欲揮快刀断乱麻者。
④ 非欲不揮快刀断乱麻者。
③ 非欲揮快刀不断乱麻者。
② 非欲不揮快刀不断乱麻者。
① 無非欲不揮快刀不断乱麻者。
といふ「漢文」の、「補足構造」を表してゐる。
従って、
(05)により、
(06)
「漢文(⑨~①)」に、「括弧」が無いのであれば、
「漢文(⑨~①)」には「補足構造」が無い。
然るに、
(07)
「漢文(⑨~①)」には「補足構造」が有る。
従って、
(06)(07)により、
(08)
「漢文(⑨~①)」には、
⑨ 揮(快刀)。
⑧ 欲〔揮(快刀)〕。
⑦ 欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
⑥ 不[欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕]。
⑤ 非[欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕者]。
④ 非{欲[不〔揮(快刀)〕断(乱麻)]者}。
③ 非{欲[揮(快刀)不〔断(乱麻)〕]者}。
② 非{欲[不〔揮(快刀)〕不〔断(乱麻)〕]者}。
① 無〈非{欲[不〔揮(快刀)〕不〔断(乱麻)〕]者}〉。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
然るに、
(09)
Q. ラテン語の語順の自由さについて
Q. 突然のメールで恐縮ですが、私がラテン語学習で感じた感想を述べさせてください。ラテン語学習で私が特に(接続法の次に)面食らったのが、語順の自由さです。
古代ローマの人たちは、この語順をはたしてどのように受け止めていたのでしょうか。
例えば、こういう一節があります。
Parva necat morsū spatiōsum vīpera taurum.
順通りの訳は「小さいのが、殺す、一咬みで、大きいのを、蛇が、牛を。」となります。
私はロシア語を長年学習していたこともあり、格変化などについてはほぼ理解できていますが、それにしてもこの語順は、人間の自然な言語としてはおよそ信じられないほどに出鱈目です。
(山下太郎のラテン語入門)
従って、
(09)により、
(10)
⑩ Parva necat morsū spatiōsum vīpera taurum.
といふ「ラテン語」が、
⑩ 小さい蛇が、一咬みで、大きい牛を殺す。
とといふ「意味」であったとしても、「その語順」ではなく、「その語形」が、
⑩ 小さい蛇(主語)が、一咬みで(副詞句)、大きい牛(目的語)を殺す(動詞)。
といふ「意味」を表してゐる。
然るに、
(11)
「漢文」であれば、
⑩ 小蛇以(一咬)殺(大牛)。
といふ「語順」を「変へ」て、
⑩ 小 殺 一咬 大 蛇 牛。
とするならば、
⑩ 小さい蛇(主語)が、一咬みで(副詞句)、大きい牛(目的語)を殺す(動詞)。
といふ「意味」には、決して、ならない。
従って、
(04)(11)により、
(12)
⑩ Parva necat morsū spatiōsum vīpera taurum.
といふ「ラテン語」には、「括弧」が無い「代はり」に、「語形の別」が有って、
⑩ 小蛇以(一咬)殺(大牛)。
といふ「漢文」には、「括弧」が有る「代はり」に、「語形の別」が無い。
といふ、ことになる。
然るに、
(13)
漢語におけるこのような表現のしかたは、単語の間の関係を文法的な形式によって示すことを重んじている西欧の言語になれている人にとっては、まことに奇妙なことに思われるものと考えられる。カールグレン氏は、その著書《中国の言語》において、このような奇妙な孤立的な漢語の文法は、「非常に貧弱なものであり」、「漢語においては、文法的な分析は、あまり役に立たず、実際に役立つのは、広い読書を通じて習得した経験、つまり、中国人がどのようにして文をつくりあげているかということに対する感覚が、唯一のものである」と説き、更に、漢語の文の意味を理解するためには、「豊富な直観が、必要である」とも述べている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、293頁)。
(14)
① 無非欲不揮快刀不断乱麻者。
のやうな「漢文」には、「ラテン語の文法」のやうな「文法」は無いので、「語順」だけが、「漢文の文法」である。
といふ風に、言へないこともない。
(15)
管到というのは「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである。なんのことはない。諸君が古文や英語の時間でいつも練習している、あの「どこまでかかるか」である。漢文もことばである以上、これは当然でてくる問題である(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
然るに、
(16)
⑦ 欲〔揮(快刀)断(乱麻)〕。
であれば、
⑦ 欲 は、
⑦ 〔揮(快刀)断(乱麻)〕までに係ってゐて、
⑦ 揮 は、
⑦ (快刀)までに係ってゐて、
⑦ 断 は、
⑦ (乱麻)までに係ってゐる。
従って、
(17)
「漢文に、括弧は有ります!」といふ「言ひ方」は、
「漢文に、管到は有ります!」といふ「言ひ方」と、「同じ」である。
従って、
(15)(16)(17)により、
(18)
「漢文に、括弧は有ります!」。
令和02年03月20、毛利太。
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