(01)
我が家=私の家=My house
従って、
(01)により、
(02)
「が・の」は、歴史的には、「連体助詞」である。
従って、
(01)(02)より、
(03)
① 鼻は長し(終止形)。
といふ「日本語」は、有っても、
② 鼻が長し(終止形)。
といふ「日本語」は、昔は無かった。
従って、
(03)により、
(04)
① 象は鼻が長き(連体形)動物なり。
といふ「日本語」は有っても、
② 象は鼻が長し(終止形)。
といふ「日本語」は、昔は無かった。
従って、
(04)により、
(05)
① 象は鼻が長き(連体形)動物なり。
といふ「日本語」は有っても、
② 象は鼻が長い(連体形)動物である。
といふ「日本語」は、昔は無かった。
然るに、
(06)
古文では、「長し(終止形)、長き(連体形)」であるが、
口語では、「長い(終止形)、長い(連体形)」であるため、口語では、「終止形」と「連体形」が、「同じ形」をしてゐる。
cf.
動詞の場合も、現代語は、「終止形」と「連体形」が、「同じ形」をしてゐる。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① 象は鼻が長き(連体形)動物なり。
② 象は鼻が長い(連体形)動物である。
といふ「古文と現代語」から、
① 動物なり、
② 動物である。
を「除く」と、
① 象は鼻が長き(連体形)。
② 象は鼻が長い(終止形)。
となって、
① は「非文」であるが、
② は「非文」ではない。
従って、
(06)(07)により、
(08)
「長し(終止形)、長き(連体形)」といふ「古文」が、
「長い(終止形)、長い(連体形)」といふ「口語」に変った時点で、
① 象は鼻が長き(連体形)動物なり。
② 象は鼻が長い(終止形)。
に於いて、
① は、消滅し、
② が、誕生した。
といふ、ことになる。
然るに、
(09)
① 鼻は長い。
② 鼻が長い。
に於いて、
①「は」は「清音」であり、
②「が」は「濁音」である。
然るに、
(10)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① 鼻は長い。
② 鼻が長い。
に於いて、
①「鼻は(清音)」よりも、
②「鼻が(濁音)」の方が、「心理的な音量」が大きい。
従って、
(11)により、
(12)
① 鼻は長い。
② 鼻が長い。
に於いて、
①「鼻は(清音)」に対する、
②「鼻が(濁音)」は、「心理的な音量差」による、「強調形」である。
然るに、
(13)
「AはBであり、A以外はBでない。」といふ「命題」を、
「排他的命題(Exclusive proposition)」といふ。
従って、
(13)により、
(14)
「私は(他の誰でもなく)あなたにこれを受け取ってほしい。」
「私はあなたに(他のものではなく)これを受け取ってほしい。」
は、2つとも、「排他的命題(Exclusive proposition)」である。
然るに、
(15)
その強調の仕方によって、文の伝えたい意味ですら変わってきます。
例えば、
“I’d like you to have this.” とyouを強調すれば、
「私は(他の誰でもなく)あなたにこれを受け取ってほしい。」
という意味になりますし、
“I’d like you to have this.” とthisを強調すれば、
「私はあなたに(他のものではなく)これを受け取ってほしい。」
という意味になります。
(逆転英語ガイド:英語でプロソディ(リズム・アクセント・抑揚)が重要な理由と学び方)
従って、
(13)(14)(15)により、
(16)
「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
従って、
(12)(16)により、
(17)
① 鼻は長い。
② 鼻が長い。
に於いて、
①「鼻は(清音)」に対する、
②「鼻が(濁音)」は、「心理的な音量差」による、「強調形」であって、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
従って、
(13)(17)により、
(18)
① 鼻は長い=鼻は長い。
② 鼻が長い=鼻は長く、鼻以外は長くない(排他的命題)。
といふ「等式」が、「成立」する。
然るに、
(19)
私が理事長です。(理事長は私です)
のように、ガの文がいわばハを内蔵していることがあるから、その説明が必要である。このような「私が」を強声的になっていると言うことにする。そこに発音上のストレスを与えたのと似た効果を持っているからである(三上章、日本語の論理、1963年、106頁)。
従って、
(19)により、
(20)
「私が」には、「発音上のストレス」があると、三上章 先生は、言ってゐる。
従って、
(17)~(20)により、
(21)
① 私は理事長です=私は理事長です。
② 私が理事長です=私は理事長であり、私以外は理事長ではない(排他的命題)。
といふ「等式」が、「成立」する。
といふ風に、三上章 先生は、言ってゐるに、「等しい」。
然るに、
(22)
② 私以外は理事長ではない。
③ 理事長は私です。
に於いて、
②=③ は、「対偶(Contraposition)」である。
従って、
(21)(22)により、
(23)
① 私は理事長です=私は理事長です。
② 私が理事長です=私は理事長であり、私以外は理事長ではない。
③ 私が理事長です=私は理事長であり、理事長は私です。
に於いて、
②=③ である。
といふ風に、三上章 先生は、言ってゐるに、「等しい」。
然るに、
(24)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されるのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念会は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念会」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
従って、
(19)(23)(24)により、
(25)
三上章 先生は、
② 私が理事長です=私は理事長であり、私以外は理事長ではない。
③ 私が理事長です=私は理事長であり、理事長は私です。
に於ける、
② には、気付いてゐないが。
③ には、気付いてゐたし、
① 私は(清音)
② 私が(濁音)
に於いて、
① よりも、
② の方が、「心理的な音量」が「大きい」といふことにも、気付いてゐた。
然るに、
(26)
1 (1)∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]} A
1 (2) T会の会員a→∃y[私y&理事長ya&∀z(理事長za→y=z)] 1UE
3 (3) T会の会員a A
13 (4) ∃y[私y&理事長ya&∀z(理事長za→y=z)] 34MPP
5 (5) 私b&理事長ba&∀z(理事長za→b=z) A
5 (6) 私b&理事長ba 5&E
5 (7) ∀z(理事長za→b=z) 5&E
5 (8) 理事長ca→b=c 7UE
9 (9) ∃z(小倉z&~私z) A
ア (ア) 小倉c&~私c A
ア (イ) 小倉c ア&E
ア (ウ) ~私c ア&E
エ(エ) b=c A
アエ(オ) ~私b ウエ=E
5 (カ) 私b 6&E
5 アエ(キ) ~私b&私b オカ&I
5 ア (ク) b≠c エキRAA
5 ア (ケ) ~理事長ca 8クMTT
5 ア (コ) 小倉c&~理事長ca イケ&I
5 ア (サ) ∃z(小倉z&~理事長za) コEI
59 (シ) ∃z(小倉z&~理事長za) 9アサEE
13 9 (ス) ∃z(小倉z&~理事長za) 45シEE
1 9 (セ) T会の会員a→∃z(小倉z&~理事長za) 3スCP
1 9 (シ)∀x{T会の会員x→∃z(小倉z&~理事長zx)} セUI
1 9 (〃)タゴール記念会は、小倉氏は、理事長ではない。 セUI
従って、
(26)により、
(27)
(1)∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}。然るに、
(9)∃z(小倉z&~私z)。従って、
(シ)∀x{T会の会員x→∃z(小倉z&~理事長zx)}。
といふ「推論」、すなはち、
(1)すべてのxについて、xがT会の会員であるならば、あるyは、私であって、その上、xの理事長であって、すべてのzについて、zがxの理事長であるならば、yとzは「同一」である。然るに、
(9)あるzは小倉氏であって、zは私ではない。従って、
(シ)すべてのxについて、xがT会の会員であるならば、あるzは小倉氏であって、zはxの理事長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」である。
然るに、
(28)
(1)タゴール記念会は、私が理事長です。 然るに、
(9)小倉氏は私ではない。 従って、
(シ)タゴール記念会の理事長は、小倉氏ではない。
といふ「推論」は、「日本語」としても、「妥当」である。
従って、
(27)(28)により、
(29)
① タゴール記念会は、私が理事長です。⇔
① タゴール記念会は、私は理事長であり、私以外理事長ではない。⇔
① ∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}⇔
① すべてのxについて、xがT会の会員であるならば、あるyは、私であって、その上、xの理事長であって、すべてのzについて、zがxの理事長であるならば、yとzは「同一」である。
といふ「等式」を、「否定」する一方で、
(1)タゴール記念会は、私が理事長です。 然るに、
(9)小倉氏は私ではない。 従って、
(シ)タゴール記念会の理事長は、小倉氏ではない。
といふ「推論」を、「妥当」である。
と、することは出来ない。
然るに、
(30)
(1)タゴール記念会は、私が理事長です。 然るに、
(9)小倉氏は私ではない。 従って、
(シ)タゴール記念会の理事長は、小倉氏ではない。
といふ「推論」は、明らかに、「妥当」である。
従って、
(29)(30)により、
(31)
① タゴール記念会は、私が理事長です。⇔
① タゴール記念会は、私は理事長であり、私以外理事長ではない。⇔
① ∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}⇔
① すべてのxについて、xがT会の会員であるならば、あるyは、私であって、その上、xの理事長であって、すべてのzについて、zがxの理事長であるならば、yとzは「同一」である。
といふ「等式」は、「正しい」。
令和02年06月27日、毛利太。
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