―「先程(令和02年06月22日)の記事」を補足します。―
(01)
(ⅰ)
1 (1) ~∀x( Fx) A
2 (2) ~∃x(~Fx) A
3(3) ~Fa A
3(4) ∃x(~Fa) 3EI
23(5) ~∃x(~Fx)&
∃x(~Fx) 24&I
2 (6) ~~Fa 35RAA
2 (7) Fa 6DN
2 (8) ∀x( Fx) 7UI
12 (9) ~∀x( Fx)&
∀x( Fx) 18&I
1 (ア)~~∃x(~Fx) 29RAA
1 (イ) ∃x(~Fx) アDN
(ⅱ)
1 (1) ∃x(~Fx) A
2 (2) ∀x( Fx) A
3(3) ~Fa A
2 (4) Fa 1UE
23(5) ~Fa&Fa 34&I
3(6) ~∀x( Fx) 25RAA
1 (7) ~∀x( Fx) 136EE
(ⅲ)
1 (1) ~∃x( Fx) A
2 (2) ~∀x(~Fx) A
3(3) Fa A
3(4) ∃x( Fx) 3EI
1 3(5) ~∃x( Fx)&
∃x( Fc) 14&I
1 (6) ~Fa 35RAA
1 (7) ∀x(~Fx) 6UI
12 (8) ~∀x(~Fx)&
∀x(~Fx) 27&I
1 (9)~~∀x(~Fx) 28RAA
1 (ア) ∀x(~Fx) 9DN
(ⅳ)
1 (1) ∀x(~Fx) A
2 (2) ∃x( Fx) A
1 (3) ~Fa 1UE
4(4) Fa A
1 4(5) ~Fa&Fa 34&I
12 (6) ~Fa&Fa 245EE
1 (7) ~∃x( Fx) 26RAA
従って、
(01)により、
(02)
① ~∀x( Fx)≡すべてのxがFである。といふわけではない。
② ∃x(~Fx)≡Fでないxが存在する。
③ ~∃x( Fx)≡Fであるxは存在しない。
④ ∀x(~Fx)≡すべてのxはFでない。
に於いて、
①=② であって、
③=④ である。
従って、
(02)により、
(03)
① ~∀x{∀y(愛xy)}≡∃x{~∀y(愛xy)}≡∃x{∃y(~愛xy)}
② ~∀x{∃y(愛xy)}≡∃x{~∃y(愛xy)}≡∃x{∀y(~愛xy)}
③ ~∃x{∀y(愛xy)}≡∀x{~∀x(愛xy)}≡∀x{∃x(~愛xy)}
④ ~∃x{∃y(愛xy)}≡∀x{~∃x(愛xy)}≡∀x{∀x(~愛xy)}
然るに、
(04)
{xとyの変域}が、{人間}であるならば、
① ∀x{∀y(愛xy)}≡すべての人は(、自分を含めて)すべての人を愛す。≡すべての人は(、自分を含めて)すべての人によって愛される。
② ∀x{∃y(愛xy)}≡すべての人は(、自分を含めて)ある人を 愛す。
③ ∃x{∀y(愛xy)}≡ ある人は(、自分を含めて)すべて人を 愛す。
④ ∃x{∃y(愛xy)}≡ ある人は(、自分を含めて)ある人を 愛す。≡ ある人(、自分を含めて) ある人によって愛される。
従って、
(04)により、
(05)
① ∀x{∀y(~愛xy)}≡すべての人は(、自分を含めて)すべての人を愛さない。
② ∀x{∃y(~愛xy)}≡すべての人は(、自分を含めて)ある人を 愛さない。
③ ∃x{∀y(~愛xy)}≡ ある人は(、自分を含めて)すべて人を 愛さない。
④ ∃x{∃y(~愛xy)}≡ ある人は(、自分を含めて)ある人を 愛さない。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① ~∀x{∀y(愛xy)}≡すべての人がすべての人を愛する。といふことはない。≡ある人は ある人を愛さない。
② ~∀x{∃y(愛xy)}≡すべての人が ある人を愛する。といふことはない。≡ある人は すべての人を愛さない。
③ ~∃x{∀y(愛xy)}≡ ある人がすべての人を愛する。といふことはない。≡すべての人は ある人を愛さない。
④ ~∃x{∃y(愛xy)}≡ ある人が ある人を愛する。といふことはない。≡すべての人はすべての人を愛さない。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(06)により、
(07)
①(ある人が、 ある人を愛さない。)といふことはない。⇔ すべての人は、すべての人を愛す。
②(ある人が、 すべての人を愛さない。)といふことはない。⇔ すべての人は、 ある人を愛す。
③(すべての人が、 ある人を愛さない。)といふことはない。⇔ ある人は、 すべての人を愛す。
④(すべての人が、すべての人を愛さない。)といふことはない。⇔ ある人は、 ある人を愛す。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(08)
教えて!goo:キリスト教って博愛主義なんじゃないの?
質問者:noname#72832質問日時:2006/02/02 05:11回答数:26件
私は幼稚園がキリスト教でした。
小学生の頃は日曜学校にも行っていて、ページェントもやりました。
そこで習ったことはなんとなくですが今でも覚えています。
「右頬を殴られたら左頬を差し出せ」
「たとえ気に入らなくても一生懸命あなたの隣人を愛しなさい」
「求める者には惜しみなく与えよ」
たしかこんなことだったと思います。
先生からはこれらの言葉やイエス・キリストの最期を通して、嫌な相手を憎むのではなく愛して許すことや人を傷つけてはならないということを教えられました。
子供ながらに「イエス様って優しいなぁすごいなぁ」と思ったものです。
神様(いわゆる天の上にいて私達を見守っているもの)はいないと思っている今でも、イエス・キリストのそんな考え方は尊敬しているし、実践できたらいいなと思います。(そんなに心が広くはないのでまだ出来てませんが。)
従って、
(07)(08)により、
(09)
③ ある人は、すべての人を愛す。⇔(すべての人が、ある人を愛さない。)といふわけではない。
に関して言へば、
③ イエスといふ人(Son of Man、アダムの子)は、(自分の敵を含めて)すべての人を愛す。従って、
③(イエスが、さうであるため、すべての人が、ある、特定の人を愛さない。)といふことにはならない。
といふ「例」で考へると、「分かりやすい」。
令和02年06月22日、毛利太。
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