2020年6月18日木曜日

「~が」と「強調形」と「排他的命題」と「三上文法批判」。

(01)
(ⅰ)
1       (1) ∀x{作者x→(Bx∨Cx)}  A
1       (2)    作者a→(Ba∨Ca)   1UE
 3      (3)    作者a           A
13      (4)         Ba∨  Ca   23MPP
  5     (5)         ~Ba&~Ca   A
   6    (6)         Ba       A
  5     (7)        ~Ba       5&E
  56    (8)         Ba&~Ba   67&I
   6    (9)      ~(~Ba&~Ca)  58RAA
    ア   (ア)             Ca   A
  5     (イ)            ~Ca   5&E
  5 ア   (ウ)         Ca&~Ca   アイ&I
    ア   (エ)      ~(~Ba&~Ca)  5アRAA
13      (オ)      ~(~Ba&~Ca)  469アエ∨E
     カ  (カ)        ~Ba       A
      キ (キ)            ~Ca   A
     カキ (ク)        ~Ba&~Ca   カキ&I
13   カキ (ケ)      ~(~Ba&~Ca)&
                  (~Ba&~Ca)  オク&I
13   カ  (コ)           ~~Ca   キケRAA
13   カ  (サ)             Ca   コDN
13      (シ)         ~Ba→Ca   カサCP
1       (ス)    作者a→(~Ba→Ca)  3シCP
       セ(セ)    作者a& ~Ba      A
       セ(ソ)    作者a           セ&E
1      セ(タ)         ~Ba→Ca   スソMPP
       セ(チ)         ~Ba      セ&E
1      セ(ツ)             Ca   タチMPP
1       (テ)   (作者a&~Ba)→Ca   セツCP
1       (ト)∀x{(作者x&~Bx)→Cx}  テUI
(ⅱ)
1       (1)∀x{(作者x&~Bx)→Cx}  A
1       (2)   (作者a&~Ba)→Ca   1UE
 3      (3)    作者a           A
  4     (4)        ~Ba       A
 34     (5)    作者a&~Ba       34&I
134     (6)             Ca   25MPP
13      (7)        ~Ba→ Ca   46CP
   8    (8)        ~Ba&~Ca   A
   8    (9)        ~Ba       8&E
13 8    (ア)             Ca   79MPP
   8    (イ)            ~Ca   8&E
13 8    (ウ)         Ca&~Ca   アイ
13      (エ)       ~~Ba       9ウRAA
13      (オ)         Ba       エDN
13      (カ)         Ba∨Ca    オ∨I
1       (キ)    作者a→(Ba∨Ca)   3カCP
1       (コ) ∀x{作者x→(Bx∨Cx)}  キUI
従って、
(01)により、
(02)
① ∀x{ 作者x→(Bx∨ Cx)}
② ∀x{(作者x&~Bx)→Cx}
に於いて、すなはち、
① すべてのxについて{xが作者であるならば、xはBであるか、または、xはCである}。
② すべてのxについて{xが作者であって、xがBでないならば、xはCである}。
に於いて、
①=② である。
従って、
(02)により、
(03)
① すべてのxについて{xが作者であるならば、xはBであるか、または、xはCである}。
② すべてのxについて{xが作者であって、xがBでないならば、xはCである}。
に於いて、すなはち、
① 作者は、Bか、Cである。
② 作者が、Bでないならば、C作者である。
に於いて、
①=② である。
従って、
(03)により、
(04)
① 作者は、Bか、Cである。
② 作者が、Bでないならば、C作者である。
③ 作者が、Cでないならば、B作者である。
に於いて、
①=②=③ である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 作者は、Bか、Cである。然るに、
② 作者は、Bでない。   故に、
③ C作者である。
といふ「推論(選言三段論法)」は「妥当(Valid)」である。
従って、
(05)により、
(06)
③ 誰このケーキを作ったのですか(Who made this cake?)。
といふ「疑問文」は、
③( )はこのケーキを作ったが、( )以外はこのケーキを作らなかった
に於ける、
③( )            ( )
といふ「2つの括弧」の中に入るのは、「誰か」といふ「質問文」であると、見做すことが出来る。
然るに、
(07)
A:Who made this cake?
B:I did.
C:No,you didn't. I did.
であるならば、例へば、
A:誰このケーキを作ったのですか。
B:私です。
C:いいえ、あなたではありません。私作りました。
といふ「日本語」に、相当する。
然るに、
(07)により、
(08)
この場合、
C:No,you didn't. I did.
の「」は、「普段よりも、強く発音される」はずであり、尚且つ、
C:いいえ、あなたではありません。私作りました。
に対して、
C:いいえ、あなたではありません。私作りました。
とは、言はない
従って、
(08)により、
(09)
③ 私作りました。
④ 私作りました。
に於いて、
③「私」の「(心理的な)音量」は、
④「私」の「(心理的な)音量」よりも、「大きい」。
従って、
(06)~(09)により、
(10)
A:誰このケーキを作ったのですか。
B:私作りました。
に於いて、
③ 私作りました。⇔
③ 私は作ったが、私以外は作らなかった
といふ「等式」が、成立し、尚且つ、
③ 私が作りました。
④ 私は作りました。
に於いて、
③「私」の「(心理的な)音量」は、
④「私は」の「(心理的な)音量」よりも、「大きい」。
然るに、
(11)
③ 私は作ったが、私以外は作らなかった
のやうに、
③ AはBであり、A以外はBでない
といふ「命題」を、「排他的命題(Exclusive proposition)」といふ。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ 私作りました。
④ 私は作りました。
に於いて、
③「私」の「(心理的な)音量」は、
④「私は」の「(心理的な)音量」よりも、「大きく」、尚且つ、
③ 私作りました。
といふ「日本語」は、
③ 私は作ったが、私以外は作らなかった
といふ「排他的命題(Exclusive proposition)」である。
然るに、
(13)
③ 私作りました。
④ 私は作りました。
に於いて、
③「私」は、「私+音)」であって、
③「私は」は、「私+は(清音)」である。
然るに、
(14)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。もし音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(12)(13)(14)により、
(15)
③ 私作りました。
④ 私は作りました。
に於いて、
③「私音)」の「(心理的な)音量」は、実際に、
④「私は(清音)」の「(心理的な)音量」よりも、「大きい」。
然るに、
(16)
  私理事長です。(理事長は私です)
のように、の文がいわばハを内蔵していることがあるから、その説明が必要である。このような「私強声的になっていると言うことにする。そこに発音上ストレスを与えたのと似た効果を持っているからである(三上章、日本語の論理、1963年、106頁)。
従って、
(15)(16)により、
(17)
① 私理事長です。
② 私は理事長です。
に於いて、
①「私音)」の「(心理的な)音量」は、実際に、
②「私は(清音)」の「(心理的な)音量」よりも、「大きい強声的)」である。
といふことは、三上章 先生自身も、認めてゐる
然るに、
(18)
理事長は私です(命題)。
② 私以外は理事長ではない排他的命題)。
に於いて、
①=② は、「対偶(Contraposition)」である。
然るに、
(19)
よく知られているように、「私理事長です」は語順を変え、
 理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されるのである。また、かりに大倉氏が、
 タゴール記念会は、私理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念会」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
① 私理事長です。
② 私は理事長であり、理事長は私である(命題)。
③ 私は理事長であり、私以外は理事長ではない命題の対偶であって、排他的命題)。
に於いて、
①=②=③ であって、尚且つ、
① 私理事長です。
② 私は理事長です。
に於いて、
①「私音)」の「(心理的な)音量」は、実際に、
②「私は(清音)」の「(心理的な)音量」よりも、「大きい強声的)」である。
といふことは、三上章 先生自身も、認めてゐる
従って、
(20)により、
(21)
強調強声)形は、「排他的命題」を主張する。』
とするならば、「必然的」に、
① 私理事長です。
② 私は理事長であり、理事長は私である(逆命題)。
③ 私は理事長であり、私以外は理事長ではない命題の対偶であって、排他的命題)。
に於いて、
①=②=③ といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(19)により、
(22)
① タゴール記念会は、私理事長です。
② タゴール記念会は、私は理事長であり、理事長は私である。
③ タゴール記念会は、私は理事長であり、私以外は理事長ではない
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(23)
① 私=理事長
であるならば、その時に限って
① 理事長=私
である。
従って、
(23)により、
(24)
① 私=理事長
であるならば、その時に限って
① 私は理事長であり、理事長は私である。
然るに、
(25)
① 私=理事長
であるならば、その時に限って
③ 私は理事長であり、私以外は理事長ではない
従って、
(22)~(25)により、
(26)
① 私=タゴール記念会の理事長
であるならば、その時に限って
① タゴール記念会は、私理事長です。
② タゴール記念会は、私は理事長であり、理事長は私である。
③ タゴール記念会は、私は理事長であり、私以外は理事長ではない
に於いて、
①=②=③ である。
然るに、
(27)
 ― 何度も、書くものの、―
1     (1)∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]} A
1     (2)   T会の会員a→∃y[私y&理事長ya&∀z(理事長za→y=z)]  1UE
 3    (3)   T会の会員a                             A
13    (4)          ∃y[私y&理事長ya&∀z(理事長za→y=z)]  34MPP
  5   (5)             私b&理事長ba&∀z(理事長za→b=z)   A
  5   (6)             私b&理事長ba                 5&E
  5   (7)                      ∀z(理事長za→b=z)   5&E
  5   (8)                         理事長ca→b=c    7UE
   9  (9)       ∃z(小倉z&~私z)                      A
    ア (ア)          小倉c&~私c                       A
    ア (イ)          小倉c                           ア&E
    ア (ウ)              ~私c                       ア&E
     エ(エ)                b=c                     A
    アエ(オ)            ~私b                       ウエ=E
  5   (カ)             私b                       6&E
  5 アエ(キ)            ~私b&私b                    オカ&I
  5 ア (ク)              b≠c                     エキRAA
  5 ア (ケ)                        ~理事長ca        8クMTT
  5 ア (コ)        小倉c&~理事長ca                    イケ&I
  5 ア (サ)     ∃z(小倉z&~理事長za)                   コEI
  59  (シ)     ∃z(小倉z&~理事長za)                   9アサEE
13 9  (ス)     ∃z(小倉z&~理事長za)                   45シEE
1  9  (セ)   T会の会員a→∃z(小倉z&~理事長za)              3スCP
1  9  (シ)∀x{T会の会員x→∃z(小倉z&~理事長zx)}             セUI
1  9  (〃)タゴール記念会は、小倉氏は、理事長ではない。                セUI
従って、
(27)により、
(28)
(1)∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}。然るに、
(9)∃z(小倉z&~私z)。従って、
(シ)∀x{T会の会員x→∃z(小倉z&~理事長zx)}。
といふ「推論」、すなはち、
(1)すべてのxについて、xがT会の会員であるならば、あるyは、私であって、その上、xの理事長であって、すべてのzについて、zがxの理事長であるならば、yとzは「同一」である。然るに、
(9)あるzは小倉氏であって、zは私ではない。従って、
(シ)すべてのxについて、xがT会の会員であるならば、あるzは小倉氏であって、zはxの理事長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」である。
然るに、
(29)
(1)タゴール記念会は、私理事長です。 然るに、
(9)小倉氏は私ではない。 従って、
(シ)タゴール記念会の理事長は、小倉氏ではない
といふ「推論」は、「日本語」としても、「妥当」である。
従って、
(26)~(29)により、
(30)
① タゴール記念会は、私理事長です。⇔
① タゴール記念会は、私は理事長であり、私以外は理事長ではない。⇔
① ∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}⇔
① すべてのxについて、xがT会の会員であるならば、あるyは、私であって、その上、xの理事長であって、すべてのzについて、zがxの理事長であるならば、yとzは「同一」である。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(20)~(30)により、
(31)
強調強声)形は、「排他的命題」を主張する。』
とするならば、「必然的」に、
① タゴール記念会は、私理事長です。⇔
① タゴール記念会は、私は理事長であり、私以外は理事長ではない。⇔
① ∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}⇔
① すべてのxについて、xがT会の会員であるならば、あるyは、私であって、その上、xの理事長であって、すべてのzについて、zがxの理事長であるならば、yとzは「同一」である。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(16)(31)により、
(32)
 三上章 先生は、
『「~は」に対する「~」は、「強調形」であって、「強調形」は、「排他的命題(命題の対偶)を主張する。』
といふことを、認めるべきである。
然るに、
(33)
Xハ(Xを兼務する場合)は題目である主格、Xは題目ではないただの主格、と言えばハとガの大切な区別はついたことになるが、なお一つ、どうしてもつけ加えなければならないことがある。それは、
 私理事長です。(理事長は私です)
のように、の文がいわばハを内蔵していることがあるから、その説明が必要である。このような「私」を強声的になっていると言うことにする。そこに発音上ストレスを与えたのと似た効果を持っているからである(三上章、日本語の論理、1963年、105頁)。
従って、
(32)(33)により、
(34)
三上章 先生は、
(ⅰ)『「~は」に対する「~」は、「強調形」であって、「強調形」は、「排他的命題(命題の対偶)を主張する。』
(ⅱ)『Xハ(Xガを兼務する場合)は「題目である主格」、Xガは「題目ではないただの主格」である。』
に於いて、
(ⅰ)と(ⅱ)の間に有る何か」を「特定」して、「その何か」を、「矛盾」することなく、「説明」すべきである。
(35)
私には、三上章 先生がいふ所の、『Xハ(X兼務する場合)は題目である主格、X題目ではないただの主格、と言えばハとガの大切な区別はついたことになる。』といふ「言ひ方」が、「全く、理解できない。」
(36)
日本語を英語に訳すと、日本語ではしばしば省かれている主語は英語では補わなければならない(三上章、日本語の論理、1963年、137頁)。
然るに、
(37)
主語目的語補語、これだけは自分で考えるクセを付けて下さい。学校の先生がこれまた、考えなくとも、どんどん入れて訳してくれるんです。古文はよく、省かれているんですね。誰が誰を誰に、みたいなものが、日本語はよく省略されているんですけど、先生がどんどん補って下さる(東進ハイスクール 荻野文子先生 - YouTube)。
従って、
(36)(37)により、
(38)
①(古文を含む)日本語を英語に訳すと、日本語ではしばしば省かれている「主語」       は英語では補わなければならない。
②(古文を含む)日本語を英語に訳すと、日本語ではしばしば省かれている「主語目的語補語」は英語では補わなければならない。
に於いて、
① は「正確」ではなく
② が「正確」である
然るに、
(39)
恋人お雪に贈ったのか乳母(私)に贈ったのか? キイン氏は、しまいに近松専門家とも相談の上、乳母ときめて英訳。Gonza sent me a pair of leather-soled sandals and ........
省略された主語を補った実例が「私」なのである。英文法でいう間接目的語なのである。― 中略 ―
万一、キイン氏が記号論理学の立場で「私」「私」「私」は三つとも主語だと考えておられるのであれば、こちらはそれを三つとも補語と呼ぼうという立場なのである(三上章、日本語の論理、1963年、137・138頁)。
従って、
(36)~(39)により、
(40)
②(古文を含む)日本語を英語に訳すと、日本語ではしばしば省かれている「主語目的語補語」は英語では補わなければならない。
と書くべきところを、
①(古文を含む)日本語を英語に訳すと、日本語ではしばしば省かれている「主語」       は英語では補わなければならない。
と書いたのは、ドナルド・キーン先生の、単なる「ケアレス・ミス」に過ぎない。
加へて、
(41)
固より、『記号論理学の立場で「私」「私」「私」は三つとも主語である。』といふ「言ひ方」が、「私には、全く、理解できない。」
(42)
命題論理」は、「命題」自体が「単位」であるため、例へば、「ソクラテスは人間である。」といふ「文」を表すことが出来ない。
然るに、
(43)
述語論理」であれば、
② ソクラテスは人間である。⇔
② ソクラテスといふ人間がゐる。⇔
② ∃(ソクラテス&人間)⇔
② あるについて(はソクラテスであって、は人間である)。
であるため、
② ソクラテスは人間である。
に於いて、
② ソクラテスは
は、「主語」ではない
(44)
② ソクラテスは人間である。⇔
② ソクラテスといふ人間がゐる。⇔
② ∃(ソクラテス&人間)⇔
② あるについて(はソクラテスであって、は人間である)。
であるため、
② ソクラテスは
ではなく、

が、「主語」である
従って、
(41)~(44)により、
(45)
少なくとも、『記号論理学の立場で「私」「私」「私」は三つとも主語である。』といふことは、有り得ない
(46)
「三上章、日本語論理、1963年」といふ「本」は、「私にとって、極めて、難解であって、それを理解しようとすると、苦痛が、伴ふ。」
従って、
(46)により、
(47)
著者は、S-Pという「ヨーロッパ語のモノサシ」の廃棄を説く。文法学会の新風として注目され、世界の学会で、「真の日本語文法」として高く評価されている。
といふ「書評」は、少なくとも、私にとっては、「有り得ない。」
令和02年06月18日、毛利太。

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