(01)
「日本語」で、
「それは、私がします。」と言へば、
「それは、私がする(ので、あなたや、他の人はしなくとも良い)。」といふ「意味」になる。
然るに、
(02)
AはBであり、A以外はBでない。
といふ「命題」を、「排他的命題(Exclusive proposition)」といふ。
従って、
(01)(02)により、
(03)
「それは、私がします。」
といふ「日本語」は、「排他的命題」である。
然るに、
(04)
(1)私は、それをします。
(2)それは、私がします。
(1)では、「私は」は題で、残りが解説です。(2)では、「それは」が題で、残りが解説になります。
(山崎紀美子、日本語基礎講座―三上文法入門、2003年、18頁)。
(05)
なお、先ほどの例文、(1)と(2)の違いは、英語ではストレスによって、表されます。
(5) I will do it.
(6)I will do it.
(5)のように、ストレスのない「I」は、topic(題)になれますが、(6)のように、ストレスがある「I」は、topicになれません。
(山崎紀美子、日本語基礎講座―三上文法入門、2003年、21頁)。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
(2)それは、私がします。
に対応する所の、
(6)I will do it.
のように、ストレスがある「I」は、「排他的命題」を「主張」する。
然るに、
(07)
その強調の仕方によって、文の伝えたい意味ですら変わってきます。
例えば、
“I’d like you to have this.” とyouを強調すれば、
「私は(他の誰でもなく)あなたにこれを受け取ってほしい。」
という意味になりますし、
“I’d like you to have this.” とthisを強調すれば、
「私はあなたに(他のものではなく)これを受け取ってほしい。」
という意味になります。
(逆転英語ガイド:英語でプロソディ(リズム・アクセント・抑揚)が重要な理由と学び方)
従って、
(02)(06)(07)により、
(08)
「英語」の場合は、「主語や、目的語や、補語」に対して、「ストレスを加へる(強調する)」と、「排他命題」になる。
然るに、
(09)
① 私はします。
② 私がします。
に於いて、
①「私は」の「は」は「清音」であって、
②「私が」の「が」は「濁音」である。
然るに、
(10)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(09)(10)により、
(11)
① 私はします。
② 私がします。
に於いて、
①「私は(清音)」よりも、
②「私が(濁音)」の方が、「心理的な音量」が、「大きい」。
従って、
(06)(08)(11)により、
(12)
(2)私がします。
に対応する所の、
(6)I will do it.
のように、ストレスがある「I」は、「排他的命題」を「主張」し、その一方で、
① 私はします。
② 私がします。
に於いて、
①「私は(清音)」よりも、
②「私が(濁音)」の方が、「心理的な音量」が、「大きい」。
従って、
(13)
「英語」に於いても、「日本語」に於いても、「強調形」は、「排他的命題」を「主張」する。
といふ風に、見做すことが、「可能」である。
然るに、
(14)
私が理事長です。(理事長は私です)
のように、ガの文がいわばハを内蔵していることがあるから、その説明が必要である。このような「私が」を強声的になっていると言うことにする。そこに発音上のストレスを与えたのと似た効果を持っているからである(三上章、日本語の論理、1963年、106頁)。
従って、
(14)により、
(15)
① 私は理事長です。
② 私が理事長です。
に於いて、
①「私は(清音)」よりも、
②「私が(濁音)」の方が、「心理的な音量」が、「大きい」。
といふことは、三上章 先生自身が、「認めてゐる」。
然るに、
(16)
私は幹事です。
私が幹事です。
のように、「は」を消しても、センテンスの意味は、
幹事は、私です。
というのに近く、題が文中の別の箇所に移り隠れたにすぎません。つまり、本当には無題化はしていないわけです。
(山崎紀美子、日本語基礎講座―三上文法入門、2003年、65・66頁)。
然るに、
(17)
③ 幹事は、私です。
④ 私以外は、幹事ではない(排他的命題)。
に於いて、
③=④ といふ「等式」は、「対偶(Contraposition)」である。
従って、
(17)により、
(18)
② 私が理事長です。
③ 理事長は、私です。
④ 私以外は、理事長ではない(排他的命題)。
に於いて、
③=④ といふ「等式」は、「対偶(Contraposition)」である。
然るに、
(19)
① 私は理事長です。
の「対偶」は、
① 理事長以外は私ではない。
従って、
(20)
① 私は理事長です。
② 私が理事長です。
③ 理事長は、私です。
④ 私以外は、理事長ではない(排他的命題)。
に於いて、
③=④ といふ「等式」は、「対偶(Contraposition)」であるが、
その一方で、
①=③=④ といふ「等式」は、有り得ない。
然るに、
(21)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されるのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念会は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念会」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
(18)~(21)により、
(22)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されるのである。
といふのであれば、その時点で、三上章 先生は、
② 私が理事長です。
③ 理事長は、私です。
④ 私以外は、理事長ではない(排他的命題)。
に於いて、
②=③=④ であるが故に、
② 私が理事長です。
④ 私以外は、理事長ではない(排他的命題)。
に於いて、
②=④ である。
といふことに、気付くことが、出来た。
といふことになる。
然るに、
(23)
平成どころか、昭和の時代から、
「AがBである。」といふ「日本語」に於ける、
「Aが」は、「Aは」に対する、「心理的な音量差」による「強調形」であって、「強調形」は、
「AはBであり、A以外はBでない(排他的命題)。」を「主張」する。といふ風に、考へて来た。
cf.
「國語と國文學」に、投稿したことがあったし、母校の「日本文学科」に、手紙を書いたこともある。
従って、
(14)(15)(22)(23)により、
(24)
三上章 先生も、私のやうの「結論」に至ったとしても、良かったはずであるが、実際には、さうではなかった。
といふ、ことになる。
令和02年06月25日、毛利太。
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