(01)(― しばらく、「返り点」に関する「記事」を書いてゐません。「返り点と括弧」に関しては、
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html)
(β)「返り点」と「括弧」の条件。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ):(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html)
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html)
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。:(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html)
(ζ)「返り点・モドキ」について。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)⇒
Web上には存在しますが、何故か、アクセス出来ません。
(η)「一二点・上下点」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)
(θ)「括弧」の「順番」。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)
(ι)「返り点」と「括弧」の関係 :(https://kannbunn.blogspot.com/2019/01/blog-post_21.html)
等々、「その他」を、お読み下さい。―
(01)
(3)今商王受、惟婦言是用。(書経、牧誓)
〔いま商王受は、これ婦言をこれ用ふ。〕
〔「受」は、商の紂王の名、この「惟」は、その次の「婦言」を強調しているのである。〕
「惟」と「唯」
「惟」は、《書経》の〈商周書〉にきわめて多く用いられており、総字数に対して、二.五%強の高い使用率のものであったのであるが、春秋以降には、次第に用いられなくなっている。しかし、この強調する語気の「惟」は、次第に、専一・単独などの意味を表わす副詞として用いられるようになり、多く「唯」と書かれるようになっている。それで右の例(3)の「惟」は「タダ」と読んでいる人もある。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、309・310頁)
(02)
【唯】[二]ヰ、ユイ
[二]① ただ。ひとり。限定の助辞、惟・維に通ず。② これ。發語の助辭、惟・維に通ず。
(参照、大修館、漢和大辞典デジタル版)
従って、
(01)(02)により、
(03)
例へば、
(3)今商王受、惟婦言是用。
に於ける「惟(強調の語気詞)」は、「婦言を」を「強調」してゐるものの、その「結果」として、「婦言を」は、「唯一、婦言だけを」の「意味」になってゐる。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
(3)今商王受、惟婦言是用。
といふ漢文に於ける「惟(強調の語気詞)」は、「唯(only)」といふ「副詞」と、「区別」が付かない。
然るに、
(05)
①「商王は、婦言だけを用ひる。」
②「商王は、婦言を用ひ、婦言以外を用ひない。」
に於いて、
①=② である。
然るに、
(06)
「AはBであり、A以外はBでない。」
といふ「命題」を、「排他的命題」といふ。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
例へば、
(3)今商王受、惟婦言是用。
がさうであるやうに、「強調形」は、「AはBであり、A以外はBでない。」といふ意味である所の、「排他的命題」を主張する。
然るに、
(08)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、ハとガで意味が反対になることがある。
これはいいです。(不用)
これがいいです。(入用)
ここで異を立てる方にはハを使っているが、述語が同型異議になっている。不用の方はテモイイ、デモイイ(許可)で、入用の方はほめことば(好適)である。つまり、初めの方は「これはもらわ(有償)なくてもいいです」「これは引っ込めてもらっていいです」などの短絡的表現だろう(三上章、日本語の論理、1963年、156・7頁)。
従って、
(08)により、
(09)
商品をいろいろ見せてもらって選択するときに、
②「これが良いです。」
といふのであれば、
②「これ以外は(相対的に)に良くないので、これを下さい。」
といふ、「意味」になる。
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
① これはいいです。(不用)
② これがいいです。(入用)
に於ける、
②「これが」 は、
①「これは」 に対する、「強調形」であると、思はれる。
従って、
(10)により、
(11)
① 私は理事長です。
② 私が理事長です。
に於ける、
②「私が」 は、
①「私は」 に対する、「強調形」であると、思はれる。
然るに、
(12)
①「私は」の「は」は「清音」であって、
②「私が」の「が」は「濁音」である。
然るに、
(13)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ゴロゴロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「濁音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2015年、13頁)。
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
① 私は(清音)
② 私が(濁音)
に於いて、
① の「(心理的な)音量」よりも、
② の「(心理的な)音量」の方が、「大きい」。
然るに、
(15)
私が理事長です。(理事長は私です)
のように、ガの文がいわばハを内蔵していることがあるから、その説明が必要である。このような「私が」強声的になっていると言うことにする。そこに発音上のストレスを与えたのと似た効果を持っているからである。
(三上章、日本語の論理、1963年、106頁)
従って、
(14)(15)により、
(16)
「強声的・発音上のストレス」のいふ「言葉」を用ひて、
① 私は(清音)
② 私が(濁音)
に於いて、
① の「(心理的な)音量」よりも、
② の「(心理的な)音量」の方が、「大きい」。
といふことを、三上章先生自身が、認められてゐる。
従って、
(07)(14)(15)(16)により、
(17)
① 私は理事長です。
② 私が理事長です。
に於ける、
① 私は(清音)
② 私が(濁音)
に於いて、
① に対する「強調形」が、
② であるため、
① 私は理事長です=私は理事長です。
② 私が理事長です=私は理事長であり、私以外は理事長ではない。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(18)
② 私以外は理事長ではない。
の「対偶(Contraposition)」は、
② 理事長は私である。
である。
従って、
(17)(18)により、
(19)
② 私が理事長です=私は理事長であり、私以外は理事長ではない。
② 私が理事長です=私は理事長であり、理事長は私です。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(20)
よく知られているように、「私が理事長です」は語順を変え、
理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。また、かりに大倉氏が、
タゴール記念会は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念館」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
従って、
(19)(20)により、
(21)
「事実」として、
② 私が理事長です=私は理事長であり、私以外は理事長ではない。
② 私が理事長です=私は理事長であり、理事長は私です。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(22)
1 (1)∀x{T記念会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(y≠z→~理事長zx)]} A
1 (2) T記念会員a→∃y[私y&理事長ya&∀z(y≠z→~理事長za)] 1UE
3 (3) T記念会員a A
13 (4) ∃y[私y&理事長ya&∀z(y≠z→~理事長za)] 23MPP
5 (5) 私b&理事長ba&∀z(b≠z→~理事長za) A
5 (6) 私b&理事長ba 5&E
5 (7) 私b 5&E
5 (8) 理事長ba 5&E
5 (9) ∀z(b≠z→~理事長za) 5&E
5 (ア) b≠c→~理事長ca 9UE
イ (イ) ∃z(倉田z&~私z) A
ウ (ウ) 倉田c&~私c A
ウ (エ) 倉田c ウ&E
ウ (オ) ~私c ウ&E
カ(カ) b=c A
ウカ(キ) ~私b オカ=E
5 ウカ(ク) ~私b&私b 7キ&I
5 ウ (ケ) b≠c カクRAA
5 ウ (コ) ~理事長ca アケMPP
5 ウ (サ) 倉田c&~理事長ca エコ&I
5 ウ (シ) ∃z(倉田z&~理事長za) サEI
5イ (ス) ∃z(倉田z&~理事長za) イウシEE
13 イ (セ) ∃z(倉田z&~理事長za) 45スEE
1 イ (ソ) T記念会員a→∃z(倉田z&~理事長za) 3セCP
1 イ (タ)∀x{T記念会員x→∃z(倉田z&~理事長zx)} ソUI
従って、
(22)により、
(23)
(1)すべてのxについて、xがタゴール記念会の会員であるならば、あるyは私であって、yはxの理事長であって、すべてのzについて、yがzでないならば、zはxの理事長ではない。 然るに、
(イ)あるzは倉田であって、zは私ではない。 従って、
(タ)すべてのxについて、xがタゴール記念会の会員であるならば、あるzは倉田であって、zはxの理事長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」である。
従って、
(23)により、
(24)
(1)タゴール記念会は私が理事長です。 然るに、
(イ)倉田氏は私ではない。 従って、
(タ)タゴール記念会であるならば、倉田は理事長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」である。
従って、
(22)(23)(24)により、
(25)
タゴール記念会は私が理事長です。⇔
∀x{T記念会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(y≠z→~理事長zx)]}⇔
すべてのxについて、xがタゴール記念会の会員であるならば、あるyは私であって、yはxの理事長であって、すべてのzについて、yがzでないならば、zはxの理事長ではない。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(26)
∀x{T記念会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(y≠z→~理事長zx)]}
から、 ∀z(y≠z→~理事長zx)
を除いて、
∀x{T記念会員x→∃y[私y&理事長yx]}
とするならば、
(1)タゴール記念会は私が理事長です。 然るに、
(イ)倉田氏は私ではない。 従って、
(タ)タゴール記念会であるならば、倉田は理事長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」ではない。
然るに、
(27)
「妥当な推論」を、「妥当」ではないとすることは、出来ない。
従って、
(24)~(27)により、
(28)
三上章先生であっても、
「タゴール記念会は私が理事長です。」といふ「日本語」の、
∀x{T記念会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(y≠z→~理事長zx)]}。
といふ「論理構造」を、「否定」することは、出来ないし、「無視」することも、出来ない。
令和元年09月30日、毛利太。
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