2014年12月28日日曜日

「括弧(scope)」は有ります(Ⅱ)。

(01)
① I meet 先生。
② I become 先生。
に於いて、
① 先生 は、「目的語(object)」であって、
② 先生 は、「補語(complement)」である。
然るに、
(02)
英語とは異なり、漢文の場合は、
目的語と補語とは、それほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と呼んだり、単に補語と呼んだりしている(数研出版、基礎からの漢文、1995年、26頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 読書    =書を読む。
② 読論語   =論語を読む。
③ 読韓非子=韓非子を読む。
に於いて、
① 読 の「補足語」は、書。
② 読 の「補足語」は、論語。
③ 読 の「補足語」は、韓非子。
である。
従って、
(03)により、
(04)
② 読 の「補足語」は、論。
③ 読 の「補足語」は、韓非。
とすれば、マチガイであって、
③ 読韓非子=韓非子を読む。
に於ける、
③ 読 の「補足語」は、飽くまでも、「韓非子」である。
従って、
(04)により、
(05)
③ 読韓非子=韓非子を読む。
に於いて、
③ 読      といふ「一つの漢字」は、
③ 韓非子 といふ「三つの漢字」に、かかってゐる。
然るに、
(06)
③ 読韓非子=韓非子を読む。
といふ「命題」の「否定」は、
④ 不読韓非子=韓非子を読まず。
である。
従って、
(06)により、
(07)
④ 不読韓非子=韓非子を読まず。
といふ「命題」に於いて、
④ 不    といふ「一つの漢字」は、
④ 読韓非子 といふ「四つの漢字」に、かかってゐる。
然るに、
(08)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
④ 不(読韓非子)=韓非子を読まず。
④ ~(読韓非子)=韓非子を読まず。
といふ「命題」に於いて、
④ 不    といふ「一つの漢字」、並びに、
④ ~    といふ「一つの記号」は、
④ 読韓非子 といふ「四つの漢字」に、かかってゐて、そのことは、
④ ( )が、「明示」してゐる。
然るに、
(10)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁改:命題論理、今仁生美)。
従って、
(09)(10)により、
(11)
④ 不(読韓非子)=韓非子を読まず。
④ ~(読韓非子)=韓非子を読まず。
といふ「命題」に於いて、
④ ( )は、
④ 不=~
といふ「一字」が「かかる範囲(スコープ)」を、「明示」してゐる。
然るに、
(05)(11)により、
(12)
④ 不読韓非子=
④ 不〔読(韓非子)〕。
といふ「命題」に於いて、
④ 〔 〕は、
④ 不
が「かかる範囲(スコープ)」を、「明示」し、
④ ( )は、
④ 読
が「かかる範囲(スコープ)」を、「明示」してゐる。
然るに、
(13)
管到というのは、「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)
といふことは、「横書き」であれば、
管到というのは、「左の語が、右のことばのどこまでかかるか」ということである。
従って、
(10)(13)により、
(14)
「スコープ(scope)」とは、漢文でいふ、「管到」に、他ならない。
従って、
(12)(14)により、
(15)
④ 不〔読(韓非子)〕。
に於ける、
④ 〔( )〕。
は、
④ 不読韓非子。
に於ける、
④「管到(スコープ)」を「明示」してゐる。
従って、
(15)により、
(16)
④ 不読韓非子。
といふ「漢文」には、固より、「管到(スコープ)」が有って、その「管到(スコープ)」を「明示」した「結果」が、
④ 不〔読(韓非子)〕。
である。といふ、ことになる。
然るに、
(04)により、
(17)
④ 不〔読(韓非子)〕。
に於いて、
④ (韓非子)は、
④ 読 の、「補足語」である。
従って、
(17)により、
(18)
④ 不〔読(韓非子)〕。
に於いて、
④ 〔読(韓非子)〕は、
④ 不 の、「補足語」である。
従って、
(17)(18)により、
従って、
(19)
④ 不〔読(韓非子)〕。
に於ける、
④ 〔( )〕。
は、
④ 不読韓非子。
に於ける、
④ 「補足構造」を、「明示」してゐる。
従って、
(16)(19)により、
(20)
④ 不〔読(韓非子)〕。
に於ける、
④ 〔( )〕。
は、
④ 不読韓非子。
に於ける、
④ 「補足構造」=「管到(スコープ)」
を「明示」してゐる。
従って、
(20)により、
(21)
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
に於ける、
⑤ {[〔( )〕( )]}。
といふ「括弧」は、
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
に於ける、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」
を「明示」してゐる。
然るに、
(22)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(21)(22)により、
(23)
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ「漢文の補足構造」は、「国語」では、
⑤ 我{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ、「語順」になる。
従って、
(24)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
に対して、
⑤ {[〔( )〕( )]}。
といふ、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」
が、「認められる」からこそ、
⑤ の「補足構造における語順」は、「国語」とは全く反対である。
といふ「事実」に基づいて、
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文=
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
⑤ 我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不=
⑤ 我{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ、「漢文訓読」が、「可能」になる。
従って、
(25)
A:「補足構造」=「管到(スコープ)」=「括弧」
B:「漢文」の「補足構造における語順」は、「国語」とは全く反対である。
といふ「二点(必要十分条件)」が有るが故に、
『返り点に対する「括弧」の用法』は、「可能」になる。
然るに、
(26)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」に、
⑤  「補足構造」=「管到(スコープ)」=「括弧」
が、有ることと、
B: 「漢文」の「補足構造における語順」は、「国語」とは全く反対である。
といふことは、「直接には、関係が無い」。
従って、
(25)(26)により、
(27)
「漢文訓読」とは、「関係なく」、
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文=
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」=「括弧」
が有って、「偶然」にも、
B:「漢文」の「補足構造における語順」は、「国語」とは全く反対である。
といふことから、
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}⇒
⑤ 我{必[〔(中国語)解法〕以(漢文)解]求}不=
⑤ 我{必ずしも[〔(中国語を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ、『返り点に対する「括弧」の用法』は、「可能」になる。
従って、
(28)
「漢文訓読」の、「是非」に拘わらず、すなはち、
中国語を自習され、私に中国語についてするどい質問をされたこともある丸山真男さんは、徂徠が、「自分は一生懸命本来の古典漢文を読んでいるつもりでも、日本式に返り点でひっくり返して読んでいるから、どうしても日本的な考え方を対象に無意識に投影し、それだけ中国の古典本来の意味からずれてしまう」(『「文明之概略を」読む』上、岩波新書、一九八六年)と力説していた、と書いている(安藤彦太郎、中国語と近代日本、1988年、63頁)。
といふこととは、「関係なく」、
⑤ 我不必求以解論理学法解漢文.
といふ「漢文」には、
⑤ 我不{必求[以〔解(中国語)法〕解(漢文)]}。
といふ「括弧」が、存在する。
いづれにせよ、
(29)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
に於いて、少なくとも、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」
は、存在する。
然るに、
(10)により、
(30)
⑤ 「括弧」は、
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」
を「明示」する働きを持つ。
従って、
(29)(30)により、
(31)
⑤ 我不必求以解中国語法解漢文。
といふ「漢文」に、
⑤「補足構造」=「管到(スコープ)」
といふ、「抽象的な構造」が、有るならば、その「抽象的な構造」は、「具体的」には、
⑤ 我不{必求[以〔解(論理学)法〕解(漢文)]}。
といふ「構造」をしてゐる。と、せざるを得ない。
従って、
(31)により、
(32)
⑤ 「補足構造」=「管到(スコープ)」=「括弧」 
は、有ります。
平成26年12月28日、毛利太。

2014年12月26日金曜日

「括弧(scope)」は有ります。

(01)
スコープは、論理演算の働きが及ぶ範囲のことをいう(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁:命題論理、今仁生美)。
従って、
(02)
スコープは、「論理演算子が、右の記号のどこまでかかるか」ということである。
然るに、
(03)
管到というのは、「上の語が、下のことばのどこまでかかるか」ということである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、389頁)。
従って、
(04)
「横書き」の場合は、
管到というのは、「左の語が、右のことばのどこまでかかるか」ということである。
従って、
(02)(04)により、
(05)
スコープは、「論理演算子が、右の記号のどこまでかかるか」ということであって、
管到というのは、「左の語が、右のことばのどこまでかかるか」ということである。
従って、
(06)
左の語が、「論理演算子」等、である時、「管到」とは、すなはち、「スコープ」である。
然るに、
(07)
ここで括弧について述べておこう。括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ(産業図書、数理言語学辞典、2013年、47頁:命題論理、今仁生美)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
「管到(スコープ)」自体は、「目に見えない」が、
「括弧」は、「管到(スコープ)」を明示する働きを持つ。が故に、
「括弧」は、「目に見える、管到(スコープ)」 である。
然るに、
(09)
 (1)¬(L(x,y))=
 (1)¬(love(mary,john))=
 (1)ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)).
に於いて、
 (1)ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))⇒
 (1)((ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)ΦΙΛΕΕΙ)ΟΥ=
 (1)((マリアは、ジョンを)愛さ)ない。
は、「ギリシャ語訓読」である。
(10)
 (2)瑪利亞不(愛(約翰))⇒
 (2)瑪利亞((約翰)愛)不=
 (2)マリアは((ジョンを)愛さ)ない。
は、「漢文訓読」である。
然るに、
(11)
 (1)ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))⇒
 (1)((ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)ΦΙΛΕΕΙ)ΟΥ=
 (1)((マリアは、ジョンを)愛さ)ない。
といふ「ギリシャ語訓読」を、行おうと、行うまいと、
 (1)¬(L(x,y))=
 (1)¬(love(mary,john))=
 (1)ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)).
といふ「スコープ(括弧)」は、固より、「存在」する。
従って、
(10)(11)により、
(12)
 (2)瑪利亞不(愛(約翰))⇒
 (2)瑪利亞((約翰)愛)不=
 (2)マリアは((ジョンを)愛さ)ない。
といふ「漢文語訓読」を、行おうと、行うまいと、
 (2)瑪利亞 不(愛(約翰))。
といふ「管到(括弧)」は、固より、「存在」する。
従って、
(13)
 (3)文必求我理不論以解解漢法学。
のやうな、「デタラメ」ではないので、
 (3)我不必求以解論理学法解漢文。
には、
 (3)我不{必求[以〔解(論理学)法〕解(漢文)]}。
といふ「管到(括弧)」が、「存在」する。
然るに、
(14)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置き換えて読むことが、その大きな原則となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
①「管到」=「括弧」=「補足構造」。
②「漢語」と「国語」に於ける「補足構造の語順」は、「対称的(シンメトリー)」である。
といふ、「二点(必要十分条件)」が、有るが故に、
 (3)我不必求以解論理学法解漢文=
 (3)我不{必求[以〔解(論理学)法〕解(漢文)]}⇒
 (3)我{必[〔(論理学)解法〕以(漢文)解]求}不=
 (3)我{必ずしも[〔(論理学を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ、『返り点に対する「括弧」の用法』は、「可能」になる。
従って、
(15)により、
(16)
 (3)我不必求以解論理学法解漢文=
 (3)我不{必求[以〔解(論理学)法〕解(漢文)]}⇒
 (3)我{必[〔(論理学)解法〕以(漢文)解]求}不=
 (3)我{必ずしも[〔(論理学を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}ず。
といふ「漢文訓読」に於ける、
 (3){[〔( )〕( )]}⇒
 (3){[〔( )〕( )]}。
といふ「括弧」は、「管到(スコープ)」を表してゐる。
と同時に、「シンタックス(補足構造)」を、表してゐる。
従って、
(16)により、
(17)
 (3)我不必求以解論理学法解漢文。
といふ「漢文(原文)」に付く、
 (3)丁 丙 下 二 一 上 乙 甲。
といふ「返り点」は、その実、
 (3){[〔( )〕( )]}。
といふ「括弧」に対して、付けられてゐる。
従って、
(18)
『返り点に対する「括弧」の用法』は、『「返り点」の「代用」』ではなく、
「返り点」こそが、『「括弧」の、不完全な「代用」』である。
平成26年12月26日、毛利太。

2014年12月25日木曜日

「括弧は有るべし(述語論理)」。

(01)
命題論理では、命題が個々の対象として扱われ、それに基づいて論理式や真理条件が定義された。述語論理では、この命題の内部構造までに立ち入って、より複雑な論理式を扱う。具体的には、例えば(1)―(3)のような論理式を対象とする。
 (1) run(john)
 (2) love(john,mary)∧ ¬love(mary,john)
 (3) ∃ⅹlove(john,x)
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、56頁:述語論理、今仁生美)
然るに、
(02)
  P=love(mary,john) に於いて、
  P の「否定」が、
¬P ならば、
¬P=¬(love(mary,john))
でない。といふことは、有り得ないし、
(03)
省略できるものはすべて省略するというのではなく、省略するかしないかは「わかりやすい表現かどうか」を基準に判断してください。表現が複雑にならない限り、省略せずに丁寧に書くことをお勧めします(内中伸光、論理の練習帳、2002年、71頁)。との、ことである。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
 (2) love(john,mary)∧ ¬love(mary,john)
 (3) ∃ⅹlove(john,x)
といふ「述語論理」も、「括弧は省略せず」に、
 (2) love(john,mary)∧ ¬(love(mary,john))
 (3) ∃ⅹ(love(john,x))
といふ風に、書くべきである。
従って、
(04)により、
(05)
 (2) ¬(love(mary,john))=
 (2) Mary does not love john.
然るに、
(06)
¬=ΟΥ
love=ΦΙΛΕΕΙ
mary=ΜΑΡΙΑ
john=ΙΩΑΝΝΗΝ
従って、
(05)(06)により、
(07)
 (2) ¬(love(mary,john))=
 (2) ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)).
然るに、
(08)
ない=ΟΥ
愛さ=ΦΙΛΕΕΙ
マリアは=ΜΑΡΙΑ
ヨハネを=ΙΩΑΝΝΗΝ
従って、
(07)(08)により、
(09)
 (2) ¬(love(mary,john))=
 (2) ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))=
 (2)ない(愛さ(マリアはヨハネを))。
従って、
(05)(09)により、
(10)
 (2) ¬(love(mary,john))=
 (2) ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))⇒
 (2) ((ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ)ΦΙΛΕΕΙ)ΟΥ=
 (2) ((マリアはヨハネを)愛さ)ない。
然るに、
(11)
例 2.1.3 次はすべて命題関数である.
 (a) p(x):xは女である.
 (b) q(x):x+2=1.
 (c) r(x,y):x と y は友人である。
 (d) s(x,y):2x+y=√3.
(内中伸光、論理の練習帳、2002年、71頁)。
従って、
(11)より、
(12)
 (2) ¬(L(x,y)):x は y を愛さない。 
 は、「命題関数」である。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
 (2) ¬(L(x,y))=
 (2) ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))⇒
 (2) ((マリアはヨハネを)愛さ)ない。
といふ「ギリシャ語訓読」は、「述語論理(命題関数)」である。
然るに、
(14)
信長をa、秀吉をb、「・・・は・・・の主君である」をFとすると、
「信長は秀吉の主君である」⇒ Fab
それぞれの多項述語は個体を置く順序が決まっている。
Fba とすると、「秀吉は信長の主君である」と読まれる。
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、161頁)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
 (2) ¬(L(x,y)) は、
 (2) ¬Lxy と書いても、かまわない。
加へて、
(16)
「自然言語」であれば、例へば、
「天下の英雄は、唯君と我のみ」といふ場合に
「∃x∃y(Fx&Fy&(x≠y)&∀z(Fz→((z=x)∨(z=y))))」=
「或るxと或るyについて、xは英雄であり、yも英雄であり、xとyは同一ではなく、全てのzについて、そのzが英雄ならば、zは、xであるか、yである。」
といった、「持って回った言ひ方」はしない。
従って、
(17)
その意味では、「日本語や漢文やギリシャ語」と、「述語論理」は、同列には、論じられない。
しかしながら、
(18)
 (2) ¬(L(x,y))=
 (2) ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ,ΙΩΑΝΝΗΝ))⇒
 (2) ((マリアはヨハネを)愛さ)ない。
といふ「ギリシャ語訓読」が可能であって、尚且つ、
 (2) ¬Lxy
といふ「述語論理」が、「正確」には、
 (2) ¬(L(x,y))
である以上、
 (2) ΟΥ ΦΙΛΕΕΙ ΜΑΡΙΑ ΙΩΑΝΝΗΝ.
 (2) マリアは ヨハネを 愛さ ない。
といふ「ギリシャ語と日本語」が、
 (2)ΟΥ(ΦΙΛΕΕΙ(ΜΑΡΙΑ ΙΩΑΝΝΗΝ))⇔
 (2)((マリアはヨハネを)愛さ)ない。
といふ「形」を、してゐない。はずがない。
従って、
(19)
「括弧」は、有るべし。
平成26年12月25日、毛利太。

2014年12月24日水曜日

「命題関数(ギリシャ語訓読)」。

昨日(12/23)の記事を、同じ内容で、書き直します。
(01)
目的語と補語とは、それほど区別する必要がないので、両方併せて、補足語と呼んだり、単に補語と呼んだりしている(数研出版、基礎からの漢文、1993年、26頁)。
従って、
(02)
目的語を含めて、「補語」とする。
(03)
前置詞+名詞
に於いて、「名詞」は「前置詞の補語」とする。
(04)
否定詞+命題
に於いて、「命題」は「否定詞の補語」とする。
(05)
不(_観花於野)=(_花を野に観)ず。
に対する、
我不(観花於野)=我(花を野に観)ず。
といふ「語順」は、「意味」の上では、
不(我観花於野)=(我花を野に観)ず。
とする。
然るに、
(06)
ところでこのレーマは現在の論理学のことばでいえば明らかに命題関数である。つまりf(ⅹ)、f(ⅹ,y),f(ⅹ,y,z)といったものである(山下正男、論理学史、1983年、
96・97頁)。
然るに、
(07)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
f(x,y) を、
F(x,y) と書くならば、
F(x,y) は「レーマ(命題関数)」であって、
F(x,y) の「否定」は、
~(F(x,y)) である。
然るに、
(10)
「レーマ(ΡΗΜΑ)」は、「動詞(Verb)」といふ「意味」であって、それ故、
~(F(x,y)) の F は、「動詞(レーマ)」である。
従って、
(11)
F は、「名詞(オノマ)」ではないものの、この点に於いて、
~(F(x,y)) は、いはゆる、「命題関数」、そのものではない。
e.g.
F(x)=xはフランス人。
F(x,y)=xはyの兄弟。
F(x,y,z)=xはyとzの息子。
に於いて、F は、「名詞(オノマ)」であって、「動詞(レーマ)」ではない。
然るに、
(12)
否定詞の ΟΥは、それが否定する語の前に来る。そして、殆んどの場合に於いて、動詞を否定するので、ΟΥの基準的な位置は、動詞の直前である(J.グレシャム・メイチェン、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、71頁)。
従って、
(10)(12)により、
(13)
 ~(F(x,y)) といふ「レーマ(命題関数)」を、
ΟΥ(F(x,y)) とする。
然るに、
(14)
例えば「使徒が言葉を言う」(an apostle says a word)という文は、ギリシャ語では通常 ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΕΓΕΙ ΛΟΓΟΝ である。だが ΛΕΓΕΙ ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ も、ΛΟΓΟΝ ΛΕΓΕΙ ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ も共に全く可能である。だから和訳、英訳は、共に順序でなく、語尾を観察することによって決定しなければならない(J.グレシャム・メイチェン、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、29頁)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
~(F(x,y))=ΟΥ(ΛΕΓΕΙ(ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ)).
に於いて、「左辺」は、「レーマ(命題関数)」であって、「右辺」は、「命題」である。
然るに、
(16)
~(F(x,y))=ΟΥ(ΛΕΓΕΙ(ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ)).
では、Greek が、分りにくいため、
~(F(x,y))=NOT(SAY(APOSTLE WORD)).
とする。
従って、
(03)(16)により、
(17)
~(F(x,y,g(z)))=NOT(SAY(APOSTLE WORD IN(CHURCH))).
であるが、以下では、((( )))を、[〔( )〕]に換へて、
~[F〔x,y,g(z)〕]=NOT[SAY〔APOSTLE WORD IN(CHURCH)〕].
とする。
然るに、
(18)
ない=NOT
言ふ=SAY
使徒=APOSTLE
言葉=WORD
にて=IN
教会=CHURCH
従って、
(18)により、
(19)
① ない [言ふ 〔使徒      言葉   にて(教会)   〕]=
① NOT[SAY〔APOSTLE WORD IN(CHURCH)〕].
然るに、
(20)
① ない[言ふ〔使徒は 言葉 にて(教会)〕]⇒
① [〔使徒は 言葉を(教会)にて〕言は]ない。
従って、
(19)(20)により、
(21)
① NOT[SAY〔APOSTLE WORD IN(CHURCH)〕]⇒
① [〔APOSTLE WORD(CHURCH)IN〕SAYS]NOT=
① [〔使徒は 言葉を(教会)にて〕言は]ない。
従って、
(17)(21)により、
(22)
① NOT[SAY〔APOSTLE WORD IN(CHURCH)〕]=
① ΟΥ[ΛΕΓΕΙ〔ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ ΕΝ(ΕΚΚΛΗΣΙΑ)〕].
といふ「ギリシャ語」は、
① ~[F〔x,y,g(z)〕]
といふ、「シンタックス」をしてゐて、
① [〔使徒は 言葉を(教会)にて〕言は]ない。
といふ「日本語」は、
① [〔x,y,(z)g〕F]~
といふ、「シンタックス」をしてゐる。
然るに、
(23)
例えば、「3 と 4 を加算する」という演算を、一般的に数式の表記に用いられる中置記法で記述すると、以下のようになる。
 3 + 4
一方、逆ポーランド記法では、加算を表す演算子 + を、被演算子である 3 と 4 の後(右)に置いて、以下のよう記述する。
 3 4 +
逆ポーランド記法による表現は日本語などSOV型の言語の文法とよく似ており、上式であれば「3 と 4 を加算する」とそのままの順序で読み下せる。逆ポーランド記法を使うForthの影響を受けているプログラミング言語Mindでは、上式を「3 と 4 とを 足す」と記述する(ウィキペディア:逆ポーランド記法)。
従って、
(23)により、
(24)
① ~[F〔x,y,g(z)〕] 
① [〔x,y,(z)g〕F]~ 
に於いて、後者は、「逆ポーランド記法」に、相当する。
然るに、
(25)
① ~[F〔x,y,g(z)〕] に対して、
② [F~〔x,y,g(z)〕] の場合は、
「命題関数(レーマ)」とは言へず、この「順番」は、「ギリシャ語」としては、
② SAY NOT APOSTLE WORD IN CHURCH.
といふ「語順」に、相当する。
然るに、
(26)
② SAYS〔NOT[APOSTLE WORD IN(CHURCH)〕]⇒
② 〔[APOSTLE WORD (CHURCH)IN〕SAYS]NOT=
② 〔[使徒は 言葉を(教会)にて〕言は]ない。
然るに、
(27)
② 〔( )〕]
の場合は、〔 〕の中に、 が有るため、『括弧』ではない。
(28)
① ~[F〔x,y,g(z)〕] に対して、
③ ~[〔x,y,g(Fz)〕] の場合は、
「命題関数(レーマ)」とは、言へず、この「順番」は、「ギリシャ語」としては、
③ NOT APOSTLE WORD IN SAY CHURCH.
といふ「語順」に、相当する。
然るに、
(29)
① NOT SAY APOSTLE WORD IN CHURCH.
の「語順」を、
③ NOT APOSTLE WORD IN SAY CHURCH.
といふ風に、変へるならば、
③ NOT[APOSTLE WORD IN(SAY〔CHURCH)〕]⇒
③ [APOSTLE WORD (〔CHURCH)IN〕SAYS]NOT=
③ [使徒は 言葉を(〔教会)の中で〕言は]ない。
然るに、
(30)
③ [( )〕]
の場合も、( )の中に、 が有るため、『括弧』ではない。
従って、
(22)~(30)により、
(31)
① ~[F〔x,y,g(z)〕]=
① NOT SAY APOSTLE WORD IN CHURCH.
② [f~〔x,y,g(z)〕]=
② SAY NOT APOSTLE WORD IN CHURCH.
③ ~[〔x,y,g(Fz)〕]=
③ NOT APOSTLE WORD IN SAY CHURCH.
に於いて、
① であるならば、その時に限って、『「括弧」を用ゐた「ギリシャ語訓読」』は「可能」である。といふ、ことになる。
然るに、
(01)~(08)により、
(32)
① ~[F〔x,y,g(z)〕]⇔
① [〔x,y,(z)g〕f]~.
に於いて、
① ~ の「補語」は、[ ]のコンテンツ であって、
① F の「補語」は、〔 〕のコンテンツ であって、
① g の「補語」は、( )のコンテンツ である。
従って、
(31)(32)により、
(33)
① ~ の「補語」は、F〔x,y,g(z)〕 であるが、
② ~ の「補語」は、 〔x,y,g(z)〕 であって、①とは、一致せず、
③ ~ の「補語」は、〔x,y,g(Fz)〕 であって、①とは、一致しない。
(34)
① F の「補語」は、x,y,g(z) であるが、
② に、Fの「補語」は無く、
③ も、Fの「補語」が無い。
(35)
① g の「補語」は、z  であるが、
③ g の「補語」は、Fz であって、Fは、「前置詞の補語」であるにも拘わらず、「名詞(オノマ)」ではない。
然るに、
(36)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置き換えて読むことが、その大きな原則となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
然るに、
(37)
① ~[F〔x,y,g(z)〕]⇔
①[〔x,y,(z)g〕F] ~.
に於いて、
~=ない=NOT
F=言ふ=SAY
x=使徒=APOSTLE
y=言葉=WORD
g=にて=IN
z=教会=CHURCH
を、「除く」と、
①[〔 , ,( )〕]⇔
①[〔 , ,( )〕].
従って、
(37)により、
(38)
① ~[F〔x,y,g(z)〕]⇔
①[〔x,y,(z)g〕F] ~.
の「補足構造」は、
①[〔 , ,( )〕]⇔
①[〔 , ,( )〕].
といふ「形」で共通であって、「補足の順番」が、「反対」である。と、すべきである。
従って、
(39)
① ΟΥ[ΛΕΓΕΙ〔ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ ΕΝ(ΕΚΚΛΗΣΙΑ)〕].
① [〔使徒は 言葉を(教会)にて〕言は]ない。
に於いて、両者は、「シンタックス(構造)」が、「同じ」である。
然るに、
(40)
  Kretheus1 ekhei2 onaton3 paro4 morokwroi5 poimeinei6.
  クレーテウスは1 羊飼い6 モログロス5 から4 借地権を3 受け取る2.
  Kokalos1 apedoke2 elaiwon3 tosson4 Eumedei5.
  コーカロスは1 エウメーデスに5 これだけの4 オリーブを3 支払った2.
ここに見る配列型は日本語のそれと正反対、つまり完全にSVO型のそれである。このような統語型が紀元前2千年のギリシャ語に現れたことは注目すべきである(ピュロス文書の年代はB.C.1200頃)この点で、ギリシャ語はエーゲ海を挟んで東方小アジアのヒッタイト語とは著しい対照をなしている(松本克己、世界言語への視座、2006年、143頁)。
従って、
(40)により、
(41)
② Kretheus1 ekhei2{onaton3[paro4〔morokwroi5(poimeinei6)〕]}⇒
② Kretheus1 {[〔(poimeinei6)morokwroi5〕paro4]onaton3}ekhei2=
② クレーテウスは1{[〔(羊飼い6)モログロス5〕から4]借地権を3}受け取る2.
③ Kokalos1 apedoke2[elaiwon3〔tosson4(Eumedei5)〕]⇒
③ Kokalos1 [〔(Eumedei5)tosson4〕elaiwon3]apedoke2=
③ コーカロスは1 [〔(エウメーデスに5)これだけの4〕オリーブを3]支払った2.
のやうな、「4千年前のギリシャ語」であっても、これらの場合であれば、「日本語」と、「シンタックス(構造)」が、「同じ」である。
平成26年12月23・24日、毛利太。

2014年12月21日日曜日

ギリシャ語訓読(其の弐)

(01)
                  (ΑΥΤΟΥ)=(彼の)
          〔ΛΟΓΟΝ(ΑΥΤΟΥ)〕=〔(彼の)言葉を〕
     ΛΕΓΕΙ〔ΛΟΓΟΝ(ΑΥΤΟΥ)〕=〔(彼の)言葉を〕言ふ。
ΟΥ[ΛΕΓΕΙ〔ΛΟΓΟΝ(ΑΥΤΟΥ)〕]=[〔(彼の)言葉を〕言は]ない。
に於いて、
   (彼の)
 〔(彼の)言葉を〕
 〔(彼の)言葉を〕言ふ
[〔(彼の)言葉を〕言は]ない。
は、「右側に伸びてゐる」が故に、「前進的(支配)」であると言ひ、
           (アウトゥ)
      〔ロゴン(アウトゥ)〕
    レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)〕
ウー[レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)〕]
は、「左側に伸びてゐる」が故に、「後進的(支配)」であると言ふ。
加へて、
(02)
ウー[レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)〕]:[〔(彼の)言葉を〕言は]ない。
は、「左右対称(シンメトリー)」であるが故に、「鏡像(mirror image)的な関係」であると言ふ。
然るに、
(03)
例えば「使徒が言葉を言う」(an apostle says a word)という文は、ギリシャ語では通常 ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΕΓΕΙ ΛΟΓΟΝ である。だが ΛΕΓΕΙ ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ ΛΟΓΟΝ も、ΛΟΓΟΝ ΛΕΓΕΙ ΑΠΟΣΤΟΛΟΣ も共に全く可能である。だから和訳、英訳は、共に順序でなく、語尾を観察することによって決定しなければならない(J.グレシャム・メイチェン、新約聖書ギリシャ語原典入門、1967年、29頁)。
従って、
(03)により、
(04)
① APOSTLE ウー[レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)〕].
② ウー[レゲイ〔APOSTLE ロゴン(アウトゥ)〕].
に於いて、
① は、「SVO(主語+動詞+目的語)」であり、
② は、「VSO(動詞+主語+目的語)」である。
従って、
(05)
① APOSTLE ウー[レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)エン(テー エックレーシア)〕].
② ウー[レゲイ〔APOSTLE ロゴン(アウトゥ)エン(テー エックレーシア)〕].
に於いて、
① は、「SVO型」であり、
② は、「VSO型」である。
従って、
(06)
① APOSTLE NOT[SAY〔WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
② NOT[SAY〔APOSTLE WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
に於いて、
① は、「SVO型」であり、
② は、「VSO型」である。
然るに、
(07)
動詞が文頭に立つVSO型と動詞が常に文末尾に置かれる「厳格な」SOV型は、その統語型が正に鏡像(mirror image)的な関係に立つと見られる。ちなみに、日本語は前進的支配が驚くほど首尾一貫した「厳格な」(S)OV型の言語である。この意味で日本語はもろもろの言語の統語型の特性を判別するための尺度として最適の言語であると言ってよかろう。たとえば、英語は、基本的に配列型はS‐V‐Oで日本語とは逆になるが、Jhon’s book「ジョンの本」、an interesting book「面白い本」などのように、日本語と語順が一致する場合もある。ということは、英語の統語型がそれだけ不整合(inconsistency)を内臓していることを意味している(松本克己、世界言語への視座、2006年、132・133頁)。
従って、
(01)~(07)により、
(08)
① APOSTLE NOT[SAY〔WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
② NOT[SAY〔APOSTLE WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
③ 使徒は、彼の言葉を、その教会の中で、言はない。
に於いて、
① の「語順」は、「SVO型」であって、
② の「語順」は、「VSO型」であって、
③ の「語順」は、「SOV型」である。
然るに、
(09)
① APOSTLE NOT[SAY〔WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕]⇒
① APOSTLE [〔(HIS)WORD(THE CHURCH)IN〕SAY]NOT=
① 使徒は [〔(彼の)言葉を(その教会)の中で〕言は]ない=
③ 使徒は、彼の言葉を、その教会の中で、言はない。
であって、尚且つ、
② NOT[SAY〔APOSTLE WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕]⇒
② [〔APOSTLE (HIS)WORD(THE CHURCH)IN〕SAY]NOT=
② [〔使徒は(彼の)言葉を(その教会)の中で〕言は]ない=
③ 使徒は、彼の言葉を、その教会の中で、言はない。
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
①「或る言語A」と、
②「或る言語B」が、
① APOSTLE NOT[SAY〔WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
② NOT[SAY〔APOSTLE WORD(HIS)IN(THE CHURCH)〕].
のやうな、
①「典型的な、SVO型言語」であるか、
②「典型的な、VSO型言語」であるならば、
それらの「言語」に対しては、『「括弧」を用いた「訓読」』が「可能」である。といふことになる。
然るに、
(11)
Dryer (2011a) は世界1377の言語を調べ、可能な語順が複数ある場合には使用頻度によって基本語順を決めた。この調査によれば、SOV型が一番多く565言語、次いでSVO型が488言語であった。他の4つのタイプはいずれも100言語以下で、VSO型が95言語、VOS型が25、OVS型が11、OSV型が4であった。同じくらいよく使われる語順が二つ以上ある言語は189あり、これらは頻度によって基本語順を決定できないため分類からは除かれている。
SOV型 - 日本語、琉球語、アイヌ語、アルタイ諸語、インド・イラン語派、ドラヴィダ語族、チベット・ミャンマー語派、ニヴフ語、ウィルタ語、ブルーシャスキー語、パーリ語、朝鮮語、アムハラ語、エスキモー語、チュクチ語、テュルク諸語、アイマラ語、ケチュア語、ナバホ語、ホピ語、バスク語、シュメール語、アッカド語、ヒッタイト語、エラム語など。
SVO型 - 英語、フランス語、中国語(広東語などの諸方言や漢文を含む)、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、ルーマニア語、ブルガリア語、現代ギリシア語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、タイ語、ラーオ語(ラオス語)、ベトナム語、ジャワ語、インドネシア語、マレー語(マレーシア語)、クメール語(カンボジア語)、スワヒリ語、現代アラビア語諸方言、ハウサ語、ヨルバ語、グアラニー語、ナワトル語など。
VSO型 - 古典アラビア語、ヘブライ語、アラム語、フェニキア語、古代エジプト語、ゲエズ語、ゲール語、古典マヤ語、タガログ語、セブアノ語、イロカノ語、マオリ語など。
VOS型 - フィジー語など。
OVS型 - ヒシカリヤナ語など。
OSV型 - シャバンテ語など。
(ウィキペディア:語順)
従って、
(07)(10)(11)により、
(12)
SVO型 - 英語、フランス語、中国語(広東語などの諸方言や漢文を含む)、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、ルーマニア語、ブルガリア語、現代ギリシア語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、タイ語、ラーオ語(ラオス語)、ベトナム語、ジャワ語、インドネシア語、マレー語(マレーシア語)、クメール語(カンボジア語)、スワヒリ語、現代アラビア語諸方言、ハウサ語、ヨルバ語、グアラニー語、ナワトル語など。
VSO型 - 古典アラビア語、ヘブライ語、アラム語、フェニキア語、古代エジプト語、ゲエズ語、ゲール語、古典マヤ語、タガログ語、セブアノ語、イロカノ語、マオリ語など。
にあって、「その言語」が、
①「典型的な、SVO型言語」であるか、
②「典型的な、VSO型言語」であるならば、
それらの「言語」に対しては、『「括弧」を用いた「訓読」』が「可能」である。といふことになる。
然るに、
(13)
④ V(SO).
⑤ O(V〔S)〕.
⑥ O(S)V.
に於いて、
⑤ (〔 )〕.
は、『括弧』ではない。
従って、
(14)
⑤ OVS型 - ヒシカリヤナ語など。
は、『「括弧」を用いた「訓読」』が「可能」ではない。
従って、
(15)
だからこそ、なおのこと、
⑤ OVS型 - ヒシカリヤナ語など。
は、絶対に、滅びてはならない。ものの、
その前に、このままでは、「漢文訓読」も、確実に、死に絶へむ。
平成26年12月21日、毛利太。
(16)
(15)
(05)於いて、
① アポストル ウー[レゲイ〔ロゴン(アウトゥ)エン(テー エックレーシア)〕].
② ウー[レゲイ〔アポストル ロゴン(アウトゥ)エン(テー エックレーシア)〕].
に於いて、
① は、「SVO型」であり、
② は、「VSO型」である。
としたのは、「ギリシャ語」では、両方が、可能である。といふことである。
然るに、
(16)
 Kretheus1 ekhei2 onaton3 paro4 morokwroi5 poimeinei6.
 クレーテウスは1 羊飼い6 モログロス5 から4 借地権を3 受け取る2.
 Kokalos1 apedoke2 elaiwon3 tosson4 Eumedei5.
 コーカロスは1 エウメーデスに5 これだけの4 オリーブを3 支払った2.
ここに見る配列型は日本語のそれと正反対、つまり完全に SVO型のそれである。このような統語型が紀元前
2千年のギリシャ語に現れたことは注目すべきである(ピュロス文書の年代はB.C.1200頃)この点で、ギリシ
ャ語はエーゲ海を挟んで東方小アジアのヒッタイト語とは著しい対照をなしている(松本克己、世界言語への視座、2006年、143頁)。
従って、
(16)により、
(17)
ギリシャ語は、4千年前から、基本的に、「漢文」と同じく、「SVO型」であることになり、だとすれば、
 Kretheus1 ekhei2{onaton3[paro4〔morokwroi5(poimeinei6)〕]}⇒
 Kretheus1 {[〔(poimeinei6)morokwroi5〕paro4]onaton3}ekhei2=
 クレーテウスは1 {[〔(羊飼い6)モログロス5〕から4]借地権を3}受け取る2.
といふ具合に、『「括弧」を用いた「訓読」』が、「ギリシャ語」に対して「可能」であることは、当然である。
平成26年12月21日、毛利太。

2014年12月17日水曜日

ギリシャ語訓読。

(01)
ΕΝ(ΑΡΧΗ)ΗΝ(Ο ΛΟΓΟΣ) ΚΑΙ(Ο ΛΟΓΟΣ)ΗΝ〔ΠΡΟΣ(ΤΟΝ ΘΕΟΝ)〕ΚΑΙ ΘΕΟΣ ΗΝ(Ο ΛΟΓΟΣ)⇒
(ΑΡΧΗ)ΕΝ(Ο ΛΟΓΟΣ)ΗΝ ΚΑΙ(Ο ΛΟΓΟΣ)〔(ΤΟΝ ΘΕΟΝ)ΠΡΟΣ〕ΗΝ ΚΑΙ ΘΕΟΣ(Ο ΛΟΓΟΣ)ΗΝ=(はじめ)に(言葉が)あった、そして(言葉は)〔(神と)ともに〕あった、そして、神は(言葉)であった。
cf.

於(初)有(言葉)而(言葉)有〔与(神)〕而神為(言葉)⇒
(初)於(言葉)有而(言葉)〔(神)与〕有而神(言葉)為=
(初め)に(言葉が)有った而(言葉は)〔(神と)与に〕有った而神は(言葉)為り。
(02)
フートス エーン〔エン(アルケー)プロス(トン テオン)〕⇒
フートス 〔(アルケー)エン(トン テオン)プロス〕エーン=
これは〔(はじめ)に(神と)とともに〕あった。
(03)
パンタ ディ(アウトゥ)エゲネト カイ コーリス(アウトゥ)ウーデ[エン〔ホ(ゲゴネン)〕]⇒
パンタ(アウトゥ)ディ エゲネト カイ (アウトゥ)コーリス[〔(ゲゴネン)ホ〕エン]ウーデ=
全てのものは(彼に)よって出来た、 そして (彼に)によらず[〔(出来た)ものは〕一つも]なかった。
(04)
エン(アウトー) ゾーエー エーン カイ へー ゾーエー エーン〔ト‐ホース(トーン アントローポン)〕⇒
(アウトー)エン ゾーエー エーン カイ へー ゾーエー 〔(トーン アントローポン)ト‐ホース〕エーン=
(彼に)あって 命 であった、 そして 命は〔(人々の)光〕であった。
(05)
カイ ト ホース エン(テー スコティア)ファイネイ カイ へー スコティア アウト ウー(カテラベン)⇒ 
カイ ト ホース(テー スコティア)エン ファイネイ カイ へー スコティア アウト (カテラベン)ウー=
そして 光は(暗黒の)中で 輝いてゐる、そして 暗黒は それを(理解し)なかった。
(06)
エゲネト[アントローポス アペスタルメノス〔パラ(テウー)〕]オノマ(アウトー)イオーアンネース⇒
[アントローポス〔(テウー)パラ〕アペスタルメノス]エゲネト(アウトー)オノマ イオーアンネース=
[ある人が〔(神)から〕遣わされて]現れた、(その)名前は ヨハネ。 『ヨハネ第一章、一節から六節』
(07)
このように、これらの諸要素の配列の間に高い相関性が見い出されるのはなぜかと言えば、それは中世の文法家がrectio(支配”rection”)と呼んだ原理によって説明できるであろう。すなわち、A類の諸形式とB類の諸形式との関係は、それぞれ前者が”rectum(支配されるもの)”、後者が”regens”(支配するもの)と見なすことができるからである(松本克己、世界言語への視座、2006年、130頁)。
(08)
この場合、「中世の文法家がrectio(支配”rection”)と呼んだ原理」は、「漢文」で言ふ所の、「補足構造」に相当する。
平成26年12月17・18日、毛利太。

2014年12月12日金曜日

〔 〕は有るのだ(Ⅱ)。

(01)
① AB&〔(AB)~〕~=
① AはBである。AはBでない、といふ「こと」はない。
に於いて、「こと」は、「形式名詞」である。
然るに、
(02)
(四)形式名詞 本来の名詞の意味を失って、形式的に用いられたもの。形式名詞は、それだけで主語となることはなく、必ずその前に連体修飾語が付く。(代々木ゼミ方式 受験国文法、1980年、11頁)。
従って、
(02)により、
(03)
①「こと」自体に、「意味」は無いため、
①「こと」の中身は、「空っぽ」である。
然るに、
(04)
① AはBでない「といふこと」。
に於ける、
①「といふこと」 
とは何かと、問ふならば、
①「といふこと」=「AはBでない。」
と、せざるを、得ない。
従って、
(04)により、
(05)
① AはBでない「といふこと」。
の、「といふこと」には、
①「AはBでない。」が、「代入」されてゐる。
従って、
(05)により、
(06)
①「といふこと」の中には、
①「AはBでない」といふ「命題」が有る。ことになる。
然るに、
(07)
① AB&〔(AB)~〕~=
① AはBである。AはBでない、といふことはない。
に於いて、
①〔(AB)~〕=〔(AはBで)ない〕
従って、
(06)(07)により、
(08)
①「といふこと」の中には、
①「AはBでない」といふ「命題」が有り、尚且つ、
①〔(AはBで)ない〕の、
①〔 〕の中には、
①「AはBでない」といふ「命題」が有る。
従って、
(08)により、
(09)
① AB&〔(AB)~〕~=
① AはBである。AはBでない、といふことはない。
に於いて、
①〔 〕=
①「といふこと」
と、せざるを得ない。
従って、
(09)により、
(10)
① AB&〔(AB)~〕~=
① AはBである。AはBでない、といふことはない。
②〔AB&(AB)~〕~=
② AはBであって、AはBでない、ということはない。
に於いて、
①「といふこと」=①〔 〕
②「といふこと」=②〔 〕
である。
従って、
(10)により、
(11)
① AはBであって、AはBでない、ということはない。
② AはBである。 AはBでない、といふことはない。
といふ二つに、あっても、
①〔 〕=といふこと 
②〔 〕=といふこと
は、有ります。
平成26年12月12日、毛利太。

2014年12月11日木曜日

〔 〕は有るのだ。

(01)
矛盾律:~((AはBである)∧~(AはBである))
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、29頁)
然るに、
(02)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
矛盾律:~((AはBである)∧~(AはBである))
から、( )を、一つ除き、
矛盾律:~(AはBである∧~(AはBである))
とする。
(04)
∧ は、馴染みがないので、& とする。
従って、
(03)(04)により、
(05)
矛盾律:~(AはBである&~(AはBである))
(06)
(( ))は、〔( )〕とする。
従って、
(05)(06)により、
(07)
矛盾律:~〔AはBである&~(AはBである)〕
(08)
~=否定 は、「日本語の語順」に合わせて、文末に置く。
従って、
(07)(08)により、
(09)
矛盾律:〔AはBである&(AはBである)~〕~
(10)
孔子聖人=孔子は聖人なり。
にならって、
AB=AはBである。 とする。
従って、
(09)(10)により、
(11)
矛盾律:〔AB&(AB)~〕~
然るに、
(12)
矛盾律:AがBであってBでない、ということはない。
(昭和堂、論理学の基礎、1994年、29頁)
然るに、
(13)
AがBであってBでない、ということはない=
AはBであって、AはBでない、ということない。
cf.
安倍晋三は総理大臣であって、安倍晋三は総理大臣でない。といふことはない。
従って、
(11)(13)により、
(14)
矛盾律:〔AB&(AB)~〕~
矛盾律:AはBであって、AはBでない、ということはない。
然るに、
(15)
AB&〔(AB)~〕~
の場合は、
AB&〔(AB)~〕~=
AはBであって、〔(AはBで)ない〕ではない=
AはBであって、AはBである。
となって、「矛盾律」には、ならない。
cf.
安倍晋三は総理大臣であって、安倍晋三は総理大臣である。
従って、
(16)
AB&〔(AB)~〕~=
AはBであって、AはBである。
を、仮に、「肯定律」とする。
然るに、
(17)
AはBである。AはBでない、といふことはない=
AはBであって、AはBである。
従って、
(16)(17)により、
(18)
肯定律:AB&〔(AB)~〕~=
肯定律:AはBである。AはBでない、といふことはない。
従って、
(14)(18)により、
(19)
矛盾律:〔AB&(AB)~〕~=
矛盾律:AはBであって、AはBでない、ということはない。
肯定律:AB&〔(AB)~〕~=
肯定律:AはBである。AはBでない、といふことはない。
従って、
(19)により、
(20)
〔(AB)~〕~=
AはBでない、といふことはない。
然るに、
(21)
(AB)~=AはBでない
従って、
(20)(21)により、
(22)
〔 〕~=といふことはない。
従って、
(22)により、
(23)
〔 〕=といふこと
従って、
(19)(23)により、
(24)
矛盾律:AはBであって、AはBでない、ということはない。
肯定律:AはBである。 AはBでない、といふことはない。
といふ二つに、あって、
〔 〕=といふこと 
〔 〕=といふこと
は、有ります。
平成26年12月11日、毛利太。

2014年12月7日日曜日

「返り点」の確認。

(01)
レ点S
従って、
(01)により、
(02)
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
⑥ レ 下 二 レ 一レ 上レ 。
⑦ 乙 下 二 一レ 上レ 甲レ 。
といふ、「レ点を、含む返り点」は、
⑧ 四 三 二 一。
⑨ 四 三 二 一。
⑩ 四 三 二 一。
⑪ 四 三 二 一。
⑫ 四 三 二 一。
⑬ 丁 丙 下 二 一 中 上 乙 甲。
⑭ 丙 下 三 二 一 中 上 乙 甲。
といふ、「レ点を、含まない返り点」と、「同じこと」である。
然るに、
(03)
⑧ 四[三〔二(一)〕]⇒
⑧ [〔(一)二〕三]四。
⑬ 丁{丙[下〔二(一)中(上)〕乙(甲)]}⇒
⑬ {[〔(一)二(上)中〕下(甲)乙]丙}丁。
⑭ 丙{下[三〔二(一)〕中(上)]乙(甲)}⇒
⑭ {[〔(一)二〕三(上)中]下(甲)乙}丙。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
⑥ レ 下 二 レ 一レ 上レ 。
⑦ 乙 下 二 一レ 上レ 甲レ。
といふ「返り点」は、
⑧ 四 三 二 一。
⑨ 四 三 二 一。
⑩ 四 三 二 一。
⑪ 四 三 二 一。
⑫ 四 三 二 一。
⑬ 丁 丙 下 二 一 中 上 乙 甲。
⑭ 丙 下 三 二 一 中 上 乙 甲。
に、「等しく」、
⑧ 四 三 二 一。
⑨ 四 三 二 一。
⑩ 四 三 二 一。
⑪ 四 三 二 一。
⑫ 四 三 二 一。
⑬ 丁 丙 下 二 一 中 上 乙 甲。
⑭ 丙 下 三 二 一 中 上 乙 甲。
といふ「返り点」は、
⑧[〔( )〕]。
⑨[〔( )〕]。
⑩[〔( )〕]。
⑪[〔( )〕]。
⑫[〔( )〕]。
⑬{[〔( )( )〕( )]}。
⑭{[〔( )〕( )]( )}。
といふ「括弧」に、等しい。
加へて、
(05)
⑮ 人 乙 下 二 一レ 上レ 甲レ 天レ。
であれば、

⑮ 人 丙 下 三 二 一 中 上 乙 甲 地 天  =
⑮ 人〈丙{下[三〔二(一)〕中(上)]乙(甲)}地(天)〉⇒

⑮ 〈{[〔(一)二〕三(上)中]下(甲)乙}丙(天)地〉人=
⑮〈{[〔( )〕( )]( )}( )〉。
に、等しい。
いづれにせよ、
(06)
レ点が一個戻るのに使われたのに対して、一二三点は二文字以上の文字を戻るときに使います(Webサイト:マナペディア)。
といふ「規則」が無ければ
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
といふ「返り点」は、
① 四 三 二 一。
② 四 三 二 一。
③ 四 三 二 一。
④ 四 三 二 一。
⑤ 四 三 二 一。
に、「等しい」。
然るに、
(07)
① 四 三 二 一。
② 四 三 二 一。
③ 四 三 二 一。
④ 四 三 二 一。
⑤ 四 三 二 一。
といふ「返り点」は、少しも、「難しくはない」。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
といふ「返り点」は、「結果」として、
① 四 三 二 一。
② 四 三 二 一。
③ 四 三 二 一。
④ 四 三 二 一。
⑤ 四 三 二 一。
に、「等しい。」といふことが、「理解」出来れば、
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
といふ「返り点」は、「難しくはない」。
然るに、
(09)
① レ レ レ 。
② 二 一レ レ 。
③ レ レ 二 一。
④ レ 二 一レ 。
⑤ 二 一レ 二 一。
が、「理解」出来れば、
 レ
 一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
 レ
を、「理解」したことになり、
 レ
 一 二 三 四 五 ・ ・ ・ ・ ・
 レ
が「理解」出来れば、
 レ
 上 中 下 
 レ
 甲 乙 丙 丁 戊 ・ ・ ・ ・ ・
 レ
 天 地 人 
 レ
を「理解」することは、
⑮ 人 丙 下 三 二 一 中 上 乙 甲 地 天 ⇒
⑮ 一 二 三 上 中 下 甲 乙 丙 天 地 人。
を「理解」することに、ほぼ、「等しい」。
(10)
もうすぐ、「受験」が始まります。風邪など引かず、悔いの無いやうに、頑張って下さい。

平成26年12月07日、毛利太。

2014年12月4日木曜日

「逆である(仮題)」。

(01)
「読む」のであれば、「何か」、「読む」のであって、その場合の、
「何か」が、「読む」の「目的語」である。
(02)
「居る」のであれば、「何処か」、「居る」のであって、その場合の、
「何処か」が、「居る」の「補語」である。
然るに、
(03)
目的語と補語とは、それほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と読んだり、単に補語と読んだりしている(数研出版、基礎からの漢文、1993年、26頁)。
加へて、
(04)
なお「」字は置いたり置かなかったりして一定していないし、いつどういうときに置くという規則もない。そこで、「」と同じ働きをする「于」などとあわせて、そういう文字がきているときは、「」や「」がつくというふうに、まず考えておくことだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、40頁)。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① 馴己=己馴れる。
に於いて、「(を・)」が有るが故に、
①(於己)は、「馴れる」の「補足語」である。
(06)
不=~ 
は、「何か」を「否定」するため、「否定する語句」を必要とし、それ故、
任意の表述の否定は、その表述を’~〔  〕’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁改)。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① 不〔馴(己)〕=己馴れる。
に於いて、
①〔馴(於己)〕は、「不」の「補足語」である。
(08)
② I fear〈that{they will[not〔obey(me)〕]}〉⇒
② I 〈{they [〔(me)obey〕not]will}that〉fear=
② 私は〈{彼らが[〔(私に)従は〕ない]であらう}といふことを〉心配する。
に於いて、
② fear の、「補足語」は、
② that=they will not obey me.
である。
然るに、
(09)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]⇒
① [衆狙之〔(於己)馴〕不]恐=
① [衆狙の〔(己に)馴れ〕不るを]恐る=
① [猿たちが〔(自分に)馴れ従は〕なくなるであろうことを]心配する。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]。
に於いて、
①[衆狙之不〔馴(於己)〕]=
②{they will[not〔obey(me)〕]}
は、「恐(fear)」の「補足語」である。
然るに、
(11)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]。
ではなく、
① 四[衆狙之三〔二(於一)〕]。
であるとして、
① 四[衆狙之三〔二(於一)〕]⇒
① [衆狙之〔(於一)二〕三]四=
① [衆狙に〔(一に)二れ〕三るを]四る。
然るに、
(12)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]。
① 四[衆狙之三〔二(於一)〕]。
であれば、
四=恐
三=不
二=馴
一=己 
である。
従って、
(11)(12)により、
(13)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]。
に付く「返り点」は、
① 四 三 二 一。
である。
然るに、
(14)
「教科書」等に於ける、「朝三暮四の、返り点」は、
① 二 一レ 二 一。
である。
従って、
(01)~(14)により、
(15)
① 恐[衆狙之不〔馴(於己)〕]。
といふ、「補足構造」に付く「返り点」は、
① 四 三 二 一。
① 二 一レ 二 一。
である。
従って、
(15)により、
(16)
① 恐衆狙之不馴於己。
といふ「漢文」に於ける、
①[〔( )〕]。
といふ「補足構造」を、「返り点」に、「置き換へた結果」が、
① 四 三 二 一。
① 二 一レ 二 一。
といふ「返り点」であって、
① 四 三 二 一。
① 二 一レ 二 一。
といふ「返り点」を、「括弧」に、「置き換へた結果」が、
①[〔( )〕]。
といふ「括弧」である。わけではない。
従って、
(17)
「任意の漢文」に於ける『補足構造(括弧)』を、
 レ
 一 二 三 四 五 ・・・・・
 レ
 上 中 下 # # ・・・・・
 レ
 甲 乙 丙 丁 戊 ・・・・・
 レ
 天 地 人 # # ・・・・・
 レ
等で置き換へた「結果」が、「或る、返り点」で、あるならば、
「その、返り点」は、必然的に、『括弧』で、「置き換へられる」。
従って、
(18)
③ 何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」に付く、
③ レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ 。
といふ「返り点」であっても、その実、
③ 何不〈令{人謂(韓公叔)曰[秦之敢絶(周)而伐(韓)者、信(東周)也、公何不〔与(周地)発(質使)之(楚)〕、秦必疑(楚)、不〔信(周)〕、是韓不(伐)也]、又謂(秦)曰、[韓彊与(周地)、将〔以疑(周於秦)〕也、周不〔敢不(受)〕]}〉⇒
③ 何〈{人(韓公叔)謂[秦之敢(周)絶而(韓)伐者、(東周)信也、公何〔(周地)与(質使)発(楚)之〕不、秦必(楚)疑、〔(周)信〕不、是韓(伐)不也]曰、又(秦)謂、[韓彊(周地)与、将〔以(周於秦)疑〕也、周〔敢(受)不〕不]曰}令〉不=
③ 何ぞ〈{人をして(韓の公叔に)謂ひて[秦之敢へて(周を)絶つ而(韓を)伐んとする者、(東周を)信ずれば也、公何ぞ〔(周に地を)与へ(質使を)発して(楚に)之かしめ〕不る、秦必ず(楚を)疑ひ、〔(周を)信ぜ〕不らん、是れ韓(伐たれ)不らん也と]曰ひ、又(秦に)謂ひて、[韓彊ひて(周に地を)与ふるは、将に〔以て(周を於秦に)疑はしめんとする〕也、周〔敢へて(受け)不んば〕不ずと]曰は}令め〉不る。
といふ『括弧(捕捉構造)』に、付けられてゐる。といふ、ことになる。
cf.
通常の包含関係に従って甲乙点を打った後、その外側で四つの返り点が必要になったらどうするのでしょうか。その場合もやはり甲乙点と天地人を逆転させるしかないのです。そのような例を一つ示しましょう。根気のよい方は訓読に従って字を逐ってみてください。あまりの複雑ゆえに嫌気がさす方は、読み飛ばしても結構です(これならわかる返り点―入門から応用まで―古田島洋介、91頁)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
古田島先生は、
③ 何不令人謂韓公叔曰秦之敢絶周而伐韓者信東周也公何不与周地発質使之楚秦必疑楚不信周是韓不伐也又謂秦曰韓彊与周地将以疑周於秦也周不敢不受。
といふ「漢文」に於ける、
③ 〈{( )[( )( )( )〔( )( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〉。
といふ『括弧(捕捉構造)』を、
③ レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ 。
といふ「返り点」に「置き換へ」、私は、「逆」に、
③ レ 丁 二 一 地 レ レ 二 一 下 二 一 二 一 上レ レ レ レ 天レ レ 丙 二 一 三 二 一 乙 甲レ 。
といふ「返り点」を、
③ 〈{( )[( )( )( )〔( )( )( )〕( )〔( )〕( )]( )[( )〔( )〕〔( )〕]}〉。
といふ『括弧(捕捉構造)』に、「戻した」。ことになる。
従って、
(18)(19)により、
(20)
古田島先生の言ふ、『包含関係』といふ「言ひ方」は、『補足構造(括弧)』に、「読み換へる」ことが、出来る。
平成26年12月04日、毛利太。

2014年11月30日日曜日

「補足構造(『括弧』の定義)」。

(01)
一言で、「括弧」では分からないため、「左側のそれ」を、
( =「括」
〔 =「括」
[ =「括」
{ =「括」
とする。
(02
「右側のそれ」を、
 )=「弧」
 〕=「弧」
 ]=「弧」
 }=「弧」
とする。
従って、
(01)(02)により、
(03)
「左右のそれ」を、
( )=「括 弧」
〔 〕=「括 弧」
[ ]=「括 弧」
{ }=「括 弧」
とする。
従って、
(03)により、
(04)
   ( )   =   「括 弧」
  〔( )〕  =  「括括 弧弧」
 [〔( )〕] = 「括括括 弧弧弧」
{[〔( )〕]}=「括括括括 弧弧弧弧」
とする。
(05)
①( )=「括 弧」
②〔 〕=「括 弧」
③[ ]=「括 弧」
④{ }=「括 弧」
に於いて、
①の中に、「括 弧」は、無い。
②の中には、一つ以上の①が有る。
③の中には、一つ以上の②が有る。
④の中には、一つ以上の③が有る。
とする。
従って、
(05)により、
(06)
例へば、
(〔 〕)=「1:括括 弧弧」
(〔 )〕=「2:括括 弧弧」
〔( 〕)=「3:括括 弧弧」
であるが、これらは、
〔( )〕とは、逆に、
①の中に、②が有る。が故に、
このやうな「括括 弧弧」等は、認めない。
(07)
①(B)AC。
は、「不可」とする。
(08)
②B(A)C。
であるとき、
②Aは「Bを補足する」。
(09)
③AC(B)。
であるとき、
③Bは「Cを補足」する。
(10)
④B‐C(A)。
であるとき、
④Aは「B‐Cを補足」し、このときの、
④B‐Cは、「熟語」以外は、「不可」とする。
(11)
⑤AHD(BC)GEF。
に於いて、
⑤BCは「Dを補足」する。
(12)
⑥AHD(BC)G(EF)。
に於いて、
⑤BCは「Dを補足」し、
⑥EFは「Gを補足」する。
(14)
⑦AH〔D(BC)G(EF)〕。
に於いて、
⑤BCは「Dを補足」し、
⑥EFは「Gを補足」し、
⑦DBCGEFは「Hを補足」する。
(15)
このやうにして、「無限」に「補足」を続けることが出来るため、この辺で止めるものの、(05)を逆に言ふと、
①( )=「括 弧」
②〔 〕=「括 弧」
③[ ]=「括 弧」
④{ }=「括 弧」
に於いて、
④の中には、一つ以上の③が有り、
③の中には、一つ以上の②が有り、
②の中には、一つ以上の①が有り、
①の中に、「括 弧」が、無い。
のであれば、『括弧』である。とする。
従って、
(16)
⑦ AH〔D(BC)G(EF)〕。
が、『括弧』であるため、
⑦ 我不〔為(児孫)買(美田)〕。
も、『括弧』である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
⑦ 我不〔為(児孫)買(美田)〕。
に於いて、
⑤ 児孫は「為を補足」する。
⑥ 美田は「買を補足」する。
⑦ 為児孫買美田は「不を補足」する。
然るに、
(18)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置き換えて読むことが、その大きな原則となっている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
⑦ 我不〔為(児孫)買(美田)〕⇔
⑧ 我〔(児孫)為(美田)買〕不。
に於いて、
⑦ は、「漢文の語順」であり、
⑧ は、「国語の語順」である。
従って、
(19)により、
(20)
⑦ 我不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
⑧ 我〔(児孫)為(美田)買〕不=
⑧ 我は〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
は、「漢文訓読」である。
従って、
(01)~(20)により、
(21)
⑨ 我非[不〔為(児孫)買(美田)〕者]也⇒
⑨ 我[〔(児孫)為(美田)買〕不者]非也=
⑨ 我は[〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不る者に]非ざるなり。
も、「漢文訓読」であり、
⑩ 我買(田)⇒
⑩ 我(田)買=
⑩ 我(田を)買ふ。
も、「漢文訓読」である。
従って、
(22)
(ア)『括弧』は、「補足構造」を表すことが出来、尚且つ、
(イ)「漢文」と「国語」の「補足構造」における「語順」は、全く反対である。
といふ「二つの条件」が揃っているが故に、
例へば、
① 我買(田)⇒
① 我(田を)買ふ。
② 我不〔買(美田)〕⇒
② 我は〔(美田を)買は〕不。
③ 我不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
③ 我は〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
④ 我非[不〔為(児孫)買(美田)〕者]也⇒
④ 我は[〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不る者に]非ざるなり。
といふ「漢文訓読」が、「可能」になる。
従って、
(23)
(ウ)「漢文」だけでなく、「英語」と「国語」の「補足構造」における「語順」も、全く反対である。
といふ「条件」が有るのであれば、例へば、
⑤ Who are you?
⑥ What are you doing?
⑦ I know that he is a good student.
⑧ I have no doubt that he is a good student.
といふ「英語」に於いても、「英文訓読」が、「可能」になる。
然るに、
(24)
「結論」から言ふと、この場合、
⑦ I know[that〔he is(a good student)〕]⇒
⑦ I [〔he(a good student) is〕that]know=
⑦ 私は[〔彼が(良い生徒)である〕といふことを]知ってゐる。
以外は、『括弧(返り点)』による「英文訓読」は、「不可能」である。
(25)
⑤と⑧に関しては、
⑤ Who‐are 
であれば、
⑤ Who‐are(you)?⇒
⑤ (you)Who‐are?=
⑤ (あなたは)誰‐であるか。
のやうに、「倒置」が、「可能」であるものの、
⑤ Who‐are=誰‐である。 
⑧ have‐no=持ってゐ‐ない。
は、「熟語」ではないため、「ハイフン(‐)」を付けることが、出来ない。
cf.
熟語2.二つまたはそれ以上の単語が合わさって、一つの単語として用いられるようになったも(デジタル大辞泉)。
従って、
(10)(25)により、
(26)
⑤ Who‐are=誰-である。
⑧ have‐no=持ってゐ-ない。
に関しては、「一つの単語(熟語)」ではない。が故に、
『括弧(返り点)』による「英文訓読」は、「不可能」である。
(27)
⑨ You are doing what?
に対して、『括弧』を加へると、
⑨ You are〔doing(what)〕?⇒
⑨ You 〔(what)doing〕are?=
⑨ あなたは〔(何を)して〕ゐるか。
然るに、
(28)
⑥ What are you doing?
に対して、「括弧」を加へると、
⑥ What(are〔you)doing〕?⇒
⑥ (〔you)Whatdoing〕are?=
⑥ (〔あなたは)何をして〕ゐるか。
然るに、
(06)(15)により、
(29)
⑥ 二(四〔一)三〕⇒
⑥ (〔一)二三〕四=
⑥ 一 二 三 四。
のやうな、「2:括括 弧弧」は、『括弧』ではない。
従って、
(23)~(29)により、
(30)
⑤ Who are you?
⑥ What are you doing?
⑦ I know that he is a good student.
⑧ I have no doubt that he is a good student.
に於いて、
⑦ I know that he is a good student.
以外の三つに関しては、『括弧(返り点)』による「英文訓読」は、「不可能」である。
従って、
(22)(30)により、
(31)
(ア)『括弧』は、「補足構造」を表すことが出来る。といふ「必然」と、
(イ)「漢文」と「国語」の「補足構造」における「語順」は、全く反対である。といふ「偶然」により、
(ウ)『括弧』による「漢文訓読」は、「可能」となる。
(32)
「括弧」が、「返り点」よりも「優れてゐる点」は、
(一)「返り点」は、「横書き」では、表せない。
(二)「括弧」は、「論理構造(シンタックス)」を表現してゐる。
(三)「返り点」は、「合理的」には、出来てゐない。が故に、
(四)「返り点」は、それなりに難しい(が、「括弧」は簡単である)。
(33)
(一)に関しては、仮に、「返り点のフォント」を作ったとしても、たぶん、読みにくい
(34)
(二)に関しては、例へば、
不〔為(児孫)買(美田)〕。
であれば、
~(A&B)=~A∨~B=A→~B。
といふ、「ド・モルガンの法則」と、「含意の定義」が、成立する。
加へて、
(35)
無人不死=
不[有〔人不(死)〕]⇒
[〔人(死)不〕有]不=
[〔人として(死せ)不るは〕有ら]ず。
といふ「漢文」は、
~[∃ⅹ〔人ⅹ&~(死ⅹ)〕]⇒
[〔人ⅹ&(死ⅹ)~〕∃ⅹ]~=
[〔人であって(死な)ないといふ〕そのやうなⅹは存在し]ない。
といふ「述語論理」に、「直訳」出来る。
(36)
(三)に関しては、例へば、「朝三暮四」の、「二 一レ 二 一。」といふ「返り点」に、納得できない高校生が、絶えない。
(37)
(四)に関しては、「Yahoo!知恵袋の質問」を、読んでゐると、さうとしか、思へない。
平成26年11月30日、毛利太。

2014年11月27日木曜日

「括弧」は無いのかな。

(01)
① I know that he is a good student=
① I know[that〔he is(a good student)〕]⇒
① I [〔he(a good student) is〕that]know=
① 私は[〔彼が(良い生徒)である〕といふことを]知ってゐる。
然るに、
(02)
① I know that he is a good student.
は、that を、「省略」して、
① I know he is a good student.
としても、かまわない。
従って、
(01)(02)により、
(03)
that=といふこと=[・・・・・] とするならば、
① I know he is a good student.
には、[括弧]があって、その[括弧]が、「省略」されてゐる。
従って、
(03)により、
(04)
① I know he is a good student.
② I see he is a good student.
に、「括弧(that)」は、有ります。
然るに、
(05)
【知覚動詞】
see,hear,smell,feel など
I hear him singing.(彼が歌っているのが聞こえる)
(旺文社、高校総合英語、1989年、106頁)
然るに、
(06)
「聞鳥啼樹」を「鳥の樹に啼くを聞く。」と訓読するときには、前記の「レ」と「一・二」とを合わせてもちいることになり、「啼樹」の部分には「レ」を、「聞・ ・ ・ ・ ・啼」には「一・二」の符号をつけて示す(旺文社、漢文の基礎、1973年、20頁)。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
③ 我 聞  鳥  啼 樹 =
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕=
③ I hear〔birds singing(in the trees)〕⇒
③ I 〔birds (in the trees)singing〕hear=
③ 我〔鳥の(樹に)啼くを〕聞く。
に於いて、「括弧(that)」が有っても、「矛盾」は、しない。
然るに、
(08)
その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
然るに、
(09)
③ 啼樹=
③ 啼(樹)=
③ singing(in the trees)
等は、「補足構造」である。
従って、
(08)(09)により、
(10)
③ 啼樹=
③ 啼(樹)⇒
③(樹に)啼く。
といふ「漢文訓読」は、「漢文と国語の補足構造の違ひ」による、「必然」であり、
③ 我 聞  ・・・・・ =
③ 我 聞〔・・・・・〕⇒
③ 我 〔・・・・・〕聞=
③ 我 〔・・・・・を〕聞く。
といふ「漢文訓読」も、「漢文と国語の補足構造の違ひ」による、「必然」である。
従って、
(10)により、
(11)
③ 〔( )〕 を介して、
③ 我 聞 鳥 啼 樹 ⇔
③ 我 鳥の 樹に 啼くを 聞く。
といふ「漢文訓読」が成立する「所以」は、要するに、『補足構造の語順が、逆である』からに、他ならない。
従って、
(11)により、
(12)
③ 我 聞 鳥 啼 樹。
といふ「漢文」は、固より、「それ自体」として、
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕。
といふ「補足構造(シンタックス)」をしてゐる。と、すべきである。
従って、
(13)
仮に、
③ 我 聞 鳥 啼 樹 ⇔
③ 我 鳥の 樹に 啼くを 聞く。
といふ「関係」が、「分りにくい」のであれば、その場合、
③ 我 聞 鳥 啼 樹。は、
③ 我 聞〔鳥 啼(樹)〕。
といふ風に、書くべきである。
従って、
(14)
省略できるものはすべて省略するというのではなく、省略するかしないかは、「わかりやすい表現かどうか」を基準に判断して下さい(中内伸光、ろんりの練習帳、2002年、71頁)。といふアドバイスは、「論理学の括弧」に関してだけでなく、「漢文の括弧」に於いても、当てはまると、すべきである。
従って、
(13)(14)により、
(15)
① 民可使由之、不可使知之(民は之を由らしむべし、之を知らしむべからず)
② 民可使、由之。不可使、知之(民の使うべきは之を由らしめよ。使うべからざるは之を知らしめよ)
③ 民可、使由之。不可、使知之。(民、可ならば、之を由らしむ。不可ならば、之を知らしむ)
④ 民可使、由之不可。使知之。(民は使うべし、之に由らしむるは不可なり。之を知らしむ)
をどう正確に読解するか、極めてむずかしい(黄文雄、儒禍、2014年、300頁)といふことは、
① 民可[使〔由(之)〕]、不{可[使〔知(之)〕]}。
② 民可(使)、由(之)。不〔可(使)〕、知(之)。
③ 民(可)、使〔由(之)〕。不(可)、使〔知(之)〕。
④ 民〔可(使)〕、由(之)不(可)。使〔知(之)〕。
のうちの、「どれであるのか」といふことが、「難しい」。といふことに、他ならない。
cf.
四書五経についての教育は、私が最後の世代かも知れない。小学校に入る前に、『論語』、『孟子』、『大学』などを暗誦できたが、『中庸』までは暗誦できずに国民学校に入った(黄文雄、儒禍、2014年、331頁)。だが、
漢文古典の白話文(現代語訳)は中国語以上に日本の訓読はすぐれていると、私にかぎらず、たいてい漢文教育を受けてきた私の友人は、異口同音で、そう実感していた(黄文雄、儒禍、2014年、299頁)。
然るに、
(16)
その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
といふことからすれば、私には、
① 民可[使〔由(之)〕]、不{可[使〔知(之)〕]}⇔
① 民は[〔(之を)由ら〕使む]可し、{[〔(之を)知ら〕使む]可から}不。
とするのが、「一番、分かりやすい」。
従って、
(17)
近年、中国のインターネット上でよく話題になっているが、これは四通りに切りうる(加藤徹、本当は危ない『論語』、2011年、157頁)。とのことであっても、「昔からある、次の議論」の方が、私には、「分かりやすい」。
(18)
この言葉は「民にはなにも知らせてはならない、信頼させて黙ってついてこさせるべきだ」と解釈され、それを戦時中の日本になぞらえて批判されてたわけだが、〈中略〉この「可・不可」は「できる、できない」の意味。したがって「民衆からは、その政治に対する信頼をかちうることはできるが、政治の内容を知らせることはむずかしい」という事実を、そのまま述べた言葉である(山本七平、論語の読み方、1981年、18頁)。
すなはち、
(19)
①「できる(CAN)・できない」
②「すべきである(SHOULD)・すべきでない」
のうちの、どちらかである。とする「議論」の方が、「分かりやすい」。
平成26年11月27日、毛利太。

2014年11月22日土曜日

「括弧」は無いのか? 

(01)
① 世界中の、全ての人には親がゐる(た)。
② 全ての人(約72億2064万人以上)を子供とする親が存在する。
に於いて、
① は「真(本当)」であって、
② は「偽(ウソ)」である。
従って、
(01)により、
(02)
① ∀ⅹ∃yPyⅹ=Everyone has(had)a parent.
② ∃y∀ⅹPyⅹ=Someone is a parent of everyone.
に於いて、
① は「真(本当)」であって、
② は「偽(ウソ)」である。
然るに、
(03)
① ∀ⅹ∃yPyⅹ=
① ∀ⅹ(∃y(Pyⅹ))⇒
① ((Pyⅹ)∃y)∀ⅹ=
① ((ⅹはyの子供である。といふことが)あるyについて正しいといふことは)(全てのⅹに於いて、さうである)。
といふことは、「真(本当)」であって、
(04)
② ∃y∀ⅹPyⅹ=
② ∃y(∀ⅹ(Pyⅹ))⇒
② ((Pyⅹ)∀ⅹ)∃y=
② ((yはⅹの親である。といふことが)全てⅹに対してさうである所の)(そのやうなyが存在する)。
といふことは、「偽(ウソ)」である。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
① ∀ⅹ∃yPyⅹ=全ての人には、それぞれに親がゐる(た)。
② ∃y∀ⅹPyⅹ=全ての人の、親である所の人がゐる。
といふ「論理式」は、実際には、
① ∀ⅹ(∃y(Pyⅹ))
② ∃y(∀ⅹ(Pyⅹ))
といふ「形」をしてゐるに、違ひない。
然るに、
(06)
∀ⅹ  ∃y (...) は
∀ⅹ(∃y (...)) の
意味で解釈されるということに注意(Webサイト:V. 述語論理の意味論)。
とのことであって、それ故、「V. 述語論理の意味論」が「正しい」のであれば、
① ∀ⅹ(∃y(Pyⅹ))
は、「正しい」ため、
② ∃y(∀ⅹ(Pyⅹ))
も、「正しい」はずである。が、
そのやうなことは、例へば、「論理学初歩(E.J.レモン)」には、書かれてゐない。
従って、
(03)~(06)により、
(07)
命題論理と同様、論理式を表記するときに曖昧さがなければ、余分な括弧は省略することができる(スマリヤン)。
といふ風に、されてゐる以上、例へば、
③ ~∃y∀ⅹPyⅹ
といふ風に、「入門書」には、書かれてゐても、
③ ~(∃y(∀ⅹ(Pyⅹ)))
といふ風に「思へれば」、「さう思っても、良い。」ことになる。
従って、
(08)
④ ~∃ⅹ(Mⅹ&~Dⅹ)
であれば、
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
といふ風に「思へれば」、「さう思って、も良い。」ことになる。
加へて、
(09)
固より、「論理学の記号」は、統一されてはゐないのであって、その意味では、
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
といふ「論理式」を、
⑤ 不(有ⅹ(Mⅹ而不(Dⅹ)))
といふ風に、書いても、構はない。
加へて、
(10)
Mⅹ の M は、
Man  の M であるものの、「取りあへず、さうした」のは、私であり、
Dⅹ  の D は、
Die   の D であるものの、「取りあへず、さうした」のは、私である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))=
⑤ 不(有ⅹ(人ⅹ而不(死ⅹ)))
然るに、
(12)
⑤ 不(有ⅹ(人ⅹ而不(死ⅹ)))
に於ける「三つのⅹ」は、この場合は、「yやZではなく、三つともⅹである」といふ意味しか、持ってゐない。
従って、
(12)により、
(13)
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))=
④ ~(∃(M&~(D)))=
⑤ 不(有(人而不(死)))
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(14)
「古今東西、人類の頭の中(思考法)」は、変はらないはずであり、それ故、
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
といふ「論理式」に於いて、
④((( )))
といふ「括弧」が有って、
⑤ 不(有(人而不(死)))
といふ「漢文」に於いて、
⑤((( )))
といふ「括弧」が無い。といふことは、ほとんど、有り得ない。
cf.
文法とは、単純に、精神活動の一部であって、精神活動とは普遍的なものである;すなわち、文法は普遍的である(ウィキペディア:ポール・ロワイヤル文法)。生成文法において言語とは、人間の存在を離れて客体として存在しているのではなく、あくまで人間の心/脳の中に存在しているもの (I-language) で、ある言語の母語話者がその言語を話すために保持している知識の体系(language competence) を指している(ウィキペディア:普遍文法)。記号論理学においては表層構造と深層構造の区別は存在しない。といふのも、記号論理学は初めからそのようにつくられた人口言語だからである(山下正男、論理学史、1983年、186頁)。漢文は「東洋のエスペラント」であるといわれます。目で見てわかりやすく、文法も単純な、漢文という共通の道具を使えば、中国人でも日本人でも、朝鮮人でも、安南人でもすぐに意志を通じることができました。そればかりでなく、二千年まえの人の書きものでも、自由に読むことができるのです(魚返善雄、漢文入門、1966年、14頁)。漢文はその発生の初めから知的に整理された中国の文章語で、紀元前の文献である『論語』や『孟子』のころにはすでに記載語として成立していた。その文章は当時の口語の煩雑さを整理して、より簡潔な形に凝集させたものである(ウィキペディア:漢文)。
従って、
(15)
「論理式」を表記するときに曖昧さがなければ、「余分な括弧は省略」することができる(スマリヤン)。といふことが、「論理学」に於いて、成り立つ一方で、「漢文」に於いては、「全ての括弧が省略」されてゐる。と、すべきである。
従って、
(16)
⑤ 不(有(人而不(死)))
といふ風に、書かれることが無い。といふ「理由」により、
⑤ 不有人而不死
といふ「漢文」は、存在しても、
⑤ 不(有(人而不(死)))
といふ「漢文」は、存在しない。とすることは、
④ ~∃ⅹ(Mⅹ&~Dⅹ)
といふ風に、書かれた「論理式」は、見たことがあるが、
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
といふ「論理式」は、見たことが無いため、
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
といふ「論理式」は、マチガイである。とすることに、等しい。
従って、
(16)により、
(17)
⑤ 不有人而不死=
⑤ 不(有(人而不(死)))
ではない。とすることは、
④ ~∃ⅹ(Mⅹ&~Dⅹ)=
④ ~(∃ⅹ(Mⅹ&~(Dⅹ)))
ではない。とすることと、同様に、マチガイである。
cf.
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう;しかし、丸括弧はその内部の表述が連言でないかぎり削除しよう(W.O.クワイン、現代論理学入門、1972年、1頁)。
平成26年11月22日、毛利太。

2014年11月20日木曜日

「は」と「が」(排他的命題)。

(01)
A={1,2,3}
B={1,3,2}
C={4,6,8,10}
D={5,7,8,9,11}
は、「集合」である。
従って、
(01)により、
(02)
ⅹが集合Aの要素であれば、ⅹは集合Bの要素であり、逆に、
ⅹが集合Bの要素であれば、ⅹは集合Aの要素である。
従って、
(02)により、
(03)
Aならば、Bであり、Bならば、Aである。
然るに、
(04)
Bならば、Aである。
の「対偶」は、
Aでないならば、Bでない。
従って、
(03)(04)により、
(05)
Aならば、Bであり、Aでないならば、Bでない。
然るに、
(06)
Aでないならば、Bでない=
A以外はBでない(排他的命題)。
従って、
(03)~(06)により、
(07)
① Aならば、Bであり、Bならば、Aである。
② Aならば、Bであり、A以外は、Bでない。
③ Aならば、Bであり、AでないならばBでない。
に於いて、
①=②=③
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(08)
A={1,2,3}
B={1,2,3}
C={4,6,8,10}
D={5,7,8,9,11}
であれば、
CはBでなく、
DもBでなく、∴
AがBである。は、「真(本当)」である。
然るに、
(09)
A={1,2,3}
B={1,2,3}
C={1,2,3}
D={4,6,8,10}
E={5,7,8,9,11}
であれば、
A={1,2,3}
B={1,2,3}
であって、尚且つ、
C={1,2,3}
B={1,2,3}
であるため、すなはち、
CもBであるため、∴
A以外はBでない。
といふ「排他的命題」は、「偽(ウソ)」である。
加へて、
(09)により、
(10)
A={1,2,3}
B={1,2,3}
であって、尚且つ、
C={1,2,3}
B={1,2,3}
であるため、∴
AがBである。は、「偽(ウソ)」である。
従って、
(07)~(10)により、
(11)
② Aならば、Bであり、A以外は、Bでない。
といふ「排他的命題」が、「真(本当)」である。ならば、その時に限って、
④ AがBである。
といふ「日本語」は、「真(本当)」である。
従って、
(07)(11)により、
(12)
① Aならば、Bであり、Bならば、Aである。
② Aならば、Bであり、A以外は、Bでない。
③ Aならば、Bであり、AでないならばBでない。
④ AがBである。
に於いて、
①=②=③=④
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(12)により、
(13)
① aがⅹである=
② aはⅹであり、ⅹはbである=
③ aはⅹであり、a以外はⅹでない。
従って、
(13)により、
(14)
① 鈴木が社長です。
といふ風に、言へる。のであれば、
② 社長は鈴木です=
③ 鈴木以外に社長はゐない。
と言へる、「必要」がある。
従って、
(14)により。
(15)
① 人間が動物である。
といふ風に、言へる。のであれば、
② 動物は人間である=
③ 人間以外に動物はゐない。
と言へる、「必要」がある。
然るに、
(16)
② 動物は人間である=
③ 人間以外に動物はゐない。
とは、言へない。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
① 人間が動物である=
② 動物は人間である=
③ 人間以外は動物ではない。
とは言へず、普通は、
① 人間は動物である。
といふ、ことになる。
従って、
(01)~(17)により、
(18)
① 人間が動物である。
と言へない「理由」は、
② 動物は人間である=
③ 人間以外は動物ではない。
といふ「命題」が、「偽(ウソ)」であるからである。
従って、
(18)により、
(19)
高校に通ってる者です(astro_walkersさん:2011/11/420:47:11)。
英語の授業で「日本語は非論理的で英語は論理的な言語だ。」ということをやりました。助詞「は」/「が」が日本語があいまいで非論理的あるという根拠のうちの一つ。
とあるものの、
助詞「は」/「が」が日本語があいまいで非論理的ある。
といふ「言ひ方自体」が、私には、「理解できない」。
(20)
「学校の教師が言っていたから正しい」なんてことは当然ありません。
権威に惑わされず、自分の頭で考えるようにしてください(miso00juiceさん)。
といふ「言ひ方」こそが、正しい。
平成26年11月20日、毛利太。

2014年11月19日水曜日

「不敢」について。

(01)
(参考)
三浦吉明教諭は「「不敢(あへて・・・ず)」の解釈について」(「漢文教室」第一五四号、一九八六・六)において、次のような問題提起をした。
1.市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。
2.西田太一郎『漢文の語法』(角川書店)では、これを次のように説明しており、「目からうろこが落ちた気持ちになった。」
以下は、西田氏の説明を三浦教諭が要約したものである。
「敢」の訳しかたは場面に合わせて様々な可能性がある。
仮に「敢」が「勇気を出して~~する」の時は、「不敢~~」はそれの否定であるから「勇気を出して~~することをしない」「~~するだけの勇気がない」となる。
このように「不敢」の形を正しくつかむと、「はばかって~~しない」「決して~~しない」「どうしても~~まい」は誤りである。(江連隆、漢文語法ハンドブック、1997年、81頁)。
然るに、
(02)
私自身は、
① 敢告。
② 敢不告。
③ 不敢告。
④ 不敢不告。
といふ「漢文」を、
①「告げたい気持ち」が、「告げたくない気持ち」を、上回るので、    「告げる」。  ⇒「積極的」。
②「告げたくない気持ち」が、「告げたい気持ち」を、上回るので、    「告げない」。⇒「積極的」。
③「告げたい気持ち」が、「告げたくない気持ち」を、上回らないので、「告げない」。⇒「消極的」。
④「告げたくない気持ち」が、「告げたい気持ち」を、上回らないので、「告げる」。    ⇒「消極的」。
といふ風に、理解したい。
従って、
(03)
① 敢告。
④ 不敢不告。
は、両方とも、「結果」としては、
① 告げる。
④ 告げる。
であるが、ただし、、
① は、「積極的に、告げる」のであって、
④ は、「消極的に、告げる」ことになる。
(04)
② 敢不告。
③ 不敢告。
の場合も、両方とも、「結果」としては、
② 告げない。
③ 告げない。
であるが、ただし、
② は、「積極的に、告げない」のであって、
③ は、「消極的に、告げない」ことになる。
従って、
(02)により、
(05)
③ 不敢視。
であれば、
③「視たい気持ち」が、「視たくない気持ち」を、上回らないので、「視ない」。⇒「消極的」。
であるものの、この時、「視たい気持ち」が、「とても強い」のであれば、
③「視たい気持ち」が、強いのに、「視ない(視ることが出来ない)」。
と、すべきである。
従って、
(05)により、
(06)
昆弟妻嫂側目不敢視=
昆弟妻嫂目を側目めて敢へて視ず(十八史略)。
に於ける、
③ 不敢視=(視たいけれど、)視ない。
といふ「語句」を、
見ることが出来なかった(日英社、要説 十八史略・史記、1970年、147頁)。
と訳してゐることは、「納得がいく」。
加へて、
(02)により、
(07)
④ 不敢不告。
であれば、
④「告げたくない気持ち」が、「告げたい気持ち」を、上回らないので、「告げる」。⇒「消極的」。
であるものの、さうであれば、
④ 不敢不知=(今、この時点で、知らせたくない気持ちが、知らせたい気持ちを上回らない)ので、知らせることを、(やむを得ず)決意した。といふ「文脈」で、
④ 不敢不告。
と言ふことは、「理に適ってゐる」。
従って、
(07)により、
(08)
〔例文〕110
事已至此。不敢不告=事已に此に至る。敢へて告げずんばあらず。
(事態がもはやここまできてしまった。思いきって知らせないではいられない。)[日本外史](昇龍堂、漢文公式と問題正解法、1997年、46版、59頁)。
に於ける、
④ 事已至此。不敢不告.
といふ、書き方は、「理に適ってゐる」。
然るに、
(02)により、
(09)
①「告げたい気持ち」が、「告げたくない気持ち」を、上回るので、    「告げる」。 
の「否定」は、
③「告げたい気持ち」が、「告げたくない気持ち」を、上回らないので、「告げない」。
であって、
②「告げたくない気持ち」が、「告げたい気持ち」を、上回るので、    「告げない」。
の「否定」は、
④「告げたくない気持ち」が、「告げたい気持ち」を、上回らないので、「告げる」。
である。
すなはち、
(10)
①   敢告。 の「否定」は、
③ 不敢告。 であって、
②   敢不告。の「否定」は、
④ 不敢不告。である。
然るに、
(11)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ 不敢言。
に関しては、
③ 不(敢言)。
である。ことに、なる。
従って、
(11)(12)により、
(13)
⑤ 非不敢言。=
⑤ 非〔不(敢言)〕⇒
⑤〔(敢言)不〕非=
⑤〔(敢へて言は)不るに〕非ず。
であるものの、このことは、
③「言たい気持ち」が、「言たくない気持ち」を、上回らないので、「言はない」。⇒「消極的」。
の「否定」が、
⑤ 非〔不(敢言)〕。
である。ことになる。
従って、
(02)(13)により、
(14)
③ 不敢言  =  (消極的に、言は)ない
の「否定」は、
⑤ 非不敢言=((消極的に、言は)ない)のではない
といふ、ことになる
従って、
(14)により、
(15)
〔問題(笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、61頁)〕は、
⑥ 我非不敢言、乃不肯言爾=
⑥ 我非〔不〔敢(言)〕、乃不〔肯(言)〕爾⇒
⑥ 我〔〔敢へて(言は)不るに〕非ず、乃ち〔(言ふを)肯ぜ〕不るのみ=
⑥ 私は((消極的に、言は)ない)のではない。すなはち、言ふことを、良しとしないが故に、言はないだけだ。
といふ、「意味」になる。
cf.
【肯】(意味)①(動詞)がえんずる。うなずく。また、承知する。「肯定」→(語法②)
②「不肯」は、「~するをがんぜず」とよみ、「~することを承知しない」と訳す。
(学研、改訂新版 漢字源、2002年、710頁)
(16)
端的に言ふと、
⑥ 我非不敢言、乃不肯言爾≒
⑥ 言ひたいけれど言はないのではなく、言ひたくないから言はないのだ。
といふ、ことになる。
(06)により、
(17)
⑧ 不敢背=(背きたくとも、)背けない。
であるものの、
⑧(背きたくとも、)背けない⇒
⑧(決して、)背かない。
である。はずである。
従って、
(17)により、
(18)
⑧ 沛公不敢背項王=
⑧ 沛公は(決して、)項王に背かない。
といふ、ことになる。
従って、
(18)により、
(19)
1.市販の問題集・参考書の類、教科書・教師用指導書の類では、「不敢」を「決して・・・ない」と訳している。
としても、「不都合」は、ない。
平成26年11月19日、毛利太。

2014年11月16日日曜日

三重否定(非_無_不)。

(01)
① 生徒は、必ず、教師に及ばない。
② 教師であって、生徒に及ばない者はゐない。
といふ「日本語」を、「漢文」で書くと、
① 生徒必不如教師=生徒は必ず、教師に如かず。
② 無教師不如生徒=教師として生徒に如かざるは無し。
然るに、
(02)
① 生徒必不如教師。
の「否定」は、
③ 生徒不必不如教師=
③ 生徒不[必不〔如(教師)〕]⇒
③ 生徒[必〔(教師)如〕不]不=
③ 生徒は[必ずしも〔(教師に)如か〕不んばあら]不=
③ 生徒は[必ずしも〔(教師に)及ば〕ないといふことは]ない。
(03)
② 無教師不如生徒。
の「否定」は、
④ 非無教師不如生徒者=
④ 非{無[教師不〔如(生徒)〕者]}⇒
④ 非{無[教師不〔如(生徒)〕者]}=
④ {[教師〔(生徒)如〕不者]無}非=
④ {[教師として〔(生徒に)如か〕不る者]無き}非ず=
④ {教師であって〔(生徒に)及ば〕ない者が]ゐないわけでは}ない。
然るに、
(04)
① 生徒は、必ず、教師に及ばない。
② 教師であって、生徒に及ばない者はゐない。
に於いて、
①は、②の「言ひ換へ」であって、
③ 生徒は必ずしも教師に及ばないといふことはない。
④ 教師であって生徒に及ばない者がゐないわけではない。
に於いて、
③は、④の「言ひ換へ」である。
然るに、
(05)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(02)~(05)により、
(06)
    ① =  ②
~(①)=~(②)
であるものの、このことを、「等値の対偶則」といふ。
従って、
(04)(06)により、
(07)
① 生徒必不如教師=生徒は必ず、教師に如かず。
② 無教師不如生徒=教師として生徒に如かざるは無し。
③ 生徒不必不如教師 =生徒は必ずしも教師に如か不んばあら不。
④ 非無教師不如生徒者=教師にして生徒に如か不る者無きに非ず。
といふ、
① 壱重否定。
② 弐重否定。
③ 弐重否定。
④ 参重否定。
は、「左辺(漢文)」も、「右辺(訓読)」も、両方とも、「論理学的」である。
従って、
(08)
① 壱重否定。
② 弐重否定。
③ 弐重否定。
④ 参重否定。
に於いて、「左辺(漢文)」だけが、「論理学的」である。
とは、言へない。
従って、
(08)により、
(09)
でも、私はそんなことは無い!!と強く言いたいです!!
「日本語は非論理的で英語は論理的な言語だ。」
という主張を完膚なきまでに論破したいです><;
に対する「ベストアンサー(hjghnmdm85さん)」=
日本語(倭語)は江戸時代までは和歌や小説専門の言語でした。論理的な文章は全て漢語で書いています。今の日本語は漢語の要素を多大に取り入れているとはいえ、元がこれではそもそも論理的なわけがありません。これも歴史を学べばわかります。
は、マチガイです。
(10)
英語が、「論理的」かどうかといふ「質問」を、
英語は、「論理学的」かといふ「質問」に変へるならば、明らかに、No.であると、断言できます。
(11)
つまりは、「英語」は、「論理的」であったとしても、すくなくとも、「漢文訓読」に比べたら、明らかに、「論理学的」では、ありません。
(12)
11月08日の記事でも、書いたやうに、「二重否定」さえ、まともに表現できない「英語」が、「論理学的」であるはずが、ありません。
平成26年11月16日、毛利太。

2014年11月15日土曜日

二重否定(不敢不_)。

― この「記事」は、『「敢へて」について。』として、もうすぐ、書き換へます。―
(01)
あえて【敢えて】(副)①しいて、無理に dare(旺文社、英訳つき国語総合新辞典、1998年)
従って、
(02)
① 敢へて言ふ =(言ひたくないけれど)言ふ。
② 敢へて言はず=(言ひたいけれど)言はない。
従って、
(02)により、
(03)
① 言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを、上回ってゐる。
② 言ひたくない気持ちが、言ひたい気持ちを、上回ってゐる。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 敢言 =敢へて言ふ。
② 敢不言=敢へて言はず。
であらならば、二つの「否定」は、
① 不(敢言) =(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを、上回ってゐ)ないので、言はない。
② 不(敢不言)=(言ひたくない気持ちが、言ひたい気持ちを、上回ってゐ)ないので、言ふ。
然るに、
(05)
(言ひたくない気持ちが、言ひたい気持ちを、上回ってゐ)ない
(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを、上回ってゐる)。
従って、
(04)(05)により、
(06)
② 不(敢不言)=(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを、上回ってゐる)ので言ふ。
従って、
(06)により、
(07)
② 不(敢不言)=(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを、上回ってゐる)ので言ふ。
③ 不(敢不告)=(告げたい気持ちが、告げたくない気持ちを、上回ってゐる)ので告げる。
④ 不(敢不知)=(知らせたい気持ちが、知らせたくない気持ちを、上回ってゐる)ので知らせる。
に於いて、
②=③=④
である。と、する。
従って、
(07)により、
(08)
④ 不(敢不知)=(今迄は、迷ってゐたが、知らせたい気持ちが、知らせたくない気持ちを、上回った)ので知らせる。ことを、決意した。といふ「文脈」で、
③ 不(敢不告)。
と言ふことは、「理に適ってゐる」。
然るに、
(09)
〔例文〕110
事已至此。不敢不告=事已に此に至る。敢へて告げずんばあらず。
(事態がもはやここまできてしまった。思いきって知らせないではいられない。)[日本外史]
(昇龍堂、漢文公式と問題正解法、1997年、46版、59頁)。
従って、
(01)~(09)により、
(10)
③ 不(敢不告)=(告げたい気持ちが、告げたくない気持ちを、上回ってゐる)ので告げる。
といふ「等式」は、「正しい」。
従って、
(10)により、
(11)
告。
といふ「二重否定」には、少なくとも、
(敢告)。
といふ「括弧」が、無ければ、ならない。
然るに、
(12)
任意の表述の否定は、その表述を’~(  )’という空所にいれて書くことにしよう(大修館書店、現代論理学入門、1972年、15頁)。とする、W.O.クワインであれば、
(敢(告))。
とすることに、賛成しない、はずがない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
少なくとも、「論理的」には、
③ 不敢不告=
③ 不(敢不(告))⇒
③(敢(告)不) 不=
③(敢へて(告げ)不んばあら) 不。
といふ「括弧」は、有ります!。
従って、
(14)
「括弧」は、「実在」であるため、「単なる、返り点の代用」では、なく、むしろ、
③ 不敢不告。
に於ける、
③ 二 一レ 。
といふ「返り点」は、
③〔( )〕。
といふ「括弧の、「代用」である
平成26年11月15日、毛利太。

2014年11月13日木曜日

「不敢視」について。

(01)
「日本語」では、
敢へて言ふ=(言ひたくないけれど)敢へて言ふ。
cf.
あえて【敢えて】(副)①しいて、無理に dare(旺文社、英訳つき国語総合新辞典、1998年)
然るに、
(02)
言ひたくないけれど言ふ。
といふことは、
言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを上回ってゐる。
といふことに、他ならない。
従って、
(03)
「漢文」と、「日本語(訓読)」に於いて、
敢言=敢へて言ふ。
であるならば、その「否定」は、
不敢言=(言ひたい気持ちが、言ひたくない気持ちを上回らないので、)言はない。
といふ、ことになる。
従って、
(03)により、
(04)
不敢言=(言ひたいけれど、)言はない。
然るに、
(05)
言ひたい気持ちが大きい場合は
不敢言=(言ひたいけれど、)言はない。
といふよりも、
不敢言=(言ひたいけれど、)言ない。
と、すべきである。
従って、
(05)により、
(06)
不敢視=(視たいけれど、)視ない。
従って、
(06)により、
(07)
昆弟妻嫂側目不敢視=
昆弟妻嫂目を側目めて敢へて視ず(十八史略)。
の、
不敢視=(視たいけれど、)視れない
を、
見ることができなかった(日英社、要説 十八史略・史記、1970年、147頁)。
と訳してゐることは、納得がいく。
然るに、
(08)
不敢視=(視たいけれど、)視ない。
の、
ない。
は、普通であれば、
視=視ない。
従って、
(08)により、
(09)
視=
従って、
(09)により、
(10)
仰視=莫仰視
従って、
(10)により、
(11)
左右皆泣莫仰視=
左右皆泣莫仰視
であるものの、私が、今日まで、記憶してゐたのは、
左右皆泣莫仰視(笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、60頁)。
ではなく、
左右皆泣莫仰視(旺文社、漢文の基礎、1973年、259頁)。
である。
(12)
といふわけで、何が言ひたいのか言ふと、
以前から、このやうな場合の「(dare)」には、「(can)」といふ「意味合ひ(ニュアンス)」があるはずであると、思ってゐたところ、奇しくも、
(笠間書院、60頁)=
(旺文社、 259頁)
によって、それが、今日、確かめられた。といふことである。
然るに、
(13)
言ひたい気持ちが大きい場合は、
言=(言ひたいけれど、)言はない。
といふよりも、
言=(言ひたいけれど、)言ない。
と、すべきである。
という風に、私をして、思はしめたのは、「私の、日本語の語感」である。
然るに、
(14)
「敢」といふ漢字を、グーグル翻訳にかけると、
「敢」⇒「Dare」
である。
従って、
(13)(14)により、
(15)
あるいは、中国語ネイティブの方たちも、
言ひたい気持ちが大きい場合は、
視=(視たいけれど、)視ない。
といふよりも、
視=(視たいけれど、)視ない。
と、すべきである。といふ風に、思はれるのかも、知れない(?)。
cf.
至是為従約長併相六国。行過洛陽。車騎輜重、擬於王者。昆弟妻嫂、側目不敢視(十八史略、蘇秦・張儀、合従連衡)。
平成26年11月13日、毛利太。

2014年11月12日水曜日

「括弧」は、存在(∃)します。

(01)
「論理学の記号」は、昔から「書き方」が、一定ではありません。
そのため、
(02)
私自身は、
  ∀ⅹ∃y(ⅹKy∧~yKⅹ)=すべての人は彼を知らないある人を知っている。
(スマリヤン、記号論理学 一般化と記号化、2013年、119頁)を、
(∀ⅹ)(∃y)(ⅹKy&~yKⅹ)=すべての人は彼を知らないある人を知っている。
といふ風に、書くことに、します。
然るに、
(03)
  ~yKⅹ は、yKⅹ の「否定」であるため、
~(yKⅹ)とします。
従って、
(02)(03)により、
(04)
(∀ⅹ)(∃y)(ⅹKy&~(yKⅹ))
であるものの、
(∀ⅹ)(∃y)(ⅹKy&~(yKⅹ))は、
「正確」には、
(∀ⅹ)((∃y)(ⅹKy&~(yKⅹ)))
である、はずです。
従って、
(02)(04)により、
(05)
  ∀ⅹ∃y(ⅹKy∧~yKⅹ)=
(∀ⅹ)((∃y)(ⅹKy&~(yKⅹ)))
であるものの、読みやすいやうに、
(∀ⅹ)((∃y)(ⅹKy&~(yKⅹ)))=
(∀ⅹ)[(∃y)〔ⅹKy&~(yKⅹ)〕]
といふ風に、書くことにします。
然るに、
(06)
(∀ⅹ)[(∃y)〔ⅹKy&~(yKⅹ)〕]
といふ「述語論理」を、「訓読」すると、
(∀ⅹ)[(∃y)〔ⅹKy&~(yKⅹ)〕]⇒
[〔ⅹKy&(yKⅹ)~〕(∃y)](∀ⅹ)=
[〔ⅹがyを知ってゐて、(yがⅹを知ら)ない〕(といふ、そのやうなyが存在する)ことに関しては、](全てのⅹについて、正しい)。
然るに、
(07)
日本国総理大臣は、例へば、私を知らないため、
安倍晋三を知ってゐて、安倍晋三が知らない日本国民は、存在します。
従って、
(07)により、
(08)
ⅹ=日本国民の一人。
 y =安部信三。
であれば、
ⅹがy(安倍晋三)を知ってゐて、y(安倍晋三)がⅹを知らない。といふ、そのやうなy(日本国総理大臣)が存在する。といふことは、「正しい」。
然るに、
(09)
ⅹ=日本国民の一人。
であるときに、(全てのⅹについて、正しい)。
といふことは、
約1億3千万の、「全ての日本人」について、「正しい」といふことを、意味してゐる。
然るに、
(10)
ⅹ=日本国民の一人。
として、
ⅹ=10日前に生まれた赤ん坊。
を「想定」すると、
ⅹは、安倍晋三を知らない。
従って、
(06)~(10)により、
(11)
ⅹ=日本国民の一人。
 y =安倍晋三。
であるとき、
ⅹ(赤ん坊)はy(安倍晋三)を知らない。
が故に、
(∀ⅹ)[(∃y)〔ⅹKy&~(yKⅹ)〕]
といふ「述語論理」は、「偽(ウソ)」です。
従って、
(05)(06)(11)により、
(12)
ⅹ=日本国民の一人。
 y =安倍晋三。
であるとき、
  ∀ⅹ∃yⅹKy∧~yKⅹ=
(∀ⅹ)[(∃y)〔ⅹKy&~(yKⅹ)〕]=
すべての人は、彼を知らない所の、ある人を知っている。
といふ「述語論理」は、「偽(ウソ)」です。
従って、
(05)~(12)により、
(13)
∀ⅹ∃yⅹKy∧~yKⅹ
といふ「偽なる命題」に、
∀ⅹ[∃y〔ⅹKy∧~(yKⅹ)〕]
といふ「括弧」を加へることは、正しい。
然るに、
(14)
∀ⅹ[∃y〔ⅹKy∧~(yKⅹ)〕]
を、「漢文」で表すならば、
人皆知所不己知者。
といふ風に、なると、思はれます。
然るに、
(15)
人皆知所不己知者。
といふ「漢文」が、有るとして、
人皆知所不己知者=
人皆知[所〔不(己知)〕者]⇒
人皆[〔(己知)不〕所者]知=
人皆知[所〔不(己知)〕者]=
人皆[〔(己を知ら)不る〕所の者を]知る。
といふ「漢文訓読」は、正しい。
従って、
(14)(15)により、
(16)
人皆知所不己知者。
といふ「漢文」が、有るとして、
人皆知所不己知者。
に対して、
[〔( )〕]
といふ「括弧」を加へることは、
∀ⅹ∃yⅹKy∧~yKⅹ
に対して、
[〔( )〕]
といふ「括弧」を加へることに、相当します。
然るに、
(17)
論理結合子を組み合わせて用いることで、単純な命題から複雑な命題を組み立てることができる、その際、曖昧さを排除するために括弧が必要となることがある(スマリヤン、記号論理学 一般化と記号化、2013年、49頁)。
従って、
(16)(17)により、
(18)
∀ⅹ∃yⅹKy∧~yKⅹ
といふ「論理式」に、[〔( )〕]といふ「括弧」が、有るやうに、
人皆知所不己知者。
といふ「漢文」にも、[〔( )〕]といふ「括弧」は、有ります!。
平成26年11月12日、毛利太。
(19)
(∃ⅹ)〔(∀y)(yKⅹ → ⅹKy)〕
を、「訓読」すると、
(∃ⅹ)〔(∀y)(yKⅹ → ⅹKy)〕⇒
〔(yKⅹ → ⅹKy)(∀y)〕(∃ⅹ)=
〔(yがⅹを知ってゐるならば、 ⅹもyを知ってゐる。といふことが)(全てのyについて正しい)〕(といふ、そのやうなⅹが存在する)。
従って、
(20)
(∃ⅹ)〔(∀y)(yKⅹ → ⅹKy)〕=
自分を知ってゐる全ての人物を知ってゐる、そのやうな人である所のⅹが存在する。
然るに、
(21)
【関連記事】
眞鍋かをりさん脅迫 逮捕の男「謝罪しろ」と事務所に電話 面識はなし(夕刊フジ)。
最終更新:11月12日(水)19時6分
従って、
(20)(21)により、
(22)
(∃ⅹ)〔(∀y)(yKⅹ → ⅹKy)& ⅹ=眞鍋かをりさん〕
といふ「命題」は、「偽(ウソ)」である。

(23)
中川翔子が、彼女のファンの全員を知ってゐることも有りえない。
従って、
(23)により、
(24)
(∃ⅹ)〔(∀y)(yKⅹ → ⅹKy)& ⅹ=しょこたん〕
といふ「命題」も、「偽(ウソ)」である。
平成26年11月12日、毛利太。

2014年11月10日月曜日

二重否定(其の2)。

(01)
① 生徒不〔如(教師)〕⇒
① 生徒〔(教師)如〕不=
① 生徒は〔(教師に)如か〕不=
① 生徒は、教師に及ばない。
といふことは、「普通」は、「正しい」。
然るに、
(02)
② 無[教師不〔如(生徒)〕]⇒
② [教師〔(生徒)如〕不]無=
② [教師として〔(生徒に)如か〕不るは]無し=
② 教師であるならば、全員が、生徒よりも劣ることはない。
とは、言へない。
然るに、
(03)
例へば、「日本の中学の英語教師の英語の発音」は、「帰国子女の英語の発音」に、及ばない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 生徒不〔如(教師)〕。
といふ「命題①」に対して、「必ず」を加へた、
③ 生徒必不〔如(教師)〕⇒
③ 生徒必〔(教師)如〕不=
③ 生徒は必ず〔(教師に)如か〕不=
③ 生徒は、必ず、教師に及ばない。
といふ「命題③」は、「偽(0)」である。
従って、
(04)により、
(05)
③ 生徒必不〔如(教師)〕。
といふ「命題③」の「否定」、すなはち、
④ 生徒不[必不〔如(教師)〕]⇒
④ 生徒[必〔(教師)如〕不]不=
④ 生徒は[必ずしも〔(教師に)如か〕不んばあら]不=
④ 生徒は必ずしも、先生に及ばないとは、限らない。
といふ「命題④」は、「真(1)」である。
然るに、
(06)
明治以前の日本人は、漢文を読むことで論理的な考え方を身に付けました。漢文は論理的な構文をたくさん含んでいるからです(山下正男、論理的に考えること、1985年、はじめに)とあるやうに、以上の「考え方」は、「論理的」に、「正しい」。
従って、
(04)(05)(06)により、
(07)
「日本の英語教師の英語の発音」は「帰国子女の英語の発音」に及ばない。
といふことを以て、
③   必如教師=偽(0)。
如教師=真(1)。
である。
然るに、
(08)
任意の表述の否定は、その表述を’(  )’といふ空所入れて書くことにしよう;しかし、丸括弧はそのその内部の表術が連言でないかぎり削除しよう(W.O.クワイン著、杖下隆英 訳、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
③   必如教師=偽(0)。
如教師=真(1)。
といふ「命題(漢文)」は、
③     必(如教師)  =偽(0)。
(必(如教師))=真(1)。
といふ、ことになる。
然るに、
(10)
「ロジック」といふ言葉は、は「ロゴス(言葉)」から来てゐるのであって、それ故、「アイキャント、ゲット、ノー、サティスファクション。」等の言ひ方は、やはり、「非ロジカル」であるとしか、私には、思へない。
従って、
(09)(10)により、
(11)
「漢文訓読」の問題(issue)だけではなく、「LOGIC」の問題(issue)としても、「括弧」は有りす!。
平成26年11月10日、毛利太。

2014年11月8日土曜日

二重否定(仮題)。

(01)
無=No
人=man
不=doesn’t
死=die.
従って、
(01)により、
(02)
① 無人不死=
② No man doesn’t die.
然るに、
(03)
① 無い=不有(有らず)。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 無人不死=
① 不有人不死=
① 不[有〔人不(死)〕]⇒
① [〔人(死)不〕有]不=
① [〔人として(死せ)不るは〕有ら]不=
① Mors omnibus communis=
① Death is common to all men.
然るに、
(05)
然るに、
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))⇒
③ ((Mⅹ&(Dⅹ)~)(∃ⅹ))~=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
従って、
(01)~(04)により、
(06)
① 無人不死=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
然るに、
(07)
しかし18世紀にきわめて人工的・作為的性質の強い規範文法が整備された際、否定呼応という言語現象に無理解な学者たちは、論理学規範を言語という特殊条件を考慮せずに適応し、「否定語を2回使うということは否定の否定を意味し、論理的に肯定である」と主張し、英語の否定呼応を抹殺した(ウィキペディア:二重否定)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、「英語の否定呼応」は、抹殺されずに、「生きている」。
然るに、
(09)
① 無〔人不(死)〕=
③ ~((∃ⅹ)(Mⅹ&~(Dⅹ)))=
② No man doesn’t die=
③ ((ⅹは人であって(ⅹは死な)ない)(そのやうなⅹは存在し))ない。
であるためには、
① 無人不死=
① 無〔人不(死)〕。
のやうに、
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
である、「必要」がある。
然るに、
(10)
② No man doesn’t die=
② No〔man doesn’t(die)〕.
であるためには、
② Noman=一語
ではなく、
② No man=二語
である「必要」が、ある。
従って、
(08)~(10)により、
(11)
② No man doesn’t die=
④ No man dies(誰も死なない).
であるのであれば、
④ No man dies(誰も死なない).
ではなく、
④ Noman dies(誰も死なない).
であると、思はれる。
然るに、
(12)
いづれにせよ、
① 無(人不死)=(人として死せざるは)無し。
① 無(書不読)=(書として読まざるは)無し。
① 無(草不枯)=(草として枯れざるは)無し。
① 無(物不長)=(物として長ぜざるは)無し。
① 無(日不雲)=(日として雲らざるは)無し。
① 無(夕不飲)=(夕として飲まざるは)無し。
⑤ 無(処不傷心)=(処として心を痛めしめざるは)無し。
⑤ 無(教師不如生徒)=(教師として生徒に如かざるは)無し。
・  ・  ・  ・  ・  ・
だけでなく、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「漢文」の場合も、
⑤ 無(所往而不為義)=(往く所として義為らざるは)無し。
との、ことである。
cf.
「笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、58頁」。
然るに、
(13)
⑤ 無(所往而不為義)。
ではなく、
⑥ 無(所往)而不為義。
であるならば、
⑥ 無(所往)而不為義=(往く所)無くして、義為らず。
である。
然るに、
(14)
⑤(往く所として義為らざるは)無し。
⑥(往く所)無くして、義為らず。
に於いて、
⑤と⑥は、もちろん、「同じ意味」ではない。
然るに、
(15)
「漢文(白文)」自体には、「括弧」が書いてあるわけではないので、見た目では、
⑤ 無所往而不為義。
に於いて、
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
の「区別」が、付かない。
cf.
また、童話の題名「眠れる森の美女」も、実は眠っているのは「森の美女」ではなく、「森」であるという話がある。フランス語の原題”La Belle au bois dormant”で、形容詞の性をみるとそう解釈できるのだという。
(木村大治、括弧の意味論、2011年、18頁改)
従って、
(16)
このように「」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふことは、
このように「」が頭にきているときにも、当てはまる。
然るに、
(17)
⑤ 無(所往而不為義)。
⑥ 無(所往)而不為義。
は、「正確」には、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
であるため、
⑤と⑥の違ひは、
⑥[ ]の有無の違ひである。
従って、
(13)(14)(17)により、
(18)
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所往而不為義]。
であると、思ったときに、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]⇒
⑤ [(往)所而〔(義)為〕不]無=
⑤ [(往く)所として〔(義)為ら〕不るは]無し。
といふ風に、「訓読」する。ことになる。
然るに、
(19)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 往く所として義為ら不るは無し。
と読むとしたら、その時には、既に、
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思ってゐる。」ことになる。
然るに、
(20)
⑤ 無所往而不為義=
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
といふ風に、「思った。」のは、「何時」かと言へば、当然、
⑤ 無所往而不為義。
といふ「白文」を、「見てゐる時」である。
従って、
(20)により、
(21)
さうである以上、
⑤ 無所往而不為義。
を、「よく見る事」こそが、「大切」なのであって、それ故、二畳庵主人曰く、
この「見る」という造形的感覚はだれでもが持っている。けっして特殊な才能を要さない。「読書百遍、意おのずから通ず」(何度も読んでいるうちに、意味がしぜんとわかる)ということの第一段は、この「見る」、骨格を「見る」ということだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、324頁)。といふことになる。
然るに、
(22)
以上のやうに、二畳庵主人が書いたのは、
⑤ 無[所(往)而不〔為(義)〕]。
⑥ 無〔所(往)〕而不〔為(義)〕。
ではなく、
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
に関してであって、尚且つ、
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であるが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。といふ「事情」がある。
(23)
もちろん、「二畳庵主人、漢文法基礎」では、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
ではなく、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
であるものの、
①〔( )〕( )( )。
②〔( )( )〕( )。
と、
① レ 二 一 二 一 二 一。
② 下 二 一 中 上 二 一。
は、「同じこと」なので、
①〔( )〕( )( )。が、「古注」で、
②〔( )( )〕( )。が、「新注」である。
といふ、ことになる。
従って、
(22)(23)により、
(24)
有祝鮀之佞而有宋朝之美。
を関して、
〔有祝鮀之佞〕而有宋朝之美。
〔有祝鮀之佞而有宋朝之美〕。
に於いて、
①のやうに、「」が、「半」に係る。のか、
②のやうに、「」が、「全体」に係る。のか、
といふ「議論」は、実質的に、朱子も行ってゐる。ことになる。
然るに、
(25)
「新儒教」の朱子学の創始者である朱子は、「漢文訓読」など、行はない。
従って、
(24)(25)により、
(26)
「漢文訓読」の問題(issue)ではなく、「漢文」の問題(issue)として、「括弧」は有ります!。
平成26年11月08日、毛利太。

2014年11月6日木曜日

「括弧はあります!」の「追記(Ⅱ)」。

(01)
大文字を使って、「肯定」を表し、
小文字を使って、「否定」を表す。ことにします。
例へば、
(02)
Aの「否定」を、aとし、
Bの「否定」を、bとします。
従って、
(03)
① AB=Aであって、Bである。
② Ab=Aであって、Bでない。
③ aB=Aでなくて、Bである。
④ ab=Aでなくて、Bでない。
とします。
然るに、
(04)
A=児孫の為である。
B=美田を買ふ。
とします。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① AB=児孫の為であって、美田を買ふ。
② Ab=児孫の為であって、美田を買はない。
③ aB=児孫の為でなくて、美田を買ふ。
④ ab=児孫の為でなくて、美田を買はない。
従って、
(05)により、
(06)
①(AB)に非ず=
①(Aであって、Bである。)でない。
とするならば、
① AB=児孫の為であって、美田を買ふ。
が「否定」された「結果」として、
② Ab=児孫の為であって、美田を買はない。
③ aB=児孫の為でなくて、美田を買ふ。
④ ab=児孫の為でなくて、美田を買はない。
といふ、「三つ」が、残ります。
然るに、
(03)により、
(07)
③ aB
④ ab
の二つは、
③ aB=Aでなくて、・・・・。
④ ab=Aでなくて、・・・・。
であるため、
「Aならば、・・・・。」の場合に、入りません。
従って、
(07)により、
(08)
② Ab
③ aB
④ ab
に於いて、
Aならば、② Ab である。
従って、
(02)(04)(08)により、
(09)
Aならば、Bでない。
従って、
(06)(09)により、
(10)
(Aであって、Bである)でない。ならば、
(Aならば、Bでない)。
然るに、
(11)
「交換律」により、
② Ab=bA 
④ ab=ba
然るに、
(03)により、
(12)
② bA 
④ ba
の二つは、
② bA=Bでなくて、・・・・。
④ ba=Bでなくて、・・・・。
であるため、
「Bならば、・・・・。」の場合に、入りません。
従って、
(12)により、
(13)
② Ab=bA
③ aB=Ba
④ ab=ba
に於いて、
Bならば、③ Ba である。

従って、
(02)(04)(13)により、
(14)
Bならば、Aでない。
従って、
(10)(14)により、
(15)
(Aであって、Bである)でない。ならば、
(Aならば、Bでなく)、
(Bならば、Aでない)。
従って、
(15)により、
(16)
高校で習った、「ド・モルガンの法則」は、正しい。
従って、
(17)
① 不為児孫買美田。
といふ「漢文」が、
① 不(為児孫買美田)。
といふ「意味」で、あって、尚且つ、「ド・モルガンの法則」は、正しい。のであれば、
① 不為児孫買美田。
① 不(為児孫買美田)。
といふ「漢文」は、
② Ab=児孫の為ならば、 美田を買はない。
③ Ba=美田を買ふならば、児孫の為でない。
といふ「命題」に、等しい。
cf. 
 
 幾たびか辛酸を歴て志(こころざし)始めて堅し、
 丈夫(ぢやうふ)玉碎すとも甎全(せんぜん)を恥づ。
 我が家の遺法人知るや否や、
 兒孫(じそん)の爲に美田を買はず。
然るに、
(18)
A=其の能の千里なるを知る。
B=馬を食(やしな)ふ。
とする。
従って、
(02)(18)により、
(19)
a=其の能の千里なるを知らず。
b=馬を食(やしな)はず。
とする。
従って、
(18)(19)により、
(20)
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
② Ab=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)はず。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
④ ab=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)はず。
然るに、
(21)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、
馬を食(やしな)はない。
といふことは、有り得ない。
従って、
(21)により、
(22)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
② Ab=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)はず。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
④ ab=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)はず。
に於いて、
② Ab=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)はず。
④ ab=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)はず。
は、初めから、成立しない。
従って、
(22)により、
(23)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
といふ、「二つ」が、残ります。
然るに、
(24)
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
に於いて、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
を「否定」すると、
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
だけが、残ります。
従って、
(23)(24)により、
(25)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
① AB=其の能の千里なるを知りて、馬を食(やしな)ふ。
を「否定」すると、
③ aB=其の能の千里なるを知らずして、馬を食(やしな)ふ。
だけが、残ります。
然るに、
(26)
① AB の「否定」を、
① ¬(A&B) と書いて、
③ aB の「肯定」を、
③ ¬A&B と書くことに、します。
従って、
(25)(26)により、
(27)
食馬者=馬を食(やしな)ふ者
が、「主語」である場合は、
¬(A&B)=¬A&B。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(28)
① 食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也⇒
① (馬)食者〔(其能千里)知而食〕不也=
① (馬を)食ふ者は〔(其の能の千里なるを)知りて食は〕不るなり=
① 馬を飼ふ者は、その馬が千里馬であること知った上で、飼はないのだ。
といふ「訓読」は、
① ¬(A&B)。
に、相当します。
(29)
③ 食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也⇒
③ (馬)食者〔(其能千里)知〕不而食也=
③ (馬)食ふ者は〔(其の能の千里なるを)知ら〕不して食ふなり=
③ 馬を食ふ者は、その馬が千里馬であることを知らないで、飼ふのだ。
といふ「訓読」は、
③ ¬A&B。
に、相当します。
従って、
(27)(28)(29)により、
(30)
① 食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也=
③ 食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(30)により、
(31)
① 馬を食ふ者は其の能の千里なるを知りて食は不るなり(旺文社、漢文の基礎、1973年
、154頁)。
といふ「訓読」は、「誤り」ではない。
然るに、
(32)
① 不〔有(祝鮀之佞)〕而有(宋朝之美)難乎、免(於今之世)矣。
② 不〔有(祝鮀之佞)而有(宋朝之美)〕難乎、免(於今之世)矣。
① 祝鮀の佞有らずして、しかも宋朝の美有らば、難いかな、今の世に免るること。
② 祝鮀の佞有りて、しかも宋朝の美有らずんば、難いかな、今の世に免るること。
に於いて、
① は、  ¬A&B  に、相当し、
② は、¬(A&B)に、相当する。
然るに、
(33)
実は、どちらでも意味が通じるのである。①のほうは、古注といって、伝統的な解釈であ
るが、②のほうは、新注といって、朱熹(朱子)の解釈なのである(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
従って、
(32)(33)により、
(34)
①   ¬A&B。
② ¬(A&B)。
に於いて、①なのか、②なのか、といふ「議論」は、実質的に、朱熹(朱子)も、行って
ゐる。
従って、
(35)
「漢文訓読」を一切知らない、いわゆる「新儒教」の朱子学の創始者であっても、
①   ¬A&B。
② ¬(A&B)。
に於いて、①なのか、②なのかを、問ふことが出来る。
従って、
(35)により、
(36)
このように「不」が頭にきているときは、どこまでかかるのか、ということをじっくり押
さえてみることだ(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、326頁)。
といふことは、「漢文訓読」だけに、当てはまるのではない。
従って、
(37)
「漢文訓読」の問題(issue)ではなく、「漢文」の問題(issue)として、「
括弧」は有ります!。
平成26年11月06日、毛利太。

2014年11月5日水曜日

「訓読の条件」。

(01)
荻生徂徠は、漢文を読むが、英文は読まない。
ラッセルは、英文を読むが、漢文を読まない。
とする。
従って、
(01)により、
(02)
① 荻生徂徠読(漢文)=荻生徂徠(漢文を)読む。
② 荻生徂徠読(英文)=荻生徂徠(英文を)読む。
③ ラッセル読(漢文)=ラッセル(漢文を)読む。
④ ラッセル読(英文)=ラッセル(英文を)読む。
に於いて、
① は「真(1)」であって、
② は「偽(0)」である。
③ は「偽(0)」であって、
④ は「真(1)」である。
然るに、
(03)
① 荻生徂徠読(漢文)。
② 荻生徂徠読(英文)。
③ ラッセル読(漢文)。
④ ラッセル読(英文)。
を、
① 読(荻生徂徠、漢文)。
② 読(荻生徂徠、英文)。
③ 読(ラッセル、漢文)。
④ 読(ラッセル、英文)。
といふ風に、書くことにする。
然るに、
(04)
ところで、このレーマは現在のことばでいえば明らかに命題関数である。つまりf(ⅹ)、f(ⅹ,y)、f(ⅹ、y、z)といったものである(山下正男、論理学史、1983年、95頁)。
然るに、
(05)
「レーマ(ΡΗΜΑ)」は、ギリシャ語で、「名詞(ΟΝΟΜΑ)」に対する「動詞(ΡΗΜΑ)」のことを言ふ。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① 読( )。
② 読( )。
③ 読( )。
④ 読( )。
は、「主語と、目的語の、関数」である。
従って、
(06)により、
(07)
① 荻生徂徠読( )。
② 荻生徂徠読( )。
③ ラッセル読( )。
④ ラッセル読( )。
は、「目的語の、関数」である。
然るに、
(08)
① 読( )。
② 読( )。
③ 読( )。
④ 読( )。
に於いて、
① 荻生徂徠
② 荻生徂徠
③ ラッセル
④ ラッセル
といふ「主語」が、「省略」されてゐる。ものとする。
従って、
(07)(08)により、
(09)
⑤ 読( )。
は、「目的語の、関数」である。
然るに、
(10)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「真(1)」である時、その「否定」、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「偽(0)」であって、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「偽(0)」である時、その「否定」、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「真(1)」である。
加へて、
(11)
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「真(1)」である時、その「否定」、
③ 非[不〔読(漢文)〕]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「偽(0)」であって、
② 不〔読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「偽(0)」である時、その「否定」、
③ 非[不〔読(漢文)〕]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「真(1)」である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
③ 非[不〔読(漢文)〕]⇒
③ [〔(漢文)読〕不]非=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「関数の、関数の、関数」である。
然るに、
(13)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)からである。
従って、
(12)(13)により、
(14)
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]。
といふ「漢文」が、、
③ 非[不〔読(漢文)〕]⇒
③ [〔(漢文)読〕不]非=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
のやうに「訓読」出来るといふことは、
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]。
といふ「漢文」が、
③「補足構造の、補足構造の、補足構造」である。といふことを、意味してゐる。
然るに、
(15)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」
といふことは、この場合は、
1.『主述関係』 
2.『修飾関係』 
3.『補足関係』 
4.『並列関係』
に於いて、
1.『主述関係』 
2.『修飾関係』   
4.『並列関係』
に関して、「国語と漢文は、同じである。」
といふことに、他ならない。
従って、
(14)(15)により、
(16)
③ 非不読漢文=
③ 非[不〔読(漢文)〕]=
③ [〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
に対して、
1.我(主述関係)
2.常(修飾関係)
2.者(修飾関係)
を加へて、
④ 我非不常読漢文者=
④ 我非[不〔常読(漢文)〕者]⇒
④ 我[〔常(漢文)読〕不者]非=
④ 我は[〔常には(漢文を)読ま〕不る者に]非ず。
のやうにしても、「漢文訓読」は、成立する。
従って、
(15)(16)により、
(17)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」一方で、
「補足構造以外の語順は、漢文と国語の語順は同じである。」が故に、
③ 非不読漢文=
③ 漢文を読ま不るに非ず=
③ 漢文を読まないのではない。
といふ「漢文訓読」に加へて、
④ 我非不常読漢文者=
④ 我は常には漢文を読ま不る者に非ず=
④ 私は、時には漢文を読まない者ではない(私は常に漢文を読む)。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(18)
「その補足構造における語順は、国語とは全く反対であるが、補足構造以外の語順は、漢文と国語の語順は同じである。」といふ「条件」を、「訓読の条件」とするならば、「ある言語」は、「訓読の条件」を満たしてゐない。といふことが、予想される。
然るに、
(19)
通常、日本における漢文とは、訓読という法則ある方法で日本語に訳して読む場合のことを指し、訓読で適用し得る文言のみを対象とする。もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になるため、白話文はその対象にならない(ウィキペディア:漢文)。近代に至るまで、白話は、民衆語として低俗なものとされていたが、1917年(民国6年)、胡適が、アメリカから雑誌『新青年』に「文学改良芻議」を寄稿し、近代的プラグマティズムの観点から、難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱した(ウィキペディア:白話)。
従って、
(18)(19)により、
(20)
もし強いて白話文を訓読するとたいへん奇妙な日本語になる「白話(中国語)」は、「訓読の条件」を、満たしてゐない。
従って、
(20)により、
(21)
「漢文」は、「訓読の条件」を満たしてゐて、「中国語」は、「訓読の条件」を満たしてゐない。以上、「漢文」には、「訓読の条件」といふ「ルール」が有る。
従って、
(22)
「漢文」には、「訓読の条件」といふ「ルール」が有って、その「ルール」を、「文法」と呼ぶのであれば、「漢文」には、「文法(ルール)」がある。
従って、
(23)
「そもそも、漢文には文法が存在しない。」といふ「見解」は、「誤り」である。
平成26年11月05日、毛利太。

2014年11月2日日曜日

英文訓読(仮題)。

(01)
I  read English=主語+動詞+目的語
の「下線(アンダーライン)」を、「括弧」に換へると、
I  read(English).
従って、
(02)
読(英語)=動詞(目的語)。
であるものの、「漢文」の場合は、
目的語と補語とは、それほど区別する必要はないので、両方併せて、補足語と読んだり、単に補語と読んだりしている(数研出版、チャート式 基礎からの漢文、1982年、26頁)。
然るに、
(03)
荻生徂徠が「主語」である時、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 読(英語)=(英語を)読む。
に於いて、
① は「真(1)」であるが、
② は「偽(0)」である。
(04)
ラッセルが「主語」である時、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 読(英語)=(英語を)読む。
に於いて、
① は「偽(0)」であって、
② は「真(1)」である。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
② 読(英語)=(英語を)読む。
は、「主語」によって、「真偽(1・0)」が決まるといふ「意味」で、
「主語の関数」であり、(02)により、
① 読( )=( を)読む。
② 読( )=( を)読む。
は、「補語の関数」である。
然るに、
(06)
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「真(1)」である時、
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「偽(0)」であって、
① 読(漢文)=(漢文を)読む。
が、「偽(0)」である時、
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
は、「真(1)」である。
加へて、
(07)
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「真(1)」である時、
③ 非[ 不〔 読(漢文)]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「偽(0)」であって、
② 不〔 読(漢文)〕=〔(漢文を)読ま〕ず。
が、「偽(0)」である時、
③ 非[ 不〔 読(漢文)]=[〔(漢文を)読ま〕不るに]非ず。
は、「真(1)」である。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
③ 非[ 不〔 読( )]。
は、「関数の、関数の、関数」である。
然るに、
(09)
④ 常読(漢文)⇒
④ 常(漢文)読=
④ 常に(漢文を)読む。
の場合は、
④ 常〔読(漢文)〕⇒
④ 〔(漢文)読〕常=
④ 〔(漢文を)読むこと〕常なり。
といふ風にも、「訓読」出来る。
cf.
「原田種成、私の漢文講義、1995年、56頁」。
従って、
(10)
④ 非不常読漢文。
の場合は、
④ 非{不[常〔読(漢文)〕]}⇒
④ {[〔(漢文)読〕常]不}非=
④ {[〔(漢文を)読むこと〕常なら]不るに}非ず。
といふ風に、「訓読」出来る。
従って、
(08)(10)により、
(11)
④ 非{不[常〔読( )〕]}。
は、「関数の、関数の、関数の、関数」であるが、
それと同時に、(02)により、
④ 非{不[常〔読(漢文)〕]}は、
は、「補足の、補足の、補足の、補足」である。
従って、
(10)(11)により、
(12)
④ 非不常読漢文 ⇒
④ 漢文を読むこと常なら不るに非ず。
といふ「漢文訓読」が、可能である所以は、
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)からである。
といふ、ことになる。
然るに、
(13)
④ 非不常読漢文=
④ 非{不[常〔読(漢文)〕]}⇒
④ {[〔(漢文)読〕常]不}非=
に対して、
⑤ 非不久如天然読漢文=
⑤ 非{不[〔久如(日月)然〕読(漢文)]}⇒
⑤ {[〔久(日月)如然〕(漢文)読]不}非=
⑤ 久しきこと日月の如く然うして漢文を読ま不んば非ず。
であれば、
④ 漢文を読むこと常なら不るに非ず。
といふ「意味」には、とれない。
従って、
(14)
仮に、
久如日月然=常
といふ「イデオム」が、「漢文」に有って、
④ 非不常読漢文=
⑤ 非不久如日月然読漢文。
であったとする。ならば、
④ 非不常読漢文=
⑤ 非不久如日月然読漢文=
⑤ 久しきこと日月の如く然うして漢文を読ま不んば非ず。
となって、「意味」が、通じないが故に、この場合の「漢文」は、「訓読」には適さない。
然るに、
(15)
久如日月然=常(always)
といった、このような「イディオム」は、実際には無い。
然るに、
(16)
「英語」に対して「括弧(返り点)」を付けてみて分かることは、とにかく、「英語」は「イディオム」が多い。といふことである。
(17)
例へば、
彼らはお金が足りなくなった=
They have run short of money.
その船は波にもてあそばれている=
The ship is at the mercy of the waves.
のやうに、「イディオム」が用ゐられてゐる場合は、「返り点(括弧)」を付けることは、出来ない。
加へて、
(18)
あなたは誰ですか=
Who are you?
机の上に本が有る=
There is a book on the desk.
私が漢文を読まないといふことは、本当ではない=
It is not true that I don’t read 漢文.
等には、「返り点(括弧)」を付けることが、出来ない。
然るに、
(19)
I  don’t〔read(English)〕⇒
I 〔(English)read〕 don’t=
私は〔(英語を)読ま〕ない。
に対しては、「返り点(括弧)」を付けることが、出来る。
従って、
(12)~(19)により、
(20)
「漢文は、その補足構造における語順が、国語とは全く反対である。」が故に、「漢文訓読」が、可能である一方で、「英語は、その補足構造における語順が、国語とは反対である場合もあり、尚且つ、イディオムなどが多く有る。」が故に、「英文訓読」は、可能である場合と、さうでない場合がある。といふ、ことになる。
従って、
(21)
「漢文」が、仮に、「英語」のやうな「言語」であれば、
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう(ある言語教育関連の新聞の連載コラム、西洋文化研究者)。」と、言はれる前に、「英文訓読」が、さうであるやうに、「漢文訓読」は、成立してゐなかった。ことになる。
従って、
(22)
「漢文訓読」と、「英文訓読」を、同一に論じることは、出来ないのあって、「英文訓読」は、固より、それが出来なかった。といふことに、過ぎない。
平成26年11月02日、毛利太。

2014年10月31日金曜日

漢文訓読と、中国語。

(01)
① ¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
は、「ド・モルガンの法則」である。
従って、
(02)
① から、( )を除いた、
② ¬P∧Q=¬P∨¬Q
といふ「式」は、「誤り」である。
然るに、
(03)
括弧は曖昧さがない場合は適当に省略される(赤間世紀、Prologで学ぶ AIプログラミング、2008年、13頁)。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① ¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
に於いて、「( )が省略されてゐる。」のであれば、その時に限って、
② ¬P∧Q=¬P∨¬Q
といふ「等式(ド・モルガンの法則)」は、「正しい」。
従って、
(05)
「( )が省略されてゐる。」と、思へば、その時に限って、
② ¬P∧Q=¬P∨¬Q
といふ「等式(ド・モルガンの法則)」は、「正しい」。
然るに、
(06)
① ¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
③ P→¬Q = Q→¬P
に於いて、
① は、③ に等しい。
cf.
詳しくは、「前回の記事(H26/10/28)の、追記」をお読み下さい。
然るに、
(07)
① 不為児孫買美田(¬P∧Q) =
①(児孫の為に美田を買ふこと)はない=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない(Q→¬P)。
といふ「等式」が、成立する。
cf.
詳しくは、「前々回の記事(H26/10/27)」をお読み下さい。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① 不為児孫買美田=
② 不(為児孫買美田)=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(05)(08)により、
(09)
① 不為児孫買美田=
② 不(為児孫買美田)。
といふ風に、「思ってゐる」が故に、
「ド・モルガンの法則、含意の定義、対偶」により、
① 不為児孫買美田=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(10)
① 不為児孫買美田。
に於いて、
不 といふ一字が、
為児孫買美田 といふ六字に、「係ってゐる」。
と、西郷隆盛が「思ってゐる」。
と、我々が「思ってゐる」が故に、
① 不為児孫買美田 =
② 不(為児孫買美田)=
③ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「等式」が、成立する。
cf.
   偶 成  西郷南洲
幾歴辛酸志始堅
丈夫玉碎恥甎全
我家遺法人知否
不爲兒孫買美田
従って、
(11)
尚且つ、
為 といふ一字が、
児孫 といふ二字に、「係ってゐる」。
と、西郷隆盛が「思ってゐる」と、するならば、
不為児孫買美田 =
不〔為(児孫)買美田〕。
といふ「等式」が、成立する。
従って、
(12)
尚且つ、
買 といふ一字が、
美田 といふ二字に、「係ってゐる」。
と、西郷隆盛が、「思ってゐる」と、するならば、
不為児孫買美田 =
不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(13)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
① 不為児孫買美田 =
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ風に、「(西郷は思ってゐると、)思っても良い」のであれば、
「漢文の補足構造における語順は、国語とは全く反対である。」
といふ「事実」に基づき、
① 不為児孫買美田 =
① 不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
② 〔(児孫)為(美田)買〕不=
② 〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ、「漢文訓読」が、成立する。
従って、
(14)により、
(15)
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 〔(児孫)為(美田)買〕不。
に於いて、
① は、「漢文の語順」であり、
② は、「国語の語順」である。
と同時に、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
に於いて、
① は、「漢文の補足構造」であり、
② は、「国語の補足構造」である。
が故に、
① 〔( )( )〕=
② 〔( )( )〕。
は、「漢文と国語の、補足構造」である。
従って、
(15)により、
(16)
① 不為児孫買美田。
といふ「漢文」を、
② 児孫の為に美田を買は不。
といふ風に、「訓読」する。といふことは、
① 不為児孫買美田。
といふ「漢文の補足構造」を、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ風に、「捉へてゐる」といふことを、「意味」してゐる。
従って、
(16)により、
(17)
① 不為児孫買美田。
といふ「七文字」を、
① フイジソンバイビデン。
といふ風に、「音読」出来るからではなく、
① 不為児孫買美田。
といふ「七文字」が、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
といふ「構造(シンタックス)」が、「見える」からこそ、
② 児孫の為に美田を買は不。
といふ風に、「訓読」出来る。といふことになるし、思ふに、
「書を読むは書を看るに如かず(荻生徂徠、訳文荃蹄・題言)。」
といふのは、このことを言ふ。
従って、
(17)により、
(18)
① 不為児孫買美田 ⇒
② 児孫の為に美田を買は不。
といふ「漢文訓読」は、「漢文の補足構造」に即した、「(定型的な)訳読」である。といふことになる。
従って、
(19)
例へば、
① 不(憤)不(啓)⇒
② (憤せ)不んば(啓せ)不。
すなはち、「論語、述而第七、八」も、「漢文の補足構造」に即した、「(定型的な)訳読」である。といふことになる。
従って、
(19)により、
(20)
① 不(憤)不(啓)⇒
③ If you do not agonize trying to understand, I will not enlighten you(K.Yuhazu 訳).
並びに、
① 不(憤)不(啓)⇒
④ 不到他想求明白却又想不通而苦恼时,不去开导他(K.Yuhazu 訳).
は、「原文の補足構造」に即さない、「(非定型的)意訳」である。といふことになる。
然るに、
(21)
私には、
④ 不到他想求明白却又想不通而苦恼时,不去开导他。
といふ「現代中国語」が、全く分からない。
(22)
「漢字」で書かれているが故に、
求明白却又=求める明白かえってまた
のやうには、読めるものの、これが仮に、
④ Bù dào tā xiǎng qiú míngbái què yòu xiǎng bùtōng ér kǔnǎo shí, bù qù kāidǎo tā(グーグル翻訳).
のやうに「ピンイン(ローマ字)」で書かれてゐたら、「文字通り、完全に、理解不能」となる。
従って、
(23)
その意味では、
③ If you do not agonize trying to understand, I will not enlighten you((K.Yuhazu 訳).
④ Bù dào tā xiǎng qiú míngbái què yòu xiǎng bùtōng ér kǔnǎo shí, bù qù kāidǎo tā(グーグル翻訳).
の二つは、「外国語」といふ点に関しては、全く同じことである。
然るに、
(24)
英語はノルマン人の征服の後、フランス語から多くの語彙を吸収し、何世紀もかけてドイツ語やアイスランド語などの保守的なゲルマン語諸語になお見られる文法的な複雑さの多くを失った。この違いは、現代アイルランド人が現在のアイスランド・サガを読めるのに、『べーオウルフ』のような古英語による叙事詩の言語が、現代のイギリス人読者にとってはまるで異質な言語であることを考えれば明らかである(新曜社、消えゆく言語たち/失われることば、失われる世界、2001年、17・18頁改)。
然るに、
(25)
現代中国語と言われるものは概ね北京語に他ならない。北京語と古典中国語(文言)は互いに違う言葉である。北京語(普通話)に通じることは文言の理解を特別に助けるものではない(Webサイト:二十一世紀の漢文-死語の将来 - 日本文化研究センター)。
従って、
(26)
漢文というものをやってみるとわかるんですが、現代中国語をしゃべれないような人はほんとうは漢文は読めないんです(yellow.ap.teacup.com/kadowaki/248.html )。
といふ「言ひ方」は、
現代英語をしゃべれないドイツ人は、古英語も読めないんです。
といふ「言ひ方」と、同じやうにしか、聞こえない。
(27)
日本語と古典中国語(漢文)も、もちろん、互いに違ふ言葉である。
しかしながら、
(28)
(15)でも書いたやうに、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 〔(児孫の)為に(美田を)買は〕ず。
に於いて、
① 〔( )( )〕=
② 〔( )( )〕。
であることからすれば、「漢文と国語の、補足構造」は、「等しい」。
従って、
(29)
① 不為児孫買美田。
② 児孫の為に美田を買はず。
に於ける、「語順の違ひ」だけに着目して、
① 〔( )( )〕=
② 〔( )( )〕。
といふ「捕捉構造」には、触れない形で、国語(日本語)と漢文の違ひを「強調」することは、「正しいやり方」であるとは、思へないし、それと同時、次のやうな事情も、忘れるべきではない。
すなはち、
(30)
われわれ日本人は、実に古い中国の古典語彙をいまなお使用していることに改めて驚かされる。本国の中国で、それらのことばは、とうの昔にわすれられてしまい、古典語彙の辞書の中にその存在を示すにとどまっているのである(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、227頁)。
といふことも、忘れるべきではない。
加へて、
(31)
漢字は、実は、本場の中国においても、その読み方は地域の自由にまかせているのである。― 中略 ―その多様さはインド・ヨーロッパ語族の多様さに優に匹敵する。それゆえに、もし中国においてことばの表記を表音文字にきりかえたならば、同時に十三以上の外国語ができてしまうということになる。(鈴木修次、漢語と日本人、1978年、134・5頁)。
といふことも、忘れるべきではない。
従って、
(32)
現代中国語をしゃべれないような人はほんとうは漢文は読めないんです。
といふ「言ひ方」は、
現代欧州語をしゃべれないような人はほんとうはラテン語は読めないんです。
といふ「言ひ方」を、想起させるものの、さうしたことが、有り得るとは、思へない。
平成26年10月31日、毛利太。

2014年10月28日火曜日

「括弧」はあります!の「追記」。

この「記事」は、「10月27日の記事」の「追記」です。
(29)
① Pでない。か、Qでない。
② Pである。
とします。
然るに、
(30)
① Pでない。
② Pである。
に於いて、
①と②は、「矛盾」するため、
② Pである。
ならば、
① Pでない。
は、「否定」されます。
従って、
(31)
① Pでない。か、Qでない。
② Pである。
であるならば、
① Pでない。
は、「否定」されるため、「消去法」により、
③ Qでない。
といふことに、なります。
従って、
(31)により、
(32)
① Pでない。か、Qでない。
② Pである。∴
③ Qでない。
といふ「推論(選言三段論法)」は、「正しい」。
然るに、
(33)
① Pであるならば、Qでない。
② Pである。∴
③ Qでない。
といふ「推論(前件肯定式)」は、当然、「正しい」。
従って、
(32)(33)により、
(34)
① Pでない。か、Qでない。
といふ「命題」は、
② Pであるならば、Qでない。
といふ「命題」に等しく、このことを、「含意の定義」といふ。
然るに、
(35)
① Pでない。か、Qでない。
は、「ド・モルガンの法則」により、
③(Pであって、Qである)でない。
に、等しい。
従って、
(34)(35)により、
(36)
① Pでない。か、Qでない。
② Pであるならば、Qでない。
③(Pであって、Qである)でない。
に於いて、
①=②=③
といふ「等式」が、成立する。
然るに、
(37)
例へば、
② Nが偶数であるならば、N+1は偶数でない。
といふ「命題」の「対偶」は、
④ N+1が偶数であるならば、Nは偶数でない。
であって、「対偶」は等しい。
従って、
(37)により、
(38)
② Pであるならば、Qでない。
といふ「命題」は、その、「対偶」である、
④ Qであるならば、Pでない。
といふ「命題」に、等しい。
従って、
(36)(38)により、
(39)
① Pでない。か、Qでない。
② Pであるならば、Qでない。
③(Pであって、Qである)でない。
④ Qであるならば、Pでない。
に於いて、
①=②=③=④
といふ「等式」が、成立し、それ故、
③(Pであって、Qである)でない。
といふ「命題」は、
④ Qであるならば、Pでない。
といふ「命題」に等しい。
従って、
(39)により、
(40)
③(児孫の為に、美田を買ふこと)はない。
といふ「命題」は、
④ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「命題」に等しい。
従って、
(41)
③ 不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
③〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「命題」は、「論理的」に、
④ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
といふ「命題」に、等しい。
然るに、
(42)
「ド・モルガンの法則」により、
① Pでない。か、Qでない。
といふ「選言」は、
③(Pであって、Qである)でない。
といふ「連言の否定」に等しい。
とする際に、
③(Pであって、Qである)でない。
から「括弧」を除き、
③ Pであって、Qでない。
とすることは、出来ない。
従って、
(41)(42)により、
(43)
③ 不(為児孫買美田)⇒
③(児孫の為に、美田を買ふこと)はない=
④ 美田を買ふならば、児孫の為ではない。
に於いて、
③ (  )。
といふ「括弧」を、「無視」することは、出来ない。
然るに、
(44)
以上の「推論」は、「論理学」として「正しい」ため、「国語(日本語)」を超えて、「正しい」。
従って、
(29)~(43)と、(44)により、
(45)
われわれ日本人が中国の古典を学ぶようになってから、永く久しい。その間、その学び方も時代とともに、さまざまに変遷してきた。中国の古典がはじめてわが国に伝来したころは、われわれの祖先は恐らく、まず当時の中国語を学び、それを基礎にして中国の古典の読み方を覚え、内容を理解したにちがいない(牛島徳次郎、中国古典の学び方、1977年、1頁)。
といふことに、かかわらず、
③ 不(為児孫買美田)=
④(児孫の為に、美田を買ふこと)はない。
といふ「漢文」に、「括弧」はあります!。
平成26年10月28・29日、毛利太。

(29)~(45)により、
(46)
不(為児孫買美田)。
の「括弧」に関しては、「ドモルガンの法則」と、「含意の定義」で「証明」出来ても、
残念なことに、
為(児孫)
買(美田)
といふ「括弧」に関して、そのやうな「証明」は、出来ない。
しかしながら、
(47)
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)といふ「事実」は、
為(児孫)⇒(児孫)為
買(美田)⇒(美田)買
であるとき、
「語順」として見れば、
左側は、「漢文の語順」であって、
右側は、「国語の語順」である。が、
「補足構造」として見れば、
左側は、「漢文の補足構造」であって、
右側は、「国語の補足構造」である。
といふことを、意味してゐる。
従って、
(43)(47)により、
(48)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫)為(美田)買〕不。
に於いて、
上は、「漢文の語順」であって、
下は、「国語の語順」である。
と同時に、
上は、「漢文の補足構造」であって、
下は、「国語の補足構造」である。
といふことを、意味してゐる。
従って、
(49)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
に於いて、
上は、「漢文の補足構造」であって、
下は、「国語の補足構造」である。
といふことについては、「訓読否定派の方たち」も、認めるもののと、思はれる。
従って、
(49)により、
(50)
不為児孫買美田 ⇒
児孫の為に美田を買は不。
といふ「漢文訓読」が、「補足構造」に即した、「(定型的な)訳読」であることについては、「訓読否定派の方たち」も、認めるもののと、思はれる。
然るに、
(51)
不(憤)不(啓)⇒
(憤せ)不んば(啓せ)不。
すなはち、「論語、述而第七、八」の英訳は、例へば、
if you do not agonize trying to understand, I will not enlighten(ゆはず かずより).
となってゐて、「(非定型的な)意訳」であるが、固より、英語には、漢字が無い。
従って、
(52)
「漢文訓読」は、「漢文英訳」とは、全く異なってゐて、ユニークなのは、もちろん、「漢文訓読」である。
然るに、
(53)
漢文教育(かんぶんきょういく)とは、高等学校における国語教育の1領域である。
中国の古典の読解方法(返り点など)を教える。大学入学試験に課されない場合もあるため、教育現場ではあまり重視されていない(ウィキペディア:漢文教育)。
私もそう思います。戦前は漢文教育が盛んだった日本もGHQによる旧制中学精神構造解体の結果、漢文レベルダウン深刻。でも今も共通テストには漢文あったかな?(Twitter/cunqi)。
といふわけで、
(54)
「ユニークな漢文訓読」は、しばらくすると、GHQと日教組のもくろみ通り(?)に、絶滅します。
平成26年10月29日、毛利太。

2014年10月27日月曜日

「括弧」はあります!

(01) 孟母
(02)

美田

従って、
(01)(02)により、
(03)
① 二 二 一 一。
② 二 二 一 二 一 一。
では、「順番」が分からず、
① 四 二 一 三。
② 六 二 一 四 三 五。
であっても、分かりやすくはないため、
① 下 二 一 上。
② 下 二 一 二 一 上。
とした「結果」が、
① 下 二 一 上。
② 下 二 一 二 一 上。
である。といふ、ことになる。
従って、
(03)により、
(04)
① 四 二 一 三。
② 六 二 一 四 三 五。
といふ「番号」を、「読みやすくしたもの」が、

① 下 二 一 上。
② 下 二 一 二 一 上。
といふ「返り点」である。といふことに、なる。

然るに、
(05)
それでは、何故、「漢文訓読」に於いて、「番号」が必要なのか。といふと、
漢語における語順は、大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、296頁)からである。
従って、
(03)
有〔為(児孫)買(美田)者〕⇒
〔(児孫)為(美田)買者〕有=
〔(児孫の)為に(美田を)買ふ者〕有り。
といふ風に、「括弧」が、「返り点の役割」を果たす「理由」は、
有為児孫買美田者。
ごいふ「漢文」が、
有〔為(児孫)買(美田)者〕。
といふ「補足構造」をしてゐるからである。といふ、ことになる。
然るに、
(04)
有為児孫買美田者。
といふ「漢文」に、
有〔為(児孫)買(美田)者〕。
といふ「補足構造」が在る。
ことを、「証明」せよ。と言はれても、
〔( )( )〕。
は、顕微鏡を使っても、見えないため、
〔( )( )〕。
を、写真に撮ることは、出来ない。
ただし、
(05)
有為児孫買美田者=
児孫の為に美田を買ふ者有り。
といふのであれば、
児孫の為に。
が、有る。わけでも、
美田を買ふ。
が、有る。わけでも、なく、
児孫の為に美田を買ふ者。
が、有る。ことだけは、間違ひない。
従って、
(05)により、
(06)
有(為児孫)買美田者。
有為児孫(買美田)者。
とすることは、出来ないが、
有(為児孫買美田者)。
とすることに、「問題」は無い。
(07)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫)為(美田)買〕不=
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「命題」が、
〔為(児孫)・買(美田)〕。
といふ「連言」の「否定」であるならば、
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不=
〔(児孫の)為ならば、(美田を)買はない〕。
といふ「等式」が、成立する。
cf.
「ド・モルガンの法則」、「含意の定義」。
然るに、
(08)
〔(児孫の)為ならば、(美田を)買はない〕。
の「対偶」は、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
である。

cf.
命題「AならばB」の真偽とその対偶「BでないならAでない」の真偽とは必ず一致する(ウィキペディア)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
不〔為(児孫)買(美田)〕=
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「否定文」が、
為(児孫)・買(美田)=
(児孫)の為に・(美田を)買ふ。
といふ「命題」の「否定」であれば、
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ「命題」は、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
といふ「命題」に等しい。
然るに、
(10)
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふ風に、西郷隆盛が言ってゐて、その西郷が、
〔(美田を)買ふ〕のであれば、
西郷が、「ウソつき」でない限り、西郷は、
〔(児孫以外の)為に、(美田を)買ふ〕ことになる。

cf.
「不為児孫買美田」は、西郷隆盛の「偶感」といふ詩の一句。
然るに、
(11)
〔(美田を)買ふ〕のであれば、
〔児孫以外の為に、美田を買ふ〕ことになる。
といふことは、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
といふことに、他ならない。
従って、
(07)~(11)により、
(12)
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
といふことから、
〔(美田を)買ふならば、(児孫の)為でない〕。
といふ風に、言へる。といふことは、
不〔為(児孫)買(美田)〕⇒
〔(児孫の)為に(美田を)買は〕不。
に於いて、「ド・モルガンの法則」が、成り立つ。
といふことに、他ならない。
然るに、
(13)
「ド・モルガンの法則」とは、
¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
であるため、「括弧の存在」を、必要とする。

cf.
C言語などプログラミング言語の記号を使って書けば、P, Q がどんな式であろうと
 !(P || Q) == !P && !Q !(P && Q) == !P || !Q (ウィキペディア)。
従って、
(12)(13)により、
(14)
不為児孫買美田=
児孫の為に、美田を買はず。
といふ「漢文訓読」から、
「美田を買ふならば、児孫の為でない。」
といふ「意味」が、「読み取れる」のであれば、少なくとも、
不(為児孫買美田)=
(児孫の為に、美田を買は)ず。
といふ「括弧」だけは、認めざるを、得ない。
従って、
(07)~(14)により、
(15)
不(為児孫買美田)⇒
(児孫の為に、美田を買は)ず。
といふ「括弧」を、認めないのであれば、
¬(P∧Q)=¬P∨¬Q
といふ、「ド・モルガンの法則」が、成り立たないか、「我々の直観」が、誤りである。

といふ、少なくとも、どちらか、一方である。
然るに、
(16)
「西郷隆盛が、自分の児孫の為に、美田を買はない。」のであれば、
「西郷隆盛が、美田を買ふならば、自分の児孫の為でない。」と、せざるを得ないし、
尚且つ、「ド・モルガンの法則」は、「論理学」として、「正しい」ため、以上の推論は、「日本語」を超えて、「正しい」
従って、
(15)(16)により、
(17)
不(為児孫買美田)=
(児孫の為に、美田を買は)ず。
といふ「括弧」に関しては、顕微鏡では見えず、写真には取れなくとも、その「存在」を、認めてもらえる、はずである。
従って、
(06)(17)により、
(18)
① 不(為児孫買美田)。
② 有(為児孫買美田者)。
に関しては、「括弧」の「存在」を、認めてもらえる、はずである。
然るに、
(19)
私自身は、
① 不(為(児孫)買(美田))。
② 有(為(児孫)買(美田)者)。
だけなく、「返り点」を付けることが出来る「漢文」であれば、その「漢文」には、「括
弧」で表せる所の「補足構造」が必ず有る。と、考へます。
従って、
(20)
例へば、
虎求百獣而食之得狐。
狐曰子無敢食我也。
天帝使我長百獣。
今子食我是逆天帝命也。
子以我爲不信吾爲子先行。
子随我後観。
百獣之見我而敢不走乎。
虎以爲然。
故遂与之行。
獣見之皆走。
虎不知獣畏己而走也。
以爲畏狐也。
といふ「虎の威を借る(戦国策)」であれば、
(21)
それが書かれた「時点(紀元前)」に於いて、
虎求(百獣)而食(之)得(狐)。
狐曰子無〔敢食(我)〕也。
天帝使〔我長(百獣)〕。
今子食(我)是逆(天帝命)也。
子以(我)爲〔不(信)〕吾爲(子)先行。
子随(我後)観。
百獣之見(我)而敢不(走)乎。
虎以爲(然)。
故遂与(之)行。
獣見(之)皆走。
虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
以爲〔畏(狐)〕也。
といふ「補足構造」をしてゐる。と、考へます。
従って、
(20)(21)により、
(22)
そのやうな、「補足構造」が有るからこそ、
虎(百獣を)求めて(之を)食らひ(狐を)得たり。
狐曰く子〔敢へて(我を)食らふこと〕無かれ。
天帝〔我をして(百獣に)長たら〕使む。
今子(我を)食らはば是れ(天帝の命に)逆らふなり。
子(我を)以て〔(信なら)不と〕爲さば吾(子の)爲に先行せむ。
子(我が後に)随ひて観よ。
百獣の(我を)見て敢へて(走ら)不らむや。と。
虎以て(然りと)爲す。
故に遂に(之)与行く。
獣(之を)見て皆走る。
虎[〔獣の(己を)畏れて走るを〕知ら]不るなり。
以て〔(狐を)畏るると〕爲すなり。
といふ「漢文訓読」が可能になる。と、考へます。
従って、
(21)(22)により、
(23)
例へば、
③ 虎不知獣畏己而走也=
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
であるからこそ、
#=虎=1
レ=不=7
二=知=6
#=獣=2
レ=畏=4
_=己=3
#=而
一=走=5
#=也
といふ「返り点」が成立する。と、考へます。
従って、
(21)~(24)により、
(25)、
③ 虎不知獣畏己而走也=
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
が有って、然る後に
③ レ 二 レ 一。
といふ「返り点」が成立する。と、考へます。
従って、
(25)により、
(26)
③ レ 二 レ 一。
といふ「返り点」が、日本に於いて、生まれなかったとしても、
③ 虎不知獣畏己而走也=
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
といふ「補足構造」は存在する。と、考へます。
従って、
(27)
漢文よみを止めて中国語(その当時は支那語でしたが)でもってよまなければならない。それは徳川時代にも荻生徂徠がいっぺんやったことだが、今はもっとやりよい時代だから大いにやらなければならない(倉石武四郎、中国語五十年、1973年、21頁)。
とする、「漢文音読派」の方たちであっても、例へば、
① 不〔為(児孫)買(美田)〕。
② 有〔為(児孫)買(美田)者〕。
③ 虎不[知〔獣畏(己)而走〕]也。
といふ「括弧の存在」だけは、認めるべきである。と、考へます。
それ故、
(28)
『返り点に対する「括弧」の用法』は、単なる「漢文訓読」の問題ではない。と、考へます。
平成26年10月27日、毛利太。