―「昨日の記事」を訂正します。―
―「返り点と括弧」に関しては、『「返り点」と「括弧」の関係(https://kannbunn.blogspot.com/2019/01/blog-post_21.html)』他をお読み下さい。―
(01)
(ⅰ)
1(1)(P→Q)&( Q→ P) A
1(2) P→Q 1&E
1(3) Q→ P 1&E
1(4) ~P→~Q 3対偶
1(5)(P→Q)&(~P→~Q) 24&I
(〃)
1(1)(P→Q)&(~P→~Q) A
1(2) P→Q 1&E
1(3) ~P→~Q 1&E
1(4) Q→ P 3対偶
1(5)(P→Q)&( Q→ P) 24&I
(02)
(ⅰ)
1 (1)(P→Q)&( Q→ P) A
1 (2) P→Q 1&E
1 (3) Q→ P 1&E
4 (4) Q A
5(5) ~P A
14 (6) P 34MPP
145(7) ~P&P 56&I
1 5(8) ~Q 47RAA
1 (9) ~P→~Q 58CP
1 (ア)(P→Q)&(~P→~Q) 29&I
(〃)
1 (1)(P→Q)&(~P→~Q) 2ア&I
1 (2) P→Q 1&E
1 (3) ~P→~Q 1&E
4 (4) ~P A
5(5) Q A
14 (6) ~Q 34MPP
145(7) Q&~Q 56&I
1 5(8) ~~P 47RAA
1 5(9) P 58DN
1 (ア) Q→ P 59CP
1 (イ)(P→Q)&( Q→ P) 2ア&I
従って、
(01)(02)により、
(03)
いづれにせよ、
(ⅰ)(P→Q)&( Q→ P)
(〃)(P→Q)&(~P→~Q)
に於いて、
(ⅰ)=(〃) である。
従って、
(03)により、
(04)
(ⅰ)(PならばQであり、)&(Qならば、 Pである。)
(〃)(PならばQであり、)&(PでないならばQでない。)
に於いて、
(ⅰ)=(〃) である。
然るに、
(05)
(ⅰ)(PならばQであり、)&(Qならば、 Pである。)
を称して、「双条件法(Biconditional)」と言ふ。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
(ⅰ)(P→Q)&( Q→ P)
(〃)(P→Q)&(~P→~Q)
(〃)(PならばQであり、)&(Qならば、 Pである。)
(〃)(PならばQであり、)&(PでないならばQでない。)
といふ「論理式・日本語」は、「双条件法」である。
然るに、
(07)
(ⅰ)(P→Q)&(Q→P)=(P→Q)&(~P→~Q) を、
(〃)(P⇔Q)といふ風に、「略記」し、
(〃)(P⇔Q)=(P→Q)&(Q→P)=(P→Q)&(~P→~Q) を、すなはち、
(〃)(P⇔Q)=(PならばQであり、)&(QならばPである。)=(PならばQであり、)&(PでないならばQでない。) を、
(〃)「双条件法の定義(Df.⇔)」とする。
然るに、
(08)
精選版 日本国語大辞典の解説
はいたてき‐ろんりわ【排他的論理和】
〘名〙 論理和(「または」)の解釈の一つ。二つの命題から成る複合命題「AまたはB」が真となるのはAとBのどちらか一方だけが真であるときとする。日常の「または」もこの解釈をとる場合が多い。
従って、
(08)により、
(09)
(ⅱ)(P→~Q)&(~P→Q)
(〃)(PならばQでなく)&(PでないならばQである)。
といふ「論理式・日本語」は、「排他的論理和」である。
然るに、
(10)
1 (1) (P→ Q)&(~P→~Q) A
1 (2) (P→~Q)&(~P→ Q) A
1 (3) P→ Q 1&E
2 (4) P→~Q 2&E
1 (5) ~P→~Q 1&E
2 (6) ~P→ Q 2&E
(7) P∨~P 排中律
8 (8) P A
1 8 (9) Q 38
28 (ア) ~Q 48MPP
128 (イ) Q&~Q 9ア&I
1 8 (ウ)~{(P→~Q)&(~P→ Q)} 2イRAA
エ(エ) ~P A
1 エ(オ) ~Q 5エMPP
2 エ(カ) Q 6エMPP
12 エ(キ) ~Q&Q オカ&I
1 エ(ク)~{(P→~Q)&(~P→ Q)} 2キRAA
1 (ケ)~{(P→~Q)&(~P→ Q)} 78ウエク∨E
12 (コ) {(P→~Q)&(~P→ Q)}&
~{(P→~Q)&(~P→ Q)} 2ケ&I
1 (サ)~{(P→~Q)&(~P→ Q)} 2コRAA
従って、
(10)により、
(11)
(1)(P→ Q)&(~P→~Q)
(2)(P→~Q)&(~P→ Q)
に於いて、
(1)を「仮定」し、
(2)を「仮定」すると、
(7)の「排中律」によって、
(2)は「否定」される。
従って、
(11)により、
(12)
(ⅰ)(P→ Q)&(~P→~Q)
(ⅱ)(P→~Q)&(~P→ Q)
に於いて、
(ⅰ)と、
(ⅱ)は「矛盾」する。
然るに、
(13)
(ⅱ)(P→~Q)&(~P→Q) を、
(〃)(P◇Q)といふ風に、「略記」し、仮に、
(〃)(P◇Q)=(P→~Q)&(~P→Q) を、すなはち、
(〃)(P◇Q)=(PならばQでなく、)&(Pでないならば、Qである。) を、
(〃)「排他的論理和の定義(Df.◇)」とする。
従って、
(07)(12)(13)により、
(14)
「Df.⇔」と「Df.◇」により、
(ⅰ)P⇔Q
(ⅱ)P◇Q
に於いて、
(ⅰ)と、
(ⅱ)は「矛盾」する。
然るに、
(15)
(ⅲ)
1 (1) P⇔ Q A
1 (2)( P→ Q)&
(~P→ ~Q) 1Df.⇔
1 (3) P→ Q 2&E
1 (4)( P→~~Q) 3DN
1 (5)(~P→ ~Q) 2&E
1 (6)( P→~~Q)&
(~P→ ~Q) 45&I
1 (7) P◇ ~Q 6Df.◇
(ⅳ)
1 (1) P◇ ~Q A
2 (2) P A
12 (3) ~~Q 12Df.◇
12 (4) Q 3DN
1 (5) P→ Q 24CP
6(6) ~P A
1 6(7) ~Q 16Df.◇
1 (8) ~P→ ~Q 67CP
1 (9)( P→ Q)&
(~P& ~Q) 58&I
1 (ア) P⇔ Q 9Df.⇔
従って、
(15)により、
(16)
(ⅲ)P⇔ Q
(ⅳ)P◇~Q
に於いて、
(ⅲ)=(ⅳ) である。
従って、
(14)(16)により、
(17)
(ⅰ)P⇔ Q
(ⅱ)P◇ Q
(ⅲ)P⇔ Q
(ⅳ)P◇~Q
に於いて、
(ⅰ)と、
(ⅱ)は「矛盾」し、
(ⅲ)と、
(ⅳ)は「等しい」。
従って、
(18)
P=天気が良い。
~P=天気が悪い。
Q=釣りに行く。
~Q=釣りに行かない。
であるならば、
(ⅰ)天気が良い。⇔ 釣りに行く。
(ⅱ)天気が良い。◇ 釣りに行く。
は、「矛盾」し、
(ⅲ)天気が良い。⇔ 釣りに行く。
(ⅳ)天気が良い。◇ 釣りに行かない。
に於いて、
(ⅲ)と(ⅳ)は「等しい」。
すなはち、
(19)
(α)
(ⅳ)天気が良い。◇ 釣りに行かない。
に於いて、
(1)天気が良い。のあれば、「Df.◇」により、
(2)釣りに行かない。が「偽」になるため、
(3)釣りに行く。 が「真」になり、そのため、
(4)天気が良い。ならば、釣りに行く。
(β)
(ⅳ)天気が良い。◇ 釣りに行かない。
に於いて、
(1)天気が悪い。のであれば、「Df.◇」により、
(2)釣りに行かない。が「真」になり、そのため、
(3)天気が悪い。のであれば、釣りに行かない。
従って、
(19)により、
(20)
(ⅳ)天気が良い。◇ 釣りに行かない。
であるならば、
(α)天気が良いならば、釣りに行き、
(β)天気が悪いならば、釣りに行かない。
従って、
(06)(07)(13)(20)により、
(21)
(ⅰ)天気が良い。⇔ 釣りに行く。
(ⅳ)天気が良い。◇ 釣りに行かない。
に於いて、
(ⅰ)=(ⅳ) である。
従って、
(22)
「昨日の記事」で書いた、
(ⅰ)と、
(ⅱ)は「矛盾」するにも拘らず、
(ⅰ)と、
(ⅱ)は「同じ」である。
といふことから、何となく、「弁証法」といふ「用語」を「想起」させる。
といふ「言ひ方」は、マチガイでした。
(23)
(ⅰ)天気が良い。⇔ 釣りに行く。
(ⅳ)天気が良い。◇ 釣りに行かない。
に於ける、
(ⅰ)⇔ 釣りに行く。
(ⅳ)◇ 釣りに行かない。
が「印象的」であっため、「そのやうなこと」を書いてしまったものの、
(ⅰ)天気が良い。⇔ 釣りに行く。
(ⅱ)天気が良い。◇ 釣りに行く。
に於いては、「論理学」でいふ所の、「矛盾」といふ「意味」で、「矛盾」する。
従って、
(24)
「AでありかつAでない」という矛盾が起こればそれは偽だとするのに対し、矛盾を偽だとは決めつけない。
といふのであれば、「弁証法」は、「論理学の否定」である。
といふことに関しては、マチガイではないと、思ってゐる。
然るに、
(25)
本書の著者たちが初めて大学で論理学を学んだのは、1970年頃であった。当時は「一般教養の論理学」の講義と称してヘーゲルやマルクスの「弁証法」を教える先生たちがまだ各大学に多数生存してしていた時代である。当時われわれが学んだ記号論理学の新鮮さは記憶に新しい(飯田賢一・中才敏郎・中谷隆雄 著、論理学の基礎、1994年、185頁)。
然るに、
(26)
当時はまだ、「一般教養の論理学」の講義と称して「弁証法」を教える先生たちが、各大学に「多数生存していた」。といふ風に、「過去形」で書かれてゐることからすれば、今では、「弁証法」は「時代遅れ」のやうであるし、「弁証法」に対して、「当時われわれが学んだ記号論理学の新鮮さは記憶に新しい。」としてゐることからすれば、「論理学の基礎」の著者である「飯田賢一・中才敏郎・中谷隆雄」先生たちも、「弁証法」は、「論理学」と称するに値しない。
といふ風に、思はれてゐるものと、思はれる。
令和元年05月06日、毛利太。
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