2019年5月10日金曜日

「雜説(韓愈)」の「述語論理」。

―「返り点と括弧」に関しては、
(α)「返り点」と「括弧」に付いて。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_11.html)。
(β)「返り点」と「括弧」の条件。  :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_15.html)。
(γ)「返り点」と「括弧」の条件(Ⅱ):(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_16.html)。
(δ)「返り点」は、下には戻らない。 :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_20.html)。
(ε)「下中上点」等が必要な「理由」。:(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_22.html)。
(ζ)「返り点・モドキ」について。  :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_24.html)⇒
 Web上には存在しますが、何故か、アクセス出来ません。
(η)「一二点・上下点」に付いて。  :(https://kannbunn.blogspot.com/2017/12/blog-post_26.html)。
(θ)「括弧」の「順番」。      :(https://kannbunn.blogspot.com/2018/01/blog-post.html)。
(ι)「返り点」と「括弧」の関係   :(https://kannbunn.blogspot.com/2019/01/blog-post_21.html)。
等々、「その他、諸々」を、お読み下さい。今となっては、どのやうなことを書いて、どのやうなことを書かなかったのか、ハッキリとは、覚えてはゐません。―
―「昨日の記事」の「続き」を書きます。―
従って、
(28)(41)(44)により、
(45)
③ 千里馬常有而伯楽不常有=
③ 千里馬常有而伯楽不(常有)⇔
③ 千里の馬は常に有れども、伯楽は(常には有ら)ず=
③ 千里の馬は、常にゐるが、伯楽はさうではない。
といふ「漢文・訓読」は、
③ ∀x{馬x→∃y(千里馬y)}&~∀z(馬喰z→伯楽z)=
③ すべてのxについて、xが馬であるならば、あるyは千里の馬であり、&すべてのzについて、zが馬喰であるならば、zは伯楽である。といふわけではない。
といふ「述語論理・訓読」に、相当する。
然るに、
(46)
① 世有伯楽、然後有千里馬=
① 世有(伯楽)、然後有(千里馬)⇒
① 世(伯楽)有、然後(千里馬)有=
① 世に(伯楽)有りて、然る後に(千里馬)有り=
① 世の中に、伯楽(のやうな名人)がゐて、その後にはじめて、千里の馬(名馬)が見い出される。
然るに。
(46)により、
(47)
① 世の中に、伯楽(のやうな名人)がゐて、その後にはじめて、千里の馬(名馬)が見い出される。
といふことは、
① 伯楽がゐなければ、千里の馬もゐない。
といふ、ことである。
然るに、
(48)
① 伯楽がゐなければ、千里の馬もゐない。⇔
① ~∃x(伯楽x)→~∃y(千里馬y)⇔
① xは伯楽であって、そのやうなxが存在しないのであれば、yは千里馬であって、そのやうなyも存在しない。
然るに、
(49)
(ⅰ)
1  (1)~∃x(伯楽x)→  ~∃y(千里馬y) A
 2 (2)~∃x(伯楽x)             A
  3(3)            ∃y(千里馬y) A
  3(4)          ~~∃y(千里馬y) 3DN      
12 (5)           ~∃y(千里馬y) 12MPP
123(6)~~∃y(千里馬y)&~∃y(千里馬y) 45&I
1 3(7)~~∃x(伯楽x)            26RAA
1 3(8)  ∃x(伯楽x)            7DN
1  (9)  ∃y(千里馬y)→ ∃x(伯楽x)  38CP
(ⅱ)
1  (1)  ∃y(千里馬y)→ ∃x(伯楽x)  A
 2 (2)  ∃y(千里馬y)           A
  3(3)           ~∃x(伯楽x)  A
12 (4)            ∃x(伯楽x)  12MPP
123(5)   ~∃x(伯楽x)&∃x(伯楽x)  34&I
1 3(6) ~∃y(千里馬y)           25RAA
1  (7) ~∃x(伯楽x)→~∃y(千里馬y)  36CP
従って、
(49)により、
(50)
① ~∃x(伯楽x) →~∃y(千里馬y)=あるxは伯楽であって、そのやうなxは存在しないのであれば、あるyは千里馬であって、そのやうなyは存在しない。
②   ∃y(千里馬y)→ ∃x(伯楽x) =千里馬であるyが存在するならば、伯楽であるxも存在する。
に於いて、
①=② である。
従って、
(45)~(50)により、
(51)
④ 世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有而伯楽不常有=
④ 世有(伯楽)、然後有(千里馬)。千里馬常有而伯楽不(常有)⇔
④ 世に(伯楽)有りて、然る後に(千里の馬)有り。千里馬は常に有れども伯楽は(常には有ら)ず=
④ 世の中に、伯楽(のやうな名人)がゐて、その後にはじめて、千里の馬(名馬)が見い出される。千里の馬は、常にゐるが、伯楽はさうではない。
といふ「漢文・訓読」は、
④ ∃y(千里馬y)→∃z(伯楽z)&∀x{馬x→∃y(千里馬y)}&~∀z(馬喰z→伯楽z)⇔
④ 千里馬であるyが存在するならば、伯楽であるxも存在する。すべてのxについて、xが馬であるならば、あるyは、千里馬であり、&すべてのzについて、zが馬喰であるならば、zは伯楽である。といふわけではない。
といふ「述語論理・訓読」に、相当する。
然るに、
(52)
④ すべてのxについて、xが馬であるならば、あるyは、千里馬である。
といふことは、
④ 「馬といふ集合」の「要素」として、「千里馬」が存在する。
といふ、ことであって、
④ すべてのzについて、zが馬喰であるならば、zは伯楽である。といふわけではない。
といふことは、
④「馬喰といふ集合」の「要素」として「伯楽ではない者」が存在する。
といふ、ことである。
従って、
(50)(52)により、
(53)
④ ∃y(千里馬y)→∃x(伯楽x)&∀x{馬x→∃y(千里馬y)}&~∀z(馬喰z→伯楽z)
といふ「述語論理」は、要するに、
④ 千里馬が存在するならば、伯楽も存在する。千里馬は存在する。伯楽でない馬喰も存在する。
といふ「意味」になる。
然るに、
(54)
④ 千里馬が存在するならば、伯楽も存在する。千里馬は存在する。伯楽でない馬喰も存在する。
といふことは、要するに、
④ 千里馬と、伯楽である馬喰と、伯楽ではない馬喰が、同時に存在する。
といふ「意味」になる。
然るに、
(55)
〔原文〕
世有(伯楽)、然後有(千里馬)。
千里馬常有、而伯楽不(常有)。
故雖有(名馬)、祇辱(於奴隷人之手)、駢死(於槽櫪之間)、不〔以(千里称)〕也。
〔訓読〕
世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。
千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
故に名馬有りと雖も、祇だ奴隷人の手に辱められ、槽櫪の間に駢死、千里を以つて称せられざるなり。
〔口語〕
世の中に、伯楽がいてこそ初めて、千里の馬が存在する。
千里の馬は、常に世存在するが、伯楽は、常にいるわけではない。
そのため、名馬がいたとしても、卑しい人間の手で、粗末に扱われ、馬小屋の中で(他の駄馬と)首を並べて死んでしまい、千里の馬であると、称せられないのだ。
従って、
(54)(55)により、
(56)
④ 千里馬と、伯楽である馬喰と、伯楽ではない馬喰が、同時に存在する。
といふことから、
④ 伯楽ではない馬喰と千里馬が、ペアになると、千里馬は、千里馬としての評価を受けることが、出来ない。
といふことを、韓愈は、言ってゐる。
然るに、
(57)
1  (1) ∃y(千里馬y)→∃z(伯楽z)&∀x{馬x→∃y(千里馬y)}&~∀x(馬喰z→伯楽z)    A
1  (2)                  ∀x{馬x→∃y(千里馬y)}                 1&E
1  (3)                     馬a→∃y(千里馬y)                  2UE
 4 (4)                     馬a                           A
14 (5)                        ∃y(千里馬y)                  34MPP
1  (6) ∃y(千里馬y)→∃z(伯楽z)                                 1&E
14 (7)          ∃z(伯楽x)                                 56MPP
14 (8)          ∃z(伯楽x)&∃y(千里馬y)                        57&I
1  (9)                                   ~∀z(馬喰z→伯楽z)   1&E
1  (ア)                                  ~∀z(~馬喰z∨伯楽z)   1含意の定義
1  (イ)                                  ∃z~(~馬喰z∨伯楽z)   ア量化子の関係
  ウ(ウ)                                    ~(~馬喰a∨伯楽a)   A
  ウ(エ)                                    ~~馬喰a&~伯楽a    ウ、ド・モルガンの法則
  ウ(オ)                                      馬喰a&~伯楽a    エDN
  ウ(カ)                                   ∃z(馬喰a&~伯楽z)   オEI
1  (キ)                                   ∃z(馬喰z&~伯楽z)   イウカEE
14 (ク)            ∃z(馬喰z&~伯楽z)&∃y(千里馬y)                 5キ&I
14 (ケ)      [∃z(伯楽z)&∃y(千里馬y)]&[∃z(馬喰z&~伯楽z)&∃y(千里馬y)]  8ク&I
1  (コ)   馬a→[∃z(伯楽z)&∃y(千里馬y)]&[∃z(馬喰z&~伯楽z)&∃y(千里馬y)]  4ケCP
1  (サ)∀x{馬x→[∃z(伯楽z)&∃y(千里馬y)]&[∃z(馬喰z&~伯楽z)&∃y(千里馬y)]} コUI
従って、
(57)により、
(58)
④ ∃y(千里馬y)→∃z(伯楽z)&∀x{馬x→∃y(千里馬y)}&~∀z(馬喰z→伯楽z)
⑤ ∀x{馬x→[∃z(伯楽z)&∃y(千里馬y)]&[∃z(馬喰z&~伯楽z)&∃y(千里馬y)]}
に於いて、
④ ならば、⑤ である。
従って、
(58)により、
(59)
④ あるyが千里馬であるならば、あるzは伯楽であり、&すべてのxについて、xが馬ならば、あるyは千里馬であり、&すべてのzについて、zが馬喰であるならば、zは伯楽である。といふわけではない。
⑤ すべてのxについて、xが馬ならば[あるzは伯楽であり、あるyは千里馬であり」、&[あるzは馬喰であるが伯楽ではなく、あるyは千里馬である]。
に於いて、
④ ならば、⑤ である。
従って、
(55)(59)により、
(60)
④ 馬がゐる限り、ある千里馬は、伯楽ではない、馬喰に、飼はれることになり、それ故、
⑤ 馬小屋の中で(他の駄馬と)首を並べて死んでしまい、千里の馬であると、称せられないのだ。
といふ、ことになる。
従って、
(46)(60)により、
(61)
④ 世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有而伯楽不常有=
④ 世有(伯楽)、然後有(千里馬)。千里馬常有而伯楽不(常有)⇔
④ 世に(伯楽)有りて、然る後に(千里の馬)有り。千里馬は常に有れども伯楽は(常には有ら)ず=
④ 世の中に、伯楽(のやうな名人)がゐて、その後にはじめて、千里の馬(名馬)が見い出される。千里の馬は、常にゐるが、伯楽はさうではない。
といふ「漢文・訓読」は、
④ ∃y(千里馬y)→∃z(伯楽z)&∀x{馬x→∃y(千里馬y)}&~∀z(馬喰z→伯楽z)⇔
④ あるyが千里馬であるならば、あるzは伯楽であり、&すべてのxについて、xが馬ならば、あるyは千里馬であり、&すべてのzについて、zが馬喰ではないならば、zは伯楽である。といふわけではない。
といふ「述語論理・訓読」に、相当する。
(62)
漢文」は、もともと、「人工言語」であるものの、「漢文の文法」は、「語順だけである。と言っても、「言ひ過ぎ」ではない。
従って、
(63)
漢文」には、「ギリシャ語や、ラテン語や、エスペラント」のやうな「文法」が「一切、皆無」である。
cf.
単語と単語との間の文法的関係を把握し、その意味を理解することが、その語形の変化や文法的な成分などによらずに、右のように、その文脈による全体的な直観にゆだねられていることが多いことは、単音節的・孤立的な言語としての漢語における大きなな特徴であるといわなければならない。漢語におけるこのような表現のしかたは、単語の間の関係を文法的な形式によって示すことを重んじている西欧の言語になれている人にとっては、まことに奇妙なことに思われるものと考えられる。カールグレン氏は、その著書《中国の言語》において、このような奇妙な孤立的な漢語の文法は、「非常に貧弱なものであり」、「漢語においては、文法的な分析は、あまり役に立たず、実際に役立つのは、広い読書を通じて習得した経験、つまり、中国人がどのようにして文をつくりあげているかということに対する感覚が、唯一のものである」と説き、更に、漢語の文の意味を理解するためには、「豊富な直観が、必要である」とも述べている(鈴木直治著、中国語と漢文、1975年、293頁)。
然るに、
(64)
述語論理」にも、「ギリシャ語や、ラテン語や、エスペラント」のやうな文法」が、「皆無」である。
それ故、 (65)
蓋し、「漢文」に、「最も近い言語」は、「述語論理」であるに、違ひない。
従って、
(66)
「漢文」に興味がある私は、「その勢ひ」として、「述語論理」にも、興味を持つことなる。
それ故、
(67)
「然るべき、漢文」に関しては、どうしても、「述語論理」に訳したくなるものの、そのやうなことをしてゐると、せっかく、ある目的のために買った、「Word2019」の勉強を、いつまで経っても、始めることが出来ず、そのことが、「今現在の、悩み」になってゐる。
令和元年05月10日、毛利太。
       

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