(01)
(a)
1(1) ~∃x(人x& ~死x) A
1(2) ∀x~(人x& ~死x) 1量化子の関係
1(3) ~(人a& ~死a) 1UE
1(4) ~人a∨~~死a 3ド・モルガンの法則
1(5) ~人a∨ 死a 4DN
1(6) 人a→ 死a 5含意の定義
1(7) ∀x(人x→ 死x) 6UI
(b)
1(1) ∀x(人x→ 死x) A
1(2) 人a→ 死a 1UE
1(3) ~人a∨ 死a 2含意の定義
1(4) ~~(~人a∨ 死a) 3DN
1(5) ~(~~人a& ~死a) 4ド・モルガンの法則
1(6) ~(人a& ~死a) 5DN
1(7) ∀x~(人a& ~死a) 5UI
1(8)~~∀x~(人a& ~死a) 7DN
1(9)~∃x~~(人a& ~死a) 8量化子の関係
1(ア) ~∃x(人x& ~死x) 9DN
従って、
(01)により、
(02)
① ~∃x( 人x&~死x)=(xは人であってxは死なない。)といふ、そのやうなxは存在しない。
② ∀x( 人x→ 死x)=すべてのxについて(xが人ならばxは死ぬ)。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
(c)
1 (1) ∀x(人x→ 死x) A
1 (2) 人a→ 死a 1UE
3 (3) 人a& ~死a A
3 (4) 人a 3&E
13 (5) 死a 24MPP
3 (6) ~死a 3&E
13 (7) 死a&~死a 56&I
1 (8) ~~死a 37RAA
1 (9) 死a 1DN
1 (ア) ~人a∨ 死a 9∨I
1 (イ) ∀x(~人x∨ 死x) アUI
(d)
1 (1) ∀x(~人x∨ 死x) A
1 (2) ~人a∨ 死a 1UE
3 (3) 人a&~死a A
1 (4) ~人a A
3 (5) 人a 3&E
13 (6) ~人a& 人a 45&I
1 (7) ~(人a&~死a) 36RAA
8 (8) 死a A
3 (9) ~死a 3&E
38 (ア) 死a&~死a 89&I
8 (イ) ~(人a&~死a) 3アRAA
1 (ウ) ~(人a&~死a) 2478イ∨E
エ (エ) 人a A
オ(オ) ~死a A
エオ(カ) 人a&~死a エオ&I
1 エオ(キ) ~(人a&~死a)
&(人a&~死a) ウカ&I
1 エ (ク) ~~死a 1キRAA
1 エ (ケ) 死a クDN
1 (コ) 人a→ 死a エケCP
1 (サ) ∀x(人x→ 死x) コUI
従って、
(03)により、
(04)
② ∀x( 人x→ 死x)=すべてのxについて(xが人ならばxは死ぬ)。
③ ∀x(~人x∨ 死x)=すべてのxについて(xは人でないか、xは死ぬ)。
に於いて、
②=③ である。
然るに、
(05)
同じ意味内容のものが修辞とか倒置法とかによっていろいろな形態が表現されうるが、論理学では、表現形態が相異なったいくつかの文が同じ意味内容を示すかぎり、それを同一の命題として取りあつかう。また日本語で表そうと外国語で書こうと、同一の主張内容を示すかぎり、同一の命題と見なされる(上田泰治、論理学、1967年、40頁)。
従って、
(02)(04)(05)により、
(06)
① ~∃x( 人x&~死x)=(xは人であってxは死なない。)といふ、そのやうなxは存在しない。
② ∀x( 人x→ 死x)=すべてのxについて(xが人ならばxは死ぬ)。
③ ∀x(~人x∨ 死x)=すべてのxについて(xは人でないか、xは死ぬ)。
という「3つ」は、「命題(Proposition)」として、
①=②=③ である。
然るに、
(07)
しかしそこへ翻訳が行われる形式言語は、自然言語のシンタックスとは幾らか違ったシンタックスをもっており、また限られた述語 ― 論理的結合記号、変数、固有名、述語文字、および2つの量記号 ― しかもたない。その言語のおもな長所は、その記法上の制限にもかかわらず、非常に広範な表現力をもっていることである(E.J.レモン 著、竹尾治一郎・浅野楢英 訳、1973年、130頁)。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ~∃x( 人x&~死x)=(xは人であってxは死なない。)といふ、そのやうなxは存在しない。
② ∀x( 人x→ 死x)=すべてのxについて(xが人ならばxは死ぬ)。
③ ∀x(~人x∨ 死x)=すべてのxについて(xは人ではないか、xは死ぬ)。
という「3つ」は、「構造(syntax)」としては、
①=② ではなく、①=③ ではなく、
②=① ではなく、②=③ ではなく、
③=① ではなく、③=② ではない。
従って、
(06)(08)により、
(09)
「命題(Proposition)」 として「等しい」ことと、
「構造(シンタックス)」として「等しい」ことは、「同じ」ではない。
然るに、
(10)
① ~∃x(人x&~死x)
に於いて、
④ ~=不
④ ∃=有
④ &=而
従って、
(10)により、
(11)
① ~∃x(人x&~死x)
④ 不有x(人x而不死x)
に於いて、
①=④ である。
然るに、
(12)
任意の表述の否定は、その表述を’~( )’という空所にいれて書くことにしよう;しかし丸括弧はその内部が連言でないかぎり削除しよう(W.O.クワイン著、杖下隆英訳、現代論理学入門、1972年、15頁)。
従って、
(11)(12)により、
(13)
「括弧」を省略しないのであれば、
① ~[∃x〔人x&~(死x)〕]
④ 不[有x〔人x而不(死x)〕]
に於いて、
①=④ である。
然るに、
(14)
④ 不[有x〔人x而不(死x)〕]
から、
④ [ x〔 x ( x)〕]
を除くと、
④ 不有人而不死。
は、「漢文」である。
然るに、
(15)
④ 不有人而不死=
④ 不レ有二人而不一レ死=
④ 不[有〔人而不(死)〕]。
に於いて、
④ 不[ ]⇒[ ]不
④ 有〔 〕⇒〔 〕有
④ 不( )⇒( )不
といふ「移動」を行ふと、
④ 不[有〔人而不(死)〕]⇒
④ [〔人而(死)不〕有]不=
④ [〔人にして(死せ)ざるは〕有ら]ず=
④ 人であって、死なない者は、存在しない=
④ xが人であって、xが死なない。といふ、そのやうなxは存在しない。
然るに、
(16)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(15)(16)により、
(17)
④ 不レ有二人而不一レ死=
④ 不[有〔人而不(死)〕]⇔
④ [〔人にして(死せ)ざるは〕有ら]ず。
に於ける、
④[ 〔 ( ) 〕 ]
④[ 〔 ( ) 〕 ]
といふ「括弧」は、
④ 不有人而不死 ⇔
④ 人にして死せざるは有らず。
といふ「漢文・訓読」に於ける、「補足構造」といふ「構造(シンタックス)」を表してゐる。
然るに、
(18)
返り点とは、漢文すなわち古典中国語の語順を、日本語の語順に変換する符号である(古田島洋介、湯浅吉信、漢文訓読入門、2011年、45頁)。
従って、
(17)(18)により、
(19)
④ 不有人而不死 ⇔
④ 人にして死せざるは有らず。
といふ「漢文・訓読」に於ける、「語順」は異なるものの、
④[ 〔 ( ) 〕 ]
④[ 〔 ( ) 〕 ]
といふ「構造(シンタックス)」は変はらない。
然るに、
(05)により、
(20)
④ 不有人而不死 ⇔
④ 人にして死せざるは有らず。
といふ「漢文・訓読」と、
⑤ 人皆有死 ⇔
⑤ 人皆死有り。
といふ「漢文・訓読」は、「命題(Proposition)」としては、「等しい」ものの、「構造(シンタックス)」としては、「等しくない」。
従って、
(19)(20)により、
(21)
「語順が異なれば、シンタックスも異なる」が故に、「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。とは言ふものの、
「語順が異なれば、シンタックスも異なる(語順が等しければ、そのときに限って、シンタックスも等しい)」といふ「発想」自体が、「誤解」に過ぎない。
然るに、
(22)
⑥ 是以大學始敎必使學者皍凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
⑥ 是以、大學始敎、必使下 學者皍二 凡天下之物一、莫上レ 不下 因二 其已知之
理一、益々極レ 之、以求上レ 至二 乎其極一=
⑥ 是以、大學始敎、必使〈學者皍(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
⑥ 是以、大學始敎、必〈學者(凡天下之物)皍、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
⑥ 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)皍きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
⑥ そのため、大學の敎へを始める際には、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)ついて、{[(その學者がすでに知っているの理に)依って、益々(これを)極め、以て〔(その極点に)至ることを〕求め]ないことが}無いやうに〉させる。:
従って、
(16)(22)により、
(23)
⑥ 是以大學始敎必使學者皍凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極(大學、伝五章)⇔
⑥ 是を以て、大學の始敎は、必ず學者をして凡そ天下の物に皍きて、其の已に知るの理に因って、益々之を極め、以て其の極に至るを求め不るを莫から使む。
といふ「漢文訓読」が成立する、といふことは、
⑥ 是以大學始敎必使學者皍凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極(大學、伝五章)。
といふ「漢文」には、
⑥〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] 〉
といふ「構造(シンタックス)」が有って、
⑥ 是を以て、大學の始敎は、必ず學者をして凡そ天下の物に皍きて、其の已に知るの理に因って、益々之を極め、以て其の極に至るを求め不るを莫から使む。
といふ「訓読」にも、
⑥〈 ( ){ [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] 〉
といふ「構造(シンタックス)」が有る。
といふことを、示してゐる。
従って、
(17)~(23)により、
(24)
例へば、
④ 不有人而不死 ⇔
④ 人にして死せざるは有らず。
といふ「漢文・訓読」であっても、
⑥ 是以大學始敎必使學者皍凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極(大學、伝五章)⇔
⑥ 是を以て、大學の始敎は、必ず學者をして凡そ天下の物に皍きて、其の已に知るの理に因って、益々之を極め、以て其の極に至るを求め不るを莫から使む。
といふ「漢文・訓読」であっても、「語順が異なるが故に、シンタックスも異なる。」といふことには、ならない。
(25)
「漢文・訓読」とは、「原文(漢文)のシンタックス」を保存した形で行はれる、「逐語訳」であり、それ故、「訓読」よりも「正確な、漢文の、国語への翻訳」は、有り得ない。
平成31年04月01日、毛利太。
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