2019年4月25日木曜日

私が大野です(大野は私です):未知と既知?

―「返り点と括弧」に関しては、『「返り点」と「括弧」の関係(https://kannbunn.blogspot.com/2019/01/blog-post_21.html)』他をお読み下さい。―
(01)
標準的な論理で表してみよう。「W」は述語「・・・は『ウェイヴァリー』を書いた」を表現し、「S」は述語「・・・はスコットランド人である」を表現んするものとしよう。すると、ラッセルの三つの条件は以下のようになる。
(a)∃xWx
(b)∀x{Wx→∀y(Wy→x=y)}
(c)∀x(Wx→Sx)
(a)から(c)までを連言で結んだものは、
(d)∃x{Wx→∀y(Wy→x=y)&Sx}
と同値である。
〔言語哲学―入門から中級まで 単行本 – 2005/12/1 W.G. ライカン (著), William G. Lycan (原著), 荒磯 敏文 (翻訳), 鈴木 生郎 (翻訳), 川口 由起子 (翻訳), 峯島 宏次 (翻訳)、22・23頁〕
然るに、
(02)
「ソクラテスは人間である。」=「ソクラテスといふ人間がゐる。」=「あるxはソクラテスであり、xは人間である。」=「∃x(ソクラテスx&人間x)」
従って、
(02)により、
(03)
「ソクラテス(人名)」は、「述語」であっても、「不都合」はない。
cf.
S=ソクラテス、人=人間、動=動物、とすると、
1  (1)∃x(Sx&人x) A
1  (〃)ソクラテスは人間である。
 2 (2)∀x(人x→動x) A
 2 (〃)すべての人間は動物である。
  3(3)   Sa&人a  A
 2 (5)   人a→動a  3UE
   3(6)   人a        3&E
 23(7)      動a  56MPP
 2 (8)   Sa     3&E
 23(9)   Sa&動a  78&I
 23(ア)∃x(Sx&動x) 9EI
12 (イ)∃x(Sx&動x) 13アEE
12 (〃)あるxはソクラテスと言ひ、xは動物である。
12 (〃)ソクラテスは動物である。
然るに、
(04)
「日本語に即した文法の樹立を」を目指すわれわれは「日本語で人称代名詞と呼ばれているものは、実は名詞だ」と宣言したい。どうしても区別したいなら「人称名詞」で十分だ。日本語の「人称代名詞」はこれからは「人称名詞」と呼ぼう。
(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、40・41頁)
従って、
(04)により、
(05)
所謂、「日本語の人称代名詞」は、実は「名詞」に過ぎず、それ故、「(人称名詞)」は、「述語」とすることが、出来る。
従って、
(01)(03)(05)により、
(06)
(a)∃xWx
(b)∀x{Wx→∀y(Wy→x=y)}
(c)∀x(Wx→Sx)
(a)から(c)までを連言で結んだものが、
(d)∃x{Wx→∀y(Wy→x=y)&Sx}
と同値である際に、
(a)∃x私x
(b)∀x{私x→∀y(私y→x=y)}
(c)∀x(私x→大野x)
(a)から(c)までを連言で結んだものは、
(d)∃x{私x→∀y(私y→x=y)&大野x}
と同値である。
然るに、
(07)
(d)∃x{私x→∀y(私y→x=y)&大野x}
(e)∃x{私x→大野x&∀y(私y→x=y)}
に於いて、
(d)と(e)は「同値」である。
然るに、
(08)
(e)∃x{私x→大野x&∀y(私y→x=y)}
に於いて、
(e)∀y(私y→x=y)
といふことは、すなはち、
(e)すべてのyについて、yが私であるならば、xとyは「同一」である。
といふことは、この場合は、
(e)私と言ひ得るのは、一人だけである。
といふことを、「意味」してゐる。
従って、
(08)により、
(09)
(e)∃x{私x→大野x&∀y(私y→x=y)}
といふ「述語論理」は、
(e)あるxが私であるならば、xは大野であって、私と言ひ得るのは、一人だけである。
といふことを、「意味」してゐる。
従って、
(09)により、
(10)
(e)∃x{私x→大野x&∀y(私y→x=y)}
といふ「述語論理」は、
(e)私は大野であり、私以外に大野はゐない
といふことを、「意味」してゐる。
然るに、
(11)
(e)私は大野であり、私以外に大野はゐない。
といふのであれば、必然的に、
(e)私は大野であり、大野は私である。
といふ、ことになる。
然るに、
(12)
(3) 未知と既知
この組み合わせは次のような場合に現われる。
 私大野です。
これは、「大野さんはどちらですか」というような問いに対する答えとして使われる。つまり文脈において、「大野」なる人物はすでに登場していて既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。その未知の対象を「私」と表現して、それをガで承けた。それゆえこの形は、
 大野私です。
に置きかえてもほぼ同じ意味を表わすといえる(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、34頁)。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
(e)私は大野であり、大野は私である。
(f)私は大野であり、私が大野である。
(g)私は大野であり、私以外に大野はゐない。
に於いて、
(e)=(f)=(g) である。
従って、
(13)により、
(14)
(e)大野は私です。
(f)私大野です。
(g)私以外に大野はゐない
に於いて、
(e)=(f)=(g) である。
然るに、
(15)
 ラッセルの記述の理論
ラッセルによる the の文脈的定義は次のようなものである。典型的なものとし、The F is G. という文の形えおとりあげよう。
 ― 中略 ―
(5)The author of Waverly was Scotch.
『ウェイヴァリー』の著者がスコットランド人であるならば、そのような著者がいることになる。また、著者が二人以上いるとしたら、the が用いられているはずがない
〔言語哲学―入門から中級まで 単行本 – 2005/12/1 W.G. ライカン (著), William G. Lycan (原著), 荒磯 敏文 (翻訳), 鈴木 生郎 (翻訳), 川口 由起子 (翻訳), 峯島 宏次 (翻訳)、21.22頁〕
(01)(15)により、
(16)
(5)The author of Waverly was Scotch.
(5)∃x{Wx→∀y(Wy→x=y)&Sx}
に於ける「the ・・・」は、「既知の存在である。」といふことより、「the ・・・」が、「唯一の存在である。」といふことを、示してゐる。
といふ風にも、「見做す」ことが、出来る。
従って、
(13)(16)により、
(17)
(f)私が大野です。
といふ「日本語」を、
(f)I am the 大野.
といふ風に、「言い換へ」ることが、出来るのであれば、
(f)I am the 大野.
の「the 大野」は、「唯一の大野」であり、その「唯一の大野」が、すでに登場していて「既知である、大野と、一致する。」
といふ風に、「見做す」ことが、出来る。
然るに、
(18)
(1) 既知と未知
 私は大野です。
という文は、檀の上に立って私なるものが聴衆に見えている。それで、私なる存在については相手もこれを見て知っている、すると、それを既知扱いにして「私は大野です」という。この「大野です」という部分は実は未知の部分にあたり、「私は(ダレカトイウト)大野です」の意味である。
(大野晋、日本語の文法を考える、1978年、24・25頁)
然るに、
(19)
①  私大野です(I am 大野)。
に関しては、「それでも良い(?)」としても、
② 名前大野です(My name is 大野)。
であれば、
② 名前=大野
である。
従って、
(19)により、
(20)
①  私(知)大野(未知)です。
であって、
② 名前(知)大野(未知)です。
である。
従って、
(12)(20)により、
(21)
③  私(知)大野(既知)です。
といふことも、「疑はしい」と、言はざるを得ない。
平成31年04月25日、毛利太。

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